第9話 想いを届かせた故の(前)
霧が立ちこめる春の羽様の朝5時は薄暗く、空気は冷涼で外に動く物音もない。この時
刻に起きる様になって2年経ち、目覚まし時計を鳴る前に止めるのが日課になった。サク
ヤさんは桜前線を追って昨日北へ出立している。
「お早うございます」「「お早う」」
笑子おばあさんと真弓さんに挨拶し、一緒に朝ご飯の支度に掛る。2人とも幼い双子を
寝付かせたりその後で作業したり、夜も色々大変なのに。わたしの起床に合わせてくれて。
わたしは共に作業する事が嬉しく、お料理修練にもなるので有り難く。2人の好意に甘
えさせて貰い、一緒にみんなの朝ご飯を作り、5時半過ぎに自らの朝食を頂いて、身繕い
を。登校に2時間弱は掛るので、少しの余裕を見込んで6時半には羽様のお屋敷を出なけ
れば。
「お早うございます」「お早う柚明ちゃん」
正樹さんも起きていた。元々朝に弱くないけど、幼子が寝入った夜半が執筆も進む為に
就寝が遅く、7時前に起きる事は少ないのに。
真弓さんが台所は女の城だと言って入れないので、ここ数年わたしも正樹さんが厨房に
立つ姿を見ていない。正樹さんにお料理をある程度教えたおばあさんは、真弓さんのやや
古い感覚を咎めず窘めず、見守っているけど。
「漸く草稿の整理が付いてね。今日は拾時から経観塚の郷土資料館で打ち合わせなんだ」
郷土史研究家で著述家でもある正樹さんは、中央の経済誌にコラムを載せる一方、地元
の歴史研究でも頼られる存在だった。本来は田舎で埋もれている人材ではない、とサクヤ
さんは言っていたけど。色々事情があった様で。
経観塚郷土資料館は、子供や観光客の他に、地域のサークルや文化事業にも使われてい
る。一昨年の大改修の際正樹さんは、経観塚の伝説や起源の展示の原案と監修を担った。
竹林の長者の裔と伝えられる羽藤の者には適任か。
今回は南北朝から室町時代に掛けての展示内容を一新したいと、その骨格を求められた
様で。年明けから図書館や学校、旧家を回って資料集めやその照合に深夜迄勤しんでいた。
「ここ数日は、郷土資料館で夕方迄打ち合わせだから、昼食は」「お弁当を作りますね」
朝出る前にもう一度草稿を読み直したくて、昨夜は早く寝た様だ。桂ちゃんや白花ちゃ
んを迎えに来るマイクロバスの時刻はともかく、わたしを見送れる頃合に起きたのはそう
言う。
少しお話しする内に出立の刻は迫り来る。
「白花ちゃん、桂ちゃん、行ってきます…」
布団の中で夢心地の寝顔に向けてご挨拶。
今月から経観塚の幼稚園に通う桂ちゃんと白花ちゃんは、新しい環境にややお疲れ気味。
3日に1回の割合で制服のスカートを掴んでくれた朝も、ぐっすり眠ってぴくとも動かず。
その寝顔もずっと眺めていたい天使の笑みで。
一度桂ちゃんの寝顔に唇で触れた事がある。唇にではなくほっぺたにだけど。無心に寝
入る顔が可愛くて、つい引き込まれ。でも柔らかな頬に触れた瞬間、桂ちゃんは目を覚ま
し、即座に身を捉えられて。食虫植物に捕まった虫の気分だった。ほぼ同時に白花ちゃん
も起きてきて、わたしの制服のスカートを掴んで、
「「行かないで」」
寝た子を起こすとはこういう事を指すのか。
例の如くわたしは暖かく柔らかなその手を振り払う術を持たず、真弓さんか正樹さんに
離して貰える迄、その場を動かないか、2人と連れだってお屋敷の中を歩き回る事になり。
白花ちゃんにしてみても結果は同じだった。双子の何れかに触ればその瞬間相方も目覚
め、わたしは囚われる。時間を気にしなくて良い休日は、好んで拘束されに行くわたしだ
けど。
学校のある朝は拙いので、寝顔を見つめる位に止める。わたしが起こしてしまった日は、
2人とも無理が祟ったのか、幼稚園でお遊戯やお絵かきの時も居眠りした様で。それは双
子の元気な日々を望むわたしも好まない事だ。触れ合うなら、お互いに帰宅した後の夕刻
に。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
屋敷を囲う緑のアーチを抜け、バス通り迄出ると、山に囲まれた盆地の底は覆い隠す物
もなく、未だ低い角度のお日様が目に眩しい。
左側に山と森の縁を見て、右側に平らに広がる水田や畑の原を見て、未だ涼しくそよぐ
風に髪を嬲らせつつ、道を経観塚方面に進む。中学校迄弐拾キロの道程を、路線バスに一
度追い越されつつ、半ばまで進み来た時だった。
道端に男の子が1人佇んでいる。わたしが来るのを待っていたと、彼も隠す様子はなく。
「おはよう羽藤さん」「お早う、芹澤君…」
芹澤卓君は今月から中学生になった、羽様小出身の2つ後輩だ。わたしよりも頭半分低
い背丈に細身な姿で。濃いブラウンの柔らかな髪を切り揃えた顔立ちは、まだ子供っぽい。
3年の夏に編入した羽様小では、先輩後輩みんなに良くして頂いた。よそ者のわたしを、
年長さんは可愛がってくれて、年少さんは慕ってくれて、同級生は友に迎え入れてくれて。
中学校に入ってからも、羽様出身者の関係は深い。同学年の真沙美さんや和泉さんだけ
じゃなく、一つ下の北野君や川島君、黒川君、二つ下の芹澤君や新田さん達との関りも又
…。
「本当に中学校迄歩いているんだ。結構掛るでしょ、羽様からだと」「うん、体力つけた
くて。毎日歩けば肺活量も持久力も違うし」
芹澤君こそ大丈夫? 歩いて中学校行くにはここからでも結構距離あるよ。わたしに合
わせたこの時間だと、もう少し歩みを速めないと、最後には走らないと間に合わなくなる。
「ん……。ちょっと、頑張る」「お願いね」
でも今日初めて徒歩で登校する彼に、この行程はペース配分も含め難しく、汗の量に反
比例して歩みは鈍り。校門に辿り着く頃には、わたしが芹澤君に寄り添う感じになってい
た。彼は元々体育が得意なタイプでなかったっけ。
時刻は朝のホームルームが始る拾分位前か。
みんなの登校が一番多く最も賑わう頃合だ。
生徒玄関で彼の額を拭き拭きするこの姿が、衆目を集めた様だけど。芹澤君は玉の汗で
既に人目を惹いていた。共に歩み来たわたしも無関係ではない。一段落する迄は関らない
と。
「ゆめいさん、次は新入男子とラブラブ?」
海老名志保さんの声が、衆目を集めるけど。今から知らない振りしても逃げても竦んで
も意味は薄い。それに彼がわたしを慕って近づいてきてくれたのは、今日が初めてではな
い。
新年度が始って暫く、芹澤君はわたしの傍に来ていた。大人数の中学校という新しい環
境に戸惑い、知った人を頼ってしまうのかも。桂ちゃんや白花ちゃんは幼稚園でお友達が
出来た様だけど、尚緊張で疲れ気味だ。わたしも羽様小に転入した時は馴染む迄結構掛っ
た。わたしから逃げる気にも避ける気にもなれなかった。わたしで彼の心を安んじられる
なら。
「今度は入り立てほやほやの新入生とは…」
あなたは男女構わず良く惚れられるのね。
間淵景子さんの呟きに、非難の語調はない。昨秋手芸部で問題の種になった羽藤柚明を
知る彼女には、年下の男の子に付き合う姿は未だ穏当に見え、カモフラージュになると想
ってもいる様で。それも実は手芸部の為よりも、わたしを想いやってくれての配慮なのだ
けど。
「先々月から北野君と付き合い始めたり、羽藤さん男の子に恋愛対象乗り換えたとか?」
東川絵美さんは、愛情は必ずしも男女でなければ成立しない訳でもないと。わたしの同
性愛を執拗に噂する一部の女の子の前で、言い切って不評を買っても気にしない強い人だ。
「ん……特段、乗り換えたとかもないけど」
拭っても尚滲む汗をハンカチで拭きつつ、
「芹澤君は一緒の小学校に通った、わたしのたいせつな後輩よ。わたしと一緒に登校した
くて、朝早く道端で待っていて、拾キロ近い道のりを一生懸命歩いてくれた。年下の面倒
は年上が見るって、小学校では教わったし」
わたしにはこれが注目を集めるに価する大事に想えなくて。足を止めて遠巻きに顔を覗
かせる男女拾数人に首を傾げる。各種の噂を纏わせたわたしだから、人目に止まるのかな。
だとするなら、逆に芹澤君に申し訳ないかも。
「そう言えば、ちょっと雰囲気違うよね…」
肩並べてのラブラブな登校って言うより。
やや背が高く、まっすぐ艶やかな黒髪の綺麗な野村美子さんは、少し考え首を傾げつつ、
「ハンカチで汗拭って、幼子の世話みたい」
それでみんな漸く合点がいった様に頷く。
更に声を割り込ませたのは真沙美さんで、
「面倒見が良すぎるのは、柚明の常だから」
最近は艶やかな黒髪をお嬢様風にカールさせボリューム感を持たせている。校則は髪型
を具体的に規定してない為、先生方も正面から問われると否定しきれず、公認された様だ。
「羽様小の頃も良く懐かれていたよね。詩織さんとか(新田)絵理ちゃんとか、他にも」
和泉さんの声が届いてきた時、別方向で、
「ひゅー、過保護少年。お姉さんに甘えて」
「ほっぺた拭いて額も拭いて、鼻血吹いて」
芹澤君を揶揄する男子の声が複数上がる。
芹澤君は、頬を真っ赤に染めて振り返り、
「な……う、うるさいっ! 黙れよっ…!」
でもその憤りは揶揄する側の望む反応で。
ひゃはあぁ。愉しそうに、彼に羞恥を感じさせ、怒らせて悔しがらせようと、その声は、
「怒った。怒った。甘えんぼ卓が怒ったよ」
「羽藤先輩に撫で撫でされたい。撫で撫で」
言い捨てて、校舎の中へ走り去っていく。
芹澤君も誘われる侭にそれを追いかけて。
その時始業のベルが鳴り響く。追った側も追われた側も駆け込む先は1年の教室だけど、
わたしは違う。芹澤君が少し心配だったけど、すぐ先生が来るから大事にはならないだろ
う。
ベルも鳴って、注目の人も去って唐突に劇場も終幕で、みんなも三々五々に教室に戻る。
そんな廊下で男の子の低い呟きが耳に入って、
「ったく、卓にも困ったもんだ」「嫉妬?」
苦々しげな呟きは、2年生の北野文彦君だ。一つ違いなので羽様小では、複式学級で同
級にもなった。先々月には誘われて、休日役場のホールで特別上映の映画を見たり、未だ
物珍しいハッキンビーフバーガーで昼食したり。小学生の頃は小柄だったけど、中学に入
ってから背が伸びて、今はわたしよりも少し高い。髪がスポーツ刈りなのは野球少年の掟
だとか。
そんな北野君の心中を抉る問を発したのは、南さんだった。昨秋わたしと関係を持って
しまった南さんは、それ迄わたしが絆を結んだ人達については了承するけど、それ以降の
人、特に男子との関りには平静でいられない様で。
わたしも部活等で決して粗略にしないよと、肌身に伝えているけど。小柄で華奢な体に
ミディアムの黒髪が可愛いけど。声音は冷たく、
「ゆめい先輩はあんたの独占物じゃないし」
ほいほい自ら寄って行って、勝手に彼氏気分でいただけなんでしょう。芹澤君と同じで。
女子は時に、男子には出来ない言葉の刃で心を刻む。それに彼の傷がやや浅かったのは、
「ば、バカっ。俺が年下の卓になんか、まともに嫉妬するかよ。俺は唯……」「ただ?」
いや、何でもない。答を全て口にはせずに、北野君は歩み去る。相手の読みが大方外れ
ていると、言い切らないのも男の子の優しさか。確かに嫉妬はあったけど。むしろ今の様
を見て彼が抱いた危惧は、芹澤君を気遣う故の…。
お父さん、お母さん。わたしは男の子と近しくても衆目を集めてしまう様です。これは
もう逃れ得ぬ、わたしの定めなのでしょうか。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
昼休みに騒動の兆を察して首を覗かせたのは、原因がわたしにあると察せた為でもある。
3年生の教室に来ようとしていた芹澤君を呼び止めて、密着しての話しを望んだのは北
野君で。でもその進展は順調とは到底言えず、
「おい、卓。お前余り羽藤先輩に近づくな」
「何だよ。何でふみちゃんにそんな事を…」
「だから文ちゃん言うなって。ここは小学校じゃないんだ。北野先輩だろう。羽藤さんも、
羽藤先輩。いつ迄も小学生気分でいるなよ」
「そんなの、僕の勝手じゃないか。羽藤さんが好きで羽藤さんの傍に行って、どうしてい
けないのさ。授業時間はダメでも、休み時間になれば羽様小では良かったじゃないのさ」
「ああ、だからここは中学校なんだってば」
廊下には、2人のやりとりを見る人が詰めかけて。3年の教室から少し離れていたので、
今の人だかりの主体は2年生と1年生だった。
「中学校では歳の違いは大きいんだ。男と女だって今迄の様には行かない。体育だって別
々だし、色々あるんだ」「知らないよ、そんなの。文ちゃんだって学年違うのに、羽藤さ
んと映画見に行ったって言うじゃないか…」
文ちゃんが羽藤さんと仲良しなのは良くて、僕が仲良くするといけないの? どうし
て?
