第1話 最後の運動会(後)
自分がなくなってしまう恐れ。知った者全てと切り離される怖れ。涙を溜めて身を震わ
せる詩織さんに、わたしは覆い被さって強く抱き留めて、その震えを無理矢理封じ込めて、
「死なないわ! ……詩織さんは死なない」
左頬にわたしの左頬を合わせて、タオルケットの上から柔らかな身体を抑え込んで、力
というより温もりで心の震えを止めて、その耳に、わたしの唇をくっつく程近づけて声を、
「詩織さんは生きる為に入院するの。病を治す為にここを離れるの。わたし達と一時離れ
離れになるのは、元気になって戻ってくる為。用事があって離れ離れになっても、事情が
あって別れ別れになっても、必ず逢えるから」
詩織さんの中にわたしを置いて。わたしも詩織さんを確かに抱くから。詩織さんが今日
家に帰ってもわたしを想い返してくれる様に、わたしが明日逢う迄詩織さんに逢えなくて
も寂しくない様に、心はずっと繋っているから。
死神に攫われない様に、わたしの身体で詩織さんをベッドに押しつけ固定する。詩織さ
んは今心の底から確かな手応えを欲していた。定かではない先行きに、足元から崩された
人生に、縋りつける堅くて太い物を求めていた。わたしの力不足は百も承知で、怯えと震
えに竦む肩を胸を、今は抱き留める他に術もなく。
叶う限り強く心を保たないと。詩織さんを揺さぶる不安を怖れを、わたしが増幅させて
は意味がない。己の無力感も罪悪感も迷いも躊躇いも全部一時押しのけて、心を強く保ち、
詩織さんは二度と逢えなくなるんじゃない。
病気を治しに、いっとき入院するだけなの。
治ればこっちに戻ってくる事だって出来る。
「又逢う事は叶う。退院も出来る。死にはしない。病気をやっつけて、羽様に戻ってきて。
詩織さんは病と闘いに行くの。強いから、詩織さんはわたしよりもずっとずっと強いから、
必ず病を治して戻ってきてくれる。待っているから。わたし、ずっと待っているから!」
「ゆめいさん。わたし、そんなに強くは…」
続けようとした詩織さんの弱気を、わたしは珍しく全部は聞かず、自身の言葉で遮って、
「あなたが戦い続ける限り全ては終らない」
それは真弓さんから教わった、言葉と言うよりは考え方。発想の根っこだった。諦めな
い限り、挑み続ける限り、当事者の片方である己が手放さない限り、望みへの途は尚残っ
ていると。諦めた瞬間に全ては終る。手放した瞬間に望みは途絶える。失う事を許せない
なら、歯を食いしばってでも挑み続けないと。
擦りつけた頬を離し、詩織さんの双眸を間近に見下ろす。黒目には涙が溢れていたけど、
わたしの言葉の続きを強く望む意志が窺えた。
「勝てなくても、負けても負けても、絶対敵わなくても、足元に及ばなくても、詩織さん
が戦い続ける限り全ては終らない。絶対退けない時は、心から諦められない時は、真に戦
う他に術がない時は、全身全霊挑まないと」
わたしは真弓さんに挑み続けた。大人と子供の力の差以上に、常人と鍛錬を経た鬼切部
の隔りは大きすぎ、全く相手になれないけど、未だに一瞬で気絶させられるから技量を上
げる為に手加減して貰う程だけど。それでもわたしも挑み続けて少しは進めた。未だに真
弓さんの足元にも及ばないけど、鬼から桂ちゃんと白花ちゃんを守る時間稼ぎは出来る位
に。現状は詩織さんの病を治す事も出来ないけど。未だに詩織さんには何一つ役に立てな
いけど。
「詩織さんは、この侭生命を病に奪われて良いの? わたしとみんなと引き離された侭で、
遠くの病院で力尽きる時を待つだけで良い? あなたの残りの人生全部、諦めきれる?」
わたしは、諦めないで欲しい。
黒目に微かに兆す意志へ更に、
「もう一度逢いたいから。もう一度、元気になった詩織さんと、逢ってお話ししたいから。
詩織さんの柔らかな腕に触りたいから。優しい声を聞きたいから。泣き虫な詩織さんの瞳
の美しい滴を見たいから。失いたくないの」
わたしは最期の最期迄詩織さんを諦めない。
詩織さんも最期の最期迄自身を諦めないで。
わたしは、頬を伝う涙を拭い取って撫で、
「あなたが諦めない限り望みは残っている」
あなたにその気がある限り、あなたに生きる闘志が残る限り、最期の最期迄生命は続く。
「心まで死なないで。平田詩織の想いを死なせてしまわないで。あなたはまだ生きている。
温かな涙を流して、怯えや怖れに声を上げて生きている。諦めるのは勿体ない。負けても
負けても終りじゃない。負け続けられるのは戦っているから。戦い続けられているから」
戦わない者は負ける事も出来ない。勝つ事より戦う気概が重要と真弓さんが言っていた。
作為で勝利を与えるのではなく、負けても負けても怯まない気持を与える事が重要だった。
勝算がなくても挑む心を持たせるべき。ああ、それはあの鬼に対した時わたしも心に抱い
た。
「諦めないで。戦う心を手放さないで。それを抱く限り、詩織さんはわたしと確かに繋っ
ている。わたしの特別にたいせつな人だから。病に打ち勝って、また羽様に帰ってき
て!」
どの競技でも誰にも一度も勝てない事など、詩織さんには大した問題ではなかった。幸
運でも油断でも作為でも、真相を知っても知らなくても、彼女に運動会での勝利など意味
が薄い。彼女に本当に必要なのは、勝ち目がなくても敗色濃厚でも、玉砕覚悟でも戦う気
概だった。負けても尚立ち上がれる気力だった。詩織さんはそれより遙かに苦しく長く、
先の見えない戦いを、みんなや羽様から離れた処で迎えるのだ。本当にわたしは愚か者だ
った。目に見えて分る筈の事をこうなる迄わたしは。
それをわたしは一度間近に通り抜けたから。
それをわたしは詩織さんに伝えられるから。
それなら役立たずのわたしでも多少は力に。
詩織さんがわたしの背に回す両腕は、心細さを埋めるだけの所作ではない。身の震えを
鎮めに温もりを求めるだけではない。それはわたしの想いへの応え、わたしの檄への答だ。
戻らないわたしを心配した誰かが見に来た気配は感じたけど、わたしは詩織さんを抱き
留める、と言うより詩織さんが回した腕に応える方を優先し、知らぬふりを通した。声を
掛けられたら応えたけど、無言で去ったから。
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体育の授業を丸ごと欠席し、先生に叱られる事は覚悟で顔を出した六時間目だったけど、
金子先生はわたしに出ても大丈夫かと問うた。
「羽藤も熱射病で体調悪いんだろう。まだ保健室で平田と一緒に休んでいて良いんだぞ」
詩織さんはともかく、わたしの様子も先生が見に来なかったのはそういう事情だったと。
気遣いに感謝と言うべきか、借りを作ったと言うべきか。折角の好意なので、保健室に戻
って休みつつ傍で詩織さんの寝姿を見守った。
詩織さんは放課後近く迄目を醒まさなかったので、寝顔を横に話すでもなく癒しを流す
でもなく、その左手に乗せたわたしの右手から唯温もりを受けるだけの時間だったけど…。
「ゆめいさんは詩織さんを送って行ってよ」
掃除当番、代ってあげるよ、お2人さん。
放課後、教室に戻ったわたしと詩織さんに、和泉さんがそう言ってくれた。今から校門
前のバス停に歩いていけば、下校時に通り掛る早いバスに乗り込む事は出来た。少し迷う
まだ顔色の青い詩織さんに、鴨川さんの勧めが、
「平田さんは体調が良くないんだ。今日は早く帰って休んだ方が良い。……羽藤さんも」
詩織さんの視線がわたしの答を窺っていた。わたしは本当は体調悪くなかったけど、わ
たしが残ると言ったら、残ると言い張る気配を感じた。1人帰るのはイヤだと、わたしと
居られる時間を少しでもと言う心の声が視えた。
詩織さんにこれ以上無理させない為には、
「ごめんなさい……。ありがとう、みんな」
その好意に、今日は甘えさせて貰う。誰かを支える為には、支える人を支える人も必要
になる。わたしもこうして助けて貰えるから、詩織さんを気遣える。その事を噛み締めつ
つ、みんなの思いに感謝しつつ、2人で校門へと。
詩織さんの顔色は、幾らか良くなったけど、まだ完全に復してない。尚少し気掛りだっ
たので、今日は詩織さんとバスに乗る。校門を出るとバスも正に出る処だった。運転手さ
んに手を振って待って貰い、駆け戻って遅れて歩み来る詩織さんを迎え、他のお客さんを
待たせ、がら空きなのにわざわざ肩を並べ座り。
「乗り損ねる処だったね」「うん」
田舎のバスは数時間に1本とか、1日何便とか言う間隔で運行する。1便逃すと、次は
夕方近く迄やって来ない。わたしは最悪歩けば良いけど、身体が弱く家迄十五キロもある
詩織さんはそうも行かない。わたしが少し荒くなった息に肩を弾ませるのに、間近の詩織
さんは乗り込む前よりもむしろ顔色が青白く、
『余り良くないのかな……』
もう少し保健室で休ませ、2時間後のバスに乗せた方が良かっただろうか。自宅で休ん
だ方が楽になるし落ち着くと思ったのだけど。羽様を過ぎても、わたしは先に降りれなく
なった。具合の悪い詩織さんを残して行けない。
少し後に、わたしはそれが乗り物酔いだと、詩織さんはバスが常日頃苦手だと知らされ
る。詩織さんが登校しても最初の授業から出られなかったり、酷い時はその侭帰ってしま
って、何の為に来たのだと揶揄する声もあったけど。
この距離を徒歩で来るのは逆に大変だから、バスに頼らざるを得ないけど、そのバスが
苦手とはわたしも全く気付けなかった。誰もそれを問う事もせず、詩織さんを誤解してい
た。
「良いのかい、羽藤の屋敷のお嬢ちゃん…」
田舎では運転手さんも乗客を1人1人分る。乗客も近所のおじさん感覚で話しかけられ
る。
「詩織さんを置いては、行けないから……」
一緒に乗った時から、半ば腹は括っていた。詩織さんの具合の如何に関らず家迄送ろう
と。田舎では家と家の間も数キロ隔たり、友達同士でも互いの家に遊びに行く事は滅多に
ない。実はわたしも詩織さんの家を訪れた事はまだなかった。当然詩織さんが羽様を訪れ
た事も。
わたしのたいせつな人を育んだ家族と生活の場に、逢ってご挨拶したい。佐織さんには、
詩織さんのお母さんには逢えたけど。学校と違う、家で過ごす詩織さんの姿も見たかった。
気分は一人娘の実家を訪れる婚約者の様な…。
このバスが隣村迄行った後で、経観塚に反転する便を掴まえれば羽様に帰れる。まだ後
にも2便、経観塚から出るバスはある。都合3便、羽様へ戻れる経観塚行きのバスがある。
「気をつけるんだよ」「はい」
肩を貸し、漸くバスのステップを降りた詩織さんは、走り去るバスの黒煙に咳き込み力
なく屈み込んだ。わたしは正面からその身を抱き支え、苦しい息と玉の汗を受け。その吐
瀉物も胸元からスカート迄、ほぼ全身に受け。
日は尚燦々と輝き、風は微かで湿度は高く、緑は多くても涼やかとは言い難い情景だっ
た。
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「……ゆ、ゆめいさん。ごめんなさいっ…」
青い顔の侭、額に滲む汗も引かない中、詩織さんは己を必死に抑え、顔を俯かせ。嘔吐
が掛らない様に、何よりわたしを正視できないと。身体は吐き気の熱に魘されるけど、心
は凍り付いていた。まだ吐き気は引いてない。吐き終えてない。故にそれを掛けないよう
にとの気持は分るけど、それ以上に強い怯えが。
「ごめんなさい。わたし、うぶぅ、わぅ…」
げふっ、ごふっ、ごほっ。
その顔を逸らせ俯き、道端に昼ご飯を吐く。サクヤさんの赤兎に酔った事があるわたし
は、それを見て漸く車酔いではないかと勘づいた。でも詩織さんのそれは単なる車酔いで
はない。
元々具合が悪い上に、元々身体が弱い上に重ね合わせての症状だ。屈み込むと言うより、
倒れ込むに近い感じで、吐くにも息が続かず吐ききれない。喉が詰まって息が出来なく…。
「ゆ、ゆめ……い?」「こっちを向いて!」
吐けずに苦悶する詩織さんの首を持ち上げ、唇を開かせ無理に奪う。口と喉にある詰ま
った物を吸い上げて横にぷっと吐き捨てる。自力で吐けない幼児は喉を詰まらせると生命
に関るから、吸い上げて喉に空気を通す。笑子おばあさんに教えて貰って、桂ちゃんにも
白花ちゃんにも、わたしは何度かこれを為した。唯目の前の為すべき事を。口づけとも言
えたけど、流石に雰囲気は感じない。キスの味はと問われて、胃液の味と応えるのも味気
ない。
詩織さんはわたしに吐いた物を掛けたくない余り、無理に止めようとしていた。喉迄出
掛っていた物を呑み込もうとしていた。その方がむしろ危なかった。逆流して間違った処
にでも入り込んだら、大変な事になっていた。
二度三度、口づけて喉からそれを吸い上げる。横を向いて吐き出し、更に数度口付ける。
詩織さんの意志は問わない。無我夢中だった。血の力は使えない。わたしに出来るのは普
通の子供に出来る事だけだ。その苦しみも疲れも癒せない。だからこの身で、出来る限り
を。
「ふぅう……」「はぁ、はぁ」
二人して、炎天下、酷い姿勢でへたり込む。
暫くは息が荒くて声を出せなかった。互いの息遣いだけが、草を薙ぐ風の音と共に聞え。
「ごめんなさい、詩織さん……」
先に喋れる様になったのは、わたしだった。
地に身を横たえた詩織さんの、背に触れて、
「あなたの最初の唇、わたし奪っちゃった」
失礼にも、わたしは自身が詩織さんの最初だと決めて掛っていた。詩織さんにもそう言
う人がいて、既に口づけ位経験済みの可能性も充分あったのに。今時の女子が皆わたしの
様に消極的とは限らないのに。その前提を何段か飛び越えて話しかけてしまったわたしに、
「わたし、わたしっ……!」
