あたしの、はとちゃん


 あたしの、はとちゃん。

 明るいブラウンの髪が艶やかで、瞳は深く麗しく。基本おっとりした性質が、綺麗な容
姿を可愛く修正するのは望む処。胸が後少し大きければと言う人もいるけど、同様に余り
大きいと言えないあたしとしてはむしろよし。

 素直でからかい甲斐のある、あたしのおもちゃ1号認定機なんだけど。時々人を庇いに
空気も読まず、感覚頼りで飛び出したり。目を離せないというか放っておけないというか。

 出逢いは、小学校1年の二学期半ばだった。

 朝の会で先生の横に、一度短く切って今伸ばしてますという半端な髪型の女の子が俯い
ていて。人に向き合うのを怖れる様な、挨拶の声も口のもぐもぐで消える、大人しい子…。

 みんな転入生に興味津々で、両親のお仕事や兄弟姉妹や好きな食べ物などを聞き出しに、
席の回りに詰めかけて。やや体の大きな男の子が、後ろから肩に触れた時にそれは起った。

「いやあぁぁぁっ! ……怖い、怖いよぅ」

 後で聞いた話だけど、はとちゃんはその夏、お母さん以外の家族を失って、心に深い傷
を負っていた。ごく当たり前の事を思い返せず、思い返そうとする度『赤い痛み』に心乱
され、体が震え。過去を問うた男子から逃れようと、反対側のあたしに縋り付いたのは、
運命の偶然かも。でも、幼心にあたしがはとちゃんを受け止めて、関ると決めたのは偶然
じゃない。

 中々人に心開けず、俯いて縮こまって学校にいても終りを待って時を過ごす。お世辞に
も人付き合いの良くなかった当時のはとちゃんに、あたしが積極的にのめり込んだのは…。

 やっぱり、愛の一目惚れだと、想うのよね。
 微笑むと周りを華やいだ空気に出来るのに。
 本当は人も、人とお話する事も好きなのに。

 人と触れ合う事にもお話しする事にも怯え。
 1人心閉ざす様が儚く寂しげで切ない程で。
 落すと壊れてしまうガラスの器に似ていた。

 飛び散る破片を怖れて誰もが遠巻きに見守る中、あたしは破片にしない為に踏み込んで。
本当に心配なら、常に寄り添って支えなきゃ。本当に大切なら、この手で触れて助けなき
ゃ。少しおっとりして純真に過ぎ、騙され易くからかわれ易い可愛い女の子を、このあた
しが。

「いたい、いたい。赤い……赤いいたいのが。いたいよおおぉぉぉっ!」「はとちゃん
…」

 あたしにだって、妙案があった訳じゃない。
 同じ年の子供に出来る事などある筈もない。
 記憶取り戻す事も傷み拭う事も出来ないよ。

 でも縋り付かれたら放っておけないでしょ。
 こんな可愛い子が助けを求めてくれたのに。
 何も出来なくたって、抱き留めない訳には。
 力になるよと、肌身に伝えなきゃ。だって。

 はとちゃんの微笑み、本当に可愛いんだよ。
 怒って困って喜んで、時に潤む瞳も美しく。
 間近でそれを眺める毎日が、あたしの幸せ。
 それに関り触れて支える事があたしの幸せ。

 だからあたしははとちゃんが痛み苦しむ場から逃げ出せない。だって本当にその傷や哀
しみに向き合って、苦しんでいるのはあたしじゃない。あたしの、はとちゃんなんだから。

 小学3年で同じクラスになったお凜も含め、あたし達は3人で中学を過ごし女子高に通
い。その頃にはとちゃんも随分明るく伸びやかになって。赤い痛みに襲われる事も、昔を
思い返す事も少なくなって。あたしとの日々を沢山沢山、はとちゃんの記憶に刻み込んだ
から。

 もうはとちゃんが昔を思い返しても空っぽじゃない。あたしやお凜や他の友達との日々
をこれからも重ねて行って大昔を忘れさせる。はとちゃんを涙させ苦しめる空白を、あた
しとの想い出で埋めてしまう。昔じゃなくて今に向き合う様に、あたし奈良陽子が振り回
す。

 はとちゃんは、いつもあたしの一番だった。
 あたしも、はとちゃんの一番だったと想う。

 確かに口に出してくれた事はなかったけど、お凜と同着一位の怖れは残しつつ。はとち
ゃんも何かと携帯やメールで良く連絡くれたし。結構細やかなんだから、はとちゃん。で
も…。

 はとちゃんが時折ふっと見せる憂いには。
 為す術がないというより心臓を掴まれる。

 物思いに耽る様が儚く寂しげで胸が詰まる。怖い程綺麗だけど、この世の者じゃない様
な。半分向う側に足を踏み出した様な。目の前のあたし達じゃなく、別の何かを視ている
様な。

 自分は本当にここに居て良いの? って言う様な。なくし物を探さなきゃいけないのに、
何をなくしたか分らない感じ。言葉に出来ない喪失感が、本人も気付かない内に堪りに堪
って溢れ出そう。はとちゃんが突然手の届かない処に去って行って、失われてしまいそう。

 分っていても、何も出来ない。小学1年の夏より前を補う事も取り戻す事も、あたしに
は出来ない。痛みを忘れさせる事は出来ても、その傷をあたしは治せない。だからあたし
は。

 訳の分らない憂いじゃなく、目の前のコトに向き合わせ、確かな感触で引っ張り寄せる。
あたしが関り合う事で、はとちゃんをこっち側に繋ぎ止めたい。あたしの色に染め変えて、
日常の困り事や悩みや喜びの中に埋もれさせ。

「心のステディ陽子さんが、はとちゃんの為だけに送る愛の電波放送でも始めようかなー、
とか思って電話したんだけどねー」「うん」

「寝てたでしょ、はとちゃん」
「わ、……なんで分ったの?」

 携帯電話の向うから分る筈がないのに。
 はとちゃん、お昼寝最中だったみたい。

「まったく、大口ぽかーんと開けて寝てるんじゃないわよ。いい若い子が、はしたない」

「ええー!? わたし口なんて開けてた?」

 えーと、ハンカチ、ハンカチ。

「そっちじゃなくて、逆サイド」

 慌てて反対側を拭き取る様が脳裏に映る。

「取れた?」「……くくっ」

 そろそろ種明かしの潮時と言うより。
 こみ上げてくる笑いを堪えられない。

「……ぷはーっはっはっ」
「よ・ぉこ・ちゃーん?」

「いやいや、はとちゃんってホント面白いねー。さっすがあたしのおもちゃ1号認定機」

 この夏にお母さんを亡くしたはとちゃんは、必死に涙を堪えても、いよいよ切なく儚げ
で。煙の様に消えてしまいそうに、月の人に連れ去られてしまいそうに、脆く危うく感じ
られ。

 せめてあたしといる間は、その哀しみから目を逸らさせたい。そう想っていたのだけど。

「陽子ちゃんいらっしゃい、待っていたよ」

 はとちゃんの晴れやかに満ちた笑顔に内心驚かされた。お母さんを失った哀しみは消せ
てないけど、拾年来の憂いの影が薄れていた。自分の居所に確信を持てない感じが拭われ
て。

 はとちゃんは夏休み、祖父祖母もいない父方の田舎を訪れて、そこで結構な騒動に見舞
われたらしい。生命が危うかったとも聞いた。その末に出逢えた人や取り戻せた物も、大
凡。

 今はお母さんもいない筈の、アパートに乗り込むあたしは少し緊張気味だ。と言うのも、

「初めまして……奈良陽子ちゃんですね?」

 お母さん以外の家族を小学1年の夏に失い、夏にお母さんを失ったはとちゃん宅の奥か
ら、柔らかな声と共に現れたのは。この夏の数奇な経験ではとちゃんが取り戻せた最も大
きな。

「桂ちゃんからお話は伺っています。いつも桂ちゃんと仲良くしてくれて、有り難う…」

 あたしとほぼ同じ歳の髪艶やかな女の子が、はとちゃんの右肩に後から左手で軽く触れ
て、あたしにお辞儀を。傍で見ると、肌も艶やか。

「お会い出来て嬉しいわ……羽藤柚明です」

 動きが柔らかで綺麗だった。目を奪われた。
 背筋がぴんと張っているのに自然に滑らか。
 静かに優しげだけど、確かにそれ以上だわ。
 はとちゃんから経観塚の諸々は聞いたけど。
 週刊誌で騒がれている人だとも承知だけど。

「これからも、桂ちゃんのお友達で居て下さいね。そしてわたしも宜しくお願いします」

 はとちゃんのお母さんにも、少し似ていた。
 顔形じゃなく、姿勢や動きの基本が整って。
 はとちゃんの伸びやかさの隣で巧く控えて。
 これ程の美人が、隣同士でも競合してない。

「陽子ちゃん? 陽子ちゃん?」「ん…?」

 気付くとあたしの両手は、正面間近のユメイさんの両の手で、胸の前で握り合わされて。
暫く視界に、ユメイさんしか映ってなかった。あたしがはとちゃん以外の女に見とれるな
んてあり得ないのに。慌てるけど、頬を染めうろたえても、滑らかな手は離せず。という
か、あたしが握った侭放したくない。甘い香り…。

 ユメイさんは、そんなあたしを深い瞳で覗き込んで、微笑んでから手を解いて中に招き。

「ごめんなさい。玄関で立ち話させてしまって。越してきたばかりで全然片付いていない
けど、中へどうぞ」「お姉ちゃん、そんな気を遣う事ないのに。陽子ちゃんなんだから」

 ぼーっとした侭、あたしはいつもと勝手が違う気のするはとちゃんの家に上げて頂いて。
はとちゃん。あたしこの時、はとちゃんの家よりむしろ、ユメイさんに招かれたのかも…。


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 はとちゃんがクラスの剣道少女に頼み事をしたいと、あたしとお凜に付き添いを望んだ
のは、二学期になって数週間経った水曜日朝だった。はとちゃんが尻込みする気持も分る。
はとちゃんは胸も体格も小柄で性格も大人しい方だし、今迄体育会系の人に縁なかったし。

 松本美紀は身長百七拾参センチで烏月さんより高く、肩幅も体格も胸も立派で、筋肉質
な身体は高校生に見えない。セミロングの赤い縮れ髪に彫りの深い整った顔で。後輩には
美紀様言って勝手に慕う者もいるけど。思った事をずけずけ口に出す為か、剣道強くて有
名なのに、部活の鬼で同学年に友達は少ない。

 2人に接点はほとんどない。だからはとちゃんも付き添いを頼んだのか。でも、幾ら烏
月さんと仲良くなって剣に親しんだからって、学校の剣道少女に迄興味を抱くとは。あた
しという物がありながら。唯でもこの夏は強敵が多数現れ、はとちゃん争奪戦は激化中な
のに、これ以上余計な穴馬に現れて欲しくない。2人、余り気が合いそうには思えなかっ
たし。

「うん、良いよ」「昼休みでも話します?」
「ありがとー。陽子ちゃん、お凜さんっ…」

 あたしが仲立ちを断らなかったのは、1人でも最後ははとちゃん思いきって話しに行く
と分っていたから。むしろはとちゃんに寄り添いその頼み事迄、踏み込んで関るべきだと。

 間違っても2人が間違った方向に行ってしまわない様に、密かに美紀を牽制しなければ。
ひょっとして、お凜の承諾もその意図で…?

「剣道部に入りたい? あなた初心者よね」

 まず返ってきたのは忌憚のない答だった。

「遊び気分で、全国大会目指すウチの部に今から入って付いてくるの、正直結構辛いよ」

 はとちゃんは少し緊張気味だけど精一杯、

「2年の途中からじゃ、ダメかな? その」

 大会出たいとか、レギュラーなりたいとか、そう言うのじゃないの。唯強く、なりたく
て。

 剣道少女に頼み事という以上、あたし達を連れてお話という以上、恋の告白とかはあり
得ず、こういう話しだろうと想っていたけど。

「たいせつな人を守れる位、そこ迄行かなくても自分の身を守れる位には強く。せめて」

 誰かの足手纏いにならなくて済む位には。

 想いを語り始めると、はとちゃんは急速に真剣になって、傍に寄り添うあたしやお凜の
事も忘れ、目の前の美紀に全神経を注ぎ込み。美紀は少し驚きつつ訝しむ目線をあたし達
に、

「もしかして、誰かに虐められたりした? 確かに羽藤さんは小さくて大人しくてひ弱そ
うで、虐めには格好の標的だと思うけど…」

「ううん、そうじゃないの。わたしは別に誰にも虐められたりなんか、していないよ?」

 お凜の美紀への目線が心持ち冷やかなのは、はとちゃんへの美紀の言葉尻が気に入らな
い以上に、美紀のあたし達への嫌疑を感じた為。美紀は、あたしとお凜がはとちゃんを虐
めていると、この立会も監視の為かと、勘ぐって。

「なら、どうして急に強くなりたいだなんて思ったの?」「そ、それは……」

 はとちゃんが強くなりたいと想ったきっかけは、あたしとお凜には分る。経観塚の事は、
その他大勢に報せるべきではないとあたしも分る。だから淀むはとちゃんに、美紀はあた
しとお凜の前だから答え難いのかと目を細め。

「……羽藤さん……?」「……」

 経観塚で危険な鬼を前に、みんなに守られてばかりで。自分を守って他の人が傷つく様
を前に、何も出来なかった無力をはとちゃん、結構気に病んでいたみたい。何とか自分も
役に立ちたいと。唯襲われる贄ではいけないと。

 でもむしろそれは当たり前だ。鍛錬も何もない人が、鬼とまともに戦える方がおかしい。
烏月さんの様に修行するか、ノゾミちゃんの様に鬼になるかしないと対抗できる訳がない。
ユメイさんに自分の血を、致死量超えて与えたはとちゃんが。何も出来なかっただなんて。