「文ちゃんじゃなく北野先輩、羽藤さんじゃなく羽藤先輩。お前、言葉遣い気をつけ…」
「どうして僕はダメなの? 2年生は良くて1年生はダメなの? 僕が羽藤さんとお話し
したらクラスのみんな迄生意気って、何で」
唯お話しに行きたいだけなのに、どうして。
芹澤君の苛立ちは、北野君にだけではなく、クラスで受けた揶揄や冷笑へのそれも兼ね
て。小学校と中学校の人付き合いは違う。新しい環境に彼は馴染み切れておらず、北野君
と言うよりその背景に見えたみんなの常識に惑い。
「とにかく羽藤先輩にはこれ以上近づくな」
「行くって言ったら行く。邪魔しないでよ」
言葉にしきれぬ苛立ちに、北野君の両腕を掴んで問うけど。当然程の説明の難しい物は
ない。北野君も適切に応えきれず、苛立って。男の子が2人、両腕を掴み合って見えたか
も。
「待って。2人とも、少し落ち着いてっ…」
わたしが原因で拗れているなら、わたしが止めなければ。わたしの為に2人が傷つけ合
うなら、わたしが身を挟まなければ。人混みをかき分け、腕を絡め合う2人に寄り添って。
北野君が半ば無意識に右腕でわたしを振り払うけど、その腕を左手で受け流してわたしは
己を2人の間に割り込ませ。修練の成果です。
羽様では毎日幼子が、喧嘩と和解を繰り返している。原因や経緯を巧く喋れる歳ではな
いし、泣いて怒っても原因は全て些細な事だ。どちらかの正否より溢れた気持を受け止め
て、互いを想う気持を思い出させ、仲直りを促し。最後は2人を左右に抱いて、真弓さん
がやる様に、頭を軽くぽんぽんと叩いて心を満たし。
中学生に幼子への応対は適用できないけど、人は感情の生き物だ。拗れた関係は理屈の
正否以上に、気持を整理させないと修復できない。体も想いも押しつけ合う2人を引き離
し。
「北野君は上級生でしょう? 芹澤君の気持を理解して、もう少し冷静にお話しをして」
まず北野君を窘める。先輩は後輩に意見を押しつけてしまいがち。それが出来る立場で、
そう取られない様にするのは大変だけど。これがわたしの意見の押しつけかもと感じつつ。
北野君も紅潮していた。堪りかねて話を望んだ時点で平静と言えず、年下の子の反駁で
熱くなっていた。衆目の中で年下に押し切られる訳に行かないと、理解を求めるより押し
付けに傾いて。それが芹澤君には問答無用に見えて、一層の反発を招き、話しは泥沼に…。
両手に両手を握って、間近に瞳を覗き込み。
冬から宿す男子への少しの怯えも抑え込み。
「北野君が言いたい事は、わたしも分るから。芹澤君にも分って貰う様に努めるから。
ね」
近しさに周囲は息を呑むけど弁明はしない。たいせつな人の為ならこの位いつでも。今
迄偶々女の子が多かっただけで。必要ならわたしは男の子でも、手を握り頬を合わせ抱き
留める。振り向いて、芹澤君の両肩を軽く挟み、
「わたしにハンカチを返しに来たのでしょう。
有り難う。芹澤君は、優しいのね。ん?」
芹澤君は正面からこの胸の内に顔をつけ。
涙が滲んでいた。それは今の北野君との対峙の心細さと言うより、ここ数日の中学生活
のストレスが堪った末で。溢れる想いを肌で感じ取れた為に、わたしは彼を振り払えない。
制服が涙で濡れるけど、羽様では日常茶飯事だ。暫く受け止める事で彼の心が安まるな
ら。男の子は決して嫌う者ではない。悪意や害意がない限り、受け止めて差し障りはない。
芹澤君は幼さの残る顔でわたしを見上げ、
「やっぱり、羽藤さんは優しくて綺麗だ。僕、羽藤さんの恋人になって良い?」「ふふ
っ」
みんなの前にも関らず大胆な。思わず笑みが漏れる。白花ちゃんや桂ちゃんも大きくな
ったら、こんな可愛い事を言う日が来るかな。北野君も唖然として言葉を発せない。わた
しは抱き留めた後輩の後頭部を右手で軽く撫で、
「芹澤卓は、羽藤柚明のたいせつな人……」
羽様に転入したわたしを迎え入れてくれた。好いて慕って、頼ってくれた。心優しい後
輩。
わたしは北野君にも応えた時の様に、己の心の真実を。好んで望んでくれる想いは身に
余る程嬉しいけど、全てには応えきれないと。でも応えられる限り応えさせて欲しいと願
う。
覗き込んでくるまっすぐな瞳を見返して、
「唯一のとは言えないし、一番とも二番とも、言う事できないわたしだけど。有り難く嬉
しいその想いに、等しい想いを返せないのが申し訳ないけど。叶う限りの想いを返すわ
ね」
「うん。今は、それで良い……」「うわぁ」
複数上がるため息は、今暫く気にしない。
胸の内にもう一度顔を埋めてくる芹澤君をわたしは拒まず抱き留める。先生に見られた
ら、風紀を乱すと叱られるかな。女の子相手ではないけど、これも又噂になるだろうから。
でも少し先の心配よりも、今は目先に懸案が、
「羽藤先輩は甘すぎっ。こいつ図に乗ったら、本当に自分を彼氏だと思いこむよ。それ
に」
北野君の本当の危惧はその先にあるけど。
「羽藤さんが抱いてくれたんだから、良いじゃないか。文ちゃん僕に嫉妬しているの?」
羽藤さんは文ちゃんの独占物じゃないよ。
お前な。北野君が本当にかちんと来た様で、わたしの右肩を回って芹澤君を捉まえに掛
る。芹澤君はそれを嫌ってわたしの左に身を隠し。わたしが芹澤君を、背中に庇う感じに
なった。
「北野君、ちょっと待って。芹澤君もっ…」
「まずそいつの口を閉じさせてくれよ。女の陰に隠れて生意気言う根性が気に入らない」
「そっちこそ一つ上だからって頭ごなしに文句ばっかり。羽藤さんに言葉返せない癖に」
「こいつ本気で頭に来た。羽藤さんどいて」
「あ、今羽藤先輩じゃなく、羽藤さんって」
「むぅかあぁっ、こいつ!」「やめてよっ」
「2人とも落ち着いて。暴力はダメっ…!」
芹澤君は背に張り付いた侭なので、わたしが彼を庇って北野君に対峙して見える。その
構図にも北野君はもどかしく。違うんだよと、わたしにも周囲のみんなにも言いたい想い
が窺えるけど。わたしの分っているとの想いを、北野君が感じ取れる状態ではなくて。縺
れ合いお互いに誤解を拡大再生産してしまう中で、
「好い加減にしろよ、羽藤も含め3人とも」
北野君も芹澤君も一声で鎮められる人は。
「ヒロ先輩」「ヒロさん?」「沢尻君……」
「女を取り合って喧嘩するならまだしも…」
沢尻君は敢て困った子供を窘める語調で、
「文彦の恋敵って柄じゃないだろう、卓じゃ。その気がなくても弱い物虐めに見えちゃう
ぜ。羽藤の甘々は今に始る事じゃない。元羽様小のお前なら分るだろう。お前の言いたい
事は俺もほぼ同意見で、みんなも多分そうだから。卓には後で俺から言っておくよ。羽藤
にも」
芹澤君がわたしの背に張り付き、弱者の旨味を生かして立ち回るのに。手を拱いていた
北野君には、沢尻君の仲裁が良いきっかけで。沢尻君はこういう場の収め方が秀逸だ。男
の子の事は、やはり男の子が巧くできるのかも。
「卓も羽藤の恋人になるとか言うなら、その背に張り付く無様は止めろよな。言いたい事
を言うなら、せめて正面から向き合えよ…」
もう子供じゃないんだ。中学生なんだろ。
「今からで良い。ちょっとは自覚してくれ」
それと。沢尻君の視線は最後にわたしへ、
「羽藤も卓の為を想うなら、甘やかす一方じゃなく、文彦の言う事を卓が分る迄かみ砕い
て説明してやらないと。大体女が取っ組み合う男の間に割り込む事自体が間違いだ。その
気がなくても間違えてケガでもしたら、2人が加害者になるんだぞ。……お前の所為で」
「ごめんなさい……。ご迷惑掛けています」
言われる事はごもっともなので、みんなの前でわたしも深々頭を下げる。わたしは本当
に未熟者です。仲裁に入った積りが、逆に事をややこしくして、沢尻君のお世話になって。
でも、わたしが彼の説諭を全面的に受け容れ頭を下げた事で、何となく場は解決した様
な空気になり。周囲の人垣も安堵のため息を。丁度そこで、昼休み終了5分前の予鈴が鳴
る。
「おっと、偉そうなお説教はここ迄だ。俺も羽藤も次は体育だろう。早く着替えないと」
「あ……そうだった。北野君、芹澤君、ごめんなさい。わたしも急がないと。失礼…!」
沢尻君に続いてわたしも廊下を走り出す。
「何というか、相変らず人の為になると自分の事を棚上げして、他が目に入らなくなる」
既に体操着に着替えた歌織さんの呟きに、
「まあ、それが……」「柚明さんですから」
早苗さんが応えるこの構図も何度か見た。
慕ってくれる人、好いてくれる人、気遣ってくれる人、見守ってくれる人。わたしは本
当に人に恵まれている。その幸せを改めて感じつつ、わたしは今現在にしっかり向き合う。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
新学期になって暫く経って、多くの事柄が一段落し、部活も委員会も今はやや暇な頃だ。
掃除当番もないわたしは今日は早い時刻のバスに乗れると、銀座通を歩んでいたのだけど。
商店街を歩む幼稚園児の姿を見た。経観塚は田舎町なので、中学校も商店街も幼稚園も
傍にある。わたしが一番早く帰れる頃合には、白花ちゃんや桂ちゃんの帰途出発を見送る
事が叶うのか。路線バスの時刻迄は未だ余裕があったので、わたしは寄り道をして幼稚園
へ。
商店街の裏側に平屋建ての幼稚園はあった。運動場の正面にマイクロバスが止まってい
て、子供が五拾人位と大人が拾数人見える。先生の他にも、近所の親御さんが迎えに来た
様だ。
子供独特のきゃっきゃっと言う歓声が届く。幼子は自我が未確立なので、感応でも区別
は難しいけど、桂ちゃんと白花ちゃんの気配なら確かに掴める。これはわたしが近しい為
と言うより、2人の血の濃さの故でもある様だ。
鬼ではなくても、わたしの様な特異な力を使える者には、2人の存在は捕捉し易い様だ。
2人の血はわたしより更に濃いと聞いている。早めに血の匂いを隠す修練も始めるべきか
も。
「ゆめいおねえちゃ」「ゆーねぇっ……!」
バスに乗り込む為に群れていた集団から2つの影が飛び出して、歩道を駆けてわたしの
元へ。先生達も既にわたしの事は知っている。
屈んで2人を迎え入れると、2人ともわたしに飛びついて、ぽふっと言う衝撃を届けて
くれる。2人は同じ経験をわたしに早く先に話そうと、競い合う様にわたしの視線を求め。
「お疲れ様、2人とも幼稚園愉しかった?」
「うんっ、たのしかった」「おともだち…」
桂ちゃんは白花ちゃんがお話し終えるのを待てず、そのお友達をわたしに紹介したいと
手を引っ張り。わたしは密着した白花ちゃんを右手に抱き上げ、桂ちゃんに左手を引っ張
られる侭に、先生やお友達の待つ群れの中へ。
「こんにちは、お仕事お疲れ様です。白花ちゃんと桂ちゃんが、お世話になっています」
先生達に頭を下げてご挨拶する。年長の男性が園長先生、他に年配の女性の先生が1人
と若い女性の先生が2人。それぞれに頭を下げて挨拶を返してくれて。一緒に来ていた親
御さん達も、にこやかに頭を下げてご挨拶を。
「わあぁぁ」「お姉ちゃんだぁ」「きれい」
桂ちゃんに導かれ子供の群れに入った途端、幼子達が手を伸ばし詰めかけて来て囚われ
た。園児達に好まれる若い先生達も流石に大人だ。より歳が近しくて、体のサイズも近し
いわたしは、幼子にはより仲間に近しく見えたかも。
スカートを引っ張られた為と言うより、目線を同じ高さに合わせに、わたしは幼子の輪
の中に屈み込んで。白花ちゃんを下ろしつつ、桂ちゃんも左手に抱き留めて、みんなに向
け、
「こんにちは。桂ちゃんと白花ちゃんのいとこの、ゆめいです。2人と毎日、仲良くして
くれて有り難う。これからも2人のお友達でいてくれると、わたしもとっても嬉しいわ」
幼子達とのご挨拶は初めてだから。小さな掌に身を掴まれて。土が付いて汚れた手もあ
るけど、制服を汚す事は承知で嫌わず拒まず。羽様で毎日双子相手に服は汚している。護
身術の修練で破いたり汗まみれにも。今は幼子達と心を繋ぎたい。白花ちゃんと桂ちゃん
のたいせつな人は、わたしにもたいせつな人だ。
「いとこってなぁに?」「おともだち……」
「いらっしゃいませぇ」「ゆめ、めいぃ?」
きゃっきゃっと、喜び応えてくれる幼子達に笑みを返し、暫くその輪の中に身を置いて。
密集しすぎて転ぶ子や、踏みつけられる子が出ぬ様に、さりげなく手を伸ばして助け支え。
羽様の双子には及ばないけど、幼子は皆可愛くて、慕って寄り添ってくれる事も嬉しく。
背中によじ上る男の子も2人いたけど、叱る事も拒む事も出来ず。桂ちゃんと白花ちゃん
はわたしの右と左に張り付いて、微笑ましく。暫くは周囲も見ず心地よさに浸り切ってい
た。
熱気が冷めた頃を見計らい、年配の先生が声を掛ける。わたしは園児の関心を惹く余り、
園児の親愛に応えたく願って幸せに浸る余り、みんなの帰宅を遅らせていた。ごめんなさ
い。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
漸く離れ始めた幼子達の中央で、尚身を添わせ続ける白花ちゃんと桂ちゃんを、バスに
乗る様に促そうとした時だった。突如背後に。
気配と言うより闘志を感じて、屈んだ侭の姿勢で振り向く。背後間近にいたのは、屈強
な男性と大柄な女性の組み合わせで。2人とも若い。見た感じでは三拾歳に至っていない。
この場に来るからには、園児の父母だろうか。
その時点でわたしは自身が引っかけられた事を悟った。相手はわたしの技量に感付いて、
確認の為に敢て闘志をわたしに感じ取らせた。わたしは条件反射の振り向きを招かれる侭
に。
「気配や足取りから只者じゃないと思っていたけど、やはり気付いてくれたか。鋭いな」
