第6話 定めの末を感じても(前)
「ゆめい……。来て、くれたのかい……?」
朦朧とし掛る意識の中、肺を喉を唇を動かす力に不足しつつ、漸く絞り出せたその声に、
わたしは確かに頷いて。病室のベッドに横たえられたその左手首を握って、暖かみを伝え。
意思の疎通は辛うじて間に合えた。間に合わせた。経観塚からでは話を聞いて動いても
手遅れな像が視えたので、少し具合悪く検査入院との情報に過剰反応を装って駆けつけた。
「みんな来ています。浩一伯父さんも佳美伯母さんも、仁美さんも可南子ちゃんも……」
もう瞳に像が映らなくなっている恵美おばあさんの意識に力を作用させ、背後に並ぶ伯
父さん達の様子を、感応で視せる。本来は力の所持を明かす愚行だけど、もうおばあさん
にそれを告げる術がないとの見込より、最期を迎える人の感覚を補いたい想いが優先した。
何も力になれないわたしだけど。贄の血の力を幾ら紡げても、病を前に手も足も出ない
わたしだけど。ほんの少しでも役に立ちたい。この位の事で力になれた様に見えても、大
勢を挽回できない事の言い訳にもならないけど。
お医者様や看護婦さんはベッドの右側からすぐ傍で、計器や点滴の様子を見守っている。
「母さん……」「お義母さん」
今生命の終りに迎えようとする人に、跪いて添うわたしの背後から、伯父さんと伯母さ
んが身を寄せてきて、励ます声を掛けるのに、
「そろそろ、久夫さんのお迎えかしらね…」
「母さん、何を気弱な」「そうですよ……」
2人の従姉妹は、伯父さん達の更に背後で立ちつくし、身動き出来ず、言葉も出せずに。
喪失の重さを前に、縋り付く可南子ちゃんを支えて抱く仁美さんの腕も微かに震えている。
実の息子である伯父さんに間近を譲ろうと、身を離しかけるけど、おばあさんはわたし
の手を離さず。わたしが触れて力を及ぼす事で、話が聞け心が伝わり像が見えると言う以
上に、その想いはわたしの肌触りと温もりを欲して。
わたしの左手を握るおばあさんの手を見せると、伯父さん伯母さんは黙して了承しつつ、
「仁美や可南子の花嫁姿を見て貰わないと」
「可愛い孫娘の成長を、見届けて下さいな」
「そうね。そう出来れば、良かったわね…」
今話さねば話す機会が消失する。その想いが動かない喉を唇を動かす。贄の血の癒しを
注ぎたかったけど、わたしの力は病の素迄賦活させる。老いで回復力が衰えた恵美おばあ
さんより、病の賦活が優ってしまう。手を握る他に為せる事がない。本当に役に立たなけ
ればならない時に、わたしはいつも役立たず。
「でも、仁美も可南子も、大丈夫。あなた達が寄り添うのだから。きっと幸せになれる」
穏やかに、人の真を見抜く人だった。人の所作に事情や理由や説明や背景を求めず、唯
真剣な想いを感じ取れたら全幅の信をくれた。5年前に両親を失ったわたしを羽様に引き
取ろうとサクヤさんが申し出た時も、2年前に顔に深い傷を負った仁美さんを癒そうとわ
たしが水の迷信を申し出た時も。そこに真の想いが宿るなら、人に言えない諸々を込めて
の申し出と分って、その想いを信じ任せきれる。
『ゆめいが病院で、最初に抱きついたのは、わたしではなくサクヤさん、あなただったわ。
羽藤の笑子さんの血を濃く継いでしまったゆめいは、母親を失った今、笑子さんの処で
育つべきだと、分っていたのかも知れない…。
詳しい事情は分らないけれど、サクヤさん、あなたも笑子さんと深い関りがある方、あ
なた達を、経観塚をゆめいが選ぶのは、あの子が受け継いだ、血の定めなのかも知れな
い』
孫を、ゆめいを、よろしくお願いします。
『言えない事情があるなら言わなくても良い。唯、わたしはあなたを大切に想っているか
ら。どんなゆめいも受け容れるよ。言えない事は言わなくて良い。その身と心を預けてお
くれ。気持を休ませて良い。ゆめいが言わなくても、言えない事でも、わたしは全部受け
容れた』
ゆめいは、とても強く賢く、優しい子だ。
『迷信を分ってとは言わない。ゆめいの想いを分ってあげて。迷信に縋ってでも力になり、
助けになりたいゆめいの想いを。あの子は唯学校や勉強を放り出してきただけじゃない』
『両親を目の前で奪われたこの病院に、あの時から来た事のないこの病院に訪れた想いは、
尋常じゃない。ゆめいにはそこかしこに奪われた父母の想い出が視えている筈よ。それに
向き合って、敢てここに留まり続けている』
仁美と可南子の為に。あなた達の娘の為に。
それは実際仁美と可南子の心を繋ぎ止めた。
『わたしはその想いを受け止めたいし、あなた達にも受け止めて欲しい……』
その懐の大きさにわたしは何度も救われた。その強靱で深い優しさに何度も心支えられ
た。わたしのたいせつな人、特別にたいせつな人。人を信じると言う事を見せて教えてく
れた人。
今目の前で、その人は微かな息を繋いで、
「ゆめいも、強く綺麗に育ってくれたし…」
久夫さんの最期の頼み、果たせたと想う。
「恵美おばあさん……」
最期迄、わたしの事で心配させてしまった。
最期迄、わたしの事で哀しませてしまった。
亡き久夫おじいさんも、恵美おばあさんも。
『(わたしを)気遣ってやってくれ』と言い残してくれてから2年が経つ。恵美おばあさ
んもそれから今迄、わたしの事を気に掛けて。両親を失い、生れ育った町から逃げる様に
転居し、年に一度位しか顔を合わせられなくなり、一人残されたわたしの心情を、先行き
を。
お父さん以外のその兄弟、久夫おじいさんと恵美おばあさんの4人の男子は、皆結婚し、
子供を複数授かって、奥さん達と苦労はあれど日々の幸せを享受している。他の親族は皆
順調だから、当り前だから、そうでないわたしを不憫に思ってくれて。二人共死の間際迄。
「結局何も出来ない祖父祖母だったけど…」
『何一つ役に立てない祖父で、済まないな』
久夫おじいさんの言葉が、耳に重なった。
『お父さんはまた役に立てない侭だ。本当に大事な時に、男は使い物にならないって…』
あの夜直前のお父さんの言葉も、同様に。
瞼の裏を熱くするのは哀しみか愛しさか。
人に為せる事は限られている。お父さんも、久夫おじいさんも、恵美おばあさんも。ど
れ程役に立ちたく願っても、己を引換にして助けたく想っても。及ばない届かない事はあ
る。
お父さんも、贄の血に生まれ重い定めを負うたお母さんに、何の助けも出来ず、見守り
励ます他に術のない己を生涯悔しがっていた。間近で愛しく想えば想う程、届かない壁を
感じる事もある。人の手ではどうにもならない出来ない事が、確かにこの世には幾つかあ
る。努力や気合では届かない、深い深い溝がある。
常の人であるお父さんにできる事は限られていて、お母さんの定めを分け持つ事はでき
なくて。それに絶望せず、腐らずに、届かないと分って尚側に居続け、出来る限りを為す。
受け止める、抱き留める。役に立てない悔しさも、側で見守る他ない切なさも噛み締めて。
そんなお父さんの面影を、おじいさんにも感じたけど、今はそれを恵美おばあさんにも。
家族はやはり、気質が似てくる物なのだろう。
「経観塚の笑子さんに託して、正解だった」
でも2年前の久夫おじいさんと異なって、
「わたしは安心して久夫さんに逢いに行ける。あなたの事は言い残さないよ、ゆめい。こ
の数年あなたは見違える程強く綺麗になった」
わたしはいつも見守っている。あなたの父さん母さんと久夫さんと、あなたを見守るよ。
心配だからじゃなく大切な孫の日々を愛でる為に。不安はない。あなたに心配は要らない。
最早言葉にならない微かな呼気の流れに、
「みんなの、恵美おばあさんの、お陰です」
わたしは想いで一杯の胸を必死に動かし、
「わたしは返しきれない想いを頂きました」
一昨年正月そう応えた時、既に体調が悪く、顔をしかめる事の多かった久夫おじいさん
は、至福の笑みで何度も頷いてくれた。自身の心が救われた様に、己の贖罪が成就できた
様に。
救われたのはわたしだったのに。生きて残された事を悔い嘆き、絶望と罪悪感に落ち込
むわたしの心を救ってくれたのは、みんなの強く暖かい想いだった。わたしにも生きる値
があると道を示してくれたのは、わたしが生きてある事を尚望んでくれた、みんなだった。
サクヤさん、笑子おばあさん、正樹さん、亡き久夫おじいさん、そして恵美おばあさん。
棺の中のおじいさんは安らかだった。生きる者に想いを託し全てを受け容れた顔だった。
残る者に諸々を委ねて、信じ切った顔だった。そして恵美おばあさんもその顔で。わたし
は、人に安心を与えられる位強くなれただろうか。
二人共最期の最期迄わたしを案じてくれた。わたしは微かでもそれに応えられただろう
か。大丈夫、わたしは強くなりました。今後も強く生きて行きます。託された愛情と信頼
に応えます。ささやかな願いに、お父さんお母さんの想いに、おばあさんおじいさんの想
いに。
『せめて心安らかに。せめて心穏やかに…』
微かに恵美おばあさんが頬を緩めた。混濁し行く感覚の中で、数拾年の人生の様々な光
景が移ろいゆく中で、幸せそうに意識は薄れ。
恵美おばあさんが意識を取り戻す事なく息を引き取ったのは、その翌々日の早朝だった。
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「お騒がせして、申し訳ありませんでした」
握り返す意志と力が消えたその手を外して、伯父さん達を振り返って一礼する。今回も
生れ育った街へ、学校も休んで突然訪れた。唐突な行動が多い奇矯な娘だと想われて当然
だ。唯、それが本意ではないとの想いは伝えたい。
そんなわたしに、伯父さんも伯母さんも、
「いや、その、今回はケガの功名というか」
「間に合って幸いだったわ。わたし達も今急変を知って、大慌てで報せを出しだけど…」
わたしは可南子ちゃんとの電話の中で出た、検査入院との言葉に過剰反応したふりで、
平日学校を休み、伯父さん達が住む生れ育った街へ駆けつけた。電話口で話に出た瞬間、
おばあさんの状況は視えた。病院が急報するのも親族が急遽呼び集められる像も視えてい
た。
羽様の家族の説得は難しくない。笑子おばあさんも、真弓さんも正樹さんも、わたしの
表情で事を察してくれて。電車を乗り継いで着いたわたしは、駅から伯父さんの職場に電
話を掛けた。そうせねば、間に合わなかった。意識のある内にお礼とお別れを言えなかっ
た。
伯父さんは驚きつつ、わたしの誤解を解こうと病院に確かめた処、病院側は今伝えよう
としていたと、容態急変と病巣の発見を告げ。急遽招集を掛けても同じ街に住む親戚はな
く、意識がある内に逢えたのはわたしだけだった。
「母さんは、柚明ちゃんをずっと気に掛けていたから。最期に言葉を交わせて良かった」
救う術は最早なかった。現代医学は届かず、贄の血の癒しを紡いでも病の賦活になって
生命は繋げない。急を察する事は出来ても打つ手がない。痛みを和らげる事も怖れを拭う
事も叶わず。定めの末を知る事が出来るだけ…。
「ゆめいさん。経観塚の癒しの水、持って来て、くれなかったの?」「可南子ちゃん…」
可憐な問に答が澱む。最近具合の悪い恵美おばあさんに元気になって貰おうと、2年前
仁美さんの顔の大ケガを治した『あの水』を又持ってきてと。可南子ちゃんは癒しの力を
ごまかす為のわたしの作り話を信じてくれて、
「あの水で、恵美おばあさん、元気になるかも知れないのに……」「可南子、お止しよ」
背後間近で、仁美さんが肩を抑えるけど。
「だってお姉ちゃんの酷いケガを治せたのに。お姉ちゃんの心を救って、わたしの不安も
拭ってくれたのに。優しい腕でわたし達助けてくれたのに。もう一度奇跡は起こせない
の? わたし達の大切なおばあさんの、痛みを消す事出来ないの? 助ける事出来ない
の?」
水の不所持は何故なのと、どうして持って来られなかったのと、問うて踏み出す小柄な
細身に、わたしは両手に両手を取って胸の正面に持ち上げて、大きな黒目を見つめ返して、
「可南子ちゃん……。あの水は、ケガや疲れには効いても、病や老いには効かないの…」
望みに添えないと告げるのは苦いけど。わたしに恵美おばあさんの苦痛や怖れを拭えな
