第1話 最後の運動会(前)
月曜日、やや早めに羽様のお屋敷を出発したわたしだけど、羽様小学校に着いたのはい
つもより少し遅れ気味で、始業ベル迄十五分程を残す頃合だった。いつもならもっと早く
着く処だけど、身体の各所に残る痛みをおして6キロの道を歩くのは、まだちょっと辛い。
ちょっと辛いで済む事が、実質奇跡だけど。わたしが金曜日夕刻に瀕死の重傷を負った
事実を話しても、誰も信用すまい。多少痛みはあるけど、もう傷も塞がっている。笑子お
ばあさんの言葉通りだったけど、本当にわたしの家系は特異な血と力を宿すらしい。それ
も、使えてなんぼの話の様だけど。尚少し痛むので、今日の体育は見学する積り。今日か
ら運動会の練習だけど、遅れは後で取り戻そう…。
「おはよう」「お早う」「おはー」
一年生から六年生迄全て顔見知りで、会えば挨拶を交わすのが当たり前なのも、田舎の
少人数の故か。わたしも全員を知っているし、知られてしまっている。正確に言うと羽様
にはない羽様小学校は全校生徒二十六人、複式学級の五年生と六年生の合同クラスは、わ
たし達六年生が5人で、五年生が4人の9人だ。
わたしが教室に入った時は、既にその殆どが揃っていた。バス通学の人は登下校に合わ
せたバスが限られるので、ほぼみんな一緒だ。わたしの様に比較的近くて歩きの人が、登
校時間にややばらつきがある。教室に一瞬さっと走る微かな緊張は、いつももう少し早い
わたしがやや遅れ気味に出席した所為ではなく。わたしが現れた事自体に向けた緊張だっ
た…。
「お早う」「おはよっ、ゆめいさん」
挨拶に応えてくれたのは、和泉さんだった。彼女はわたしを巡る緊張の因となった金曜
日昼休みに居合わせたけど、それを引きずって炸裂した放課後には居なかった。取りあえ
ず受け答えが成立したので、表向き空気に違和感はない。他に掛けられる声がない事は予
期できた。声を掛けるべきなのはわたしの方だ。
級友達の表情に見える緊張と動揺と困惑に、気付いても気付かぬふりで、わたしは教室
を横断して自身の席にかばんを置くと、くるりと踵を返して廊下側の男子の席に歩み寄っ
て、
「沢尻君……お早う」「お、おはよう羽藤」
席に座した侭、同級の女子2人、鴨川さんと佐々木さんが側に立って、何事か話してい
た様だ。その話を中断させる事になったけど。挨拶以上に何かあると察して向いて来る彼
に、
「金曜日は……ごめんなさい」
開口一番、率直に言って頭を下げる。
「折角わたしの事を心配してくれて、雨の中迄追いかけてきてくれたのに。まともにお話
に応えられなくて、一緒にずぶ濡れにさせちゃって……色々迷惑かけて、ごめんなさい」
その瞬間、教室内の会話が一斉停止した。
「あ、ああ……。俺は、気にしてないけど」
それがこの教室を走り抜けた、わたしを巡る緊張の原因だから。みんなの応対を微妙に
戸惑わせ、心を身構えさせている原因だから。わたしが自分から状況を打開して変えない
と。わたしが原因なら、わたしに変えられる筈だ。わたしが変れば、空気を作り替えられ
る筈だ。
視線がわたしと彼に集まっているのが分る。
「その、俺が気にしているのは、みんな仲良くできれば良いなってだけで、それは……」
羽藤もそうだったんだろう。顔に書かれた気持は読める。金曜日の衝突の当事者だった
わたしが、月曜日朝に動くとは想定外の様で、珍しく動揺し。心が整理されてない。もっ
とゆっくり話すべきだけど、始業ベル迄余り時間がない。彼に伝えるなら充分だけど、金
曜日わたしが迷惑を掛けたのは彼だけではない。
「佐々木さんも、ごめんなさい」
わたしは沢尻君の間近にいた赤い縮れ髪の長い、佐々木華子さんに頭を下げる。彼女も
金曜日の放課後、沢尻君とわたしを心配して雨の中グラウンドに出て、ずぶ濡れになった。
「色々と迷惑を掛けて、沢尻君や佐々木さんまで巻き込んで。金曜日はきちんと謝る事も
お礼も言えなかったから。ごめんなさいと一緒に、わたしを心配してくれてありがとう」
その心と身体を振り回してしまった行いに、心から申し訳ないと頭を下げる。佐々木さ
んも驚きが抜けきらない様子で、目を白黒させていた。でもわたしはその返事を待ちきれ
ず、
「鴨川さんにも、ごめんなさい」
雨中に2人を引き回す事になった原因には、クラスの多くが関っていた。わたしの想い
は間違ってないと思うけど、その表し方は思い返せば感情的で人に不快を与える行いだっ
た。
その金曜日夕刻に生命の危機に瀕したわたしは、多少の傷みを残しても今ここに生きて
いる事が奇跡のわたしは、わたしに起因する障害の除去へ、頭を下げる事に躊躇いもなく。
「わたし、生意気な事言っていた。感情的になって、人の気持を考えず言葉を発していた。
人を不快にさせた事に気付いてなかった。ごめんなさい。きちんと想いを整理して伝えれ
ば、滑らかに事は済んだかも知れないのに」
金曜日昼休み、五時限目の体育を前に給食の後、みんなで先にジャージに着替えてバレ
ーをやるのは暗黙の了解だった。田舎の世間は少人数だからみんなで足並みを揃えないと、
頭数が足りたり不足したり全体に即影響する。わたしはそんな中、五年生の詩織さんの引
っ込み思案を説き伏せて体育館に招いた。みんなと一緒に動きたい気持が視えたから。共
に遊びたいけどそう言えない躊躇を感じたから。身体が弱く運動が苦手で、入り込み難い
雰囲気は分っていたけど、自ら閉ざしてはダメと。
『詩織さんも、早く行こう』
『わたしは、今日は体調、良くないから…』
平田さんは、なぜかわたしの声にぱあっと頬を赤らめながらも少し俯き加減にそう応え。
『見学、するの?』
『授業は出るけど』
遊びには行かない。自分はお呼びではない。身体が弱くて遊び相手にならない。招かれ
ざる客は行かない方が良いと、顔に書いてある。最近のみんなには、そんな空気もあった
けど。
『一緒に行こう』
一つ年下の級友に声をかけた。引っ込み思案になって、みんなから遠ざかってはダメだ。
みんなは自覚して詩織さんを無視したり、仲間外れにしている訳ではない。でも、今詩織
さんが自ら離れれば、それがきっかけに……。
『でも、みんなはきっと……』
『【みんな】は一番に大切な問題じゃない』
詩織さんは、びっくりした様子で顔を上げ、わたしを見つめ返してきた。続きが気にな
った様だ。『みんなも待っているよ』や『みんなも貴女を嫌っている訳じゃない』等のや
や無責任な慰めや気休めを予測していたのかも。それなら受け流したのにと黒目が語って
いた。
そこにもう一歩踏み込んで、その心の壁に爪を引っかけて、こじ開ける為に力を込めて、
『わたしの今一番大切な問題は、詩織さん』
『わたしがあなたを誘っているの。例えみんなが貴女を求めなくても、わたしは貴女を求
めている。わたしと一緒に、行きましょう』
黒目が大きく見開かれた。これは気休めでも慰めでも、期待でも予測でもない。わたし
が詩織さんを求め誘ったのは事実、この気持は詩織さんが今聞いた通り。みんなは別とし
て、羽藤柚明は平田詩織を求めている。その事実に、閉ざしかけた双眸が大きく揺れ動く。
羽様小学校の五年生4名の内、女子は詩織さんだけだ。六年生は5名中の4名が女子で、
クラス9名の半分は女子だけど偏りが大きく、心を開きにくい状況ではある。年齢や性別
を変えられない以上、気の持ち方や対応を変えていかなければ。そして年下の悩みは年上
が面倒を見る。わたしが、そうされてきた様に。
『じゃあ、行きましょう』
みんながあなたを受け容れてくれるかどうかは分らない。でも、できる事はやらなきゃ。
あなたからみんなに背を向けてはダメ。みんなの気持を、先にあなたが撥ね付けてはダメ。
『わたしが、一緒に行くから』
自分はこの世に1人ではない。サクヤさんがわたしの身体と心を抱いて、そう感じさせ
てくれたから、わたしは今迄生きていられた。誰かが心から望んでくれれば、それを心か
ら感じ取れれば、それが人の生きる支えになる。
わたしはそれを伝えたかった。誰か1人にでも心から望まれれば生きる値を感じ取れる。
前向きに生きる姿は好感を呼ぶ。その存在を心から望む人は現れる。最悪ここにわたしが
いる。あなたを求めるわたしがここにいると。
でも……。
体育館では、詩織さんが運動音痴でチームのお荷物になると、押しつけ合う状況が既に
できていた。みんな揃う事が必須の筈の少人数の世間で、1人を外す動きが無自覚に進ん
でいた。詩織さんが来ない事が前提になっていた。わたしが思い描いた『みんな』と、他
の人の思い描いた『みんな』は、違っていた。
『平田さん、体育は見学じゃないの?』
昨日まで3日も休んでいたんでしょ。
鴨川さんが遠回しに言いたかったのは、体育を見学する程体調が悪いなら、遊びにも参
加できないよねと言う事だ。でも確認の形を取った誘導は決して彼女1人の思いではない。
『チーム組み、どうしようか?』
頭数が奇数なので、誰か1人が審判になる。それはわたしが受ける事を申し出たのだけ
ど。
『五年生対六年生で、やってみる?』
『止めてくれよ。平田を入れたら、永遠に5年は6年に勝てないって』
佐々木さんの提案は、五年生の北野君に一蹴された。子供の1歳の年齢差は体格や技術
に大きく響くと言う。でも、五年生は平田さん以外全員が男子で、六年生は5名中4人が
女子だ。それ程戦力差があるとは思えない…。
『それより、男子対女子にしようよ』
同じ五年生の黒川君の提案は逆に、
『冗談! 平田さんを入れて、女子が男子と試合になると思っているの?』
鴨川さんが却下した。6年唯一の男子の沢尻君が抜けて敵方に行き、代りに平田さんが
入るのでは競技が成り立たないと迄言い切り、
『巧く組めないわね。平田さん、あなた最初の1回だけ審判やってくれないかしら。その
間に考えましょう。羽藤さん、入って』
テストで面倒な問題を後回しにする感じで、平田さんを審判に指名する。わたしが流さ
れて了承すればみんなそれを通す。その構図が目に見えた。平田さんを外す意思がみんな
にある訳ではない。でも、反対の声がなければ、大きな声がみんなの無言の了承で通る。
わたしが了承すれば、最初に審判を申し出たわたしが審判を平田さんにお願いとさえ言え
ば…。
『そんなに巧い組み合せを考える事はないの。得意不得意をカバーし合うのがチームの筈
よ。誰もがいつも最善の仲間と組める訳じゃない。チームワークって元々助け合う事でし
ょう』
わたしは戦力差を合せたがる声に異議を唱えた。戦力が伯仲した方がゲームは楽しめる
けど、その為に誰かを外して本当にゲームを楽しめるだろうか。尤もらしい理由を付けて、
みんな自分が何をしているのか分っているの。
わたしは多分怒っていた。説き伏せた時にわたし達が感じた危惧は、杞憂ではなかった。
誰も明確に言葉にもしない侭、詩織さんも詩織さんを外そうとする人も『空気』で隔てら
れつつあった。その空気に多分、怒っていた。
『五年生でチームを組む事に問題あるの?』
北野君に問いかけると、スポーツ刈りの小柄な北野君は、俯き加減に目線を逸らせて、
『平田が入ると、足引っ張るんだもん』
『羽藤さんの方が綺麗だし、動きも良い。俺、羽藤さんとならチーム組みたい』
平田さんの身が竦むのが見なくても分った。
『やるなら勝ちたいよ。なあ』
男の子とはこういう生き物なのか。目先の勝ち負けに、どうでも良い勝ち負けに拘って、
大事な物を忘れて気付かない。
『勝てる状況を自分で作って、その上で勝つ事に喜びを感じているのなら、止めないわ』
『それが望みなら、中学生でも先生でも連れてきて勝てば良いわ。鴨川さんも』
『競技で相手を倒す事が、目的じゃないのに。休み時間に愉しむバレーに、戦力とか拘っ
て。人を弾き出して、それで本当に楽しめるの』
『これは、詩織さんの問題じゃない。詩織さんを外して、それで楽しく遊べるかもと思い
かけた、みんなの問題なの。そんな事がある筈ないと、即座に拒まなきゃいけなかった』
世の中には、流されちゃいけない時が偶にある。絶対少数で、孤立すると思っていても、
声を上げなきゃいけない時が偶にある。乗ってはいけない誘いがある。それがこの時だと。
『わたしは【みんなで】遊ぶと思ってきたの。一人一人が遊びたい友達や人数を好きに選
んで遊ぶなら、それはそれで構わない。わたしもわたしでそうするわ。でもわたしは今
【みんなで】遊ぶと思っていたの。【みんな】が揃わないなら、わたしはこの遊びから降
りる。
詩織さんが参加できない遊びには、加わらない。詩織さんじゃなくても、誰か1人でも
入る事を拒む遊びには入らない。それでわたしを入れてくれないなら、それで構わない』
誰かを外そうとする空気にわたしは異論を唱えた。みんながやろうとしている事を露わ
に見せた。誰も責を負わず流され行く空気を読むのではなく、行き着く先を見てと促した。
詩織さんを外す流れを認めれば、それ以外の面々もみんなでなくする。みんなでなくなる。
それが本人の責によらない、努力で補えない身体の弱さに起因するなら尚のこと。みん
なでないモノにわたしは乗らない。引っ込み思案でわたしと似た雰囲気を持つ一つ年下の
クラスメートを、わたしは捨て置けなかった。それは今でも、間違いではないと思うけど
…。
その場を仲裁してくれたのが沢尻君だった。沢尻君はわたしの訴えが正しいと認めた上
で、学年や男女が混在したチーム割りを再提示し、硬直した場を決裂もなく誰の非も問わ
ず収め。わたしが詩織さんを思う余り彼女を外す動きに強く抗ったのに対し、彼はそんな
わたしも含めたみんなを広く視野に収めて事を円く…。
放課後わたしが去った後、教室に残った面々の不満が沢尻君に集まった。わたしの意見
を取り入れた仲裁に、その仲裁をした沢尻君に、何人かのクラスメートの憤懣が集まって。
