第6話 定めの末を感じても(後)
夕維さんとの関りを見られただけで、利香さんが厭う理由は充分以上だ。流石にそれを
ここで語る事は憚る利香さんに、絹枝さんは、
「利香の相談に真剣に応じてくれたのは誰? 利香の悩みを解決してくれたのは誰? 利
香を心から案じ忠告をくれたのは一体誰?」
誰でも良いから頭数が欲しい。自分が楽しむ為に仲間が欲しい。そうして寄ってくる者
達を受け容れるなとは言わないけど。それよりあなたを真剣に案じて守ってくれた人が傍
にいるのに、どうして大切にしてあげないの。
「困って心細い時しか、連れて来ないのね。
柚明さんの優しさに甘えて、全く利香は」
「お母さん、恥ずかしいっ。周りに聞える」
6人部屋で、他にも入院患者がいる中だ。
繰り言を聞かされるのも、周囲に聞かれるのも嫌って、利香さんが頬を膨らませるのに、
「柚明さんの分迄飲み物を買ってきて頂戴」
「分った。羽藤さん、お母さん少しお願い」
利香さんは、少し日頃の語調を取り戻した絹枝さんを見て、気持軽やかに歩み去るけど。
それは絹枝さんの人払いだ。利香さんに聞かせたくない、聞かせられない話を、わたしに。
握り合う掌を放さない、わたしに向けて、
「あなたは、視える人なのね。世の諸々が」
2人きりという以上に声を小さく抑えて。
少し離れた隣のベッドにも聞かれぬ様に。
「あなたには視えるかしら。わたしの末が」
言わなくて良いのよ。言ってどうにかなる物なら、お医者様も主人も言ってくれている。
それに私も未だ全て諦め切れた訳ではないし。面と向かって真実を告げられるのは未だ怖
い。口にしたら全て本当になるとは思わないけど。私も怖いの。最後迄望みを捨てたくな
いから。
「せめて言わないで。私への情けと想って」
絹枝さんはわたしの来訪で、自身の真相を察したのか。彼女は告知を受けてない。今迄
薄々疑いつつ胃潰瘍としか報されてなかった。わたしが利香さんの哀しみに深く寄り添う
為に、逢える内に訪れたと。視える者が視える故にその最期を察し訪れたと。ここに訪れ
た事自体が、彼女に生命の終りを暗示していた。
「お母様、その、わたしは」「良いのよ…」
言葉が繋げない。言い逃れも告知も出来ず、見舞に来たわたしが情けなくも固まってい
て。
わたしが不吉を報せた。わたしが不幸を運んできた。絹枝さんは自身の最期を見通せて
なかった。わたしを見た瞬間ギラリと光った瞳は、自身の末路を知らされた衝撃と哀しみ
と憤りだと。わたしは死を告げる存在だった。
『……あんた、まさか他人の不幸や死相が視えている訳じゃあ、ないだろうね?』
ああ正にその通り。わたしはそれが視える。
ごめんなさいと出掛る言葉を喉の奥で抑え。それを言っては彼女の推察を認める事にな
る。真実は絶対口にしない。見え透いた嘘も言えない。言葉を失って唯その右腕を両の手
で握って力を込める他、術のないわたしに彼女は、
「可哀相に……良いのよ、何も言わなくて」
わたしの見え透いた沈黙を許し受け容れ。
「あなたは視えて尚来てくれたのだものね」
だからこそ、その歳で視える定めに向き合うあなたが、愛しくも可哀相。感じるだけで
も心の重荷でしょうに。あなたはそれを承知で私に逢いに来た。病院に来れば、多くの人
の末が視えてしまう感性の持ち主のあなたが。
「利香の為に、付き合って、くれたのね?」
「このお見舞は、わたしが申し出たんです」
「分っているわ。頼まれる前にあなたが申し出てくれた事位、利香の反応を見ればね…」
絹枝さんの病状に利香さんが抱く不安を少しでも鎮めたくて、わたしがお見舞を望んだ。
誰かと一緒に向き合えば怖れは半減するから。言い出さなければ、彼女が望んだだろうけ
ど。
わたしがここに来たのは、確認と言うより、逃げ出さず事に向き合おうと、絹枝さんを
心に刻む事がわたしにも必須だと、考えた為で。怖かったけど。こうしてお話しする人が
数週後にいないと視える事が、心底怖かったけど。
真に怖いのは、わたしではない。
真に哀しいのもわたしではない。
その当人を目の前にして、わたしが怯えや不安に心を乱す非礼は許されない。絹枝さん
に気遣わせている時点で既に落第だ。わたしは人の苦痛を除きたかったのに、人の涙を防
ぎたかったのに。たいせつな人の不幸を間近に感じて、防ぐ事も代りに受ける事も出来ず。
最低限、逃げ出さずわたしも今に向き合わないと。心を繋いで温めないと。希望も勇気
も与えられなくても、最期迄身を寄り添わせ、心からの想いを伝える事で少しでも安らぎ
を。
何も力になれないわたしだけど。贄の血の力を幾ら紡げても、病を前に手も足も出ない
わたしだけど。ほんの少しでも役に立ちたい。この位の事で力になれた様に見えても、大
勢を挽回できない事の言い訳にもならないけど。
それを絹枝さんは温かに静かに受け容れてくれて。不幸を呼んだわたしを許してくれて。
2つの手は互いの震えを伝え合い抑え合い。
2つの心は互いの怯えを伝え合い抑え合い。
静かに緊迫した場を繋ぐはやはり年長者で、
「主人はそういうモノが、視えない人でね」
優しくて頼り甲斐のある頭の良い人だけど。視えない以上に信じてない人で。視える人
の気持を視えない人が、理解できないのはやむを得ないけど。事は一人娘の先行きだから
…。
「利香のそう言う部分を、受け止めてくれる人がいなくなるのが心残り。私の母も故人だ
し、視える親族も近くにいない。思春期の利香に、視た物を視たと受け止め相談に乗って
くれる人、心も確かに守ってくれる人、日々の備えや気構えを助言し導いてくれる人が」
今は視えなくても一時視えた事があり、視える事を受容する絹枝さんの存在が、利香さ
んの今迄の支えだった。その喪失が招く利香さんの先行きの不安を、託せるとするなら…。
「わたしに受け止めさせて下さい」
「あなたに受け止めて頂きたいの」
絹枝さんは済まなそうな、でも同時に心から安心した笑みを浮べて。深く頷いてくれて。
例えこの後、利香さんに絆を断たれると視えても。関りを拒まれ、隔てられても。わた
しが想いを寄せ続ければ良い。不要な時には遠目に見守るだけで良い。必要な時にはいつ
でもわたしの精一杯を、わたしの全身全霊を。
わたしは誰かの感謝を求めて尽くす訳ではない。お礼を言わせたくて支える訳ではない。
その涙を抛っておけないから、その悲嘆を捨てて置けないから、少しでも力になれればと。
行き着く先が視えても、心を曲げる必要はない。報いは自身の中にある。わたしの望み
は愛し守り支える事。たいせつな人が日々に確かに向き合って生き生き過ごしてくれる事。
だからこれはわたしの望み。絹枝さんの望みに応える事がわたしの願いで、わたしの想い。
「申し訳ないわね。この願いは、将来利香が婚約者を連れてきた時に、話そうかと考えて
いたのだけど。それ迄保ちそうにないし…」
あなたになら、頼れそうだと想えたから。
今はあなたしか、頼れる人がいないから。
握り返してくれる手の力が少し強くなる。
「同じ歳の、しかも女の子にお願いしなければならない。あなたも青春真っ盛りで、きっ
と自身の事で充分大変に違いないのに。その上こんな余計な重荷迄頼んで。私があなたの
母なら、お断りしますと一喝する処だけど」
利香が自分の娘だから、無理を承知で頼んでしまうけど。あなたは賢い女の子。この先
それで背負う荷の重さも苦さも分るでしょう。一度だけ確かめさせて。本当にそれで良
い?
「難しい年頃の女の子を受け止めて助け支えるのは、大人にだって楽な事ではないのに」
「それが、わたしの望みですから」
躊躇う様に言葉を繋ぐ絹枝さんに、わたしは自身の心に承諾を浸透させつつ静かな声で、
「朝松利香は、羽藤柚明のたいせつな人です。利香さんを大切に想う人の願いは、利香さ
んが大切に想う人の心からの願いは、わたしのたいせつな願い。心から叶えたい。力にな
らせて下さい。身も心も尽くさせて。そして」
朝松絹枝さんは、羽藤柚明のたいせつな人。
利香さんのお母様と言う以上に、この様に心通わせたからには、絹枝さんはわたしの…。
いつの間にか背後には2つの足音の主が。
「羽藤さん、わたしの母さんとずっと手を握り合っていたの? お母さんもいい歳して」
お仕事を早く切り上げてお見舞に訪れたお父様、均さんを伴った利香さんで。背の高く
痩身で整った容貌の均さんは、わたしと絹枝さんが『年の離れた友人の様に』利香さんよ
りも親しげな様に、少し怪訝そうだったけど。
「初めまして。利香さんに色々良くして頂いています。羽藤柚明です」「ああ、宜しく」
立ち上がってご挨拶。絹枝さんが右手を握り続けた侭なので、綺麗に出来なかったけど。
「退院する迄の間、同級生だけど、柚明さんにも利香を頼みますって。年頃の女の子には、
男親でも踏み込みづらい時があるでしょう」
「まあ、それはそうだがね……」
困り顔の均さんに対し、利香さんは子供扱いで同級生のわたしに託された事に不満顔で。
それでも彼女が受け容れたのは、母の願いという以上に、間近な退院の約束に聞えたから。
絹枝さんは誤解を敢て解かず、わたしにも伏せる様に求め。言葉がなくても想いは分る。
お医者様も均さんも利香さんに絹枝さんの真実を告知しなかった。絹枝さんもそれを妥当
だと。最後の瞬間迄、伝えるべきではないと。
わたしはそれを知らない事になっている。
わたしも視えると知られては拙い立場だ。
柔らかにもう一度、均さんに頭を下げて、
「ふつつか者ですが、宜しくお願いします」
均さんは困惑を姿勢と表情から隠せずに、
『利香に母か姉が出来たというか、家に娘が1人増えたと言うか。私に嫁が来た様な、利
香に嫁が来た様な、妙な気分だな。利香は娘だから、婿が来た感じなのかも知れないが』
「ところで、体調の方はどうだ。気分は?」
「まあ、相変らずね。少し怠い位かしら…」
均さんがお仕事を早く切り上げてお見舞に訪れたのは、気紛れではない。絹枝さんの容
態は既に相当悪い。それは出来るだけ一緒の時を過ごしたいとの想いの故で。利香さんに
毎日様子を看る様に促すのも、限られた貴重な時間を、しっかり心に刻んで欲しいとの…。
絹枝さんの容態悪化で利香さんが午後から学校を休んだのは、その翌週の水曜日だった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「室戸さん、下山さん……?」
放課後呼び出されたわたしは、校舎3階端の美術準備室で、イスに座れと肩を抑えつけ
られていた。直接身に触れてわたしに着座を強いるのは2人だけど、気配の数は未だ多い。
美術室は今日は部活に使われる様子もなく静かに無人で、その更に奥の準備室で上げる
叫びは、相当大きくても響かないし届かない。美術室同様というか美術室より雑然と、油
絵や彫刻が壁際を埋め尽くし、窓を狭め薄暗い。
埃っぽい乾いた空気に踏み込んだ直後、背後で戸が閉じられた。戸口近くに隠れ、わた
しが入った後で退路を塞ぐ積りなのは視えた。わたしが敢て彼女達の誘いに乗ったのは、
彼女達と忌憚のないお話しを交えたかったから。わたしの想いも伝え、分って欲しかった
から。いきなり身を抑えてくるのは意外だったけど。
振り返った目の前で腕組みをした人影は、
「あなた、思っていたよりも勘は鈍い様ね」
「この程度の危険も、感じ取れないなんて」
「室戸さん、下山さん……?」
2人の意図が今迄視えなかったのは、彼女達がそれを秘したかった為か。顔色や足音や
声音で大凡は掴めるけど、望めば推察もできたけど。心を読んで迄知らねばならない事は、
日常に多くない。知りたい事は、訊けば良い。
「リカは視える人って言っていた様だけど」
「お化けは視えても人の心は視えないのね」
2人は話しをする積りでいたけど、話し合う積りではなかった様で。冷やかな目線が歩
み寄って来た。未だ物陰に人の気配を感じる。
意図を問いかけようと開く口を塞ぐ様に、
