二人心合わせれば
槐の木が花びらを散らして夏は終りを告げ、私は元通りの生活に帰ってきていた。
夏が始る前と同じ様に、日常と非日常を行き来しつつ、波乱を見せぬ様に毎日を過ごす。
最近級友に、少し表情が柔らかくなったと言われた。視えない壁で人の関りを極力避ける、
その動きを止めた程度の消極的な変化なのに。
夏の前後で大きく違っている事など、それ程多くはない。必ず討つと心に誓った宿敵を、
二度と討つ事叶わなくなったけど。私の立場も使命もそれで変った訳でもない。少し遠く
に心から逢いたく想う大切な人が出来ただけ。
ふとどうしようもなく哀しくなって、涙を流したくなる事もあるけど、それは悲嘆だけ
ではなく取り戻せた温かな想い出でもあるから、日常の枠組に自ら受け容れて取り込んだ。
この哀しみは私の喜びにも、繋っているから。
私の大切な人は、毎日顔を合わせる事は出来ない、遠くへ去って行ったけど。兄さんを
失った事に較べれば、それは大した問題ではない。お互い生きているのだからそれで良い。
「お出かけですかな。烏月様」「ええ」
葛様から直々の命が下りましたので。
私より背の低い中年男性の問に、短く頷く。木刀袋に包んでも維斗を持ち歩く姿勢の違
いは目に見える様だ。千羽の館の広い日本庭園で彼に、立ち止まって左を向いて正対する
と、彼は私の背後の旭日に眼を細めてか眩しげに、
「少し嬉しそうでありますな。やはり鬼切りの頭にしっかり鎮座頂けると、我らも安心出
来るという物。鬼切りの頭から我が党の当主が直々に命を受けるは誉れでもありますし」
齢拾歳と言う新しい鬼切りの頭が、暫くの行方不明を経てその職に就いたのは未だ先月。
若杉財閥や鬼切りの頭の周辺は尚態勢堅め途中でも、居ると居ないでは不安や混乱の度合
が違う。居るだけで有り難い心情は充分分る。
頼光に付き従った金太郎の名を持つ金時は、千羽党では有力な戦力ではない。身長百六
拾五センチ、体重六拾キロの身体は細身。容貌は平凡で白髪が交じり始めた頭頂は既に薄
い。体術も剣術も千羽党では凡庸な事は私も知る。この齢迄鬼切部の使命に身を投じ、身
を長らえ尚動ける以上、一般人より武道に優れ俊敏で力もあるけど、鬼切部の中では彼は
その他大勢の内だった。彼はむしろその実力の範囲を超えず、忠実にその他大勢の任を全
うする事で、無謀を冒さない事で、今を迎えられた。鬼切部でそれを為し生き残るにも尚
運が要る。
場数を踏んで経験や胆力がある故、近頃は一時的にそれら大勢の指揮を任されもするが、
主立った者には数えられない。千羽党では鬼切り役やそれに近い者や、少し落ちて格下の
鬼に立ち向かう者の更に下の兵卒の年長者だ。鬼切り役の様な決定力が1人より、捜索や
偵察や追い込み等人海戦術に使われる。千羽で敬語は不要だけど、豊かな戦歴に敬意を表
し、私はやや目上に近い喋り方を好んでしている。
小太刀を持った姿は彼も今から出陣なのか。
「烏月様の笑顔は我ら皆の笑顔。我らも喜々として使命に励めるという物でございます」
時代がかった言葉や心情は、千羽という特殊な世界に長く居る故か。そこに拾数年身を
置く私もそうに違いないけど、その私にも彼の感覚は古風に過ぎる。過ぎるけど、それを
理解出来る以上に納得し共感出来る私も又…。
「確かに、葛様から直接命を頂ける事も、直接頻繁に指示頂ける程近しい事も、喜びです
が……。それより大きな喜びは、為すべき使命を承けて挑める私が今ここにいる事です」
切るべき鬼が居る時に、私がその場に馳せ参じ得る事。喰らわれそうな人を、鬼から守
