訪れの果て迄、譲らない想い
最近数十年でこの国の家庭では普通と化したガスの炎で湯を沸かして味噌汁を作り、魚
を焼く。冷蔵庫には納豆や梅干しがあり、電子ジャーはもうすぐ予約通り米を炊きあげる。
水は井戸や川に行って汲まずとも蛇口から即必要な分量楽に注げるし、湧かす必要もな
く安全だ。野菜も肉も魚も獲りに行かずとも、手近な店屋で異国の物迄買い入れられて旨
い。
本当にここ数十年、この国は豊かになった。長く世の移ろいを見てきたあたしも、庶民
の暮らしが一様にここ迄豊かな様は初めて見る。そう語らう同胞も残らない遠い時の果て
迄生きてしまったと想うと少し気持は複雑だけど、
「ふわぁ、サクヤさん早いね」「お早う…」
感慨も塗り込める程に気の抜けた欠伸混じりの声が、爽やかな朝日の中で尚まどろんで。
「珍しく目覚ましより早いね」「おしっこ」
どうやら目覚めてきた訳ではないらしい。
背後を通り抜けてトイレに消える。柚明ではないけど、振り返らなくても右手で欠伸を
抑えつつ、半ば無意識に歩む様が把握できた。
厠が同じ屋根の下で尚清潔に異臭がないのも大きな進歩か。暫くすると水洗の音が響き、
足音が来た道を自動操縦で戻ってゆく。家の中とは言え余りに無防備に、あたしの視線さ
え意識せず。でも、家族の如く日常風景に受け容れて貰えるのは、微かに嬉しくもあり…。
「朝餉迄は、もう少し掛るよ」「ふわぁい」
まだ『桂』ではなくて『けい』なのかも。
真弓は生前遂に入れてくれなかった羽藤家の厨房に立つあたしを見ると、桂は想い出せ
た幼い頃の気分に浸ってしまうらしい。だから絶対入れなかったのだと今更の様に納得し
つつ。朝餉が出来る迄もう暫く掛るし、未だ時刻も早いから、二度寝も少しの間見逃すか。
「お早うございます、サクヤさん」「んっ」
穏やかだけど確かに目覚めた声に話しかけられたのは、朝餉の用意がほぼ終った頃合で。
焼いた魚を載せた皿をテーブルに置く作業で振り返りつつ、視界の真ん中に相手を映し、
「お早う、柚明。あんたは相変らず早いね」
柚明が既に目覚めているのは分っていた。
通常ならあたしとほぼ同時刻に目覚めて朝餉を一緒に作る処だけど、それが出来ないと
いうか、あたしがさせないと分っているから、邪魔にならない様に一段落する迄控えてい
た。
「申し訳ありません。サクヤさん1人に朝ご飯の用意をお願いしてしまって。本当は…」
一緒に厨房に立たなければならないのに。
感謝と謝罪を兼ね合わせた優しげな声に、
「桂と違ってあんたはもう少し、寝ていて良いんだよ。あんたは暫く休む事が仕事だし」
柚明は少しラフな普段着に着替えていた。
拾年前と何一つ変らず、穏やかに佇んで。
本当にこの娘は生真面目で義理堅い。死の縁をさ迷う深手を負って一週経ってないのに。
己の事情は斟酌せず、自身の職責や義務を果たせない事に申し訳なく感じ、代りに為す者
に恩を感じ。元々その深手も彼女に何一つ責がない災難の類で、あたしのたいせつな桂を
守る為に負った物だ。あたしが柚明に感謝し、動けぬ間は勤労奉仕させて頂くのが筋なの
に。
「もう暫く家事労働はさせないよ。羽藤家の主婦の座は、この浅間サクヤが乗っ取った」
奪い返したいなら、早く忌々しい鬼切りの傷を治しちまいな。手負いのあんたじゃ、厨
房をあたしから奪い返すのさえ夢の又夢だよ。
胸を張って言い放つあたしに柔らかな声は、
「そうして頂けるなら、わたしも嬉しい…」
その方向へ、話を持って行かれては拙い。
「サクヤさんに作って頂けたご飯を食べられるのは嬉しい事ですし、わたしも傷が治れば
サクヤさんにご飯を作って差し上げられます。末永くこの家を仕切って頂くのも悪くは
…」
微かに頬を染めた申し出は全て言わせず、
「ま、取りあえずその深手を癒すのが先さ」
健康じゃない時はどうしても気弱になる。
昨夜も振られかけた話だけど、あたしは、
「あんたはもうすぐ復調するんだ。そうなってから改めて判断して話しても遅くないよ」
まだ話すべき頃合ではないと門前払いし、
「あんたより遙かに健康な桂は、学校があるから起こさなきゃならないんだけどねぇ…」
話しの流れを切る為に、桂を起こしてきてくれと頼む。あたしは冷蔵庫から納豆や卵を
取り出すよと。まだ柚明は作業を任せられる状態ではないけど、荷を運ばせる訳でもない。
話を切られたと分っても、必要な所作だから柚明は反駁をせず、はいと頷き桂の部屋へ…。
拾数分前に目覚まし時計は鳴っていたけど、音が止まっても桂が動き出した物音も気配
もなかった。三度寝のまどろみの中なのだろう。
部屋の向うから二色の娘の声が漏れ聞え、
「起きて……桂ちゃん」「んん、むにゃ…」
「桂ちゃん、桂ちゃん」「んむ、もぉ少し」
返る声には未だ意志が宿ってない感じだ。
軽く手を触れ、起こそうと揺らす様が目に浮ぶ。揺らされつつ布団の暖かみにまどろむ
様子も同時に。強い声や激しい動作を好みとしない柚明には、桂の朝寝坊は難敵か。真弓
がいた頃も寝起きが悪い朝は、叩き起こす感じだった。特別朝に弱い訳でないけど、時折
寝起きの悪い朝があって、そんな時は大変だ。
「幼子の扱いも、経験が物を言うからねぇ」
柚明も幼子の扱いは拾年前迄好んでこなしていたけど、数ならあたしの方が遙かに多い。
テーブルの上の準備は終えたので、柚明の援軍にと後を追って桂の部屋の戸を開けた時。
視界ど真ん中に映ったのは、窓から差し込む朝日に照されて尚夢現な桂に屈み込み、その
右頬に口付けて目覚めを促す柚明の姿だった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
御伽草子では王子のキスで姫君は百年の眠りから覚める。それに倣ったのか否か。流石
に唇に唇を合わせない辺りは自主規制なのか。幾ら新婚状態でも平日の朝っぱらから、あ
たしが同じ屋根の下にいる中で、何と剛胆な…。
その効果は激甚で、あたしが呆れるより早く、柚明が終えるより早く、為された当人が、
「ふやぁっ! ゆ、っ、ゆめいお姉ちゃん」
百年の眠りも引き剥がされて飛び起きて。
一気に目が醒めた様で、先程迄のむにゃむにゃした声音も気配も一変し、瞳も大きく見
開かれ、驚きに両頬が陽光以上に染められて。
柚明は桂に驚かれてもあたしに見られたと知っても大きな動揺はなく、あたしを向いて、
「柚明……」「今、目覚めてくれた処です」
柔らかに静かな笑子さん譲りの微笑みで。
でもその同じ血筋の筈の桂は動揺の嵐で。
「さ、サクヤさん、見た? 見ちゃった?」
あたしが戸口にいる事にも気付いた様で。
あたしの答を待てず視線が自然と逸れて。
「わたし、見られ、ちゃった? あううぅ」
両頬を真っ赤に染めて俯く桂に、もう眠りに沈みそうな様子はない。柚明は桂を起こす
だけでなく、眠気迄遠くに吹き飛ばした様だ。困った様で嬉しい様で応対に惑う桂に静か
に、
「サクヤさんが美味しい朝ご飯を作ってくれているわ。早く着替えましょうね」「はぃ」
それも頬に頬が触れる程間近で囁きかけ。
自然に柚明は桂に近しすぎる程に近しい。
拾年前もそうだったけど、それを拾年前は血縁の親しさ故だとあたしも想っていたけど。
流石に着替えを手伝う積りはない様だ。今の柚明は自然にそれを手伝うと言い出しそう
な空気もあったけど、そうしない仕草も自然に滑らかで。2人食卓で先に座って桂を待つ。
「桂ちゃんも、女の子になったんですね…」
ほっぺたにキスで、恥ずかしがるなんて。
あたしの目の前で、それを為した当人は、
「桂ちゃんのお目覚めに役立てたけど、意識されるとわたしも少し、恥ずかしいです…」
柚明にも今尚桂は『けい』なのだろうか。
大慌てで桂が顔を洗う水音が届いてくる。
「そりゃ頬も染まるさ。拾年前とは違う。今はあんただけじゃなく、桂も乙女なんだし」
まああの程度は異国では挨拶代りだけど。
「良い響きですね。桂ちゃんが、乙女って」
「見ているこっちが朝から茹で蛸気分だよ」
幸せそうに微笑まれると突っ込みにくい。
桂が食卓に現れたので、ひとまずその話は中断だ。桂も少しもじもじしていたけど、あ
たしも柚明も平静を装うのにほっとした様で。
「「「いただきます」」」
3人の食卓は今朝で3日連続だ。真弓がいた頃も偶に訪れて、真弓と桂と3人で食卓を
囲んだけど、真弓はあたしを厨房に入れなかったから、あたしの作った飯を囲む食卓は柚
明と桂と3人で囲む一昨昨日からが初めてだ。
3日目なので、桂もあたしが作る飯に違和感も薄れてきた様で、はくはく食べてくれる。
ほかほかの銀しゃりが美味しいよぉ、とか、日本人の朝はやっぱり焼き魚だよねぇ、と
か、納豆に葱の組み合わせは本当絶妙だね、とか。微笑ましい、普通の家庭の食事風景だ
ろうか。父もなく、母も失って半年経ってない桂がこの様に日々に向き合えるのは、やは
りそれと引換の様に戻ってきた従姉のお陰なのだろう。
あたしでさえ、深い喪失感を幾分取り返せた気がしている位なのだ。あたしより年少で、
母親べったりだった桂の喪失感は、いかばかりか。それを埋めて取り返せる者があるなら。
「そう言えば、お姉ちゃん、ケガの方はもう大丈夫なの? ……必要なら、わたしの贄の
血でも添い寝でも、幾らでもするんだよ?」
焼き魚をもぐもぐしながら言う話しでもないと思うけど、やや頬を染めつつ案じる桂に、
「心配してくれて有り難う。もう大丈夫よ」
未だ動きが少し不自由だけど、もう何日か安静にして、治しに専念すれば、完治するわ。
柚明は左半身を巧く使えないので、朝餉は桂を見送った後で摂る。食卓に並ぶのは桂の
食事を見つめたい想いより、出来るだけ一緒の時を過ごす事で、桂を安心させたい配慮だ。
その配慮が必要な程、心配させた訳だけど…。
今回の一件で、桂の柚明に抱く信頼はやや落ちている。それを分る故に、柚明も信用回
復に努めている。あたしが招かれたと言うより乗り込んできて居座ったのも正にその故で。
「本当? 本当に本当だよね、お姉ちゃん」
ええ。静かに頷く柚明に続けてあたしが、
「柚明の大丈夫は、自身に関して言う限り時々信用できないからねぇ。でももう大丈夫」
あたしが来ているんだからね。桂も柚明も、二度と苦痛や生命の危険に晒させはしない
よ。
何やら父さんっぽい言い方に聞えるけど。
そこで漸く桂は安心できたと息を吐いて。
「本当に、ご面倒ばかりかけて済みません」
柚明は桂の安心の様子に安堵して微笑み。
サクヤさんの存在意義ここにあり、かな。
「はぁ〜とぉ〜ちゃ〜ん! おっはよーっ」
チャイムよりも良く響く級友の訪問に急かされ、桂は柚明の見送りを受けて学校に行く。
「行ってきます!」「「気をつけて」」
外は木枯らしが吹く晩秋でも、羽藤家の中は春爛漫というか熱々というか。桂が帰宅す
る迄、暫くあたしと柚明は2人きりで過ごす。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「服脱がすの手伝おうか?」「大丈夫です」
桂を送り出して一段落した処で、あたしは素肌を晒す様にと求め、柚明は素直に従って。
別に女性同士だし、柚明の裸等おねしょしていた頃から見ているし、一番同士ではない
にせよ相思相愛の仲なれば、特別意識の必要もないと思うのだけど、喉がごくりと反応し。
生娘の柔肌は、極上の物ならば同性の欲情迄も刺激するのだろうか。それともあたしが?