い以上に、可南子ちゃんに役立てない以上に。わたしは彼女に今尚事実を全て伝えられな
い。水の嘘をわたしは将来も彼女に告げられない。
真の苦味は、己の所行の故に。因果応報か。
揺れる黒目に映るわたし自身を覗き込んで、
「わたしの、力不足……ごめんなさい……」
癒しの力が及ぼせるなら、何日学校を休んでも、迷信を口実に寄り添って生命を繋いだ。
その笑顔を戻せるなら、何度伯父さん達に気味悪がられて怪しまれても、その苦痛を拭い
取った。わたしは何者でも何と言われようとも、助かる芽があるなら諦めなかった。でも。
「わたしでは及ばない。為す術がないの…」
疲れなら癒せるけど、傷なら治せるけど。
病と老いには今のわたしに為す術はない。
せめて向き合って告げる。せめてその正視は受けて応えよう。せめてわたしの精一杯を。
中学生になった可南子ちゃんは一層可愛くなった。活動的に見せたいとストレートの黒
髪をショートに切り揃えても、元々のんびり屋さんで末っ子色が染みついた彼女は、間近
に添うと抱き留めたくさせられる。その願いに応えたくさせられる。叶えたく想わされる。
その祈りに応える術を持たない己が悔しい。
間近な瞳に、力になれない己の非力を詫び。
「折角可南子ちゃんに電話を貰えても、駆けつける以上の事が出来ない。救いにも励まし
にもなって上げられない。ごめんなさい…」
「試す事も出来ないの? 塗ってみるだけも出来ないの? 持って来られなかったの?」
「無理を言うんじゃない」「そうですよ…」
伯父さん伯母さんは常識人で大人だから。
「こんなに早く来る事も普通は無理なのよ」
「事前に母さんがこうなると、知ってでもいないと間に合わないタイミングで、しかも平
日だ。これ以上は求められないよ、可南子」
諦めきれぬ可南子ちゃんを窘め。それはわたしへの無理な求めが申し訳ないという以上
に、怪しい迷信に深入りしないで欲しい想いの故で。可南子ちゃんがその話題を出す度に、
2人が眉を潜めると仁美さんは勘づいている。
あの時以降癒しの水を二度と持ち出さない、話しに登らせる事も好まないわたしの姿勢
を、伯父さん伯母さんは好んでくれている。大切な娘に怪しい迷信を勧めないわたしのこ
の2年を、2人は信頼してくれている。仁美さんの大ケガを一度は治せても、世の常識を
外れた癒しの水の話しは、やはり怪しげな迷信だ。
感謝してくれつつもその話題の蒸し返しを嫌い、触れず避けたがる伯父さん達の姿勢は。
白花ちゃん桂ちゃんの日々の平穏を保つ為に、話を掘り下げられて己が持つ癒しの力を明
かされては困るわたしにも、有り難かったけど。その信が今は後ろめたかった。それは恵
美おばあさんを救えなかった、力不足の末だから。わたしが届かず及ばなかった事の証し
だから。
「でも……でもっ。あの水、もう一度、使えたら。おばあさんの病も、もしかしたらっ」
2年前仁美さんが顔に負った深い傷。それを治す血の力を紛らわす為の口実が、尾を引
いていた。仁美さんの傷は治せたけど、その心から絶望を拭う事は出来たけど。傷を治せ
る癒しの水等という怪しい話しを、わたしを信じたからこそ受け容れてくれた可南子ちゃ
んに、わたしは真実を明かす事が出来なくて。
「本当にダメなの? どうしてもダメなの? どうやっても効かないの? どうしてケガ
には効いて病に効かないの? あの水は…」
おばあさんを助ける望みを繋ごうと必死の問に、伯父さん達やお医者様や看護婦さんの
視線も集まる。触れ合った両手から流れ込む愛すべき起伏に、集まる視線から肌に達する
周囲の想いに、わたしの心が揺さぶられる中、
「その話、あたしも教えて欲しいわねぇ…」
少し年上の、若い女声が病室に混じった。
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ショートに切り揃えた明るいブラウンの縮れっ毛に、女性にしては高めな背丈。華奢だ
けど身軽で活動的な印象を与える半袖の服装。見た感じ二十歳代半ばの軽快そうな声の主
は。
「ハロー。仁美に可南子に、ゆ・め・いっ」
従姉の珠美さん、弐拾四歳。泰三伯父さんの次子で長女で、わたしから見ると拾歳年上。
わたしのお父さんは、浩一伯父さんから始る男ばかりの5人兄弟の4番目だった。泰三伯
父さんはお父さんのすぐ上のお兄さんになる。
わたしのいとこは年齢に隔りが大きく、3歳上の仁美さんの上は珠美さんだった。一方
1歳下の可南子ちゃんの後は、その7歳年下に男の子だ。わたし達3人が親密だったのは、
女の子同士だった以上に9歳迄同じ街にいて行き交いがあった以上に、歳の近しさの故で。
仁美さんはわたしの3つ年上で、何かと大人で色々と教えて貰う事が多かった。その7
つ上となると、対応は大人に近い。それでも法事等で逢う機会があると、わたし達は良く
話しかけていた。珠美さんは仁美さんにはすぐ上の従姉だし、わたしにも仁美さん以外で
一番年齢が近しい、女の子だったし。家が離れていたので、逢う機会は多くなかったけど。
「珠美ちゃんか。えらく早いね、泰三は?」
「あたしだけです。仕事でこっち方面に来ていて。少し前に職場へ電話が来たと連絡が入
ったんで、実家に掛けたら『浩一伯父さんから電話があって、恵美おばあさんが』と…」
父さんは兄さんにも連絡して、一緒に来ると言っていますけど、到着は明日でしょうね。
軽く頭を下げて挨拶してから、伯父さんの問にさらりと答えて、すぐわたしを向き直り、
「それでさっきの話し、その経観塚の癒しの水について、あたしにも少し詳しく教えて貰
えないかなぁ。ちょっと興味があるんだよね。今年正月も、突っ込んだ話は出来なかった
し。それ以外の法事とかはあたしが欠だったし」
可南子ちゃんと向き合うわたしに歩み寄り、
「一度みっちり訊いてみたいと思っていたの。仁美の顔の大きな傷を、綺麗さっぱり痕も
なく治した奇蹟の水とやらについて。効用とか成分とか由来とか流通経路とか。他の被験
者の声とかもあるなら是非聞いてみたいなと」
今聞いた話だと、病や老いに効かない様だけど。大体なぜ効果あるのかも定かじゃない
んでしょう。仁美、あんたもなぜ自分の顔の傷が綺麗に痕迄拭えたか、知りたくないかい。
あたしは気になるねぇ。気になって堪らない。
「職業柄って言うより生来の好奇心かねぇ」
その声音が微かにサクヤさんを想起させる。
珠美さんは確か関西方面の地方紙の記者で。
仁美さんの一件以降、わたしを心に留めて。
「まさかここで逢えるとは想ってなかった」
あんたの知る限りで良いから教えておくれ。仁美に訊いても誰に訊いても、あんたが持
ち込んだって以上は分らない。可南子が瞳を輝かせ話すのを見ていると、こう、むずむず
と。
背後で伯父さん達が眉を潜める様を感じた。それを半ば承知で、珠美さんは可南子ちゃ
んを向いたわたしの両肩を抑えて向き直させて、間近な位置から視線を落し、心迄覗き込
んで、
「経観塚出身は居ないけど、あんたと同じ県の出身は社に数人居てさ。あたしなりに当た
ってみたんだけど。癒しの水なんて聞いた事もないって返事だし。経観塚限定なのかな」
珠美さんの勤める新聞社は、地方紙と言っても複数の県を跨ぐ大手で、社員の数も四桁
に近い。かなりあちこち回ったと感じ取れた。
『贄の血の力を人目に晒す危険についてはどう考えているんだい? それはあんたの大切
な桂と白花の行く末にも関る。成功できても、真弓の懸念を全て乗り越えて仁美を完治さ
せ心救えたとしても、その成功の故にあんたの癒しの力が、贄の血筋が世に晒されるん
だ』
サクヤさんの言葉が耳に甦った。それは今正に目の前で現実の危機になろうとしている。
『例え善意でも、事実が知れ渡れば違う反応も出る。世の中は必ずしも善意な者ばかりじ
ゃない。鬼の様な人もいるんだ。それこそ本物の鬼が贄の血を狙って来るかも知れない』
わたしの両親と妹の仇だったあの鬼も、市役所の住民票や警察の被害者情報を盗み見て、
経観塚迄わたしを追ってきた。誰にどこからどんな情報が入るかは今の世の中、想像も付
かない。特に人を癒すなんて物珍しい力を持つ血筋は興味の的だろう。見知らぬ記者に四
六時中カメラやマイクを突きつけられ、付き纏われ、生活に踏み込まれる様も想像できた。
『羽様のみんなの為にも、あんたの可愛い桂や白花の為にも、血の力を晒すのは拙いよ』
その懸念を癒しの水の迷信で偽装して、わたしは仁美さんの傷を治した。その迷信を喝
破された時、迷惑は羽様の家族みんなに掛る。それは2年前に終った事ではなく、現在進
行形で、今後に尾を引く怖れを見せ始めていた。
悪意はなくても好奇心で問は浮ぶ。可南子ちゃんの様に、信じて叶った奇蹟を人に伝え
たくなって当然だ。幸せを、回復を、治癒の経過を伝え喜びを共有したいのが世の常なら、
それを耳にした人が詳細を知ろうと望むのも。
「その水はどこで手に入るのか。入手は無料なのか。簡単なのか。どんな由来があるのか。
成分や薬効は確かめられたのか。なぜケガには効いて病に効かないのか。あんたはどこで
どの様にそれを知って、信じるに至ったのか。他に治癒の例はあるのか。失敗例は存在し
ないのか。地元医療機関や役場はそれを承知しているのか。知りたい事は山程あるけど
…」
興奮気味に間近で問う躍動的な美貌の人に、
「重病人の伏せる病室は、そう言うお話しに適した場所ではありません」「……おっと」
心が身構えていて、隔てる声音だったかも。
こう言う情景も予期はしていた。サクヤさんも真弓さんも、この様な追及を怖れていた。
わたしが伯父さん達の信を繋げても、以降親族の集いから遠ざかり気味なのは、この類の
問を避ける為でもある。羽様のみんなで想定問答は考えたけど、応える事が次の問を招く。
伯父さん達の険しい表情をわたしの肩越しに見て、漸く今いる場の空気から浮きすぎて
いたと察した珠美さんは、上手に問を躱されたとの苦笑いを見せつつ、両肩から手を外す。
「おばあさんの様子を、見てあげて下さい」
「あんた、暫く見ない内に大人になったね」
重病人を前に別の話題に花を咲かせるのは場違いだと、大人の様な生意気を言ったけど。
伯父さん達はお水の迷信の反復を好まないし、お医者様も看護婦さんも人の生死の境を前
に、珠美さんの興奮は迷惑だと誰にも分る表情で。
「逢わせて頂くよ。あんたの言う通りだ…」
でさ。すれ違い様に珠美さんはわたしに、
「その後であたしの問には答えて貰うからね。あんた平日に学校休んでここに来て居るん
だろう。時間は余っている筈だ。時と場を整えれば問に応えて貰えるんだよね、ゆめ
い?」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
『結局、今回も杏子ちゃんに逢えなかった』
わたしは学校を休んでいるので、四六時中病室でおばあさんに寄り添う訳でもないので、
多少時間は取れたのだけど。杏子ちゃんが親戚の不幸で遠くに行っていた。今迄も年に何
度か生れ育ったこの街を訪れたけど、お互い何とも間が悪く、5年『遠距離恋愛』が続き。
良く繋りが切れなかったと想う。杏子ちゃんの心の強さのお陰だ。両親を失い心閉ざし、
まともな答を返せなかったわたしに、励ましの電話を毎週一年続けてくれて。それがどれ
程大変な事か、わたしは立ち直る迄気付く事も出来なかった。申し訳なさと恥ずかしさで、
彼女に頭が上がらない。そこ迄強く寄せられる想いをわたしが無碍に出来ないのは当然だ。
手際良くはきはきした声。瞼の裏に映るは、やや明るい茶色の髪をショートに切り揃え
た、活動的な女の子の姿で。あの夜の直前に集団下校で手を振って別れた小学3年の姿の
侭で。写真は送って貰ったけど、関知の力は像を見せるけど、心に刻まれた絵は幼い夜の
直前の。
町にいた頃は一番のお友達だった。小学校1年から3年迄同じ学級で、わたしのやや珍
しい名を憶えきれず、初めて綽名を贈られた。
『おばあちゃんの血?』
微かに憶え聞いた血の定めについて、子供なりに鋭い推理力を頼って相談してみた事も。
『何かの才能かしらねぇ。それとも、姿形?