「視えて乗り込んだのなら、良い度胸だわ」
「取りあえず、座りなさいな。羽藤さん…」
2人は左右からわたしの肩を抑え、部屋中央のイスに座る様に促し、と言うより強いて。
見下ろす二対の瞳は笑みの仮面を被りつつ厳しい。友好的なお話しに導くのは難しそうだ。
右に少し背の高い室戸さん、左にやや太めな体型の下山さん。利香さんと同じ2組で心
霊遊び好きな女の子だ。初夏の宿泊交流では、利香さんと三人で高句麗さんをして、野犬
の霊を招いて失神した。相手は害意はあっても人に仇なす力のない物だったけど。唯怯え
て恐慌を来すと察したわたしが、先生や和泉さん達の助けを呼んで、彼女達の恥を晒す事
に。
利香さんがその後わたしから隔たったのは、わたしの特異な力を怯え嫌う他に、その醜
態を見られて晒された気拙さに、2人の友がわたしとの関りを嫌った事への配慮でもあっ
た。
「私達が何を言いたいか大凡分るでしょう」
「これ以上りかに付き纏うのは止めて頂戴」
夕維さんとわたしの関りが周囲の誤解を招いていた初夏、なぜそのわたしに関るか問わ
れて利香さんは、視える悩みを相談していたと彼女達に応えた様だ。それ迄繋りのなかっ
たわたし達に、他に適当な名目はなかったし、心霊遊びを共にする仲間なら分って貰える
と。
噂は広まらなかった。下山さんや室戸さんには心霊は遊びで、信じておらず。利香さん
の視える悩みも2人には『気の所為だよ』で。その解決に関ったわたしの力を、利香さん
から聞いてもまともに信じず。わたし達の年代では羽藤の言い伝えも既に途絶え掛ってい
る。
2人はわたしが利香さんに、夜歩きは良くないとか心霊遊びは危ういと諭したと知って、
利香さんと同様煩わしく不快に思ったらしい。間接に見聞きした、絹枝さんの利香さんへ
の窘めに重なった様で『母親でもないのに』と。
なので2人はその後の応対も厳しく。わたしと挨拶を交わす程度の仲を残してくれた利
香さんとの関りを牽制する様に、隔てる様に。わたしは2人とも仲良くなりたく望むのに
…。
「迷惑なの。リカも困って遂に学校休んで」
「あなたが追い込んだのよ。これで満足?」
「ち、違うの。利香さんの今日の休みは…」
利香さんは誰にも話さなかったけど、先生も告げなかったけど。利香さんは明日も休む。
今日か明日が、彼女のお母さんの最期だから。でも2人はわたしの言葉に耳を傾けてくれ
ず、
「言っても素直に頷く人ではない様だから」
「素直に頷ける様に追い込んで上げるわね」
それぞれ片腕でわたしの両腕を後ろに捻り、痛い程に固定してから残りの腕でこの両胸
を。
「ひゃぁっ。室戸さん、下山さん、これ?」
握り潰す様に揉み始めた。身を捩っても防げずに、2人の真意を尋ねて視線を向けると、
「言って聞かないなら、従わせるのが一番」
「身体に教えてあげるのよ。みっちりとね」
「待って。2人とも、話を聞いて、いぁ…」
2人ともわたしの声に耳を傾けてくれず、
「思った程大きくないわね。可愛いサイズ」
「あなたも踏み躙られる気持を分りなさい」
最近わたし、大きい方でもないのにみんなに乳房を掴まれ放題で。頬が血の気に染まる。
サクヤさん程大きければ、そこ迄行かずとも真沙美さんや歌織さん程あれば値もあるけど。
拒もうにも身動きできないわたしの前に。
両の乳房を握られて嬲られる情景を前に。
「羽藤さん、ご機嫌よう」「あなたは…?」
閉ざされた扉の前に、もう2人物陰から。
東川さんと榊さん、女の子2人が現れて。
「私達は余り乗り気ではなかったんだけど」
「今回は助っ人として呼ばれたの、宜しく」
榊さんの右手にはインスタントカメラが。
「今回は羽藤さん、あんたがやりすぎだよ」
東川さんはやや強めに窘める語調で、
「朝松さんはあんたを嫌っているのに、あんたが無理に関係迫って学校休む迄追い込んだ。
私は人の恋愛なんて、女の子同士でも好きにすれば良いと思うけど。あんたは元々白川さ
んとそういう関係だったのに、朝松さんにも二股かけて。白川さんが飛鷹君とよりを戻し
たからと言って、一度嫌われ離れた朝松さんに再度関係を迫るなんて、ストーカーだわ」
「少し痛い目を見て、反省した方が良いよ」
「そうじゃない。それは誤解よ。榊さんも」
はぅっ。下山さんの腕が左の乳房を離れていきなり股間に触れたので、言葉が途絶える。
スカートの上から左腕を強引に突っ込ませて、
「口答えは止めて反省なさい、ストーカー」
「私達の友達を己の物にしたくて傷つけて」
「わたし達の友達を、引き剥がそうとして」
「無理に迫られたリカの気持を、知る事ね」
「ち、違うのっ。わたし、利香さんの、お」
「結構強情ね」「でしょう? だから……」
言葉で促しても力づくで辱めても結局は。
「喉元過ぎれば、熱さも忘れてしまうかも」
そうね。室戸さんの言葉に榊さんも頷き。
右手に持つインスタントカメラを向けて。
フラッシュに目が眩む。続けてもう一度。
「だからこの痴態を記録に残して脅す訳ね」
「待って。少し、わたしの話を……。ひぅ」
胸を掴む掌が抓る様に強くなって口封じ。
「お口でしっかり約束して貰うよ羽藤さん」
二度とリカには関らないって。関った際にはこの写真を公表されますって、罰則つきで。
室戸さんに続けて東川さんが冷静な声で、
「安心しなさい。世間一般にばらまく積りはないわ。あくまでもリカを守る為に、あなた
の動きを封じる手段よ。あなたがきちんと約束してそれを守れば、わたし達5人以外にこ
の事実を知る者は居ない。秘密は守るから」
「わたしは公表も楽しそうに想えてきたわ」
「被写体が、綺麗だからね。勿体ないかも」
下山さんと室戸さんは感触を楽しみつつ。
カメラを向ける榊さんに東川さんは短く、
「犯った側が知られぬ様に、みんなの顔は映らない様に外して撮って」「分っているよ」
「待って。わたしの話を聞いて。お願い…」
彼女達のわたしへの敵意は誤解に基づく。
彼女達のこの行いは利香さんを想う故だ。
利香さんとのここ半月の関りを伝えて分って貰えれば、誤解は解けて事は終る。力や技
で反撃しても心は繋げない。何とかして想いと事実経過を伝えないと。それさえ出来れば。
「もっと写真写りを良くしましょう」「?」
胸から腕が外れると同時に、水差しからわたしの上半身に水が掛けられた。濡れた制服
は身体に張り付き、身体の輪郭や下着の線迄明瞭にする。彼女達はその上から乳房を再度
摘んで強調し、揉み続けながら写真に撮って、
「水も滴る綺麗な姿」「声も出ないかしら」
「叫んで助けを求めても良いのよ」
1階の職員室まで届く叫びをね。
「今の姿を見られるのが好みなら」
彼女達はわたしの抗いが消えた事を気持の上でも砕けたと判断したらしい。敵意が失せ、
見下し哀れむ眼に変って。拘束は尚解けない。
「銀座通中一、二を争う美少女には災難ね」
「案外喜んでいるかも。この人女好きだし」
榊さんの呟きに室戸さんが言葉を続けて、
「白川さんに乳房揉ませて喜んでいたって」
その事実は、わたしと夕維さん以外には。
「噂じゃなくリカが直に見たと言っていた。
白川さんが飛鷹君に戻るのも、道理よね」
「本当なの? 羽藤さん、あなた……」
流石に驚いて問う東川さんに向けて、
「それには……わたしは、応えません」
夕維さんがわたしに為したのは事実だけど、激情に混乱した為だ。女子同士で恋し合う
事を、夕維さんが心底望んだ訳ではない。口外すれば1人の誤解を解く前に、悪い印象の
噂が多数に広まり、夕維さんを傷つけてしまう。
それはわたしの為ではなく、夕維さんの為に口外しない。しない以上一言も漏らさない。
わたしの意志で事実を胸に留め置く。利香さんは秘密を約束してないから、縛れないけど。
それを確認しに問う人へのわたしの答は、
「白川夕維は、羽藤柚明のたいせつな人…」
それ以上、お話しする事は、ありません。
彼女を貶めるかも知れない、誤解させるかも知れない事は口にしない。それはわたしと
彼女の間の事柄で、他人に明かす事ではない。
言いなさいよ。あんたが幾ら口を噤んでも知られた後なのに。下山さんは胸を揉みつつ、
「言わないともっと恥ずかしい写真撮るよ」
みんなに写真ばらまいて広めるよ。良い?
「ひぁっ……止め、っ……お願い、分って」
東川さんは少し怪訝そうな表情を見せて、
「もう振られちゃった恋人の話じゃないか」
白川は飛鷹の元に戻ったんだよ。あんたは未だ未練を残しているのかい? それとも…。
わたしの頷きは東川さんの澱んだ言葉に。
「今尚夕維さんは、わたしのたいせつな人」
一時期の様にわたしに想いを向けてくれなくても、一度心を繋いだ人は、羽藤柚明には
いつ迄もたいせつな人なの。離れても隔てられても、別にもっと大切な人が出来て深い関
係を結んでも、わたしが忘れられたとしても、わたしが抱く想いは薄れない。消えはしな
い。
「たいせつな人を誤解の淵に落したくない」
何もない時は唯遠目に眺めるだけで良い。
日々を元気に過ごしてくれるだけで良い。
嫌われるなら間近に寄り添う必要はない。
わたしはその人の幸せと笑顔が望みなの。
唯何か困った時は、哀しんだ時は。想いを打ち砕かれて心が震えた時は。寄り添わせて、
救わせて欲しい。力にならせて欲しい。身を尽くさせて。利香さんも夕維さんも、勿論…。
「東川さん、榊さん、室戸さん、下山さん」
あなた達も。両腕を捻られた姿勢から、視線を上に向けて瞳を見つめ返す。いつの間に
か乳房を揺らす動きは止まって、手は軽く添えられた侭で。身の拘束が微かに緩んだ様な。
「お願い。許して……」
もう少しだけ、利香さんとの友達関係を。
「もうすぐ利香さんとの関りは終る。利香さんのお母様の死をきっかけに、利香さんはわ
たしとの関係を、今度こそ断ち切ってくる」
わたしはそれを確かに受けて断ち切られて終る。わたしは利香さんの友として残れない。
それは最初から視えていた。そう承知の上で、
「利香さんがその意思で断ち切ってくれる迄、関りを続ける事を、許して……。お願い
…」
利香さんが望みもしないのに、わたしが彼女のお母様の容態を、耳に挟んで押しかけた。
たいせつな人の望まない事を為し、最期は哀しませ。わたしが罪深い事は分っている。分
ってわたしはそれを為した。利香さんが悲嘆の淵に沈む様を、結局わたしは止められない。
「利香さんを傷つけた罪の罰なら、これは受けます。みんなの大切な利香さんを哀しませ
た怒りがこれなら、逆らわない。唯許して」
断たれる迄わたしが利香さんに関る事を。
あと数日で全ては終える。断ち切られる。
「わたしは利香さんを今の関係に引き留める積りもないの。望みは心に抱いても、それは
長い目で見て利香さんの笑顔には繋らない」
結論は視えているけど、視えているからこそ心残りなく終りたい。最後迄向き合って確
かに断たれる事で、怒りと哀しみを受け止めたい。それで受けきれる物ではないけど……。
「りかのお母さん、亡くなっちゃうの…?」
逢った事の多い下山さんが、知った人の喪失に怯える様に問うのに、わたしは頷き返し、
「一緒にお見舞に行った先週、容態は相当悪かった。利香さんも口にはしなかったけど」
「最近リカが塞ぎ込んで付き合いが悪かったのは、あんたに復縁を迫られて気が滅入った
んじゃなく、リカのお母さんの病の所為?」
「今日の早退も。多分明日も明後日も休み」
誤解の根は利香さんが、絹枝さんに良い顔をされなかった室戸さん達に、その病状を告
げてない事だった。でもこれはやむを得まい。利香さんは尚胃潰瘍以外の診断を知らない
し、もうすぐ退院という約束を必死で信じている。酷いと人に伝える事が認める事になり
そうで、口を噤む気持は分った。わたしは先に踏み込んで望んだから、お見舞も招いてく
れたけど。
利香さんは暫く学校に来ない。来た時には全て終っている。わたし達に為せる事はない。
「わたし、小学3年の時お父さんもお母さんも亡くしているの。何の心の準備もない内に、