「現状のわたしは、こんな感じですけど…」
一糸纏わぬ上半身、珠の肌をあたしに見せ。
破妖の太刀で断たれた肩から胸の深手をも。
その傷口に軽く触れ、反応を見定めつつ、
「未だ痛むのかい?」「強く触れると少し」
肉を揉むと顔を顰め傷口に贄の血が滲む。
艶やかで張りもある極上の素肌だけに、肉を皮を断って刻まれた刀傷は、不吉に目立つ。
最初に見た時は、この傷を与えた渡辺党の鬼切り役をぶちのめしに行こうと本気で思った。
否、それは今も尚心の片隅に燻る憤りだけど。
『サクヤさん。わたしの望み、分りますか』
本当はそれは、己がその場で役に立てなかった悔恨で、己の失策を取り返したい焦りで、
柚明に置いて逝かれそうになった憤りだから。怒りに任せた復讐や報復を、柚明は望まな
い。
己の頼りなさが招いた事の末なら、己の在り方より柚明の望みに添う事で償いに。あた
しが若杉への恨みを引きずり続けた為に、柚明はあたしを頼れず、桂の為に自身を若杉に
差し出した。この深手はあたしが導いた物だ。
『この傷と引換に桂ちゃんやわたしと、葛ちゃんや烏月さん、若杉の関係は定まりました。
この関係を壊してしまわないで。お願い…』
桂ちゃんの為の、桂ちゃんのたいせつな人の為の、漸く結べた絆を断ってしまわないで。
この傷みが無駄になる以上に、桂ちゃんに抱かせてしまった不安や涙が無駄になる以上に、
今後の桂ちゃんの幸せや守りを危うくします。
柚明はこの傷は事故だと言い、傷を与えた相手に恨みはないと言い、この末に満足して
いると言い切って、あたしに桂の日常を支える為に暫く羽藤家に居て欲しいと願ってきた。
それは、あたしの暴発を防ぐ為かも知れない。
あたしに相談なく為した若杉との関りについて、深手の身で額を床に擦りつけ理解を求
める姿に、あたしは怒りの持って行き場を失い。月曜夜から桂と柚明の宅に居着いていた。
「昨日の晩よりは、傷痕も縮小気味だけど」
未だ傷痕は、女子供を震え上がらせる程だ。左肩の肩胛骨を断ち割り、胸の付け根辺り
迄刀傷は達して。経観塚であたしが烏月に斬られた時より深い。現代医学が及ばないのは
勿論、贄の癒しも届かない致命傷に映ったけど。
柚明はオハシラ様だった拾年の間に、姫様の千年の蓄積を吸収した様だ。力の扱いは前
より更に精緻に強化され。その上で贄の血の陰陽の片割れである桂の血を力に変えて使い。
「贄の癒しを使ったにしては、治りが遅くはないかい。危うい状態を脱すれば、あんたの
癒しは加速度的に効く筈なのに。現代医学に望めない早さなのは分るけど、あんたの癒し
にしては難航気味に見えるね。力に不足するなら桂に頼んで、もう少し融通して貰えば」
血を吸わなくても、肌を合わせ寄り添うだけで、血の力を半ば以上使えると言う話だし。
「いえ……。量の問題ではありませんから」
窓から差し込む秋の日に眼を細めつつも、
「生命の危機ではないから急いでない以上に、完治に時間が掛っているのは、傷の性質に
よる物です。これは破妖の太刀を受けた傷、普通の切り傷や刺し傷ではありませんから
…」
あたしに触れられる事や案じられる事を喜ぶ笑みを見せつつ、見せて安心を誘いつつ、
「破妖の太刀で斬られた傷口は、物理的な痛手以上に、鬼の力による回復を阻む効果を宿
す様です。相手は、渡辺党の鬼切り役でした。贄の血の癒しも人を越えた化外の力。傷口
に残って贄の血の癒しを弾く破妖の力を相殺し、それを越えて身を繕うのは結構大変です
…」
力が足りないのではなく、時が足りない。
傷に宿る破妖の力に追加はないから、時と共に薄れゆく。当初傷に残った破妖の力を上
回るには、失血で弱った柚明では足りなかったので桂が補った。でも現状で既に柚明の力
が上回り、今後も破妖の力は減り続けるから、時間があれば治せると。生命の危機も去っ
た以上、桂の力を借りる必要はないと言う事で。
「あの時は、葛ちゃんが桂ちゃんを呼んでくれて助かりました。自力で桂ちゃんの元に行
けず、助けを呼ぶ力も残ってなかったので」
あの時は桂以外に柚明を助けられる者はいなかった。噴き出した血を止めても既に失血
は夥しく、現代医学もまともな贄の癒しも届かない。絶体絶命の窮地だったと柚明も認め、
「また、みんなに生命を救って頂きました」
返しきれない想いを、更に重ねて頂いて。
たいせつな人から頂く想いは嬉しいけど。
「相変らずわたしは力量不足です。充分な余裕を持って人を救えない。何かを投げ出さな
いと願った助けに届かない。たいせつな人を心配させ、不安に落し、哀しませ、涙させ」
もっと、強くならないと、いけませんね。
『柚明の反省は、桂を涙させた事にある…』
自身が死に瀕した事にではなく、それで桂を哀しませた事に。自分が死に絶える事にで
はなく、死に絶えたら桂を守れなくなる事に。そしてそれを承知で尚、桂や桂のたいせつ
な人が危うければ、まず己が危険を被りに出る。己の生き残りは、桂の幸せの為かその後
回し。
桂だけではなく、桂の大切な人に迄。桂を想う故に、恋敵である者に迄。無自覚な訳で
はなく自覚して損を引き受け、棘の痛みを承知して尚絆を絶対手放さない。甘いとか優し
いとか言うレベルではなく、愛に際限がない。だから身体の方が、先に限界に軋んでしま
う。心を寄せた者を救うには生命の危機も顧みず。やはり血縁は気性が似てくる物なのだ
ろうか。
その在り方が魂が、心の底から愛おしく、
「今からはあたしがしっかり寄り添うから」
あたしは上半身素肌の侭の柚明を己に抱き寄せて、この腕でがっしり痛い程抱き留めて、
「桂もあんたもしっかりあたしが守るから」
あたしが悪かった。最早取り返しの効かない仇討ちにいつ迄も心を囚われて、あんたの
不安や心配に向き合ってやれなかった。桂が葛や烏月に抱いた想いを、あんた程汲んで上
げられなかった。桂をたいせつと言いながら、その心を見ず。あんたもあたしがこうでな
ければ、1人で全て背負い込む事もなく、相談も出来たのだろうにね。ごめんよ、柚明
…!
抱き留めると槐の甘い香りがした。それは拾年前迄ご神木で感じた懐かしい姫様の香り。
この拾年間ご神木で感じた可愛い柚明の香り。
「その痛みも苦味も哀しみも全部あたしの所為だ。だから今後はあたしがあんたに償う」
今後はあたしが桂もあんたもしっかり守る。
いや、守らせておくれ。この、あたしにさ。
「羽藤柚明は浅間サクヤには、一番たいせつな羽藤桂に次いで、二番目にたいせつな人」
二番目としか言えぬ事に苦味が宿るけど。
「愛しているよ、柚明。身も心も何もかも」
「有り難う。嬉しい……心から、幸せ……」
抱き留めた胸の内で、何度も生も死も乗り越えてきた美しい娘は華奢な身を寄り添わせ、
「いつ迄も二番が良い……桂ちゃんが健やかに日々を過ごして、ずっとサクヤさんの一番
であり続けます様に。わたしのサクヤさんが、ずっと一番の人への想いを抱き続けます様
に。わたしのたいせつな人、特別にたいせつな人、サクヤさんの心が桂ちゃんに届きます
様に」
柚明はその意味を分って言っている。柚明の一番の桂をあたしも一番に想う事を了承し、
あたしの望みが叶うようにと心から望み願い。柚明の望みと両立しないと分って。桂があ
たしと結ばれれば柚明の望みは潰えると知って。柚明には常に桂の幸せが一番で、あたし
の幸せが二番で、己自身の幸せは最後迄番外で…。
「……あんたは、いつもいつも、本当に…」
傷に響かない様に抱擁の力は少し抜くけど、込める想いは些かも抜けず弱らず萎えもせ
ず、
「桂だけじゃない。あんたも絶対幸せにさせるよ。例えあんた自身が拒んでも。そこ迄人
を想い人に尽くして、幸せにならない方が間違いだ。あたしが請け負う。あたしが、桂も
あんたも幸せ迄無理にでも引っ張っていく」
桂を一番に想う気持は譲れない。それは柚明も同じ。でも、それでも尚。一番には想え
なくても、心底柚明にも幸せになって欲しい。満面の笑みを浮べて欲しい。あたしは昔か
ら柚明には酷い女だった。一番だと想いを寄せられても、一度も一番と返してやれなかっ
た。それは今更変え得ないけど、今後も変え得ないけど。だからこそこの抱擁だけは熱く
強く。
愛しい娘の声はこの腕の中で微かに震え、
「嬉しい……。サクヤさん、わたしは今時点でもう、充分に幸せです……」
互いの身を抱いて身体を温め合い、互いの想いを抱いて心を温め合う。こうなるのなら、
柚明に服を脱がせて上半身を裸にさせた時に、あたしも何もかも脱ぎ捨てておくべきだっ
た。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
わざわざ家事を担いに来たあたしを手伝おうとする柚明を布団に寝かせ、洗濯機を回し
つつ風呂場掃除する。あたしに悪いというより仕事への責任感と言うより、一緒に働きた
い気持は窺えたけど。休むべき者が休ませに来た代打と一緒に打席に立っては意味がない。
別に桂と柚明の下着を手に取る様を、見られる事を恥じらった訳ではない。2人の下着
等昔から飽きる程見て来た。柚明もここの主婦なら感覚も分る筈だ。柚明が桂の下着を手
に取る様を想像すると、妙にむず痒いけど…。
「あたしはあんた達の愛の巣に割り込む積りはないよ。幾ら桂と柚明の両方共が好きでも、
相思相愛の2人に割り込む程野暮じゃない」
洗濯機が唸り続ける昼少し前、布団から身を起こした柚明の提案を、今度はあたしもま
ともに断る他に術がなく。柚明の招きはあたしにこの家に同居して欲しいという物だった。
「戸籍は大人でも、わたしは外見が桂ちゃんと同年輩です。未だ職にも就けていませんし。
世間的に大人と認めて頂くのは難しい様で……桂ちゃんの保護者にも、なれていません」
未成年の女子2人暮らしを狙って、訪問販売や宗教の勧誘も来ています。一時雑誌に取
り上げられて、名前と顔は知られましたので。下着泥棒や出したゴミを漁る男性の姿も少
し。それなりに対応はしていますけど、成人が1人いてくれると、そう言う蠢動は収まり
ます。
「それに、サクヤさんも桂ちゃんを間近で見守る事も、支える事も叶いますし」「……」
桂を守るにも柚明を守るにも、確かに同居は最善だった。ここは経観塚と違って人口も
多く鬼に関る確率も増す。犯罪や事故の危険も多かった。桂も柚明も贄の血の事情を抜き
で尚、誰もが抛っておけない程可愛く綺麗だ。
柚明の力量が充分な以上に、あたしもこの手で贄の姉妹を守って、己も安心したかった。
そんなあたしの気持もお見通しなのか。若杉や千羽との関りに決着が付いた今、それを押
し止める要因はなくなったと、柚明は今迄の姿勢を百八十度転換して、あたしを招きに…。
否、今迄も柚明はずっとそうしたかったのに違いない。そう求めたい己を抑え、目前の
懸案に1人向き合い続けてきたのだ。あたしに相談できず、あたしを介在させず、まず己
の手で千羽や若杉との確かな関りを結ぼうと。
その先にあたしと一緒に暮らせる日を思い描いて、柚明は歯を食いしばっていたのだと、
今になって実感させられた。桂も頑固だけど、柚明も間違いなくその血を色濃く引いてい
た。今迄我慢し続けていたのも強固な意志ならば、今解き放たれてそれを望む意志も又強
固だと。
「あたしは写真や記事の取材で何ヶ月も空けるからねぇ。今迄より立ち寄る頻度を増やせ
ば事は同じだろう。同居迄はしなくてもさ」
「羽様のお屋敷の様に頻繁に来られます?」
仕事場を別に持つなら、住居はここにした方がサクヤさんも良いのではありませんか?
「わたしもたいせつな人と共に過ごしたい」
「あんまり頻繁に訪れても、迷惑だろうに」
「サクヤさんは家族です。迷惑だなんて…」
そう言って貰えるのは嬉しいけど。そう想って貰えるのはもっと嬉しいけど。あたしは、
「あたしはあんた達の愛の巣に割り込む積りはないよ。幾ら桂と柚明の両方共が好きでも、
相思相愛の2人に割り込む程野暮じゃない」
2人の仲の良さを好ましく想うあたしには、その絆の深さに拗ねた様な物言いは好きじ
ゃないけど、今はこれで切り抜けよう。そう想ったのに柚明には、その必殺技が通用しな
い。
「わたし達だけではありません。この家にはノゾミちゃんも居ます。サクヤさんも一緒に
愛を紡いで頂けるなら、わたしも嬉しい…」
『あたしが桂を奪うよ』と返しても柚明は頷くに違いない。譲る積りはないけど桂が選ぶ
なら従うと。柚明は桂が選んだ一番を己の正解とする。それがあたしでも躊躇いなく喜ぶ。
桂の願いを受けて己の仇のノゾミを助け、2人の街での幸せを、笑みを浮べ承諾した娘だ。
正面から拒み通すのは難しい。話を変えよう。
「そう言えば、ノゾミは朝も青珠から出てこなかったみたいだね。あたしは視る方は得意
ではないから確かじゃないけど、桂もあんたもノゾミと話していた様子ではなかったし」
はい。柚明も誘われる侭に話を逸らされる。
「昨夜話しの最中に突然ノゾミが怒り出して、桂の弁明も聞きいれず、青珠に戻って返事
もなくて、その侭今に至っている様だけど…」
あんたも怒ってない様だし、桂は何故そうなったか分らない顔でいて。あんたが平穏に
桂を宥めていたから、問い質さなかったけど。一方的にノゾミが拗ねている感じなのか
ね?
