第7話 最も見通し難い物(前)


 その空き家は、農地の隅で夕陽に照され濃い影を伸ばしていた。住人が去って2年余り、
無人の家屋は最早帰る者も迎える者もいない。

 東の空には群青の薄闇が迫っている。経観塚からも羽様からも離れた山奥は、伸びた雑
草を晩秋の風が撫でる、掠れた音が届くのみ。

 2年半前迄は、小学6年の夏休み迄は、ここに家族4人が数匹の猫と、住んでいた。わ
たしのたいせつな人が、深く熱く想いを交わし合った、わたしの友がここで暮らしていた。

「詩織さん、こんにちは……」

 羽様小学校で6年生の1学期迄一緒だった、1歳年下の級友。おかっぱに切り揃えた黒
髪も黒目の大きな瞳も、わたしに少し似ていた。閉じこもりがちな、わたしに似た性癖を
持つ、だから何かと気になってしまう身近な女の子。

 生れつき身体が弱くて、1級下で唯1人の女の子で、人と接点を作るのが下手で。でも
可愛い後輩で級友。わたしが羽様小学校で最初に名前を覚えた、わたしのたいせつな友達。
長期療養の為に遠くへ去ったたいせつなひと。ここには二度と戻り来る事のない愛しいひ
と。

 彼女の優しげな声が空耳の様に心に響く。

『ごめんなさい。散らかっているの。ゆめいさんが今日来るとは、思ってなかったから』

『汚しちゃったわたしに、身体を洗わせて』

『おやすみなさい、ゆめいさん』

 心に届く淡い感触は、わたしの中の懐かしさだけではない。これは今ここで、受けた物。
この夕刻に顔を覗かせ間近に寄ったわたしが、微かに感じ取れるのはこの家に今漂う想い
…。

 獣の住んだ痕もなく、人の生活感もない。
 でもこの家は次の住人もいないからこそ。

 誰も住まう事なくタイムカプセルの様に保管されて。彼女達が住んでいた二年半前迄が、
壊されず蹴散らされずその侭残り続けている。それを不気味と取る人も、いるのだろうけ
ど。

 戸口を開けて室内の闇を覗き込む。鍵は掛ってなかった。住人が去ってから年に数度訪
れたけど、掛っていた試しがない。空気は澱んでいた。戸を閉めれば換気する者もいない。
わたしが前に来てから三月、外気と隔てられ。そしてわたしが来る時以外は常に閉ざされ
て。霊的な換気も為されず想いがその侭滞留して。

「みんな……。未だ、残っているのね……」

 朧になっても尚この廃屋に滞留していた。
 わたしの訪問を確かに喜び迎えてくれて。

 本当は陽が落ちた後の方が良いのだけど。
 流石に夜遅いとみんなを心配させるから。

 真弓さんに護身の術を学び始めて4年経ち、多少の危険には対応出来るけど。犯罪者も
来ない僻地だけど。虎穴には踏み込まないのが最善だ。でも人を誘える所でもなく、人を
誘える事柄でもないので、1人で来る他に術もなく。羽様への帰着が遅い事に許しは貰っ
た。

 やや傾いだ家は、廊下の右手に詩織さんの部屋が、直進すると居間と台所、奥が浴室だ。
汚れた服を洗うのに洗濯機を使わせて貰った。その間2人でシャワーを浴びたっけ。初め
て上がり込んだ家で、肌触れ合わせ一緒に冷水に身を浸し、身体を流し合って嬌声を上げ
た。

 疲れた詩織さんを部屋で休ませ、手を握って寝付かせた後、お兄さんの秀彦さんと居間
でお話しをした。その後帰ってきたお父さんの雅彦さんとお母さんの佐織さんも含む夕食
に招かれ。台所でお料理を手伝い、皿洗いを詩織さんも一緒にお手伝いし、一緒に布団へ。

 彼女達の日々を支えた住処。彼女達の生活を守った住処。彼女達の想いを宿した住処…。

 新しい住人がいないから。場の状況が保たれた侭だから。形が残された侭だから想いも。

 室内奥の薄闇に佇む、視えるとも視えないとも言い難い、曖昧な人の形に、お辞儀する。

 目の前のやや小さな人の形が蠢いて視えた。嬉しさの表現だという事は分る。それは目
に映る動きと言うより、心で感じ取るべき物だ。そのすぐ後にやや大きな人の形が、一つ、
二つ。2つしか視えない。一つ目は体格の良い男の子で、二つ目はやや華奢な大人の女性
だ。

 彼らは悪霊でも死霊でもない。人に害を為す物でもない、儚く淡い残雪の様な人の欠片。
ここにいた人の想いの一部だけど全部ではない、体から零れ落ちた鬼に至らぬ希薄なモノ。

 霊能者迄行かずとも、陽が落ちれば視える人には視える程の朧な人の形。本人達はここ
を去っても、長年の愛着や惰性は心の一切れ二切れを、住み慣れた場所に残す方が自然だ。
去った詩織さん達も意識などしてないだろう。毛髪や爪の一切れの行方迄把握はしきれな
い。

 夜になればやや濃密に、輪郭不確かな人の如き姿を取る。手を突き入れればすり抜ける
以上に、生きた人に触れればその生気で逆に彼らが散らされ崩される程、脆弱な物だけど。

「お久しぶり。詩織さん、秀彦さん、佐織さん……雅彦さんはもう、いないのですね…」

 温度の違う空気が無色透明でも揺らめいて、その存在を微かに見せる様に。彼らは特段
の目的もなく、唯淡くここに滞留を続けていた。敢て言うならここに最期の時迄残り続け
たい。その想いが本人達から零れて残ったのだから。

 手紙に想いを記す様に、贈り物に心を込める様に、時にその動作に願いを通わせる様に。
大抵の場合器を失った希薄な想いは、風に晒され日に照されて、徐々に消えゆく物だけど。

 興味関心を抱く者の来訪が、彼らを力づけ、長らえさせる事もある。前回既に雅彦さん
の形は崩れ気味で動きもなかった。一家の長として今後に向き合う彼は、前向きだったの
か。3ヶ月の間で崩れ世界に溶け込み無に帰した。

 手前の最も確かな形が詩織さんだ。残した想いの強さと、わたしが来る度に一番喜んで
心の力を増す為に、動ける濃さを保っている。秀彦さんや佐織さんも、以前はわたしの訪
問に喜び動きを返してくれたけど、最近は顕れるのが精一杯で動きは殆どなく。来年迄保
たないかも。詩織さんも動きは鈍り始めていた。

「向うの病院の詩織さんから手紙が届いたの。みんなにも、読んであげたいなと想って
…」

 希薄に過ぎる彼らに、生きた人の気配は濃すぎて既に毒だ。故にわたしも距離を置いて、
弱く癒しの力を届ける。言葉ではなく感応を微弱に保って、相手を灼いてしまわない様に。

 詩織さんの想いだから、彼女から零れた希薄な霊にはその侭力となる。喜びであり自身
の想いであり、わたしの癒しも加え、霊体を支える核になる。佐織さん達にも喜びだから、
詩織さん程でなくても霊体を支える力になる。

 風を隔てるだけで、微弱でも霊的な結界は構成できる。人が家屋や天幕で眠る事を好み、
野宿を常としないのは、身体が冷えるとか夜露に濡れるとかもあるけど、霊的に無防備な
状態で意識を落す事が拙いと分っている為だ。手入れされぬ廃屋や庵でも、窓や戸で隔て
られ、風雨や日光から守られていれば多少違う。

 視えても生きた人に害を為すどころか、幻や夢を見せる力もない程の物だけど。詩織さ
ん達が住んだ家の状態が形を保ち続ける間は、弱まりつつも残り続けたいと。居続けたい
と。

 新たに来る人を拒む訳でも嫌う訳でもない。来れば黙って消えるだけ。唯あり続ける間
は、わたしの様な知人が訪れると、喜んで姿を顕わし何とか想いを通じさせようとしてく
れて。

 わたしが詩織さんの想いの欠片に関るのは、懐かしさだけではない。これも一種の修練
だ。肉を失い想いだけになった物との意思疎通は、視える人にも容易ではない。確かに害
意がない物と想いを通わせ、経験を積む事は重要だ。

 一枚の心霊写真に、霊能者や僧侶が違う見解を述べる様を、テレビや雑誌で幾度も見た。
それ程霊達のサインは微妙で見極めが難しい。諸々が視える以上向う側からも、話を聞い
て欲しい等、様々な理由で寄ってくる事もある。

 心が通じれば無闇に厭う事はない。相手が何者で何を思うか分らないから不気味で怖い。
適正な間合や心通わす術を身につける。深く心通じた詩織さん達の想いと話を重ねる事で。
何でも問答無用に祓えば良い訳ではないから。

 事情を訊いたり誤解を解いたり説得したり、わたしだから出来る事もある。わたしより
も濃い贄の血を宿すたいせつな双子の進む道を、無数に視える霊達との戦いや隔絶で固め
るのは望ましくない。人に善人と悪人がいる様に、鬼も良い鬼と悪い鬼がいる。全て信じ
る程お人好しではないけど、心通じる者もいる筈だ。

 贄の血の力は、血の匂いを隠したり鬼を灼いたり傷つけるよりも、人の身体や心を癒し、
哀しみや苦痛を未然に回避して、魂と魂を通わせ合う為にこそ。助け守り支える為にこそ。

 詩織さん達が引き払った後もこの家に住み着く人がいなくて、形が残り続けている事が、
彼らの想いに残り続ける事を尚許容していた。霊的な換気の悪さが彼らをここに留めてい
た。

 他に訪れる人もいない僻地の廃屋で。薄闇の中暫く佇んでいたわたしが、微かな物音に
振り返ると、そこには男性が1人立っていた。


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 霊との感応に意識を注いでいたので、後ろ間近に人が来る迄気配に全く気付けなかった。
この僻地に来る人がいるとは想ってなかった。

 年齢は三十歳代後半。中肉中背の作業服に、白髪交じりの黒髪を切り揃え。薄闇の中、
わたしを見据え不機嫌そうに訝しみ。彼には室内に澱む詩織さん達の朧な霊体は視えてな
い。

「ここは、子供が夕方来る様な処じゃない」

 突き放す声は、一瞬わたしを視界に入れて目を見開いた事を悟られたくなくて。お母さ
んの面影に重なって視えた様だ。薄闇で識別が難しく、でも真っ暗でもない黄昏時なので。

 戸口に立って視線を送る男性にお辞儀し、

「ご心配頂いて、有り難うございます……」

 鴨川平(たいら)さん。真沙美さんのお父様で鴨川の現当主。お母さんの初恋と初体験
の人で婚約者だったけど、それが破れた事情を真沙美さんが明かしてくれたのは、昨年で。

 鴨川と羽藤の断絶は尚続いていて、わたしと真沙美さんの仲は子供同士の非公式扱いだ。
経観塚の分家は、賢也君のご両親とは昨年の一件以来、今後も宜しくと関係を結べたけど

「人の家に勝手に入られては困るんだがね」

 詩織さんの家と畑を買ったのは鴨川だった。
 彼が自分の財産を見に来る事は自然だけど。

「大体こんな僻地の廃屋に何の用があって?
 日暮れ間近な夕刻に若い娘が無人の家に?
 そう言えば今迄も、微かに人が入った様な跡もあったけど、あれは君だったのかね?」

 わたしだと分っても、否その故に平さんの動揺は収まらず。羽藤柚明と認識した時点で、
挙動の全てにお母さんを重ね見て。ここで逢うのは予想の外だった様で、動揺を気付かれ
たくなくて、矢継ぎ早に問を放ち。だから…

「……申し訳ありませんでした」

 落ち着かせる為にも、一礼して静かにお詫びを。柔らかな動きで面を上げて瞳を合わせ、

「お友達の、詩織さんの想い出に浸る為に何度か訪れていました。お話を通してから来る
べきでした。今後は一度申し述べてから…」

 わたしはお母さんと違う。歳も離れている。子供が大人に敬意を抱く語調は少しよそよ
そしく、お母さんが平さんに話しかけた姿から外れる。それが分れば彼の心の乱れも収ま
り。

 全てを言い終える前に彼の声が挟まって。
 羽藤を拒み厭う常の平さんが戻っていた。

「その必要はない。もう来ないでくれれば」

 問う事も応える事も嫌う、日頃の姿勢に。

 今迄の事は不問にしよう。君の保護者にも言う積りはない。その代りもう来ないでくれ。

 それは羽藤のわたしへの隔絶や嫌悪より、

「新しくここに入居する人がいるんですね」

 故に昔を引きずる様な来訪者は望まない。

 鴨川は詩織さん一家の頼みを受け、纏まったお金を用立てる代り、一時この家と畑を所
有しただけだ。隣接しない遠くに農地を増やしても作業効率は望めない。その内希望者を
募って売り払い、お金を回収する意向だった。

「鋭いね。まあ……そう言う事だ」「……」

 彼らは儚い想いの欠片だ。新しい人が住めば、霊体は残らず霧散する。わたしが訪れる
意味も消失する。水が器に従う様に、人の生き方もモノのあり方も、形に縛られ易い物だ。

 ここで詩織さんの想いに逢えるのも後僅か。
 ここで詩織さんに想い出に浸るのも後僅か。

 さようなら、詩織さん。佐織さん秀彦さん。
 一度だけ奥の闇を振り返って、想いを届け。

「……帰ります。申し訳ありませんでした」

 日は西の空に沈み、光は薄れ消えてゆく。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「バスはもう一時間待たなければ通らない」