 あたしだったら、例えこの血を少し与えれば味方が勝つと言われても、受けたかどうか。
怖さにその場逃げ出したかも。普通の人として普通以上に頑張っているよ、はとちゃんは。

 行き詰まりかけた話を打開したのはお凜で、

「今朝も先生に注意を促された、刃物持ちの不審者の件、憶えています?」「ああ…!」

 美紀はやや得心がいった表情で声を大きく。

「最近、帰宅途中のOLや塾帰りの女学生が襲われたって、あれ? あれで羽藤さん、自
分の身は自分で守らなくちゃって思ったと」

 お凜は何も補わず美紀の誤解に話を委ねる。

「本当迷惑よね。あのお陰で今あたし達の部活迄中断中なの。今週一杯は早めに下校です
って。こういう脅威と戦う為の武道なのに」

 それはともかく。美紀は腕組みをしつつ、

「熱意あるなら一度見学にきなよ。それで尻込みしないなら迎える。びしびししごいて」

 あなたの甘えた根性を叩き直してあげる。

「今週は部活中断だから、次の練習は来週月曜の放課後。怖くなければ羽藤さん1人で」

 帰りにはとちゃんのアパートに迄上がり込んだのは、ユメイさんの答が気になった為だ。
あたしはユメイさんに、はとちゃんを止めて欲しかった。お凜の様に静観は出来なかった。

 はとちゃんは可愛い顔に似合わず意外と頑固で、あの表情になるとあたしが何を言って
も絶対退かない。強くなりたいと言う想いは、経観塚での事情を知ったから、分るんだけ
ど。

『はとちゃんに武道や剣道は似合わないよ』

 美紀がはとちゃんのぽやぽやした今迄を好んでおらず、剣道部に入ったら最後、人格改
造する姿勢が見えた。あたしのはとちゃんが戦うマシーンにされちゃう。あたしが剣道部
に割り込んでも全国級の美紀には勝てないし。

「羽藤さん、柚明さんには相談しました?」

 お凜の一言が、猫まっしぐらのはとちゃんに僅かに引っ掛りを残した。お凜もあたしと
同じ印象抱いていたのかも。アイコンタクトもなかったけど、お凜とも長い付き合いだし。

「忘れていた。一応お話ししておかないと」

 武道と言っても学校の部活で危険も少ない。はとちゃんは帰りが遅くなるとご飯時間に
響く位を考え、一言承認を貰えれば良い感じで。あたしはユメイさんが前向きなら、反対
を求めて良くない印象を添える積りで居たけれど。

「桂ちゃんは……鬼切部に、なりたいの?」

 烏月さんの様な人を守れる強さが欲しいと言う話を聞いたユメイさんの答は問い返しで。

「え……う。そこ迄、強くなりたいとは…」

 双子のお兄さんは鬼切りの奥義を究めたらしいけど、はとちゃんは全くの素人だ。余り
大きな目標は恥ずかしい様で、少し考え込み、

「たいせつな人を守れる様になりたい。せめて誰かの足手纏いで、守られっぱなしは嫌」

 買い物や遊びに行った先で、葛ちゃんや陽子ちゃんが犯罪者や鬼に襲われた時、助け出
せる強さが欲しい。逆にわたしが襲われ人質にされ、誰かを困らせ足手纏いになるのは嫌。
世の中どこで何があるか分らない。たいせつな人は失いたくない。その為にわたしも強く。

 想いを一通り語り終えた後ではとちゃんも、微かにあたしと同じ印象を、感じたのだろ
う。

「……お姉ちゃんは、わたしが剣道部入るのには反対?」「いいえ、そんな事はないわ」

 湯呑みを、両手で持って口元に運び、テーブルに置く。はとちゃんの落ち着きを待って、

「桂ちゃんが望んで為す事にわたしに反対はないわ。たいせつな人を守る強さを求める事、
人を守りたく想う事は素晴らしい事よ。桂ちゃんは本当に、賢く強く、優しく可愛い子」

 繊手を伸ばして、はとちゃんを抱き寄せ。
 滑らかな首筋に逆らわない左頬を当てて。
 幼子にする様にぽんぽんと軽く頭を叩く。

 はとちゃんは猫の様に瞳を細め、まるで。
 恋人との語らいか、幼子との寝物語かで。
 あたし、邪魔にもされてない。全く空気。

 でも。そこで一度ユメイさんはあたしに瞳を向けて、忘れてないよと言う感じの笑みを。

「それで桂ちゃんが望む強さが手に入るかどうかには、少し考える余地があると想うの」

「剣道部では……わたし、強くなれない?」

 判断が間違っていたかと不安げな表情に。

「強くはなれると想うけど……。そうねぇ」

 折角招かれたのだし、剣道部の活動を見学していらっしゃい。来週の月曜日だったわね。

「烏月さんと深く結ばれた桂ちゃんなら、幾つか気付くと想うの。松本さんにはその場で
確定の答は返さず、家の人に相談しますって。最後の答は桂ちゃんの意思にお任せだけ
ど」

 想いを確かに抱くなら答は必ず見通せるわ。


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 その週末は何かと色々大変だった。木曜日朝から具合悪くて、無理して学校行ったけど、
昼前に早退し。熱が出て咳が出て、典型的な風邪だった。一日寝込んで翌金曜日も学校を
休み。休みが来るのは待ち遠しいけど、体調不良の休みは嬉しくない。2時頃だったかな。
買い物帰りの母さんから、スーパーでユメイさんに会ったと聞いた。互いに主婦で同じ学
区内に住む以上、逢うのは全然おかしくない。

 こっちに来た当初は、『拾年行方不明で』『その間全く歳を取ってない』『奇跡の人』
に群がる取材陣が凄かったっけ。先週頃から漸く数も減って静かになったけど。行く処行
く処付いて来て、家の前に張り付いたり大声で反応を求めたり、失礼通り越して私生活侵
害だったけど。ユメイさんは近所迷惑を気に掛けつつ、彼らの事情も理解して丁寧に取材
に応え信頼関係迄作り。中には陰口や酷い噂や中傷記事書いた処もあったのに終始冷静で。

 母さんもそういうユメイさんを優秀な主婦の新入生に迎え入れている様で、寝込んでい
たあたしにもその情報を。行き会っている最中に、はとちゃんから携帯で連絡があって…。

 お凜の家に泊るだぁ。あたしを抜きにぃ。
 許せません。抜け駆けは絶対許せません。

 あたしに情報が入ったのは正に天啓です。
 阻止なさいとのオハシラ様のお告げです。

 お凜の習い事のスケジュールは抑えてある。今日は外に出向く筈だ。お凜を尾行すれば
2人を捕捉できる。寝込んでなんかいられない。

 お凜は意外にも、夕刻はとちゃん宅の近くのハックで合流。奇妙にも2人で自宅を隠れ
て盗み見て。缶コーヒー片手のあれって刑事ドラマごっこ? 日没前でも暗がりを選んで
ノゾミちゃん迄顕れ。何か話す内にはとちゃん、ノゾミちゃんに抱きついちゃってもう!

 家から出たユメイさんを尾行する3人を追う。ユメイさんの行き先が問題らしい。暗い
街角は人気も減って、少し怖くなってきたけど。今更ここで引き返す訳にも行かないよっ。

 拾キロ近く歩いた末に、小高い丘の神社にはとちゃん達も踏み込んで行って。電気も消
えて人もおらず、夜の神域は呪いの儀式にも使われ怖いと聞いたけど。女は度胸と愛嬌よ。

 石段を登る内に上の方に青い輝きが見えた。あれがオハシラ様の力、贄の血の力なのか
な。はとちゃんの方が血は濃いけど、使い方を知らないんだっけ。真っ暗なので足下不確
かだけど、何とか上迄辿り着いて草藪に身を隠す。いたのははとちゃんと、ユメイさんと
お凜と、ノゾミちゃんだ。良く透る声はユメイさんの、

「贄の血の匂いを隠す結界を張っていたの」

 お凜ちゃんも桂ちゃんの身体を流れる血が、鬼に好まれ鬼を招く贄の血だという事は知
ったわね? ノゾミちゃんの宿る青珠が血の匂いを隠すお守りで、経観塚にはご神木を中
心に村を覆う規模で血の匂いを隠す結界がある事も。桂ちゃんのお母さんがアパート周辺
に呪符で結界を作った事も、わたしが繕ったそれをノゾミちゃんが補修して作り替えた事
も。

「……ゆめい、あなたまさか?」

 ノゾミちゃんの声が挟まって、

「途中迄しか追えなかったけど、あなたが昨日行った方角はこっちでなかった。ゆめいあ
なた近辺の神社に力を注いで結界の柱に…」

 ユメイさん、はとちゃんの為に数夜掛けて、町を覆う規模ではとちゃんの血の匂いを隠
す結界を作っていたんだ。でも幾らユメイさんでも、そんな大きな物を作るのは大変でし
ょ。

 それで理解できたとノゾミちゃんの声が、

「力の消耗は、戦いの所為ではなかったのね。それはすっかり寂れて力を失い俗に塗れた
神社を、結界を支える柱に為す為に、呪物に戻そうと力を流し込んだ結果だと。そう言
う」

「わたしの力は癒しも兼ねるから。衰微したご神体に力を注いで、神域の力を呼び戻し同
時にわたしが望む結界の一翼をお願いして」

 この広さを覆う結界の柱には、相応の力が要る。神域その物を結界の柱に。今の世では、
神社も朽ちたり俗に染まっているから、まずご神体を賦活させないと。でも管理する人が
いる建物に、日中入り込むのは無理があるし、遠隔でこの様に力を注ぐなら夜でなければ
と。

『それでユメイさんが夜な夜な出掛け、気付いたはとちゃんが心配してお凜に相談を…』

「経観塚の結界と違って人払いの効用はないし、害意を持つ鬼を弾く効果もない。唯贄の
血の匂いを紛らわせ、感じ取れなくするだけ。でも、これで桂ちゃんは青珠がなくてもこ
の町内で贄の血の匂いを悟られる心配がない」

 流れ出て青珠の守りを外れた贄の血も勘づかれない。贄の血は、身体の外に流れ出ると
乾く迄匂い続けるけど。病院で手術した時も調理実習で指を切った時も、大丈夫な様にと。

「完成する迄は秘密にしておきたかったの」

 喜んで欲しいのと、驚かせたかったのと。

「これがわたしからの誕生日のプレゼント」

 はとちゃんが息を呑む様がここ迄伝わってきた。なる程、今迄隠していたのはそういう。

「わたしは社会復帰の準備中で、生活費も入れられてない。わたしは今桂ちゃんに養って
貰っている。作って贈るにも、材料を買うお金さえ桂ちゃんのお金。今わたしが桂ちゃん
に形のある物を贈る事は、叶わない。だから、少しでも桂ちゃんの日々に役に立てる何か
を。
 完成が、少し遅くなってしまったけど…」

 似た言葉の連なりを少し前に聞いた気が。

「拾七歳の誕生日、おめでとう。桂ちゃん」

 でもその反応はあたしにも予想外だった。

「心配、したんだからっ……!」

 はとちゃんは喜びより叱声の方が先に出て、ユメイさんの胸に飛び込み抱き留められつ
つ、密着した胸を自身の両手拳で軽く何度も叩き、

「お姉ちゃんが、不審者の刃に襲われているんじゃないか、鬼と戦って生命が危ういんじ
ゃないか、凄く凄く心配だったんだから…」

 不安で、怖くて、胸張り裂けそうで。お凜さんとノゾミちゃんに寄り添って貰わないと、
怯えを抑えられなかった。折角こうして取り戻せたのに、漸く一緒になれたのに、何も言
わずいなくなって、夜に1人取り残されると、経観塚のご神木のあの時を想い出しちゃ
う!

