第7話 最も見通し難い物(後)


 脇で情報を補足したのは、手芸部顧問でもある藤田美鈴先生二拾八歳。長い黒髪を束ね
て後ろに垂らしている、背の高い細身な人は、

「元々あなたは可愛いから人気あるのは分るし、好かれたら好くのは人情だけど、お気に
入りの数人と部を振り回して困ると苦情も」

 わたし、手芸部では個人の意見は後回しにする様に努めているのに。どうして? 己に
はその積りがなくても、強引だっただろうか。わたしの在り方は人に好まれない物だろう
か。

 先生達はわたしを憎んで問うた訳ではない。既に飛び交う噂を耳にして不審を感じただ
け。原因は先生にではなく、わたしに宿っている。

「……誤解を招いたとすれば、わたしの不徳です。困らせる気は、なかったんですけど」

 わたしは唯たいせつな人を支えたくて、守りたくて、助けたくて接してきただけなのに。

「鴨川(真沙美)の父が飛び交う噂に、不安を漏らしていた。その上羽藤は最近、結城や
篠原にも絡んでいるという話しじゃないか」

 同じお化け屋敷担当で、わたし達は一緒に放課後を過ごす事も多くて。勿論3人だけの
限定でもなく、美子さん達もいたりするけど。『仲の良いお友達です』と小さく応えるの
に、

「先日も結城が保健室に行く直前に抱き留めた話しを聞いている。その場にいた者から状
況を聞いて、取りあえず問題はない様だが」

 職員室に入る時すれ違った広田君は、昼休みの経緯の事情聴取をされていたと言う事か。
広田君はありの侭を答えて叱られた様だけど。

「いずれにせよ、そう言う目で見られている事も自覚して、誤解のない様にという事だ」

 先生も、わたしが本当に女の子同士で恋し愛し合っているとは想ってない。唯疑惑の多
さ故に全て否定出来ず。わたしに伝えて人の視線が常にあると認識させ、自重を促そうと。

 それは忠告であると同時に警告でもあり。

「お疲れだったな。行って良いぞ」「はい」

 戸を開けると、広田君が待ち構えていた。


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「何言われたんだ?」「この前の昼休み…」

 職員室の外で待っていた広田君に問われて、わたしは素直に先生の危惧と忠告を告げる
と、

「何だ、羽藤お前、本当に女が好きなのか」

 真顔で尋ねる彼の顔には敵意も悪意もなく。
 わたしも真顔で自然に彼に答を返していた。

「ええ、好きよ。嫌いな方が、自然なの?」
「……お前、好きの意味分っているのか?」

 一応ね。と頷きつつ逆に彼に問い返して。

「広田君は、好きの意味分っているんだ?」
「ば、ばかやろ。そんなの、当たり前だろ」

 男は女を抱き留めて、女は男に抱き留められて、好き合って唇を合わせるんだ。お前や
男女の篠原の様に、男の前に出しゃばって言葉返したり、女の子を庇ったり抱き留めるの
は女のやる事じゃない。それは男の役なんだ。

 何故か1人で頬を赤くする広田君の瞳に、

「早苗さんを抱き留めるのは広田君の役?」
「ばばっ、馬鹿っ。俺は一般的な事をだな」

 お前こそ先生に言われたんだろうが。女の癖に女を抱き留めたり庇い守ったりするから、
その気がなくても誤解されるんだ。分ったら今後は少し慎め。篠原や結城にも少し距離を。

「それを言う為に職員室に行きましたの?」

 女の子の声は、わたしの口からではなく、

「柚明さんの優しさに疑念を呼んで困らせる為に、先生に密告に行っていたのですか?」

 憤りを秘めた早苗さんの声と瞳が彼へ向き、

「柚明さんの人を想う行いを、悪意に誤解させる為に、告げ口に行っていたのですか?」

 早苗さんは、わたしの次に職員室に呼び出されていた。先生は2人がすれ違わない様に、
わたしを間に挟んだのだろうけど。広田君がわたしの終りを待っていた為に、交差して…。

「そんな人だとは、想っていませんでした」
「ゆ、結城……?」

 静かな侭瞳が怒りに燃えていた。丁寧に過ぎる言葉遣いの侭で、声音は低く震えて響き、

「これで満足ですか? これで爽快ですか」

 人を悪意な噂で陥れて、困らせ哀しませ。
 それであなたは一体何を得られるのです?

 一歩たじろぐ広田君の傍を通り抜け、わたしの元に歩み来て、早苗さんはわたしの両手
を両手にとって、頬に頬寄せて。それはさっき先生から受けた忠告に逆らう物だったけど。
望んで為してくる早苗さんの動きに逆らわず。

 その罪悪感を埋めないと。結城早苗に非はないのに。羽藤柚明に禍を招いたと申し訳な
く傷む優しい心に、確かな感触を返さないと。何も悪い事はない、今尚好きだと応えない
と。結城早苗は、羽藤柚明のたいせつな人だから。

「羽藤柚明は、わたくしの綺麗な人です…」

 過去1人にしか為した事ないその表明を。
 彼女は今を選び、敢て広田君の前で為す。

「歌織ちゃん以外の全てよりあなたが大切」

 正面から間近に顔を寄せて瞳を覗き合い。
 慈しみと強い親愛が素肌を通じ流れ込む。

「一度先生達が抱いた疑念や誤解は、中々解けないでしょうけど……柚明さん、わたくし
は少しでも真実を話して、理解を頂きます」

 固まって口を利けない広田君を一度見て、

「もうあなたとは口も利きたくありません」

 色々な悪戯に困らされ泣かされても、発しなかった断交宣言が。瞳の気迫に彼が言葉返
せぬ内に、早苗さんは職員室に去り。誤解なのに。密告の主は広田剛(つよし)ではない。

 彼も唯呼び出され、事情を訊かれただけだ。最近彼が早苗さんを気に掛けていた真の訳
は。早く誤解を解かないと、広田君は時間切れになる。本当の想いを届けられず終ってし
まう。


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 日々は過ぎ、学校祭が迫ってきた。真沙美さんや夕維さん達の演劇もお稽古に熱が入り、
わたし達の担当するお化け屋敷も徐々に整ってきて。広田君は焦った様に早苗さんに干し
首を向けていたけど、彼女は全く相手にせず。

 干し首に憑いていたモノはあの時祓っておいたので、早苗さんにも気味悪いだけの物だ。
最近は空回りする彼に、他の男子が乗って来られず孤立気味で。あと気懸りは、早苗さん
の不在時に見せる、歌織さんの真顔の憂い…。

 手芸部も動揺は鎮まり、今は学校祭準備に傾注です。衣装は概ね完成し、部員相互にお
仕着せして具合を確かめ品評を交わし。わたしの一面を承知で慕ってくれる後輩達を前に、
間淵さんが困惑顔で。わたしも驚いています。怯えられ嫌われ隔てられる事は覚悟したの
に。その篤く深い信には全力の想いを返さないと。

 聡美先輩とも数回一緒した。勿論他の部員、と言うより3年生が複数挟まる場限定だけ
ど。高岡先輩は、今回は事を伏せたけど、次に何かあれば手芸部の終りに繋る事を分って
いる。

 聡美先輩は先頭で活動を率いるタイプではなく、副部長に事を任せ後ろで眺めるタイプ
だから、目立たず静かでいても違和感は薄い。みんな事を分っているから敢て問う者もな
く。むしろ尚積極的に部活に関るわたしが異常か。

「難波さん達は、分っているのかしら…?」

 わたしには猛獣と一緒の檻の中でウサギが戯れている様に見えます。一応わたし達も目
を光らせる様にしていますけど、これでは…。

「いつ羽藤さんが問題となるか分りません」

 間淵さんが聡美先輩は居ない処で、高岡先輩や梢子さんに向けつつ、後輩やわたしに聞
えよがしに不安を語るのに。わたしの傍に座って警戒も怯えもない知花さんと琴音さんが、

「羽藤先輩なら……」「きっと大丈夫っ!」

 逆にわたしに身を預けてきて、頬を染め。
 わたしは倒れない様に、抱き留め支える。
 その様に耐えきれないとこちらを正視し、

「あなた達、事実を分って言っている訳?」

 この優しそうに整った姿形で、彼女が何を為したのか、あなた達もその耳で聞いたよね。
羽藤柚明が女に欲情を抱く獣だと知ったよね。

「貪り喰われる事がお望みとしか思えない」

 わたしは片隅を選んで座るけど。後輩達は自ら傍に寄ってきたり、分らないから教えて
と呼び招いたり。身を寄せたり手を重ねたり。わたしは拒まないので、間近に常に後輩の
誰かがいる。今年の春からずっと、聡美先輩がいる時も挟まろうにも挟まれない状態だっ
た。

 逆に言うと聡美先輩は、みんな帰った後迄残らないとわたしに迫れなかった。わたしは
あの時迄後輩達に守られていたのか。わたしも可愛い年下の子に教えたり手伝う事が出来、
一緒に完成に近づける事が嬉しくて楽しくて。

 想いを届け交わし合える手芸部という場の形を残して頂けた事に心から感謝を抱きつつ。
先輩や間淵さんや後輩達にも深く感謝しつつ。

「ゆめい先輩ならあたし食べられても良い」

 あたしの最初のくちびる、おいしいよっ!

 南さんが2人の上から更に身を重ねてくる。崩れると他の子に及ぶので、多少無理して
も支え受ける。琴音さんと知花さんの身体が密着し、南さんの頬はわたしの頬に。唇は間
違っても触れてしまわない様に、意図して頬へ。

 後輩達はわたしが決して牙を剥かないと信じているから、安心して身を委ね背徳感を楽
しんでいる。真にそうして欲しいとは願ってない。間近な南さんの頭を、白花ちゃんや桂
ちゃんにする様に、ぽんぽんと軽く叩きつつ、

「筒井琴音も、小林知花も、難波南も、手芸部のみんなが、羽藤柚明のたいせつな人…」

 実は保てない筈の体勢を保って平静でいられるのは、修練の成果です。そうでなければ
4人の女子は周囲に倒れ込んでいる処だった。

「わたしは、たいせつな人を愛でるのが望み。幸せに緩んだ笑顔が好き。元気に日々を過
ごしてくれる事が願い。……傷み苦しみ哀しむ姿は見たくない。約束させて。羽藤柚明
は」

 ここのみんながお嫁さんに行けなくなる様な事は決してしない。させもしない。みんな
が涙する様な事は求めない。望まない。みんなの幸せの支えに役立つ事を、許して欲しい。
間淵さんも菱田さんも、先輩達もそれは同じ。

「許しちゃいます」「わたしも」「……も」

 応えは3人も含む周囲にいた後輩全員で。
 間淵さんは理解を超えて、憤慨も越えて、

「倉田先輩は自重しているのに羽藤さんは」

 近しすぎる状態が、何も変っていません。
 この侭放置しては部にも非常に危険です。

「何か変えようって、お話しだったっけ?」

 梢子さんが問い返す。わたしは聡美先輩と問題なだけで、後輩とは問題になっておらず、
あの場の議題にもなってない。今迄通りなら、問題ないのではと問う梢子さんに高岡先輩
が、

「彼女は懇切丁寧に後輩に接しているだけよ。
 部室にいる間はずっと教えるか手伝うかで、自身の作業は殆ど手をつけず。あなた達が
それをやってくれるなら、彼女にさせないという判断もあるかも知れないけど……3年生
の誰にも、今の彼女の代りは務まらないわ…」

 技術も早さも丁寧さも後輩からの信頼も。
 返す言葉を探せず黙して俯く間淵さんに、

「羽藤さんの趣向は女同士の恋愛とも違うのかもね。女同士の恋愛も理解できない私には
違うと断言もできないけど、少なくとも…」

 聡美とは違う。羽藤さんが後輩に手を出そうと望むなら、今迄に幾らでも機会はあった。
でも彼女はそれを望まなかった。聡美が可愛い子を己の物にしたくて手を伸ばすのに対し、
彼女はそれを見つめる事が望みなのね。後輩達はそれを肌で感じ、受け容れている。彼女
が自分を傷つける事を為す筈がないと信じて。

「勿論それで信じ切る程私もお人好しじゃないから、部活の間は誰かに付いて貰うけど」

 だからこそじっくり彼女の本性を、飽きる程眺めて確かめましょう……。ね、間淵さん。


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 学校祭を来週末に控え、経観塚の歌織さん宅に泊めて頂く予定の今宵、わたしは商店街
外れの廃ビルで肝試しに一緒する事になって。夜に肝試しして幽霊や怖さを実感してみよ
うと、数人が相談していたのは耳に挟んだけど。わたしはそう言う心霊探訪は、好まない
けど。

「羽藤に篠原に結城に野村……大体いるな」

 お化け屋敷担当は3つの学年の1組の半分ずつで五拾人程だけど、今回は2年生限定で
拾四人。幽霊の噂がある廃ビルを嫌うよりも。早苗さんに拘り過ぎて最近浮き気味な広田
君を外せない事が、他の人をやや遠ざけた様だ。

「今回は有り難う。協力を頼まれてくれて」
「一応は、友達だし」「ま、しゃあないよ」

 広田君に見えない処で、堀田君と中村君の手を握ってお礼を言う。2人とも最近彼と距
離を置いていたけど、佐伯君にお願いし誘って貰う裏で、わたしも頼み込んで招いたのだ。

 やはりこういう場は気心の知れた友達がいる方が良い。広田君には緊張の場でもあるし。
今宵巧く行けば広田君が周囲から浮く事もなくなる。2人にはそれを間近で感じて欲しい。