 結婚前の娘を、無人の夕闇に捨て置く訳にも行かない。車で来ているから、家迄送ろう。

 そう言う訳で、平さんの車の助手席にわたしはいた。本当はもう少しあの場に佇んで最
終バスに間に合わせる積りだったのだけど…。

「真沙美と、仲良くして貰っている様だね」
「いえ、こちらこそお世話になっています」

 彼もわたしに話したい事があった様だから。
 その事についてなんだが。平さんは静かに、

「今後余り娘には、関らないで頂きたい…」

 直裁的に、わたしとの関りを断ってきた。

「君の話や噂は色々な方面から聞いている」

 学業優秀、容姿端麗、運動神経も良い。誰にも優しく物静かで大人しいのに、誰かが苛
めに遭う時は凛として抗い、皆を大切に想う。

「……だが、真沙美との間柄が、女子同士にしては近しすぎるという悪い噂も聞いてね」

 平さんは反応を窺う為に、真横のわたしを正視して、再び運転の為に前方に視線を戻す。
わたしは敢て応えず、彼の話しの続きを待つ。

 真沙美さんとは、和泉さんを介し和泉さんの家で、月一の間隔で3人夜を過ごしている。
その時と学校以外で、わたしは彼女と逢えてない。それでも鴨川と羽藤の親愛は子供より
大人の目を惹く様で。登下校で手を繋いだり肩を並べ歩む姿に、尚目を丸くする人がいる。

 学校では、夕維さんや利香さんとの関りで一時誤解を招いたわたしは、極力控えめな日
々を送る様に努めていた。わたしと恋仲を噂された女の子は数多く、逆にどれも根拠の薄
い噂話で。真沙美さん、和泉さん、利香さん、夕維さん、早苗さん、歌織さん。他にも手
芸部の倉田先輩や高岡先輩、一級下の難波さん。男の子でも菊池先輩や小野君、飛鷹君や
広田君。飛び交う噂を鵜呑みにすれば、わたしは何股かけているかも分らぬ恋多き魔女だ
った。

 平さんも噂の一つ一つは信に足らぬと認め。でも数が問題だと。多すぎる噂話が問題だ
と。

「表向きの評価の良さと裏腹に、君には良くない噂が多数付き纏っている。しかも悉く君
を支点として広がりを見せている。何か揉め事があれば君の名が見える。どう思うかね」

 わたしは、たいせつな人に困り事があれば、その人の力になりたくて役立ちたくて、首
を突っ込んでいた。わたしが関る事で解決できるならと。結果わたしが禍の中心で揉め事
を招き導いている印象を、局外の人は抱くのか。

「経観塚は余り大きな街じゃない。悪い噂は一度浸透したら中々払拭できない。根拠のな
い噂でも、女同士で恋だの愛だの囁かれる事自体が迷惑なんだ。真沙美にも、鴨川にも」

「それは……申し訳ありません。お父様…」

 今時点で既に迷惑だとの指摘は衝撃だった。誤解したい者の誤解は解く必要ないと言い
切る真沙美さんに、その強さに甘えていたかも。

「君の真偽や善悪を問う積りはない。君の趣向は君や君の家族の問題だ。だがこうも良く
ない噂が多くなるとね。君が級友相手に霊媒ごっこに耽っているという噂も聞いている」

 それは多分利香さんのお母様の葬儀の席で、利香さんが放った言葉を耳にした者からの
…。

 わたしが被った汚名は、わたしに繋る者に及ぶ。わたしは桂ちゃんと白花ちゃんの日々
の静謐を守る為、真実を語らず汚名を被る事を受け容れたけど。その汚名がわたしに繋る
友に及ぶとは。たいせつな人の害になるとは。

 わたしは確かな証拠は残してない筈だけど、人は確かな証拠に等目を止めてはいなかっ
た。印象で判断し、面白い作り話に聞き耳を立て、耳にした噂を信じない内に隣人に語っ
ていた。誠を通して分って貰えるのは面と向き合った少数だけで、その他大勢は無責任に
噂を語る。

 理解してくれる人の輪の中で、わたしは世間を見失っていた。その輪の外に数多くのそ
うでない人々がいる事を失念していた。平さんが見せてくれたのは世間一般の見解だった。
問題は真偽でも善悪でもない。噂を多く招いた事が問題だった。わたしは本当に愚か者だ。

「誤解を招いたのは、わたしの不徳です」
「その通り。君の判断ミスの積み重ねだ」

 そういう者を大切な娘に近づけたくない想いは分るだろう。真沙美にもこの旨は伝える。
逢えたから、君にも言っておこうと思ってね。学校でも必要以上に娘に接触しないで欲し
い。

 話が終ると同時に車が止まる。丁度羽様の緑のアーチの前に着いた頃合だった。空は既
に半円の月が昇り、星が瞬いて落ちてきそう。

 話しは終ったから降りなさいと言う視線に、

「ごめんなさい。お父様の大切な真沙美さんに、わたしの所為で迷惑を掛けてしまって」

 もう少し時間を下さいと視線で訴えかける。
 平さんの想いは確かに感じた。受け取った。
 ならそれを受けたわたしの心を返さないと。

 平さんが答を望まず通告で終える積りでも。
 わたしの真沙美さんや平さんに抱く想いを。
 何を弁明するのかと険しくなる表情に向け、

「心配や不安を与えた事は申し訳ないと思います。今迄その事に気付きもしなかったわた
しは愚か者でした。真沙美さんにも、きっと負担を掛けていたのだと想います。わたし」

 真沙美さんの強さと優しさに、甘えていた。
 真沙美さんの傍にいられる事に、唯喜んで。
 わたしに関る事で不利益を蒙っているのに。
 真沙美さんの幸せに、役立ちたいなんて…。

 賢く綺麗な人だから、一緒にいると覇気が湧いてくる人だから、大好きな強い人だから。
お友達でいて欲しくて、お友達でいてくれる事が嬉しくて、その笑顔しか見ていなかった。
感応使いのわたしは気付かねばならないのに。

「お父様の言う通りわたしは友達失格です」

 友の負担だった己に気付けぬ様なわたしは。
 誰かを友達に持つべき者ではないのだろう。
 真沙美さんと関係を断つのは淋しいけれど。

 それはわたしの淋しさだ。わたしの心の利得だ。真沙美さんのそれではない。わたしは
己の充足や欲求を満たす為に人に負荷を掛ける事は望まない。真沙美さんと真沙美さんを
想う父の平さんの最良がわたしとの断絶なら。

「わたし、受け容れます。……わたしが受ける誤解が真沙美さんに及ばない様にするのに、
それが最善なら、断絶を望みます。させて下さい。今迄の罪の何分の一の償いにもならな
いと思いますけど、真沙美さんの、為なら」

 呑み込みたくない想いを胸の奥に押し込め。
 関係を続けたいとお願いする声を喉で抑え。
 溢れ出る熱い雫を、瞼の底で食い止め防ぎ。

「わたしも、真沙美さんを大好きですから」

 それだけは伝えたかった。真沙美さんにも、真沙美さんを大切に想う平さんにも。分っ
て貰えても、どれ程の意味もないのだろうけど。

「本当にごめんなさい。……幾ら謝っても取り返せる事ではないけど、わたしの所為で」

 深々と頭を下げて、それから面を上げて、

「一つだけお願いがあります。……最後に真沙美さんにも、直に謝らせて欲しいの……」

 関係を絶つには、しっかりと断たなければ。
 中途半端では悔いを残し引きずってしまう。

「真沙美さんの為に断つ事が絶対に必須なら、わたしも己を吹っ切る為にしっかり断ちた
い。そうしなければ断てないのは己の弱さだけど。お願いします。一度で良い、直接謝ら
せて」

「……羽藤、君。君は……一体、何を…?」

 平さんはわたしが真沙美さんとの関係を続けたいとの、願いや弁明を予想していた様だ。
或いは反駁の術がなくて黙した侭通告を受け容れるか、聞いても行動で受け容れないかと。

「わたしが最も害を与えたのは真沙美さんです。彼女にこそ謝らないと。それに真沙美さ
んはこんなわたしをお友達にしてくれました。関係を断つなら、彼女に正面から向き合っ
て断たないと、わたしが卑怯者です」「……」

 覗き込んだ瞳が、固まっていた。わたしに、平さんは過去を重ね見て、いるのだろう
か?

『お願いします。父さん……直に、直に彼女に逢って、話しをさせて下さい』『駄目だ』

 わたしの心に響くその声は、平さんの心の。

『父さん。結婚を約して、身体の関係も持った後なんです。お互い好き合っていたんです。
せめて別れるにしても、一度逢って事情を話して、確かに関係を絶たないと彼女だって』

『羽藤とはもう断交したのだ。二度と会う事も許さんし、語らう事も認めん。もしそんな
様を見聞したなら、羽藤の長女との関係が続いていると見なし、平、お前を勘当する…』

 厳しい声は、平さんのお父さん、真沙美さんのお爺さんか。平さんの声は未だ若々しく、

『どうして! 父さんは個人は皆平等だって、恋愛にも身分は関係ないって言っていたの
に。どうして彼女と僕だけは認めてくれないの? 彼女は昨夜もこの軒先迄、来ていたの
に』

 父さんの言う通り離縁したのに。一番害を受けたのは羽藤の彼女じゃないか。最後に一
度だけ、彼女と直に話させて。お願いします。

 これはわたしのお母さんと離縁する前後の。

『せめて謝らせて。想いを直に伝えさせて』

『情が移る。会う事も話す事も一切認めん』

【私は、直に逢って謝る事も叶わなかった】

 心が無防備に開かれていた。何拾年か前の像が、今のわたしの言葉に偶々重なって視え
た為に、平さんの心の傷を抉る事に。わたし、平さんを更に苦しめる様な事をしてしまっ
て。

 彼の心が揺れていた。彼の瞳も揺れていた。
 運転席から左を向いた姿勢で暫く固まって。

「君は、真沙美を心から好いているのか?」

 視線は、先程までの隔絶や嫌悪ではなく。
 問答は、鴨川と羽藤を越えて平と柚明で。
 彼にはわたしは羽藤の娘ではなく母の娘。
 わたしはその問に、正視を返して頷いて、

「散々負担を掛け害になったわたしが言うのも不相応だと想いますけど、たいせつな人」

 わたしが心から身を尽くし、力になりたく想う強く賢く綺麗な人。わたしは、その傍に
寄り添う資格を持たなかったけど。結局悪い噂に巻き込んで、負荷になってしまったけど。
その幸せが望みだったのに、その守りが願いだったのに。わたしがそれを、壊していた…。

 その事に慚愧は尽きないけど。わたしは、

「絆を断たれても、鴨川真沙美はいつ迄も羽藤柚明のたいせつな人です。困った事がある
なら、わたしで役に立てるなら、いつでも」

 この身も心も捧げます。その事も伝えたい。

「お願いします、お父様。直にお話しを…」

 暫くの沈黙の後だった。平さんの答は苦く、

「……それは、不要だ」

 平さんは短く言葉を切ってから深呼吸して、

「私も、焼きが回ってきたかも知れないな」

 今の話は忘れて、なかった事にしてくれ。

「君は去年娘を、真沙美を助ける為に、学校の授業を放り出して、駆けつけてくれた…」

 様々な誤解を承知で、行く手に拾数人の害意を持つ不良が居ると承知で、痛みを負って。

「君がそう言う人間でなければ、そう言う諸々に怯まない人間でなければ、今頃真沙美は
中学校にいられなかったかも知れないのに」

 関係を断つ求め迄も真沙美の為に受ける。
 だから真沙美も君を深く愛したのだろう。

 大きく溜息を吐き出して脱力したその後で、

「お父様……?」

 真沙美や君の意志に暫く事を委ねても良い。

「本当に相手を想い合い、深く好意を抱き合う者が引き裂かれる様はもう、見たくない」

 様々な意味で苦味を宿した声音は沈痛で。

「尚お付き合い続けて、宜しいのですか?」

「良いとは言えないな。羽藤と鴨川の関係は断交した侭だ。唯、今後も今迄通り真沙美を
大事にしてくれるなら、私は片目を瞑ろう」

 予想外の満額回答だった。平さんの渋い顔は娘を想いやる親の苦味か。わたしへの想い
より、お母さんへの想いが視えた。断交した旧家同士だけど、平さんは羽藤を憎んでない
し、お母さんへの想いを今尚抱き、わたし迄慈しんで。断つべき処を思い留まってくれた。
逆に言うとわたしは関り続ける事で、今後も真沙美さんに負荷を及ぼし続けかねないけど。

「有り難うございます、お父様。必ず、真沙美さんの為に役立ちます。全力で愛します」

 嬉しかった。抱きついて気持を伝えたかったけど、誤解を呼ぶ動きは平さんが嫌うから。
彼の左手を両手にとって、頬に合わせてお礼を述べる。その様がお母さんの若い頃に似て
いると、平さんは苦味と甘みに顔が複雑で…。

 恥じらい以上に判断がやや甘かったかもと、平さんは少し悔いたのか。わたしの喜びに
冷水を混ぜようとやや大きな声で言葉を続けて、

「所詮、真沙美との関りは後一年半もない」

 どれ程深く関っても、終りは視えている。
 所詮は中学卒業迄の、期間限定の繋りだ。

 真沙美さんが高校は経観塚の外、首都圏の名門女子高に行く予定だと、平さんは語って、

「友情も愛情も一緒に時を過ごして紡がれる。離れ離れになれば、熱い想いも自然に萎え
て弱る。今断ち切って心に深手を残しても、高校進学後に自然に切れても結果が同じな
ら」

