第−章 柚明からユメイへ(前)
わたしの名前は、羽藤柚明。羽藤の家の血を濃く承けて、今は亡き笑子おばあさんの血
を濃く引いて、鬼と呼ばれる人外の妖かしに良く好まれる贄(にえ)の血を濃く持ち、そ
の血に宿る力を修練で多少操れる様になった。
あくまでも多少。死者の蘇生もできないし、致命傷ではない傷や疲労は癒せても、病も
老化も戻せない。笑子おばあさんや詩織さんを結局わたしは助け得なかった。血の匂いを
鬼に気取られる事はなくなったし、贄の血の力で鬼を灼く事や弾く事はできるけど、鬼切
部の様に人に仇をなす鬼を討ちに出る事もない。あくまでも護身の延長で、害意を持つ敵
がいても、こちらから踏み込んで闘う程の力量はないし、わたしはそれ程剛胆でもない。
この血の所為で、この血の匂いを抑える術を知らなかった幼い日、血の匂いを隠してく
れる青珠の守りを手放した為に、鬼に襲われ、お父さんとお母さんと、お母さんのお腹に
宿っていた妹を失った。この血のお陰で、家族を全て失ったわたしは笑子おばあさんの住
む経観塚に引き取られて、正樹叔父さんの双子の子供、桂ちゃんと白花ちゃんに巡り会え
た。
生命を引き継げる者、想いを語り継げる者、わたしが受けた守りと導きと心を注ぎ込め
る者が見つかった。それがわたしには心底から嬉しくて、例えようもなく幸せで。わたし
はこの日の為に、生命を繰り越してきたのだと。この血の所為でわたしの心は闇に沈み、
この血のお陰でわたしの心は光を抱いて、甦った。
日の光を浴びる様な幸せ。唯ある事が無条件に嬉しい。過ぎ行く日々が勿体ない位に幸
せで、次に来る一瞬一瞬が眩しい程に楽しい。無垢な笑顔、無邪気な笑顔、唯の笑顔。そ
れが、わたしには例えようもない程に尊くて…。
家族全員に禍を招いたこの血を操れる事が、2人の導きになり守りになり、助けになる
と。双子の人生には必須な先達で導き手になると。哀しい訣れを招いた血の定めが、最愛
の者に巡り合わせ、守る力と絆になってくれる皮肉。
全てを失ってから、唯一無二の絶対を得る。禍福は糾える縄の如し。運命の巡りの輻輳
は、時に人の想像を超える。やや時代錯誤な力と業と定めを負った、わたしの今の最大の
楽しみと願いは、2人のいとこの育ち行く様を支える事で、その笑顔を生み出す場を守る
事で。
わたしに望みをくれたのはこの2人。わたしを生かしてくれたのはこの2人。この2人
に生命を返さなければ。生命で応えなければ。生命を尽くさなければ。いや、尽くさせて。
わたしの及ぶ限り、わたしの届く限り、わたしのなし得る全てを、生命をつぎ込んでも。
例えわたしが羽藤柚明で、なくなろうとも…。
夜半から、激しい雨の降り注いだ中だった。
子細は分らないけど、突然暗雲の下の闇を貫く赤い輝きと共に2人の鬼の少女は顕れて、
桂ちゃんと白花ちゃんを邪視で縛り、ご神木へと差し招いた。血の力の修練に伴って磨か
れた関知の力は、わたしに様々な事を示唆してくれるけど、万能ではない。特にわたしに
知られる事を嫌がる者、害意や悪意抱く者の背景や由来等は見通し難い様で、その存在や
行動も比較的間近にならないと視えてこない。もっと修練できれば、そういう隠したい意
思を超えての関知も可能になったのだろうけど。
鬼の少女達は知っていた様だ。贄の血が濃い男女、『贄の血の陰陽』が同時にご神木に
触れる事が、主の封じを解く術だと。ご神木に宿るオハシラ様の魂を還し、千数百年封じ
続けた鬼神を解き放つ術だと。
わたし達の妨げは僅かに間に合わなかった。それは定めだったのか。真弓叔母さんが姉
の鬼ノゾミを切り、わたしが妹の鬼ミカゲを退けた時には既に、操られた双子の手はご神
木に触れて、サクヤさんの一番大切な人の魂は還されていた。
悠久に想い続け、永劫に手が届かず、それでもお互いを想い合う心は千年の摩耗を経て
尚輝きを失わず。この先も天地終る迄尽きないと思っていたのに。想い続けるだけでしか
なくても、二度と抱き合う事ができなくても、久遠に声を通わせる事ができなくても、い
てくれる事が望みだったのに。願いだったのに。
たいせつなひとが、いなくなってしまった。
そして、甦ってはいけない者が、胎動する。
遙かな昔、贄の血を引く竹林の姫を欲した赤く輝く星の神、まつろわぬ蛇の神が今甦る。
甦って間近な贄の血を欲する。濃く強く匂う、白花ちゃんと桂ちゃんの血を奪う。喰い殺
す。
強大な山の神。今や誰にも抑える事の叶わない蛇の神。鬼と括るには余りにも隔絶した、
わたしの関知の力の全てで見通しても倒す術も防ぐ術も見つからない絶望的な強さの鬼が。
主が出てくるのは時間の問題だった。まだ封じの綻びは小さかったけど、既に主はオハ
シラ様の消失を知っている。封じの要を失ったご神木は、何時間も防ぎ止められはしない。
その綻びを引き延ばし、押し広げ、突き破り、主は現世に顕れる。顕れて双子の生命を絶
つ。
封じの要を、失った以上は。
封じの要を補充しない限り。
封じの要を、誰かが担えば。
オハシラ様と同じ血を濃く承けて、羽藤の笑子おばあさんの血を濃く引いて、贄の血の
力の操りを知る者が、ご神木の中に入って、主と同居して、主を抑える封じの要になれば、
悲劇は回避できる。オハシラ様の継ぎ手となってその意思を繋げれば、惨劇は避けられる。
それが唯一の方法だった。できるのは唯1人。
「ではわたしなら、大丈夫ですね」
お父さん、お母さん、わたしにあの時の勇気を分けて。生命を抛って守ってくれたあの
時の、たいせつな人に己を捧げ尽くす勇気を。わたしもたいせつな人に己を捧げ尽くしま
す。
わたしの名前は、羽藤柚明。羽藤の家に育ち、そこで生きる意志を貰い、生きる目的と
値を掴み取れた。返しきれない想いを受けた。いつか返さねばと思っていたけど、わたし
の生涯をかけて、返しきろうと思っていたけど。桂ちゃんと白花ちゃんの先達として、唯
一の贄の血の使い手として、出来る事は全て為す。
羽藤の家に依る幼い2人の為に。
羽藤の家に生れ育つ2人の為に。
2人を愛するわたし自身の為に。
2人の幸せを保つ為なら、2人の日々の笑顔を守る為なら。わたしは何度でも生命を捧
げられる。わたしは悠久の封印も耐えられる。例えわたしがその幸せの間近にいられなく
ても。例えわたしがこの目でその笑顔を見られなくても。例えわたしが、消え去ろうとも
…。
「叔父さん、叔母さん、お願いします」
少し前迄、わたしの名前は羽藤柚明だった。
今は果してどうなのだろう。ご神木に宿り、封じの要を担い、主と共に今後果てしない
月日を過ごし行く今のわたしは、何と呼ばれる者なのだろう。肉を持たず言葉も発し得ず
外界に意志を伝える術を断たれた今のわたしは。もう名乗る必要も名を呼ばれる事もない
から、気にしなくても良いのかも知れないのだけど。
最後の雨は、止まずに尚、降り続いていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
わたしが封じの要として最初に為した事は、封じの綻びから身を乗り出しかけていた主
の魂を、己と共に封じの中へ叩き落す事だった。格好良く言えば跳び膝蹴りかも知れない
けど、実際は全身で飛びついて、重さと勢いで共々封じの中に落ちたという方が、正確な
表現か。
千年以上封じられていた主は、自由を手に入れる寸前で叩き落されたのだ。怒り心頭に
発したに違いない。しかもわたしが落ちて封じの要を担う為に、開いた綻びも閉じて行く。
今わたしと主の前に広がるのは、ご神木の封じの中の虚像の世界。実際には存在しない、
肉を失った私たちの感覚の残り香が作用して作り上げた、ある様に見えるけど現実ではな
い想いの織りなす夢幻の世界。封じの内側だ。
ご神木の内側をイメージした円柱状の空洞は、茶色い壁が上に伸びていて、上方は光が
届かず暗くなって良く見えない。足元は槐の白い花のイメージか、乳白色な輝きが一面を
覆い、立つと足元はゴムの様だ。光は足元から照し出す物だけの様で、その光に照し出さ
れる物もわたしと赤い蛇を上半身に複数巻き付かせた主だけで、他には岩も木も何もない。
平坦な乳白色が五十メートル半径で広がって。
遙かな上方で、暗くて正確な位置は分らないけど、何かの破れ目が自然に塞がっていく
のが感じ取れた。あれが多分、封じの綻びだ。
『間一髪だった……』
主は今正に外界に出ようとしていた。わたしの決断と行いが後数秒遅かったなら、主は
ご神木の外に身を乗り出していた。そうなれば、封じの柱を幾ら立て直しても意味がない。
わたしは封じる者のないハシラの要となり、主は外で自在に桂ちゃんと白花ちゃんを喰
い殺していた。抑える術もなく、留める術もなく、わたしはそれを見守る他なかっただろ
う。
『身体を張って、無駄足に終る処だった…』
そう思うと冷や汗が滲んだ。否、今も尚危険な状態には違いないのだけど。漸くご神木
の中に意識が入り込めただけで、わたしのオハシラ様への移行はこれから始まるのだけど。
これからわたしが、主を抑え続けなければならないのだけと。取りあえず、間に合った…。
『入口が、閉じていく……』
綻びが塞がっていく。わたしが意識しなくても、継ぎ手の明確な指示がなくても、いる
だけでご神木の封じは強化される様だ。己の傷を治すのに指示が不要な事に似ているのか。
神経と意識が、徐々にご神木に浸透していく。
『わたし、樹になっていく……』
ご神木に宿るとはそういう事。封じの要を担うとはそういう事。ハシラの継ぎ手になる
とはそういう事だ。人の肉を失い、ご神木に棲ませて貰い、その代りご神木の封じを司る。
入口が閉じると言う事は、出口が閉じると言う事だ。一瞬、戻る道が閉ざされる気がし
て身を竦ませたけど、無意味な怯えと気付いてわたしは力が抜けた。わたしは、戻る事を
考えて封じの継ぎ手を担った訳ではない筈だ。生贄に、終業時刻も定年退職もありはしな
い。
戻るにも、身体と生命を捧げて失ったわたしに戻る道はない。わたしは1人、ここで未
来永劫に過ごすのだ。それを自ら望んだのだ。双子の脅威であり、敵とも言える強大な鬼
と。
その蛇神は、かつて感応でオハシラ様が見せてくれた千数百年昔の、赤い蛇を複数身に
纏わせた精悍な姿でわたしの前に立っていた。その左手が、なぜか手首から先が欠けてい
る。
【良くもこのわたしの行いを妨げてくれた】
怒りが充満しすぎて平静なのか、或いはこの蛇神は激情という物を知らないのか、敵意
や害意は紛れもないのに、その語調は平静で、