 この肌触りもこの暖かみもこの愛おしさも、幻じゃないって毎日毎夜証明してくれない
と。

「滑らかな手で髪を梳いてくれないと、素肌で抱き留めてくれないと、唇で触れてくれな
いと。全部疑わしく思えちゃう。全部錯覚に思えちゃう。この拾年の記憶が一瞬で崩れて
嘘と分った様に、柚明お姉ちゃんといる今が明日には崩れてなくなっていそうで、怖い」

 柚明お姉ちゃんはわたしの為に全部を抛つ人だから、何もかも捧げる人だから、いつも
一緒にいてくれないと、儚くて信用出来ない。尽くしてくれた事実がわたしを怯えさせる
の。

「お願い、居なくならないで。その為ならわたしどんな良い子にも悪い子にもなる。お姉
ちゃんを失わない為ならどんな事もするから。わたしの前から消えたり去ったりしない
で」

 こりゃ、出て行こうにも出て行けないよ。

 本当にはとちゃん、ユメイさんへの愛が激しく強く。幾らお母さん亡くしたばかりでも。
親戚もいない天涯孤独でも。傍で見る者の魂迄引きずり込む強い想いは、家族の愛では…。

「ごめんなさい、桂ちゃん。心配かけて…」

「あやまらないで!」

 はとちゃんの涙混じりの大声は、ユメイさんの更なる抱擁や宥めを引っ張り寄せる為だ。

「柚明お姉ちゃんは、わたしに謝る様な事は決してしない人だから。謝る様な事しちゃ駄
目。わたしをこれ以上、心配させないで!」

 謝ってなんか欲しくない。柚明お姉ちゃんが謝ってくれるの、とってもとっても嬉しい
けど、何度でも謝って欲しいけど、でも謝る様な事にならないのが一番。日々平穏が一番。

 叱っているのか縋っているのか、両方か。

「わたしを、わたしをずっと放さないで…」

 魂からの求めが分る。そしてそれを求められた一番の人は、はとちゃんの身も心も、柔
らかな頬も、胸の内に招いてぴたと抱き寄せ。

「桂ちゃん……有り難う、心配してくれて」

 悔しかった。無性に悔しかった。はとちゃんにそこ迄想って貰えない事ではなく、はと
ちゃんをそこ迄想えてなかった自分が悔しい。 あたしの想いに今一番近かったのは多分、

「好い加減に離れなさいな、あなた達っ!」

 尚はとちゃんを諦めないノゾミちゃんで。

「ここで為すべき事が終えたなら、もう帰るわよ。凜も陽子も私も、あなた達の抱擁に朝
迄付き合わされるのは、真っ平ご免だわ…」

 結局私はこの数夜道化じゃない。折角組み直した結界は、ゆめいの結界の中で丸々無意
味で。あなたの誕生日ぷれぜんとは良いけど、私のぷれぜんとは不出来な役立たずになっ
た。

「そうじゃないわ、ノゾミちゃん……」

 ユメイさんははとちゃんを放しつつ、

「あなたが作ってくれた結界も、使わせて欲しいの。わたしが張り巡らせた広い結界の支
柱の一つとして。強く確かな想いだから…」

 あなたが桂ちゃんを想ってくれる心も生かしたい。その想いが織りなす力も生かしたい。

「良いわよ。それがけいの為になるなら…」

 それで私の結界も、けいの役に立つのなら。あなたの結界の支えになるのは不本意だけ
ど。

 ぷいと横を向いて了承するノゾミちゃんに、

「わたしとあなたの桂ちゃんの為の結界よ」
「……そう言う事に、しておいてあげるわ」

 ノゾミちゃん、人馴れない猫の子みたい。
 その返事を受け止めてからユメイさんは、

「お凜ちゃんも、身体が冷えたでしょう…」

 今度はお凜を抱き留めていて。お凜も戸惑いつつ拒む様子もなく、正面から背に柔らか
な腕を回され、滑らかな肌に軽く抱かれてっ。

「わたくし、その、羽藤さんの目の前で…」

「大丈夫よ。わたしの一番は桂ちゃんだけど、お凜ちゃんも特別にたいせつな人だから
…」

 桂ちゃんの為にここ迄夜道を共にきてくれた。身を冷やさせた。それはわたしが補いた
い。想いには想いで返したい。わたしは幸いあなたに返せる力を持つ。例え力がなくても
わたしはこうしてあなたを抱き留め温めたい。

「あなたは桂ちゃんのたいせつな人だもの」

 何というか、もう割って入る隙間がない。

「羽藤さん、その、申し訳ありませんが…」

「……もう、柚明お姉ちゃんはっ」

 はとちゃんは染めた頬を少し膨らませつつ、その抱擁を静かに眺め。声音も様子も落ち
着いて。ユメイさんがいるだけで、今のはとちゃんは充分みたい。ユメイさんはそこ迄は
とちゃんを分っている。お凜がふと気付いた感じで首を捻って、ノゾミちゃんに声を掛け
て、

「そう言えば、ノゾミさんさっき、奈良さんと言いましたかしら?」「ええ、言ったわ」

 あなたも、薄々感じては居たのでしょう。
 ここであたし出番? こんな展開の末に。

「あなた達を更に尾行する気配の存在を…」

 って言うか、ノゾミちゃんもユメイさんも気付いていた? あたしピエロの中のピエロ。

「拾メートル後方の藪に潜んでいるわ。出るきっかけを失って、どうしようか困っている。
 風邪引きを無理して出てくるから、呼吸も乱れ気配も漏れ放題で見つけて下さいって状
態よ。話がややこしくなりそうだから、向うから割り込んでこない限り放置していたの」

 ああもう。あたしの完璧な筈の尾行迄が。

「陽子ちゃん、どうやって今夜わたし達を」

「きっと母親から聞いたのよ。けいがゆめいに携帯で泊ると告げた事を知って、自宅を抜
け出して、習い事に行く凜の後を付けたのね。陽子の気配を感じたのは夕食時以降だし
…」

 心配なのか嫉妬なのか、己が外された事に納得行かなかったのね。体調管理の失敗とそ
の性分が原因なのに。まあ、無理を押して来て目の前であの抱擁では、流石に少し可哀相。

「可哀相に想ってくれるなら、あたしにもはとちゃんとユメイさんの愛をちょうだい!」

 笑いを取りに出る他にポジションがない。
 そう想って藪から顔を覗かせたのだけど。

「ノゾミちゃんも、気付いていたみたいね」
「当たり前よ、凜やけいと一緒にしないで」

 浮いた現身で胸を反り返らせるノゾミちゃんに、ユメイさんが平静な声音で更に続けて、

「陽子ちゃんの背後に隠れた、刃物を持って頭からストッキング被った男性の気配も?」

「「「「えっ?」」」」

 ユメイさんを除きあたしも含む4色の驚きの声が上がった瞬間、背後の藪から突如6人
目の人物が立ち上がり、右手で月光に照り返される白刃を見せ。振り下ろせば刺さる程刃
は近かった。あたしが腰が抜けた為に姿勢が低くなって、刃は僅かに遠のいたけど。あた
しを更に尾行する者がいるとは予想外だった。

「ひ、ひぃ、ひいぃぃいいぃ!」

 動けなかった。真剣な害意の前には、普段の元気が百分の一も出てこない。唯震えて数
秒蹲って。あと半歩で刃は届いた。はとちゃん達がみんな女の子なので頭数にも怯まない。

 誰の助けも間に合わない。お凜達の処迄僅か拾メートルの隔りが、半歩で済む刃との開
きが、埋められなくて。でも例えそこ迄逃れられても、女の子のあたしでは後が続かない。
撃退も逃走も、どっちもまともに出来ないよ。

「陽子ちゃん」「奈良さんっ」「陽子っ!」

 この時ノゾミちゃんが鬼の力を見せつけた。はとちゃんとお凜の声に乗った様に、ノゾ
ミちゃんは一息で、十メートルの隔りの半ばを詰めて、小さな右手を男性の顔に突きつけ
て、

「目障りだわ。大人しくして頂戴」

 赤い紐が伸びて男性の手首に、喉頸に肩に生き物の様に強靱に巻き付いて行く。それが
ノゾミちゃんの力だった。紐は更に数を増し、刃を振り上げた侭で不審者は動きを止めら
れ。

「危ない処だったわ……害意が見えたもの」

 赤い紐を左手で軽く引き、弾力で確かにそれが男性の身体を拘束していると確かめつつ、

「先に気付いていたならあなたが陽子の身の安全を配慮しなければ、ってゆめいあなた」

 その声で漸く、あたしは男性の刃に晒された身に覆い被さる、柔らかな感触に気付かさ
れた。あたし、ユメイさんの身体で守られて。

 ノゾミちゃんは何とか動きを追えたけど。

「柚明お姉ちゃん、どうやってあそこに?」

 ユメイさんに気付けたのはこうなった後。

 その体勢は、ノゾミちゃんの紐が不審者を止めてなければ、あたしの代りに刃を受ける。

 左頬同士をぴたりと重ね耳に注ぐ囁きは、

「怖い想いをさせちゃって、ごめんなさい。
 身に害が及ばない様には、したのだけど」

 わわわ。柔らかな感触が背中に脇腹に心地良いよ。と言う事はあたしの感触もユメイさ
んに? でも、恥ずかしいより今はあたし…。

「刃持ちの男を分ってゆめいが、手を打たない筈がない。無駄に力を揮ってしまったわ」

 男の周りを、光のちょうちょが舞っていた。淡く白く輝く綺麗な結晶。ユメイさんは害
意持つ脅威を知って放置はしない。あたしも不審者も既にユメイさんのちょうちょに付き
添われていた。害意を為す瞬間それは彼の気を失わせる。ノゾミちゃんが力を及ぼす前か
ら、その必要もなく、みんなは常に安全だったと。

 男性は心ここにあらず、立ちつくした侭だ。
 お花の様な甘い香り。これ、香水じゃなく。

「ゆ、ユメイさん……?」

「そして有り難う。桂ちゃんを、わたしを心配して、病を押してここ迄来てくれたんでし
ょう? 危険が潜むかも知れない夜に1人」

 柔らかに優しい声が、張り詰めた何かを緩める。恐怖も寒気も震えも怯えも、どこ迄も
受け止め融かしてくれる暖かさが肌に染みて。

「うっ、ひっ、あうぅっ、ユメイさん……」

 涙とは、泣いて大丈夫と分ってから溢れる物かも知れない。受け止めてくれる人がいる
から遠慮なく流せる物なのかも。こうしてお母さんに泣きついた最後って、何年前だっけ。

 もうこうなれば遠慮は無用だ。今宵ははとちゃんじゃなくユメイさんの柔肌に頬を埋め。
肌を擦り込む程、お花の甘い匂いが強く香る。

 静かな声はこの世の物と思えないけど、声紡ぐ度に肌が微かに動いて確かな肉感を伝え。

「今回の事はわたしが原因だから。風邪引きのあなたを夜歩きさせたのも、結局わたし」

 心配させて、無理をさせて、怖がらせた。

「せめてその償いに、わたしの想いと力を」

 今のわたしは風邪位なら治す事も出来る。
 無理して疲れて冷えた身体を、癒させて。

 みんなの前だけど、背に回るユメイさんの締め付けが強くなる。柔らかな体がより緊密
に重なって、温もりと想いが繋って。青白い輝きと甘い花の香りと、強い情愛に包まれて。

 はとちゃんという物がありながら、あたし、烏月さんに続きユメイさんに迄強く心惹か
れちゃったみたい。意外とあたしって浮気者?


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 月曜日朝元気に登校したはとちゃんとあたしとお凜の前にいたのは、左腕を包帯で吊っ
た美紀の自信喪失な姿だった。美紀が金曜日学校休んだという話しは、お凜に聞いたけど。

「あなたに剣道やっている姿を見せつける積りだったんだけど……思惑、外れちゃった」

 美紀は木曜日夜に不審者に襲われ怪我を負っていた。学校で部活が出来ず、代りに近く
の道場で遅く迄練習した帰りらしい。あたしが襲われて、ユメイさんに守られた前の夜だ。

「ナイフ持ちの不審者なんか、撃退できると思っていた。竹刀の方がリーチ長いし、日頃
鍛錬重ねているし。あなた達の様に助けを求めて叫ぶ他に術のない弱者と違う。私には剣
がある。拾時過ぎても一人歩きでも、周囲に人気なくても怖くなかった。他校の不良を何
人も叩き伏せた事もあるし、男1人位って」

 でも。実際に遭遇した殺意は次元が違い。
 正面から歩み寄ってくる人影に声も出ず。

 竹刀振り回してもナイフで腕を切られて。
 取り落した後はもう拾う事も出来なくて。
 殺意に腰が抜けて四つん這いで逃げ出し。

 公園の藪に身を隠して息を潜めて震えて。
 ガタガタ鳴り出しそうな顎を必死で抑え。

「生きた心地がしなかった。心構えも何も役に立たなかった。唯怖くて、怖くて怖くて」

 何時間潜んでいたか分らない。もういなくなったかと草藪から首を出すと。ストッキン
グ被った男は間近で血の付いた刃を振り上げ。

「もうダメかと想った時、白い光に照された。何があったのか分らない。車のライトとと
も違う、月明りの様な輝きが目の前を覆って」

 動きが止まったその直後。視界が開けると。

 男の顔に白い光が張り付いて見えた。何かは分らないけど、視界を塞がれて男は狼狽え、
暫く動けずに。急に足腰が立つ様になって私、必死で駆け出して後も見ず一目散に逃げ帰
り。

「不審者は土曜日未明に捕まったらしいけど、私の一件があった為に剣道部は当分活動停
止。見学どころか入部しても何も出来ないわよ」

 活動再開したら見に来ても良いけど。この無様見て、強さ求めて剣道部入る気にはなれ
ないでしょう。期待を空振りさせて悪いわね。

 いつになく悄然と歩み去る美紀の背を眺めつつ、はとちゃんはやや残念そうに肩を落し、

「そんな事があったんだ」「先週金曜日の羽藤さんは、柚明さんで頭が一杯で、とてもお
話しできる様子でなかったので」「あ…!」

 お凜に言われて改めて思い返し頷くはとちゃんの頬の赤さはともかく。それを見つめる
お凜の頬も染まるのはどうして? と言うか、どうしてあたし迄ほっぺた熱くなっちゃう
の。

 断る前に見学前に自然消滅した経緯の報告に付き合う為に、帰宅時はとちゃん宅に寄る。

「……そう。じゃあ、剣道部は諦めるの?」

 四角いテーブルを囲んであたしははとちゃんの右、ユメイさんははとちゃんの左に座り。

「うん……。学校の部活は結局道場剣法だよ。真剣勝負には役に立たない。わたしの欲し
い強さは試合とか練習での強さじゃないもの」

 美紀さんは、他校の不良を何人もやっつけたり、全国大会を勝ち抜く位強いけど。結局
部活の剣道は一対一で、女同士、高校生同士、剣と剣限定の、フェアプレー前提の競技だ
よ。生命の危険を前に冷静に戦える覚悟迄はない。

「幾ら強く鍛えても、美紀みたいに竹刀落したらお終いだしね。剣を落した時の為の蹴り
技とかパンチとか、逃げ足とか目眩ましって、剣道部でも道場でも教えてくれないでし
ょ」

 あたしの突っ込みにユメイさんも頷いて、

「先日烏月さんが桂ちゃんに逢いに来た時を、憶えている? 維斗を持ってなかった事
に」「ああ、そういえば! 持ってなかったね」

 はとちゃんが今思い出したと大声出すのに、

「烏月さんも鬼を切りに出向く時だけなのよ。鬼切部も四六時中刀を持ち歩く訳じゃない
の。たいせつな人を守る為に剣道習うのは反対しないけど、部活や遠征試合はともかく、
陽子ちゃんや葛ちゃんと買い物や遊びに行く時迄、桂ちゃんは木刀や竹刀持ち歩く積りな
の?」

 はとちゃんは、意外と用意周到ではない。

「確かに、そうだね。かさばって重たいし」

 ユメイさんははとちゃんの苦笑に微笑みで応えてから、珍しくやや締まった声と真顔で、

「犯罪者や鬼は時も場も選んではくれない」

 剣道も無駄ではないけど、剣のない時や使えない時、折れた時の事も考えて置かないと。

「無手の技も鍛えておくべきって事ですか」

 あたしの問にユメイさんは頷くけど、瞳ははとちゃんを正視した侭で、少しも逸らさず、

「長物がないと使えない剣道より、空手や柔道、合気道、少林寺拳法やレスリングの方が、
守りにならいつでもどこでも使えて確かよ」

「武道って言うより、格闘技に近い感じ…」
「後ろ二つは和風伝奇からも外れてますよ」

 2色の声にも静かに優しげな真顔で頷き、

「お侍の時代と違って、今この国では普通の人は、竹刀も持ち歩かないのが標準だから」

 烏月さんが剣道部に属しているのは、剣道を習う為じゃないって、先日逢った時に陽子
ちゃんも桂ちゃんと一緒に聞いたでしょう?