 形が崩れれば想いは消える。別の街に住み違う学校に通う様になれば、日々顔を合わせ
る者との諸々に心は向く。自然それ迄の友との関りは薄れ想いも萎える。水が器に従う様
に、人の生き方もモノのあり方も、形に縛られ易い物だ。それも刻々変る今現在の形状に。

 平さんはわたしと真沙美さんの関係を問い質さなかった。勘づいているのかも知れない。
それも所詮中学卒業迄の関りだと。それでも、一年半の日々を残して貰えた事は幸いだっ
た。

 形が崩れれば想いも危うくなるけど、逆に言えば形が残る限り想いも続く。末が視えて
いても、否、視えているからこそ、最後の瞬間迄、わたしは想いを紡ぐ事を止めず諦めず。
今は目の前の日々の諸々に全身全霊挑みたい。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「広田君っ……お願い。もう、止めてっ…」

 喉が強ばり大きく出ない悲鳴を、感応で悟って教室に踏み入ったのは昼休み。室内では、
干し首を右手に持った広田君他数人の男子が、怯え震える早苗さんを教室の隅に追い詰め
て。

 真沙美さんなら一声で男子を黙らせるけど。歌織さんなら早苗さんの危機には割って入
るけど。高原君なら諫めてくれたのだろうけど。美子さんの制止に真沙美さん程の効果は
なく、逆に堀田君に制止を防がれ、割り込めないで。

「こんな物が怖いのかよ。こんな作り物が」

 元々遊び半分の広田君は、早苗さんの予想外に大きな反応に悪乗りし、干し首を突きつ
け続けるけど、早苗さんの怯えは真剣だ。単なる怯えという以上に、心が恐慌状態だった。

 広田君は、視えてないのだろう。彼のお父様が買ったその干し首は、確かに偽物だけど。
人の首ではなく猿の首で作った紛い物だけど。呪物の紛い物は例え偽物でも、誤認して依
り憑くモノがいて、本当の呪力を持ちかねない。

「ほぉおら、ほらほらほら」「やめてっ…」

 既にその干し首も、幾つかモノが依り憑いていて。害を為す程ではないけど、視える人
には視える濃さを持ち始めていた。早苗さんは霊能者迄は行かずとも『やや視える』人だ。
確かに視えずとも不吉な兆しを感じたのかも。

 すっと教室に踏み込むと、滑らかに広田君の元に歩みを進ませ、無言の侭彼の右手の干
し首を、左手でひょいと取り上げ。男子の誰にも気付かせず防がせないのは修練の成果だ。

「……」「おい、羽藤。何だよ、返せよっ」

 目の前から干し首が消えて、早苗さんはぐったり壁に凭れ掛る。一方楽しみを中途で邪
魔された広田君は、突如視界に顕れたわたしから、干し首を取り返そうと手を伸ばすけど。

 わたしは手を振って躱し、簡単に返さない。

 簡単に返しては、彼はすぐ同じ事を続ける。
 少し焦らせて彼の焦点を、わたしに向けて。
 背後から伸びてきた、堀田君の両手も躱す。
 実は微妙に修練の成果を晒しているけど…。

「悪趣味な物ね」「返せよ。この、女男っ」

 それは学校祭で1組がやる事に決めたお化け屋敷の参考資料に、家から借りてきたんだ。
遊び物じゃなくて正規な物なんだから返せよ。

 中村君も入って6本の腕で、わたしの左腕から干し首を奪えない、広田君の焦りの声に、

「正規な使い方はしてなかった様だけど…」

 あなたも女の子を威かす為に、お父様からこの干し首を、借りた訳じゃないでしょう?

「はい……きちんと正規な使い方をしてね」

 適当に疲れさせ、彼らの焦点の早苗さんを一時リセットし、干し首を返して一件落着…。

 とは行かなかった。早苗さんが震えている。
 怯えもそうだけど、生気がやや足りなそう。

 干し首に怯え嫌う余り過剰に疲弊した様だ。体力のない人がいきなり全力疾走して疲れ
果てるのに近い。少し休めば復すると思うけど、

「大丈夫だった? もう怖い物はないよ…」

 抱き留めて癒しを注ぐ。早苗さんの生気の不足はやや大きい。今日は元々体調良くなか
った様で。この侭では午後の授業に差し障る。

 怯えで乱れた心を鎮める必要もあった。それは言葉より理性より、肌身に伝えるべき物
で。心の揺れを、身体毎抱き留めて安んじる。

 男女複数の視線はあったけど、今早苗さんに最も近く、その助けになれるのがわたしな
ら。倒れた美しい人をこの腕で確かに抱き起こし。今は唯たいせつな人の助けを、優先に。

 縋る何かを求めて柔らかな身体が寄り添い、両の腕が無意識の内にひしと締め付けてき
て。

 わたしはそれを振り払わない。

「柚明さん……ありがとう。怖かった……」

 漸く己を取り戻すと、今度は自覚して縋りたいと、細身な柔肌で確かに絡めつけてきて。

 わたしはそれを確かに受ける。

 ミディアムの黒髪が、汗に濡れて艶やかだ。冷汗が引いて体温が下がり、寒気が温もり
を求め人肌を欲していた。感応を使う迄もなく感じる微かな震えを抱き留めて、頬を合わ
せ。本当は早苗さんには歌織さんが居るのだけど、不在の今はわたしが代打を。美子さん
達が口元に両手を当てて、驚きを抑える様は分った。

 暫くそうし続ける必要があったけど、したい想いもあったけど、そう出来なかったのは。

「気に入らないなぁ、女同士で抱き合って」

 背に広田君の不満の声を聞いた時だった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 彼らの焦点を己に移せたけど、その為にわたしは男の子に応対せざるを得ず、早苗さん
に添い続けられなくて。気配と声に身を起こし、早苗さんを背後に庇って彼らに向き合う。
わたしを突き動かすのは憤怒や憎悪ではなく、

「たいせつな人が震えていたら、男でも女でも抱き留めたっておかしくないでしょう?」

「おかしいよ! 絶対におかしいって。普通、好きでもなければ人を抱いたりしないっ
て」

 広田君はやや長く茶色い髪の小柄な男の子。

 教室中央でわたしに対峙する男子数人の真ん中で、迷いなく断言する広田君を見つめて。

「わたしは早苗さんを好き。何度か言ったけど、結城早苗は羽藤柚明のたいせつな人…」

 わたしも迷いなく、平静にそう言い切る。

 困って涙していたら、助け出したく思うのは当たり前。怯え震えて倒れていたら、抱き
留めて安心する迄傍に寄り添うのは当たり前。

 彼の好きとわたしの好きは、微妙に違う感じがしたけど、今はそこ迄分け入る暇がない。

「誰にも苦手な物はあるわ。その干し首が作り物で偽物でも、気持悪い物を怯え嫌うのは
おかしくない。拒んで止めてとお願いしている事を、続けるあなたはおかしくないの?」

 もう少し、気持の伝え方を工夫して変えないと、想いは早苗さんの心に届かないよ……。

「うっ、うるせぇ! 干し首に全然平気なお前が気持悪いとか言っても、説得力ないぞ」

 わたしは贄の血の力の修練していますから。実体のない怨霊や悪霊の類は、夜に遭遇し
ても単独で退けられる迄、力も備えましたから。好みではないけど怯えを抑える位なら何
とか。

「女同士で抱き合ったり、好きとか言ったりする方が気持悪いぞ。お前、近くで人が倒れ
たり震えていたりしたら、誰彼構わず抱き締めるのかよっ。泣いたり困ったりしていたら、
男も女も構わず肌寄せて頬くっつけるのかよ。
 お前やっぱり噂の通り、女同士の変態…」

 彼が全て言い切れなかったのは、言わせなかったから。わたしはすっと進み出て、彼の
両手を己の両手で握り、胸の前に持ち上げて。わたしの動きの速さ以上に、驚きに言葉も
動きも固まった男の子の左頬にこの左頬を当て、

「たいせつな人なら、いつでもこの位の事は出来るよ。あなたも、もう少し自分の気持を
真っ直ぐ表せる様になった方が良いと思う」

「……うおうっ、離せよっ! 羽藤お前っ」

 少しの時間差は、わたしの動きの早さより、わたしの動きの中身より、わたしの言葉の
意味の方に。わたしは表に出た彼の敵意ではなく不快ではなく、奥に潜む真意に話しかけ
た。

 彼が一番応対に困ったのは、誰も知ってない筈のそれを、見抜かれていると察した為か。
でも困らせる為と言うより、わたしは広田君にそれを気付いて向き合って欲しくて。彼は
大慌てで手を振り解くと、一歩二歩後ずさり、

「……い、行くぞ!」

 展開に着いていけずに立ち尽くしていた堀田君達に視線を向け、一緒に教室の外へ出て。

 男の子達がいなくなってやや空いた教室に、それと入れ替りの如く歌織さんが戻ってき
た。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「早苗っ……柚明、あんた早苗に何をっ!」

 歌織さんが教室に戻ったのは、早苗さんを再度抱き起こそうと傍に屈み込んだ時だった。

 壁に背を預け力なく座り込んだ早苗さんと、脇に添うわたしを見て、問がわたしに向く
のは自然な成り行きか。見た目に早苗さんの非常事態なので、思わず詰問になった様だけ
ど。

 わたしを押し退けて早苗さんに屈み込んで、その左頬に右の掌を触れて様子を確かめる
と、

「早苗! 早苗ちょっと、しっかりしなっ」

 早苗さんは未だ夢心地で、即答が返せない。不足した生気や心の乱れが漸く幾分満たさ
れ、緊張が解けた頃合だ。なので歌織さんは、押し退けられ床に尻餅ついたわたしに顔を
寄せ、

「柚明……。例えあんたでも、早苗を傷つける様な事をしたなら、唯じゃ置かないよっ」

 間近な美子さん達の視線等意識の外にある。それ程に早苗さんの事に必死で、全力なの
か。

 瞳の奥を貫く様に見つめる凛々しい容貌に、少しの間見とれてしまいました。何という
か、王子様。和泉さんに少し似てたかも知れない。癖のあるショートの黒髪で、背丈はや
や小柄だけど、でも胸は意外にもわたしより大きく。日頃早苗さんを守る様に支える様に
常に一緒。互いはもう仲の良い友達を越えているのかも。

「柚明?」「……」「歌織ちゃん、違うの」

 歌織さんの詰問に応えたのはわたしではなく、歌織さんの背後の歌織さんの姫君の声で。

「これは広田君達が。気味悪い干し首を無理に押しつけてきて、少し気分が悪くなって…
…柚明さんはわたくしを守って下さったの」

 そこで歌織さんも、自身と入れ違いに教室から出てきた数人の顔ぶれを思い出せた様で。

「……あいつら、私の居ない内にっ……!」

 最近彼らが、と言うより広田君が早苗さんにちょっかいを出しているらしいと、歌織さ
んも気に掛けていた様で。その場にいて助けられなかった悔しさと怒りに、暫く顔が歪む。

「わたくしはもう大丈夫。余り怒らないで」

 大丈夫ではなさそうだけど、頭に血が上って彼らを追って行きそうな歌織さんを、早苗
さんは自身の不調よりも心配し。歌織さんの心の焦点を、どこかに移すべきだった。なら。

「歌織さん、今日の早苗さんは元々余り体調が良くないみたい。保健室に運びましょう」

 早苗さんは、わたしの意図を分った様だ。

 彼女を運ぶ名目で歌織さんを引き留める。
 早苗さんを出されれば、歌織さんは弱い。

「分った。一緒に運ぼう。私は早苗の右を」

 わたしがその左を支え、3人で保健室へ。
 午後の授業の、五分前の予鈴が鳴り響く。

 支えつつ癒しを注ぐけど、例え体調が復し心落ち着いても。広田君達と同じ教室で、午
後の授業や休み時間を一緒すべきではないか。早苗さんの怯えが歌織さんの過剰反応を招
くかも。歌織さんにも保健室で添って貰う方が。

「美子さん。午後の授業、少し遅れるかも」
「分ったわ。しっかり姫を送って来なさい」


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「さて、手芸部の今年の学校祭への参加ですけど……そこ、私語ちょっと煩い」「はい」

 副部長の高岡千秋先輩がぴしっと指差すと、きゃっきゃと声を上げていた1年生の女子
が、一応鎮まるけど。余りへこたれた様子はない。議長を担う副部長は締まり屋さんでも、
それを見守り総括する部長が自由奔放な人なので、手芸部の雰囲気は思ったより明るく開
放的だ。

 今は放課後に入った直後。校舎二階隅の家庭科準備室は拾八人の部員が揃い。部長副部
長を始めとする3年生5人は、学校祭を最後に部活を退く。良い催しにしたい処だけど…。

「羽藤さん、どうかしら。何か意見ある?」

 ショートな黒髪の高岡先輩の説明が終ると、ロングヘアの部長の倉田先輩がわたしに問
う。机に肘を付いて合わせた掌の上に首を載せた、背の高く体付きも大人っぽくて野性的
な人に、

「手芸部の特長を生かした催しが好ましいと思いますけど」「賛成、わたし賛成ですっ」

 全てを言い切らない内に、諸手を挙げて賛同してくれたのが一年生の難波南さん。小柄
で華奢な身体に、ミディアムの黒髪が可愛い。わたしに憧れて手芸部に入ったと、自己紹
介をされた時は、わたしも共々に赤面しました。