突然だった。掛ける言葉もなく、最期に温もりも伝えられず、生んで育ててくれた事への
感謝も届けられず。わたし、親不孝だった」
利香さんには心残りが少なくあって欲しい。失ってからその尊さに気付くのではなく、
その前に気付いて欲しい。答を返せない墓石や位牌に謝るより、生きて聞ける内に直に耳
に届けて欲しい。失う哀しみはなくせないけど、その前に何かできたかもという悔いは避
けられる。出来る事を出来ず、永遠にその機会を逃す悔しさは、味わって欲しくない。だ
から。
余計な事と知って。わたしが出るべきではないと分って。でも他に促す人がいないなら。
「羽藤さん、あなたリカを心から大切に…」
敵意が収束していた。東川さんも榊さんも目が丸く、室戸さんも下山さんも応対に惑い。
技や力で解く必要も反撃の必要もない。彼女達は友を助けたかっただけ。誤解を解ければ。
突如ガタンと正面の美術室に繋る戸口で物音がした。誰かが居ると、室内の4人を緊張
が走り抜ける。榊さんが速攻で戸を開けると、そこには驚きに表情の硬い佐々木さんがい
た。
「羽藤さん……その、姿……下山さん……」
濡れ鼠の女の子が、同年輩の女の子に嬲られる姿は、外から眺めると刺激的に映るかも。
瞬間、全員の動きは凍結した。見聞きされていた事を今気付いた室戸さん達も、いきな
り戸を開けられ所在を知られた佐々木さんも。ここにいては危ういと、密室を嫌い踵を返
す。
「待って、佐々木さん。これは誤解なの…」
彼女を追いかけに立ち上がる。人を呼ばれ、話しが大きくなっては拙い。これはわたし
達で解決出来る案件だ。室戸さん達が誤解を解いて、わたしがこれ迄を許容すれば全て済
む。
廊下へ飛び出す佐々木さんを追いかけ動き出すわたしの肩を、東川さんが掴んで止めて、
「今日は済まなかった……これが全部だよ」
持って行きなとその場で手渡されたのは、
「わたしの、さっきの写真……。良いの?」
下山さんと室戸さんに胸を揉まれ股間に手を伸ばされて喘ぐ私の姿が、8枚あったけど。
「私の誤解だったよ。少なくとも私と(榊)良枝にはもう、あんたに害する者に荷担する
理由はない。別な時に一度謝らせては貰うけど、今はこれで済ませておくれ。ごめん…」
私達が一緒に追いかけると、佐々木さんが怯える。悪いけど、ここはあんたに任せるよ。
「私からも、ごめんなさい」「誤解して…」
室戸さんが下山さんと一緒に頭を下げてくれて。心は繋った。誤解は解けた。良かった。
後は走り出した佐々木さんを呼び止めるだけ。
わたしは一度振り返ってみんなに向き合い、
「ここのみんなが羽藤柚明のたいせつな人」
大事にならない様に、収めてくるからっ。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
佐々木さんは3階と2階を繋ぐ階段の踊り場で、追っ手の有無に怯えつつも、即座に先
生に通報すべきか否か悩んでいた。一つには大事に過ぎると、もう一つにはわたしの羞恥
を晒すと、そしてもう一つには依頼主への…。
わたしが1人で現れた事に少し安心した様で、でもわたしの濡れた姿を見て心配そうで。
周囲に人影はない。2階にも人の気配は感じなかった。わたしは佐々木さんに、室戸さ
ん達は追いかけては来ない、ちょうど誤解が解けた処だったのと、間近に添って話しかけ。
水に濡れて、寒さと言うより身体の輪郭や下着が透けるわたしは、恥じらいに己を抱く。
でもまともに受け答えできる、と言うよりむしろ佐々木さんの不安を鎮めようとの姿勢が、
『いつもの羽藤柚明』だと分って貰えた様で。
「この状況で尚あなたが泣き叫んでないのは、とても凄いしわたしにも救いになったけ
ど」
長く伸ばした赤い縮れっ毛が微かに揺れ、
「この事、わたし博人に何と言えば良いか」
「沢尻君が気付いて心配してくれていた?」
「女の子同士の事柄に男が直接入るのは拙いから、それとなく様子を見てくれってね…」
沢尻君はこうなる事を知って佐々木さんに頼んだ訳ではない。彼女もこんな展開になる
と思って受けた訳でもなく。唯わたしが室戸さん達の、何かあると見え見えな誘いに敢て
踏み込む様を見て、心配させた。それ迄も利香さんを巡って室戸さん達はわたしに不満を
募らせていた。それが沢尻君達迄、気遣わせ。
「どうも有り難う。そして、ごめんなさい」
気遣わせ、危険かも知れない事に巻き込んでしまった。その両手を両手にとって、胸の
前に持ち上げ、瞳の黒目を覗き込む。佐々木さんは少し驚いた様に頬を染めつつ、為され
る侭に逆らわず、わたしの想いを受け止めて。
「わたしは良いの。わたしが危険に遭った訳でもないし。問題はあなた。どうするの?」
彼女の意図してやや冷淡で、平静な問に、
「出来れば人には、明かさないで欲しいの」
聞いて分ってくれたと、思うけど。あれは全て誤解に基づく事だから。誤解が解けた今、
対立する事情は何もない。わたし達全員が口を噤めば、誰にも障りは残らない。だから…。
「あった事をなかった事に、見た事を見なかった事にしようと? こんな目に遭って?」
「言葉を交わし身体を交え、心を繋いだから。彼女達はもうわたしのたいせつな人。朝松
さんのお友達でもあるし。あの行いも方法に問題はあるけど善意と友情の故なの。それ
に」
誤解をこうなる迄放置してしまったのはわたしの責任でもある。他の事に目が向いてい
た事は理由にならない。わたしの言動への誤解なら、わたしが解くべきでこれは当たり前。
この事が人に知られれば必ず悪い噂になる。わたし達の繋いだ想いが逆に脅かされる。
口外すれば1人の誤解を解く前に、悪い印象の噂が多数に広まり、彼女達を傷つけてしま
う。
それはわたしの為ではなく、東川さん達の為に口外しない。しない以上一言も漏らさな
い。わたしの意志で事実を胸に留め置く。佐々木さんの行動は、わたしには縛れないけど。
その真偽を問う人へのわたしの答は常に、
「東川絵美は、榊良枝は、室戸美紀は、下山佳代は、みんな羽藤柚明のたいせつな人…」
それ以上、お話しする事は、何もないの。
彼女を貶めるかも知れない、誤解させるかも知れない事は口にしない。それはわたしと
彼女の間の事柄で、他人に明かす事ではない。
佐々木さんはやや唖然として力が抜けて、
「飛鷹君の時も、賢也君の時もそうだけど」
あなた、本当に損な人。好んで危険や傷を受けに行く。そこ迄深く関る必要はないのに。
朝松さんのお母さんの病が分っても、寄り添う様に促す必要なんてない。表面的な関りで
流しておけば、苦痛も哀しみもなかったのに。
白川さんとの関係もそう。菊池先輩とのキスを放置すれば、あなたの女好きの噂も流さ
れなかった。本人が怯えている事を見抜いて助けて関った為に、彼女に散々振り回されて。
残ったのはあなたに損な噂と悪い印象ばかり。
人を助けに出て友情危うくして、他の人から誤解受け、その誤解の所為で酷い目や辛い
目に遭って、それで尚。見ていると苛々する。博人が心配しているの。気遣わせているの
よ。
「少しは自分自身を、たいせつにしてっ!」
濡れた身体を、正面から抱き寄せられた。
「佐々木さん。わたし、濡れているのに…」
構わずに抱き留めて、逃がしてくれない。
「あなたはわたしにとっても大切な人なの」
あなたを心配する人の想いにも心を向けて。
もう少し自身を気遣って。あなたは本当に。
「こんなに綺麗で華奢なのに、無茶ばかり」
この頬に頬を合わせてくれて。制服越しに佐々木さんの温もりが伝わってくる。それは
ずっと肌を合わせていたい程心地良い感触で。肌に感じるわたしへの労りは心迄包み込み
…。
互いの頬は、窓から差し込む西日以上に内側から朱に染められて、脈打って温かかった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「逃げちゃ、いけない。向き合わないと…」
濡れた制服を着替えたジャージ姿で、わたしが病院を訪れたのは日没直前だった。病院
の夕食はやや早めで、食事時を迎えた入院病棟は、日常の物音や話し声で雑然としていた
けど。今日のわたしにそこに留まる用はない。
こう言う処に来れば今のわたしは、滞留する死者の魂魄も視え、生きた人の先行きも視
えるけど。わたしが力を使えば治せる像も視えるけど。今はそれらに心は向けず奪われず。
奥にある集中治療室の前の廊下迄、足を運び、
「ゆめいさん……」「……ああ、君か」
均さんがほんの少し困った顔を見せたのは、娘の友達に過ぎないわたしがここに迄踏み
入る事への困惑で。でも利香さんは、わたしに駆け寄って来てその身を預け、背に腕を回
し。
「お母さん。お母さん……胃ガンだって!」
迎え入れた胸の内で、利香さんは今事実を聞かされたと涙を擦りつけ。背後で均さんが
苦い顔でいる。利香さんは憤激の余りお父様やお医者様を、嘘つきと罵った様だ。娘の涙
は父の心を削る砥石だと、何かの本で読んだ。
「ずっと、ずっと先生もお父さんも、本当の事言わないで、言わないで。胃ガンだったな
んて。末期だったなんて。入院した時点でもう、治る見込みもなく余命一月だったなんて。
知らなかった。わたし全然知らなかった!」
もう治らないなんて。退院できないなんて。家で一緒に暮らせないなんて。二度と逢う
事も抱き合う事も出来ないなんて。酷いよ。みんなでわたしを騙して、軽い病気だからっ
て、必ず治るからって。こうなる迄、こうなる迄。
「こうなってから真実報されてもわたし!」
「利香さん……可哀相に。……本当に……」
この時が来る事も視えていた。この先も確かに視えている。利香さんの哀しみも怒りも、
この先にある断絶もどうにも出来ない事柄で。
心細さに縋り付く誰かを求める左右の腕に、わたしは自身を差し出して、確かに絡みつ
かせつつ、その背後の均さんにも視線を向けて、
「お父様やお医者様を、責めないであげて」
お母様の病気は、誰が悪い訳でもないの。
お父様やお医者様が真を言えなかったのは、あなたを哀しませたくなかったから。お母
様をお見舞し寄り添える様に、真を漏らさず気付かれずに済む様に。あなたとお母様の為
よ。あなたが哀しむ姿を見たくなかっただけなの。
「だけど、だって。わたし、お母さんに…」
「しっかり何度もお見舞して、今迄になく多く言葉交わせたよね。確かに触れて励まして、
出来る限りの事はやれたよね。瞳を見て話して想いを届かせて、利香さんも確かにお母様
の想いを受け取れたよね。心尽くしたよね」
「……うん。だけど、でも。わたし、イヤ」
お母さん失いたくない。死んで欲しくない。
いつ迄も傍にいて、わたしを叱って欲しい。
廃屋探検や百物語にお小言を言って欲しい。
「何とか助けて。どんな事でもするからっ」
その想いは言葉はわたしの過去に重なった。
幼い日の夜に、お母さんを失ったあの夜に。
『もう誰にも死んで欲しくない。もう誰にも痛い思いはして欲しくない。わたしの血が欲
しいならわたしから奪って。その代り、わたしのたいせつな人をなくしてしまわないで』
わたしを守る為に犠牲になるのは止めて。
わたしを守る為にいなくなるのは止めて。
犠牲ならわたしがなる、血ならあげるから。みんなが助かるならわたしの生命あげるか
ら。
そう願っても、そう思っても届かなくって。
悔しいけれど、残念だけれど、この世にはどうしようもない事もある。人の手や努力で
はどうにもならない事がある。どんなに頑張っても頑張っても及ばない届かない事がある。
「今は唯、お医者様とお父様の言う通りに」
胸の内から利香さんは顔をもたげて問を、
「お医者様、嘘つきだよ。看護婦さんもお父さんも、今迄ずっと真実を隠してきたのに」
信じられる? わたし、信じても良いの?
今は羽藤さんだけが信じられる。最初からお母さんにしっかり寄り添う様にと、強く案
じてくれたあなただけが、わたしの本物。わたし、お父さんやお医者様を信じて良いの?