 女子は美子さんの繋りでお願いして計8名。男子に高原君と佐伯君がいるのが利いた様
だ。正義感と話し易さを代表する2人に、佐伯君の繋りで斉藤君を交え男子6名。男子が
少ないのは、広田君が男子で最近浮いている為か。

『なんだってぇ! 広田が早苗に手を出すのは、あいつが早苗を好きだからだってぇ?』

 早苗さんと特に親しい歌織さんなので敢て話したけど。そこ迄驚かれてわたしがびっく
りした。早苗さんを前にした彼の不自然を見れば、感応や関知も不要に分ると思っていた。

『男の子が女の子を好きに想うのは、不思議でもないと思うけど』『……そうだけどね』

 誰1人聞く者もいないと確かめた旧校舎で。
 女同士で恋語りにご執心と誤解されたかも。
 歌織さん凛々しくて男役似合いそうだから。

『でもだからと言って、早苗が嫌がる事をして来るなんて、どういう発想の繋りなんだい、
あいつは。ストレートに好きと言えなくても、普通は好まれる事をして気を惹くだろう
に』

 歌織さんは、手を出さずにいられない男の子の想い、特に幼い恋心を理解できない様だ。
怒られても嫌がられても、反応を求めやってしまう。まともに応えて貰う術を思いつけず、
喜ばせる方法を分らず、苛めたり泣かせたり。察し難いのは、彼女が女の子である証しか
も。

『恥ずかしいのよ。惚れたと知られるのが』

 恋は惚れた側が負けの様な感覚ってない?
 意地っ張りだからそれを認めたくないの。

『分らない訳じゃないけど……でも早苗に』

 知って貰わなきゃ何も始らないだろうに。

『そうなんだけどね。それで、お願いが…』

 驚きと呆れの中で漸く合点が行った歌織さんの双眸が、もう一度驚きに見開かれたのは、

『なんだってぇ! 広田の奴に、早苗へ想いを告げる場の形を、整えてやるだってぇ?』

 これは予期できた反応だから。声が漏れても聞かれる人のいない旧校舎迄来て良かった。

『広田君が誤解なく、早苗さんへの本当の想いを告げられる状況を整えたい。協力して』

『何で、私が。あんな、広田の為なんかに』
『広田君の為じゃない……早苗さんの為よ』

 歌織さんの大切な早苗さんに数度害を為し、歌織さんと早苗さんの関係を同性愛だのと
冷やかして引き離そうとした彼を、早苗さんに繋げる様な役回りは為したくない気持も分
る。

 でもこれは広田君の為と言うより、早苗さんの為に。彼は早苗さんを憎み嫌って害を為
した訳ではない。想いを伝える術を分らずに、そうしてしまっただけだ。確かに彼の想い
が通じれば、早苗さんの周囲の状況は改善する。広田君が己に向き合い心を整理し、好い
た人を哀しませるより喜ばせたいと自覚するなら。

『わたしも歌織さんも、早苗さんを守りたい想いは確かだけど、女の子が女の子を、男の
子から守るのは簡単ではないわ。歌織さんもわたし程ではないけど、早苗さんと女の子同
士近しすぎるって噂があるでしょう? 広田君が早苗さんを憎み嫌っているならともかく、
そうでなく好きと伝えられない事が原因なら。それを解きほぐせば、守る必要もなく問題
解決なら。その方が早苗さんにも良いと思う』

 早苗さんを守って活躍したい訳じゃない。
 守る姿を見せて賞賛が欲しい訳じゃない。
 早苗さんが心安らかに毎日過ごせるなら。

 誰かが傍にいなければ安心できないより。
 守りが不要に安心な状態こそが真の安心。
 早苗さんはわたしの言葉を理解しつつも、

『奴はあんたの事を先生に密告したんだろ』

 女同士で恋愛ごっこに、耽っているって。
 そんな奴を早苗に近づけて、大丈夫かい?

 先生の注意が今迄の噂に証しを与えた感じになって、あんたどれ程窮屈な思いをしたか。

 それよりあんたが広田を、奴が早苗に近づく事を許せるの? あんたやられっぱなしで、
斬りつけてきた相手に利益を返す様な事して、悔しくないの。お人好しも度が過ぎるだろ
う。

『……それがたいせつな早苗さんの為なら』

 歌織さんの憤りも呑み込んで貰いたいの。
 両手を両手にとって胸の前に持ち上げて、

『わたしの利害は問題じゃないわ。多少の憤りや悔しさは、わたしの胸に秘めれば良い』

 歌織さんにも、そうあって欲しいと願う。
 歌織さんには結構辛いかも知れないけど。

『広田君の為でもなく、わたしの為でもなく、わたし達のたいせつな早苗さんの為に。
ね』

 それに密告を為したのは広田君ではない。

『……違うの? あいつじゃ、ないの…?』

 早苗さんも歌織さんも誤解している。彼は生徒の間で騒いだり冷やかしたりしても、先
生を巻き込む事はしない。あの密告は別人だ。

『その誤解も解いてあげないと。広田君も可哀相だけど、広田君を誤解した侭では早苗さ
んが可哀相。彼の真実を知らない侭では…』

 折角好いてくれているのに、不器用なだけの広田君を、わたしを陥れる為に密告を為す
卑劣な人だと思いこんだ侭で、終ってしまう。恋されているとも知らない侭に終ってしま
う。

『それは女の子にとって、残念な事ではなくて? 結城早苗が広田剛に恋される程素晴ら
しい女の子だと分らずに終るのは。まして彼がそんな卑劣な人でも悪い人でもないなら』

『あんた、良いのかい? 広田が早苗に想いを届けたとして、早苗がそれを受けても構わ
ないのかい? 密告は誤解でも今迄あんたに酷い事言ってきた広田が、あんたの大切な早
苗に告白して受け容れられでもしたら、あんた? そんな場を整える事が悔しく憎い上に、
早苗を奴に渡す事にもなりかねないのにさ』

 歌織さんの危惧はわたしも抱く物だけど。

『結城早苗は、羽藤柚明のたいせつな人…』

 たいせつな人が誰かの真剣な想いを受けて答を返す事を、望み願い応援するのは当然よ。
それがどんな答であっても。望まない答でも。たいせつな人に誰かが抱く本当の想いがあ
るなら、届く様に導くのはその人の為でしょう。それが誰からの想いでも。望まない相手
でも。

 歌織さんが、微かに瞳を見開いて見えた。
 わたしは己の欲を抑える為に言葉に出し、

『早苗さんの判断の下地を整えるのは友達として当然の事。羽藤柚明が望む答が出る様に、
情報を止めたり加工したり偽ったりするのは、早苗さんの為ではないわ。己の為の行い
よ』

 誤解は誤解と確かに伝える。分って貰う。
 広田君にも想いを整理して、伝えて貰う。
 早苗さんが事実を前に判断を下せる様に。

『本当は少し怖い。男の子が女の子と恋し合うのは世の常だから、広田君が想いを正直に
真剣に早苗さんに伝えたら、早苗さんはそれを受けるかも知れない。淋しいけど、でも』

 歌織さんが、お手本を見せてくれたから。
 疑問符を双眸に浮べて見つめ返す彼女に、

『わたしが早苗さんに間近に添う事を許し認めてくれた。早苗さんの信頼を分け合う事を
望んでくれた。【やや視える】体質への対応を知るわたしは、彼女に役立てて幸いだった
けど、その為には時に間近に添う事が必要で。信頼を繋ぐ事が必要で。歌織さんはそんな
わたしを、怖れを越えて、受け容れてくれた』

 早苗さんを守る事をわたしに許してくれた。
 あなたの前で己可愛さに醜態は晒せないよ。
 視線を向けると歌織さんは微かに頬を染め、

『私は……私も、柚明は好きだったからさ』

 早苗以降初めてだよ、心を奪われたのは。
 賢さも美しさも優しさも静かな強さ迄も。
 中学校入った年の初夏、憶えているかい?

 あんたが美子や弘子達に、難癖つけられていた頃。あんたはそれを叩き返すのでもなく、
やられっ放しでもなく、逆に心通わせようと。卑屈もなく敵意もなく、頭数揃えた彼女達
に1人でも自然に対峙して接点を求め、でも譲れない処は譲らず。静かな強さに心惹かれ
た。

 あいつらとは小学校時代からの因縁だけど、あたしは叩き返す他に術を知らず。相手と
心繋ごうなんて想いもせず。しかもあんたと関ってから弘子も美子も変ったよ。何て言う
か、友達にしても良い様な感じに、なって来てさ。

『あんたが鴨川さんや和泉と深い仲なのは分ったし、白川や朝松に振り回されつつ大切に
想う様も見ていたから。部活でも後輩に慕われて、私が分け入る隙はなさそうに見えて』

 あの初夏あんたに積極的に関らなかった事、結構悔いたんだよ。早苗も積極を望んだの
を、危ういからと私が消極に留めたんだ。早苗を少し巻き込んでも、積極に関るべきだっ
たよ。

 だからあんたが早苗の事で関ってきてくれたのは、私が嬉しかった。早苗を想ってくれ
た事も、早苗の力になってくれた事も、それで私に身近になってくれた事も。私が男なら、
早苗がいながら柚明に浮気って話しなのかね。

『そう言う私が言うのも何だけど。広田があんたの導きで誤解を解いて、早苗に想いを告
げて答を返される様を、整えるのは怖い…』

 それが早苗の為だって分っても尚。そうする事が本当に早苗を想う事だって分っても尚。
私が広田の想いを察せられなかったのは、察したくなかった所為かもね。あんたは強いよ。

『震えを、分け合って貰えるかい、柚明?』

 早苗の心が奴に向くかも知れない怖さを。
 それを整え見守り妨げられない悔しさを。

『あたしは全然強くはないけど、脆いけど』

 あんたが一緒に支えてくれるなら、強くあれる。独りぼっちじゃなく、想いを交わせる
誰かがいてくれれば、交わす場の形が残れば。

『嘘でも強さを装える様に、私を支えて!』

 わたしは歌織さんの涙を胸に抱き留める。
 自重を強く促されても誤解を招こうとも。
 彼女の綺麗で強い想いは受け止めないと。

『篠原歌織は、羽藤柚明のたいせつな人…』

 早苗さんも歌織さんも、一番にも二番にも出来ないけど。それでも尚、わたしの為せる
限り、想いの限りを届かせたいたいせつな人。

『あなたを絶対独りぼっちにはしない。わたしがいる。誰がいなくなっても羽藤柚明が』

『柚明……あんたといると、あんたが望んで被る損迄一緒に被る。でも、それが嬉しい』

 心が鎮まるのを待って教室に帰ったわたし達は、まず早苗さんに広田君が密告者ではな
い旨を分って貰った。わたしが密告者の名は伏せつつ特定している事、手芸部関係者であ
る事迄明かすと、早苗さんも納得してくれて、

『女性ですか、密告の主は?』『なる程ね』

 柚明の人気を妬んでいる奴が、手芸部にもいるって事かい。クラスで流される悪い噂も、
柚明への嫉みや妬みらしいけど。正面から罵れる広田に、最初から密告は不要だった訳だ。

『誤解を解く為に2人でお話して貰う方が良いと思うの。彼も謝りたい事がある様だし』

『宜しいですの、歌織ちゃんは?』『ああ』

 少し詰まり気味だけど意志を定めたその答に、早苗さんは消極的な了承を返してくれて。
 次に歌織さんと2人で広田君を呼び出して。広田君が密告者でない事は分っている、早
苗さんも納得し、誤解を謝りたいとのお話しを。最初は歌織さんと2人で対決に来たかと
身構えていた彼は、話の中身に拍子抜けした様で。

『でも、あなたにもきちんと謝って欲しい』

 密告の誤解は早苗さんだけど、それ迄広田君はいっぱい彼女に意地悪してきたでしょう。
その事をきちんと謝らないと事は進まないよ。

『進まないって……一体、何の話しだよ?』
『部外者に言わせる事では、ないでしょう』

 心をきちんと整理して本心を打ち明けて。

 わたし達が整えるのは、早苗さんが抱いた誤解を謝り、広田君が今迄為してきた意地悪
を謝って、友達として和解する迄だ。その先は歌織さんもわたしも立ち入るべきではない。

 恋人関係は周囲が促したり阻んだりする物ではない。場を整えたり状況を用意する位は
しても、想いを勝手に代弁しては拙い。それは当人の意思と言葉とタイミングで為すべき。

 2人が旧校舎裏の大木の下で逢って、何を話したのか正確には分らないけど、感応の力
を使う必要は感じなかった。2人は少しぎこちなかったけど、概ね順調に話は進んだ様で。

『一緒に肝試しに、行く事になりました…』

 早苗さんは『やや視える』体質故に、墓場や廃屋に行けば視えたり持ち帰る感触が分る。
心霊遊びは好まない。唯早苗さんも誤解した負い目と意外に率直な謝罪と好意に断り難く。
歌織さんとわたしが伴う事を条件に承諾して。

『宜しいでしょうか、歌織ちゃん柚明さん』
『今更何を、早苗の求めは断る私じゃない』

 巧くやれば2人きりの場も作れ、適度な緊迫感もある。舞台設定は悪くない。早苗さん
がそう言う処に行くなら、わたしも添うべき。

 問題は広田君が最近クラスから浮き気味で、応じる者が少ない事で。女子は真沙美さん
と美子さんの声かけで、何人か参加をお願いできた。男子は歌織さんと2人で委員長の高
原君に話を持ちかけ、人柄の穏やかな佐伯君に協力を頼み。更に単独で、参加を渋る堀田
君と中村君に広田君の誘いに応じてと頭を下げ。