【しかも封じの綻びを繕ってくれるとは。間近に旨そうな血があったのに、否、貴様も中
々に旨そうな贄ではあったが、肉を失ってしまっては最早血も啜り取れぬ。勿体ない…】
ご神木についたわたしの返り血も、ご神木の養分となる。封じの内にいる主には一口も
入らない訳で、お預けを食った感じに近いか。主は千年何も食べてない筈だから、辛い話
だ。
意識の隅に押しやっていたけど、わたしも双子程ではないにせよ、濃い贄の血の持ち主
だった。桂ちゃんと白花ちゃんを除けば、ここ数百年で一番濃い贄の血は、わたしらしい。
【贄の分際で、神を封じるか】
眼光を向けられると身が竦む。敬っている訳ではないのに、敵意さえ抱いて身構えても、
心が跪くよう求める。これが神の威厳なのか。その視線が身体を捉えただけで、身動きが
叶わなくなり固まって。畏れ多いが感覚で分る。
邪視などと言う物ではない。ノゾミやミカゲの邪視はこちらが視線を外したり目を閉じ
たり塞げば、防げ躱せた。鬼切部なら無効化する術もあったろう。主の目線はそれと違う。
こちらの意向を斟酌しない。わたしの防ぎを気に留めない。神の意向が先にあって、向い
た瞬間利いている。わたしが見ているか否かなど問題にしない。主が見たから利くのだと。
主には邪視発動の意識もないのかも知れない。向いたら皆が跪くのが、彼らの常なのだろ
う。
でもわたしは主を崇めてない。主の欲する贄の血を与える事を拒んだ竹林の姫の末裔で、
今も尚拒み続け、封じに身を投じた者だ。幾ら相手が鬼神でも、わたしが跪く謂れはない。
わたしは跪いてしまいたい内心を無理に拒み、
【これからはわたしが貴男の封じを担います。一緒に最期の時迄、過しましょう】
主は敵と言って良い存在だけど、封じの中で迄闘う必要はない。わたしは一応敬意を込
めて語りかけた。でも主は、わたしを簡単に認める気はない様で、切れ長な双眸を向けて、
【ふん……。貴様に、その任が務まるのか】
嘲る感じでわたしに問う。声音が挑発的だ。
ご神木が認めても、主はまだ認めてないと。
【認めて頂かなくても、わたしは既に封じの継ぎ手として動き始めています。これから長
く、宜しくお願いしますと、言う他には…】
封じの要は、主の承認を要する者ではない。主は封じを外して出たいから、誰だろうと
継ぎ手は拒みたいし、認めたくないのは当然だ。わたしはご神木に宿る事で、主の封じを
司る。挨拶を受けられずとも、わたしは封じの要として動き出していた。それは粛々と進
め行く。
【槐は継ぎ手がなくては困る故、紛い物でも粗悪な者でもくれば受け入れる。今迄あった
物が欠け、障りが出るよりはまし故に。だが、わたしはまだ貴様をハシラの継ぎ手に認め
てない。小娘に神を封じる継ぎ手が担えるか】
その資格に足る強さを、見せて貰おうか!
何を為す暇もなかった。本当に瞬間で、主はわたしの視界いっぱいに広がり迫り、この
身に手を伸ばし掴み取っていて。わたしは躱す事も拒む事も出来ぬ侭、大きくて長い右手
に頭を掴まれて、ぐるりと百八十度捻られた。
【見ろ。これが貴様が身を捧げて守ろうとした大切な物とやらの末路だ。これをよく見て、
己の行いに向き合った上で、答を聞こう…】
そこに見えたのは、悲しい結末。わたしが、最早そこに割り込んで抱き留める事も守る
事も力を尽くす事も叶わない、わたしの大切な人たちの行く末だった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
それはつい数分前の事。ご神木に依り沿い、濃い贄の血とその力を染み出させ、わたし
はこの身を槐に同化させようとしていた。でも、わたしの身体は生命力に溢れすぎて、唯
ご神木に依り沿うだけでは、同化を拒みはしないけど、残った身体は尚生き続けようとし
て…。
間に合わない。主が封じを突き破ろうとしている。それは数時間も掛らない。わたしの
同化はこの侭では、明日の朝迄掛ってしまう。主が出た後で封じを立て直しても意味はな
い。残された術は、わたしの身体を斬って生命力を低下させ、ご神木への同化を促す事だ
った。
真弓さんの破妖の太刀を、正樹さんが背中から突き刺して、わたしの生命を絶ち切って、
漸く同化が急速に進み出した。間一髪だった。主は、わたしの魂と共に封じの中に落ちて
…。
【貴様は確かに巧くやった。後もう少しの処でわたしの復活は止めた。だが、果してそれ
が貴様の目的だったのか。貴様は、わたしの封じを人生の目的としてきた訳ではあるまい。
貴様は槐に受け入れられ、確かにここで今わたしを封じている。だが、それで貴様は果
して守りたかった者を守れたか。守りたかった幸せを守れたか。見てみるが良い。貴様の
行いの向う側を、その行いが導いた末を…】
鬼神は女子の扱いも優しくなかった。わたしの頭を掴んで一気に捻り、円柱の壁に顔を
めり込ませ。茶色い壁面はわたしの顔を潰すと思えたけど、かなりの圧力の末に突き抜け、
外の像を映し出す。最早肉を失ったわたしは、この身体も錯覚にすぎないから、見ようと
思えば、足でも背でも自在に見られる筈だけど。
見た瞬間、わたしは言葉を失った。言葉だけでなく、暫く思考さえ失った。それはわた
しが望んだ姿とはかけ離れた結末。わたしが守り抜けたと思えた幸せとは隔たった結論…。
【貴様の死を哀しみ怒り狂っている者がおる。貴様の行いを理解できない者がおる。貴様
がやろうとした事が、どれ程の効果をもたらし、反動を招くのか、その目で見て知ると良
い】
【これは……、まさか……、そんな……!】
わたしの急速な同化と競い合う様に、その声は主の、鬼の魂を強く強く呼びつけていた。
近くの誰かが、主の鬼の魂に共鳴し、主を現世に引っ張って。鬼の心を、鬼に近い憤怒と
憎悪が方向を示し導いて。わたしの同化が再度間に合わなくなりかけた。ハシラの継ぎ手
として機能し始めるのが、間に合わなくなる。
呼ばないで、鬼の魂を呼ばないで!
それは、漸く呪縛が解けた幼い心。
「お父さんが、ゆーねぇを、斬った」
お父さんが、大好きなゆーねぇを。
「ゆーねぇを、叱らないでって言ったのに」
ゆーねぇ悪くないのに。悪くないのにっ。
幼い目が、哀しみを受け止めきれずに揺れていた。還らぬ大切な物の喪失を前に、小さ
な心が荒れ狂って、溢れ返っていた。
「はくかは、いくらでも謝ったのに。
はくかはいくらでも叱られたのに」
どうして、ぼくのたいせつな人を!
「嫌いだ。お父さん、大っ嫌いだぁ」
怒りと憎しみが幼い心を染め抜いて、鬼の心に共鳴した。わたしは綻びから出てくる主
の魂を間一髪で、己と一緒に叩き落したけど。封じの外に引っかけた『手』に当たる部分
を取り零してしまった。それは、先んじて外に出ただけあって、主の中でも最も外に出た
い、封じを外したい、その想いの結晶の様な物で。
【主の左手首から先が、欠けていたのは…】
わたしの表層心理を読んだ主は尚も平静に、
【わたしは手首など、いつでも瞬時に作り直せる。だが今は、貴様にそれを示す為に敢て
放置して置いたのだ。見るが良い。我が左手が切り離されても、分霊となって漂う様を】
テレビ中継の如く外で繰り広げられる様を、わたしは見るより他にない。主の様に、封
じられて身動き叶わず外に声を発する術もない主の様に。悔しさを満身で味わいつつ、わ
たしは大切なものが失われ往く様を、見る他に。
他の部分と切り離されても、それは主の分霊として宿る物を捜し、己を呼び招いた物に
引き寄せられ、その心を乗っ取った。白花ちゃんは怒りに心を囚われていた。その怒りに
加勢して、便乗して、その侭心に入り込んで。
わたしに外界に手を伸ばす術はない。継ぎ手に移行中のわたしは外に心を伝える手段も
ない。蝶を飛ばすどころか、風を吹かせる力もない。視る事、知る事、聞く事は出来ても、
告げる事も報せる事も叶わない。
赤く輝く視線は既に、白花ちゃんではなく、主の目線だ。乗っ取った身体の血を啜って
も己の足を食べる蛸に等しいと、周囲を見れば贄の血が同じ位濃く無力で小さな獲物が1
人。最早身体の主導権は、完全に主の分霊の物だ。白花ちゃんの心は粒程も身体に反映で
きない。
わたしは何もできない。何も伝えられない。
双子の幸せを守る為に継ぎ手になったのに。
双子の未来を繋ぐ為に継ぎ手になったのに。
わたしには結局何も為せないのか。何も残せないのか。わたしは又役立たずで終るのか。
白花ちゃんの身体を使い、主の分霊が凶器と化した腕を伸ばす。白花ちゃんの腕は小さ
く短いけど、鬼の力を受けて目一杯に強化されており、桂ちゃんは全く無防備で動けない。
鮮血が噴く。視界を染めて行く多量の赤は、
「けい……」
正樹さんの胴から噴き出す流血だった。
桂ちゃんの前に立ちはだかり、正樹さんは己を差し出して娘を守った。幼子の抜き手は
深く彼の腹部に刺さり、抜き取られて更に多量の血を噴いた。ああ、それは恐らく致命傷。
たいせつなひとが、いなくなってしまった。
「貴男っ!」
真弓さんが鬼の気配に、もう一度破妖の太刀を構え直す。白花ちゃんの身体を乗っ取っ
た主の分霊は、流石にその身体では対抗できぬと、一言二言言い捨てて、その場を逃げて。
真弓さんもそれを追える状況ではなかった。構えただけの破妖の太刀は、既にべっとり
と血に濡れている。それは誰が誰を斬った血か、思い返した瞬間に、真弓さんもその場に
立ち尽くすのが精一杯で。力が再び抜けて崩れる。
「貴男、しっかりして。あなたあぁぁっ!」
真弓さんが寄り添った時には、正樹さんは虫の息だった。桂ちゃんは極度の緊張と疲労
でその場に倒れ。多くの人が、多くの大切なものを一挙に失って、運命の夜は更けて往く。
ああこれは、わたしの所作が招いた事か。
わたしが正樹さんに頼んで刃を突き刺して貰った事が、白花ちゃんに鬼を宿らせたのか。
それが正樹さんを今宵死に追いやったのか。
それが真弓さんの夫を奪う原因になったと。
それが桂ちゃんの父を奪う結果を呼んだと。
白花ちゃんに父を殺させる羽目に繋ったと。
わたしの行いが、羽藤の家とその幸せを叩き壊す、最後の一撃に繋ったという事なのか。
【白花ちゃん、桂ちゃん……、真弓叔母さん、正樹叔父さん……。わたしが、わたしが
…】
及ばなかったのか、或いはやりすぎたのか。どうやっても駄目だったのか、他に術はあ
ったのか。分らない。最善を為した積りだけど。主を甦らせないという絶対条件は辛うじ
て満たせたのに。わたしを抛つ事で守り抜けた筈なのに。この結果は、この末路は酷すぎ
る!
