変えられぬ決を覆し


「千羽党が鬼切り役、千羽烏月。入ります」
「渡辺党が鬼切り役、渡辺威。参じました」

 複数の鬼切り役が肩を並べ歩む図は、若杉の中枢でも多くない。数十の画像を映す暗室
で出迎えるのは、わたしと秀郷さんと恵美さんだ。烏月さんの驚きは、我々が背を向け画
面に見入る故ではなく、映された人物の故で。

「そー硬くならずに。烏月さんも威さんも」

 もっと砕けた応対でいーのですと、烏月さんと威さんに向け語りつつ、でも振り向かず。
わたしは、2人の若者に間近に言い寄られて困惑している桂おねーさんの動画を眺めつつ、

「今少し成行を見守ろーではありませんか」

 待ち合わせ時刻は五十分過ぎていた。桂おねーさんは全天候型室内リゾート施設裏口で、
少し年上の男性2人に間近に迫られて困惑し。

 柚明おねーさんも傍にいない。待ち続けて喉が渇き気味な桂おねーさんに、飲物を買う
と場を外して。右左から後方から正面上から、防犯カメラの複数の視点と焦点をわたしの
依頼で、彼女と彼女に絡む男達に合わせて貰い。

 烏月さんの右に立つ威さんが、冷静な声で、

「ヘルシードームタナカは若杉資本ではなかった筈ですが」「蛇の道は蛇ですよ、威さん。
同業他社は時に敵であり時に取引相手であり、時に第三の敵に対抗する味方でもありま
す」

 手順を踏めば、若杉資本でなくてもこの位の情報入手は難しくない。問題は本人達の了
承を得てない事だ。烏月さんの問に先んじて、

「お2人にはこの事はお話しして謝ります」

 今はおねーさんを巡る推移を注視したい。

「ですが葛様」「会長の、頭のご意志です」

 絶対不可欠な事柄ではない。そうと分って。あれば良い位の事で覗き見は如何かと、頭
を諫める烏月さんを妨げたのは、先月の一件以来わたし直属になった秀郷さんだ。痩身で
やや背の高い、白銀の真っ直ぐな長髪の三拾歳代半ばの美男は、異論の所在を顔色に示す
烏月さんと、冷徹に無表情な威さんを並べ見て、

「あなた達は実戦部隊です。賜った使命を忠実に行う者です。感想や意見は求められた時
出せば良い。鬼切りの頭を諫めよう等、最近あなたは頭との私的な関りに甘え過ぎです」

「そーでは、ありませんよ。秀郷さん……」

 若杉と鬼切部の懸隔を示したくて堪らない彼のエリート意識は、少し抑える必要がある。

 人の良い桂おねーさんが、男性2人の誘いを正面からは断れず、困惑の色を深め行く様
を暫く眺め置き。その場に馳せて、彼女に付く悪い虫を追い払いたいのに違いない烏月さ
んを、わたしは振り返っての正視で一度抑え、

「確かに威さんや烏月さんは、実戦部隊です。使命は忠実に為して頂きます。ですが命令
には前提や目的があります。前提と現状が違うと思えば、使命の目的が不明なら、存念を
伝え説明を求め認識を共有する事は重要です」

 わたしはあなた達に、単なる使命の実行者以上の役割を望んでいます。諫言も直言も歓
迎します。わたしは最年少の若輩者ですから。色々な意見は知見を広げますし、対話の中
で互いの人となりも掴めます。時間や手間は惜しみません。最後は命に従って貰いますけ
ど。

 その上で。烏月さんの想いは分った上で尚。

「今暫く状況を見守りたい。大丈夫です。この程度は桂おねーさんには危機でも何でもな
いです。烏月さんが出向く迄もないと一番分っているのは、烏月さんだと思うのですが」

 桂おねーさんに迫る男性2人は、偶々彼女を見かけて寄り付いた一般人だ。鬼でも鬼切
部でも犯罪者でもない。心配は不要だ。烏月さんは桂おねーさんの力になりたく想うから。

「しかし葛様」「千羽さん」

 わたしの頭右斜め上間近で発された静かな女声が、烏月さんの問をもう一度阻む。椅子
に座したわたしの傍に沿って佇む恵美さんは、奨学生として海外留学し、その侭大学へス
キップ早々学士号まで習得した、天に二物も三物も与えられた才色兼備の人だけど。それ
よりむしろその経歴を経て尚、非合理の塊と言うべき鬼切りの世界に半分首を突っ込んで
も、精神の均衡を失わない強さにその真価がある。

 鬼や鬼切りのいる現実を目にして尚、ある筈がないと心を閉ざす『合理主義』でもなく。
常識を砕かれ逆に心霊に嵌る脆さとも無縁で。柔軟に目前の現実を見定め、距離感をもっ
て対処できる。この世には分らない及ばない事があると認めつつ、己の職分と適性を知っ
て、必要なだけ関って深入りを避ける賢さを持つ。

「会長は彼女の対応を欲しておられるのでは。それは会長が見たいと言うより、むしろ…
…。不測の事態に備え要員は待機させました。警護態勢は万全です。今暫く見守りましょ
う」

 余り会う機会もなく、ソリも合わない秀郷さんと恵美さんが、今日は珍しく意見一致し。
事が動き出した以上、わたしの意図が結果を出す迄控えようと。黙して画面を見る威さん
に対し、烏月さんはわたしの意図を承知で尚、

「ですが、これでは葛様がこの状況を招いたに等しいです。柚明さんは」「でしょーね」

 その懸念は、柚明おねーさんの反応にある。待ち合わせ時刻を小刻みに三度延期したの
は、この状況を誘発する為と彼女はほぼ確実に見抜く。彼女の応対を試す如き行いに、わ
たしの意図も目的も、彼女は察して来るだろうか。

「最早これも悪あがきですけど。果して彼女は、わたしを許してくれるでしょーか…?」


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「いーだろぉ? ねっ」「ぁあの、わたし」
「少しだけ遊んでよっ」「待ち合わせが…」

 男性2人は平均より太い腕や肩口、太股を見せる薄着でいた。間近の施設は人工的に常
夏なので、桂おねーさんを見初めて出てきた彼らの格好も分るけど。見ていると寒そーだ。

 桂おねーさんは土曜日午前9時との約束で、柚明おねーさんと2人で拾分前に着いたけ
ど。三度続けて、拾五分程遅れる旨を伝えていた。後少しで行くのでそこで待っていて下
さいと。

 結果2人はここで、1時間近く釘付けにされていた。漸く桂おねーさん達と逢えるのに、
直に向き合う時間を潰して迄して、わたしが彼女達の困惑を隠し撮りして配信するのは…。

「わたし、その、待ち合わせに来ていて…」
「本当にかわいぃね」「中で少し暖まろう」

 彼女は太い円柱に背を張り付かせ、穏便に断ろうと望むけど、その善意に付け込む様に
彼らは馴れ馴れしく声を掛けて、身を寄せて。人工的に日焼けした肌も、茶と金に染めて
中途半端に尖った髪も、声も容貌も軽薄そーで、桂おねーさんならずとも避けたい相手だ
った。

 女子校に通う桂おねーさんは男性に密着された経験も少ない筈だ。気丈に己を保つけど、
視線は泳ぎ、言葉は詰まり、身体は強ばって。背後で烏月さんが言葉もなく殺気立ってい
る。

 男性達は、相手の主張は聞き流し自分達の話だけ進め、施設内に連れ込もうと。腰を引
き気味な様子を察し、でも強硬に断ってこない弱気も察し、やや強引でも行けると見通し。

 周囲に人影はない。一番近い人は施設の中の受付だけど、外気と隔てられ声が届かない。
間近に第三者の視線もない。不安を何とか表に出さず、苦笑いで断ろうとするその場に…。

「桂ちゃん、どうしたの?」「お姉ちゃん」

 少し離れた自動販売機で買ったお茶を手に持って、柚明おねーさんが姿を現す。男性2
人が邪魔者に瞬時眉を寄せるけど、たおやかな姿に彼らの警戒は緩み、逆に瞳を見開いて。

 彼らの注意が別に向く隙を察した桂おねーさんが、2つの身体をすり抜けて従姉の元に
走り寄り、その右肩に縋り付く。桂おねーさんは素人だけど、人の動向の読みが時々巧い。

 幼子が父母に沿う様にその右腕に絡みつき。心細さは分りますけど、少し密着しすぎで
す。柚明おねーさんは、従妹が向けた視線の先に、男性2人を視界に入れて柔らかに微笑
みかけ。

「こんにちは。桂ちゃんに何かご用ですか」

 柚明おねーさんは桂おねーさんの説明を要せず、事を把んでいる。優しげに会釈して訊
ねるけど、男性2人の望みもこの時点で既に。それで尚語らせるのは求めを受けて断る為
か。

 男性達が一瞬目を合わせるのは、柚明おねーさんの綺麗さに目を見張った為か。絶対逃
すまじと言う視線の会話が、読み取れました。

「お姉ちゃんなんだ。ほぼ同じ歳に見える」
「キレイだねぇ。待ち合わせって彼女と?」

 桂おねーさんの話を受け付けず流して置いて、その中身は把握していましたか。全く…。

 男性2人は相手が大人しげな女性だと見て、食いついてきましたよ。さて、どー出ます
か、柚明おねーさん? 皆に見せてあげて下さい。あなたの在り方を、あなたの流儀を、
真価を。

「2人に2人で丁度イイ! 外は寒いしサ」
「中は気温も真夏だし、プールも愉しいヨ」
「大丈夫、俺達優しいから警戒しなくても」
「マジでマジでちょっと遊ぶだけ。もちろん奢っちゃう」「人数多い方が楽しいでしょ」

 金髪の男性が柚明おねーさんの空いている左手を取って、やや強引に引っ張ろうとする。
でもその手は確かに掴んだ筈なのに、引っ張ろうとした時点でするりと抜けて、拍子抜け。

「桂ちゃんの説明不足と言うより、日本語って難しいわね。わたし達2人がここで待ち合
わせをしていた訳じゃなく、わたし達2人でここに来る筈の2人の人を、待っているの」

 柚明おねーさんは、従妹を左腕に抱き留める姿勢に変っていた。右腕に絡めた状態から
の動きは実は奇術だけど、滑らかさの故か誰も気付いてない。茶髪の男性は、金髪の男性
の動きに連動し、桂おねーさんを引き剥がし、2人を中に連れ込もうとしていた。柚明お
ねーさんはそれを見抜き空ぶらせ、尚自然体で。敵意も不信も警戒も見せず、にこやかに
佇む。己の行いが意図して外されたのか、偶然外れただけなのか読み切れず、困惑気味な
2人に、

「お誘いは嬉しいけど、わたしも桂ちゃんも先約があるので、今日はお相手できません」

 表情も視線も声音も柔らかに、でも拒絶の意思も確かに伝え。桂おねーさんは一瞬で身
体を動かされたと今気付いた様だ。事の変転を柚明おねーさん以外、誰も把握できてない。

「桂ちゃんも今日の待ち合わせはとても楽しみにしているの。もうすぐ来ると思うけど」

「もしかして、カレシとか?」

 引っ張った腕がすっぽ抜け、バランスを崩していた金髪の男性が体勢立て直しての問に、

「そうねぇ。頼りになる人達よ。2人とも」

 少し考え込みつつ、幸せそうに微笑んで、

「2人とも、桂ちゃんの為になら財産も生命の危険も惜しまない位好いてくれているの」

 1人は、桂ちゃんに遊び気分で手を出した子を、刃物を突きつけて退けたわ。わたしも
一度誤解されて、その刃物を突きつけられた。その位、桂ちゃんを真剣に想ってくれてい
る。

 もう1人も、元気で賢くて物知りで。かなりのお金持ちだけど、桂ちゃんが危うい時に
はあらゆる手段で助けてくれるだけじゃなく、自身で危険に乗り込んで守りに来てくれた
り。

「わたしにとってもたいせつな人。だから」

 この先約を外してあなた達のお付き合いに乗り換える訳には行かないの。ごめんなさい。

 柚明おねーさんがやや深く頭を下げるのに、

「……行こうぜ」「じゃ、またな」

 男性達は施設の中へ引き上げる。柚明おねーさんは殺気も理屈も懇願もなしに、にこや
かにお話しして彼らを退けた。誰と待ち合わせるのかを明言せず、相手に誤解を抱かせる
事で、士気を下げ意欲を失わせ、退く様に事を導き。叩き潰して退ける危機でもないと思
っていたけど、ここ迄滑らかに事が終るとは。

 柚明おねーさんは嘘は言ってない。待ち合わせには烏月さんとわたしが出向く。左斜め
を見上げるとほっと息を吐く烏月さんと視線が合った。桂おねーさんはともかく柚明おね
ーさんの技量は烏月さんが良く知る筈なのに。

「財産も生命の危険も惜しまないと」

「たはは、言われてしまいましたー」

「もうすぐ来ると思うとも察されて」

「余り長く待たせても、悪いですし」

 彼女は全て見抜いている。小さな危機の決着を見てわたしが動くと、元オハシラ様はご
存知だ。それを皆に見せる為に、わたしはあの場を整えた。彼女は最も彼女らしい方法で、
状況を収拾して見せてくれた。それはわたしにも少し穏便すぎ派手さに欠けて見えたけど。

「羽藤柚明……。もう少し執拗に張り付く連中を数多く用意した方が、彼女の技量を白昼
に晒すには良かったのではありませんか?」

 先月一度煮え湯を飲まされ、通常の出世街道に別れを告げた秀郷さんは、画像の中で桂
おねーさんに密着される姿を前に複雑そーで。わたしの意図迄は察する秀郷さんの、この
程度で彼女の技量は引きずり出せないとの問に、

