第−章 柚明からユメイへ(後)


【貴男は、竹林の姫に苛立ちはぶつけたけど、憎悪や恨みはぶつけなかった。無意識に力
を入れすぎ壊してしまう事はあっても、それは事故で貴男の真意ではなかった。寵愛だっ
た。わたしへの場合とは違う。千年分の憎悪とは、彼女にぶつけられなかった分迄含みで
すね】

 両手両足の修復が終えてないので、仰向けの侭で首しか向けられない、わたしの応えに、

【それを叩き付けられて、尚正気を保つか】

【わたしも既に、鬼ですから。正気かどうかは定かではありませんけど】

 主が竹林の姫に寄せたのは、相手の意を斟酌しない主の流儀だったにせよ、好意で善意
で施しだった。それがそう伝わらない、他者にそう映らないのが主の損な一面だろうけど。
尤も、主の流儀で寄せられる想いは、姫でもその侭受容できなかったろう。猫が飼い主に
恩返しの積りでネズミを銜えて運んでくる話を聞いたけど、主の思いもその侭では暴風で、
彼女やその周囲には禍以上の何でもなかった。

 故に周囲は主が姫を喰い殺しに来たのだと疑わなかった。主が贄の血を吸い尽くす為に
欲したのだと。主は他者の理解を求める事を知らない。己が欲した者以外の意向を窺う等、
更に知らない。姫はサクヤさんと孤独を分ち合っていたけど、主は己が孤独である事にも
無自覚だった。最初に気付いたのは姫の方だ。

 でもそれを伝える術はない。誰も信じない。強盗殺人犯が一人の娘を大切に想い嫁に欲
しいという。でも真人間になる積りはない。強盗殺人は今後も続ける気で、娘だけ大事に
扱うという。それを主は説明できないどころか、気付いてない。他者を説得する必要さえ
感じない。主は欲しければ奪うだけだ。即連れ去らなかったのが、主の最大限の気遣いだ
った。

 両者の想いは絶望的な迄にかけ離れていた。悪意な訳ではなかったのに。生命を奪う積
りでもなかったのに。姫だけはそれに気付いた。だが説明の術もなく、信じるに足る状況
証拠も無い。鬼神は力の侭に奪う姿勢で、守ろうとすれば粉砕に来る。友好的な話は出来
まい。

 主は竹林の姫を巡る騒擾を不快に思い、見ていられなかった。誘いは姫への好意だった。
主が守れば誰も手を出せなくなると。心安らかに余生を過せると。全ての喧噪は鎮まると。

 主は既に強大だった。それ以上を求める必要は感じてなかった。主は姫の血より心を欲
したのではないか。誰もが姫の贄の血を欲し続けた故に、主もそうだと見なしていたけど。

 主は思いの侭に人を喰らい、鬼も喰らう鬼神だったけど、姫にだけは優しかった。あく
までも主の流儀でだけど。封じの中での日々は悪い物ではなかった。2人きりで、誰にも
妨げられぬ悠久を、主が今迄受容できたのは。

【貴様の言う事は、良く分らぬが……】

 何を訳の分らぬ事に考え込んでいるという表情の主を、わたしは微かな笑みで見上げる。
主は分らない事に劣等感を抱かぬ一方、分らなくても良い事なのだと流してしまう。心を
尽くして労力をかけて迄、分ろうとはしない。

【分っていたら、この結末は迎えてないと思います。……これも定めだったのでしょう】

 千年経っても主は主。故に姫もその事は分って伝えなかったのだろう。主が愚かなので
はない。主には、考える必要がなかったのだ。強靭に過ぎる主は、他者の意向を斟酌や配
慮する必要がなかった。故に、己の意志を他者に分って貰う必要もなく、相手が何を考え
思うか分る必要もなかった。誰かの事ばかり考えてきたわたしと逆さで何とも清々しい程
だ。

 そして主に全く悪意がなかった訳でもない。主は遙かな昔から照日の神を、大和の神を
気に入らなく思っていた。自分達をまつろわぬ神として追った、朝廷とその神を嫌ってい
た。積極的に潰しに行く気はなかったけど、邪魔に思えばその意を撥ねつける事に躊躇が
ない。贄の血を欲する主に朝廷が危機感を抱いたのは無理もない。主はその不安を拭いも
しない。

 姫は主を止め得ない。姫は朝廷も照日の神も止め得ない。自分の血が騒擾の根本なのに、
広がり行く禍と闘争を止める術がない。好んだ者が敵とされ、嫌いではない者が彼女を守
り抜く為、好んだ者を討つ為に全身全霊を尽くして闘う。どちらかか、或いはどちらもが
傷ついて。己の故に、己の持つ濃い血の故に。

 主の求めに応じる訳にも行かず、でも主を嫌ってもいない。闘いの前には主の身を案じ、
鬼切部の身を案じ、観月の長達の身をも案じ。誰にも傷ついて欲しくない。でも、己にそ
の騒擾を止める術はなく、己に流れる血が引き起す争乱は決着する事でしか終えられなく
て。

【オハシラ様、可哀相に……】

 彼女は何一つ選べなかった。わたしの様に、投げ出す身も持てなかった。自殺は主を虚
無に陥れ、主以外の者達を刺激する。父や母や、親族に禍を飛び火させる。ずば抜けて濃
い唯一である事が姫1人を巡る争いに留めていた。

 誰をも大切に想いながら、誰をも愛しく慈しみながら、姫は己の終り方を模索していた。
どの様に消えれば皆が諦めるか。どの様に死すれば皆が激発せずに終息するか。あの若さ
で彼女は己への執着を棄て、残されるみんなの事を考え続けていた。封じの要になっても
完全に執着を棄てきれぬわたしとは大違いだ。

【でも、彼女にはこれが最善だったのかも】

 封じの要を受け入れた時の、彼女の奇妙な迄の平静さが想い出された。竹林の姫は、あ
の時漸く解き放たれたのだろうか。肉を失い、最早贄の血を巡る諍いから解き放たれた事
で、漸く一人の娘として主の元に行ける。漸く誰の心に応えても差し障りない。彼女の人
生を縛ってきた贄の血とその力が、漸く生贄になる為に、その心を通す為に使えた。彼女
はオハシラ様を担いご神木に同化する事で漸く解き放たれた。闘いに次ぐ闘いの定めに呑
み込まれかけていた主を、封じる事で解き放てた。彼女のたいせつなひとの為に、己を尽
くせた。

【わたしは構わなかったのだが。勝つも一興、負けるも一興。千年封じられるとは思わな
かったが、勝敗は兵家の常だ。拒みはせぬ…】

 主は闘いを嫌ってない。負ける事迄含めて。わたしも唯闘いから逃げる立場は取らない
が。

【勝敗より、闘いの泥沼を姫は怖れた。でも、貴男にそれは分らないでしょう。貴男は己
の意志以外の大きな流れを、感じ取れないから。他者の意志に気を配る事を知らない貴男
は常に、己の意思で闘っているとしか思えない】

【闘いを受けるのも避けるのも常にわたしだ。他に誰の意志がわたしを動かせるという
か】

 そう言う主だからこそ、そう言う竹林の姫だからこそ、重すぎる定めを負った2人だか
らこそ、封じの中での悠久は救いだったのか。主は他の鬼に迄眠る事を望まれる強大すぎ
る存在で、竹林の姫はその存在が常に人や鬼に騒擾を起し大切な者を巻き込む贄の血の裔
で。

 みんなの間では、幸せになれない。
 みんなの中では共に生きられない。

 2人だけの世界でなら、共に生きられる。
 誰にも、怖れも迷惑も禍も及ぼす事なく。

 槐が苗の頃にわたしが封じを担っていたら、わたしも槐も数年と保たなかった。ご神木
が千年かけて育っていた故に、その力の供給で、何とか封じを保てるけど。最初期槐が育
つ迄、主が大人しく封じられたのは、相手が竹林の姫だった故だ。彼女と主は最良の関係
だった。主は己の身の不自由に苛立ちを感じつつ、他に誰もいないこの状況を、意外と受
け入れていたのではないか。特に姫がサクヤさんではなく、封じと言いつつ主を選んでく
れた事を。

【わたしには、貴様の考えの半分近くは分らないが、姫はわたしを封じる事が目的と言っ
ていた。何かの為にわたしを封じるのではなく、わたしを封じ続ける事自体が目的だと】

 わたしの不自由が心からの望みならそれも良かろう。わたしはわたしで、未来永劫自由
を求め続ける。どちらかの意志が通るだけだ。その答も誠に主らしい。主にしか返せぬ答
だ。

 姫の目的は主だった。わたしの目的が桂ちゃんと白花ちゃんで、主は手段に過ぎないの
とは違う。故に姫は最初から迷いもなかった。

【貴男を想う故です、主。貴男は贄の血を手にしても、力を手にしても幸せにはなれない。
望みの侭に生きても幸せになれない事もある。己が幾ら満たされても満たし切れぬ心もあ
る。自由の利かない場に本当に欲しい自由がある。貴男の幸せは、思いの侭にならぬ封じ
の中に。竹林の姫の身体は手に入らなかったけど、その心は手に入った。姫も貴男を手に
入れた】

 貴男がわたしにぶつけた怒りは、千年分の憤懣より、千年ぶりの復活を止めた故の激怒
より、彼女を失った故の心痛だったのですね。己を慕う者達が己の為に為した所作が、己
の大切な者を失わせたその皮肉に、耐え得ずに。

 わたしを見つめる主の瞳に、一瞬光が宿る。だがそれはわたしの身を砕く事なく、消え
て。

【貴様よりは竹林の姫の方が良かった。それは認めよう。継ぎ手はやはり大本に劣る…】

 間接的に彼女を失って残念だと主は認め、

【せめて代りに濃い贄の血を得ようとしたのだが、貴様に防がれてしまった。それは良い。
意志の押し付け合いは常に強い者が勝つとは限らぬ。唯、その上で貴様がわたしと同居す
るのなら、その意趣返し位は受けて貰おう】

 心を得られぬなら肉を。主らしい発想だけど果して主は贄の血を得て満足できたろうか。
それを主は本当に欲していたのか。本当に欲しかった者の代りに出来るのか。その獲得は
主を却って、虚無に陥れるだけではないのか。本当に欲しかった者・守りたかった者を失
った主に待つのは永劫の別離と孤独だ。サクヤさんの孤独に似た、今のわたしの孤独に似
た。