ゆーちゃんは、顔形が似ているって言われた事とかある? その、おばあちゃんに』
『じゃあ、その【血】っていうのは、ゆーちゃんの母方のおばあちゃんの血って事かな』
『考えられそうなのは、血筋に現れる病気の可能性とか、なんだけどね。いでん病って言
って、ある血筋の人の家には、最初から病気になる種が眠っているって、話なんだけど』
『ゆーちゃんのおばあちゃんが昔、綺麗な人だったから、心配しているのかも知れないよ。
ゲームでもお姫様が攫われるのは定番だから。さらわれたり、斬りつけられたり。あたし
の様に可愛い人には何かと受難なご時世だし』
『ゆーちゃんは、おっとりしていて大人しそうだから、危なそうだし』
『じゃあね、ゆーちゃん、また明日』
小学3年のあの日、手を振って家に帰り着いた後で全ては動きだした。両親を失い鬼の
脅威に晒されたわたしは、別れの挨拶も出来ない侭羽様に転居して。何度か法事で訪れた
けど。両親の仇の鬼は羽様迄わたしを追ってきた末に真弓さんに切り倒され絶命したけど。
贄の血を自覚し、僻遠の経観塚に住む事を選んだわたしはこちらに自在に来る事は叶わず。
何度か訪れた際にも、お互いの日程が合わず。
今回は平日だし、滞在する数日の中で逢う機会はあると想っていた。一方で関知の力は、
今回も杏子ちゃんに逢えない図を視せてきて。
行く前に閉ざされて開かない玄関が視えた。
掛ける前に留守電の内容が把握できていた。
視た通りの光景になって、気分は少し鬱だ。
杏子ちゃんに逢えなかった事もそうだけど。
関知の像が視せる未来が殆ど変えられない。
良くない像を視せられても、殆ど防げない。
失敗の像を視て回避を試みても変え得ない。
贄の血の力の修練が進展するにつれ、関知の精度が増していき、次々結果が視えて来る。
良い物も悪い物も、不確かで可能性を感じられた物事が、次々確定されてゆく。先が分る。
病院に来ると病の人の先行きが、友達を訪ねるとその家族の少し未来が、新聞雑誌を読
むと事件や政治の展望が。見通せなかった物が見通せる様になっただけかも知れないけど。
人の限界や無力を感じてしまう。今回もそう。
恵美おばあさんの容態悪化も、外れて欲しい願いとは裏腹に、今迄以上に確かに視えて。
笑子おばあさんは自身の力では見通せないと語りつつ、わたしの感覚と言葉に信を置いて、
行くべきと勧めてくれた。血の繋りがある以上に、関りが深かった以上に、わたしの贄の
力は笑子おばあさんを越えつつある。治癒にしても鬼を弾くにしても、蒼が溢れ出る様で。
サクヤさんの見立てでは、わたしは笑子おばあさんの二倍強と言っていたけど。前人未踏
の領域を前に、最近流石に己の力が少し怖い。
「門外不出……?」「の、様な物です」
珠美さんに応えているここは、伯父さん達が住む町外れの屋敷のお茶の間だ。仕事で来
ていた珠美さんはホテル泊りなので、ここに泊めて頂くわたしも含め、夕食位は一緒にと。
夕食直後はお話しに適した頃合だったけど、その話題には常識人の伯父さん伯母さんが
眉を潜める。少し間を置いて、子供部屋に移って話したかったけど。珠美さんは待ちきれ
ず。
普段は最も年が近く話の合う仁美さんに向き合う事が多く、わたしや可南子ちゃんは二
の次だった珠美さんが、身を擦り寄せて来て。間近に視線を落して覗き込むのに、わたし
は、
「経観塚迄来て頂ければ、羽様の笑子おばあさんや正樹叔父さん、真弓叔母さんに同席頂
けた場なら、詳しいお話しも出来ますけど」
嘘を応えても真実を応えても、結果は同じ。仁美さんの顔の大きな傷を、痕迄消した効
用の淵源に興味を持つなら、答が次の問を呼ぶ。拒んでも応えても興味の火に油を注ぐだ
けだ。
後はふるいに掛ける。誰にも気易く話すのでもなく。拒んで逆に興味を惹くのでもなく。
まず経観塚迄来て下さいと。羽様の屋敷迄来て下さいと。そこ迄確かな想いを抱く人でな
ければ、野次馬の興味を抱く人に応える積りはないと。話す相手を吟味させて頂きますと。
電話も手紙も断る。わたしの関知の力は電話の声音や息継ぎ、記した単語や行間から相
手の気持や思索を辿れるけど、絶対ではない。その表情や肌触りで感じる程的確に掴めな
い。
笑子おばあさんや、真弓さんや正樹さんにも視て頂く。力は使えなくても、直に視れば
その人が信頼に値するか否か見抜ける。特に羽様のみんなは、そう言う事に優れた人達だ。
「ここでは話して貰えないという事なの?」
「正確に答えきれないかも知れませんので」
わたしは子供ですし。そう口にした瞬間。
わたしの思考も言葉も固まって止まった。
珠美さんの両手がわたしの胸を鷲掴みに。
「た、珠美さんっ」「もう子供じゃないね」
あたしの手に返って来る胸の弾力も大きさも、そうやって頬を染める様子も、あたしに
受け答えする言葉の確かさも、あんたはもう子供じゃない。子供を口実に逃げないで頂戴。
腕を外そうとするけど、珠美さんの腕は女性でも大人で、しっかり掴まれると、本気で
抵抗しないと容易には外せない。大人でも女性で従姉に、本気での反撃は躊躇うわたしに。
遊び心を感じさせる笑みを浮べつつ、両手は身動き出来ないわたしの両乳房を、制服の
上から感触を確かめる様に、むにっと揉んで、
「血の繋った従姉妹同士じゃないかい。堅い事言わず少し位話してくれてもいーだろう」
記事にしようとかじゃない。個人的に知りたいのさ。仁美を助けて心通わせた愛しい従
妹を。可南子に懐かれ心寄せられた綺麗な従妹を。幼い頃からおっとりして縋り付く方で、
頼られる側には見えなかったのに、ここ数年。
「あんた変ったよ。綺麗になった以上に、賢くなった以上に、強くなった。あんな事件が
あれば、変って当然かも知れないけど、あんたの変化はそれに留まってない。普段は特別
冴えて見えないのに、非常時には必ず結果を残す。あれ以降、仁美の反応が違うんだ…」
胸から外した両腕でわたしの両頬を抑え、
「あんたに、興味を抱いたんだよ、ゆめい」
微かにその頬が染まっていた。珠美さんが本心を込めて、語りかけてくれていると分る。
間近の可南子ちゃんや仁美さんも、少し離れた伯父さん伯母さんも、この光景に固まって。
キスできる位間近に顔を寄せられ覗き込まれ、
「あんたをあたしに教えておくれ、ゆめい」
「有り難うございます。珠美さん……でも」
珠美さんが悪い人でないと言う事は分る。
珠美さんに悪意がないと言う事も分った。
多少強引にでも、首を突っ込み手を伸ばす。その積極さが仁美さんやわたしの好いた珠
美さんの特長で。そうして望まれるのは悪い気はしない。求められる事は嬉しくも有り難
い。
でも。わたしは珠美さんの頬から顔を外し、
「……わたしへのお話しでしたら、是非経観塚へ、羽様のお屋敷へいらして下さい。ここ
は恵美おばあさんの家、伯父さんと伯母さんの家、仁美さんと可南子ちゃんのお家です」
珠美さんがわたしへの話を為すには、適当な場ではない。癒しの水を語るのにも同様で。
珠美さんの双眸が、苛立ちに見開かれた。
「ここはあたし達のおばあさんおじいさんの家で、あんたとあたしの源でもあるんだよっ。
伯父さん伯母さんだけの家じゃない。しかも事は仁美の顔の傷を癒した水の話しなんだ」
病人を前にした病室ならともかく、ここがその話に相応しくないとあんたは言うのかい。
間近に迫る憤りの双眸をわたしは正視し、
「わたしは羽藤柚明です。この水は羽藤家に深く関る事柄です。伯父さん達には色々お世
話になっていますが、ここはわたしの住まう処ではなく、骨を埋める処でもありません」
娘さんを嫁に下さいと求める時、訪問先で偶々逢えても、他の家では普通しませんよね。
それは娘さんの家を訪ねて申すべき話しです。それと同じ。それ程この事柄は重要なんで
す。
「応えないとは言いません。真の想いで求めるなら、訊きに来て下さい。水の話しもわた
しへの話しも、経観塚に来て問うて下さい」
わたしにはこの問への彼女の答も視える。
答を返した後の彼女の実際の行動も分る。
彼女は経観塚迄お話しを訊きには来ない。
来ても彼女は羽様の屋敷に辿り着けない。
彼女がわたしに羽様で問う事は叶わない。
仕事でもない私的な気掛りの為に、山奥の屋敷迄珠美さんは来ない。それ程の想いがあ
るなら、既にわたしに訊いている筈だ。2年も放置はしない。機会がなければ問いに来る。
今逢えたからついでに、位の感覚の問には答えられない。わたしの肩には桂ちゃんと白
花ちゃんの、日々の平穏が掛っている。守るべきたいせつな人がいる。悪人ではなくても
従姉の珠美さんでも、簡単には応じられない。相手が当の仁美さんなら、その家族なら、
そうではない応対もあったかも知れないけど…。
胸は揺さぶられても、心は揺さぶられない。
瞳を正視して、失礼に近い求めを言い切る。
羽様の周囲は人払いの結界が張られてある。ご神木を中心に、羽様のお屋敷を包む辺り
迄。パスポートを所持していなければ、国の行き来に不自由がある様に、資格を満たして
なければ、結界内外の行き来に不自由が課される。
『それに抗う強い意志、踏み入るに足る目的がないなら、無意識が避けて通る様に働きか
ける。例えば急に別の用事を思い立ったり』
「訊きたければ訊きに来いってんだね。ああ、分ったよ。でもさ、仁美や可南子や伯父さ
ん達はどうなのさ。知りたくないのかい。あたしは部外者だからその扱いは良くても、水
の癒しを実際受けた仁美やその家族が問えば」
応えざるを得なくなる。間近の仁美さんや背後の伯父さん達を振り返り、問を促すのに、
「あたしは……訊く気はないよ。珠美さん」
仁美さんは珠美さんを見つめて口を開き、
「今のあたしには、柚明は唯の従妹じゃない。顔の傷を治してくれた以上に、心の深手を
癒してくれた。一番辛かった底値の時に、あたしの弱さも情けなさも全部受け止めてくれ
た。
心閉ざして泣き喚いたあたしに、生きる希望も見失っていたあたしに、どんなあたしで
も大切だと、誰が居なくなっても柚明だけはいると、苦痛も哀しみも共に生きて分ち合う
と迄、柚明は言ってくれた。惚れ込んだよ」
学校休む無謀を冒し、父さん母さんに怪しまれる無茶をして。傷だけじゃなく、心迄癒
してくれた。柚明は今やあたしの一番の人だ。
「あたしが癒しの水の迷信を口にしないのは、父さん母さんが嫌うだけじゃない。柚明に
それが公にされて拙い事情を感じたから。その何故の問を嫌うなら、来ない方が賢いと分
って柚明は、あたしを救う為に来てくれた…」
あたしは愛した人が困る事は望まないよ。
珠美さんがどうしても柚明に事情を訊きたいなら、それは柚明との問題だけど。あたし
はその何故を問う積りはないよ。恵美おばあさんや田中先生がそうだった様に。あたしは、
「可南子にもそれは問い質して欲しくない」
お姉ちゃん……。言葉を見つけ出せない可南子ちゃんに、仁美さんは苦笑いを見せて、
「今迄はっきり言わなくて悪かったね。あたしもここ迄胸の内を明かすのは、流石に恥ず
かしくてさ。ここ迄突っ込んだ話しにならない限り、口にする勇気が出なかったんだ…」
仁美さんもこの2年何も問うてこなかった。伯父さん達の様に常識外れ故に訝しみ避け
るのと違い、わたしが困る怖れを察し問を控え。
「柚明ちゃんはわたし達の大切な親戚の子」
強い意志を秘めた言葉は、伯父さんではなく茶碗洗いを終えて顔を覗かせた伯母さんの、
「癒しの水の迷信を、わたし達夫婦は信じません。仁美の大ケガを察して来てくれた事も、
心を救ってくれた事も、感謝はしているけど。信じてない物は問い質す必要もありませ
ん」
迷信は嫌うけどわたしの想いは嫌わないと。怪しげな水を持ち込んでも心繋いだ関係だ
と。
伯父さんもその言葉にゆっくり深く頷いて、
「ここは珠美ちゃんが言った様に、君や柚明ちゃんの祖父祖母の家であり、可南子や仁美
や君達の源でもある。柚明ちゃんを問い質す場ではないよ。受け容れて慈しむ場なんだ」
その話題はこれで終りだと。これ以上続けるにはここは相応しい場ではないと。理由も
立場も違っても、可南子ちゃんも含め4人心一致して。わたしは、みんなに守られていた。
「有り難うございます。伯父さん、伯母さん、仁美さん、可南子ちゃん。わたし……」
恵美おばあさんや久夫おじいさんだけではなく、その子や孫からも返しきれない想いを。
「……分りました。もうしませんっ」
不承不承でも、珠美さんは了承してくれた。己が好奇心旺盛なので己を基準に人を測れ
ば、これ程奇妙で面白そうな物に興味が湧かない筈ないのにと。取っ掛りがあるのに敢て
問わないとは何と勿体ないと、顔色に視えたけど。
「ゆめいあんた、良い絆結べたみたいだね。
子供同士だけじゃなく、大人まで含めて」
「珠美さん……その、ごめんなさい。何か。
みんなでノーを突きつけちゃったみたい」
「みたい、じゃなく実際そうだったろうに」
負け惜しみを込めた指で額を小突かれた。
「いつの間にか仁美とも、あたしより深い絆を繋げちゃって。仁美には、あたしの方が先
に目を付けていたのに……ああ、悔しい!」
珠美さんは、わたしが心通わせたくて胸の前に持ち上げて両手で握った両手を振り解き、