詩織さんが涙目になって抱きつこうとする。その細い両肩を正面から抑えて、押し止め
て、
「今抱きついたら、詩織さんも汚れちゃう」
詩織さんは乾いた道端に横たわっただけだ。埃を払えば、取りあえず汚れは拭える。わ
たしは詩織さんの吐いた物を正面から受けて濡れているから、今抱き留めるのは拙かった
…。
「大丈夫。怪我した訳じゃないもの」
わたしは桂ちゃんや白花ちゃんに付き合って泥まみれもヨダレも慣れている。少し前に
は鬼に襲われて血塗れにもなった。経験のお陰で、平静に対応できていると思う。汚れた
衣服と身体は、何とか綺麗にしたい処だけど。
「詩織さんは悪くない。病の人に、具合の悪い人に付き添うなら、この位織り込み済みよ。
これだけ近しいのに今迄乗り物酔いだと知らなかったのは、わたしの瑕疵。知っていれば、
後ろから背中をさすっていたと思うけど…」
何より詩織さんが危うかった。わたしの汚れは洗えば取れる。傷も疲れも自身で癒せる。
己の心配の必要は薄い。限界を考えず思い切り人に尽くせる。無理を利かせられる。それ
がわたしの唯一の長所かも知れない。だから、
「今更この程度の事で、あなたを嫌ったりはしない。詩織さんも分っている筈。わたしの
胸で泣きたいなら、後で幾らでも貸すから」
その想いが視えているから、今更隠さず。
詩織さんの家に案内して。そして代りに、
「お風呂と詩織さんの服を貸して欲しいの」
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詩織さんの両親は兼業農家の共働きで、金曜日の今日も遅く迄双方が不在らしい。招か
れる侭に、やや傾いだ民家に足を踏み入れる。引っ越しが近い為なのか、あちこちに段ボ
ールに詰まった荷物が散見された。農家につきものの飼い猫数匹が、見慣れぬわたしを興
味なさそうに眺めつつ庭先であくびをしていた。
「ごめんなさい。散らかっているの。ゆめいさんが今日来るとは、思ってなかったから」
詩織さんの気分は家庭訪問を迎える感じか。
ぬいぐるみがいっぱい居る女の子の部屋は、そう言う表現も間違いではないけど。細々
と物はあれど、雑然とした感はないその部屋で、わたしは詩織さんに服を借り、周りを汚
さない様に慎重に服を脱いだ。詩織さんも埃まみれなので、一緒に着替えを持ってお風呂
場へ。
気分は水泳授業の高揚感だ。詩織さんの顔色は随分良くなっていた。自宅に着いた事と
吐いて落ち着けた事がプラスに働いたらしい。お風呂場は大きくなかったけど、詩織さん
は一緒にシャワーを浴びる事を前提に手を引っ張るので、わたしは素直に己の気持に従っ
た。2人で汚れたなら2人で綺麗になるのも良い。炎天下を歩み来たので、冷水が心地良
かった。
正面から右手をわたしの心臓に触れさせ、
「汚しちゃったわたしに、身体を洗わせて」
「詩織さんの身体も、洗わせてくれるなら」
友達関係はお互い様だ。一方通行はない。
恥じらいつつ互いを流し合い、正面から身をくっつけ降らせた水を一緒に頭から浴びる。
田舎の良い処は、こういう嬌声を白昼堂々と上げても近所が遠く、誰にも聞かれない事か。
身も心もすっきりした脱衣所で、
「わたしの服、小さくない……?」
「大丈夫、ちょうど良い位だけど」
真弓さんに連日鍛えられ運動過剰気味のわたしはまだ、ダイエットに本格的に取り組ん
だ事がない。一つ年下の詩織さんの服が身体に合う事は、喜ぶべき事だろうか。詩織さん
の視線は、わたしが初めて意識して眺めた己のウエストより、少し上に向いていたけど…。
「洗濯機、借りて良い? 服を洗うのに」
と言うか、詩織さんの服も洗っちゃう?
洗剤や柔軟剤のありかをチェックしながら問いかけるわたしに、詩織さんはやや驚いて、
「ゆめいさん、洗濯も自分でするの……?」
羽藤の屋敷を噂に聞き、わたしは洗濯機に触らない生活を送っていると思っていた様だ。
わたしは逆に、詩織さんは家庭的で洗濯も炊事もこなしていると、勝手に思い描いていた。
詩織さんは身体の弱さを口実に、今迄余り家の仕事を手伝ってなかった様だ。人を知る
という事は、互いの実態を知るという以上に、己の実像に向き合わされる事でもあるらし
い。振り返れば、いとこの双子が生れる迄わたしも塞ぎ込んでいて家の手伝いをしてなか
った。
「うん。桂ちゃんと白花ちゃん、いとこのおむつも洗う事もあるけど。笑子おばあさんや
真弓叔母さんに、洗って貰う日もあるし…」
瞳の奥から、星の輝く音が生じた気がした。
詩織さんの少し萎縮した様な瞳を覗き込み、
「一緒に、やってみようか。簡単だよ」
基本的に、洗濯機にお任せなんだし。
詩織さんは渾身の頷きを返してきた。
洗濯機が働く間、人間達は冷蔵庫の働きで冷されたジュースを飲んで、優雅なひととき
を過ごす。洗濯物を室内に干して、作業終り。経観塚は晴天でも時々通り雨が豪雨になる
為、洗濯物を外に干すのには注意が要る。初心者は室内に干すのが『無難な洗濯』と言う
物だ。
一通り終ると詩織さんに疲れの色が視えた。本人は、気持が高揚していて気付かないけ
ど、やり過ぎると後の反動が怖い。この感性は幼児と暮して磨かれた物か、贄の血の修練
の副次効果か。詩織さんは元々強靱な方ではない。
「わたしはまだ帰らない。お話できるから」
わたしが休む様に促して、ベッドに身を横たえて漸く、詩織さんも疲れを自覚した様だ。
普段も学校から帰ると寝込むという。わたしがベッドの傍で詩織さんの左手を握ると、詩
織さんは日向ぼっこする猫の様に瞳を細めた。日は傾き始めていたけど、まだ帰れはしな
い。この状態の詩織さんを、1人にして去れない。
「いつも、帰ったら暫くは1人なの?」
羽様の屋敷は常にみんながいた。笑子おばあさんも専業主婦の真弓さんも、桂ちゃんも
白花ちゃんも。著述家で郷土史研究家の正樹さんも、仕事はお屋敷での執筆が多い。帰れ
ばみんなが待っている状況が、実は恵まれた物なのだと自身を想い返しつつ問うわたしに、
西日が顔を染める中で、詩織さんはぽつりと、
「お父さんもお母さんも、帰りが遅いのはわたしの所為なの。わたしの病院代の為に…」
詩織さんは身体が弱く病院通いが多かった。経観塚の病院ではその真因が分らず、今迄
虚弱体質とか自家中毒とか言われ、対症療法的に数日の入院や点滴・飲薬を与えられて来
た。
頻繁な病院通いは家計を圧迫し、農家を営みつつ詩織さんの両親は週2、3回、隣村へ
働きに出ていた。幸か不幸かそのパート先で、似た様な症例を持つ子供を抱えた職場の人
に話を聞けて名医を紹介され、意を決して訪れた処、彼女の血筋に宿る病が判明したと言
う。それからは遠くの大病院への入院と引っ越しの為に、両親は一層稼がなければならな
くて。
田畑は末永く耕し続けてこそ生計を支える。売り払っても幾らの値にもならない。詩織
さんの一家はもう、ここに戻れはしないだろう。全てを手放して病院のある町に移り住む
のだ。詩織さんの為に、詩織さんに最期迄添う為に。
「わたしの所為なの。わたしの病の所為だから寂しいとか心細いとか、絶対言えないの」
熱を出して寝込んでも、車酔いで吐いても、嫌な事や泣く事があっても学校を早退して
も。弱音は言わないの。特に何も、ないよって…。
「こうして静かに帰りを待つの。働き先の電話番号は知っているけど、電話しても心配さ
せるだけで、帰ってきてもそれでわたしの具合は良くならないし、仕事の邪魔になるし」
静かに寝て待つ事が最善だった。吐いても熱が出て倒れても、詩織さんは助けを呼ばず、
己の内で堪え忍んでいた。これ以上家族に負担掛けたくないと、足を引っ張りたくないと。
「じゃ、ああやって詩織さんが苦しんでいる事を、詩織さんのお父さんやお母さんは?」
「半分気付いていると想う。お父さんやお母さんがいる日も、体調は悪かったりしたから。
いつ吐いて熱が出て倒れたかは分らなくても、週に何度かそうなる事は、分っているか
ら」
だからと言って農作業やパートに出なかったら、診察代もお薬代も出ないもの。生活で
きないもの。お父さんもお母さんも、わたしの為に頑張ってくれている。全部は望めない。
「寂しいとか心細いとか、お願いだから傍にいてとか、絶対言わないの。言っちゃいけな
いの。わたしの為に無理しているのに、負担を掛けているのに、帰ってきてとか行かない
でとか言えないの。望んじゃいけないの…」
心中を吐き出せる相手を目の前にして、詩織さんの喉が肩が震えていた。声が熱を帯び、
額に涙が堪っていた。今迄溜めに溜めてきた想いが、吐き出せそうになってうねっていた。
その想いが分るから。そうやって言い聞かせ我慢しないと崩れそうな程、心細く寂しい
心の内が視えるから。抑えれば抑える程、抑えなければどうにもならない程大きな想いが。
それが埋められて今、漸く解き放たれたから。
わたしは胸の内にその涙を抱き留める。白花ちゃんや桂ちゃんにする様に、温もりで心
を受け止める。クラスメートだけど、一つ年下だし。何より詩織さんが大好きだったから。
「詩織さん……。とても強くて、優しい子」
わたしには何もしてあげる事が出来ない。
血の力も修練の成果も何一つ生かせない。
出来るのは声を掛け抱き留める事だけだ。
確かな成果を何も詩織さんに及ぼせない。
だからせめてこの様に想いを交わし合う。
少しでも詩織さんの力になるように願い。
詩織さんの想いが弾けだのは、受け止められると感じた故だ。逃げず嫌わず流しもせず、
心と身体で全て抱き留められると分った故だ。
「寂しかった! 心細かった! みんなわたしが吐くのを見て遠ざかる。身体が弱いから
遊んでくれない。すぐ疲れるから長話出来ないと避けられる。ずっと友達も出来なかった。
でも心配させたくなかったから、寝込んでも熱が出ても、心が沈んでも絶対言えなくて」
誰にもわたしを見せられなかった。明かせなかった。いつも1人だった。学校でも家で
もわたし、こうして誰かに泣きつけなかった。
今漸く、わたしに顔を擦りつけて泣き喚き、
「わたしの我が侭を抱き留めてくれた。誰に打ち明けても答の期待できない嘆きに応えて
くれた。わたしの心の中迄踏み込んで、必死に答を探してくれた。わたしの全部を受け止
めてくれた。どうにもならないわたしを…」
もうすぐ、いなくなっちゃうわたしを。
「話しかけて、励まして、力づけてくれた。手を握って、瞳を見つめてくれた。わたしの
為にみんなに逆らって、わたしの為にみんなに謝って、わたしをみんなの輪の中へと招い
てくれた。いつも、見守ってくれていたよね。昨日今日じゃなく、もっと前からずっと
…」
身体が弱くて、五年生で唯1人の女の子で、人と接点を作るのが下手で。でも可愛い後
輩で級友。わたしが羽様小学校で最初に名前を覚えた、わたしのたいせつな友達、詩織さ
ん。
「わたし、ゆめいさんがいるから、学校に来られた。熱を抑えようと思えた。少し位身体
が重くても、出てこようと思える様になった。ゆめいさんがいなかったら全部諦めてい
た」
吐くのを見て逃げないどころか、掛けられて嫌わないどころか、わたしの為に吸い出し
て迄くれた。わたしの一番汚い所迄。どこ迄も受け止めてくれる。踏み込んでくれる。
「だからわたし生きる為に戦える。ゆめいさんが求めてくれるから、諦めないでと言って
くれたから、わたし病に立ち向かおうと想う。元気になって、ゆめいさんに逢いに来る
っ」
わたしの人生で一番たいせつな人に必ず。
「だからその時迄わたしを、待っていて!」
渾身の求めにわたしは強い抱擁で応える。
泣き疲れた詩織さんが眠りに落ちたのはその少し後だった。抱き留め続けるのは詩織さ
んに負担になるので身体は離すけど、その左手はわたしの右手をぎゅっと握って離さずに。
わたしの喪失を恐れる如く。子が親を見失う事に怯える如く。その必死さが愛おしかった。
『行かないで……ゆめいさん』
声にならない声が瞳の奥から心に聞えた。
「大丈夫。詩織さんが寝ている間に、いなくなったりはしないから」
もっと楽にしてと、柔らかく握り返し、
「なんなら、ずっと手を握っている?」
桂ちゃんと白花ちゃんにもしている様に。
安心してと。心も身体も、力を抜いてと。
詩織さんは、わたしの瞳に視線を向けて、
「……うん」
しっかりと、手を握ってくれていた。
「おやすみなさい……詩織さん」
「おやすみなさい、ゆめいさん」
夏の長い日が山の向うに消えてゆく。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
時刻はそろそろ最後のバスが通る頃だけど、繋いだこの手は放せない。特に今の詩織さ
んの縋り付く様な想いと目線に、いなくなったりしないと明言した上で、目を醒まさない
内にいつの間に去っている選択はわたしにない。
そして心から安らかに熟睡している詩織さんの寝顔を眺めていると、起す事も憚られて。
何よりわたしが詩織さんに応えていたかった。何も出来ないわたしでも気休めになれるな
ら。求めに応える術を持つなら、叶う限り。だから山の彼方に陽は落ちても、他に誰もい
ない一軒家でわたしは1人詩織さんを見守り続け。
薄暗がりの中、詩織さんの父でも母でもない人影の訪れをわたしは、気配で悟っていた。
真弓さんの護身術と血の力の修練が複合して、わたしも近ければある程度気配を読み解け
る。
気配の主は足音も隠さず、無言の侭上がり込んで、この部屋に歩み寄ってきた。詩織さ
んは熟睡の縁でピクとも動かない。動けるのはわたしだけだ。微かな緊張が身体を駆ける。
「詩織……?」「詩織さんは眠っています」
あんたもしかして、羽藤ゆめいさんかい?