 ええ。あたしは黒髪の麗人を想い返しつつ、

「その強さを剣道のお陰とごまかしたり、遠征の名目で鬼切りに行ったり、木刀袋で維斗
を隠したり。剣道を本気でやっている人には非礼な話しだって、苦笑いしていましたね」

「経観塚で逢った時も、オハシラ様のお祭りの関係者だと匂わせて、その為の祭具って事
にしていたものね。烏月さんの刀剣所持に違和感を感じていたのを、随分忘れていたよ」

 いつでもどこでも出せる強さでなければ守りには使えない。ユメイさんの言う事が分っ
てきた。あたし達の理解と落ち着きを待って、

「人を切る事、生命を絶つ事、生命を絶たれる事を想定しない人が、幾ら剣道を極めて大
会で勝ち抜いても、非常の場では使えない」

 その位剣道と剣術の間には深い溝があるの。
 技や動きではなく心構えや覚悟が違うのよ。
 剣道では己を守るにも人を守るにも力不足。

「それで強くなった気になって鬼や犯罪者に立ち向かったりしたら、それこそ危ないわ」

 ユメイさんの心配は、そこにあった。確かにはとちゃん、時々人を庇いに空気も読まず、
感覚頼りで。剣道習って強くなったと錯覚したら、本当に真剣の前にも飛び出しかねない。

「桂ちゃんがもし本当に剣の強さを望むなら、剣道ではなく剣術を、烏月さんに習うべき
ね。
 今の桂ちゃんがそこ迄求めてないなら…」

 ユメイさんがはとちゃんに手渡した紙は、

「防犯講習会……女子供でも出来る簡単な護身術。今週水曜日夜7時、第2町内会館で」

「このチラシならウチにも来ていましたよ。
 最近少し物騒だから防犯対策しようって」

「武道を学ぶにせよすぐには身につかないし、簡単に身を守る術を学べるなら、まず行っ
て習うのも一考だと想うけど、どうかしら?」

「千里の道も一歩から、だね」

 ユメイさんの勧めをはとちゃんが断る筈もなく。こっくりと、可愛く確かに頷いてから、

「お姉ちゃんも来てくれる?」
「ええ。桂ちゃんが望むなら」

 はとちゃんの求めをユメイさんが断る筈もなく。そして例え誘われなくたって、はとち
ゃんが行く場所にあたしが行かない筈もなく。あたしのはとちゃんは、こうでなくっちゃ
ね。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 第2町内会館には、主婦やOLらしい女性、大学生や中学生、少しの男性も含め五拾人
近い人が来ていた。ウチの学校からもお凜とか、はとちゃんと同じ委員会の益田貞子先輩
とか。

 奇跡の人のユメイさんは、町内で随一の有名人だから、こういう場では何かと話しかけ
られる。ユメイさんが物腰柔らかく応対する横で、あたしははとちゃんをお凜から強奪し。

 講師は髭を生やした屈強な体格の男性達で、

「まず後ろから、両腕で掴み掛られた時…」
「両腕も抑えられて、身動きできませんね」

「でも大丈夫。背筋を伸ばし相手の顔に後ろ頭突きです。思わず腕が緩まる時、踵で相手
のつま先を踏み抜く。これは結構痛いです」

「さ、2人一組で襲う側と襲われる側になって実践してみて下さい。やり過ぎると相手に
怪我させますので、その点だけ気をつけて」

「宜しくお願いします」「お手柔らかに…」

 お凜にユメイさんを任せる間、あたしは、

「陽子ちゃん、何か笑みが邪悪」「え…?」

 これは感づかれる前に襲ってしまうべき。

「後ろから行くよっ!」「わ、少し待って」
「待てと言われて待つドロボウはいません」

 後ろから両腕ではとちゃんの身体を抱き竦める。これから反撃という処であたしは耳に、

「昨夜もユメイさんと同じ布団で寝たの?」

 想像するだけで赤面しそうな言葉を流し。
 揺さぶりを掛ける。簡単には外させない。

 後ろからでも、ここ迄はとちゃんと密着できるチャンスは多くない。ここは目一杯はと
ちゃんと、肌身合わせようではありませんか。

「ね、寝てないよ。昨夜は」「昨夜はぁ?」

 否定の声が少し裏返っていた。あらら、意外と急所に近い処に刺さってしまったみたい。

「じゃあ、一昨日夜はどうなのさ」「え…」

 はとちゃん、護身術も頭から吹き飛んで。

「ほらほら、はとちゃん。素直に白状しないとこの腕解けないぞぉ」「よーこちゃん…」

 はとちゃんってば、たった今習った護身術を忘れて頬を赤く染め。可愛い。可愛すぎる。
困った表情も恥じらう様もキューティーだよ。

「ユメイさんと2人ではとちゃん一体、どんな夜を過ごしているのさ。はとちゃんの一番
の人として、是非全て知っておかないとっ」

「な、何にも。特別な事なんて、何一つ…」
「へー、はとちゃんの特別な事って、何?」

 囁きを流し込む耳朶迄真っ赤で、こっちに恥じらいが移ってきそう。少しやり過ぎかな。
周りの人も視線を向けて来たし。はとちゃん最近余りに幸せそうで、ついからかいたく…。

「一昨日と一昨昨日は桂ちゃん、わたしと一緒のお布団よ。昨日は別々だったけど…?」

 静かな声が右耳に、後ろから囁きかけて心臓を止めた。暖かな息が肩と首筋を震わせる。

「依存心植え付けては良くないから、一応布団は別の部屋に敷くけど。桂ちゃんはお母さ
ん亡くして日が浅いし。人肌恋しい時はいつでもいらっしゃいって。わたしはいつでもど
んな求めでも、桂ちゃんの望みは拒まない」

 肌を合わせ、瞳を見つめ、肩を寄せ合って。
 とりとめもないお話して、息吹を感じ合う。

「お望みなら今度陽子ちゃんも良いわよ?」

「わわっ、あ、あたしもっ? あ、あの…」

 はとちゃんを拘束していた腕が解けていた。
 あたしがはとちゃんを捉まえてから数分か。
 ユメイさんの囁きは参拾秒もなかったかも。
 周囲の人も何があったかよく分らない内に。
 お凜だけは、あたしの手を引いて冷やかに。

「奈良さん、思い切り護身術して宜しい?」
「あ、はは。ははは。お凜、お手柔らかに」

 あたしが離れたのを見て、講師の男性は、

「じゃ羽藤さんはお姉さんとペアを組んで」

 あだだだだだっ。何か教わった護身術とも違う技で痛い気がするあたしの横で、今度は
はとちゃんが襲う側で、ユメイさんが実践を。はとちゃんが、えいっと左右の腕で後ろか
らユメイさんを抑えると言うより抱き締めると、

「お姉さん……良いですよ。護身術……?」

 ユメイさんがはとちゃんに掴まえられた侭、暫く動かない。実践を促す講師の男性の声
に、

「あの……出来ません……」「はい……?」

 ユメイさんが困惑を見せるなんて珍しい。
 講師やあたしや近くの人の疑問符を前に。

「その……出来ないんです」「お姉ちゃん」

 はとちゃんはパチパチ瞬きして首を傾げ。
 さっき迄お凜と順調にこなしていたのに。

 はとちゃん、唯抱きついた積りで意外と変なツボ抑え、身動き取れなくしちゃったとか。

 ユメイさんは身動きせずやや俯き加減に。
 何か本当に困った感じで声音も恥じらい。

「わたし、桂ちゃんに掴まえられると、反撃できません……痛い想いは、させられない」

 関係者というより周囲のみんなが頬を染め、広い筈の会場が妙に狭く感じた秋の夜だっ
た。


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「……もう! 陽子ちゃんはともかく、柚明お姉ちゃんまで、あんなこと言うなんてっ」

 帰り道、はとちゃんは一応むくれて見せたけど、実はそれ程怒っていないと見え見えで。

「ごめんなさいね、桂ちゃん……」

「いーじゃない、減る物じゃなし」

「減るよ。陽子ちゃんへの愛とか」

 一瞬怯むけどそこはポジティブシンキング。

「愛? はとちゃん、あたしに愛を抱いていてくれたの!」「ま、まあ。それなりには」

 町内会館から家迄、あたし達は夜道を歩く。秋の夜9時は暗く人気もないけど。不審者
は捕まったし、ユメイさんとノゾミちゃんがいれば鬼が出ても怖くない。4人でお散歩の
夜も望む処で。車で帰ったお凜が気の毒な位だ。

「はとちゃんサンキュー。今日ははとちゃんから愛の告白も貰えて、良かったよぉっ…」

 講習会でやった様に後ろから抱きついた。
 はとちゃんの暖かな柔らかさが心地よい。

「……もう、陽子ちゃんったら」
「桂ちゃんは本当に可愛いから」

「陽子もゆめいもけいにべたべた張り付き過ぎよ。全く年頃の小娘が恥じらいもなく…」

 あたし達の間近をふよふよ浮いて、そう語るノゾミちゃんこそ、姿は中学生の女の子だ。
夜になれば電灯の光や熱になら、半日位現身を取っても全然大丈夫と聞いたけど。他の人
がいる前では、ノゾミちゃんは姿を顕さない。裾の短い和服は力で織りなす物だから、お
好みで下着も洋服も鎧兜も作り放題らしいけど。

 1人の少女がはとちゃんの連れとして、夜限定でしか顕れられない事に、説明が難しい
と気遣っている。はとちゃんの立場を考えて。ユメイさんのその読み解きをノゾミちゃん
は、お人好しの誤解だと強気に小さな胸を張って、

『けいが私以外の者に視線を向ける様な場に、わざわざ力を使って顕れる必要はないの
よ』

 今も町内会館から離れて、人影が絶えてから顕れた。はとちゃんに迷惑掛けない為とは
言え、夜も人目を気にするなんて結構大変だ。

「いーじゃない。ノゾミちゃんだって、夜になったらはとちゃんと、こうしてべたべた過
ごしているんでしょ?」「よ、陽子ちゃん」

「まぁそうね。その位なら毎日毎夜って感じかしら。先週も首筋や胸元に歯を立てて血を
啜ったし。ね、けい?」「ノゾミちゃんっ」

「ユメイさんと添い寝しない夜は、ノゾミちゃんと添い寝しているんだもの。あたしがこ
うして肌を合わせる位、可愛い物じゃない」

「そうは行く物ですか。夜のけいは私の物よ。あなたには昼のけいで充分。あなたは名前
の言霊が示す通り、所詮昼の女なのよ、陽子」

「わたしの時間割わたし抜きに決めないで」

 ノゾミちゃんははとちゃんが剣道で『鬼切部の様に』強くなるのは好まなかったみたい。
今は敵でなくなったけどやはり想いは複雑で。剣道部云々で揺れた数日間、はとちゃんに
は賛否を応えず、唯じっと成り行きを見守っていたのは、お凜に似ている。お凜もユメイ
さんへの相談を一度促しただけで、後はユメイさんにお任せと丸投げで。ユメイさんを信
じ、はとちゃんの判断を尊重したと言えるけどさ。

「じゃあ、けいの望みを言ってみなさいな」

 陽子とゆめいと私、今宵は一体誰が望み?