 主には竹林の姫は求め望んだ相手だった。
 封じの要という敵対の立場にあったけど。
 それでも最後迄一緒を、確約されたのだ。

 それなのに、それなのに。主を慕い望む者達が、主を心から大切に想う者達が、よりに
よって主の為に、主の思いを叶える為だけに。それが主の望みでなければ手下を怒鳴りつ
けられる。意を曲解したと怒りをぶつけられる。でも自由も主の望みだった。心から求め
欲していた。主の真の苦味はむしろ、そこにある。主は己の望みの為に、望みを失ってし
まった。どうしても欲しい物の為に、どうしても欲しい物を失ってしまった。全ては主自
身の故に。だから主はそれを己に抱え込む他に術もなく。

 たいせつなひとが、いなくなってしまった。
 それは実は、主にも言える事だっただろう。

 主は最早封じを外す意味がない。主は最早望みがない。その場その場で、贄の血を欲し、
自由を求め、わたしを蹂躙し砕くけど、それは主の本当の望みではない。無意味な八つ当
たりで、鬱憤晴らしだ。主はまだ気付いてないのか。主の望みは姫と2人の日々だったと。
それはもう未来永劫、手に入らない物だけど。主自身の故に、その手を滑り落ちた物だけ
ど。

【可哀相……。悪意はなかったのに。誤解の誤解を重ねた末に、漸く辿り着けた2人の幸
せが、こんな形で。貴男は敵だけど、封じの手は緩めないけど。でも、たいせつなひとを
失う痛みは、分るから。その哀しみは……】

 主の目線が輝いて、漸く治った右の掌が膨れた。破裂するかと思ったら寸前でそれは留
まり、未発に終る。主は自身の激発を止めた。

【喋りたければ、勝手に喋るが良い。聞くも聞かぬもわたしの意思次第だ】

 主はわたしの考察を、聞き置く位の積りにはなった様だ。考えてみれば、主は千年オハ
シラ様としか話してない。それ以前からこの様に別の誰かの物の見方を話される等、なか
っただろう。特に主に不快な話をする者など、一瞬で砕かれるから最後迄聞ける筈もない
…。

 本当に、傷つけられないと、心とはお互いを分り合えないのかも知れない。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 手足の修復が終って、身を起せたわたしに、

【わたしは漸く、貴様が不気味に思えてきた。わたしに捧げられた生贄とは言え、わたし
の前で人が無力なのは当然だが、それなのに】

 この変転をどうしてその様に受け入れ得る。
 竹林の姫の時と状況は全く違うと言うのに。
 感応を経た贄の血の力の使い手なら分ろう。

 わたしが貴様に与えているのは、神の寵愛ではなく鬼の憤怒だ。それを尚受け止めるか。
例え、槐から力を受けて修復できるにしても。死に絶える程の痛みを、何度となく受けて
尚。

 どうも主の興味がわたしに向いてきた様だ。

【絶望的な無力と迫られるだけで全く意志の反映されぬ日々。想いが全く通じぬ事は、貴
様にも苦痛であろう。なぜこうも耐えられる。逃げにも狂気にも走らない? 貴様は弱者
だ。貴様はこの中では暴風に拉ぐ草にすぎぬのに。最早己の望みを持たぬのか。己の意思
を通したく思わないのか。己の願いへの未練はないのか。当初のあの弱々しさはどこへ行
った】

 主が珍しくわたしの答を欲していた。意志など要らぬと、唯あれば良いと、唯己の想い
を叩き付ける為にいれば良いとの姿勢だった主が、わたしの意志に基づく答を欲していた。

【主よ。わたしは、貴男に身を捧げた積りはありません。お忘れなく】

 相変らず何も纏わぬ姿の侭で、わたしは主の前に正座して、静かに、でも確かに応える。

【貴男が思い通りに出来るのは、貴男が鬼神の強さでわたしを踏み躙るから。決してわた
しが捧げた故ではない。わたしが身を捧げた相手は、桂ちゃんと白花ちゃんの2人です】

 その為にわたしはここにいる。竹林の姫とは違う。わたしは望んでハシラの継ぎ手にな
ったけど、その眼目は貴男ではない。貴男を解き放たない事がわたしの絶対意志。だから、
それ以外は全て失っても構わない。否、捨て去らないと、貴男を封じ続ける事は叶わない。
愛もない侭人が神を封じるとは、そういう事。

 貴男を想うが故に悠久の封じを捨て置けず、オハシラ様になると望んだ竹林の姫とは違
う。竹林の姫は、ここで悠久に貴男の物になった。永劫に貴男を得た。でもわたしは違う。
貴男はわたしを組み敷いただけ。わたしは貴男を封じているだけ。そこに互いの想いはな
い…。

 貴男は唯、わたしを襲っただけ。
 貴男は唯、わたしを奪っただけ。

 貴男が得た物は、わたしが棄てた物。
 わたしが得た成果は、貴男のいない外界よ。

 不快そうな顔を見せたけど、主は目を輝かせる事もせず、再度のし掛かる事もせず、

【良かろう。わたしも貴様を寵愛する積り等ない。我らの関係は何度まぐわおうと何度身
体を交そうと、所詮封じる物と封じられる物。それは良い。貴様はあの贄の血の陰陽の為
に、ここにいると認めよう。それで貴様は、あの2人が老いて死したら、どうする積り
だ?】

 奴らは所詮人間だ。百年経たずに死に絶えるし、その前に事故や病で倒れよう。事件に
巻き込まれて、無惨な死を遂げるかも知れぬ。世に鬼はわたしのみではない。貴様を襲っ
た様な鬼か、否、人に襲われて死ぬ事もあろう。

【槐の封じは永劫に続く。貴様が守りたい物の寿命は、高々数十年だ。特に小僧の方はわ
たしの分霊を宿した。あれはかなり大きい故、どんなに身体と心を鍛えても、三十を過ぎ
ては保つまい。貴様の護れた物等、瞬く間に消える。貴様はその後もわたしを封じ続ける
のか。或いは諦めて封じを棄てる積りなのか】

 きつい問いかけだった。かつてサクヤさんが感じた孤独に近い地点に、今わたしはいる。
わたしはここにいる限り年を取る事も出来ず死ぬ事もなく、長久に存在を保つけど、外界
の時は瞬く間に過ぎて行くだろう。サクヤさんが笑子おばあさんと知り合ってもその死を
看取る事になった様に、わたしのお母さんの死を看取る事になった様に、わたしも桂ちゃ
んと白花ちゃんの死を迎えねばならないのだ。それも、知る事が出来ればの話なのだけど
…。

 サクヤさんの様に常に行き交う訳でもなく、山奥のご神木から動けず、当人に忘れ去ら
れたわたしは、訃報すら知り得ない。わたしは桂ちゃんや白花ちゃんの今後を殆ど何も知
り得ない。日々の幸せや喜怒哀楽を感じる事も。

『桂ちゃん、白花ちゃん』

 暖かな肌触りが錯覚を呼ぶ。きゃっきゃっと笑う声が耳に甦る。2人の笑顔が浮ぶけど、
同時に思い浮べてしまうのは痛みと苦しみにに泣き叫ぶ2人の顔で。ああ、胸が痛む。何
もしてあげられないこの身が恨めしい。抱き留める事も語りかける事も出来ないこの身が。
痛みを慰める事も紛わらす事も出来ない。役に立てない、力になれない、守りになれない。

 それは、主の責め苦より遙かにわたしに深く刺さる棘だけど。それは封じの要を投げ出
して駆けつけたい程の衝動を呼ぶけど。実際、毎度毎度己を抑え付けるのに必死なのだけ
ど。

 それでも、良いとわたしは割り切った。
 それでも、為すとわたしは己に決めた。

 既に人でなくなったわたしの事は、むしろ知られぬ方が良い。桂ちゃんは特にわたしを
忘れ去ったのだ。サクヤさんや真弓さんがいてくれる。わたしは信じて、全てを委ねよう。

【2人はわたしのたいせつな人。そして2人にとって大切な人も、わたしのたいせつな人。
 2人がすくすく育って、良いお嫁さんやお婿さんを見つけて、子供を作り、孫を作って、
幸せを受け継いでいけるなら、それがわたしにとっての幸せ。彼らの幸せがわたしの幸せ。
 彼らが幸せの内に天寿を迎えてくれる事が、今のわたしの願い。今のわたしの望み。

 誰もわたしを知らなくて良い。誰も憶えてなくて良い。わたしは桂ちゃんと白花ちゃん
が大切な人を残せたなら、その大切な人を守る為にこの封じを支え続ける。羽藤の血筋は
贄の血の血筋。貴男には可哀相だけど、貴男を未来永劫解き放つ訳には行かないの…!】

 戯れに贄の血を欲する者を、自暴自棄で贄の血を欲する者を、真に欲しい訳ではないの
に喰らい殺す者を、解き放つ訳には行かない。

 何度貫かれても、何度打ち砕かれても、何度抉り取られても。わたしはここで貴男を封
じる。封じ続ける。貴男の逆鱗に触れるけど。それを畏れる位なら、元から封じ等担わな
い。

 わたしは桂ちゃんと白花ちゃんの数十年の為に、永劫の継ぎ手を担う。わたしは白花ち
ゃんと桂ちゃんの子や孫の幸せの守りに、悠久に封じの要を務める。ご神木に貴男とこの
様に同居して、天地終る迄オハシラ様を担う。

 サクヤさんさえ生き残れないかも知れぬ程遠い遠い時の果て迄。桂ちゃんと白花ちゃん
の血筋が絶えるかも知れぬ程遙か遙か未来迄。貴男の脅威が費えてなくなるその日迄。そ
してわたしの魂も貴男の魂と共に、静かに還る。

【返る物のない善意か、虚しくも愚かしい】

【相手に意志を求めない、鬼神の言う言葉でもないと思いますが。一方的な行いは、一面
で一方的な施し。わたしの行いに近似値よ】

 ほおう。主は口元を奇妙に歪ませて笑み、

【確かに。返される物を求めないと言う点で、我らは似ているのかも知れぬ。わたしは一
方的に奪うだけで、貴様は一方的に与えるだけという、向きの違いこそあれど。良かろ
う】

 主の語調が、微かに変った気がした。その眼光はむしろ興味深そうにわたしを見つめて、

【お前を生贄としてだけではなく、ハシラの継ぎ手として認めよう。なる程流石に贄の血
の血筋よ。愚かしさも強さも弱さも全て竹林の姫の血を、濃く深く承け継いでおるわ…】

 竹林の姫の与える対象はわたしで、お前の与える対象は贄の血の陰陽だった。違うのは
それだけ。後はお前達は驚く程良く似ている。お前こそ封じの継ぎ手・神の後妻に相応し
い。

 唯奪う物と、唯賜う物と。悪くない組み合せとは思わぬか。主はわたしに輝く瞳を向け、

【神の伴侶ともなれば、彩りも必要だろう】

【……これは?】

 主がわたしの衣を再生させていた。それは同化する時に着ていた服ではなく、主の好み
を反映してか和服だったけど、少しサイズを間違えたのか、やや大き目な和服だったけど。
驚きよりその印象がわたしの顔に現れた様で、