れる事。その笑顔を繋ぎ明日に希望残せる事。それに己が役立てる事。たいせつな人が息
づく世の安穏を保てる事。それが今の私の喜び。
私は憎くて鬼を切るのではない。大切な人を脅かす鬼は憎いが、憎悪のみで戦う事の虚
しさを、教えてくれた人がいる。何の為に戦う鬼切りか思い出させてくれた人も。夏迄は、
心を閉ざしてその堅さを鬼に叩き付ける戦いしか為せなかった私だけど。今の私は違う…。
「烏月様は本当に美しくなられた」
前から美しかったが、柔らかな強靱さを手に入れられた。否、儂如きが申す事でもあり
ますまいが。深みが増して思えまする。夏迄はその強さの裏に、折れそうな危うさが見え
ましたが。良い出逢いでもございましたかな。
「……ええ。確かに」
今迄に知らない人の出逢いを体験し、今迄忘れていた人を想う心を見せられ、私は魂を
魅せられた。奴の鬼切りに私の殻は砕かれた。強い想いは己の過去を、自身を見つめ返す
様に迫り。そうして漸く取り戻せた私自身の真の想い。失ってしまった大切な人の、でも
取り戻せた本当の想い。私の呪縛を断って私を憎悪から解き放ってくれた、たいせつな人
…。
その人達を、これからこの手で、守る為に。
「明日の夜には戻れると思います。それ程困難な仕事ではない様ですが、使命の種類が人
を選ぶとの仰せでしたから。葛様も維斗を抜く必要もないかも知れぬと、仰せでしたし」
あの人の前で維斗が要る程の禍があるよりはそうでない方が良い。そんな禍があれば一
刀の下に切り捨てるけど、平穏無事が一番だ。あの人は昼に生きる人。わたしが守りたい
柔らかな人。絶える事なく笑みを浮べて欲しい人。今日明日は、維斗の出番もなく済む様
に。
「金時も、気をつけて。今回は、何人で?」
少し前に、館で得物を手にした何人かの若者とすれ違った。私に近しい腕を持つ千羽の
強者は、居なかった様だけど。それでも人手不足の千羽党にしてはかなりの数の動員だ…。
館の前には、若杉の孫会社である杉本運送の宅配トラックが三台停まっていた。どれも
鬼切部が人員や資材を運ぶ為に、偽装済みの物だ。それに乗り込んで現地に赴くのだろう。
「拾六名。それ程の危険はないとの事なので、私が頭を仰せつかりました。実戦経験不足
気味な若造共に経験を積ませる良い機会かと」
私もそうだけど、金時にも守秘義務が掛っているらしい。鬼切部の中に迄守秘を掛ける
事はそう多くない。私のは葛様直々の命だからともかく彼の任務も守秘とは。口ぶりで推
察は出来たけど。私は千羽党の鬼切り役で当主も兼ねる。今回の命を与えた者を訊ねると、
「若杉の、秀郷様からです」「秀郷氏か…」
苦い返事は彼に少しでも接した鬼切部なら共通の感想か。若杉でも上級の幹部ではない。
葛様の周囲を固める拾名弱の最高幹部から二階層程下で、命令の伝達やそれに付随する手
配を繋ぐ者の一員だ。鬼切部の食料調達とか、宿泊とか、日程調整とか。私の経観塚行き
の際も移動手段や地元県警への根回しを担った。
三十歳代半ばの痩身で容姿も悪くないけど、鬼切部には若杉は皆鬼切りの頭として接す
べきと思っている様で、居丈高で好かない男だ。情報は多く集めてもその取捨選択に時々
誤りがあり、想定と違う現実を問われると黙って従えと押し切る事もあった。重用する配
下や信用した同輩上司から得た情報を鵜呑みにし、功を焦って先走るとかの批評も耳にし
たけど。
まあ、千羽の大人衆が秀郷氏の命を受けて、金時に任せると判断したのだ。当主とは言
え、鬼切りの実働以上こなせてない私が、当主の為すべき判断や雑務を委ねた彼らの結論