『博人、あんた何とかしてよ、あの女を!』
『言っている事は間違いじゃないんだけど』
『よく言えるよ、みんなに向ってお説教を』
『生意気なのよ、あいつ。この前越してきたばかりで。大体何なの、いきなり羽藤って』
『まあまあ、あれはあれで収まったんだ。良いじゃないか。あの場で文句が出なかったん
だから、みんなもあれに了解したんだろう』
みんなが完全に納得し綺麗に決着したとは、わたしも思ってない。唯、誰も責める結果
にならず、誰にも責を負わせず、丸く収めたのは沢尻君だ。それに納得しないなら、それ
は。
『俺は納得した訳じゃない。沢尻さんが言ってみんなが了解したから、従っただけだよ』
多くの人が己の見解を最後迄あの場で出さなかった。その真意はこう言う事だったと…。
『良い家の生れだからって良い気になって』
『突然土足で入って来て。仲間でもないのに、仲間の顔で、仲間の様に掻き回して、偉そ
うに正論言って。みんなの空気を勝手に壊して作り替え、それで当たり前なのが許せな
い』
『全部が違うんだよ。そこは、わたしたちもそう言う人なんだって、受け止めないと』
佐々木さんは鴨川さんを宥めていた。でも、そこで仲間だと反論してくれないのは、正
直心に刺さった。仲間ではないと、一緒にいても本当は受け容れてないと。わたしは何年
居てもここでは所詮お客様だ。少し寂しかった。
忘れ物を取りに教室に引き返したわたしは、その話を半ば以上聞きその本音を大凡知っ
た。それに気付き、逆にみんなの視線も凍りつく。
硬直を破ったのは、わたしだった。くるりと身を翻し、廊下を一直線に走り出て。ここ
にはいられなかった。いるべきではなかった。いてはいけなかった。わたしの教室ではな
い。ここはわたしを受け容れてくれる場ではない。
今朝の教室に走った緊張はそれに由来する。沢尻君は心配して雨中のグラウンド迄追い
かけてきてくれたけど、わたしは彼の忠告にまともには応えられなかった。沢尻君とわた
しを心配し更に後から来てくれた佐々木さん迄、ずぶ濡れにさせてしまった。わたしは…
…。
「気分を悪くさせて、ごめんなさい」
鴨川さんも佐々木さんも沢尻君も、金曜日の放課後に居合わせた。わたしが忘れ物を取
りに戻らなければ知る事が出来なかったみんなの本音を、目の当たりにしたその場に居た。
それは、かなりショックを伴う事実だったけど今は知って良かったと思う。知らなければ、
わたしに今の変化は生じなかった筈だから…。
「みんなにも、わたしの言葉足らずで不快な思いをさせて、ごめんなさい」
わたしの意志の伝え方が拙かった。それで真意が巧く伝えられなければ、わたしが悪い。
その上不快な思いをさせたならわたしが悪い。わたしは誰にも、涙を流して欲しくなかっ
た。わたしは詩織さんに哀しんで欲しくなかったけど、それを求める余り他の人に傷を与
えたのなら、それはわたしの罪で不徳で不注意だ。
「わたし、誰1人欠ける事なくみんな仲良くして欲しかったから。誰も寂しさを感じない
で毎日楽しく過ごしたかったから。でも…」
実はそれを願い詩織さんを人の輪に入れようとしていたわたしこそが、新参者でみんな
の中に入りきってなかった。なのにみんなと同じ様な姿勢で喋り行動し、何かを人に求め
ていた。それは間違いだった。わたしの勘違いには気付いたから、謝るから、改めるから。
「……みんなと仲良くしたい。仲良くして欲しい。これからで良いから、すぐでなくて良
いから、わたしもみんなの友達になりたいの。ふつつか者ですけど、宜しくお願いしま
す」
頭を下げるのは川島君と黒川君に向けてだけど、このお願いはクラス全員に。詩織さん
に限らず誰かを外す動きがあれば、わたしは何度でも指摘し思い直して貰うけど。そう言
う動きに沿う積りは今もないけど。孤立も覚悟は出来たけど。出来れば仲良く過ごしたい。
わたしの表現や言動に、不快を与え誤解を呼ぶ処があるなら直したい。謝りたい。そんな
わたしの右肩を後から軽く抑える女子の手は、
「あたしは最初からゆめいさんの友達だよ」
振り向いたわたしに和泉さんは微笑んで、
「改めてというなら、よろしくお願いねっ」
「ありがとう、和泉さん」
差し出された右手を両手で握ると、和泉さんも左手を添えてくれる。和泉さんは薄々状
況を承知して、知らないふりで応えてくれた。今迄友達でなかったのが誰かは知らないけ
ど、金田和泉は今迄通り羽藤柚明の友達ですと…。
「俺も、その、羽藤さんと、仲良くしたい」
右からの答は意外にも北野君だった。彼も金曜日の放課後には居なかったけど、
「俺も、平田には悪い事言っちゃったから」
反省している。平田にも、ごめん。
その視線が窓側の詩織さんに向くと、詩織さんは小さく首を縮めて頷いていた。わたし
の謝罪が、思わぬ波及効果を及ぼしたらしい。唯責めるだけ、人に求めるだけでは、必要
な成果は得られない。想いを曲げるのとは違い、届かせ方を変える事が、時には必要なの
かも。
「俺は最初から、誰1人欠けない事がみんなだって、思っていたけど。再確認だ」
沢尻君がわたしに向けて握手の右手を伸ばしていた。わたしは結局、彼の忠告に応えら
れなかったけど、受け容れられなかったけど、わたしを案じてくれる気持は、有り難かっ
た。今は伸ばされた右手を素直に、右手で受けて、
「有り難う、お世話になります」
その手を握ってから沢尻君は周囲に向けて、
「わざわざ羽藤の申し出を拒んで、みんなの輪を壊したい奴は、鴨か俺に言ってくれな」
「な、何で私に……?」
いきなり振られて目を丸くする鴨川さんに、
「クラス副委員長だろ」
「……分ったわよ。羽藤さん」
鴨川さんの右手がわたし達の手の上に乗る。
「これから、よろしく」
苦笑いしつつ、彼女はわたしの謝罪を正面から受ける。彼女とは今から友達になる。こ
れから友達になる。それで良い。今迄友達だと勘違いしていた事に向き直らないと、本当
の始りには立てなかった。居るだけで友達にはなれない。友達関係とは、その様に作ろう
という互いの想いが織りなす。わたしもみんなとその様な関係を作りたい、そうなりたい。
「……有り難う」「わたしも」
そこに間近の佐々木さんの右手が更に乗る。
和解への流れができていた。わたしが起した流れだったけど、みんなが受けて流れは出
来る。受ける側の心が応えてくれて受け答えは成立する。金曜日、わたしは己の想いを出
すだけで、応える人の立場を考えてなかった。答を返す側を想って問う事を、失念してい
た。想いをぶつけて、相手に不快感を与えていた。
「改めて、宜しくお願いします」
想いは間違いでなかったけど、表し方や伝え方に気を配るべきだった。想いが先走って、
真の求めから心の照準が逸れていた。それは詩織さんを含む誰1人欠ける事ないみんなで
居たいとの、大本の願いを崩しかねなかった。
想いが正しくても手段や経緯を誤れば願いを摘み取る事もある。その事を肝に銘じ、こ
れからは言動に注意しなければ。自身の立ち位置をしっかり見定めなければ。そして……。
「羽藤さん、あの……」
みんなとの和解が叶った頃に始業のベルが鳴る。先生が教室に歩いてくる迄2、3分か。
自席に戻ったわたしはすぐに座らず、後ろの席で声を掛けてくれた詩織さんに微笑みかけ、
「ゆめいで良いのよ、詩織さん」
みんなに頭を下げる事で生じるもう一つの不安を拭わないと。詩織さんを除こうとした
動きを指摘してみんなと溝を生じたわたしが、みんなと和解してもそれを元に戻す訳では
ない。わたしが元のみんなの流れに擦り寄って、詩織さんを外す側に立場を変える訳でも
ない。
「あなたは、わたしのたいせつな人だから」
詩織さんとの関係は今迄通り。金曜日昼休みの沢尻君の仲裁を誰かが覆さない限り、問
題はない筈だ。不満はわたしの態度についてで、詩織さんを尚外そうとの声はあの時もな
かった。今迄通りと言うより、金曜日放課後、忘れ物を取りに教室に戻る直前に、深まっ
た絆の侭と言うべきか。羽藤ではなく、ゆめいと呼んでと語りかけた、あの時の侭で良い
と。
その左手を、両手で握って持ち上げるのに、
「ごめんなさい。わたしのせいで、ゆめいさんが、みんなに謝らなければならなく……」
一つの安心が瞳を輝かせるけど、同時に口を突いて出るのは罪悪感。自身の所為でわた
しがみんなと関係を悪くしたり大変な状況になったと、迷惑を掛けたと、申し訳なく想い。
わたしはそれに首を振って、謝罪は受けず、
「そうじゃないわ。それは詩織さんの所為じゃない。それは、わたしの所為なの」
詩織さんをみんなの輪に入れようとしたからわたしがみんなの反発を受けた訳じゃない。
わたしの言い方が悪かったから、わたしの伝え方が拙かったから。それは全部わたしの所
為。詩織さんの所為じゃない。当たり前の事をやり損ねそうになったのは、むしろわたし。
「それでみんなにしこりを残して、詩織さんも受け容れて貰えなくなったら、それこそわ
たしの所為だった。ごめんなさい。その事で詩織さんにも、心配と迷惑を掛けちゃった」
想いは間違ってない、変える積りはない。
でも、わたしがミスしたのは事実だから。
「ううん、わたしは良いの。良いけど……」
その瞳を揺らめかせる滴が、綺麗だった。
思いが詰まって、言葉に表しきれなくて。
詩織さんはむしろ、安心できた為に緊張感が切れて、零れる涙を抑え切れない感じで、
「わたし何も出来ないから。ゆめいさんに何も返せないから。だから、心配で心配で…」
ゆめいさんが傷ついても、哀しんでも、わたし助けてあげる事も出来ないから。強くな
いから。ゆめいさんの様に強くないから。だからわたしのせいで、わたしのせいでみんな
と拗れたらどうしようって。どうしようって。
握る手の締め付けの強さが想いを伝え来る。
わたしは詩織さん迄心配させていた。
改めて己の未熟さを思い知らされる。
詩織さんは詩織さんなりに思い悩んでいた。その弾ける迄募った一杯の想いを受け止め
て、握ってくる温かな手の平を確かに握り返して、
「心配して、くれていたのね。有り難う…」
みんなの前だったけど、少し恥じらいもあったけど。詩織さんは気持を抑えきれなくて、
わたしもその想いに応えたくて。少しの間互いの両の手を絡み合わせ、2人の世界で気持
を通わせ合う他に昂ぶりを抑える術もなくて。
背の高く恰幅良い男性教諭が入ってくる迄、衆目の中だったけど、少女マンガの世界の
様にわたし達は手を握りあって、動かなかった。みんなの目にどう映るか、気にはなった
けど、気にしてどうにもならない出来ない事もある。
唯、嬉し涙を流す詩織さんに寄り沿っていたわたしは、入ってきた先生の目に止まって
状況説明を求められ、一時間目の始りを十数分遅らせてしまった。金曜日の話に繋げると
クラス中を巻き込むので、嘘はない侭簡潔に、
『その……嬉し涙です。詩織さんの』
『仲の良いお友達として、羽藤ではなくてゆめいと呼んで良いよって言ったのですけど』
嘘ではない上に詩織さんが胸を詰まらせつつわたしの説明に頷いてくれたので、わたし
が常日頃詩織さんを何かと気に掛けていると先生も知っていたので、納得して貰えたけど。
これで逆にわたしと詩織さんの関係は、みんなにも先生にも公認になったのかも知れない。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
詩織さんの転校の話を先生が明かしたのは、その直後だった。金子先生が詩織さんの嬉
し涙に子供の説明で納得したのは、転校を控えた詩織さんの寂しさを、加味していた為か
も。
わたしは先週金曜日の放課後、雨中のグラウンドで沢尻君からその事を聞かされていた。
彼も偶々得た情報なので、本当は先生が言う迄明かす気はなかったのだろう。わたしが詩
織さんに入れ込みすぎると危惧した沢尻君は、他に誰もいない処だからと敢て伝えてくれ
た。
『俺は羽藤が心配なんだ。平田とは夏休み迄の関りだ。もう、俺達にできる事は少ない』
『平田は夏休み迄しか学校に来ない。遠くの大きな病院で、長期療養に入るって聞いた』
あいつの身体の弱さは生れつきの病らしい。今迄騙し騙し保たせてきたけど、本当は二
十歳迄の生存率が半分に満たない、黙っていても弱っていく、遺伝的な難病なんだそうだ。
『職員室で先生が、平田の実家から電話を受けている処を聞いたんだ。先生も大事な話だ
から繰り返し聞いて、オウム返しに繰り返していたから、事情が呑み込めちゃったんだ』
あいつは、もうじきいなくなる。いなくなる者の為に、残る者から反感を買う事はない。
彼はそれを言う為に、教えてくれたのだけど。詩織さんではなく、むしろわたしを案じて
…。
『詩織さんには、夏休みがない……?』
『夏休みが、じゃない。学校生活がなくなるんだ。平田は向うではもう学校には通えない。
病室が彼女の生活の主な舞台になると、先生は言っていた。それも、退院の見込みがある
入院じゃない。良くなる見込みより、入院しても悪化を先延ばしするのが精一杯らしい』
「……という訳で、平田とは一学期が終る迄の付き合いになる。夏休み前には運動会もあ
る。みんなにとっても小学校最後の運動会だ。お互い、良い想い出を残せる様に頑張ろ
う」
先生は、先の見通しの暗さはぼかし気味に、詩織さんが病で遠くの病院に長期療養に入
る旨を両親と本人の許しを得たと明かした上で、
「危ない状態ではないが、無理をさせるのは良くない様だ。ここにいる間は出来るだけ通
常の授業を受けたいと言う両親の希望もあり、体育や運動会の練習も今迄の様に、その都
度体調を見て、見学か参加かを判断するが…」
沢尻と鴨川と、それに羽藤。
先生が指名したのは、学級委員長(兼児童会長)、副委員長とわたしの3人で。わたし、
役職もないけど詩織さんとの関係の深さで?