 早苗さんと広田君の舞台の形は、整った。


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 商店街外れの廃ビルは、数年前に倒産した百貨店だ。夜に高校生や中学生が入り込んで、
幽霊を視たと噂が流れ出たのもその頃からで。日中通り掛っても特別な気配は感じなかっ
た。

 詩織さんの家の様に、陽が落ちれば希薄な想いの残滓が顕れ視える位なのだろう。それ
は人が起居していた場所にほぼ必ず伴う事だ。人に害を為せる程の霊体は、熊や獅子を倒
す人程に稀少で、いれば日中でも即感じ取れる。

 基本怖れる事はない。心配は、視えた人が混乱を来して、自らや周囲を傷つける事位だ。

 四階建てビルの裏口で開いた扉を前にして、

「男子は斉藤、佐伯、俺高原に、中村、広田、堀田の6人、女子は川中、篠原、島崎、野
村、羽藤、塙、結城、吉川の8人。五十音順で男女1人ずつペアを組んでも、女子が余る
な」

 高原君が男女の偏りに悩む前に答を出す。

「わたしは、歌織さんと一緒に回りたい…」

 わたしと歌織さんが抜ければ早苗さんが広田君とペアになる。既成事実を作る感じで歌
織さんの右腕に両腕を絡め、皆の了解を貰う。歌織さんに噂が行かぬ様に申告はわたしか
ら。

「1階から4階のエレベーター前に、缶ジュースを置いてきた。エレベーターは動いてな
いから、各組とも階段を伝ってエレベーター前迄行って、ジュースを1個ずつ取ること」

 各階の缶の銘柄は違うのでずるは利かない。階段はエレベーターの反対側なので各階を
ほぼ横断する事になる。電気は点いてないけど、高原君が夕刻前ジュースを置きに入った
時は、汚れも少なく割れたガラス等もなかった様で。

 ビルの家主が高原君の親戚で真沙美さんとも懇意な事、学校祭関係で銀座通中がお得意
様な事が、夜分の立入に了解を頂けた要因か。

 最終組になったわたし達は、各ペアが出ては入るのを見守りつつ順番を待つ。一つ前は
早苗さんと広田君だけど、結構な時間が経っても出てこないので、わたし達が急かされた。

「一番拙い処に割り込んじゃうかも」「なら、逆に他の奴に様子見させる訳に行かない
さ」

 わたし達が行かねば、他の人が様子を見に行くかもという歌織さんの危惧も分ったので。
微妙な間合で手探り気味に、最終組は出立し。

 気配は2人とも4階にあるけど、そこから動く様子がなく。怪我や気絶は感じないけど、
少し心が乱れている。早苗さんの怯えは視てしまった故か、或いは広田君の告白の所為?

 行く前に両手を握って力は流し込んだから、それを嫌って希薄な霊は寄り付かない筈だ
し、早苗さんの感覚も多少操り視えない様にした。効果は一時的だけど、一晩位は充分保
つ筈…。

 広田君がしっかりした気配なのと、早苗さんも恐慌状態ではなさそうなので、状況を知
らない筈のわたし達は、1階から順番に進む。懐中電灯を持った歌織さんの左間近に添っ
て、

「あんたは視えるのに、闇は怖くないんだ」
「危険なモノだったりしたら、怖いけど…」

 わたしは修練の成果で夜でも目を閉じても、山道も坂道も不自由なくなりつつある。ま
だ不完全だけど懐中電灯で照せば歩みは危なげなく。女の子としては可愛げがなかったか
も。

「中途半端に視える方が危ないってかい?」

「視える事は良くも悪くもない。要は視た人の応対で、経験なの。言い伝えや親族に視え
る人がいて蓄積があるのと、自分の経験だけで考えるのでは、確かさが違うでしょう?」

 恋愛と似て、学校で教えてくれる事ではないから。実態は9割9分迄害にならない程の
モノだから、必修科目には要らないんだけど。

『視える』早苗さんに接してきた歌織さんは、わたしのお話を疑いもせず率直に受け容れ
て。

 1個目の缶を持って、2階に向かう。

「早苗が視える人だって知ったのは?」
「実は……初めて逢った時から微かに」

 1年の時も、気は配っていた積りよ。

「早苗さんの体質は余り強くないから、問題が生じなければ手をつけない選択もあると思
っていた。でも、思春期を迎えると中々そうも行かなくて」「それって、もしかして?」

 月のもの、月経、生理。初潮と言うべきか。
 わたしも歌織さんも頬が熱を帯びたと想う。
 思春期のわたし達に身近な話題だったから。
 早苗さんの月一回の体調不良もそれによる。

「早苗さんは女の子になり始めた。その変化が体や心を揺らせ、資質を揺り起こしたの」

 少年少女や若者が心霊を視易いのは、心も身体も不安定で魂の波長が合ってしまうから。
資質が揺り起こされるから。大抵はその覚醒も一時的で、じきに収まり視えなくなるけど。
視えても彼らが何か及ぼせる訳でもないけど。

「不安や怖れは心に生じる物。拭わないと」

 受け止めないと、抱き包まないと、震えを内側から止められないなら、この身で止める。
その所為で人に誤解を受ける事もあったけど。でも誤解を晴らす事は心霊を正面から認め
る事に繋る。世の中の常識に挑戦する事になる。

 それはわたしより、早苗さん達の為にならない。そしてわたしに纏わる騒擾が、羽様の
家族、わたしのたいせつな幼い双子、桂ちゃんと白花ちゃんに及ぶ怖れも考え併せたなら。

「解かない方が良い誤解も、世にはあるの」

 誤解を解けない侭慕ってくれる後輩も、友達も、先輩もいる。わたしは身に余る程幸せ。
本当は誤解を解かない事は、誤解を抱く相手に対し非礼な事だと想う。申し訳ないと想う。
でもどうしても守りたい人がいるから。心の中で毎日頭を下げ、いつも感謝の心を抱いて。

「叶う限り助けさせて欲しい。守らせて欲しい。力にならせて、救い支えさせて欲しい」

 歌織さんも早苗さんも、広田君も他の人も。

 2個目の缶を取って、3階に向かう。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「あんたには、一度謝っておきたかった…」

 歌織さんの声はやや覇気に欠けて小さく、

「私は今迄あんたを好みつつ、怖れていた」

 懐中電灯の光が前方よりやや下に向いて、

「早苗を深く想ってくれていながら、私の大切な早苗を何度となく庇い助けて貰いながら、
私はあんたを好みつつ、心のどこかでずっと隔て続けてきた。今迄怖れ嫌い続けてきた」

 あんたは全てお見通しじゃ、ないのかい?

「私は柚明を好きだけど。今迄も今も話せば話す程、触れ合えば触れ合う程、惚れ込む自
分が分るけど。綺麗で優しくて強い。だから、あんたに早苗の心も奪られると、怯えて
…」

 去年初夏に、早苗の柚明に関りたいとの望みを私が止めたのは、確かに柚明がカモケン
達との絡みで、危うく見えたのも事実だけど。早苗の瞳の輝きが違って見えて怖かったん
だ。

 柚明はお化けから早苗を支え守ってくれて、広田からも庇ってくれて。有り難かったけ
ど、傍にいられて私も嬉しかったけど。柚明に惹かれ行く私は、早苗もそうなるのが怖く
てさ。

「……あの密告を、幸いに思った私がいた」

 先生の警告で、柚明が早苗に近づけなくなると喜ぶ私がいた。事情聴取には何も嘘を加
えなかったけど。広田も叱られて動きが鈍り、柚明も遠ざかれば私だけが残るという囁き
が。

 私では広田の奴を退けられなかったのに。
 私では視える悩みには対応できないのに。
 私に早苗は守れないのに、力不足なのに。
 柚明に頼らないと全然及ばなかったのに。

「早苗の役に立って心通わせる柚明に怯えた。

 私が柚明を早苗の傍にいる事を認めたのは、早苗の為じゃない。私が柚明の傍にいたか
ったからだ。それを認めつつ、早苗の心が柚明に流れるのを怖れ、2人の間に挟まり続
け」

 唯数年出逢いが早かったって言うだけで。
 本当に早苗の役に立った訳でもない私が。
 早苗を己の物扱いし柚明との間に挟まり。
 それは早苗の為じゃなく、己の欲の為で。

「なのにあんたは私と違って、広田の恋心を察して告白の場を設定しようと。自分の欲じ
ゃなく、早苗の為だけを考え続けて。早苗が広田の想いを受け容れる事迄も覚悟して…」

 どこ迄も相手の事を想いやる。自分との幸せを望むんじゃなく、相手の幸せだけを望む。

 早苗の為にはあんたにいて貰いたいのに。
 あんたが早苗の心を持って行くのが怖い。
 早苗の為じゃなく歌織の為に柚明は邪魔。

 でも本当は歌織は柚明も心から大好きで。
 愛しいけど邪魔で、恋しいけど嫌い怯え。

 でも絶対私はあんたの想いには至れない。
 綺麗で優しくて強くて、どこ迄も無私で。

「私にはそこ迄純粋には徹しきれないよ!」

 早苗が私の1番だ。一緒にいて貰いたい。
 私と一緒に、日々を過ごして欲しいんだ。
 誰かの物になって欲しくない。今だって、

「柚明の申し出を、広田の告白を認めたのは、もうすぐ奴が転校していくと分っているか
ら。例え早苗が受け容れても、二学期終るのを待たず拾二月に銀座通中からいなくなるか
ら」

 あいつは転校する者への特別な雰囲気を嫌って公表してないけど、中村から聞いたんだ。
あいつが早苗に最近頻繁に手を出す様になったのは、もうあいつに時間がないからだって。

「勝ったって、想った。醜いけど、情けないけど、己の手で何か為した訳でもないのに」

 形が壊れれば想いは崩れる。学校が違って、遠くに住む様になったら中学生の恋愛なん
て、途切れて消える。そうじゃなかったら、私は。こんな心中早苗に見られたら軽蔑され
るかな。

「早苗の為じゃなく、己の為に喜んでいた」

 それでも見捨てられたくない。早苗の傍に残り続けたい。柚明に及ばなくても、広田を
退けられなくても、私は早苗の一番でいたい。私の好きな結城早苗を奪ってしまわない
で!

 細い両手がわたしの胸に強く取り縋って、

「あんたには他にもいっぱいいるじゃないか。鴨川さんも和泉も、日頃たいせつだって言
っている幼い双子も、手芸部の後輩達だって」

 一番じゃない想いで、私の一番たいせつな早苗の心を奪ってしまわないで。お願いっ!

 その瞳から美しい雫を溢れ散らせていた。
 その渾身の想いを受けてわたしは静かに、

「……結城早苗も、篠原歌織も、羽藤柚明のたいせつな人。2人とも、一番にも二番にも
出来ないけど、この身を尽くし捧げたい人」

 震える歌織さんの肩を正面から抱き留め、

「愛しい歌織さんが哀しむ事は、したくない。歌織さんを涙させる事は、望まない。ごめ
んなさい。わたし、歌織さんの優しさに甘え」

 踏み込んではいけない処迄、踏み込んだ。
 歌織さんに不安を与え、心引き裂く処迄。
 頬に頬、首筋に首筋、胸に胸を合わせて。
 温もりと肌触りでその身と心を鎮めつつ。

「早苗さんの想いをわたしが否定は出来ない。仮に早苗さんがわたしを望んでくれるな
ら」

 早苗さんに想われている事実は否定しない。
 歌織さんに想われた事実を否定しない様に。

 早苗さんの想いをわたしが否定は出来ない。
 歌織さんの想いをわたしが否定できぬ様に。

 2人の想いが確かに嬉しい己も否定しない。
 だからわたしは誰の想いにも渾身の返しを。

「早苗さんは歌織さんを、特別たいせつに想っている。今も変らず、愛しく想っている」

 その上でわたしに想いを向けてくれるなら。
 全力でその想いを受けて返す他に術はない。

「早苗さんの判断をわたしは縛れない。早苗さんが誰を一番に想うかは早苗さんが決める
物。怖くても淋しくてもどうにも出来ない」

 わたしは、歌織さんと早苗さんの2人とも1番にも2番にも出来ない。申し訳ないけど、
心底申し訳なく悔しいけど、どうしても譲れない人がいる。その為にわたしは、和泉さん
も真沙美さんも、一番にも二番にも出来ない。でもその中でわたしは己に尽くせる限りを
尽くし、捧げられる限りを捧げます。その想いと行いが、早苗さんの一番の想いを招くな
ら。

「あなたを独りにしない。わたしはわたしのたいせつな人として、歌織さんを交えて早苗
さんに対するわ。歌織さんが早苗さんに抱く想いを助け支える。広田君の想いを届ける場
を整えた様に、あなたにも身を尽くしたい」

 あなたが抱く想いを早苗さんに分って貰える様にわたしが努める。わたしの想いは譲っ
たり諦めたり出来ないけど。早苗さんから寄せられた想いは拒めないけど。あなたの想い
を助ける事なら出来る。全身全霊尽くすから。

 役に立つ事が絆を繋ぐ訳じゃない。心霊や男の子から守る事が決定打になる訳じゃない。
想いを深く通じ合わせる事が、真の決定打に。だから絶対諦めないで、わたしが支えるか
ら。

「一緒に早苗さんを想いましょう。そして」

 その末に彼女があなたを一番に想ってくれるなら、あなたの成就よ、歌織さん。あなた
の幸せはわたしの幸せ、あなたの成就はわたしの成就。わたしは喜んで二番を受け容れる。

「一番にも二番にも出来なくても、結城早苗も篠原歌織もわたしのたいせつな人。にこや
かに日々を過ごしてくれるのがわたしの望み。わたし達の関係は、今から始る。始めさせ
て。諦めないでお互いもっと女を磨きましょう」

 左の耳元に、触れ合う頬が動いて呟きが、

「あんた、賢いのに、あり得ない程に馬鹿」

 競争相手を蹴落とすんじゃなく、引っ張り上げ続けると心底約束する女がどこにいるの。
早苗を奪らないで、引き下がってとお願いした私も情けなさと愚かしさではかなりだけど。
普通そう言う都合良い約束は信用性ゼロなの。裏で舌を出して嘲笑う柚明が見える筈なの
に。

「信じちゃうよ。私、あんたのあり得ない約束を、信じちゃうよ。本当に良いの……?」

 どうしてそこ迄出来るの? 密告受けて先生に注意された柚明を喜んだ私を、早苗を守
り支え役立つ柚明に怖れ怯えた私を、なぜ? 早苗が柚明の一番の人じゃないからなの?