 さっきも高岡先輩に注意されていた、元気溌剌に楽しげな彼女が、わたしに値を見出す
とするなら、隣の芝生は青いと言う事なのか。わたしは周囲から言われる程には大人びて
も物静かでもないと自己診断しているのだけど。

 発言を中途で切られても別に気にはしない。賛成で発言を引き継いでくれるなら任せる
し、そうでなくても今の手芸部ならば問題はない。日常茶飯事なので、高岡先輩も叱る事
はせず、

「では難波さん。具体的に何か案はある?」
「ううっ、そ。それは……あう、あうぅぅ」

 いつもわたしを支持して明るく場を盛り上げてくれる彼女だけど、議論はやや不得意で。

「羽藤さんの意見を分って全て言わせず賛成したのでしょう。どこに賛成したのかしら」

 わたしはまず原則的で無難な意見を述べる。誰も反対しない基本線を。それは己の意見
と言うより全員の前提を固めてゆく作業の様な。皆の合意が取れれば、次の段階へ皆で進
める。

 自身の意見は後回しで先に共通認識を作る。その進め方が何度か巧く行った為、部長も
副部長もその方式を認める感じで、最近は議事運営の一部がわたしに下請けされている様
な。

 個別の論議が煮詰まるとわたしの出番だ。
 議題の基盤や前提を再確認しつつお話を。

「羽藤さん。難波さんに大賛成された意見を、難波さんに代ってお話しして貰って良
い?」

 高岡先輩の涼やかな促しに、はいと応え、

「やはり手芸部なので、裁縫や刺繍を前面に出した催しにするべきと思います。昨年は」

「作品展示でしたね。羽藤さんは機で反物を織ってくるという大技も披露しましたけど」

 背の低い眼鏡を掛けたやや太めの女の子。
 同級の間淵景子さんが挟む言葉に頷いて、

「唯、去年もマンネリという指摘を受けたので、何か工夫が必要ではないかと思います」

 手芸部と言えば作った作品を展示するだけ。
 それでは人の興味を大きく惹くには力不足。
 年に一度の学校祭、先輩達には最後の催し。
 知恵と気合を込めて例年と少し異なる物を。

「手芸の目的は展示する事ではありません」

 その辺りに突破口がある様な気がします。

 わたしの案を先に語らないのは、他の人の想像力を縛らない為だ。言葉に出せば印象を
引っ張って狭めてしまう。他の人のイメージが言葉に出て形になるのを待って、わたしの
案も議論に加えたい。叶う限りみんなの自由な発想を引き出して、みんなの結論にしたい。

「展示する以外に、作品をどう見せると?」

 同級の菱田梢子さんが首を捻りつつ問う。
 菱田さんはショートな黒髪に細身な子だ。

 手芸部も過去拾数年ずっと作品展示だった。中々他に着想できなくても無理はない。書
道部も華道部もそうだけど、文化部の成果の発表方法は多くない。運動部なら主眼はそれ
ぞれの大会で、学校祭は発表も関係なく食品バザーやゲームコーナーで異論はないのだけ
ど。

 わたしは即応えず、同輩や後輩に考えてみてと促し。先輩にも意見があるならと視線を。
でも、ないなら指名して困らせはせず。部長も副部長もわたしの進行を楽しげに見守る中、

「展示して売る位しか思い付きません。売れる程の作品を作れる羽藤さんの様な人は部で
も少数ですけどね」「わたしも同意見です」

 間淵さんの答には、例年と異なる発想なんてそうそう出ないよと言う出題者への不満も
窺えた。梢子さんもお手上げの感じで同調し、下級生も声がないので、議論は行き詰まり
か。

「柚明さんには、何か案があるみたいね?」

 倉田先輩の興味深そうな視線が答を促す。

「それ程自信のある案ではないですけど…」

 わたしが明確な意見や答を後々に引っ張るのは出し惜しみではない積り。話の中途でも、
わたしの話に触発されて独自意見が出てくるのなら、それも出来るだけ取り入れたいから。

「わたし達の作品は使われて役に立つ物です。見せる為と言うより、身につけたりして使
う事に本当の意味がある物です。ですから…」

「はい、はいはいはいっ!」「難波さん…」

 あなた本当に羽藤さんの意見を分って賛成しているのでしょうね。高岡先輩がわたしの
言葉を一度抑え、南さんにその続きを促すと、

「みんなが作品を着て展示すれば良いです」

 自分達で作った服を、唯置いて展示するのではなく、自分達で身につけて見せる。服も
刺繍も誰かが身につけて初めて役に立つ物だ。機能を果たしている姿に本来の美しさがあ
る。

 わたしの意見を中途迄でもしっかり汲んで、

「マネキンに着せるより、実際作った人達で身につけた方が、似合って映えると想います。
部長先輩やゆめい先輩が、自身で縫った綺麗な服を身につけた姿、ぜひ見たいです。いえ、
他の人が誰かにお仕着せするのもありっ!」

 スチュワーデスとか婦人警官とか、巫女さんとか看護婦さんとか。燕尾服や鎧兜も格好
良さそう。ウエディングドレスとかチャイナ服に、サリーも可愛いかも。縫いましょう!

 言っている間に段々頬が染まっていくのは、何を想像してでしょう。隣の後輩の小林知
花さんが、ショートの黒髪を微かに揺らせつつ、

「南ちゃん結構それヒットかも」「えへへ……高岡先輩やゆめい先輩にお洋服着せたい」

「難波さんっ!」「自分が着る物を作るより、部員誰かに着せる物を作る方が楽しいか
も」

 やや妄想気味な呟きに高岡先輩の鋭い声が挟まるけど、倉田先輩を筆頭にみんなは乗り
気で。人が身につける事で生きた展示とする。これは他の文化部に難しい手芸部ならでは
の。

「そう言えば、柚明さんの意見中途だよね」

 盛り上がり始めた議論の中で、ふと気付いた梢子さんの声に、再び視線が集まってくる。

「わたしも、南さんの意見に基本賛成です」

 見ると南さんの瞳がキラキラ輝いていた。

「唯、もう少し修正というか追加というか」

 折角見に来てくれたなら、ゆっくり見ていって貰いたい。みんなの想いを込めた力作を、
心ゆく迄見て貰うには。少し足を、留めたい。

「服飾喫茶……」「私達、ウエイトレス?」

 わたしの意見に周囲の瞳が再度見開かれ。

「ケーキや飲み物を少し出して、お客さんにゆっくり座って留まって貰い、わたし達が自
ら縫った服装で、動き回る様を見て貰うの」

 来客に、作品を身につけて貰うのも良い。
 如何でしょうか? わたしの問いかけに、

「ふむ……難波さんの意見の、進化型だ…」
「悪くないかもね。少し手間は増えるけど」

 上級生の意見は前向きで、同級の梢子さんと間淵さんに異論はなく、下級生の拾人は皆、

「賛成っ! だいだい、だい賛成ですっ…」

 南さんが騒ぎすぎだけど、基本皆賛成で。

「じゃ南プラス柚明案の服飾カフェで決定」

 良いですね、部長。高岡先輩の取り纏めに倉田先輩が頷いて、手芸部は一ヶ月先の学校
祭に向けて、例年になく精力的に動き出した。


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「ゆめい先輩、未だ帰らないんですか…?」

 西日が差し込む家庭科準備室で、作業に没入中のわたしに声掛けてくれたのは南さんだ。

「ん……わたしは家が羽様だから。後は次のバス迄一時間位空きがあるの。バス待合所や
商店街で時間を潰す位なら、作業した方が」

 南さんと知花さん以外の人は、帰った様だ。学校祭迄未だ一月以上ある。家庭科準備室
は使用頻度が低いので、部員の多くも制作途中の未完成品を、中央の大きな机に置いて帰
る。なので一時席を外しただけなのか、今日はもう帰ったのかは、見ただけでは分り難い
けど。刻限と雰囲気からほぼみんな帰り終えた様で。

「わぁ、もうこんなに進んで」「早いです」
「2、3日で作品完成しちゃいそうな勢い」
「それに、早いのに縫い目が本当丁寧です」
「ふふ、褒めてくれて有り難う。嬉しいわ」

 可愛い後輩2人に、誉めて貰えるのは素直に嬉しい。本当は、笑子おばあさんについて
修練に励んだ数年の蓄積で言えば、後輩より同輩より、先輩よりも早くて当然なのだけど。

「早く自分のノルマを完成させて、みんなを手伝える様に手を空けたいの。今年は裁縫だ
けじゃなく喫茶の手配もある。わたしは2年生だから積極的に動かないと。可愛い後輩も
いるから、教えたりする時間も欲しいわね」

 己のノルマはこなせて当然で、後輩がいる以上、必要に応じその助けや教えに回るのは
先輩の責務だ。家が羽様でバス時刻に縛られるわたしは、人より本格始動を早くしないと。

「巧く行かない処や、分らない処があったら、遠慮なく訊いてね。わたしも分らない処は
先輩に訊く事になるけど、先輩も色々忙しいし、わたしで答えられる処は任せて貰う積り
…」

「いっぱい教えて貰っちゃって良いですか」

 歩み来た南さんの願いを察し、差し伸べてくる両手を両手にとって胸の前に持ち上げて。

「ええ。その為に自身の作業を急いでいるのだもの。迷惑にも負担にも思わない。後輩に
頼って貰えるのは、先輩の醍醐味の一つよ」

 手を離すと知花さんに歩み寄って、その撫で肩を両手で軽く抑えて、正視して頷きかけ。
3人の頬が赤いのは夕焼け空の所為でしょう。

 実は知花さんは間淵さんに教えを請うた先週、自分の作業が滞ると言われ萎縮していた。
確かに間淵さんはやや作業が遅く、人に教える余裕が少なかったけど。2人きりのその場
の話をわたしは知らない事になっているけど。

「幾らでも時間は作るから、頼って頂戴ね」

 その話しは既に後輩の多くに広まっている。知らない筈のわたしは直接言及できないけ
ど、叶う限り動揺を防ぎ鎮めたい。後輩が頼れる先輩でありたいし、先輩を頼る後輩でい
て欲しい。一つの応対ミスで心が隔たるのは淋しい事だ。その隔てを埋めるのに役立てる
なら。

「ゆめい先輩、よろしくお願いしますっ!」
「お気遣い有り難うございます。嬉しい…」

 元気に答えた南さんと、丁寧にお辞儀した知花さんを廊下に送り出した直後、横の家庭
科教室の扉が開く。少し前からそこに居た人は知っていたけど、目的迄は探ってなかった。


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 南さん達を送り出すのを待っていたと言うより、わたしが1人になるのを彼女は隣室で
待っていた。わたしのバス時刻迄、承知して。

「良いお姉さんぶりね。板についていたわ」

 冷やかし気味な呟きを漏らす。倉田先輩は背も高く肩幅もあるけど、その体格に劣らず
胸も大きくて。容貌がきつめなので、少し斜に構え柔らかさと大人っぽさを演出するけど、
猫科の肉食獣が獲物を見つめる視線にも似て。

「羽様のお屋敷で歳の離れた双子に日々向き合っているので、年下の子の扱いは多少…」

 そう。倉田先輩は着座した侭のわたしの間近背後の窓際に歩み来て。向き直って見上げ
ると、その影が窓から入る赤光を遮っていた。

「後輩みんなの憧れの柚明お姉さんは、年下の扱いに長けた包容力のある人でしたと…」

 そう言うタイプの部長が居ても良いかもね。
 倉田先輩は窓の外から視線をわたしに移し。

「ウチは部長の統率で大会とかの目標に挑む様な部活じゃないし。元気溌剌な年下の娘を、
妹の様に見守る部長も斬新かも。気に入りの難波さんだけじゃなく、小林さんの心の障り
も受け止めた。あなたなら、千秋の補佐に頼ったあたしと違って、良い部長になれそう」

「わたしが、次の手芸部部長に、ですか?」
「想像できない訳ではなかったでしょう?」

 二年生はあなたも含めて3人しかいない。

「先週3年生で話したんだけどね、全員一致であなただったわ。あたしも異論はなかった
けど、さっきの様を見て改めて納得出来た」

 影で暗いけど、覗き込んで来る瞳が瞬き。

「あなた知っていて? 今年の手芸部が新入生二桁を数えたのは、ここ数年の文化部にな
い壮挙だって。3年生が5人、2年生が3人。今年の拾人は明らかにあなたの人気による
物。鴨川さんと人気を分け合わなかったなら、手芸部の新入部員は更に倍増していたって
…」

 右手が、わたしの左耳の上の髪に梳き入れられた。肌が触れる事で想いが伝わって来る。

「綺麗で、優しく賢く気配りできて、尚自分自身の意見を確かに持つ。問題が生じれば最
小に収める知恵を持ち、誰かを排除する動きがあれば渾身で止める意志を持ち。あなた」

 男にも女にも好かれ、男も女も拒まない。
 瞬間、獲物を捕らえた野獣の眼が輝いた。

「みんなに愛される次代の部長。あたしにも愛されてくれるわよねぇ、羽藤新部長…?」

 両肩を抑えられ、背後の机にゆっくり押し倒された。為そうとしている事は分ったけど、
彼女の望みも分ったけど、反撃や防戦には踏み切れず。害意や敵意はなかったし、何より
一つ年上でも鍛錬も何もない普通の女の子だ。痛い思いさせたくない。拒んで涙させたく
も。