【貴様の関知の力には、この後の彼らの像も映し出せよう。貴様が大切に想い常に気にか
けて身近に接してきた者達だ。1年や2年先の像位、わたしが視せなくても自然と視えて
こよう。視たくなくても、視えてしまうというのが本当の処だろうが、貴様の行いが招い
た結末だ。しっかり視て、心に刻むと良い】
顔をぐいぐい押しつけて主が促す迄もない。わたしの心には勝手にわたしの大切な人た
ちの像が浮かび始めていた。わたしが守れた積りで守れなかった、大切な人たちのその後
が。
【……、……叔父さん……】
正樹さんは助からない。娘を守る為に、息子に与えられたこの傷が元で、間もなく死ぬ。
誰より暖かな人だったのに。誰より家族を深く愛した人だったのに。正気を失わされた
とは言え、娘を狙う息子の刃に身を晒し息絶えるとは。わたしはその直前、正樹さんにこ
の身を刺し貫かせている。正樹さんに一生罪を被せてしまったのに。申し訳なかったのに。
誰よりも謝らなければならない人だったのに。
【白花ちゃん……。待って、白花ちゃん!】
白花ちゃんが遠くへ走り去る。主の分霊が、真弓さんを畏れ嫌って、走らせる。その先
に、白花ちゃんの未来が見えてこない。死の像が見えない代りに、どこで何をしてどの様
に生きているかも全く見えない。誰と出会いどの様な人生を送るのか、わたしの関知の範
囲を超えて。生死不明。唯走り去る後ろ姿が映る。白花ちゃんの意思によらない逃走に、
白花ちゃんが頭の中で必死に抗って闘って、助けを求める声だけが、わたしの心に伝わっ
てくる。
『おかあさん、おとうさん、助けて、痛いよ。
ゆーねぇ、鬼が、鬼がぼくの中にいるの』
白花ちゃんの泣き声が、小さな身体の中で響いている。そんな事はしたくなかったよと、
お父さんごめんなさい、生き返ってと。頭が痛い、痛い、身体が勝手に動くの、助けてと。
いたいよ、いたいよ。苦しいよ、助けて。
『とって。はくかの頭の中の、鬼を取って』
鬼に身体を乗っ取られ、指一本動かす事も叶わない中、鬼の意志でひたすら走り往くそ
の身体で、瞳だけが涙を溢れさせ、溢れさせ。もうその『声』も、真弓さんにも桂ちゃん
にも届く事はない。わたしにしか聞き取れない。聞き取れている事も白花ちゃんは分り得
ない。
【白花ちゃん……!】
今こそ強く抱き留めてあげなければ。
今こそ手を差し伸べてあげなければ。
今こそ守りと助けを欲しているのに。
なのに、なのにこの身体は硬い幹と枝でしかなくて、声をかけてあげる事も出来なくて。
本当に一番大切な時に、いてあげられない…。
【白花ちゃん! 白花ちゃん……!】
手を伸ばしても、届く筈もない。この腕は幻の腕、まやかしの腕、今迄の錯覚が残した、
ない筈の虚像だ。わたしは追いかける事も出来ない。槐の巨木に宿る以上、封じの継ぎ手
を担う以上、主を留めなければならない以上、あの分霊と白花ちゃんを追いここを出る事
は。
自分がどれ程無力な者か、思い知らされた。
己の所作が招く事の重さを思い知らされた。
追いかけたい。ここを出て白花ちゃんを捜し出し、抱き留めたい。主の分霊を持ってい
ても、否、主の分霊を持っていればこそ。世界中の誰もが、鬼切部が彼を斬ると言っても、
わたしだけは白花ちゃんを抱き留める。守る。その中にある白花ちゃんの魂を、殺させな
い。例えその腕がわたしの身を貫く事があっても。
なのに、なのに届かない。及ばない。絶望という言葉が、微かに頭の裏を掠めた。そん
なわたしの頭の向きを、掴まえている主の右手は力づくで微妙に下に向けさせて、
【残された者はどうなるか】
真弓さんが必死に正樹さんを止血する脇で、桂ちゃんが倒れている。桂ちゃんは疲労だ
けで外傷はない。最大の危機は正樹さんが身をもって防いでくれたけど。その心の傷は重
く、
【桂ちゃんは、全部を忘れる事になる……】
『はくか、おにいちゃ……痛い、いたいよう。
助けて、ゆめいおね……痛い、痛い、痛い。
赤くて痛い、痛い赤いの、痛い痛い痛い』
いたいよおおおぉぉぉう!
『おかあさあぁぁん。痛いの、赤い痛いの』
わたしを思い出そうとする度に、白花ちゃんを思い出そうとする度に、正樹さんを思い
出そうとする度に、あの夜以前を想い出そうとする度に。哀しみに直結する故に心が痛む。
痛んで痛んで、赤い血の夢が幼い心を嘖んで。
『いたい、いたい。赤い、赤いいたいのが』
桂ちゃんが病室のベッドで身を捩って苦しむ様に、わたしは胸を締め付けられた。真弓
さんが必死に抱き締めているけど、中々泣き止む様子がない。思い出そうとしているのか。
思い出そうとしてしまうのが、いけないのか。
最後には真弓叔母さんも、火事で全部が焼けたという話にして、傷口を塞いでしまった。
正樹叔父さんは父だからいた事になっているけど、白花ちゃんもわたしも、桂ちゃんの中
では最初からいなかった扱いになっていく…。
桂ちゃんの中には、わたしや白花ちゃんの、正樹さんに関する想い出も残っていない。
否、奥深くに隠されてあるけど、それは瞼を灼く赤い痛みへのスイッチで。桂ちゃんは想
い出があり過去に繋る羽藤の家に住めない。真弓さんの稼ぎの事情もあって、2人は町に
引っ越す事になる。最後に視えたのは、強ばった表情を崩さず、車に乗る桂ちゃんの姿だ
った。
桂ちゃんの傷は深すぎて、大きすぎて、重すぎて。それは忘れ去る事でしか塞げなくて。
嘘で埋める事でしか救えなくて。可哀相な桂ちゃん。抱き留めてあげたいけど、慰めてあ
げたいけど、今のわたしにはそれも叶わない。それに今更わたしが行けたとして、記憶を
甦らせる事が痛みに繋るなら、桂ちゃんの過去にしかいないわたしに一体何を為せるだろ
う。
わたしに、守る事はできない。
わたしに、助ける事はできない。
わたしに、その力になる術はない。
この場から一歩も動けなくなったわたしに、何も為せなくなったわたしに、その像は余
りに残酷で、苛烈だった。あの家が、あの夜迄安穏に続いて、尚続き行くと思って疑わな
かった羽藤の家が、こんな形で分解するなんて。みんなが守りたいと望み、願い求めてき
た筈なのに、どうして一瞬にしてこんな酷い事に。
住む者を失った羽藤の家が、徐々に雑草に包まれる。わたしが七年を過した羽様の屋敷
から、生活の気配が薄れて行く。笑い声を失った羽様の屋敷を、歳月だけが無情に過ぎる。
【わたしの、わたしの守りたかったもの…】
わたしの関知は、それ程遠く迄は働かない。病院を出て町へ移り住んだ後の、真弓さん
と桂ちゃんの様子はもう殆ど映し出せなかった。それさえもわたしの無力を示すように思
える。
遠ざかっていく。何もかもが。
たいせつな人が。その幸せが。
わたしは一体何を守れたのか。
わたしは一体何を残せたのか。
この身を捧げきった末に、この身を渡しきった末に、その後に待つ物が涙であるのなら。
わたしの身体から力が抜けていくのを主は肌で感じていたのだろう。満足げに、頭を掴
んだ首をもう一度捻って自身の視線に向ける。まともな肉体であれば身体がついていけず
に、首がねじ折られていた。それで意識が途絶するならば、しても良いとさえ微かに思っ
た。
死が怖くなかった。生きる希望が消えかけていた。心が闇に閉ざされつつある。全身を
包む無力感と罪悪感。この感覚、憶えがある。それはお父さんとお母さんを失ったあの夜
の。
でも最早皮肉にも、首がねじ折られても、心臓を貫かれても、身体が粉々に砕かれても、
わたしが死に絶える事はない。今のこの身はかりそめだから。わたしは既に、肉を失った。
正樹さんに突き刺されて羽藤柚明の身体は死に、槐のご神木に同化して、この世のどこ
にも存在しない。今ある様に見えるこの身体は、生前の感覚を引きずった錯覚だ。だから
首をねじ折られても意識は明晰で。今やわたしは最早肉を持たない、誰に話し掛ける術も
訴えかける術も持たない、想いだけの存在だ。
【満足行く迄、視る事ができたか】
怒りも湧いてこなかった。主の分霊の所為とは言え、多くを失った今になって怒って何
になろう。わたしに為す術はない。わたしの選択は終えた。これはわたしの選択の結果だ。
最善を願い為した末がこれだ。取り返せない。そしてわたしには何かを為す術も、最早な
い。
【わたしが守りたかったのは、みんなの日々の幸せだったのに……】
理不尽だった。みんなお互いを大切に想い合っていたのに。みんなお互いを深く愛し合
っていたのに。にも関らず、こんな末路を…。
【これが貴様が及ぼした効果だ。貴様の運命の重さでは、今夜の先行きをこの程度変える
のが精一杯らしい。神の復活を止めたのだから充分な成果と言えぬ事もないが、貴様が欲
した結末には遠かった様だな。大きな事を止めれば、それなりの反動や波紋が生じる…】
神の視線の重圧は、間近でわたしを凍りつかせている。神の気配の激甚は、至近でわた
しを吹き飛ばしそうだ。それを無理に押し止めているのも神の剛腕、神の剛力で。わたし
は主に両肩を掴まれ、正面から迫られていた。主の左手首はいつの間にか完全に治ってい
た。
【わたしの運命の重みでは、今夜の結末は変え得なかった。そういう事なのですね。わた