「彼女の技量を本当にわたしが晒したければ、鬼切り役を差し向けますよ。わたしが見せ
たかったのは彼女の在り方、応対です。それはこの小さな危機で、充分に明かされまし
た」

 さー見物は終りです。我々も舞台に出なければ。威さんは招集した各党の鬼切りの配置
を頼みます。秀郷さんは最高幹部のお守りと術者の配置を、恵美さんはおねーさん達を招
く部屋の準備を。烏月さんはわたしと一緒に。

 指示を下しつつ、わたしも共に動き出す。

「鬼切り頭若杉葛の、処断の日の始りです」


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 壱時間程後、わたし達は桂おねーさん達と若杉本邸奥の三十畳程の和室で対面していた。
時代劇の殿様の様な配置で、壁を背に座ったわたしの右隣で尾花は退屈そーに蹲っている。
左下手に烏月さんが横向きに端正な姿で座し、正面に少し離れて正対する形の桂おねーさ
ん、その右斜め後に柚明おねーさんが座している。

 彼女達から見て左は壁、右は心癒す為か整えられた中庭が開けて、小さな池に鯉が住む。
時折鹿威しの音が聞え、明りも差し込んでいるけど実は室内で、自然を装った人工の光だ。

「えーと。葛ちゃん、こんにちは。先月は柚明お姉ちゃんやわたしを助ける為に、烏月さ
んを遣わしてくれて有り難う。京都でも色々助けて貰った上で、お世話になりました…」

 正座した姿でぺこりと頭を下げる桂おねーさんも可愛い。烏月さんと出迎えたさっきは、
『葛ちゃん! 逢いたかったよ』とぎゅっと抱き寄せられて、わたしの方が赤面したけど。
こうして端正に正座し向き合うのも悪くない。桂おねーさんは本当に、目の保養になりま
す。

「葛さん、お元気そうで何よりです。先月は烏月さんを遣わして頂き、色々と守りの措置
をして頂いて、有り難うございました。京都でも桂ちゃんを助け守って頂き、わたしも色
々お世話になりました。感謝しております」

 柚明おねーさんは自然に静かに慎ましやか。綺麗でも桂おねーさんと張り合う感じがな
い。若杉に答礼に来た羽藤の形式を重視する故の、自身少し後に控え当主同士を話させる
この配置も、実はわたしと桂おねーさんへの配慮だ。

「こんにちはです。桂おねーさん、柚明おねーさん。お2人とも息災で、何よりです…」

 型式ばった挨拶は、実は好まない方だけど、その様に挨拶された以上一度はきちんと返
す。

「先月の件はウチの失態ですし、京都の件では皆さんに協力を頂きました。お礼を申すべ
きはわたしの方です。あの経緯を経た上で親しく声を返してくれる。わたしには2人が尚
親しく付き合って下さる事が有り難いです」

 そこ迄軽快に言ってから、ふと視線を落し、

「まず一つ謝らせて下さい。ウチの者達の過剰反応でノゾミさんを招けなくなった事を」

 わたしはもう彼女に敵意はないし、彼女位の鬼が入っても、呪術的に守られた若杉の中
枢は自由に動けない。怖れる必要もないのに、内部を覗かれ帰す事に幹部が揃って難色を
…。

「仕方ないよね。鬼切りの頭のお膝元だもの。ノゾミちゃんが今は無害な可愛い鬼だって
幾ら言っても、人に害を為した前科はあるし」

 事情は理解できぬではないけど、家に青珠を置いてきた事に残念そうな桂おねーさんに、

「お付き合いを重ねる内に、ノゾミちゃんが害のない可愛い子だと、必ず分って貰えるわ。
わたし達が葛さんや他の若杉の人達と、良い関係を結んで信頼される事が、その近道に」

 うん。柚明おねーさんの諭しに桂おねーさんが後ろを向いて納得の頷きを返す。本当に、
柚明おねーさんは桂おねーさんの心を掴んで。

「今回だけはやむを得ず、皆さんの優しさに甘えさせて頂きました。こんな非礼は二度と
繰り返さない様に致しますので、お許しを」

「謝る程の事じゃないよ。鬼切の頭に若杉グループ会長にと、身体が幾つあっても足りな
い葛ちゃんの大切な時間を削って逢いたいって望んだのは、わたし達の我が侭だもの…」

「それは桂おねーさんの我が侭ではないです。わたしの我が侭です。わたしがおねーさん
に逢いたく望んだ。その声を聞きたくて、その笑顔を見つめたくて、その魂に触れたく
て」

 大切な休日を、わたしの為に。わたしは、

「その優しさにわたしの為せる全てを注いで応えます。必ず、桂おねーさんの幸せを…」

 思わず本音がストレートに出掛っていて。
 危うく先走って何もかも明かす処だった。

「葛ちゃん?」「葛様……?」「葛さん…」

 少し話を変えないと。そう、あの事でも。

「もう一つ、謝らせて下さい。あの件です」

 烏月さんがわたしの指示で桂おねーさん達に先程隠し取った何枚かのプリントを見せる。

「わ、これっ」「もーしわけありません!」

 2人をお迎えに行けない間、心配の余り周辺施設にお願いし、防犯カメラをおねーさん
達に向けさせて頂きました。後で見ると何と、桂おねーさん達がガラの悪そうな男達に絡
まれて、柚明おねーさんがそれを追い払う様が。

「動機はともかく隠し撮りになりましたので、勝手に消去する前にお見せした所存です
…」

 子供の愛らしさを利用し大げさに頭を下げ、

「悪い事とは承知しております。事前に許諾も得ないで勝手に撮って、済みませんでした。
速やかにマスター含め消去させて頂きます」

 どーかお許しを。そんなわたしの言葉より、羽藤の2人はお互いが映った写真に見入っ
て、

「桂ちゃん、可愛く撮れているわね」「そう言う問題じゃ……わ、お姉ちゃんも、綺麗」

 男性2人に迫られ困惑する桂おねーさんには苛めてみたい可愛さが、柚明おねーさんに
縋る桂おねーさんには守りたくなる可愛さが、安心して身を触れ合わせる2人には微笑ま
しい可愛さが、プリズムの如くキラキラと輝き。烏月さんもわたしもつい笑みが浮んてし
まう。

「葛さんが自ら申告してくれた事も考え合わせて、今回は許してあげてはどうかしら?」

 柚明おねーさんの静かで穏やかな提案に、

「そうだね。わたしは、構わないと思うよ」

 損害が出た訳じゃないし悪意もない事だし謝って貰えたし。桂おねーさんも鷹揚に頷く。

「では、帰り際にこの画像の原本を頂きます。今この瞬間からこの画像はコピーも含め全
て配信を止め、速やかな破棄をお願いします」

 彼女は今迄の配信に敢て触れなかった…?

「分りました。そのよーにさせて頂きます」

「今後は、注意してよねっ。葛ちゃん」

「はいです。肝に銘じますです、はい」

 そこへ恵美さんがお茶と茶菓子を盆に載せて現れ。事務処理に優れ胆力もある彼女を雑
用に使うのは人材の浪費だけど、端正な彼女がお盆を運ぶ様を見るひとときは贅沢で良い。
烏月さんと恵美さんと桂おねーさんと柚明おねーさん。晩秋でも若杉の一室は華満開です。

 自己紹介は終えているので、客人達の前にお茶とお茶菓子を置き、わたしの前にも置き、
烏月さんの前にも置いて。向き合う形で座る。

「堅苦しいお話はこの辺り迄にしましょー」

 口にする物が来た処でわたしは話を変え、

「柚明おねーさんの武勇談は、恵美さんを通じて知りました。先週末に千羽の館で派手に
やらかしてきたよーですね?」「「……」」

 同時に口籠もる2人だけど、思う処は違う。

 千羽党の面目を潰される寸前迄追い詰められた烏月さんは、その事実を受け止める剛毅
さを見せつつ渋い顔で。己の戦果や強さに重きを置かない柚明おねーさんは、困惑気味に。
先週千羽の館で桂おねーさんの前で木刀で対決した2人は、どちらが話すか視線で相談し。
桂おねーさんの顔に浮んだ疑問に恵美さんが、

「羽藤桂さんの動静は、最優先でお伝えする様に会長に言いつかっておりますので。会長
に届く情報は多く私が先に受けております」

 恵美さんの役割は会長付秘書に留まらない。若杉葛の秘書として、鬼切りの頭の事も桂
おねーさんとの事も一通り承知して貰っている。様々な筋から集まる膨大な情報をわたし
と共有して貰い、一心同体で事に臨む。彼女は鬼切部に直接関らないけど、何が緊急で何
が後回しで良いか半ば見定めてわたしの判断を仰ぎに来る。そうでなくばわたしがパンク
する。

 桂おねーさんは、わたしの一番たいせつな人だ。その動静は、身の安全を保ち確かめる
意味を込めて、常に把握させている。羽藤家の盗聴盗撮に走った配下への処断がやや手緩
いのは、動機は違えど自身も同類だった為だ。その間近にいる柚明おねーさんの情報も当
然。

「羽藤家の録音機は5個、撮影機は8個に限りました。残したのは安否確認の為です…」

 設置してある箇所も、桂さんと柚明さんとノゾミに報せ、立ち会って了承を頂きました。
映像と音声の処理も千羽の女性陣が全て行い、桂さん達がいつでも査察可能にしてありま
す。

「先週の千羽の館での詳細は、葛様に求められて私が話したんだよ、桂さん。途中からは
自身が渦中にいたので、必ずしも第三者の冷静な視点での報告にはならなかったけどね」

「人様に、お話しできる様な中身では……」

 柚明さんは、私生活の暴露でもされた様に頬を染めて、その話題を避けようとするけど。

「私は構いません。千羽党の現状とあなたの技量から見てあれはそう奇異な結果ではない。
あなたは自身の力量を正当に評価すべきだ」

 烏月さんが吹っ切れた真顔で退路を塞ぐ。

「本当、すごかったよねー。烏月さんの強さは知っていたけど、柚明お姉ちゃんがあそこ
迄強いとは、思ってなかったよ。最後はわたしもう胸が詰まって、見ていられなくって」

 桂おねーさんは過ぎ去った事だからとほっと一息つくけど、その身震いは2人の生の対
戦を前にした時を思い出しての物か。先週桂おねーさん達が千羽の館を訪れた際、烏月さ
んが不在の間に他の者達の挑発で、千羽の剣士達と柚明おねーさんが木刀試合をする事に。

 それも相手は先月羽藤宅を襲撃した時に使われた様な下位の者ではなく。烏月さん以外
の千羽は、下位の者とはいえ一般人に鬼切部が退けられた事に、著しく不満だったらしい。
その後で柚明おねーさんが、秀郷さんの用意した化学部隊に追い詰められた事も。千羽党
がガス兵器に劣ると思われそーで許せないと。自分達で叩き潰して彼女に借りを返したい
と。

 最後に千羽の烏月さんが柚明おねーさんを助けた以上、いーではないかと思うのだけど。
そんな思考発想もわたしが武人ではない故か。挑発する為に烏月さんの不在な場を作り、
前回敗れた後で桂おねーさん達と打ち解けた千羽の下位の者達を彼女達の前で侮辱する迄
して、柚明おねーさんを道場に引きずり出した。

 烏月さんは事を知って止めようとしたけど、動き出した流れを止めなかったのはむしろ
柚明おねーさんだったらしい。その効果は先週の千羽のみならず、今の若杉に迄響いてい
る。

「千羽の八傑。源頼朝を助け鎌倉幕府創設期を支えた千葉氏を始めとする名門『関東八館
(やかた)』に因んだとも、板東八カ国に因んだとも言われる、千羽党の鬼切り役に次ぐ
猛者達。その中でも特に抜きんでた実力を認められた三強プラス壱を、連続で撃破して」

「その侭お姉ちゃんが烏月さんに対戦を望んだ時は、びっくりしたけど。本当にびっくり
したのは、お姉ちゃんが烏月さんと互角に打ち合えた事だよ。ノゾミちゃんも驚いて…」

「あれは互角とは言わないわ。終始烏月さんが優位で、圧倒的な強さで主導権を握り続け、
わたしは倒れないで応戦するのが精一杯…」

 柚明おねーさんは諦めた様に話しに加わり、普段でも低く下げ気味な物腰を一層柔らか
く、

「身の程知らずに鬼切り役に勝負を挑んでしまいました。鬼切部千羽党の強さを身に思い
知らされました。わたしは本当に未熟者…」

「鬼切り役に奥義を出させる程の者が口にする台詞ではありませんよ、柚明おねーさん」

 柚明おねーさんは挑発に乗って千羽の猛者と立ち会った事も含め己が未熟と匂わせてい
るけど、そーでない事は分っている。彼女は相手の挑発が待つと承知で乗り込んで、全て
分って受けきった。明言しないのは意図的だ。

「鬼切りを放って尚倒せない相手が居るとは想像の外でした。私こそ良い経験になった」

「一度は鬼切り役を沈めちゃいましたからね。柚明おねーさんを簡単に叩きのめす積りで
いた千羽の大人衆も、凍り付いたでしょーに」

「その後烏月さんがもう一度起き上がって」

「結局、鬼切り役には敵いませんでした…」

 烏月さんが辛勝し千羽党は面目を保った。
 鬼切り役の顔が苦いのはやむを得ないか。

「千羽の館という地の利を背景に持ち、贄の血の力は減殺されて身の外に出せない真昼に、
千羽の業である剣戟で辛勝。この世にはとんでもない者が尚潜むのだと知らされました」

「あの時は傷を治す事も出来ず、申し訳ありませんでした。わたしが倒れてしまって…」

 柚明おねーさんの悔いはむしろそれなのか。自身と対戦して負わせた傷は、自身が治す
積りで居た様で。でもそれは優しすぎる以上に、己が勝ち残らなければ成立しにくいお話
しだ。