逸れた方の話しも少し気に掛っていたから、あたしも真顔で柚明にその実情を問うてい
た。
「……本当は、ノゾミちゃんも怒ってはいないんです」「え? どういう事だい、それ」
「桂ちゃんが血の力の操りを憶えたいって」
ずっと守られる側で居るのは申し訳ない。
己に宿る力が癒しや守りに使える物なら。
たいせつな人の危機を防ぎ傷を治したい。
せめて青珠なしでも血の匂いを抑えたい。
「桂ちゃん、羽様にいた夏からそう望んで」
「それは、別に悪い事ではないだろうに…」
今迄柚明が桂に力の操りを教えなかったのは、鬼の力に近いそれらの扱いが鬼切部の標
的になる怖れの故の筈だ。柚明が深手を負った先週土曜日の一件で、若杉との関係も結べ
た今となっては、その怖れもなくなったなら。
「桂も多少なりと、自身を守る術を持つ事は悪くない。まあ問題は、桂の場合技や術より、
それを扱う気構えや心構えの方だろうけど」
教えれば血は濃いから大成を望める筈だし、懇切丁寧はあんたの得意分野だ。笑子さん
より血も濃く力も強い柚明は導きも容易だろう。
「サクヤさん。何故ノゾミちゃんが怒った振りして桂ちゃんの話を阻んだと思います?」
柚明が少し怒って見えた。常日頃不満や不平を見せる事のない柚明の不快は正直珍しい。
「ノゾミは、桂が柚明の様に血の匂いを隠す様になると、己が要らない子になると怒った
様だね。でも別に桂が自力で血の匂いを隠せても、ノゾミが要らない子にはならないだろ。
ノゾミはその為に桂と共にいる訳じゃない。ノゾミは桂が好きで桂もノゾミが好きだか
ら、共に過ごす今を選んだ。一番か否かは別としてそれを分らないノゾミじゃないだろう
に」
「分っていてノゾミちゃんが敢て拗ねてくれたのは、わたしの為なんです」「柚明…?」
ノゾミちゃんは、わたしが桂ちゃんの求めを拒み難いと察してくれて。その前段で桂ち
ゃんが、力の操りを学ぶ申し出を止めようと。
「わたしは未だ桂ちゃんに、血の力の操りを教えられない。いえ、本当は教えるべきでし
ょうけど、教えねばならないでしょうけど」
あたしの瞳を、美しい黒目で覗き込んで、
「わたしがサクヤさんを人ではないと識ったきっかけは、血の力の修練に伴って磨かれた
感応や関知による物です。桂ちゃんの血はわたしより遙かに濃い。修練を始めれば、近日
中に桂ちゃんは、真相に辿り着いてしまう」
ノゾミちゃんはわたしの為に憎まれ役を買って出てくれたんです。もう少し血の力の操
りを伝えない為の時間稼ぎに。桂ちゃんには一定の段階でその事情を伝えて謝りますけど。
「……サクヤさんは、桂ちゃんに自身の本当を話すお積りは、ないのですか?」「ん…」
あたしは話を変えた積りでいたけど、入口が違うだけで、柚明には終始同じ話題だった。
真相をあたしが告げる前に、贄の力の修練を始めて、桂が識ってしまうのは良くないと…。
「一緒に暮らして頂けないのは、サクヤさんを桂ちゃんに識られると怖れてなのですね」
「そこ迄分っているなら、答は不要だろう」
例え柚明でも心見透かされた事に苛立つ。
それは心見透かされる様な己への憤りか。
実は自身の割り切れなさが晒された故で。
ノゾミや柚明と違い、あたしは結局経観塚でも正体を明かさず、真の想いも伝えてない。
未だにあたしは桂には真弓の友で笑子さんの知人に過ぎない。観月の民だとも報せてない。
柚明が桂を守ってあそこ迄深く想いを絡める様を前に、分け入る気にもなれなかったけど。
最後迄あたしは自身を伝えきる事が叶わずに。
一緒に暮らしたいとの柚明の望みに添えないのも、桂との関りがそこ迄濃くない現状で
の遠慮と言うより、四六時中共に過ごす事で、己の正体にいつか気付かれるとの怖れの故
で。
「漸く平穏な日々が訪れたんだ。桂との日々の幸せをノゾミも込みで満喫すると良いさ」
あたしは桂に近すぎてはいけない。鬼切部や若杉に睨まれもしたあたしが傍に添う事は、
桂に良くない。だからあたしは夏迄は主に真弓と関り、桂とは真弓を通じて関る様に努め
てきた。鬼と贄の民はどう見ても食い合わせが悪い。柚明の尽力で若杉や千羽との状況は
幾分好転したけど、あたしは所詮化外の民だ。
今回は柚明の頼みに、あたしの暴発を間近で縛りたい想い迄が見えたから、応じたけど。
今後も今迄同様、あたしは陰で桂を支えるだけで良い。柚明やノゾミや、烏月や葛迄が揃
うなら、真弓が抜けた戦力の穴も埋めは利く。あたしは桂の幸せを遠目に見守るだけで良
い。
「桂ちゃんがサクヤさんを識らない事が、その幸せだと、サクヤさんはお考えですか?」
笑子おばあさんからわたしの両親や叔父さん叔母さん、わたし迄連綿と繋がれた想いを、
桂ちゃんは継がなくても良いとお想いですか。記憶を取り戻し、贄の血の定めを知り鬼に
親しんだ桂ちゃんに、尚隠さねばならないと?
「それは誰の笑顔を守る為ですか? 誰の涙を防ぐ為ですか? 悔いは残りませんか?」
いつになく、柚明が強い語調で迫るのに。
正視を逸らすのは、自身への後ろめたさ。
桂の魂をどこ迄も信じ抜ける柚明の強さを、あたしは持ててない。厭い拒まれる事が怖
い。心の奥迄見通す瞳をあたしが受け止め切れず。そんな己の弱さが一番情けなくも悔し
いけど。
「……あたしは、観月なんだよ。柚明……」
人じゃない。人の血を呑んで力を増す化外の民だ。鬼切部に斬られかけた事もある。あ
たしは観月の中でも半端者で、四つ足にもなれなかったけど、人とは更に大きく違うんだ。
『あたしの獣を見た瞬間に桂が戦く顔が浮ぶ。あんたや烏月の背に回り込んで震えて遠目
に様子を伺う様が視える。肌に触れる度にビクッと怖れる魂の反射が、手に取る様に分
る』
真弓や笑子さんの様にあたしを受容する人は多くない。柚明でも、元々人で技と力を備
えただけの極めて大人しい柚明でも、若杉の多数には鬼扱いで抹殺寸前だった。もし桂に、
もし桂に真相を話した上で、怖れ怯えられるなら。一番に心寄せた桂に隔て嫌われるなら。
柚明やノゾミを介して顔を合わせる位で良い。
今の繋りを失いたくない。せめて現状の関り位は残したい。例え百年保たぬ儚い絆でも。
あたしは桂の幸せを遠目に見守るだけで良い。気がつけば洗濯機は止まり陽は中天にあっ
た。
「さて、洗濯物を干して、買い出しに行ってくるかね。仕事場も整理するから、帰りは夕
刻前になると思う。昼餉は冷蔵庫の中に作り置きしたから、レンジで温めるだけで良い」
柚明は話しを切る為に、あたしが場を外すと分っている。分って問い質さないのは、あ
たしのそれ以上話しを拒む姿勢が視えた故か。主婦業が滞る以上に話して状況は好転しな
いし、柚明も起きて長話出来る程強壮ではない。
「まずはその身を、完治させな」「はい…」
静養を促され、布団に身を横たえた柚明の顔には珍しく不同意の色が窺えたけど。あた
しは桂の心を乱して迄我欲を貫く積りはない。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
あたしが帰着したのは予定した夕刻前ではなく、陽も落ちた後だった。桂は今し方帰宅
し外套を脱ぐ最中で、柚明はあたしを待ちきれず、夕餉の準備に掛り始めた処で。お腹を
空かせた桂を前に黙っていられなかった様だ。
『じゃあ、1人で帰ってきたわけじゃないのね?』『うん、三年生の益田先輩と一緒に』
日没後と言う以上に観月の感覚を意識して呼び起こし、アパート周辺に不審な者がいな
いか窺いつつ歩んだ為に、室内の桂や柚明の会話が聞き取れた。鼻がその最たる物だけど、
観月の民は常の人より五感全般が優れている。
『ちょっと安心したわ。でも気をつけてね』
最近は……。柚明が不安の中身を言いかけた処で家の玄関前に到着し、チャイムを押す。
常なら戸口をドンドン叩くけど、夜で近所迷惑と言う以上に、街がきな臭い空気に包まれ
る中、目立って無用の障りを起こしたくない。
『あら。出てくれる? 桂ちゃん』『うん』
柚明もそれは感じている筈だ。手が離せない以上に、あたしと分って桂に出迎えさせた。
血の匂いを隠す柚明の結界も機能しているし。あたしや葛達の心配も、杞憂に終るだろう
か。
「はーい……ってサクヤさん! どうして」
あたしの遅い帰着に玄関で呆れ声な桂に、
「遅くなって済まないね。ちょいと事情が」
本当は炊事洗濯風呂掃除、家事育児全般を受け持ち、柚明や桂の入浴迄面倒看る積りで
来たあたしが、夕刻迄持ち場を離れ、夕餉の準備をけが人にさせた。不誠実の咎めも当然
な処だけど、桂はまずあたしを中に招き入れ。
「……どうしたの、急に?」
桂もあたしの雰囲気が、既に日常ではなく要注意モードに切り替っていると察した様だ。
ん、ちょっと。こうして元気な2人に逢えた以上、緊急を要する話しではないので、ま
ず柚明の調理を手伝わせて貰う。夕餉を終え、皿洗いはあたしが独り占めして一段落した
後、
「鬼切部の連中が、連絡を寄越してね」「烏月さんと葛ちゃん、元気にしているって?」
桂は優しい。つい数日前、柚明に瀕死の深手を与える原因を生んだ葛や烏月の心労迄も、
気に掛けて。まあ、あいつらも柚明を殺そうとしてこうなった訳じゃないとは、分るけど。
「日本一忙しい拾壱歳かも知れないって、ぼやいていたよ」「あはは。表の顔は若杉グル
ープ会長、裏では鬼切部のお頭様だもんね」
しかも、その実務を支える最高幹部全員と、それに連なる中堅幹部の多数を処断の最中
だ。今の若杉は、必要な人材の参分の壱以下で運営する一種の非常事態にある。トップの
葛に、今迄以上に尋常ならざる激務が降り掛る筈だ。
『それも、桂おねーさんと柚明おねーさんの為ですから……。大丈夫です。わたしはもう、
心の弱さに己を見失う失態は繰り返しません。
彼女はわたしが消し得なかった己の憎悪を、二度もその身で心で受けて止めてくれまし
た。経観塚で尾花を傷つけられた恨みをミカゲに煽られ操られ、ノゾミさんに矢尻を向け
る己を止められなかったあの夕刻も。今回も又』
身を尽くし、心を尽くし、生命を尽くし。
戦いさえも憎悪では為さぬ彼女の在り方は、憎くない者でも戦い滅ぼせる若杉の在り方
と、近い様に見えて無限に遠いけど。わたしはたいせつな人の笑顔を壊さない為に、守る
為に。
『今この身に叶う限りを、尽くしますから』
あの侭葛が最高幹部皆殺しで若杉を掌握しても、人心は掴めなかった。権力は握れても
末端の納得は得られなかった。桂や柚明の抹殺は止められても、守る様にと人を差し向け
る事は出来ても、遣わした者に想いが宿らなければ最大限の守りにはならない。柚明は魂
が死んだ葛の形骸化する守りを拒んで、魂の入った葛の率いる鬼切部の守りを望んだと…。
だがそれも若杉の体制が刷新され、欠員補充された後の話だ。今の脅威には間に合わな
い。葛が直接烏月に指示を下すのは、有能で頼れる側近を欠く故でもある。機能停止とは
言わない迄も、若杉の機能は暫く鈍るだろう。
そして正にこう言う時に、きな臭い話しは蠢く物か。よりによって桂や柚明のすぐ傍で。
「……それよりあんた、何か変った事はないかい?」「え……? 大丈夫だよ。お守りも
ちゃんと持っているし」
力の修練がなく、関知や感応を使えない桂が気付く程の脅威があったら、今頃無事では
ないと思うけど、取りあえず訊いてみるのに、
「何が大丈夫なものですか。この子、鬼が近くにいたのに全然気付いてないんですもの」
その左脇からうっすらと、中学生位の端正な娘の和服姿が、立体映像の如く浮き上がり。
え? と首を傾げる桂を前に、冷やかに、
「猫よ猫、なんて言われすっかり安心して」
あたしや葛の懸案と自身の視た物の関連が、桂を損ねる心配の余り、ノゾミは仲違い中
なのも忘れて顕れ。夜なら家庭の電灯程度なら、今のノゾミは数時間現身を取っても心配
