第1章 いざ、宇宙へ

「ふわ〜あ……、退屈だなあ」
 青年は大きくあくびをする。眠そうな目。深夜まで起きていれば、当然だろうか?
 特に目的があって起きていたわけではない。テレビやラジオの深夜番組を見る訳でもな
い(本当は見れないのだ、全て質入れになったままだから)。ただ、眠れないで起きてい
た。
 それだけ。
「……?」
 青年は、何物かを見つけたらしい。ゴミの山を掻き分ける。
 部屋の中は、お世辞にも綺麗とは言えそうになかった。この時代後れのボロアパートの
住人の中でも最もだらしないと言われるこの青年が、丹羽明二十歳(独身)。
 この二十一世紀後半においては三流の某短大を、何とか落第せずに卒業し(余計なお世
話だ……明)、今春からは定職なき身。
 二つ三つの企業の内定は貰っていたのだが、昨年秋からの不景気が祟って、それがまさ
かみんな内定取り消しとは、悲運な明君。
 彼の様な『創造的で(騒々的?)クリエイティブ(クリームシチュウ?)な』若者を野
に放っておくだなんて、最近の日本の企業は、人を見る目がないよ、全く。
 ああ、悲しきかな。不景気のバカヤロー。
 さりとて人は、食わぬ事には生きてはいけぬ。何とかせねば……と言ってもどうする当
てもない。
 どうしよう? 人生の船出のこの季節に。
「えっと、今日のニュースはっと……」
 就職口も見つからず、アルバイトの口も見つからないが、そこは脳天気な明君。さっさ
と都合の悪い事は頭の中から消し去って、社会情勢に関心を向ける。いつもはテレビ欄と
マンガにしか目を向けぬ彼だったが、今日はちょっと事情が違う。昨日の新聞をわざわざ
引っ張り出して、興味ありげに頁をめくる。
 懸賞の発表があるのだ……何の懸賞かって? ふっふっふっ。

『○○製菓株式会社創立五十周年記念、
         金星旅行プレゼント!』

 要するにい、○○製菓のチョコレートの包み紙千円分を一口として○○製菓に送るとぉ、
抽選で五名様に金星旅行をプレゼントして下さると言う、何とも都合の良い話。○○製菓
は、二十一世紀初頭から続く日本お菓子業界の老舗。それにしても金星旅行とは思いきっ
たね! 二十世紀で言う『豪華客船世界一周』みたいな物……。これを正規の料金で行く
となると千口分では済みそーにないっ。これを逃す手はなぁい!
 って訳で、ほんの百口ばかり(十万円分)送りつけてさしあげた明君、当たらぬと分か
っていても、見てみたいもの。なぜ当たんないかって……大体分かるしょ。なかなか人生、
うまくは行かぬもの。明も当たると思って出した訳じゃあないし。
 ま、一応見てみようか、位の気持ちで……。
「フムフム、地球の重力0,0000004%減。原因は宇宙施設の作りすぎによる、地
球からの鉱石の流出……」
『そー言や、そうだよな。昨日体重量ったら三キロやせてたもんな。どうりで』
(んな馬鹿な事があるかっ!びんぼーでメシ食えねえだけだっ)
 ゴミの山の中で明は一人呟く。周りで白熱灯に照らされるゴミの山はあるいは昔の雑誌、
あるいは昔のマンガ、そして在りし日には参考書であった物の残骸などが積もっていて、
部屋全体が一つの巨大なごみ箱と化していた。
 堆積したごみの中にはいつ頃からあるのか分からない物や、出所不明な物迄あり、その
内恐竜の化石でも発掘できるのではないかと、明は密かに期待してる(本当かよ、おい)。
 邪魔に思った事はあるのだが、進んで自ら捨てた事のない明の言うには、
『一寸のゴミにも五分の魂』
(ただ単に面倒くさいだけだったりして…)
 ま、そのおかげで二年も前からのチョコレートの包み紙まで引っ張り出せたんだし……。
我が十万三百円(消費税込)のチョコレート代の恨み、いざ受け取るがいいっ! それに、
明を押しのけて当選した不届きな奴らの名前も見ておきたいしね。
「あった、あった、これこれ……」
 明が見つけたその記事は、小さな隅っこの押し込められた雑件のひとつに過ぎない存在
だったが、それが明の人生を変える一瞬となった。何がどう変わったのかは説明し切れな
いのだが。乗ってるわけがないと確信しつつ、ごみの中から捜し当てれば……。
「川村徹夫、違う……、吉川武、違う……、大森和男、違う……、田中誠一、違う……、
丹羽明……違う違う……。えっ?」
 えっ?
 まさか……幻だろ。そうだよ、きっと……。最近勉強したからな。目がかすんでるのか
な。
 明は目をこすって、まばたきを繰り返してもう一度新聞を見る。