詩織さんを背にわたしが何か言うより先に、
「妹が、詩織が世話になっているらしいね」
詩織さんの兄の秀彦さんは、高校一年生だ。小学3年生の時に転入したわたしは、羽様
小学校でも一緒にいた事はなく、初対面だった。お兄さんがいると、聞いた事はあったけ
ど…。
小学生から見ると、高校生は大人に近い。
特に彼は身長も高く体格もがっしりして。
顔つきもお父さん似なのか、少し厳つい。
詩織さんの眠る前ではない場所で話がある。そんな様子を察して、わたしは立ち上がっ
た。繋いでいる手は放してしまうけど、ここを去る訳ではないから後で謝る事で許して貰
おう。
「ん……」
手が離れた感覚に、詩織さんが微かに身を捩る。起きるかと様子を窺ったけど、静かな
寝息が続いたので安心した。出来れば起きる前に戻ってきて、手を繋ぎ直しておきたい…。
居間に招かれ、改めて秀彦さんに対面し、
「……お邪魔していました。羽藤柚明です」
「もっと、男っぽい女の子かと思っていた」
詩織から聞いていたよ。年上の恋人の話は。
わたしの頬が、少し染まったかも知れない。
「何度も庇ったり助けたりしてくれた、強くて優しくて綺麗な人だって。勉強も運動も出
来てみんなに分け隔てのない憧れの人だって。顔を赤くして語るから、気持は見え見え
さ」
女の子の詩織が惚れるからには、やや男っぽい・中性的な雰囲気を想像していたけど…。
和泉さんの様なショートカットの髪に活動的な、少年ぽい感じを思い浮べていたらしい。
「期待外れでしたか?」
詩織さんに想われている事実は否定しない。
詩織さんの想いをわたしが否定は出来ない。
その想いが確かに嬉しい自身も否定しない。
そしてそう想われる限り、わたしはそれを受け容れる気でいた。自ら求めはしないけど、
それを促す気もないけど、寄せてくれる心は嬉しい。突き放す気にも拒む気にもなれない。
それが友情か恋愛か細々仕分ける問に、わたしは意味を感じなかった。わたしが詩織さ
んをたいせつに想う気持と、詩織さんがわたしを深く想ってくれる気持とが確かなら良い。
実際恋も愛もどんな物なのか、わたしもまだ良く分らない。わたしのサクヤさんに抱く
想いが近いのだろうか。サクヤさんはわたしの想いを拒まなかった。一番にしては貰えな
かったけど、叶う限りの想いを返してくれた。わたしも詩織さんの想いには精一杯応えた
い。
わたしの問い返しに秀彦さんは考え込んで、
「詩織が求めていたのは、兄よりも姉だったのかも、知れないな」
俺は父さんに似て腕白ガキ大将だったから。
優しく面倒を見てくれる年上の女の子を…。
干した君の服を見たよ。詩織が汚したんだろう。済まない事をした。それで尚詩織を嫌
わず寄り添い、眠った後も手を繋いでくれる。ありがとう。詩織は、いい人に出会えた様
だ。
「詩織は身体も気も弱くてさ。一緒に羽様小に通った頃は俺べったりで。目を離すのが心
配で。バスに酔うし良く熱を出すし、動きも俊敏じゃないし。思った事を巧く喋れなくて、
みんなに付いていけなくて。良く庇ったけど、それが逆に依存心を植え付けたのかとも
…」
詩織をからかう子供を叩いて先生に怒られ、詩織に怯えられもした。詩織への悪口や手
出しを黙らせる事は出来たけど、友達に受け容れさせる事は、考えなかった。あんたの様
に、詩織の心を包んで守りみんなに繋げる事は…。
「中学生になって毎日詩織を見てやれなくなってから、少し気になっていたよ。あいつも
最初は沈み込んでいたし。去年位からかな」
週に一回はみんなで夕食をって、金曜日だけは家族全員で食卓を囲むんだ。共働きだか
ら父さんと母さんの帰りは遅いけど、俺もバイトで遅くなるけど、遅くても一緒にってさ。
「その中で、あんたの話が出始めたんだ…」
詩織が学校の事を話すなんて、珍しいから。休みが多くて授業に遅れがちで、運動神経
も鈍く友達作りも苦手で、先生に褒められる事も多くない詩織が、あんたの話を楽しそう
に。
「顔も知らない転入生が妙に詩織を気に掛けてくれて、詩織も明らかにうきうきして話す。
しかも羽様の羽藤だと。最初は妹を持って行かれた気がして少し癪だった。嫉妬したよ」
幼い頃を想い出した。身体の弱い詩織を父さんも母さんも気に掛けて、親を取られた気
がした事を。気を惹こうとして、危ない事をしたり拗ねたり詩織を苛めて、叱られた事を。
「もう嫉妬を表に出す程子供じゃない積りだけど、羽藤ゆめいがどんな奴か、一度会って
みたかった。詩織を攫う父兄の仮想敵として思い描いていたんだ。詩織が頼り、詩織を守
る位なら、女の子でも男っぽい感じかなと」
色々な意味で、俺の想像を越えていたよ…。
あんたには、嫉妬の炎の燃やしようもない。
落胆とも諦めとも違う少し苦い笑みを浮べ、
「詩織を色々と気遣ってくれてありがとう」
頭を下げてくれた。年上の人に、大人に近い年齢の男の人に、素直に感謝されるのは予
想外だったので、わたしも少し戸惑ったけど、
「その上で、我が侭承知で頼みがあるんだ」
わたしの答に先んじて彼は尚言葉を続け、
「これ以上詩織に無理をさせないで欲しい」
詩織をみんなに溶け込ませようとの善意は分る。詩織に想い出を作ってくれる気持は嬉
しい。あんたが自身とだけじゃなく、詩織とみんなの関係を繋いでくれる事はありがたい。
運動会の練習を一緒にしている話も、聞いているよ。あんたが誘い励ますだけじゃなくて、
詩織の体調を気遣ってくれている事も。でも。
「詩織は最近毎日夜遅く迄寝込んで動けない。学校から帰っても今迄は、少し休めば日が
沈む頃からテレビ見たり勉強したり、帰りの早い日は家族と話しも出来たのに。あんたの
所為だけじゃない。病が進み始めて、詩織の体力を削っている所為でもある。でもだか
ら」
詩織の体力を残らず使わせる真似はしないで欲しい。詩織がここにいられる日々が少な
いのは知っている筈だ。残り少ない日々を無理な運動とその後の苦しみで終らせたくない。
あんたの善意は分るけど、詩織はもうそれに応えきれない。気持じゃなく、身体の方が。
あんたの想いに応える為に、あんたの声に応えたくて、詩織は必死に無理をこなしている
けど限界だ。せめて最後は心安らかな日々を。
「あんたの気持を無にし傷つけるのを承知で、言わせて貰う。詩織を引っ張らないでく
れ」
俺の嫉妬だと想うならそう取っても良い。
あんたとの繋りを嫌う意地悪だと見ても。
俺には詩織がたいせつなんだ。たった1人の妹なんだ。傷つける奴は殴ってでも追い散
らしたい程可愛いんだ。それで怯えられても嫌われても、他に俺は術を知らなかったから。
「今も詩織を大切に想ってくれるあんたの行いを止めてくれと。感謝しつつ止めてくれと、
どんな理由があっても、納得出来ないだろうけど。俺があんたの立場なら納得しないけど。
あんたへの求めが過ちでも、恩知らずでも」
俺は詩織の苦しむ姿を、見ていられない。
それは善意を断る故の苦悩だ。詩織さんの喜びを絶つ故の煩悶だ。彼は己の心にも添わ
ない願いを発している。苦味を感じつつそうせねばならないから悪者を被る。悪役を担う。
妹を想う強い気持は、桂ちゃんと白花ちゃんを想うわたしには己の事として理解できた。
「秀彦さん……。ごめんなさい、わたし…」
詩織さんの体調には目を配っていた積りだけど。授業の中でも休み時間も、視線を意識
を向けていたけど。帰り着いた後は考慮の外だった。下校時迄元気なら良いと想っていた。
学校にいる間中気を張っていて、帰着した途端倒れる様に寝込んでいるとは想わなかった。
実情を知らずに気遣った積りでいた。あの金曜日もそうだった。詩織さんがわたしに毎
日学校で会おうと、月曜日も火曜日も、翌週もその翌週も夏休み迄、毎日学校に来てと語
りかけてくれたあの時も。わたしは詩織さんがわたしを好いてくれているから、そう言っ
てくれているとしか想わずに、気安く頷いて。
詩織さんは夏休み迄しかいられない自身を分っていた。それ迄しかいられないから、そ
れ迄を全力で過ごそうとしていた。それはわたしへの約束と言うより、体内に巣くう病魔
への決闘状だった。その想いを分りもせずに。
同じ事の繰り返しだった。詩織さんがどれ程の想いを込めて、わたしの差し伸べた手を
受けてくれたのか。どれ程の覚悟でわたしの声に応えてくれたのか。わたしは詩織さんの
限界を見誤っていた。あれは詩織さんがわたしを想う気持で無理矢理搾り出した最大限で、
帰り着くと倒れ込む程の疲労を招く最大限で。
「わたしは唯想うだけで、詩織さんの想いを分ってなかった。分った積りになっていた」
そうである事に想いも及ばず、わたしは詩織さんに役立とうと想う余り、詩織さんに害
になる迄つき合わせ誘っていた。わたしこそが詩織さんの実情を、全然分っていなかった。
お兄さんの心配は必然だった。その断りは当然だった。嫉妬でも意地悪でも何でもない。
秀彦さんは唯詩織さんを大切に想っただけだ。後ろめたさや申し訳なさを感じる必要もな
い。何も分らず詩織さんを危うくしたのは、わたしだった。それを感じるべきはわたしだ
った。
わたしは誰かの役に立つにはまだ幼すぎる。
わたしは誰かの力になるには無知に過ぎた。
わたしは何か為そうとすれば禍を招くのか。
たいせつな人を守りたいのに、守れてない。
わたしは無力な以上に、愚かで鈍感だった。
人の想いに、人の痛みに、人の望みに……。
自身への悔いは尽きないけど。今は己への責めは後回し。目の前の、秀彦さんの大切な
詩織さんを危うい目に会わせてしまった事にまずお詫びしないと。そして大事になる前に
気付かせてくれた秀彦さんに、心からお礼を。
両手を床に揃えて付いて頭を深々と下げ、
「申し訳ありませんでした。大切な妹さんを、詩織さんを、わたしの想いで振り回して
…」
詩織さんの為になると、思いこんでいたわたしが愚かでした。その事に気付かせてくれ
て、大事になる前に教えて貰えて、良かった。ありがとうございます。そしてごめんなさ
い。
「わたしの独りよがりで詩織さんを危険に」
「違うよ」
降りてきた声は、わたしの懺悔に少し驚いた顔を見せた、正面の秀彦さんからではなく、
「ゆめいさんは謝らないで。わたしが、わたしの想いで望み選んだことだから」
戸口から顔を覗かせた詩織さんの声だった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「兄ちゃんが心配してくれているのは分るよ。とても嬉しい。最近は余り話す機会もなか
ったけど、ずっと気遣ってくれていたんだって、改めて分ったから。ありがとう。でもね
…」