【わたしは受ける者に意志は求めない。要るのは唯、わたしの意志と応える物の存在だけ。
応える物に意志など不要。神の意に応えぬ等許されぬし、応えぬ事等できぬのだから。わ
たしが着せるべきと考え、似合うと思い、そう欲したなら、遠慮なくそれを為すだけだ】

 文句は受け付けない。そういう事らしい。

 ぴったり似合うようにしなかったのは、主のてらいなのだろうか。多少認めたからと言
って、図に乗るなよという意図があるのかも。

 わたしは突然身に纏わされた青地に白いちょうちょの紋様の和服姿に、自身の感触を確
かめつつ、主の目の前でくるりと一回りして、

【有り難うございます。主】

【ふん。施しへの返礼など求めぬのがお前の生き方だろうに。それに、わたしは荒ぶる山
の神だ。与えた衣とて次の瞬間に引き裂くし、焼き尽くすし、霧散もさせる。これ迄とそ
う応対が変る訳でもない。余計な期待を今後に抱くと、落差に泣き叫ぶのはお前だと知
れ】

【はい、知りました】

 サイズも柄も生地の材質も憶えた。破れたり解れれば、わたしの力で再生させれば良い。
このサイズは変えず、ぶかぶかの和服の侭で。肉を失ったわたしに、動き易さは意味が薄
い。

【簡単に答えるのだな。本当にお前はその意味を分って頷いているのか?】

【わたしの答えも意志も気にしないのが、貴男の生き方だったのでは、ありませんか?】

 わたしの問い返しに、主は目を点にした。

【過剰な期待はわたしも抱きません。貴男は鬼神で、わたしはハシラの継ぎ手に過ぎない。
貴男を封じ続ける以外に何一つわたしの意志等通じない事、通せない事は、分りました】

 わたしはその一つを通す為だけにいる。
 わたしはその一つを通す、代償にいる。

 わたしの守りたい唯一つを、保つ為に。
 その他は諦める。何もかもは望めない。

 永遠の千日手を戦い抜こう。主の魂を抱え慰める為だけの歳月を過ごし行こう。主だけ
を同居人として、時に話し、時に抗い、時に交わる長い日々を迎えよう。わたしの心には、
失っても尚大切な人たちの想い出がある。それを胸に抱く限り、わたしは未来永劫に幸せ。

 わたしは誰かの為に役に立つと心に誓った。誰かの力になると、誰かを守れる様になる
と、誰かに尽くせる人になると。例えわたしが非力でも、幾らわたしが傷つこうとも。そ
の思いに変りはない。死んでも終りじゃない。死んでも約束は守る。死んだ人達との約束
が有効な様に、わたしの誓いも生死に関らず続く。

 サクヤさんがご神木の根元に置いてくれた白いちょうちょの髪飾りを、中に取り込んで
身に付けて、これがわたしの正装ですと主に正面から向き合って、静かにこうべを垂れる。
でもその中身はご挨拶というより宣戦布告で、

【これからはわたしが貴男の封じを担います。一緒に最期の時迄、過ごしましょう】


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


【贄の血の陰陽の片割れに憑いたわたしの分霊だが。ああ、小僧の方だ】

 主が白花ちゃん、と言うより白花ちゃんに憑いた分霊の話を始めたのは、わたしが主の
心中やオハシラ様についての考察を述べた事への返礼、或いは応報だったのかも知れない。

【わたしもあれが、単独で外に出るとは思わなかった。あれは分霊としてはかなり大きい。
わたし自身とでも暫く闘える程に。あれが出られる綻びなら、少しこじ開ければ全体が出
られた。お前の邪魔が入った時、あれが千切れて外に出たのは、わたしにも意外だった】

【分霊に分れる前は、貴男自身だったのではありませんか。今の話はまるで他人事の様】

 わたしは身体を横たえ肘で頭を支えた主を向いて正座している。遠望すれば、歳の離れ
た夫妻や恋人の様に仲睦まじく見えたろうか。

【視覚的にはわたしの手と見えたかも知れぬ。封じの外に出る為に、封じを解きたい思い
・抜け出て自由になりたい焦りを結集し、外の取っ掛りを掴む先鋒とした。あれが封じを
押し広げ突き破り外に出て、繋った残りのわたしを全て引っ張り上げる積りでいたのだ
が】

 真に危うい処だった。主の『手』は封じの外に顔を覗かせていた。わたしのご神木への
同化があと少し遅ければ、それが封じの綻びを押し広げ、本体を引き上げてくる処だった。
わたしは主を己と共に叩き落す事で、復活を阻んだけど、主本体に強く繋っていた筈の主
の『手』はなぜか落ち行く主から千切れて…。

【そうだ。本来、わたしを引き上げる為にわたしと強力に繋っていた『手』は、わたしの
落下に引きずられて封じに落ちるべきだった。
 ところが『手』はあの瞬間、わたしとの繋りを自ら断って、己だけ外へ行く途を選んだ。
それも又、わたしの分霊故と言えばそれ迄なのだが、本当に、己の想いにだけ忠実な…】

 自身の『手』の裏切りに、苦笑いを見せる。

 それは完全な裏切りではないのかも知れぬ。分霊となって外側から本体を助け出す考え
も、ない訳ではない。主本体と共倒れで封じの中に落ちる位なら、自分だけでも先行して
出て展望を開く選択もあった。分霊とは自分自身、何より目の前にある外を諦めきれなか
ったという主の分析も、正しいのかも知れないけど。

【それで、貴男の言われたい事とは一体?】

 主の『手』はかなり大きいとは言え、鬼神その物ではない。宿る依代がないと長く霊体
としての存在を維持できない故に、白花ちゃんの怒りに乗じてその中に住み着いた。それ
はもう見せられた。見たくない像だけど、見据えねばならぬ痛い現実だった。主が語りた
いのはその前提の先にある。わたしにそれを思い返させるのは主のわたしへの揺さぶりだ。

【わたしに言える事は3つ位だ。一つにあれ程大きな分霊を宿した人は、長く生きられぬ。
一つの生命に2つの魂魄は養えぬ。心臓一つで身体2つを動かすに似る。二十歳迄生きる
のも楽ではあるまい。成長が止まる頃が限界だ。母親の様に寺院や山岳で修行を積んでも、
どんなに務めても三十を超えては生きられぬ。
 それ迄に分霊に全く意識を乗っ取られるか、分霊を追い出すか出来れば、何とかなろう
が。一つの生命で魂魄を複数養えるのは、生命の在り方が違う草木の中でも特殊な一部の
み】

 この様に日々が過ぎ行く中でも、白花ちゃんはそう長くない生命を終りに向けて進んで
いる。それも安穏とは程遠い、苦しみの中で。主はわたしにその事を再確認させ焦りを誘
う。

【何とかしてあげる事は出来ないでしょうか。分霊に白花ちゃんから出て行って頂くと
か】

 それは主に相談する内容ではなかったかも知れない。でも主はそれに怒りも笑いもせず、

【分霊に心迄喰われてしまえば良い。2つの魂があるから生命が疲弊するのだ。あの小僧
が完全に鬼と化し、分霊と合一すれば末長く生きる事も叶う。鬼神の長寿と迄は行かぬが、
人の数倍の時を生きる事も不可能ではない】

【それは白花ちゃんの人生ではありません】

 今更主にもわたしにも何にも出来ぬと分った上での話だけど、その未来の過酷さはわた
しの魂を削る。主の目的がわたしの心を沈める事にあると分っていても、わたしは訊かず
にいられないし、心揺らさずにもいられない。

【あれ程の分霊は鬼切部にも簡単に切れまい。力づくで斬れば小僧も死ぬ。その前に小僧
の器を使って分霊も手を尽くす故に、斬られて死ぬ怖れは少なかろうが。分霊を追い出す
のは無理だな。贄の血の末裔は我らが宿る器の適性を満たす。常の人の生命では分霊も養
い得る物ではない。居心地が良い処を誰が望んで離れようか。霊能者や高僧の類では、あ
の分霊をどうにも出来ないとお前にも見えよう。役行者でもいれば何とか出来たかも知れ
ぬが。
 それより、わたしが外界に出れば分霊も器を捨て、わたしに戻ってくるかも知れぬぞ】

【それはわたしがさせません! それは結局、白花ちゃんの不幸を、招くだけですから
…】

 結局為す術はなきに等しい。その事が心に染み渡って行くだけの受け答えが主の望みか。
わたしの答が沈みがちなのを捉えてか、主は、

【二つ目は、あの小僧がいつ迄人の心を保てるかだ。鬼の魂は強靭で猛烈だ。憤怒や怨恨、
快楽や悲嘆等、心の浮動に乗じて、瞬く間に主導権を奪い取る。霊体の鬼は激情において
人の心を遙かに凌ぐ。しかもわたしの分霊だ。一度か二度は器が主導権を奪うかも知れぬ
が、長く保てまい。基本あの身体は分霊の物だ】

 人の心など下手に残さず、鬼に同化してしまった方が幸せかも知れぬぞ。鬼が奪った身
体は鬼の所行を為すが、心は残る限り意識の片隅でそれを見つめる事になる。己が思いの
侭に貪り奪い虐げる様を、憎まれ恨まれる様を、見て何も出来ぬのは一種の地獄ぞ。正気
を失い、鬼になるのは一つの救いかも知れぬ。そうすれば生命にも無理が掛らず長生きも
…。

【白花ちゃんは優しくて強い子です。いつ迄も鬼に身体を奪われた侭ではいません。貴男
が言った様に羽藤の血筋は器の適性を満たす。器の強靭さが逆に分霊を縛る事でしょう
…】

【それはそれで一つ目の話に戻るが、2つの魂を同時に養う生命の消耗に繋るな。それに、
お前は封じの中でわたしと共にいて、鬼の凄まじさを身をもって知って尚、そう言うか】

 お前は槐から力を供給される故に、辛うじて己を保てる。既に百回は砕かれている筈だ。
それで尚正気を失わぬお前は、確かに尋常ではないが、それを他者に求め得ぬ事はお前が
分っておろう。人の力・人の想いで鬼を抑える等、絵空事に近いと分って尚、そう言うか。
仮にそれが出来たとして、どれ程の苦痛と疲弊が待つのか、お前が分っておろう。たいせ
つな人にその責め苦を望むとは、罪作りだな。