しの生命を投げ出しても、出来る事は限られていたと。貴男を封じても、わたしの大切な
人の行く末は、これ以上は変らなかったと】
どの選択をしても、わたしの立ち位置では限界があったと。わたしは所詮、大きく運命
を変え得るポイントにいなかったと。わたしの全てを捧げてもこの位しか守れないのだと。
これが最善と。全ては、わたしの力不足だと。
【わたしも分霊だけが千切れて外に出るとは思わなかったが、それも良かろう。いつかは
あれが、わたしを外に出してくれるだろう】
そうなれば文字通り貴様は徒労に徒労を重ねた無為に終るが、それも良かろう。世の中
生命を賭ければ何でも叶う程巧くできてない。生命を賭ければ欲する全てを得られるのな
ら、わたしは今封じられてある筈がないのだから。
【他人を哀しむのはその位にしておけ。その様子では貴様はまだ、己の先行きも視てない
のだろう。神の生贄として、神の花嫁として、神の慰み者として己を捧げたその先をな
…】
絶対無比の蛇の神が、容赦のない視線をわたしの瞳に叩き込む。わたしの本当の絶望が
今から始まるのだと、その双眸が語っていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
【ひっ……、な、何を……?】
肩を掴む主の手に力が籠もる。爪が肉に食い込む程の抑え付けに、肉体がない筈のわた
しの痛覚が全力で応え、両肩の爪の食い込んだ先から赤い血が噴き出した。主はわたしを
強く抑え付けた様だけど、どうせ死なないと分っているのか、神は元々加減を知らないの
か、その抑え付けはわたしを握り潰すに近い。
【ああ、ああ、ああああああ!】
錯覚でできた幻の身体でも、否、錯覚でできている故にか、痛覚は喉から叫びを迸らせ、
わたしの心を塗り潰す。肉を擦り潰し、骨を砕き折り、わたしの心を叩き沈めるその行い
はしかし、主にはまだ手始めにすぎない様で、
【肉を持っていれば良い贄の血を啜れた物を、誠に勿体ない。あの2人には到らぬが、実
に惜しい。贄が神を封じる事も許せぬが、食餌が肉体を自ら捨てるのは神罰に相応する
…】
わたしが返事もできず、激痛に無意味と分っていてもバタバタ手足を振るわせ抗うのに、
【漸く貴様の生の声が聞けたな。贄の娘よ。
取り繕った対話などわたしに不要だ。要るのは唯、わたしの意志と応える物の存在だけ。
応える物に意志など不要。神の意に応えぬ等許されぬし、応えぬ事等できぬのだからな】
その通りだった。主は封じの外に出られないけど、外界との全ての接触は断たれたけど。
ご神木の中では、封じの中では彼は尚鬼神だ。その猛威は、唯一の同居人だったオハシラ
様を幾度となく襲っていた。凄まじい奔流が何度となく、竹林の姫の意識も消しかけてい
た。
千数百年の歳月、主の魂はご神木が吸い上げ槐の花に変え、少しずつ散らせてきたけど、
主の力に余り衰えはない。この様子ではもう千年かけて尚、彼を還す事はできなかろう…。
【激痛にのたうち回る様も、痙攣する様も、中々痛快だな。こうして肉を骨を潰せば…】
シュッと異様な音がして、わたしの血肉が主の爪が食い込んだ傷口から更に迸る。わた
しの上半身は左右握り潰されたに近い状態だ。無意識に贄の血の力で応戦していた様だけ
ど、鬼神には全く利いてなかった。それどころか、
【贄の分際で神の行いを拒むか。そんな程度の力で、わたしが掠り傷でも受けると思って
いるのなら、絶望させてやるから思い知れ】
次元の違う強さだった。わたしは真弓さんにも最後迄勝てなかったけど、あの時はまと
もにヒットできれば相応の痛手を与えられた。真弓さんが超人的な動きで躱したり防いだ
り、耐えたりするから勝てなかっただけで、わたしの贄の血の力自体は有効だった。主は
違う。
主は防ぎも躱しもしない。耐える必要もない。肌の上で、届かぬ内に、全ての攻撃が消
える。主はいるだけで、わたしの反撃を無効化する。どこからどの様に当てても主には届
かない。わたしは何一つ痛手を与えられない。
反対に主はわたしの両腕の肘から先を蒸発させた。何かの力を瞳に込めた瞬間、わたし
の両肘から先が突如僅かな塵に変じて消えた。それ迄贄の血の力を振るっていた腕が、わ
たしの意を受け動いていた腕が、瞬時に散った。
ここは肉を失った意識の世界。例え身体を失っても、意識が己を失わなければ大丈夫と
分ったけど。気持さえ残せばわたしはご神木からの力で何度でも再生でき、主は己の力で
再生できる、千日手状態だと後で知ったけど。
身体を壊される激痛は凄まじかった。砕かれる痛みは未経験だった。この侭気が狂うと
思えた。いっそその方が楽に思えた。今から再生を始めて治る迄この痛みに苛まれるなら。
再生等望まず、死を選んだ方が良いのでは。
意志等望まず、狂気に身を委ねるべきでは。
封じ等続けず、逃げ去った方が良いのでは。
消された腕が、傷口から再生を始めている。ご神木からの力の供給で、自然に傷の修復
は始まる様だ。それは現代医療から考えれば嘘に近い早さだけど、腕を千切られた痛みに
暴れ狂うわたしには遅々と感じられ。傷は再生し行くけど、傷口が閉じる迄痛みは終らな
い。
意識の世界の錯覚の身体なのだと言い聞かせても無意味だった。痛みは実際感じている。
感じた痛みが意識の世界では真実だ。肉を失った主もわたしも、共々に錯覚の上の存在だ。
主はいつでもわたしの全てを粉砕できる。
主はいつでもわたしの全てを踏み潰せる。
わたしにできるのは死に絶えない事だけ。
ご神木が主や大地から吸い上げた力を常時わたしに流すから、粉々に砕かれても、封じ
の中に居る限り、早さや規模の問題はあれど修復する。死に絶えはせぬ。主は力を使えば
消耗し魂が還るのが早まるけど、その巨大さから見ればわたしを砕くに使う力など微々た
る物で、問題にならない。主は封じの中にいる限りやり放題で、オハシラ様や継ぎ手は主
を封じる以外には、全て主の為すが侭な訳で。
封じの要とは、主に捧げた生贄に近い物だ。唯それが主に満足して貰って自主的に鎮ま
って頂くか、主を無理矢理封じ込めるかの違い。そして、捧げられた生贄のその後の定め
とは。
【一つ訊いておこう。貴様、今迄にその身で男を識っているか?】
痛みと出血で、意識が薄れていたわたしが、その意味する処にぴくと反応したのに、主
の瞳が酷薄な笑みを見せた。そうか、意味が分ったか、分るように言ってやったが、分ら
ない方が幸せだった物をと、双眸が語っている。
抵抗を粉砕され、敵意を霧散させられ、最早意識さえ定かでなくなり始めていたわたし
だったけど、敢て主が問うた意味を悟った時、激痛も苦しみも全て忘れて背筋が凍りつい
た。
【そうか。ならばこそ、認めてやろう。封じの継ぎ手としてではなく、生贄としてならば。
貴様は取りあえず神の鏃を受けるに足ると】
主の腰がわたしの腰に正面から据えられているのに気付いたのは、その時になってから
だった。逃げようと思っても、主に両腕で肩胛骨迄鷲掴みにされている。回避不能だった。
【神の寵愛か、鬼の憤怒か、どちらなのかはその身で受けてから判断するのだな】
わたしは生前、最後迄男性経験がなかった。羽藤の事情で当分の間羽様を離れられない
わたしを欲してくれる人はいないと思っていた。人生を抛ってわたしを求めてくれても、
白花ちゃんと桂ちゃんの為に生きるわたしは、等しい想いを返せない。双子の贄の血の力
の修練に展望が見えたその先に、遙か彼方にはもしやいつかという想いはあったけど。で
も…。
こんな形で女になる日が来るとは。
こんな形で、失う事になるなんて。
否、既に肉体を失った以上、その先に何を失うもないのかも知れないけど。既に生命が
絶たれた以上、問題外なのかも知れないけど。
わたしはまだ子供だった。考えが浅かった。覚悟した積りで、全然覚悟等できてなかっ
た。全てを捧げる事が、生贄になる事が、封じのご神木で主と悠久を過す事がどう言う事
かを、本当に知ってはいなかった。この主と今後悠久に2人きりで過すその真の意味を。
その事を思い知らされ、気付かされ、身が竦むのを主は待っていた。その気になればい
つでもできていただろうに、順々にわたしの希望を剥ぎ取って剥ぎ取って、最後の最後に。
【ま、待って。お願い、止めて!】
剥き出しの肘の激痛も、握り潰された肩胛骨も忘れてわたしは哀願の声を上げた。無駄
と分って尚そうしてしまう自身を止められなかった。意志も気力も消えていた。わたしは
唯、目の前の主の行いを止めて欲しい一心で。
主の瞳が心から満足そうに見えたのは気の所為ではない。主の口元が微かに吊り上がっ
た笑みを浮べたのは錯覚ではない。主はわたしがその哀願を出すのを待っていた。踏み躙
る為にわたしがお願いを出す時を待っていた。
獲物を狩る嗜虐の瞳と、狩られるだけの怯えた瞳と。神と人の隔たりが、この瞬間消失
して繋がってしまう。わたしの望まない形で。
【いやっ、お願い。止めて、待って。誰か】
誰か助けて。お父さん、お母さん、サクヤさん、真弓叔母さん。誰か、誰か誰かあっ!