詩織さんは足元がふらついていた。わたしと秀彦さんは共に即応し、その左右から詩織
さんの身体を支え、居間のソファに座らせて。
「無理をしても想い出を残したかった。疲れ果てても心に刻みたかった。家で寝込んでも、
少し位苦しくても、常日頃の疲れで生命は危うくならないって、お医者様も言ったから」
次の日まだ学校行けるもの。朝には疲れは取れているもの。まだ羽様小学校での日々は
残っているもの。最後の運動会はもうすぐよ。わたしの最後の、みんなと頑張れる催しが
…。
「この手を放さないで、ゆめいさん」
座らせた後で秀彦さんに向き合う為に少し離れようとする、その手を詩織さんは握って、
「この繋いでくれた手を放さないで。わたしをみんなに学校に繋ぎ止めてくれるこの手を
放さないで。わたしを置いていかないで!」
ぎゅっと握って、引き寄せる程強く握って、詩織さんはわたしの瞳を縛り付け、秀彦さ
んではなく自身を見てと、自身を放さないでと。
手を放した事は失敗だった。大切な話の為だったけど、詩織さんに自身が置き去りにさ
れると思わせてしまった。信を裏切り不安を抱かせてしまった。心からの求めに応えた繋
りは、勝手に外してはいけない物だったのに。
「わたしにはあなたが必要なの。ゆめいさんのお陰で漸く、わたし病と闘う気持になれた。
その手を外してしまわないで。わたしを見捨ててしまわないで。わたし、病と闘うから」
絶対治って逢いに戻ってくるから。だから、
「病と闘う為に、ここに戻ってきたいと強く想う為に、想い出を刻みたい。みんなにわた
しを憶えて貰って、わたしもみんなをしっかり憶えて、平田詩織が生きた証を残したい」
今迄わたし、身体が弱いからと人に関ってこなかった。いつ迄も続く日々が味気なくて、
学校にいても早く家に帰りたく想って終るのを待ったり。とんでもなかった。この日々が
こんなに大切で、ありがたい物だったなんて。
なくなるとなって初めて、いられなくなると分って初めて、今迄の何でもない日常が凄
く大切に想えた。何もせず怠惰に過ごした日々が悔しく情けなかった。勿体ない。外で遊
べる日々も、机並べての勉強も、バレーでミスしてみんなに叱られる声も貴重に感じられ。
「わたし何もしてなかった。何も残してこなかった。何も刻んでなかった。誰の心にも平
田詩織は印象に薄くて、わたしの心にも羽様小学校の日々が余りにぼやけて不確かで…」
運動から逃げ続けた、みんなとの遊びを流し続けた、勉強も投げ出し気味だった。お喋
りに交わらず1人一日が終るのを待っていた。わたし今迄学校でみんなと何もしてなかっ
た。
兄ちゃんに守られたり、ゆめいさんに助けて貰ったり、して貰うばかりで、わたし何も
してなかった。この侭じゃわたしに想い出が残らない。遠くの病院で病室で経観塚を想い
出す時、羽様小学校やお友達を想い出せない。
「ここに戻ろうって頑張る取っ掛りがないの。今の侭じゃわたし、向うに行っても生きる
為に頑張る糸が解けちゃう。戻ろうとする羽様に経観塚に、爪痕が残せてない。運命の糸
が絡まらないで、するりと抜けていきそう…」
それをゆめいさんは紡いでくれている。お友達みんなも混ぜ込んで、わたしに想い出を、
想い出だけじゃなく今後に続く絆の赤い糸を、結んでくれているの。わたしがもう一度こ
こに戻ってきたいと思える様に、病をやっつけてここにまた戻ろうとわたしが頑張れる様
に。
「疲れても無理しても。残したい、刻みたい。
ゆめいさんの差し出す手に想いに応えたい。
わたし、初めて生きているの。生きる為に全力なの。穏やかに印象のない日で終りたく
ない。頑張って限界迄みんなとゆめいさんと、最後の日々を過ごしたい。お願い兄ちゃ
ん」
ゆめいさんの手を、引かせないで。
「ここにいられるのはあと少しだから。もうすぐ遊ぶ事も運動会もない病院暮らしに入る
その前に、少しだけ、わたしのワガママを」
秀彦さんの瞳に浮ぶ迷いは、詩織さんを想う故だ。詩織さんを哀しませず詩織さんの身
を安んじるにはどうあれば良いか悩んでいる。
わたしは詩織さんに握られた手をゆっくり解いて床に付き、秀彦さんに再度頭を下げて、
「お願いします、お兄さん」
秀彦さんの想いと詩織さんの想いを汲み取って、両方の望みを願いを叶えようと考えて、
「もう少し、わたしに詩織さんを見させて下さい。来週から詩織さんに無理が掛らない様、
もっとしっかり見ます。お兄さんの心配も確かに心に留めて、詩織さんに対しますから」
学校にいる間の詩織さんを、預けて下さい。
わたしの力不足は分っています。ですから、
「毎晩お兄さんに電話します。学校での詩織さんの様子を伝えます。帰った後の家での詩
織さんの状態を教えて頂き翌日に活かします。詩織さんに無理がない様に、努めますか
ら」
詩織さんはここの想い出を望んでいます。
詩織さんはみんなとの絆を求めています。
わたしも詩織さんにみんなの友達になって欲しい。みんなにも詩織さんを友達にして欲
しい。確かに今を全力で過ごして、心の奥に刻んで欲しい。詩織さんに無理のない範囲に、
その健康を害しない範囲に、留めますから…。
「詩織さんに、心から微笑んで貰いたいの」
手を付いて頭を下げた正面から降る声は、
「あんたもまだ小学生だ。任せられないよ」
当然と言えば当然な答だったけど。続けて、
「あんた1人には任せられない。でも……」
俺とあんたで力を合わせるなら出来るかも。
「あんたは1人で全部やるとは言わなかった。出来ない事を出来るとかやるとかは、言わ
なかった。できる事と出来ない事を見極めて応えられる。そう言うあんたなら信用でき
る」
俺が家での詩織の状態を見守る。あんたの電話を受けて、様子を伝える。あんたは俺に
学校での詩織の様子を見守り、伝えてくれる。あんたと俺が補い合えば出来るかも知れな
い。
「詩織を想い合う同士だ。巧くやろう」
実質の了承と分った詩織さんの喜びの声が、
「兄ちゃん……」
「頭を上げてくれ。あんたは今から詩織の姉であり恋人であると同時に俺のダチで妹だ」
頭を上げたわたしの前に、秀彦さんの右手が差し伸べられていた。それをわたしは確か
に握り返して、更に左手を添えて気持を込め。
「よろしくお願いします。お兄さん」
横で詩織さんが、顔を崩す程に喜んでいた。
今日ここを訪れた事は間違いではなかった。
成り行きだったけど、こうする積りで来た訳ではなかったけど、出会とはこういう物か
も知れない。その巡り合わせに、感謝しよう。
「事は詩織の身体に関るから、母さんと父さんにも話さないといけないけど。俺が勧めれ
ば、母さんも父さんもきっと頷いてくれる」
今日はちょうど金曜日だ。話しておくよ。
「詩織も無理せず、ちゃんと彼女に自分の状態を伝えるのが前提だからな。無理に取り繕
ったり強がって後で倒れたりしたら、俺と彼女の所為になるんだ。その事は分るだろう」
詩織さんは滅多に見せない満面の笑みで、
「……はい。兄ちゃん」
詩織さんがわたし達の握り合う両手の上に、左の掌を重ねてきた。何かに一緒に取り組
む事もこれからの詩織さんにはなくなっていく。だから今を確かに胸に深く刻んで。そし
て刻んだ過去をいつ迄も、確かに心に抱き続けて。
今その一角にいられる事が、確かに嬉しい。わたしが嬉しい様に、詩織さんも嬉しいと
想ってくれるなら、それもわたしには嬉しくて。それをわたしは学校のみんなと詩織さん
にも。人の絆を十重二十重に。赤い糸を絡みつかせ。たいせつに想う心を、互いに寄り合
わせて…。
「……って、もうこんな時間か?」
秀彦さんが漸く時刻を気にできた時は既に、経観塚行きの最終バスも通り過ぎた後だっ
た。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「今日は金曜日だ。もうすぐ母さんと父さんも帰ってくる。夕飯のついでに、詩織の話も
出来るからちょうど良い。食べて行きなよ」
帰る足を失ったわたしは、明日が休みなのを良い事に、詩織さんの家に泊めて頂く事に
なる。詩織さんの両親は自家用車を持つけど、仕事帰りで疲れた処に送りは求められない
し、ご両親も秀彦さんもわたしに泊りを勧めてくれたし、何より詩織さんが望んでくれた
から。
日中なら多少時間掛けても歩けば着くけど、流石に街灯もない夜道を行くのは不安だっ
た。詩織さん達を心配させる。多少無理が利いてもわたしは世間的に女の子で、心配され
る立場だ。それを無視すれば却って波風を立てる。
「そう言う訳で、今晩は平田さんの家に…」
羽様で電話口に出たのは正樹さんだった。
事情を説明し、電話連絡も遅くなった事を謝って、泊る事と心配が不要な旨を伝えると、
正樹さんはほっと一息ついて受話器を放して、真弓さんと笑子おばあさんにその旨を伝え
る。連絡が遅れたので、結構心配させていた様だ。
『柚明ちゃんは、恋人の家に外泊だそうだ』
んぐっ、と呑み込んではいけない物を呑み込む様な、奇妙な悲鳴が届いてきた。けほっ、
と咳き込んで、飲み物をすする音が続く。正樹さんは、補足する感じでその音の主に向け、
『前に話にも出ていた、平田さんだよ』
『あなた、日本語は間違ってないけど』
先に平田さんと言ってからにして下さいな。
音の主は真弓さんだった様だ。苦しそうに、
『年頃の女の子の外泊先は、男の処か女の処かで、随分違うんですから』『ああ、ご免』
笑子おばあさんの音が聞えないのは落ち着いている故か。その時電話の向うで別の声が、
『ゆーねぇ、かえって来ないの?』
更にもう一つの大きな声が響き、
『やだーゆめいおねえちゃん、帰ってきて』
お風呂入れて、絵本読んで、一緒に寝て。
白花ちゃんが立った侭右手の人差し指を咥えつつ問う姿や、桂ちゃんが床に転がって両
手両足をばたばたさせる様が、瞼の裏に浮ぶ。
折角のたいせつな人の求めに、残念だけど今日は応えられない。羽藤の家にも車は一応
あるけど、この夜遅くに迎えを頼むのも悪い。泊りを決めた今から帰るのは、平田家に悪
い。
「白花ちゃん、桂ちゃん、ごめんなさいね」
今日は誰にも彼にも謝り通しの様な気が。
『うぅっ、やだやだやだー、帰ってきてぇ』
『桂はこっちで、巧くあやしておくから…』
受話器の向うは、結構な騒ぎの様だけど、
『柚明ちゃんも、彼女との夜はほどほどに』
「は、はい。済みません……お休みなさい」
そう言う訳で今宵わたしは食卓を詩織さんの家族と囲む。佐織さんは少し前に逢ったわ
たしが、夜ここにいる事に少し驚いたけど笑顔で迎えてくれた。一面識、あって良かった。
一緒に帰ってきた雅彦さんは、正樹さんより十五歳以上年上の、少し老けた痩せ形の人だ。