 逆に話を振られてはとちゃん只今困惑中。

「えっ……今晩は、お勉強じゃあ、ダメ?」

「その答で、鬼が納得するとでも想って?」
「あう……あう、あううぅ。……はやっ?」

 はとちゃん、夜道で後ずさりとかするから。
 バランス崩して後ろにひっくり返りかけて。

「はとちゃん」「けいっ!」「桂ちゃん…」

 正面間近のノゾミちゃんが伸ばす赤い紐と、やや離れたユメイさんが放つ光のちょうち
ょが、同時にはとちゃんの身を支え転倒を防ぐ。こういう時に即応できる2人が少し羨ま
しい。

「桂ちゃん、怖くなかった? 大丈夫…?」

「うん、大丈夫。助けてくれてありがとう」
「まったく、けいはいつもこうなんだから」

 その様を見て忘れかけの問を思い出した。
 歩き始めるユメイさんのすぐ左に添って、

「訊いちゃって、良いですか?」「どうぞ」

「先週、木曜日夜に美紀を助けたの、ユメイさんですよね? この光のちょうちょで」

『もうダメかと想った時、白い光に照された。何があったのか分らない。車のライトとと
も違う、月明りの様な輝きが目の前を覆って』

 美紀を襲った男性の顔に張り付いた光は。

「美紀さん助けたの、お姉ちゃんだった?」

 ユメイさんは少し困り顔で、でも頷いて、

「神社のご神体に癒しの力を注いだ帰りに」

 ユメイさん丁度夜歩きしていた頃だっけ。

「女の子の怯えと震え、男性の荒い息遣いや害意を感じたの。蝶を放ったのだけど……」

「帰りって……ちょっと待って! ゆめい」

 話しに割って入ったのはノゾミちゃんで、

「あなた、けいの結界を張る為に、毎夜かなり消耗していたわよね? 衰微した神体の賦
活にも、神への礼儀からも、あなたの性分からも、全力注いでいた筈よ。帰りに余計な人
助けする余裕なんて、私が見てもなかった」

 ユメイさん、頷くけど顔が珍しく少し渋い。

「本当は松本さんの傷を癒し、男性を自首させたかったのだけど。力が足りなくて、追い
縋って彼に暗示を及ぼす事が出来なかったの。その所為で、次の夜には陽子ちゃんを怖い
目に遭わせてしまって。……ごめんなさいね」

 桂ちゃんとノゾミちゃんのいない場で謝ろうと想っていたの。これを聞かせたら、きっ
と2人をわたしの事で心配させてしまうから。

「心配するよ!」「まったく、あなたは…」

 はとちゃん達のお怒りは全く当然だけど。

「ユメイさん、一面識もない美紀を守る為に、惜しげもなく最後の力使ったって事です
か」

 桂ちゃんのたいせつなお友達の為だもの。

「今のわたしは力を使い切っても消失しない。無手でも身を守る術はあるから、大丈夫
よ」

 渋い顔と困惑は、自分の守りを剥がした危うさより、はとちゃん達の心配を招いた事に。
それで尚あたしに申し訳ないと謝る。この人、ある意味はとちゃんよりも危なっかしい。
目を離せないというか放っておけないというか。間近でたいせつに想えば想う程心配にな
るよ。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「身体冷えたでしょう。少し寄って行って」

 町内会館からははとちゃんの家の方が近い。歩いて拾分程の夜道に1人往こうとして、
ユメイさんに招かれた。あたしに否の答はない。

「明日も学校だから、余り遅く迄引き留められはしないけど……お茶を飲んで暖まって」

 うう。これが和風女の子の心遣いですか。
 上げて頂いてお茶菓子頂いて。おいしい。

 ノゾミちゃんが出す革ベルト位の赤い蛇と、掌サイズの小さな光のちょうちょが電灯の
下で戯れている。蛇はコブラの様に鎌首もたげ、シャッと首を伸ばすけど、ちょうちょは
ひらひらそれを躱し、尚その射程範囲を舞い続け。

 拾回に一回位蛇がちょうちょを捉えて食い散らすけど、すぐ次が顕れる。蛇の応援に一
喜一憂するノゾミちゃんに対し、ユメイさんはあたし達にお茶を入れお茶菓子を出す片手
間で。子供の遊びに付き合うお母さんみたい。

 ふとユメイさんが立ち上がって部屋の隅に行くと、受話器に手を伸ばす処で電話が鳴り。

「ユメイさん、電話が掛ってくるの分る?」
「わたしが携帯掛けてもワン取りなんだよ」

 夜遅めに掛ってきた電話は烏月さんからで、今週土曜日にはとちゃんを訪ねたいと。久
々にお休み取れたとか。はとちゃん、瞳が恋する乙女だよ。本当に烏月さんが好きなんだ
…。

 はとちゃんは烏月さんを休日ショッピングに連れ出すみたい。前回はあたしも一緒にカ
ラオケ楽しんだ後、はとちゃん宅でお夕飯も頂いたけど。受話器の向うの声音は涼やかに、

「お誘いに身を任せるよ。……柚明さんも一緒に来て貰えると、尚有り難いのだけどね」

 でも招かれたユメイさんの答は予想外で、

「桂ちゃんの楽しみは烏月さんとの時間です。ノゾミちゃんも外せる様に、ガラス玉に力
を注いで2日位保つ青珠の代用品を用意しますから。心ゆく迄2人きりを愉しんで下さ
い」

 うわ。最高のシチュエーションを作るの!
 あんな男前の麗人と、一緒に半日もいれば。
 はとちゃん、烏月さんの物になっちゃうよ。

 電話を終えたユメイさんは、戸惑い気味なはとちゃんの左頬に右手で軽く触れて諄々と、

「烏月さんは唯忙しいだけじゃない。危険を承知で凶悪な鬼と戦って、わたし達の、世の
平穏を保ってくれている。その疲れを癒す事が出来るのは、桂ちゃんの自然な笑顔なの」

 瞳と瞳が間近で、はとちゃん頬が少し赤い。

「烏月さんの力になって、一緒の時間を楽しんで来て。わたしからの、お願い」「うん」

 はとちゃん心から嬉しそうに頷いて。でも。

 ユメイさんは、心底はとちゃんと烏月さんの絆を喜んでいる。嫉妬も妨げも牽制さえも
微塵もなく。はとちゃんの想いを察し、烏月さんとの2人きりを推し進め。でもそれはあ
たしやノゾミちゃんや、ユメイさん自身には。

 仕方ない。あたしもとっておき、夕日の綺麗な丘を教えよう。あたしが想い人と眺める
為に、拾個以上の候補地回って較べた末のS席を。勿論タダとは行きません。紹介の為に
明日はとちゃんに、その夕日に付き合って頂きます。その代り土曜日だけは譲りますかね。

「陽子ちゃんありがとう。わたし嬉しい…」

 申し出に喜んで貰えるのは少し複雑だけど、烏月さんの為と言うより、はとちゃんの為
だ。抱きついて貰えたはとちゃんの左肩の向うで、ノゾミちゃんはやや複雑そうな顔つき
だった。あたし、ノゾミちゃんに見せつけちゃった?

 何か話題を探したくて視線を泳がせると、

「このつなぎ服、ユメイさんの作ですか?」

 手作りの作りかけの服は、サイズが小さく明らかにはとちゃんやユメイさん用ではない。

「ええ。未だ完成には暫く掛るのだけど…」

 向いた視線はやはり、ノゾミちゃんへと。

「私なら衣服は間に合っていてよ。夜も人前に顕れる積りのない私の装いは、これで充分。
妙に熱心に気を張り詰めていたと想ったら」

 私は夜限定だけど、必要があれば洋服でも靴でも下着でも身に纏う物は自在に作れるの。
あなたもそれを知らない訳でないでしょうに。

 ノゾミちゃんがそういう間にも、はとちゃんはその未完成品を広げて。あたしも横から。

「右は鳩羽鼠にお花の模様、右は薄紅。非対称の。ノゾミちゃんの着物の柄に似てるね」

「馴染み易い様に、似た色調にしてみたの」
「ぜひ着てみてよ、ノゾミちゃん!」

 乗り気薄だったノゾミちゃんだけど、あたしがお仕着せしようとすると仕方ないわねと。
着物は脱がず、浮いた現身でつなぎを持ち上げ、するりと中に入り込む。手足を通わせて
から、ユメイさんが添ってチャックを閉めて。

「な、何なのよ。この感触はっ……」

 ノゾミちゃんの愕然とした表情にあたしは、

「ん……洋服って、やっぱり違う?」

「そうじゃない。この感じ、まるで封印…」

 ゆめい。あなた、一体何を考えてこんな。

 滲む焦りは、ノゾミちゃんが基本的に束縛を嫌うから。はとちゃんと一緒に生きる為に、
幾つかの縛りは承諾したけど、元々ノゾミちゃんは千年を経た鬼で、その本性は自由奔放、
喰らいたい侭に喰らい、奪いたい侭に奪う者だ。縛られる事への反発は、条件反射に近い。

「わたしが生地に力を注いで、呪物にしたの。内と外を遮断して、鬼の力を隔て囲う様
に」

 遮断したと言っても、青珠との繋りは保ってあるから大丈夫。青珠とも力の出し入れし
て馴染ませたから、根は切れてないでしょう。

「って、繋っているだけで、戻れないじゃないの。それどころか、この服、抜け出せない。
紐で切り裂けもしないし、浮く事も出来ない。外に力及ぼす事がまるで出来ないじゃな
い」

 困惑を深めるノゾミちゃんに対し、ユメイさんは穏やかに優しげないつもの笑みで。こ
の状況って、果たして緊迫なの、日常なの?

「封じだもの。簡単に力が漏れたら失敗作よ。元オハシラ様として粗悪な物は作れない
わ」

「気持悪いから脱ぎたいのに、私の力全然受け付けないで、この服。ゆめいあなたっ!」

「ゆめいお姉ちゃん、このつなぎ服って?」

 ユメイさんはやや不安そうなはとちゃんにも微笑み返すだけで、ノゾミちゃんの後ろに
回り、身体に触れて、サイズを確かめてゆく。

「胸は丁度良いわね。腰も。裾は少し長くするべきかしら。可愛いわよ、ノゾミちゃん」

「ちょっと、ゆめい。私を早く解放なさい」

 どうやらノゾミちゃんの力では、この服の封じを突破出来ないみたい。詰め寄る姿が抱
きつくというか縋って見えるのは気のせい?

「縫い物は拾年ぶりだけど概ね良いみたい」
「ちっとも良くないわよ。早く脱がせて!」

 耳にすればお子様か大人の妄想か、両極端を思い起こさせる台詞で迫るノゾミちゃんに、

「……力に頼らず、手で脱げば脱げるわよ」

 ノゾミちゃん日頃手で服は脱がないのね?

「「「え?」」」

 3人で気の抜けた返事を返す。ユメイさんがつなぎに込めた呪力は、内外の力の流れを
隔てるだけで、現身を取る事は妨げない様で。現にノゾミちゃんは2本の足で、浮かない
浮かないと足踏みならし。唯その外に力が及ばないだけ。その手でチャックを押し広げる
と。

「中はいつもの着物姿だよ。ノゾミちゃん」

「遮断は中の作用も外の作用も妨げないわ」

 動き回れるけど力が外に出ない。霊体になる事も浮く事も出来ず、紐や蛇も邪視も外に
は及ばない。唯、現身を取れるから手は動かせ服は脱げる。でも、自分で外せちゃう封じ
に意味はあるのかな。それ以前に、今更どうしてユメイさんがノゾミちゃんを封じるの?

 再度集まる視線を前に、穏やかな笑みは、

「桂ちゃんと昼を一緒に過ごす為の装いよ」

「「「あぁっ、そういうことっ……!」」」

 思わず3人の叫びが揃っちゃいましたよ。

「封じの遮断は、日光や電灯の光や熱も隔ててくれる。青珠や良月にいた間、ノゾミちゃ
ん日の光を浴びても平気だったでしょう? わたしもご神木の中なら昼も大丈夫だった」

 その服を着ていれば、チャックを閉めて呪を有効にすれば、ノゾミちゃんは陽光の下で
も消滅しない。全く平気ではないけど、少しの疲れで済む。呪はつなぎの周囲を包むから、
服からは出て見える首筋や指先も守られるわ。

「一緒にデパートや図書館にも行けるわよ」

 ノゾミちゃんがテレビの買い物情報にご執心な事や、藤原氏のその後の歴史を知りたが
っている事を知って、ユメイさんその望みを。

「昼間にも顕れられれば、桂ちゃんと日中お出かけもできる。夏からあなたは家族だった
けど、これからは誰憚る事なく、羽藤家の一員として、朝ご飯からお夕飯迄過ごせるわ」

 まだ手直しが必要だから、暫く掛るけど。

「今のわたしの力と技では、つなぎ服位の面積を覆わないと、封じの効果を及ぼせないの。
もっと修練が進展したら、半袖やミニスカートにも挑戦するから。暫くこれで我慢して」

「半袖ノゾミちゃん?」「ミニスカート…」

 あたしもはとちゃんも、思わず思い浮べましたよ。夏の日の昼下がりのノゾミちゃんを。
あたしやはとちゃんと町中をソフトクリーム食べつつ歩む姿を。その夢はもう夢じゃない。

「ゆめい。私の為に、人の昼の装いを…?」

 覗き込む瞳にユメイさんも正視を返して、

「ノゾミちゃんは桂ちゃんにもわたしにもたいせつな人だから。何度も助けられたから」

「……っ!」

 言葉なくノゾミちゃんがユメイさんの正面に抱きついたのは、言葉にならなかったから。
夜しか顕れられない鬼が、はとちゃんと昼を過ごせるのは、夢物語に近い叶わぬノゾミだ。
それを封じという、鬼の天敵要素を逆用して叶える。脱帽しました。例え呪術に詳しくた
って、その発想が湧く迄考え続けられないよ。

 一応連絡は入れたけど、余り遅いと家の人が心配すると。ユメイさん、あたしを家迄送
ってくれると申し出て。いーですよと断ったけど、確かに夜は物騒で少し怖い。ユメイさ
んの帰りはと問うと、微笑んで『大丈夫よ』

 実際ユメイさんは今どの位強いのだろう?