「平田に無理が掛らない様に見守ってくれ」
先生も勿論気をつけて見守るから。
子供達に見守らせる時点で、現状は余り危うい状態ではないのか。でも明かされた事実
はみんなには衝撃だった。それ迄の身体の弱さが病に起因するとは、思ってなかったから。
身近に重い難病の人がいるとは想定外だから。
ざわつく中、先生はやや大きな声で詩織さんが今日の3時間目以降は授業に出ず、早退
する旨を告げた。経観塚の病院で検査を受けると言う。詩織さんはわたしに話したい事が
あった様だけど、一時間目終了後の休み時間は、みんなで詩織さんを囲む形になったので、
それも自然の流れなので、互いに目線を交わすだけで諦めた。言葉は交わせなかったけど、
心は通い合っている。今日がこの世の終りではない。言葉や想いを交わし合える時はある。
詩織さんは2時間目終了後、詩織さんを見送りに1人校門迄付いて行ったわたしの前で、
自家用車で迎えに来たお母さんに、わたしを、
「わたしのたいせつな人、羽藤ゆめいさん」
恋人の様に紹介してくれた。ちょっと緊張して頭を軽く下げたわたしに、詩織さんのお
母さんは運転席から降りて、歩み寄ってきて、
「詩織の母の佐織です、初めまして。詩織が話していたゆめいさんって、あなたなのね」
いつも仲良くして貰っているみたいで、どうも有り難う。詩織は引っ込み思案で身体が
弱いから、中々人に解け込めない処があって、家も遠いからお友達も出来にくくて。
年齢は、四拾歳を少し過ぎた辺りだろうか。やせ気味の体型や容貌は詩織さんに似てい
るけど、性格は静かでも芯が強い印象を受けた。詩織さんが強くなればこんな感じになる
かも。
「……転校が決まっちゃって、限られた付き合いになっちゃうけど、詩織をよろしくね」
あなたの色に、染め変えてあげて。
「こちらこそ、宜しくお願いします」
わたしを見つめる瞳が、笑みで微かに緩む。顔は最初から微笑んでいたけど、視線は詩
織さんの話に出た『羽藤ゆめい』と実物を見比べていたのかも。面接に合格した様な感じ
を受けた。何に及第したかは不確かだったけど。
「また明日ね、ゆめいさん」
クラスメートが誰も付き添わなかったのは、わたしと詩織さんへの気遣いだったらしい。
佐々木さんの目配せでみんな察したと、和泉さんから後で聞いた。少し嬉しかった。詩織
さんがお母さんにわたしを紹介する様は、人目があると、少し恥ずかしかったと思うから。
その日の体育は四時間目で、ジャージの侭給食を取り、みんなでグラウンドでソフトボ
ールを使った三角ベースをした。わたしは体調不良で体育は見学だったけど、三角ベース
では審判を務めた。7人で4人のチームを2つ作った為、チーム間で人の貸借が常に生じ、
男子は疲れ果てていた。授業では、みんなが体育に励む姿を1人外から見るのは初めてで、
少し妙な気分だった。詩織さんはこの様な気分でみんなの体育を眺め見ていたのだろうか。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
羽様の屋敷に帰り着いたわたしに、今日明日は時間の余裕がある。いつもは毎日各種の
修練と幼いいとこの遊び相手と自身の勉強で夜迄日程は過密気味だけど、身体に残る痛み
の故に今日明日はお料理以外の修練が免除で、
「ゆめいおねえちゃん」「おそと、あそぼ」
身体の動く限り、夕食の支度に入る迄目一杯双子のいとこの相手が出来る。あと三月程
で2歳になる桂ちゃんと白花ちゃんは、間近な悪夢は綺麗さっぱり忘れ去った様子で、日
々の移ろいに心を奪われ、冒険心を刺激され。
「けい、はくか。柚明ちゃんは、まだ本調子じゃないんだから、余り無理させないの…」
お母さんである真弓叔母さんの言葉も耳朶の上を滑っていく。その真弓さんが役場への
届けを間違え、男の子用だった名を頂いた桂ちゃんは、その為か女の子でも何かと積極的
で元気に溢れている。女の子用だった名を頂いた白花ちゃんがやや大人しいのと好対照だ。
「大丈夫です。わたしは治りかけですし…」
週末はずっと叔父さんの心を騒がせ、お仕事妨げてしまいました。せめて桂ちゃんと白
花ちゃんを見る事で、叔父さんに静かな時を。座り込んだ姿勢で、きゃっきゃっと手足を
ばたつかせる幼児2人を左右に抱えるわたしに、
「……でも、余り遠くには、出ないでね…」
金曜日の事があったばかりだから、安全とは分っていても、声の届く処にいて欲しいの。
真弓さんの気遣う目線には、鬼を退ける強者ではなく、子供を案じる母親が宿っていた。
「はい、分りました」
今日は中庭の外に出さない。2人も車道に繋る緑のアーチ迄出ると、間近な危険と恐怖
を想い出しかねない。2人が怯え竦む姿は見たくなかった。それがもう実体のない、完全
に息の根を止められた物でも、心に怖れや不安は残る。健やかな笑顔を陰らせたくはない。
最近は桂ちゃんも白花ちゃんも走る事を憶え始め、冒険の最前線は中庭から緑のアーチ
に迄伸び始めていた。そのアーチの終着点で、先週の金曜日夕刻に幼い双子は生命の終着
に直面し、わたしは瀕死の深手を負った。禍も過ぎ去れば僅かに残る痛み以外跡もないけ
ど、危うかった。わたしの生命ではなく、この生命を抛っても守れない程凶悪な鬼に、桂
ちゃんと白花ちゃんが脅かされた事が危うかった。
3年前に、わたしのお父さんとお母さんと、お腹に宿っていた妹の生命を奪った鬼が来
た。わたしを追って、この生命を狙って、この身に流れる贄の血を欲して。3年前わたし
が青珠の守りを手放した為に呼び込んでしまった禍が、家族全員を死に至らしめた凶悪な
仇が。経観塚に迄追いかけて来て、漸く得たわたしのたいせつなひとに迄、害を及ぼそう
とした。
幼い双子を遊ばせて、緑のアーチの出口近くにいたわたしに、唯一の助けである真弓さ
んを呼ぶ暇はなかった。経観塚には鬼の嗅覚を攪乱する結界がある。青珠を持たずとも修
練がなくても、贄の血の匂いは気取られない。
全く備えをしていなかった。わたしは修練のお陰で1年位前から贄の血の匂いを抑えら
れる様になったけど、その鬼はわたしのやや珍しい名を役場の住民票や警察の被害者情報
から盗み取って、わたしの所在を追ってきた。
わたしの所為で大切な人が危害に晒される。
わたしの所為で大切な人の生命が奪われる。
防がなければならなかった。守らなければならなかった。食い止めなければならなかっ
た。この身を盾にしても、生命を的にしても、身を抛ってでも、幼い双子の未来を繋がね
ば。
『桂ちゃんの血も白花ちゃんの血も、一滴も流させはしません! この身に代えても…』
真弓さんから学んだ護身の術と笑子おばあさんから学んだ贄の血の力、わたしの血に宿
り鬼に好まれ呼び招くけど修練と使い方次第では鬼を退け弾く力にも出来る、の全てを投
入し、身体と生命の続く限り守り戦ったけど、強大な鬼には敵う筈もなくて。何本かの刃
物を刺され、豪腕で内臓を破る程に殴り蹴られ。白花ちゃんは屋敷に逃がせたけど、桂ち
ゃんはわたしの傍に踏み止まって必死の促しにも逃げてくれず、その逃げ足はもう間に合
わず。
死神の鎌はわたしを捉えていた。その死を受け止めつつ抗って、必死に抗って立ち続け。
放置すれば数時間で息絶える身体を想いの力で少しの間保たせ、桂ちゃんを守り庇う為に
立ち塞がって、禍々しい鬼の眼光を睨み返し。
『わたしが桂ちゃんを守るから。桂ちゃんの微笑みを守るから。血の最後の一滴になって
も守るから。それがわたしの生きる値で目的だから。桂ちゃんの為に今迄繰り越してきた
わたしの生命だったから。だから、大丈夫』
桂ちゃんの為だと思えば力が出せた。
たいせつな人の為なら己を尽くせた。
わたしの生命の値は守りたい者の生命の値。
わたしの生命の目的は守りたい者を守る事。
だから大丈夫。最後の最後迄大丈夫。わたしが生命を使い切ってもそれは負けじゃない。
わたしの負けは自分の値や目的を投げ出す事。守りたい者を守れず、目の前で奪われ失う
事。それを防ぎ止められるなら、わたしに悔いは。
わたしが誰かの為に尽くすのは当たりだと、得心出来たのはその時だった。鬼を前にし
て瀕死の深手を負い、尚退く事を許されない状況に置かれて漸く、わたしはこの人生が己
の為にあるのではなく、たいせつな人の守りに使う為に仮にわたしの元にあるのだと悟っ
た。
わたしの生命は3年前のあの夜からわたし1人の物ではなかった。それは託された生命
だった。お父さんやお母さん、生れる前に生命絶えた妹の代りに守られ引換に残されたこ
の生命は、自身の為に使うべき物ではないと。たいせつな人の為に間違いなく使い切れる
様、暫く預っていたに過ぎないと。誰かの守りや幸せを支えに尽くすのは、たいせつな人
の笑顔の為に己を捧げるのは、わたしの天命だと。
わたしが真に怖かったのは、生命の喪失ではなかった。真に怯えたのは、孤立ではなか
った。真に恐れたのは、守りたく望んだたいせつな物を、守れない事だった。或いは怖さ
や痛みや疲れの余り、自ら守りを放棄して逃げ出す事だった。守れる力や方法がある限り、
なければ身を削ってでも、たいせつな物を支え守りたい。守られて生命救われたわたしだ
からこそ、その想いを誰かに繋ぎ残さないと。
それが出来なければ、わたしがここに生きてある意味がない。家族を全滅に巻き込んだ
咎人のわたしが、誰にも何にも役に立てず終るなら、何の為に1人守られ生き残ったのか。
奇跡は起きなかった。気概で天地をひっくり返せる程に、世の中は不安定にできてない。
強靱な鬼に追い詰められ、わたしは深手を負いつつ桂ちゃんを庇い、1人逃げる事を己に
許せない侭、落日と共に己の落日を前にして。起きたのは必然だった。白花ちゃんが、お
屋敷から鬼を斬れる人を呼んできてくれたのだ。
「……?」
2人に引っ張られる様に中庭に足を踏み出した時、ふとした予感が心を掠める。誰かが
訪れる。どうやらこの、使えて余り意味のない関知も、贄の血の濃さと修練の波及効果ら
しい。暫くの後、緑のアーチの出口側を折れ曲がって近づく車のエンジン音が耳に届いた。
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先週の事があるので、思わず桂ちゃんと白花ちゃんを抱き留めて身構えてしまったけど、
無意味な怖れとすぐに分って自身に苦笑する。恐れも忌避も警戒も、不要な人の到着だっ
た。
訪問者を乗せた大きく真っ赤な車は屋敷の前で急停止し、運転席から荒っぽくドアを開
けて締める音と、草を踏みしめ駆ける足音が、
「柚明、あんた……無事だったのかい!」
やや癖のある長く艶やかな白銀の髪の人は、声と同時に疾風となってわたしに飛びつい
て、
「サクヤおばさん、お久しぶり」
長くてしなやかな腕にぎゅっと巻き取られて動けなくされた。大きくて弾力のある胸が、
わたしの胸を押し潰す。強すぎる位の抱擁が想いの強さを示して。心配、させちゃった…。
サクヤさんはわたしの返事より、今ここに生きてある事を温もりで確かめないと信用で
きないという感じで、わたしの返事は聞き入れず、その想いを声に変えて叩き付けて来て、
「あんた、骨折と刃物傷と出血多量と、その上内臓破裂だって聞いたから。鬼に襲われて、