遅く帰ってきて作り始める以上、夕食は更に遅くなる。仕事で疲れた佐織さんが今から
動き出すのを見て、わたしはややお節介かもと思いつつ手伝いを申し出た。羽様の屋敷で
は笑子おばあさんの弟子だけど、全くの素人でもない積りだ。佐織さんは少し思案の末に、
「……そうね。ゆめいさんに手伝って貰って作った料理なら、詩織も秀彦も喜ぶかもね」
人の台所は勝手が違い、使う人で流儀も趣向も変る。思い通りの成果ではなかったけど、
佐織さんの目線は好意的だった。小学生にしては良くやる、位に見て貰えたと想う。詩織
さんはわたしが手伝う姿に少し複雑そうで…。
「今度、教えてあげようか?」
佐織さんは実質休日もない農家とパート兼業で、引っ越しを控えている。今更詩織さん
に料理を教える暇はない。わたしで良ければ、ここを訪れ一緒にお料理する事で教えられ
る。
「厨房、お借りする事になっちゃうけど…」
もうすぐ要らなくなる、と言うより出来なくなる技能を今更、と言う光が一瞬全員の瞳
を過ぎったけど、詩織さんの瞳にも兆すけど。
そうじゃない。詩織さんは病と闘って治す為に入院するのだから。生きる為にここを離
れるのだから。戻る家がどこになろうと、お料理を憶えて損はない。治した後の生活を考
えるのは、治る積りの人には当たり前だから。
「詩織さんの作ったお料理わたし食べたい」
詩織さんが渾身の頷きを返してきた。
「良かったわね。私達も詩織の料理をここにいる間に、一度は食べられるかしら?」
問う側も応える側も、目元が緩んでいた。
夕食の席では、詩織さんが運動会練習や授業や休み時間の話をし、佐織さんがわたしに
補足説明や証言を求める。詩織さんの話の真偽確認と言うより、今日はわたしがいるので、
同じ出来事でも別の視点からはどう見えるか、詩織さんの学校生活を立体像で楽しみたい
と。
秀彦さんがそれに続けて、わたしと連絡を取り合って、詩織さんの体調を見極め運動会
の練習に参加させると、現在進行形で両親に追認を求めた。何か新しい事を始めるのでは
なく、気をつけてやっているよと言う感じだ。
確かに今迄も金子先生から詩織さんを見守るように頼まれた事の延長だし、ご両親には
特段話も通さずに進めていたけど。雅彦さんが思案する感じで佐織さんに目線を向けると、
佐織さんは頷き微笑み。それで了承は取れた。
詩織さんはわたしがいる事で気分が高揚しているのか、眠って体調が復したのか、普段
より状態が良い様だ。わたしが食後皿洗いの手伝いを申し出た時、詩織さんも手を挙げた。
佐織さんは詩織さんの積極さに少し驚きつつ、招いてくれて。3人で家庭の台所に立つと
少し狭いけど、狭さの密着感に詩織さんは喜び、自ら家事に関ろうと動いた彼女に佐織さ
んは嬉しそうで。男性陣の目玉が丸くなっていた。
仕事帰りの雅彦さん達は、お風呂を沸かす。わたし達は夕刻前シャワーを浴びていたけ
ど、折角なのでもう一度入ろうと、詩織さんに手を引っ張られた。一緒に入る事は既に前
提だ。今度は汚れを落すより、疲れを癒す事が主で。詩織さんが肌触りを求めぺたぺた触
ってきて、傷を完治させて良かったと心の中で安堵する。
「意外と筋肉あるね。目立たないけど」
お風呂椅子に腰掛けた状態で、後ろから肩を二の腕を脇腹を、確かめる感じで軽く掴ま
れる。お互い身体は流し終えたので、今は触りあっこしても差し障りはない。別の意味で
差し障りがあるかも知れないけど、一緒にお風呂に入った時点でそれは不問に付していた。
「ん……そう? 修練の成果かな……」
外から見える程筋肉が付かないのは、修練の性質か、女の子の身体故に付きにくいのか。
俊敏さや持久力が増した割に筋肉は余り増えず、細い筋肉の割に腕力はややある方だけど。
「真弓叔母さん。話した事、あったっけ?」
武道の家の出身でね、正樹叔父さんのお嫁さんで桂ちゃんと白花ちゃん、双子のいとこ
のお母さん。わたしに護身の術の修練を付けてくれる、とても優しくて綺麗で強い人なの。
瞬間、背後から二本の腕がわたしの胸に巻き付いて、強く締め付けて来て、強い叫びが、
「ゆめいさんより、優しくて綺麗で強い人なんて、いないからっ!」「……詩織さん?」
背中に詩織さんの胸が腹が当たっている。
密着した為に、その想いが明瞭に視える。
わたしが、憧れとして真弓さんを語った事が、詩織さんの我知らぬ心の炎を呼び起こし、
「詩織、どうした。……何かあったのか?」
大声に驚いた雅彦さんの足音が来るのに、
「だ、大丈夫っ、だいじょうぶだからっ…」
「ごめんなさい。わたしが、驚かせました」
自身の大声にびっくりし、真っ白になった詩織さんの代りに謝ると、雅彦さんは引き上
げてくれた。突発的な己の感情を、どう捉えて良いか分らず固まる詩織さんに、穏やかに、
「わたしは、綺麗さや強さが一番でなくても構わないの。たいせつな人を守れる強さがあ
れば良い。わたしに教えてくれる人がわたしより強いのは当たり前よ。わたしは桂ちゃん
や白花ちゃんや、詩織さんを守れれば良い」
まだそれにも遙かに及ばぬ程未熟だけど。
「わたしも……?」
「詩織さんはわたしのたいせつな人だから」
後ろから胸に巻き付き硬直していた両腕が、再びその意志に従って、更に強く巻き付い
て。少なくとも硬直は解けた。後は意志を促せば。
少しの後、腕をやや緩めるけど解かぬ侭、
「ゆめいさん、筋肉もあるけど胸もあるね」
成り行きの末に、詩織さんの右手が左胸を、左手が右胸を手の平の中に抑えている。サ
クヤさんに言わせるとまだまだこれからだけど、漸く育ち始めた2つの乳房は、詩織さん
が感触を確かめる様に揉むと、それなりに揺れる。背に張り付く詩織さんの胸はまだ子供
だった。少し残念そうで羨ましそうな声を感じたので、
「詩織さんも、もうすぐよ」
「わたし、そうなれる迄……なれるかな?」
その問に潜む影の意味をわたしは分って、
「大丈夫だよ、……必ずなるよ。詩織さんのお母さんも、見た感じ結構大きかったから」
「……うん。ありがとう、ゆめいさん……」
両胸から手を外して、わたしの肩に添えて、背に首をもたれかけ、静かに温かな雫を流
す。
「湯冷めしない内に湯に浸かって上がろう」
暫くの後、詩織さんに湯に浸かる様に促す。一緒に入れる程広くないので、わたしは後
だ。
「ゆめいさんこそ、先に上がっていて身体冷えてない? 先に冷えた人が入った方が…」
その勧めには、かぶりを振って従わない。
わたしは常に、たいせつな人を優先する。
「先に入って、上がって待っていて頂戴…」
でも、と言いかける詩織さんに先んじて、
「……わたしは、詩織さんにのぼせたから」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
詩織さんの、ベッドの横に敷いた布団がわたしの今宵の寝床だ。今日は色々疲れたけど、
その故か身体も心も寝付けない。詩織さんもそうなのだろうか。聞えたのは寝息ではなく、
「ゆめいさん、まだ起きている?」「ええ」
「少しお話したいんだけど良い?」「ええ」
こっちに来て、一緒の布団でお話をする?
わたしの問に、答は言葉ではなく行動で。
詩織さんの意志は視えていた。お客様用の布団は大人サイズで、小学生が2人入っても
問題はない。左に入り込む温もりを受け容れ、その首を胸元に寄せて、この懐に頬を抱い
て。
もう意志は問わないし、迷いも要らない。
「どうして? どうして、嫌がらないの?」
「今更訊ねる? 詩織さんは尚答が要る?」
問で返す答に、詩織さんは強い声で、
「また吐いちゃうかも知れないんだよ」
またゆめいさんを汚しちゃうかも知れないのに。嫌な臭いつけちゃうかも知れないのに。
みんなに嫌われるかも知れないのに。抱き留めて怖くないの。近くにいて嫌に思わないの。
言いながら強く身を寄せてくる詩織さんを、
「また一緒にお風呂で流せば良いよ」
頬を付けられる侭に身を両腕で抱き留めて、
「必要なら、また吸い出してあげる」
わたしは必要なら何度でも為す。たいせつな人の為に身は惜しまない。あれは一回きり
の奇跡ではなく、偶々今日が初めてなだけだ。詩織さんの生命には、替えられない。力に
なれる術があるなら。役に立てる事があるなら。
「わたしに、尽くさせて。詩織さん」
このやり取りが、掴み取れた安心が、詩織さんに今宵その問を、口にさせたのだろうか。
「どうして平田詩織だったの……?」
微かに身を強ばらせ、怖々と問うてきた。
「金田さんでも、佐々木さんでも鴨川さんでもなく、どうしてわたしだったの? わたし
は今が人生で一番嬉しいけど、でも不安…」
わたしのどこが、ゆめいさんの目に止まったの? 何がゆめいさんの気を惹いたの?
「訊いた瞬間、全てが終りそうな気がして訊けなかった。訊くべきじゃないかも知れない
けど。知らない方が良いかも知れないけど」
でもそれも怖いから。心底怖かったから。
「他に人はいた筈なのに、みんなと衝突しなくても、汚い思いしなくても、困ったり悩ん
だりしなくても、もっと楽につきあえるお友達はいたのに。わたしだった。一番鈍くての
ろくてお喋り苦手な、身体の弱いわたしを」
「詩織さんはわたしのたいせつな人だから」
詩織さんを抱き留めるわたしの答に、でも今回だけは詩織さんは納得せず、更に問うて、
「どうしてわたし、ゆめいさんのたいせつな人にして貰えたの? わたし、ゆめいさんに
何も返せてないよ。ゆめいさんはわたしの力になれないでごめんねって言ってくれるけど、
わたしこそ何も助けてない。悩みを増やし仕事を増やし、摩擦を増やし。わたし何も返せ
てない。どうしてわたしを、たいせつに?」
わたしに魅力があるなんて、思えないもの。
病気だから? 最後だから? それともわたしが愚図で鈍いからと、哀れんでくれて?
「わたしゆめいさんがいないと生きる気力も出ないけど、この心は今ゆめいさんに繋がれ
ているけど、だから怖い。訊くのも訊かないのも怖い。ゆめいさんが哀れみでわたしに手
を差し伸べていると疑うのも、違うと言い切れない自分も、問うのも問わないのも怖い」
縋り付いてくる腕の力が一段と強くなる。
「嫌がらずに抱き返してくれる。温もりと気持を返してくれる。嬉しいよ。こんなに甘え
て失礼重ねているのに、尚ゆめいさんの優しさが尽きないよ。本当に嬉しい。だから…」
良いの。哀れみでも気紛れでもゆめいさんがここ迄してくれるなら。これ程にして貰え
るなら充分。だから訊く事にした。どうして平田詩織なのか。なぜ他の誰でもなく、他の
誰より劣る平田詩織なのか。本音で応えて!