 のってる……。

 きっと……、夢だよ。そうとも、ああ……。
 俺はもう寝てるんだ……。
 明はほっぺたをつねって更に新聞を見る。
 もう間違えない筈だ。

 やはり載ってる……。

 体が震えていた。血が、沸き立ってきた。
「あ、当たってる……」
 当たってるんだ。確かだぞ、寝ぼけてなんかいないぞ、ほんとの事なんだ。
「当たったぞ、当たったんだ。やった……。
 やったああああああああああっ!」
 深夜に所かまわず叫び回る金魚迷惑(近所迷惑と云う地方もあるそうです、明)おかし
な人間がいると言ううわさが飛びかったのは、この夜からの事であろう。しかしその当選
は紛れもなく事実で、それが彼の人生を大きく変えたのだから、その程度の事は見のがし
てほしい、と明は言っていた(余計な事を!)。
 翌日。
 明は外国(二十一世紀は宇宙も外国扱い)へ旅行するのに必要な出国手続きをしにお役
所へ赴いた。外務省の出先機関とか言っていたけど。
 それにしても役所とゆー物は、いつの世でも仕事の能率は悪い物だと決まってるらしい。
特に外務省と文部省が酷いとはここで会った友人に聞いたのだったが。
 別に好きでそうしている訳ではないのだろうが、とにかく遅い。順番で最後になってし
まった(不覚!)明の番が回ってくるまで、いったい何時間かかっているのだろう。
 この間にここに集まって明と一緒に金星まで行く事になった他の四人を紹介しておこう。
偶然の力とは遅い物、じゃなくって恐ろしい物で、明たち五人は前に見たように男五人。
みんな独身で年齢も若い者同士の揃った面々が勢ぞろい。このウソみたいな偶然は、まず
マンガや小説の中でしかお目にかかれないだろう、うん。
 まず、そこで書類のアラ捜しをしては印刷の誤った箇所を発見して小まめに注意してい
るエライ奴が川村徹夫。頭脳明晰、冷静沈着、受験必勝、二十二歳と四字熟語のオンパレ
ードな、エリート官僚まっしぐらという感じの男だ。冷淡な印象を与える為友人は少ない
が、性格は意外と柔らかい。エリートコースの彼がなぜこんな懸賞に応募したのかは今で
も分からない。現代の怪奇、世界の八番目の不思議と彼は名づけた(名づけるな……徹
夫)。
 そっちで百科事典を二時間も立ち読みしているのが大森和男。本が好きで好きでたまら
ないと言う。本を読む速さが違うのだ(倍速みたい……明)。読む生活に明け暮れて遂に
彼の出した結論は事もあろうに『作家志望』
 全ての著作を原版で読みたいと習いまくった外国語、英、仏、独、蘭、露、ハングル、
中国、ラテンにスワヒリ(語)アラビア語、最近ではロゼッタ・ストーンの解読で独自解
釈なる物まで持ち始めているらしいから、はんぱじゃあない。大森和男二十二才、本が恋
人。仕事も女も全ては俗事。
 あっちでそろばん(今どきい!)を使って早くも旅費の計算を始めているのが吉川武、
通称『タケチ』。地方の大手不動産の社長の息子だが、商魂たくましい上にケチさは鍛え
抜かれて超一流。今まで世界一周もした事がないのは、果たしてけちの為だろうか……。
今年の5月で二十一才。これまた、恋も愛もなくただひたすら『富』の為に生きる亡者で
ある(ただし彼の場合、信用度や交際の人脈等も『人間的富』とか言って、勘定に入れて
いるので、まるっきり餓鬼道でもない様だ)。
 そして最後にそこで明と意味なきおしゃべりを続けているのが田中誠一、二十才。性格
はズボラかつ大ざっぱで明によく似ている。おたがいにウマがあうと見えて、話は果てし
なく……。個性強き独特のメンバー揃うこの中においては余り目立たないかも知れないが、
十年前はガキ大将。いたずらの腕は天才的!
 何て言ったって学生時代に、廊下に立たされた日の方がそうでない日よりも多かったと
か、遅刻の罰に毎日の様にグラウンドを走り回って地球何周だかしたと言うから、化物だ。
 揃いも揃って、個性的(個性ありすぎ!)なメンバーたち。主人公の明の存在がかすん
で見える程だから、つわものだ。
 この五人で、金星まで行く。……うん、大丈夫だ。決して不安はない。このメンバーな
らば、何があろうと死ぬような事はない。
 彼らの辞書には危険と言う文字はない!
 殺したって死ぬものか!
 明の出国手続きが終わったのは、もう夕方だった。星空がうっすらと青みを帯びて、広
がっている。あの輝いて見えるのは、あれは宵の明星だろうか。
 きれいだな……実際、そう思う。
 事実こんなに美しい星空を拝めるのはもう、珍しい。この晴れやかな空が、明の心の中
にも広がっていた。