瞳の黒目が間近でわたしの心を覗き込む。
わたしは澄んだ双眸に怯む事なく頷いて、
「お母様を助けたいみんなの気持は本物よ。
利香さんもそれは疑ってないでしょう?」
頷く利香さんの頬をわたしは頬に迎えて、
「お父様も哀しんでいるの。愛おしい人の痛み苦しみに、強く深く哀しんでいる。その哀
しみをあなたにも与えるのが怖かった。それはお父様のあなたへの愛情よ。分ってあげて。
あなたの哀しみにも、お父様は心を傷めている。あなたが悲嘆に沈む事を、お父様は心
から憂いている。お父様の痛みを少しでも拭ってあげて。今お父様を力づけてあげられる
のは、あなただけ。そして最後迄お母様を」
2人でその心に寄り添って力づけてあげて。
利香さんの頬を流れる雫が、わたしの頬に繋る。号泣が漸く嗚咽に変り、少し心が鎮ま
り始めた。言葉はやはり、想いの全てを伝え切るには力不足な物らしい。わたしは肌身で
想いを受けて、わたしの想いを彼女に伝え…。
「必ず、良くなるよね? お母さん、必ず」
抱き締めて来る腕が一層強く、肉の感触がお互いに分る。ショートな黒髪が頬を撫でる。
日頃女の子との過剰な触れ合いを好まない利香さんだけど、今は正にその感触で心を支え
られたく願っていた。求められるならわたしは常に、この身で与えられる限りを与えよう。
わたしは無言で唯頷き返すだけで。
恋人か姉妹の様に肌を触れ合わせ。
贄の血の癒しを身に流し心に届け。
どの位抱擁を続けていただろうか。
歩み寄ってくる均さんの声が利香さんに、
「父さんは夜中付き添うが利香はどうする」
わたしの抱擁を解いて振り返った利香さんの答は既に定まっている。家族でもないわた
しは流石に夜も留まる訳には行かない。明日朝登校前に寄るからと、約束は交わしたけど。
絹枝さんが亡くなったのは翌明け方だった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
最終バスで羽様のお屋敷に着いたわたしを、サクヤさんも含む家族みんなの他に、一通
の手紙が待っていた。差出人は詩織さん。内容は渡される前に大凡視えた。でもまさか手
に持つだけで、これ程鮮明に視えてしまうとは。
羽様小学校で6年生の1学期迄一緒だった、1歳年下の級友。おかっぱに切り揃えた黒
髪も黒目の大きな瞳も、わたしに少し似ていた。閉じこもりがちな、わたしに似た性癖を
持つ、だから何かと気になってしまう身近な女の子。
生れつき身体が弱くて、1級下で唯1人の女の子で、人と接点を作るのが下手で。でも
可愛い後輩で級友。わたしが羽様小学校で最初に名前を覚えた、わたしのたいせつな友達。
彼女が遠くの病院へ長期療養の為に転出して2年少し経つ。彼女の身体の弱さの真因は、
二十歳迄の生存率が半分に満たない、黙っていても弱って死に至る、遺伝的な難病だった。
詩織さんとは1月に1回程度、手紙のやり取りを続けていた。わたしは受け取って概ね
3日以内に返書を出すけど、詩織さんは体力的な問題もあるのでそうは行かないのだろう。
【写真を送って下さい。ゆめいさんの最近の姿を見たいのです。でも、わたしの写真は暫
く勘弁して。先日、頭蓋の切開手術をする為に髪を全部剃っちゃいました。薬の副作用と
かで、現状見た目も可愛いとは言い難いので。我が侭ですけど、ゆめいさんには転校前の
わたしのイメージを抱いていて欲しいのです】
封を切らなくても触れただけで、関知の力が像を視せる。茶の間で笑子おばあさんに封
書を渡された瞬間、心臓が止まる程の驚きが。
「ごめんなさい。わたし……!」「柚明?」
詩織さんの現状を瞼の裏に視つめていた。
今迄も読む前に手紙の内容は察せたけど。
これ迄も行間に彼女の気持を読めたけど。
書き綴る詩織さんの姿迄が視えるなんて。
力の拡大以上に、操りが緻密になった為か。ふと視たいと思っただけで、その様が視え
る。何の気なしに、ベッドから身を起こして手紙を綴る詩織さんの姿が、瞼の裏に視えて
きて。
事を察した笑子おばあさんの問が静かに、
「遠くのお友達が、視えた様だね」「はい」
「余り加減が……良くないんだね」「はい」
わたしは驚きより罪悪感に心を震わせて、
「視るべきでは、ありませんでした。幾ら逢えなくても、寂しくても。この力は己の為に
使う物ではないと、思い知らされました…」
各種の薬の併用で酷使された肝機能・腎機能が低下し、顔や全身にむくみが出る。汗の
滴る真夏でも、自力でお風呂に入れない詩織さんの姿は、視るべきではなかった。しかも。
「わたし、その先行き迄、視えてしまう…」
『病は徐々に悪化している。衰弱している』
【写真ありがとう。どんどん綺麗になっていくゆめいさんの姿に、羨ましさと嬉しさが百
%ずつです。胸、少し大きくなっていますね。わたしももうすぐ、そうなれると思いま
す】
必死に隠して元気を装い、わたしに手紙を出す姿が視えた。衰え行く己に苛立ち、閉ざ
され行く未来に怯え、尚その末に向き合い続けねばならない姿が。わたしは役に立てない。
行く前から分っていたけど。回復の見込もなく、悪化を止める術もなく、研究と試行錯
誤を重ね、悪化の加速を食い止めるのが精一杯だと。聞いていたけど、報されていたけど。
「身体が不自由になり行く様が視えてしまう。
間もなく病室からも出られなくなる様が」
未来が閉ざされて行く様が視えてしまう。
それをわたしは変えられない。幾ら視えても、避ける事も防ぐ事も出来ないで。わたし、
『……あんた、まさか他人の不幸や死相が視えている訳じゃあ、ないだろうね?』
「幾ら修練重ねても、力を強く確かに操れても、たいせつな人を救えない。痛みも怯えも
拭い去れない。視えるだけで、視えた事を何の助けにも活かせない。報せてあげる事も」
恵美おばあさんの死をわたしは防げなかった。絹枝さんの死もわたしは防げない。笑子
おばあさんに迫る死の足音が聞えても、詩織さんに訪れる苦痛の末を感じても。わたしは
利香さんに真実を告げる事さえ出来なかった。
「誰も助けられない。誰の力にもなれない」
出来るのは傷つける事だけ。傷つける力で人を守る他に術を持たない。わたしは誰とも
戦いたい訳ではないのに。誰も傷つけず仲良く笑い合って、日々を過ごす事が望みなのに。
本当に欲しい力は手に入れられず。本当に望む救いを与える術を持たず。本当にその人
の涙を食い止める事は叶わず。いつ迄経ってもわたしは禍の子で、不幸を撒き散らし続け。
わたしの行く処、常に哀しみがある。幾ら拭おうと努めても根から解決する術を持たず、
その場凌ぎに人を抱き留める位しかできずに。否、わたしが抱き留めて欲しいだけなのか
も。
利香さんは本当は女の子と触れ合う事など望んでない。わたしが心細くて、わたしが抱
き留められたくて、わたしの心の震えを止めて欲しいだけなのかも知れない。わたしは…。
「あなたが戦い続ける限り全ては終らない」
悪い考えがぐるぐる回るわたしの心を、裂帛の気合が貫通し、周囲の空気を引き裂いた。
真弓さんがわたしを燃える瞳で正視して、
「諦めない限り、挑み続ける限り、当事者の片方である己が手放さない限り、望みへの途
は尚残っているの。諦めた瞬間、全ては終る。手放した瞬間、望みは消える。己自身を許
せないなら、歯を食いしばっても進みなさい」
わたしの懊悩を全て見抜いて敢て苛烈に、
「今のあなたは確かに無力よ。望みを叶える術もなく、失う様を見送る他に何もできない。
でも、それはあなたが諦めたり塞ぎ込む事で解決できる物なの? あなたが意志や望みを
捨て去る事で心晴れ渡る物なの? 抱いた願いを祈りを叶える為に、あなたは半歩の半分
以下でも少しずつ、己の足で前進してきた」
それを無駄だと捨てる事はあなたの正解?
届かないからと諦める事はあなたの真意?
「あなたには可能性があるのに。わたしや正樹さんやサクヤには、どんなに望んでも決し
て得られない可能性が、あなたには確かにあるのに。止めてしまってあなたは良いの?」
あなたは全てを失う訳じゃない。哀しみを刻んでも大切な物を失っても、残り続ける人
はいる。未だあなたが力にならねばならない、その助けを望む人は。救いの手を差し伸べ
る事を止めてしまうの? 力を培う事を止めてしまうの? この先の哀しみを捨て置く
の?
「最後の判断はあなた自身が下す物だけど」
絶対退けない時は、心底諦められない時は、真に戦う他に術がない時は。全身全霊挑ま
ないと、自身に悔いを残す。それも、出来た筈なのにしなかったという、救いのない悔恨
を。
「柚明ちゃんは、この侭心を怯えに閉ざして良いの? 今迄の想いや決意と引き離されて、
大切な人が哀しみ苦しむ様を見過ごす積り? あなたの残りの人生全部、諦めきれる?」
涙を必死に堪え、胸が喉が詰まって言葉が出てこない侭、首を左右に振って意思は示す。
絶対に泣かない。わたしは己の哀しみや寂しさや心細さの為に泣く事を己自身に許さない。
諦められる筈がなかった。見過ごせる筈も、捨て置ける筈も。咎人であるわたしは誰か
の役に立てる迄、生命を預けられ託されたのだ。哀しいから嫌だとか言える立場ではなか
った。
『わたしはこの生き方を、変えられない…』
失ったたいせつなひとへの想い。生きて今ここにある意味。業を負う事で漸く振り返れ
る過去。手放せない。わたしにはこの生き方しかない。幸せになれるかどうかは分らない
けど、この先に充足があると信じて進むしか。わたしは、この途を諦めて引き返せはしな
い。
「人はね、年を重ねる内に、苦味も悔いも哀しみも重ね行く物なんだよ、柚明。でもさ」
サクヤさんのしなやかな右手が左頬に触れ、
「取り返せない程に大きな喪失の後でも未だ、心を奮い立たせて守り抜かなきゃならない
たいせつな物があるってのは、確かな幸せさ」
尚頑張れるじゃないか。落ち込んでいられないじゃないか。何もかも失った訳じゃない。
柚明には、まだ守らなきゃならない物がある。受けて繋ぎ、伝えなきゃいけない想いがあ
る。あんたの生命は今やあんた一人の物じゃない。
苦しいなら分けて負う。押し潰されそうなら寄り添って支えるから。柚明の哀しみも今
や柚明一人の物じゃない。あたしが居るから。あたしにも愛しいあんたの涙を分けておく
れ。
「あたしが、つき合うよ。訪れの果て迄も」
もうそれ以上、自身を責めるのはお止し。
溢れ出そうなのは、哀しみではなく愛しさの涙だ。禍の子のわたしを、誰の哀しみも拭
えないわたしを、ここ迄真剣に想ってくれる。少し前に灼いて傷めたその腕で、怖れもせ
ず素肌に触れてくれる。その優しさが愛おしい。
身に余る程の想いに心満たされるわたしに、
「柚明の哀しみは今や、サクヤさんだけの哀しみでもないんだよ。ご覧なさいな」「?」
笑子おばあさんの言葉に我に返り、視線と意識を少し下に周囲に向け直すと、そこには。
「ゆめいおねえちゃん」「ゆーねぇ……?」
わたしを心配して、寄り添ってくれる暖かで柔らかな気配が間近に。わたしは自身の悲
嘆に耽る余り、幼い双子も不安に落していた。間に合わぬ事を悔いる内に、次の哀しみを
招こうと。わたしは今漸くそれに気付かされて。
「桂ちゃん、白花ちゃん……ごめんなさい」
絞り出した声音は蚊の鳴く様な物だけど。
代りに向き直って幼子を両腕で抱き寄せ。
左右の頬に、2人の柔らかな頬を当てて。
血の力を通わせて愛しい想いを肌に伝え。
わたしは2人の道標にならねばならない。
二度と心の闇に沈む甘えは己に許さない。
切り裂かれても打ち砕かれても。心閉ざす途は選べない。この力を2人とも己の物とす
る日は来る。怯え惑い、哀しみ傷む時は来る。わたしが先に乗り越えて、確かに導かない
と。サクヤさんがしてくれた様に今度はわたしが。それこそがわたしの生命の意味で生き
る値で、最早取り戻せない過去への購いで、真の幸せ。
「もっと、強くならないと、いけないね…」
実は己の進むこの途こそが、真に変えられない定めなのかも。わたしは結局、たいせつ
な人に尽くせる己を求め続けて諦めないから。わたしはみんなに支えられて、漸く最後の
断絶が待つその場へと、赴く覚悟を己に定めた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「ゆめいさんの嘘つきっ! どの面下げて」
絹枝さんの葬儀場となった経観塚第2町内会館で、わたしは利香さんに久方ぶりに『ゆ
めい』と呼ばれた。その呼び方を戻してくれたのが、断絶の怒号だったのは皮肉だけど…。
「あなた、お母さん必ず治ると言ったよね」
もうすぐ元気に退院するって言ったよね。
それ迄の間わたしをお母さんに頼まれて。
どうするの。元気に退院どころか二度と。
あなた一生、わたしの面倒看てくれるの?
わたしのこの哀しみを受け止めてくれる?
「応えてよ。何か言い返してよ。あなた…」
近所の人や親戚や友達も、遠巻きに目を向けるけど、その剣幕に口を挟めず見守るのみ。
利香さんは、正面に向き合ったわたしの両手を取ってその全身で揺さぶって、強い憤りを。
「信じたのにっ……。信じていたのにっ!」
お母さん、帰って来なかったじゃないの。
「わたしゆめいさんの言う通りにした。お母さんに向き合って、寄り添って。確かに手を
握って早く治ってねと、励まして力づけた」
寄り添って励ましたら治るってあなたが。
元気になって退院するって保証したのに。
わたしもお母さんも騙し裏切る積りなの?
頭を下げようとする両肩を両の手で抑え、
「謝らないで。謝らないで良いから、約束通りお母さんを返して。元気に退院させて頂戴。
それだけで良いの。それ以上求めないから」
ああ、彼女はそれしか求めていないのに。
わたしはそれに応える術を何一つ持たず。
彼女に真実を告げる事さえ出来なかった。
役に立てなかったわたしに、今更弁明も返す言葉もない。わたしは揺さぶってくる腕を
身で受けて、唯深々と頭を下げて、声を絞り、
「ごめんなさい。わたし、力になれずに…」
「返してよ! 約束守って、返してよぉっ」
お母さんを、もう一度、生き返らせてっ。
お願い。その為ならわたし何でもするっ。
頑張るから。どんな事でもやり通すから。
だからあなたがお母さんを、呼び戻して!