ここは山奥のご神木。わたしは声を外に届ける術を持たないし、誰も来る者とていない。
いたとして、封じの中に助けの手を伸ばせる筈もない。仮に手を伸ばせても主を止め妨げ
られる者等いない。そうでなければ、わたしがハシラの継ぎ手を担う必要もなかったのだ。
無駄と分って尚バタバタするわたしの抗いを無視し心を無視し、主は正に神の傲岸さで、
【壊れてしまうなら、それも一興、望む処】
主の猛る心がわたしを抉る様に貫通した。
生前遂に識る事のなかった痛みが、身を。
【いやあああぁぁぁぁっ!】
関知の力や感応の中で、わたしは他人のそれを何度か体感した事はあった。望んだ訳で
はないけど、視えてきてしまう像は選べない。真弓さんと正樹さんのそれとかが見えた後
は、2人に顔を合せるのが非常に恥ずかしくも気拙くて、知らぬ振りが大変だった。それ
は何もリアルタイムな物ばかりではなく、過去のそれであったり、これからの意向であっ
たり様々なので、2人は明かされぬ限りそれを視られたと知らないし、わたしが平静に受
け止め敢て触れなければ問題はなかったのだけど。
わたしも年頃を迎えていたので、同級生とはそういう話も全くない訳ではなかったけど。
そういう像や、オハシラ様と主の関係をご神木との感応の中で視ていたので、全くそれら
に無縁という訳でもなかったけど。
でも、鬼神との性交はそれらの相場を超えていた。主はわたしを愛して等はいなかった。
わたしはどうやら主には寵愛ではなく憤怒の対象らしい。それもそうだろう。千数百年ぶ
りの復活を間際で食い止められた相手なのだ。主はわたしを壊そうと言う感じで責め立て
る。
【ひぐっ、ひぃ、あ、あふっ】
主の執拗な責めは幾日幾晩続くとも知れず、わたしは無為と分っていて尚心と力の続く
限り主を引き剥がそうと務めるけど、主はそれを全く意に介せずに、己の為したい侭に為
し。
それは時に主の身を蹴り上げようとするわたしの膝から下を消去したり、修復したばか
りの肘から先をいきなり百八十度捻った末に千切って抛り捨てたり。同化した時に着てい
た被服は主の一息で吹き消されて、再生を許されなかった。意識の世界では身に纏う物迄
が身体と同じく錯覚というかまやかしなので、意志と力があれば再生は可能だけど、纏う
端から吹き消されるので、再生が追い付かない。
【わたしは貴様の生の肌を引き裂きたいのだ。
わたしは貴様の生の肉を掴み潰したいのだ。
わたしは貴様の生の骨を砕き折りたいのだ。
身を隠す布など不要だ。要るのは唯、わたしの意志と応える物の存在だけ。応える物に
意志など不要。神の意に応えぬ等許されぬし、応えぬ事等できぬのだから。さあ、続けろ
っ。身悶えを、絶叫を、絶望の涙を流し続けろ】
主はわたしの抗いも意志も全て受け付けず、己の為したい侭にわたしを処していく。そ
こにわたしの想いはなく、あるは主の想いだけ。主がやり続けたい限り責め苦は続き、主
にその気がなくなれば終る。わたしに選択の余地はなく、唯晒され続ける他には方法とて
なく。
【止めて、もう、止めて。助けて、お願い】
元々闘って勝てる相手とは思ってなかった。封じられてくれれば、争う積りさえなかっ
た。長い年月の果てには、心通じ合う事も可能と思っていた。荒ぶる鬼神だけど、人を喰
らう蛇神だけど、主は竹林の姫との千年で、否その前にも、微かに別の顔も見せていた。
唯荒れ狂う暴風ではなく、唯禍々しい厄ではなく、微かに不器用な優しさをも、垣間見せ
ていた。
それがわたしにも向いてくれるかもと言うのは虫の良い願いだったけど。竹林の姫の様
に扱われるのは多分望めぬと分っていたけど。唯延々と憎悪と力を叩き付けるこの所作に
は、
【もう、だめ。わたし、この侭壊れて……】
サクヤさん。わたし、オハシラ様を継げそうにありません。折角、ご神木の中迄迎え入
れて貰えたのに。サクヤさんのたいせつな物を守れなかった上に、その意思迄継げないで。
やっぱりわたし、禍の子で役立たずの子です。
視線が虚ろになる。涙が枯れていく。
【神の前には、人なんて小さな物なのかな】
運命の前に人の行いなんて砂粒なのかな。
幼い日の夜が甦る。何もできなかった夜。お父さんもお母さんも失った夜。何も守れず、
守られて守られて、生命まで引換にされて、それで生き残れたわたしが、結局この有様か。
それからの人生全てが無駄だった様に思える。これを迎える為だったのか。今迄の足掻き
は。ここで諦める為だったのか。今迄の全ては…。
主はそれを望んだのか。封じの要が自我を壊して、継ぎ手を放棄する事を。機能しない
要は半ば死んだに近い。消失程ではないけど、綻びは修復されず、徐々に封じは解けて行
く。
【何だこのざまは。まだ始ったばかりなのに。わたしと暮らす悠久は、到底こんな物では
済みはせぬぞ。この程度で泣いてお願いする様では、最初から生贄など望まねば良かろ
う】
侮蔑した様な、見下げた声がわたしに響く。
主の責め苦は尚続く。わたしの反応というか抵抗の消失に、微かに残念そうな顔を見せ
たけど、その行いが終りを見せる様子はない。雨の夜に始った性交は、昼夜兼行で休む暇
も眠る暇もなく、九日目に入っていた。人なら疲労で力尽きている筈だけど、肉を持つ身
体なら保つ筈がないけど、相手は無尽の力を誇る鬼神で、お互いに肉の身体を失った感覚
と想いだけの存在で、疲弊も心に感じるだけで。
【抗う気力もない物は、踏み躙る値もない】
主が漸く繋げた侭の腰からわたしを引き剥がしたのは、わたしが完全に脱力し、左腕を
灼き焦がされても反応ないのを見た末だった。わたしは意志を失いかけていた。為される
侭主の行いに身を委ね始めていた。抛り捨てられて少し経って、漸く己が解放されたと気
付いたけど、すぐ起き上がる事も出来なかった。
左腕がゆっくり修復していく。根元から消失した訳ではないので、肉からの再生なので、
痛みは大きいけど修復は比較的早い。身を起しながら、右手で上着を作り出しノロノロと
身を覆う。その動きも、意志というより鈍い反射の様な物で、無意識に近い。己の足に視
線を落とすと、かなりの量の鮮血が白い光源を染めていた。本物の身体なら大量の贄の血
だけど、これは錯覚の産物故に主も欲しない。
【わたし……もう、……なっちゃった……】
わたしは気力も何もかも抜けきった状態で、唯視線のやり場を求める内に、主を見上げ
た。これで終りなのかと。これでひとまず許しなのかと。少し休む位の間は与えてくれる
かと。
縋る様な視線に、返ってきたのは鋼の様な眼光で、一片の情けもないどころか憎悪に燃
えた輝きで、わたしの疲弊した心をさえも怯え震わせる、烈々たる気迫が叩き付けてきて。
【こんな物で終りだと勘違いされては困る】
今からだ。今この時から、始るのだと知れ。
わたしの憎悪は、この千年余、ずっと叩き付ける相手を見つけられずにいたのだからな。
天地終る迄、貴様には我が慰み者に、生贄になって貰おう。我が苛立ちを、我が猛る心を、
【未来永劫、その身に刻み続けてくれる!】
最早ヘビの前に投げ出されたカエルだった。
わたしはひたすら怯えの命じる侭に、背後に向けて手足を動かす。這って遠ざかるのだ
けど、恐怖に視線も逸らせないので、主に向いた侭でじたばたバックする。主がわたしを
呪縛せず、ノロノロ逃げる侭に足を踏み出してそれを促すのは、追いつめる課程を楽しん
でいるのか。わたしは深く考える余裕もなく、一分掛らない内に円柱の端に追いつめられ
た。
元々この円柱の中はそう広くないし、肉体は錯覚の仮想世界なら、思った瞬間に主はわ
たしを掴まえられる。逃げる事に時間稼ぎの意味もない。すぐに掴まえられる主が敢てそ
れをしないのは、そうする必要もないからだ。わたしは余りに無力で小さく、無意味な存
在。
【いやっ、お願い、もう止めて。許して!】
助けを呼ぶのが無意味なら、許しを請う他に術はない。縮こまる心と、涙も出ない瞳と、
己の鮮血で血塗れの身体で、追いつめられて身動きも叶わないわたしは主に、お願いする。
無駄と分っていた。無理と分っていた。主はわたしを憎んでいる。わたしは主に憎まれる
事をした。許される筈もない。それを分って。
主は微かに瞳の輝きを緩め、その憎悪と敵意に冷たく燃えた瞳から力を抜いた。そして、
【そんなに嫌なら、逃げると良い】
主は抑揚のない声でそう言った。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
【……え?】
受け入れられる筈のない嘆願を、主が次の行いに出る迄続ける他にないと思っていたわ
たしへの、その素っ気ない答は、わたしの心に奇妙な響きをもって染み込んで、広がった。
【神は二度同じ事は言わぬ物だが、敢てもう一度言おう。そんなに嫌なら、逃げると良い。
わたしはここに封じられている故、貴様や槐が健在な限り外に出る術はない。わたしが
ここで悠久を過すか否かは貴様の決める事だ。だが、貴様は違う。槐にもわたしにも封じ
られている訳ではない。死ぬより怖いなら、死ぬより嫌なら、どうしても拒みたいなら、
封じの外に逃げ出せば良い。それが楽で救いだと思うなら、そうすれば良かろう。わたし
に無駄な願いを千回繰り返すより、有効だ…】
主は幾分その眼圧を弱め、わたしに考える間を与えた。本気で逃がしてくれると言うの