「間もなく、千葉国際宇宙空港発、宇宙ステーションB2行き、日本宇宙航空株式会社、
ES504便が、発進いたします。
 お乗りの方はお急ぎ下さい……。
 間もなく……」
 合成か本物か分からない程巧妙な、おそらくは合成だろうその女性アナウンサーの声が、
国際語、ついで各国の言葉で順々に伝えられて行くここは千葉国際宇宙空港(地上には少
ないが、ローカルな宇宙空港と言う物もある。月などには多い)。
 ここから明たち数百名を載せたES504便は、宇宙にむけて飛び立つのだ。
 その時は来た……。
 しかしそれにしても随分座席が込み合っているではないか。これでは飛行機の座席と変
わらない。金星に行くのだって最低一か月、今の惑星の配置では二か月余りもかかるのに。
その間この小さな座席の中で、506人もの人間は缶詰にでもなるのだろうか? 宇宙旅
行って言うのは、もっと船旅みたいな感じで、船室なんてのがあって……。
 そのとおり。
 実を言うとこのES504宇宙船は、宇宙連絡船とも言うべき物で、地球外周の静止衛
星軌道上に位置する宇宙ステーションとの間を往復するだけしか用のないシャトルなのだ。
言ってみれば、はしけの様な物である。本物(こういってはES504にかわいそうだ
が)の大宇宙船には、こういう連絡船で宇宙に一旦出てしまった後で、惑星上空の宇宙ス
テーションなどで乗り換えるのが常なのだ。
 こうすれば、宇宙を飛び回る宇宙船は大気圏突入の際熱衝撃を受けないで長持ちするし、
大気圏脱出用のロケットは長い宇宙旅行に不可欠な装備を必要としないので、互いに都合
がよろしい様だ(あったまいい!)。
 ここで専門的な知識をひとつ。
 大気圏脱出用に使用されるロケットに使用される燃料は人類にとって必要不可欠であり
ながら非常に多くのエネルギーを必要とする難問中の難問だった。石油、ガス、原子力…。
どれも資源に限りがあり、本格的な宇宙進出に際して必要な膨大なエネルギーを満たすに
は埋蔵量が数十年分しかなく、先々が思い遣られる。特に大気圏脱出用ロケットは瞬発力
を必要とし、惑星間飛行の時実用化に成功したイオンロケットも難しい。
 さて、どうしよう?
 そこで発明されたのがリチャード・ロケット。別名空気ロケットである。ケンブリッジ
大学のリチャード博士を中心とするチームがその開発に成功した為に、こう名づけられた。
和訳して正式名、空気圧縮飛行法。
 ロケットの中に圧縮された気体(空気)が詰め込まれていて、発射時にそれを暖める事
によって膨張させて栓を開く(栓を抜く、とも言うかも知れない……)と膨張してあふれ
出す。その力を推進力として一気に飛び出すのが基本原理である。
 アメリカではこのロケットを『コーラ・ロケット』と言うらしい。一時期(今でも根強
い人気を保っているのだが)アメリカで子供のおもちゃにこのロケットのミニチュアが大
量に出回ったらしい。実際にコーラの炭酸を燃料として飛び回るのが大人気の元だが、子
供言葉を覚えたまま実社会に出てきた世代から『コーラ・ロケット』は世界の共通語にな
ってしまったのである。
 ちなみに明もこのおもちゃを持っている。
 さて、技術的な話はその位にして、
「話の中心は俺たちだぞおー!」
と叫んでいるやからに話しを向けてやろう。
 可哀想だから。