「結城早苗は、羽藤柚明のたいせつな人…」

 一番でも二番でもなくても、譲ろうとか引こうとか想わない。一番に想ってくれるなら、
わたしは等しい想いを返せないからこそ、絶対自らは譲らない。唯、そうね。わたしはあ
なたに役立ちたいの。羽藤柚明は篠原歌織の幸せと守りに尽くしたい、身も心も捧げたい。

「あなたは、わたしのたいせつな人だから」

 返されたのは、声にならない嗚咽と雫で。
 暫くはお互い言葉もなく、身を抱き合い。
 腕は互いの背中だけではなく想いを温め。
 哀しみや怖れの故ではない雫を頬に受け、

「さあ行きましょう。たいせつな人の処へ」

 3つめの缶を手にとって、4階へ向かう。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「……篠原と羽藤かよ。丁度良い」

 四階奥のエレベーター前で、座り込む早苗さんを前に立ち尽くしていた広田君が、不機
嫌と言うより怒気を抑えた声で向き直るのに。

「早苗、大丈夫かっ……!」「歌織ちゃん」

 足元不確かな中を2人疾駆し、早苗さんの間近に辿り着く。歌織さんが早苗さんを抱き
起こし、わたしはその様を背に広田君に対し。

「広田、お前……早苗に、何をしたっ…!」

 早苗さんを抱き留める役を任せたのは正解だった。わたしが2人を庇う様に広田君に正
対するのは、彼を警戒してではなく、むしろ彼の相手を担う事で、歌織さんを抑える為で。

 歌織さんに返る答は広田君の声ではなく、

「……歌織ちゃん、待って……違うの……」

 広田君はわたくしに指一本触れていません。
 わたくしが広田君に謝ろうと座り込んだの。

「ごめんなさい。広田君にも、柚明さんにも、歌織ちゃんにも。わたくし、己を偽って
…」

「……早苗、あんた、一体何を?」

 歌織さんの腕の中で、声は小さく震えて、

「わたくし、広田君がもうすぐ転校すると知って、最後の想い出になればと、彼の想いを
受けようと己の心を偽りました。本当は受ける積りのなかった彼の告白に応え、キスを受
けようとして、怯えてやっぱり出来なくて」

 広田君の想いも、柚明さんや歌織ちゃんの気遣いも分ったから。最後だから、終りの見
えた恋なら半月位、己を偽っても良いかもと。でもそれは広田君や歌織ちゃん達迄偽る事
で。

「早苗、あんたも、広田の転校の話を…?」

「はい、堀田君から伺いました。柚明さんがこの肝試しを成功させたくて、最近広田君に
距離を置いていた堀田君と中村君に、広田君の誘いに乗って欲しいと頭を下げに来たと」

 最後だから2人とも付き合おうかと言って。何故かと問うと彼が家の事情で引っ越す為
と。

「本気で受ける積りのない侭、告白に応えようとしてしまいました。その末に怖くなって、
申し訳なくなってギリギリで拒んでしまい」

 歌織ちゃんも柚明さんも、わたくしに判断を委ねて下さったのに。私が確かに答を出さ
なければならなかったのに。信頼されたのに。

 広田君が思ったより素直な良い人で、密告者だと誤解した事が心苦しくて、もうすぐ去
ってしまうと知って。わたくし、少しの間なら己を偽ってもと。歌織ちゃんも柚明さんも
分ってくれると。受け容れてくれると想って。

 でも実際に唇を近づけられて怖くなって。
 本当に想いを返す段になって震えだして。
 本当に心許した人ではないと身体が拒み。

 歌織ちゃんも柚明さんも許して下さるでしょうけど、自身に許せないと気付いたんです。

 歌織ちゃんや柚明さんの深い想いに、偽りで応える結城早苗で良いのかと。広田君の本
気の告白に、偽りで応える結城早苗で良いのかと。みんなにそこ迄真剣に想われた結城早
苗が、それで良いのかと。良い筈がないと…。

「広田君、ごめんなさい。わたくし、あなたの想いは受けられない。わたくしには別に」

「そんな気はしていたんだよ。ちくしょう」

 広田君は苦虫を噛みつぶした苦い表情で、

「何か巧く行きすぎだと思っていたら、やっぱり可哀相な転出者への最後の思いやりか」

 だからみんなに言わない様にしていたのに。

 今迄何も俺を見てなかった奴らが、転校すると決まった途端態度を変える。どこかのロ
ーカル線の最終電車みたいな物だ。廃止になる迄見向きもしなかった連中が突如続々来て
賑わって。その百分の一でも毎日乗ってくれていれば、その線は廃止にならなかったのに。

 どいつもこいつも、転校生としか見ない。
 広田剛をそれ迄の俺を、誰も見ていない。

 突然扱いが転校生になる。全部特別扱いで、もうすぐいなくなるとその後の頭数から外
し。

「お前達までそうなのか。どうせいなくなる奴だから、告白の場を用意しても後腐れがな
いと。キスしても告白受けても恋人になっても、半月で終るから気にしないと。お前ら」

 遊び半分で、俺の告白受けようと偽って。
 いなくなる奴だから、最後の想い出にと?

「ふざけやがって。誰がそんな物望むかよ」

 どいつもこいつも、最後最後最後最後と。
 俺がいなくなると前提に、前提に動いて。

「ごめんなさい、広田君。悪いのはわた…」
「……お前だって、そうじゃないか……!」

 広田君の怒号に掻き消されそうな早苗さんの謝罪を、その口を指で押さえて止めたのは、

「お前だって、最後を意識して早苗に頻繁に手出ししてきたじゃないか! ふざけるな」

 歌織さんの男言葉が広田君の声を止めた。
 早苗さんを抱き起こした侭全身を震わせ、

「半月前迄関りのなかった早苗に突然手出しを始めたのは何でだい? 早苗を涙させたり、
威かしたり困らせたりしたのは、お前が最後に接点を望んで焦った為じゃないのかい?」

 転校する事も言わずに、告白したのかよ。
 受け容れられてから捨てる気だったのか。

 早苗の真剣な答を受けた後で、はい転校しますで、お前は想い出を作れて良いかも知れ
ないけど、早苗の想いはどうなっていたんだ。お前こそ遊び半分で、早苗を何だと思っ
て?

「早苗に謝れ! 手を付いて早苗に謝れ!」

 屈み込んで早苗さんを抱き起こした姿勢の歌織さんと、立ち尽くした広田君が睨み合う。
間に立っていたわたしは歌織さんに屈み込み、

「歌織さん……憤りを、抑えて。お願い…」

 広田君の為じゃなくて、早苗さんの為に。

 抱き支えられた早苗さんの頬に触れ、癒しの力を注ぎつつ、歌織さんの視線を招き寄せ。

「早苗さんが歌織さんの怒気に怯えている」

 己の判断が禍を呼んだと悔いている。これ以上の罵り合いは、早苗さんの心を苛むだけ。

「……柚明」「柚明さん」「羽藤……」

 早苗さんの震えに気付いて、少し怒りを緩めた歌織さんに、早苗さんを委ねてわたしは、

「広田君、ごめんなさい。わたしの所為で」

 一歩前に出て、床に膝を付き手を付いて。

「今回の事は全てわたしが責めを負います」

 今回の一連の事は、わたしが歌織さんに協力を頼んで始めたこと。早苗さんも歌織さん
も悪くない。この末を招いたのはわたしです。

「柚明は悪くないだろう。あんたは唯…!」

 歌織さんの気遣う声に、かぶりを振って、

「こういう事は結果責任。結果が巧く行かなければ、最初に意図した人が責めを負う物」

 誰が悪いとか失敗したとか問うのは無意味。
 みんなに憤りや哀しみを招いた源はわたし。

「早苗さんにも、歌織さんにも、広田君にも、ごめんなさい。みんなの間に、怒りや疑念
や行き違いを招いた原因は、わたしにあります。わたしがみんなに償います。許して下さ
い」

 まず広田君に謝るけど、謝罪はこの場の全員に。この事態を招いたのは、わたしだから。

「お前が、俺に償うっていうのか。羽藤…」

 見下ろす彼の喉が鳴る音が微かに聞えた。
 わたしは正座した侭で面を上げて見つめ、

「広田君の受けた心の傷を、元通りには出来ないと想うけど、出来る限りの事はします」

 早苗さんも歌織さんも悪くない。そう了承して頂いた上で、許して頂けるならわたしが。

「柚明、あんた!」「柚明さんっ……」

「いいのかよ。俺は男で、お前は女なんだぞ。そんな事気軽に言って、本当に俺が求めた
時、お前応えられるのか? もし俺が結城に望んだ事を、代りに受けろと言ったら、お前
…」

 わたしは姿勢を変えずゆっくり声を紡ぎ、

「それで許して頂けるなら、自ら望みます」

 広田剛は、羽藤柚明のたいせつな人です。
 最後だとか、転校するとかは関係なしに。

「あなたを一番にも二番にも想う事出来ないわたしだけど、あなたの為に尽くさせて…」

 歌織さんも早苗さんも緊張に固まって声が出ず。唯暗闇と沈黙の中、彼の答だけを待つ。

「羽藤、俺はさ」「ダメですっ!」

 広田君の声を遮ったのは、歌織さんの腕の中から抜け出して、正座した姿勢のわたしに
取り縋る早苗さんの叫びと動作だった。わたしの左から覆い被さる様に、身を触れ合わせ、

「柚明さんが良いと言っても、わたくしが」

「……結城」「早苗さん」「早苗……」

「柚明さんは、歌織ちゃんと同じく結城早苗の一番綺麗な人です。お2人を想い返した時、
広田君に身を委ねる事が出来なくなりました。わたくしは歌織ちゃんと柚明さんに、お友
達以上の好意を抱いているのかも知れません」

 だからこそ、その清らかさが失われる様を、黙って見てはいられません。どんな事情や
理屈があっても、わたくしの綺麗な人が、目の前で汚されるのは嫌です。どうしても嫌で
す。

「お願い。柚明さんを奪ってしまわないで」

 見せた事のない彼女の必死に広田君が一歩退く。彼は本当に早苗さんを好いていたから。
想いを全て注ぎ込んだ願いへの、答は一つで。

「……良いよ、別に。俺はもう……」

 返された答は、一度わたしから視線を外し、

「男女も、女男も好みじゃないから」

 悪かったな。その、結城も篠原も、羽藤も。

「帰ろうぜ。肝試しは、おしまいだ」


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「ごめんなさい、歌織ちゃん。わたくし…」
「良いから……もう、何も言うんじゃない」

 広田君は少し前に降りて行った。わたし達の時間を空ける為に、入口傍で待っていると。
彼の抱いた早苗さんへの好意は、本物だった。

「柚明さんにも、ごめんなさい。わたくし、自身の想いを押し通してお話しの邪魔を…」

「ううん。助かったわ。……嬉しかった…」

 座り込んだ侭の早苗さんを、左右から挟む感じでわたし達は、もう少し様子が落ち着く
のを待って降りようと。伸ばした手で互いの身に触れて、埃を払ったりしつつ時を過ごし。

「覚悟はしたけど、少しだけ怖かったから」

 広田君は早苗さんの代りに、早苗さんの目の前でわたしを奪う様な人ではないと、分っ
ていたけど。それでも申告に覚悟は不可欠で。本当に一度は、唇を合わせる積りだったか
ら。

「柚明も早苗も、こう言う時には剛胆だね」

「必死でした。身も心も未だ震えています」

「有り難う。わたしの為にそこ迄してくれて。
 余計な事を為して迷惑掛けたわたしに…」

 歌織さんにも早苗さんにも申し訳なくて。

「歌織さんと早苗さんにも今回の事には償いをします。早苗さんには、更に恩返しも…」

「そんな柚明、要らないよ。私も早苗ももう、あんたとは浅からぬ仲なんだしさ」「い
え」

 歌織さんが謝絶を口にする脇で早苗さんは、

「折角なのでお願い致しましょう」「え?」

 歌織さんの、それ求める場面かいとの顔に。

「歌織ちゃん、今宵はわたくしも泊めて下さいませ。柚明さんと歌織ちゃんと3人で、夜
を語り明かしたいの、一緒に」「早苗…?」

 羽様に住む柚明さんが経観塚で夜を過ごす事は中々ありません。わたくしもこの後でお
願いしようと想っていたのです。この際柚明さんと歌織ちゃんに、わたくしを抜きに2人
で進めていた裏側を洗いざらい白状頂きます。