【……!】

 わたしは返す言葉を失って視線を俯かせる。白花ちゃんが人の心を保ち続ける限り、苦
悩は続く。恐らく鬼は抑えきれない。鬼に勝って身体を保ち続けるのは至難の業だ。眠っ
て意識を失う瞬間に鬼になる。痛みに我を忘れた瞬間に鬼になる。喜びや快楽に有頂天に
なる瞬間に鬼になる。日々の全てに修道僧の様に、修験者の様に、平静であらねばならな
い。そうであって尚、気を抜いた瞬間に鬼になる。二十四時間年中無休、一体誰に抑えら
れよう。

 多分分霊と白花ちゃんが交互に身体を奪い合う。主導権が分霊の時は今のわたしの様に
白花ちゃんは何も出来ずにその猛威を見守るだけで、白花ちゃんの時は常に裏返りの機を
窺う鬼に対峙しながら、その鬼の後始末として様々な罵声を浴び、報復を受け、非難され
続ける。鬼は心が痛まない。心が痛むのは白花ちゃんだけだ。摩耗してすり切れて、優し
ければ優しい程、強ければその強さの限界迄、白花ちゃんは耐え続け耐え続けて、最後に
は。

【耐えきれなくて鬼になる。哀しみの果てに、己への無力感と絶望で、鬼になってしま
う】

 その様が瞼の裏に浮んだ。憎悪で鬼になる姿ではなく、己の限りを尽くして抑えられな
い鬼に、絶望の中で変じていく白花ちゃんが。どうあっても、白花ちゃんは救われないの
か。

【身体の死より心の死の方が早かろう。既に小僧は父を殺めている。お前が継ぎ手になっ
た原因も抱えている。小僧の心は傷だらけだ。鬼が染み渡るのも難しくない。抗えば抗う
程、無理をした心の代りに身体が蝕まれていく】

 内蔵がずたずたに断ち切られていく痛みも、この前お前に教えたな。中々凄まじい物で
あろう。心と身体は連関している。心が受けきれない重みは、身体が壊れる事で受け止め
る。小僧の幸せは、早々に鬼になる事だな。そうすれば心も身体も痛まぬし、痛んでも感
じぬ。

 白花ちゃんは幾ら人を望んでも鬼にならざるを得ない。その定めの重さは過酷に過ぎた。

【せめてわたしが贄の血の力で、白花ちゃんの中の鬼だけを、灼いてあげられれば】

 贄の血の力なら、可能だった。鬼切部なら斬らなければならないので、生命に及ぶけど。
わたしになら、でもそれは今やわたしにしか。そのわたしが今この状態になっていなけれ
ば。

【生前のお前になら、可能だったかも知れぬ。
 あれ程に大きな分霊だ。至難である事は間違いないが、そうだな、不可能ではないと言
っておこうか。小僧の為なら生命を渡す位の覚悟は、お前にはいつでも出来るのだろう?
 追いかけて行って、試してみてはどうだ】

 出来る事ならやっていた。それを百も千も承知で主は、言っている。ご神木に依る故に
ここを離れられないわたしに、離れてしまえば主を解き放つ事に直結してしまうわたしに。
想いと力を使い果たしてしまう事が、主本体を甦らせる事に繋ってしまう、今のわたしに。

『おかあさん、おとうさん、助けて、痛いよ。
 ゆーねぇ、鬼が、鬼がぼくの中にいるの』

 白花ちゃんの最後の声が、心の奥に甦る。

 いたいよ、いたいよ。苦しいよ、助けて。

『とって。はくかの頭の中の、鬼を取って』

 取ってあげられない、取りに行ってあげられない。わたしはここを離れられない。鬼に
なった筈のわたしの目から、止めどなく涙が零れる。わたしはいつ迄経っても役立たずだ。

【……白花ちゃん。ごめんなさい……!】

 たいせつな人の為に為す事が、たいせつな人を見捨てる事に繋る。この矛盾、この悲痛。
それでもわたしはここを外せない。主を解き放ってはいけない。わたしは鬼だ。鬼だった。

 でも、鬼になってさえ尚、この涙だけは枯れ果てない。鬼になった筈なのに、人は諦め
た筈なのに。止めようとしても涙が、涙が止められない。心も胸もいっぱいだった。ここ
に留まり続ける事を己に強いるのが精一杯で。

【己の意志を貫くと良い。強いはせぬ。止めもせぬ。わたしも又、己の意思の侭に動く】

 わたしがそれ以上の話を受け付けられない状態に入ったのを、主は気遣ったのだろうか。
感情の浮動を示さない声を最後に発し、主はその侭目を閉じて眠りに入る。わたしがその
三つ目を訊く事も出来ない侭に、話は終えた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 その来訪者がご神木を訪れたのは、半月が中天に達する刻限だった。槐の巨木が天に向
けて差し伸べた枝葉の間を、地に月光の木漏れ日を届かせつつそれは走り去って行く。

 まだ白い花の咲く季節ではないけど。まだ華やかな花を咲かせる頃合ではないけど。真
弓さんはサクヤさんがやった様に、堅く節くれ立ったわたしの幹の皮に軽く触れて、

「暫くぶり。遅くなって、ごめんなさいね」

 声は沈みがちだけど、その奥にも覚悟と意志を秘めて力強い。その姿はやや痩せただろ
うか。表情に疲れが見えるのが少し気になるけどやむを得ない。女手一つで、いきなり今
迄住んでなかった町に出て、桂ちゃんを育てる事になったのだ。殆ど誰の助けもない侭に。

 例の疲れが出てこないか、無理をしてその種を増やしてないかが少し、心配だったけど。

「引越やら、転居手続きやら、職探しやらで、中々こちらへ来られなくて。と言うより
…」

 貴女に報告できるだけの成果がなくて、来るに来られなかったのよ。貴女のしてくれた
事に多少でも報いられる成果がないと、私も貴女には真っ当に顔を合せられなくてね。

「桂が、最近漸く自然に笑ってくれる様になったの。笑う事も忘れ強ばった侭だった桂が。
 全てを忘れさせたら、笑う事迄忘れ去って。人生の全てを積み直さなければならなかっ
た。想い出も初めから作らなければならなかった。桂に事実を話すのは少し先になりそう
だから。

 桂はね、結構優しくて強い子でね、わたしが哀しみや痛みを隠して強気に振る舞ってい
ると分って、気遣って、笑顔を作る事が出来るのよ。でも、それは本物の笑顔じゃない…。
 人を気遣っての、哀しませない為の笑顔じゃなくて、本物の笑顔で微笑んで欲しい。心
の底から笑って欲しい。その下地を作るのに、仕事の合間を縫って、必死にね……」

 最近、漸く笑ってくれるようになったの。

 まだ満面の笑みじゃないけど、それでもふふって笑いが、自然に湧いてくる様になった。
貴女が残そうと守った幸せには及ばないけど。貴女が捧げた代償にしては余りに小さな成
果だけど。漸く桂が自分の思いで笑える様に…。

「ちょっと疲れに負けそうな時もあるけど、過去に押し潰されそうになる時もあるけど、
寂しさに心が萎えてしまう時もあるけど、貴女を思い浮べる度に、力を振り絞ってここ迄
頑張ってきた。貴女は、言っていたものね」

『わたしには、過去は振り切る物でも、捨てる物でもありません。抱き締める物です…』

 それはかつてわたしが口にしていた言葉だ。

『時に想い出の欠片は心に突き刺さるけれど、その痛みも受け容れてわたしです。哀しみ
の欠片を踏みしめて、その痛みに涙を流しつつ、それでも過去をしっかり持って明日に向
う』

 貴女の言葉が、今こそとてつもなく重い。

「耐えられない程辛い過去を乗り越えて、尚耐えられない程きつい今を耐えている貴女に
比べれば、今の私の苦労なんて可愛い物…」

 改めて、有り難う。そして、ごめんなさい。
 真弓さんの両の頬を、美しい雫が流れ行く。

「貴女に、貴女に本当に全てを捧げさせてしまった。桂と白花の親は私なのに、私達なの
に、貴女はお義母さんから託されたたいせつな人だったのに、力でならわたしの方が役に
立たなきゃいけなかった筈なのに。正樹さんには生命を差し出させた。貴女には生命どこ
ろか、死の先迄も差し出させてしまった…」

『柚明ちゃんの幸せは、私が守ります』

「約束したのに。堅く約束したのに、私は」

 貴女の青春も、人生も、未来も、何も守れなかった。守られて、守られて、守り抜かれ
て、最後には何一つ返す事も、出来ない侭に。それどころか羽藤の家の幸せさえも守れず
に。

 言葉が途切れて、暫くは嗚咽のみ幹に届く。

「残された幸せだけでも守る。この手で守る。だから、だから許してなんて言えないけ
ど」

 貴女に託された物は多かったのに、みんなこの手の内から零れて行った。残されたのは
僅かな欠片。でも、それでも、残された物は絶対に守るから。だから、だから許してなん
て言えないけど。貴女を守れなかった私から貴女に何も、言える事なんてない筈だけど…。

 貴女は今も尚幸せなの? 貴女は今も尚悔いてないの? 貴女は今も尚微笑んでいる?

「私は感応の力がないから分らない。私はサクヤの様に血で繋ってないから分らない。私
は贄の血もない、唯の鬼切りでしかないから、貴女の声も心も聞き取れない。答えて貰っ
ても、私には聞き取る術がない」

 貴女が槐の中で助けを求めているのではないか。涙を流し、届かぬ手を必死に伸ばして
いるのではないか。白花や桂を、あの日々を恋しがって震えているのではないか。この選
択を今になって悔いているのではないか。そればかりが頭を巡り巡って、拭い去れなくて。

「貴女に会いに来るのが、遅れてしまった」

【叔母さん……、余り自身を、責めないで】

 涼しい夜風が、吹き抜けていく。

「貴女が、私の強さを学びたいと言って来た時の事を私は今も憶えているわ。実は私は貴
女に闘いの術を教えるのは気が向かなかった。結構きつい感じで言った筈。憶えてい
る?」

『私の業は、多分貴女には継げはしないわ。
 貴女には闘いの素質という物を感じない。
 それどころか、貴女程闘いに向かない人も珍しいでしょうに。普通なら、私の業は習え
なくても、そこそこ迄はついてこれる。達人とか玄人とか言う辺り迄ね。でも、貴女は』

 優しすぎる。相手を倒すとか潰すとか言う発想が貴女に見えない。貴女がなぜ強さを求
めるのかは聞かないけど、貴女が欲している強さは私が教えられる物じゃないわよ、多分。