男性がわたしの反応に精悍な笑みを見せた。
己の読みが正答だった事への満足なのかも。
彼とわたしは初対面で、戦う事情も因縁も何もない。唯わたしの即応を見たかっただけ。
外見が中学生の女の子なので、足取りや気配を感じただけでは、一抹の疑念があった様で。
一瞬の応酬を誰も気付いていない。幼子達は勿論先生達も他の父母も、わたしが唯振り
向いたとしか見えてない。彼の挙動は達人級で、その直前迄殺気も闘志も隠し抑えられる。
今も瞬間の害意を察せたのは、わたしのみで。逆にわたしは即応を、引っぱり出されてい
た。
「引っ掛ってしまいました。まだ未熟です」
護身術の修練を公表しないのはわたしの好みで、必須ではない。見抜かれた上に自ら晒
した状況では、隠蔽も無意味なので応えると、
「いや何、本当に蹴ろうかとも思ったから」
その反応は正しいよ。それでこそ正解だ。
寸止めの可能性を残しつつ、彼はローキックを放つ為に左足を浮かせていた。わたしが
振り向いて見せねば、傍の双子を怯えさせたかも。本当に蹴りが来たなら防ぐ用意はあっ
たけど。初対面の人に為すべき所作ではない。
世間体を慮ってではなく、相手の力量が読み切れない故にではなく、その真意を知りた
くて。わたしは憤りを抑えつつ、瞳を向けて、
「羽藤柚明です。初めまして」
「青島健吾、二児の父だよ。隣は妻の麗香」
今の彼には、闘志も敵意も感じ取れない。
そこで脇にいた女性が一歩前に歩み出て、
「びっくりさせてごめんなさい。ウチの人は人の強さを感じたら、自身で測ってみたがる
悪い癖があって。私が『まさかこんな華奢な子が』なんて、余計な事を言った所為で…」
代りに頭を下げてくれた。彼女は彼の初動を気付けなかった様だけど、事後に日頃の彼
の挙動を思い返して察した様で。左足を庇う感じを受けた。打撲で痛めている様だ。ロン
グスカートに隠れた太腿に湿布を張っている。
「俺の言う事が正しかっただろう、麗香?」
満足げな夫への答を、彼女は後回しして、
「構えだけで、何の関りもない人を本当に傷つけた事はないのよ。当然のお話しだけど」
でも、驚かせてごめんなさい。この通り。
もう一度頭を下げられる。本来は彼に謝って貰うべき処だけど、釘を刺したかったけど。
麗香さんが真剣に、日常の空気を壊す位に頭を下げてくれる上に、健吾さんもそれ以上仕
掛けてくる意図はなさそうなので。たいせつな人には痛みも傷もなかったし、今回だけは。
応戦は論外として、一度事が収まった今からここで言い争いや真顔で問い詰めたりして、
双子や周囲の人達に不安を及ぼしたくはない。
双子も何があったか分っていない様だし。
何もないのが一番だ。平穏無事が一番だ。
少しの蟠りを、腹に抑え込んだ時だった。
「「おかぁさあぁぁん」」
2人の幼子がわたしの背後から脇を抜けて、麗香さんに走り寄っていく。彼らも幼子の
迎えなら当然だけど。奇妙に思ったのは、黒髪柔らかな2人の生育が、目に見えて違う事
で。
「同じ4歳児なのに、双子じゃないの…?」
「分るの? この2人が同じ歳だって…?」
2人とも、桂ちゃんや白花ちゃんと同じく今春から園児になった年少さんだ。麗香さん
の言葉に続けて、健吾さんが笑みを浮べつつ、
「兄の渚が4月4日生れでね。弟の遙は翌年の三月三拾日生れで、ほぼ一年違うんだけど、
学年では一緒なんだ。渚がもう3日早く生れて遙がもう3日遅く生れていれば、2学年違
っていた。人の定めは些細な事で変る物さ」
麗香さんに自己紹介を促され幼子2人は、
「あおしま、なぎさですっ」「はるかです」
『名前に聞き覚えがある様な。映画監督だっけ? 声の大きな和服のよく似合う痩身の』
兄の渚ちゃんの方が元気が良くて、弟の遙ちゃんは幼子達の中でも更に小さく。幼子の
間では生れ月の違いは大きい。4歳児のほぼ一年違いは、人生の4分の1が違う事だから。
桂ちゃんが元気に渚ちゃんを引っ張り歩き、大人しい白花ちゃんが取り残されがちな遙
ちゃんと、一緒にそれを見守る構図が瞼に浮ぶ。
でもこの兄弟に感じる涙の感触は、一体?
「わたしは後のバスで帰るから、2人は先に羽様に帰っていてね」「「はあぁぁぃ…」」
送迎バスで一緒に帰れないわたしに、白花ちゃんと桂ちゃんは残念と不満で一杯だけど。
頬に頬を合わせて、後から必ず帰ると約束し。近所でバスに乗らない他の幼子や先生達と
一緒に手を振り、わたしはその出立を見送って。
青島さん一家の帰途がバス停の近くなので、わたしは家族4人と共に商店街の裏道を歩
く。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
麗らかな春の青空の下、2人は新婚若夫婦の散歩道だ。4歳児兄弟はいるけど、2人と
も若々しく恋人同士でも通じる。健吾さんに一緒に歩こうと招かれなかったら、お邪魔虫
になりそうなので、退散する積りだったけど。
「ウチの人は男の子を欲しがったから、2人とも男の子でほっとしているの。出来るだけ
早く武道を教え、鍛えて強くするんだって」
心から幸せそうに、長く艶やかな黒髪を揺らせて、麗香さんは微笑んで。少し怒り肩で
背も高いけど、まだ大人の女性と言うには非常に若々しく、大学生位でも通りそうだった。
長袖に隠れた左二の腕も怪我ではと、案じて問うと家で転んだのと苦笑い。気が急くと、
柱にぶつかったり足を引っかけたり。俊敏じゃないの、貴女が羨ましいわと、話を振られ、
「私は体育も苦手な運動音痴で、夫の武道の話に付き合えなくて。この辺は道場もないし、
ウチの人も仲間を捜しあぐねて。だから貴女を見た時、黙っていられなかったと思うの」
麗香さんが素人と言う事は歩みや息遣いで分る。健吾さんがわたしを見抜いたのと同じ。
女性にしては体格は立派だけど、大きいのは胸や腰で、男性に較べ細く華奢な女性の体だ。
田舎町の裏通りは、日中でも人影が少ない。
道路沿いの家々の中に、人はいるのだけど。
幼い兄弟はわたしを好んでくれて、麗香さんとの間を交互に行き交い。まるで弟みたい。
きゃっきゃっと膝下から声が届く。端から見れば、わたしも健吾さんや麗香さんの妹かも。
「おとうさんは、おまわりさんなんだよ…」
渚ちゃんが何気なく出した言葉に、夫婦が固まったのは、健吾さんの今の職が違う為で。
「昨年秋から警察は辞めて、警備の仕事についているんだ。制服も紺色だし、やる事も肉
体労働で勤務時間も似ているから、渚も遙も違いが良く理解できてないみたいだけどね」
警察官は名誉ある職だとわたしも思う。犯罪を防ぎ、国民を守り、世の中の秩序を保つ。
鬼切部より身近に広汎に、人の営みを支える重要な職だ。だからこそ、それを辞めたと言
う事は何かの事情を推察させる。健吾さんの人知れず握りしめた拳は、微かに震えていた。
それ程重要でなくても、正当な事情があっても、転職は生活環境を激変させるし、精神
的に大変だ。人に理解を求めるのも難しいし、理解される様に話しを組み立てる事も。話
す事自体に、言い訳めいた苦味を抱いてしまう。
言葉や挙動から、彼が警察を辞めざるを得なかった事情に、納得出来てない感も窺えた。
ならばこそ人に理解を求める事も一層困難で。そこを更に問い質しても、人の苦味を掘り
返すだけになるので、わたしは敢て頷くのみに。健吾さんは話題を変えようとわたしを見
つめ、
「君は、正規に何か武道を習っているのかね。柔らかで自然で、相当な使い手に見えたけ
ど。空手ではなさそうだが。でもその華奢な体でさっきの構え。俺が蹴りを放っても対応
の術があると見えた。一度手合わせ願いたいな」
「貴男、幾ら何でもこんな華奢な女の子に」
麗香さんが挟む声にも健吾さんは怯まず、
「転職に伴って昨秋越してきたんだけど、それ迄向うでは剣道と空手をやっていてね。こ
っちでも武道のサークルを探してみたんだが、中々俺とやり合えるレベルの人がいなく
て」
身体を持て余し気味なんだ。加減はする積りだけど、多少でも相手になって貰えるなら。
君も田舎で練習相手に恵まれてない口だろう。
健吾さんは身長百九拾センチ、体重は百キロ近い。鍛えられた筋肉は腕や肩に小さな丘
を作っていて、片腕でわたしを持ち運べそう。短く切り揃えた黒髪に四角い顔立ちは美男
とは言えないけど、野生を秘めて躍動している。
常識から言えば、中学生の女の子に武道の手合わせ等望む筈がない。それで尚外見に惑
わされず、歩き方や佇まいからわたしの技量を喝破できる。健吾さんは本当に達人だった。
年齢は麗香さんより2つか3つ上で、大卒の新人社員で通るけど。体格と自信ありげな
風貌が、彼を並の若者に止めてない。その性分も含め身体を張った仕事に向いた人物かも。
警察官や武道家や、間違えればやくざとか…。
「教えてくれる人はいますけど、正式に何かを習っていると言う程では。護身の技です」
お手合わせの方には明確な答は返さない。
悪意はないと分るけど。色々な人と対戦した方が戦いの幅は広がるけど。彼も中学生の
女の子に本気では挑まないと思うけど。それでも尚。最初の挙動への蟠りが拭えぬ以上に。
微かに兆を感じる。関知の力か、心の何かに引っ掛りが。羽様の大人に相談するべきか。
わたしは未だ真弓さんとサクヤさん以外に修練をつけて貰った事がない。他流との手合わ
せには戸惑いもある。ごく一部の人以外には、わたしが武道を学んでいる事さえ知らせて
ないし。簡単に受けて良い申し出ではなさそう。
「羽藤さんの……お姉さん、なのかな? あの人も凜列な気配の持ち主だった。相当でき
ると見たけど、もしかして君のお師匠は?」
「真弓叔母さんです。母の弟のお嫁さんで」
「なるほど。少し雰囲気が似ている訳だ…」
まあ、初対面で武道の手合わせに答を望むのも性急か。君も家族に相談したい処だろう。
君の叔母さんとも、一度立ち合ってみたいな。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「北野君、ごめんなさいね。わたしの所為で、色々と騒ぎに巻き込む形になっちゃって
…」
わたしが2年の教室を放課後訪れて、他の人もいる前で頭を下げたのは、彼の意向を汲
んだ為だ。わたしは人気のない旧校舎かその裏の大木の下でと思ったのだけど、北野君は
みんなに与えた誤解を解きたい気持もあって。彼がそれを望むなら、わたしに否の答はな
い。
「佐々木さんを通じてお話しがあって、暫くバス通学する事にしたの。芹澤君には暫く距
離を置く事にしたわ。わたしに近しすぎると、彼がクラスに馴染みづらくなる様だから
…」
朝歩いて通学すると、芹澤君が付いてくる。
近しすぎる事が皆にも彼にも誤解を与える。
わたしを好いてくれるのは、構わないけど。
わたしに添ってくれるのは、嫌わないけど。
わたしに縋る事に逃げるのでは、彼の為にならない。クラスの友達と馴染めずにわたし
に捌け口を求めるのでは、彼の為に良くない。それをわたしが手招きする形になっては拙
い。
暫くバスで通う。芹澤君も一緒出来るけど、バスは羽様のみんなが乗るので一種の世間
だ。北野君も沢尻君も、真沙美さんや和泉さんも。彼と密着しすぎない様に、彼を密着さ
せすぎない様に。それが沢尻君の考えた対処だった。
わたしとの親密が芹澤君を孤立させていた事実は、正直ショックだった。わたしが善意
でも、それが必ず良い結果を生む訳ではない。周囲を見ずに突っ走れば策を誤り蹉跌も導
く。
わたしが芹澤君の寂しげな顔を見るに堪えないと察し、沢尻君が彼の説得を引き受けて
くれた。中学校には先輩や後輩の繋りがあり、思春期の男女関係がある。わたしは幾らで
も受け止める用意はあったけど。それが良くないのなら、少し遠目から見守るのも彼の為
だ。
「北野君もそれを言いたかったんでしょう? わたしもあの場で芹澤君に、きちんと伝え
られれば良かった。あなたの思いは分っているよって、北野君にも確かに伝えられれば」
分って貰えない事は結構人の心に重く響く。
分っているよと伝える事が大切だったのに。
「みんなに誤解させちゃったね。一部の噂で聞いたの。北野君が芹澤君に、わたしを取ら
れるとか、独占できなくて嫉妬しているとか。北野君は後輩の為を想って言ってくれたの
に。曲解されたのは、わたしの応対の拙さの為でもあるから。ごめんなさいと、有り難う
を」
両手で両手を握って、胸の前に持ち上げる。
わたしの想いを、肌身に感じて欲しいから。
「芹澤君も羽様小の後輩だから、つい応対が甘くなって。北野君の言う事が概ね正しいと
思っていたのだけど。わたしがしっかり対応できず、北野君が悪者の印象与え。沢尻君に
も助けて貰って。本当にわたしは頼りない」
彼の瞳が大きく見開かれ、頬が赤い様な。
周囲の息を呑む感触も伝わって来たけど。
「でも、北野君が後輩を想う優しく強い人だと分って良かった。そう言う人と間近にいて、
心通わせられてわたし嬉しい。芹澤君もみんなも必ず誤解を解いてくれる。わたしもそう
なる様に努めるわ。一緒に頑張りましょう」
彼の奥に視えるわたしへの欲求に動じず。
人が心に想う事、望む事を縛れはしない。
年頃の男の子なら通常女の子に願う事だ。
それは本心であっても彼の全てではない。
男の子に触れる怯えもしっかり抑えきる。
「あ、そ、その……、おれ、さ……いや…」
肌身に伝わってくる彼の想いは、言葉同様に整理されてないけど、概ね悪い物ではない。
分って貰えたという喜びや、わたしの謝罪と感謝の受容、芹澤君やわたしに抱く好意等で。
男の子の欲求を奥に抑え隠す様も感じたけど、見せたくない物に迄首を突っ込む事はしな
い。今は彼の多くを占める、淡い好意に語りかけ、