「腹いせに一つ指摘させておくれ。あんたがここ数年、妙に人の死別や不幸にタイミング
良く訪れている不思議をさ。久夫おじいさんの時も、息絶える前に来れたのはあんただけ。
仁美の時は可南子が電話したお陰だろうけど、今回は勘違いで来てみるとそれが正解だ
と」
経観塚は僻地で情報も遅いし、来るにも不便で時間が掛る。あたしじゃなくたってあん
たより早く駆けつける親族が居て当然なのに。いざ鎌倉となった時は常にあんたが最も早
い。
問い質したいんだよ。気になって堪らない。
その瞳はわたしの心の奥迄打ち抜く輝きで、
「……あんた、まさか他人の不幸や死相が視えている訳じゃあ、ないだろうね?」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
9月に入ると、羽様の朝五時過ぎは薄暗い。外はまだ森の木々に朝霧が漂う頃合、厨房
に行くと既にサクヤさんは1人立ち働いていて。
「お早うございます……真弓叔母さん、具合悪いの?」「……ああ。鬼の霍乱も受け付け
ない筈なんだけどねぇ、真弓に限ってはさ」
笑子おばあさんが具合悪い可能性に触れず、寝込んで起きられない真弓さんに、笑子お
ばあさんが付き添っている前提で話すわたしに、贄の血の特異な力を知るサクヤさんは驚
かず、
「笑子さんが付き添っているから大丈夫さ」
癒しの力を流している様だ。わたしも付き添うべきかと首を曲げた瞬間、先回りされた。
「あんたは今日は学校だろう。少し遅く迄留まってバス通学も良いけど、笑子さんの見立
てでは、2時間で癒せる疲れじゃないらしい。力の強さは上でも、扱いの繊細さではあん
たは未だ笑子さんに及ばない。ここは任せな」
笑子おばあさんが血の力を流す以上、病ではない。羽様のお屋敷の生活で元鬼切り役が
ケガを負う事も考えられないし。唯の疲れだ。癒しは弾く力と違い、唯強ければ良い訳で
はない。必要な箇所に必要な分量を、必要な間安定して注ぐ事、瞬発力より持続力が重要
だ。四時間添えば治るから大丈夫と言われたけど。
「昨日はそんな様子も、全然なかったのに」
街から帰り着けた昨夜は、真弓さんも普段と変らず明るく元気で。夏休み半ばから滞在
中のサクヤさんと、みんなで少し夜更かしを。なのでわたしも今朝は少し寝起きが辛いで
す。
桂ちゃんも白花ちゃんも、数日ぶりのわたしの帰着を迎えてくれて、遅く迄はしゃいだ
末に泥の様に眠り込んで今も尚。幼い双子が寝付く少し前から、サクヤさんと真弓さんは、
人を泥に酔わせる水を酌み交わし始めていた。でも二人は幾ら酌み交わしても泥にはなら
ず。
「ああ、そうだねえ。あの位の酒で潰れる真弓じゃないし、2日酔いじゃない様だから」
正樹さんは早々に酔い倒され、おばあさんがちびちびマイペースを保つ中、上機嫌のサ
クヤさんはわたしにも少し呑めと勧めて来て。真弓さんの制止のお陰で助かったけど、そ
れが又2人の闘志の火にアルコールを注ぐ事に。
「真弓は時々、そうなる体質らしいんだ…」
緊急時ではないし、笑子おばあさんが寄り添っているし。サクヤさんに朝食作りを全て
任せるのも悪いので、わたしは厨房を手伝う。笑子おばあさんに教わった料理の業は、未
だサクヤさんに遠く及ばない上、真弓さんには抜き去られ差を広げられつつあるけど。そ
の補佐位なら、全く問題なく成し遂げられる…。
「持病、みたいな物かしら?」「さあねえ」
病ならおばあさんが癒しを注ぐ筈がない。
でも、サクヤさんの話とわたしの同居しての見聞を合わせると、真弓さんは一月に1回
位の割合で、こうして伏せる事があるらしい。それは何かの病の発作の様に想えてならな
い。
「真弓は原因に迄心当りがある顔だったよ」
詳しい事情は話してくれないんだけどね。
「日常生活には問題ないという事と、本当にそれで困った時は別に方策があるという事と、
根本的な改善は無理そうな事と。大人の女の生理の様に、受け入れる他にない物らしい」
余り良くない兆しに身が震えたけど、確かな像が視えた訳ではないので口には出さない。
突発的に真弓さんを襲う深い疲弊と脱力は、病でもなければ、呪いでもなく、唯の疲れ
だ。贄の血の癒しを注げばすぐに復するし、それがなくても一日横になって休めば自然に
治る。
階段上り下りや車道の横断中や、刃物や炎を扱う最中に運悪く当らない限り問題はない。
わたしの関知にもその様な真弓さんの禍の像は浮ばない。唯漠然と、この不調が真弓さん
の生命に未来に関りそうな気がして不安で…。
『……あんた、まさか他人の不幸や死相が視えている訳じゃあ、ないだろうね?』
「……柚明?」「な、何でもありません!」
漠然とした不安を説明できず、と言うより本当は己が分って向き合うのが怖かったのか。
ちょうど朝食の用意も終えたので、耳に残る珠美さんの言葉のリフレインを振り払いつつ、
「白花ちゃんと桂ちゃんに挨拶して来ます」
多くが悟れ視える悩みを、サクヤさんに知られる事を、わたしは何故怖れ嫌うのだろう。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
幼子二人は両親に添い寝される年齢なので、桂ちゃんと白花ちゃんへの挨拶は、真弓さ
ん達への挨拶でもある。親子4人の寝室には、真弓さんに癒しを流す笑子おばあさんもい
て。
「お早うございます……」「お早う、柚明」
襖を開けると、布団に横たわった真弓さんの左手首を握る笑子おばあさんが、座して癒
しを流し込んでいた。正樹さんは布団の反対側で、心配そうにその様子を覗き込んでいて。
「柚明ちゃん、お早う」「ごめんなさいね」
真弓さんは既に目覚めていてわたしの声に、心配させて、起きて厨房に立てなくて申し
訳ないと詫びてくれる。気を遣わないで下さいと応えつつ、笑子おばあさんの左横に座っ
て、
「柚明も確かめてみるかね?」「はい……」
笑子おばあさんの空いた左手に右手を絡め、感応で様子を診る。真弓さんの容態は聞い
た通り唯の脱力・疲れで、笑子おばあさんが4時間も癒しを注げば回復するのは確かだっ
た。
「大した事ないのに、お義母さん大袈裟で」
「働き手が1人いないのは、困るからねぇ」
羽様の姑と嫁の関係は、とても良好です。
細身に美しい真弓さんが、大人しく横になっている姿を見ると、是非己の力で癒したい、
寄り添い触れて温めたいと想うけど。それは真弓さんの為というよりわたしの欲か。恵美
おばあさんの死去に先んじて学校を長く休んだわたしは、これ以上欠席も遅刻も出来ない。
6時過ぎから修練を兼ねて経観塚の学校迄二十キロ余りを歩くのを、バス通学に変更し、
やや長く寄り添う位は許して頂こう。朝の桂ちゃんや白花ちゃんとも少し長くいられるし。
間近でも言葉を交わしても、真弓さんへの漠然たる不安の確かな像は視えてこず、朝霧
が日に照され消えゆく様に、抱いた焦慮が引いていく。でも、こうして手を繋いで視えた
のは、むしろ笑子おばあさんの老いと衰えで。
にこにこと癒しを紡ぎ真弓さんに注ぎ込む様は、適正な量を流し最善の癒しを為す様は、
今尚及ばないけど。おばあさんの紡ぐ癒しの力の上限が、ここ半年で随分落ちて来ていた。
年齢から考えれば、肌も張りや艶があって元気だけど。気力も充ちているけど。血の力の
素になる生気が衰えていた。今は未だ危険な程ではないけど、この侭減り続ける様なら…。
おばあさんはそれを隠さない。自身の最期がそう遠くないと承知している。それを突如
見せるのが周囲の心を乱すと、徐々にそう成り行く様を見せてくれて。みんなもわたしも
正面から向き合えず、つい目を逸らしてしまうけど。衰えを見せてその先を示してくれて。
自身に触れる様促したのはそれを伝える為…。
今生命の危機にある訳ではない。今日明日危うい訳ではない。でも、真弓さんの遙かに
遠く漠然たる不安と違って、笑子おばあさんの最期は来年か再来年を示し。確かに視えた。
珠美さんの言う通りわたしは人の死や不幸を。
笑子おばあさんは全て承知の笑顔で頷き、
「定めは受け容れないと。ねえ、真弓さん」
人は永遠に生きられない。鬼や犯罪者に襲われずとも、百年保たず病や老いで死は巡る。
それは受け容れる他に方法のない定めだけど。死を拒むなら生れる事を拒む外術はないけ
ど。
そうと分って。そうと視えて。
視えてしまう像を拒みたい。感じてしまう未来を厭いたい。迫る不幸を避けられないな
ら、予め知る事に一体何の意味があるだろう。日々を過ごし行く事が、終りへの階梯とな
る。哀しみが早く始り長くなるだけではないのか。
そんなわたしの心の内を、見抜いた様に、
「予め分れば心の準備は出来るじゃないかね。期限を報されれば、どうしてもやって置か
ねばならない事に優先して取り組める。時間の使い途をより絞り込める様に、なるんだ
よ」
終りのない幸せは存在しない。それを心に受け止めて。尚乱れずに崩れずに。己の終り
を見据えて尚この人は、何と強く確かなのか。おばあさんはそれを伝える為に手を繋い
だ?
感応の力を持たない正樹さんと真弓さんが『?』を顔に示すけど、おばあさんは敢て説
明せず、わたしに顔を視線を言葉を向け続け、
「白花と桂に挨拶しておやり。今の幸せをしっかり身に受け止めなさい。終りは必ず巡る
けど、だからこそその幸せをしっかり心に刻みつける事が、大切なんだよ」「……はい」
頷いて、天使の寝顔が健やかに並ぶ隣の布団に歩み寄る。白花ちゃんや桂ちゃんとの幸
せも永遠ではない。望めなくなる日は訪れる。ならせめて終りの時迄は今の幸せに身を浸
す。
「桂ちゃん、白花ちゃん。お早う……」
二人の頬に口付ける。二人は今日は寝入った侭で起きてこないけど、柔らかで温かな感
触はわたしに生きる意味を返してくれる。起きている時は口に口も寄せてくる二人だけど。
時々頬を抑えられて唇奪われる事もあるけど。無防備な寝姿も縫いぐるみの様で、愛らし
い。この2人を知って、間近にいられる今が幸せ。
この2人もいつか大きく育って、それぞれ愛すべき人を見つけ、わたしの元を離れて往
くだろうけど。遠い将来にはこの笑顔を日々見つめる事も叶わない時も、来るだろうけど。
今はこの身に余る程の幸せに甘えていたい。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
一週間余りの欠席から学校に復帰したわたしを待ちかねて歩み来たのは、2組の朝松利
香さんだった。挨拶も抜きに、周囲に添う真沙美さんや夕維さんや歌織さんも眼中になく。
「羽藤さんっ……!」「お早う、朝松さん」
朝のホームルーム迄はまだ十五分程ある。
心配を掛けていた友達にわたしの事情を話すのはひとまず中断して。真っ直ぐなショー
トの黒髪の、大人しそうな女の子が意を決した様子に、椅子に座した侭見上げて向き合う。
背丈はわたしと同じ位で、体格はやや細身に過ぎる撫で肩。容貌は端正だけど、大勢に溶
け込む事を望み願う故か日頃目立たず、又目立つ事も好まない彼女が、今日は強い声音で、
「お母さん中々退院できないの」「そう…」
本当はそれだけで事情は見えない筈だけど、わたしが長い欠席に入る少し前に利香さん
と交わした会話を知っていれば、憶えていれば、特段の力も不要にその事情は推察できる
かも。
「羽藤さんあなた、こうなる事もしかして」
予め知っていたのか、見通していたのかと、問い質す視線と語調には微かな怯えが伴っ
て。
「最初は一週間で退院できる、唯の胃潰瘍だってお医者様もお父さんも言っていたのに」
検査があって、投薬受けて。再検査受けて、今度は手術だって。そしてもう一度再検査
を。終らない。先が見えない。もうすぐ間もなくってお父さんは言っていたのに、一月経
っても退院できそうな感じしない。それどころか。
「お母さんどんどんやせ細って。徐々に顔色悪くなって。段々元気なくなって。最初は少
し風邪引いた位だったのに、最近は本当の病人みたいに苦しげに。羽藤さん、あなた…」
何が分っていたの。何が視えていたの?
わたしへのお母さんに寄り添う様にと言うあの強い諭しは、こうなる事を分っていて?
知らずその身は半歩ずつ前に踏み出して、
「わたし羽藤さんの言う通りにしたよ。お母さんに向き合って、寄り添って。確かに手を
握って早く治ってねと、励まして力づけた」
わたし、次は何をすれば良い? お母さんを元気にする為なら何でもする。わたし頑張
るから。お父さんもお医者様もこの先を話してくれない。大丈夫だって、もう少しの入院
だって、最初言っていた事を繰り返すだけで、何がどうなっているのか誰も教えてくれな
い。
「羽藤さんだけ。こうなると分っていた様に、心配顔でしっかりお母さんに寄り添って
と」
状況は変っているのに。お母さんの病状は確実に悪くなっているのに。誰も真実を告げ
てはくれない。為すべき事を示してくれない。唯大丈夫だって言われても、どんどん悪く
成り行く加減を見て、前と変らずもうすぐ退院だと言われても、空手形だよ。信じられな
い。
「本当には安心出来ないよ……わたし怖い」
羽藤さんにはこの先も、視えているの?