「綺麗な肌に痣や痛みを刻んでしまいました。他の方々も多く傷つけて……本来なら全て
の傷をこの手で治し、疲労迄癒すべき処を…」

 特に桂ちゃんの大切な烏月さんの、艶やかな肌に痛みを与えてしまいました。試合でや
むを得ないとはいえ、その事が申し訳なくて。

「それ程の技量を持ちつつ、柚明おねーさんの本質はやはり戦いに不向きなんですねー」

 彼女の最優先は、勝敗や強弱や業の解析でもなく、誰かの苦痛であり又はそれを拭う事。
彼女が挑発に乗って木刀試合に応えた事情も、結果を見れば推察できる。烏月さん以外の
千羽党に技量を見せる事が、むしろ彼らの信頼と好感を呼ぶと柚明おねーさんは知ってい
た。

 唯守られる可愛く綺麗な者でも、烏月さんが望めば千羽は羽藤と関係を結ぶだろーけど。
桂おねーさんの自然な魅力や、柚明おねーさんの優しさ甘さに、いつか心傾くだろーけど。
彼らは剣戟主体の鬼切部でそのノリは体育会系だ。力と意志をしっかり示せる者をより喜
んで迎えると、柚明おねーさんは知っていた。拳を交えて分り合う、男の世界に話しは近
い。

 柚明おねーさんは唯千羽に庇護を求めるのではなく、力を見せる事で羽藤が小でも確か
な盟友になりうると示した。全力で挑む姿を、生き方・在り方を見せる事で信を掴み取っ
た。

 本当は八傑の誰かと良い戦いをして、そこそこの力量を示せば充分だったのだろーけど。
手を抜けないのも彼女の誠実さで。そしてそれらの行いは全て桂おねーさんの守りに繋る。
千羽に羽藤を、桂おねーさんをより快く受け入れさせる潤滑剤に、己の技量も道具に使い。

 唯その結果、柚明おねーさんは鬼切り役に近しい己の技量を人目に晒した。それが若杉
に動揺を呼んでいる。若杉の切り札である鬼切り役に近しい存在が野にある事は要注意と。

 千羽は直接剣を交えて彼女を信頼するに至ったけど、話しを伝え聞いただけでノリが体
育会系ではない若杉はそーは行かない。一つ事を進めれば、その副作用が別方向から来る。

 柚明おねーさんはその副作用も承知で、この順番で千羽と若杉を訪ね来た。千羽に為し
たのと別の方法で、でもその本質は己を証しに供する事で、自身が危険や苦味を被る事で、
桂おねーさんを含む羽藤の信頼を掴み取りに。若杉に根ざす贄の血への怖れと疑念を鎮め
に。

 今日はその諸々に、わたしが決着を付ける。桂おねーさんと柚明おねーさんに抱く若杉
内部の疑念や不安を根こそぎ拭う。今日はその為の、柚明おねーさんとわたしの為の一日
だ。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「葛様。用意が調いました」「分りました」

 威さんが出入口から声を届かせるのに、わたしも応えて柚明おねーさんに視線を向ける。

「よろしーですか?」「いつでも結構です」

「……そう言えばお姉ちゃん、今日は若杉の就職面接も、兼ねていたんだものね。確か」

「就職面接という程直接的な物ではないのよ。わたし個人向けの会社説明会みたいな物
ね」

 葛ちゃんがわたしを気遣ってくれて、若杉幹部の人達との面談の場を用意してくれたの。
わたしは学歴が高校中退で車の免許もないし。

「もう少し勉強して、大検や車の免許を取って、もう2つ3つ資格を取って、本格的な就
職活動はそれからって考えているんだけど」

 若杉を知っておく事は大切だと想うの。わたしも羽藤柚明はこういう者ですって、伝え
ておきたい。今回は採用に直接関係しないけど、将来を考えて適性や性格も見て頂ければ。

「わたしも……一緒に、行って良いかな?」

 瞬間威さんも烏月さんも、恵美さんもわたしも氷結した。走り抜けた緊張を桂おねーさ
んに気付かれなかったのは、鈍い程穏やかに微笑む柚明おねーさんに瞳が向いていた為で。

「難しい大人のお話が主になるわよ。若杉の業績とか企業規模とか来歴とか、専門的なお
話しで時間も長く掛るって、聞いているし」

 柚明おねーさんは緊迫の欠片もなく、桂おねーさんの間近で屈み込んで、瞳を覗き込み、

「葛ちゃんはわたしを幹部の人に引き合わせた後、ここに引き返してくるわ。桂ちゃんは
たいせつな人との時間を心ゆく迄楽しんで」

 葛ちゃんは烏月さんにも増して忙しい人よ。桂ちゃんも夏以降逢えたのは京都で少しだ
けでしょう。逢いたい想いは、葛ちゃんも同じ。たいせつな人との、貴重な時間をたいせ
つに。

 繊手で桂おねーさんの両肩を柔らかに抑え、

「わたしは多少の間一緒じゃなくても、常に桂ちゃんを心に抱いているから、大丈夫よ」

 頬に頬寄せて安心を伝えるけど。彼女は間違いなく、自身に降り掛る危難を分っている。
この人は胆力も鬼切り役に勝るとも劣らない。

「うん。行ってらっしゃい。お姉ちゃん…」

 納得し切れてない感もあるけど、桂おねーさんは従姉に弱い様で促される侭に再び座り。
それに続いて烏月さんも立ち上がるのを見て、

「烏月さんも行っちゃうの?」「桂さん…」

 瞬間烏月さんに済まなそーな苦味が兆す。

「今日は私も、千羽党の鬼切り役として若杉に別任務で来ていたんだ。偶々葛様が桂さん
を迎える頃合にここにいて、任務に差し障りがないから好意でご一緒させて貰えたけど」

 桂おねーさんの瞳が残念そうに泳ぐのに、

「申し訳ない。多分帰りも別になると思う」
「そうなんだ……。ううん、気にしないで」

 烏月さんも忙しいものね。人数が急に減る寂しさから、気持を立て直す桂おねーさんに、

「桂おねーさんは恵美さんと尾花と暫く待っていて下さい。わたしは戻ってきますから」

「うん……。葛ちゃん、早く帰ってきてね」

 わたしも葛ちゃんとお話しをしたいから。

 桂おねーさんの心細げな求めに『はい』と頷いて、わたし達は面会の一室を後にした。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「柚明おねーさん」「はい、葛さん?」

 2人の鬼切り役が、柚明おねーさんとわたしの間にその身を挟める。邪視の怖れを考え、
視線も合わせぬ様に。桂おねーさんの前を外れた事で、装いの必要も失せた応対に、彼女
は訝しむ様子もなくて。問答は声のみとなる。

「おねーさんは羽様の屋敷で言いましたよね。『守りたい物を持ち、その守りに力を尽く
せる事がわたしの幸せです。わたしはこの定めと幸せを手放しません。痛みも苦しみも哀
しみも無為も全て幸せの内……』と」「はい」

 夏から半年経たぬのに何と遠く懐かしい。
 短い頷きに、わたしは問いかけを続ける。

「あなたの一番たいせつな物、桂おねーさんの幸せと守り。それは今や、わたしの一番た
いせつな物でもあります。桂おねーさんを涙させたくない。その笑顔を曇らせない。日々
を常に憂いなく愉しく過ごして貰いたい…」

 それを柚明おねーさんは喜んでくれている。
 競合する敵手と見るどころか同志に迎えて。
 幼子故に脅威と見なしてないからではない。
 わたしの想いの真剣を知って温かに優しく。
 烏月さんやノゾミに対してそうである様に。

 桂おねーさんが望むなら、己の位置を脅かす者も受容する。己が一番である必要もない。
望むのは桂おねーさんの幸せで、自身との幸せではないと。心さえ返される事を求めずに。

 そこ迄無私を透徹できる彼女にだから問う。
 同じ人をたいせつに想う者として訊きたい。

 今もそれに違いはありませんか。一度失った人の身を戻し、桂おねーさんと間近に接す
る日々を戻し、その笑顔を声を受けられる今。その幸せを身体全体で感じ取れ充たされる
今。

「あなたにもう一度、あの苦痛や隔絶や哀しみを受ける事は、出来ますか? もう一度今
の幸せを全て失う事を、桂おねーさんとの関りを絶ち切られる事を、あなたは桂おねーさ
んの幸せと守りの為に、耐えられますか?」

 わたしの問に、返る声は柔らかく即答で、

「はい。それが必要であるなら、何度でも」

 この人は、本当にそれを受容できている。

 この覚悟は今一瞬で出来たのではなく、彼女の中に常住している。剣豪が常在戦場の心
がけを持つ如く、柚明おねーさんは桂おねーさんの為に、壱分壱秒生涯全てを捧げている。
そうできる己と今を、彼女は心底喜んでいる。

 何の気負いもない平静な声にわたしは尚、

「後悔は、なかったですか? 人である事を失った拾年、否、終りも見えず未来永劫封じ
のハシラに己を捧げて耐え忍ぶ日々、あなたは自身の正解を疑いませんでしたか? 例え
正解だったとしても、あなたはその過酷な正解から逃れたいと、思いませんでしたか?」

 拾年は今のわたしの人生全部です。でもあなたがご神木に本来差し出したのは未来永劫。
終りもなく果てしなくあり続けるだけの日々。桂おねーさんにも忘れ去られ、報いも励ま
しも助けもなく、唯主を封じ続けるだけの日々。

 心に一度も迷いは、兆しませんでしたか?

 威さんの後ろ姿の向うから、静かな答は、

「そうですね……悔いは、ありました。己の全身全霊が、たいせつな人の幸せと守りに届
かなかったと知らされた時は、正直辛かった。主の分霊が白花ちゃんの身体を奪い、叔父
さんを殺めて走り去り、桂ちゃんの心を深く傷つけ記憶迄失わせたと知った時は。疑うと
言うより答の失敗を、己を捧げ尽くしたあの夜の結末を見せられ、人の身の限界を思い知
らされた時は、無力感に打ちのめされました」

 この人の悔いは、己の為の悔いではない。

「逃れようともしました。消え去っても良いから、苦しみを終えさせてと請い願った事も。
絶望も苦痛も、悲哀も無為も、心残りも涙も。孤独も悔恨も地獄もありました。わたし
は」

 この人が逃げ出したくなる程の地獄……。

「葛さんが思う程強くも賢くもありません」

 先週も烏月さんに思い知らされましたし。

「わたしは何度も不正解を出しています。時には致命的な、失ってはいけない物を失う様
な過ちも、この手で為してしまいました。たいせつな人を哀しませたり、涙させたり…」

 顔は見えないのに、声は柔らかく穏やかなのに、心を震わせる哀しみが見えた。この人
はその穏やかな笑顔の奥に、どれ程の悲哀を受け止めてきたのか。怖い物知らずな求めに、
非礼な子供の問に彼女は躊躇なく全てを晒し。

「為し終えた事は鬼神にも取り返せません」

 それは、受け止める他に術のない物です。

 良かれと思って為した事も、怒りに駆られて為した事も、誰かを守ろうと必死な余り他
の誰かを傷つけてしまった事も。わたしは罪深い存在です。それは確定し、最早覆せない。

「間違った答も己の想い。全身全霊の答なら、悔恨と共に受け止めます。哀しみの欠片を
踏み締めて。深く想うた故の過ちも抱き留めて。及ばなかった想いも、届かなかった結果
も」

 表情は遮られて見えないけど、見る必要もなかった。彼女の声音は少し沈んでも、決し
て己を失いはしない。その表情もきっと同じ。わたしはその心の乱れを望むかの如く、更
に、

「答を実行に移す迄に、迷った事はありませんか? 成否の見えない難しい選択を迫られ、
答次第で大切な物を失う様な状況で、あなたは自身の答に疑念を抱きませんでしたか?」

 はい、あります。彼女の答は穏やかに短く。

「唯どの結果が出ても、たいせつな人の幸せと守りを望むこの想いだけは同じです。失敗
でも誤答でも、その時々の全身全霊を尽くし、事の末に向き合って受け止めて次を繋ぐ
…」

 羽様の森で消失寸前のノゾミちゃんの助けを桂ちゃんに願われた時、その生命を繋ぐ事、
彼女と桂ちゃんの絆を繋ぐ事に、わたしは確信を持てませんでした。敵である以上に鬼で
ある以上に、桂ちゃんの過去を失わせた彼女を側に置く事は、過ちに想えました。彼女の
行く末は不透明で先が見えなかった。桂ちゃんを更に哀しませる怖れもあった。失敗への
怖れ、誤答への怖れは、わたしではなく桂ちゃんの痛み哀しみに繋るだけに心底怖かった。
でも桂ちゃんは、彼女との日々を心から望み。

「禍福は糾える縄の如しですねー」「はい」

 柚明おねーさんはその副作用を分っている。ノゾミと心通わせた羽藤は鬼に繋る怖れが
あると、若杉が睨んでいる事を。桂おねーさんの優しさに、敵意や疑念を抱く者がいる事
を承知で、柚明おねーさんはここに乗り込んだ。千羽党との関係の様に、禍を福に転じよ
うと。

 会社説明会とは良く言った物だ。確かに若杉の何たるかを知るに最高の場かも知れない。
鬼切りの頭の業績も企業規模も来歴も窺える。柚明おねーさんもわたしも、嘘は言ってな
い。

 そして彼女は己の所信を伝えに若杉に来た。敵視せず理解して欲しい。抹殺や、幽閉を
意味する保護ではなく、自立し今の世を生きる姿を見守って欲しいと。分って貰えれば良
い。

 でも分って貰えなかったなら? 鬼切りの頭は処断を迫られる。その事迄彼女は承知で。

 迷いはないだろーか。心からの訴えが届かなかった時を怖れないのだろーか。桂おねー
さんをわたしに預けて、怖くないのだろーか。贄の血の民への幹部の感触は好意的ではな
い。わたしは、桂おねーさん達への好意を隠さず、現状維持を望む意向を示したけど。そ
の趨勢は幽閉を意味する保護も少数で、抹殺が多い。

「先程の画像、若杉の最高幹部はライブで見ています。すみません。わたしはあなたの人
柄と技量を伝えに、あの状況を誘発して彼らに流しました。今更どれ程効果があるかは疑
問だったけど、何もせずにいられなかった」

 その為に桂おねーさんの無用の怯えを招き、あなたの手を煩わせました。本当はその事
を謝りたかった。それでも少しでも彼らに分って欲しかった。わたしのたいせつな人の事
を。わたしが心から守りたく想う愛した人の事を。

「葛ちゃん……」「葛様……」「……」

「わたしは今の己の答に、自信がありません。桂おねーさんを一番に想う気持は確かです
が、その幸せと守りがわたしの全てですが、この答がそれを導くのかどーか迷いが拭えな
い」

 大切な人の幸せや守りの為に本人を涙させ、傷つけ哀しませ。それがその人の為になる
かどーか定かでもない時あなたはどーします?