「貴女の見かけによらない強い意志に、結局私が押し切られてしまったけど、思うのよね。
あの時にわたしが断っていれば、或いはと」

 闘う術を知らない貴女の立場も行動も全く変っていた。運命も違っていたかも知れない。
貴女をこの定めに引き込んだのは私なのかも。

 でも、そうなったら貴女は両親の仇の鬼に、殺されていただろうから、やはり正解なの
ね。禍福は糾える縄の如し。貴女の言う通りだわ。

「真実の処を言うとね、私は貴女には闘いに関って欲しくなかったの。私は鬼切部として
様々な闘いに赴いてきた。己が負う傷は、自業自得とか修行不足とか、自身の中で決着を
つけられたけど。味方を失ったり、憎くもない敵を切り捨てたり、鬼の親族や知人友人の
悲嘆や怒号を受けるのは、結構辛いのよ…」

 苦味を負うのは私だけで良い。傷を負い痛みを負い業や哀しみを負うのは私1人で良い。

 私が守るから、全て背負うから、みんなには闘いに縁なく生きて欲しい。正樹さんも白
花も桂も、貴女も、血生臭い闘い、哀しみを生む闘い、身を危険に晒す闘いに関らないで
欲しかった。人生を謳歌してと。その笑顔や幸せが私の力になるからと。特に貴女は優し
い子だったから、本当に闘いに向かない人だったから。修練とは言え毎日の様に痛めつけ、
戦力になったから頼ってしまい、結局あんな。

 私の見通しが甘かった。それが貴女をこんな目に遭わせてしまった。全ては私の所為…。

 サクヤには聞いたけど、聞かされたけど。
 貴女が幸せだと言ったと聞かされたけど。

 私の悔いには限りがない。悔いなく日々全力を尽くす事を肝に銘じてきた私が、貴女に
ついてだけは幾ら悔やんでも悔やみきれない。

「貴女はこの先果てしない。私が老いて死に絶えても貴女に終りは来ない。この日々が、
この槐と主が続く限り。貴女を救い出す術が私にはない。鬼を斬るしか能がないのに、こ
こに眠る鬼には、手を出す事さえ出来ない」

 痛みを全て背負わせてしまった。
 犠牲を全て背負わせてしまった。

 私が今暮らす安穏な日々はその上にある。
 私が今桂と笑い合う日々はその上にある。

 何一つ取り返す事も術もない侭に。
 何一つ返せる報いも持たない侭に。

 暫くは、微風の枝葉を薙ぐ音と、静かな嗚咽のみが時を回し行く。

 当代最強が、聞いて呆れるわね。真弓さんは自嘲気味な笑いで話を一度断ち切って、

「桂は漸く、お友達もできたみたい。陽子ちゃんって子だけど、同じ話題を桂は必ず二度
話すの。憶えている? 桂は何か楽しい事があった時、必ず貴女と私に、それぞれ話した。
合せて二回。正樹さんや、サクヤがいればサクヤにも話したけど、わたしと貴女には一緒
にいる場で話しても、それぞれわたしを向いて一回、貴女を向いて一回、必ず話した…」

 あの頃の習慣が桂の中にまだ残っている。
 桂の中にまだ貴女の居場所は残っている。

「桂は一生懸命生きている。少しずつ大きくなっている。今は全て忘れ去った様だけれど、
それは意識の表面でだけ。もう少しよ。もう少し大きくなって、強くなって、己の全てを
受け止められるようになったら、貴女に…」

 ここにいる貴女に逢わせに、連れてくるわ。

 もう少し待って。無くした幸せの何分の一かでも、私がこの手で取り戻すから。貴女に
見える形に作り直すから。一生をかけてでも、必ず貴女の行いに報いるから。だから許し
てとは言えないけど、言えないけど。

【叔母さん、無理をしないで。生命を削らないで。今桂ちゃんには叔母さんだけなのよ…。
 わたしの事は気にしないで。大丈夫だから、わたしは元気で封じを務めているから。だ
から無理をして、疲れを溜め込まないで。叔母さんに何かがあっても、わたしにはもう
…】

 真弓さんがごつごつしたわたしの幹を抱き締める。その腕で、わたしを強く抱き留める。
そして、今日の本当の要件を、口に出した。

「白花の行方が、分ったの」


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


【白花ちゃんの行方が、分った……?】

 ご神木がざわついたのは、風に煽られた為だけではない。封じの柱が力を増して感じら
れるのは、月の輝きを受けた為だけではない。月の輝きなら今迄も受けていた。それ以上
に、

「鬼切部の奥に、極秘で匿われているの…」

【鬼切部に? 鬼を斬る人達の中に、鬼を宿した白花ちゃんが匿われている?】

「貴女は、千羽明良に会った事がある筈よね。私の後を受けて、千羽の鬼切り役につい
た」

【はい。……爽やかな、人でした】

 彼が白花を斬る密命を受けたの。あの夜の一件は私の手では処理が及ばずに、鬼切部に
借りを作る形で関りを求めざるを得なかった。その中で、白花の話が上層部に上がって、
私の知らない処で極秘裏に白花を切れと、命が下った様なの。鬼切部でも殆どその命が下
った事を知る者がいないという、例のない徹底した情報統制でね。サクヤも探れなかった
し、私も最近迄その事を、長く知らなかったのよ。

【……!】

「私は千羽の誇りであると同時に恥だったから。斬るべき鬼と意気投合し、お役目を返上
した裏切り者。駆け落ち同然で名も知れぬ家の男に嫁いだ千羽の家の面汚し。寿退社と言
うより敵前逃亡の様な物で、抹殺もあり得た。千羽は私の抵抗を慮って、行方不明扱いで
知らぬ振りを決め込んだけど。私の鬼切りの力が尚使えると考えて、気の合う者と私的に
パイプを繋ぐ事は黙認してくれたけど。鬼切り頭の若杉には苦々しい存在だったの、私っ
て。

 その女が産んだ子供が、事もあろうに鬼を宿して人を殺め、暴走している。若杉は白花
も私の存在も伏せて処理したかったのね。相手は主の分霊。向かわされるのは当然千羽で
最強の鬼切り役よ。如何に分霊でも、幼児の白花に宿った侭では抗し得ない。結果は見え
ていた。でも、明良は白花を斬らなかった」

 彼は白花の中に、主と白花が同居している事を、見抜いてくれた。追いつめられた鬼は、
その場凌ぎで人である白花を表に出した様ね。それが明良の思惑だった。分霊を裏返らせ
て、白花を表に出させる為の。明良は我を戻した白花に、途を示してくれた。鬼を抑える
途を。人としての途を。鬼切りの業を修得する事で、誰も殺さずに済むかも知れない、困
難だけど人を続ける道を。人として生き、人として死ねる途を。私は彼にも終生頭が上が
らないわ。

【千羽、明良さん……あの人が……】

 世の中はどこでどんな縁が繋るか分らない。なら彼は、白花ちゃんを叔母さんの子と分
っている、わたしの従兄弟だと分っている。彼は厳しさの中にも賢さと優しさを備えた人
だ。

「己の中の鬼を抑える途は、唯の鬼切部のそれより遙かに辛い。鬼を抱えるだけで白花は
その寿命を半分以下に縮められると言うのに、鬼切部もその修行と修行後の実戦の厳しさ
は想像を超えると言うのに、あの幼さで両方を。

 白花が斬られる事を望んでも、私は何も言えなかった。せめて人として死なせてといわ
れたら、断れなかった。人ではない者を中に抑えて生きる途の厳しさは、私でも耐え得る
か否か分らない。しかも相手は主の分霊。外から斬るならともかく、内に抑えるなんて」

 それに成功してさえ白花の寿命は長くない。鬼を抱える負荷は常に白花を蝕む。身体が
成長期を迎える迄は何とか出来るでしょうけど、その後は幾ら身体や心を鍛えても十年と
は…。

「死ぬよりも辛いなんて、滅多に口走る事じゃないけど、白花は本当に死んだ方が苦しみ
が短く済む状況だった。死への誘いは、恐らく今も四六時中彼に囁き続けているでしょう。
魂を鬼に食われた方が心も楽になれるという、もう一つの囁きと共に。でも、それでも
尚」

 白花はそれを受け入れた。彼は望んだのよ。自分の意志で、自身に宿る鬼と闘う人の道
を。

「斬る事自体が極秘の密命だから、明良の戦果は明らかにもならない。命令者に斬ったと
嘘をついて迄して、彼は白花を千羽の私有地に匿って、そこで鬼切りの修行を始めたの」

 明良に会う迄に、白花が何人かの生命を殺めたのは事実よ。彼は今も鬼の分霊を身体に
抱え、気が抜けた瞬間に裏返って鬼と化す怖れは拭えてない。でも、彼は必死で日々を生
き延びている。人である為に、人でいる為に。己の定めを最大限に生きて使い切るその為
に。己の負うべき罪も業も全て受け止めて。そして貴女に会える日を、心から待ち望んで
いる。

「この前、漸くその事実を知って、逢ってきたの。明良が、教えてくれたから。不覚にも
その前で泣き出してしまったわ。羽藤真弓生涯の失態だけど、最近それが多くて困るの」

 真弓さんが逢ってきた。白花ちゃんは紛れもなく生きている。人としての苦悩を抱えつ
つも尚、人としての生を歩んでいる。精一杯に生きている。全身全霊で生きている。わた
しは何もできなかったけど。わたしは今後も何もできない、力にも助けにもなれないけど。

【……白花ちゃん……良かった……】

 その裏に白花ちゃんがどれ程の苦しみと痛みを負っているのかは、最早誰にも推測さえ
つかないけど。それでも尚苦痛を承知で人として生きる道を選んだ強さは、最早誰にも及
びもつかないけど。強くて優しい子故にこそ、それは一層辛く困難な人生になるだろうけ
ど。

「桂の事を話したら寂しそうな笑顔を見せて、全部わたしに任せると言ってくれた。もう
人殺しの自分は桂の前に戻れないと。敢て記憶を戻さなくても、哀しい事は忘れた方が良
い場合もある。忘却も人に与えられた恩寵だと。望めるなら、生涯鬼にも鬼切部にも関ら
ない人生を与えてあげて欲しい、とね。

 正樹さんの最期を確かめた時は、拳を握り締めて涙を堪えていたわ。小さいけど、立派
な男の子だった。業の深さを受け止め、それを自身の力に変えられる意志の籠もった瞳を
見せてくれた。哀しみに我を失わないように、己自身の責めに耐える姿が、痛々しくて
ね」

 貴女の事を話した時の瞳が、忘れられない。

 貴女がご神木の封じを担ったと、あの時の全ての事情を聞いて理解した時に、白花は、

『絶対、主を許さない……。僕が、斬る!』

 見た事もない怒りの目だったわ。怒りに我を忘れそうなのを必死に抑え、己の中の主を
抑え、その瞳の中に哀しみを深く深く湛えて、その奥に、それよりも更に強い意志の輝き
を。