「結界の調整もするから、帰りは少し遅くなるわ。ノゾミちゃん、桂ちゃんをお願いね」

 ノゾミちゃんの表情がぱあっと輝いたので、漸くあたしも気が付いた。ユメイさん、あ
たしの送りに家を外す事で、今宵のはとちゃんをノゾミちゃんに。烏月さんにした様に2
人きりをノゾミちゃんにも。ユメイさんって…。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「……でも、こうなるって事を、ユメイさんは最初から分っていたんですか? はとちゃ
んが、結局剣道部には入らないって事を…」

 月の大きな夜の住宅街を歩きつつ、あたしはユメイさんに微かな引っ掛りを問うていた。

「美紀の怪我は偶々不審者に襲われた所為で、この前お話した時点で予測できなかった
し」

 はとちゃんの剣道部に乗り気薄だったなら。後で明かしたその理由は、先に語ってはと
ちゃんに、再考を促すべきじゃなかったのかな。それを知らない侭はとちゃんが剣道部見
学して、乗り気になってから後出しで反対しても。

 ユメイさんの反対に頼ろうとしたあたしが言うのも何だけど。確実に剣道部に入らない
と分ってないと、出来ない選択だと想うのよ。まるで物事の行く末が全部視えているみた
い。

 そう問うとユメイさんは不思議そうな顔で、

「わたしは、桂ちゃんの剣道部に反対した事はないわ。桂ちゃんが剣道やるというなら喜
んで応援する。胴着や面をつけて竹刀を振る桂ちゃんも、凛々しいでしょうね」「え…」

 認識の誤りは、錯誤はむしろあたしの方に。ユメイさんははとちゃんの剣道部入りに反
対したのではなく、はとちゃんが欲した強さを得るには、部活の剣道は不適当と答えただ
け。

 はとちゃんの目的は、剣道部入りではなく、己や他人を守れる強さを手に入れる事だっ
た。ユメイさんは剣道部入りがその目的に添うか添わないか、はとちゃんに良く見る様に
促した他は、剣道部入りに賛否は何も述べてない。

「……どっちでも良かったって事ですか?」

「桂ちゃんが望んで為す事に、わたしに反対はないわ。桂ちゃんの正解がわたしの正解」

 剣道やるはとちゃんも、やらないはとちゃんも、ユメイさんの大好きなはとちゃんだと。

「でも、はとちゃんが間違った判断する怖れがあると、想わなかったんですか? 剣道部
の練習見て、入部したいと言い出す怖れは」

 柔らかな瞳は、あたしの視線を受け止めて、

「桂ちゃんは夏の経観塚で、烏月さんやノゾミちゃんの戦いを見たわ。生命以上に重い物
を賭けて戦う本当の真剣勝負を。今の桂ちゃんは武道の真贋を見抜く目を備えている…」

 唯、想いが先走って視える物も視えなくなる時が、人にはあるから。少し立ち止まって、
良く見つめてって。その途が桂ちゃんの望みを叶えるに適正かどうかを。桂ちゃんの真の
想いなら、その答はわたしにとっても正解よ。

 この人の微笑みは自然に湧いてとても暖か。

「成功でも失敗でも、桂ちゃんが望みを諦めるか叶える迄、途が尽きるか想いが尽きる迄、
わたしは一緒に。陽子ちゃんも同じ想いで桂ちゃんの結論迄賛否を控えたのでしょう?」

「……あ、あはは……はは、……まあ……」

 この人ははとちゃんの失敗にも絶望にも付き添える。返る成果など欲してない。付き添
う事、付き添わせて貰う事が願いだと。少し背筋が寒くなる。そこ迄の想いを愛と言うな
ら、あたし達の愛に迄それを求められる気が。

 この人がノゾミちゃんを、自分自身の仇を、はとちゃんが受け容れたからって理由だけ
で、同居迄許せた心情を実感した。ノゾミちゃん、仮にこの後はとちゃん裏切って泣かそ
う物なら、ユメイさんとんでもなく怖ろしくなるよ。

「でも、先に告げておいても、良かったんじゃないですか? はとちゃんが部活剣道の限
界を間違いなく見切れる様に、ポイントをアドバイスしようとか、考えませんでした?」

 ユメイさんはあたしの問をむしろ喜ぶ様に、

「桂ちゃんは聡いから、言葉からわたしの心中を察して、それに添う様に物事を見て考え
ようとする。わたしの言葉に影響される前の、素直な印象で実情を判断した方が望ましい
わ。その上でわたしの意見と付け合わせればと」

 はとちゃんの視野を狭める事は望まないと。
 ユメイさんが与えたのは制約のない自由か。

「教えられて分る事もあれば、自ら学び取る事もある。気付く事の大切さと面白さを、先
に教え込む事で奪いたくない。気付けなかった事はわたしが後で教えれば良い。なぜ気付
かなかったかも含め、今後に生かせる。桂ちゃんの自ら学び取る力と、教えられて分る力
が、両方すくすく伸びる様に、ね」「……」

 呑み込まれました。この愛は大海原です。

 どこ迄も尽きる事がない。果てを見ようとすればする程に、あたしの限りが実感できる。
どんなはとちゃんでもユメイさんは大好きと。

 あたしが引っ掛りを感じたのは、それか。

 ユメイさん、はとちゃんが幸せなら全て受け容れる構えだけど。強くなっても強くなら
なくても、誰と結ばれても結ばれなくても嫌わない姿勢だけど。本当にそれで満足なの?

 ユメイさん自身は何も、願っていないの?
 その深く強い愛は本当に何も求めないの?

「烏月さんに恋するはとちゃんも、ノゾミちゃんと濃密な夜を過ごしているはとちゃんも、
ユメイさんの心底望むはとちゃんですか?」

 虎のしっぽを踏んづける問に、元オハシラ様の怒りや不快が返るかと、内心震えたけど、

「ええ。陽子ちゃんもそうなのでしょう?」

 答はあっさりと平静な、堂々たる肯定で。
 あたしも思わず、問い返しに頷いていた。

「全く間違いじゃありませんけどね。でも」

 あたしはユメイさんの様に無条件には頷けない。と言うか、無条件に頷けるこの人が変。

 夕日の綺麗な丘を教えて、喜んでくれたはとちゃんは可愛かった。ノゾミちゃんやユメ
イさんに、抱きつくはとちゃんも可愛かった。愛おしかった。それはユメイさんの言う通
り。

 でもそれは、あたしのはとちゃんじゃない。烏月さんのはとちゃんで、ノゾミちゃんの
はとちゃんで、ユメイさんのはとちゃんだ。烏月さんもノゾミちゃんも、ユメイさんも嫌
いじゃないけど。好きだけど、それは違うの!

 引っ掛りを解消できない。答が返れば返る程に、なぜか苛々が募って堪って止まらない。

「添い寝を求めてくるはとちゃん、可愛くないですか? 人に渡したくないと想いません
か? ずっと自分を一番に慕ってと望みませんか? 唯1人である事を願いませんか?」

 ユメイさんははとちゃんを、求めないの?
 あたしの問は非礼を超えていたかも……。

 ユメイさんは足を止めあたしに向き直った。怒っているのではない。この人は一番神聖
な処に土足で踏み込むあたしに尚怒りではなく、

「桂ちゃんは、わたしの一番たいせつな人」

 全身全霊の答を返す為に足を止めたのだ。
 静かに想いを湛えた双眸が怖い程に深い。

「わたしは既に身も心も、生も死も全て桂ちゃんと白花ちゃんの物。生きても死んでも羽
藤柚明は、2人の守りと幸せの為にあるの」

 わたしは桂ちゃんの望みなら、いつでもどこでも、どんな事でも拒まない。その幸せと
守りに必要なら、わたしは躊躇わず何でも為す。何度でも為す。全て捧げる。不要だと思
った時には自由に捨て去って構わない。縛る積りは微塵もない。返される想いは求めない。
わたしの全ては一番たいせつな2人の為に…。

『この人、実際それをやって来ているから』

 他の誰が言っても嘘だけど、これがこの人の真実だ。その真をここ迄示す彼女の真意は、
あたしへのはとちゃん争奪からの撤退勧告か。今漸く心の引っ掛りが解けた。整理が付い
た。

 あたしは想いの深さでユメイさんに絶対及ばないと分っていた。引導を渡して欲しかっ
た。ユメイさんの手であたしのはとちゃんへの想いに止めを刺して欲しかった。ユメイさ
んがはとちゃんを掴むから諦めてと。なのに。

「唯、わたしから、桂ちゃんを求めてはいけないの。それだけは、許されない」「え?」

 それ程の想いを抱きながらユメイさんは尚、はとちゃんを自ら求める事はしないと明言
し。

 月光に照されるユメイさんは切なくも儚い。
 はとちゃんも、月明りが良く似合ったけど。
 黙っていると吸い込まれそうな、黒い瞳で。

「陽子ちゃんも、烏月さんもノゾミちゃんも、桂ちゃんを求めて良いのよ。桂ちゃんに真
の想いを伝え、是非その答を掴み取って頂戴」

 許されないのはわたしだけ。縛られるのはわたしだけ。わたしのみが、それを望めない。

「桂ちゃんが真の想いで誰かを一番に想うなら、誰かの告白に想いを返して結ばれるなら、
それは常に間違いなくわたしの正解で幸せよ。わたしはそれを心から、喜んで望み願う
…」

 分らなかった。ユメイさんがはとちゃんを求めてはダメだと、己を縛る理由が分らなか
った。そのお陰で二番手以下のあたしは望みを繋げて見えるけど、不可解すぎて喜べない。

 あたしの視線の問にユメイさんは瞼を伏せ、

「添い寝をするのは桂ちゃんが望む時だけよ。わたしの望みとは関りなく、桂ちゃんに必
須な時だけに。そうしないと、桂ちゃんに依存心が根付いて1人で寝られなくなってしま
う。わたしは欲してもそれを求めてはいけない」

 何となく、言いたい事は分った。はとちゃんが愛に飢え人肌恋しさに眠れぬ夜は、求め
望む限りユメイさんは、どこ迄も応じて抱き留め愛を注ぐ。欲しいだけ想いを与え続ける。

 でもユメイさんからはとちゃんには絶対求めない。依存心を植え付けない為に、添い寝
を常の状態にしてはいけない。だから無駄に感じても、夜の初めは布団を別の部屋に敷く。
原則はあくまで保ちつつ、ユメイさん側の縛りは絶対緩めずに、尚はとちゃんの求めにだ
けは例外で、必ずどこ迄も応え叶え続けると。

 でも、添い寝と恋愛は全然違う。幼子が夜に1人で寝られないのと、恋人同士が夜に素
肌合わせたいのは、全く次元の違うお話しだ。

 あたしは更に、問を発したかったのだけど、

「今日はここ迄にしましょう。余り遅いとご両親が心配するわよ」「あ……、家の前…」

 子供の時間は限度一杯引き延ばされていた。
 元オハシラ様にも時を止める事は叶わない。

 両手に両手を握って胸の前に持ち上げられ、瞳で瞳を覗き込まれて。少し進めばキスも
出来る近しさで、甘いお花の香りが心を満たす。愛しさが強過ぎてあたしも勘違いしそう
だよ。

「今日は陽子ちゃんとお話しできて愉しかったわ。また、お話ししましょうね」「はい」

 心の引っ掛りを整理し、幾つかの答を貰い、新たな消化不良を抱え。秋も夜も更けてゆ
く。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 烏月さんとの土曜日は失敗に終ったらしい。

 木曜日午後からはとちゃん徐々に体調崩し、ピークが土曜日午前に来た様で。女の宿命
だけど、重い時はあれ、きついから。しかもユメイさんがはとちゃんの前で烏月さんに
『出て行け』言い、はとちゃん泣いて外に駆け出して。追ってきた烏月さんに膝枕で休ま
せて貰ったのはポイント高いけど、その間にはとちゃん宅は烏月さんの仲間の千羽党に襲
われ。

 ユメイさん、襲撃を察して体調悪いはとちゃんに家を外させる為に、心を鬼にして暴言
を吐いたらしい。はとちゃんがすっかり機嫌直して話す脇でも、心底済まなさそうにして。

 鬼切部では雑魚扱いでも千羽党の拾六人を、ユメイさん1人で退けたと聞いた時は驚い
た。はとちゃんも見てはいないけど、やられた側が言う以上嘘じゃない。増援隊のガス攻
撃で窮地に落ちたユメイさんを、烏月さんが助け。

 千羽党は鬼切りの頭の中堅幹部の独断の命令を受け、はとちゃんとユメイさんを確保し
ようとしたみたい。贄の血が町中に無造作にある状態は、鬼の傍に金棒を置く様な物だと。
でもそれは鬼切りの頭の一喝で、中断されて。

 ユメイさんはオハシラ様の力でそれを察知して、若杉の葛ちゃんに助けを求めたらしい。
経観塚ではとちゃんと親しくなった、拾歳で世界屈指の大富豪になった事で有名な女の子。

 葛ちゃんも鬼に関りが深いみたい。烏月さんも葛ちゃんの事を語る時は、敬語だったし。
鬼切部の財政面でのスポンサーかも。世の中が平安じゃないと財閥も商売できないものね。

 あたしが行った翌日曜日昼前には襲撃の痕なんて形もなかったけど。結局はとちゃんは、
夕日の丘には行けないで。でもユメイさん迄含めみんなの絆は更に深まったから、いいか。

 その翌週は京都にみんなで修学旅行。そのみんなに、途中参加でユメイさんや烏月さん
迄入ったのは流石に予想外だったけど。そこで初めて逢ったのがはとちゃんの保護者代理、
浅間サクヤさん。美人で背が高くてワイルドだけど、それ以上に胸がおっきい。この夏か
らはとちゃんの争奪戦は、激化の一方ですわ。

 はとちゃんのお母さんやお祖母さんの知り合いで、はとちゃんが夏に経観塚に行った時、
心配してあの山奥迄追いかけて行ったんだと。あの時あたしの家に入った不審電話は、は
とちゃんを案じたサクヤさんの物だったらしい。

 色々ありましたよ。ええ、色々。はとちゃんから後で話は聞きました。でもはとちゃん、
夏から人外の物との接触が妙に増えた様な…。

 翌週月曜日にはとちゃんから、週末ユメイさんと千羽の家にご挨拶に行った顛末を聞く。
千羽党の人達は前回の屈辱を返そうと、烏月さんのいない場を作ってユメイさんを挑発し、
木刀試合に持ち込んで。でも本当の驚きはむしろそこから。ユメイさん、あの優しげに華
奢な容姿で、実はとんでもなく強かったのね。