「わたしは、あなたにもっと沢山謝っておかなければならない。沢山、沢山謝らなければ。
わたしの恩人であり桂おねーさんの大切な人であるあなたを。その好意を、情愛を、優し
さを、若杉は今これから穢し、踏み躙る…」

 気付くとわたしは、抱き留められていた。

 屈んだ女性の柔らかな身体が、この身を正面から包み込み、槐の甘い香りが心を満たし。

「若杉葛は、羽藤柚明のたいせつなひと…」

 耳に囁かれる言葉は甘く温かく身に響き。

「あなたが桂ちゃんを想っての答なら、桂ちゃんを愛し愛された葛ちゃんとしての答なら、
わたしはどんな答も受け容れます。誤答でも失敗でも、痛みや哀しみを伴い心削る事にな
ろうとも、再び己を失う末を迎えようとも」

 頬に頬寄せられ柔らかな感触が心地良い。
 それは桂おねーさんにも感じた懐かしさ。
 骨の髄に染み渡っていく温かい愛おしさ。

「この身の全てで受け止めます。ですから」

 自身を絶対見失わないで。桂ちゃんを想い、桂ちゃんの想いを受けられる葛ちゃんで居
て。桂ちゃんの微笑みを受けて返せる葛ちゃんで。あなたの痛み哀しみはわたしも一緒に
受け止める。あなたを決して1人ぼっちにはしない。

「全ては、一番たいせつな人の笑顔の為に」

 チャッ、と金属音が聞えた。威さんが柚明おねーさんの背に破妖の太刀を当て、わたし
から身を離す様に促して。見逃すのもここ迄が限界だと。烏月さんも早く離れるよーにと
の目線を送り。柚明おねーさん、2人の鬼切り役の刃の危険を承知でわたしを抱き留め…。

 わたし達は再び、黙して廊下を歩き始める。

 烏月さんの表情が少し苦い。今回の使命は表も裏も、彼女の気を重くする物に相違ない。

「一つだけ皆様にお願いがあるのですけど」

 決裁の間の入口に辿り着いて足を止めた時、柚明おねーさんはわたし達全員にある約定
を求めてきた。音声でも画像でも呪術的にも監視が万全な若杉の中枢で、彼女は隠す事な
く。

「……分りました。そのよーに、致します」
「承知しました、柚明さん」「了承しよう」

「聞き届けて頂いて、有り難うございます」

 3人が決裁の間の下の入口に消えるのを見届け、わたしも頭専用入口に向う。最高幹部
が行う審問にわたしは日頃顔を出さないけど、今回は最初と最後だけでも立ち会わなけれ
ば。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 決裁の間の配置は、傍聴席のない裁判所に近い。正面と左右のやや高い壇に、若杉最高
幹部が座す。正面の壇の背後にもう一つ高く、鬼切りの頭の壇があり、そこにわたしが座
る。

 三方から見下ろされる低い床に、烏月さんと威さんに伴われて柚明おねーさんが被告人
の如く立っていた。否、若杉の意識では彼女は被告人どころか、捉えた敵将の扱いだけど。

 最高幹部は未だいない。彼女が何をしてくるか分らないので、武装解除と安全措置を終
える迄待つという。贄の血の力も外に出せない日中を選んだ筈なのに。2人の鬼切り役に
挟ませて、鬼切りの頭は既に入室済みなのに。

 数十メートルの距離と高低差を隔て、わたしと柚明おねーさんの視線が合った。彼女が
微笑んだ様に見えたのは、気の所為だろーか。

「遭うのは初めてですね、羽藤柚明」

 彼女の前に現れた三十歳代の痩身の美男は、

「若杉秀郷と申します。先月の一件であなたと千羽の鬼切り役に羽藤家の襲撃を阻まれた
結果、今は葛様直属になりました。その千羽の鬼切り役と共にあなたを捉える。禍福は糾
える縄の如しですな。以後お見知りおきを」

 烏月さんは微かに不快そうで無言を保つ。

「羽藤柚明です。以後宜しくお願いします」

 そこ穏やかに挨拶返す場面じゃないです。
 秀郷さんは黒い鉄鎖を右手に冷ややかに、

「早速ですが身の拘束を受け容れて頂きます。あなたの鬼の力が野放しでは、最高幹部が
安全に議論も出来ませんからね。拒む様なら鬼切り役が動く事になりますが、如何か
な?」

「わたしは若杉の方々に害意はありません」

 彼女は秀郷さんよりわたしや、映像や音声でこの様を眺める幹部達に向けて言ったのか。

「ですが、それに信を頂けず、お話しに来て頂けないと言う事なら、拘束を受け容れます。
どうかわたしの話を聞きにいらして下さい」

 対話を求め、頭を垂れ、両手を差し出し。

「皮肉な物ですな。あなたと羽藤桂の確保に失敗したわたしが、今あなたを鎖に繋ぐ…」

 黒い鋼鉄の鎖を柚明おねーさんの細い両手首に装着し、鍵を閉めて。直後に彼女がその
場に崩れ落ちたのは、鎖の重さの故ではない。

「これはっ……」「唯の鉄鎖では鬼の力の拘束にはならないでしょう。一種の結界です」

 鉄鎖はこの床下に描かれた陰陽師御用達の五芒星と連動し、別室に控える二拾五名の術
者の力を増幅させて、その心身を呪縛します。効果は金縛りでもその圧は心臓を止められ
る。

「気を失わなかっただけでも賞賛に値します。一度気を失わせて次の処置をしたかった
が」

 もう良いでしょう。皆様、ご入室結構です。

 そこで漸く扉の開く音と共に、中層3つの入口から若杉の最高幹部が現れる。男性6名、
女性3名。最年少の上杉滝子さんは四拾弐歳、最高齢の定家さんは七拾五歳。3つの壇に
3人ずつが座す。四隅には議事を司る秀郷さんのサポート要員に、計弐拾名程の男女が控
え。

「あれが元オハシラ様」「現代の浦島太郎」「小娘の外見で」「鬼切り役に匹敵すると」

 奇異の視線を投げかけて囁き合える余裕は、彼らが鉄鎖の強靱さを知る故だ。物理的な
硬さ以上に様々な力をその身の内に封じ込める。余程強力な鬼でなければ解けないし、元
々それ程強力な鬼なら黙って拘束を受けはすまい。自由を放棄して抑えられる侭に身を任
せれば、死ぬ程の苦痛にはならない。唯少しでも自ら動こうとすれば凄まじい痺れが心と
体に掛る。

 鉄鎖自体の重み故に再度立つのが辛いのか、跪いて座れと術者達の感応で指示あったの
か、崩れた姿勢を正座に直して、正面に向き直る。その左右から、二つの党の鬼切り役が、
抜き放った破妖の太刀を、その首筋にピタと当て。

 不用意に身動きする様なら、切り捨てる。
 そう言う警告であり開会の促しでもあり。
 今日の2人の表の任務は彼女の監視役だ。

 2人の鬼切り役の姿勢に、下の要員が威儀を正し、その波が少し遅れて壇上に伝播する。

 正面の壇は上席の長老が、向って右に初老の中堅が、左は若手が座す。正面中央に座す
七拾二歳の三好康長さんが議長役だ。彼は際だった主張も技能もない調整型で、おじーさ
まの生前はその意を受けて議論を纏めていた。鬼切りの頭就任早々の大きな人事異動を避
け、わたしは皆を留任させたけど、以降の彼は幹部の多数意見を受けて議論を纏めている
様で。

 開会の辞は議長が行う慣例だけど、動かないのは柚明おねーさんへの措置が不足な故か。
鬼の力を及ぼされ、幻覚等で操られては正常な判断を下せないと。飛び道具等で攻撃され
ても困ると。審問での武装解除と安全措置は、相手が誰でも徹底される。康長さんの判断
は殆どが多数意見だ。故にわたしも暫く見守る。

「羽藤柚明です。皆様宜しくお願いします」

 正面を向いて頭を下げるその声を無視し、

「秀郷さん見事です。流石は期待のホープ」

 右の壇の右端で律子さんが見下ろしつつ、

「その侭第弐段階をやっておしまいなさい」

 律子さんは今年五十歳を迎える黒髪の人だ。やせ気味な長身に怜悧な美しさが今も映え
る。

 はっ、と短い返事を返した秀郷さんが、柚明おねーさんに再度歩み寄って屈んで。2人
の鬼切り役に刃を少し引く様に求め。座り込んだ彼女の両肩を軽く抑え、間近に正視して、

「逆らいたければ逆らっても良い。所詮今のあなたに何も出来はしない。抗って鎖を引き
剥がせないと見せてくれれば、一番好都合」

 秀郷さん、一体何を、指示されて…?

「おねーさん!」「何と!」「……!」

 秀郷さんは、肩を抑えた侭柚明おねーさんに一気にキスをして、背後に押し倒したのだ。

「ん……んっ、んっ」「んんっ、んっ」

 触れた等という軽い物ではない。秀郷さんは柚明おねーさんの身を両腕で抑え、身動き
出来ないその唇に舌を入れて。んぐっと言う、唾液を呑み込まされる音が漏れ聞えた。わ
たしの肌を鳥肌が駆け抜けるのは怯えか怒りか。

「ディープキスですか。何とも艶めかしい」
「秀郷さんも汚れ役を為して汚名挽回かな」

 二度、三度、四度。長いキスの間、柚明おねーさんの喉に何かが移され、呑み込まされ。
痩身でも大人の男の身体を、柚明おねーさんは外せず押し返せもせず。否、鎖に繋れ呪縛
され、今の彼女は己の意志では身動き出来ぬ。

「やめ……」

 出そうとした声が凍り付くのは、決裁の間に入る直前の約定が思い出された故で。柚明
おねーさん、まさかこんな事態を想定して?

『わたしは若杉の幹部の方々と、お話しに参りました。若杉の方々の疑念を伺ってそれを
拭い、わたしの存念を伝えて信を頂き、良い関係を築く為の重要な、恐らく唯一の機会』

 この面談に、桂ちゃんとノゾミちゃんの日々の平穏も纏めて掛っています。葛さんの最
終判断はあるにせよ、若杉の方々の間に疑念や不満が残る決着は、長期的に好ましくない。

 彼女は心を削る状況になると承知していて。
 その中に敢て分け入って実を掴もうと願い。

『わたしは全身全霊を賭けてお話に臨みます。葛ちゃんと烏月さんと、わたしの一番たい
せつな人の、幸せと守りを確かにする為に…』

『ですから、お願いです。例えこの身にどんな行いが為されても、わたしが抗わない限り、
話しを諦めない限り、皆さんからこの話しの場を壊す行いは、しないで頂きたいのです』

『この話しの場を壊す事は、桂ちゃんのみならず皆さんに長く損失を残します。わたしは
大丈夫。この身も心も生命さえも、既に桂ちゃんと白花ちゃんの物。傷も痛みも辱めも怖
くない。怖いのは、桂ちゃんを守る為の話しの場が壊れる事。希望の糸が断ち切られる事。
何があっても皆さんは粛々と事を見守って』

 お願いします。彼女は深々と頭を下げて、

『その代り、わたしが耐えきれず話しの場を壊した時には、この身の処断は皆さんにお任
せします。話しの場を保つ事に耐えられぬわたしなら、話しの場に不適格です。皆さんや、
中にいる若杉の方々の処断に身を委ねます』

 どうか、わたしが抗わず話しを望み続ける間は、わたしに話しを続けさせて下さい……。

 この行いが話しの前提なら、柚明おねーさんが完全に無害だと証す事が議論の土台なら、
彼女がそれを受けて拒まない限り、わたしも。烏月さんも威さんも動かないのは多分きっ
と。

「今口移しで飲ませたのは自白剤です。三拾分程で利いてくるでしょう。どうせ嘘は利か
ないのです。最初から真実を語る事ですな」

 口を離し、秀郷さんが柚明おねーさんに手を伸ばしてその身を起すのを手伝う。自らの
意志で身体を動かすと、呪縛が身を苛むので、今の彼女は自力で身を起こす事も至難の筈
だ。

「わたしは皆さんを騙す積り等、あつっ…」

 有り難うございます。乱れた服を直しつつ、秀郷さんに礼を言う。それだけの動きにも
呪縛は容赦なくその身に電流に似た痺れを流し。その声は尚柔らかだけどやや苦しげで。
彼女はオハシラ様になる前は高校生だった。衆目の前で見知らぬ者と即座にキスはきつか
ろう。