あの3年前の鬼に襲われて瀕死の深手を負ったって聞いたから。あたしはまた間に合わな
かったのかって、あんた迄失うのかって…」
癖のある長い銀の髪が、わたしの間近で揺れていた。日本人離れして見事なスタイルの
全身が、わたしを抱き留め震えていた。揺れる瞳が想いを全て出し切れず、滴を湛えて…。
「あんた、確かに無事なんだよね。間違いなく生きているんだよね。……良かった…!」
幻や夢でない事を確かめて確かめて、尚確かめずにいられないという感じでわたしの身
を締める。その気持は嬉しかったけど、締め方がきつすぎて、まだ治りきってない身体に。
「ご免なさい、サクヤおばさん。少し痛い」
贄の血の力は修練次第で、人や鬼を弾いたり灼いたり戦いにも使えるけど、傷の治しや
疲れの癒しにも使い得た。鬼を倒すには力及ばなかったわたしだけど、鬼に与えられた深
手はこの週末で、ほぼ全治に持ってきていた。
それは止めの必要もなく、放置すれば死に至る深手だった様だ。想い返せば、救出直後
のわたしを見た正樹さんは青白い顔で即入院、即手術、それも経観塚の病院では対応不能
だから、都市部の大病院に運ぼうと言っていた。
真弓さんの止血や応急処置を受けても、わたし位血が濃くて修練がなくば、保たなかっ
たと笑子おばあさんが明かしたのは、土曜日夕刻だった。現代医療で手の及び難い深手に、
僻地の事情を抱え、血の力の賦活に希望を繋ぐ他術がなかったと、大丈夫になって後漸く。
修練で培った力の集中と持続、その効用に驚いたと語られた時は、わたしがびっくりした。
月曜日は学校に行けるし、傷も一週間掛らず痕も消えると笑子おばあさんが言ったから。
わたしはそれを信じ、血の力でその位できると思って、その言葉を真にしてしまったけど。
本当はおばあさんは藁に縋っていた様だ。逆にそれを先に知らされていたら、どうだろう。
結果この様に、強く抱き締められたり全力で動くと各所に痛みが走る程度迄戻せたけど。
「……あ、ああ、ごめん。つい、力が……」
痛みに顔をしかめたわたしに、慌てて力いっぱいの抱き締めを壊れ物の持ち方に変える。
わたしもサクヤさんの滴が伝う位間近に抱き留めて貰えるのは、痛くても嬉しかったけど。
両肘を軽く掴まれて、尚も潤んだ瞳で正面から顔色を見つめられる。真剣に過ぎる双眸
がわたしの瞳から心迄貫き通す錯覚を憶えた。
「ごめんなさい。まだ完治しきってないから、今日も体育は見学だったの。でも概ね大丈
夫。学校も歩いて行けたし、護身術と血の力の修練は休みだけど、お料理修練は予定通り
よ」
病院には行かなかったけど、その必要もない処迄身体は戻せている。桂ちゃんと白花ち
ゃんを庭で遊ばせるのにつきあえる位なのだ。そこで漸くサクヤさんも、ごく間近に危険
を潜り抜けた小さな2つの生命に気付いた様だ。
「サクヤおばちゃん」「サクヤおばちゃ…」
4本の小さな腕が伸びるのに、両手で抱き上げると、柔らかな肌を両の頬に受けて応え、
「ああ、桂と白花も危うかったんだね。柚明が守ってくれなかったら、2人とも今頃こう
して庭で遊ぶなんて、二度と出来ない処だったんだろうに。……真弓の奴ぅ!」
当代最強の鬼切りが、一体何をやっていた。
危険に遭った全員の安心を確かめた時点で、漸くサクヤさんの焦点が怒りの対象に向い
た。抱き上げて頬ずりする桂ちゃんと白花ちゃんをわたしに預け、ズカズカと屋敷に歩み
行く。
「さ、サクヤおばさん……」
双子を抱き留め受け取る間にサクヤさんはのっしのっしと屋敷に進み、止める暇もない。
頭に血が上った様子だったから、落ち着いて貰おうと声を掛けたけど、耳朶の上を滑って。
これは、一波乱どころでは済みそうにない。
「真弓、出ておいでっ……!」
「お帰りなさい、サクヤさん」
思い切り戸を開けたサクヤさんの前に、三和土から顔を出したのは、笑子おばあさんだ。
その勢いで、中迄乗り込んで怒鳴るか引きずり出すかしようという勢いを、打ち消され。
取りあえず声のトーンはやや落ち、
「ああ、笑子さんっ。ただいま……」
「お上がりなさいな。お茶を出すわ」
お茶菓子は何が良いかしら。羊羹?
笑子おばあさんは、サクヤさんの怒気を呑み込む満面の笑顔で出迎えて、中に招くのに、
「ん……そうだね、って待ったぁ!」
って、真弓はいる? あの、馬鹿。
珍しく流されかけて踏み止まった。
「屋敷の間近で白花や桂が鬼に襲われたって言うのに、柚明が死にかける迄気付かなかっ
たって言うじゃないかい。一言物申さないと。当代最強が聞いて呆れるよ。家庭の主婦に
なったからって、家族も守れないようじゃ…」
「お久しぶりです、サクヤさん」
後ろから現れて挨拶したのが正樹さんで、
「携帯電話を持ったと聞いたので連絡してみたんですが、まだまだ圏外が多く繋りが悪い
様ですね。留守電に入れておいたんですが」
携帯電話が通じる所に戻ってきて漸く事情を察し、仕事を放り投げて急遽ここに馳せ参
じたのか。サクヤさんの顔色が七色に変る様が目に浮ぶ。経観塚も町全体が圏外で、携帯
もまだ都市部のみの通信機器に過ぎなかった。
「やあ正樹、連絡は有り難かったけど……」
「大声は聞えているわよ、サクヤ」
再度冷静さを取り戻すサクヤさんに中庭から声届かせたのが、金曜日夕刻に鬼を斬って
わたしと桂ちゃんを救ってくれた真弓さんで。消えかけた怒りの釜に新鮮な空気が注がれ
た。
「真弓ぃ、あんたねぇ」
三和土の奥からではなく、わたしの背後から中庭を伝って現れた真弓さんに、サクヤさ
んが反転して、掴み掛る感じになる。冷静になって欲しくて左から取り縋ったけど、さっ
と両腕で脇を持ち上げられて、置き直された。
「あんた、傍で非力な柚明が桂を守って死にかけていたって言うのに、気付きもせず…」
真弓さんは反駁できないという以上に、抵抗せずにサクヤさんの想いを受け止めている。
肩を掴ませて、キスできる位顔を寄せられて瞳を向き合わせ、為される侭にそれを受けて。
「当代最強が聞いて呆れるよ。あたしを斬り殺そうとした時のあの切れ味は、どこに行っ
ちまったんだい。桂や柚明に、もしもの事があったら、あったらあんた……!」
気持は分るけど、わたしや双子を心配し真弓さんに物申したい気持は分るけど、緊急時
が過ぎ去った事で子供を前に、桂ちゃんと白花ちゃんを前に大人が啀み合うのは良くない。
「サクヤおばさん、落ち着いて……」
真弓さんの肩を掴む感じで身を乗り出すサクヤさんの左袖を尚も後ろから引っ張るけど、
サクヤさんは顔を真弓さんに向けた侭、左腕でわたしの右肩を軽く突いて、妨げを止めて。
正樹さんが何とか丸く収めようとするけど、火の付いたサクヤさんは誰も止められない
…。
「ゆーねぇ?」「ゆめいおねえちゃん」
わたしは、花香る中庭に俯せに倒れ込んだ。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
サクヤさんは、振り向いてわたしを指差した処だった。弾劾を拾分の一秒位硬直させた
サクヤさんは、それ迄の全部を一旦棚上げし、神速の早さで屈み込んでわたしを抱き上げ
て、
「柚明、大丈夫かい。柚明……!」
屈み込んだ膝の上に左から抱き上げ包んで、首を支えて問うてくれる。全身が震えてい
た。
失いかけたと報されて大慌てで駆けつけ無事を漸く確かめた。その相手が再度倒れれば、
平静ではいられまい。怒りも苛立ちも全部忘れて、目の前だけに視点を合わせ直す。目は
閉じていたけど、喪失に怯えたサクヤさんの双眸の震えと美貌の硬直は、瞼の裏に浮んだ。
真弓さんや正樹さんが歩み寄るのが足音で分った。桂ちゃんと白花ちゃんは間近にいる。
「しっかりおし!」
サクヤさんの顔色が、青くなるのを感じた。わたしは息を止めている。目を閉じて、声
にも暫く応えず。思い切り脱力させたので、体重全てがサクヤさんに抱き支えられた状態
だ。
答がない以上に、わたしの息が止まっている事に、サクヤさんは狼狽して、取り乱して。
「あたし、強く抱き締めすぎて傷口開いてしまったかい。もしかして、さっき軽く触って、
肩を突いてしまったのが、拙かったかね?」
あんたが瀕死の重傷だったって事を忘れていたよ。元気そうに桂達を遊ばせていたから、
すっかり安心して。ああ、目を開けておくれ。その唇で応えを返しておくれ。折角今無事
で逢えたのに、ここで倒れられたらあたしは…。
大声で意識を呼び戻すのさえ憚って、抱き留めた腕の中で、軽く揺さぶって語りかける。
わたしは突如、身を捩って顔をその腹に擦り寄せて、両腕をその背に回して抱きついて。
「落ち着いて貰えて、良かった」「柚明?」
わたしが死んだふりだと漸く悟った様だ。
驚きに目が見開かれている。次の動きより速く、我に返ったサクヤさんを抱く腕に力を
込めて暫く放さない。真弓さんを責めるのは充分だ。わたしの大好きなサクヤさんだけど、
わたしの大好きな真弓さんと口論をして欲しくない。しかも桂ちゃんと白花ちゃんの前で。
これは決して唯の悪ふざけではない。純真なサクヤさんを騙す事になったけど、悪い流
れを断ち切るにはそれしか術がなかったから。行いは軽いふざけでも想いは決して軽くな
い。
「わたしは無事だから。桂ちゃんも白花ちゃんも、みんな元気だから。鬼は真弓叔母さん
が斬ってくれたから。わたしはこうしてサクヤさんに逢えて、愛も言葉も交わせるから」
だからもう、大声で責めるのは止めて。
「柚明、あんた……」
「わたしを心配してくれる心は伝わったから。桂ちゃんや白花ちゃんへの想いも分ったか
ら。涙が出る程嬉しいから。心は満たされたから。真弓叔母さんをこれ以上、責めないで
……」
真弓叔母さんが助けてくれなかったら、わたしは今生きてここにいられない。桂ちゃん
の生命も奪われていた。叔母さんのお陰なの。鬼はわたしを追ってきた。わたしの足跡を
辿ってここ迄来た。この禍はわたしの所為なの。
「あんた、その為にこんな死んだふり…?」
「ご免なさいサクヤおばさん、心配させて」
後ろから袖を引いてもダメだったから。身を割り込ませる事も考えたけど、正樹さんが
入れなさそうだったから。ならば、わたしが注意をひいてみようかと。サクヤさんが一番
早く抱き留めてくれたのは、嬉しかったけど。
唯引っ張るだけ、人に求めるだけでは、必要な成果は得られない。想いを曲げるのと違
い、届かせ方を変える事が、時に必要らしい。
抱き留めてくれるの腕の力がふっと抜けた。
驚きに硬直した筋肉と表情が再び動き出し、
「分ったよ。確かに、分ったから……」
苦笑いと共に、つやつやの銀の長い髪が腕を巻き付け動けないわたしの上に降りてくる。
否、わたしが持ち上げられている。サクヤさんはわたしをその侭お姫様だっこで持ち上げ、
「あんたがあたしに抱きついていたいって気持、良く分ったから」「サクヤおばさん?」
今度はわたしが事の変転に置き去りにされ。
潤んだ笑顔の侭、大股で屋敷に歩き始める。
わたしのふざけに便乗して、悪ふざけで返そうとしているのが分ったけど、長くしなや
かな腕に巻き取られたわたしに為す術はない。サクヤさんに較べれば本当にわたしは非力
だ。
「この侭戸口を潜って中迄行くよっ」
悪戯っぽい笑みを浮べて語るのに、