「わたしも未熟で及ばない処が沢山あるけど、誰もが幸せに笑って過ごせる様に、みんな
の心を支えたいの。これからも、宜しくね…」
覗き込んだ彼の瞳は、黒く澄んで瞬いて。
「……うん。俺もさ、頑張るよ。とりあえず、今は芹澤と、羽藤先輩の為にっ。その…
…」
言葉は巧く出ないけど、気持は確かに伝わってくる。伝わっているよと伝えたくて、わ
たしは彼の左頬に左頬を当てて触れ。2年生の男女多数が息を呑む様は、見なくても感じ
取れたけど。今はこの想いを確かに伝えきる。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
放課後の帰り道、商店街で芹澤君に付き纏ってからかう1年生の男子4人を見かけた時、
わたしは見て見ぬふりを出来なかった。遠くから声を掛ければ、機を見るに敏な男の子達
は走り去り、早く彼を助け出せただろうけど。
わたしは敢てそれを為さず、息を鎮め足音を抑え、からかい続ける彼らの傍迄気付かれ
ずに近づいて。その内2人の肩に軽く触れて、
「大山君と藤井君と、菊池君と川井君ね?」
驚きに逃げられない間合から声を掛ける。
涙混じりな芹澤君を面白半分に弄んでいた彼らは、芹澤君とわたしが近しいと知ってい
るので、突如の展開に拙いと顔に見せるけど。わたしは彼らを叱る為に捉まえた訳ではな
い。
芹澤君の涙をすぐに受け止めるのではなく。彼らに罰を下すのでもなく。やや心竦みつ
つも身構える2つ年下の男の子達から手を離し、向き直って両手を膝の前に揃え、頭を下
げて、
「わたしから、みんなに、お願いがあるの」
強く叱られたら言い返そうか、逃げ去ろうかと備えていた8つの瞳が、意外そうに瞬く。
「芹澤君のお友達に、なって貰いたいの…」
何を言い出すのかと。今迄からかって半泣きにしていた相手と仲良くなってと。叱るの
でも諭すのでもなく。不思議そうな表情の男の子達に。わたしは決して押し付けではなく。
頭を下げて心からお願いする。受け容れは彼らの自由意志に委ね。指示ではなくお願い。
「芹澤君は確かに、みんなの目から見ても甘えん坊で、子供っぽくて、運動も得意ではな
いし、反応も余り機敏じゃない。この前北野君と揉めた時も、わたしの背中、女の子の背
中に隠れて言葉を返し、逃げ回っていた…」
芹澤君の表情が、少し強ばる様子は分った。
でもわたしは今はそれに構わず男の子達に、
「わたしはそんな芹澤君を嫌いじゃないけど。『恋人になって良い?』と尋ねてくれた事
も嬉しかったけど。でも、今の彼が女の子を守り支える心の強さを欠く事は、わたしも分
る。それは今後彼が学ばなければならない事…」
それは認めた上で。分った上でわたしは、
「彼の中学校生活に、付き合って貰いたいの。芹澤君を友達に迎え、一緒に過ごし、苦楽
を分ち合って、彼の成長に付き合って欲しい」
芹澤君の双眸もわたしを向いて動かない。
「芹澤君は今迄少人数の羽様小で育ってきた。
受け容れてくれる人の中だけで生きてきた。
大人数の中での人付き合いを、知らないの。
わたしも中学校に来て、突然大勢の中に入った時は、人付き合いが巧くできるかどうか
不安で、巧く行かなかった時は落ち込んで」
馴れるには暫く時が掛る。芹澤君は余り器用じゃないし。少し長い目で見て、受け容れ
て欲しい。彼にもみんなを受け容れ、当たり前を憶える様にわたしも促すし、みんなも教
えて欲しい。友達関係はお互い様。片方が全部譲るのではなく、近づき合う事が絆を結ぶ。
「芹澤君は心優しくて、油絵や彫刻が得意で、運動は苦手だけどマラソンを黙々走り続け
られたり、良い処もあるの。仲良くなって心を繋げば必ずそれは見えてくる。みんなも彼
と友達になれて良かったと想えるわ。だから」
日頃からかい合っても良い。悪ふざけに体ぶつけ合う事も男の子にはあるかも知れない。
唯心を繋いで。確かにお互い友達として向き合って欲しい。困った時の彼を守ってあげて。
「わたしからのお願い。どうか、わたしのたいせつな後輩を、受け容れて、心を繋いで」
「……それ、断ったら、どうなるんですか」
暫くの沈黙の後、1年生でも背丈はわたしに近い長身な大山君が、わたしの真意を探る
感じで尋ねてきた。簡単に断れないけど、簡単に受け容れるのもどうかとの惑いが窺えた。
「俺達、羽藤先輩に嫌われますか? 沢尻先輩や北野先輩に声かけて、睨まれますか?
先生や親に言いつけて、叱られますか…?」
お願いの形は取っても、結局否の答は返せない、何かを背景に持った実質の強要ではと。
後輩の立場は、そう言う空気を敏感に察する。
いいえ。わたしはその問にかぶりを振って。
彼らの疑念と不安は確かに払拭しなければ。
「あなた達はわたしのたいせつな後輩。縁あって同じ中学校で同じ時を過ごす事になった、
たいせつな人達。簡単に嫌う事は出来ない」
わたしはみんなにお願いするだけ。強要は出来ない。仲良くする事はみんなの自由意志
で行う事で、無理強いされても出来はしない。北野君にも沢尻君にも先生にも、あなた達
が拒んだ事で何か損や罰を願う様な事はしない。
「唯、みんながわたしのお願いを容れて、芹澤君を友達にしてくれるなら、守り支えてく
れるなら。芹澤君も友達として、あなた達1人1人を確かに守り支えてくれる様になる」
どう? わたしは、マイナスを示して強要するのではなく、プラスを見せて彼らを促す。
「卓がぁ?」「こんなぼっちゃん根性で…」
「可能性低そうだな」「頼りないよ、実際」
余り良好な反応は来ない事も承知だけど。
「今の芹澤君は確かにそうね。でも今からみんなに馴染んで友達になっていけば。みんな
が彼に伝えていけば。きっと彼もそうなれる。今迄芹澤君にその機会はなかった。その機
会をみんなが与えてくれるなら、彼もきっと素晴らしい仲間になれる。わたしが保証す
る」
あなた達がその気になれば、できない事は何もない。芹澤君がその気になって、あなた
達が手を貸せば、成し遂げられない事なんて。
「芹澤君だけじゃなく、あなた達にわたしが力を貸すわ。できる事なら身を惜しまない」
唯頼むだけじゃない。お任せにする訳じゃない。わたしもしっかり関る。芹澤君を支え
るだけじゃなく、あなた達みんなを支えるわ。そしてわたしもタダで頼む訳じゃない。羽
藤柚明が願う以上、その報いは羽藤柚明からも。
「今芹澤君と友達になってくれるなら、おまけに羽藤柚明、わたしがあなた達をたいせつ
な後輩として、守り支える事を約束します」
何かあれば支えるわ。何もなくても支える積りでいるけど。遠慮なく相談して。わたし
も叶う限り応えるから。みんなわたしのたいせつな人。だからお願い。わたしの、弟を…。
何度目か分らないけど、深々と頭を下げ。
青空の下を、涼やかな風と雲が通りすぎ。
少しの思案の後で動き始めた男の子達は。
「羽藤先輩にそこ迄言われちゃ」「仕方ねぇよな」「ほだされちゃった」「ま、良いか」
彼らはとりあえず、受容してみようかと。
有り難う。わたしは間近な大山君の手を。
「羽藤先輩あの」「わたしとっても嬉しい」
両手で胸に持ち上げて感謝の気持を伝え。
川井君と菊池君と藤井君にも順々に為し。
男子でも小柄な後輩なら怯えを感じない。
「芹澤君も、早くこっちに来て」「え…?」
みんなで右手を重ね合った輪に彼を招く。
おずおずと彼が手を重ねてくるのを待ち。
「今日からわたし達、お互いたいせつな人」
芹澤君だけをどうにかしようとしても、巧くは行かない。詩織さんとの時もそうだった。
友達関係はお互い様だ。双方を歩み寄らせる。叱るより諭すより押し付けるより、みんな
の気持を引き出し融け込ませ。決してそれは人頼みではなく、わたしも一緒に関って。女
の子が男の子の輪を繋ぐのも珍しいけど。みんながたいせつな想いを確かに伝え分って貰
い。
直後に背後から、麗香さんの声が届いた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「見事なものねぇ。あなた、教師向きかも」
カラン、とアイスティーを掻き回しつつ。
麗香さんはわたしを興味深そうに見つめ。
麗香さんは夕食のお買い物に来た処だった。渚ちゃんと遙ちゃんは家でお昼寝中で、連
れてない。麗香さんの買い物に、お喋りしつつ付き合って、今は大人びた喫茶店に2人で
す。買い物に協力し時間短縮できた分、少し寄り道しても2人は目覚めないとの見込みな
ので。
菊池君達は大人の女性に声掛けられたわたしを気遣い、男の子だけで仲を深めにハック
に行った。彼らの真意は感応で探る迄もない。芹澤君がほんの少し心配そうな顔だったけ
ど。敢て手を離さなければならない時も偶にある。
今度羽藤先輩も一緒にと誘って貰えたのは、嬉しかった。芹澤君が心配と言うより、わ
たしも川井君達と良い仲になれたから。実の処中学進学のストレスは、銀座通小の子もゼ
ロでない様で。人とつるんで他人をあげつらってしまうのも、藤井君達の本来の姿ではな
く。
彼らもそうして友を、仲間を、絆を作りたかった。誰かを一緒に弾き、のけ者にする事
で、仲間意識を確かめ合うのは間違いだけど。原因が心細さで不安であるなら。適切な解
決策を教えれば、敢て醜い方向に人は進まない。
「ふーん。あなた、甘々な位に優しいのね」
虐められっ子だけじゃなく虐めっ子に迄。
やや反応が冷やかで物思いに耽る感じで。
辿々しいお話しに、熱心に聞き入ってくれたので、つい余計な事迄語ってしまったかも。
「ごめんなさい。わたし、大人を前に生意気語っちゃって。わたしの悪い癖です。同級生
や先輩にも過去何度か言われたのに。その」
出会う人全てを『守る対象』に見下していると。許し諭し受け容れる『弱者』扱いして
いると。羽様で年の離れた双子と過ごしている為かも。でもそんなの言い訳にならないし。
それを口に出している辺りで既にダメダメだけど。慌て出すと喋れば喋る程泥沼に嵌り。
壮年の男性店長と常連客の年配女性が、それとなくこっちを窺う視線も、一層羞恥を増し。
「物静かな大人の女性には中々なれません」
静かに見守る麗香さんの大人びた美しさと、対照的だ。本当にわたしは女として人とし
て未熟です。最後は言葉に詰まり、頬を赤くして竦んでしまうわたしを前に、艶やかな声
は、
「……ふふっ、可愛いわね。生意気な迄に思慮深く優しく強い処も、受けた指摘を思い出
して慌て出す子供っぽい処も。私にも、あなたの様な姉か妹がいれば、良かったなって」
覗き込んでくれる瞳が微かに潤んでいた。
わたしに向けてその過去が開け放たれて。
「私も昔、虐められっ子でね。貴女が関っていたという以上に、からかわれた男の子が私
に重なって見えて、少し様子を窺っていたの。私は最後迄文句一つも言えずに終ったけ
ど」
だから学校には余り良い想い出はなくて。
貴女の満ち足りた学生姿に少し嫉妬した。
何事にも全力で挑む姿が凛々しく悔しい。
私にも貴女の様な親友がいたならばって。
私も何人か友達はいたけど。貴女の様に身を挟めて助けてくれる人はいなかった。人目
のない処でこそこそ声を交わすけど、危うい時は視線を逸らす。今考えれば、私も助けの
手を差し伸べた事なかったし、お互い様よね。
「反撃する勇気があればとずっと思っていた。
溜め込んだ怒りを掴み掛って訴えたかった。
でも私は弱虫で、遂にそんな事は出来ず」
そんな私も今は二児の母よ。この子達には虐められる様な弱い子にはなって欲しくない。
夫の様に、強く雄々しく育って欲しい。私が彼に惚れたのも、その強さと優しさにだった。
「ごめんなさい、のろけ話になっちゃった」
一度苦笑して麗香さんは話しを繋ぎ直し、
「だから貴女のさっきの解決には本当に心を射貫かれた。夫が言う程の強さを持つ筈の貴
女が。年下の彼らを叱りつけ、追い払う事は簡単だったのに。一度も脅しもしなかった」
唯真剣にあの子を友に迎えてと、頭を下げてお願いし。被害者に感情移入したわたしは、
貴女が彼らを叱りつけるか追い払うかを期待していたの。昔の私と違って今の貴女はその
強さを持つ。でも、そんな場面は遂になくて。
「貴女は彼らを納得させて、その心を導いて、友達にしちゃった。加害者と被害者を仲良
くなんて、今迄考えた事もない。どうやって手出しを止めさせるか、遠ざけるか、関りを
なくすか。それしか考えつけなかった。私…」
男の子達が揃って貴女を慕った気持が分る。
虐められっ子の事だけを想う訳ではなくて。
虐めた側も想う事で全体を良い方向へ導く。
指示じゃなくお願いで、強制ではなく自由意志で、そしてお任せではなく自身も関るか
らと。全部当時の私に欠けていた物。何年経った今も尚、大きな男の子を見ると身が震え
出す私に望めもしない物。強く賢く優しくて。
「貴女を見ていると心が清められる気がする。貴女に逢って話すと心が強く幅広くなる気
が。今からでも人生を取り戻せる様な気になれる。夫の立ち合いの申し出とは別に、偶に
私のお話し相手を、お願いしても良いかしら…?」
わたしが両手を握られてお願いされていた。
麗香さんは熱意で周囲が目に入らない様で、
「去年の秋に越してきて、こっちには親戚も知人も誰もいない。夫は職場があってそれな
りに人の繋りも出来るけど、一日の大半を家で過ごす私は、話し友達も中々出来なくて」
渚と遙の関係で何人かの父母とは知り合えたけど、元々人付き合いは巧い方じゃないの。
唇が触れそうな間近から瞳を覗き込まれ、
「渚も遙も貴女に懐いた様だし、貴女さえ良ければ桂ちゃんと白花ちゃんを連れて来ても。
歓迎するわ。こちらから出向いても良い…」
柚明ちゃんって、呼ばせて貰っても良い?