「うっ、まず」「それは……」

 言葉も思考も詰まっても、早苗さんの話しは流れる様に進んで行って、結論に漂着して。

「お2人とも、宜しいですね」

 わたしと歌織さんの了承の頷きを得てから、早苗さんは満面の笑みを浮べつつ立ち上が
り。小休止はおしまいだ。後は降りるのみだけど。

「……視えたのかい、早苗?」「少しだけ」

 足がピクと止まった早苗さんの強ばる顔色に気付いた歌織さんが、帰路を見つめるけど。

「私には全く視えないんだよね。柚明は?」
「人の想いの残滓が拾五、拾六……弐拾弱」

 早苗さんに視えているのは半分位かしら。
 どれも希薄で害を為せない程度のモノよ。

「大丈夫です。あの位なら、何度も見て…」

 己を保ちつつ不安を隠せない早苗さんの後ろから軽く両肩に手を乗せて、力を注ぎ込み。
それは彼女の心と身体の強ばりを解きほぐす。彼らを怖れる必要はない。心配は、それを
見て心乱された人の行動や反応にある。だから、

「悪意も害意もない。唯ここに佇んで、場の形がある限り、漂い続けるだけのモノ達…」

 ずっといたモノだけど、早苗さんさっき心を乱したからわたしの整えた力が崩れたのね。
それで、やや視える状態になってしまったと。

「って柚明、あんた毎日毎夜見ているの?」

 というか今も早苗が気付く迄ずっと1人。
 やや唖然とした歌織さんの呟きに頷いて、

「うん。見慣れれば、怖いモノじゃないよ」

 歌織さんも視てみる? 今のわたしなら、

「歌織さんの意識を視える状態に、一時的に合わせる事も出来る。早苗さんがどんな物を
視て感じているのか、知りたいと望むなら」

 普段ならこんな申し出はしない処だけど。
 力の所持を明かす愚行だとは承知の上で。

 わたしはこの2人に怯えられ怖れられても。
 わたしが寄せる想いは微塵も変らないから

「……ああ、頼むよ」「歌織ちゃんっ……」

「早苗の悩みの実態は、知っておきたいよ」

 頼む。微かに震える右肩に、左手を乗せ、

「ひゃっ……あの、もやもやした縦長の粘土人形みたいなのが、幽霊? 気持悪い……」

 早苗や柚明はこんな物を視ていたのかい。
 怯える事はないと言われても気味悪いよ。

「1人じゃないから怖さを抑えられるけど」

 話しても分って貰えず、分ろうとしても理詰めじゃ届かないと実感した。夜に1人で向
き合ったら震え上がって泣き出すよ。それに、

「早苗を視えなくしたり、あたしを視える様にしたり。柚明じゃなきゃ、こうして心繋い
だ相手じゃなきゃ、絶対怖いよ。あんたが」

 歌織さんは振り向いて頬に頬寄せてきて、

「だからその身で私の怯えと震えを止めて」

 早苗さんの目の前だけど正面から合わせ。

 わたしへの怯えを隠さず、でもその上で信頼も確かに抱くと肌を合わせて伝えてくれる。
わたしの在り方を信じて、身を委ねてくれて。

「漸く早苗の気持が少し分った。さんきゅ」

 抱擁を外すと早苗さんと一緒に霊を向き、

「帰り道塞がれているけど、大丈夫なの?」
「多分大丈夫です。害意もなさそうですし」

「塞いでいる積りではいないのよ、彼らは。
 多分ここの店員さん達ね。来客が来ると」

 場の形があり続ける限り店員として顕れ。

「そりゃ店員さんなら接客に出てくる訳か」
「さぁ帰りましょう。心をしっかり保って」

 問題は彼らではなくこちらの受け止め方。

 早苗さんの右にわたしが、左に歌織さんが手を繋ぐ。実はそこ迄堅い守りの必要もない
のだけど、適度な密着感は肝試しの醍醐味だ。後は普通に歩いて帰る。霊は身体がすり抜
ける程希薄で、その薄さ故に生きた人が近づくだけで風圧に押された様に揺らめいて、モ
ーゼの様に道を造る。廃ビル1階で広田君に合流し、待ちかねていたみんなと共に撤収す
る。でもわたし達の時間はむしろそれから始って。

 晩秋の経観塚は、とても暑いとは言えないけど、わたし達の夜はとても熱くなりました。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 学校祭を間近に控えた家庭科準備室で、わたしは中央の大きなテーブルに己の品を並べ、

「ゆめい先輩、狩衣すごい。それに巫女服」
「アオザイにチャイナにサリーに、あなた」

 南さんや梢子さんに誉めて貰えて嬉しい。
 ちょっと根を詰めて頑張った甲斐がある。

「わぁ、未だあるよ。しかもサイズも沢山」
「着る人のサイズも考え大小作ってみたの」

 狩衣は真弓さんの本物を参考に出来ました。巫女服はオハシラ様の祭祀用に、笑子おば
あさんが作ってくれた物の習作です。他の衣装は図書室で資料を取り寄せ、見よう見まね
で。色や肌触りが近い生地を探すのが大変でした。

 自身の前に当ててみたり、他の人の前に当てて眺めてみたり。袖や裾を手にとって肌触
りや縫い目を確かめたり。流石は女の子です、わたしも含めてみんな暫く、飽きもしませ
ん。

「みんな『なんちゃって』の物だけどね…」
「凄いわね。これだけあれば、華やかだわ」

「羽藤先輩、部室にいる時はわたし達のお手伝いや教えてくれてばかりで、殆ど自分の作
業やれてないのに。これが家内制手工業?」

「手芸部の強みは、持ち帰れる処だから…」

 串田先輩と知花さんの賞賛に、少し恥じらいつつ頷いて。そこでふと気付いたわたしは、

「倉田先輩は、今日は来てないんですか?」
「聡美? 今日は顔を見せてない様だけど」

 クラスの出し物の準備に行ったんだと思う。
 串田先輩の答にわたしが首を傾げたのは…。

「「羽藤、さん?」」「ゆめい先輩?」

 高岡先輩と間淵さんと南さんの問に、

「……いえ。何でも、ありません……」

 気を取り直し今日の作業に集中する。間近に迫った催しを成功させる為に、後輩や同輩
に教える事やお手伝いはまだまだ多い。陽が落ちて暗くなる迄わたしはみんなと残り続け。

「お疲れ様でしたっ」「お先に失礼します」

 中学生だし女の子なので、余り遅いと家の人達を心配させる。電気を点けねば廊下も真
っ暗な刻限になって、わたし達も今日はお開きと見切りをつけて。催しが間近いので多く
の部員が残っており、終了は一斉解散に近い。

「クラスの出し物や演劇の人も帰った様ね」
「他の部活の人も、引き上げたみたいです」

 電気が点いているのはやや遠い職員室だけ。
 みんなの熱気が夜に吸い込まれ冷め行く中。

「羽藤さんは、未だ残る積り?」「いえ…」

 高岡先輩の問にわたしはかぶりを振って。

 人の目がない処で1人残る事は、余計な憶測を呼ぶ。先日の聡美先輩との行為も、遅く
迄人目のない処に残ってしまった故に生じた。それを危惧した副部長の真意にわたしは応
え、

「最終バス迄余り時間がないので帰ります」

「ゆめい先輩、お疲れさまっ!」「お先に失礼しまぁすっ」「羽藤先輩、また明日……」

「気をつけてね。夜道は足元も危ないから」

 トイレに寄るので鍵はわたしが預ります。

 片付けを終え鍵を掛けた後、みんなと別れ職員室に返して来る。闇を怖くないわたしは
人気の失せた廊下を照す電灯を、通り過ぎる度に点けて消し、生徒玄関傍のトイレに至り。

 バスの待ち時間と移動時間を考え、学校を出る前に小用を済ませたい。遠隔地から通う
者に習慣付いたその行動様式は、待ち伏せる者には読み易いかも。人の気配は感じたけど、
女の子だとも感じたから、怯えも警戒も薄く。手芸部の誰かが帰り際小用に入る事もあろ
う。

 力で探りを入れる事もせず、常の如く扉に手を掛け、月明りの照す一室を目に入れた時。
闇から伸びた腕に、わたしの身は捉えられた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「ん、んぐっ……? ……く、はぁっ……」

 人の気配があるのに、中が暗いと気付いたのは少し遅かった。怖れを感じず中に入る構
えだったわたしは、飛んで火に入る秋の虫で。

 大柄でもしなやかで長い腕が、わたしを暗い密室に引きずり込む。転ばせる位は考えて
いた様だ。修練の成果で中々転ばないわたしを相手は諦め壁に押しつけ。逃げられない様
に両肘を掴まれた時点で相手を見つめ返すと。

『聡美先輩……一体、何を?』「ふふっ…」

 言葉を出す暇はなかった。両腕で確かに触れられ、間近で向き合えば大凡分る。彼女は
わたしの部活の終りを待っていた。部に顔を出せば、高岡先輩達が帰途迄を見届けるから、
今日は来てないと思わせる為に校舎内に潜み。

 わたしが最後に、トイレに寄ると承知して。でも、わたしが1人で寄るか否かは実は賭
だ。他の人と一緒に来た場合、先輩の賭は不成立に終る。その双眸に浮ぶ勝利感は、その
為か。

 彼女はわたしの惑いを気にせず問も受けず。
 一気に唇を合わせてわたしの声を塞ぎ止め。
 わたしの思考は膨大な量の感情に流されて。

 男の子なら抗った。反撃した。でも相手は年長でも大柄でも女の子だ。ここ迄がっしり
掴まれて無理に外せば、先輩を傷めかねない。素人の全力は、後先を考えないだけに危う
い。でも、為される侭肌を接して相手の鎮まりを待つのは、感応使いであるわたしが危う
く…。

 聡美先輩は今迄の鬱積を晴らす様に、口の奥迄舌を入れ、わたしの中を塗り替えようと。
身を外せず、壁に押しつけられ先輩の所作を受け容れつつ、わたしは心と中身を蹂躙され。

 二本の腕はいつの間にか、わたしの胸を。
 制服も下着もぐちゃぐちゃに掻き回して。
 わたしの胸を揺らせ、心も理性も揺らせ。
 口から中を貫いて、胸から外を押し包み。

「……んっ、んっ、んっ……、ふはあぅ…」

 先輩は事が露見して以降、わたしと触れ合えなくて憤懣が堪っていた。一度はわたしを
遊びと切り捨て、それ迄の日常を守りに出たけど。それが確保された暁に、今度はわたし
という獲物に食いつけなくなった事に不満を。

『この肉の感覚だよ。この抑えた悲鳴だよ』

 あたしを絶対嫌う訳じゃないけど、強引な責めに思わず閉じ掛る。その娘をこじ開けて。

『攻め落す。あたし以外、見えなくさせる』

 先輩は高校に彼氏がいる。いるけど、最近学校祭の関連で忙しく、中々逢えない事に苛
々が堪っていた。校内でストレス発散をしようと思った時に、傍にいたのが先輩好みの…。

 それをわたしも責める積りはない。わたしも一番に出来ないけど、心底たいせつに想う
人がいた。女の子同士でも、共に日々に向き合って、肌触れ合わせたい人がいた。先輩が
わたしを望んでくれたなら、彼氏が別にいようと一番でなかろうと、身に余る程の幸せだ。
わたしも想いの限りを尽くし届けたい。でも。

「さぁ可愛いあたしの柚明。何か言える?」

 肉感的なキスの末、漸く胸を揉む手を止めて。言葉を返す理性も意志もないかとの問に、

「倉田聡美は、羽藤柚明のたいせつな人…」

 少し息が荒く、動揺は鎮まってないけど。
 想いの大波に攫われそうな、心を保って。

「望まれれば捧げます。わたしは先輩を好き。待ち伏せ襲って壁に押しつける迄しなくて
も。先生に同級生や後輩の関りを密告しなくても。招いてくれれば出向いて身を尽くした
のに」

 わたしの女性関係を先生達に密告したのは、聡美先輩だった。わたしとの行いが露見し
て遠ざけられる中、わたしが同級生や部の後輩と今迄通り親しげな様を羨み、引き離そう
と。

 彼女の望みは、わたしが女性を愛せると明かす事やその結果大人に罰される事ではなく、
噂を煽り立て周囲やわたしに自重を促す事で。故に弁明可能な事柄を敢て密告し、真偽で
はなく印象を煽り。危険な火遊びが好きな人だ。

 部の後輩との噂話が糸口になった。同級の女の子との噂は今迄も出ていたけど。手芸部
での関りは一度も出た事がない。間淵さんは部では苦言したけど外部には一切語ってない。

「あんたが、欲しいんだ。全部頂戴、柚明」

 短い言葉はわたしの問への答ではなく、彼女の意思表明で。問答を欲してない。心通わ
せる事は望みではない。彼女は唯わたしを…。

「その肌の反応が良い。その喉の反応が良い。その瞳が、声が、肌触りが、あたしの一つ
一つに返される反応が、心地良くて堪らない」

 可愛い柚明。あたしの可愛い柚明。大好き。
 楽しいんだ。この上なく楽しくて堪らない。
 身体の震えと迸る叫びと征服し従える感触。
 貪られ食い荒らされ穢され行く光景が良い。
 自分が全知全能になった錯覚に満たされる。