ない。
「……それであなた、今日は一体何の用?」
あたしに今朝迄の柚明の招きと別案件があると見抜いている。柚明に瀕死の深手を負わ
せ桂を涙させた若杉の葛から仕入れた情報に、情報より若杉の名に声がやや冷淡で。あた
しがその想いを拭いきれないのだ、無理もない。
「この辺りに吸血鬼が出ると噂があってね」
取りあえずノゾミを正視し反応を窺うと。
ノゾミは怒るでも嗤うでもなく向き直り、
「私じゃないわよ。間に合っているもの…」
今更普通の血なんて飲めた物ではないし。
取りあえずシロか。柚明の監視が緩んでも、ノゾミに常の人の血を敢て欲する理由はな
い。
『私は桂の生命は奪わない。私は桂を守るわ。私は、桂と桂の大切な人と、自身を守る以
外に人に危害を加えない。……これで良くて』
言霊の呪縛は尚有効で約定は守られている。
それはあたしも想定内だ。あたしは今宵ノゾミの真偽を確かめに来たと言うよりむしろ、
「唯のゴシップならともかく、鬼切部が動いているだけに本物だよ」
不用意に夜に外に出て鬼切部の誤射を受けない様に促して、との葛の求めを伝える為で。
「……じゃあ、わたしが見た猫が吸血鬼?」
桂もノゾミが見たその猫には少し引っ掛りを感じたらしい。修練はなくても素養の力か。
「……猫も祟ると、人を喰ったりするから、血くらい吸ってもおかしくないね。鍋島のア
レとかさ。……だけど、こっちで確認している姿は猫じゃないね」
あたしが若杉から渡された写真を見せると、桂が反応を示した。二十歳前のすらりとし
た体格で髪長な女性の後ろ姿が映っていたけど。
「この人、益田先輩に似ているかも」「?」
桂の言葉に、あたしは感応の力を持つ一緒にいたノゾミの印象を欲して視線を向けると、
「私が見た限りでは、普通の人間だったわ」
柚明は話の推移を追うだけで口を開かない。考えの纏め中という感じか、危惧の様子も
窺い難くて。桂を無闇に怯えさせない為に、柚明は本当に危うい時も、反応を鈍く演出す
る。
「サクヤさん、考え過ぎじゃ……」
桂は間近の鬼を否定して安心したい想いより、身近に言葉を交わした先輩が吸血に走る
危険な鬼だとの怖れを考えたくない様だけど、
「用心に越した事はないさ。本人はとっくに喰らわれていて、化けられていて、なんて良
くある話しじゃないか」
だから敢て用心を促しておく。ノゾミは四六時中付き添うけど、危険に踏み込まない事、
躱す事、遠ざけ用心する事の重みは減じない。桂もそれには了承しつつ、やや気が重い様
で、
「……どうせなら、油屋猫みたいなのだったら良いのにね」「そんな可愛いげのある奴な
ら、こっちも楽なんだけどねえ……」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
柚明の見解をこの場で訊くのに、紆余曲折があったのは、桂が『こういう事もあるから
贄の血の力の扱いを憶えたい』と望んだのに、
「けいは私の守りを信じられないの? 私を嫌って青珠を置いて、1人勝手に出歩きたい
というのなら、正直にそう言いなさいな!」
「ち、違うんだよ。ノゾミちゃんってば…」
桂の弁明を聞かず、青珠に戻って輝くだけで返事もしないノゾミを前に、桂は困惑の余
りそれから先の事を考えられなくさせられて。
「ノゾミちゃん……誤解なのに、わたし…」
青珠を握って語りかけるけど答はなくて。
うな垂れる桂の背を、柚明が軽く抑えて、
「ノゾミちゃんは桂ちゃんを大好きなのよ」
日々の諍いに一喜一憂しても、心は確かに繋っている。桂ちゃんとノゾミちゃんの絆は
この位の仲違いでは壊れない。だから今は何事も答や結果を焦らず、時期を待ちましょう。
「桂ちゃんがノゾミちゃんを大好きな想いも確かに伝わっているわ。お互いに少し時間を
おいて、冷静になりましょうね」「うん…」
その後柚明が語った内容は、葛の情報を補う物だった。柚明は巡らせた直径二拾キロ強
の結界内で、今宵の鬼との交戦を感じた様で。烏月が手傷を与えたけど仕留め損なった事
迄。
感応や関知は、人の絡みが雑多な都会では、観月の五感と同様鋭すぎて使いづらい。柚
明はその上を行き、欲した箇所に集中する術も心得ているけど。それは予め標的を特定せ
ねば為せない筈だ。そもそも先にそこに注意してなくば分らない。或いは烏月か鬼を先に
探り当ててなければ。しかも相当の距離を隔て。
「結界の副次効果です。わたしは設置者なので、意識を結界に同調させるのは容易です。
結界内の大きな気配の動きは察せられます」
わたしの結界は役行者が巡らせた羽様の物程強固ではありません。人払いの効用はない
し、害意を持つ鬼を弾く効果もない。贄の血の匂いを紛らわせ、感じ取れなくするだけで。
「唯結界を為す力はわたしの力なので結界内の人の所在や動きは掴めます。夜になれば知
った人なら表層の想いを視る事も叶います」
柚明は常に桂に気を配るから、助けてと言う強い叫びが心に湧けば即座に分ると。感応
や関知が結界内に行き渡っているイメージか。
「肉の身体を戻してしまったので、オハシラ様だった時の様に、自身を飛ばして守りに行
く事は叶いませんが、馴染み深い物になら守りの蒼い力を送れます。送った力で出来るの
は癒しや呪縛の無効化で、肉の身を持つ鬼の物理的な攻撃は防ぎ難いですけど」「わ…」
すっと柚明が右手を挙げると、触れてないのに桂の左肩が蒼く輝いて。目を丸くする桂
の身に、癒しの力が流れ込む様が見て取れた。今は分らせる為に右手を動かしたけど、本
来柚明にそんな動きも要らない事は見て感じた。柚明の術も力も、今尚深化し続けている
様で。
「わたしいつもお姉ちゃんと繋っている?」
それを後ろ向きに捉えないのが桂なのか。
そんな桂を分って尚柚明は自制に努める。
「ごめんなさいね。桂ちゃんが強く何かを想わない限り、視ない様には努めているけど」
桂のみ追尾する訳ではなく、意図しなくても結界内の情報は自然に視えて流れ込む様だ。
今の柚明は依代も不要な、自在に動き回れるご神木抜きのオハシラ様に近い状態なのでは。
「それは良いけど、わたしはお姉ちゃんなら、何を幾ら視られても、少しは恥ずかしいけ
ど、良いから。あのそうじゃなく、今は余り力使っちゃダメだよ。傷の治しを優先しなき
ゃ」
今程度の力の回しなら、傷ついた柚明でも出来る様だけど、現状それを本気でやると自
身を壊してしまう。桂の心配はむしろそれで。心配と恥じらいと困惑を混ぜ合わせた言葉
が、
「しっかり早く完治させてね」「有り難う」
姉と妹が心を響かせ合う様に仲睦まじく。
それを見守るあたしは、母や父の役柄か。
「烏月と鬼の戦いも、感じ取れたんだね?」
「はい……でも、その末を掴みきれなくて」
手傷を負った鬼が烏月を嫌って逃げ出した辺り迄は視えたと言う。でも烏月の気配の確
かさに較べ、逃げ去った鬼の気配は柚明から遠ざかる以上に急速に弱く小さく朧になって。
「かなり弱っているのか、潜伏を意図しているのか。非常に感触が不確かです。大雑把な
方角と範囲くらいしか分りません。もう少し力を及ぼせば詳細に視る事も可能ですけど」
「無理しなくて良いよ。葛も増援を出したみたいだし、桂を狙って動いている鬼でもない。
あたし達は鬼切部ではなく桂の守り手なんだ。大雑把な方角と範囲を伝えるだけで充分
さ」
桂を案ずる余り、本当にやりかねないので、正面からその両肩を軽く掴み明言して止め
る。
今の柚明は自身の治癒で手一杯だ。下手に外に放散して体内の力の均衡を崩すと、弱ま
っても深手の中に尚残る破妖の力が、傷口を開いて血肉を迸らせ、再び悪化させかねない。
「鬼切り役の烏月が維斗で手傷与えたんだ」
破妖の太刀の傷に尚苦しむ柚明を見れば。
「大量に血を啜っても簡単には動けまいに」
葛の増援は夜半に掃討を始める様で、だからノゾミに出歩かないようにと伝言を預った。
柚明の感触を葛に教え、要注意箇所も伝えて、
「鬼切部が動いた以上、あんたが動く必要はない。あんたはもう休んで傷の治しに専念し、
早く桂を安心させておやりよ。あたしもいつ迄も心配そうな顔色の桂は見ていられない」
「そうですね……。それではサクヤさん、桂ちゃんのこと、よろしくお願いします……」
桂を出されると柚明は弱い。何か助力するべきかとの迷いを顔色に残しつつ、あたしの
意志に押し負けたという感じで、はいと頷き。これが実は柚明の巧妙な策だと勘づいたの
は、彼女が素直に従って奥に籠もってからだった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「サクヤさん……ごめんなさい」「ん…?」
柚明が早めに床に就き、ノゾミは青珠から出てこないので、自然会話は桂とだけになる。
柚明があたしの『早く休め』との促しに素直に従ったのは、まさかこの状況を作る為…?
2つ並べた布団に横たわり、首を桂は左に、あたしは右に曲げ、豆電球の下で向き合っ
て、
「大事なお仕事を、放り出してきたんだよね。あたしと柚明お姉ちゃんの為に。まさか沖
縄に行っているなんて、思ってなかったから」
「あんたが気にする事はないよ。大丈夫さ」
出版社から受けた仕事は、あたしが乗り気だった以上に、向うにも重要だった様だけど。
赤兎を乗せたフェリーが沖縄本島に到着直後に連絡を受け、即仕事を返上し引き返すと申
し出た時は、慰留や難詰はかなり受けたけど。
急ぐので赤兎は沖縄に置いた侭、あたしは空路とんぼ返りした。土曜夕刻に連絡を受け
たあたしがここに着いたのは月曜夜だ。なので落ち着いたら一度沖縄に戻る必要があった。
赤兎は戻せても、仕事を戻せはしないけど…。
桂はそれを自分の所為だと思っている様で、
「休暇、結局貰えなかったんだよね。欠勤になったの?」「あたしはフリーだから休暇と
は言わないけどね。報酬なしの違約金と、今後この業界で生きる上で今回の不履行実績が、
あたしの経歴や素行として尾を引く位さね」
頭を下げた関係者には、やはり納得してくれない者もいた。私的な事情で損害を負わせ、
他の大勢を躓かせた以上は、無理もないけど。
『身内でもない、唯の知り合いが死ぬ程度の事で、重要な仕事を投げ出さないで欲しい。
そんな事をされたら我が社は大混乱に陥る』
悪いね。柚明と桂はあたしの身内なんだよ。
血が繋ってなくても夫婦が身内である様に。
きっとそいつは、自分の恋人や恩人の死に目より、会社を優先するのだろう。そう言う
生き方もあるのだと思う。フリーと社員では仕事に抱く責任感の違いもあるかも知れない。
あたしは遂に幾人かの承諾を得られぬ侭、たいせつな人を優先すると告げ、現地を離れて。
「子供が気にする話しじゃないよ。それは」
違約金や損害賠償の話は後だ。あたしはたいせつな人を見守る為に生きている。生きる
希望をくれた人を愛でる為に生きている。仕事は生活の糧を得る方法に過ぎない。どちら
を取るか選択を迫られれば答は決まっていた。
桂からの連絡は、柚明が葛の暴走を止めようと刃を身に受け、死に瀕したという物だっ
た。現代医学が及ばない深手の上、失血多量で贄の癒しが紡げない。桂の助けで即死は免
れたけど、生死を分つのは失血で意識も不確かな柚明の力の操り次第という危うさだった。
『柚明お姉ちゃんを、元気づけてあげて…』
確かに励まして力になれる人を。黄泉に落ちかけた柚明を、己以上に力強く引き戻せる、
誰かの腕を桂は欲していた。白花も羽様を動けず、真弓も正樹も笑子さんも鬼籍にいる今、
拾年人の繋りを断たれた柚明に強い絆を持つ者として思いつけたのが、あたしだった様で。
『お願い。サクヤさん、手を握ってあげて』
抱き締めてあげて。声を掛けてあげてっ。
お姉ちゃんを死神から守るの、手伝って!