「だから、もう少し待っていてと。助けに行くから、必ず救い出しに行くから、強くなっ
て絶対幸せにするから。僕がこの手で助けるから。鬼切りで、絶対鬼を切り倒すからと」

 貴女に貰った生命を返すんだって。貴女に貰った想いを返すんだって。貴女に貰った心
を返す為だけに、僕は今生きているんだって。

『僕はもう自分に望みを抱いてない。父さんをこの手で殺め、妹を、桂を喰らおうとした
僕が、人並みの幸せは望めないと分っている。多くの幸せをこの手が砕いてきた。多くの
人の喜びを、この身体が踏み躙ってきた。もう取り返しがつかないけど、もう償いも購い
も間に合わない程深い罪を犯したこの身だけど。

 死罪になるなら構わない。生命で返せと言われたら断る積りもない。この生命で贖罪に
なれるなら、むしろ有り難い位、この身が犯した罪は大きくて深い。今更生きて残ろうと
か身を守ろうとか、考えてはいないよ。でも。
 それでも、僕にはやらなきゃいけない事がある。どうしてもやらなきゃいけない事が』

 その為だけに僕は生きる事を決めた。その為だけに僕は内なる鬼と闘ってでも、人とし
てもう少しだけあり続ける事を決めた。その為だけに、唯一つ僕がやり遂げなければなら
ない最期の望みの為に。それは僕の為じゃなく、僕の為に何もかもを捧げてくれたあの人
の為に。僕の一番たいせつなひとの為に。生きても死んでも必ずやり遂げる。やり遂げな
きゃならないんだ。僕の、僕の不始末だから。僕がオハシラ様を還してさえ、いなければ
…。

『あの時に戻ってやり直せなくても、あの夜に戻ってやり直せなくても、今からでも、こ
れからでも、やり直せる事があるなら』

 父さんを生き返らせる事は出来ない。桂の中で忘れられた僕に、桂にしてあげられる事
はない。桂の事は母さんに任せるよ。幸せに、桂を幸せに導いてあげられるのは、母さん
だけだ。僕は、僕が出来るだけの事をするから。

 この侭禍の子では終らない。哀しみを引きずらせた侭では終れない。鬼にやられた侭で、
好き放題に幸せを掻き回されて、いられるか。

『絶対、助け出す。僕の為に人生を棒に振ったゆーねぇを、僕の所為で全てを失ってしま
ったゆーねぇを、僕の全てで取り返すんだ』

 真弓さんは溢れる涙を拭いせず、白花ちゃんの悲壮な決意を語り継ぐ。白花ちゃんは己
の生に望みを抱いてない。わたしを助け出す為だけに生きると、その為に生命を費やすと、
その為に生命を使い切ると。それ迄保たせれば最早何も要らないと。死ぬより辛い思いを
乗り越えてでも、長くない生命を更に縮める事になると承知の上で。白花ちゃんは、

「貴女を迎えに行くから、待っていてと…」

【白花ちゃん……わたしを……嬉しい……】

「白花はわたしを上回る鬼切りになれるかも知れない。あの年であの瞳の強さはただ者じ
ゃないわ。あれ程濃い贄の血を持ち、鬼切りの私の血を引いて、修行を為せた鬼切部は今
迄いない。そしてあのとてつもなく強い想い。

 明良も、もしかしたら白花は千羽の歴史上で最強の鬼切りになれるかも、知れないって。
 でも、恐らくそれでも尚。千羽の歴史にある全ての業と力を集めても、恐らく主は倒せ
ない。あれは鬼神。私にも明良にもあれを倒す術はない。まして白花は内に鬼を抱え…」

 白花の心や身体が修行の最後迄保つかどうかも分らない。自己の限界に到る時に、分霊
が身体を乗っ取る怖れは非常に高い。教える明良もきっと命懸けになる。白花が鬼切りの
業を憶えても、外向きに使えるかどうかもね。全力を使い果してしまえば、白花の中の鬼
を抑える力がなくなってしまう。彼は鬼切りの力を常に己の内向きに作用させなければな
らないの。鬼を斬る瞬間だけでなく、四六時中。

「玄人が見れば見る程分ってくる。白花の望みが叶う可能性は殆どゼロに近い。白花が貴
女の前に立てる可能性すら、限りなく小さい。白花もある程度はそれを承知している。で
も、彼はそれでも想いを貫くんだと。その望み一つを叶える可能性の為だけに今少しの人
の生を望むんだと。私は、何も、言えなかった」

 頑張れとも、諦めろとも、好きにしろとも、もう楽になってとも、言えなかった。どれ
も言えなかった。勧める事も勧めない事も出来なかった。進んでも引いても、座しても動
いても白花に待つのは過酷な日々。望みを抱いても抱かなくても、死ぬより辛い日々が待
つ。

 それを目の前にしても、私は何もできない。貴女に何もしてあげられないのと、同じ様
に。時々思うわ。私は本当に、一体何の為に生き残って今あるのかと。誰の為に貴女に助
けられ、生命を救われて今ここにあるのかとね…。

「それでも、私は約束したの。守れない約束ばかりでは悔しいじゃない。せめて残された
幸せはわたしのこの手で守るって、この程度の約束は叶えたい。この位の約束は守りたい。
それで貴女を取り戻す事も、救い出す事も出来ないけど。せめて貴女の心に報いたい。報
いて許される物でもないと分っているけど」

 白花も桂も、それぞれ一生懸命に日々を過している。私に出来る事は少ないけど、私は
この生命がある限り、2人が少しでも笑みを浮べられる様に、力を尽くす積り。貴女のし
てくれた事には到底及ばないけど、貴女がそこで頑張ってくれている代りに、動ける私は
動けるだけ動いて頑張らないとね。

【……叔母さん、余り無理はしないで……】

「羽藤の血なのかしらね。報われる事を求めずに、大切な物の為に己を尽くす。白花も本
当に、本当に己を捧げるかの様に。無理だという事は、不可能に近いという事は、多分幼
い白花にもある程度分っている筈なのに…」

 その通りだった。でも、それでも尚。生きる望みを失った白花ちゃんが、生きる希望を
見出せたなら、それが無理に近しい事だろうと。そこに挑もうとする事のみが、彼を人に
繋げ、生命に繋げてくれるなら。

【わたしは、白花ちゃんが精一杯悔いなく生き抜いてくれる事を望みます。それが痛みや
苦しみの多い、報われる事少ない茨の道でも、白花ちゃんの心が望み定めた途なら】

 わたしが助けて貰えるかどうかは別の話。
 わたしも最早自分に望みを抱いていない。
 唯、白花ちゃんの望みがそうであるなら。

【わたしは、待ちます。白花ちゃんが来てくれる日を。叶えられない望みでも、それを命
綱に、赤い糸にして生きてくれる事を。生きてわたしに会いに来てくれるその日を。白花
ちゃんが最期の最期迄人で、白花ちゃんであってくれる事を。わたしはやはり鬼かも…】

 真弓さんが白花ちゃんに、何を望む事も何を望まない事も出来ない苦衷が、察せられた。

 わたしには最早祈る事しかできないけど。
 わたしには最早願う事しかできないけど。
 わたしには最早想う事しかできないけど。
 わたしが白花ちゃんに唯一つ望める事は、

【人として生き、人として死ぬ事を望み願う白花ちゃんの前途に、少しでも幸多かれと】

 最早白花ちゃんの運命は生きながらにして死んだ人より手の届かない処にある。間近に
いても、誰の助けも守りも及ばない程に遠い。想いは通わせても、言葉は交わせても、し
てあげられる事は殆どない。そんな白花ちゃんを目の前にする真弓さんの苦悩も、深く濃
い。

 だけど真弓さんはそれを踏み越える強さを持っている人だ。それに向き合い続ける強さ
を持っている人だ。その言葉に意志を宿らせ、

「白花は、白花だったわね。自分の手に余る事でも、守ろうと決めたら決して手放さない、
投げ出さない。たった一度、お兄さんなのだからと言い聞かせて頷いたら、あの夜迄同じ
歳の桂を、妹として気遣い守り庇い続け…」

 今尚彼の本質は変ってない。誰かの為に、己が守り尽くし助けになる誰かの為に。貴女
と同じ。自分より、誰かの事を考えてしまう。守りたい誰かがいないと、落ち着かない様
に。

「そして今は唯1人、貴女をだけ想っている。貴女の幸せを、貴女の微笑みを、貴女の未
来をだけ想い願い。自分自身より遙かに大切に想っている。一途な処迄、貴女に似てき
て」

 彼の事は暫く明良に託すしかない。いつか貴女の前に立つ事もあるでしょうけど。ええ、
きっといつか。同じ天地の元で、確かに生きていると確かめられた。尚人であり、尚人で
いようとし続けている。それが最大の成果よ。

「全て失われてはいない。取り返せる幸せも残っている。正樹さんはいないけど、いつか
桂と白花とサクヤも共々に、ここを訪れたい。私の望みは、そんなささやかな物だけれ
ど」

 例えようもなく難しく、尊いもの。

 たいせつなひとを守りたい。その幸せを守りたい。その想いが、漸く遙か先の目標を…。

「貴女に報告できるのはこの位。貴女がその身を抛って守ってくれた物を取りこぼし続け
た末の報告になったけど、貴女の人生全てと引き替えたにしては寂しい報告になったけど。
これで許してなんて言えないけど、とても胸を張って言える様な成果じゃないけどね…」

 貴女を決して忘れてないと行動で示す為にも、一刻も早く来たかった。来たかったけど。

「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい」

 何もかも私の所為だから。悪いのは、力が足りなかったのは、弱かったのは私だから!