だろうか。抗う気も失せたわたしには踏み躙る値もないから、好きに行けと言う事なのか。
【貴様がここにいる意味は、もうなかろう】
望んで生贄になったのに、わたしの相手を拒むのでは、何の為にここに来たか分るまい。
それも先行き見えぬ人の愚かしさだが、拒む者を相手に望む程、わたしは落ちぶれてない。
失った肉の身体は戻せぬが、依代を失えばいずれ想いだけの貴様は消失するが、死が慈
悲になる事も世にはある。これ以上わたしの責めを受けたくないというなら、止めはせぬ。
【己の意思で出るのだ。貴様が望んでここに入ったと同様、貴様が望んでここを出ろ…】
【望んで入ったと同様、望んでここを出る】
わたしが望めば、ここを出られる。
わたしが望めば主から解放される。
わたしが望めばこの責めは消える。
疲れと痛みと苦しみで回らない頭が、ノロノロ考えをまとめ始める。結論を見出すには、
時間が欲しい。今のわたしは常のわたしではない。判断を下せる状態じゃない。もう少し。
でも主はわたしに深く考える間を与えない。苛立ちを隠さず、わたしの上半身を覆う服
を屈んで剥ぎ取り、目前でビリビリ破いて見せ、
【神を待たせる気か、贄の娘よ】
時間切れが近い。早く決めねば。主が再びわたしを呪縛すれば、外に出る事も叶わない。
主との性交が再開すれば、次は幾日幾夜先に解き放たれるか、その日が来るか否かも分ら
ない。逃げようと思う己が残るか否かも分らない。主の気紛れが変らぬ内に、終らぬ内に、
【己の……意思で、ここを……出る……?】
【勧めはせん。止めもせん。好きにしろ…】
外は、夜明け間近の森だった。空には星が輝いていて、月は既に落ちて見えない。東の
空は微かに白み始めている。夜露は枝葉を濡らしているけど、雨の降りそうな気配はない。
つい数日前にわたしが桂ちゃんと白花ちゃんを追って駆けた森。あの時はまだ双子との
日々が続くと思って疑わずにいた。その森が、今も尚変らずに目の前に開けて、待ってい
る。手を伸ばせば届く。足を踏み出せば行ける…。
最早わたしに人生はない。外に出ても消えて行く儚い想いに過ぎない。それでも、束の
間でも自由を得られたら、この傷だらけの心を解き放てたら、主の責め苦を逃れられたら。
その後に来る消滅も又一つの救いではないか。
そう思えた。心の底から、そう思いかけた。身は、乗り出しかけていた。前のめりだっ
た。
なのに。
わたしの足はそこに踏み出される事はない。
わたしの全身が震えているのは、裸身の寒さ故ではない。わたしの顔が強ばっているの
は、その羞恥の故ではない。わたしの瞳に涙が溜まっているのは、悔恨の故ではない。
わたしはくるりと身を翻すと主を見上げて、
【わたしは、行きません!】
意志を込めた視線を送り、そう言いきった。
わたしは元々、己の救いを求めてここに来た訳ではない。わたしは元々、助けや慈悲を
願って、ご神木に身を委ね捧げた訳ではない。
【わたしはここに留まります。わたしはご神木に依る封じの要、ハシラの継ぎ手。わたし
は、わたしが守りたい者の為に自ら望んでこの定めを受け入れた。わたしのたいせつな人
たちの為に、大切な人たちの幸せを守る為に、貴男を解き放ってはいけないから。絶対
に】
主の瞳を見つめ返す。神の視線を睨み返す。
今わたしがここを出て消え去れば、結局封じの要は不在になる。封じは綻び、数日遅れ
で主が甦る。あの夜の危機が、現実になる。あの事態を防ぐ為にわたしは身を捧げたのだ。
桂ちゃんと白花ちゃんの、家族の全滅を避ける為にわたしは身を挺したのだ。今ここで主
を解き放てば同じ事になる。わたしの捨て身が無駄になる以上に、そこ迄して守りたかっ
たたいせつな物が、今度こそ本当に失われる。
【それはさせない。絶対にさせないわ!】
わたしの為せた効果は限られていたかも知れない。正樹さんはわたしの為に生命を落し
た様な物だし、白花ちゃんも桂ちゃんも真弓さんも甚大な心の傷を負った。それで結局羽
藤の家に残されたのは幸せの欠片にすぎない。主の分霊に憑かれた白花ちゃんは生死不明
だ。赤い痛みでそれ迄の記憶を失った桂ちゃんは、女手一つになった真弓さんと共に町に
転居し。賑わっていた羽藤の屋敷は無人になり。わたしが守れた物はこの程度。わたしの
身を投げ出しても残せた物はこの位。でも、それでも。
【何があろうとも、守らなければならないの。何を犠牲にしようと守らなければならない
の。わたしが何を捨てても、何を失っても防がなければならない。守り通さなければなら
ない。わたしの一番大切な物を、たいせつな人を】
主の復活は阻止し得た。あの場でみんなの生命が絶ちきられる最悪の事態は回避できた。
白花ちゃんはきっと生きている。桂ちゃんはきっと元気を取り戻す。真弓さんは2人の子
供を必ず幸せに導いてくれる。笑顔に繋る芽は辛うじて残せた。わたしはもう、その役に
立つ事は出来ないけど。わたしはもう、その力になる事は出来ないけど。残す事は出来た。
わたしが身を投げ出した値はあった。
わたしが守り抜いた物は残っている。
いつかそれは大きく花を咲かせるだろう。
槐の巨木が毎年見事に花を咲かせる様に。
己は穢れても良い。禍の子でも良い。誰から忘れ去られても、ご神木の中で主の無為を
慰める日々を千年万年続けても。朽ち果てても干涸らびても構わない。そんなわたしでも、
尚あの笑顔の為に尽くせるなら。2人の幸せの基盤の端を尚支えられるなら。この生命を
注ぐ事で、この身が尚何かの役に立てるなら。
わたしは出来る事を為せば良い。わたしが2人を直接幸せに導ける程大きな存在ではな
い事は、分っていた筈だ。2人の幸せの素材の一つになれれば、それで良い。主を解き放
てば絶対の不幸を招く。それを防ぐのが不可欠なら、わたししか為せぬならそれは担おう。
その上に2人の幸せを導くのは、真弓さんやサクヤさんにお願いしよう。わたしは出来
る事を為す。絶対ここは譲らない。封じを保ち、主を抑える。それ以上の成果は求めない。
今ある限りの成果を繋ぎ止めて、保ち続ける。
【わたしは選んだの。この定めを受け入れる事を。貴男とここで悠久永劫を過す事を…】
わたしの震えは微かな怯えの故だけど、意志の力で抑え込める。わたしの顔の強ばりは
僅かな怖れの故だけど、決意を覆す物にはならない。わたしの瞳に溜まる涙は、自分自身
への手向けの涙だ。人としてあった頃に抱いていた、わたしの願いと望みへの訣別の涙だ。
服は纏わない。想いだけの存在になった時からそれは無意味だったけど、見て惚れ惚れ
する様な見事な裸身ではないけど、己の迷いを吹っ切る為にも、敢て常の人の装いは外す。
主に傷つけられて鮮血にまみれた下半身も、隠さず拭い取らず、その侭主に歩み寄る。
主が心なしかたじろいで見えたのは気の所為か。
【わたしは、わたしの意志でご神木に入った。
封じの要となり、ハシラの継ぎ手となった。
痛みは覚悟していた。無為も覚悟していた。元からこの身は、双子に与えられた人生
…】
わたしの全てで返すと心に定めたのだから。
それで足りないからと言って、今ここでわたしが己の責を放り出す事は出来ない。今こ
こで支えている物を抛つ事は出来ない。ここで防いでいる物も又、大切な幸せの柱だから。
【例え、わたしが羽藤柚明でなくなろうとも。羽藤の家に居場所を失おうと、わたしがい
た事も為した事も忘れ去られようと、構わない。
わたしはあの2人の力になる事が願いなの。
わたしはあの2人を助け守る事が望みなの。
わたしはあの2人の役に立つ事が幸せなの。
成果を分ち合おうとは思わない。結果を共に味わおうとは望まない。想い出してくれる
日なんて夢想しない。わたしはわたしのたいせつな人の為に、己を尽くしたかっただけ】
成果を望む気持は棄てる。諦める。それで尚届かぬ事はあったけど、悲惨な末路も受け
止める。わたしの選択の末も、この心に刻む。絶対忘れない。わたしは、絶対忘れないか
ら。
わたしは己の震えを隠さず、それを抑える意志も隠さず、主の間近に歩み寄る。その肩
から伸びた蛇がわたしの右の乳房に噛みつく。それを静かに撫でてから再び視線を主に向
け、
【あの子達がいつか笑顔を取り戻す事を望みながら、わたしはわたしの為すべき事を為す。
貴男に、地獄の底にも悠久の無為にも付き合うわ。わたしはもう羽藤柚明じゃない。桂ち
ゃんと白花ちゃんを想いつつ、日々を共にしたいと望み願った羽藤柚明は、もういない】
鬼神の視線は重圧だったけど。
鬼神の気配は猛烈だったけど。
わたしの想いを譲る気もない。
例えその相手が神でも鬼でも。
「わたしはユメイ。桂ちゃんと白花ちゃんの為なら、一番たいせつなひとの幸せの為なら、
わたしは人の身体を失っても、人の生も死も失っても、人でなくなっても構わない!」
右の乳房に噛みついていた蛇が、気迫に弾かれた様に逃げ去った。本体である主の背中
の向うに身を隠し、尚もこちらを窺っている。主の目線が少し険しくなった気がした。
【貴男がわたしから何を奪っても良い。
貴男がわたしの何を失わせても良い。
外に出られぬ貴男がわたしに何をしても。
わたしは貴男をここから絶対に離さない。
わたしは貴男をこの封じから逃がさない】
未来永劫、わたしに付き合いなさい!