詩織さんの頭を撫でる手の動きを止める。
詩織さんが緊張に身を固め、息を止めた。
この答が詩織さんにどう響くか分らない。
でも言わないより言う方が良いのだろう。
「わたしはわたしが好きだから為しただけ。
気持も返して欲しいなんて期待しないよ」
詩織さんが寄せてくれる心は嬉しいけど。
わたしは一度深呼吸して、意志を確かめ、
「詩織さんが心から助けを求めていたから」
わたしのたいせつな人は1人だけじゃない。詩織さんも、和泉さんも、鴨川さんも佐々
木さんも沢尻君もみんなわたしのたいせつな人。わたしが叶う限り尽くしたい人、守りた
い人、役に立ちたい人、一緒に日々を過ごしたい人。周囲にいる人全てが、わたしのたい
せつな人。
大切な人に尽くしたいのはわたしの願い。
わたしが誰かに尽くすのはわたしの天命。
「だから詩織さんを仲間外れにしかけた時に、みんなを強く諫めた。仲間外れする様なみ
んなであって欲しくないから、詩織さんを外す様な鴨川さんや和泉さんや佐々木さんであ
って欲しくないから。わたしのたいせつな人が詩織さんを外して良いと考えて欲しくなか
ったから。言い方がきつく不快に思われたのは、分ってくれるとのわたしの甘えだったけ
ど」
詩織さんの為だけの行いではなかったの。
詩織さんを想う気持は嘘ではないけど、わたしのたいせつな人は詩織さんだけじゃない。
「わたしも、たいせつな人の内の1人…?」
落胆の色が微かに窺えた。唯1人とか一番とかは言わなかったけど、今迄の経緯で考え
れば、そう思ってもおかしくないと分るから。そう口に出してしまうのに迷いがあったけ
ど。
「力の限り役に立ちたい。叶う限り尽くしたい。想いの限り届かせたい。みんなわたしの
たいせつな人だから。誰1人欠けて欲しくない、わたしの日々を支えてくれる人だから」
「……でも」
わたしゆめいさんに特別大事にされてきた。他の人への対応と違ったよ。他の人をゆめ
いさんはこれ程庇ってない。確かにゆめいさんはみんなを大切に想っていたけど。分らな
い。どうしてわたしにって問への答になってない。
詩織さんが珍しく正視して問い質すのに、
「詩織さんが心から助けを求めていたから」
寝物語の姿勢だけど、気持は真剣勝負で、
「わたしがその想いに、応えたかったから」
たいせつな人が助けを求めているなら、叶う限り助けたいと想うのは当たり前だ。故に、
たいせつな人だからという答も誤答ではない。でも、大切な人が別に困ってなければ、悩
みもなければ助けの必要は無い。詩織さんは心の底から差し伸べてくれる助けを望んでい
た。わたしにはそれが視えた。感じ取れた。故に、
「他の人と違ってあなたに手を差し伸べた」
この手が及ぶかどうかは、考えなかった。
わたしに何が出来るかも、その後だった。
始りは、詩織さんの力になりたい想いだ。
「わたし、一度もゆめいさんに助けてとか」
その声音が震えるのは、言っていないけど、想っていた事実を示す。わたしにではない
けど詩織さんは確かに誰かに助けを求めていた。今日の様に、心を全て預けて泣き喚ける
人を。家族に抱く申し訳なさを打ち明けられる人を。己の壁を崩しみんなに溶け込ませら
れる人を。身も心も受け容れて抱き留め愛を与える人を。心の底から求め続けていた。願
い望んでいた。
「言ってなかったわ。詩織さんは言葉では」
詩織さんは誰にも言葉掛けられないでいた。助けてとも言えずにいた。でも、その寂し
そうな背が、限界迄我慢した瞳が、喉の奥に堪った呟きが、分ったの。それは少し前のわ
たしだった。羽様に来た当初、想いを表す術を知らず塞ぎ込んでいた自身だった。わたし
も助けを求める術を分らず自らを閉ざしていた。それが俯き加減な詩織さんに重なって視
えた。
「詩織さんの置かれた状況はわたしと異なる。詩織さんはわたしと同じ道を行く訳ではな
い。平田詩織は羽藤柚明ではない。それでもわたしはあなたを放っておけなかった。何が
出来るかは分らなかったけど、尽くしたかった」
たいせつな人の為に。たいせつな人の微笑みを保つ為に。一点の曇りもなく笑える様に。
そして誰1人欠ける事なく楽しく過ごしたい。みんなで笑い合って、涙を零さずいられた
ら。
「わたしにはもう全員揃いは望めないけど」
失った物はもう取り返せないけど。それはこの胸に生きる限り刻み続けるから良いけど。
「これからに向けては努力できる。どんなに勝算の少ない戦いでも、望みの薄い願いでも、
戦い続ける限り全ては終らない。絶たれる瞬間迄、力尽きる瞬間迄、全ては終らないの」
あなたはまだ終ってない。本当の戦いはこれから始るの。本当に生きる日々はこれから。
そしてたいせつな人が困り悩み苦しんでいる時に、わたしがそれを捨ておける筈がない。
知らないふりできる筈がない。力づけたいから、役に立ちたいから、想い届かせたいから。
「身を尽くしたかった。たいせつな人に…」
今のわたしは、詩織さんに殆ど何の役にも立ててないけど。必ず届かせる様になるから。
詩織さんの病を治せる様に、きっとなるから。
「諦めないで。わたしは絶対諦めないから」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「ゆめいさん、きっと女医さん似合うよ…」
わたしが医術の途を将来展望の隅に入れたのはこの夜だった。贄の血の力だけではない。
人には尚医術があった。詩織さんの役に立つ途は尚残されていた。努力の全てを注ぐなら、
力の全てを傾けるなら、人の助けを望むなら。その途は遠望できた。気付かせてくれたの
は、詩織さんの何気ない一言だった。病を治すと言って病院や医師が思い浮ぶのは当たり
前か。
「わたしゆめいさんを好きになれて良かった。
ゆめいさんに大切に想って貰えて良かった。
幸せだよ。わたしとても、とても幸せ…」
翌日も結局わたしは夕刻まで平田家に居続けた。ご両親は仕事だったけど、詩織さんと
お昼ご飯を作って、秀彦さんに食べて貰った。
「あんたは詩織の婿にも嫁にもなれるよ…」
夕ご飯の準備までして、連泊にはならない様にバス時刻に気をつけて、名残惜しそうな
詩織さんに別れを告げて、羽様に戻り。待ちかねていた双子の歓待責めに遭い、疲れる暇
もない侭に時は過ぎ。残り僅かな日も過ぎて。
それからわたしは数回詩織さん宅を訪れた。真弓さんと笑子おばあさんにお願いし、修
練は休ませて貰って。詩織さんの荷物の整理を手伝ったり、お料理修練やお風呂やお昼寝
や、何でもなく日向ぼっこしたりテレビを見たり。
詩織さんにも一度羽様の屋敷に来て貰った。わたしの生活や家族も、知って貰いたかっ
た。体調が心配だったけど、大人が常にいる羽様の屋敷の方が目は行き届く。詩織さんは
真弓さんの実物を見て頬を染め、桂ちゃんと白花ちゃんに眼を細め、正樹さんと笑子おば
あさんに親しみを感じてくれた。五右衛門風呂に目を丸くして、庭で双子を2人で追いか
けて、絵本を読んで寝付かせた。笑子おばあさんのお料理修練を受けた時は、目を輝かせ
ていた。
学校でも運動会に向け、日々は順調に過ぎてゆく。詩織さんの前夜の様子を秀彦さんか
ら聞いて、より慎重に詩織さんに掛る負荷を考え、でも隔てない様にみんなの輪に招いて。
みんなも詩織さんの病は分っており、わたしが気遣う事情も分っており、大丈夫な範囲も
わたしが見切るので、その中で詩織さんを仲間として受け容れ、時に楽しく、少し厳しく。
サクヤさんが訪れたのは、運動会の前夜遅くだった。これから起つと電話が入ったのが、
夕ご飯の準備を終えた辺りで、それから赤兎を走らせてきたのだから、大変だったろうに。
「あんたの運動会には替えられないからね」
その様に言ってくれる家族がいる。その様に想ってくれる人がいる。たいせつなひとが。
なくした物は多いけどわたしは幸せ者だった。
運動会当日は、真弓さん達はお弁当を完成させて、少し遅くお屋敷を出る。わたしは最
上級生で早く出て準備から携わる為、下拵えの途中迄しか手伝えなかった。今日はあたし
がいるんだから、安心おしと、サクヤさんに背中を押され屋敷を出る。否、押し出された。
ぎらつく陽射しが眩しい晴天の中、最後の運動会のプログラムが進んでいく。父兄と言
うより地域の人も巻き込んだ田舎の運動会は、一種のお祭りだ。準備に競技に片付けにと
動く間も、わたしは詩織さんの様子に目を配り、水を呑もうと誘い出す。賑やかな空気に
昂揚して無理してないか、みんなの喧噪から少し離れて様子を見る。深呼吸させて落ち着
かせ。両肩を両手で軽く抑え、双眸の奥を見据えて。
「まだ大丈夫だよ、ゆめいさん……」
最後迄全種目きちんとやり遂げる。それが、
「わたしのこの運動会の目標だから」
しっかり黒目でわたしの瞳を間近に見返す。
ペース配分は出来ているらしい。それでも無理しないようにと伝えて、共に会場に戻る。
「来ている……桂ちゃんと白花ちゃん……」
笑子おばあさん達が敷物を広げた処だった。
双子の応援の声は、どんなざわめきや大声に重なってもわたしの心に届いてくる。二人
三脚の2回目で詩織さんと組んだ時に負けた以外、個人種目もチーム競技も午前中全部勝
てたのは、2人の応援のお陰です。詩織さんとの二人三脚も、惜しい所迄行けたのだけど。
「惜しかったね。次も頑張ろう」
「ごめんなさい、ゆめいさん。わたしと組んだ所為で、全勝消えちゃった……」
「気にしないの。1回目で勝てたのは鴨川さんと組めたお陰だし。競技に勝敗はつきもの。
沈んだ気持引きずったら、次に勝てないよ」
詩織さんの頑張りはみんなも見えた。成果に繋らないけど、数週間で今迄の遅れは取り
返せないけど、油断すると不覚をとる辺り迄迫っている。気持も技術もある。後は結果だ。
子供の世界の実力差は想う程に大きくない。何か一つ間違えば詩織さんにも勝利の女神
は。
『……なかなか、微笑んでくれないみたい』
少人数の為か、羽様小学校の運動会では多くの競技を2回行う。百メートル走も障害物
競走も二人三脚も。父兄の障害物競走や修学以前の幼児参加の玉入れも。桂ちゃんと白花
ちゃんは流石にまだ加われないけど。お昼を、弁当時間を跨ぐ様にと言う時間設定なのか
も。
父兄の障害物競走では、サクヤさんと真弓さんが出場して他から抜きん出て一位を争っ
ていた。2人とも勝負事には真剣で、子供の運動会との前提も忘れて瞳を輝かせ、眺める
正樹さんが冷や汗を流していた。それをにこにこ眺められる笑子おばあさんは凄いと想う。
「桂と白花の声援が、全部真弓に行くとは予想外だったよ。柚明、あたしも歳かねぇ…」
「事情や背景をあれこれ弁解しても勝敗はひっくり返らないわよ。約束通り、サクヤ…」
「分ったよ、今晩はあたしが酌をするよ。それで良いんだろう。……酔い潰してやる…」
「晩にお酒でもう一勝負も、良いかもね…」
帰ったらナイターが待っている様だった。
お昼を迎えて、それぞれに父母の元でお弁当を食べる。詩織さんの家族も今日はみんな
来て、一緒に昼食を広げていた。和泉さんがわたしの弁当箱の唐揚げを奪って、リンゴの
うさぎさんを置いていく。わたしはそれを詩織さんの元で、タコさんウィンナーと交換し
た。それが桂ちゃんと白花ちゃんの口に入り。
『詩織さんはまだ元気そうね……』
午後の競技も、上手くこなせば問題はない。
午後の全員リレーでわたし達のチームが敗れたのは詩織さんの所為ではない。川島君が
転んでしまった為だけど、これは団体競技だ。誰かの失点が全体に響くのは、やむを得な
い。
結局詩織さんは、個人でもチーム戦でも一度も勝利を味わえぬ侭、最後の種目を迎える。
実際この炎天下で、詩織さんが巧く日陰で休んだり水を補給しつつ、昼過ぎて尚競技に参
加して支障ない事が、素直に驚きなのだけど。
ビーチフラッグ争奪の2回目最終組は、わたしと詩織さんの対決になった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
一回目の対決で、わたしが鴨川さんに敗れ、詩織さんが佐々木さんに敗れた結果で、2
回戦は敗者同士の組み合わせだ。佐々木さんは和泉さんに敗れ、直前に行われた決勝で和
泉さんを下した鴨川さんの一位は確定している。
詩織さんとの対決は決勝の前にやる筈だったけど、詩織さんが一回目の後で足元がふら
ついていたので、先生に話して後回しにして貰い、様子を見る事にした。会場に来ている
佐織さん達にも来て貰って、水を飲ませて…。
「詩織さん。そろそろ、限界かも……」
練習の様に、何度も間に休みを挟んだり細切れに競技するのとは違う。炎天下、昼のお
弁当を挟んでずっと動き続けるのは、詩織さんには酷だったろう。男子や他の学年の対戦
を先に進めて貰いつつも、金子先生や秀彦さん達と一緒に、日陰に休ませた詩織さんにわ
たしはこの辺りで切り上げるべきだと勧めた。
これ以上やると疲れが夜に響く。次の日に持ち越す。苦しませてしまう。詩織さんの病
は徐々にでも進んでいる。ここ迄無事に競技できたのは、詩織さんの気力とペース配分と、
先生や級友みんなの配慮や準備の賜物だけど。
「この辺りが限界だろう、詩織」
秀彦さんの後ろで、佐織さんも雅彦さんも頷く。金子先生もその判断を尊重する構えだ。