羽藤さんはこの結果も、分っているの?
女の子と触れ合う事は好まない筈の利香さんが、わたしの両手を両手に取って招き寄せ、
「保証して安心させて。お母さんはもうすぐ胃潰瘍も治って退院してくるって。来月は家
に帰って来てわたしにお説教してくれるって。廃屋探検の夜歩きを一々咎めてくれるっ
て」
うるさくも優しかったお母さんが、もう一度帰ってきてくれるって、確かに安心させて。
その瞳は想いと涙を溜めて、大きく潤み。
「大丈夫だよね? お母さん、もうすぐ退院して来るよね? 羽藤さんの言う通り、わた
しお母さんにしっかり向き合って、確かに言葉も心も通わせたよ。手を握って肌も触れ合
わせ、元気になってねって、伝えて来たよ」
お母さん大丈夫だよね。帰って来るよね!
そうではない答など考えてもいない瞳に。
たった一つの答しか期待してない彼女に。
わたしは正視を返すのがとても辛く。でもそれを振り解いて逃げ去る事も、出来なくて。
「……きっと。……きっと、もうすぐ……」
ごめんなさい。わたし彼女に本当の事を、
「しっかり寄り添ってあげて。今迄以上に確かに言葉を掛けて励まして。出来るだけ長い
時間肌を触れ合わせて、心を通わせ合って」
言えませんでした。言わねばならぬ一番大事な事を、言わぬ事が罪になる程重い真実を。
わたしは一番大事な肝要を確かに告げられず、
「治ってくれるよね。お父さんやお医者様が言う通り、お母さん来月には退院するよね」
「……そう長く、病院にはいないと思う…」
応えてから瞳を逸らす。その直前にわたしは利香さんに抱きつかれ、その後ろめたさを
伝えられぬ侭に。否、知って欲しくないなら、それはそれで良かったのか。でも、結果は
早晩誰の目にも明らかになる。わたしは本当は。
「ありがとう……羽藤さんを、信じるから」
合わせた頬を嬉し涙が伝って繋げ。でも。
奥に潜む怯えた心が手に取れた。否定しても否定しきれぬ不安は既に、利香さんの心を
覆い溢れ始めている。わたしを信じたと言うより、信じたい彼女はそう読み解ける要素を
拾い集め。でも、それを指摘しても救いにならず、不安の根を拭う術も持たないわたしは。
為す術もなく抱擁を返す他に何も出来ず。
視えてしまう己の関知が恨めしく想えた。
この少し先の像が視えてくる。抱き留めて肌を合わせる事でより鮮明に。利香さんの涙
と怒りがわたしに向けられてくる様が。折角関係を繋ぎ止めたのに。隔てられる筈の絆を
何とか保てたのに。やはり最初に関知で視えた像は変えられないのか。わたしと彼女の関
りは、やはり長くは保ち続け得ぬ定めなのか。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
恵美おばあさんの急変を察して学校を休む数日前、夏休み明け直後の昼休みに事は遡る。
行こうよ、との求めに応える女子の声が、
「リカあんたこの前、夜の廃屋探検を母さんに叱られたって言ってたよね?」「大丈夫」
廊下でその声を耳にした時、兆しを感じる前触れが、心に引っ掛った。何かが視えてき
そうな、関知の力が何かを手繰り寄せそうな。心に波立つ物があって、くいくいと引っ張
られる様な感覚があって、それに心を傾けると。
「お母さん暫く入院だから。2週間位帰って来れないって、お父さんも言っていたし…」
利香さんの話し相手は室戸さんと下山さん。いずれも同じ二組の女子で、百物語や先生
に禁じられている高句麗(こうくり)さんを一緒にする、心霊遊びが好きなメンバーだっ
た。
利香さんは霊が視える事を怯え嫌う一方で、心霊好きな人達のお化け探索に、頻繁に誘
われている様だ。利香さんも時に男の子を誘え、一緒に適度な緊迫感に身を浸せる夜の探
検を嫌っておらず。女の子同士、或いは男の子も交えた百物語等に望んで参加しているみ
たい。
「煩わしい人が暫くいなくて、せいせいした。胃潰瘍が酷くて入院手術って話しだけど、
胃潰瘍で死んだ人っていないって聞くし。少し長い外泊に出掛けた感じ。だから暫く夜歩
きしても口煩い人はいないの」「そーなんだ」
『胃潰瘍で、入院手術……。胃潰瘍で…?』
視えるという以上に持ち帰る怖れがあると、わたしも一度諫めた。利香さんの特異な力
は、彼女の要望でわたしが眠らせた。でもそれは利香さんに視えるか否かで、依り憑く者
達を防ぐ話しではない。まあ、廃病院や廃校舎に潜む位の霊体なら、普通の人は依り憑か
れても気付かずに済む事も多いけど。睡眠時に悪夢を見せたり、寝ぼけ眼に幻を見せるの
が精々な者が殆どだけど。生きた人に害をなせる程の霊体等、熊や獅子を倒す人より数少
ない。実害の出る怖れは、非常に少なかったけど…。
利香さんのそれ迄培った友達付き合いがそれを好む面々なので、それを根から変える積
りも彼女はない様なので、その先はわたしが踏み込む話しではないと口出しは控えてきた。
「心配してくれるのは分るけど、ちょっとお節介がすぎるというか、干渉しすぎというか。
もう少し年頃の娘との距離感を掴んで欲しいのよね。いつ迄も子供じゃないんだから…」
受けた相談を解決し『利香』と『ゆめい』ではなく『朝松』と『羽藤』の関係に戻った
以上、一度関りを精算した以上。無理に迫って繋りを断たれる事はわたしが好まなかった。
残せないと視えた関係を残せた以上、その繋りは大切にしたかった。壊したくはなかった。
普通を望み渇仰し、異なる物を忌み嫌い、拒み隔て。視える事や己の特異な力を嫌う利
香さんは、贄の血の力を扱うわたしから最も遠い人だ。そんなわたしが彼女の力になれた
のは、巡り合わせとしか言いようがないけど。
「少しは羽を伸ばせる感じ。何なら一月や二月ゆっくりしてきて良いよって。お見舞行っ
ても、家の事や勉強や色々言われそうだから暫く抛って近づかないかなって」「ダメ!」
わたしは、彼女達の会話に声も身も割り込ませていた。少し太めな下山さんと、背の高
い室戸さんの間に割って入り、その前に出て、驚きに目が点になった利香さんを、正視し
て、
「大切なお母様の、入院なの。手術なのっ」
声が強さより必死さを帯びていた理由は、
「お母様に、寄り添って。確かに向き合って、しっかり手を握って早く治ってねって、励
ましてあげて。力づけてあげて。姿勢に見せて、言葉も心も通わせて。声を掛けて肌触れ
合わせて、心配の想いと愛情を届けてあげて…」
「は、羽藤、さん……?」「突然」「何を」
下山さんと室戸さんに向き直る心の余裕はなかった。今は何より利香さんに、その心に。
「お母様はきっと病院で、心細く想っている。利香さんと逢えない事に、不安が募ってい
る。煩わしいと言わずに、その想いを受けてあげて。その愛情を感じ取ってあげて。お願
い」
あなたのお母様は今病なの。怖ろしい病魔と闘っているの。お薬やお医者様は助けてく
れるけど、何より朝松さんが励ましてあげる事が力になる。寄り添って確かに言葉を愛を
注ぐ事がお母様を支える。そう長く掛る話しでないなら、出来るだけ間近に添ってあげて。
「……胃潰瘍なんだよ。酷いと言っても、今時の医療じゃ余程の事がないと手術も不要な、
完治の率も百%近い安全安心な病気だよ?」
検査結果が良ければ手術せず、お薬で散らす事も出来るかもってお医者様もお父さんも。
「羽藤さん、心配しすぎだよ……手」「あ」
いつの間にか、利香さんの両手をこの両手に握って、正面間近で訴えかけていた。利香
さんは、女の子との触れ合いは余り好まない。一度深く関った後で彼女との縁が切れかけ
た原因も、わたしの触れ合いが女の子同士の関りにしてはやや親しすぎて感じられた為で
…。
キスを求める位間近に顔を寄せていた。
瞳から心の奥迄見据え覗き込んでいた。
相手の答を求める余り踏み込みすぎて。
ごめんなさい。両手を放し下ろした時点で、左右の下山さんと室戸さんからの視線を感
じ。彼女達の会話に通りすがりで立ち聞きして割って入った。本当に親しい友達でもなけ
れば、『何なの、あなた?』と言われる行動だった。
非礼に身が竦むけど。気の合う友達同士の場を崩した事は、非常に申し訳なく想うけど。
「それでも。入院というのは大変な事なの」
数日外泊というのとは全然違うわ。お願い。時間が取れる限り、可能な限り間近に添っ
て、その心と言葉を受け止め、想いを交わらせて。暫くで良いから、心配させる様な事は
控えて。
深々と頭を下げ、重ねて求めるわたしに、
「そんなの余計なお世話よ」「あなた何様」
わたしの突如の行いを訝しむ声が両脇から、
「そう言う上から目線がリカに嫌われたって、あなた未だ分らない?」「りかは貴女の妹
でもなければ子分でもない。好い加減にして」
2人の声は利香さんを困惑から守ろうとする善意の故だ。2人の彼女に抱く友情の故だ。
わたしの行いは2人の批判を受けるに値した。慎重に、時と場を選んで話すべきだったか
も。
「人の話を立ち聞きなんて、好ましい趣味じゃなくてよ」「りかは貴女にお母さんの事を
相談した訳じゃない。お節介も良い処だわ」
「……もう良いわ。行きましょう、みんな」
利香さんはわたしの求めに答を返さず、視線を背けつつ、更に言い募りたい下山さんと
室戸さんをやんわり抑え、共に廊下を歩み去る。わたしがそれ以上取り縋らなかったのは、
2人の非難を嫌い怖れた故ではなく、言葉の答はなくても利香さんにわたしの想いが届い
たと視えたから。今後の像が少し視えたから。
利香さんはわたしの言葉を反芻し、これ迄の関りを思い起こし、病院のお母様に逢いに
行く。煩わしさを感じつつ、やはり大切に想って。手を握り肌触れ合わせ、言葉を交わし
心を伝え。わたしへの応えの有無は問題外だ。
利香さんは数日わたしに挨拶も返さなかったけど。わたしが実質禁を犯して親密に接し
た事への罰に、暫く言葉も交わさず拒み隔て。
今はその成果を最善と受け止める。突飛な行動で疑念を招いたのはわたしだ。反省し繰
り返さない事は大切だけど。その内室戸さんや下山さんとも、心を繋ぎたいけど。利香さ
んがお母様に寄り添う事が、今は最も重要だ。彼女がこの秋に、終生の悔いを残さない様
に。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「心が留守になっているよ、柚明」「……」
普段から、物思いに耽ると心が留守になると指摘されたけど。忠告で気持を立て直して
も、すぐ抜け出る心を押し止めるのが困難で。今日のわたしの集中力のなさは酷い。折角
サクヤさんに修練の相手をして貰っているのに。
「あんた、大丈夫かい?」「済みませんっ」
訝しむ目線を向けてくるサクヤさんに覇気を意識した答を返し、もう一度心を入れ直し。
「お願いします。行きますっ」「あいよ!」
塞ぎ込んでも意味はない。今は目の前の為すべき事に全力を傾ける。沈み掛る心を、考
えたがる頭を吹っ切る。身体を思い切り動かして身体も心もリセットすれば、頭を空っぽ
にして再び考え直せば、良い思案も浮ぶかも。
サクヤさん相手の護身術の修練は、これが最初ではない。戦いの幅を広げるには他の人
との対戦経験が必要と言う真弓さんの勧めで、去秋から何回か。でもその強さは予想を遙
かに超えていた。真弓さんと真剣勝負で決着が付かなかったというお話しは聞いていたけ
ど。
【サクヤは殺しても死なないから、遠慮なく叩きのめして良いのよ。わたしが殺し損ねた
程の相手だから、手加減は要らないわ……】
最初だけわたしの技量を測りかねていたサクヤさんを驚かせたけど、以降はサクヤさん
が圧倒的な強さでわたしを寄せ付けず。業や気合以前の話しだった。腕力や脚力だけで押
し切れる上に、その動きも実践的で。変則的な技も見せたけど、サクヤさんは変化業も不
要に一蹴できる程、わたしと力の差があった。
真弓さんについて修練を始めて4年。もう素人ではないわたしだけど、未熟を思い知ら
されました。では真弓さんも今尚わたしに相当手加減していると? 結局サクヤさんも手
加減し、わたしの向上に付き合って貰って…。
縁側で様子を見守るのは羽様の家族全員だ。真弓さんが桂ちゃんを抱き留めて、見守る
姿が珍しい。白花ちゃんは正樹さんの膝の上で、笑子おばあさんはお茶菓子を手ににこに
こと。
「はぁっ!」「おっと!」
わたしの拳はまともに当たれば、成人男性を悶絶させるけど、サクヤさんや真弓さんに
は通じない。血の力を弾く力に変えて込めて、頬や腹に当てて尚、堪えて反撃されてしま
う。
わたしの腕力と体重では、まだ鬼や鬼切部に有効打は与えられないらしい。唯それでは
修練になり難いので、2人ともわたしがふるう拳や蹴りを、それ相応の威力があるかの如
く防いだり躱したりして攻防を続けてくれる。2人の本気には尚も遠く手が届かない。本
気で戦って貰える時は、一体いつになるだろう。
最初サクヤさんが積極的に攻めて来ないのもわたしの為の修練モードだ。日本人離れし
て体格の良いサクヤさんは手足も長く、打撃戦をまともにやれば、わたしは射程外から打
ち据えられて体力を削られ、何も出来ず終りかねない。せめて技や動きで対抗できる様に
ならないと、血の力を扱えても話にならない。
拳を当てようと内懐に飛び込んだわたしは、長い腕の堅い防御に攻めあぐみ。正面から
の突きが防がれるならと、腕を大きく外に振り、右回し打ちでサクヤさんの左頬を狙って
みる。正面の防御を躱すだけならそれは成功だったけど、サクヤさんもそれを既に見定め
ていて、
「読めてるよ、柚明!」「わたしもです!」