あたしが着いた時には柚明も生命の危機は脱しており、2人家に戻っていたけど。ノゾ
ミも助けを及ぼせぬ深手に、身を横たえた侭殆ど起き上がれず、寄り添う桂の手を握り返
す位しかできない柚明に、身も心も崩れ掛り。
『……サクヤさん、……ごめんなさい……』
桂と違い、柚明はあたしがここに立ち戻った事の意味を即悟った様だ。でも、桂が必死
の想いであたしを呼んだと分る柚明は、それには一言も触れず責めず、あたしに唯深々と
謝って。後刻あたしの仕事先に謝罪の電話を。
それはあんたのやる範囲ではないと2人きりの時に叱ると、柚明は申し訳ないを全身で
表す様に小さく頷き。あたしの方が苛めっ子の気分に包まれた。桂があたしの事情に考え
が及んだのは、赤兎がないと気付いてからだ。それ迄は柚明で頭がいっぱいで何も考えら
れなかったのだろう。あたしがそうだったから。
「あたしは自分に返ってくるペナルティは受ける覚悟が出来ている。仕方がないさ。世の
中全てを充たす事は、中々出来ないからね」
桂の所為じゃない。桂はあたしに事を伝え、願いを告げただけだ。仕事より柚明と桂に
添う事が重要と判断し、行動したのはあたしだ。
「謝る事は何もない。柚明だってあたしに謝る何物もないんだ。柚明が謝るべきなのは」
あたしの一番たいせつな桂を、涙させる程に心配させた事に対してだ。その罪は重いか
ら、後日しっかり償って貰う必要があるけど。
「……あんたには感謝して居るんだよ、桂」
たいせつな人の危機を教えてくれたから。
たいせつな人の危機を救ってくれたから。
あたしを頼りにしてくれたから。何より、
「あんたの心を支える事が出来て良かった」
勿論柚明の励みにもなれた事は幸いだけど。でも正直、あたしが着くのは少し遅く、柚
明は生死の境を脱していた。むしろ成果は柚明の瀕死で乱れた桂の心を鎮められた事の方
に。
柚明が死の淵を脱して尚、あたしにここに居続けて欲しいと願ったのも、桂の心が不安
定な為だ。今回の一件は、桂の抱いていた柚明への『絶対いなくならない』『ずっと一緒
にいてくれる』との安心感を崩してしまった。
母を失い縋る者を求めていた桂に安らぎをもたらす唯1人の存在の揺らぎは、桂の揺ら
ぎに直結する。柚明も完治する迄は自身がそれを担えないと見通して、あたしを留めた…。
「あたしを呼び招いてくれて有り難う、桂」
手を伸ばし頭をくしゃっと掻き回す。昔から桂にしてきた様に。かつて柚明やその母や、
正樹にも為してきた様に。やや強く触れる事で、あたしもその愛おしさを感じ取りたくて。
強い感触に桂は心支えられた錯覚で微笑んで、
「サクヤさんが……昔お姉ちゃんの一番たいせつな人だった事があるって、聞いたから」
お姉ちゃんを呼び戻すのに、わたしだけじゃ足りないかもって想った時、サクヤさんを。
「柚明は、それをあんたに語ったのかい?」
「うん……今迄、言う機会がなかったけど」
そう言えば、羽様の夏以降もあたしと桂が、こうして2人きりで話す機会はなかったっ
け。
「わたしを守って、白花ちゃんに憑いた主を倒し、消えそうになったご神木の前の夏の夜。
消滅を避けられないと思ったお姉ちゃんは、綺麗なちょうちょの髪飾りを、わたしに
…」
『良かったら、貰ってくれる……?』
わたしと、わたしの一番たいせつな人の物。
わたしの一番たいせつな人に、望めるなら。
【綺麗だったから頂戴ってお母さんにお願いしたの。でももう少し大きくなってからって。
この髪飾りを付けて、綺麗になった柚明を是非見せてあげたい、見て貰いたい誰かが現
れる時迄、もう少し待っていなさいって…】
【母さんにとっての父さんの様な人の事よ】
大切なだけじゃなく特別な人。
特別なだけじゃなく一番の人。
この世に唯1人と、思える人。
【わたしにはそれは、サクヤおばさんです】
『サクヤさんへの告白に使ったの。想いは叶わなかったけど、桂ちゃんと白花ちゃんが生
れる迄、わたしの一番の人だった。もし受け取ってくれるなら、わたしの一番の想いを迷
惑でなければ、この髪飾りを桂ちゃんに…』
柚明は遺言の積りでそれを告げたらしい。
助かったのは奇蹟だった。今こうして桂と柚明が共に人の世の日々にいる様は、2人の
来世の分の幸運迄吐き出して足りない程の巡り合わせだった。それ迄2人が負ってきた哀
しみや苦しみに見合う分、なのかも知れない。
その危機を、想いと生命を重ね合わせて乗り越えた2人は、恋人より親子より姉妹より
戦友より、強く深く絆を結び。最早一番に想っても、あたしに割って入れる隙はなかった。
元々がそうだったのかも知れない。柚明の桂と白花に抱く愛は尋常な深さではなかった。
姫様のオハシラ様を失ってから、桂を一番に想う様になったあたしは、新参の半端者だ…。
桂はそんなあたしの感慨を知るよしもなく、
「それ迄も、サクヤさんと柚明お姉ちゃんの間に、強い絆があるって感じは見えたけど」
そうなんだなぁって。わたしには分け入れない程強い想いで、2人は惹かれ合っている。
戦いも苦痛も哀しみも共に出来る、本当に深い絆が。想い返せば、お母さんとサクヤさん
の間にも似た様な深く濃い繋りを感じたけど。
「お姉ちゃんの一番はわたしと白花ちゃんって何度も聞かされたけど、サクヤさんは…」
「あたしは、柚明を一度も一番には出来なかった。自分で言うのも何だけど、酷い女さ」
あたしが今誰を一番に想うのか尋ねられる兆しを感じたので、話を逸らす為に先制する。
微かに不快感というか言葉に固さを宿すのは、桂の問に正面から答えられない己への忸怩
と。柚明を決して一番には出来ない己への慚愧で。
「幼い頃から、純粋で一途な想いを寄せてくれたのに。あたしは、一度もその真剣な想い
に応えてあげる事が出来なくて。今もそうさ。柚明は桂と白花を一番に想いつつ、尚あた
しに深く心を寄せてくれて。なのにあたしは」
その柚明の想いにも応えられてない。柚明は自身を一番に想う必要はないから、あたし
の一番を貫いてと望んだのに。自身を気遣う必要はないから、桂にあたしの本当を伝えて
と望んだのに。あたしはそれさえ為せないで。柚明の為でもなく桂の為でもなく、己の為
に。
柚明は桂の次にあたしの幸せを、悔いのない日々を望んでいるのに。柚明は桂が選ぶな
ら、あたしと桂が結ばれる未来さえ想定してそう言ったのに。あたしは自身の怖れの故に、
己の本当を桂にだけは伝えられず心閉ざして。
「その位大切に想う一番の人がいるんだね」
澄んだ黒目を正視できず、思わず逸らす。
目の前でその一番の人は、考え込みつつ、
「サクヤさんはその想いを、伝えないの?」
「大人には大人の事情ってのがあるんだよ」
伝えられたなら、どんなに幸せだろうか。
例え届かなくても、柚明が一番だからと断られても、あたしは己に悔いを抱かずに済む。
百年千年、取り返せない悔いに悶えずに済む。あたしが観月でさえなければ。桂や柚明を
守れる力を宿したこの身が、嬉しくも呪わしい。
喉には言葉が出掛っているのに。ノゾミと心通わせた桂なら、大丈夫かもと言う想いは
腹に堪っているのに。でも怖い。拒まれ心離れる様が怖ろしい。今迄人だと想わせてきた。
偽った事はなかったけど、誤解を解く事を敢てしてこなかった。その不作為を問われたら、
不誠実を問われたら、あたしに返す答はない。
やはり猫と鼠は共には暮らせない。数拾年後に巡る訣れが、一層痛く哀しくなるだけだ。
あたしは桂の幸せを遠目に見守るだけで良い。
「わたしには……良く分かんないよ」
「お子様の考える事じゃないからね」
少し怒って頬を膨らませる様が愛らしい。
「さあ、もう寝た方が良い。深手を負ってなくても明日学校がある桂に、これ以上の夜更
かしは拙いだろうに。美肌にも良くないよ」
年長の特権は、強引に話しを押し切れたり切り上げたり出来る処だろうか。話題を目先
の自身の問題に振られて桂は、気付いた様に、
「……明日学校、休んだ方が良いかな…?」
桂は自身が怖いと言うより、それで柚明やあたしが心配する事を気に掛けている。特に
柚明が無茶してしまわないかが気掛りな様で。桂があたしの滞在を望んだのは、桂の為に
と無理をしがちな柚明のお目付役を期待してだ。
「朝迄に掃討は終っているさ。登校前に葛には確認するよ。仮に朝迄逃げおおせていても、
傷ついた鬼に日中人を襲う余裕はない。朝の登校は安全さ。問題は帰りだけど、正午迄に
決着付いてなかったら、あたしがあんたに合わせて迎えに行くよ。それで良いだろう?」
「流石サクヤさん、鬼の動きに詳しいね…」
何気ない答に想わず顔が強ばり口が噤む。
確か柚明に己の正体を勘づかれた時も、あたしが鬼の習性に詳しかった事が一因だった。
傍に居続ければどんどん気付かれる因が増す。
「ん……ま、まぁ、何事も経験さ。経験…」
この時あたしは、微かに桂と過ごす時間を短く事を導いていた。学校を休めば桂は主婦
代行のあたしと一つ屋根の下で一日を過ごす。柚明やノゾミがいても好ましくない。あた
しが桂を見守るのは間近ではなくやや遠目にだ。
好きだと歩み寄って触れて心通わせた結果、あたしはたいせつに想ってから姫様を失っ
た。深く情を交わさなければ、絆を確かに繋がなければ、喪失もそこ迄痛くならなかった
のに。笑子さんも拾年前の柚明も真弓もそうだった。桂には、桂には喪失の絶望は味わい
たくない。
痛手を受けた鬼が動けまいという推測より、烏月や鬼切部の増援への信頼より、あたし
が桂に間近に添う事を避けたく、勘づかれる事を厭うて登校を勧め。その結果、あたしは
桂を間近に寄り添って守る事が出来なくなった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「行ってきまぁす」「「気をつけて」」
今日は寝起きの良かった桂を共に送り出し。
柚明は昨日とは一転し何も語らなくなった。
あたしが話しを受け付けない事に、拗ねた様子でもない。日常会話は交わすし、鬼切部
の連絡を受けての情報交換にも応じる。夜と違って精度が落ち、柚明の均衡を崩す結界内
の精査はしない様に求めると、大人しく従い。
唯、柚明の側から話を振ってくる事がない。
あたしが話しかけないと、室内は沈黙して。
日中なので近所の喧噪や雑踏等は届くけど。
贄の力を内に向け癒しに没入しているのか。
布団に身を横たえ、静かに時を過ごす様は、眠り姫にも似ている。早く治そうと静養に
励むのは良い傾向だけど。柚明の完治はこの様子では来週末か。拾時過ぎに携帯への着信
が、
「昨日はどーもです。助かりました……ウチの情報網は、市井のニュースに弱くって…」
電話は葛からだった。廃ビルに潜む鬼を複数発見した様で、烏月が合流し次第突入する
という。その結果が入る迄の少しの間で、葛はあたしや柚明や桂に報せたい話しがあると。
「……結論から言えば、桂おねーさんの先輩、益田貞子は関係者です」「……やっぱり、
唯の人間じゃあ、なかったって事かい……?」
柚明に勘づかれない様に隣の部屋で声を潜める。静養中の心を乱して癒しを中断させた
くない。話すか否かの判断は聞き終って後だ。
「いえいえ、彼女は鬼ではないですよ。それならノゾミさんも、気付いたでしょうしね」
「じゃあ……」「調査の結果によりますと」
益田の家系には、失踪者、神隠しに遭っている人が多すぎるんです。貞子の実姉に当た
る時子も、拾年前に消えていますね。
『鬼に狙われる家系。いやこの場合逆か?』
「特定の血筋のみを狙う鬼……。ああ、なるほど。桂の勘もまんざらじゃあないね……」
猫も殺せば七代祟る、って奴かい?