 学校に通う時などは幾度となく寝坊を繰り返し、そうでない時も常に滑り込みセーフの
経験しかない明であったが、さすがに宇宙旅行の当日にまで遅刻するようなヘマはしない。
 まあ、誠一あたりに言わせれば、
「遠足や修学旅行似のある日に遅刻してくる奴なんていやしねえよ」
と、なるのだろうが。
 その誠一だが、寝坊して発進ぎりぎりに滑り込んできた。遠足の日まで寝坊したそうな。
とんでもない奴もいたものだ。
 徹夫の奴は、発進時間十分前に正確に足を運んできた。カントではないが彼の住む町内
の住人は、彼を見て時計を直しているそうだ。
 徹夫とほぼ同時に入ってきたのが、和男である。彼は彼で出発前のコーヒータイムとか
言って、宇宙空港の喫茶でのんびりと『時計の針に縛られる事のない豊かな時間』を過ご
した後、発進間近となって慌てて飛び込んできた次第。
 そして発射寸前になってから武が飛び込んできた。宇宙空港まで乗ってきたタクシー賃
のメーターが停車直後に一つ動いて八十円上乗せになった事に抗議して一時間も交渉した
末に、四十円値切る事に成功したのだそうな。歩いてくりゃいいじゃん、と明はいったが、
幾らケチな彼でも宇宙空港まで荷物を運ぶには、宅配便よりタクシーの方が安いそうな。
 五人が顔を合わせたのは、なんと発射三十秒前だったそうな……。めでたしめでたし。
 発射もいよいよ近づいたのか、客の何人かはそわそわして落ち着かない様子。中には、
「こんな鉄の塊が空の上まで行く筈がない」
とおろおろする者もいて、
「あいつ、生まれた時代を間違えたんじゃあねえのか」
と云う囁きも漏れてくる。
 伝声管を通って漏れてくる声はさすがに日本語がトップだった。
「発射十五分前、気体圧縮装置安全弁解除」
「空気圧縮室内気圧正常、同室温正常範囲内を変動中、調整……」
 良く分かんない言葉が並んで、明はそれらを頭の外に追い出した。良く分からない事は、
混乱するよりも追い出してしまった方が精神衛生上よろしいのだ。などと珍説をほざいて、
明は雑談に夢中。
 何となく気分が盛り上がる熟語の羅列だな、位な感じで誠一も聞き流した。
 そーゆーもんでしょう、こんな話って。
「対衝撃防護システム作動、振動抑止システム正常、宇宙船発射台定置ロック解除。
 乗客着席率九十八%重量変動は標準範囲内……。乗降口閉鎖、乗務員全員配置OK…」
「おい、眠り薬を買わないか?」
 こんな時になって突然武が声をかけ始める。
「なにしろ、地球の大気圏を出るときにゃあ、それはものすごい重力がかかるんだからな。