驚異的な動態視力と的確な動きで、わたしの右回し打ちを僅かに躱し、その侭右拳の通
り抜けた無防備なわたしの右背後に回り込む。背後を取られたと想えた瞬間、わたしの右
から左への腰の回転は更に加速し、左足が跳ね。
「なにぃ?」「柚明ちゃん?」「はあぁ!」
動きは左上段後ろ回し蹴りに繋って。背後に回られる事は予想できていた。そこに第2
撃を用意すれば、不意打ちを不意打ちできる。取った積りを取られれば想定外に心も崩れ
て。
「ちいいぃ!」
でもサクヤさんの動きの早さは尚凄まじく。
その心は僅かな空隙もなく機敏に対応して。
瞬時に両腕を交差させて蹴りを防ぎ切った。
この状況でガードが弾かれず保ち堪える…。
流石にサクヤさんも蹴り足を掴んだり叩き返して反撃に出る事は出来ず、踏ん張って堪
えた後で体勢を立て直す。わたしも大技の不発で崩れた体勢を、立て直す為に少し離れて。
足を高々と上げる事でセーラー服のスカートから素足や下着も見え隠れするけど、家族み
んなの視線も感じるけど、羞恥は心に収納し。サクヤさんに間近で見られた事も今は不問
に。想い返したら今夜は悶々としてしまいそう…。
「ひやっとさせてくれるじゃないかい柚明」
その位闘志がないと面白くもないけどね。
「確実に捉えたと思ったのに、防がれた…」
「簡単にやられる訳には行かないだろうさ」
実戦経験が違うんだからね。あんたとは。
「さ、続きを始めようかね」「……はい!」
そんなわたし達に、縁側から長閑な声が、
「サクヤぁ。きちんと加減してあげるのよ」
柚明ちゃんは、技は優れていても華奢な女の子なんだから。あんたの剛力で思い切り殴
ったり蹴ったりしたら、珠の肌に傷が付くわ。あなたは多少骨折られても皮や肉抉られて
もすぐ治るんだし。柚明ちゃんを傷物にでもしたなら、わたしがあなたに千倍返しするわ
よ。
「千倍返し……」「酷い事言うね」
柚明こそ癒しの力を持っているから、どんなケガを負っても確実に治せるって言うのに。
言いつつ立ち上る空気が今迄と少し違う。
『雰囲気が、変った。本気に近い、闘志が』
サクヤさんは、どうやらそれを真弓さんの挑戦状と受け取ったらしい。偶には自分と試
合ってみようとの。寿退職で鬼切り役を辞めて以降、羽様での日々は安穏で、真弓さんに
本格的な戦いは殆どない。わたし相手の修練では全然物足りないのだろう。サクヤさんの
動きを直に見て、血が騒いだのかも知れない。
「どれ、ちょっと本気で柚明を少し傷つけて、真弓を引きずり出してみますかねと」「!」
サクヤさんも既にわたしではなく、次の真弓さんとの対戦を楽しみに。流石に少し癪だ。
全然力量が及ばない事は承知だけど、真弓さんと試合する通過点に扱われるのは不快です。
更に言えばサクヤさんが、瞬時にわたしから真弓さんに焦点を変えた事に、わたし嫉妬を。
『わたしを見て。今目の前にいるわたしを』
簡単に倒されてなる物か。必ず痛打を入れてやる。サクヤさんの目を見開かせ、羽藤柚
明を視界のど真ん中にもう一度映し出させる。真弓さんは、その闘志さえ考慮に入れて
…?
「はああぁぁっ!」「来な、柚明っ!」
わたしは猛然とサクヤさんに向けて攻勢に。突き出した鋭い右拳は、サクヤさんの左手
に掴まれて防がれるけど、触れた瞬間贄の血の力の弾く作用が肌を通じ、痺れと痛みを呼
ぶ。長く触れると人の肌に熱も感じさせ、強い酸をかけた様に肌や肉を溶かす効果をもた
らす。
わたしの突きを止める役は終えたサクヤさんの左手が、痛みと痺れを嫌って離れる間に、
わたしは両腕をサクヤさんの隙の見えた右腕に絡め、肘関節を捻って極めつつ投げに出る。
本当に加減もなく、人を傷つける危険な技を。
サクヤさんが本当に本気ならわたしの拳を待つ等せず、防ぎもせず、当たっても構わず、
思い切り反撃すれば一撃でわたしが沈むけど。その修練モードの詰めの甘さに、噛み付い
て。
でも妙に違う。期待の通りの動きなのに。
『感触が軽すぎる? サクヤさんは自ら…』
飛んで投げられ、折られる事を回避した?
どさっと言う音と共に、サクヤさんの身が背中から地に叩き付けられるけど。その意識
は途絶せず、わたしの絡めた腕をその侭掴み。折る事に失敗したその右腕に左腕を合わせ
て、逆にわたしに絡みついてきて。わたしの身は。
「捉まえたよ、柚明」「しまっ……!」
サクヤさんに馬乗りに、組み敷かれていた。
投げ技は投げて決着が付かなければ、転がった相手を追いかけての、寝技の攻防になる。
打撃技より体格や体重が左右する領域だった。サクヤさんはわたしの攻撃を、躱さず防が
ず、受けて受けきる事で己の舞台に引きずり込み。まともに抗う事も出来ず。強靱な足に
がっちりわたしは挟まれ、仰向けにされた腹の上で。
『サクヤさんの瞳が、金色に輝いて見える』
真昼だったけど、陽の光燦々と降り注ぐ羽様の中庭だったけど、その気配は人を越えて
波打って。触れた感触は強く躍動して止まず。今のサクヤさんは仮面を脱ぎ捨てた様に違
う。
「腕を極めつつ投げて折ろうとは、柚明にしてはかなり豪快で思い切った攻めじゃないか。
お陰でほんの少しだけ、あたしもあんたに本気で応えたくなったよ。真弓との対戦と別に。
あんたの闘志を、見直した。そのご褒美に」
あんたに実戦の雰囲気を教えてあげるよ。
わたしの望みはどうやら果たせたらしい。
でも正にその故に背筋を寒気が走り抜け。
「あんたはあたしの可愛い柚明だけど、可愛い柚明だけに実戦で敗れた時どうなるのかは、
身に染みて知って置いて貰う必要があるしね。ああ良い感じだよ。その強ばって怯えた
顔」
可愛らしくも気丈に気高く。踏み躙ってみたくなる。破って奪って虐げたくさせられる。
「男も女も抛って置けない程清く凛々しい」
見据えてくる視線が闘志に充ちた笑みを、
「薄々は分っているんだろう? 贄の血の綺麗な娘が鬼と戦って敗れでもしたら、その後
にどんな定めが待っているかって事位はさ」
あんたは敗れてはいけない身の上なんだ。
贄の血が絡まなくても、鬼は欲情の侭に人の娘を襲う事も良くあるのに。贄の血を宿し
てこんなに綺麗で強い娘を、見逃す筈がない。絶対に奪われる、穢される、貪り尽くされ
る。
「あんたは敗れれば全てを失う。何もかも喪失する。大切な物を残さず奪い去られる…」
勿体ない。こんなに艶やかに可愛い娘を。
一気に唇を寄せて、左の首筋を甘噛みされた。身が強ばるのは嬉しさの故か怖さの故か。
血潮は流れ出なかったけど。食い破られはしなかったけど。今はわたしの震えを楽しむ
お遊びで済ませたけど。今のサクヤさんは遊び心でこの首筋に牙も立てそう。彼女の本気
とは獣の様なこの気配なのか。わたしを幾度も守り受け止めてくれたあの力強さは、片鱗
に過ぎなかったと。サクヤさんは、やはり…。
唇を放して、再びわたしの瞳を覗き込み、
「喉笛に食らいつくのは多分最後だろうさ」
その前に食い破る処は沢山あるからねぇ。
ビチッ、ビチチィ……。奇妙な音と共に。
わたしのセーラー服が破り取られてゆく。
「さっ……、サクヤさんっ……」「んん〜」
サクヤさんはちり紙をちぎる様に、余り力も込めた感じなく、わたしの服を破り取って。
脱がせるのではなく千切って剥ぎ取る。一年少し前には塩原先輩に、スカートを剥ぎ取ら
れた事があった。今秋は上半身、胸のブラジャー以外何もかも羽様の家族みんなに見える
処で細切れに破り取られて、素肌を晒されて。
胸の近くの素肌をぐっと指で摘んで、己の所作を確かに眺め、わたしの反応を窺いつつ、
「珠の肌だねぇ。滑らかで色白で良い触り心地だ。食い破りたくなる鬼の気持が分るよ」
「サクヤさん、止めて。お願い、もう……」
拘束された四肢に力を込めるけど、緩みもしなければ、この態勢を跳ね返せる筈もなく。
「抗いな。負けても生命ある限り戦いは続く。奪われる瞬間迄諦めちゃダメだ。黙ってい
れば食い破られる。無理でも不可能でも最後迄。その気丈さを踏み躙るのがこれ又極上で
ね」
二本の腕が、わたしの胸を撫で回し、揉み回し。わたしを何度も受け止めてくれた確か
な腕が、何度も助けてくれた強い腕が、今は。わたしの何も聞きいれず欲望の侭に蹂躙し
て、
「さ、サクヤおばさん……胸が、胸が……」
「最後迄言ってくれないと分らないよ柚明」
意地悪そうに胸を弄ぶ手は動いて止まず。
そうされる事を、わたしは望んでいるのか望んでないのか。名状し難い熱が身体を巡り、
わたしの心をかき乱し。サクヤさんの様にわたしも己自身の中に、獣が住んでいるみたい。
わたしじゃないわたし、いつものわたしじゃない真のわたしが、身体を飛び出し求めそう。
瞳を縁側に向けサクヤさんの視線も促し、
「真弓叔母さんが、笑子おばあさんが見て」
「ああ、見せときなよ。減る物じゃなし…」
サクヤさんは怯みもせず、獰猛な笑みで、
「正樹や白花と桂にも見せてやると良いさ」
魅力的なあんたが鬼に身体を繋がれる様を。
綺麗な柚明お姉ちゃんが鬼に貪られる様を。
身が固まった以上に、心が固まった……。
「あんたは己の為以上にたいせつな人を守る為に鬼と戦う覚悟をしたんだろう。桂と白花
の目の前で鬼と戦う事だってある筈だ。2人の目の前で鬼に敗れれば、その目の前で辱め
を受ける事もある。桂と白花の見ている前で。敗れたなら場所も時も選べない。2人の目
の前で、それを為されなければならない時も」
「さ、サクヤさん。お願い、もう離して…」
これ程に密着できるのは嬉しい筈なのに。
肌を触れ合わせる事は望みだっ筈なのに。
本当に操を奪われそうになって、わたし。
問答無用の蹂躙に、身も震え、心も震え。
「鬼にお願いが通じると思うのかい? あんたは己の両親の仇に情を求められたかい?」
あぁその通り。実戦とは、鬼との戦いとは、負ければ本当に、わたしの全てを失わされ
る、己の全てを貪り尽くされる、そう言う事だと。大切な人も守れず、想いも届かず、何
もかも。
「あんたの負けとはそう言う事さ。あんた個人の羞恥や喪失以上に、あんたの大切な人も
失わせる。しかもあんたを貪って力を得た鬼は一層強化され白花と桂を、食欲の侭に奪い
尽くす。あんたは守りに失敗した時は敵の餌にされ、大切な人を脅かす元凶にもなる…」
閉じる事も出来ない瞳に映るのは金の双眸。
その視線が凶暴な笑みを浮べて視えた時…。
「鬼と戦って敗れたら一体どうなるか、その身と心に刻み込むんだね。右の首筋に行くよ。
若い娘の贄の血は、鬼の大好物だからねえ」
宣告通り、身動き取れないわたしの首筋に、サクヤさんの犬歯が甘噛みに突き立てた瞬
間、
「いやあああぁぁぁっ!」
贄の血の蒼が制御を越えて、抗う意志の侭無制限に溢れ出て、サクヤさんの身を灼いて。
己の力が、たいせつな人を傷つけていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
夕餉の席でも気拙い雰囲気は拭えなかった。
わたしの放散した大量の蒼に、触れていた掌や太股、脛を大火傷したサクヤさんは、笑
子おばあさんの癒しで応急処置は終えたけど。加減が未だ本調子に復してないという以上
に、悪戯を咎められた子供の様にやや俯き加減で。本当は、咎められるべきはわたしの方
なのに。
「……ごめんなさい。サクヤおばさん……」
もう何度目か分らない謝罪をみんなが揃うちゃぶ台の前でも。わたしもサクヤさんの瞳
を正視できないので、サクヤさんがわたしを見つめてくれないのは、今だけ少し助かった。
「いや、その。あたしこそ、悪かったよ…」
少し調子に乗りすぎた。あんたはいつも可愛いけど、今日は珍しく強気に向かってきた
から、つい苛めたい欲が抑えきれず。ごめん。
「サクヤおばさんは悪くない。わたしが…」
修練と言う事を忘れ、人を傷つけようと。
たいせつな人に本気で反撃を試みていた。
サクヤさんがわたしを本当に貪り食う筈がないのに。サクヤさんが本当にわたしを踏み
躙る筈がないのに。そして元々わたしはそれを望んでいた筈なのに。いざそうなると怯え
が先走って平常心を保てず、過剰に反撃を…。
サクヤさんは、実戦で敗れたらどうなるかを肌身を通じて教えてくれようとしただけだ。
服を破られたのもやや過剰な演出に過ぎない。羽様の家族の前ではわたしの裸なんて、大
きな意味は持たないし。サクヤさんのそれ程に見事な体型でもないから、間近で見ても多
分。
たいせつな人を傷つけてしまった事に、申し訳なく肩身の狭いわたしの言葉が澱むのに、
「良いのよ。今回はサクヤがやり過ぎたんだから。適度なお仕置きになったでしょうに」
真弓さんは、やや意図して軽快な声音で、
「柚明ちゃんがあそこ迄灼かなかったら、わたしがサクヤを木刀で万回叩き切った処よ」
実際真弓さんは絡み合うわたし達の間近に来ていた。贄の血の力を暴走させたわたしか
らサクヤさんを引き離したのは、真弓さんだ。そうでなければサクヤさんはもっと酷い事
に。
「血の力は、触れて流すのが最も有効だから、ああやって迫られた時は一つのチャンスで
もあるのだろうね。かなりの危険は伴うけど」
「それも膨大な量の力で相手を灼けるならのお話しよ、正樹。あんな事は最高に力が強か
った若い頃のわたしにも、出来はしなかった。血が濃くても昼にあれ程蒼が溢れ出ると
は」
拳や足の一点に集めるから、弾いたり灼いたり出来る程の圧になるの。身を触れ合わせ
た肌全部を灼くなんて、どれ程の力が必要か。ホースと同じ水圧を、土管の水に求める物
よ。
わたしだから、サクヤさんが、傷ついた?