赤い頬の侭で、わたしがこっくり頷くと、
「話していると年上の様にしっかりしているのに、目に映るのは中学生の制服姿。時々子
供の面が出て困ったり恥じらう様も可愛いわ。渚も遙も男の子だから、この先貴女の様な
可愛い女の子と巡り逢える機会は暫くない…」
柚明ちゃんと夫がいてくれれば、今日も明日も元気に乗り切れる気がする。頑張れるの。
ああ。その詞はわたしには殺し文句です。
「そう想って貰える事がわたしの幸せです」
たいせつな人の日々を支える事がわたしの望み。たいせつな人の笑みを保つ事がわたし
の願い。たいせつな人の力になる事、役に立てる事がわたしの生きる意味です。ですから。
「そう言って貰える今が、本当に嬉しい…」
何を出来た訳でもないわたしに。向き合ってお話しただけで、確かに役に立てた訳でも
ないわたしに。熱く強い想いを寄せてくれる。頼られて、その求めに応えられている。こ
の今が無上に嬉しい。麗香さんが心から愛しい。肌身に伝わる親愛が強すぎて、心が零れ
そう。
間近な頬にわたしの左頬を寄せて合わせて。
頬を染める羞恥もお互い重ね合って暖かく。
店内の他の視線は、今だけ少し気にしない。
約束させて下さい。生意気とは承知の上で。
「青島麗香は、青島渚は、青島遙は、青島健吾は、みんな羽藤柚明のたいせつな人です」
心の限り尽くさせて、守らせて、愛させて。
青空の下、2人の気持は確かに強く繋った。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「おいおい、修練に鉄パイプを持ち出すかね。しかも柚明ちゃんは素手の侭で。ハンデを
与えるなら、武器はむしろ柚明ちゃんの方…」
夕食も片付けも終えた後、護身の術の修練に中庭へ出るわたし達に、正樹さんが首を傾
げた。最近正樹さんは資料集めで外出が多く、わたしの進展に伴う修練の変化を見てなく
て。
良いんだよ。笑子おばあさんが桂ちゃんと白花ちゃんを添わせつつ、縁側へと歩み来て、
「武器を持つのは真弓さんで間違いないの」
「ですが母さん。これじゃ鬼に金棒です…」
訝しむ正樹さんに真弓さんが振り返って、
「柚明ちゃんは人を守る強さを求めているの。
鬼切りの業を習おうとしている訳じゃない。
彼女には武器を扱う修練より、むしろ武器を手にして襲って来る不審者や鬼に対峙して、
己を人を戦い守る修練の方が必須なのよ…」
真弓さんの言葉にわたしも静かに頷いて、
「関知や感応にも限界があります。予め敵の襲撃を、何もかも知って備える事は難しい」
わたしの護身の術は、町中で平時に脅威に遭う事を想定している。買い物や遊びに出た
先で、桂ちゃんや白花ちゃんが犯罪者や鬼に襲われた時、この手に武器があろう筈もなく、
容易に手に入るとも思えない。守りを主眼とし、いつでもどこでも予期せず即応を迫られ
るわたしの術は、無手で為せねば意味が薄い。
多く予想される事態は、素手のわたしが武器を持った敵に向き合う場面だった。だから、
「どんな状況にも対応出来る様に。これは鬼切りじゃなく柚明ちゃんの為の特別修練よ」
わたしは既に冬の日も、雪や寒気の中で修練を為している。雨の日も風の日も。鬼や犯
罪者がたいせつな人を襲う際に、季候の良い晴れた日を選んでくれる保証はない。夕食後
に行うのもその為で。鬼が出るのはむしろ夜。
場所も中庭に限定せず、最近は近くの小川の河原や、浅瀬に入ったり、森や麓の藪でも。
敵が襲ってくる際に、見通しの良い平らな処を選んでくれる保証はない。様々な状況に対
応できる強さが必須だった。冬以来己が宿す男性や暴力への怯えの克服も。怯みが反応を
弱め鈍らせ致命的な隙も生む。中々払拭は難しいけど、どんな相手にも対応できなければ。
「柚明ちゃんが使うのは贄の力とその場で手に入る物だけ。それで臨機応変に戦い凌ぐ」
真弓さんは尚加減してくれている。未だ真弓さんが全力を出せば、素手でもわたしは一
分掛らず倒される。武器の所持は状況への対応を学ぶ為で、力の差が縮まった証ではない。
それでもわたしへの加減の質は変り始めている。ずぶの素人だったわたしの向上の為に、
最初はどこ迄出力を抑えれば成果が残れるか、壊れ物に触る感じだったのに。最近はどこ
迄出力を上げて大丈夫か、成長を確かめる様に。
「ぐぅっ……かあっ」「あはっ……くふっ」
何度挑んでも勝てる筈がないのは承知で。
武器を振るう真弓さんから離れず攻防を。
腕に肩に腹に足に鉄パイプが当たるけど。
怖さに退けば却って己の窮地を招く。懐に飛び込んで存分に振り回させない。痛みは当
然あるけど、全力で振らせた時の比ではない。真弓さんはそれでも尚痛打を与えてくるけ
ど。間合を置いた時よりは、余程ましな筈だから。
格闘中は己に癒しは使えない。癒しは体を弛緩させ、心から緊張を奪う。接近格闘では
僅かな応対の遅れが致命傷だ。癒しにせず己の中で紡ぐだけなら障りはないので、相手に
注いで鈍らせるのも戦術の内だ。もっと強く紡げば、痺れさせたり弾いたりも出来るけど。
だから血の力を常時紡ぎ、次の打撃を防ぎつつ、拳を蹴りを振るいつつ、注ぐ機を窺う。
真弓さんもわたしの癒しは前提なので、以前の様に痛めない様な攻めの遠慮はない。骨を
折り筋を断つ程に、真剣な攻防をしてくれる。
袖が破け、スカートを切り裂かれ、脇腹を掠めて素肌というより鮮血の赤も見えるけど。
「まだまだ……わたしはまだ、戦えます!」
逃げ出さない。怯えない。絶対怯まない。
最後迄羽藤柚明の意志で体を心を制御する。
たいせつな人を守る想いで自身や力を司る。
無理を利かせられる贄の力は、たいせつな人を守る為に。最後迄確かに戦い抜ける様に。
愛しい人に迫り来る刃に拳に、逃げず怯まず立ち塞がって、受け止め続けて倒れない為に。
己がもっと強ければ、可南子ちゃんも宍戸さんも、傷つける事なく守り切れた。己の傷
でたいせつな人を涙させる事もなく。先に男の子全員を圧倒し追い散らす事も出来た筈だ。
強さで、相手の過ちも未然に防ぎ止められるなら。わたしの為に流される滴も防げるなら。
最初にわたしに攻めさせる為に、敢て守勢に回ってくれたのも今は昔。今の真弓さんは、
初撃から攻めたてて来る。隙を窺って反撃なさいと。攻め手を受けて凌いで返しなさいと。
襲ってくる相手は守りを固めない。相手の攻めを、受けて凌いで守り反撃する展開が常
道だ。攻防がより実戦に近づくのは、わたしがそれに耐えられる迄成長した為と思いたい。
真弓さんの鋭い振りで鉄パイプが左頬を直撃し、意識が宙に飛びかけるけど。心の崖に
手を掛けて己を保ち、振り戻しの来る右頬を右腕で守る。遠心力をつけさせない為に敢て
一歩前に出て。更に一瞬の硬直に踏み込んで、左拳を真弓さんに返す。右に躱す真弓さん
の肩へ、血の力を宿す右の掌打を伸ばして当て。
「はああぁぁっ」「柚明ちゃ……くはっ!」
弾く程に溜めた贄の力を、真弓さんの身へ掌打と共に流し込む。真弓さんの身体も闘志
に満ちて、容易に他者の作用は受け付けないけど、わたしは尋常ではなく贄の血が濃い…。
わたしは武器を持たないけど、触れさえすれば贄の力を、相当量自在に操り流し込める。
適切に加減でき痛めすぎないのも良い。人を守る為でも、過剰に痛める事は望まないから。
真弓さんは即座に肩を外すけど。身を離すのは一瞬で、すぐ猛烈な反撃に出て。手負い
になった真弓さんの攻めは更に激しく。時間制限が出来たかの様に猛然と攻め掛ってきて。
敗北からも、わたしが得る物は少なくない。
「はぁっ、はぁっ、はぁ……はぁっ……」
「相当……戦える様に、なってきたわね」
大の字に寝て、起き上がれなくなったわたしの傍に歩み来た真弓さんの息も少し乱れて。
「血の力の関知や感応が進み始めた辺りから、あなた感覚を掴むのが急速に巧くなってき
て。最初は基礎体力も乏しかったから、何年掛けてもどこ迄行けるかと、想っていたけど
…」
僅か4年で達人レベル迄修練が進むとは。
贄の血の力の助力を考えても尚凄い物よ。
年齢と女の子という事情があるから、まだ腕力や体重や打たれ強さには不安が残るけど。
「青島さんのご主人と、立ち合ってみるのも面白いかも知れない。双方手加減抜きでね」
男性や暴力への怯えも拭い去る必要がある。あなたは良く抑えて耐えているけど、完全
に払拭はしてない。硬い武器が男の太い腕や暴力を連想させるのね。僅かに反応が鈍く弱
い。
真弓さんが武器を使った修練を始めたのは、わたしのそれを拭い去ろうとしてくれての
…。
「立てる? 柚明ちゃん」「はいっ……!」
未だ痛みは残るけど、身体の各所は修復中だけど、心配させてはいけない。痛手を持ち
越す様を見せたりすると、手加減を増やされてしまうかも。それは修練の進展を遅くする。
「痛かったでしょう。大丈夫?」
「いえ……有り難うございます」
多少無理でも起き上がる。右手で右手を引いて立たせて貰い。美しい頬とわたしの頬が、
瞳と瞳が正面間近で。何かとても恥ずかしい。微かに汗ばんだ肌が艶やかで、綺麗すぎま
す。
正樹さんの抑えが取れた双子が走ってきた。服に血は付いていて、服も破れて涼しいけ
ど、わたし達が穏やかなので、近しく寄り添い肌合わせて佇んでいるので、幼子もにこや
かで。
「おふろ、おふろ」「きょうははくかの番」
2人の服を、血で汚さない様に努めつつ。
頬に頬を当て、捉まえられる侭に囚われ。
握られる侭お屋敷への帰途を引っ張られ。
わたしは、人の輪の幸せの真ん中にいた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「南、司を呼んできて。お夕飯ですよって」
はあぁい。母の声に南さんが、ミディアムの黒髪を揺らせつつ台所から駆けだしてゆく。
わたしはもう少し残ったお料理の盛りつけを、光子さん、南さんのお母さんと一緒に為し
て。
「うわぁ、羽藤さんが来てくれると食卓が多彩で華やか! 毎日でも来て欲しい位だよ」
「褒めて貰えると嬉しいわ。有り難う……」
目の前で、素直に喜びを表に出す小学6年生の男の子に、中学2年生になった南さんは、
「あたしも手伝っているんですけど」
「あくまでも『も』だろう、姉貴は」
「おお、今日は前回にも増して彩り鮮やか」
南さんの反駁に半歩先んじて、お父さんの作治さんが現れて、食卓を見た感想を述べる。
家族4人が揃った処で、南さんの右隣に席を設けて頂いたわたしも、一緒に夕食を頂いて。
明日が休みなので、今宵は経観塚の南さんの宅にお泊りに来ています。白花ちゃんと桂
ちゃんの承諾は、例の如く事前に取れても夕刻に取り消される事が視えたけど。その心配
や残念は、後でこの身と心で、補いますから。今宵は人の想いに応えたい我が侭を許して
と。
泊めて頂くのも台所のお手伝いも今宵で3度目で、勝手も憶えて来た。今回は材料持ち
込みで、羽様で教わった煮物を作らせて頂きました。光子さんは初見だけど、レシピを伝
えつつ作ったので、次から作れると想います。お料理が苦手な南さんも興味津々眺めてい
た。
「盛りつけやテーブルの飾りにも手が込んで、ホームパーティって感じだね」「そうだ
な」
男性陣の好印象は嬉しいけど、過剰に好まれ期待されると、以降の女性陣に負担が掛る。
「久々に来たので良い処を見せたくて、少し見栄を張りました。毎日こうは出来ません」
時間や人手があれば色々な事が出来るけど、主婦業は総合職だ。お掃除も洗濯も買い物
も、家計簿管理もせねばならない。休日南さんと家に2人でも、お料理だけに全力は注げ
ない。
「一芸に秀でても主婦はこなせません。わたしは未だ子供です。今日も南さんとお母様に
色々と教えて頂きました。感謝しています」
心からそう想ってぺこっと頭を下げるのに。
光子さんは少し気の抜けた笑みを浮べつつ。
「本当に良い花嫁よねぇ。南が憧れるのも分るわ。優しくて気だてが良くて、自身の意志
をしっかり言葉に出来て、尚人に花を持たせられる。姑の突っ込みどころがない位にね」
「一緒に暮らし始めれば、至らない処は沢山見えてきます。わたしは本当に未熟です…」
「羽藤さんが未熟なら、ウチの南はどうなるかね。恥ずかしくて外を歩かせられないよ」
「父さんそれ少し言いすぎ。あたしに失礼」
南さんが反駁するけど、司君が声を挟み、
「いや。姉貴も人を見る目だけはあると思うよ。自分を食わせてくれる人を見抜く目は」
司君は姉に似て華奢で小柄だけど俊敏そう。
幼さと、悪戯っぽさを兼ね備えた顔立ちで、
「普段の様を見ていると、嫁の貰い手が出てくれるかどうか弟の俺が心配な程だし。いっ