 実力で振り解いて力と技を人目に晒すのを嫌うより、それで部活の先輩との関りが拗れ
るのを厭うより、悪意も憎悪もない所作に本気で抗う事が躊躇われた。何より強く望まれ
求められているのに、隔て拒む事が心苦しく。

「せ、先輩ぃっ?」「やはり嫌わないわね」

 抵抗が殆どない。むしろ望んでるみたい。

 確かな意志のない内に、触れられて強い想いが流入したのも、感応使いには失策だった。
女の子の場だし日常なので警戒を緩めていた。わたしは望まれれば、応えたく願ってしま
う。肉体はやや大柄でも柔らかな女性だったけど、その想いはわたしの意志を押し流す程
強烈で。

「新旧部長の緊密な関りは大切でしょう?」

 微かな笑みが消えた時その動きは瞬間で。
 一気に覆い被さって、唇で唇を塞がれた。
 逃げる暇も防ぐ暇も止めさせる暇もなく。
 両の手がこの頬を固定して、唇は一つに。
 夕陽の熱より触れた互いを巡る血が熱い。

「驚いているの? 羽藤さん、あなた……」

 一度唇を放し、間近に見下ろして艶然と、

「様々な噂を纏わせた人だから、キス程度は男女いずれかで経験済みだと思っていたけど、
意外と硬いわね。それとも今迄の相手とはみんなおままごと程度の物だったのかしら?」

「倉田先輩。いきなり、何の前触れもなく」

 真沙美さんや和泉さんとは、そう言う事も為したけど。あれは行う迄に深く心通わせて、
愛しさが溢れ出る迄満ちた末の、結果だった。絆を深く通わせる経験を積み重ねた後だっ
た。こんな、いきなり身体から求め始めるなんて。

「だとしたら、あたしとの関りは少しハードかもね。ちゃんと舌を入れさせてくれないと、
あなたも楽しめないわよ。優しいお姉さんも上級生に掛れば小娘って当然だけど。落差を
楽しめて良いわ。リードして、あげるわね」

 両の乳房を両の手でがしっと掴まれて、身と心が再び硬直した。この人は、わたしの受
容や望みを考えに入れてない。自身が進めて楽しめば、その中に一緒に落し込めば、それ
で相手も楽しくなると思って。疑う事もせず。

「先輩、その……わたし、先輩に気持を寄せて貰えても、あの、一番の想いは、返せない
んです。わたし、別に、たいせつな人が…」

 無理に為されてしまうなら、せめてその前に言っておかなければ。わたしは身体を捧げ
る事が出来ても、一番の想いを寄せられない。相手を後で落胆させ、哀しませたくはない
…。

 んん? 倉田先輩のこの感触とこの表情も、わたしには予想外だった。倉田先輩はわた
しの言葉の意味を分って、ふふっと笑みを浮べ、

「あなたの本命があたしじゃない事位、最初から承知済み。あなたは望まれ好まれる侭に、
あたしに身体で答を返せば良いだけ。今大事なのは、あたしがあなたを求めている事よ」

 でもあなた、予想外に生真面目なのね。どうやら殆どの噂は虚偽みたい。青くて可愛い。

 哀れむ様な見下げる様な、でも微かに羨ましそうな、そんな瞳と猫撫で声で倉田先輩は、

「お互いにこれは遊び。深く心を込める必要なんかない、唯の火遊び。だから、あなたも
あたしを一番に想ってくれる必要なんかない。その代り今瞬間は燃え上がってくれない
と」

 あたしの求めに応えて貰う。応えさせる。

 想定外に思考が固まり、わたしは己の処し方を見失った。制服の上から胸を強く握られ、
不意の痛みに抑えた悲鳴が漏れる。わたしは先輩の想いを受け止めきれず、己の想いは伝
えたけど、その先は。全力で拒む気にもなれない侭、先輩の為すが侭に身も心も弄ばれて。

「意外にあんたが初心だと分ったから、暫くはソフトに留めておこうかね。でも、あんた
のその抑えた悲鳴と反応も、とても可愛い」

 暫くはあたしの遊び相手になって貰うよ。
 日が沈み夕闇に包まれた家庭科準備室で。
 熱は素肌の触れ合った残余があるばかり。
 上から覆い被さり左耳に間近で囁く声が。

「あんたは今から暫くの間あたしの獲物だ」


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「手芸部だからこその、手作りの様々な衣装を身につけて、店員さんをする喫茶室…?」

 楽しそうね。柚明ちゃんも可愛く映えそう。

 夕食の場でそのお話をすると、真弓さんもサクヤさんも笑子おばあさんも楽しみな様で。

「懐かしいね。僕も銀座通中にいた頃は文芸部で、演劇部とかの要請で脚本を作って…」

 1年生と2年生と3年生の、1組と2組を紅白に分けてのポイント争奪に熱が入ってね。

 そう語る正樹さんの左で笑子おばあさんが、

「正樹も演技指導や脚本の修正で学校に遅く迄残って、今日は銀座通の友達の家に泊ると、
真っ暗になってから突然電話掛けてきて…」

 正樹さんはかつての行いに苦笑いしつつ、

「羽様はどうしても遠いから。遅く迄特訓に残る部活は選べないし、生徒会や委員会もこ
なし切れない。唯、時期限定の学校祭や体育祭位は、我が侭を通させてってお願いして」

 去年はわたしも1年生で主力ではなかったから、残らなくて良いと気遣って貰えたけど。
後輩もいる立場の今年はそう言われてもわたしが遅く迄残る積り。一度か二度はお泊りも。

 暫く修練は週末に限定される。多分最後の週は休日返上で準備に掛るから土日も潰れて
しまう。その事にも了承を頂いて置かないと。

「折角サクヤおばさんがいてくれるのに、帰りが遅くて余りお話できなくて残念だけど」

「あたしは逃げはしない。時は余る程あるから安心して行っておいで。何事も経験だよ」

 何事も、経験ですか……。心の中で反芻し、

「演劇は今年も、演劇部と紅白で合計3本上演の予定です。1組は紅組で、真沙美さんを
中心に脚本や大道具作りも始めているの…」

 わたしは紅組のもう一つの出し物・お化け屋敷の担当だ。文化部は部の催しが優先する。
当日の応対は他の人にお任せなので、事前準備で頑張らないと。一度夜に肝試しして幽霊
を実感してみようと、みんなは相談していた。わたしはそう言う心霊探訪は、好まないけ
ど。想い出作りには適当な緊張感が必要なのかも。

「大丈夫です。害がありそうなモノは、祓っておきますから。何かあれば相談します…」

 みんなの感触は、概ね了解という感じで。
 今迄の羽藤柚明の蓄積を信頼してくれて。

「男の子の処へのお泊りは駄目よ」「はい」

 真弓さんは抱擁もお泊りも、女の子同士には大胆な迄に寛容だけど、男の子が関ると即
座に警戒態勢に入る。どこで誰とどの位の時間何をしたのか。どの様に感じ相手の反応は
どうか。次を約束したのか断ったのか曖昧か。逐一把握しないと不安な様で。手を握ると
か背中を合わせるとか、一緒に下校するとかでも妖怪アンテナが立つみたい。それもわた
しを案じてくれる故で、有り難いけど。懸案は、

『……わたし、求愛されちゃいました……』

 聡美先輩に為された事を、羽様の家族に話せる程わたしも剛胆ではない。制服の乱れや
心の引っ掛りを全ては隠せないけど。少し悩みがあるとは見せても、中身迄は明かさずに。

 贄の血や力に係る事ではなく、相手は年上でも女の子で、身に危険が迫った訳でもない。
だから即座に全て明かさずに、迷う余裕があるのだけど。1人で答を出すのは難航中です。

『即座に拒まない辺りが普通でないのかな』

 嫌いかと問われれば嫌いではない。嫌う迄深く知り合ってない事もあるけど。部活の時
間を一緒にしたたいせつな人とは言えたけど。ここ迄踏み込もうとは今迄考えていなかっ
た。

 強く拒めず始められてしまった繋りだけど、今後もこんな曖昧な気持で続けて良いのだ
ろうか。先輩は遊びと言って、想いを求めず身体を絡める事のみ望み。わたしが迷ってい
た。

 和泉さんや真沙美さんとの時には、一番にも二番にも出来ないけど、その中で想いの限
りを尽くさせて、身も心も捧げますと言えた。聡美先輩が想いの方を拒まないなら、真沙
美さんや和泉さんに返した答と同じ様に、己の身と心を捧げれば、良いのかも知れないけ
ど。

 真沙美さんや和泉さんとの関りがある上に。
 女の子同士という点を棚に上げるにしても。
 聡美先輩との関係は唐突で心が竦んでいて。

 わたしが子供で大人の関係に怯えている?
 わたしは新しい出逢を前に怖がっている?

 それがわたしを更に豊かに幅広くするなら。
 今迄の己にない物が新たに付与されるなら。
 もっと人を深く知り愛せる様になれるなら。

 歩み寄る桂ちゃんを座った侭で抱き留め、

『暫く受けてみようかな……先輩の求愛…』

 出逢はいつも最初は唐突で新規に見える物。
 聡美先輩を識ってみれば、心境も変るかも。
 わたしの心の在り方も、変るかも知れない。
 或いは先輩の在り方をわたしが変えるかも。

 寄せられた想いを呑み込めない内に拒むのは気が引けた。断るにしても、確かに受けて
感じてから向き合い断らないと心残りになる。既に押し切られて始った関係だから、今か
ら拒む方に理由や意志が要る状況でもあったし。拒むか流されるかではなく、正対して関
ろう。

 先輩の求める関りがどんな物か今一つ不鮮明だけど。年上の人は知識も経験も豊富だか
ら、わたしの足りない処を補って貰えるかも。お嫁さんに行けなくなる様な事は致しませ
ん。先輩はおままごとと言うかも知れないけど…。

 実の処、真沙美さんや和泉さんとの関係が、本当に女の子同士の恋愛なのか、わたしも
断言できていない。たいせつな人だけど、色々関係は繋いだけど、今尚わたし達の絆は、
姉妹の様な親友の様な恋人の様な、微妙な物で。

 恵まれた人間関係の中、わたしはたいせつな人と想いを交わし合えた。どれも貴い経験
だった。その積み重ねが桂ちゃんと白花ちゃんの幸せと守りに役立つなら。傷つく事も失
敗も挫折もあると感じても、手を伸ばすべき。

 羽様の家族がいてくれる限り、どれ程傷つけられようと羽藤柚明は頑張れる。みんな揃
っている限り、わたしの想いは潰えはしない。確かに形がある限り想いも確かに残り続け
る。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「柚明。その……誤解して悪かった」「?」

 放課後、掃除の終了を先生に報告に行った帰りのわたしを、歌織さんは1人待っていて、
職員室前の廊下でわたしに頭を下げてくれた。

「歌織さん……気にしないで。わたしも…」

 気にしてないから。そう言いつつ、歌織さんの話を続けたそうな意向を察し足を止める。

「早苗さん、今日は休んじゃったけど…?」
「ああ、それは元々の体調不良の所為だから。明日には出てくると想うよ。問題はない
さ」

 月一で体調を崩し学校を休むのは早苗さんの常だ。休みの日でも早苗さんの顔色を窺う
歌織さんがそう言うのなら大丈夫。それより、

「広田君のこと、気になるの?」「ん……」

 歌織さんの優先順位の上位は常に早苗さんが占める。彼女に関る話題を振れば本題に行
き着くと、関知も感応も不要に分った。歌織さんがわたしに相談を望む様子は目に見えた。

 和泉さんが同じクラスなら、彼女に行ったかも知れないけど。真沙美さんとは早苗さん
も歌織さんも関係が微妙で。直接は何もないけど、真沙美さんに寄り添う美子さんや2組
の弘子さんと、小学校時代に色々あった様で。

 相談されるのではなく相談しようとした時、早苗さん以外で傍にいたのが偶々わたしだ
と。その意味では、早苗さんを助けたのがわたしだったのは、良いきっかけになったのか
も…。

「最近広田が、早苗に妙にしつこくってさ」

 早苗の何を気に入らなくて手を出すのか。
 寄り付くなって、何度か強く言ったけど。

「私が早苗を傍で庇っていると、あいつ女の子同士で恋仲だとか、余計な事言ってきて」

 周囲の目線を少し気にしたらこんな事に。

『早苗さんに近い人が皆彼にそう映るのは』

「早苗は外野が何を言っても気にしないって、言ってくれたのに、私が妙に意識してさ
…」

 ああ、あの時の悔しさは。唯単に自分が不在の時に大切な人が脅かされただけではなく、
自ら離れて不在を招いた事への後悔で。広田君の口車に乗せられて離れた自身への悔恨で。

「柚明、済まないね。本当は、私が確かに庇って守らなきゃならない早苗なのに、あんた
の手を煩わせる事になって。あんたに申し訳ない以上に、かなり自分が情けなくってさ」

 普段男っぽい言動を為す歌織さんの、中身が実は違うとは、わたしも友達付き合いを始
めて暫くして感じた。それは男っぽく装って見せているだけで、早苗さんを庇う為に強く
あろうと努めているだけで。どっちが心の支えかと言えば、実は早苗さんの方が芯は強く。