 入室前に彼女と約定してなければ、烏月さんが秀郷さんに斬り掛った。わたしがこの措
置に異議を唱えた。審問を中止していたかも。彼女の願いがあった故、と言うよりそれを
想い返す思考の迂回が即行動を思い留まらせた。

 湯気の出掛る頭に届くのは、秀郷さんの、

「羽藤柚明は身動き一つ取れませんでした」

 それを見せる為に必要な所作という訳か。
 牙を抜き終えなければ安心は出来ないと。

「宜しければ、審問の開会を宣言願います」
「宜しいのでは?」「うぅむ」「そうさな」

 容認に傾き掛る囁きを一喝で止めたのは、

「手緩い。その娘の衣服を剥ぎ取りなさい」

 律子さんの低めな声に、場が粛然となる。

「その娘は抗えなかった訳ではない。抗わなかっただけ。私も少し甘かったわ。慎ましや
かな姿だから、口づけを迫れば嫌がって暴れ、呪縛の効果が確かめられると想ったけど
…」

 安全措置は、若手の孝弘さんの所轄だけど、女性相手という事で律子さんが介入した様
だ。

「わたしは若杉の方々に害意はありません」

 挟み込む柚明おねーさんの言葉を無視し、

「秀郷さんは美男だから、彼女は淫らにキスを喜んだかも知れない。自白剤を飲ませたの
は良いとして、拘束の強さは確かめられてないわ。泣き叫ぶ迄、彼女を追い込みなさい」

 幹部やスタッフをざわめきが走り抜けた。

「嫌がっても逃げだそうにも身を縛られて動けない。その鎖が何度も何度も一杯に引き延
ばされる様を見なければ、安心出来ません」

「確かに、そうではあろうがの」「定家殿」

 律子さんは最強硬だけど、その見解は決して1人突出した物ではない。頷く声も複数あ
るので、康長さんは開会を宣言せず、議論の行方を眺める姿勢で。律子さんの声は冷徹に、

「一糸纏わぬ艶姿を見せて貰おうではありませんか。それで彼女の真実が全部晒される」

「儂は小娘の裸を見に来た訳ではないぞ…」

「戸籍年齢は成人という話ではありませんか。青少年保護の条例等は充分クリア出来ま
す」

「そう言う問題ではない。これは武装解除で安全措置だ。抗う術がないと確かめる事が重
要なのだ。娘の身を剥ぐ事が目的ではない」

「だからこそ、我らを害する武器を何も持たぬと証す為に、衣服を残さず剥ぎ取るのです。
女には更に物を隠す処もないではない。手を突っ込んで確かめるべき。その過程で娘が抗
えば呪縛の有効も確かめられます」「……」

 余りの苛烈さに異論が消える。否、若杉にはその素養も必要だけど。呪縛の効用に話を
絞れば、柚明おねーさんが破るのに失敗しない限り、立証されないとの彼女の論は正しい。

「どうせです、秀郷さん。あなたその娘を犯しちゃいなさい。皆が見守るここで今。その
娘は意外と芯が強そうだから、叛意を抱いた侭裸を晒す屈辱に耐えるかも知れない。鎖を
引っ張り呪縛を解こうと暴れないかも。流石に皆の前で交尾すれば自制も消えましょう」

 それで呪縛を解けなければ漸く安全が証されるし、呪縛を破って抗うなら処断すれば良
い。我らに害意を抱くとしても、身体が繋れば女は男に隷属します。秀郷さんの妾にくれ
てやれば良い。それで我々の懸念が消失する。

「わたしの話を聞いて下さるなら覚悟は…」

 柚明おねーさんが、頭を垂れて挟む声に、

「殊勝な心がけね。従妹を人質に取られたら逆らえないという情報は本当みたい。従妹を
守る為にと何でも受け容れるあなたの真実を、その従妹によぉく見せてあげたいわねえ
…」

 本当に全部受け容れるあられもない姿を。

「桂ちゃんを哀しませる事はお許し下さい」

 周囲に電気が弾ける様なバシバシという音が聞えるのは、血の力を放出し呪縛を絞めさ
せたから。憤りの故か、呪縛の有効を見せる為か、身を苛む効果を自ら招いて苦しむ様に、

「本気で呪縛を破りなさい。破れないとあなたの大切な従妹を秀郷さんに犯させるわよ」

「とてつもない事を言われる。律子さん…」

 滝子さんの唖然とした声にうっすら笑み、

「私は常に、機能的に物事を考えますので」

 鬼に情けなど、不要です。獣扱いで充分。

「そんな台詞、今の世では女にしか言えぬ」
「男が口に出したらどんな事を言われるか」

 複数の粛然とした囁きの中、秀郷さんはまだ総意ではないので皆の意向を伺う。わたし
が言葉を挟もうとした時、異論は別方向から。

「流石にそれは不要でしょう」「貞子さん」
「そうですな。律子さんの手法は危うい…」

 女性最年長者の意見に力を得て他の声が、

「仮に彼女が秀郷さんに組み敷かれ性交されたその後で尚、叛意を捨てなかったならどう
される? 女が皆、身体の関係を持てば男に隷属すると決まった訳でもない。律子さんの
見解は世の女全てに適用される訳ではない」

「呪縛の効用は我らが知っておる。故にここで雑談に興じていられる。武器の所持は女性
スタッフに身体検査させる位で良かろう。鬼切り役が2人もいるのだ。何も出来まいて」

「年少な鬼切りの頭が臨席ですぞ。卑猥な図は好ましくない。少しは配慮あるべきかと」

 幹部の話しは漸くやや穏当に傾き、数分後に康長さんが開会を宣言して。不快さを押し
隠して硬い無表情な烏月さんと威さんを残し、わたしは決裁の間を外した。わたしの意向
は明確なので、幹部の議論の妨げになりすぎない為だけど、桂おねーさんも気掛りだった
し。何よりわたしが、見ていられなかったから…。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 決裁の間を外した直後、議論直前の暫定票決を秀郷さんに見せて貰った。選択肢は4つ。
贄の民2人に対し現状維持、保護幽閉、抹殺、未決のどれかを。ノゾミの処遇は主要な議
題ではない。贄の血を得てもあの程度の小鬼は、鬼切りの頭が扱う必要もない。生かすも
殺すも烏月さんに一任だ。鬼切部の存在や正体は羽藤に知られたけど、公表された訳でも
ない。問題なのは濃い贄の血を持つ桂おねーさんと、血が宿す力を使える柚明おねーさん
の処遇だ。

「桂おねーさん、現状維持0、保護幽閉4、抹殺3、未決2。柚明おねーさん、現状維持
0、保護幽閉2、抹殺5、未決2。評決は過半数ではないですけど、厳しいですね……」

 わたしは羽藤を守りたいと明言したのに。
 わたしが羽藤に肩入れしすぎた反動かも。

 鬼を呼ぶ定めと鬼に甘く香る贄の血を併せ持つ羽藤の2人は、非常に危うい。経観塚の
山奥に潜むならともかく、夏迄の様に隠されていたならともかく、こうして知られた以上。
何かの間違いで贄の血が鬼に渡れば危ういと、その事態の阻止をまず若杉は考える。鬼に
その血が渡る事を防ぐ為なら、手段を選ばずに。

 儀式を破壊する為に生贄を先に殺せば良いと、考えかねない者が若杉や鬼切部にもいる。
鬼に吸われる前に贄の血を絶やせば良いとか。

 逆に鬼に膨大な力を与える贄の血は、若杉で厳重に保護し世間から隔離すべきと考える
者もいる。こっちは抹殺は考えないけど結局どこかに幽閉する感じで自由に程遠い。逃げ
るなら遠慮なく追っ手を向ける類の保護だ…。

『処断するべきなのでしょーね。若杉葛は』

 三十畳の和室に戻って恵美さんと交代する。代りに彼女には決裁の間の議論や、同時に
進める他の準備も見て貰う。録画録音はさせてあるけど、機械に録れる情報が全てではな
い。次々に人が入れ替わる様を見ておねーさんは、

「色々と忙しいんだね。若杉の本部って…」

「そーでもありませんよ。今日は特別です」

 ずっと昼寝を続けた侭で、もてなしの心の欠片もない尾花を前に、わたし達は2人密に
触れ合って、膝枕して、茶菓子を食べ合って。

「ねえ、葛ちゃん」「はい、おねーさん?」

 子供を装って膝枕して貰った状態で暫くいたわたしに、頭上から降り注ぐ柔らかな声は、

「あのね。柚明お姉ちゃんの事なんだけど」

「はい。……何でしょう?」

「今日のお姉ちゃんのお話って、若杉財閥の方じゃなくて、鬼切りの頭のお話でしょ?」

 桂おねーさん、そんなに鋭い人でしたっけ。

 寛いでいた処に想定外の話を振られ、想わず真顔になってしまいました。たはは、ごま
かし作戦失敗です。そーですと応える訳に行かず、彼女がどこ迄何を察しているか分らず、
柔らかな膝の上で見下ろす双眸を暫く見つめ。

「千羽の館を訪ねた後、ノゾミちゃんがね」

「ノゾミさんが……何と?」

「『けいは千羽に手土産もなく、唯仲良くお付き合いしましょうと挨拶だけに行く気だと、
本当に思っていたの?』って呆れられたの」

 陽子ちゃんやお凜さん達とのお付き合いと、鬼切部や鬼切りの頭とのお付き合いとは違
う。個人と個人じゃなく、家と家、集団と集団の。唯仲良くしようねってだけじゃ通じな
い世界。鬼や鬼切りの世界ではわたしの感覚が珍しく、柚明お姉ちゃんがその接点を、担
ってくれて。

「お姉ちゃんは、身体を張って羽藤を千羽と同盟させた。唯守ってじゃなく、仲良くしよ
うじゃなく。困った時は危険でも助けに来て、その代りあなたの危機は助けに行きます
と」

 わたし、烏月さんとは仲良しです、今後もよろしくって、挨拶に行くだけと想っていた。
心の準備もしてなかった。お姉ちゃんはそれで良い、他の諸々は任せて気にしないでと言
ったけど。お姉ちゃんは千羽の人と厳しい問答や危険な試合を経て、烏月さんと迄戦って。

「わたし、唯見ている事しかできなかった」

 お姉ちゃんはわたしの為に、痛みや辛い思いや面倒な様々を引き受けて。生命懸けで守
ってくれて。なのに、わたしは何も返せない。

「千羽の館で、お姉ちゃんはわたしを羽藤の当主って紹介して、自分を後見人の次席って。
千羽の様な武門の家向けの体裁だって、家に帰った後は今迄通り接してくれたけど。まる
で時代劇の世界だった。わたしと烏月さんを、千羽の人もお姉ちゃんも一段上に扱って
…」

 何も出来ないのに当主なんて、情けない。

「おねーさん、それはわたしも同じですよ」

 鬼切りの頭とか財閥総帥とか、拾歳の子供がこなせる訳がないです。当主や社長なんて
お飾りで、実質は執権管領や専務取締役が支えて成り立つんです。烏月さんのよーな才色
兼備の人は別として、わたし達は平凡でも…。

「今も支えて、くれているんだよね」「?」

「わたし達が寛いでいる間も、お姉ちゃんは葛ちゃんの部下の人達と、難しいお話を…」

 会社説明会って、鬼切部に勤めませんかって言う、お話しの事なのかなって、想ったの。

「あ……桂おねーさん、そう言う繋りで…」

 桂おねーさんは、羽藤を若杉が守る代償に、柚明おねーさんが鬼切りに手を貸す同盟を
結ぼうと、その話し合いに来たと、思った訳か。もしそれで済んでくれれば大成功なのだ
けど。

「時代劇でも藩の実権を握るのは殿じゃなく、家老や奉行なの。葛ちゃんとわたしを遊ば
せてくれるのは嬉しいけど。お姉ちゃんがわたしの知らない所で危険や苦労を負って、大
変な思いをしているかもって想うと」「……」

 それ、わたし、今、否定が出来ません。

「わたしは贄の血しか持ってないから。血に宿る力を使えないから。お姉ちゃんに教えて
とお願いはしたんだけど、色々忙しい様で」

 今羽藤が若杉に差し出せるのは、お姉ちゃんの力とわたしの血だけ。わたしが出来るの
は京都の時の様な囮位、全く戦力になれない。

『柚明おねーさんが血の力の扱いを桂おねーさんに教えないのは、若杉に睨まれない為?
 自身の力で千羽党の信は掴めても、それが若杉に危険視される事も見通し、桂おねーさ
んへの危難を避ける為、敢て何も教えず?』

 桂おねーさんは未だに贄の血の力を扱えず、青珠等で血の匂いを隠されねば鬼に狙われ
る。柚明おねーさんとノゾミに不測の事態があって桂おねーさんが天涯孤独になったら、
経観塚に行く以外、鬼切部に頼る他に生き残る術はない。保護でも幽閉でも縋る他に術が
ない。

 柚明おねーさんは贄の血以上に、力を使える事で今若杉に睨まれている。力を使えぬ桂
おねーさんは幽閉も容易く保護の芽もあった。血の力を使える事で危惧を呼び、力を扱え
ない無力が若杉の応対を抹殺か保護か分つなら。

『柚明おねーさんは自身の抹殺を受け容れて、桂おねーさんだけでも若杉か千羽に保護さ
せようと……桂おねーさんが、生きる為にはそー求めざるを得ぬ状況を遺して逝こう
と?』

 無力に置く事が生き残る芽を残すなら。
 千羽と羽藤が関係を結び終えた後なら。
 あの人は本当に己を若杉に供する気か?