鬼に対抗できるのは鬼だけだ。なら、
【わたしも鬼になる。人を諦める。貴男を封じ続ける為に、羽藤柚明の全てを捨てる!】
一番たいせつな物を、守り抜く為に。
あの可愛らしい笑顔を守り抜く為に。
【わたしが鬼になる。お父さんとお母さんと、妹を殺した鬼に。鬼になって貴男を抑え、
桂ちゃんと白花ちゃんの幸せの苗床になる!】
わたしは主の背に両腕を回してひしと抱きついた。それは親愛の表現ではない。むしろ、
【逃がさない。貴男を絶対、逃がさないから。その代り、貴男はこの中でわたしを好きに
しなさい。それが生贄と神の関係、封じの継ぎ手と封じられた鬼神の関係。絶対に、絶対
にもう分霊もこの封じの外へは出させない!】
わたしは2人の幸せを確かめられなければ、身を捧げられない訳ではない。わたしは2
人が幸せになれないと、足を踏み出せない訳ではない。わたしは必要と思えば何度でも生
命を差し出した。悠久の封印も己に引き受けた。
成果は求めない。2人の幸せを間近で見たい想いはあるけれど、それはわたしの必須で
はない。2人と幸せを共にしたい想いは強いけれど、それはわたしの不可欠ではない。わ
たしは本当に血の一滴に至る迄、その最後の一滴に至る迄、全てを絞り出した抜け殻に到
る迄、生贄の一族の思考発想の持ち主らしい。
微かに、主の口元に笑みが見えた気がした。それは好色と言うより精悍な笑み。剣豪が
弟子の成長を認めた様な、武者が敵将の覚悟を認めた様な、父が娘の結婚相手を認めた様
な。
身体から生えている蛇達がわたしの上半身に絡まって来た。唯逃がさないと言うよりも、
痛めつけようと言う悪意が見える。わたしの自由を縛りつつ、次々に嫌な処に牙を立てる。
どんな毒が入っているのか、息が苦しく……。
【その覚悟、見せて貰おうか】
主はあくまでも主だった。その猛る心は常に主自身の思いにのみ忠実で、暴風の如く荒
れ狂い。わたしは我を失わないのが精一杯で。次のそれが幾日幾夜続いたかは定かではな
い。
実の処、わたしが主の背に回した両の手は、主を逃がさない為と言うよりは、自身が逃
げ出さない為の物でもありました。絶対逃げさせてはならないのは、主よりもむしろ己自
身。鬼になるという事は、他者に対してだけではなく、自身にも鬼であらねばならない様
です。
今度真弓さんに逢う事があったら、わたし、斬られちゃうかな。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
日の射し込む森の中、槐の巨木が天に向って堂々と伸びていた。それはとても美しくて
力強い。白い花の舞い踊る様は、それが幾度目の夏でも、とても香しく心落ち着かされる。
今日はこの巨木を訪ねる人がいた。枝葉からの木漏れ日の中、巨木に向き合って見上げ
る様に、その幹に軽く手を触れて立ち尽くし。
「正樹は、結局助からなかったよ……」
声は少し沈んでいた。良い報告ではない所為だろうけど、ワイルドな普段の彼女らしく
ない。やや癖のある長い髪は、図鑑で見た狼のつやつやの白銀の毛皮に似て美しく力強い。
「白花は、あれ以来行方不明だ。主の分霊が憑いた侭にせよ、白花が身体を奪い返したに
せよ、どこかで情報が入って良いんだけどね。鬼切部が、怪しい。もう少し調べて見る
よ」
槐の幹を、愛おしむ様に撫でながら、
「桂は……。桂は全部、忘れたってさ」
【サクヤさん、可哀相。サクヤさんこそ、オハシラ様を失ったのに。わたし達が、わたし
が守らなければならなかった、サクヤさんの一番たいせつな人を、一番たいせつな物を】
千年越しの傷心はいかばかりか。
千年越しの喪失はいかばかりか。
それなのに、サクヤさんはわたしの前ではそれを心の表にも出さない。その痛みはもう、
打ち明けられる人もいないのか。わたしが到らなかったばかりに。わたしの力が不足だっ
たばかりに。ごめんなさい、サクヤさん……。
サクヤさんは哀しげに瞳を俯かせて、
「あの夜の事は、6歳児には重すぎた様でさ。双子の兄を失い、父を失い、あんた迄失っ
た。何か思い出そうとする度に、赤い頭痛がするって、痛い痛いと毎日毎日泣いて、泣い
て」
最後には真弓も、火事で全部焼けたって話にして、傷口を塞いでしまった。正樹は父親
だからいた事になっているけど、白花もあんたも、桂の中では最初からいなかった扱いさ。
その頬を、二筋の清い水が伝い行く。
酷い話だろう。あんたは、忘れない事を失った者達との絆にして必死に生きていたのに。
事もあろうにそのあんたを、あんなに近しかったあんたを、いたって事も忘れ去るなんて。
声に非難の色はない。唯哀しみが濃く深く。
「稼ぎの事情もあって、真弓は桂と2人で町に引っ越した。羽様の屋敷に戻れば桂が記憶
と一緒に痛み迄戻すから、住めないらしい」
桂には、あんたと暮らした年月は最初からなかった事になっているんだよ。想い出迄も。
桂は無邪気で可愛いけどさ。悪気がある訳じゃないと分るけどさ。でも、あんまりだろう。
「真弓の処に行ってきた。どやしつけてやろうと思ってさ。あんたがいながら、当代最強
のあんたがいながら、このざまは何だって」
泣かれたよ。あの真弓が、ぽろぽろぽろぽろ涙を流して、あたしに崩れかかってきたよ。
「あんたに、申し訳ないって。あそこ迄して貰いながら、あんたの幸せを守りきれなくて、
あんたに合せる顔がないってさ。あたしは」
真弓があんな風に、泣き崩れるのなんて見た事もないし、想像も出来なかったよ。結局、
あたしも約束を、守れなかった口だからねえ。
「結局約束を果せたのは、あんた1人だけ」
義理堅いにも程があるよ、あんたはさ…。
「それ以上強い事は言えなかったよ。真弓は、桂の成長を待って、事実を話す積りらし
い」
伝言を預ったよ。暫くは来られないからと。
残された幸せだけでも守ると、伝えてって。
そうそう。白く淡い輝きを帯びたちょうちょの髪飾りを、彼女は槐の巨木の根に置いて、
【あ……、それは……】
思わず、届かない筈の手を伸ばしてしまう。
「羽様の屋敷から持ってきたよ。これは眠らせて置くより、あんたが身に付けて似合う」
【サクヤさん……有り難う……】
あんたは、珠の様に可愛らしかったから。
不意にその美貌が、激情に大きく歪んで、
「何で、何であんたが、あんたがっ」
望んでなっただなんて。そんな、そんな。
幹を叩き付ける震動が想いの強さを示す。
「あたしは何度手遅れを見れば良いんだ!」
泣き崩れる様が愛おしい。幹を通じて流れ込む感情のうねりは、本当は封じを揺らす物
だけど、わたしはそれが例え様もなく嬉しい。
《有り難う……来てくれて……嬉しい……》
整理された言葉ではなく、漠然とした想いしか伝えられないけど。耳に届くと言うより、
肌を通じて、震えで伝えるのが精一杯だけど。わたしの反応に、彼女は驚きに目を見開い
た。
【伝わった。大切な人に、想いが、漸く】
それが精一杯だけど。今の限界だけど。
サクヤさんの感応の力が、低くて良かった。槐への同化が不完全で良かった。主との日
々をわたしはまだ、完全に受け入れられてない。逃げない心は固めても、毎日泣いたり喚
いたり、主を手こずらせたり失望させたり、状況は這い這いの赤ん坊だ。この傷心、この
動揺、この浮動を知ったらサクヤさんは更に哀しむ。早く全てを平静に受け入れないと駄
目だけど。
今は取りあえず一番大切で強い想いだけを。
槐の白い花が又1つ2つ、散っていく。
「血が……あんたの血が、あたしの中に流れていたんだ。あんたはあたしの中で息づいて
いる。そうかい、そう言う事かい。ああ!」
サクヤさんの中に流れるわたしの血を介して共鳴できる。心が、微かにでも伝えられる。
哀しみの中に嬉しさも混ぜた涙が溢れ出る。
《わたしは……幸せです……今でも尚……》
たいせつなひとの幸せを護れれば。
その人に忘れ去られても構わない。
誰1人、わたしを知らなくなっても。
誰1人、わたしを憶えていなくても。
わたしが大切な人の為に尽くせているなら。
わたしが大切な人の幸せを支えているなら。
わたしはその事実で幸せ。とても、幸せ…。
誰に知られなくても、わたしが知っていれば良い。誰に忘れ去られても、わたしが守り
通せれば良い。返される想いなんて求めない。わたしが、たいせつなひとを守りたかった
の。
《わたしはわたしが愛したから為しただけ。気持を返して欲しいなんて、思わない。憶え
ていて欲しいとも、感謝して欲しいとも…》
サクヤさんの嗚咽は、深甚な哀しみと喜びの混ざり合った、言葉に為しえぬ想いの津波。
「……せめて、あたしは、忘れないから」
あたしは、悠久にあんたと過ごすから。
誰が朽ち果てても、誰が干涸らびても、あたしはあんたを忘れない。ずっと、ずっと同
じ時を生き続ける。今こそあたしはあんたと一緒の時間を生きられるんだ。あたしだけが。
「全てが終る、長い時の彼方の滅びの日迄。
主を還し終ってあんたも還る最期の日迄」
そう思ってくれる心が嬉しい。その頬を伝う涙が有り難い。それがわたしの力に変わる。
それがわたしの心を活かす。封じを強化して、未来永劫に保たせる一つの大きな支えとな
る。
風が吹いて、満開の槐の白花を散らせ行く。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
【浅間の長の孫娘に、助けを請わなくて良かったのか? 当分は又誰も訪れぬだろうに】
サクヤさんの後ろ姿が見えなくなってから、主はわたしに問うてきた。彼女が帰った後
もその侭日の射し込む森の情景を見守り続けていたわたしは、名残惜しそうに見えたらし
い。あの日以来何も纏ってない身で、振り返って、
【その求めは、サクヤさんを哀しませるだけ。サクヤさんは感応の力が低い。封じの中の
実情を、千年経っても知りません。竹林の姫が、貴男とどう日々を過していたかも報せる
その求めは、サクヤさんを幾重にも哀しませる】
彼女はそれを報せなかった。わたしが今になってそれを報せる事を多分彼女は望むまい。
封じの中はいかなる手も届かせ得ぬ別世界だ。最早為す術のないサクヤさんにそれを報せ
て、胸掻きむしらせる苦悩と悲嘆を与えて、一体何になるだろう。サクヤさんは封じを壊
そうとするかも知れぬ。それがむしろ主の望みか。
助けは要らない。助けられる事を望まない。わたしはここにいなければならない。離れ
られないのではなく、ここを離れる事を、わたしは己に許さない。これは望んで得た定め
だ。