「それって前に話してくれた、外国で花婿が花嫁を新居に抱き上げて、入るって言う…」
「あーっ、サクヤおばちゃん」
わたしの声を遮ったのは、桂ちゃんの自分のおもちゃを取り上げられた様な大きな声で、
「あんた達の柚明は預った。返して欲しければ、身代金嘘八百万円を用意するんだね…」
振り向いて、双子を見下ろして言い残すと、わたしを抱いた侭、笑子おばあさんの待つ
開いた戸口に歩み行く。白花ちゃんの声が、
「サクヤおばちゃ、ゆーねぇ持ってった…」
羽様の屋敷はもう日常を取り戻していた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
落ち着いたサクヤさんが現状を知りたいと、真弓さんと笑子おばあさんに立ち会って貰
って、服を全部脱いで見せた。決してみんなに見せられる様な見事な肢体ではなかったけ
ど、傷は全身に及ぶので全部脱がないと分らない。
「柚明、この傷痕は」「柚明ちゃんっ……」
2人の驚きの呟きの意味は異なっていた。
わたしの目の届く範囲でも、鬼の爪が薙いだり投げつけられた刃物が刺さった傷痕が明
瞭に見えて分るけど、尚素肌を晒すとどんな人生を経てきたか問われそうな深い痕だけど。
「あんた、嫁入り前の娘がこんな大きな傷」
「今朝見た時からも信じられない治り方…」
急速に傷痕が縮小し、浅くなってきていた。贄の血の力は傷を治すだけではなく、傷痕
も消す方向に働いている。身体の感触も今朝に較べて随分改善され、痛みも緩和されてい
た。贄の血の力は、ほぼ意識のある間常に体内を巡らせている。日中より日没後の方が効
果が強い様だけど、陽の届かない体内で働かせる癒しは四六時中効かせる事でかなり効果
を…。
真弓さんと笑子おばあさんの反応から、サクヤさんも傷痕が急速に消えて元に復してい
くと見通せた様で、少し安心した顔を見せる。
「贄の血の力をずっと放ち続けて、あんた自身には疲労はないのかい?」「大丈夫です」
贄の血の力は疲労回復にも効く。傷の治癒で身体は非常に疲れるけど、血の力がそれも
受け止めていた。血の力を紡ぎ続ける事で生じる疲労も相殺して尚余る程その効果は強い。
疲れ始めるのは力を使い果たした時だけど、朝から今迄力を紡ぎ続けても、減少は感じ
るけど尽きてない。修練でも何時間も力を操り続けた事はなかったのに。身体の方も非常
時を引きずって、まだ総動員態勢なのだろうか。これはこれで、己の限界に挑む良い修練
かも。
「本当に1週間あれば、傷痕も綺麗さっぱり消えてなくなってしまいそうね」
笑子おばあさんにそう言われると、わたしもほっとする。桂ちゃんと白花ちゃんを守る
為に負った傷だから、この傷を負わないと2人は守れなかったから、傷も痛みも承知済だ
けど、見た人を怯えさせそうだし、将来双子に罪悪感を与えかねない。わたしも一応女の
子なので、素肌に傷跡が残るのは嬉しくない。
「痛みの方はどう? 出血とかは、ない?」
「痛みも朝に較べて、随分軽くなりました」
昨日と違って、出血もありません。
「明後日辺りには体育も出来そうね」
真弓さんが驚きつつ呟くのにサクヤさんは、
「傷跡が残ったって、あんた程可愛い娘はそうそういないさ。貰ってくれる男がいなけり
ゃあ、あたしが貰ってやるから安心しな…」
頭上で右手が伸びてきた。頭をくしゃっと掻き回して強く撫でられると思ったら、案に
相違して右肩に軽く掌を乗せられた。どっちにせよ、サクヤさんに触れられるのは嬉しい。
「それなら、傷、治さなくて良いかも……」
サクヤさんの頬が微かに染まって見えた。
「はいはい。早く傷を治してサクヤに食べられない様にしましょう。こう見えてもサクヤ
は狼なのよ、貴女は知らないでしょうけど」
真弓さんが服を着るようにと渡してくれる。
襖の向うでは隔てられた白花ちゃんと桂ちゃんが、お話をするわたし達の元に入ろうと、
正樹さんの抑えが効かなくなり始めていた…。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
携帯電話の留守電で正樹さんから一報を受けたサクヤさんは、まだ仕事の中途にも関ら
ずそれを放り投げて羽様の屋敷に来たらしい。今晩は夕飯を食べて泊っていくけど、明日
朝には取材現場へ走って戻らねばならない様だ。
真弓さんが焼いた鮭に、ここで泳げという感じで醤油を注ぎ、ぱくぱく口に運びながら、
「あんたの運動会に、間に合わせる積りだったんだよ。だから、ここ一週間位を山場に据
えていたんだけどさ。昨日今日明日は棒に振るから、ちょっと日程がきつくなるかねぇ」
「ご免なさい、お仕事の邪魔しちゃって…」
サクヤさんが来てくれたお陰で、桂ちゃんと白花ちゃんは一層元気に跳ね回り、正樹さ
んに静謐な時をとのわたしの目論見も崩れた。サクヤさんは笑子おばあさんと話す傍らで
双子の相手をするから、どうしても屋敷の間近で賑やかになる。わたしもその様を見るの
もその場に居合わせるのも好きで、つい引きずられてしまい。それは実は正樹さんもそう
で。
結局、正樹さんの脱稿は一週間近く遅れたらしい。編集の鈴木さんにも、ご免なさい…。
「あたしの方は気にしなくて良いんだよ。まだ調整は利くんだから。明後日から巻きを入
れれば、何とか運動会の前々日にはあげられると思うから、うん」
「余り無理をしないで。わたしは良いから」
わたしの運動会をわざわざ見に来てくれるのは嬉しいけど、その為に大切な仕事がぞん
ざいになったり事故を招く様では申し訳ない。わたしはむしろサクヤさんの身を案じるの
に、
「あたしが、行きたいんだよ」
サクヤさんは、わたしを見据えてそう語る。
数少ないたいせつな人だから、家族だから。
仕事柄中々いてやる事が出来ないからねぇ。
何か行事のある時ぐらい顔を出したいのさ。
「付き合わせておくれよ、あたしもさ」
サクヤさんに、身寄りがいないという話を聞いたのはいつの事だったろう。家族も親戚
もいないサクヤさんにとって、羽様の屋敷に住むみんなが家族なら、たいせつなひとなら、
「……はい。楽しみに待っています」
食卓を囲む話題が詩織さんの事に移るのは、今日先生が転出を告げた事と、それに伴い
最後の運動会が単なる小学校最後ではなく、詩織さんとの最後の運動会、詩織さんには人
生最期の運動会に変ってしまった為だろうけど。
「平田詩織って、あの大人しそうな子かい」
サクヤさんの返事にはわたしが驚かされた。サクヤさんは一年の拾分の一も羽様にいな
いのに、見た事はあるにしても一度か二度位だろうに、級友の顔と名前を。気付いてなか
ったけど、わたしがサクヤさんを見つめるより、サクヤさんはわたしの事をよく見ていた
んだ。
「柚明ちゃんに、少し似た雰囲気の子よね」
白花ちゃんをあやしていた真弓さんの答に、間近の桂ちゃんの頭を撫でつつわたしも頷
き、
「前から身体が弱くて、家も遠くてバス通学だから中々遊びに行けなくて、引っ込み思案
で大人しいから中々みんなに溶け込めなくて。でもとても優しくて人を想う心の強い子な
の。自分から話しかけたり誘ったりするのが苦手で、その良さを分って貰えないのだけど
…」
詩織さん以外が全員揃っていた放課後すぐ、わたしはみんなに再度頭を下げてお願いし
た。
『みんなに、お願いがあるの』
詩織さんはいないけど、いない方が好都合。詩織さん以外の全員が揃う事が、必須だっ
た。
『詩織さんをみんなの友達として受け容れて、最後の運動会に一緒に取り組んで欲しい
の』
少人数の羽様小学校の運動会は、父母や地域の人も含めた催しになる。主役である児童
も数が少ないので幾つもの種目を沢山こなす。徒競走の様に個人で優劣を争う競技もあれ
ば、二人三脚やマスゲームの様な団体競技もある。
詩織さんがみんなの足を引っ張る事は分っていた。詩織さんを入れたチームや組の劣勢
は必然だった。わたしは幾らでもその不利は負う積りでいたし、それで勝敗が左右される
事に拘りもない。でも、事はわたし1人の問題ではなかった。わたし1人に為せる事に限
りはあるし、どうやっても届かない事はある。運動会はみんなで行う物だから。わたしと
詩織さんだけで何とかできる問題ではなかった。
みんなに受け容れて欲しかった。それは当然という感じで求めるのではなく、お願いし
てみんなの気持を引き出さないと。嫌々受け容れるのではなく、心から迎えて貰わないと。
『わたしからの、お願い。みんなへの』
鴨川さんに、北野君に、頭を下げる。
先週金曜日のわたしの行いは、気持は正しかったけど方策として間違いだった。伝え方
や語調がみんなを不快にさせたという以上に、みんなが気持ち良く望んで詩織さんを受け
容れられる様に導かないと、失敗だった。嫌々受け容れて誰が喜ぶだろう。嫌々受け容れ
られた詩織さんは果して楽しく遊べただろうか。
わたしを気遣うという以上に、詩織さん自身が一層みんなの中に居づらくなってしまう。
先生がその権威で誰々と仲良くしてあげなさいと諭すのが、子供界に諸刃の剣である様に。
そんな事にも考え及ばず、わたしは詩織さんの為を想った積りでいた。わたしは結果を
考えもせずみんなの輪を掻き回した。その失敗を受け止めて、同じ過ちは繰り返さぬ様に、
『詩織さんはわたしの大切な人。心の強く優しい人よ。その良さをみんなにも分って貰い
たい。詩織さんもみんなが手を差し伸べるときっと喜ぶ。みんなの友達にして欲しいの』
最初からみんなという輪がある訳ではない。
友達関係がその様に作ろうという互いの想いが織りなす物なら、その集まりであるみん
なもその様に作ろうとして織りなす物だろう。だからわたしはみんなの気持を引き出した
い。
詩織さんが運動会でみんなの足を引っ張る事は目に見えた。それでも、否、だからこそ、
わたしは詩織さんを含めたみんなの輪を望む。わたしが助け庇えば詩織さんが心から笑み
を浮べられる訳ではないから。わたし1人に詩織さんを救えはしないと思い知らされたか
ら。その笑顔には、みんなの協力が不可欠だから。
わたしに大した事は為せない。わたしで届かない事は世に多い。わたしはそれ程大きな
存在ではない。ならわたしは他の人を導く窓口になる。想い届かせる人を招くつてになる。
大事なのは結果だ。詩織さんが心から笑み浮べられるなら、わたしのたいせつな人の望
み叶うなら。わたしが活躍したい訳ではない、わたしが良い処を見せたい訳ではない、わ
たしが詩織さんに感謝されたい訳ではない。詩織さんが心から笑みを浮べる事が真の望み
だ。
『川島君、お願い。黒川君も』
お辞儀してお願いするわたしに、一級年下の男子2人は判断に困る感じで沢尻君に瞳を
向けた。周囲の反応を観る彼の言葉より先に、
『それって、最後だからって奴? それとも病人だから特別扱いしてって言うの? 手加
減してあげてって言う、お情けの事なの?』
わたしの求めにややきつい答を返したのは、鴨川さんだった。みんながわたしの求めに
どう答えて良いか迷う中、まだ流れが出来ていない中、1人流れを見ずに先陣を切る感じ
で、
『そう言う特別扱いって、好きじゃないんだ。羽藤だからとか鴨川だからとか、女の子だ
からとか。転校するからとか、病人だからとか特別扱いされて、果たして本人が嬉しい
の?