「早苗があんたに心寄せるのも、納得だよ」

 あんた、見た目柔らかなのに心が剛胆で。
 視線は微かな羨みと眩しさを兼ねて潤み。

「広田の罵りに、私は正面から言葉を返せずに押し黙って俯いた、あいつの煽り文句に」

『たいせつな人が震えていたら、男でも女でも抱き留めたっておかしくないでしょう?』

『わたしは早苗さんを好き。何度か言ったけど、結城早苗は羽藤柚明のたいせつな人…』

 あの場の応酬は結構広まっているみたい。
 わたしに纏い付く噂が又一つ増えるかな。
 早苗さんや歌織さんに迄迷惑が掛りそう。
 でも歌織さんはわたしに構わずお話しを、

「例え私があの場にいても、早苗をきちんと守り助けられたかどうか。私に広田のあの煽
り文句を返せたかどうか。正解が見えた今でも、あんたの様に強く応えられるか不安で」

 あんたを突き飛ばしたのは、あんたを詰問したのは、今にして思えばあんたへの嫉妬だ
ったのかも。煽り文句一つに囚われ何も出来なかった鬱憤を、あんたに向けていたのかも。

 気付いているかい? 広田は余り自覚なく、私を呼ぶ時は『男女』で、あんたを呼ぶ時
は『女男』と使い分けているけど。その通りさ。

「私は幾ら髪を短く切って男言葉使って歩幅大きくして装っても、男の様な女でしかない。
早苗に守ろうと決意しても、周囲の噂話や視線を気にして、肝心な時に怖じ気づく。あん
たは柔らかく静かで大人しいけど、その芯は強くて硬く、揺らがない。女の優しさに男の
凛々しさを秘めて。むしろ早苗に近いんだ」

 広田はともかく、あんたには叶わないよ。

「……それで行くと、早苗さんも、女男?」

 歌織さんが、一つの場面への応対でわたしを過大評価しがちなのは脇に置いて、問うと、

「心霊の苦手と体調不良を除けば、早苗は鉄の女だよ。柔らかく静かで大人しそうな外見
の真相に、驚かされたのが馴れ初めだから」

 銀座通小5年の時に、女子の間で苛めがあってさ。半端な正義感で分け入って庇ったら、
連中その子を引き抜いて私を孤立させてきて。

「正直心折れた。その子は手を差し伸べた私と仲良くするより、私を生贄にして、少し前
に自分を苛めた集団に入れて貰う方を選んだ。
 私が彼女にはその程度の者だったと言うか、その程度の彼女だったと言うか、そう言う
彼女を見抜けなかった私の判断ミスというか」

 人は信じられない。情けや義憤を抱いて少数の側に寄り沿っても何の益もない。理不尽
でも多数に寄り添って生きた方が楽だ。多数なら1人2人裏切っても未だ残りがいるけど、
2人だけの時に裏切られたら私は1人になる。

 心を閉ざしかけた時、集団を敵に回したあたしに、寄り添ってくれたのが、早苗だった。
私が目の前で、苛めに遭った子を助けようとして孤立に遭う様を見て、尚手を差し伸べて。

『歌織ちゃんは、わたくしの綺麗な人です』

『あなた達の好みは自由です。ですからあなた達もわたくしの好みを縛らないで下さい』

『あなた達全員より歌織ちゃんが大切です』

 歌織さんの心に響く声がわたしにも届く。

 早苗さんは静かに揺るぎなく、一歩も退かず歌織さんに関り続け。心を固く閉ざして強
気に集団に対峙していたけど、孤独の重さに潰れそうだった歌織さんの心が解きほぐされ。

「取り替えの利く多数ではなく、どうしても譲れない1人が出来た。五人より拾人よりも、
手放したくない1人が出来た。大人しく静かに柔らかなその語調で、集団相手に怯まない。
誤解や噂を流されても気にせず、逆に他人の誤解や噂も気にせず、己の判断を信じ貫く」

 その瞳が真っ直ぐで、その心が強くって。

「あんたの応対を、彷彿とさせるんだよ…」

 敏感すぎて怪談や心霊が苦手なのと、最近月一で体調が悪いのを除けば、早苗は無敵さ。
本当は、私の守りも不可欠な訳じゃないんだ。私が寄り添いたくて、傍で守らせて欲しく
て、こうしているだけで。早苗は周囲に無理に合わせなくても怖くない。孤立を怖れない。
自分自身の想いに正直に生きられる強さがある。

 人は、私が支える側だと見ているけれど。

「逆に私が、早苗に心支えられているんだ」

 だから歌織さんには早苗さんが大切な人。

 早苗さんが支えているから、歌織さんは気丈に大胆に振る舞える。早苗さんが崩れると、
歌織さんが重心を失い安定を欠くのは必然か。それを脅かす者を歌織さんが嫌うのも当然
で。むしろその反応は早苗さんより激しいのかも。

「私が是非とも守りたい、綺麗な人なんだ」

 本当最近早苗は身体の線も女っぽくなって。
 誰が見ても抛っておけない程可愛くなって。

「あんたにも負けていないと、私は思うよ」

 自身の事の様に胸を張って誇らしげに語る。
 わたしはむしろその胸に負けていますけど。

「部活も同じなのはいつも間近で守る為?」
「って言うか、一緒の時を過ごしたくてね」

 結局人の関りは、一緒に過ごせた間にどれだけ心を通わせたかで決まる。私も同じ学校
で同じ学年だから、早苗や柚明と知り合えた。そうでなければこの関りはなかったと思え
ば。

 日々を共に過ごしたい。瞳を見つめ、言葉を交わし、手を触れ合って、一緒に何かに取
り組みたい。机を並べ共に頭を捻り、笑ったり笑わせたりして、毎日想いを確かにしたい。

「形がなくなれば想いもその内崩れてしまう。想いを届かせる場がなくなれば、想いを受
ける時がなくなれば、常に密に交わさなければ、形のない心は薄まって消える。響き合っ
てこそ想いは強く確かになる。形が支えてくれてこそ、形のない心も確かに掴める。私は
…」

 余り強くないから。早苗や柚明の様には。
 わたしの前だから、篠原歌織の素を晒し、

「毎日毎日心配だから、一瞬一瞬繋いでないと不安だから、それで早苗に常に寄り添って。
守りたいと言うよりもこれは、むしろ早苗に間近にいて貰いたい、私の我が侭なんだよ」

 想いが薄れてしまいそうで。関りが切れてしまいそうで。離れてしまう日が怖くて嫌で。
常に私を目に留めて欲しく心に留めて欲しく。常にその感触を心にも肌にも感じていたく
て。

「変かな? 女の子の早苗に、こういう想いを抱くってのは、私はやっぱり変かな…?」

 早苗に、迷惑かな? 早苗、嫌がるかな?

「私にとって早苗は大切だけど、私は早苗の近くにいたいけど、早苗にとって篠原歌織は
どの程度の存在なのか……すごく不安だよ」

 今迄早苗さんにだけは相談できなかった。
 心の内を羽藤柚明を深く信頼してくれて。

 怯えは、わたしという他人に想いを漏らす事よりもむしろ、自身の怖れに向き合う故の。

 自分自身程に怖ろしい物はこの世にない。
 それに必死で向き合う愛しい綺麗な人に、

「きっと正解。篠原歌織の、真の想いなら」

 潤んだ瞳と震える肩を、両手を回して身に寄せて、右頬に右頬をピタと当てて。心の震
えも身体の震えも、この身と心で鎮めるべき。人の視線を少し感じたけど、これは完遂す
る。

「人をたいせつに想う事は変じゃない。たいせつな人に傍で尽くしたく願うのは当然よ」

 唯傍にいれば想いが通じる訳ではないけど。
 同じ経験を一緒にする事で繋げる絆もある。
 形が想いを生み支え残し続かせる事もある。

 2人がその様に紡ぎ合ってきた想いなら。

「歌織さんは既に受け容れて貰えているわ」

 考えてみて。最初に関りを望んだのは歌織さんではなく早苗さん。2人の親密ぶりは広
田君が嫉妬する程だった。歌織さんが早苗さんを好いただけじゃない。早苗さんも間違い
なくその想いを喜び、同じ想いで応えていた。それは早苗さんと少し時を過ごせばすぐ分
る。歌織さんは己の怯えに目が眩んでいるだけだ。

「どうして最初の子が苛められた時は関らず、歌織さんの時に早苗さんは関ってきた
の?」

 早苗さんは、誰が苛められていも助けた訳ではない。歌織さんがみんなに抱く一般的な
善意で関ろうとしたのに較べ、早苗さんのそれは好いた人だから絶対引かずに関るのだと。
個別的な、歌織さん限定の、だから強い想い。

「歌織さんが早苗さんを見初める前から、歌織さんが早苗さんに見初められていたのよ」

 毎日近しく関るのも、部活も登下校も一緒なのも、それで広田君に噂されても全く意に
介せず、微塵も揺らがないのも。全て歌織さんの日々に現れた想いを受け容れているから。

「怯える事はない。想いは、届いているわ」

 目の前で美しい人は目を丸く潤ませた侭、

「柚明っ……」「あなた達2人の仲だもの」

 不安に潤んで堪っていた双眸から、零れ出た光り輝く宝石は、喜びの産物に変っていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 遅く迄残る必要は未だないと1年生を全員帰し、上級生だけで打合せすると、高岡先輩
の指示があったのは直前だった。長い話しを控えた休憩でトイレに来た処で、半ば事情を
察して不安を隠せない下級生拾人に遭遇して、

「ゆめい先輩っ!」

 1年生も大凡の事情は把握している。把握しているから、当事者のわたしに訊けずに固
まる拾人の女の子達の、中から一歩前に出て、

「今日の打合せの中身、聞いていますか?」

 軽々に触れては拙いと、知花さんが右の袖を引っ張るのを、分って続ける南さんに向け、

「聞いてはいないけど、大凡分っているわ」

 打合せの報せはわたしには、常に聡美先輩が自ら来るのに、今日だけ高岡先輩だったし、
聡美先輩は今日は部に顔も見せてなかったし。

「ゆめい先輩は悪くないですっ!」

 言うべき中身を何個か飛び越えた南さんの、声の大きさに驚いても中身に誰も驚かない
のは、事情が1年生にも共有されている証しで。

「ゆめい先輩のお話はいっぱい聞いています。先輩が誰にも優しくて、優しすぎて、人の
不幸や災難を捨てておけず、色々な事に関って、誤解を受けているって。誤解を怖れずに
人を庇い守るから、口さがない人は噂話するけど。一つ一つ聞いてみると、その人の為に
尽くそうと真剣な行いばかり。今回もきっと……」

 人の名前と行いを、喋り出しそうになった唇の動きを、右手の人差し指で触れて止める。

「有り難う。想ってくれる気持は嬉しいわ」

 言ってはいけないと叱るのではなく、想いは通じていると諭す。言って拙い事とは南さ
んも承知の上だ。それで尚言い募りたい想いの方を、満たして宥め。両手で両の頬に触れ、
言葉や理屈ではなく肌触りと温もりで鎮めて。

 その右隣で袖を引いた侭の知花さんにも、

「南さんをお願い。わたしは大丈夫だから」

 事を知らない筈の1年生9人が、上級生しか知らない筈の事実をわたしに喋るのは拙い。

「でも、ゆめい先輩……」

 言い募りたい想いを断ちきれぬ南さんの、

「わたしが、ビデオカメラ置いたせいで…」

 その背後から女の子の嗚咽が届いてくる。

 この中で唯一、情報の震源にいて事実を見聞きした筒井琴音さんだった。艶やかなセミ
ロングの黒髪を微かに震わせ、声音も震わせ。

「わたしが、手芸部の学校祭準備を後でみんなで見て楽しもうって企画に乗って、隠しカ
メラ部室に置いて、電源切り忘れた所為で」

 串田先輩を中心とした有志数人は、例年になく盛り上がっていた手芸部の学校祭準備を、
記録に残し振り返ろうと考えて。琴音さんが自ら家のビデオカメラを借りて来て、みんな
が来る前に積みっ放しの書籍の間に巧く挟み。

 琴音さんも、間もなく作業に没頭した為にカメラの事は忘れていた。本人が忘れた物事
に気付ける程の力は、わたしにも未だなくて。

 事の発覚は、琴音さん達がテープの内容を確認した今朝だった。琴音さんは先輩に口止
めされたけど、秘密を保つには事が重すぎて。1年生全員が事実を共有していると知れた
ら、その先を言わせては、琴音さんが責められる。

「その所為で、わたしの所為で羽藤先輩…」

 部員がみんな帰った後も、カメラは律儀に音と画像を拾い続けた。今年の学校祭企画の
提案者で次の部長に内定したわたしと、現部長が2人残り続ける様も。機械に意志はない。
置き去った機械の動きは感応で察せられない。

 わたしはその気になれば、感応ではなく関知の力で、ビデオカメラを置いた人や置かせ
た人の像も探れた筈だけど。悪意や敵意を感じないと、探りもしなかったのは軽率だった。

「あなたの所為じゃないわ……琴音さん…」

 怯え震える心を鎮め。彼女は何も悪くない。串田先輩の発案も善意だし、琴音さんはビ
デオカメラを供出しただけだ。誰に謝る必要もない。むしろあの画像と音声を見聞きして
尚、わたしを想ってくれるみんなの心が有り難い。わたしに嫌われ隔てられるとの怯えが
愛しい。わたしとの関りが断たれるとの怖れが切ない。

「わたしは今もあなたを好きだから。今後もあなたを嫌いはしない。筒井琴音は羽藤柚明
のたいせつな人。今後何がどう変っても、それが変る事はない。いつ迄も変らないから」

 その両手を両手で握り、胸の前に持ち上げて強く合わせて。瞳は黒目の中の己を正視し。

「あなたは何も悪くない。あなたの所為では何も起きてない。今後起こり得る事は、わた
しが招いた事だから。わたしが責を被るべき事だから。優しい心を曇らせないで。わたし
はどんな結論もしっかり受け止めて挫けない。だから琴音さんにも己を強く保って欲し
い」

 たいせつな人が毎日元気に過ごしてくれる事がわたしの望み。回りのみんなにも向けて、

「確かな結論が出る迄、静かに待っていて」

 可愛い後輩達が心配してくれる様子は分る。それには叶う限り応えたい。退部どころか
退学にでもなれば、先輩と後輩の形も残せずに、想いも薄れて消え去るのかも、知れない
けど。

 様々な想いの詰まった涙を胸に受け止め。

 絶対に己は乱れない。わたしが揺れ惑っては、相手を抱き留める事は叶わない。その哀
しみを、鎮める事は叶わない。力になれない。己自身の哀しみは、他の誰にも見られぬ処
で。

 琴音さんの嗚咽が鎮まる頃合を見て、身を離す。南さんを振り返って、琴音さんを見守
ってと頼もうとしたけど、彼女に先制された。

「誰がどう聞いても、あれはゆめい先輩が誘ってはいないです。誰が悪いかと言ったら」

 再び人の名前と行いを喋りそうになる南さんの口をもう一度、右手の人差し指で抑えて、

「今一番大切な事は、誰が悪いかじゃない」

 両肩を軽く抑えて、正視して問いかける。

「今犯人捜しをして、誰が幸せになるの? その人を問い詰めて、笑顔が取り戻せる? 
難波南は羽藤柚明の意見を、常に察して賛成してくれているけど、今回はどうかしら?」

 今一番大切な事を、あなたは何だと思う?