涙溢れる瞳を間近で正視し、首を左右に。
「朝松さん……ごめんなさい……わたし…」
最早誰にもどうにも出来ないのだと、誰かがどこかで納得させねばならなかった。その
役を担うべき者がわたしであるなら。この謝罪が利香さんに絹枝さんの死を呑み込ませる。
最初に彼女に不安の暗雲を招いたのはわたし。故に彼女には全ての禍はわたしが導いた物
で。
利香さんの心が冷えて、固まって行く。それはわたしの意図が届いた証で、断絶の始り。
「あなた、こうなる事が視えていたのね?」
お母さんがもうすぐ死んでしまうと予め。
知ってわたしに、声をかけたんでしょう。
「わたしに真実を何一つ明かしもせずに…」
あなた、お父さんやお医者様より酷い。最初から、廊下で押しかけてきたあの時から全
部分っていたのね。胃潰瘍じゃなく胃ガンだって知ってないと、あんな事は言えないもの。
お母さん死んじゃうって知らないとあんな事。
問い質す視線と語調には微かな怯えが宿り。
激情は多くの視線の真ん中である事も忘れ、
「死霊や悪霊が視える様に、あなたお母さんの病も苦しみも死の様も、視えていたの?
それでわたしに知らぬ顔で関ってきたの? 知ってお母さんを何食わぬ顔でお見舞に?」
大人や級友の視線も届いてくる真ん中で。
取り縋る腕が外れ、一歩二歩後に下がり。
その距離がわたしと利香さんの心の隔て。
大っ嫌い。声はわたしへの憎しみに充ち、
「あなた他人の不幸や死相が視えているの? それともあなたが人の痛みや苦しみを招い
ているの? あなたの一言で今回の禍は始ったのよ。この哀しみも、お母さんの病も死も。
あなたさえ関って来なければ……死神っ!」
あなたがお母さんの病も最期も招いたのよ。
ずっとわたしの不幸と不安を呼び続けたの。
傍にいる程に、どんどん状況が悪くなって。
あなたの所為で、あなたこそ、禍の根源よ。
「口も利きたくない。帰って! もう二度とわたしの前に顔を出さないでっ」「りか…」
下山さんと室戸さんが、激した利香さんを宥めようとするけど、怒りが肌の上で放電で
もしている様に、2人とも挟まるに挟まれず。怒りと哀しみと怯えに全身を震わせる利香
さんの肩を、後ろから両手で静かに抑えたのは、
「落ち着きなさい。ご近所や親戚の前だよ」
父である均さんだった。今は唯1人の家族となった娘の激発が、彼女自身に害になる前
に確かに抑え、心を抱いて、視線をわたしに。わたしも両手を揃えての黙礼で、それに応
え。
「母さんの病は羽藤さんの所為じゃない。胃ガンは彼女が詛っても祈っても生じはしない。
誰が悪い訳でもない。彼女が悪い訳でもない。羽藤さんは、利香の不安を一生懸命鎮めて
くれたじゃないか。利香を肌身に抱き留めて」
静かに、やり場のない憤りを抑え込んで。
それは自身に受け容れさせていたのかも。
愛した人の早すぎる死を前に彼も必死で。
納得迄は求めず、振り返って縋る利香さんを正面に受け止めつつ、均さんは沈痛な声で、
「羽藤さん、申し訳ないが。今日はこれでお引き取り頂けないだろうか」「お父様……」
その表情が苦いのは、わたしへの申し訳なさか。わたしが傍にいる事で利香さんの心を
乱してしまう。ここは彼女の母の葬儀の場だ。外す者をどちらかで選ぶなら、わたしだっ
た。
「君が利香と絹枝を想ってくれていた事は分っている。だが今は君が近いと利香が心乱さ
れるんだ。君が悪くない事は分っている。今のやり取りでは利香に非がある事も。だが母
を亡くしたばかりの利香に、理屈は通じない。利香の暴言については私に謝らせて欲し
い」
今は利香を大切に想う、父の情を優先する。
非礼を承知で申し上げる。外して貰いたい。
立派な大人が、中学生の子供に頭を下げて。
何も悪くないのに。均さんも利香さんも何も悪くない。わたしが何も怒ってない以上に、
利香さんの心を乱したのはわたしなのだから。均さんが言った通りだ。誰が悪い訳でもな
い。敢て誰かの名を挙げるなら、それはわたし…。
「お心を乱して、申し訳ありませんでした」
利香さんと均さんに向けて、頭を下げる。
この場が利香さんとの訣別の場になるなら、もう少し届けたい想いはあったけど、でも
…。
「いつ迄も、みんなわたしのたいせつな人」
利香さんは均さんに身を預けた侭、一瞬だけわたしを振り返ったけど、怯えた様に父の
胸に顔を埋め、わたしに向き合ってはくれず。返す言葉はないというのが彼女の最終回答
か。
この末をわたしは受け止める。わたしはこの結末を承知して彼女に関った。踏み込んで
利香さんに、絹枝さんと向き合う様に促した。この断絶が視えて尚。それを為さず放置し
て、この秋に利香さんが生涯の悔いを残す様を見過ごせなかったから。わたしに選べたの
はこの途だけだ。これが変えられない定めなのか。
誤解される事は嫌だけど。悪い噂を流される事は怖いけど。葬儀の場に集った多くの大
人から、好奇と興味の視線を受ける事は好まないけど。感応の力を持つわたし故に、それ
は一層辛いけど。それは所詮わたしの痛みだ。己可愛さにたいせつな人へ差し伸べる手を
引っ込めていては、わたしが生きる理由を失う。例えその当人に憎まれ嫌われ、隔てられ
ても。わたしは、この途を諦めて引き返せはしない。
振り返って、帰途を歩み出そうとした時。
「羽藤さん……最後に一つ、教えて欲しい」
親戚や近所の人や級友達が未だ口を開けず、わたしが去る迄と硬直した中、均さんの声
が、
「私は呪いとか予知とかは信じてない方でね。聞いても今迄まともに受け止めて来なかっ
た。特段害もなかったので口出しも。だが、今回の事には少し引っ掛る。応えて貰えるか
な」
絹枝の病を胃ガンだと、君はいつの時点でどうして分ったんだい? 利香の話しでは最
初に耳に挟んだ瞬間、切迫した表情で絹枝にしっかり寄り添う様に、強く求めたと聞いた。
最後迄隠し続けようと、利香にも絹枝にも明かさなかった、医師の他に私のみが知る事を。
「……胃ガンの確証は、ありませんでした」
気分は名探偵の問を受ける被疑者だった。
わたしは多くの視線を感じつつ振り返り、
「唯、耳にした病名が、気になったんです」
同時に無言を保つ多くの視線を意識して。
愛しい人の背にわたしの想いが届く様に。
「利香さんが言っていた通り、現代医学では胃潰瘍は、余程酷く悪化しても手術に至る例
は殆どありません。でも病院には時折胃潰瘍で手術の為に入院する人がいると聞きました。
胃ガンを告知出来ない人に、入院手術の表向きの病名を、胃潰瘍だと告げる例があると。
病の真相を伝えて生きる気力を奪わない為に、お医者様と相談して軽い病の如く装うと
…」
確証はありませんでした。唯その可能性を感じたので、余計なお節介と思いつつ、利香
さんにしっかり寄り添って、貴重な時を一緒に過ごしてと、促しました。本当は唯の酷い
胃潰瘍かも知れない。一月で治って退院出来るかも知れない。でも、例えそうでも入院す
る程に酷いなら、肌触れ合わせ励ますべきと。
「確かな事は分りませんでした。だからそれ以上利香さんの不安を煽る事は言えず、お父
様やお医者様の判断を壊すかも知れない事も言えず。理屈抜きで、わたしの想いを利香さ
んに押しつけてしまいました。利香さんには煩わしく、申し訳なかったと想っています」
わたしは小学3年の時に父も母も亡くしています。少女連続傷害犯に襲われたわたしを、
身体を生命を抛って、守ってくれたその末に。
「わたしはその最期に立ち会う事も出来ませんでした。死なないでとも、帰ってきてとも、
わたしの為に生命失わせてごめんなさいとも、守ってくれて有り難うとも、伝えられず
に」
最期に温もり通わせる事も出来ず、手を握る事も出来ず、見届ける事も叶わず。身に余
る程の想いを受けても、何一つ返せないで…。
「せめて利香さんには、心残りが少ない様に。失った後でその尊さに気付くのではなく、
その前に気付いて欲しい。答を返せない墓石や位牌に謝るより、生きて聞ける内に直に耳
に届けて欲しい。失う哀しみはなくせないけど、失う前に何かできたという悔いは避けら
れる。出来る事を為さず永遠にその機会を逃す悔しさは、誰にも味わって欲しくない。だ
から」
余計な事と知って。出過ぎた真似と承知して。家族の領域迄踏み込んで、利香さんを傷
つけ哀しませました。本当に、ごめんなさい。
「そして、有り難うございます。お父様…」
均さんがこの場でわたしに問うたのは、問い詰めたかった故ではない。問う事でわたし
に弁明の場を、誤解を解く場を与えてくれた。
利香さんの言葉の多くを、大人達は額面通りに受け止めないだろうけど。奇妙な力を持
つと非難された娘の印象は残る。この侭言われっぱなしで終れば暫く噂になって囁かれる。
それは視えていたけど、傷心の利香さんに今、理屈で反論する事は出来なくて。その事を
均さんは分ってくれて、察して気遣ってくれて。
そこ迄わたしを案じ想ってくれる均さんに、わたしは尚明かせない事実を抱く。どうし
ても伝える事の出来ない真実を胸に。謝る事さえ許されない咎人の罪は、今始ったばかり
だ。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
通夜に出られずバスで夕刻前に帰ったわたしを、みんなは穏やかに静かに迎えてくれて。
「そうかい……お疲れだったね。柚明……」
笑子おばあさんはわたしが『視た通り』葬儀場から追い返されて帰り来た経緯を話すと、
深く頷きわたしの応対を全て了承してくれた。正樹さんも真弓さんも、サクヤさんも同様
に。
わたしは断ち切られる為に葬儀の場に赴き、利香さんの憤りを受け止めた。許しを請う
為ではなく、己の為した結果に向き合い、この想いを伝え、断絶を受ける為に謝りに行っ
た。その哀しみも憤りも、深く関って招いたわたしが、最後迄受け止めなければいけなか
った。
均さんがわたしを気遣い、弁明させる為にあの場で問うてくれたのは予想外だったけど。
均さんは絹枝さんの判断を深く信頼していた。心霊の話しは信じなくても、絹枝さんが娘
を頼む程信じたわたしを、大切に想ってくれて。わたしの答は、彼の期待を満たせただろ
うか。
「朝松さんのお父さんは、柚明ちゃんを確かに分ってくれたと想うわ」「僕もそう想う」
冷静で理性的で情の籠もる良い答だったよ。
真弓さんに続けて正樹さんが静かな声音で、わたしの均さんに抱いた印象と推察を肯定
し、
「娘を託せると判断した母親の眼力を信頼し、柚明ちゃんを信頼した。男親として分る
よ」
君なら例え桂や白花を傷つけてさえ、それが2人の為に必要な事なのだと、信じられる。
それは正樹さんの掛け値のないわたしへの強い信頼で、身を震わせる程嬉しかったけど。
「そこ迄強く深い信を貰えても、わたし…」
均さんにも真実を話せない。あの話に嘘はなかったけど。詩織さんとの関りで医療を少
し囓っていたわたしが『胃潰瘍で入院手術』に不吉を察せたのは確かだけど。それよりも。
「絹枝さんの力になれたかも知れないのに」
「柚明?」「柚明ちゃん、あなたまさか?」
サクヤさんと真弓さんが瞳を見開く脇で、
「もう少し早く修練が進んでいれば、わたしの癒しが絹枝さんを、治せたかも」「……」
おばあさんの沈黙は、わたしの悔いを分る故だ。贄の血の癒しは多くの病には効かない
けど、病の影響で不具合を起こした臓器なら、状況はケガや疲労と変りない。対症療法で
しかないけど、病の根を除く事は出来ないけど。力を集約し、必要な箇所以外に漏らさな
い絞り込みが必須だけど。高度な操りが要るけど。
「今のわたしなら、不可能じゃない。桂ちゃんと白花ちゃんのお陰で修得出来た強い集束
を、もう一月早く絹枝さんに及ぼせたなら」
絹枝さんの死因は胃ガンだけど、抗ガン剤や放射線治療の副作用による衰弱も、深く関
っていた。ガン細胞をやっつける為に、やむを得ない焦土作戦だったけど、現代医学の療
法は絹枝さんの身体も共々に痛めつけていた。
「お医者様はガン細胞を狙って攻撃するけど、周囲の正常な組織や臓器も痛め、疲弊させ
る。その為機能不全に陥り易くなり、全体の体力、生命力を衰えさせる。絹枝さんの衰弱
は、半分はガンの所為であり、もう半分は抗ガン剤や放射線治療の副作用でした。そして
それらの臓器の疲弊や障害なら、わたしの癒しで」
痛んだ臓器にだけ癒しを及ぼし、ガン細胞を外して賦活させる事が、今のわたしには可
能です。出来る様になりました。もう一月早くこの操りに習熟していれば、絹枝さんの全
身にガンが転移する以前なら、わたしが毎日。
「お見舞と称して訪れ、患部に触れる事で」
たいせつな人の生命を救えたかも知れない。
利香さんを涙させずに済んだかも知れない。
それこそ利香さんや均さんに顔向け出来ないわたしの咎。話す事の出来ないわたしの罪。
ガンその物は滅ぼせない。わたしの力は未だそこ迄及ばない。でも、絹枝さんが体力を
戻せば、臓器の疲弊や障害をなくせば、もっと抗ガン剤や放射線治療を受けられ、もっと
体力あって手術も受けられ、ガンその物を克服出来たかも。生きて元気に退院出来たかも。
「わたしの修練が間に合わなかった所為で」
あと一歩及ばなかった為に、人の生命が。
おばあさんを除く3人が、言葉を失い固まった。わたしはもう一歩の処迄来ていたのだ。
もう少し修練に励んでいれば。もう少し己の何かを諦め捨てて力の修練を進めていれば。
もう少し早く己の心の闇から目覚めていれば。ほんの一月で良い。時を遡る事が出来たな
ら。
「救えたかも知れない人を。失わず済んだかも知れない生命を。わたしが救えなかった!