「憎んでも良い。恨んでも良い。泣いても叫んでも喚いても良いから、何か声を返して!
 私の柚明、私の大切な、たいせつな柚明」

 貴女を助けられるなら、この身を捧げても構わなかったのに。貴女を守り抜けるなら、
私が生命を差し出したのに。貴女さえ戻ってきてくれるなら、私が槐に取り込まれたの
に! 私にはそれもできない。

「私は世界一の役立たず……!」

 ひしと抱きついて、幹を締め付ける。堅い幹は、服の上から真弓さんの身体に擦り傷を
作るけど、真弓さんは放すどころか一層強く、

「可哀相に……可哀相に、可哀相に……!」

 本当に、真弓さんはお母さんの様だった。

 わたしの弱い処迄承知で、わたしが打ちひしがれていた事迄お見通しで、大切に大切に
想い続けてくれた。声が通じなくても、力が通わなくても、心は通じていた。この哀しみ
を白花ちゃんや桂ちゃんには悟られない様に、白花ちゃんの哀しみは桂ちゃんに悟られな
い様に、そうしながらもみんなの哀しみを救い上げる術を探して、必死に必死に駆け回っ
て。

 本当に、本当に、身体を壊してしまう程に。どうにも出来ない悔しさを己の中に受け止
めて外に出さず、生きる事を諦めたくなる哀しみを己の中で受け止めて外に表さず。正樹
さんもいない中、笑子おばあさんもいない中で。その強さはとてもわたし等の及ぶ処では
ない。

 桂ちゃんにも、白花ちゃんにも、真弓さんは不可欠だった。あの場でわたしがご神木に
同化した選択はやはり正解だった。例え真弓さんにオハシラ様の資質があっても、彼女に
それをさせてはいけなかった。桂と白花から、最後の希望であり最後の守りとなる母を取
り上げる事は許されなかった。わたしで充分だ。桂ちゃんも、わたしなら忘れて済ませら
れる。白花ちゃんも、わたしなら諦めをつけられる。

 わたしは成果も報いも望まない。
 唯、今残された幸せの芽を守る。
 唯、今残された未来を支え抱く。

 ここで主を抑えて動かない事で。
 ここで主と共に消えて行く事で。
 だから、だからみんな、幸せに。

《叔母さん……真弓叔母さん……》

 わたしは何とか答を届かせたかった。
 わたしは何とか気持を伝えたかった。

《わたしは、大丈夫。大丈夫ですから》

 今現在の、静かに満ち足りた心を伝えたい。
 強く定まって揺れる事ない意思を伝えたい。
 悔いも抱き留め、乗り越えた今を伝えたい。

 今は夜。オハシラ様もご神木も力が満ちる刻限の筈だ。何か、出来るかも知れない。強
く想い願う事で、月の輝きを取り込みつつ今、何度か乗り越えた絶対不可能を思い描きつ
つ。

 ご神木の隅々にわたしの想いを満たし行く。ご神木から力を供給されるのではなく、ご
神木にわたしの想いを及ぼして、そこにある力に方向性を与える。抑え束ね、一方向に操
る。

 ご神木の全てに、わたしの想いが力と共に行き渡り、ご神木の力も統御する。蒼く輝く
その力は、身体を失っても尚わたしの贄の血の力なのか。それとも?

 真弓さんが気配に気付いて顔を上げるのに、

「槐の、花……? まさか、まだ」

 開花は一ヶ月以上先の筈だった。

 でも、今真弓さんの前に一輪落ちてきた槐の白い花は、わたしが心を尽くし、わたしが
想いを尽くし、わたしが力を注いで咲かせた、真弓さんの為の槐の花。わたしの心を伝え
る為に、ご神木を操作して作りあげた肉のある現象。手にとって確かめられる、小さな奇
跡。

「……柚明ちゃん? なの……これは……」

 わたしの意識がご神木の内壁を突き抜けて、目の前の真弓さんを抱き包む。それは、本
来封じの柱としては行うべきではないのだけど。封じを揺るがす愚行なのだけど。継ぎ手
になって間もなく、霊体でも希薄な今のわたしは、外に出ても誰の目にも映れないのだろ
うけど。

「微かな風……槐の花の匂い……、それに」

 ほんの微かな風だけど、声にもならない、ちょうちょも飛ばせない今のわたしだけど。

「あったわね、そんな事が。オハシラ様が微かに届かせた風を、貴女が感じ取れた事が」

 これは貴女が私に、想いを届かせる為に?

 わたしの力は全てが内向きで外に及ぼす余裕は殆どない。真弓さんは羽藤の血を引いて
ないし、感応の力も低い。サクヤさんの様にわたしの血を飲んだ訳でもないから、血を介
しての共鳴もできない。通じるのは想いだけ。たいせつな物を共有し、同じ物を絶対に守
りたく願うその想いだけが、唯一の淡い接点…。

 でも、それでも届かせたい。この想いを、この気持を、この心を、真弓さんに届けたい。
その想いが、奇跡に準ずるそれを成し遂げた。

 言葉は伝えられなかったけど。はっきりした思念ではなく、漠然とした想いしか伝えら
れなかったけど。それでも伝えられた。わたしの満たされた心を、揺るがない気持を、平
静に鎮まって運命に身を任せた今を、確実に。

「柚明ちゃん……、……柚明ちゃん……!」

 ご神木の幹の固い皮に頬をつけて、滂沱と流れ出る涙を拭いもせずに、真弓さんが泣き
崩れる。己が救われたかの様に、自身の贖罪が為せたかの様に。救われたのはわたしの方
なのに、想いを貰ったのはわたしだったのに。

 わたしは真弓さんの想いも受けて、封じの力を強化する。ご神木から力を受けるだけで
はなく、ご神木に力を通わせ、神経を通わせ、数々の想いを重ね合せ、主の封じを強くす
る。

 いつかサクヤさんが言っていた。

『完全な守りってのはないんだ、人の努力で守りを完全にするんだよ』

 だからこの封じは、わたしが完全にする。
 だから幸せの基盤はわたしが完全に保つ。

 未来永劫、わたしのたいせつなひと達の血筋が絶えてなくなったその先迄も、わたしが。

 わたしはもうこれ以上、何も要らない。
 わたしは充分すぎる程の想いを受けた。

 わたしのこれからは全て返す為にある。
 為し終えて、消え逝く事に意味がある。

 主がわたしを求めだしたのは、今度も真弓さんが引き上げて、暫く経ってからだった…。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


【贄の血の陰陽の片割れが、わたしの分霊を連れて来てくれるのか。流石は分霊の器よ】

 いつもの通り、捕食なのか嗜虐なのか性交なのか分らない破壊の嵐に数日数夜晒された
その後で、主は身を横たえたわたしに語りかける。破壊された手足や内臓の修復がまだな
ので、破り捨てられた衣の修復もまだなので、起き上がる事も出来ない侭、血塗れの肢体
を主に半ば晒すわたしだけど、それにも慣れた。

 わたしは既に人ではない。人の羞恥や感覚を持っていては、到底この中で己は保てない。
この中で己を保って尚ある事が、わたしが既に人ではなく、鬼である事の証左なのだろう。

 真弓さんが帰って暫く後、前触れもなくそれは始った。当初を想起させる苛烈な責めに、
わたしの身体は何度か胴体が裂け、内蔵が千切れ飛び。待たされた鬱憤を晴らすかの如く。

 毎年娘を生贄に出せという、昔話の神様にはこういう事情があったのか。なる程人の身
体は脆弱だ。鬼神には消耗品扱いかも知れぬ。きちんと子種を宿す前に、心も身体も壊さ
れていたのだろう。だから次の生贄を求めると。

 微かに危惧が走ったが気にしない事にする。封じの中は所詮虚像だ。『積り』に過ぎな
い。竹林の姫と主の千年の2人きりがその傍証だ。何かを宿す事はない。何かを生み出す
事も…。

 主は我慢していたのだろうか。主が我慢などを憶えるとは、思えないのだけど。それも
神の寵愛を与えた竹林の姫ではなく、鬼の憤怒を与えたこのわたしに。封じの中では主を
制約する物は何もない。話の最中でも主はわたしには幾らでもしたい放題に邪魔を出来る。

 わたしの様に外に何かを伝え及ぼす事だけは不可能だけど。それが封じた物と封じられ
た物の違い。実際の封じはわたしとご神木が一体で主を内に包み込んでおり、主にはそれ
をすり抜けも躱せもしない。主の声は外には伝わらない。わたしがここに生きてある故に。
それが封じ。唯、一体なのでわたしへの語りかけも主への語りかけも、お互いに筒抜けだ。

 だから主はその気になればわたしを妨げる事は簡単だった。我慢して迄待つ必要はない。
真弓さんは外にいて何もできない。主が望めばわたしには、抗う術も逃げる術もないのに。

【お陰で良い話を聞けた。人の話を邪魔せずに聞くと言う事は、時に利益ももたらすな】

【貴男の分霊が来るのではありません。白花ちゃんが来るのです。貴男を斬りに】

【それで? お前はそれを許す積りなのか】

 継ぎ手よ、お前は封じの要を辞する気か?

【それは……、ありません】

 白花ちゃんが主を斬る為には、まず封じを解く必要がある。封じごと外から斬る選択も
あるけど、それではわたしだけ斬って主に痛手が及ばない可能性が高い。千数百年、主を
斬ろうと試みた者もいなかった。鬼切りの業がどれ程強大でも、主に通じるか否か。その
昔も主は鬼切部を退け、観月の長達と役行者の連合軍に敗れて封じられた。ご神木の中は、
主をわたしが包み込んだ状態でいる。虚像世界ではわたしと主は向き合ったり抱き合った
り離れたりするけど、全ては錯覚の上の話だ。

 母の腹中の胎児に近しく、主はわたしとご神木に密封されて包まれている。白花ちゃん
が鬼切りの業で斬ろうとすれば、わたしごと斬るか、封じを解くしか方法がない。でも…。

【わたしを解き放つのなら、歓迎するが…】

 わたしが大人しく斬られる者でない事位は承知だろう。その上、鬼切りの業が通じなか
った時に再度封じる事等、誰に出来るのかも。さて、その鬼切りの業とやらがどの位利く
か。

【貴男はわたしが封じ続けます。その様な心配は無用です】

【なら、わたしを斬りたがっている小僧はどうするのだ。諦めて貰うのか。それとも、お
前ごと斬ってくれるよう頼むのか。あの小僧の母親や父親に、かつてお前が求めた様に】

 主はわたしが封じを解かないと分っている。主もわたしも、白花ちゃんがどれ程鬼切り
の修行を重ねても、鬼神を切れる域に達し得ぬと分っている。わたしが主を解き放つ事は
ない。白花ちゃんがどうしても斬ると言うなら。

【残念だな。それだけを望みに生きてきた可愛い従兄弟の願いを、拒むとは。応えてやっ
ても良いのではないか。お前も、たいせつなひとの強い想いを拒むのは、哀れだろうに】

【わたしの想いは貴男を封じ続ける事です】

 動揺を鎮めて応えるわたしに主は平静で、

【なら、分霊が解き放つしか、術はないか】

 白花ちゃんが来ると言う事は、主の分霊も来ると言う事だ。それは封じの危機をも示す。
明良さんは多分白花ちゃんがご神木に近付く事を終生許さないだろう。鬼切りとしてどれ
程業を極めても、内に主の分霊を秘めた白花ちゃんをここに来させる様な無謀な判断を鬼
切り役はしない。斬れるか否かも分らない鬼神に、再び封じれるか否かも分らない鬼神に、
鬼切りの業を使い消耗する事で内なる鬼を裏返させる怖れを持つ白花ちゃんが、挑んでど
の様な結末を見るか。危うすぎる。白花ちゃんがここに来ると言う事は、明良さんが……。