 その答を難波南は知っている。頷くのに少し掛るのは、受け容れるのに掛る時間だ。わ
たしを守りたくて庇いたくて堪らない想いを、わたしが愛しつつ望まないと。己だけでは
なく相手も守りたく望むと難波南は知っている。

「賛成です。南はいつも、ゆめい先輩に…」

 声は小さいけどその答は正解よ。南さん。

「悪者探しじゃなく、みんなが仲良く和解して終る事が、ゆめい先輩の正解。誰も傷つか
ない様に、みんなが笑顔を取り戻せる様に」

 この後みんながどうあれば良いかが一番で。
 でもそれはゆめい先輩を含めたみんなです。

「先輩がいなくなったら、あたしも……!」

 行いを言葉に出す前に、三度わたしはその唇に、右手の人差し指を当てて発声を止めて、

「いつもわたしを想ってくれて、有り難う」

 悪い詞を出させると心に確かな形を残す。
 言い募りたい想いの方だけを受け止めて。
 少し背の低い柔らかな左頬に左頬を当て。
 人前だけど、想いを受け取り確かに返し。
 愛しさは、南さんだけではなくみんなに。

「部員みんなが、羽藤柚明のたいせつな人」

「「「羽藤先輩っ……!」」」

 わたし達を外側からみんなの腕が抱き留め。
 おしくら饅頭の様に、拾壱人が一つになる。
 わたし達の想いがいっとき、一つになれる。

 後輩達は何かしたかった。しなければならないと。わたしの為に役立ちたいと。その想
いは誰かが受け止めないと。同時にわたしの想いも行き渡らせる。後輩達の想いに応えて
交えて、軽挙妄動に走らない様に確かに抑え。当事者であるわたしだからこそ、収拾せね
ば。

「早まった事はしないで。今からわたしも含めたお話しだから。結論は必ずみんなに伝え
るわ。だからお話しの前や最中に、事を拗らせる様な行いはしないで欲しいの。お願い」

 わたしを弁護したい余り、打合せの場に割って入ろうか、顧問の藤田先生に話しを持っ
ていこうかと。何もせず見守る事が辛い気持も分るけど。叶う限り内密に話しを進めたい。

「わたしは、どんな結論も受け容れる積り」

 事が公になれば個人の趣向の問題ではなくなる。風紀を乱した者に罰が下るのは当然だ。

「先輩、手芸部にいられなくなっちゃう?」

 本当に公になれば、手芸部どころか停学や退学の怖れもあるお話しだけど。どこ迄事が
大きくなるかは、これから始る打合せ次第だ。今わたしは後輩に不安を見せる訳に行かな
い。

「出来るだけ穏便な解決を目指してみるわ」

 心配させてしまった事が既に不徳の至りか。
 己の未熟や判断ミスに慚愧は尽きないけど。

「未だ決まっていない事に気落ちしないで」

 余計な期待は抱かせない様に、でも不安を掻き立てる事がない様に。何かしたくて堪ら
ない焦りを鎮め、悪い方向に流れがちな想いを逸らし。こう言う時にこそ静かな微笑みを。

「不確定な情報に心揺らされないで。きちんと結論はみんなに伝えるわ。全ては話せない
かも知れないけど、納得して貰える迄わたしが応えるから。今は静かに様子を見守って」


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 置かれた侭の、カメラの向きは変らない。
 定点画像の中を、部員は行きつ戻りつし。
 誰が何をしているかは一部しか見えない。

 背中に隠されたり、カメラの向いてない処にいたり。立つと肩から上が見えなかったり、
膝から下が見えなかったり。確かに誰かが何かしていると分る画像はほんの一部だ。でも、
マイクは視えなくても物音や声を拾い続ける。

 楽しく喋り、作業に打ち込み、時に伸びをして、周りを見渡し。高岡先輩も串田先輩も、
梢子さんも南さんも、知花さんも琴音さんも。日が傾くのは窓から差し込む彩りで朧に分
る。

「お先に失礼しまぁす」「お先っ」「じゃ」

 時間の経過と共に、部員の数が減っていく。手芸部の作業は一斉に始めて終る物ではな
い。家に持ち帰って続けるのも一つの方法だ。塾や買い物やクラスの出し物の手伝いや。
三々五々に散って減り、部室は2人きりになった。

 深呼吸3回分位の沈黙の後で潜めた声が、

「羽藤さん。いえ柚明。始めるよ」「はい」

 画像にそれは写ってない。カメラの向きからは外れていた。わたしも聡美先輩も陽が落
ちて電気も点けない暗がりで。何を為しているのかは衣擦れの音や溜息や吐息で推し量る
他に術はなく。でもそれが何かは推察できて。

「聡美先輩……そのわたし、先輩に想いを」

 2人きりのその時にだけ、使う様にと言われた呼び名でわたしの声が何か言おうとして、
己の短い悲鳴で塞がれる。身体を交える前に想いを告げて交わしたかったけど、先輩は想
い等重視せず胸を鷲掴みして、反応を楽しみ。

「あたしの想いはこの通りだよ。あんたはあたしのこの想いに身体でお返事すれば良い」

 口は幾らでも嘘をつくからね。返事も身体の反応で頂くよ。身体は誰でもいつも正直さ。

「い……、ひゃ」「良い声出してくれるね」
「少し、痛い。もっと優しくして」「ダメ」

 いつっ! 短い悲鳴は右乳房を思い切り鋭い爪で抓って掴まれた所為だ。映像はなくて
も当事者であるわたしは、声を聞くだけでその情景がありありと浮んで、全身に熱が回る。

 短い悲鳴を抑えきれないわたしの、口を塞ぐ『ちゅっ』と言う音が、闇に聞えた。それ
も一度では済まず、何かを吸い上げる様に継続的に『ちゅっ、ちゅっ』と。何度も何度も。

 他に聞えるのは衣擦れの音と、身体が這い回る様な音と。先輩の舌がわたしの口を押し
破って蹂躙してゆく感触が、己の中にも甦る。

「声を出させてあげようかね」「ふは……」

 ひうっ! 深呼吸する暇もなく短い叫び。

「抑えた悲鳴も色っぽいよ。柚明」
「聡美先輩、わたしは先輩の事を」

 ああっ! 詞に詞で応えさせてくれない。

「あたしが見初めたんだ。望んだんだ。組み敷いたんだ。あんた唯あたしに従えば良い」

 あたしの綺麗な柚明。可愛い柚明。あんたは本当に従順で良い子だ。あたしの目に狂い
はなかった。あんたは求められたら女にでも誰にでも応えたくなる、誰彼拒まずって奴さ。

 苛める様な声での語りかけに流石に抗い、

「違います。わたし、先輩だから……倉田聡美先輩だから、受け容れようって、なのに」

 望んでくれたから、抱き締めてくれたから、だから一生懸命想いに応えたいと想ったの
に。先輩ずっと身体ばかりで、為してくるばかりでわたしの返しを望まないし、想いだっ
て…。

「あぅっ、あはぁっ」「生意気な子だねぇ」

 先輩と後輩の立場の違いを思い知りな。
 でも、その芯の強さが愛しいよ、柚明。

 わたしは、力づくで振り解く事はしない。
 わたしは先輩と、心を繋ぎたかったから。

 絆を結べない内に、身体を拒み隔てては。
 ここ迄受け止めてきた諸々が無駄に終る。

 むしろしっかり素肌を合わせ身を添わせ。
 肌身を通じて、想いが心に届きます様に。

「倉田聡美は、羽藤柚明のたいせつな人…」

 彼女はわたしが所作を返す事を、望まなかった。先輩はわたしの胸を揉んだり抓ったり
撫でたりし放題だけど、わたしが先輩の身に手を伸ばすと、それを為せない様にもっと強
く抓ったり唇を合わせたり。為すのは先輩で、わたしは為される側という役割の分担らし
い。

 先輩は好き放題にわたしを可愛がり、わたしは先輩の望みに添って殆ど防がず抗わずに。
声を上げたり身を捩ったりして反応するだけ。それでも肌を合わせれば求める想いは分る
し、わたしは求められたら応えたく願ってしまう。

 わたしは抱き留めてくる彼女の大柄で柔らかな身体を、抱き返す位しか許されないけど、
力に想いを込めて流し、心を繋げたく願い…。

 画像が終り、6人の視線がわたしを向いた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「まず、弁明があるなら聞くけど」

 高岡副部長が座したわたしに問うてくる。

 正面の横長の机に、聡美先輩を除く3年生4人が、何とも言い難い表情で並んで座して。
左の机には梢子さんと間淵さん。わたしとの同席は拙いという判断か、聡美先輩はいない。

 特にありませんとわたしは首を左右に振る。
 最早この場の誰にも事態は周知の物だった。
 頬に熱が回るのを感じつつわたしは沈黙し。

 弁明は無意味と言うよりも、為せば為す程深みに嵌る。わたしの答に周囲はざわめいて。

「羽藤さん、まさか」「認めるの、あれ?」

 先輩達の問には、肯定も否定も返さずに。

「柚明さん……」「あなた、何て事されて」

 梢子さんと間淵さんの驚きにも応えずに。

 冷静さを失わせる一つ一つの声には応えず、議事を司る副部長の問にのみ答え。正視し
て問を促す。高岡先輩はそれを、分ってくれて。

 静かに! 高岡先輩の一喝が周囲を鎮め、

「昨日夕刻にあったこの事を認めるのね?」

 わたしは肯定も否定も返さない。事実を語っては聡美先輩の証言と食い違うし、先輩の
証言を支えるにも録られた音声はそれと違う。

「倉田先輩に聞いて下さい。事実認定は争いません。罰はわたしが受けます。出来るだけ、
先輩に累が及ばない様に、お願いします…」

 聡美先輩が、それを為したのは事実だけど、今彼女はそれが知れ渡る事を望んでない。
高岡先輩の感触からわたしは、先に行われた聡美先輩への事情聴取の様も、感じ取れてい
た。

 聡美先輩は高岡先輩の数言に釣られて事態を認め、3年生だけの場で涙を流し怯え喚き。
証拠の音声を聞かされても聡美先輩は尚抗い、

『遊びだったの。出来心だったの。千秋もあの羽藤柚明を可愛いと想うでしょう? つい
手が出てしまったの。あの娘、大人しそうで意外と大胆に、自ら身を寄せて来て。抱き留
めたらあたしを絡めた侭、倒れ込んだの…』

 誘ってきたのは、あの娘の方だったのよ!
 みんなも彼女の噂は聞いて知っている筈。
 悪魔の流し目であたしの理性を壊したの。
 そんな積りはなかったあたしをあの娘が。

『お願い。この事は内密に留めて。高校受験を控えているし、あたしこれから行く高校に
彼氏がいるんだもの。こんな事が晒されたら、あたし明日から学校に来られない。助け
て』

 遊びと先輩は言ったけど、それは彼女の本意ではなかった。本当に遊びだったなら、わ
たしが迷わず退けた。それはわたし向けの強がりで、遊びと言いつつ聡美先輩は、わたし
を心から求めてくれて。その発覚を悔いて発言通りに軌道修正する事は予想外だったけど。

 わたしが口を開けば先輩を傷つける。先輩は女の子同士で恋し合う事を今は望んでない。
発覚迄は望んでいた様だけど少なくとも今は。これ迄の経過を明かす事も彼女は望んでな
い。恥じて悔いて、怯え竦んでいる。守らないと。

 それはわたしの為ではなく、聡美先輩の為に口外しない。しない以上一言も漏らさない。
わたしの意志で事実を胸に留め置く。確定的な映像は殆どない。録られたのは音声のみだ。