 ユメイさん、千羽党のナンバー2迄強者達を連続で打ち負かし。最後は烏月さんに敗れ
たらしいけど。普段そんな仕草見せないから。聞いて今尚信じられない。烏月さんも鬼切
りする人に想えない程、細身で可憐だったけど。

 翌週末は空くかと想ったら、鬼切部の本部を訪問だって。千羽党の襲撃を退けるのに力
を尽くしてくれた葛ちゃんにもお礼言うとか。経緯を訊こうと思ったら月曜日休んじゃっ
て。学校帰りに寄ると何とも凄惨で濃密な状況が。

 ユメイさんは、鬼切部の本部で瀕死の深手を負っていた。大量出血で癒しの力を紡げな
い上、深手に残る鬼切りの力が癒しを弾いて相殺して中々利かない。とても現代医学の手
が及ぶ傷ではなくて。はとちゃんの贄の血をユメイさんが使う事で漸く生命を繋いでいた。
ユメイさんは今は人なので沢山は血を飲めないし、飲み過ぎるとはとちゃんを危うくする。

 だから次善の策として、はとちゃんと素肌をぴたと合わせ、その力を肌身に受けていた。
血が減る訳じゃないから、はとちゃんも多少疲れる位で、長時間力を融通できるのだとか。

 つまりあたしが訪れた時、ユメイさんとはとちゃんは、素肌で抱擁交わしていた訳で…。

 怒るべきか、泣くべきか、恥じらうべきか。逃げ出す事は出来ない。あたしもこれ迄散
々話聞いてきた。全くの部外者でもない。絶対離れて行かないって約束も、拾年守って来
た。抱き合い続ける2人に、飲み物運んだり励ましたり。暗くなった頃に現れたのが、は
とちゃんのSOSに駆けつけたサクヤさんだった。

 もう大丈夫だと、今宵は本当に悪かったね、ありがとうと、帰宅を促されて。口外する
なと念を押されなかったのは、忘れてではなく、あたしを分ってくれてだと想う。翌朝学
校に来たはとちゃんは、やや血色良くなっていた。ユメイさんも、生命の危機は脱したら
しい…。

 実は週末、あたしはユメイさんに吸血鬼の噂を相談したかった。先週辺りから広まった
様だけど。通り魔や不審者という以上に、被害者が皆血を抜かれた様に失血死していると。
学校は奇抜過ぎるお話だと、未だ本気にしてないけど。はとちゃんは贄の血の持ち主だし。

「絶っ対、今日はひとりで帰っちゃ駄目よ」

 ユメイさんは療養中で、はとちゃんを守りには出られない。サクヤさんも強そうだけど、
危険には逢わないのが第一だ。そう想っていたら危険に逢っちゃいましたよ、はとちゃん。

 何というか、はとちゃん、夏の経観塚以降、鬼との遭遇率が跳ね上がってない? それ
迄拾年、鬼なんて噂にも聞いた事なかったのに。

 同じ委員会の益田先輩の、行方不明になったお姉さん、時子さんの身体を被った鬼がは
とちゃんと益田先輩に手を伸ばしたその瞬間。ノゾミちゃんと烏月さんに助けて貰えた様
で。その影には鬼の所在を突き止めに、傷口開く事も構わず結界の精査に力を費やしたユ
メイさんや、葛ちゃん達の助力もあった様だけど。

 ユメイさんが安定し、危険な鬼もいなくなったので、サクヤさんは再度沖縄へ。何でも
向うに着いた直後にはとちゃんの急報を受けた様で、荷物も仕事も放り出して来たらしい。

 そんな訳で冬も間近な翌週末の夕刻少し前、あたしは積る話もあるのでとはとちゃん宅
へ。

「陽子ちゃん、いらっしゃい」

 ユメイさんは静かな笑顔で招き入れてくれた。来訪目的は既に承知かも。でも怯むなあ
たし。これもはとちゃんへの愛なのだ。室内に他に誰もいない事は分っている。客座に座
らされ淹れて頂いたお茶に口つけ。ユメイさんと2人きりって、考えてみれば未だ二度目。

「今日は陽子ちゃん、一緒に寄席に行かなかったのね」「落語はお凜のエリアですから」

 厳密に棲み分けてはいないけど、お凜は習い事が多く、あたしの様に放課後頻繁にはと
ちゃんと一緒出来ない。ハックに行く事も、この様に家に上がり込む事も。3人一緒も悪
くないけど、時には2人だけの場も。あたしが嬉しい事は、多分お凜にもはとちゃんにも
そうだから。今回はこっちにも用があったし。

「夕ご飯も一緒するって言っていましたよ」
「お休みだから遅くなっても良いわよって」

 桂ちゃんにも言ってあるのと、微笑んで。
 はとちゃんもお凜も信じ切っているのか。
 間違い等ある筈がないと分っているのか。
 あってもお凜なら認める積りでいるのか。

「ケガの方は、もう大丈夫なんですか…?」

 動きに支障なさそうだけど。月曜日夕刻見た時は致命傷だった。数日で動ける方が嘘だ。
なのにその表情は苦痛の欠片もなく優しげに、

「ええ。肌には未だ傷痕が残っているけど」

 もう痛みはないし。数日で痕も消せるわ。

「心配してくれて有り難う。陽子ちゃん…」

 ユメイさん、たおやかで儚げで麗しくて。
 感謝されて、これ程嬉しい人もいないよ。

 この侭穏やかに楽しくユメイさんと過ごしたいけど。はとちゃん不在でもユメイさんと
いると時間が過ぎるの忘れる程心地良いけど。

 あたしが息を整えるの、感づかれたかな。

「そうですか。良かった。なら安心して出来そう。今日来たのはですね。ユメイさん、ち
ょっとあなた、殴っちゃって良いですか?」

 返事は短く『ええ』の一言に頷きだった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 ぱあぁぁん、と軽い音が室内に響く。あたしの平手は特に武道で鍛えた訳でもないから、
全力叩き付けてもダメージ少ないだろうけど。あたしの想いの全力はユメイさんに響かせ
る。

 ユメイさんは全て承知でいたのか、あたしの右平手打ちにも動じず。一度で終らせて良
いかどうか迷ったけど、あたしの平手はその柔らかな頬を痛める為じゃない。その優しい
心に痛みを刻む為だ。二度三度叩いてもあたしの想いは晴れはしない。だからユメイさん
の両肩を揺さぶって、瞳で瞳を間近に睨んで、

「あなた、はとちゃんを何回涙させたの!」

 あたしの一番のはとちゃんを、あなたにもたいせつなはとちゃんを、どうしてこんなに。

 結界を張った夜は良い。あれははとちゃんの早とちりだったから。烏月さんに『出て行
け』言った時も、事情が事情だから仕方ない。でも今回のこれは酷い。ユメイさんはお母
さんもいないはとちゃんを置いて、死にかけて。

 本当に心配なら、常に寄り添って支えてよ。
 本当に大切なら、その手で触れて助けてよ。
 あなたは消えたり死んだりしちゃダメなの。

 あなたの為じゃなく、はとちゃんの為に!
 あたしの一番大切な愛しい女の子の為に!

「はとちゃんの為だって分るけど、ユメイさんがそうした以上他に方法ないって分るけど。
それでも、はとちゃんの一番大切なあなたが死んでしまったら、意味がないじゃない!」

 あなたがはとちゃんの一番なの。あなたがいないとはとちゃんは人生暗闇なの。他に誰
がいてもダメなの。足りないの。悔しいけど、はとちゃんがあなたに寄せる想いにも、あ
なたがはとちゃんを想う深さにも、あたし達誰も及ばない。叶わない。届かない。それを
…。

「もっと自分を大切にして。はとちゃんの本当の願いに応えて。はとちゃんはユメイさん
が求めてくれる事を待っている。お願いっ」

 あたしのはとちゃんを幸せにしてあげて!
 それが出来るのは、ユメイさんだけなの。

「もうあたしのはとちゃんを泣かせないで」

 叱っているのか縋っているのか、両方か。

 結界を張った夜の神社で、ユメイさんに詰め寄ったはとちゃんが思い出された。あたし
はそれをやっても、何も返しは望めないけど。はとちゃんには、ユメイさんの確かな愛を
っ。

「……陽子ちゃん、ごめんなさい。本当に」

 あたしに返る言葉はこれだと分っていた。

 ユメイさんは優しすぎるから。あたしの想いを全部分って、敢て平手打ちを受けたから。
縋るあたしを怒るどころか、背中に繊手回して抱き留めて、溢れる涙迄受け止めてくれる。
揺さぶれば揺さぶる程甘い香りが心を満たす。

「陽子ちゃんのたいせつな桂ちゃんを涙させてごめんなさい。わたしの力不足で、桂ちゃ
んの優しい心を確かに守れなくて、陽子ちゃん迄涙させて。本当にわたしは、頼りない」

 分っている。ユメイさんが悪い訳じゃない。ユメイさんは他に方法があれば見つけ出せ
る。考えつける。そうしてしまったのは、そうする他に方法のない状況だったから。その
誰かを失う事が、はとちゃんに深い傷を残すから。

 それを承知で。百も承知であたしは駄々を、

「謝らなくて良いから。謝る代りにはとちゃんの望みを叶えてあげて。ユメイさんからは
とちゃんを強く求めていざなって。あたし」

 小学校一年の時から、好きだったんだよ。
 のばしかけの中途半端な髪の、可愛い子。
 大きな男の子見るとあたしの背中で怯え。
 笑う事、声出す事、俯かない事から教え。

 元気に伸びやかに、綺麗に可愛くなって。
 何度も赤い痛みに頭を抱えて、苦しんで。
 気味悪がって離れる友達の背を共に見て。
 あたしは離れない、ずっと一緒だよって。

 でも、子供に出来る事には限りがあって。
 幾ら毎日振り回し遊んで想い出作っても。
 小学1年の夏より前の空白だけはあたし。
 どうしてもはとちゃんの願い叶えられず。

 その寂しさを、切なさを、危うさ儚さを。
 全部埋めて戻せる奇跡の人が現れたのに。
 その人があたしから、はとちゃんを奪う。

 でもそれがはとちゃんの本当の幸せなら。
 あたし涙堪えて笑って見送るしかないよ。

「悔しいよ。あたし拾年掛けてはとちゃんに、あんなに柔らかな笑顔作れなかった。あな
たはとちゃんのなくした記憶を全部取り戻して、お母さん亡くしたはとちゃんに家族を戻
して。
 あたしが届かなかった事、及ばなかった事、一息でやり遂げて。はとちゃんの心がっち
り掴んで、親友より恋人より姉妹よりも絆深く。いつもはとちゃんを想い続け、その周り
の人迄守り庇って。あたしもあなた好きだけど」

 それじゃ駄目な時もあるの。みんなで愉しくも良いけど、みんなが一番とは行かないの。

「確かにはとちゃんの願いに応えてあげて」

 そうじゃないと、あたしが納得できない。
 はとちゃんを拾年想い続けた奈良陽子が。

「はとちゃんはユメイさんを待っているよ」

 涙や鼻水で喉が詰まって声が出なくなる。

 ユメイさん、服を汚すのにそんなあたしを受け止めた侭、胸にぎゅっと押しつけ。温も
りと柔らかさと甘い香りで心の大波を鎮めて、

「わたしの願いは、桂ちゃんの幸せと守り」

 わたしが桂ちゃんの一番になる事がそれを確かにするなら、桂ちゃんに求められるなら、

「わたしに否の答はないのだけど。でも…」

 桂ちゃんは未だ心の傷を拭い切れてない。

 見上げるあたしを、澄んだ瞳で正視して、

「拾年前の心の深手は、経観塚の夏を経ても、漸く切開できただけ。癒しも助けも励まし
も、自ら直ろうとする力の後押しにしかならない。治したい想いがあれば即直るとは行か
ないの。
 お父さんを殺めるお兄さんを目の前で見た。その原因は己にある。血塗れの記憶は今も
桂ちゃんの奥に蟠っているわ。思い返せた故に、その重さは尋常じゃない。桂ちゃんの心
の傷は尚深い。その出血を止めるには時が掛る」

 桂ちゃんが白花ちゃんを思い出せても容易に触れられないのは、それが傷の核心だから。
分って尚向き合う事が辛いから。語る時は無意識に、わたしの傍でいつでも縋れる状態で。

「男の子を苦手とするのも、その所為なの」

 叔母さんが女子校を選んだ一因もそこに。

 言われて疑問が氷解した。経観塚の夏を洗いざらい聞いていて、考えつきもしなかった。

「桂ちゃんは、女の子に恋する性向が特別強い訳じゃない。烏月さんやサクヤさんは女の
子が見ても魅力的な人達だけど、ノゾミちゃんや陽子ちゃんはわたしが見ても可愛いけど。
桂ちゃんが今も男の子をやや苦手とするのは、心の深手が癒えてない証し。叔父さんの最
期が心に刻まれて、拭い去れてない為なのよ」

 元気を装うけど。人を気遣える賢く強く優しい子だけど。桂ちゃんは正に今心の傷と必
死に戦っている。叔母さんを亡くした直後に、懸命に涙を堪えたのと同じ。その叔母さん
もいない今、夜に人肌恋しいのはむしろ当然よ。

「桂ちゃんが心の傷を癒して、男の子もしっかり恋愛対象に見られる様になったその末に、
尚わたしを望んでくれるなら、幸せだけど」

 傷んだ心につけ込んで、自覚もない内に女の子のわたしと恋や愛を交わしてしまう事が、
桂ちゃんの本当の幸せになるとは、想えない。

「ユメイさん、はとちゃんが男の子と結ばれる末迄考えているの……!」「ええ、勿論」

 こんなに可愛い女の子が、男の子の関心を惹かない筈がないわ。烏月さんのお兄さんや
白花ちゃんの様な爽やかな男の子に出会って、恋に夢中になる桂ちゃんも可愛いでしょう
ね。