「いつつっ……!」「サクヤおばちゃ」
白花ちゃんがサクヤさんの苦痛を気遣う声を上げる。サクヤさん、箸を持つのも辛そう。
「あ、ああ。大丈夫だよ白花。何ともない」
灼かれた被服や皮や肉がそげ、出血もしたサクヤさんは包帯女だ。笑子おばあさんの癒
しでも数時間では完治に至らず、食後も再度暫くの癒しが必要で。本当に、ごめんなさい。
「傷つけたわたしが治すのが、本筋なのに」
わたしは昂ぶった身体が未だ完全に戻っておらず、暴走した力が完全に収まっておらず。
癒しに使える程制御が効く状態ではなかった。
己の手を見ると、電灯の下でも輝きが無自覚に漏れ出て蒼い。荒れすぎて、鎮めるのに
時間が掛る。と言うより、一度空っぽ迄出し尽くさないと収まりが付かない様で。わたし
は暫く誰にも触れられない。触ると灼いてしまう。その自己抑制の不足がサクヤさんを灼
いて傷つけたと思うと、本当に申し訳なくて。
桂ちゃんを真弓さんが、白花ちゃんを正樹さんが見ているのは、普段何かと肌を触れ合
わせる2人がわたしに触れてしまわない為だ。肌触れ合わせると、2人に害が及びかねな
い。ここ迄来ると、最早この力が呪わしく想えて。
「良いのよ、柚明ちゃんは気にしなくて。これからは夜だし。サクヤも回復は早まるわ」
「いざとなれば、一発で全快させる方法はあるんだけど」「それは要らないでしょうね」
正樹さんと笑子おばあさんは、未だ相当な深手でも、もうサクヤさんは大丈夫と見通し。
「あなたも大変だったでしょう。今日は早めに休んで身も心も落ち着けなさい」「はい」
食事も喉を通らなかったわたしは、普段ならお話しに長居するお茶の間に居たたまれず、
みんなに深く頭を下げて自室に引きこもった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
自室の窓から青く月明りが差し込んでくる。
豆電球も点けずテレビも付けず。夜に充たされたわたしの部屋は、月の照射で薄明るい。
空には雲一つなく、地に獣の姿も見えず。お屋敷を囲む羽様の森も寝静まって物音はない。
わたしは薄闇に座り込んで1人溜息をつく。
『わたしがサクヤさんを傷つけてしまった』
サクヤさんの役に立ちたいと望んで学び始めたこの力が。たいせつな人を守りたいと願
って修練を始めた技が。そのたいせつな人に苦痛を与えていた。このわたしの意志の元で。
己が為した事なのに、自ら傷つけた末を見るのが怖く、その前から逃げ出した。自己嫌
悪の極みだけど、自身の力の乱れを抑えきれない様に、自身の心の乱れも抑えきれないで。
この侭修練を続けて良いのだろうか。この侭力を強く紡げる様になって良いのだろうか。
わたしは人の不幸や禍を、見通し始めている。まるでわたしがそう定めた様に、変える事
も叶わず。その上この手で人に害迄加え。わたしは大切な人の苦痛や涙を防ぎたかったの
に。
「わたし、それに全然届いてない。むしろ」
これ程教えてくれる人に恵まれているのに。
これ程賢く強く優しい人が傍に揃っていて。
人の涙を拭う術を探し出せない。人の苦しみを除く術を見つけ出せない。見通せる禍を
なくす事は出来ない上で、この手がたいせつな人を傷つけるなら、わたしの生きる意味は。
利香さんのお母さんのこの先を視て、恵美おばあさんの最期を視て。笑子おばあさんの
終末を感じ、真弓さんの将来を覆う影を感じ。誰も助けられない。誰も救えない。傷つけ
る力は持てても、涙を拭う力はいつ迄も持てず。
『……あんた、まさか他人の不幸や死相が視えている訳じゃあ、ないだろうね?』
珠美さんの一件は一層わたしに、生れ育った街から離れる様に促していた。親族はみん
な癒しの水の迷信を耳にしている。仁美さんの傷を治した事への掘り下げた問を厭うなら、
最早軽々しく父方の親族に逢う事も憚られた。
『ありがとう……羽藤さんを、信じるから』
利香さんとの絆は、もうすぐ断ち切られる。それが視えても、最善を為しても、為せば
為す程最後の決裂はより確かに。関らなければ、表面的なお付き合いで流せば、そこ迄深
い断絶は招かないとも視えたけど。わたしがその選択は採れなくて。利香さんが終生の悔
いを残し悲嘆に沈む像を視た以上、看過できない。
『この力がみんなとわたしを隔てる壁に…』
大凡の成り行きが視えてしまう自身が厭だ。知りたくない。哀しい事は先に分りたくな
い。修練の結果、知りたくない事迄次々に感じ取れる。生前お母さんもそんな事を言って
いた。
視えなければ。分らなければ。修練をせず、哀しみが訪れる迄知らない侭でいられたな
ら。
修練を為せば為す程、遠く迄明快に視える。広範に詳細に視える。この手の及ばない処
迄深く視える。それでも尚修練は止められない。己の血の匂いを隠す以上に、無力な侭で
は誰も守れぬと知らされた幼い夜を心に抱く限り。止めてはいけない。それは分っている
けど…。
笑子おばあさんには相談できない。サクヤさんの治癒の最中だ。サクヤさんに向き合え
ない。傷つけられた人の前で、傷つけた事を悩みに相談する程、わたしの神経も太くない。
己が宿す力について相談できる人は他には…。
心が微かに、引っ張られる。これは兆しを感じる前の微かな引っ掛り。何かに気付きそ
うな時の、何かを切り開けそうな予感の前段。わたしの心を鎮める様に降り注ぐ月光の蒼
は。
「招かれている。これは、オハシラ様…?」
森の奥に、見えない向うに、心が引き寄せられる錯覚を、特に夜に感じる。外に出ると、
山へ引き込まれそう。月の大きく静かな夜は、殊に強く。それはオハシラ様の招きではな
く、自身の血がそれを求めている故だと、自身の側にある求めなのだと、最近漸く分って
きた。
オハシラ様は悠久にあり続けているだけだ。寄り付く者も求めておらず、欲してもいな
い。わたしの側の孤独や不安が、導きを求め同胞を求め答を求めて、傍にある事を望んで
いる。特に今宵の様に心に悩みが兆した時は。行くべき途に迷いが生じ、躊躇いが心乱し
た時は。
子供が森に、ご神木に近づいてはいけないのは、山で迷えば導きを欲し、ご神木に招か
れてしまう為だ。家や麓から遠ざかってしまう為だ。それは大人も同じ。心を確かに持た
ないと誘われる侭山へ足を踏み出してしまう。だから羽様の周囲に結界が張られたと聞い
た。
『オハシラ様の招きを強く感じるという事は、わたしがその導きを欲する位悩んでいる
…』
オハシラ様も、贄の血の力も不可思議な物。
夜に力を増して、より鮮明に本質を見せる。
体から心に浸透する、月明りに似た蒼い光。
間近に行けば、幹に触れれば、何か応えてくれるかも知れない。否、確実に答があると、
わたしは関知と感応で予見できている。でも。
「全部視えてしまいかねない。……わたしは今、視えてしまう事に、向き合わされる事に、
この身が宿す力の進展に怯えているのに…」
力が不足だったり伸び悩んで、導きを求めるなら良い。視えない事が視通したくて、招
きを受けるなら最良かも。でも今のわたしは、己の抱く力の大きさに怯えている。視える
事を怖れている。進む道に壁があるのではなく、進みすぎる己に、進む事に迷っている。
オハシラ様に頼るのは不適切な以上に、失礼だ…。
「行くべきではない。……行くにしても、己の心を定めてから。この先へ進む気持を確か
に定めてからじゃないと。力の進展その物に怯える今のわたしが、往くべき処じゃない」
誰かに相談できる子供の域を、脱しつつある己を朧に感じた。紡ぐ血の力は既に笑子お
ばあさんを凌ぐ。操りの繊細さは未だ及ばないけど、近々追いつく像は視えた。関知も感
応もおばあさんの見通し切れない範囲に及び。
今迄は、みんなに助言を求めて来たけど。
今後は、未知の地平に独り立ちする事に。
わたしは誰も踏み込んだ事のない領域へ。
怖かったけど。不安で、心細かったけど。
『2人の為にも、柚明には居て貰わないと』
笑子おばあさんに言われた事を想い返す。
『わたしもいつ迄も元気でいられない。気力も体力も下り坂だ。修練にわたしが付き添え
ない時柚明が居ないと、2人はどうなるかね。柚明の血はわたしよりも濃い。白花と桂の
濃さはそれを凌ぐ。修練を始めればその内2人はわたしを越えていく。あなたが先にわた
しを追い越した地点で待ってないと、2人は行くべき途を見失い、惑う事になりかねな
い』
わたしは笑子おばあさんに託されていた。
わたし達のたいせつな、幼子の行く末を。
全然未熟で、及ばなくて、頼りないけど。
『桂と白花を除けば、ここ数百年で一番濃い贄の血は柚明なんだよ。柚明にしか、2人の
先を導く事は叶わない。いずれ2人はあなたも追い越していくだろうけど、年長の経験者
の存在は後々も長く2人の心の支えになる』
真弓さんも、贄の血が歴代で最も薄い正樹さんもそれは担えない。出来るのはわたしだ
け。贄の血の持ち主として、力を操れる先達として、2人の力になれるのはわたしのみだ。
わたしの人生はたいせつな双子の為にある…。
わたしはこの途を退く事も捨てる事も許されない。何より自身に許さない。その事迄確
かに視える。定めとは、変えられるにしてもわたしが変える事を選ばない事で、確定する。
わたしは結局力を手放す事はしない。利香さんの様に普通を幾ら好んでも、わたしの立
場は彼女と異なる。守らせて欲しい人がいる。この身に替えても守りたい、たいせつな人
が。闇に沈んだわたしの心に光を当ててくれた人。
わたしの選択は最初から決まっていた。
幾ら苦くても孤独でも心重く澱んでも。
戻る事も曲げる事も己自身に許せない。
わたしこそ、変えられない定めを歩み往く。
不幸も苦難も痛みも決裂も、視えて退けず。
全て放り出したい想いを内に、呑み込んで。
投げ出し引き籠もりたい心を、奮い立たせ。
己の在り方を変えない心だけは確かだから。
唯今だけは、少し立ち止まる事を許してと。
青白い輝きはこの胸の内を照し突き抜けて。
己に燻る迷いと焦りを音もなく鎮めて行く。
無音の世界に微かに音が混ざり込んで来た。
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溜息を吐きかけて背後に人の気配を感じる。
それは己の所在を隠す様子もなく、部屋の戸に手を掛けてすーっと引いて、声を発して、
「ゆーねぇ、元気」「ゆめいおねえちゃん」
小さな客人が部屋のわたしを覗き込んで。
夕餉の後はお茶の間で暫く幼子も含めお話して過ごすのが羽藤家の常だから、いつもと
違う今日を案じてくれたのか。幼い気配はぽてぽてと、柔らかな足音を部屋に踏み込ませ。
「桂ちゃん、白花ちゃん……少し待って…」
身じろぎして後ろの壁際に、這って退く。
今は拙かった。未だわたしの心も身体も落ち着いてない。蒼い力が荒れて噴き出した侭
鎮まりきってない。触れると痛みか痺れを与えてしまう。今尚自身の内に抑え切れてない。
慌てて見つめた両の手は、月明り以上に蒼く力を滲み出させて。これで抱きつかれたら、
抱き留めたなら。正面間近で、座り込むわたしより未だ少し目線の低い桂ちゃんが見上げ、
「おねえちゃん、サクヤおばちゃんと、ケンカした?」「え……、い、いいえ。違うわ」
幼い2人はわたしの護身の術の修練を余り怖いと受け止めてない。サクヤさんや真弓さ