その事、羽藤さんを嫁に貰っちゃえ。姉貴」
姉貴が要らないなら、俺が貰いたい位だ。
「司っ、あんたねぇ」「こら、ぶつな姉貴」
年の近い姉弟は、こうしてじゃれ合う事もできるのか。白花ちゃんと桂ちゃんもこんな
感じでじゃれ合っていたけど、わたしとお料理修練できる様になるには、5年は掛るかな。
「今日もゆっくりして行ってね。柚明ちゃんが来てくれると、旦那も司も普段より聞き分
けが良いし、南も家事手伝いをしてくれるし、わたしも日常作業に張りが出る気がする
し」
「そりゃあ、姉貴にするなら羽藤さんの方が、綺麗で優しく気が利いて、器用で物静かで
良いに決まっている。聞き分けも良くなるよ」
こら、司ぁっ。南さんの声が挟まるけど、
「まぁ身内だったら惚れる事が出来ないから、他人の方が良いのかも。姉貴、巧くやれ
よ」
もぉ、司ったら。南さんの声はぼやきに。
一戸建ての二階、廊下を挟んで司君の部屋の向い側が、南さんのお部屋で今宵の寝床だ。
食後の皿洗いを手伝って、女の子同士お風呂を一緒して。居間でアイスに頭を痛くしつつ、
難波家のチャンネル権棲み分けに従い、夜のニュースやバラエティ番組を、みんなで見て。
普段はここ迄家族が一緒に過ごす時間は長くないと、作治さんは言っていた。わたしが
触媒になって家族団欒できるならそれも良い。南さんのお部屋で司君も含めたお勉強に暫
く付き合って教えてから、夜も更けてきた頃に。司君も自室に戻った後でわたし達の夜が
始る。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
南さんのベッドの脇に、来客用布団を敷いたけど。南さんは寝床2つは家族向けの偽装
だと最初から割り切っていて、下の布団に身を潜り込ませ。パジャマの上から身を合わせ。
始りを告げる様に軽く唇を合わせる動きを、為される侭に受容する。拒みはしない。右
手を南さんの後頭部に回して艶やかな髪を撫で、肉感が分り合える強さでその身を抱き締
めて。
「有り難う。もう清らかと言えないわたしの唇を、嫌わず望んでくれて。とても嬉しい」
南さん宅に前回泊らせて貰えた2月初めに、唇を強く望まれたわたしは、己の穢れを告
白していた。一晩中理由も言わずに避け続ける事は無理だったし、何も告げず清らかと言
えないこの唇で触れるのは南さんに申し訳ない。
聡美先輩との一件を経たわたしは、南さんのお礼を望む気持を断れず。年末に一度こう
して泊めて頂き、その後2月初めにもう一度。でもわたしはその間に、冬休み終盤に可南
子ちゃんを巡る案件を挟み。己の状態が激変していた。わたしの唇の問題ではなく、わた
しに触れる南さんの問題だった。南さんに望まぬ穢れを移して哀しませる事は避けたかっ
た。話した上で嫌われ拒まれるなら、それで済む。
南さんは、両手を床についてのお話しを身じろぎもせず聞いてくれて。相当動揺した様
だけど。話し終えて頭を垂れた侭のわたしを抱き起こし、覚悟の上で唇を合わせてくれた。
サクヤさんにも真弓さんにも。和泉さんにも真沙美さんにも。歌織さんや早苗さんにも。
この身を受容して貰えたけど。事の末迄全て晒した上で、知られた上で、穢れも情けなさ
も含めての羽藤柚明を迎え入れて貰えたけど。
わたしは本当に人に恵まれすぎ。暖かく強く優しい人の輪に、過保護に甘やかされそう。
「ゆめい先輩は、今でも綺麗で清らかです」
南さんはわたしの首筋に頬を合わせてくる。わたしはそれを嫌わず抱き寄せて、その愛
しさを肌身に受けて、肌身に返し。間近で温かな息吹が産毛を揺らし。首筋を甘噛みされ
た。
「んっ、南さん……」「大丈夫なんでしょ」
ゆめい先輩、肌に傷が残りにくい体質で。
掠り傷や痣位なら翌朝に消えているって。
「血が出る程は噛まないから、良いよね?」
本当は贄の血の癒しで治しているのだけど。
答は言葉ではなく行いで、身を抱き留めて。
南さんの両手が2つの身体の間に挟まって、わたしの大きくない胸を確かめる様に触れ
る。パジャマの上からだけど、わたしはその感触に身を委ね、瞳を細め。たいせつな人の
求めには叶えられる限り応じたい。南さんを一番にも二番にも想う事の出来ないわたしだ
けど、だからこそ、身と心の全てで応えられる限り。
唇や頬を合わせ、首筋に抱き留め、胸を触り合い。でも下半身には触れない様に。わた
しが為さないのは当然だけど、彼女に罪を犯させてしまわない様に。お嫁さんに行けなく
なる様な事は決してしないし、させない様に。
結んだ絆は享受するけど、抱いて交わした情愛は受け止めるけど。それが相手の先々を
縛ってしまわない様に。今の快楽が未来の不幸せに繋らない様に。わたしからも少し控え
めに、南さんのより小さな胸を触れて撫でる。わたしの想いも確かに伝える。分って貰う
…。
南さんはわたしの首筋に左頬を当てた侭、
「好きだよ。言葉に表しきれない位愛しい」
例えその愛が全部あたしに向いてはいなくても。ゆめい先輩には一部かも知れない想い
でも。こんな深く強い優しさは見た事がない。綺麗で穏やかで、一緒にいると心地良くて
…。
深呼吸する感じが分る。腹に力を込めて、
「だからゆめい先輩が男の子と、北野君とつきあい始めた時は本当に怖かった。嫉妬した。
女の子が男の子に恋をするのは当然だから」
ゆめい先輩は鴨川先輩や金田先輩や、他の人とも深い仲と聞いたけど、男の子は又別よ。
本物の男女の愛に目が向けば一直線になって。
「あたしが置いて行かれるんじゃないかって。今迄の様に抱き留めて貰えないんじゃない
かって。その綺麗な瞳や声色が、全部男の子の方を向いて、戻ってこないんじゃないかっ
て。
冬休み男の子に酷い事されたゆめい先輩が、男女の愛に心の傷を癒されて、その侭あっ
ちに引っ張られて行きそうで。女の子のあたしでは届かないかもって。失うかもと怖く
て」
この不安を鎮める為に、今日はお泊りしてくれたんでしょう? 最初も前回もあたしが
お願いして招いたのに、今回わざわざゆめい先輩から申し出てくれたのは。あたしの為に。
覗き込む黒い双眸が、微かに震えていた。
「ごめんなさい。北野君がわたしを望んでくれた気持が嬉しくて、受けたのだけど。わた
しは今迄男の子を嫌っていた訳でもないから。菊池先輩や小野君ともあんな感じでいたか
ら。でもそれで南さんに不安を与えていたなら」
わたしの罪だから。わたしが償わないと。
右手で柔らかな頬に触れて軽く撫でると、
「男の子の誘いに応じたのは軽率だったわ。
大好きな後輩だけど。彼にも一番にも二番にも出来ないというお話しはして、それを南
さん達にも伝えれば、充分分って貰えると想っていたのだけど……わたしの甘えだった」
「ううん。ゆめい先輩は悪くない。先輩は最初から言っていた。一番にも二番にも出来な
いと。あたしが一番じゃない事は分っていた。それでもあたしが好んで寄り添った。なの
にいつの間にか、あたしが先輩を縛ろうと…」
あたしを抱き留めに来てくれた。あたしに謝りに来てくれた。傷ついたのはあたしじゃ
なくてゆめい先輩なのに。他にも行くべき人がいるゆめい先輩が、あたしに最初に補いに。
でもそれはきっと愛の強さじゃなく、あたしが弱くて壊れそうだったから。鴨川先輩も
金田先輩もきっとゆめい先輩との絆をしっかり抱けば崩れない。あたしが危うかったから。
それはゆめい先輩には重荷で束縛なのに。
こうして貰える迄あたしそれを分らずに。
「あたし、北野君が芹澤君に嫉妬していると思いこんでいた。ゆめい先輩をあたしからも
ぎ取った末にすぐ失って、いい気味だって冷笑していた。嫉妬に燃えて悔しがる姿だと想
って見て、気分すーっとしていた。でも…」
北野君は芹澤君の為を想ってきつく言っていた。北野君が嫉妬している様に見えたのは、
己の嫉妬を鏡に見ていただけで。北野君の真意は違うと、ゆめい先輩も沢尻先輩も分って
いて。芹澤君を想う気持はみんな繋っていて。
あたしだけ踊っていた。ありもしない嫉妬を見て、ありもしない亀裂に喜んで。醜いよ。
「それも全部承知なんでしょう、先輩は?」
あたしの可愛くない処、見られちゃった。
沈み掛る声に、縮まる体に、萎える心に、
「そう言う処も全部含めて、南さんを好き」
強く慕ってくれる真剣な想いが嬉しいわ。
その左頬に唇を当て、全て分って受け容れるよと肌身に伝える。気取られない位微弱に
癒しの力を紡いで流す。心の疲れに届く様に。
「難波南はいつ迄も、わたしのたいせつな人。元気に微笑んで欲しいたいせつな後輩。わ
たしの想いは潰えない。消えはしない、忘れはしない。例え学校や職場や住む処が違って
も、あなたが誰と結ばれても、わたしがどんな境遇に変っても。どんな事の末にも変らず
に」
心の限り尽くさせて、守らせて、愛させて。
あなたの幸せに助力する事がわたしの願い。
たいせつな人の微笑みが、わたしの望みよ。
南さんは、首筋と言うより胸元に頬を当て。
「あたし、本当にゆめい先輩以外に恋せなくなっちゃう。本気で男の子も女の子も視界に
入らなくなっちゃう。でも、それが嬉しい」
「焦らなくて良いと想う。恋の始りは突然巡り来る物よ。今はお互い女を磨きましょう」
白花ちゃんや桂ちゃんにする様に、後頭部を軽くぽんぽんと叩いて、嬉し涙を宥めつつ。
「憂いを全て打ち明けて。わたしが全部受け止めるから。不安も怖れも拭いたい。どんな
南さんでもあなたはわたしのたいせつな人よ。わたしの想いが常に寄り添うから、安心し
て眠って。朝に良い目覚めがあります様に…」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
銀座通りに微かに感じた涙の兆は、南さんや難波家には関らない様だ。南さん宅に上げ
て頂いた時に漸く、彼女達に関らないと判別できたけど。禍とわたしの繋りが薄いのかも。
空は朝から小雨で爽快と言えなかったけど。わたしに少し遅れて目覚めた南さんは、一
晩中わたしに添って離れなかった事を思い出し、頬を染めつつ嬉しそうに更に強く身を寄
せて。気温は肌寒くても、心は熱い位で問題はない。
休日の朝をのどかに過ごし、昼食も一緒に作って一緒に食し。司君やご両親に見送られ、
バス停に向かう。バス停迄は南さんも一緒に。持参の傘を出そうとして南さんに止められ
た。南さんの傘で相合い傘に、住宅街を2人歩む。
幼子の泣き声が微かに聞えた。南さんのいつもと言う感触に、振り向いて視線で問うと、
「先月辺りから、偶に聞えて来ますけど…」
これなのだろうか? 感じた禍の兆とは。
わたしの関知は万能ではない。全く関係ない人に起こる出来事まで拾える程の力はない。
逆に言うと、わたしが微かにでも悟れる事は、わたしの知った誰かに何かが起きるとの事
で。
「気になるの。ちょっと寄り道して良い?」
ここから南さんは帰っても良いけど。南さんの答は視えていた。休日2人一緒の時間が
延びると、わたしの又違った一面を見られるかもと、胸躍らせる心中が顔色に現れている。
泣き声を頼りに住宅街を探し歩く。泣き叫ぶ程乱れているなら、心の起伏も察知出来る。
拾分位歩いた末に見つけた一軒家の塀の奥で。未だ肌寒い春の日にベランダの外で雨に濡
れ。
それはわたしが最近関った経観塚の園児で。
桂ちゃんと白花ちゃんの初めての同級生だ。
「渚ちゃん、遙ちゃん。どうしてこんな…」
幼子は2人、ベランダの外に靴も履かず雨合羽も着せず、部屋着の侭で放置されていた。
「おかぁさん、ごめんなさい」「さむぃよ」
「もぉごはん、こぼしません」「中いれて」
塀の向うに泣き叫ぶ幼子を見た瞬間、身体が動いていた。南さんの声は既に後ろからで。
高さ1メートル半のブロック塀を、一足で飛んで弐歩目で中庭に着地して。幼子達が気付
くより早く、背後からこの両腕に抱き留める。
「渚ちゃん、遙ちゃん、大丈夫……?」
「「うぅあああぁぁぁぁんんんっ!」」
2人ともわたしに身を張り付かせてきて。
腕を頬を足を、何かに縋り付かせたくて。
何よりも確かに応える相手を欲していて。
両の頬に2人の頬を迎え入れる。両の腕で両の背中を抱き留める。両の胸で幼子の身を
確かに受けて、温もりを伝え、一緒に濡れる。
身体が冷えていた。2人は三拾分以上外にいた様だ。泣き声も既に弱々しく座り込んで、
ガラス窓を叩く気力もなく。日中なのにカーテンが閉ざされ、室内は窺えないけど。察し
を拒みたい意志が、関知や感応も妨げるけど。今のわたしの力はその位の拒絶では阻めな
い。
でも今は、緊急に濡れて冷えた幼子の身に、贄の血の癒しを浸透させて暖める。風邪を