「わたしね、葛ちゃんにお話しがあるの」

「柚明おねーさんの、鬼切部の戦いへの助力、参戦を拒んで欲しい、ですか?」「うう
ん」

 あれれ、珍しくわたしの読みが外れました。
 彼女を案ずるなら、そー来ると思ったのに。

「柚明お姉ちゃんの答はきっと正解。わたしがそれを崩すのは、却って良くないと想うの。
夏にわたしそうやって、何度かお姉ちゃんの足を引っ張ったし。でも、わたしもお姉ちゃ
んの役に立ちたい。葛ちゃんの役に立ちたい。何も返さずに、唯守られるだけなのは嫌
…」

 お姉ちゃんが若杉や千羽の鬼切りに力を貸しに行く時は、必ずその前にわたしに教えて。

「贄の血を、分けるから」「おねーさん?」

 わたしの血はお姉ちゃんより濃い。柚明お姉ちゃんが危険や痛みの伴う処に、わたしを
守る引換や対価で行くのなら、わたしの血で守りたい。わたしの想いで守りたい。お姉ち
ゃんの強さは知ったけど。知って尚血を加えたい。だってお姉ちゃん本当は戦いは嫌いで、
いつもにこにこ笑って過ごすのが好きな人なのに。昼寝や和菓子がわたしより似合うのに。

「わたしの為に、濃い贄の血を宿して様々な定めが降り掛ってくるわたしの為に、優しい
心を無理に奮い立たせて戦っているんだもの。わたし、拾年前迄もこの夏からも、一度だ
って自身の為に戦うお姉ちゃんを見た事がない。いつも人の為、誰かを助ける為に、自身
の痛みに目を瞑り、誰かを庇って傷を受け。それでも温かに微笑んで、抱き留めてくれて
…」

 わたしはそれに何も助け返す事が出来ない。
 わたしは代りに苦痛を受ける事も出来ない。

 お姉ちゃんの正解はきっとわたしの正解で、それは引き留めちゃいけない物で、だから
今はわたしは見送る事しか出来ないけど。でも。

 せめてこの血を渡したい。わたしの方が血は濃いから、お姉ちゃんは更に強くなれる筈。
傷も痛みもずっと軽く、危険もずっと少なく。

「わたしの贄の血をお守りにするの。わたしの青珠の様に、お姉ちゃんにわたしの血を」

 それが葛ちゃんや烏月さんの鬼切りのお仕事にも良い影響を与え、世の為にもなるなら。

「わたしはわたしの精一杯の、正解を」

 身内ってここ迄温かい物なのですか。
 疑ったり妬んだりもしないのですか。

 どこ迄も自分より相手を想い合って。
 わたしもこの家に血に生れたかった。

「桂おねーさん……分りましたよ……」

 わたしも若杉葛の最大限の正解を。それが。
 あなたの傍に添う事を許されない正解でも。
 あなたの為ならあなたの涙を招く正解でも。

 許しは求めない。わたしに向ける笑顔は望まない。わたしは嫌われて、隔てられても…。

 桂おねーさん柚明おねーさん、済みません。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 決裁の間の議論が終えたのは4時間の後だ。評決を下す前に最高幹部は皆決裁の間を外
し、残っているのは柚明おねーさんと、彼女を監視する鬼切り役2人と、秀郷さん他数名
だけ。

「喋らなくていーです。かなりお疲れでしょーし、己の意志で喋ろうとすれば呪縛が…」

 下の入口から入り、正座する柚明おねーさんの前に立つ。衣服は着けた侭だけど、心を
剥ぎ取る問答を経た為か、幾分疲れて見える。小休止の間も彼女は罪人扱いで、休息はな
い。鬼切りの監視も術者の封印も休止を許されず。

「あなたとわたしは似たよーな立場ですね」

 桂おねーさんを一番大切に想っていても。

『わたしは桂おねーさんの一番を望めない。
 あなたは桂おねーさんの一番を望まない』

 烏月さん達が傍なので全て口にしないけど、おねーさんはわたしの言いたい事を分る筈
だ。

 桂おねーさんには烏月さんやノゾミやサクヤさんがいる。わたしより近しく絆の強い大
切な人が沢山。財閥総帥で鬼切りの頭という、傍に寄り添い難い事情以上に、わたしの桂
おねーさんとの赤い糸は、彼女達程に太くない。

 わたしは彼女達の様に桂おねーさんを守れない。人を遣わし守らせるだけ。どこ迄行っ
てもわたしは彼女の何番目か。わたしの一番が彼女でも、彼女の一番をわたしは望めない。

 悔しかった。泣き明かした。漸くたいせつな人を心に抱けたのに、その人を守る為にと
受けた財閥総帥や鬼切りの頭の職務の所為で、わたしはそのたいせつな人に逢いに行けな
い。

 その人を守る為にと受けた職務に忙殺され、その人を画像で見る事も碌に出来ない。遭
いたくもない人間に遭わねばならず、やりたくもない事の処理で時を費やし、その結果わ
たしはたいせつな人の声を聞く暇も持てなくて。

 日々誰かと心を通わせる桂おねーさんを土台で支えつつ、わたしはその笑顔に立ち会え
もしない。鬼切り達を率いても膨大な富を使えても、本当に欲しい幸せは遠ざかるばかり。

 それが桂おねーさんの為なのだと、わたしは役立てているからいーのだと、納得出来る
迄にかなり掛った。否、本当は納得など出来てない。でも、諦める他にはもー術がなくて。

 わたしが若杉を司らないと、贄の血を危険視する幹部の誰かが若杉を司る。鬼に好まれ
鬼を呼ぶ贄の血の桂おねーさんを、鬼からも鬼切部からも守るのに、こーする他に術はな
いと、諦めて。彼女が誰かと絆を結び行く様を、わたしは見送る他に術はないと、諦めて。

 意外にも、わたしが諦めで辿り着いた同じ地点に柚明おねーさんが居た。彼女は桂おね
ーさんに最も身近で、最も尽くし、最も深く想いを交わしたのに、その一番を望む事なく、
その心が誰に傾こうと妨げず微笑んで。彼女こそその気になれば烏月さんも押しのけノゾ
ミも消して、桂おねーさんを独占できるのに。

『この人は、桂おねーさんの幸せだけを考えている。自分との日々さえ前提ではない…』

 そー分ったのは、わたしがその境地に至った故なのか。わたしが諦めの末に辿り着いた
その場所に、彼女はずっと前から望んで佇み、心から幸せそーに一番の人の幸せを支え続
け。わたしが財閥総帥や鬼切りの頭をこなす様に。彼女は鬼神を封じるオハシラ様を受け
容れた。一番の幸せと守りの為なら、尽くした事も忘れられて良い、返される想いも求め
ないと迄。

 今も彼女は間近で桂おねーさんに身を捧げ。彼女の一番は今も変らず桂おねーさんの幸
せと守りで、共に過ごす日々さえ必須ではない。必要ならいつでも何度でも幾らでも身を
抛つ。寄り添うも離れるも全て一番の人の為にと…。

 その在り方が、自分勝手と分っていても抑え難い憤りと嫉妬を辛うじて冷ましてくれた。
強奪してでも独り占めしたく望む漆黒の炎を。その目に映る者を皆排除したく願う鬼の心
を。誰も桂おねーさんの一番に固定されない事が。それを望める人が手を伸ばさない事が。
情けない喜びと分りつつ、燻る欲求を消し得ない。

 例え烏月さんでも彼女の一番を掴んだなら、わたしは心の闇を抑えられたかどーか。己
がいつか一番になれるとは思わない。只目の前で誰かが桂おねーさんの一番になるのは嫌
だ。肌を合わせ心を交えて、尚一番を掴まない柚明おねーさんが、わたしの正気も支えて
いた。

「無理と分って悪あがきする処も似てます」

 わたしが隠し撮った先程の像も幹部の心に響かなかった様に。柚明おねーさんの訴えも、
幹部の認識を激変させはしなかった。彼女は理と情を絡めて切々と幹部の信を求めたけど、
最初から鎧兜を纏った幹部の心は打ち砕けず。崩れず整然と負け戦を戦い抜いたとの印象
だ。

 彼女の要望に添い、望みを託し面談の場を設けたけど。己に望めない奇跡を人に望むの
は過ちだった。オハシラ様にも不可能はある。審問その物が悪あがきだったのかも知れな
い。

 おじーさまが衰えを見せた数年前から、鬼切りの頭の実務を支え、時に代りに司ってき
た幹部達。わたしが彼らを納得させられる程の頭でなかった。それを彼女に転嫁しても…。

「終ってはいません……」「おねーさん?」

 ぴしっ、と呪縛の弾ける音を纏わせつつ、

「……まだ話し合いは、終ってはいません」

 柚明おねーさんは身体の各所を高圧電流に似た苦痛に苛まされつつ、薬物も疲弊を受け
止めつつ、端正な容貌に静かな意志を宿らせ。

「評決は話しの終りを意味する。無理だな」

 威さんが冷徹な声音で事実を告げるのに。
 彼女も又揺らがず穏やかに平静な声音で、

「真のお話は評決が下されてから始ります」

「……」「幾らあなたでも最早不可能かと」

 黙り込む威さんに代り、烏月さんが声を漏らすけど、柚明おねーさんの姿勢は変らない。
この人は、桂おねーさんの事が掛れば無理でも不可能でも、己が砕け散る迄挑む気でいる。

「約定の件、宜しくお願いします」「……」

『どうか、わたしが抗わず話しを望み続ける間は、わたしに話しを続けさせて下さい…』

 最後迄彼女は誠心誠意、全身全霊を尽くす積りか。それ以外の生き方を、彼女は知らな
いのかも。強く優しく綺麗なこの魂を、烏月さんも桂おねーさんも心底愛した気持が分る。

「分りました。どーせもうすぐ評決ですし」

 処断の時は近い。鬼切りの頭の若杉葛なら、何も持たぬ日々を経たわたしなら、大切な
人を傷つけ哀しませても、憎まれてさえ大丈夫。時に守りたい人に涙されても、怖れられ
ても。必要なら血塗れの途も孤独の末路も掴み取る。唯一つの正解を確かにこの胸に抱け
るのなら。最初で最後の正解を小さな胸に宿せるのなら。

「わたしも、わたしの限りを尽くしますよ」

「葛さん……? っつうっ……! ああっ」

「柚明さん、喋らないで。呪が締まります」

 何かに気付き問いかけようとした、柚明おねーさんを強力な呪縛が苛む。烏月さんが堪
りかねて言葉を挟むけど、彼女は諦めきれない様に、呪縛に逆らい己を絞め続けて止めず。

「もーすぐ評決です。無理しないで下さい」

 間近にいれば柚明おねーさんに無理を促す。
 出口に向うわたしに秀郷さんが歩み寄って、

「葛様。今日は本部に妙に鬼切りが多いと皆が噂してます。いずれも下位の者達なので」

 幹部はその動向に気付いていない様ですが。

「そーですね。沖縄の守天党を除く、全鬼切部の下位の者をとにかく数集めましたから」

 上位の者を集めると変事を気取られるので。強者は千羽党と渡辺党の2人に限定し。そ
の代り、幹部の目の届き難い下位の者を大量に。

「それは威さん達に一任済みです。秀郷さんは今の職務に専念して下さい。鬼切りの頭の
処断が下りる迄は、康長さんが司る最高幹部の総意に沿って、議事を運営して結構です」

「……羽藤柚明への扱いは、あれで宜しかったのでしょうか?」「どういう事です…?」

「孝弘さんと律子さんの指示で、康長さんが許容したので私はその侭実行しましたが…」

 わたしに打ち明ける時間もなく、通常その類の事は頭に相談する慣例もない。彼も断り
難い状況だったけど、柚明おねーさんに為した事がわたしの不興を買う怖れを案じたのか。

 そろそろ、わたしも本音を出し始めよう。
 誰にも聞える強い声でわたしははっきり、

「羽藤柚明は若杉葛のたいせつな人ですよ」

 あの様な非礼と侮辱を為されて、はらわたが煮えくり返らない訳がないでしょーに…!