んが殺気を出す程ではなく、わたしに尚闘志が不足な為か。憎んで対峙する訳でもないし。
痛みに瞬時顔が歪んでも、泣き喚く事はしないし、血の力で治すので傷も後に響かない。
真弓さんもサクヤさんもその辺りは心得ている人だから、翌日に響く痛手は与えてこない。
拳や蹴りがどの位痛いか実感がないと、洗練されてきた攻防は幼子が見ても分らないかも。
でも夕餉の席の深刻さは感じ取られた様で。
2人はわたしを案じる余り、揃ってここ迄。
「ちょ、ちょっと待って……桂ちゃんっ…」
手を伸ばしてくる。わたしに抱き支えられ触れられる事を求め柔らかな身を進めて来る。
「ゆーねぇ、サクヤおばちゃに、いっぱい謝っていた。泣きそうな顔で、謝っていた…」
白花ちゃんはこの歳で、わたしが落ち込んでいると知って、わたしを慰めてくれようと。
小さく柔らかな両手を前に、身を進め。部屋は狭く、躱したり逃げたり出来る間合はない。
「ちょっと、待って。2人とも、お願い…」
力を、抑えないと。2人を灼く訳には行かない。痺れも痛みも、与える訳には行かない。
自身の力なのだ。何が何でも抑え込まないと。
月明りに照されて、服も肌も青白く光っている。贄の力は未だ漏れ続けていた。癒しに
は使えない、制御出来ない放散の侭光を帯び。
2人を涙させる事は許さない。絶対抑え込まないと。幼子は手を伸ばせば届く処にいた。
傍に歩み寄っていた。背筋を寒気が走り抜け、心臓が凍る。首筋にサクヤさんの犬歯が突
き立った時より、この身は強ばり息が止まった。
『お願い、わたしの力。わたしの意志に従って。わたしのたいせつな人を傷つけないで』
気分は居眠り運転から醒めた瞬間だった。
全力で己の身に宿る全ての力を封じ込め。
全くゼロに。息を止め血流を止める位の。
双子が部屋に入ってまだ一分も経ってない。
ぴた。ぺた。4つの掌がこの腕と足に触れ。
わたし達は無事に身を、触れ合わせていた。
2人が肌の感触に安心して頬を緩めた瞬間、わたしも2人に害が及ばなかった事にほっ
と胸をなで下ろし。尚怖々と、己の脈を止める位の気合で力を封じ込めつつ、2人をそう
っと抱き留めて。本当にすぐ解ける位の抱擁を。
『助かった……抑えられた。溢れ出る蒼を』
自分自身を抑えるのは本当は当然だけど。
この程度は為せて誇れる事でもないけど。
2人を傷つけずに済んで本当に良かった。
傷つける力を抑えられて本当に良かった。
「桂ちゃん、白花ちゃん。2人とも好き…」
これはわたしの力ではない。双子のお陰だ。桂ちゃんと白花ちゃんが、わたしに己を司
るきっかけを与えてくれた。そうでなければわたしは多分夜中溢れ出る蒼を持て余してい
た。制御できない侭力が溢れ終るのを待つだけで。わたしが2人に教えられ守られ救われ
ていた。
「心から、大好き。わたしのたいせつな人」
指先一本で全体重を支える様な集中は長続きできないので、力の制御具合を見定めつつ
徐々に緩める。嬉しさで己を失い、漸く叶った制御を無制限に解き放つ愚は犯さない様に。
やや緊張を帯びた抱擁と、わたしの湿った声に2人は少し怪訝そうだけど。素直に抱擁
を受け、左右からわたしに身を預けてくれて。
「サクヤおばさんはわたしのたいせつな人よ。
わたしが間違えて、痛い思いをさせたの」
仲違いした訳ではないのよ。サクヤおばさんは何も悪くないわ。わたしが、悪かったの。
「謝って許して貰うから。わたしが悪い子でした、ごめんなさいと謝るから。桂ちゃんと
白花ちゃんは、何も心配しなくて良いのよ」
幼子を心配させていた。わたしが不甲斐ない為に、わたしが情けない為に、わたしが頼
りない為に。その2人に支えられ、助けられ。その苦味に慚愧は尽きないけど。わたしは
今後もこの在り方を生き方を、決して変えない。
返しきれない温かな想いを、少しでもこの生涯で還し行く為に。わたしは決してこの途
を進み行く事を投げ出せない。捨てられない。誰のどんな非難や拒絶も、この2人を守る
幸せには替えられない。わたしの生命はその最期迄、温かく柔らかでたいせつな2人の為
に。
「本当に有り難う、白花ちゃん、桂ちゃん」
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朝五時に起きて厨房に行くと、サクヤさんはわたしを待っていた。笑子おばあさんと真
弓さんが2人で朝の用意を進めてくれる脇で。
「お早う、柚明……」「お早うございます」
昨日は悪かったね、柚明。
サクヤさんはわたしを視界の真ん中に収め、
「昨夜もあんたに、向き合ってやれなくてさ。あたしが調子に乗りすぎて招いた結果なの
に、すっかり落ち込んだあんたに、まともに向き合うのが怖くてさ。夜這いしようとも想
ったけど、驚かせてもっと怯えさせても……ね」
その両腕が伸びてきて、わたしの肩を軽く抑える。怖がってないと示す為に、わたしの
身体より心を捉まえに来てくれて。嬉しい…。
サクヤさんはわたしを心配してくれていた。あれだけ酷い目に遭わされて、尚わたしを
気遣ってくれる。本当に、美しくて強く優しい人。間違っても傷つけたくないたいせつな
人。
その人を傷つけた己と過去から目を背けず、たいせつな人を確かに正視して、頭を下げ
て、
「こちらこそ、申し訳ありませんでした…」
何度謝っても足りないけど、もう一度面と向かって謝罪を述べて、自身に決着を付ける。
「治す力を碌に使えない侭、人を傷つける技で、傷つけちゃいけない人に害を及ぼし…」
まず治せる様にならなきゃと。まず癒しに力を使えなきゃと。昨夜は深く反省しました。
「完治していなければ、わたしが治そうと」
かなり酷い様子だったから、笑子おばあさんが一晩付き添っても治りそうに見えなかっ
たのに。今朝こうして向き合うと、手を覆う包帯はその侭だけど、動きにもぎこちなさは
なく。ほぼ完治している様子が、視て取れた。
真弓さん達の言う通り、サクヤさんの回復力は尋常ではないらしい。わたしが治す余地
がないのは残念だけど、痛手が残ってないのは良かった。傷つけたわたしが治す事で取り
返したかったけど。桂ちゃんと白花ちゃんのお陰で漸く制御の術を憶えたわたしの癒しで。
「そう言えば、その静かに満ち足りた様子」
昨夜の感じでは、溢れ出る贄の血の力は一度出尽くす迄、引きそうに見えなかったのに。
出し尽くす事なく操って己の内に収めたと?
「あんたの今の力の扱い、一気に笑子さんに近い域に達して……たった一晩で、柚明?」
「漸くこの程度。まだまだです。でも……」
桂ちゃんと白花ちゃんに助けて貰いました。
それで漸く、自身の力も心も、抑える術を。
「次からはどんな時でもどんな場でも、即座にサクヤさんのケガを治せます。治します」
サクヤさんの両腕にこの手を添えて、
「いつでも、わたしに身も心も預けて」
見上げた瞳はわたしを正面に捉えて、
「……分ったよ。あたしの可愛い柚明」
長い腕がわたしの背中に巻き付いて。
「何度でもあたしを灼いてくれて良い。その度にあんたに癒して貰えるなら、極楽だよ」
旭日に照される迄確かな抱擁は終る事なく。
触れて視える事も悟れる事ももう怖れない。
視えて悟れたとサクヤさんに知られる事も。
わたしの抱く想いは決して揺らがないから。
夜が深く長い程、朝は鮮やかに眩しい様に。
残る悩みも深く長い程突き抜ければきっと。
わたしはいつも届かせられる限りの想いを。
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「羽藤さん、こっち」「うん」
利香さんに導かれる侭廊下を曲がり、6人部屋に入れて頂き、窓際のベッドに歩み寄る。
時刻は午後四時過ぎか。放課後の手芸部の活動も帰宅後の修練も、予め休みを頂いてある。
「お母さん、元気?」「お邪魔します……」
朝松絹枝さん。利香さんのお母様が、病院のベッドに身を横たえて。利香さんが息を呑
むのは、前より顔色が青白い為で。病状が良くない様子は一目で分った。わたしは利香さ
んの暗い表情を悟らせない様に、声を挟んで、
「お久しぶりです、羽藤柚明です」
「柚明さん、ね……。お久しぶり」
瞬間、絹枝さんの瞳がギラリと光った様な。
本当に瞬間だけど心の針が振り切れた様な。
利香さんの家は初夏の少し前、霊が視えて困るとの相談を受けた頃に、2回訪れていた。
ゆっくり利香さんや家族のお話を伺いたいと。彼女の生活環境も見て肌身に感じたかった
し、そこに漂うモノが余り濃密なら祓う事も考え。なのでわたしと絹枝さんは、初対面で
はない。
利香さんは廃屋探検等で無自覚な侭、結構霊を持ち帰っていた。害が及ぶ程でないけど、
感覚が過敏になった利香さんが視て、心乱される怖れもある。お話を伺う傍ら、わたしは
雑多なそれらを掃討し。わたしの力から見れば幾らの消耗でもないし、反撃もあり得ない
程弱小なモノだし。鈍い人なら日常生活に支障ないので、気付かれもせず終るモノだけど。
わたしは特に話さなかったけど、絹枝さんは勘づいた様だ。青春時代に一時視えたけど、
今は視えないと利香さんは話していた。でも、感覚が全て閉ざされたとは限らない。勘の
良さ等の形で一部でも残る事はある。視えて困る旨を相談された羽藤のわたしが、その対
処の為に訪れたと。それは特に問題でも何でもない。わたしはその事も織り込み済で関っ
た。
視えない状態が安定した利香さんが、わたしに距離を置いた為、夏以降伺ってないけど。
「級友の母の病を見舞うなんてあなただけ」
あなたには利香は今尚、友達以上なのね。
有り難う。絹枝さんはやせ細った両の腕で、わたしの両手を握ってくれて、やや苦しげ
に、
「利香も、本当に大切にすべき人を、見極められる様になってくれれば、良いのだけど」
「普通友達の母親の病とか誰も見舞わないよ。それにお母さん、わたしの連れてくる友達
の殆どに良い顔しないんだもの。来ようにも」
絹枝さんは利香さんが友達と夜『勉強や肝試し』に行く事に眉を潜めていた。それに誘
ったり付き合う友人への評価も、減点気味で。夜歩きは良くないと諫めたわたしと似てい
る。利香さんは最近迄その苦言が煩わしく、わたしも似た扱いで。絹枝さんは逆に、そん
なわたしに好意的で、何故わたしから離れたのと。
そして利香さんが距離を置いても、決してわたしは心離れてないと、今尚友達以上の間
柄だとその目で確認できて、やや嬉しそうで。わたしはその繊手を両手に握って右横に跪
き、
「わたしは朝松さんに、たいせつに想って貰えています。身に余る程の想いを頂いて…」
わたしこそ、朝松さんの優しさに何度も甘えさせて頂き、とても有り難く想っています。
お母様にも大変お世話になっていましたので。
「入院されたと聞いて、お見舞に来なければと想っていました。遅くなって済みません」
「お母様って言ってくれるのね。良い響き」
利香さんはその単語に目を見開いたけど。
絹枝さんは幸せそうに瞼を閉じて又開き、
「あなたの様な姉か妹が利香にもいれば…」
利香さんは一人っ子で兄弟姉妹はいない。
触れ合う手で感じ取れるのは進行中の病。
瞼の裏に視えてくるのは確実な十数日後。
今はこの様に言葉交わせても、今は手を繋ぎ想いを伝え合えても、もう少し後に全ては。
「イヤよ、わたし。お母さんは知らないと想うけど、羽藤さんはね、視える以外にも…」