それ迄見向きもされなかったのに、突然転校するからとか病気だからとかで大事にされ。
それって病気や転校がなければ、平田さんはやっぱりのけ者だって事じゃないか。気を遣
った上で見抜かれて、お互いに居づらい想いをする位なら、本音の侭の方が私は良いよ』
そこ迄明快な拒絶は、鴨川さんがみんなから浮きかねない程だったけど。その言葉の意
味する処はわたしも分る。分るから、反論ではなく、その想いを受け止めて、言葉を重ね、
『そうじゃないの。鴨川さん』
わたしは声を返してくれた鴨川さんを向き、その瞳を見つめつつ、声は荒げずゆっくり
と、
『最後だからじゃない、病人だからじゃない。わたしのたいせつな人だから。わたし、今
迄詩織さんしか見てなかった。詩織さんがみんなとどう関るのが良いかを、考えてなかっ
た。
わたしが庇えば良いとしか想ってなかった。そうじゃない。詩織さんはみんなと仲良く
したいと思っている。わたしも詩織さんとみんなが仲良くなって欲しい。誰も欠ける事な
く。
今迄わたしが分ってなかった。だから漸く、今になってこういうお願いになっちゃっ
た』
最後だから特別じゃない。病人だから特別じゃない。わたしの、たいせつな友達だから。
みんなもわたしのたいせつな人だから。お互い仲良くなって貰いたい。受け容れて欲しい。
『みんなにも詩織さんの良さを分って欲しい。詩織さんにもみんなと心通わせて欲しい
の』
自分の想いを叩き付けるのではなく、相手に受け止めて貰える様に伝え届かせる。誤解
を招かない様に声音や表情や姿勢に気をつけつつ、言うべき事をしっかり告げる。そうし
て漸く、相手の心からの返事を貰える。それが受容でも拒絶でも。対話とはそういう物だ。
わたしの瞳を受けて鴨川さんは、姿勢を横に逸らせた。斜めから見ると、鴨川さんの美
人の素養が分る。漆黒の長髪は少し癖っ毛で、容貌はややきつめな語調を好む性格を受け
て凛として。一時鴨川さんを児童会長という話が出たのも分った。人を引っ張る指導力も
むしろ沢尻君よりあるかも。想いが激しくて時々みんなから浮く一歩前迄行く事もあるけ
ど。
『私は、構わないけどさ』
鴨川さんはわたしの答にある程度納得したのか、最初から次の言葉を用意済だったのか、
横を向いた姿勢でわたしに黒目だけ流し目で、
『羽藤さんも、分っていると思うんだけど?
平田さんが今迄、身体が弱い事を口実にして、できる事からも逃げ続けていた事を…』
痛い指摘だった。沢尻君が脇で苦笑いを浮べている。でも、それも又わたしが知る事実
であり、恐らく避けて通れない話だったから。
『一緒にプレーしていても、受けられる球や手が届く球に動きもしなかったり、明らかに
嫌だから手を抜いていた事も、あったよね』
私が平田さんを入れたくないと思ったのは、そこ迄やる気がないならやらなくて良いよ
と。無理に嫌な顔されて迄入れる気はないからで。
鴨川さんの言う通りだった。詩織さんは確かに身体が弱かったけど、それ以上に運動が
苦手だとみんなの輪を外れたり、入っても無気力に終りを待つ姿勢を見せていた。それに
痺れを切らした何人かが、もう良いよと詩織さんに見切りを付けたのが、あの状況だった。
黒川君や北野君が、一方的な悪意から詩織さんを仲間外れにした訳ではない。詩織さん
にも非はあった。それに向き合わないと、それに苛立った人の想いも、受け止めないと…。
『友達関係はお互い様よ。羽藤さんがそうして話してくれるから、私も応えられる。友達
にもなれる。平田さんがそれを望んで姿勢に見せてくれないと、私達も応えようがない』
羽藤さんが、そこ迄一生懸命に思うなら。
『羽藤さんが保護者として、平田さんのその気を引き出してよ。私はきちんと仲間に入っ
てくれれば、受け容れるから。平田さんにその姿勢が見えれば、私も応える積りだから』
出来ない事は仕方ない。病人と分った以上、元々運動が苦手な以上、それは責めないけ
ど。
『やる気の問題だよ。それさえ見えれば』
平田さんの事は、羽藤さんに任せるよ。
言い残して鴨川さんは教室を出て行く。
『今日は私、家庭教師の日だから。悪いけど和泉、後でみんなの纏まった話を教えてね』
「鴨川ねぇ。まあ子供の世界の話だけど…」
サクヤさんが、どう言及して良いか惑う様子の正樹さんから笑子おばあさんに瞳を移す。
鴨川と羽藤の家の絡みは大人の話で、わたしや真沙美さんには関係ない。ないけど意識し
てしまう大人達の中、笑子おばあさんは唯一いつもの笑みを崩さずわたしに話の先を促し、
「そのあと佐々木さんが、みんなの話を纏めてくれたの。詩織さんがみんなの一員として
頑張るって言う気持が見えれば、良いよって。その保護者って言うか、後見人って言う
か」
みんなと詩織さんの繋ぎ目の役を。
「柚明がなっちまったって訳かい?」
頷くと、サクヤさんは半ば呆れて、
「鬼に襲われて死にかけた週末とそれを乗り越えた週初めで、あんたは傷の痛みやら何や
らでもう目一杯だろうに、他人の事柄迄好んで背負い込んで。義理堅いにも程があるよ」
でも、その様子ならまあ大丈夫そうかね。
サクヤさんがそう呟くのに、真弓さんは、
「それが安心できないのよ、サクヤ。貴女も分るでしょう。柚明ちゃんは元気があるから
人を思いやれる訳じゃないの。傷を負っても危うくても、人を思いやってしまうから…」
わたし、そんな危なっかしい子だろうか?
「本当に、大変な事になる処だった。桂も白花も柚明ちゃんも。まさか羽様まで鬼が訪ね
てくるなんて、思ってもいなかったから…」
沈痛な声にサクヤさんがかける言葉を失う。
急に場の空気が重く沈み込んでしまうのに、
「まあ、みんな無事で全て終えたから、良いじゃないの。その失敗を受け止めて、同じ過
ちは繰り返さぬ様に。今後に生かせれば…」
笑子おばあさんが、わたしの言葉を借りて真弓さんを諭す。本当は鬼を斬れる真弓さん
こそが、一番責任を感じ心を痛めていたのかも知れない。わたしは幾重にも、人に負担を
掛けていた。その苦味も失敗も、受け止めて。
「それで、今の柚明ちゃんの悩みは平田さんをどうみんなに巻き込むかって辺りかい?」
正樹さんの確認にわたしはうんと頷いて、
「平田さん、身体が弱いし運動が苦手でどうしても無駄な動きが多いから、疲れやすいの。
やる気があっても、すぐ息が上がってついて行けなくなるみたい。気持の問題もあるけど、
そうでないのに誤解されている面もあるの」
贄の血の力を注げば、疲労は拭える。
「駄目だよ、柚明。血の力を使っちゃ」
わたしの視線に宿った気持を察して声を発したのは、サクヤさんだった。真顔になって、
「気持は分るけど、血の力を不用意に使うのは拙い。贄の血筋の存在を衆目に晒す事にな
るからね。例え善意でも、事実が知れ渡れば違う反応も出る。世の中は、必ずしも善意な
者ばかりじゃない。鬼の様な人間もいるんだよ。それこそ本物の鬼が来るかも知れない」
金曜日夕刻のあの鬼も、市役所の住民票や警察の被害者情報を盗み見て、わたしを追っ
たと言っていた。どこからどんな情報が人を介して伝わるか分らない。特に人を癒す力な
んて物珍しい物を持つ血筋は興味の的だろう。
「贄の血筋は知られない事で長く安穏を過せたんだ。少しでも違う者を見つければ、人は
よってたかって来るからね。鬼切部の様に権力で口を封じでもしないと、魔女狩りに遭う。
あんたの両親は、幼いあんたにも伏せていた。部外者には誰1人漏らさぬ位の気構えがい
る。優しい心は分るけど、彼女を疑う訳じゃなく、その効果を察する者が出るかも知れな
い…」
サクヤさんは、真に迫った瞳を向けてきた。かつてそう言う経験を踏み越えた様な声音
で。詩織さんではなく、詩織さんが元気になった事を知った誰かが首を突っ込み真相に迫
る怖れがあると。写真家の他にルポライターの肩書きを持つサクヤさんの洞察は、多分正
しい。
「羽様のみんなの為にも、あんたの可愛い桂や白花の為にも、血の力を晒すのは拙いよ」
わたしはそこで間近の桂ちゃんと白花ちゃんを見つめて考え込む。金曜日夕刻にはわた
しが招いた禍で、2人を死の淵の追いやってしまった。辛うじて禍は回避したけど、それ
もわたしの力で守れた訳ではない。わたしは2人をまともに守る力さえ持ってない。その
上で更に2人に禍を招く危険は冒せなかった。
詩織さん、ごめんなさい……。桂ちゃんと白花ちゃんの身の安全には、換えられない。
「それに、貴女はまだ修練途上でしょう?」
真弓さんはわたしの贄の血の力がまだ不安定で実用に耐えるか分らないとの危惧を語る。
「この数日を見ても、貴女が操る力の質も量も大きく変化している。自身の外に出してど
んな影響を与えるのか、どの程度外に伝えられるのか、経験も不足よ。思った通りの効果
が出なかったり、思った以上の効果が出たり、思いもしない副作用が生じるかも知れな
い」
貴女の中で作用させる分には問題ないけど。
と言うより、他に方法がなくてやむをえずなの。今回貴女の治癒にその力を使ったのは。
「本当は新薬の治験にも似て、どの位の力をどこに使えばどの様に治り行くのかを一歩一
歩確かめないと、危うくて堪らない物なの」
事は人の身体だ。慎重を要するのは当然だった。使える事と力の性質を知悉する事はま
た違う。力の性質を知らずに使えるからと安易に人に及ぼすのは、蕎麦アレルギーか否か
確かめず健康に良いと蕎麦を勧める様な物だ。わたしはまだ人の役に立つには未熟に過ぎ
る。
「贄の血の力は、老いや病には効かない…」
最後に笑子おばあさんが、少し寂しそうな笑みを浮べてわたしを向いて、
「贄の血の力は人を賦活させるわ。でも病に冒された人にそれを及ぼせば、病の素も賦活
させてしまうの。多くの種類の病には血の力は効かない。むしろ逆効果になってしまう」
疲れを癒そうと流し込んでも、そこに病の素があれば病の素も賦活してしまう。逆に苦
しめる。人の世は思い通りに行かない物でね。強く流せば流す程、病の源も強く賦活され
る。
杏子ちゃんの言葉が、思い起された。
物凄い才能や技能は、何の制約もなく唯好き放題に与えられてある訳ではない。常の人
を越えたその素晴らしさは、人の手ではどうにも出来ない束縛とセットなのが、世の中の
バランスだと。持てる者が無限に持てる訳ではない。持てる者にも持てる故の縛りがあり、
持てる故の困りごとがある。ある筈だと。杏子ちゃんはそれを『天の配剤』と呼んでいた。
「友達を思う貴女の気持は分るけどね、柚明。それは、贄の血の力で為すべき物じゃない
よ、きっと。その他の方法で、為せる限りを…」
贄の血の力を使えなくても、貴女は平田さんを心からたいせつに想っている。その想い
を込めて、その想いを巡らせて、進む途と手段とを選び取りなさい。きっと道は開けるわ。
子供にも為せる事を、子供同士だから為せる事を、子供同士でなければ為せない事を…。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
そうこうする内に日々は自然と過ぎてゆく。
早朝に赤兎で羽様を出立するサクヤさんを見送って、数日が経った。日常の積み重ねの
多くは平穏無事で、劇的な事はそう多くない。わたしはその翌日位迄掛け傷を完治させ、
元通りの日常に身を馴染ませていた。帰宅後は常の如く血の力と護身術とお料理修練の後
で、双子の相手をしつつ合間を縫って勉強をして。