引いてしまったらわたしの力が及ぼせなくなる。手順を間違えてはいけない。まず抱き留
めて。
「青島さん……。健吾さん、麗香さんっ…」
家の中に声を掛ける。このベランダのガラス窓を開けてと、強く訴え。ご近所の人が窓
越しに様子を窺う感じも察し取れた。どうやらこの様な事は今回が初めてではないらしい。
「渚ちゃんと遙ちゃんが寒さに震えています。雨に濡れて身体が冷えています。身体を拭
いて暖めないと、風邪を引いてしまう。早く」
南さんが後方で塀越しに見守る中、わたしは雨に濡れつつ、濡れた2人を抱き止めつつ
声を発するけど。家の中から答はなく。人の気配は感じるけど、竦んだ様に動いてこない。
「ゆめ、おねえちゃ」「ひっく、ひっく…」
2人とも漸く抱きつけた暖かみに、柔らかさに、心を預け、泣き喚くけど。力の限り身
を寄せて、贄の癒しの暖かみに寄り添うけど。それは弥縫策で一時凌ぎだ。今も雨粒は降
り続いていて、2人の背中を頭を濡らしている。未だに屋外で、2人は肌寒さに晒されて
いる。
「早く幼子を抱き留めに来て。たいせつな人の涙に応えに来て。心細さを受け止めてっ」
家の中から返事はない。人の気配がある事は分っている。幼子を屋外に出したのが麗香
さんである事も察せた。でも動く物音はなく。窓は鍵が掛っていた。外からは開けられな
い。
そして抱き留めた2人の幼子に視えた像は。その手や頬に残る衝撃や傷みは、青黒い痣
は。無力な幼子に為された仕打ちに心が固まった。憤りと驚きに、哀しみと怯えに、身が
震えた。
「……ゆめい先輩、どうしましょう……?」
わたしは幼子を左右に抱いた侭立ち上がり、中庭を突っ切って歩き始める。ベランダの
前で幾ら声を発しても動かない。いつ迄もここで幼子を雨と外気に当て続けるのは毒にな
る。
わたしは庭を伝って正面玄関迄歩み来て。
ピンポーン。来客用のチャイムを鳴らす。
気配はベランダの方から玄関に動いて来ている。足音は潜めているけど、素人の動きだ。
でもやはり竦んだ様に、玄関で歩みを止めて、扉を開けず外の様子を窺っている。扉には
鍵が掛っている。外側から開ける事は出来ない。
暫く待ってみるけど向う側に動きはない。
南さんが塀伝いに歩いてわたしの背後に、
「開けてくれないんですか?」「ええ……」
「この子達どうしましょう?」「うん……」
青島さん達は昨年の秋経観塚に越してきた。転職に伴う転居でこの地に伝があった訳で
はない。親戚も友人もいないので預けられる処もない。羽様迄連れて帰る訳にも行かない
し。
「……病院か交番に、連れて行こうと思う」
自宅を目の前に見て入れない子供の心細さは察するに余りあるけど。濡れて冷えた幼子
をこの侭に見捨てる訳には行かない。犬や猫の子ではない。中学生に出来る事は限られる。
そんな外での話し声が、中に届いた為か。
ガチャ。鍵の回る音がして扉が開かれる。
麗香さんのげっそり窶れた姿が現れると。
「「おかぁさあぁぁん」」
わたしの腕から身を乗り出して振り切って、幼子2人は扉の中の麗香さんの足に縋り付
く。その肌触りに思いの丈を載せて、涙をつけて。例え何を為されても、父母は子供の拠
り所だ。
麗香さんの瞳は、瞬時足下の2人に向いて、それから扉の外側のわたしと南さんを向い
て。
これが同じ人なのだろうか。長く艶やかな黒髪がぼさぼさで、顔色は青白く疲れ切って。
肉体的な疲れ以上に、精神的な疲れが色濃く反応が鈍い。渚ちゃんと遙ちゃんの事がなけ
れば、麗香さんを寝付かせるべき状況だった。
口に出掛る幾つかの問を、慌てて打ち消す。
子供の放置を問い質すのはとりあえず後だ。
原因や責任の所在は、後で幾らでも問える。
今は唯、守りたい幼子を最優先するべきだ。
今は2人の幼子をタオルで抱き留め拭いて、お風呂に入れるか、布団に寝付かせ休ませ
る。麗香さんが疲れていて、子供2人相手ならと、お手伝いを望んで入ろうとするけど。
麗香さんはその場を動かず、わたしの立入を拒んで、
「……後は私がやるから、あなたは帰って」
子供を見てくれて、有り難う。じゃ、又。
その侭扉を閉めようとする動きに、わたしは一度抗って、閉め掛る扉を閉めさせないで、
「待って……。教えて下さい、一体何が?」
常になくわたしも声が大きかったと思う。
どうして雨の中、肌寒い気温の中、子供を外に放置して。2人とも泣いて叫んで、家に
入れてとお願いしていたのに。2人の子供を心底たいせつに想っていた、麗香さんなのに。
差し出がましい問だった。中学生が大人に発する問ではなかった。でも幼子をこんな目
に遭わせた事情を問い質さずにはいられなく。麗香さんはそんなわたしに、やや驚いた顔
で、
「あなたは、ウチの子達も大切に想ってくれているのね。渚も遙も、桂ちゃんや白花ちゃ
んに近い程、大切に案じてくれて。この寒空の中、雨に濡れた2人を抱き留めて。でも」
想いを溜め込んだ綺麗な双眸は大きく潤み。
窶れた姿でも尚必死に何かを守ろうとして。
「これ以上関らないで。これは青島家の問題なの。渚も遙も、貴女の子でも従弟でもない。
大切に想ってくれた事は感謝するけど、抱き留めて元気づけてくれた事は嬉しいけど…」
麗香さんはわたしの問に答えず糸口を拒み。
溢れ出る程の想いは感応も関知も阻もうと。
「貴女がした事は他人の家への不法侵入です。今度貴女が同じ事をするなら、私はそれを
学校や警察や保護者に通告して、告訴します」
「不法侵入って、ちょっと。ゆめい先輩は子供が家の外に放置されているのを見て、心配
して入り込んで、抱き留めて助けたのに…」
後ろから南さんが抗議の声を発するけど、
「それを法律では、不法侵入って言うのよ」
家主の許諾もなく、私有地に無断で入る。
「この玄関も庭先も、塀の外側まで我が家の借地。勝手に入られては困る青島家の敷地」
もう私達には関らないで。早く出て行って。
私には貴女とお話しする事は、ありません。
もう一度力を込めて、扉を閉じて断ち切ろうとする。それをわたしももう一度だけ阻み。
麗香さんはわたしの視線を嫌って瞳を逸らす。ノブを掴むその手に触れた瞬間視えた絵図
は。
「青島麗香は、羽藤柚明のたいせつな人です。
渚ちゃんも遙ちゃんも、健吾さんも羽藤柚明のたいせつな人。わたしのたいせつな桂ち
ゃんと白花ちゃんと仲良く接してくれて、わたしにも微笑み返してくれた優しく強い人達。
毎日微笑んで過ごして欲しい、愛しい人達」
一度だけ息を深く吸い込んで、声を紡いで。
わたしが関る事がみなさんに害になるなら、毒になるなら、わたしは絶縁も受け容れま
す。余計な手出しで却って事態が悪くなったなら、ごめんなさい。体と心の続く限りわた
しが償います。渚ちゃんや遙ちゃんに幸せに笑って貰いたい。麗香さん達の幸せがわたし
の幸せ。
「あなたの助けになりたいの。心を開いて」
一瞬だけ、瞳が見開かれた。心が惑い、拒絶の壁が崩れかけた。求めが繋ると思われた。
でもそれは一瞬だけの物に留まり。
麗香さんの驚きは打開には繋らず。
答は言葉ではなく行いで、扉は閉ざされ。
降り続く雨の中、わたしは外に残された。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「そうか。不法侵入言われたか。うぅ〜ん」
夕食時わたしはその事を話してみた。最後が決裂でもあったし。今後青島さんとはわた
しより、幼子の親である真弓さん達が関る可能性が多い。法律の壁は子供の手に届かない。
「児童虐待の怖れがある、と言う事だね?」
「あなた。これは怖れではなく、事実です」
真弓さんは桂ちゃんに肉を切り分けつつ、
「柚明ちゃんは2人の幼子に痣や打撲があると言いました。2人が強く叩かれた像を何度
も視たとも。この寒空の中、雨の降る外に幼子を放置するなんて、それだけで虐待です」
「警察に報せたら何とか出来るでしょうか」
わたしの問に正樹さんはかぶりを振って、
「動かないだろうね。仮に話を聞いて見に行って、そこで多少問題があっても尚、家族の
事に分け入って事件化するとは考えにくい」
児童虐待やドメスティックバイオレンス等の家庭内暴力が社会問題化して、児童相談所
や保健所などが積極的に関る様になったのは、この何年か後のお話しだ。家の中でふるわ
れる理不尽に、外部の誰かが気付いても有効な助けの手段はこの当時、未だ確立されてな
い。
「サクヤさんがここにいれば『元警官の家だ。警察の事情聴取も甘くなりかねないよ』っ
て、口を挟む処だろうかねえ」「お義母さん…」
笑子おばあさんが口にするのは、公式見解には絶対出ないけど事実上そうだから、わた
し達も含めて認識しておきなさいと言う事で。
正樹さんはそれにも頷きつつ更に話しを、
「幼稚園は私立で公的機関じゃない。学校の様に相手の家に立ち入る事は出来ないだろう。
それで園児を引き上げられたらお終いだし」
学校だって生徒1人1人の家庭事情に細かく首を突っ込んでいる訳じゃない。熱心な先
生がボランティアでそれを時たまやるだけで。
「どちらかの親か叔父叔母、兄弟姉妹でもいてくれれば、相談を持ちかける処ですけど」
真弓さんの実家は親族の結束が硬く、何か起これば、叔父叔母や遠い親族も駆けつける
とか。正樹さんと駆け落ちに近い感じで結ばれた真弓さんは、その輪を外された様だけど。
「この近辺に、親族縁者はいないそうです」
「役場や保健所に話を持ちかけても、相談以上にはならないだろうね」「不法侵入迄言う
以上、親権を盾に介入を拒むだろう。家の中で完結している以上、両親揃って拒まれると、
善意でも外部から手出しの術は、厳しいな」
骨折や出血多量のケガで病院に担ぎ込まれて、漸く警察が動き出すか。下手をしたらそ
れでも尚、警察は病院にお任せかも知れない。
「今度だけは大人にも何ともしようがない」
羽様では子育てに悩んでも、母さんがいるし僕も仕事柄家にいる事が多い。柚明ちゃん
も色々手伝ってくれるから、真弓も負担が相当軽減されている。でも今の普通の家庭では、
旦那と奥さんの2人だけ。夫が仕事に行ってしまえば、妻が1人で全てを担い相談も出来
ない。主婦は元々結構な分量のある仕事だし。しかも傍に親戚知人も誰もいないとなれば
…。
「青島さんも夫婦共に悩みが多いのだろう」
それで幼子への虐待が許される訳でもないけど。幼子の涙が軽減される訳でもないけど。
「見通す事が出来ても、防ぐ事が出来ない」
傷みや哀しみを分っても、止められない。
それが中学生のわたしの現実だった。贄の血の力を幾ら修練しても法律の壁は崩せない。
武道の修練を幾ら重ねても、力や技では突破できない壁がある。今尚わたしは無力だった。
「人の幸せを守る為の、法律の筈なのに…」
「みんなの為の法律は、個人個人の事情迄斟酌してはくれない事もあるのよ。法律に限ら
ず、誰かの助けが別の誰かの救いの芽を断つ事もある。世の中は中々巧く行かなくてね」
笑子おばあさんの寂しそうな答に続けて、
「大人同士で何か力になれないか、相談に乗れないか、訊いてみよう。間接的にでも青島
さん夫妻の悩みが軽減できれば、そう言う行いに走る必要はなくなるかも知れないから」
正樹さんの精一杯の答に頷く他に術もなく。
贄の血の関知や感応が決して万能ではない様に、羽様の大人も万能ではない。鬼を切れ
る真弓さんも、博学な正樹さんも人生経験豊かな笑子おばあさんも、決して全てに答を出
せる訳ではないと、わたしも分っているけど。
みんな誠実にわたしの相談を受けてくれて、一生懸命考えた末に答が見いだせないのだ
と、わたしも分っている積りだけど。この雨雲の向う側に果たして明快な答はあるのだろ
うか。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「沢尻君。沢山ご面倒かけてごめんなさい。
佐々木さんも、気遣って頂いて有り難う」
沢尻君にお礼を述べに、人気のない旧校舎へ昼休み、佐々木さんにも付き添って頂いて。
わたしは衆目を集めてしまう様で、男女問わず誰かと密にお話しすれば噂となる。3人な
らば誤解を招く怖れは低い。周囲の誤解より、北野君や芹澤君や南さんの誤解より、佐々
木さんの誤解を招いては拙いので、彼女も交え。佐々木さんにも何度もお世話になってい
るし。
「文彦の処に行ったんだってな」「うん…」
「卓君にも関ったと聞いたわよ」「はい…」
3人で使われてない教室の古い椅子に着座して、机を囲んで向き合って。周囲は静かだ。
「卓と違って文彦はある程度話が分る。それは良いさ。羽藤の大甘はいつもの事だから」
その上で羽藤は又卓にも関ったんだって?