「柚明、もっとあたしを楽しませておくれ」

 取り出した刃物は、人を害する為ではない。脅そうとの意識もなく、わたしの制服を切
り刻んで引き剥がし、肌を晒して楽しむ道具で。それでも刃物持ちの人と揉み合うと、間
違えて傷つける怖れはあった。贄の癒しで傷は治せるけど、だから傷つけて良いとはなら
ない。

 なので殆ど抵抗せず、セーラー服の上半身を切り刻まれるに任せ。先輩は心底楽しそう。
わたしが一緒に楽しんでいると、受け容れていると想って疑わず。違うのに。わたしは先
輩の望みなら素肌も晒すし、許すけど、でも。

 切れ端を掴んでセーラー服を、剥いてゆく。わたしは殆ど抗えず、数分後服は布きれに
なって床に散り、上半身は胸を残すだけにされ。晩秋の夜気より次の展開に微かに身が震
えた。

「綺麗だよ。可愛いよ。あたしの、柚明…」

 胸に伸びて来る手を避けようと、視線に晒されるのを恥じらって、腕で自身を抱くけど。
先輩はそれに応じてスカートを下ろし。先輩は彼氏に為された事をわたしに活かしている。

 その次の手から少しでも遠ざかりたくて壁際に屈む。そうして動けなくする事も先輩の
攻めの内だけど、先輩を想い心底の拒絶も躊躇うわたしは、全力の反撃も逃げも出来ない。

 上からのし掛ってきて唇を重ね、スカートが脱げた後の股間に手を伸ばしてくる。それ
を防ぐと先輩の手はわたしの胸を捉えて掴み。

 肩や首筋を何度か贄の血が滲む程噛まれ。
 胸の最後の覆いが力づくで取り去られた。
 爪はわたしの膨らみを抓って血を滲ませ。

 抑えた悲鳴に喜ぶ先輩は、早苗さんを脅かし反応を欲していた広田君にも重なったけど。

「あたしが見初めたんだ。望んだんだ。組み敷いたんだ。あんた唯あたしに従えば良い」

 あたしの綺麗な柚明。可愛い柚明。あんたは本当に従順で良い子だ。あたしの目に狂い
はなかった。あんたは求められたら女にでも誰にでも応えたくなる、誰彼拒まずって奴さ。
為されればまともに抗わず、心の有無に関らず、男女に関らず、誰にでも身体を開くのさ。

 苛める様な声での語りかけに流石に抗い、

「違います。わたし、先輩だから……倉田聡美先輩だから、受け容れようって、なのに」

 望んでくれたから、抱き締めてくれたから、だから一生懸命想いに応えたいと想ったの
に。先輩ずっと身体ばかりで、為してくるばかりでわたしの返しを望まないし、想いだっ
て…。

「あぅっ、あはぁっ」「生意気な子だねぇ」

 先輩と後輩の立場の違いを思い知りな。
 でも、その芯の強さが愛しいよ、柚明。

「楽しんであげる。もっと楽しんであげる」

 もっと愛してあげる、もっと恋してあげる。
 もっとあたしを注いで埋め尽くしてあげる。
 身も心もあたしで満たして一緒に楽しみな。

 結果わたしの想いは充ち満ちて遂に言葉に、

「先輩のそれは愛ではありません。恋でも」

 先輩はわたしではなく反応を求めているだけだ。わたしが傷んでも苦しんでも反応があ
れば良いと。それは愛じゃない。恋でもない。人を剥いで身体や反応を欲するのは己の為
だ。

 野性的に強気な笑みが声を失い硬直した。

「それは欲情です。愛とも恋とも違います」

 わたしは漸く、彼女に望まれ求められても、恋されても愛されてもいないと、分ってき
た。彼女はわたしを使って自身が楽しみたいだけ。わたしの想い等考えず、奪い貪り、食
い破り。

 身体の関係を恋だと思っている。相手を踏み躙る事を愛だと思っている。身を重ねれば
心も繋ると思っている。身を重ねれば繋る想いもあるけど、恋し愛すれば肌触れ合わせた
く願うけど。想いを交えず身体だけ交えても。

 衝撃は聡美先輩の深奥を貫いた様だ。声が、わたしの肩を抑える手が、微かに震えてい
た。

「なら、あんたは……あたしを拒むかい?」

 欲情で何が悪い。どう違うって言うのさ。

 視線は食い入る様にわたしを睨み、両手の爪はわたしの胸に、血が滲む程に食い込んで。

「ここ迄身を剥がされ、唇も乳房も蹂躙され。それで抵抗しなかった癖に、今更綺麗事を
っ。
 拒めるのかい? あんたはここ迄身体重ねたあたしを拒めるのかい? あんたの方こそ、
ここ迄黙って為されたのはあたしを愛し恋していた為じゃないのかい? 違うのかい?」

 おっぱい抓られて喜んでいた癖に。首筋噛まれて火照っていた癖に。口に舌入れられて
最後迄拒まなかったあんたが。衣服剥ぎ取るあたしの手を、一度も止めなかったあんたが。

 今迄あんたが口にしてきた、あたしを大切だっていう言葉は、想いは、なかった事に出
来るのかい? 全部嘘っぱちだったのかい?

 その右の掌が、わたしの股間の下着を握り。いつでも剥ぎ取れる。即突き破れると。女
の子の手で、羽藤柚明の初めても奪えると示し。

「減らず口を叩けない様にしてやろうかい?
 本当に大切な物を奪って欲しい様だねえ」

 口は幾らでも嘘をつくからね。返事も身体の反応で頂くよ。身体は誰でもいつも正直さ。

 ならわたしは言葉を身体と言行一致させ、

「倉田聡美は今尚羽藤柚明のたいせつな人」

 わたしは先輩を怯え嫌うのではなく、拒み隔てるのではなく、その胸に自身の頬を預け。
両の腕を細身な胴に、脇に緩く巻き付かせて。

 先輩が寄せた想いが欲情でも、わたしは先輩がたいせつ。愛や恋が後から伴う事もある。
体を重ねた後で心が繋る事もある。先輩が今から想いを繋げてくれるなら、受け容れます。

「望まれれば捧げます。聡美先輩が望んでくれるなら、どうぞわたしの最初の唯一度を」

 愛されなくても恋されなくても、一度たいせつに想った人は、羽藤柚明にはいつ迄もた
いせつひと。離れても隔てられても、捨てられても裏切られても、忘れられたとしても尚。
わたしが抱く想いは薄れない。消えはしない。

「一番の想いを返せないわたしを、望んで求めてくれた事は心底嬉しい。わたしに先輩を
拒む積りはありません。唯わたしの想いも一緒に届かせて。一番には想えないけど、でも
精一杯わたしは先輩をたいせつに想いたい」

 わたしにも聡美先輩を愛させて、恋させて。
 制服越しに感じられる温もりに頬を浸して。

 お嫁さんに行けなくなるかも知れないけど。
 柔らかなこの温もりに奪われるのなら良い。
 サクヤさん、真弓さん、お父さんお母さん。

「少し怖くて、震えているけど……どうぞ」

 心ゆくまで、羽藤柚明を、ご賞味下さい。

 何分位静止していただろう。肌身に感じる想いは渦巻いていて行く末を見定め難いけど、
力で心中を読みはしない。それは自身で向き合う物だ。すぐに分る答だ。わたしは己を委
ね捧げ終えた。後はその瞬間を、待つだけだ。

 こうして身を寄せて動かない時間は初めてだった。聡美先輩は常に責め続け、リードし、
留まる事を知らなかったから。晩秋の夜は肌寒く、寄せ合う身が柔らかく温かく心地良い。

 聡美先輩の身の硬直が抜けた。両手で肩を抑えられ、意図を察したわたしが胸元から頬
を離す。屈んで見下ろしてくる野性的な瞳が、

「仕方ない。今日の処は、勘弁してやるよ」

 やはり彼女は年上で思慮深い大人だった。
 その場の想いに振り回されず先々を考え。
 肌の下に渦巻いていた熱情は一度鎮まり。

「でも、先輩に向って生意気を言ったそのお口には、お仕置きが必要だねえ」「え…?」

 退く事が負けの様な気がして、決して自分が気合負けした訳ではないと、弁明する様に。
聡美先輩はもう一度わたしの唇に唇を合わせ。頬を両手で抑え舌を入れ、好き放題に蹂躙
し。

 わたしへの負け惜しみって、わたし、先輩に勝った訳でも何でもないのに。唯わたしの
身体は先輩が求めるに値しないと言うだけで。わたしの初めては先輩の好みじゃないだけ
で。

 その長いキスが中途で終えたのは、壁に押しつけられたわたしに向き合う聡美先輩の背
後の空間に、微かな声と音が聞えた為だった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 わたしも聡美先輩との触れ合いに呑まれて、周囲の気配を全く探れず、探ろうともして
なかった。みんな帰った後だったから。誰もこの時間に残っているとは想ってなかったか
ら。

 南さんは、貸したハサミを持ち帰りかけて気付き、律儀にわざわざ引き返して来た処で。
玄関の電気が消えておらず、でも人の姿がない事を不審に思い、微かな物音を聞きつけて。

「ゆめい先輩。部長先輩に、レイプされ…」

 ああ、これはそう見えてしまう構図かも。
 わたしはパンティ以外全部剥かれて裸で。
 女の子同士であっても、もう間違いなく。

 電気を点けず月明りのみの一室で、奥のわたし達から少し離れた入口付近で後輩は1人、
竦んでその場に座り込み、身動き叶わず心も固まり。瞳はわたしと覆い被さる聡美先輩に。

 聡美先輩が鬼婆の様な笑顔で振り返って、

「見てはいけない物を、見てしまった様ね」

 先輩は事の露見が拙いと今想い返した様で。家庭科準備室の時もそうだけど、覚悟する
前に欲求で動き、露見の後で踏み外した己に度を失う。本当に火遊びの好きな。でもこの
時は、相手が小柄な後輩1人なので逆に強気に、

「口封じ、しなけりゃ、ならないかねえ…」

 力の抜けたわたしから離れ、南さんを向く。南さんがビクッと震える様は、見なくても
分った。聡美先輩が為そうとしている事も大凡。

「ああ、あたし何も見ていません。何も…」

 南さんは腰が抜け身動きできないでいる。
 公表しないから害さないでとの求めにも。

「見てなかった? うん、見てなかったね。
 そして今からも、何もされなかったのよ」

 公表できない様にするのだと笑って答え。

「ああ、あたし誰にも、誰にも言いません」

 いつもなら元気に走って逃げられるけど。
 わたしの醜態を見て心が既に竦んでいた。

「誰にも言わないさ、有り難い事にね。言いたくても言えない様にしてしまうんだから」

 声を絞り出すのも辛い程に胸が詰まって。
 そんな後輩を前に、聡美先輩は楽しげに。

 歩み寄る先輩は大柄で2つ年上で、刃物迄持っている。小柄な南さんでは対応できない。

「柚明がいたから捨て置いたけど、あんたも可愛いから。口封じついでに可愛がってあげ
ようかね。柚明の様に、今宵の事は誰にも絶対語れない迄、確かに処置しておかないと」

 いぃっ! 傍に迫る聡美先輩を前に、声にならない悲鳴が漏れるけど、蛇に睨まれた蛙
の様に、どうしても立って走り逃げ出せない。屈み込めば触れて捉えられる。そう思えた
時、

「聡美先輩……駄目です。いけません……」

 わたしは後ろから抱きついて、聡美先輩の両腕を両腕で胴に束ねて、動きを止めていた。

「柚明……あんた?」「先輩の為です……」

 多少の驚きは、彼女の動きを今宵初めて明確に止めに出た事への。わたしは今迄、聡美
先輩に為される侭にキスをされ、胸を揉まれ、服を剥ぎ取られた。首筋を噛まれても乳房
を爪で抓られても抗わず。防戦は消極で、時間稼ぎ以上の物ではなく。想いの強さに流さ
れたと言うより、刃物持ちへの応対と言うより、わたしは心を繋ぎたくて、体を拒まなか
った。先輩が望めばわたしは初めても為されていた。

 先輩は強引の極みだったけど、わたしの抵抗もほぼゼロだった。だから今宵初めてわた
しがその意に確かに反した事に、彼女は驚き。

「南さんは、柚明の獲物だったかしら…?」

 微かに後輩のビクッという震えを感じた。

「でも、あなたは優しすぎから、しっかり口封じ出来ないでしょう。部活は甘くても良い
けど、これにはあたしの中学生活残り半年も掛っているのよ。あなたには任せられない」

 先輩は流し目でわたしと南さんを見比べ、

「あなたが彼女をここで貪るなら許すけど」
「難波南は、羽藤柚明の、たいせつな人…」

 高く柔らかな背にわたしは右頬を当てて。

「彼女は誰の物でもありません。わたし達の行いを隠す為に罪を重ねるのは止めましょう。
後に残す罪悪感が増し心を重くするだけです。秘密はお願いしますけど、事が漏れた場合
も覚悟を決めて、世の理を受け容れましょう」

 お願いします。南さんを、傷つけないで。

「ゆめい先輩っ……」「柚明、あなたねぇ」

 腕の拘束は解かない侭彼女は振り向いて。
 間近から、呟きが溜息と共に吹き付けて。

「あなた今更……自分がここ迄貪られた後で、後輩の前では良い処見せたいとでも言う
の」

 ここ迄恥ずかしい様を、後輩に見られて。
 その後輩に頭を下げ秘密をお願いするの?