学校は運動会を前にしてみんなもやや浮き足立っている。わたし達六年生には小学校最
後の運動会、わたしには詩織さんとの最後の運動会、そして詩織さんには最期の運動会…。
わたしは月曜日の約束に従い積極的に詩織さんをみんなへ誘い巻き込む役を担う。みん
なの側の受け容れを促すのは、佐々木さんが担ってくれた。普段纏め役の沢尻君が一歩引
く形なのは、女の子の事は女の子が進めた方が良いという事か。普段は飄々としていて怒
っているか否か位しか、判別が付かないけど。
詩織さんは運動が苦手で、運動会にも今迄余り関ってなかった。わたしはそんな詩織さ
んの引っ込み思案を、叱らず無理強いもせず、微笑みかけて手を繋ぎ終始寄り添いつつ、
休み時間の遊びにも運動会の練習にも招き入れ。
「行こう、詩織さん。わたしが一緒だから」
唯の子供にでもできる事はある。
唯の子供だからできる事もある。
血の力を使えないという条件は実は、みんなも同じだ。わたしが特別困難な訳ではない。
わたしは子供の考えと身体で為せる限りを。
奇跡も特別な力も使わなくてもできる事を。
そして、わたしが詩織さんを案じるのは当然だけど、わたしが詩織さんを囲い込んでし
まわない様に。詩織さんがみんなに溶け込める様に、みんなが詩織さんを受け容れる様に。
腫れ物に触る応対では意味がない。やり過ぎない様に気遣いつつ、壊れ物扱いにならな
い様に。みんなと同じ様に扱いつつ、でも実際には病や身体が弱い事情を考えて配慮して。
運動会の練習だけではなくその他の授業も、休み時間も給食も放課後も。わたしは詩織
さんとみんなと、笑って日々を過ごしたかった。だからわたしはみんなと詩織さんの、潤
滑油になる。順調に進み行けば少しずつ手を引く。気遣いなく、みんなが自然に仲良くあ
る様に。
日々の授業も運動会の練習が多くを占める。障害物競走、組体操、マスゲーム、二人三
脚。プログラムで最後の種目のビーチフラッグ争奪は、何代か前の教頭先生がテレビ番組
の企画を借用したそうで、スタート地点の三十メートル後方にあるパネルにタッチして、
そこからスタート地点を走り抜け、更に四十メートル前方に走ってジャンプし、走り幅跳
びの砂場に立てた旗を奪い合う2人対戦の競技だ。
タッチしての反転と、砂場に飛び込む踏み切りが難しい。何度かやったけど、僅かな動
きの違いで勝敗が入れ替わる。中でも詩織さんが、一度も誰にも勝ててないのが気に掛っ
たけど。確かにみんなが遠慮なく全力で競えば、どの種目でも優劣が出るのは当然だけど。
「よく頑張ったよね。また、頑張ろうねっ」
「焦らないで。球を良く見れば受けられる」
「惜しかったね。次は必ず、成功させよう」
それは帰宅後に桂ちゃんと白花ちゃんに掛けていた言葉に、少し似ていたかも知れない。
幼子の手を引きながら、自力を信じ待ちつつ、声を掛け励まし力づけ。羽様の屋敷での行
いの延長だから、人は必ずしも思い通りにならないと幼子に教えられたわたしは、焦れる
思いも抑えて詩織さんに根気よく付き添い続け。
和泉さんに、まるで姉と言われたけど、わたしの意識は正にそれだった。怖いと言う前
に怖がる気持を鼓舞し、駄目だと思う前に頑張ろうと声を掛け、諦める前に手を差し伸べ。
言葉に出ない思いを察する鋭さは、幼児の相手をしている内に備わってきた素養なのか。
お話しをしたいとか、抱き上げて欲しいとか、喉が渇いたとか、微かな仕草に現れて暫く
後に意識するそれらを仕草の段階で読み取って。
だから、詩織さんが何度どれだけ頑張っても誰にも一度も勝てない繰り返しに抱く気落
ちも、分ってはいたけど。分って尚、どうする事もできない自身が、焦れったかったけど。
悔しいけど、残念だけど、この世にはどうしようもない事もある。人の手や努力ではど
うにもならない事もある。どんなに頑張っても手を伸ばしても及ばない届かない事がある。
「もう少し頑張れる? もう少しだけ……」
「今日はここ迄で良いよ。もう充分だから」
「お疲れさま。また明日も一緒に頑張ろう」
わたしは一生懸命励ましたけど。常に手を引いて正面から向き合って間近で声を掛けて、
気力を出す様促したけど。同時に体調が悪くないかどうかも窺っていたけど。時に肩を抱
き、時に頬を寄せ、心に励ましを伝えたけど。でも、幾ら頑張っても人が競えば結果は出
る。
詩織さんは、一生懸命わたしの促しに応えてくれたけど、負けても負けても尚挑んでく
れたけど、わたしの誘いを断らなかったけど。やはり一つも誰にも勝てないのは悔しいし
心は沈む。それを実感させられたのは、皮肉にも彼女が練習で唯一度人に勝ちを収めた時
で。
「勝ったぁ!」
障害物競走で、詩織さんは2週間少しの練習の中で唯一度、わたしに勝利した。緩んで
いた靴紐を踏んだわたしは平行棒から落ちて、追い上げが間に合わなかった。真弓さんに
鍛えられていた為に、みんなと較べ運動神経にはやや自信があったのだけど、不覚を取っ
た。
「ゆめいさんに勝ったょ」
「おめでとう、詩織さん」
素直に祝福を伝えたわたしだけど、詩織さんの喜びが予想以上なのに、少し驚かされた。
詩織さんも、本当は頑張った成果としての勝利を欲していた。参加する以上、頑張る以上、
競技に相手に勝ちたいと望むのは当然だった。
子供は意外と勝ち負けに拘る。その拘りは大人のそれを優に凌ぐ。自分の頑張りが反映
すると信じる為か、相手も同じ子供だからか、勝敗には実力差より本気度合いが大きい故
か。
負けたくない、勝ちたいとの想いは、詩織さんにもあって当然だった。むしろ身体が弱
くずっと負ける側、遅れる側に居続けた詩織さんこそ、勝利に飢えていたのかも知れない。
だからゴール地点で沸き返り、抱きついてきて、涙を流して喜ぶ詩織さんをわたしは衆
目の中だったけど、確かに受けて抱き留めて。その歓喜をぞんざいに扱っては、詩織さん
の心を萎えさせる。次に繋げる意欲を失わせる。わたし自身の少しの悔しさは胸の奥に収
める。衆目を意識した少しの恥じらいも表に見せず。
「頑張ってきて良かった。良かったよぉ…」
結局詩織さんが数十回の各種競技の練習で、誰かに勝てたのはこの一回のみだけど。二
人三脚やリレー等の団体戦でも、詩織さんのいる組は悉く負けたけど。偶然が呼んだ練習
での勝利に過ぎないけど。それでも、夢でも幻でもない勝利は確かに詩織さんを勇気づけ
た。この笑顔を、もう一度見たいと思わせる程に。
問題は和泉さんや佐々木さんと手を取り合って喜ぶ詩織さんではなく、詩織さんが少し
離れたのを見計らってわたしの耳元に囁いた、
「ちょうど良い時に、靴紐が解けたのね…」
鴨川さんの、皮肉っぽい問いかけだった。
「平田さん、すごい喜び様だけど」
あなた狙ってやった訳でないでしょうね。
「……鴨川さん?」
本当に偶然だったので、わたしも瞬時その意味を捉えかねたけど、次の瞬間に彼女の言
いたい意味は掴めた。わたしが詩織さんを喜ばせる為に、わざと負けてあげたのではと…。
意味が漸く今分ったと言うわたしの真顔に、鴨川さんは自身の疑惑は取りあえず拭えた
と納得できた様で、探る様な瞳が少し和らいで、
「幸運な偶然って、何度もはないわよね…」
鴨川さんは余り深く突っ込まなかったけど、わたしに兆す想いにしっかり釘を刺してい
た。言われて漸く気付いた、わたしの力で詩織さんを喜ばせられる確かな方法を、察して
いる。鋭い目線がわたしの心の奥を貫き輝いていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
勝負事の相談なら、サクヤさんか真弓さんが適任だ。その読みは当たりだったけど、回
答は心を晴れ渡らせてくれなかった。サクヤさんは暫く帰らないので、今相談できるのは、
「柚明ちゃんは、どう感じているのかしら」
夕食後の茶碗と皿を2人台所で洗いつつ、
「それが平田さんの、真の望みだと思う?」
真弓さんは、わざと詩織さんに負けるとの考えを、間違いではないかと迷っている事迄
承知だった。わたしの顔に書いてあったかも。わたしも子供だから、競う以上は勝ちを望
む。負ける事・勝ちを譲る事への躊躇いが心に…。
「平田さんは、譲られてもわざとでも勝ちを望む人だと、柚明ちゃんは思っているの?」
でも真弓さんの問は、わたしの勝ちへの拘りではなく、詩織さんの心中の推察に向いて、
「隠し通せても、貴女が譲ったり作為で得た平田さんの勝利を、その喜びを、偽物だと貴
女は知って、取り返せない侭過ごす事になる。それが、彼女との最後の運動会の想い出に
相応しい物かしら。柚明ちゃんはどう思う?」
貴女にとって良い想い出に出来るか否か。
真弓さんのその問になら、わたしの答は、
「わたしは良いの。詩織さんに心から喜んで貰えるなら、わたしにできる事なら……」
贄の血の力で疲労を拭う事も出来ない。病を治してあげる事も出来ない。弱い身体は幾
ら励ましても体力も技量も向上させられない。わたしに出来たのは、競技にみんなに招き
続けて、詩織さんに連戦連敗を強いる事だった。
わたしは真弓さんに鍛えられたお陰で、男子と競っても時々勝てる位まで運動神経も体
力も付いた。でもそんなわたしが、運動も得意になったわたしが、それを苦手とする詩織
さんの手を引き続けるのは正解なのだろうか。絶対にわたしに勝てず、佐々木さんや和泉
さんにも勝てないと分る詩織さんを尚招き続ける事が、負ける場に引きずり出し続ける事
が。
あの喜びを、もう一度見たい。目を輝かせる詩織さんを間近に見たい。一緒に喜びたい。
無駄ではないと。頑張りは報われると感じて貰いたい。偶然と鴨川さんの一言が皮肉にも、
わたしの心にその想いを灯してしまっていた。
泡の付いたスポンジで食器をこすりつつ、
「貴女が平田さんだったら、それを望む?」
真弓さんの言葉にわたしは首を横に振る。
わたしは、譲られた勝ちを欲しない。わたしは自力で勝ち取れるから。病でもなく努力
も出来るわたしが、哀れみを受けてわざとに負けて貰う必要はない。わたしの確かな答に、
「貴女は病人だから、詩織さんに特別扱いをと望んでいるの? それとも最後だから?」
それは鴨川さんの言葉に重なって聞えた。
「競技にはルールがあって、前提があるわ。
やる以上優劣があり、勝ち負けが出るのは必然よ。何度やっても、勝てない事はあるの。
それが可哀相だからと手を抜いたり、わざと勝ちを譲ったりする事は、参加する意味を失
わせる。競う意味を失わせる。貴女が為そうとしている事は、平田さんから真剣勝負の舞
台を、本当に勝利する可能性を奪い去る事ではないかしら? それは本当に彼女の為?」
偶然でも油断でも、平田さんは一度貴女に勝てた。他の人にも、勝てるかも知れない。
でも勝利を作為的に与える事は、そんな希望さえ最初から奪い取る事よ。平田さんは勝て
ないから、真剣勝負しないでと言う事なのよ。
「競技に招きつつ競技をさせず、勝負に招きつつ勝負をさせない。例えそれが柚明ちゃん
の善意から、優しさから出た行いであっても、知られれば深く傷つけるし、知られなけれ
ば平田さんはそれに傷つく事すら出来ない…」
友達として招きつつ友達扱いしないに近い。
特別扱いじゃないと言いつつの、特別扱い。
それを彼女の真の望みだと貴女は思うの?
彼女はそれを望む様な人だと貴女は思う?
そう言う人を羽藤柚明は友達に望んだの?
貴女はそう言う人に友達にと望まれたの?
それは果たして、一体誰の為の行いなの?