わたしはそれが出来るのに。出来たのに」
出来た筈の事が出来ず悔いを残す。利香さんの事を言える資格等己にはない。わたしこ
そが、生涯背負わねばならぬ悔いをこの秋に。否、わたしの悔いなど些細な事だ。問題は
それでたいせつな人の生命を守れなかった事に。
「わたし、利香さんにもお父様にも謝れない。この事実を話して、謝る事さえ出来ない
…」
田中先生や仁美さん達に終生事実を話せない様に。恵美おばあさんには最期迄それを伝
えられなかった。それは絹枝さんにも均さんにも利香さんにも。わたしは幾重にも罪深い。
誤解を受けて身に憶えのない噂を流される苦味など、この重さに較べれば何程の事もない。
正座の上に握り締めた両拳に視線を落し、
「大丈夫です。わたしは……大丈夫っ……」
この悔いはわたしがしっかり噛み締めて乗り越えないと。逃げる事なく向き合わないと。
わたしより血の濃い双子は早晩必ず、この状況に直面する。わたしが乗り越えて範を示
さないと、2人の苦悩が増すのみだ。特異な力を扱える故の苦悩は、わたしだけの物じゃ
ない。目の前に1人、半世紀を遙かに超えてその定めを背負い続けた人がいる。その前で、
「答は視えています。幾ら悩んでもわたしの答は変らない。変えられない。わたしは羽藤
柚明です。血の定めを逃れる途を選べない以上、進んで受け容れるのがわたしの正解…」
雫を落しそうな瞼を堪え続ける。泣かない。絶対に泣かない。今のわたしは絹枝さんの
死にではなく、それを防げなかった自分に泣きたいだけだ。泣いて人の慰めが欲しいだけ
だ。そんな甘えを願う資格など、わたしにはない。
「柚明は朝松さんにしっかり向き合い、多く言葉を交わせた筈だよ。確かに触れて励まし、
出来る限りの事はやれた筈だよ。瞳を見て話して想いを届かせ、朝松さんやそのお母さん
の想いも受け取った。心を尽くした筈だよ」
「おばあさん……でも、わたしは……っ…」
優しい声に涙腺が緩むのを必死で堪える。
「柚明はその時点で、出来る限りを尽くした。それで充分よ。出来ない事は為しようがな
い。柚明の手に届かない定めだった。その時の最善を尽くして尚及ばないなら諦めるしか
ない。後で新薬や新技術が出てきてもその当時はなかったの。柚明だから後一歩の処迄行
けた」
柚明は、とても強く賢く、優しい子だよ…。
悔しいけれど、残念だけれど、人の手ではどうにもならない出来ない事が、確かにこの
世には幾つかある。人の手や努力や気合ではどれ程頑張っても及ばない届かない溝がある。
為し終えた事だけは誰にも取り返せない。
その酸味を苦味を胸の奥深くに刻み込み。
わたしはこの悔いを絶対に忘れない。利香さんを涙させ均さんを哀しませた自身の罪を。
絹枝さんの助けに間に合わなかった己の咎を。この失敗は必ず活かす。それで許される罪
ではないけど。それで贖いになる筈もないけど。
「もうこれ以上、誰の涙も流させない様に」
嗚咽は自室に引きこもってから。空も一天俄にかき曇り、経観塚名物とも言うべき激し
い通り雨を羽様一帯に降り注がせて。大粒の雨音の中、わたしの雫も悲哀も紛れて消える。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「白花ちゃんと桂ちゃんが、いない……?」
勘づいたのは、窓から差し込む西日に時の経過を感じてこうべを上げた瞬間で。雨が止
んでいた事に気付き、雨が降っていた事を想い返し、にも関らず幼い気配をお屋敷のどこ
にも感じなくて。自室に引きこもり、己に閉じこもっていた心が漸く鎮まり、意識は外へ。
真弓さんやサクヤさんの微かな不安の波を感じ取れた。日頃顔を合わせれば、視る迄も
なく分る事だけど、別室でも感じ取れるとは。
この2つは感応の顕れだけど、これを同時に感じ取れその繋りを察せたのは関知の力だ。
白花ちゃんも桂ちゃんもお屋敷の中にいない。雨が降る前から。そう言えば、わたしが葬
儀の報告を終えた時、既に2人を感じなかった。
「桂ちゃん、白花ちゃん……」「ああ柚明」
サクヤさんは廊下でわたしの危惧を察し、
「大丈夫かい? あんたの手も借りたいんだけど」「柚明ちゃんの状態が良くないなら」
真弓さんの心配げな声は、わたしが泣き腫らした侭、顔も洗えてないから。人に見せら
れる顔ではないけど、今は己の装いを気にする暇はない。わたしの部屋を2人訪れようと
していた処らしい。心も身体も大丈夫ですと、短く確かに頷いて、3人で茶の間に歩み行
く。
「この屋敷周辺二百メートルの範囲には2人の気配はなさそうだけど」「そうですね…」
茶の間で正樹さんを前に笑子おばあさんは、幼子2人の気配を探っていたけど反応はな
く。
「周囲五百メートル迄広げても感じません」
笑子おばあさんの間近に座って左手を握り、血の力を紡いでわたしの強い感覚で補いつ
つ、
「意外と遠出した様です。ここにいても感じ取れる可能性は低い。探しに行きましょう」
「普段は大人の目の届かない遠くへ出て行く子ではないんだが」「何かあったのかしら」
わたしが自室にいた間、正樹さん達は幼子2人の『贄の血の陰陽』を充たす血の濃さが、
将来招く諸々を、わたしを参考に語り合っていた様だ。そう言う時に2人を看るのは、わ
たしの役割だった。わたしは己の哀しみに囚われて、たいせつな人の所在の把握を怠り…。
「子供の足では、山や森に入るのは難しい」
遊びに遠出したなら、緑のアーチを潜って車道側に出た怖れが高いと思う。でも山や森
に入った可能性も否定出来ない。正樹さんは、
「手分けして探そう。僕は道路を経観塚側へ、真弓は道路を隣町側へ、サクヤさんはご神
木の方をお願いします。柚明ちゃんは崖下を」
母さんは、2人が帰ってくるかも知れないのでここで待っていて下さい。日が暮れたら
視界も足元も悪くなるから、一度引き上げること。その時点で2人が見つかってなかった
ら、町内会や駐在さんに協力をお願いしよう。
赤光が世界を染め尽くす中、わたし達は羽様のお屋敷を駆け出した。日暮れ迄、後壱時
間はないだろう。これは時間との戦いだった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
『雨の所為で、多くの匂いが掻き消されちまっている。こりゃ探すのは結構骨かもねえ』
緑のアーチから脇道に逸れて少しの辺りで、わたしはサクヤさんとも別れ森を進んでい
た。表には出さないけど、人より五感の鋭いサクヤさんも、雷雨に匂いも気配も掻き乱さ
れて、探すのは至難の業だった。しかも屋外で雨に当たったなら、2人は濡れて疲労し、
身体も冷えている。外で夜を迎えるのは危うかった。
お屋敷から結構離れたけど、幼子の存在は感じ取れない。血の力以上に、わたしは2人
に近い血縁で寝食も共にしているから、日中も遠く迄分る筈なのに。草藪や木陰に隠れて
も息吹を感じ取れる筈なのに。温もりを感じ取れる筈なのに。心音を聞き取れる筈なのに。
嫌な予感が胸に沸き起こるのを抑え。
悪い憶測に振り回されるのではなく。
今為さねばならない事に想いを向け。
2人はどこ迄何をしに出向いたのだろう。
それが分れば探す場所のメドも付くのに。
「紅葉の走り……山が色付き始めている…」
本格的な紅葉は未だだけど、一部の葉は色を変え始めている。そう言えば、紅葉や花や
樹の写真は白花ちゃんの、蝶々や野生動物の写真は桂ちゃんのお好みだった。サクヤさん
が来る度に2人は撮った写真を見せてと求め。幼いわたしがサクヤさんにせがんでいた様
に。
『桂も白花も、本当に写真が好きだねえ…』
ふと兆しを感じる前触れが心に引っ掛った。何かが視えてきそうな、関知の力が何かを
手繰り寄せそうな。己の心に波立つ物があって、くいくいと引っ張られる感覚があって、
それに心を傾けると。この緊急時に、一件関りのなさそうな事が思い浮び、心導かれるの
は…。
『ゆーねぇは女の子だからお花がすきだよ』
白花ちゃんの声に、わたしが振り返ると、
『ゆめいおねえちゃんは……お花がすき?』
桂ちゃんの可愛い瞳と頬から問が発され、
『そうね。お花は好き。動物も好きだけど』
わたしは、桂ちゃんと白花ちゃんが好き。
そう言えば2人ともお花の名前だものね。
『柚明……あんたは本当に、その双子と結婚する積りででもいるのかね。年頃の娘が…』
サクヤさんのやや呆れた声に、微笑んで、
『もう、一つ屋根の下で暮らして4年です』
新婚とは言えないかも。倦怠期は来る兆しもないけど。日々ますます可愛く育つ2人の
幼子を前に、毎日幸せに充ち満ちているけど。
『ああ、2人は既に柚明の物らしいよ真弓』
真弓さんを煽って話しをかき混ぜようと。
『サクヤおばさん……。それは、違います』
それにはわたしも流石に言葉をやや強く、
『わたしが桂ちゃんと白花ちゃんの物です』
突っ込む戦意を失った様なサクヤさんに、
『あら、サクヤ。桂と白花に一途な柚明ちゃんに嫉妬? それとも柚明ちゃんを桂と白花
に取られて、合わせて8歳の双子に嫉妬?』
大人達の会話をよそに、幼子達は尚も写真にご執心で。わたしは2人を見守る事を好み。
桂ちゃんは鹿やイノシシ等動物がお好みで、白花ちゃんはお花や紅葉等がお好み。名前
を取り違えた所為なのか、4歳時点での発育は、元気溢れる桂ちゃんと、やや大人しい白
花ちゃんで、顔形は似ていても現れ方は少し違う。思春期迄は女子の成長が先んじるとも
聞いた。
そんな2人が、一緒に瞳を見開いたのは、
『『きれい……』』『ああ、山頂の朝日ね』
一帯で最も高い山の頂から、他の山々や森が朝日に染められて色付く様を撮った数枚に、
2人の幼子の目が引き寄せられた。見るだけで心の霧が払われる様な、壮麗に美しい絵だ。
桂ちゃんは真弓さんにそのプリントを持って行って見せ、見たという頷きを貰った後で、
それをわたしの前に持ってきて。確かに見て、ありがとうと応えると、幸せそうに微笑ん
で。
『いいなぁ……』『ん、生で見たいかい?』
白花ちゃんは実は、写真を分捕って真弓さんやわたしに見せに歩いた桂ちゃんを羨んだ
のだけど。サクヤさんはその風景を生で見たいのだと思って。でもそれは全くの勘違いで
もなく、桂ちゃんはその言葉に瞳を輝かせて、
『みたいみたい。お山の朝日みてみたい!』
『サクヤ、本気で山頂迄連れて行く積り?』
心配そうな真弓さんの声にサクヤさんは、
『羽様の山に登れば良いさ。中腹のオハシラ様を素通りして頂迄行けば、結構見晴らしも
良い物だよ。あたしも昔は姫様を連れて…』
ふっと遠い目線を見せた後で我に返ると。
『笑子さんや正樹とは何回か行った事があったねえ。そうそう柚明、あんたの母さんとも。
久しぶりに、行ってみるのも良いかねえ』
雪が降らない内なら、この辺りには大きな獣もいないし。桂と白花は担いでいけば良い。
『羽様の山頂から見る朝日も爽快な物だよ』
良いかもね。真弓さんの乗り気な頷きに、
『わたしも一緒に行っても良い?』『ああ』
そう言えば、柚明も真弓も未だだったね。
『お山の近くもお花咲いている?』『ん…』
季節によっては溢れる程に咲き誇ってね。
サクヤさんは白花ちゃんの問に答えたのに、何故か瞼の裏に映るのは、瞳を輝かせる桂
ちゃんで。桂ちゃんが白花ちゃんの手を取って、
『ゆめいおねえちゃんにお花もって来よう』
それは今日の夕刻前、わたしが羽様のお屋敷で葬儀から帰ってきた報告をしている脇か。
『山はお花いっぱいってサクヤおばちゃが』
『きれいなお花持ってくればおねえちゃん』
きっときっと、よろこぶね。
「視えた……! 2人の想いが、目的が、足跡が、現在位置が、筋道を辿る様に明瞭に」
わたしの所為だった。わたしが最近塞ぎがちで涙を堪えて俯き加減だと、心配してくれ
て幼子2人はわたしの為に。綺麗なお花を山から持ってきて、わたしを慰めてくれようと。
少しの怯えと冒険心と優しく強い心を抱き、手を繋いで緑のアーチから折れ、森に入っ
て行く背中が視えた。2人なら怖くないと、幼子の背丈より遙かに高い藪を掻き分け、幹
を躱し、根を踏み越え。山に登る獣道の中途で。