『優しく頼れるゆめい先輩』なんて砕け散ったのに。今更彼女を守った処で、あなたはあ
たしとの醜態を見られた。もう、手遅れなの。

 欲情に身を任せて、やっちゃいなさいな。
 あなたもそれが望みだったのではなくて。
 視界の隅で南さんの微かな震えを感じた。

「彼女、とっても可愛いわよ。虐げたい程」

 相手の善意に身を委ねるなんて危ういわ。
 あなたに勇気がないなら、あたしがやる。
 拘束を外そうとするけどわたしは外さず、

「ダメです。聡美先輩だから、いけないの」

 わたしは正面間近に抱き留めた侭で見上げ。
 約束したんです。手芸部のみんなにわたし。

「わたしは、たいせつな人を愛でるのが望み。幸せに緩んだ笑顔が好き。元気に日々を過
ごしてくれる事が願い。……傷み苦しみ哀しむ姿は見たくない。約束したの。羽藤柚明
は」

 ここのみんながお嫁さんに行けなくなる様な事は決してしない。させもしない。みんな
が涙する様な事は求めない。望まない。みんなの幸せの支えに役立つ事を、許して欲しい。
南さんも聡美先輩も、両方ともたいせつな人。

「わたしのたいせつな南さんを、わたしのたいせつな聡美先輩が、涙させてはいけない」

 南さんの為にも、聡美先輩の為にも。わたしは事の隠蔽や口封じの為に、後輩を踏み躙
る聡美先輩であって欲しくない。わたしの愛した聡美先輩は、そんな事をする人ではない。

「南さんが怖がっている。身を竦ませ怯えている。涙が滲んでいる。お願い、しないで」

 微かに聡美先輩の瞳が怯んだ気がしたけど。
 脇を向いてやや諦めた投げやりに近い声が、

「あたしはもう、あんたを踏み躙った後なんだよ。同じ罪を何度犯しても」「違います」

 わたしは尚も聡美先輩の心を追いかける。
 わたしの心で聡美先輩の心を繋ぎ止める。

「わたしとの行いは合意の上です。わたしは、先輩を受け容れました。だから先輩はわた
しを強奪した訳じゃない、レイプにはならない。先輩は何も罪を犯してない。わたしが先
輩を恋し愛し受け容れれば先輩に罪は存在しない。あるとするなら2人で被る女の子同士
の罪」

 南さんは羽藤柚明じゃありません。彼女にそれは求められない。彼女はまだ中学一年生。

「傷つけたら罪になる。お願い、しないで」

 難波南は、わたしのたいせつな人だから。
 倉田聡美はわたしのたいせつな人だから。
 柔らかな首筋に右頬を寄せて言葉を紡ぎ。

「今迄わたし、先輩に確かに想いを告げていませんでした。先輩が望まなくても、わたし
が伝えるべきでした。その想いを含めて羽藤柚明です、わたしの在り方はこうですと…」

 その上で好いて貰えるも望まれず捨てられるも、聡美先輩に委ねるべきでした。わたし、
自分の事ばかり考えて、どう応えれば先輩が良い判断を出来る下地が整うかを後回しして。

「ごめんなさい。わたしの想いが足りなくて。強い愛や恋を向けられないとしっかりした
想いを返せないなんて、わたしこそ酷い女です。でも今なら言える。わたしは聡美先輩が
後輩に酷い事をする人ではないと分っています」

 先輩は一度もわたしに酷い事はしてない。
 先輩は今後も後輩に酷い事はしないです。
 先輩は合意なく人を踏み躙る人じゃない。
 気付くのが遅くて、ごめんなさい。でも。

 わたしが好いた人は、わたしを好いてくれた人は、そんな事は決してしない人ですから。

「この末に事が漏れた暁は、まずわたしが罪と責を被ります。先輩が責や罪を問われたら、
わたしも一緒に被ります。先輩を1人罪に落す事は決してしません。一番にも二番にも想
えないけど、倉田聡美はいつ迄も羽藤柚明のたいせつな人。尽くせる限り、身も心も…」

 想いを込める為に腕を少しだけ強く締め。
 何分程の静止した時間が過ぎただろうか。

「あんたを信じろと言うのかい? あんたのその都合良い約束を信じろと言うのかい?」

 一体どこの誰がそんな戯言を信用すると。

 あんたじゃなきゃ、柚明以外の誰がそんな事を言っても、決して信じられないだろうに。

 脱力した声が頭の上に静かに降り注いで、

「後は任せるよ。帰らせて貰う……気に入りの後輩と精々愛でも恋でも語り合うと良い」

 微かに不機嫌そうな声音で、でも本当は不快でもなさそうな軽い足取りで。聡美先輩が
暗いトイレから歩み去ったのは、わたしに懲罰の様にもう一度為した、舌を入れた肉感的
な長いキスの後なので、十分程の後だろうか。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「ふぅ……南さん、もう安心よ。大丈夫?」

 少しの疲れは感じたけど、それより今は目の前で自力で立つ気力もない可愛い人に手を。

 差し伸べようとして、身が固まる。彼女に手を差し伸べるにわたしは相応な者だろうか。

「ご、ごめんなさい……わたし、その……」

 取りあえず最低限、両腕で胸は隠すけど。

 下の下着以外全て剥ぎ取られ、首筋も胸も肩も噛み傷や爪に抓られ血に汚れ、何より直
前迄聡美先輩と散々色々為して汗ばんでいる。人に安心をもたらせる姿格好ではなかった
…。

「ダメだね。抱き留めてあげたかったけど」

 これじゃ、南さんも触るに触れないよね。
 すっかり血と汗とその他で汚れちゃって。

「わたしは南さんを泣かせる事はしないから。言っても中々信じられる状況じゃないけ
ど」

 本当は触れて癒しを流し込み、強ばった体の機能を元に戻してあげたかったけど、今は
わたしが触れる事が拙い。高い目線と動ける姿勢は、尚動けない南さんの怖れを呼ぶかも。

 わたしは彼女を向いた侭怖がらせない様に。
 敢て正座ではなく少し崩した女の子座りで。
 この方が即座に動きづらいから襲いにくい。

「あなたが帰る迄、わたしはここを立たず動かないから、動ける様になったら帰ってね」

 その瞬間、南さんの心と身体が弾け飛んで、

「ゆめい先輩っ……!」

 小柄な体は硬直が解けて一気に間近に迫る。

 声が耳に入った時はもう、小柄な身体はぶつかってきて、両腕は彼女を抑え抱き留めて。

「怖かった……ありがとう、守ってくれて」

 怖さと心細さと、ほっとした気持が混ぜ合わさって。わたしの醜態へのショックや聡美
先輩への怖れや、様々な想いが胸を渦巻く中。

 右頬に頬を迎え入れたけど。南さんはわたしの膝の上で敢て一度それを外し、両手でわ
たしの頬を固定してから、唇に唇を合わせて。わたし、南さんの最初の唇に、唇を奪われ
…。

 舌は入れてこないけど、勿論こちらから入れる事もしないけど。しっかり顔を固定され、
躱せなかった。わたし、右も左も分らない後輩に唇を差し出させるなんて、何て非道を…。

 膝の上に乗った南さんは姿勢が不安定なので、わたしの両手は彼女を支えた侭外せない。
突き放せもせず、一分近く唇を合わせた後で、

「ゆめい先輩なら、あたしを食べても良い」

 こんな姿になって迄、あたしを想って守ってくれた。綺麗な先輩が、血塗れの酷い目に
遭って尚、あたしの為に立ち塞がってくれた。今一番あたしが好きなのは、ゆめい先輩で
す。

「守った末に、わたしが奪っては意味が…」

 月明りの中、間近に見返す大きな黒目は、

「あたしが、渡したい人に渡せましたっ!」

 屈託なく見せる、満面の笑みが無邪気で。
 でも確かに己の行為の意味は分っていて。

「これであたしも、今晩秘密を持ちました」

 だから安心して。誰にも喋りませんから。
 ゆめい先輩は、難波南の今一番の人です。
 強い想いは抑えられぬ程に膨らんで遂に。

「有り難う。わたしと、聡美先輩の為に…」

 膝の上でわたしの素肌に触れ続ける後輩を、支えて強く抱き留めて、間近な瞳を正視し
て、

「嬉しい。南さんの想いは、受け取ったわ」

 南さんに想われている事実は否定しない。
 南さんの想いをわたしが否定は出来ない。
 その想いが確かに嬉しい己も否定しない。
 自重を強く促されても誤解を招こうとも。
 わたしは誰の想いにも常に渾身の返しを。

 傷だらけで血に汚れたわたしを毛嫌いせず、尚身を摺り合わせる事を望んでくれる。暖
かく強いその想いに、見合う答は返せないけど。だからこそ羽藤柚明は限られた中で全身
全霊。

「あなたの微笑みに尽くしたい。あなたの幸せと守りに役立ちたい。愛させて。身と心を
尽くす事を許して。あなたの未来を縛る積りは微塵もない。他に好きな人が出来た時は自
由に飛び立って構わない。あなたを一番にも二番にも想う事の出来ないわたしだけど…」

 わたしは彼女の左頬にちゅっと唇を当て。

「ふつつか者ですが、宜しくお願いします」

 改めて、目の前の可愛い顔が朱に染まる。
 暫くわたし達は身を重ね合って動かずに。
 涼やかな月光に照されても夜は熱く巡り。

 スカートは脱がされただけだけど、切り剥がされた上着は身に纏っても、かなり目立つ。
唯、もう最終バスの時刻は過ぎた夜だ。後は歩いて帰る他に方法もなく。人通りの殆どな
い田舎道だから、時間は掛るけどまあ何とか。

 羽様のお屋敷に遅く帰り、詳細に事情を話した後、サクヤさんから大目玉を貰いました。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 学校祭は、嵐の様に訪れて、去って行った。

 紅白対決は、天王山となった演劇で真沙美さんの最優秀女優賞が決定打となり、演劇部
にも競り勝った紅組の勝利で終った。お化け屋敷も賑わった様で、わたしは殆ど居られな
かったけど、幼子の泣き声も鳴り響いたとか。

 服飾カフェは予想以上に盛況で、家庭科教室の外に列が出来た。羽様のみんなも来てく
れて、桂ちゃんと白花ちゃんはわたしが2人を想定して作った子供用の狩衣を着て喜んで。
走り回ってケーキを付けて汚す様も可愛くて。

「お前も女なんだから、少しは自分を大切にしろよな。誰かの何かの償いに自身を軽々し
く差し出すなんて、一瞬本気で迷ったぞ俺」

「ご忠告有り難う。今後は気をつけるわね」
「だからそう言いながら、両手握るな羽藤」

 学校祭の翌週に、広田君は転出して行った。

 わたしや歌織さんや早苗さんや、広田君も予測した通り、住む処が離れ日々交われなく
なったら、想いは途切れてしまうのだろうか。

 一度手紙が来て返したけど、それきりと早苗さんは言っていた。新しい生活の形に馴染
めば、新しい出逢があり、新しく紡がれる想いがある。今後が開けている人は、いつ迄も
元居た処の想いに留まるべきではないのかも。忘却は人に与えられた恩寵だと、本で読ん
だ。

 肝試しした廃ビルの取り壊しが始ったのは、間もなくの事だった。取り壊し後に全国展
開しているファーストフード店が建つと聞いた。留まっていた店員達の想いも薄れて消え
る…。

「私は今でも女の子同士の愛や恋なんて理解できないし、正常だとは思えないけど……」

 あなたになら、それもあり得るのかもね。
 高岡先輩は、いつも通りの怜悧な笑みで、

「興味が尽きないわ。私達と同じ高校に来たなら、今度こそじっくりと観察してあげる」

 手芸部の三年生が正式に引退し、菱田部長、間淵副部長の新体制が始っても、後輩は南
さんを先頭に、相変らずわたしに親しく接してくれて。間淵さんは『三頭体制』と呼んで
それを実質、認めてくれた。先輩達の引退後、わたしへの応対が、随分柔らかくなった様
な。

「先輩達があなたを可愛がるお陰で、今迄同級の私や景子は、中々あなたに関れなかった
からね。先輩に苛立ちをぶつける訳にも行かないし。景子は相当焦れったかったみたい」

 梢子さんが漏らしてくれた話はやや驚きで、

「特に倉田先輩にあんな事されて。先輩は責任をあなたに押しつけ泣き喚いて逃げたのに、
あなたは馬鹿正直に自分が悪い、責任を取る、罰は受けるなんて言うし。景子はカンカン
に怒って、一時は藤田先生に告発するって…」

 あなたへは恥ずかしさとそれ迄の経緯で強面通していたけど、本当は彼女こそあなたを。

 あの怒りは、わたしへのではなく、聡美先輩への怒りだったと? 或いはわたしの不充
分な応対への苛立ちと焦りとじれったさだと。

「まあ、あなたの傍に一年居れば、男でも女でも、惚れ込まない方がおかしいと想う…」

 彼女の頬が少し赤い意味も漸く分りました。
 わたしは相変らず未熟で人生経験不足です。
 更に人を識らないと。広く深く識らないと。

 でもこんなわたしでも、好いてくれる人がいてくれるこの世の中が、有り難くも嬉しく。

 真沙美さんも和泉さんも、歌織さんや早苗さんと絆を深める様を知って尚、わたしとの
絆を望み続けてくれて。それは歌織さんも早苗さんも同じく。わたし本当に幸せ過ぎかも。

 その副次効果で、やや微妙だった歌織さんや早苗さんと真沙美さんの間が繋り。学校と
いう形を共に持つ以上、想いを結び合わせる事は難しくない。水が器に従う様に、人の生
き方もモノのあり方も、形に縛られ易い物だ。