 静かに、横顔から目線だけをずらして睨み、

「大丈夫です。これを理由にあなたを処断はしません。あなたは今回、己の意志ではその
行いを左右し難かった。処断するならむしろ先月の件の方が理由に相応しい」「葛様…」

「あなたはわたしの指示に従えばいーのです。意見や感想は、求められた時に出して下さ
い。わたしはあなたに使命の実行者以上の役割は望みません。その代り指示に従う間あな
たはわたしの配下です。いーですね」「はっ…」

 室外に出ると恵美さんが間近に来ていて、

「羽藤桂さんには、眠って頂いております。
 ご指示の通り、お茶に軽い睡眠薬で……」

「起きた頃には全て終っている寸法ですよ。
 尾花が添うので安全に問題はありません」

「自身と自身の大切な人の運命を分つ瞬間に、同席させなくて宜しいのですか?」「え
え」

 柚明おねーさんもそれは望まないでしょー。
 それ以上にわたしが視線を合わせられない。

「鬼切り頭若杉葛の、処断の時の始りです」


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 決裁の間の正面真ん中の康長さんが、立ち上がってわたしを向いて、評決を読み上げる。
結果は先に紙で頂いてある。読み上げは、わたしと言うよりも柚明おねーさんへの宣告だ。

「羽藤桂、棄権0、現状維持0、抹殺7、保護幽閉2。贄の血を濃く宿す者は、当人の意
志に関らず鬼に膨大な力を与える怖れがあり、野放しは危険との見解で一致です。唯、少
数意見が複数票を得た為、最高幹部は評決せず、最終判断は鬼切りの頭に一任申し上げま
す」

 一任と言っても自由ではない。議論経過を尊重する以上、甘くて保護幽閉、その場合も
どの様に隔て囲えば充分か納得させなければ、若杉首脳に亀裂が生じる。頭といえど、大
勢に抗っての正面突破は難しい上に度胸が要る。

「羽藤柚明、棄権0、現状維持0、抹殺9、保護幽閉0。贄の血を濃く宿しその力を使え
る者は鬼に近しく非常に危うい。その血が当人の意志に関らず鬼に力を与える怖れ以上に、
主の封じを解く力も羽藤桂に力の扱いも伝えうる彼女は、生かす事が危険との見解で一致
です。最高幹部は彼女の抹殺を評決します」

 評決は常に頭が臨席する訳ではない。頭が居ない場合又は臨席しても頭が別に決裁を下
さない限り、彼らの評決が若杉の意志となる。康長さんがわたしを見上げるのは、わたし
がこの評決に別の答を発するか、見定める為だ。

「お願いです。わたしの話を聞いて下さい」

 柚明おねーさんが身を苛む呪縛を越えて尚強く訴える言葉に、最早耳を貸す者はなくて、

「話は終えた。評決は下ったのだ鬼の少女」
「拾年前の様に己の定めを受け容れる事だ」
「今更生命乞いは見苦しい。覚悟なさいな」

 塞がれ行く扉を前に、彼女は尚も乱れず、

「生命乞いではありません。抹殺を前提で結構です。どうかわたしの話を聞いて下さい」

「今更その必要はなかろう。敢て願わずとも、抗わない限り苦しめず、楽に逝かせる故
に」

 定家さんが話しの口を封じ、孝弘さんが、

「秀郷さん、呪縛を強化しなさい。議論は終ったのだ。彼女の話を聞く必要はもうない」

 その口が喋る余裕もない様に締め上げよ。

「お願いします。少しだけでも……あぁっ」

「我らを誑かせる訳がないのだ。ここ迄乗り込んできた事が既に失敗と知れ、鬼の少女」

 最早何もしなくても、端正な正座姿には呪いの如くぴしぴし弾ける音と気配が張り付き。

 康長さんはわたしを見上げ黙して答を待つ。最早議論は終った。終ったと誰に告げる必
要さえない。後は頭の裁決の有無を問うのみと。

「わたしの意向は、既に明示した筈ですが」

 わたしの声は感情を抜き取って低く震え。

「羽藤の2人が葛様の心の恩人であり、大切な人である旨は、皆も既に知る処です……」

 康長さんは心の窺い知れない温和な顔で、

「ですが鬼切りの頭若杉は、世に潜む鬼に贄の血が与える影響を、考えぬ訳に行きませぬ。
今後も人の世の平穏を鬼の脅威から末永く守る為に、必要な処断は下さねばなりませぬ」

 それが鬼切部や頭の身内でも。特に羽藤柚明は既に人を越えております。羽藤桂には及
ばずともここ数百年にない濃い贄の血を持ち、その力の扱いに習熟し。鬼切り役に近い技
量を持ち、従妹の為には何をも誰をも敵に回す。

 その従妹を抹殺か保護幽閉を為す我らには、最強の敵と言っても良い。今この時迄生か
してきた事が危うかった。これ以上手を拱けば何を為されるか。封じ込めた今こそ幸いで
す。

「我らにお任せを。全て見ずとも結構です」

 敢て処断を言明せずとも、黙して退席すれば済ませておくと。それはわたしへの配慮か。
最早他に語る者はなく康長さんの促しのみが、

「鬼切りの頭としての正解をお忘れあるな」

 六拾年前討ち漏らした観月の民が、千羽の先々代鬼切り役を籠絡した事実を考慮下さい。
その千羽の先々代の息子が経観塚の事案を起こし、娘は濃い贄の血を宿して今尚禍を招き。
情に流され答を間違えると、影響が先々に及ぶのです。この娘はその2人を守ろうとした。
それは鬼に手を貸し人を脅かす行いに近い…。

 鬼切部の答は、間違ってはならぬのです。

「それが、あなた達全員の、正解ですか?」

 頭が求めても、その評決は変りませんか。

 最早康長さんの言葉もない。真っ直ぐ見上げる視線で応えてくるだけで。問答は終えた。

 身体が震えていた。これは怒りか怯えか?
 心が逆流していた。これは誰への憤りか?

「鬼切りの頭、若杉葛の裁決を下します…」

 言葉だけが静かに腹の底から沸き出して。
 でも脳髄は凍結し透き通って明晰に働き。

「羽藤柚明への最高幹部の評決を、鬼切りの頭の権限で覆し、白紙に戻します。同時に…
…最高幹部を全員処断します。抹殺なさい」


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「鬼切り役渡辺威、千羽烏月に命じます。この場で最高幹部全員の、息の根を止めなさい。
妨げる者も同様に。残さず切り捨てる事…」

 これが鬼切り役2人の今日の裏の使命だ。
 これが迷いの末に今下すわたしの処断だ。

 叶うなら避けたかった。穏便に済ませたかった。妥協点を見いだせればと何度も望んだ。
でも彼らは最初から最後迄、遂に変る事なく。彼女の悲壮に美しい想いを忌み嫌い隔て拒
み。

 全員一致? みんな揃って柚明おねーさんを抹殺と? 桂おねーさんの一番の人を、わ
たしの一番たいせつな人の心の支柱を殺す? その上で桂おねーさんまで抹殺か幽閉と?

 最後の糸が断ち切れる音が聞えた。彼らはもう、同志でもなければ配下でもない。敵だ。
わたしの大切な人を脅かし哀しませる敵だ!

「最高幹部を掃討した後、若杉本部にいるその配下達を拘束します。烏月さんと威さんは、
本部に詰めた下位の鬼切りを率い、最高幹部の直属配下四拾名、二次配下三百余名を拘束
して処断し、外にいる者の追補の指揮を…」

 柚明おねーさんは、桂おねーさんに絶対不可欠な人だ。わたし等と重みが違う。わたし
達は似ていても、どこ迄行っても非なる物だ。わたしはどうやっても烏月さんやノゾミよ
り大切な人にはなれない。桂おねーさんの悲哀が怖くて強奪や幽閉を出来ないだけだ。こ
の人は桂おねーさんの幸せだけを望み、囲う事も繋ぐ事も、振り向かせる事さえしていな
い。

 今選ばせれば確実に一番なのに、その自覚さえ促さず、逆に桂おねーさんの烏月さんや
ノゾミや他の人との絆を守ろうと、己を削り。結果は同じでも、至る道も心境も余りに違
う。

『この人を失わせる訳にはいかない。桂おねーさんの唯1人の身内を、最高の身内を…』

「六拾年前の過ちは、観月を討った事なのに。それが生んだ諸々は我々が受けるべき、受
けて当然な、受けなければならない報いなのに。過去を見ず未来しか考えない。終った事
の末を顧みない。踏まれた者の痛みを感じない」

 あなた達は目先に囚われて、何の為に鬼切部があるのか、何故鬼切部の存在が世間の裏
でも認められたか分ってない。鬼を切る事に目が向いて、人の世を守る意味を分ってない。

 わたしはそれを桂おねーさんと柚明おねーさんに肌身で教えて貰いました。だから鬼切
りの頭になり彼女達を守る途を選んだのです。あの2人を守れない鬼切りの頭に意味はな
い。あの2人を守れない様な鬼切部など不要です。だからわたしは彼女達を守る為に戦う
のです。

「人の心を捨てた鬼であるあなた達を敵に」

 わたしも人の心を捨て鬼となって皆殺しを。
 柚明おねーさんに見られたくなかったけど。
 これが処断を下す鬼切りの頭の若杉葛です。

 柚明おねーさんは尚動けない。身を苛む呪縛は別室から及ぼされるし、わたしも事の秘
匿を重視したので、術者達は状況を知らない。生命には影響ないので、今暫く見守って頂
く。

 鬼切部の答が間違ってはならないのなら。

「これが若杉葛の正解です。あなた達の評決が変らない様に、わたしの決裁も変らない」

 威さん、烏月さん。直ちに掛りなさいっ。

「ひいぃ」「頭ぁ」「お許しを」「止めて」

 壇上で安穏を貪ってきた幹部が慌て出す。

「お待ちを、鬼切り役……ぐあっ」「退け」

 場の男性スタッフが数名、流石に拙いと事を鎮めに幹部達と鬼切り役の間に身を割り込
ませるけど。その瞬間、刃は彼らにも向いて、

「頭の命だ。妨げる者も切り捨てよ、との」

 右の壇に登った威さんは、顔色一つ変えず男性を2人切り倒す。致命傷は与えないけど、
叫びと血潮に室内は騒然となった。烏月さんも左の壇に登って、既に1人切り倒している。
扉は全て恵美さんが鍵を掛けて逃げ場はない。

「秀郷さん、助けてっ」「秀郷様、これは」

 壇上から律子さんに、下で残りの男性スタッフに状況への対応を求められた秀郷さんは、

「今は己を守る事で精一杯です。葛様は指示に従う限りわたしを配下だと言って下さった。
皆様方を庇いに行けば私も切り捨てられる」

 騒擾から外れる事で身を守る彼を見て、他の者達も幹部の守りから続々剥がれ。威さん
は律子さんを、烏月さんは孝弘さんを、刃の届く範囲に捉えた。一気に刃を振り下ろす…。

「だめぇっ!」

 聞き慣れた声が、耳に入ったと想えた瞬間。
 威さんの太刀がその細身に深々と食い込み。

 柚明おねーさんは律子さんを押しのけ、威さんの破妖の太刀を血肉で受けて止めていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 切った者も切らせた者も、切られる筈だった者迄も、何故その者が切られたか分らない。
何故身を投げ出して、自身の抹殺を求めた者を助けようと? よりによって律子さんを?

「……駄目です……葛ちゃん、いけない…」

 孝弘さんに振り下ろす間際だった、烏月さんの刃も硬直した。威さんの刃は柚明おねー
さんの左肩胛骨を断ち、胸の付け根に食い込んで止まって。わたしも衝撃に固まっていた。
最高幹部も他の者も、室内全てが凍り付いた。

 柚明おねーさんは動けたのだ。審問の間中、呪縛の圧に苦しみつつ、いつでも力で鉄鎖
の封じを破れたのだ。若杉の粋を凝らした封じと二拾五人の術者の力を一瞬で。彼女はあ
の心を苛む苦痛と恥辱を、己の意志で耐えて話を続けていた。律子さんの危惧は当りだっ
た。柚明おねーさんは、術者としても底知れない。

 その力の強さも意志の強さも驚異だけど。

「どういう事だ? 羽藤柚明、お前は何故」

 己を辱め、害しようとした女を守ろうと?

 わたしの問でもある威さんの声に彼女は、

「わたしの話は、未だ終ってはいません!」

 苦痛に歪む美しい顔は尚強い意志が宿り。

「約束した筈です。わたしが話しを望む間は、話しの場を壊さないと。あなたも、葛さん
も、烏月さんも。わたしは未だ話を諦めてない」

 お願い! 殺戮を止めて。思い留まって。

「評決は下ったのだ。この上何を話すと?」

「真のお話は評決が下されてから始ります」

 割り込む他の者を退かすのと違い、威さんは律子さんに致命の刃を振り下ろした。それ
を代りに受けた柚明おねーさんの身は朱に彩られ。食い込んだ刃の故に威さんも動けない。

 少しでも動けば、又は太刀を抜けば傷口から膨大な血が迸る。否、今も酷い流血だけど。
喋る動きで鮮血はその身から溢れ出る。でも柚明おねーさんは、己を断つ刃に両手を絡め、
次の誰かの生命を絶つ刃を止める意志を示し。癒しの力を持つ彼女はまず傷口を手で塞ぎ
止血すべきなのに。室内全員の注視が集まる中、

「彼らの意志は変らぬ。幾ら話しても無駄な者もいると好い加減に悟れ。善意が必ず善意
に取られ、善意で返される訳ではないと…」

 威さんの苛立ちを隠しきれない渋い声に、

「わたしは無駄だと思いません。彼らの意志が変らなくても、話す意味は尚あります。わ
たしが捧げる生命を了承すればお話は続く」

 千羽の家との繋りも出来た今、桂ちゃんを守れる強い人がいてくれる今、その日々を支
え共に歩む人がいてくれる今、わたしの守りは必須ではない。逆に若杉がわたしに抱く危
惧や疑いが、その守りや幸せに影を落すなら。

 透徹した威さんの無表情に罅が入る。想定を超えた覚悟を前に、彼も想わず息を呑んで。

「まさかお前、己の抹殺を、従妹の保護を条件に受け容れる気か? 己の生命を引換に」

「幽閉と悟られず隔て守る術もある筈です。
 幽閉と言いつつ桂ちゃんを心迄守る術も」

 今この場で生命を落す事が疑念を招くなら、別の時に事故死を装えば良い。叔母さんを
亡くした直後の天涯孤独とは違う。今の桂ちゃんには、ノゾミちゃんもサクヤさんも居ま
す。身内を失った桂ちゃんが、母方の実家に身を寄せるのは奇異じゃない。必要ならわた
しは、

「この身も心も生命さえその幸せの苗床に」

「己は大切に想わないのか、己の生命は!」

 戦おうと想わないのか。理不尽な処断を前に抗いもしないのか。己の手で自分の女を守
り抜こうと想わないのか。それ程の技量を持って己を求める想い人の願いに応えないのか。

「お前の死をお前の大切な人は望むのか!」

 何故逃げぬ。何故抗わぬ。何故戦わぬ?