「猫はこの際、関係ないです」「あん?」
葛の言葉は淀みなく話しを手繰り続け、
「益田の家系を遡ると、南蛮渡来の伴天連(バテレン)に突き当たります。益田乾暁(け
んぎょう)……曰く、彼は生き血を絞って杯を満たし、酒の様にこれを飲むと……」
「生き血を啜る伴天連か。悪趣味な話だね」
一度壁の向うに耳目を集中する。柚明の部屋に動きはない。会話は気付かれてない様だ。
「若杉の……いえ、若杉が鬼切部となる以前の古い資料によりますと、益田乾暁は正真正
銘の吸血鬼になったと……」「そこ迄知っていて放置しておく鬼切部じゃないだろう?」
当然の疑問には当然の回答が返ってきて、
「ええ。記録によれば、益田乾暁の身体は完膚無き迄に破壊されてます」「だったら何で
今更、益田の血筋が狙われたりするんだい」
葛の声音は、そこで少しの疑念を含んで、
「益田の血筋は至極まっとうな人の血ですが、気になる処があります。烏月さんが戦った
吸血鬼の見た目は、拾年前に失踪した益田時子その物なんです。……あ、ちょっと待っ
て」
葛向けに別口から緊急連絡が入った様だ。
「ああ、そうですか。はい、分りました…」
サクヤさん、良いとは言えない情報です。
「烏月さんの合流を待って、その指揮の下に突入しようとしていた鬼切部が、鬼に包囲を
気付かれて先制され、交戦状態に入りました。鬼の側は拾体以上、鬼切部は下位の者が5
人。日中なので鬼の感覚も鈍り、積極的な行動もしてこない筈と、構えに隙があった様で
す」
詳報が入ったら、また連絡します。では。
「葛も大変だね。頭が末端の報告を一々受けて直接指示しなきゃならないって状況は…」
烏月の到着前に、廃ビルにいた鬼を下位の鬼切り達が残さず殲滅したと葛から連絡が入
ったのは、三拾分後だった。昼は鬼の刻限ではない。不意を突いたと言うより、危機を悟
った向うが自暴自棄に打って出たと言う処か。
静養中の柚明には置き手紙で、桂には携帯で安心出来る旨を伝え。あたしも昼からの空
いた時間で、昨日葛から鬼の話を受けて中途で止めた仕事場の整理の続きに行く。この時
は、日常が戻ってきたとあたしも思っていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
仕事場の整理を終らせ、出版社の担当と沖縄の件について、携帯で長話する内に日は落
ちて。帰り着いてドアを開けた瞬間、柚明の力を解放する輝きが目に入った。慌てて上が
って、無理をするなと声を掛けようとした処、
「……鬼の気配を感じます」
残光も消えた暗い一室で、布団から上半身を起こした柚明は蒼い光を纏いつつ、真顔で、
「結界内を、精査しています。少し待って」
表情が硬いのは、苦痛の故か、怖れの故か。これから夜を迎える頃合に、桂が未だ帰り
来てないのに、鬼の気配を感じれば心配だけど。
「鬼は全て殲滅されたって、葛から連絡が」
オハシラ様の蒼い衣姿は、柚明の本気と言うより本気にならねば届かない彼女の必死を
今は示す。神秘的というより幻惑的と言うより、今はその表情が切迫感に引き締められて、
「葛さんに確認して貰っています。烏月さんが切り損ねた鬼が、小鬼でなく鬼の親が、そ
の廃ビルで討たれた鬼達の中にいるかどうか。益田時子似の鬼がその中にいるかどうか
を」
残さず討ち果たしたという鬼切部の報告に間違いはない。昼は人の時間帯だ。討ち漏ら
すだけならともかく、討ち漏らした事に気付けない程に、鬼切部が間抜けだとは思わない。
柚明の危惧は、最初からその中に烏月が討ち損ねた鬼の親玉が居なかったのではないか。
その廃ビルの鬼複数が、鬼切部の注意を引く為に鬼の親玉が用意した陽動ではないのかと。
だから包囲を察した時、逃げではなく打って出て全滅したと。全滅を演出する為に、追っ
手の目を逃れる為に、操られていたのではと。
生憎戦場に烏月はいなかった。烏月が到着した時は、下位の鬼切り達が鬼を殲滅し、中
には顔も形も残らない迄切り捨てたその後で。廃ビルの鬼の全滅は確かだけど、最初から
そこに脅威の根である鬼の親玉がいないなら…。
脅威は野放しに街を徘徊している事になる。
桂がすっかり安心して歩いている夜の道を。
烏月も鬼切部もあたしも守れてない今現在。
「夕刻になってわたしの力が、結界内に鬼の気配を感じ始めたの。鬼の蠢く気配を複数」
サクヤさんに携帯を掛けたのだけど、中々繋らなくて。それでわたし、力を解放して…。
あたしが出版社と長話になってしまった所為で、柚明の通話が繋らない状態だったのか。
柚明はあたしへの連絡を一時諦め、葛や烏月に連絡を取って、鬼切部が収容した鬼の屍
の再検分を頼み、その結果を待てずに暮れゆく陽の中、治癒に回さねばならない贄の力を。
「烏月さんには、桂ちゃんの現在地に直行してとお願いしました。桂ちゃんは、先輩の益
田貞子さんと一緒に住宅街を下校中です…」
葛さんは急ぎ鬼切部に再招集を掛け、一定数が揃い次第、増援してくれると言う事です。
増援の出立迄に、鬼の所在を確かに掴みたい。
「早く、鬼を見つけ出さないと……いぅ!」
「柚明、ダメだ。無理をしちゃ、あんた…」
蒼い幻想的な輝きを放つ衣の左肩が、内から朱に染められる。それは、柚明が癒しから
力を抜き取って結界の精査に回す為に、深手に残る破妖の力が、その傷を開き始めた故で。
でも柚明はこんな時だけ人の言う事を聞かず。
「サクヤさんも、早く桂ちゃんの元にっ…」
瞬間、柚明の顔が凍り付いた。固まって、
「この鬼です。益田時子似の……視えました。桂ちゃんの間近、益田さんと桂ちゃんの至
近に多数の小鬼を引き連れて……烏月さん!」
桂ちゃんも益田さんも気付いてない。ノゾミちゃんは別の鬼、背後の猫に気を取られて。
それは緊急を要する敵じゃない。危険は前よ。
「今のわたしは、確かに傍で守ってあげる事も出来ない。サクヤさん、早く桂ちゃんを」
苦悶の表情は、傷の痛みの故ではなく、視えても自らが救いに行けない事に。自身がた
いせつな人を守る為に役立てない事に。否!
「桂ちゃん……今、守りの力を送るから…」
柚明は自身を搾り出して役に立てようと。
結界の精査を終え、葛にメールで桂や鬼の所在を伝えつつ、柚明は昨夜行なった結界内
での力の送りに切り替え。ああ、でもそれは。
蒼い衣の左半身が、どんどん朱に染まっていく。柚明の力で織りなしたオハシラ様の蒼
い衣は、柚明の贄の血を外には出さないけど。その失血量は開いた傷口の大きさを想像さ
せ、療養中の彼女の生命の危うさをも感じさせた。
止めさせるべきだ。止めないと、本当に…。
あたしのたいせつな柚明が失われてしまう。
「柚明……!」「触らないで」
一瞬苦痛に顔をしかめた柚明は、思わずその身に伸ばしたあたしの手を強くはね除けて、
「今何を急ぐかサクヤさんは分っている筈」
目先の優しさは要らない。それは後々の毒。それより今一番危うく、守りを欲している
人の処に、駆けつけて。わたしはここから動けないけど。駆けつけて守る事は出来ないけ
ど。
力なら送れます。癒しの力、呪縛を弾く力、気力を保てる力を。送って少しでも守りに
…。
「ここにサクヤさんがいてできる事はありません。例えあっても、いつでも常にわたし達
の最優先は一番たいせつな人の幸せと守り」
早く行って!
ああ、その決死の表情は夏の経観塚で見た。
一番たいせつな人を守る為に全身全霊の姿。
柔らかに静かで穏やかな娘だけど、桂の危急にだけ激しく荒々しい羅刹の顔を隠さずに。
「サクヤさんが早く桂ちゃんを助けられれば、わたしもこの状態を解除できます。急い
で」
「……分った。行ってくるから、桂は必ず無事に連れ帰るから。あんたも必ず、桂の無事
を確かめたら即座に自分を救うんだよ。あんたは、桂にもあたしにも大切な人なんだっ」
目の前で自身の血潮に衣を染め変えられつつある柚明を、捨て置いて他に馳せるのも後
ろ髪を引かれたけど。即座に桂に馳せてなかった己にも後ろめたく。想いは胸の内で尚絡
み縺れ合うけど。身体は柚明と己の意志を乗せて、三日月が照す夜の街を走り出していた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
あたしは大馬鹿者だった。桂と柚明を守り支える為に、仕事を抛り捨てて間近に添いに
来たのに。己の正体を悟られる事を嫌い怖れ遠ざけた結果、肝心の桂も柚明も危うくさせ。
鬼切部の詰めの甘さを問う資格はあたしもない。あたしも敵方に騙され納得し疑いもなく。
あたしが間近にいたにも関らず、桂を失う事にでもなったなら。柚明に負荷を掛けて生
命を失わせる事にでもなったなら。羽藤の血筋を絶やす事にでもなったなら。ちゃんと天
寿を全うしても、真弓にも笑子さんにも姫様にも、あたしは顔向けできないじゃないか!
あたしは己を守る為に、数十年後の心の傷や涙を怖れて、今の桂を間近に守り助ける事
を怠った。一番たいせつな人を、一番大切な人の危険に、即座に駆けつけてやれなくて!
「桂っ……!」「サクヤさん」「観月の娘」
結果は苦々しくも安堵できる内容だった。
桂と益田貞子は鬼に襲われる寸前で烏月に守られ、益田時子の身体を被った鬼はノゾミ
が連れてきた猫又に葬られ。猫又は元々時子が飼っていた猫で、飼い主の仇を討ちに化け
て鬼に成った様だ。飼い主の妹を案じる想いと貞子周辺をうろつき始めた鬼の気配を察し、
貞子と帰る桂を尾行し機を窺っていたらしい。
ノゾミが桂の血を猫又に呑ませて力を与え、仇を取らせた措置に烏月は渋い顔だったけ
ど。鬼を倒すのに鬼を使う手法は、好ましくなく映った様だけど、今回だけ目を瞑ってく
れて。
あたしは今回も又、間に合わなかった……。
遅れて到着した増援に鬼の屍の処置を委ね、烏月は益田貞子と猫又を益田宅へと護送す
る。見ず知らずの鬼切部より、桂と知り合いで直接守りに参じた女子高生の烏月の方が、
貞子も受け容れ易いし、今後の猫又との付き合い方にも注意しておく必要があると感じた
様だ。
あたしやノゾミがいれば桂は安全と、その帰宅は任せてくれて。任務完遂まで気を抜か
ず、私情を棚に上げてお堅いのが烏月らしい。そこで感応の力を持つノゾミが、あたしの
表情と挙動から、柚明の危機を読み取れた様で、
「ゆめいが、危ないの?」「お姉ちゃん?」
柚明は桂の身体に、自身の事情に全く遠慮せず蒼い力を注ぎ込んでいた。鬼を灼き敵を
弾く蒼い力を。それは癒しと言うより呪縛を防ぐと言うより、鬼が掴めば痺れを与え、牙
が突き立てば触れた肌から牙を溶かす様にと。
膨大な力を送れば己がどうなるかは承知で。
烏月やノゾミが突破された時の守りの為に。
助けが駆けつける迄の繋ぎに生命を注いで。
「柚明には桂が安全になれば、自身の癒しに戻れと言ってある。今時点で力が流れ込んで
くる感じはないだろう? 早く家に帰るよ」
桂の守りはあたしが間に合わなくても烏月やノゾミが間に合ったけど、今の柚明は周囲
に誰もいない。今度こそあたしが柚明に間に合わせないと、あたしは終生自身を許せない。
「柚明お姉ちゃん……」「早く行くよっ!」
悪い想像に身と心を震わせる桂を、竦んでいる場合じゃないと叱咤して、来た道を反対
向きに今度は桂と疾駆する。左横でノゾミが、
「私は先に、現身をゆめいに飛ばすわね…」
憑坐(よりまし)ではないけど柚明とノゾミの繋りも生命と想いを重ね合って濃く深い。
オハシラ様だった柚明が青珠や桂に己を飛ばせて顕現させた様に、霊体ならそれは叶うと。
「先に行ってゆめいの状況を見て助けるから、あなたは確実にけいを家に連れ帰るのよ
…」
返事を待たず気配が消える。でも次の瞬間、
「いたっ!」「桂っ……」
馴れない全力疾走に、桂が足を絡ませて転んでしまう。すぐ起き上がるけど、息が荒い
のと膝を擦り剥いて血が流れ出ている事と…。
「ああ、どれ。しようがないね」
修練のない桂に早い疾駆は望めない。あたしが抱えて走る方が早い。三日月の夜なので、
あたしもそれ程力はないけど。華奢な身体をお姫様だっこに抱え、擦り剥いた左膝に舌を
当てて消毒に軽く嘗め、少量贄の血を受けて、
「サクヤさん。ちょっと、恥ずかしいよ…」
「黙って抱かれてな。あんたのつたない走りに任せていたら、家に着く迄に朝になるよ」
「ううっ、幾ら何でもわたしそこ迄遅くは」
「良いから。大人しく身も心も預けるっ!」
はい。却って頬の血色が増した桂を抱え、
「桂、かなりスピードアップするから、少しの間、目を瞑っていてくれるかい」「うん」
観月の力を解き放つ。この姿は、桂の間近や町中で正体を晒す事は、避けたかったけど。
こうなったのもあたしの所為だ。返ってくる結果は、あたしが受け止める他に術がない。
今は一刻も早く、柚明の元に桂を送り届ける。目を開いて見られても、それはその時の話
だ。
一番たいせつな人を守りつつ、たいせつな人の元へ疾走し。胸の内に寄せられる頬の温
かさが、あたしに力を与えてくれる。両腕に掛る生命の重さが、あたしを励ましてくれる。
こうなってあたしは漸く、自身がずっとたいせつな人を抱き留めて、間近に守る事を渇
仰していたと、切望していたと、思い出せた。あたしは元々、姫様も笑子さんも柚明も桂
も、遠目に見守りたく望んでいた訳じゃない。こうして抱き留め、生命の温もりを確かめ
つつ、その息吹を感じつつ、守り支えたかったんだ。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「只今っ、柚明」「ただいま、お姉ちゃん」
玄関で桂を下ろし、豆電球の中を奥の間に駆けつける。半開きの襖の向うで布団に身体
を横たえた柚明は、月明り以上に蒼く輝いて。
「お帰りなさい。桂ちゃん、無事だった?」
声も表情も穏やかだけど、柚明は苦しい時も桂を心配させない為に、己の無事を装える。
それを知っていると言うより、考えも何もなく桂は唯、柚明の温もりを欲して布団の間近
に駆け寄って。柚明もそれを分るから、左腕を布団から出して桂の両腕が絡みつくに任せ。
「わたしは全然大丈夫っ。烏月さんもノゾミちゃんもサクヤさんもみんないてくれるから。
安心だからお願いだから、無茶しないで…」
事実を言うと間一髪だった。柚明がいなければ、或いはその気付きが少し遅れていれば、
烏月の助けも間に合わなかった。柚明が連絡を取ってくれたお陰で桂は守られ、送った蒼
い力は使わずに終えたけど。不要だ等と言えた状況ではなかった。その無茶が桂の生命を
繋いだと、桂は分って柚明に無茶しないでと。
「良かった……元気に握り返してくれる腕の感触が、荒い息遣いと確かな声が、嬉しい」
「良くないよ。お姉ちゃん、又無茶して!」
オハシラ様の蒼い衣から滲み出ていた多量の鮮血が、布団の色も染め変えていた。桂が
助かったと分って以降力を癒しに回しているから、今は傷口は塞がりつつある様だけど…。
「わたしは、大丈夫。桂ちゃんさえ元気なら、それを励みにわたしは何度でも、頑張れ
る」
満たされた笑みを浮べるけど、幸せそうに眼を細めるけど、あの緊迫が嘘の様に平穏だ
けど。ノゾミは布団の中にいた。柚明の右にぴったり身を添わせ癒しを及ぼし続けている。
「……わたしの、血を吸って」
ノゾミとあたしの目線があるのも構わず、
「わたしの贄の血で力をつけて傷を治して」
覚悟を定めた低い声に、柚明は左手を桂の絡みつく腕から外し、桂の擦り剥いた左膝に、
「お姉ちゃん?」「柚明、あんた」
吸う程の血も出てなかった箇所だけど、あたしがさっき軽く血を嘗めたそこを、柚明は
するりと力なく撫でて、傷を治し痕迄消して。血を呑むのではなく逆に掠り傷に癒しを使
い。
「こんな掠り傷治すのに、力を使わないで!