「涸れ井戸……? 落ちちゃったの……?」
足は既に駆けだしていた。ここから場所はそう遠くない。唯、地中数メートルの場所に
なれば、流石に感応の探りも及びにくい様で。息吹も温もりも、中々感じ取れなかった訳
だ。
井戸は暫く使われておらず、落ちた底も枯れ葉が何年分も堆積していて天然のクッショ
ンとなっており、2人にケガはなかった様だ。唯幼子に自力で脱出の術はなく、声は届か
ず、他に助けを求める方法もなく。激しい通り雨から身を隠す術もなかったので、2人と
も濡れて身体が冷えている。早く助け出さないと。
遠く迄明快に視える。広範に詳細に視える。この手が及ばぬ処迄深く確かに手に取る様
に。わたしの力は今尚成長し、拡大を続けている。その結果、白花ちゃんと桂ちゃんの足
跡を辿れた。今日迄の成果でギリギリ、間に合えた。
濡れた斜面を駆け抜ける。これも護身の術の修練の成果だ。人を守れる強さを求めなけ
れば、雨上がりの獣道を走る等望めなかった。身体のバランスが保てず、踏ん張りが利か
ず、肺も喉も及ばない。何度か人を傷つけてしまったこの手足が、今はたいせつな人の助
けに。
「桂ちゃん! 白花ちゃん! 大丈夫っ?」
残光が尚空を薄赤く染める中、既に薄暗い森の中で。更に暗く閉ざされた井戸の淵には、
わたしが求め望んだ2つの息吹が。2つの心音が、2つの気配が、2つの叫びが強い答を。
「「うわああああぁぁぁぁんん!」」
雨に濡れ、疲れ果てて、心細かったに違いないけど。2人身体を寄せ合って、互いを温
め合い励まし合い、助けを待っていてくれた。わたしのたいせつなひと。わたしに生きる
意味と値をくれた人。何があろうとも守り抜かねばならない、守らせて欲しいわたしの幸
せ。
日が暮れて、身の外に出しても削られなくなった蒼い力を蔓に通わせ、2人を巻き付か
せ浮かせ引っ張り上げる。既にわたしは日中でも、己の体重の二倍程度なら力を及ぼし浮
かせ動かす事は出来た。手足のあるわたしには意味が薄い技なので、使う事は少ないけど。
胸も喉も詰まって声が出ず、唯抱き合ってお互いの存在を、肌触りと温もりで確かめて。
「無事で良かった。白花ちゃんも桂ちゃんも、本当に。ごめんなさいね、わたしの所為
で」
そしてありがとう。2人ともわたしの為に。
2人とも、とても強くて賢くて、優しい子。
わたしにはあなた達が世界で一番愛しい花。
羽藤桂と羽藤白花がわたしの一番大切な花。
「大好き……2人とも、わたしの心の太陽」
抱き留める事で、身も心もひしと繋ぐ事で、わたしはこの先の像も朧に視えた。この幸
せも永遠ではない。2人とこうして肌を合わせ、声を交わし心通わす日々もいずれ終る。
2人に2人の人生がある以上に、進学や結婚を拒んでもわたしには将来2人との断絶が待
つと。隔てられ、声も届かせられない時は訪れると。
長く逢えてない人達。永遠に逢えなくなった人達。今後意図して遠ざかる人達。手紙で
しか関れない人もいた。繋りを断ち切られた人もいる。そして、わたしの生命に光を当て
てくれた双子との、幸せな日々もじきに終る。
いつの事かは定かでないけど、笑子おばあさんに迫る死の足音程に、確かでもないけど。
真弓さんに感じた漠たる不安の様に、遙か遠くに。それはこの心を震わせ怯えさせたけど。
ならわたしはその日迄何度でも頬を合わせ、たくさん言葉を交わし合おう。温もりと肌
触りを確かめ合おう。瞳を見てお話して想いを届かせ、わたしも確かに白花ちゃんと桂ち
ゃんの想いを受け取ろう。心の限りを尽くそう。
例え終りが来るにせよ。避け得ぬのなら尚更に。この様に巡り会えたのも定めの内なら。
定めを拒む事は出逢いも拒む事になる。
わたしはこの出逢いが心底嬉しいから。
いずれ来る別れも双子に最も良い形に。
終りの瞬間迄、この幸せを渾身で感じ。
愛しい2人に紡げる限りの想いを贈る。
いつか終りが来るにしても、その瞬間迄わたしはたいせつな2人の幸せに、己を尽くす。
冷えた身体が心からわたしの体温を求めて吸い付き、3つの贄の血が共鳴し合い。通常
より更に強い力が紡ぎ出せていた。夜を迎え、尋常ではなく濃い2人の血と、その2人の
お陰で憶えた強い集束が、膨大な力を導き出し。
『感応を届かせられる。笑子おばあさんの現に、麓の羽様のお屋敷に想いを届けられる』
この距離を隔てて、驚く笑子おばあさんに躙り寄る、真弓さんと正樹さんの姿が視えた。
たった今帰り着いた処だったらしい。笑子おばあさんを通じて、大丈夫ですと確かに伝え。
幼子2人を座り込んで左右に抱き、温もりと肌触りで宥めつつ、癒しの力で疲労を拭い
掠り傷を治し痕も消す。声と匂いで察知したサクヤさんの到着は、その少し後の事だった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
真沙美さんと和泉さんと佐々木さんと校門を潜った処で、正面に飛び込み身を預けてく
る小柄な人に、わたし達の歩みは止められて。夕維さんののろけ話とも揶揄される痴話喧
嘩の相談に、傍の3人は一瞬顔を曇らせるけど。わたしを気遣ってくれる様を感じ取れた
けど。
「そう……でも大丈夫。あなたと翔君なら」
わたしは、大丈夫。いつもと、変りない。
胸に受け止め、細身の背中に両腕を回す。
頬が触れる程間近から、耳元に囁きかけ。
翔君との絆を繋ぎ直した夕維さんと、幾ら近しくても悪い噂は広まらない。彼女はわた
しに警戒も何もなく、毎度胸に飛び込んで肌を合わせ、間近に顔を寄せてお話してくれて。
「幸せって、柚明さん。私毎日大変なのに」
夕維さんが日々恋煩いに大変な様子は分る。感応の力を使わなくても、表情と姿勢には
その悩みや苦労が視え、微笑ましくて可愛くて。
両肩を軽く抑えて、少し身を離して瞳を覗き込む。右手を左耳の上の黒髪に梳き入れて、
「大変なのも、幸せの内なのよ。わたしも」
そうである事に気付かないのが幸せなの。
「その大変さに、翔君と2人で向き合って」
校門前で少しの間、足を止めていた為に、
「羽藤さんは大変そうだけど……今も幸せなのね。信じられないわ、わたしの感性では」
利香さんに追いつかれ、声を掛けられた。
夕維さんの肩から両手を放し、振り返る。
「お早う、羽藤さん」「お早う、朝松さん」
下山さんと室戸さんが、利香さんの後ろで心配そうに見守っていた。葬儀場での経緯は
学校のみんなが知っている。故にわたしの間近の佐々木さん達も少し心配そうな顔でいる。
利香さんはわたしの答を待たず言葉を続け。
断ち切れた筈の彼女が話し掛けてきたのは、
「葬儀場では、ごめんなさい。わたし、心が乱れていて、多くの大人の前で失礼を言って。
謝っておきなさいって、言われたから…」
均さんに、謝る様に強く諭されたのだろう。あの言動は流石に拙いと一応頭を下げるけ
ど。前段の言葉もその語調からも、彼女は許しどころか返事も欲してないと誰の目にも明
瞭で。
絆は断ち切れていた。利香さんにそれを戻す積りはなく。やはり定めの末はこうなった。
わたしと利香さんは最善を為してもこの末に辿り着く。友達ではいられず、絆は残せない。
じゃ。言い終えて、答を待たずわたしの右脇を通り抜けようとする利香さんの手を掴む。
「羽藤さん……何を、するのっ……今更?」
足が止まってビクと震える。わたしはしっかり両手で引き留めた。怒りではなく怯えと
拒絶に身を震わせる、美しい黒目を覗き込み、
「最後で良い。わたしの話しを聞いて」
その右耳に口元を寄せ、囁きかける。
「お父様に相談して、都市圏の病院で小腸を見て貰って。最新鋭の機器を使って綿密に」
「……羽藤さん、あなた?」「未だごく初期よ、早くに手を打てば、生命には関らない」
利香さんの心が凍り、体温が下がる感触が分った。身の震えは、ごく身近な人の生命を
間近に奪った病が次は己に宿るとの宣告より。それを告げたわたしへの怯えの方が更に強
く。その伝達は特異な力の所持を証す愚行だけど。何故分るかを問われれば己が危うく怖
いけど。
利香さんの耳に口を寄せたので、他の人は聞き取れてない。真沙美さんと和泉さんは察
しただろうか。でもこの密な接触は、わたしと利香さんの間に再度、各種の噂を招くかも。
「あなた、わたしに、死の呪いを告げに?」
胸の内から噴き出すのは、怒りでも憎悪でもなく怯えの嵐だ。わたしが彼女に禍を持ち
込んだと、わたしが怒って利香さんに病で報復したと、最早関る事が危険だと思い込んで。
もう、絆を繋ぐ事は不可能だった。でも。
耳元から唇を放して、瞳で瞳を正視して。
「あなたはいつ迄もわたしのたいせつな人」
一刻も早く、どうしても、伝えなければ。
最早語り合う事も叶わない仲なら尚の事。
「わたしの言葉は信じなくて良い。お父様に、わたしが戯言を口走っていたと伝えて。お
父様に相談して、その判断に従って」「……」
力を抜いた手を解き、一歩後ずさる姿が震えていた。言葉も発せない侭、振り向いて下
山さんと室戸さんの間を押し退け、学校からわたしから、遠ざかる方向に走り去って行く。
返す言葉はないというのが彼女の最終回答だ。
彼女がこの侭授業を休み、均さんの職場に涙声で電話で相談する様が視えた。それが最
善だ。それが朝松利香の正解だ。そしてたいせつな人の正解は常にわたしの正解。例えわ
たしが彼女に怖れられ、嫌われ隔てられても。
もう、心開いてとも求められない。でも。
『絹枝さんと、確かに約束を交わしたから』
利香さんは、心からたいせつな人だから。
わたしが告げる他に報せる術がないから。
関れば関る程、最善を尽くせば尽くす程、どんどん離れて行く関係もある。表面的な関
りで流しておけば、そこ迄触れずに捨て置けば、お友達の1人でいれたかも知れないけど。
でも、それではダメな時がある。その人を想う故に、その人との関りを自ら断ち切られ
に行かなければならない、そんな事も時には。定めの末を見通せても、変えられないので
はなく、わたしが変えない。変えてはいけない。
「柚明さん。朝松さんに、何を囁いたの?」
夕維さんにも、室戸さんにも下山さんにも、佐々木さんにも聞かれたけど。応えられな
い。羽様のお屋敷に生れ育つ、わたしのたいせつな桂ちゃんと白花ちゃんの静謐な日々を
保つ為に。誤解や悪い噂を招いても、敢て解かずに口を噤む。結果わたしがそれらの悪い
噂や誤解を被るなら、それは己が選んだ事の末だ。
利香さんはわたしの言葉に怯えて均さんに相談し、念の為に精密検査を受ける。非常に
早期のガンを発見し完治させる。再発防止の為に定期的に診察を受け、薬を貰うけど、ほ
ぼ健康に日々を過ごす。彼女は病に倒れない。元気に中学生活を終え、高校に進学して行
く。社会人に成り行く様を遙か遠くに漠と感じた。
わたしとの縁は切れるけど、わたしの助けは不要になるけど。それが彼女の幸せなのか。
不関与が無事を示す事もある。わたしは報いが欲しい訳ではない。感謝もお礼も必須では
ない。唯、元気に日々を過ごしてくれるなら。
「利香さん。いつ迄も、たいせつな人……」
吹き抜ける秋風は少し涼しく淋しかった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
ご神木のある山の頂は、羽様周辺では一番高い山だった。高山と言う程でもなく、未整
備だけど特別険しくもない獣道は、笑子おばあさんもサクヤさんの助けなしに登れる程で。
桂ちゃんは真弓さんが、白花ちゃんはわたしが背負い、正樹さんは一番後で飲み物持ちを。
みんなで行こうと約束したけど、日時を決めてなかった為に、主にわたしに関る諸々で
後回しになっていた、羽様の山の日の出を見に行こうと言い出したのはサクヤさんだった。
山に迷い込んで大人に叱られた白花ちゃんと桂ちゃんが、わたしを元気づける為に山か
らお花を持ってきてくれようとしたと聞いて、
「お花の季節はもう終りだけど、朝日なら」
「朝日見れるの?」「ゆーねぇと見れる?」
2人の幼子の瞳が輝いたのは、わたしがそれで元気になると想ったから。わたしを想っ
てくれているから。案じてくれているからで。