 威さんの叩き付ける問に苦しげな声は、

「……わたしに、主の選択は採れません」

 主は竹林の姫の安穏を、奪う事で守ろうとして、鬼切部や観月の民を敵に回し幾度かの
戦の末に敗れました。その時主の先にあったのは、勝っても勝っても続く戦いの泥沼です。
贄の血の娘を主が得る事自体が、騒擾を呼ぶ。主を怖れ怯える者達がその侭にしておかな
い。

 敗れた事以上に、勝っても主には決して姫の安穏は掴めなかった。2人の安穏は、ご神
木の封じの中で漸く。全てを失った末に、唯一無二を手に入れる。禍福は糾える縄の如し。
わたしは主にも遙かに及ばない脆弱な身です。

「桂ちゃんの日々の安穏は、若杉と敵対しては絶対守れない。一手一手防ぐ事は出来ても、
抗う事は出来ても、倒す事は例え可能でも」

 買い物に出る桂ちゃんを、学校に通う桂ちゃんを、お友達と遊びに行く桂ちゃんを、日
々狙われては守りきれない。四六時中寄り添って守っても、それ自体が日常を壊し幸せの
基盤を崩す。締め付けの末住処も失い追っ手に怯え、糧も得られず流浪する様が目に浮ぶ。

「戦って鬼切部を倒しても事は同じ。鬼を切る者を失ったこの国で、桂ちゃんに安穏な日
々が残るでしょうか。わたしの力量で鬼切部を倒す事が至難な以上に、倒しても桂ちゃん
の笑顔に繋らない。幸せと守りは保てない」

 苦しげな声は、傷の苦痛ではなく己の無力への悔しさだ。この人は、拾年前から今も尚、
一番の人の日々の幸せと守りしか欲してない。

「わたしは若杉に、話しを望む他に術がない。何を引換にしようとも。譲れないのは、桂
ちゃんの幸せと守りだけ。それを保つ為になら、傷も痛みも辱めも怖くない。怖いのは、
桂ちゃんを守る希望の糸が、断ち切られる事…」

 わたしが肉を持つ鬼である事が危惧と疑念を拭えないなら、想いだけを残し、再び肉を
失って物に宿っても良い。樹でも珠でも維斗の太刀でも。若杉の誰かの妾になる事で彼ら
の信を頂けるなら承諾する積りでした。一番たいせつな人の為になら、わたしは受け容れ
ます。耐えられます。呑み込みます。だから、

「話しの場を壊さないで。お話は未だ終ってない。どうかわたしの話しを続けさせて…」

 見ていられなかった。恵美さんの制止をすり抜け、階段を駆け下りる。烏月さんも駆け
寄ってきた。わたしは血塗れの柚明おねーさんの間近に添って手を伸ばす。この出血は…。

「早く医者を……緊急手術っ!」「待って」

 一呼吸に激痛が伴う筈なのに、目の前の女性は、尚威さんの破妖の太刀を両手で掴んで、

「殺戮の中止を、指示して下さい。鬼切りの頭の決裁を、覆して。お願い、殺さないで」

 流血の海から彼女は動く積りがない。威さんの刃を両手で掴んで抜かせない。わたしの
指示が撤回される迄、己の身で刃を止めると。これでは止血も何も出来ないではないです
か。

「あなたは、今更! 見て分るでしょーに」

 話が壊れた状況を。抹殺を命じたのはわたしですが、そーせねば失われたのは柚明おね
ーさんの方です。それをなぜ! わたしはあなたを守る為に、幹部皆殺しを決断したのに。

「彼らは自業自得に踏み込んだのです。因果応報を受けたのです。わたしの大切な想いを
踏み躙った彼らに、これは当然の報いです」

 幹部の意志が変え難い事は半ば分っていた。あなたが幾ら話しても変る見込みは薄かっ
た。あなたに話しの場を設けたのは、最高幹部への最終勧告でした。本来ならこんな場な
ど設けず、わたしが先に始末しておくべきだった。

「わたしが若杉を一掃しよーとしているのに。彼らを処断し、あなたも桂おねーさんも守
ろうとするわたしの、なぜ邪魔を。彼らを皆殺しにすれば全て解決する。あなたも今迄通
り、桂おねーさんの笑顔を間近に見る幸せな日々を続けられるのに、なぜあなたが妨げ
を?」

 甘すぎます。彼らが過去の経緯も恩義も斟酌しない者だと、あなたも身に染みた筈です。

「彼らの生命を救って再び話しても、あなたの抹殺という彼らの結論は変らない。彼らを
守っても返ってくる物などないのになぜ?」

「わたしが守りたいのは彼らではありません。
 わたしが本当に、生命を張ってでも守りたく望むのは、葛ちゃん、あなたの心です…」

 水を打った様に静まりかえる中、声は震え、

「わたしの……心?」

「ええ。桂ちゃんを深く愛し、深く愛された若杉葛の、傷つき易く可憐で綺麗な想いを」

 答は既にある筈です。この決断があなたの答で間違いないのか。味方で配下の幹部皆殺
しが桂ちゃんを守る鬼切りの頭の正答なのか。桂ちゃんを愛し愛された葛ちゃんの答なの
か。

「あなたが桂ちゃんを想っての答なら、桂ちゃんを愛し愛された葛ちゃんとしての答なら、
わたしはどんな答も受け容れます。誤答でも失敗でも、痛みや哀しみを伴い心削る事にな
ろうとも、再び己を失う末を迎えようとも」

 苦しい息の中で尚その意志は揺らがずに、

「この身の全てで受け止めます。ですから」

 本当にその身の全てで生命で受け止めて。

「自身を絶対見失わないで。桂ちゃんを想い、桂ちゃんの想いを受けられる葛ちゃんで居
て。桂ちゃんの微笑みを受けて返せる葛ちゃんで。あなたの痛み哀しみはわたしも一緒に
受け止める。あなたを決して1人ぼっちにはしない。全ては、一番たいせつな人の笑顔の
為に…」

 彼女は分っている。わたしがこの皆殺しに心の底で戦いている事に。鬼切りの頭として
処断を下し、冷酷に苛烈に決裁を為すわたしが、その奥底で泣きたい程怯え哀しみ苦しん
でいると、逃げたい心を必死に抑え己に向き合っていると知っている。桂おねーさんを守
る為だけに鬼切りの頭にしがみついていると。

 心の問題だった。卑劣でも過酷でも悪逆でも、今のわたしは手段を選ばず勝ちを望めば、
必要な思索は後からついてくる。必要な資材や人員は揃っていた。幾らでも人も鬼も処断
出来た。問題はそれを為すわたしの心の疼き。

 桂おねーさんを大切に想い、人の温もりを知ったわたしには、人1人の処断がとてつも
なく重い苦い物になった。時に人を騙し陥れ、裏切り、闇に葬る鬼切りの頭の職務は、桂
おねーさんを知らなければ石の心で為せたのに。能力ではなく体力ではなく、心を持った
故に。

「桂ちゃんは、鬼切りの頭の葛ちゃんを受け容れている。大切に想っている。愛している。
血塗られた定めもその哀しみも。でも、鬼でもない若杉の人達を皆殺しにする葛ちゃんは、
桂ちゃんを愛する葛ちゃんじゃない。桂ちゃんが愛した葛ちゃんでもない。憤りに振り回
されないで。自身の正解を、見つめ直して」

 まさか柚明おねーさんは、わたしの為に…。

「彼らは間違った決を下したのです。間違った決を曲げなかったのです。それに対する答
が苛烈になって当然でしょー。わたしは…」

 この答が過ちであろうと踏み越えるだけ。
 彼女の傍に添う事を許されない正解でも。
 彼女の為なら、彼女の涙を招く正解でも。

 許しは求めない。わたしに向ける笑顔は望まない。わたしは嫌われて、隔てられても…。

「過ちには罰が必要です。六拾年前の過ちに罰が返ってくる様に、今の過ちは彼らに…」

 わたしは、言い終える事が出来なかった。

「人は過ちを犯す者です! たった一度の過ちで全て失わされるなんて、哀しすぎます」

 必死の瞳と言葉に打ち抜かれたのは、わたしだけではなかった。烏月さんも恵美さんも、
威さんも律子さんも他の幹部やスタッフも皆、失血で意識も危うい女性1人に、気圧され
て。

 誰もが己の過ちの苦味を知るだけに。誰もが想わず、己の過ちへと心を向けさせられて。

「人は皆悪意で過ちを犯す訳ではありません。優しさの故に愛しさの故に、尽くしたい想
いが招く過ちもあります。僅かな不注意や悪意ではない過失が招く過ちも。取り返す術の
分らない程重い過ちもあるけど。過ちの全てに罰を与えていては、余りにも寂しすぎま
す」

 柚明おねーさんは失血に蒼白い表情で尚、

「あなた自身を見失わないで。怒りや憎しみを胸に抱いても良い。唯あなたの一番たいせ
つな想いを忘れないで。桂ちゃんを愛し愛された葛ちゃんの想いから、答を紡ぎ出して」

 この人が若杉幹部との話の場を望んだのは。
 彼らを説得できる自信があった訳でもなく。
 わたしの守りが及ぶとの見込の故でもない。

 わたしに殺戮に手を染めて欲しくないから。
 わたしの心が憤激に染め尽くされない様に。
 自身が身を挟む事で悲劇を防ぎたかったと。

「そんな、柚明おねーさん、まさか……」

「若杉葛は、羽藤柚明のたいせつな、人」

 息遣いが荒く、苦しげに変り。それでも威さんの太刀を掴む手は放さず、流血も止まず、

「拾年前、わたしは微かに迷いを抱きました。解けた主の封じを前に、わたししか継ぎ手
は担えないと分り、己を抛つ決意をしたあの夜。

 わたしは桂ちゃんと白花ちゃんを心底愛していました。一緒に暮らし笑って過ごせる日
々が心から幸せでした。そのたいせつな2人を守る為にでも、その2人と二度と日々を過
ごせなくなる事に、微かに迷いを抱きました。

 迷いは重大な結末を招きました。わたしのご神木への同化が遅れ、主が甦りそうになっ
たのです。己を幾ら叱りつけても自然な同化以上に急かせない。主を封じても封じに失敗
しても、わたしに2人との日々はなかったのに、心は最早望めない幸せを描いて止まず」

 息が続かなくなり始めているのに尚声は、

「わたしは叔父さんに自身を刺して貰う事で、ご神木への同化を急かし主を封じました。
でもそれを見た幼い白花ちゃんは、わたしを刺した叔父さんへの憤りを抑えきれず、封じ
の隙間から主の分霊を呼びつけ、心に宿し…」

 流れ出る贄の血がおねーさんの涙に見えた。

「彼の犯した罪は、わたしの迷いの産物です。彼が鬼に組み敷かれた辛い生の末に、封じ
を担わせるに至ったのも。多くの人の哀しみを招いたのも。わたしの過ちが招いた禍…
…」

 罰を受けるに最も相応しいのはわたしです。
 他の誰に生命で購う程の罪がありましょう。

 葛ちゃんが、桂ちゃんの幸せと守りを約してくれるなら、己の処断には応じます。逆に
幹部の方々を押し切るのなら、その皆殺しは観月皆殺し程の悪手です。大量粛清の事実が、
桂ちゃんの後々の定めに響きます。桂ちゃんもそれを為した葛ちゃんの変化に気付きます。

 どうか考え直して下さい。その決を覆して。

 この侭皆殺しを為せば葛ちゃんは桂ちゃんに向き合えなくなってしまう。遠くで見るだ
けで、間近に触れ合う事が出来なくなってしまう。葛ちゃんが己の過ちに終生悔いを残す。

「葛ちゃんの不幸を桂ちゃんは望みません。
 若杉葛の温かな心迄殺してしまわないで」

 この人はどこ迄も一番の人の幸せだけを。

「鬼切りの頭。我の今の使命を確認したい」

 威さんの声が、再び冷徹さを取り戻して、

「最高幹部の抹殺及びそれを庇う者の処断が、今の命です。この侭では私は羽藤柚明を切
る。頭の命に尚変更はないと、考えて宜しいか」

 新しい指示がない限り、威さんも烏月さんも律子さんを庇った彼女を切る事が使命だと。
そんな愚行を許して良い筈がない。わたしは頭のお堅い最高幹部とは違う。必要とあらば、

「……鬼切りの頭の決裁を、覆しますっ!」

 最高幹部の抹殺は中止。処断は職権停止と身柄拘束に切り替えます。妨げる者も出来る
だけ生命は奪わない様に。それから柚明おねーさんの生命を最優先で助けなさい。急いで。

「有り難う、葛ちゃん。ごめんなさい……」

 漸く刃を握り締めた手が緩む。鬼切り役が2人掛りで、柚明おねーさんに食い込む刃を、
新たに切り付けない様に用心しつつ抜き取り。迸る贄の血を布で抑えるけどその量は甚大
で。

 恵美さんが首を横に振る。最早現代医学が届く領域ではないと。ああ、でも未だ方法は。

「失血が多すぎる。これでは柚明さんも癒しの力をまともに紡げないでしょう。葛様…」

「血があれば良いのです。濃い血があれば」

 烏月さんが、わたしの答に目を見開いた。

「この事態は、我々だけで謝るのは荷が重いです。柚明おねーさんにもしっかり回復して
頂き、共に謝って頂く事にしましょー。桂おねーさんの濃い贄の血を、加えて貰う事で」

 鬼切りの頭の変えられぬ決を覆したのです。

 この位で彼女に死の定めを決させはしない。覆します。柚明おねーさんには約束を果た
して貰います。わたしの痛み哀しみを一緒に受け止めて貰わねば。わたしを決して1人ぼ
っちにはしないと言ってくれた以上。一緒に桂おねーさんの日々の幸せを見守って頂きま
す。

「あなたの約束だけは覆す事を許しません」


「柚明の章・後日譚」へ戻る

「アカイイト・柚明の章」へ戻る

トップに戻る