 だから遠くに住んで逢う事の叶わない詩織さんへの想いを長く紡ぎ続けるのは、手紙と
いう形を保ち続ける事も含め、容易ではない。

 お母様を失った傷心の癒しも兼ね、念の為にと精密検査で見つけた非常に早期のガンを、
内視鏡手術で摘出した利香さんが学校に戻ったのは年の瀬で。もう絆は結べないけど、言
葉交わす事も望めないけど、元気で良かった。

 聡美先輩とはあれ以降一度しか逢ってない。学校祭と引退迄はお互い忙しかったけど、
それ以降も全然接触がなく。廊下で見かけても目線が合っても通り過ぎ、何の反応もなく
て。

 わたしから放課後に逢いたいと申し出た処、先輩は1年生の教室を訪れ、南さんにわた
しと共に来る様に告げたらしい。確かにあの場の事を話すなら3人が相応かも知れないけ
ど。お互いに互いを案じた結果2人一緒に訪れて。

「手芸部を引退して関りも薄れたから、興味も失せたわ。受験を控え、色恋に心を傾ける
余裕もないし。あたし忙しいの。いつ迄も過去のあれこれに拘っている余裕はないのよ」

 憑き物が落ちた様にわたしへの関心はなく。
 現状迄の経緯を見て秘密は守られていると。
 聡美先輩から何かを求め出す事はない様で。

「あんたは確かに可愛いけど、もうすぐお互い生きる処も違うし、既に部活は離れたし」

 あんたの処女奪っても責任は取れないし。
 人生賭けて迄あんたを愛する気はないよ。

「あたしも引き際だったのかも知れないね」

 これも、部活という形が崩れた為なのか。
 先輩の想いは、彼氏のいる高校に向いて。
 学校祭が終って緊密な仲を戻せたらしい。

「あんた達も来年以降入ってきて部活や何かで関ったら、又遊んであげるかも知れない」

 最早言葉がない南さんと聡美先輩の前で。
 わたしは己の在り方で最後迄接し続ける。
 先輩がわたしとの絆を最早望まないなら。

「倉田聡美はいつ迄も羽藤柚明の大切な人」

 わたしはその想いを尊重し、潔く切れる。
 本当はもう少し寄り添いたく想ったけど。

 力強く弄び引っ張ってくれるその在り方は、わたしが好みだったけど。己の欲求ではな
く、たいせつな人の望みこそ羽藤柚明の真の願い。

 両手を両手に取って、胸の前に持ち上げ、

「困った事があったら、哀しい事があったら。
 心が溢れ出す時には、身体震え出す時には。
 どうか頼って下さい。わたしの大切な人」

「あんたは最後迄、本当に生意気な娘だね」

 聡美先輩が去った後で、誰もいない一室で南さんと暫く正面から身を添わせ合ったけど。
首筋に頬を受け、背に腕回し抱き留めたけど。親愛の気持を伝え合う以上には踏み込まな
い。部のみんなの前でもふざけて為される触れ合いを、2人だけの場で頬を染め合い為す
程で。それで今は南さんも心満たされている様だし。わたしは後輩を正しく教え導く立場
だ。己の望みではなく、常に南さんに最良である様に。

 詩織さんの家にはあの後、一度だけ行った。

 空が青く染まり行く中、久しく点いた事のない電灯の輝きが窓から漏れて、人の気配と
生活の雑音が感じ取れ。新しい住人が引っ越して来て住み始めた様だ。廃ビルに宿る想い
の欠片と同じく、詩織さん達の想いも最早…。

「はははは……」「おいおい」「あらあら」

 複数の子供の笑い声と男女の声が、テレビの音声と一緒に聞えて来た。四人家族らしい。
ここで働いて暮らしてゆく意向が強く確かで。最早ここは、わたしが想い出に浸る場でも
なく、詩織さんの残滓に逢える場でもなかった。

 大掃除で空気も換気され、生きた人が動き回って中は攪拌され、澱む処も潜む処も失せ。
家屋の持つ微弱な霊的結界は、既に新しい住人の為に。電化製品の光や熱は、陽光程では
ないけど容赦なく儚い想いを照して薄れさせ。

『もう、ここには何も、残ってはいない…』

 引き上げようとした時だった。ふと家に隣接した物置の影に目を向けると。その軒先に、

「……詩織さん……!」

 家屋を出れば風に吹かれ消え去るだけの想いの欠片が唯一つ。新しい住人を迎え霊的に
換気された家を離れ、物置の影に。そこも安定した場所とは言えず、急激に摩耗していた
様子は分るけど。辛うじて微かな形を残して。朝の光を待てずに消え去りそうな儚さだけ
ど。

 新しい住人に気取られぬ様に、口は閉じ。
 待っていてくれたの? 感応で訊ねると。

「……、……、……」

 頷く程の動きもないけど、微かに姿が濃くなった気が。最早粘土人形の形も曖昧だけど。
詩織さんはわたしにもう一度逢える迄はと望みを抱き、最期の最期迄残り続け。佐織さん
達は彼女に力を譲って消えたのかも知れない。

 その気持が分った。願いが最期に届いたと詩織さんが喜ぶ様が視えた。動きも視せず感
応でも伝ってこない、微弱な想いの欠片でも。わたしに確かに届いた。わたしも間に合え
た。

 形を失って、最期を迎える想いを。
 わたしは両手を広げ、迎え入れる。

 彼女は襲い掛って来るのではない。
 最期にわたしを感じ取りたいだけ。

 生きた人であるわたしは、贄の血の使い手でより強く力を紡げるわたしは、希薄な彼女
の霊には、触れる事で吹き散らし消滅を導く天敵だけど。彼女は今正にそれを望んでいる。
最早消える定めなら愛した者の腕で終ろうと。

 形を失えば想いも崩れ保ち難くなる。
 わたしにできる事はもう、何もない。

 だから最期はその望みに寄り添おう。
 この身を尽くして、想いを尽くして。

『この手を放さないで、ゆめいさん。
 この繋いでくれた手を放さないで。わたしをみんなに学校に繋ぎ止めてくれるこの手を
放さないで。わたしを置いていかないで!』

 もう置いて帰る事はしないよ、詩織さん。
 重ねたこの手はもう絶対に離れないから。

 微かな想いでも、伝わって流れ込んでわたしを満たす。わたしの中で彼女は生き続ける。

『わたしをゆめいさんの心に刻ませて』

 あなたを、確かにこの心に刻みこんだよ。
 平田詩織はいつ迄も羽藤柚明の大切な人。

 わたしに触れて、想いは吹き消され行く。
 喜びつつ親愛を抱きつつ、拡散して薄れ。

『わたしの憧れた人、わたしの恋した人、わたしの心に踏み込んでくれた人、そこ迄大事
に想ってくれた初めての人、わたしのたいせつなひと。愛しています、羽藤柚明さん!』

 この落涙は、哀しみ以上に、愛しさの故に。

「わたしも、確かにあなたを愛しているわ」

 呼気と言霊が全てを吹き散らして行く。
 月明りの下、最早そこには何も居ない。

 想いを保つ形は消失し想いも薄れ消えて。

 わたしの詩織さんとの二度目の訣れだった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「形が崩れれば、想いも薄れ消えて行く…」

 お昼寝中の桂ちゃんの、はだけた毛布をかけ直し、白花ちゃんの額を撫でて。尋常では
なく血の濃い2人と触れ合う程に、わたしの力が引っ張り出され、導き出され伸びて行く。

「どうしたのかね、柚明?」

 もうすぐ年の瀬を迎える羽様のお屋敷で。
 様子を見に来てくれた笑子おばあさんに、

「……想いは、支える形が残ってくれないと、長くあり続けられない物なのでしょうか
…」

 心を整理出来ぬ侭、呟きを漏らしていた。

 双子が眠る部屋に座ったわたしの隣に、笑子おばあさんも、並んで座って左手に触れて、

「……何か、視えたのかい?」「いえ……」

 わたしは一度かぶりを振って見せてから。

「唯、わたしが未来に感じる印象が、朧に」

 何が起きるかは視えてこない。それは未だ遙か遠い未来な為なのか、不確定な為なのか。
唯その結果だけが。結果と言うより、その結果を受けたわたしの心の痛みだけが強く響き。

「この幸せも長くは続かない。たいせつな人達との関りは、いずれ根こそぎ断ちきられる。
何もかも残らず失って悲嘆に沈む末が分る」

 桂ちゃんも白花ちゃんもいずれ大きく育ち、それぞれ愛する人を見つけ、この手を離れ
て往くだろうけど。遠い未来にこの笑顔を日々見つめる事が叶わない時も、来るだろうけ
ど。

 2人に2人の人生がある以上に、進学や結婚を拒んでもわたしには2人との断絶が待つ。
隔てられて、声も届かせられない時が訪れる。彼方に桂ちゃんと白花ちゃんの慟哭を感じ
た。

 それをわたしは防げない。全てを投げ出し立ち塞がっても止められない。和らげる術も
癒して復する術もない。力と想いの限りを尽くしても、2人の慟哭を止める事が叶わない。

 全てを失った後のわたしの、悲嘆の像が朧に視える。何がどうなるのかは分らないけど、
そうなった末の絶望を感じ取れる。今のわたしは、これ程多くの幸せに包まれているのに。

 間近に視える諸々と違い、確かな像が視える訳でもないけど。わたしの力不足がたいせ
つな人、桂ちゃんと白花ちゃんの涙を導くと、遠くに感じた。そう分っても、否分ればこ
そ。

「たいせつな人の禍を前に、わたしの在り方は変らない、変えられない。だからきっと」

 わたしは望んで禍を受けに行く。たいせつな人に降り掛る危難を代りに己で受けに行く。
及ばないと分っても、届かないと視えても尚。お父さんとお母さんが、叶う筈ないと分っ
て鬼に立ち向かい、わたしを生命で守った様に。無理でも無駄でも己を尽くす。でもその
末に。

「たいせつな人を守れずに終る事が、この身を失ってたいせつな人のその先に役立てなく
なる事が、たいせつな桂ちゃんと白花ちゃんの涙を止められない事の末が、心から怖い」

 視えもしない未来の影が、血管が滾る程の怖れと不安と憤りを、今に不吉に投げかけて。

 それをわたしは確かに視る事も叶わず。
 それを避ける術も退ける術も持たずに。

 この身で代りに受けても止められない。
 生命を尽くしても、防ぐ事は叶わない。
 わたしの守りは突き破られて喪失する。

 失われるのが己の何かで終るなら良い。
 傷つき苦しむのが自身で済むなら良い。

 でも、わたしの心底からの哀しみはきっと。
 己の痛みではなく、喪失でも悔恨でもなく。
 わたしが心からたいせつに想った人の傷み。

 白花ちゃんと桂ちゃんは禍に呑み込まれる。
 わたしの真の哀しみは2人の絶望と悲嘆…。

 遙か遠くに、来年か再来年に笑子おばあさんに迫る死の足音の向う側に。大人になって
職に就くわたしの姿が揺らいで不明瞭なのは。大きく育って女の子や男の子になって行く
愛しい双子に寄り添う像が霞んで不確かなのは。

 視える像より視えない事が何かを暗示する。
 その幸せを見守る事が叶わないと言う事は。
 その守りに尽くす事が出来ないという事は。

「……わたしは……羽藤柚明は、もしや…」

 震える心を確かな手の感触が引き戻して。
 深みに嵌りすぎる関知を止めたその声は、

「わたしがいるよ。サクヤさんも真弓さんも、正樹もいる。柚明には羽様に、家族がい
る」

 触れた掌から、贄の血の力が癒しとなって流れ込む。しわがれた手が心がとても温かく。

「柚明は1人じゃない。どんなに辛くても絶対支えてくれる家族がいる。柚明を全部引き
受けてくれる人がいる。柚明の大切な物を守る為に、力を心を合わせてくれる強い人が」

 柚明が感じる禍は、わたしの及ぶ関知には視えてこない。最早あなたの力はわたしを越
えている。でもどんな禍や危難が迫り来ても。

「あなたが自身を見失わないで。確かに自身の最も強い想いを胸に抱いて、失わないで」

 羽様の家族があなたを支える。あなたが白花や桂を守りたいと望んだ様に。サクヤさん
も真弓さんも正樹も、あなたを支えてくれる。

「勿論わたしも、生きても死んでも必ず…」

 羽藤の家はオハシラ様を、千年守り続けてきたの。わたし達1人1人が己を保ち、確か
に家族の形を保ち、連綿と想いを繋ぎ行けば。

「あなたも決して1人にはならない。あなたの想いは決して、独りぼっちにはならない」

 想いは受け継がれる。受け継ぐ人がいる限り身体は尽きても人の想いは終らない。大切
な人がいる限り、望んでくれる人がいる限り、人は希望を抱いて生きて行ける。何もかも
失わない限り続きはある。支える形が残る限り。

「遠い未来の不確定な不吉に心惑わされすぎないで。未来は日々変りゆく物。明日視れば
又変っている物。柚明は決して変らない確かな絆を羽様の家族と繋いでいる。大丈夫…」

 羽様の家がある限り、あなたは絶対大丈夫。

 その温かく強い慈しみに身を委ね。
 わたしは最後の疑問を心にしまう。
 形が支える限り想いは続く。でも。

 羽様の家族が壊れた末にも、支える形が崩れた末にも、わたしは想いを保てるだろうか。
 形ある限り続く想いも、形の支えを失えば長く保てない。誰もいなくなり何もかも失い、
声や想いを交わす形が壊れた末に尚、羽藤柚明はたいせつな人への想いを保てるだろうか。

 最も見通し難い物は、己自身かも知れない。


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