傷を治して血を止めてしまわないで。お姉ちゃん、早く治さないと生命が危ういのに」
早くわたしの血を吸い上げて。早く贄の血を啜り取って。そうじゃないとお姉ちゃん…。
「有り難う、桂ちゃん。でも、大丈夫なの」
でも起き上がる様子は見せず、取り縋る桂の両手を、その左腕に再度絡みつかせつつも、
「もう力の量の問題じゃないから。後は時間さえ掛ければ傷は治せる。必要なのは力の源
ではなく、持続的な作用なの。だから……」
破妖の力は弱まり続けている。今は抑えを失ったから傷口が開いたけど、その所為で逆
に更に力を消耗し弱まった。もう柚明だけの力で充分抑えられる。常の柚明ではなく、今
の柚明でも充分抑えられると。そう言えば…。
「私が付き添って癒せる位迄、ゆめいの容態も持ち直せて来ていたって事なのよ。けい」
あたしがここに着いた月曜夜は、深手過ぎてノゾミが癒しを及ぼせなかった。ノゾミの
癒しは憶え始めで未熟な為に、生命に関る危うい傷には未だ使えないと柚明は言っていた。
「じゃあお姉ちゃん、生命に別状ないの?」
その事に気付いた桂の念を押しての問に。
柚明は正視を返してゆっくりと頷き笑み。
「痛みと出血が増すけど、完治は早まるわ」
ほっ……。その事をまず胸の内に浸透させ、全身の力が抜けた桂の姿勢が崩れ落ち。あ
たしも正直、ほっとして気力が抜けた。千数百年生きてきても、寿命が縮まる数拾分だっ
た。
そう言う訳で。柚明の右側に、布団の内側でぴったり身を寄せたノゾミが言葉を続けて、
「2人とも、部屋を外して貰えるかしら…」
和服の少女2人が布団の中で身を絡め合う姿は、何故か見る方の頬を朱に染める。ノゾ
ミもその様を見られるのは気恥ずかしいのか、
「あなた達がいると、気が散って巧く私の癒しが紡げないの。ゆめいに早く治って貰いた
いのなら、私の癒しも加えた方が良いのでしょう? 観月の血も贄の血も、今は要らない。
今ゆめいに必要なのは私と静かな時間なの」
桂は柚明に尚取り縋りたい様子だったけど、そう言われては、却って邪魔になると諦め
て。柚明はノゾミと肌触れ合わせつつ静かな声で、
「……それではサクヤさん、桂ちゃんのこと、宜しくお願いします。今のわたしでは、一
緒に夜を過ごしてあげる事も出来ませんから」
これが実はノゾミと柚明の巧妙な提携だと勘づいたのは、桂とあたしが素直に従って退
出し、奥の部屋の襖が閉じてからの事だった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「そう言えば、サクヤさん」「なんだい?」
並ぶ布団が昨夜より近い気がする。昨夜はあたしが敷いたけど今宵の布団は桂が敷いた。
桂は未だ遅くない時間なのにテレビもつけず、布団の上に座ってあたしに正面から向き合
い、
「サクヤさんも、わたしの危険を察して助けに来てくれたんだよね?」「ああ、柚明と違
って、あたしは普通の五感に頼っているから。柚明に教えて貰っても結局出遅れたけど
ね」
役に立てなかった結果に答が苦いあたしに、
「でも柚明お姉ちゃんの危機は、サクヤさんが教えてくれないと分らなかったし。わたし
を助ける為に、危険の中へ全力で走ってきてくれた事も、とても嬉しかったから……あり
がとうございます。おかげで助かりました」
同じく布団の上に座ったあたしに頭を下げ。
「よしなよ、そんな他人行儀な」
大体、目立って役に立ってもいない訳だし。
桂を守ったのは烏月で、鬼の始末は猫又で、柚明の治癒に今力を貸しているのはノゾミ
だ。
でも、そんなあたしにも桂は優しい声音で、
「じゃあ、……ありがとう」
「いや、どういたしまして」
気恥ずかしさに耐えられず、桂の頭をくしゃっと撫でる。長く艶やかな髪を掻き回すと、
桂はその右手首を両手で抑え、左頬に当てて、
「サクヤさんの手、長くてしなやかで力強い。柚明お姉ちゃんが危うい時に、しっかりし
なきゃいけない筈のわたしが逆に心揺らされて。そう言う時にもしっかり支えに来てくれ
た」
いつもより少し大きくて爪も伸びて、やや筋肉質で。でもわたしが幼い時から知ってい
るサクヤさん。拾年前からも生れる前からも変ってない、わたしのたいせつなサクヤさん。
「……桂?」「わたしの、たいせつな人…」
そこで漸くあたしは、観月の姿が戻ってない自身に気が付いた。普段は意識しなくても、
緊張が抜ければ引っ込むのだけど、今日は少量でも濃い贄の血を得た為だろうか。瞬時血
の気が引いて身も心も固まるあたしに、桂は拒絶も怯えも警戒も、驚きさえも感じさせず。
「桂、あんた。あたしのこの姿を見て…?」
拒まないのか、怯えないのか、身構えないのか。柚明やノゾミの助けを求め叫ばないの
かと、言葉を続けられずに喉が引きつるあたしを前に、桂はあたしの手を頬に当てた侭で、
「これがサクヤさんの、本当の姿なの…?」
あたしはもう、まな板の上の鯉の心境で、
「どっちがどっちって区別は特にないけど、本気で力を使おうと想ったら、こっちだね」
今更隠しても意味はない。桂を正視して、
「あたしは山の神の娘の眷属。観月の民の血に生れた。あんたら人間とは、違う種類の生
き物だよ……」「……知っていた」
あたしの方が桂の答に驚かされ固まった。
「分ったのは最近だけど。いつ話してくれるかな、明かしてくれるかなって思っていた」
待っていたんだよ。その静かな語り口に、
「桂あんた。あたしに、驚かないのかい?」
不思議そうではあるけど怖さを感じてない。
驚きは改めてという感じで初めてではなく。
半ば以上、既に分っていた事の様な感触は。
「あ、わたしにサクヤさんのことを教えた人がいた訳じゃないんだよ。柚明お姉ちゃんも
ノゾミちゃんも、誰も漏らした訳じゃないの。気付いたのはわたしの自力というか、偶
然」
わたし経観塚の夏から今迄何も気付かずに。
この偶然がなければ今後も気付けなかった。
「分ったのは今週に入ってからなの。夢が」
夢? あたしのオウム返しの答に桂は頷き。
「サクヤさんにも経観塚の屋敷で烏月さんや葛ちゃんと一緒のちゃぶ台で、お話したよね。
ノゾミちゃんに血を吸われて、血には心も宿るから、ノゾミちゃんにわたしの心も入り込
んで、一緒にノゾミちゃんの過去を視たって。ノゾミちゃんとはそれで心通じ合えたっ
て」
多量に血を呑まれたら心も混じって、呑んだ者の過去や深層と夢で繋る。奇天烈だけど、
鬼のあたしが合理主義を語るのも意味が薄い。桂が言うからには受け容れるけど。唯問題
は、
「羽様であたしは桂の血を殆ど呑んでないし、さっき呑んだのもほんの僅か。桂はそれか
ら眠ってもいない。夢に視る筈がないだろう」
当然の疑問には当然の回答が返ってきて、
「そうじゃないの。わたしが視たのは、柚明お姉ちゃんの夢の中のサクヤさん」「あ…」
わたし、経観塚でノゾミちゃん以上に柚明お姉ちゃんに血を呑んで貰ったけど、その時
お姉ちゃんの夢は視なかった。お姉ちゃんの夢はわたしの過去がいっぱいだから、記憶を
戻さない様に夢を隔ててくれていたと思うの。
でも、今回は違っていて。多分お姉ちゃんにその余裕がなかったんだと思う。わたしの
血を呑んで貰った後、素肌と素肌を合わせて添い寝して。それで夢が繋ったんだと思うの。
「柚明の記憶にあったあたしを視て、柚明が知った本当を桂も知った?」「うん、多分」
贄の血の力の修練に伴って磨かれた関知で柚明が悟ったあたしの本当を。オハシラ様に
感応して柚明が知った姫様とあたしの過去を。
「サクヤさんが柚明お姉ちゃんの二番目にたいせつな人だって言う事も、分っちゃった」
柚明の一番は桂と白花だけど、あたしを二番に想ってくれている以上、夢が繋れば桂も
視える。柚明に伝えたあたしの真実もきっと。桂はいつそれを話そうか惑い、あたしが明
かさないと踏み込めないと、今迄黙っていた…。
「でも、二番目でも、そこ迄深く想い合えるって、素晴らしい。生きても死んでも、ここ
迄深く絆を繋げるなんて、そうそうないよ」
手を離しても向き合う桂は穏やかに笑み、
「桂あんた。あたしが怖く、ないのかい?」
あたしは、人間じゃないんだよ。あんたの血を吸って力に出来る、鬼なんだよ。ずっと
今迄、その事をあんたに言わずに黙っていた。あんた少しは疑ったり怖がったりしないか
い。
「怖くないって言ったら嘘だと思う。多分。
わたしは今迄全く知らなかったから。サクヤさんを人だと想って拾数年生きてきたから。
お姉ちゃんと違って、徐々に悟るって感じでもないし。突然の話で、正直まだ驚いている。
……でも、怖いより好きの方が大きいよ」
「……そうかい」
「わたしのたいせつな人だもの」
お母さんもお父さんも、お祖母ちゃんも柚明お姉ちゃんも、サクヤさんの真実を知って
家族に受け容れていた。一緒に過ごしていた。今迄と何一つ変らない、わたしのサクヤさ
ん。
桂は敢て正面から躙り寄ってきて、座った侭のあたしの胸に身を預け、背に腕を回して。
怖くないと。たいせつな人だと。今の気持を伝えたいと。あたしの身も心も確かに捉まえ。
あたしは恐る恐るその背に両の腕を回し、
「憶えているかい。この家でのあたしとあんたの馴れ初めを」「……うん。最悪だった」
桂が夏の羽様で過去を全て思い出す迄に持っていた、あたしについての一番古い記憶は、
「あたしが、この新居に落ち着いたばかりの真弓を、どやしつけに来た時だったかねえ」
「わたしは全部忘れた直後だったんだよね」
「正樹の血塗れの死が幼心に傷になった様でね。あんたは心の深手から自身を守る為に全
てを忘れ、でもそのお陰で正樹も柚明も笑子さんもそれ迄の羽様の全てを忘れ。怒る事も
泣く事も笑う事も忘れ、声も意志も失って」
あの夜の一件で、正樹が死んで姫様が失われて、柚明が継ぎ手を担い白花は行方不明で。
羽藤の家の瓦解を前に、何も出来なかったあたしは自分の憤りを真弓にぶつけてしまって。
真弓はそれを真正直に全部受け止めて、受け止めて、最後には耐えきれず泣き崩れてねぇ。
「柚明に申し訳ないって。あそこ迄して貰いながら、彼女が願った双子の幸せを守れなく
て、柚明に合せる顔がないって。あたしは」
真弓があんな風に泣き崩れるのなんて見た事もないし、想像も出来なかった。その傷の
深さを測る余裕さえなくて。真弓の涙を前に、漸くその痛みの辛さを思い知らされて。あ
たしが応対に戸惑った時に、挟まって来たのが、
『お母さんを、いじめないで!』
「こうやって、あたしに身を預けてきたんだ。真弓をどやしつけていたあたしに正面か
ら」
その時を思い出してか桂も頬を染めて俯く。
「暫く2人であんたが喋って動いた事に驚かされて。次に真弓は涙を流して喜んで、あた
しが悪いんじゃなく、自分が悪かったのと」
「お母さん、涙を見せた事ない人だったから。わたしショックに動揺して、サクヤさんを
お母さんを泣かせに来た極悪人だと誤解して」
「ああ、実際泣かせに来ちまった訳だけど」
あたしが桂に、もう真弓を泣かせる事はしないからと謝って、一生懸命許して貰ってさ。
泣いて怒って、最後に笑いかけてくれて。
あの日から、桂の人生は再び動き始めた。
「あの時あんたは、幼心に真弓を守ろうと必死に牙を剥き、自分で意志と声を取り戻した。
たいせつな人を失って、怒り嘆き人を責めるだけだったあたしに較べ。非力でもたいせつ
な人を守りたい想いが、桂自身を取り戻して。
あたしは7歳のあんたに希望を見出した」
全て失われた訳じゃない。幸せの芽は残されてある。まだ取り戻せる物がある。失った
多くは取り返しのつかない物でも。その痛みは心を裂く程でも、希望は尚残されていると。
「あんたを心から、守らせて欲しく想った」
姫様の裔ってだけじゃなく、笑子さんの孫ってだけじゃなく、真弓の娘ってだけじゃな
く、あたしはあんたに、羽藤桂に心惹かれた。あんたの涙に、怒りに、微笑みに心救われ
た。
悪夢に泣き叫んであたしの腕を掴んできた小さな腕が、真弓と2人きりで身を寄せ合っ
て暮しあたしが訪れると弾けた様に喜ぶ姿が、記憶も想い出もなくして強ばった顔が徐々
にほぐれて笑みを取り戻す様子が、あたしには何にも替えられない、たいせつな物になっ
て。
分ったんだ。寂しかったのはあたしだって。あたしが桂を慰めたんじゃなく、あたしが
桂に慰めて貰っていたんだ。桂の笑みが、あの瞳が、声が、あたしに尚希望を残してくれ
た。
「あたしにも、生きてある限りこの身を捧げて尽くしたい、守りたい人が再び出来た…」
観月の仲間を失い、笑子さんを失い、姫様を失い、柚明や羽藤の家を失って尚守りたい。
守る為に生き続けたいと願う、あたしの生命の値、生きる意味。守らせて欲しい心の太陽。
大切なだけじゃなく特別な人。
特別なだけじゃなく一番の人。
この世に唯1人と、思える人。
「あんたが、あたしの一番たいせつな人だ」
だからあたしは柚明を一番には出来ない。
だから柚明もあたしを一番には出来ない。
お互いに深く愛し合っているけど。強く惹かれ合っているけど。確かに想いは通じても。
「羽藤桂が、浅間サクヤの一番の人だから」
答は桂が返したい時で良い。どんな答もあたしは受け容れる。急がないし求めもしない。
告げたかったんだ。桂があたしの守りたい全てだと。この本当を伝えて分って欲しかった。
もう遠目に見守るなんて事はしない。怖れる必要は何もなかった。拒まれても嫌われて
も隔てられても。あたしは桂を守りたかった。愛したかった。受け容れて貰えるかどうか
等、百年後傷つくかどうか等所詮あたしの問題だ。柚明が正解だった。桂の幸せと守りが
全てだ。
下らない怖れを抱いていた己が愚かしい。
華奢な身体を心の限りぎゅっと抱きしめ、
「愛させておくれ。あたしのたいせつな人」
あたしと桂の初めての夜が静かに更ける。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「柚明、ちょっと良いかね?」「……はい」
ノゾミは青珠に戻っていた。馴れない癒しを紡ぎ続けるのは大変な様で、朝迄は保たな
いらしい。桂も寝付かせた今起きて話すのは2人だけ。柚明がノゾミの癒しを受けたのは、
その消耗も見込んで2人きりの場を作る為?