【わたしが伝えたかった事、伝えなければならなかった事は、確かに伝えきりました…】
それは微かな強がりを含みつつも、全くの嘘でもない。わたしはそう思い願えばこそ自
ら封じの要になったのだ。ご神木に依り沿って、ハシラの継ぎ手になったのだ。人を捨て
ても悔いを残しても、この道に間違いはない。引き返せない故ではなく、退く事を許さな
い。
【それより、サクヤさんが来ている間、妨げをしないでくれて、有り難うございました】
【?】
主が何を言うのかと驚きの顔を見せるのに、
【流石に、貴男のお相手を務めつつ、サクヤさんにあの様に応える事は、出来ませんでし
たから。わたしはまだハシラの継ぎ手としては未熟です。心を全て傾けないとサクヤさん
に想いを伝えられなかったから。有り難う】
わたしは鋭い眼光を飛ばす主の間近に歩み寄って、間近で頭を下げる。主は不愉快げに、
【わたしは貴様が全力で浅間の長の孫娘に助けを請い願い、泣きつく様を期待しただけだ。
勘違いするな。あんな応答を次にもするなら、その最中からわたしは貴様を抱き竦める
ぞ】
わたしは険悪なその言葉にも顔色を変えず、
【ではなぜ貴男は、話の最中からわたしを抱き竦める事をしなかったのですか? 次と言
わず、思い立ったら即座に為してしまうのが、気紛れな神の所行に相応しいのに】
【無駄だからだ。貴様が感応を断てばそれで終りだ。浅間の里の孫娘は、感応の力が低い。
貴様がその血に依った微かな繋りを開かなければ、奴には貴様の叫びも届かぬだろう…】
聞かせてやれれば、この上なく良い見せ物になったのに相違ないが。奴にも貴様にもな。
【そうではありません。主、貴男はわたしの心からの想いを妨げたくなかったのでしょう。
己の想いを貫く事を心から欲し、己の意志を曲げる事を心から嫌う貴男は、他者の心か
らの想いを妨げる事も、本来は好んでない】
主は睨み付ける視線の重圧で応えたけど、
【貴男は心から自由を欲している。故に例え敵でもその自由を妨げる事を望まない。それ
が貴男の行く手を塞ぐなら、正面から想いをぶつけ合うけど。貴男の想いを貫く為になら、
遠慮なく蹴散らすけど。そうでないのに嫌がらせで他者の想いや行いを妨げるのは、貴男
の望む所作ではない。貴男はわたしの行いを妨げる気はなかった。貴男は苛烈だけど己に
も他者にも正直な人。強くて素直で無邪気で、憎めない人。絶対に解き放ってはいけない
者だけど、竹林の姫が好いた訳が少し分る…】
主は、わたしが敢て口にしたその単語にかつてない程鋭く苛烈に反応した。
【二十年も生きておらぬ娘が、人の分際でわたしの心中を分った様な口を利くかっ!】
主の怒りは図星の故だ。眼光がわたしを射抜くと同時に、わたしの右手がベチャリと音
を立てて砕け散ったけど、わたしはこの類の激発にはもう慣れっこだ。痛みは痛みとして
受け止めつつ、わたしはむしろ勝者の笑みで。
主がたじろぐ様を見るのも初めてではない。わたしが定めを受け入れれば、ご神木を通
じ幾らでも力が補充され修復がされるわたしは、主ほどの鬼神と千日手を繰り返せる。勝
つ事はないけど負ける事もない。負けるとすれば、己にだけ。だから己さえしっかり強く
保てば。
さんさんと降り注ぐ日差しに目を細めつつ、
【貴男は当初の様に泣き伏すだけのわたしの方が好みでしたか。あの時わたしは、貴男に
微かに軽蔑と失望の目線を感じましたけど】
主はわたしの問にすぐ平静さを取り戻し、
【絶望して自ら封じの外に出るか、己を失って壊れるかを、期待しただけだ。わたしは今
尚封じを外し、外界へ出る望みを捨ててはいない。我が想いを妨げる物は全て打ち砕く】
貴様も打ち砕く対象の一つにすぎぬ。
その為に様子を観察していただけだ。
ふふっ。漏れ出る笑いに、主の目線が又険しくなった。この鬼神は心の起伏が分り易い。
こんな不遜を繰り返せるのも、封じの中の千日手という特異な状況故だ。それが崩れれば、
忽ち踏み潰される小虫にすぎぬわたしだけど。
【わたしに竹林の姫の代りは出来ません。血が繋っていても、顔形が似ていても、誰かを
誰かの代りには出来ない。竹林の姫はこの世に代え難い唯1人の存在です。神にも鬼にも、
再び作り上げる事は叶わない。それにわたしは貴男を愛せないし、一番にも出来ない…】
潜在的にでもそれを求め望んだから、主はわたしの醜態に眉を顰めたのだ。心の奥底で
それを欲し願った故に、主はわたしの情けなさに蔑みと失望を感じたのだ。主は竹林の姫
を好いていた。最高の敵として、最愛の者として。そして姫も主を嫌わなかった。2人は
対立しつつも長く安定した関係を築いてきた。封じる者と封じられる者の摩訶不思議な絡
み。
その絡みを終らせたのは、皮肉にも主を強く慕う鬼達だった。主の為を想い、主だけを
大切に想う者達が、その主にとって大切な者を破壊して主を救い出そうとして、その結果。
貴男にとって大切な人は、この世にいない。
それは間接的に主がそうしたと言える訳で。
【貴様っ! 神の心に入り込むかっ!】
主の怒りの目線がわたしの瞳を射抜く。頭を吹き飛ばす気かと思ったら、ビチャッと言
う音と共にわたしの左肩から先が吹き飛んだ。主は、発動の瞬間に、その矛先を外した
…?
大きな余波に身体が後ろにひっくり返った。痛みより、両手の修復がまだなので、身を
起す事が出来ないわたしの上に、珍しく怒りに我を忘れた主が、のし掛かってきた。
【そんなに神の心が知りたければ、教えてやろう。その貧弱な身体で知ると良い。知って、
その猛威に泣き喚いて悔いに涙するが良い】
主が自身の心の底を知られたくなくて、己自身でも知りたくなくて、怒りで己もごまか
している。わたしを力でねじ伏せて、わたしの心を叩き潰し、わたしの気づきを忘れさせ、
或いはなかった事にしようとしている。それはむしろ、主の心に棘を残すばかりなのに…。
【好きなだけ貪るが良い。神の意志をっ!】
わたしに抗う術はない。わたしは主に蹂躙される。時に腕が飛び足が折れ、臓物が散る。
肉を持っていればとっくに子供を孕んでいた。否、この激しさでは胎児は生きていられぬ
か。
その行いがいつ終ったのかはよく分らない。唯、主の瞳には確かに後味悪さが翳ってい
た。主は己を持て余している。力で自身には打ち克てない。わたしを蹂躙できても心を屈
し得ぬ様に。力で解決出来ない事柄になら、わたしも介在できるかも知れない。主への関
与など有害無益という心の片隅の声は脇に置いて。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
『山の蛇神様、いらっしゃい。わたしは貴男からもう逃げられない。貴男もわたしから離
れられない。誰ももう妨げる者はいないわ』
耳の奥に、感応の時に聞いた竹林の姫の声が甦る。彼女はあの時点でオハシラ様になる
他に道が残されてなかったけど、濃い贄の血を引く娘は国中に知られ求められ、主を倒し
ても尚屋敷に戻ればその行方を巡って騒擾と混沌が繰り返されるのが目に見えていたけど。
彼女は他に道があったとしても、オハシラ様になる道を選んだのではなかろうか。主を
封じるその為に、主と共に過せるその定めを、彼女は望んで受け入れたのではなかろうか
…。
【なぜ、そう思うのだ?】
主は怒り狂いはしなかった。主の心中ではなく、竹林の姫の心中の察しだった為か。或
いはわたしの思索の行く末に興味を抱いたか。胡座を掻いた侭で表情を変えず、身を横た
えたわたしを見下ろして短く問うのに、
【わたしが視た感応の中で、彼女は貴男を嫌ってなかった。千年も共に過している貴男は
それを既に承知でしょう。彼女を護る為に鬼切部が貴男と闘い敗れた時には哀しんだけど、
その血塗られた途を押し止めたく望んだけど、合意も許容もしなかったけど、その奥底
で】
竹林の姫は主の行く末を心から案じていた。その苛烈な生き方を、その正直すぎて不器
用な身の処し方を、求め欲した物は己の手で掴み取る他に表現の術も叶え方も知らない魂
を。サクヤさんへの想いと同じか又はそれ以上に。
姫は主の生き方を危うく想い、その道に進ませたくなく思ったから、彼の求めを拒んだ。
山の蛇神として大人しくあり続けるなら、姫は主の求めに応じたのではないか。
【……どう言う事だ?】
主の先にあるのは闘いに次ぐ闘いの定めだ。鬼切部の後は観月の長や役行者の連合軍と
対決した。彼らを倒せば、日の本の闇を司る者で主に対抗出来る者は少ない。主が望まず
とも朝廷や照日の神が危機感を抱き闘いを挑む事が予期できた。それに勝てば次は主が敵
対者をまつろわぬ神として追う側になる。追撃戦をせねば、いつ又形勢をひっくり返され
るか分らない。勝っても負けても闘いの泥沼だ。
姫はその先行きを案じるが故に主を拒んだ。主が生き方を変えねば、贄の血を手に入れ
ても姫の心を手に入れても、主が不幸に陥ると。主を心から想う故に。でも、それは主に
は理解の外の話だった。主は、挑まれて己が望めば闘うだけだ。奪いたい侭に奪い、滅ぼ
したい侭に滅ぼす。立ち向う者があれば打ち砕く。戦を未然に防ぐとか、果てしなく続き
そうだから退くとか止めるとか考えない。だから姫は主を倒して封じて貰うしかないと、
諦めた。
主の幸せの為に、主の行く末を案じる故に。
【人は余計な事を細々考えるのだな。無力で、他者の意向を斟酌せねば生きて行けぬ故
か】
【貴男ほど傲岸な神は、珍しいと思います】
でも、その強さに伴う空隙が主の禍に繋る。
闘いに敗れるという以上に、他者の意向を窺わない心の在り方が竹林の姫を拒ませたと、
主は千年経っても理解できない。
【貴男は竹林の姫を喰い殺す積り等なかったのではありませんか。今なら、わたしもそう
思えます。竹林の姫の後を承けて、オハシラ様になってみて、それが分った気がします】
主の彼女への扱いとわたしへの扱いは、妻と仇程に違った。同じく主を封じその魂を還
し行く役を担い、同じ贄の血を引く女子でも、感応の中で視た彼女への扱いは、天地程に
違っていた。そして、彼女以外の者への主の所作は、わたしへのそれに酷似して苛烈だっ
た。
思いの侭人を喰らい、鬼でも気紛れに殺し、他者の思惑や言い分を省みない。あるのは
彼の意志だけで、行われるのは彼の所作だけで、妨げる者は粉砕し。彼の行いには、戦略
も目的もない。唯己の為したい侭に為し、気が向く侭に事に処す。故にノゾミも時に無視
され、時に弾かれ、しばしば虚しく過す日もあって。
『わたしの憎悪は、この千年余、ずっと叩き付ける相手を見つけられずにいたのだ……』