頷くと微かに佐々木さんの視線も厳しく。
確かにわたしは彼の心遣いを壊したから。
ごめんなさいと、2人に頭を下げるのに。
「良くやるよ。卓をからかった奴らを仲直りさせ友達にして。俺は俺なりに羽藤を絡めず、
卓を独り立ちさせようとあくせくしていたのにお前はすっとそれをやってのける。全く」
「ごめんなさい。余計な事をしてしまって」
「いや、良いよ。別に、結果が良ければさ」
さらっと流す沢尻君より、脇で視線を向けてくる佐々木さんに微かにざわつきを感じた。
「卓には美術部を勧めた。上下関係の厳しい体育系は向かなさそうだから。あいつ小学校
では絵とか彫刻好きで、結構巧かったから」
それを知る者はわたしのみと思っていた。
「授業時間終って、休み時間になっても夢中で作業やり続けて。次の授業に入ったのにも
気付かなくて、先生が呼びに行ったって…」
話が通じ合う事が嬉しくて、つい夢中に。
「何か、子供のエピソードを語る若夫婦って感じなんですけど」「あ、ごめんなさいっ」
2人以外入り込めないお話しをしていた。
「そんな2人を見守るのも、悪くないけど」
佐々木さんは今度は余り不機嫌でもなく、
「博人からも話す事があったんでしょう?」
北野君が沢尻君に相談する様が瞼に浮ぶ。
「難波から文彦を通じて、相談があったんだ。お前、又面倒に首突っ込んでいるらしい
な」
「南さんから? って言うと、青島さん…」
南さんの気掛りは幼子より、麗香さんに拒まれたわたしだった様だ。わたしの非力も頼
りなさも知った南さんは、大人の拒絶に直面したわたしを案じ誰かに相談をと。大人を避
けたのは最終手段で、話しが大事になる為か。
「これ以上絡むと、本当に警察や法律の話しになってくる。お節介も好い加減にしないと、
お前が傷つくぞ。精神的にも、法律的にもだ。それを分らない羽藤でもないと想うけど、
分って無茶するのも羽藤だから。心配しているのは難波や文彦だけじゃない。華子だっ
て」
沢尻君の横で一緒に聞いた佐々木さんも心配してくれて。わたしが話しを望まなければ、
2人は別に場を設けたかも。わたしはそれ程無鉄砲でもない積りだけど。人の心配を招い
た事は有り難い以上に申し訳なく、反省を…。
「お前がいとこの双子を可愛がっていて、それと同じ歳の幼子が酷い事されて。目の前で
見れば問い質す気持も分るけど、他人の家だ。親戚でも友達でもない。深入りは止めと
け」
佐々木さんは無言で同意を求める目線をわたしに送ってくる。沢尻君の言う事は常識的
だった。わたしの心情的な拘りを分った上で、それではどうにも出来ないのだと現実を示
し。
「他人の子供を傷つけたりしない限り、話しは家の中で完結している。子供が親から逃げ
出したり妻が夫から逃げ出したりしない限り、助けを中へは及ぼせない。事件にならな
い」
それは羽様のお屋敷で正樹さん達にも言われた事だ。中学生の女の子という条件以上に、
他人の家の事には縁者でなければ関れないと。
「……でも……でも、だって……」
わたしは大人の言う事を全て、分った上で。
沢尻君と佐々木さんが正しいと承知の上で。
「2人は未だ4歳児よ。虐待を受けたって逃げ出す事なんて出来はしない。幾ら酷い目に
遭わされても、酷い目に遭わせたその親に縋って、許しをお願いする事しか知らないの」
でもそれ程迄して縋った親に、縋った結果尚酷い事をされ続ける様は、見るに堪えない。
信じれば信じる程に、幼い心を引き裂かれて。
「何も出来ない事は分っているけど、してはいけない事も分っているけど、諦められない。
何かできる事はないか、何か見落しはないか、法律の穴に抜け道はないかって、考え続
け」
わたしには想う事しかできない。この手を及ぼせないのなら、心を尽くす他に術はない。
想うだけなら自由の筈よ。そして万が一妙案が浮ぶなら。それがみんなの幸せに繋るなら。
「桂ちゃんと白花ちゃんのお友達なの。わたしのたいせつな人の日々を支えてくれる、愛
しい人達なの。何とかして守り助けたいの」
法律に触れない様にする。危険も犯さない。諦めない事だけを認めて。やって逆効果に
なる事はわたしもしない。打開策を考える事を、あの人達をたいせつに想い続ける事を許
して。
みんなの心配は感じている。心配させない様に、無茶はしない様に心がけるわ。何か変
事があれば都度こうやって、相談もするから。
「お願いっ。沢尻君、佐々木さんっ……!」
2人の手を取って頭を下げて、頼み込む。
わたしの想いを肌身に伝えて分って貰う。
暫くの後、頭上から力の抜けた声は答を、
「羽藤はそう言う奴だったからな、昔から」
「博人良いの? ここでわたし達が許して」
佐々木さんの惑う声に沢尻君は苦笑いで、
「ダメって言って従うならそう言うけどさ」
羽藤の頑固さは華子も前から承知だろう?
「元々羽藤の行いを許す事も拒む事も俺達には出来ないんだしさ。それこそ他の家の事だ。
俺達が口出し出来るなら、とっくに青島一家の事だって解決できているさ」「確かに…」
そこで佐々木さんも声の力が抜けた様で。
「顔を上げて、羽藤さん。毎度の事だけど」
あなた、本当に損な人。好んで危険や傷を受けに行く。そこ迄深く関る必要はないのに。
賢也君の時も飛鷹君の時も、朝松さんの時も。奥深く踏み込まなければ、通り一遍の善意
で流しておけば、苦痛も哀しみもなかったのに。
相手の窮状や怯えを見抜き助け関った為に。時に振り回されて多くの誤解も招き、人の
絆危うくし、その為に酷い目や辛い目に遭って。それで尚懲りる事を憶えない。本当に本
当に。
「あなたはわたしの大好きな羽藤柚明だわ」
沢尻君を前にして、強く深く正視されて。
両手に両手を握られてわたしが頬を赤く。
「だからあなたに無茶しないでとお願いする。わたしが心配しているから。博人が心配し
ているから。真沙美さんや和泉さんが心配しているから。これ以上無理はしないで頂戴
…」
あなたを心配する人の想いにも心を向けて。
もう少し自身を気遣って。あなたは本当に。
「こんなに綺麗で華奢なのに、無茶ばかり」
深く強い親愛がわたしの素肌に流れ込む。
「……有り難う、佐々木さん。そこ迄強く心配し気遣って貰えて、わたしとても嬉しい」
沢尻君の前だけど、わたしは佐々木さんの柔らかで小作りな手に握られた侭、この左頬
を合わせて感謝と親愛の想いを肌身に伝えて。
「佐々木華子は、羽藤柚明のたいせつな人」
わたしを見守り気遣い案じてくれた、強く賢く優しい人。わたしの大好きな綺麗な人…。
暫く肌身に滑らかさと温もりを感じ合い。
沢尻君は挟む言葉を諦めて、肩を竦めて。
わたし達の落ち着きを待ってくれていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「あの家は、むしろ夫の方が拙いんだよ…」
沢尻君は、羽様迄は聞えてこない、幾つかの青島家に纏わる噂を集めていた。人の口に
は戸が立てられず、意外と多くの情報がご近所では囁かれている様で。と言う事はわたし
のあのやりとりも、既に噂になっているかも。
「警官崩れが警備会社に入るって、結構あり得る話しらしい。天下りって、言うのか?」
許認可で優遇する代り、警察の退職者を警備会社が高給払って雇用する。退職した奴は
先輩で未来の就職先だ。警察幹部も今迄と将来を考えれば簡単に逆らえない。権限はある
けど公金は自由に使えない役所と、金はあるけど許認可される弱い立場の民間が癒着する。
それはわたしも全く知らない訳じゃない。
「サクヤさんが記事を載せている雑誌で読んだ事はあるけど。それは例えあったとしても、
役員とか財閥グループ会長とか上層部の話しでしょう? 一線で働くお巡りさんには関係
ないのでは?」「そうでもないらしいんだ」
上が繋れば下も繋る。上を見習うのは良い事も悪事も、民間も役所も同じらしい。若い
内から警察にいられなくなった者の再就職に、警備会社を紹介する事も頻繁にある様なん
だ。
「若い内から、警察にいられなくなる…?」
「犯罪取締で過剰に痛めつけたとか、犯人や被害者の弱味を握って男女の仲になったとか、
警察の公金を横領したとか、上司の奥さんと不倫して辞めざるを得なくなったとか、賭博
の摘発を事前に知らせて賄賂を貰ったとか」
全部が全部法的に悪事な訳じゃないけどさ。
犯罪に関る警官は多くの誘惑やストレスに晒されている。頑張っても成果に繋らない事、
正当に評価されない事もある。間違ってなくてもマスコミの誤報で叩かれ、その場凌ぎに
警察が個人を辞めさせる事もある様で。流石にそう言う場合、個人の今後の生活も考えて。
「警察を辞めさせる代りに、警備会社に再就職できる様にする。逆ね。警備会社に再就職
させると約束して、警察を辞めて貰うと…」
健吾さんは警察官だった。昨年秋に辞職し、民間の警備会社に就職し何の伝もない山奥
に転居してきた。親族も友人もいない経観塚に。
「どんな事情なのか迄は分らないけど、表向きにしにくい事情がある。もう余り関るな」
周囲の家ともトラブルを抱えているらしい。昼も夜も子供の泣き声が煩いと。尋常じゃ
ない泣き方に、怒鳴り込みに行った隣人が、あの凄い体格の旦那に怯えて、逃げ帰ったと
か。