最後の一戦は決勝でもなければ紅白の勝敗を決定づける物でもない。詩織さんは最終種目
の1回目迄全てをこなしてきた。充分だった。楽しむ為の運動会で無理をして、身体に差
し障って後で苦しむのでは本末転倒だ。しかもわたしはそれを緩和する術も持たない。今
日はみんなと一緒に楽しめた。もうこれ以上は。
でも、詩織さんは、かぶりを振って。
「まだ終ってない。終ってないよ……」
わたし、全部の種目やり終えてない。
わたし、ゆめいさんと対戦してない。
その意志は、瞳の奥で尚揺らがずに、
「最後迄やるんだって、投げ出さずに頑張るんだって、わたし、自分に約束したもの…」
最後の最後迄諦めない。
「まだ立てる。まだ走れるよ。まだ動けるよ。わたしまだ、頑張れるから。やれるから
…」
この胸にゆめいさんを刻みたい。身体にゆめいさんとの対戦を覚え込ませたい。魂に今
日の全てを残さず閉じこめて永遠に保ちたい。最後の最後で漸く巡ってくれたチャンスな
の。わたしいつも初戦敗退で、ゆめいさん勝ち抜いていくから。初めてなの、そして最後
なの。わたしが大好きなゆめいさんと全力で競えるのは最初で最後。この機会を、逃した
くない。
「わたしをゆめいさんの心に刻ませて」
もう詩織さんにその機会は訪れない。
もう詩織さんにその望みは抱けない。
今日という日が二度と巡り来ぬ様に。
わたし達との想い出はここでしか紡げない。
わたし達も想い出はこの数日しか紡げない。
どっちが詩織さんを想う結果になるだろう。
どの答が詩織さんに良い結末となるだろう。
その前にわたしはどちらか選べる立場だろうか。先生やご両親やお兄さんを前に、子供
が応えて良いのだろうか。詩織さんの瞳はわたしを見据えて動かない。わたしは気迫に吸
い付けられて身動きできず、視線も逸らせず。
「出来るよ。いつでも出来るから。詩織さんが病を治して帰ってきたら、いつでも何回で
も、飽きる程出来るから。だから今日は…」
瞬間、詩織さんからわたしに雷鳴が響いた。
「わたしから逃げないで。羽様にいる間位最後迄向き合って。わたしと全力で闘って!」
わたしの運動会だから。たいせつな人との対戦だから。最後の機会を逃したくないから。
「わたしに真剣勝負の機会をちょうだい!」
詩織さんは、生命を削る程の気合いで挑もうとしている。今日胸に刻む想いを、夏以降
の生きるよすがにしようとしている。今この瞬間が、詩織さんの今後の心を繋ぐ赤い糸に。
細い両腕がわたしの胴に巻き付いてきて、
「逃がさないよ。わたし放さないから。わたし今日はゆめいさんと対戦して勝つんだから。
最後の最後で漸く掴めたの。最後迄出続ければ、いつかゆめいさんと対戦できると想って
いたから。その機会、待っていたんだもの」
いつ迄も守られて庇われるひ弱な詩織さんじゃないよ。わたし運動会にも最後の最後迄
出て、ゆめいさんにも勝って、出来ない筈の事やり遂げて、病に勝つ為に引っ越しするの。
抱き留められて終るんじゃない。わたしが抱き締めるの。与えられて終りじゃない。守ら
れて弱い侭の詩織さんで、終らせはしないの。
友達関係はお互い様よ。一方通行はない。
「わたしが努力して掴み取ったチャンス、流してしまわないで。奪ってしまわないで。守
ると言いつつ、取り上げてしまわないで!」
「詩織さん……」
詩織さんは、勝利に飢えていたんじゃない。参加する事に飢えていた。参加する事が詩
織さんにはもう、叶い難い望みになりつつある。
負け続ける事より、真剣勝負の場を奪い去る事の方が、詩織さんには辛い事だ。対戦す
る機会の一つ一つが詩織さんには二度と望めない宝物だった。それに殆ど勝算がなくても。
わたしが桂ちゃんと白花ちゃんを守る位置を生命脅かされても外せなかった様に。
詩織さんにはいつも今日しかない。常に今しかない。明日が望めない事を、分っている。
詩織さんの腕に絡め取られた侭、振り向いたわたしの視線の意味を、秀彦さんは無言の
内に分っていた。わたしを抱くと言うより締めて放さない詩織さんの真意を、分っていた。
そして佐織さんも雅彦さんも、金子先生も…。
「今夜はわたしに、付き添わせて下さい」
今宵の詩織さんの苦しみは見えていた。それは最早この場の共通認識だった。わたしは
それを承知で敢てお願いする。贄の血の力も及ぼせないけど、せめてその苦しみに寄り添
いたい。寄り添わせて欲しい。それはこれからの競技に、詩織さんを出させて下さいと…。
秀彦さんが振り向いて判断を両親に委ねる。兄の秀彦さんにも諾否は決められない。本
来子供のわたしがお願い出来る話ではなかった。叱られ怒鳴られる事も覚悟の上での申し
出に、
「それが詩織の為になる事だと、あなたは想うのね?」「……はい、お願いします」
佐織さんの問に短く答える。子を想う親に、頬をはり倒されるに値する回答だったと思
う。
「今日の事には最後迄責任取って貰うわよ」
娘の幸せにも苦しみにも付き合って貰う。
拒絶より厳しい了承にわたしは向き合い、
「身体で償います。身も心も、尽くします」
この末に詩織さんに良い結果をもたらすのかどうかも分らないけど。競技の末に詩織さ
んを涙に暮れさせ、更に苦しませ、運動会の想い出を閉ざす事になるのかも知れないけど。
それでも今詩織さんの目の前で扉を閉ざす事は間違いに思えた。競技はするべきと思った。
後は成否に関らず苦しみの待つ詩織さんに、この身で償う他に、わたしに為せる術はな
い。まともに勝負を受けてたって、後に襲う苦しみには寄り添い励ます事位しか、わたし
には。
佐織さんの黒目の奥が、揺らいで見えた。
「最後の種目に、行ってらっしゃいな……」
決を下し終えた声からは、気力が失せて、
「娘を、預けるわ」「有り難うございます」
わたしを刺し貫く視線に、怒りより愛を感じたのは気の所為だろうか。詩織さんは最後
の最後に、わたしとの対決の場を掴み取った。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
他の学年や男子の競技は終っていて、残るはわたし達だけだ。家族の心配そうな視線に、
詩織さんが軽く手を振って不安を拭おうとしている。わたしは唯頭を下げて気持を表した。
全て承知で競技に臨む。責めは後で受けよう。
「ゆめいおねえちゃ」「ゆーねぇ、がばて」
桂ちゃんと白花ちゃんの声が心まで届く。
「わたし、最後迄頑張るから」
詩織さんの短い語りかけに、
「互いの持てる全てを出そう」
勝ちを譲る積りはない。ここに立った以上、真剣勝負を求められた以上、例え消化試合
でもわたしには詩織さんとの果たし合いだった。この一戦に詩織さんが込める想いが分る
から。強い願いに押し切られたから。その求めには応えないと。羽藤柚明の全身全霊で応
えないと。でなければ、詩織さんが後で苦しむ事を分って尚この挑戦を受けた意味が、消
失する。
よーい。審判の声とピストルが上を向き。
バァン。音と同時に風になって走り出す。
パネルへのタッチは半歩わたしが先んじた。スタートダッシュは申し分なかったけど、
詩織さんを意外と引き離せてない。スタート地点を走りすぎても尚、2歩位しか離れてな
い。互いの実力差からすれば、詩織さん健闘かも。わたしも決して、悪い走りではない筈
だけど。
少し先んじつつも、完全に引き離せない侭跳び込みに入る。詩織さんもほんの少し遅れ
て跳び込む。詩織さんの跳び込みが、旗と言うよりわたしを押しのける角度になっていた。
わたしを押しのけつつ、それでちょうど真ん中になる様な。わたしの身が少し左にずれて。
ざしゅっ。2つの身体を受け止める砂の音。
わたし達は砂の中絡み合う様に倒れていて。
旗は、わたしの右手に握られていた。
身体をずらされつつ、身を捻り必死に腕を伸ばして、わたしが右手を届かせた。ほぼ同
時に跳んで身体をぶつけ合った事はあるけど、遅れる事を承知で角度を付けて相手をずら
し、反動で自身を真ん中に置く様にする作戦とは。
もう少しで負ける処だった。詩織さんは少し遅れ気味で、充分わたしの身体をずらせる
位置で飛べなかった。わたしに気の迷いがあったら、半歩でも差が近ければ、詩織さんが。
「よく頑張ったよね。また、頑張ろうねっ」
これを最後にしない。これで終りじゃない。病を治せば何度でも出来る。そう実感させ
る為の一戦だ。負けは終りじゃない。次を始める為の第一歩だ。再戦へのスタートライン
だ。
横たわって息の上がったその背に触れると、肩を上下させながら起き上がった詩織さん
は、
「悔しい……悔しいよっ!」
砂だらけの身体で、同じく砂だらけのわたしに抱きついてきて、子供の様に泣き喚いた。
「誰にも一つも勝てなかったよ。最後迄ゆめいさんに勝てなかったよ。運動会でとうとう
一勝も出来なかったよ。悔しい、悔しいよ」
「詩織さん……」
もっと早くから運動やっておけば良かった。
もっと早くからみんなに溶け込んでいれば。
苦しい事負ける事嫌がらずにやっていれば。
全種目やり通して一つも勝てないなんて事、なかったのに。悔しい、心の底から悔しい
よ。
でもその心に兆すのは悔いばかりではなく、
「でも全部やり通せたから。全種目やりきれたから。最後にはゆめいさんと戦えたから」
わたし頑張ったから!
「ええ、そうね。詩織さん、頑張ったね…」
学校中のみんなや、父兄や地域の人も見守る中だったけど、視線は気にしない事にする。
今一番わたしに大切なのは、詩織さんの気持ちを受け止める事だ。その想いに応える事だ。
腰の後ろに両腕をがっちり回して、わたしの膝に身を投げ出す詩織さんを、撫でる様に
背に軽く両腕を回して、むしろ受け止めるのは心の方で。その涙はわたしの心に染み渡る。
「悔しい。最後迄勝てない。やっぱりゆめいさんは綺麗で強くて、優しくて厳しい。及ば
ないよ。全部上だよ。届かないよ。でも…」
悔しいから。勝てないの、悔しいからっ。
「わたし必ず戻ってくる。病を治してもう一度、ゆめいさんにフラッグ争奪を挑みに来る。
今度は勝つから。必ず勝つから。だから必ず、ゆめいさん逃げずにわたしの挑戦受け
て!」
わたし諦めないから。絶対諦めないからっ。
負けて残す悔恨が、次に意志繋ぐ事もある。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
かくして最後の運動会は終り、わたし達の日々も終り行く。学期の終り迄後幾日もない。
詩織さんは緊張が抜けたのと体力を使いすぎた為に、整列に加われず事務局テントの日
陰で座って閉会式を見守った後もすぐ帰れず、保健室で佐織さん達と一緒に暫く休んでい
る。
わたしも付き添うと申し出たけど、佐織さんに断られた。もう少し休んでから帰るから、
それ迄良いと。わたしはみんなと後片付けを。
「見せつけてくれたじゃないの、羽藤さん」
わたしに声を掛けたのは、鴨川さんだった。表情は苦笑いだけど、瞳は奇妙に爽快な色
で、
「今ならあなたの最優秀選手にも文句ない」
わたしが一位を取れなかった時の全てを鴨川さんが取っていて、わたしが一位の時も鴨
川さんは多く二位にいた。女子の最優秀選手は、わたしでなければ鴨川さんがなっていた。
「厳しさが優しさになる事も、あるんだね」
あなたは最も優しさに秀でていた。私は本心を曲げて他人に尽くせないけど、あなたは
心の侭に動く事が人に尽くす事になっている。悔しいけど、想像以上を見せられた。完敗
よ。
「私の挑戦も、その内また受けて頂戴……」
わたしの答を待たずに歩み去る。聡いから、鴨川さんは人より早く物事の本質を見抜い
て口に出してしまうから、時に人に厳しく見えるのか。この正解を彼女はあの時点で既に
…。
そしてわたしが今彼女の言いたい事をそれだけで分ると知って、敢て言葉を長々続けず、
答も待たず、告げる事だけ告げて。損な性分なのかも知れない。正直なだけに、自身にも
他人にも正直であろうとする故に、妥協や欺瞞や手加減を嫌う想いを鴨川さんは表に出す。
同時に、それを分る者への好感も隠さず出す。そのややきつい性格は率直さの裏返しなの
だ。真弓さんに、少し似ているのかも知れない…。
幼い双子を連れた真弓さん達は先に引き上げる。わたしは今夜詩織さんに付き添わねば
ならない事情を話した。片付けを終えた後、着替えに一度羽様へ戻るけど、今日の夕飯は
共に出来ないと、折角来てくれたサクヤさんに頭を下げて。サクヤさんも、事情は承知で、
「良いよ。あたしはもう少し、いるからね」
年下の想われ人の処に行っておいで……。
どっちにしても今夜は真弓と延長戦だし。
「1勝した後の2回戦目よ、サクヤ」
さりげなく負けを減らす言葉に牽制が入る。
「じゃ、先に帰っているよ」
赤兎に荷物を積み込んだ正樹さんが出発を促し、美人2人が車に乗り込む。笑子おばあ
さんは既に、幼い双子と車中の人だ。桂ちゃんと白花ちゃんが窓越しに手を振ってくれる。
見送った後で、本格的な片付けも後日という事で、雨に当たらない程度に物を脇に寄せ。
「みんな、今日までどうも有り難う」
クラスメートに深々と頭を下げる。
詩織さんを受け容れてくれて、心通わせてくれて。みんなのお陰で運動会も無事出来た。
「みんなの助けがあったから」
陰に陽に、支えてくれる人がいなければとてもここ迄出来なかった。詩織さんに想い出