 それを確認しに問う人へのわたしの答は、

「倉田聡美は、羽藤柚明のたいせつな人…」

 それ以上、お話しする事は、ありません。

 彼女を貶めるかも知れない、誤解させるかも知れない事は口にしない。それはわたしと
彼女の間の事柄で、他人に明かす事ではない。夕維さんも翔君も利香さんもそうだったけ
ど。

 今現在わたしに想いを向けてくれなくても、一度心を繋いだ人は、羽藤柚明にはいつ迄
もたいせつな人。離れても隔てられても、捨てられても裏切られても、忘れられたとして
も、わたしが抱く想いは薄れない。消えはしない。

 害になるなら間近に寄り添う必要はない。
 日々を元気に過ごしてくれるだけで良い。
 わたしはその人の幸せと笑顔が望みです。

「それを壊してしまったのはわたしでした」

 先輩達を含む部のみんなにもごめんなさい。
 わたしの所為でみんなの心の間に嵐を招き。

「皆さんの処断にこの身を、委ねます……」
「もうあなただけの問題じゃ済まないのよ」

 間淵さんの声は堪えきれぬ憤りを込めて、

「これで手芸部が壊れたら、どうする積り。

 わたし達の集う大切な場が、失われたら」

 梢子さんが抑えるのに抗って、強い声は、

「一部の理不尽な行いで、関係ない多くの人が巻き添えを食う。あなた今すぐ先生に全て
話して、何もかもを明かすべきではなくて? 少し可愛いからと調子に乗って偉そうに」

 間淵さんの言葉に平さんの言葉が重なって聞える。誰かに良かれと思って為した積りで、
わたしに関るその他多くの人に、害を及ぼし。拒んでいれば、聡美先輩にこんな想いもさ
せなかったのに。長く続かないと視えた事もあって受け容れたけどこんな形で断たれると
は。

 わたしが事を読み誤って対処を間違えた。
 その所為で、わたしはたいせつな人達を。

「皆さんの総意に従います。最善であると判断された結論を、わたしは受け容れます…」

 先輩達は言葉の真偽を見定めようと黙し。
 その為に間淵さんの言葉がより強く響く。

「あなたには自分の意志という物がないの?
 自分で始めた事に決着をつけられないの?
 言われる迄全て明かす決心も出来ないの?
 事を隠して尚部に留まる事を望む積り?」

 自分の意思で動きなさいよ。誰に言われる迄もなく、あなたが出処進退を決断なさいよ。

「もうわたしだけの問題では済まないの…」

 さっきの彼女の言葉を復唱する。彼女は堪ったわたしへの憤懣の故に主張が左右にぶれ
ている。冷静にならなければ収拾は望めない。

「己を守ろうとか庇おうとかは望みません。
 みんなにとって最も良い結論に従います」

 再度高岡先輩に正対し頭を下げる。高岡先輩はショートの黒髪を微かに揺らせて力なく、

「羽藤さん。私は何もあなたの罰や糾弾を望んでいる訳じゃないの。顧問を抜いたのも事
を穏便に収めたくて。あなたの言い分もちゃんと聞く積りよ。それに、聡美が女の子と関
係を持ったのは、今回が初めてじゃないし」

 高岡先輩は、やや迷いつつも口を開いて、

「あなたの噂も聞いてはいるけど、今回私はあなたが被害者じゃないかって思っている」

 あなた、可愛いから。聡美の好みなのよ。

「高校に彼氏が出来て交際順調だって聞いていたから、最近私達も油断していたけど…」

 去年の冬も、聡美は同学年のあなたに少し似た大人しい子と一度問題を起こしているの。
その時もね、1人の時に問うと相手が誘ってきたと言い張って、対面させると泣き崩れて。
でも相手の話を聞くと聡美の方から終始強要した、体格差で組み敷いて無理矢理やったと。

 間淵さんも梢子さんも目を見開いている。

「言った言わない、やったやらない、誘った誘ってないの泥沼の話しになって。相手の女
の子はこの春に家族の転居に伴って転出して行って、実質時が解決したけど。彷彿なの」

 今回は映像こそないけど、音声はあるし。

「不祥事を隠したい想いも否定しないけど」

 部としての話しは後回しよ。最優先は別。

 個人の趣向は部活に絡めなけば干渉しない。
 やりたければ部活の関りのない処でやって。
 部員の色恋を先生に通報する義務はないわ。

 唯これが強要となってくると捨て置けない。即応が要る。女の子同士ってのは特異だけ
ど。

「部の問題と言うより、1人の女の子としての問題ね。羽藤柚明が何を望むのか応えて」

 賠償や謝罪が必要か。先生や両親に告知が必要か。判断は当事者であるわたしによると。

 高岡先輩は、部の先行きよりもわたしを。
 冷淡を装うけど温かな気遣いに胸が熱い。
 わたしは正視して静かに言葉を紡ぎ出し、

「倉田聡美は今尚羽藤柚明のたいせつな人」

 間淵さんも梢子さんも先輩達も、わたしの言葉にピクと反応を見せるけど、それだけで。

「倉田先輩の心を、これ以上乱したくない。
 出来るだけ穏便な対応を、お願いします」

 わたしは倉田先輩を恨んでも憎んでもいませんし、賠償も謝罪も望みません。わたしは、
先輩に酷い事をされた訳ではありませんから。わたしはどの様な懲罰も処分も受け容れま
す。後は倉田先輩を含むみんなが出来るだけ早く笑顔を取り戻せる様に。それだけを望み
ます。

「何も、求めないの? 本当に、良いの?」
「はい。倉田先輩からは気持を頂きました」

 言葉ではない形でだけど、確かに想いの宿った所作だった。それを胸に抱ければ充分だ。

「出来れば先輩に、直に謝りたいのですが」

「それは出来ない相談と思って。この件では聡美には3年生で応対するわ。聡美はあなた
に冷静に向き合える状態では、ないから…」

 あなた、強いのね。聡美はこの件に触れると心乱れて、泣き喚く事かしかできないのに。
周りがお膳立てしないと、勝手な事は出来ても、責任の取り方も収拾の術も分らないのに。

 あなたはみんなの前で事実を明かされても、冷静に聡美を庇って、部の行く末を心配し
て。人に何かを求めるより己を差し出そうとして。後輩に慕われる訳ね。この一件も、聡
美に無理に迫られて、拒みきれなかったんでしょう。

「可愛いだけじゃなかったのね、あなたは」

 やや気合の抜けた呟きを最後に、打合せは終った。わたしも聡美先輩も、部を辞める必
要はなくて。わたしが強要を証言しない限り、聡美先輩の主張も汲んだ『合意の上』扱い
で。

 そして聡美先輩はわたしとの関係を既に絶ったと、高岡先輩から聞かされて受け容れる。
学校祭で終る仲だけど、わたしと聡美先輩はこれ迄通り部員と部長だ。聡美先輩が現在そ
れ以上の関係を望んでいない事は感じ取れた。今後わたしと聡美先輩は部室で2人きりに
ならない様に調整するので指示に従うようにと。

 次の部長は内定取消しになったけど、わたしは役職に執着はない。わたしは羽様在住で、
下校時間もバス時刻に縛られる。元々役職に不適だったので、表向きにも不審は招くまい。

「わたしは、好ましい事には思えません…」

 女子同士でそんな事する人は、異常です。
 一度だけ、流れに棹さす異見が出たけど。

「私もそれは同意見ね。女の子は男の子と恋し合い愛し合うのが正答だと私も想う。でも、
今話しているのは好ましいかどうかじゃない。先生に通報すべきか、羽藤さんと聡美の趣
向を外部に晒すべきかどうかなの。間淵さんが勉強嫌いでも、お笑い芸人が嫌いでも、そ
れが人の害にならない限り、一々先生に通報や外部に向けてお知らせはしないでしょ
う?」

 間淵さんの常識に基づく頷きを確かめて、

「彼女達が彼女達の趣向で恋し合うのを咎める罰則は、部にも校則にもない。片方が片方
を力づくで襲ったのなら、男女の場合と同じで事件だけど。外部の誤解を招かぬ様に部活
と関らない処で、やりたければ好きにどうぞ。明かすも隠すも、隠すのに失敗するのも自
由。唯手芸部にそれに関る騒動を持ち込まないで。その確認だけ。好ましくないのは私も
同じ」

 今回に限っては、部として事を伏せるけど。次に何か見聞きした時は個人の判断にお任
せ。今後も部活に絡めてきた場合、部に迷惑だと公開も先生に通報もする積り。それでど
う?

「分りました。そう言う考えであるなら…」

 この場の誰にも異論のない基本線で話を纏める。高岡先輩はわたしのお話の進め方を…。

「有り難うございます。……迷惑と心配と面倒をお掛けして、申し訳ありませんでした」

 全てを承知で向けてくる視線に応え。
 起立してみんなに深々と頭を下げて。
 次に間淵さんと梢子さんにも深々と。

「役職に就けず、責任を果たせなくなってごめんなさい。出来るだけ助け支えるから…」

 遠慮なく何でも相談して。力にならせて。
 尚きつい視線を向けてくる間淵さんにも。

「ふつつか者ですが、宜しくお願いします」

 想いを伝え合う場の形を、残せて良かった。想いを伝え合える場の中に、残れて良かっ
た。形が崩れれば想いを紡ぐ事も非常に非常に難しくなる。手芸部が壊れれば、みんな学
校祭どころではなく、集まる場さえ失う処だった。

 わたしの軽率な行いが取り返せない損失を招く処だった。そんなわたしを、普通ではな
いと知れたわたしを、尚許し愛し留めてくれた手芸部のみんなに感謝は尽きない。感謝と
悔いと申し訳なさは、部の活動に注いで返します。それで返しきれはしないけど、それで
許される罪ではないけど、少しでも返させて。

 そこで高岡先輩に許しを頂き、戸口で耳をそばだてていた後輩達を招き入れ。わたしが
部に留まれるとお話すると、みんなは喜びの余り身を寄せて来て。わたしの所行を知って
尚肌合わせる事に怯えず厭わず。冷静な先輩と寛容な同輩と、慕ってくれる後輩に囲まれ、
わたしは分不相応な程に幸せ者。紆余曲折の末、手芸部は再び学校祭に向けて動き始めた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「失礼します」「ああ、羽藤か。良く来た」

 若槻先生は三拾二歳の大柄で筋肉質な男性だ。声が大きく陽気で顔の厳ついわたし達の
担任で、サッカー部と柔道部の顧問でもある。放課後に職員室へ呼び出されたのは、初め
て。

「済まないな。学校祭準備で忙しい時期に」
「いえ。未だ時間的に余裕はありますから」

 空いている間近の椅子に座る様に促される。
 進路相談室とかを使う積りは、ないらしい。

「今日呼んだのは他でもない。羽藤がクラスの女子と親密に過ぎるとの苦情が入ってな」

 他の先生もいる職員室でずばりと本題に、

「羽藤が学校の女子を度々抱き締め、女同士の恋愛ごっこに耽り、風紀を乱していると」

 心当たりがあるか否か自問を促す視線に。
 わたしは双眸を見つめ返して言葉静かに、

「わたしが時々お友達の女の子を抱き留めているのは事実です。隠す積りはありません」

 たいせつな人が怯えたり哀しんでいれば。
 身も心も抱き留めてその震えを鎮めたい。
 言葉や理屈では心を支えられぬ時もある。
 それは女の子に限定の話しでもないけど。

「女の子が多い事は確かです。男の子は強いので、わたしが抱き留めて安心させる迄しな
ければならない事は、中々ありませんから」

 男の子は女の子を抱き留めると、即噂になるので、却ってやりにくいのかも知れません。

 わたしの声も周囲の他の先生に聞える様に。
 でも若槻先生は答に納得してくれない様で、

「羽藤にだけその場面が巡るのはおかしいと言う声がある。羽藤1人が女の子を抱き留ね
ばならない緊急事態に度々遭うのは奇妙だと。数が多すぎると。裏に作為を見るべきだ
と」

「最近も朝松さんを、衆目の面前で抱き締めたり、手に手を取ったり。霊媒まがいの事を
して怖がらせていたとも噂されている様ね」

 二組の担任の鈴原美咲先生が、ショートな髪を揺らせ、こちらを向いて口を挟む。先生
達にもわたしを巡る噂は一定程度届いている。先生達の集う場は、わたしにはアウェイか
も。

「彼女が暫く休んだ理由は、表向きお母様を失った心労を癒す静養と、なっているけど」

 都市部の病院で精密検査を受けている事実は、わたしが知る筈のない事だから語れない。

「あなた、ウチのクラスの金田さんとも親密よね。背に腕を回したり、頬に頬寄せたり」

 わたしの答を次の疑惑で封じ、悪い印象だけを積み重ねゆく。平さんが言っていた通り、
一つ一つは誤解でも、数多い事が問題だった。

「それと並行で白川や飛鷹とも絡んでいたと、噂に聞いた。白川に胸を触らせていたと
も」

 若槻先生はわたしと夕維さんの担任で、サッカー部の顧問で翔君の動向も掴める。利香
さんとは秘密も約束してないし。関係が絶たれる前から、幾人かにはお話ししていた様で。

「やむを得ない事情が、あったんです……」

 時間を掛ければ説明出来るけど、トーク番組の様に一言では巧く伝えきれない。分って
欲しい想いを紡ぐより早く、更に別方向から、

「手芸部の後輩にも親密すぎるって話しよ」


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