【わたしは3つ目を言ってなかったな。あの分霊は必ず、わたしを解き放ちにここに戻る。
それが最後の明確な事だ。奴も所詮は分霊だ。わたしの全てではない。やむを得ず流転を
重ねているが、大本に返りたい想いは当然…】

 分霊も、ここに戻りたく思っている。それは言われる迄もない事だけど、白花ちゃんが
ここに戻りたいと思っている事とは勿論逆で。逆だけど、ここに戻りたい、あの夜をやり
直したい想いだけは同一で。誰にどの様な妨げをされようと、必ずここに戻る想いは同一
で。

【あの女がいる限り、分霊は警戒してここには戻り来ぬだろう。ああ、先程来ていたあの
鬼切りだ。流石に分霊ではあの女に勝てるかどうか分らぬ故、大事をとるとわたしは思う。

 鬼切部の中に入ったと聞くが、分霊にとってはそれも機を窺う中での時間稼ぎに過ぎぬ。
小僧の心が残れた事は分霊にも幸いだったな。器の奥に、小僧の心の奥に潜めば、鬼切り
の業も及ぶまい。お前に封じられたわたしと同様、表に出なければ直接斬られはせぬ。器
ごと切り捨てる非情の判断も、あるにはあるが。

 視た処、あの女もそう長くはない。その後だろう。小僧が成長して、最盛期を過ぎ、身
体も気力も下り坂に入り始めれば、分霊はいつでもその身を乗っ取れる様になる。十年先
になるか、二十年先になるかは分らぬが…】

 千年待ち続けたのだ。今更十年や二十年の待機など瞬きの様な物よ。お前を慰みながら、
それ迄の日々を過そうではないか。

 主は漸く治りかけたわたしの右手首を右手で握って、力任せに握り潰す。グチャリとい
う奇妙な、しかしもうここでは聞き慣れた音を立て、わたしの右手首から先が血飛沫をあ
げて砕け散った。わたしは痛みに顔を歪めつつ、遊び程の意識もない主の目線を睨み返し、

【白花ちゃんはもう貴男の分霊に身体を乗っ取られる事はありません。どんなに苦しくて
も辛くても、鬼を抑えて人として生きる道を決めたのですから。きっと、きっと強く生き
て、最期迄人として死んでいくでしょう…】

 その死迄、白花ちゃんが望み定めた途を悔いなく生き続けてくれる事。それ以上わたし
が白花ちゃんに願える事はない。あの幼さで、死を見通して生きねばならない定めは、過
酷すぎたけど。その定めに白花ちゃんは向き合っているのだ。せめて全てを見定めないと
…。

【わたしはどちらでも良いのだ。小僧がお前を想ってわたしを斬る為に封じを解くのでも、
分霊がわたしを想ってお前を抹消して封じを解くのでも、どちらでも。あの分霊は充分に
大きい。ミカゲ達と違い、結界を踏み越えてここ迄踏み込み封じを解く事さえ可能だろう。

 陰陽揃いは最早不可欠ではない。あの夜の最大の失敗は、あの女が情に囚われて、分霊
を器ごとその場で切り捨てられなかった事だ。お前は一番たいせつなひとに斬られるか、
その皮を被った鬼の力で消し去られるか。お前のその役目も、どうやら悠久ではなく時間
制限付きの、使い捨ての継ぎ手であるらしい】

 今からでも願うのだな。分霊の器が鬼ごと早死にします様にとでも。そうせねば、わた
しが甦って贄の血の陰陽のもう片割れの娘の方を探しに行く事になろう。あれ程濃い血は
中々にある物ではない。たいせつなものを守る為にたいせつなものの不幸を、死を願うか。
或いはたいせつなものの為に、わたしの復活を見過ごして、たいせつなものを見捨てるか。

【それも一興。見せて貰えそうだな。お前は一体、あの2人のどちらがより大切なのか】

 わたしも主に似た矛盾を抱え込んでいる。

 わたしの一番たいせつなひと。桂ちゃんと白花ちゃん。ではその片方がもう片方に危う
い時、片方の生存がもう片方の生存に致命的な時、わたしはどちらかを選ぶ事になるのか。
選べるのか。果してわたしには、どちらが?

【両方失う結末もある事を忘れないで貰おう。迷えば、或いは迷わずともしくじれば、両
方が生きて残れない。所詮、選ぶのはお前ではない。わたしでもない。封じの外側にいる
者達の動向次第だから、待つ他に術もないが】

 あの夜の行いも、命脈が少し伸びただけだったな。妙手に思えたが、結局王手飛車取り
を少し生き延びさせて、苦しませたに終るか。この暫くの日々は、変転を続けて悪くなか
ったが、竹林の姫との様に千年は過ごせまい。暇を余すだろう。そろそろ解き放たれるか。

【お前の犠牲も漸く報われるのか。それとも、水の泡となるのか。わたしは自由を取り戻
し、お前は悠久の役目から解放される】

 赤く輝く主の目線にわたしは精一杯抗って、

【白花ちゃんは強くて優しくて、賢い子です。貴男やその分霊に振り回されて終りはしま
せん。わたしがいる限り封じに終りは訪れません。もう千年分の暇潰しの用意を勧めま
す】

 わたしは最期の瞬間迄封じの力を緩めない。それが十年先だろうと、千年先だろうと、
わたしに出来る事がそれしかないなら行うだけ。わたしに出来ない事、わたしの手の及ば
ない事はしようがない。己が出来る事に集中する。

 悔しいけど、残念だけど、この世にはどうしようもない事もある。人の手や努力ではど
うにもならない事がある。どんなに頑張っても頑張っても及ばない事がある。だから人の
手でどうにかなる事は、努力で何とかできる事は、何とかしよう。全身全霊立ち向かおう。

【先が見えているのに、中々頑固なのだな】

 主は修復が終ったばかりの蒼い着物をその剛腕で引き剥がし、わたしの裸身を組み伏せ、
わたしの瞳を覗き見る。主の瞳に映ったわたしは、1人になっても定めに立ち向かう意志
を表情に示して、少し硬い。お母さんは『羽藤(はとう)の血には頑固の血も流れている
の。言い出したら聞かないって言うのは、私の母さんも正樹も本当』と言っていたっけ…。

【わたしは、わたしの為すべき事を為すだけ。
 頑固は、わたしが遠祖から受け継いだ性質。

 貴男が貴男の想いに忠実であり続ける様に、わたしもわたしの想いに忠実であり続けま
す。後は定めの導く侭に、貴男もわたしも最期迄、互いの想いをぶつけ合う他にないでし
ょう】

 誰がどうなるかは、誰にも実は分らない。

 ご神木から出られないわたしや主に出来るのは、この中で為せる事を為し遂げるだけだ。
最期が十年後か千年後かは分らない。分らないからこそ、今この一瞬一瞬を悔いなく過す。
わたしはわたしのたいせつな人の幸せの為に。
【良かろう。ならその日迄、暇潰しに果てしなく付き合って貰おうではないか。飽きるほ
どその身で暇潰しをしてくれる故に、全て最期迄しっかり受け止めるが良い。鬼の憤怒を、
千年でも万年でも、天地終る時迄もな…!】

 それは覚悟の上の事。それは承知の上の事。

 わたしが人を諦めた時に、わたしが羽藤柚明を捨てた時に、己に納得した事だ。わたし
は草木の如く来る定めを受け容れる。主を、わたしの身体と心の全てをもって受け止める。
人で及ばないなら、この身を鬼に変えてでも。たった一つ、最期の想いを通すその為だけ
に。

 微かな未来は見え始めていた。それはまだ、確かな像ではないけど、今が全ての決着で
はないと、良くも悪くもまだ変化の芽があると伝えてくれる。様々な分岐の末を、瞼の裏
に映る人の立ち居振る舞いの像で、耳に届く言葉や音や、匂いで、関知の力が拾い上げる
…。

 それが誰にどう影響するかは分らないけど。

『……白花ちゃん、……桂ちゃん……』

 わたしは粛々と封じの要を務め続けよう。
 わたしは主を抱え未来永劫あり続けよう。

 槐の花を咲かせ続け、主の生命を削りつつ。
 槐の花を散らせ続け、鬼の妄執を削りつつ。

 わたしの想いは揺るがない。わたしの封じは緩まない。封じの中で主に千回魂を砕かれ
ようと。この中で主に万回心を貫かれようと。

 わたしはユメイ。槐のご神木に宿って主を封じ、果てしない歳月をかけてその妄執を槐
の白花に変えて散らせ、悠久の時の彼方にその魂を還し逝く者。その為だけに、主の還り
逝く遙かな時の彼方迄、わたしを知る者も皆息絶える時の果て迄、未来永劫このご神木に
留まり続け、鬼を封じ還し往く1人の鬼。

 わたしは花を咲かせ続けよう。
 わたしは花を散らせ続けよう。

 心の血を流しても、心の涙を流しても。
 決して流されず一つだけを残し繋ごう。

 たいせつなひとがいる限り。
 たいせつなひとを想い心に抱き続ける限り。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 槐の白花が、何度か咲いては散っていった。

 秋が来て、冬が来て、又春が来て、又夏が来て。季節は巡る。運命の輪は巡る。唯時の
車輪だけは戻る事もなく、一本道を進み往く。

 わたしが槐として迎える何度目の初夏だっただろう。天迄突き抜ける蒼い空に、細長い
白い雲が二筋三筋、くっきりその紋様を描き。でも風は結構強くわたしの枝葉を押しつけ
て。少しの後に、強い嵐が来る予兆かも知れない。

 やや癖のある白銀の髪の長く艶やかな女性が訪れたのは、そんな晴天の正午過ぎだった。
でも、その声にも心にも、常の力強さはない。

 サクヤさんはまっすぐご神木に歩み寄って来て、わたしの硬い幹の皮にその手を触れて、

「真弓が、逝ってしまったよ……」

 夏にしては涼やかな風の吹き抜ける中、幹に手を当てた姿勢で俯くサクヤさんの表情は
見えないけど、わたしはその表情を見る必要もなく、彼女の気持の浮き沈みも視えてくる。
その哀しみも、その悔しさも、その孤独迄も。それを受けて動き始める微かな嵐の兆し迄
も。

 再び事が、動き出そうとしている。縁の絡む接点、双子の運命の輪の要にいた真弓さん
の喪失が、辛うじて抑えていた何かを動かす。それが吉凶いずれに向うかは、まだ見えな
いけど。誰にどの様に作用するかは、まだ見えないけど。嵐の兆しが心を覆い尽くしてい
く。

 縁(えにし)の糸が絡まり合い、依り合わさって一つの円(えん)を為し、紡ぎ出され。

 運命の輪が、廻りだす。


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