5Gや6Gって、三百キロ近い体重がかかるんだよ……。苦しみながら気を失うなんて、
全く耐えられないね。そこでこの眠り薬。
 中国古来の薬草の中から、特に優良な二十五種を現代的製法で抽出し、メキシコとアン
デスとインドとアフリカとシベリアの薬草と混ぜ合わせて……」
 そんなに合わせて、どれがどれだか分かんなくなってしまうんじゃあねえか。と明は言
いたかった……。けど、武の口には一瞬の隙もない。
「って訳だからあ、自然の味覚で安全第一。健康な薬草で副作用は全くなし。これで何と、
一個二百円。みんな買う?」
 買うわけねーだろ。といかにも言いたげな誠一の目に、明も頷いて見せる。まったく…。
「お前んち、不動産屋じゃなかったのか?」との和男の問いに、彼は平然として、
「今はね、世の中も多角経営の時代なんだよ。本業よりも副業の方が儲けるような不動産
屋なんて、結構あるんだから。株を売り買いして儲けてるよりも、薬屋の経営権を握って
新しい取引先を作り出して人間的な成熟を図る方が、最終的には得なんだよ」
「あ・の・なあ」
「発車一分前、気体圧縮室状況はすべて順調。乗客全員着席完了。着席率は九十九%。
 空気弁解放用意」
 時は迫る……。と、何を思ったものか突然徹夫がバッグの中から取り出した白い錠剤を
ゴクリとに飲み込んだ。さては、持ち合わせがあったか、とは武の言葉。武は何か自分の
薬の自慢をしている様だったが、そのあたりから轟音で聞こえなくなって……。
 ゴゴ……ゴゴ、グゴゴゴ……。
 宇宙船が揺れ始めている。今までどっしりとすえられていて微動だにしなかった巨大な
超重量の宇宙船が、揺れ始めている。気体が暖まり始めて、騒いでいるのだ。子供の頃に
ぶち当たったブリザードの咆喉にも似ていた。
「3、2、1……」
 ゴゴゴゴゴゴゴゴ!
 耳をつんざく様なものすごい大轟音が、耳に襲いかかる! 潰されるなんて物じゃな
い!からだが耳になった気分、シートごと揺れているっ。そして……そして体にのしかか
ってくる……じゅ、重圧……。
 目をつぶり、歯を食いしばって耐える。耐える、が……。
『ね、眠り薬を飲んだ筈なのに……』
 明と誠一は不審そうに苦しむ徹夫を横目に見てニヤリと笑う。
 徹夫が飲んだと思い込んでいる白い錠剤の正体は、明と誠一がその前にすり替えておい
たラムネなのだ。そうとも知らずに不思議がり、苦しがる徹夫を横に見て、明と誠一は互
いを見て、ニヤリ。
 そうこうする間にも重圧はかかり続けて、その息苦しさに明は遂に目の前が暗くなって
……。丹羽暗(にわくらし)なんちって……。
 気を失った。