「愛は女の子の独占物ではないわ。むしろそっちの方が世間的に普通だと思うのだけど」

 陽子ちゃんでも、烏月さんでもノゾミちゃんでも、それ以外の誰でも、勿論男の子でも。
桂ちゃんの幸せと守りを叶えてくれるのなら、

「桂ちゃんの真の想いが常にわたしの正解」

 この人、はとちゃんの幸せに前提がない。
 本当に、はとちゃんさえ幸せなら良いと。

 だから、ノゾミちゃんも受け容れられた。
 だから、ご神木の封じも引き受けられた。

 忘れられても、想いに何の報いがなくても、守り抜いた代償に、自身が形も残せなくて
も。支えられて力になれて役立てるなら幸いだと。そうできる事自体が喜びだから自身も
幸せと。

 例え人に戻ってもその在り方は変らない。
 己の為ではなく、はとちゃんの為の愛を。
 滑らかな指が、両頬の涙を拭ってくれて。

「告白に期限の定めはないわ。想いを告げるのは、桂ちゃんの意志と言葉とタイミングで。
もし今即にと求めれば、桂ちゃんはわたしを選ぶかも知れないけど、今定める必要もない。
今後、良い人に逢えるかも知れないし、既知の人に改めて愛を抱くかも知れない。わたし
ならいつ迄も待てる。応えられる。ただ…」

 陽子ちゃんとお凜ちゃんには、申し訳ないけど頑張って欲しい。これはわたしのお願い。

「……どういうことですか?」

「陽子ちゃんも気付いている筈よ。夏以降桂ちゃんが鬼に関る頻度が高まっている事に」

 あたしの疑問、見抜いていたの? それともユメイさんも同じ感触を抱いていたと? 
瞳で言葉の続きを求め、視線で問を発すると。

「陽子ちゃんは呪物の作り方知っている?」

 首を横に振ると、ユメイさん左手で間近からノゾミちゃんの為のつなぎ服を取って見せ、

「見つめたり祈ったり、肌身につけたりして、想いを注ぎ込むの。妄執に近い程の想いを
注げば陽子ちゃんにも叶う。鬼も神も人も強弱は違えど、想いを抱くという点では同じな
の。
 想いは人から人に伝わる様に、人から物にも伝わって、物から物にも伝わるの。わたし
が青珠に力を注ぐ様に、青珠がノゾミちゃんに力を与える様に。触れて関れば伝播する」

 人の定めもそれと同じ。関る事案によって、影響を受ける人次第で、行く末は大きく変
る。桂ちゃんは夏の経観塚で鬼や鬼切部と関った。濃い贄の血を持つ桂ちゃんは元々その
定めにあったけど、叔母さんが過去と隔ててくれた拾年間眠っていた。それが揺さぶられ
ている。烏月さんやノゾミちゃんや、わたしと関った事で。過去の全てを思い返せた、副
作用かも。

「鬼切部や鬼やオハシラ様と関った為に、はとちゃんの巡り合わせが鬼の側に引っ張られ
るって事ですか? はとちゃんの今後が鬼や鬼切部に縁のある定めになってしまうと?」

 ユメイさんは心底切ない表情で問に頷いた。それは、自身がはとちゃんの定めを危うき
に導く事への怖れ、それを変えられない事への悔しさ。守っても抱き留めても癒しても、
どんな形でも関ればユメイさんは、はとちゃんを鬼の側に引っ張ると。それを阻む方法は
…。

「わたしは、鬼神や鬼に深く関りすぎたわ」

 たいせつな人を守る為でも、鬼に深く接し、死も消滅も踏み越えた。既にわたし自体が
呪物に近い。極力贄の血の力の行使を抑えても。

 なし終えた事は鬼神にも変えられはしない。
 身も心も最早真っ白な状態に戻せはしない。

 桂ちゃんに近しい事が禍かも知れない身で。
 でも今はその想いに応える他に術がなくて。

「桂ちゃんは烏月さんを心から好いているわ。ノゾミちゃんも、葛ちゃんも、サクヤさん
も、わたしも。桂ちゃん自身が贄の血を持ち、鬼に親しむ定めに馴染み易い。鬼にも鬼切
りにも関らない人生を送る事は元から難しいの」

 鬼と逢い、鬼を知り、鬼と関り、鬼と戦い話し分り合い、血を与えてアカイイトを絡め。
それは魂と魂を繋ぐ。心と心を無意識に繋ぐ。運命と運命を引き合わせる力の、一つとな
る。

「桂ちゃんの真の想いを、わたしは阻めない。振り払えない。桂ちゃんが平穏な人の生活
だけを欲するなら、己を断ち切る覚悟はあるのだけど。二度とその前に現れない選択も
…」

 ユメイさん、そんなこと迄考えていたの!

「桂ちゃんの望みは、鬼切り役の烏月さんや、青珠に宿るノゾミちゃんや、わたしや陽子
ちゃん達みんなが揃った毎日よ。桂ちゃんの望みがそうであるなら、ある程度の危うさは
承知の上で、わたしはその途を止められない」

 その身が微かに震えていた。例えはとちゃんの願いでも、それに応える事ではとちゃん
を危うい方向に導く末を、この人は心底怖れている。それを承知で尚はとちゃんの真の想
いは断れないから、自身も最期迄付き合うと。成功でも失敗でも、はとちゃんが望みを諦
めるか叶える迄、途が尽きるか想いが尽きる迄。

「わたしの桂ちゃんと居続けたい想いの故にではなく、桂ちゃんの望みに応える。桂ちゃ
んの願いに応える事がわたしの在り方なの」

 添い寝だけじゃない。ユメイさんははとちゃんの為に自分を断つ覚悟迄常に心に抱いて。

 あたしと殆ど変らない柔らかな素肌の下で。
 この人はどこ迄自身を捧げ続けるのだろう。

 傷みや哀しみを幾つ呑み込み耐えて尚強く。
 でも今回だけはその双眸に涙が溢れそうで。

「だから陽子ちゃん達にお願いなの。非道を承知で、陽子ちゃんやお凜ちゃんの為ではな
くて、わたしのたいせつな桂ちゃんの為に」

 これを知れば桂ちゃんは必ず哀しむ。あなた達を桂ちゃんの為に禍に招く様な物だから。

 それでも。ユメイさんは深々と頭を下げて、

「これからも、桂ちゃんのお友達で居て下さいね。そしてわたしも宜しくお願いします」


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 日は傾き始めていた。西日が眩しい室内で、

「あたしも不思議に思っていましたよ。はとちゃんが経観塚の夏も話してくれるのは分る
けど、ユメイさんがどうしてそれを捨て置くのかって。贄の血なんて重大秘密、あたし達
一般人に教えて不安じゃないのかなって…」

 事ははとちゃんの生命に関る。はとちゃんが用意不周到であたし達に漏らしても、ユメ
イさんなら夢を操って忘れさせる事は出来る。他の人には秘密なのに。あたしもお凜も口
外はしてないけど、知った事自体が問題なのに。

 漸く解けました。この数ヶ月の引っ掛りが。

「あたしとお凜が日常側から、はとちゃんの定めを引っ張る事を期待してだったんですね。
事情を知らない人じゃ、夏以降のはとちゃんには付き合い難い。新しい人の絆もその深さ
も、分らない侭じゃあたし達が置いてけぼり。
 ユメイさん色んな危険を承知で、その危険もユメイさんが被る積りで、あたしとお凜を
はとちゃんに繋ぎ止めようと、いや、はとちゃんを日常側のあたし達に繋ぎ止めようと」

 ユメイさん、顔が心底申し訳なさそうで。

「鬼や鬼切部に関り始めた桂ちゃんに関れば、陽子ちゃん達の定めも引っ張るわ。益田乾
暁(けんぎょう)も京都の鬼も、一つ間違えば陽子ちゃんやお凜ちゃんに害を為したか
も」

 あなた達を危険の傍に招き寄せた。本当は申し訳なくて、お母様にも合わせる顔がない。

「ユメイさんが、隔て守ってくれていたんですよね。はとちゃんを守る様に、はとちゃん
を大切に想うあたし達迄、しっかり確かに」

 時には誰かの代りに刃を身に受ける迄して。
 時にはその守った女の子に平手打ちされて。
 尚穏やかに静かに優しげに甘い香り漂わせ。

「人に危険をお願いする以上、この身に替えても守るのは当然よ。特にお凜ちゃんと陽子
ちゃんは、とても可愛い女の子だから……」

 ああ、もう。だからこの人は見てられない。

「本当は、訊こうと想っていたけど止めた」

 あたしは目の前の華奢な体を正面から軽く、いつもやってくれていた様に逆に抱き留め
た。包んでみるとユメイさんは想ったより華奢で。これで烏月さんに近い程強いなんて絶
対嘘だ。むしろこの感触ははとちゃんに近い柔らかさ。

「はとちゃんにはユメイさんが一番お似合い。はとちゃんを一番幸せに出来るのはユメイ
さんだよ。そのユメイさんが、自分だけは自らはとちゃんを求めてはいけないと自身を縛
る。どうしてか訊きたかったけど、でも訊かない。

 ユメイさんの行いに理由がない筈がないの。聞いたら、納得させられそう。あたしは今
も、ユメイさんがはとちゃんに迫るべきだと想う。剣道部云々の時と同じく、はとちゃん
の結論が見えた後で、事情を聞かせて。そして…」

 ごめんなさい痛かった? あたし、ユメイさんがはとちゃんを手に入れる挫折に吹っ切
りつけたくて、手を上げたのに。結局今迄通りじゃ唯叩いただけだよ。余りに申し訳ない。

「その、あたしも一発だけ叩いて良いから」

「そんなこと出来ないわ。桂ちゃんのたいせつな人に、わたしが、手を上げるなんて…」

 困った顔を見せるけど、それはあたしも。

「お返しもないとあたしが困るの。この侭じゃあ、あたしがはとちゃんに向き合えない」

 鬼切部を退ける全力を出されると美形に傷が残るから、手加減してくれると嬉しいけど。

 都合良い希望に、少しユメイさんの拒否が柔らかくなった気が。あの細く滑らかな手で
触れられたら、一瞬ぴしっと痛みが走っても、心地良く感じてしまうかも。あたしって
変?

「じゃ、おあいこにしましょう」「はいっ」
「右の頬に行くわ、目を閉じて」「いぃっ」

 両肩を軽く抑えられる。流石に緊張した。
 次の瞬間に来る痛みに備えて身が固まり。
 触れた感触は掌よりも尚柔らか。まさか?

「ゆ、ユメイさん……!」「ちゅぅっ……」

 右の頬にユメイさんの唇が重なっていた。
 ユメイさん、あたしが驚きに瞳開いても。
 間近な双眸はあたしの動揺を楽しむ様で。

「左の頬を打たれたら右の頬を愛せよと…」

「聖書にはそんな事書いてありませんって」

「陽子ちゃん正解よ。わたしの言葉だもの」

 うぅっ。あたし、遊ばれました? はとちゃんをいつもからかうあれの、三倍返し位で。

「お互いに頬を赤くさせたからこれで相殺」

 微笑む姿がはとちゃんのお母さんにも少し似ていた。立ち居振る舞いが涼やかで鮮やか。

 間近に見つめ合う中、甘く香る唇が開き、

「お夕飯食べていく? 桂ちゃんは外食だけど、お夕飯の用意は2人分してあるの……」

 ユメイさんと2人の夜も、悪くないかな。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「はぁとちゃん、おっはよー。学校行くよ」

 ユメイさんも、おはようございまあぁす!

「おはよー。陽子ちゃん、元気だね。その上最近妙に、柚明お姉ちゃんとも親密な気が」

 玄関に出て来たはとちゃんが訝しむのに、

「そりゃ、あたしがはとちゃんとめでたく結ばれた暁には、お義姉さまって呼ぶ予定の人
だもの。今の内からご機嫌取っておかないと。将を射る前に馬を射よって言うじゃな
い?」

 慣用句に首を捻るはとちゃんの背後から、

「妹がまた増える事になるのかしら? 頑張って、鬼千匹に匹敵する小姑を務めるわね」

「もう、お姉ちゃん迄陽子ちゃんみたいに」

 少し可愛く頬を膨らませてから微笑んで、

「「行ってきます」」「行ってらっしゃい」

 あたし達は今に全力で向き合う事で、次の未来を引き寄せる。一歩ずつ、幸せを求めて。

 定めは互いに引っ張り合うと、ユメイさんは言っていた。なら、ユメイさんの定めも日
常側に引き寄せる事が出来る筈だ。はとちゃんの為にも、平穏な日々こそユメイさんの望
みだ。日常側の絆を強めれば不可能じゃない。

 簡単じゃない事は分るけど。はとちゃんを日常側に引っ張る事で、芋づる式にユメイさ
ん迄日常側に引っ張れたなら。はとちゃんもう大喜びで泣き出すよ。愛も掴めちゃうかも。

 烏月さんにもノゾミちゃんにも負けないよ。
 葛ちゃんの財力にも、お凜の腹黒さにもね。
 サクヤさんの大きな胸は、やや強敵だけど。

 あたしもはとちゃんに拾年寄り添い続けた。
 離れない、ずっと一緒だよって約束したの。
 これからだってずっと想い続けて行ける筈。

 穏やかなこの日々を続ける事が、はとちゃんの幸せを招くなら。笑顔が笑顔を繋ぐなら。

 あたしの愛の電波放送は本日も快調です。
 大好きだよ……。あたしの、はとちゃん。


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