当初正樹さんと真弓さんは、夜半から早朝にかけての行動に、幼子の疲労を心配してい
たけど。サクヤさんはわたしに横目を流して、
「疲れなんて、柚明に拭って貰えば良いさ」
最近の柚明の容量は半端じゃない。2人の疲れを満充電してもびくともしないよ。修練
を兼ねて、みんなの疲れを癒すのも良いだろうに。みんなも柚明の癒しに身体を馴染ませ
ておけば、いざという時に順応し易いだろう。
「ご褒美だよ。白花と桂が、柚明を慰めたく想った優しい心への、これはご褒美さね…」
あんた達は、白花と桂が危険に踏み込んだ事はしっかり叱ったよ。なぜ危険に踏み込ん
だのかも、ちゃんと聞き取った。良い親だよ。でも、そこ迄聞いて分ったなら、2人の優
しい心へのご褒美も要ると、あたしは想うのさ。
「桂と白花が柚明の哀しみに心を傷め、幼心に守りたく想ったその優しさに、ご褒美を」
「そうだねえ。明日の午後から天気は下り坂で、暫く荒れるとも聞いているからねえ…」
これからは朝晩冷えてくるし、雪の季節も近づいてくる。朝日を見るなら次は来春かも。
笑子おばあさんの許容が正樹さん達の承諾を引き出して、わたし達は異例の夜歩きを…。
深夜にお屋敷を出て暫くすると、幼子達はそれ迄の元気溌剌が嘘の様に、眠りに落ちて。
山頂迄は暫く掛る。無理に起き続けている必要はない。風邪など引かない様に濡れない様
に厚着もさせた。秋も深まってきた為か、陽が落ちれば山も森も涼しいというより肌寒く、
足元は濡れているけど、用心すれば支障ない。笑子おばあさんとわたしはある程度道筋も
足元も見通せるし、真弓さんとサクヤさんは…。
「柚明ちゃん、大丈夫かい? 重い様なら」
背後の正樹さんが心配してくれるけど、修練で鍛えられた身体は充分対応出来ているし、
己の疲労は常時拭えるから心配はない。笑子おばあさんも自ら疲労を拭いつつ歩めるので、
むしろ心配なのは真弓さんやサクヤさんより。
「わたしは大丈夫です。正樹叔父さんの方が、桂ちゃんより白花ちゃんより、みんなの飲
み物を1人で持つ方が重いのでは?」「ああ」
ちょっときついけど、まあ未だ大丈夫さ。
表情も声音も少し苦しい程でしかないけど、本当は相当辛いと視える。でも大人の男性
を女の子が余り気遣うのはプライドに触れるので、深入りは避け。唯本人にも悟られぬ様
に、わたしの足元に癒しを注いで残す。後を歩む正樹さんが踏む事で、知らず伝わり行く
様に。間接的で効率は悪いけどわたしの力は溢れ気味だし、正樹さんの疲れを拭う程なら
充分だ。
中腹のオハシラ様の前に至り、更に獣道を進む。ご神木は月の輝きを受けて日中とは異
なる顔を見せ、生々しく息づいて見えたけど。今のわたしは触れれば様々な導きを頂ける
と分るけど。今はその為に来た訳ではないから。軽く一礼して敬意を表し伝えて、通り過
ぎる。
白花ちゃんと桂ちゃんに特段反応がないのは、肉親に肌を合わせ心底安心できている為
だ。ご神木が人を呼ぶのではない。人の不安がご神木を求め、誘いに感じてしまうだけだ。
頂に着く迄は2人に眠っていて貰う方が良い。
山頂に着いたのは、夜明け前の空が一番暗い頃で。空は月も既に沈んだ後だけど、星の
瞬きは都会と違い本当に降ってきそうな程だ。
東に首を向けるともう空が白み始めていた。正面に抱いて頬に軽く口付けると、白花ち
ゃんがすっと目を醒ました。真弓さんが隣で桂ちゃんをそっと揺らすと、寝ぼけ眼から声
が、
「ふあぁ……、お日様、のぼってくるの?」
「そうよ、桂ちゃん。一緒に眺めましょう」
大人4人と幼子2人と、音もなく光と熱を届ける旭日が、空の色を変える奇蹟を見守る。
真っ黒だった空が群青色に変じ、徐々に鮮やかな彩りを帯び。青みに段々赤や黄が加わる。
「うわわわ」「……きれい」「そうね……」
それは眠りの無意識から人間が、意識を知性を想いを掴み直す様にも似て。自身が誰か
も分らぬまどろみから、たいせつな人を間近な人を他者を識別し行く様にも似て。為され
る侭の己から、何かを望んで為す事を想い返し心固め行く様にも似て。世界が開かれ見通
せる様になって行く。光あれと言う感じかも。
荘厳で静かで、それでいて尚生き生きと。
「見通せるって事は、良い事だろう、柚明」
はい。左隣のサクヤさんに、素直に頷き、
「サクヤおばさん、有り難うございます…」
瞳に入りきれない程の輝きに眼を細めつつ、癖のある銀の髪が、その野性的な横顔が朝
日に照される様を眺め。その美しさも眩しくて、
「桂ちゃん白花ちゃんへのご褒美というより、むしろこれはわたしへの心配りなのです
ね」
この様に贄の癒しをみんなに流して役立てる場を作ってくれたのも、わたしへの励まし。
性急なその提案に誰1人反対しなかったのも。最近、わたしが俯き加減で塞ぎ込みがちな
のを気遣ってくれて、力づけようとしてくれて。わたしは温かな想いに包まれて守られて
いる。
「そこ迄視えるんだね、今のあんたにはさ」
「はい。それが嬉しい時も、哀しい時も…」
今はサクヤさんやみんなの想いが温かい。
視えて分る事が、とても嬉しくて心強い。
変えられない禍も多いけど、少しでも避けられた哀しみもあった。避けられなくても見
通せた事で、微かでも人に役立てた。最善を為せた結果が断絶を招いても、己を尽くせた。
「わたし分りました。嬉しくても哀しくても、わたしは幸せなんだって。苦痛や悩みはあ
っても、悔いや心残りあっても、たいせつな人を心に抱けるわたしは、たいせつな人に己
を尽くせるわたしは、とても幸せなんだって」
視える今を選んだのはわたしだった。血に宿る力を修練し使える様になると望んだのも。
この生命ある限り、守られて残された今がある限り、わたしは唯生きる事を己に許せない。
己が宿す特殊な血が、一度たいせつな人を失わせたこの血が、たいせつな人の役に立てる
途を示す限り。これはわたしの生涯に伴う定めだった。自らの手で選び取った宿業だった。
わたしは望みを叶えそれを手に入れつつある。
「わたしが戦い続ける限り全ては終らない」
真弓さんの言葉を、その目の前で復唱し、
「視えたお陰で、この力を使った所為で、どんなに望んでも絆を繋げない人も、遠ざかる
を得ない人もいたけど、それでも。怯えられても隔てられてもわたし、身を尽くせたから。
多少でも誰かの為に自身が役に立てたから」
己の所作の末ならこれは受けるべきだった。
救えた喜びに対価が要るならわたしが払う。
わたしには守れた結果があるだけで充分だ。
その人が涙するより、その人の痛みや苦しみに哀しむより、わたしが受けて受けきれば。
その人の笑顔がわたしの痛みを癒してくれる。たいせつな人の幸せが、わたしの幸せだっ
た。そして一度でも確かに心を繋げた人は、羽藤柚明にとっていつでもいつ迄もたいせつ
な人。
「悩みは、吹っ切れたのかい?」「いいえ」
正樹さんの問には苦笑いでかぶりを振り、
「毎日毎日くよくよ迷ってばかりです。女子中学生の日常って、意外と大変なんですよ」
吹っ切るとか悟りを開く等、遙かに遠い。
悩み困っている内に時は瞬く間に過ぎて。
でもそれこそが。お母さんが言っていた、
【幸せな時の過ぎ去るのは瞬く間のこと…】
この途を選ばないわたしの先も視えていた。絹枝さんに寄り添えず、心通わせられず涙
に暮れる利香さんを、葬儀場で抱き留める図も。視えて何もしなければ、悔い嘆く彼女に
わたしは絆を切られず、身を預けられ慰めていた。
深く関らねば、悔恨の淵を抜け出せず衰え行く利香さんに、わたしは寄り添う事も許さ
れて。来年後半に彼女の葬儀に参列していた。視えて何もしない途を選べば、わたしは妻
に続いて娘も失う均さんに、慰めの言葉を掛けていた。わたしはこの手で運命をねじ曲げ
た。
絹枝さんは救えなかったけど、わたしは利香さんを失う定めの末を書き換えた。その反
動が避けられぬなら、わたしが被る。利香さんを得られないのはわたしの定めなのだろう。
わたしと絆を結べなくても良い。唯元気に日々に向き合ってくれるなら、わたしは充分…。
「哀しくても大変でも、悔しさに身を震わせる事があっても、この今がわたしは心底幸せ。
例え断ち切られても、わたしはその人をたいせつに想える。いつ迄も、尽きる事もなく」
サクヤさんに逢えた事、笑子おばあさんに逢えた事、正樹さんや真弓さんに、逢えた事。
恵美おばあさんや、仁美さん達や杏子ちゃん。真沙美さんに和泉さんに詩織さん、利香さ
ん。そしてわたしに生きる値をくれた桂ちゃんと白花ちゃん。みんな、わたしのたいせつ
な人。失いたくない、心底たいせつに想った人達…。
恵美おばあさんとの永訣は、絹枝さんとの永訣は、利香さんとの断絶は、淋しく哀しか
ったけど。逢えた事、言葉交わした事、心通わせた事は、幸せだった。哀しみは不幸せと
は違う。苦痛も淋しさも、不幸せとは別物だ。
「逢えない事は不幸せじゃない。哀しくても辛くても打ち拉がれても幸せは感じ取れる」
失って淋しく想う優しい想い出は、断ち切られて哀しく想う愛しい言葉や仕草は、心の
底に残り続ける美しい記憶は、わたしの幸せ。
お母さんやお父さんの喪失は哀しみだけど、2人の娘だった事は幸福だった。恵美おば
あさんや久夫おじいさんとの永訣は淋しいけど、その孫でいられた幸せは減じない。仁美
さんや可南子ちゃんと頻繁に逢えなくても、たいせつな2人が確かに日々に向き合ってく
れるなら。利香さんがわたしとの絆を振り解いても、絹枝さんとの語らいを胸に刻んで、
心の頼りに出来るなら。失った事は哀しみだけど、絹枝さんとの出逢は幸いだった。均さ
んとも。
喪失や断絶は哀しみだけど、何もかも失った訳じゃない。この胸には確かに成果が残っ
てくれている。忘れはしない、捨てはしない。
「想いを確かに抱くなら、心は常に温かい」
手に届かない陽が身を温めてくれる様に。
手の届かない人がわたしを温めてくれる。
生きても死んでも、たいせつに想う事は出来る。癒しも励ましも届かなくても、隔てら
れ断ち切られても、わたしが想う事は出来る。微笑みや感謝は望まなくても、その人の想
いを守る事や、その人の大切な物を守る事なら。
「わたしは人の力になる術を持つ今が幸せ。
身を尽くしたい人がいてくれる今が幸せ」
『……あんた、まさか他人の不幸や死相が視えている訳じゃあ、ないだろうね?』
何気ないその一言は胸に突き刺さるけど。
わたしはその事実にも向き合って頷いて。
珠美さんの指摘はわたしの真なのだから。
「例えたいせつな人の苦痛や涙や、死の様が視えたとしても。変える事が叶わなくても」
それが誤解や怯えや拒絶を呼び招いても。
冷たく澄んだ朝の空気を胸に吸い込んで、
「わたしはこの生き方を、変えはしない…」
失ったたいせつな人への想い。生きて今ここにある意味。業を負う事で漸く振り返れる
過去。手放せない。わたしにはこの生き方しかない。この先に充足があると信じ進むしか。
最早この生き方はわたし1人の物ではない。わたし以外に誰も担えない。何があろうと
守り抜きたい、守らせて欲しい幼い双子の為に。例え終りを感じても、別れや隔てが必須
でも。
わたしは幼子2人を愛し守りたかった。桂ちゃんと白花ちゃんに己を尽くし捧げたかっ
た。愛させて欲しかった。幸せを守らせて欲しかった。愛し守る事がわたしの正解だった。
2人に贈る愛が断たれると遙かに視えても。
定めの末を感じても。辿り着くその瞬間迄。
真弓さんの腕の中からわたしに身を乗り出してくる桂ちゃんと、わたしに頬をぴったり
合わせて並べる白花ちゃんと、朝日に臨んで。その愛らしい笑顔を瞼にしっかり焼き付け
て。
「守らせて、愛させてくれて有り難う。桂ちゃん、白花ちゃん。わたしのたいせつな人」
今の幸せを、しっかりこの身に受け止める。笑子おばあさんの言う通り、終りは必ず巡
るけど。だからこそこの幸せを心に刻みつける。
「わたしの前に生れてきてくれて有り難う」
この身も心も生も死も、全てあなた達の物。2人がいてくれなければ、生きた屍だった
物。必要ならば捧げます。わたしの全てはいつでもいつ迄もあなた達2人の為に。桂ちゃ
んと白花ちゃんの為になら、断絶だって怖くない。