 どのくらい経っただろうか。
 明は船内に流される、オルゴールの音で目を覚ます。
「やっぱり、気を失っちまった……」
 ロケットは順調に飛行してるらしい。いつの間にか壁が特殊強化ガラスに変わっていて、
宇宙の景色を見る事ができた。宇宙の深淵は、果てしなく遠く暗く澄み、下方のみ唯一限
りある丸い地表が、青くぼやけた輪郭でこの無謀な重力への挑戦者に安らぎを与えてるの
か、それとも引き込まんとうず巻いているものか。
 暗い、果てしなく暗い。そこは静寂な、生も死もない世界。全く何も語らない故に、何
も恐るべき猛獣も細菌もありはしないのに、それ故に恐ろしい。無が、恐ろしい。その無
の海の中に一つ、ぽっかりと浮かぶ碧い星が、美しい。
「綺麗だな……」
 隣で誠一が誰にともなくそういった。明は黙って頷いた。不要な言葉を不器用に出して
見ても、この美しさを表現し切れない事は分かっている。いくら使い慣れない美しい言葉
を並べて称えあげようと、この美しさは表し切れないし、説明もできない。
 生命そのもの。それの宿るただ一つの星に、感動するのだ。小さな人間には表し切れな
い物を、明は全身で感じ取っていた。
「間もなく宇宙ステーションB2に入ります。間もなく宇宙ステーションB2に入りま
す」
 お忘れ物のない様に……。伝声管から声が流れる。同じことを外国語で繰り返す。
「ヒンズー、ペルー、チベット」
「ウイグル、エスペラント(国際語)」
 和男と徹夫は言葉あてに夢中だ。
 船内のざわつきに、すでに起きていた人もまだ眠っていた人も、ムックリ起き上がる。
 我に返った明たちは、早速とんでもない物を見る羽目になる……。
 ヨダレを垂らしてまだ寝てる人。地球上でならまだ良いが、これを宇宙でやられてはた
まった物ではない。ヨダレは水滴となって浮かび上がって、周囲の人々に甚大な被害を与
えつつあるのだ。しかも本人は全く気づかずにすやすや寝入っているのだからたまらない。
 サラリーマン風の男が、無重力になって自由を得たかつらを追って飛び上がり、逃げる
かつらを追い求めて空に浮かぶ。体を巧く動かせないので、中々壮絶にして面白い光景だ。
 スチュワーデスの代わりの合成音声が、
「現在、本線はアラビア上空約二万二千キロを飛行中です。無重力状態ですので、歩行等
にはくれぐれもお気をつけ下さい……」
「全然効かなかった」
 徹夫が頭を振りながらそう言った。
 当然だよ、あの薬は……ねぇ。
「だから俺の眠り薬とペルシャ八千年の秘伝を信用していれば……」
『さっき、中国四千年っていってたよな…』
 明は首をかしげ込む。あんまり信用できた秘伝ではなさそうだ。横から和男が、
「武の薬は良く効くぞ〜。一度飲んだら二度と使う必要がない」
 永遠の眠りでもう目を覚まさないんだから。
 明と誠一は徹夫に薬を示して、
「これなぁんだ」
「あっ、こら、オイッ……!」
 ようやく事情が分かった徹夫は怒り出す…。ものの後の祭り、もうどうしようもない。
 どっちにしろ眠ったんだ、もう良いよ。
 そう言って徹夫は二人を許してくれた。
 地球が青いのが分かる。青い海と白い雲が、大きく偉大に見えても実は薄くはかなく、
弱い膜に過ぎないという事が、分かる。輪郭部がぼやけるのは、空気のため。
 こんな所に、生きてるのか。生きてたのか。薄いサランラップ一枚を通して外界と隔て
られる、深淵の中のこの星に。……生き物とは、はかないけれど、力強い。
 宇宙の青いオアシスだ。
 各国の言葉がしつこい様に行き先のステーションの名前とコマーシャルの商品名を連呼
しつつ、明たちを載せた宇宙連絡艇は確実に進む。順調順調。
 しかし明たちの行く先は本当に、平穏無事なのだろうか。
『(自分以外の)こいつらは、殺しても死なない様なやつらだから安心だとは言え、僕だ
けはデケリートな文明人。
 大丈夫かなあ(これは五人共通の思い)』
 全く、自分て奴を知らなさすぎるよ。ねぇ。
 実は宇宙の治安ってやつは、無法地帯程ではないが怖いのは事実。開拓地に特有な殺伐
とした気質、そして『自分の身は自ら守る』と言うウエスタン的な考え。まして宇宙では、
「どうやっても何とか生き残れるさ」
と言った地球上の大前提が通用しないのだ。
 明の行く末は正に運命のみぞ知る、である。


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