を作る事も、わたし達に詩織さんの想い出を刻む事も出来なかった。全部、みんなのお陰。
「一番頑張っていたのは羽藤さんでしょう」
私達は脇役をこなしただけよ。
あなたの想いには誰も及びようがなかった。
佐々木さんが柔らかに微笑む。
「あたしが割り込む隙全然なかったからね」
和泉さんが肩を竦めてぼやいた後で、
「ま、ゆめいさんが一番生き生き綺麗に映えていたから、見ていたあたしは満足だけど」
「羽藤さん、その、今後もよろしく」
少し言い難そうに頭を下げたのは川島君で、
「仲良くして貰えたら、俺、嬉しい」
「こちらこそ、宜しくお願いします」
手を膝の前に揃え、微笑みつつ頭を下げる。
「黒川君も、宜しくね」
左隣で言葉に迷いつつも似た様な姿勢でいる黒川君に頭を下げると、少し目を丸くして、
「よ、宜しく。と、友達として……」
赤くなりすぎると、わたしの頬も染まる。
「羽藤は男女みんなにモテモテだな」
金子先生の声にみんなが向き直る。
「わたしがみんなを、振り回した所為です」
今後は気をつけます。先生にもたくさんご迷惑かけて、申し訳ありませんでした。
んっ。先生はわたしの謝罪を率直に受けて、後ろから導いてきた人影に、その場を譲っ
た。
「皆さんには色々して頂いて、有り難う…」
佐織さんだった。この時詩織さんは具合が良くないので、雅彦さんと秀彦さんで担いで
車に乗せている最中だった様だ。先生とみんなを向いて、深々と頭を下げてお礼を言って、
「あなたにも、随分と」
わたしの間近に歩み寄ってきて語りかけ、
「いえ。わたしは、詩織さんに苦しみを…」
みんなはともかく、わたしはむしろ。その言葉を佐織さんは全て言わせず、頷き肯定し、
「ええ。苦しませ、泣かせてもくれたわね」
「はい……」
否定しない。それはその通りだったから。
確かにわたしは彼女を苦しめ、涙させた。
「分っていて、為したのだものね」
「はい、その通りです」
俯き加減になる顔を無理に上げたその瞬間。
頬を平手が走り抜け、軽い音が周囲に響く。
佐織さんの怒りが心に痛かった。人を叩かねばならない程の怒りを抱かせた、この身が
申し訳なかった。周囲にはどう見ても子供を叩いた佐織さんが悪者に見える。そうじゃな
いのに。佐織さんを今動かすのは詩織さんの苦痛を嫌い涙する事を嫌う、母の想いなのに。
わたしはこれを受けるに足る事を為した。
わたしはこんな罰で済まない罪を犯した。
わたしは怒りどころか憎悪にさえ値する。
詩織さんを想う佐織さんの心が分るから。
わたしは唯、黙ってそれを受けて立って。
一度で終るとは思わない。二度でも三度でも足りるとは思えない。でも、否、だからこ
そこの身で受けないと。わたしが受けないと。下腹に少し力を込めるわたしに、佐織さん
は、
「憎さ余って、愛しさ百倍よ。有り難う…」
正面から覆い被さり、全身で抱き留めた。
「詩織が苦しみを承知で求める程大きな存在。詩織を泣かせ抱きつかせる程深く刻まれた
人。詩織を苦しめて泣かせた事に憤りは限りないけど、それに百倍する想いを刻み、活を
注ぎ込んでくれた。詩織の心に火を灯してくれた。想い出だけじゃない。あなたは詩織の
消え掛っていた生きる望みを注ぎ直してくれたの」
あんなに生きて元気な娘を見るのは初めて。
最後の最後にこうなれたのは、皮肉だけど。
「でもこれは紛れもなくあなたのお陰。あなたが詩織を苦しめ涙させる迄踏み込んでくれ
て、初めて出来た。誰にも出来なかった。有り難う。あなたには感謝の思いも尽きない」
温かな感触と涙声がわたしを包んだ。
感激も憤激も共々心を満たしている。
「貴女がいなければ、詩織は唯ここを去るだけだった。友達に心開く事もせず、みんなに
大事に想って貰う事もなく。あなたが詩織をみんなと繋ぎ、みんなに詩織を繋いでくれた。
あなたは詩織と私達の恩人なの。有り難う」
心からの想いが、肌を通じて感じ取れる。
「だからお願い。もう少しだけ、私達が羽様を離れる迄もう少しだけ、詩織に付き合って。
友でも姉でも恋人でも良い。詩織の想いにもう少しの間だけ、その身全てで向き合って」
詩織の母としてお願いします。
わたしの答えは決まっている。
「わたしで、詩織さんの役に立てるなら…」
身も心も、詩織さんに尽くさせて下さい。
その熱い想いを叶えたい。その強い求めに応えたい。その優しい心に報いたい。ふつつ
か者だけど、何の力も使えないわたしだけど。全身全霊応えたい。羽藤柚明の全てを込め
て。詩織さんにも、詩織さんを想う佐織さんにも。
佐織さんの背に腕を回し、承認と言うよりわたしの願いとしてそうさせて欲しいと伝え
ると、佐織さんは深く頷いて、視線は向うに、
「ごめんなさいね。皆さん。皆さんの大切なゆめいさんを、もう少しだけ詩織に独り占め
させてしまうけど。詩織の、否、私の我が侭にどうかもう少し我慢して見守って下さい」
詩織が惚れ込んだ気持が分る。
それは声ではなく肌を通じて、
『私、娘の恋人に惚れてしまったかも……』
その夜わたしは、一晩中不調に苦しむ詩織さんの手を握り続けた。できる事は殆どなか
ったけど、役に立てる事は殆どなかったけど。癒しの力も使えず、詩織さんに勝利の一つ
も用意できず、苦しみ続ける詩織さんの間近で唯寄り添う他に何も出来なかったけど。亡
くなったお父さんが、お母さんに寄り添う以上何も出来ぬ己を悔しく想いつつ、でも決し
て腐らず離れようとしなかった事を想い出した。
わたしも叶う限り、詩織さんの心に寄り添い続ける。身体はもうすぐ離れてしまうけど、
わたしがしっかり胸に抱く位、詩織さんの胸にわたしを抱いて貰える様に。為せる限りを。
最後の数日は瞬きする間に過ぎ去った。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
終業式の日、空は旅立ちを祝うかの如き快晴だった。授業はなく、朝学校に顔を出して、
先生の訓辞を受けて式に出て、休みへと入る。宿題の類は昨日既に大量に貰っている。だ
からみんなの気持もかばんも今日は最高に軽い。
詩織さんの迎えの車は校門脇で待っている。引っ越しは詩織さんの登校後に始まってい
て、既に家はもぬけの空だ。詩織さんは式を終えると、昨日迄帰っていた家に帰るのでは
なく、待っている家族と新居に向けて旅立って行く。
校舎を前に、照りつける陽射しの下、
「出会いが別れの始りならば」
詩織さんは正面のわたしに、
「別れは出会いの始りだよね」
うん。とわたしは頷き返し、
「お手紙、書くから。羽様の事、わたしの事、みんなの事、書き綴るから。必ず書くか
ら」
「……うん。わたしも、書くよ」
詩織さんの見送りにみんな来てくれていた。先生も年少さんも、勿論クラスメートも全
員。わたしのたいせつな人の出立を、わたしのたいせつな人みんなが見守る。それが有り
難く嬉しかった。みんなはわたしと詩織さんに気を遣って、少し後ろに下がっている。佐
織さん達も詩織さんから少し下がって控えている。
どちらが先に腕を伸ばしたのか憶えてない。
どちらが先に受け止めたか、飛び込んだか。
気付けば詩織さんはわたしの腕の中にいて、わたしは詩織さんの腕に背中を絡め取られ
て。
「みんな、みんな大好きっ!」
詩織さんの感極まった声は、
「羽様小学校のみんなが好き。
こんな気持になれるなんて思ってなかった。
こんなに幸せになれるなんて信じられない。
お別れだけど、寂しいけど、心細いけど」
良かったよ。みんなと出会えて、みんなと心通わせて、みんなと一緒に羽様小学校でっ。
「ゆめいさんだけじゃない。みんなが好き」
こんなに熱く温かい気持になれるなんて。
「ありがとう。みんな、ありがとう!」
そう思わせてくれたゆめいさんにも。
「生れてきて良かった。わたし今幸せ」
わたし、ゆめいさんを心に思い浮べる事で、これからも、生きていける。頑張って行け
る。
「わたしの憧れた人、わたしの恋した人、わたしの心に踏み込んでくれた人、そこ迄大事
に想ってくれた初めての人、わたしのたいせつなひと。愛しています、羽藤柚明さん!」
誰1人異見を差し挟まなかったのは、これが別れの場で今限りと思えた為か。所詮子供
のやり取りに見えた故か。詩織さんの勢いに呑まれた故か。わたしも迷いや躊躇いはなく、
一世一代の告白を受け止めて、静かに頷いて、この場の誰の耳に入る事も承知で常の声音
で、
「わたしも、確かにあなたを愛しているわ」
今迄も、今この時も、これからもずっと。
詩織さんの声はもう募る想いを表しきれず、涙と吐息で、号泣で発散する他に術もなく
て。
校歌を歌おうと言ったのは金子先生だった。
普段誰も重きを置かない、式典時位しか口にしない、義理で歌う事が殆どの校歌だけど。
でも、今みんなが過ごせた学校を象徴する物は、今みんなと共有できた時間を繋ぎ止め
る物は、何の変哲もなく面白可笑しくもないこの校歌だった。決して音程もリズムも合っ
ていると言えない、伴奏もつかない声の連なりだけど。その歌声に心が乗ると、詩織さん
の瞳からわたしの頬に肩に、止めどなく雫が。
「詩織さん、いつでも帰って来て良いのよ」
病を治して、病やっつけて、病片付けて。
「わたし待っている。待ちきれなくなったら治しに迎えに行くかも知れないけど、暫くは
羽様で待っているから。わたし出迎えるよ」
ご飯食べさせてあげる。お料理もっと上手になって、もっと美味しく作って食べさせる。
「わたしのたいせつなひと。特別にたいせつなひと。身体は遠く隔たっても、気持はずっ
と繋っているから。運命の赤い糸は結びついているから。その端は握って放さないから」
訣れの時も瞬きする間に過ぎ去って行った。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「恋に破れた乙女になるかと思ったけど…」
わたしが思った程には落ち込んでない事に、サクヤさんは少し安心した様だ。中庭で桂
ちゃんと白花ちゃんを遊ばせるわたしの間近で、傷心を気遣ってくれる美しい人を見つめ
返し、
「落ち込んでは、いられませんから」
わたしが戦い続ける限り全ては終らない。
真弓さんに教わったその言葉を口に出し、
「やらなきゃならない事が、増えましたし」
最近休みがちで修練も滞っている。夏休みの宿題もあるし、桂ちゃんと白花ちゃんはど
んどん大きく可愛くなっているし、離れ離れになった人にはお手紙を書くと約束したし…。
『お勉強、本格的に始めないと』
今迄は先生や笑子おばあさんや周りの人が喜んでくれる事を励みに勉強していた。解け
なかった問題が解け行く事が面白くて勉強していた。でもそれだけじゃなく、それ以上に。
わたしは今目標に進む為に学問を欲していた。
子供にできる事には限りがあるけど、子供はいつか大人になれる。積み重ねていけばい
つかは届く。今のわたしにできる事は限られているけど、積み重ねていけば何年か先には。
贄の血の力が本当に病に使えないのか否かも実は定かではない。笑子おばあさんはそう
言ったけど、わたしの血の濃さと効果は既に、笑子おばあさんの予測を超えつつある。修
練次第では今迄不可能だった事が可能に出来て、新たな展望を望む事が出来るかも知れな
い…。
『決意が、運命を切り開く事があるんだよ。
決意が、及ばない筈の何かに届く事もね』
それも笑子おばあさんの言葉だったから。
人には医学もある。詩織さんの病は現代医療でも治癒の術も分らない難病だけど、医術
を究めても届かないかも知れないけど。不可能は辿り着かねば分らない。まず辿り着こう。
医学と血の力を併用し、補い合えば或いは…。
悔しいけど、残念だけど、この世にはどうしようもない事もある。人の手や努力ではど
うにもならない事がある。どんなに頑張っても頑張っても及ばない事がある。だから人の
手でどうにかなる事は、努力で何とかできる事は、何とかしよう。全身全霊立ち向かおう。
そうして目を開き続けたから。
そうして向き合い続けたから。
人の手が及ばぬ筈の何かに届く瞬間も見た。
わたしは真弓さん程強く綺麗ではないけど。
それでもこの身の及ぶ処迄。為せる限りを。
決して無駄にはならない。否、この人生を無駄に終らせられはしない。守られ託された
この生命は、誰かに尽くし守り繋ぐ為にこそ。大切な人の役に立てる様に。力になれる様
に。身を尽くせば大切な人を守り助けられる様に。
「いつかサクヤおばさんも、守れる様に…」
この世は愛に満ちている。愛すべき人で溢れている。たいせつなひとが沢山いてくれる。
だからわたしも生きて頑張らないと。尽くせる様に、守れる様に、救い助けられる様に…。
不意に上から、大きいけどしなやかなサクヤさんの右腕が降りてくる。くしゃっと髪の
毛を掻き回す様に強く撫でられる。そう思ったら、今回もそれは頭に降りず、わたしの左
肩に軽く置かれ。真弓さんや正樹さんに逢った時にする様に。くしゃっと強く撫でるのが、
サクヤさん流の愛情表現で、挨拶だったのに。桂ちゃんと白花ちゃんには、この滞在の間
も毎朝そうしているのに。わたしはもしかして、
「その時はよろしく頼むよ、柚明」「はい」
その視線は唯わたしを愛でる以上に、わたしの将来への期待・信頼を宿して輝いていた。