身を横たえた侭でも良いと言うあたしに、
「いえ、大事なお話なので起きて承けます」
この娘は生真面目に義理堅く身を起こす。
「桂に……あたしの本当を全部告げてきた」
言葉の硬さは不機嫌ではなく緊張の故だ。
「あんたの一番にたいせつな桂に、観月のあたしの一番の人は桂だって、確かに告げた」
「……よかった。想いは、届いたんですね」
それを桂ちゃんも喜んでくれたんですね。
心底嬉しそうな笑みを見せて、この娘は。
愛おしさより怒鳴りつけたい想いで睨む。
桂に向けて以上に、柚明にこそ通告が必須だった。桂に真実を明かし本心を告げた以上、
最早あたしに退く積りはない。今迄の様に優しげに接されても、あたしはもう今迄通りは。
「あんたの招きを、承ける事にしようと想う。その前に、一つ念押しさせて、貰いたい
…」
深く通じ合えた仲だからこそ声音は低く、
「……あんたは、良いんだね? 柚明……」
柚明の蒼のみが穏やかに滞留する一室で、
「あたしは桂に全てを明かし、全てを賭けて桂を求めた。もうあんたにも譲る積りはない。
甘い事を言っているとあんたが悔いを残すよ。桂の幸せと守りが一番なのはお互い様とし
て、二番に恋敵であるあたしを置けば、あんたが苦悩し最後に必ず涙を見る。桂があたし
を選んでも、他の誰を選んでもあんたを選んでも、優しいあんたは結局どこかで心に傷を
負う…。
せめて桂だけを想い、他を全て切り捨ててしまえるなら、少しは心も痛まないだろうに。
これ以上傍に競争相手を増やして良いのかい。ノゾミも烏月も葛もあたしも、本気なんだ
よ。
あんたは心の優しさ故に、己を引き裂く申し出を自ら為している。その事を分っても尚、
あんたはあたしの同居を望んで招く積りかい。あたしはあんたが今拒むなら、この話しは
なかった事にして、忘れ去っても良いんだ…」
敢て訊くよ。一度だけだ。
「桂を一番に想い桂の一番を望む羽藤柚明は、同じく桂を一番に想い桂の一番を望む浅間
サクヤの、恋敵の同居を望み招く積りかい?」
あんたではなく、あたしが桂の近くに居続ける未来を、あんた自身が選び取る事になる
かも知れないんだ。それにあんたは納得できるのかい? あんたは自身を許せるのかい?
あたしの気力を絞った渾身の問いかけに。
柚明の答は迷いもなく呆れる程に明快で。
「どの様な結果になろうとも、桂ちゃんの日々に笑顔が残ればそれがわたしの幸せです」
どんな未来を招こうと、桂ちゃんの守りが叶うならそれがわたしの望みです。わたしが
鬼に成って迄あり続けたのはその為ですから。
親しみを断ち切ろうと、敵意抱かせようと必死に奮い立たせた闘志が柔らかに受容され。
「一度だけの問に、一度だけ答えます」
それがわたしの正解です。間違いなくそれがわたしの真の想いで真の願いで、真の望み。
「桂ちゃんがサクヤさんの本当を知って、真の想いを知ってサクヤさんを一番に想うなら、
それがわたしの幸せ。サクヤさんと日々を過ごし、更に深く心通わせ、サクヤさんを選ぶ
なら。それがわたしのたいせつなサクヤさんの真の幸せなら、尚の事幸せ。わたしは…」
桂ちゃんの正解なら、葛ちゃんでも烏月さんでもノゾミちゃんでも他の誰でも正解です。
「わたしが桂ちゃんに一番に想って貰えるなら幸せですけど……それはわたしから手を伸
ばす物ではないと思っています。わたしは」
桂ちゃんの幸せを見届け終えたなら、もう一つ為さねばならない事が控えていますから。
「柚明あんた、まさか……?」「……はい」
あたしが向けた驚きの視線に、柚明はそれ迄の幸せそうな笑みを一変させ、淋しげとも
厳しいとも切ないとも取れる、憂いの真顔で。
「もう1人の一番たいせつな人を、この生命を尽くして助け出さねば、なりませんから」
多くの言葉が不要な程その覚悟は悲壮で。
「あんた、白花を……主を、倒そうと…?」
桂を巡る様々に気を取られ、あたしも時々想い返す程度だったけど。近日の目前の諸々
に振り回されて、棚に上げっ放しだったけど。白花は今この時も羽様のご神木で、主を封
じ戦っている。それを柚明は片時も忘れず慚愧を胸に抱き続け、何とか助け出そうと願い
…。
「わたしの、一番たいせつな人。
わたしの為に戦ってくれた人。
身体も失ってご神木に宿り、儚い霊体だけの存在になったわたしを想い続けてくれた人。
確かに生きているとも言えない状態のわたしを、鬼を身に宿して尚救けに来てくれた人。
最後にはわたしが望んで負うた鬼神の封じを、その若い身空に引き受けてくれた人…」
わたしを愛してくれた人。
わたしが心から愛した人。
桂ちゃんと同じくたいせつな、一番の人。
柚明が、泣いていた。哀しげな顔を見せても痛みに顔をしかめても、嬉し涙以外で涙を
見せた事の殆どない柚明が、瞳に涙溢れさせ。肩を、両手を、オハシラ様の衣姿を震わせ
て。
白花に封じの要を奪われた事は、柚明には真の悔いだった。人の身を戻し、桂と共に日
々を過ごせる喜びに、桂を間近で守り愛する幸せに身を浸しつつ。正にその結果白花に封
じの要を負わせた事に、柚明は心底哀しんで。桂と過ごす幸せと同じ位、懊悩し心軋ませ
て。あたしも、この瞬間迄考えも及ばなかった…。
烏月にもノゾミにも葛にもあたしにも、桂は一番だったけど。柚明には、桂だけではな
く白花も一番だった。柚明が桂に抱く想いと同じ想いを、彼女が白花にも抱いていたなら。
己の手の及び得ぬ処で最愛の人が傷む様を。
己の為に承けたその苦痛を見守る他になく。
この日々は柚明には幸せと同時に地獄だと。
桂を哀しませず、その幸せに影落さぬ為に。
桂には笑みを返しつつその悲嘆を繕い隠し。
柚明はこの拾年より今が辛いのかも知れぬ。
「わたしは、無力です。白花ちゃんをご神木から救い出す事が出来ない。封じの要を白花
ちゃんから奪い返す術も持たない。主を倒すどころか、この身は鬼切り役にも尚及ばない。
一番たいせつな人に悠久の責め苦を負わせ、己は豊かで平安な人の世を過ごし。寝てい
る時も起きている時も戦い続ける彼を、その優しさに守られたわたしは助け守る術がな
い」
桂と柚明を救えて一件落着と、あたしも想っていた。白花があたしには3番だというよ
り、これ以上は望めないと誰もが感じていた。白花の犠牲をやむを得ないと、みんな無言
の内に受容していた。唯1人、柚明を除いては。
柚明だけはこの決着を了承してなかった。
「わたしが戦い続ける限り全ては終らない」
言葉も思考も失って暫く固まるあたしに、
「諦めない限り、挑み続ける限り、当事者の片方であるわたしが手放さない限り、望みへ
の途は残っている。諦めた瞬間、全ては終る。手放した瞬間、望みは消える」
真弓の言葉を柚明は胸に烈々と抱き続け。
「もし桂ちゃんがわたしを望んでくれるなら。わたしは終生その幸せを支え、その終焉を
見届けてから白花ちゃんの助けに行く積りです。もし他の誰かが桂ちゃんの一番として望
まれ、その幸せと守りを叶えてくれるなら。わたしはその様を喜び祝い見送って、数十年
は早く彼を助けに行ける。彼は今現在も一分一秒戦い続けているわ。少しでも、急ぎたい
の…」
柚明が今それを為しに行かないのは、力不足以上に、白花との約束がある為だ。白花が
桂と柚明の日々の幸せを望み、柚明に桂を託したから。桂が柚明以外に一番の人を見つけ
幸せを掴めたら、柚明をここに繋ぐ物はない。
柚明はあたしに向き直って確かな視線を、
「遠慮なく、桂ちゃんの心を奪って下さい」
柚明はこの夜を待っていた。あたしが桂を奪うと告げに来る今を。あたしが本気で桂に
向き合う迄言えないと。退く積りがある様な者は、柚明の恋敵の資格を持たぬと言う事か。
あたしは今宵初めて柚明の公敵になれた様だ。
温かに、でも強い意志の籠もった微笑みが、
「……わたしは、譲りませんから」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
日々は雑事に関る内に駆け抜ける様に過ぎ。
実に青々とした引っ越し日和の冬晴れの元、
「よしっ、こんなものかね」
迎えた桂を前に、あたしが荷を披露すると、
「サクヤさんの荷物、これだけなの?」
結局クロカンに収まった程度の荷物を前に、
「ん? 仕事用の機材は別の処に預けてあるからね。冷蔵庫とかの家電も揃っているから
持ってくる必要はないし、むしろ余り持ち込んだら、あたしの寝床がなくなりそうだし」
ノゾミも含め4人が暮らすにはこの木造アパートはかなり手狭だ。密着感が好ましいと
いう、頬を染めた一部の意見に頷くにしても、荷は少ないに越した事がない。あたしの名
も記した表札を固定させて近づいて来た柚明が、
「物に拘らないサクヤさんが、住処を変えても持ち続ける物よ。きっと一つ一つが想いの
宿るたいせつな品。丁寧に扱いましょうね」
「うん……。それにしても重いなぁ、これ」
『中身は一体何だろう?』と顔に書いてある。
桂が先頭を切って荷を運び始めるけど、重さに戸惑うと言うより、足取りがやや危うい。
「ああ、それはあたしが持つよ」
「いいよ大丈夫。……でもこれ中身何? 本とか……?」「アルバムだよ。流石にあたし
位長く生きると、すごい量になるからねぇ」
「サクヤさんは、フォトグラファーだから」
柚明の言葉に頷きかけて、気付いた桂が、
「ってゆーか、サクヤさん写真出来てない時代の方が長いでしょ……わっ、わわわっ!」
「ちょっと、桂!」「桂ちゃんっ……」
振り向こうとして、荷の重さにバランスを崩し。柚明の力に支えられて、漸く持ち直す。
「まったくあなたはいつもそうなんだから」
窘める声、宥める声、叱る声。どれもがどれもたいせつな人を心から愛でる確かな想い。
今日からあたし達の新しい生活が始まる。
あたしが一番たいせつに想う人は、長くてもあと百年は生きられない桜花の民だけど…。
いずれ終り行く幸せと知って尚。
最後に手に残る物はないと分って尚。
あたしはたいせつな人を全身全霊愛したい。
姫様の想い出が、千年を経て尚この心を温めてくれる様に、桂や柚明達との日々も、千
年先に想い返して悔いのない物にして行こう。
訪れの果て迄、譲らない想いを確かに抱き。
あたし達は今現在を全力で生き抜いて行く。