「貴女は真相を隠し通して、平田さんが偽りの勝利に喜ぶ事を望むの? 平田さんが仮に
気付かなくても、貴女は自身に納得できる? 彼女が実力ではない勝利をそうだと錯覚し
て今後生き続けていく事が、良い事かしら」
一時の偽りの喜びの代りに失う物を考えて。
「柚明ちゃんは、私にわざと負けて貰う修練を望む? そうして貰えて本当に喜べる?」
真弓さんはわたしの瞳を正面から見据えて、
「護身術の修練で、私が今貴女に手加減しているのは、貴女の技量の向上の為にやむを得
ずよ。力に差がありすぎて、その侭対戦したのでは貴女に成果が残らないから。私は今後
も貴女に手加減して勝ちを譲る積りはないわ。
考えて。貴女の技量が向上した訳でもないのに、私が偽って負けて、貴女が強くなった
と誤解して目算を誤れば、たいせつな人を守れなくて最後に涙に暮れるのは貴女なのよ」
そうだった。己の力量を把握できればこそ、わたしは己の生命を的にして、白花ちゃん
と桂ちゃんを守る最善の手を打てた。力量は不足だったけど、真弓さんにも鬼にも全然及
ばなかったけど、自身にできる事を見極めて時間稼ぎに徹して今を繋げた。2人を逃がし
守る為だけに、己を抛つ事にも迷いがなかった。
修練で真弓さんにわざとに勝たされ実態のない自信や実績を土台に鬼と対戦していれば、
わたしは時間稼ぎも出来なかった。自身も生き残ろうと中途半端に動けば、わたしが即死
する以上にたいせつな人を守れなかった。負け続けたけど、わたしは真弓さんにまだ一度
も勝つどころか良い勝負にもなれてないけど、その厳しさがわたしを向上させ、己の実情
を把握させ、たいせつな人の笑顔を繋ぎ止めさせてくれた。今に繋った。そうであるなら
…。
「私に言えるのは、全力で競技に挑まないと、貴女が後々に悔いを残しかねないという事
よ。あなたは賢いから自身でそれを、分っている。だから私から敢て重ねて言わせて貰う
ならね。
勝敗は競う者の常よ。立場や条件はそれぞれに違うから、結果は出る迄分らない。分ら
ないから真剣に挑むの。強者も弱者も見えない結果に向け、勝利を目指して全力を尽くす。
そこに作為を混ぜ込む事は、真剣に挑む者への侮辱になる。それが善意でも、悪意でも」
真実は、時に人を傷つける。でも、真実を貫かないと、もっと多くの人を嘘で傷つける。
真弓さんはわたしの中に答があると分って言っている。わたしにその答に向き合う様に
促している。わたしがその答を詩織さんへの想いでねじ曲げ、顔を背けている事を承知で、
「競技には真剣に挑むべきよ。想いを通わせるのは、競技の前と後に為すべきで、競技の
中に混ぜ込む物ではないわ」
貴女には貴女の、出来る限りを。
贄の血の力を使えなくても、貴女は平田さんを心からたいせつに想っている。貴女は競
技に作為を加えなくても充分平田さんをたいせつに想っている。みんなの輪に入れようと
己を尽くしている。貴女が為す事は他にある。貴女が力を尽くす事は競技の外にある。そ
の想いを込めて、その想いを巡らせて、進む途と手段を選び取りなさい。きっと道は開け
る。
貴女の全力で為せる事を。貴女と彼女の間柄だから為せる事を。貴女しか為せない事を。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
わたしがすっきり真弓さんの言葉に得心できないのは、わたしに原因がある。贄の血の
力を使えない、使ってはいけない。絶対勝ち目のない競技にみんなに誘い続ける。負けを
強いる。励まして力づけても、更なる連敗の泥沼に招くだけで。それを詩織さんは、わた
しに応える為に、頑張って付いてきてくれて。
わたしが後ろめたかった。詩織さんを想う故の行いに、役に立ててない自身が無力が苛
立たしかった。わたしの所作と知られる必要はないから、もっと確かに役立ちたかった…。
詩織さんは逃げなかった。弱音を吐かなかった。わたしも事前に察して先に励まし想い
を受け止めたけど、それ以上に詩織さんはわたしに最後迄身も心も預けて、拒まなかった。
体調を気遣って、わたしの方から途中で切り上げさせたりした為かも知れないけど、それ
迄は詩織さんは自ら止めるとか嫌とは言わず。
勝てない悔しさは、詩織さんの中にも募っている。努力しても及ばない事を何度も示さ
れ見せつけられていた。わたしは詩織さんに何か一種目でも勝って貰いたいと望んだけど。
それは偶然か作為か油断でもない限り望めず。
真弓さんの言葉は正しかった。わたしも普通ならその答に揺らぎもなかった。でも今も、
この状況で尚、それを貫き通すべきだろうか。競技に作為を持ち込むのは良くない。でも
この侭詩織さんが一つも誰にも勝てず、心沈んだ侭最後の運動会を終えるのは良いだろう
か。それともこれは、詩織さんへの想いの過剰が、わたしの判断を歪ませているのだろう
か…?
チーム競技では鴨川さんや北野君は時に厳しい声を発するけど、それもみんなで勝利に
向け頑張る為だ。詩織さんを仲間と認め力を尽くして欲しいと望む故だ。それは咎める内
容ではないから、わたしはその上に落ち着いてと、頑張ってと、深呼吸してと声を重ねる。
個人競技の時は全力で挑む。詩織さんと競った時も勝ちは譲らない。心の迷いが吹っ切
れない内に、それを為す気にはなれなかった。わたしの内に兆す迷いを、悟られたくはな
い。それに鴨川さんの視線が少し、気になった…。
唯この金曜日は、わたしの中に兆した迷いの所為で、詩織さんの体調への気遣いが少し
遅れた。ふと気付くと、詩織さんの瞳が少し虚ろになっていた。倒れてはいないけど足元
が危うかった。もっと早く気付くべきだった。
「待って!」
体育を控えた休み時間の、グラウンドでのサッカーの最中だったけど。良い感じで盛り
上がっていた処だったけど。わたしはゲームの流れを切って、詩織さんを休ませようと申
し出た。みんなも後方で、キーパーを任されてゴールポストに寄り掛っている詩織さんの、
やや苦しそうな姿勢を見て、納得してくれた。
子供はわたしも含め限界を余り考えず、行ける処迄頑張ろうとする。限界を超えた後で
倒れてその事に気付かされる事も多い。みんなも盛り上がっていて、詩織さんの顔色や動
きに目が届いてなかった。否、一番気付かなければいけないわたしが、気付けてなかった。
「少し休もう。水でも飲む?」「うん……」
日に当たりすぎたかも知れない。夏の直射日光は時に暴力的な威力を持つ。詩織さんの
肩を抱えて支えつつ、集まってきたみんなに、
「ごめんなさい。少し詩織さんを休ませるわ。みんなで、ゲームは続けていて良いから
…」
「大丈夫そう?」
佐々木さんが詩織さんの顔色を覗いてから、赤い縮れっ毛を揺らせつつわたしに問うの
に、
「保健室に連れて行くわ。寝かせて、水を飲ませてみる。熱射病かも知れない」
黙って立っていても汗が滲んでくる暑さだ。キーパーは余り動かないからと油断してい
た。詩織さんのいるチームに実質のハンデで1名多く人員が割り振られ、その為に相手陣
内に攻め込む展開が多かった。つい見落していた。遊びに気を取られて、たいせつな人の
事を…。
「あたし達も保健室まで付き合うよ」
和泉さんはそう言ってくれたけど。
北野君もそれに頷いてくれたけど。
「もうすぐ5時間目が始まっちゃう」
少し前に予鈴が鳴った処だった。遊ぶ時間も残ってないけど、授業の始めに誰もいない
と先生が心配する。倒れた人を担ぐ訳でもないので、詩織さんには1人付けば充分だった。
「良くなったら、戻ってくるから」
すぐ戻れるとは思えなかったけど、みんなを心配させすぎても拙いのでそう言っておく。
詩織さんは気を失った訳でないので、肩を貸すと歩く事は出来た。校舎迄そう遠くはない。
「うん……良くなったら、戻ってくるね…」
詩織さんがわたしの言葉を復唱する。それが彼女の望みであるかの如く。残り少ない日
々を少しでも一緒にいたいと、外で動ける時を少しでも共にしたいと。わたしは彼女に無
理を強いたけど、彼女は今その無理を望んでいる。それで許されはしないけど、それで彼
女に無理を求めるのは拙いけど。詩織さんはみんなと共に遊べる今を、切実に望んでいた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
羽様小学校は保健の先生が欠員だ。無人の保健室に詩織さんを運び込み、ベッドに座ら
せると上着を脱がせ、横たえさせ。詩織さんはやや朦朧として為される侭に抗わなかった。
誰か来ても言い訳は可能な状況だったけど、心臓はドキドキしていた。人の服を脱がせ
るなんて、わたしも桂ちゃんと白花ちゃんにしかした事がない。全部脱がす訳ではないけ
ど、詩織さんが浮世離れした目線でいて助かった。
「行かないで……ゆめいさん」
タオルケットを掛けてベッドを離れようとした処で、後ろ手に右手首を握られた。酔っ
た様にとろんとした視線が、妙に艶めかしい。目線が何かに怯える様にわたしを求めてい
た。振り向いて、左手を合わせその手を握り返し、
「コップに水を汲んでくるわ。少し待って」
詩織さんはわたしが授業に行ってしまうと思ったのだろうか。確かに見つめ返すと、笑
みを浮べて手首を解き放ってくれた。帰ってくると、詩織さんは日の差し込む室内に1人、
力なく横たわって間近の窓の外に首を向けて、
「……わたし、これからは、こういう暮しをするんだよね……」
自分から光の中に歩み出したりは出来ない。
こうやって窓から外を眺めるだけの日々を。
詩織さんは、保健室に入院後の自身を見ている。退院の見込も良くなる見込もないとい
う自身の先行きを、詩織さんはどこ迄知らされているのだろう。唯その実感は、二度と羽
様に戻れない転校という事実に重なって映り。
保健室に運び込んだのは、拙かったかも知れない。木陰にでも寝せた方が良かったかも。
わたしはベッドに歩み寄って、枕元の脇机にコップを置くと、丸椅子に座って詩織さん
の左手を右手で握る。休み時間は終っていたけど授業に戻るのは諦めた。詩織さんの怯え
た様な求めを想い返すと、捨て置けなかった。顔色は楽な姿勢で寝せた為か、やや良くな
っている。窓の外は燦々と照る陽が眩しかった。
万物の生命を育む光、人の時間を照す光、でも詩織さんには激しすぎて、その体調を崩
してしまった光。強い光が害を為し生命を脅かす事もある。多くの鬼や、贄の血の力を減
殺する様に。詩織さんも多くの人の住む光の世界から外れ行く己を感じていたのだろうか。
「……怖いよ」
わたしに本当の本音を漏らしてくれた。
それは詩織さん自身が向き合うのが怖くて、必死に自身でも目を背け続けていた、でも
目の前に厳然として立ちはだかる動かせぬ事実。軽く握った詩織さんの、左の掌が震えて
いた。
「みんなと別れ別れが怖い。病院から出られなくなるこれからが怖い。そうして尚元気に
なれるかどうか分らない先行きが怖い。こうやって寄り添ってくれるゆめいさんに、逢え
なくなる運動会の後が怖い。明日が怖い…」
掛けるべき言葉が、見あたらなかった。
黙した侭左手を、わたしの右手で強く握る。わたしは今ここにいると。明日もまだわた
しは共にいると。羽様にいる間はわたしはあなたに寄り添うと。その後に寄り添えない事
が申し訳なかったけど。為す術がなかったけど。
『わたしには、何もしてあげられない……』
贄の血の力を幾ら使えても病は治せない。
幾ら励まし助言しても、どの競技でも誰にも勝たせてあげる事も出来ない。
別れ別れになる詩織さんに何も為せない。
手を握っても温もりを伝えるしかできない。負けても負けても、次に負ける為に友達の
輪に招く事しかできない。別離を哀しみ、遙かに見える死の影に怯える詩織さんに、わた
しは何もしてあげられない。幾ら寄り添っても想いを届かせても、現実に詩織さんの役に
立つ事は何一つ出来ない。わたしは無力だった。
唯握って温もりを伝え合う他に、為す術がない。言葉を想いを届かせる他に、何も出来
ない。その怯えを拭う事も怖れを払う事も…。
「詩織さん……」
子供は未来に希望を持つ物だ。見果てぬ向うにどこ迄も夢を膨らませる物だ。楽しい今
日の延長が明日にもあると信じて疑わぬ物だ。それが断ち切られると示されて、平静でい
られる筈がない。詩織さんは、必死に目を背けて己を守り続けてきた。己を保ち続ける為
に。
運動会の練習に、わたしの促しに、招きに、一生懸命応じてくれたのは、わたしへの想
いもあったけど、それ以上にその後に来る訣れの向うが怖かったから。目の前に精一杯取
り組む事で、目を背けたかったから。わたしやみんなの誘いに招きに応え続けてくれたの
は、羽様で小学生生活を続けたいとの願いの故だ。
みんなの友達としてここに居続けたいとの切なる想い。ずっと今の侭いたい想い。この
時を永遠に失いたくない、止めていたい祈り。それが叶わないと知ってそれに浸りたい望
み。
ここに詩織さんの普通の日々があったから。ここに友達や運動や授業や仲違いや、何で
もない、でも一つ一つが珠玉の時があったから。それはもうここでしか手に入らない物だ
から。
詩織さんは転出先ではもう学校に通えない。日常は全て病室の中、病院の中。お薬と検
査と診察と、何もかもが白衣と消毒薬の向う側。かけっこもバレーもサッカーもない。同
年配の友達さえ出来るかどうか。みんなの前には尚当たり前にあり続け、詩織さんの前に
も開けていると疑わなかった日常は手に入らない。わたしのお父さんやお母さんとの日々
が壊れて消失した様に、二度と戻り来ない幼い幸せ。
それは羽様での日々にのみある。あと少しの日々と、想い出の中にだけある。そしてそ
の他には最早、永遠に手に入らない。だからこそ、詩織さんは今を必死にせき止めたくて、
「怖いよ……死ぬの、怖いよ。お父さんもお母さんも兄ちゃんも会えない、ゆめいさんも
居ない処に1人で行くのは心細いよ。わたし、死んじゃうの? 死んでどこかに行っちゃ
うの? それとも、魂も消えてなくなるの?」
怖い、怖い、怖い。入院しても良くなるかどうか分らないって、いつ退院できるか分ら
ないって、病の進行を止められるかどうか分らないって。ゆめいさんも居ない処で、友達
も誰も居ない処で、学校も通えないで、わたし病室から出られずに、病院から出られずに。
「死ぬのが怖い。別れ別れが怖い。この侭ずっと一緒にいたい。病院や病室に閉じこめら
れて、死ぬのを待つのは怖い。嫌だよぉ…」