に口を挟むのは憚られた。当主は訊き出す権限も持つけど、逐一為しては逆に私の身が持
たぬ。今は鬼切り役だけでも一人前に、こなさねば。その上ここにいるのは命じられた側
の金時だ。
「我らの方は巧く行けば、今晩には戻れている見込みです」「そう、遠くない処か…?」
『私も目的地は三時間弱で着く場所だけど』
「その先は申し上げられません。お察しを」
頭を下げる金時にわたしも深く追及しない。私もそう長話を出来る余裕がある訳でもな
く。
「では次に逢う時も互いに健在で」「はい」
陽光の下、私も己の命を果たしに歩み出す。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
桂さんの家は、以前に一度訪れたから道筋は憶えている。微かに人を越えた力の欠片を
家の近く一帯から感じ取れたけど、希薄な以上に害意や敵意を感じないので問題視しない。
人に仇なす怪異を切るのは千羽党の鬼切り役の使命だけど、人に仇為さない者は対象外だ。
前回は桂さんを驚かせる為に、その学校帰りの間近から携帯電話を掛けてみた。鬼切り
の頭に就任する葛様に付き従っての連続した警護の任が一段落し、漸く掴めた機会だった。
相変らず桂さんの表情は、素直に柔らかに可愛らしく動いて微笑ましい。柚明さんが傍
にぴったり付いて愛おしむ気持が実感出来る。その日は一緒にいた桂さんの友達の奈良さ
んと三人で、導かれる侭に昼間の日常を愉しみ。
夕刻には桂さんの家に上げて頂き、先々代の仏壇に挨拶をした。兄さんが心から尊崇し
た先々代、その兄さんの死の因を招いた奴の母である先々代、桂さんの母でもある先々代。
想いが複雑なのは人の定めが入り組みすぎている所為か。不自然な程長く仏壇に手を合
わせ続ける私を、柚明さんは静かに見守り続けてくれた。彼女は経観塚での先々代を知る
数少ない1人だ。その内話も聞かせて頂こう。
柚明さんと桂さんの手料理を、夕刻から顕れたノゾミも含め5人で夕餉に頂き。桂さん
が奈良さんにも、更にもう1人の友にもノゾミや鬼切りの話をしていた事は、驚きだった。
葛様の鬼切りの頭の話だけは、柚明さんが止めたらしいけど、逆に言うとその他の開示は
許容したと。それは若杉の力で情報を封鎖できる私達より、贄の血筋である桂さん達に危
うい筈だ。一般人には全て守秘が妥当なのに。危惧を隠せない私に、桂さんは満面の笑み
で、
『陽子ちゃんだから、大丈夫だよ』
衝撃は、それを柚明さんが頷いて了解した事だった。桂さんの守りに細心の注意を払う
彼女が、その無謀とも不注意とも言える真相の暴露を、止めず注意もせず、後処理もせず。
『陽子ちゃんとお凜さんは、大丈夫だから』
桂さんに理屈も根拠もない事は聞かずとも分った。桂さんは唯奈良さんと東郷さんを信
じて打ち明けただけ。羽様で私に再度絆を結びたいと申し出た様に。さかき旅館で柚明さ
んを切ろうとした私の前に立ち塞がった様に。羽藤の屋敷でノゾミの受容を皆に求めた様
に。そうしたいと想ったからそうしただけ。でも、それがどれ程危ういかは柚明さんも分
る筈だ。
奈良さんと東郷さんは信頼に値する人だったから、その判断は過ちにならなかったけど。
柚明さんの守りは薄氷の上を進む様に危うい。柚明さんは肉の身を持てて尚儚く想える。
彼女は桂さんの守りに喜んで身を削り行く様な。
その事も考え合わせ。諸々も考え合わせ。
今日私は任務とは別に、一つの想いを桂さんと柚明さんに告げようと想う。柚明さんの
技量は分るけど、彼女は本来戦う人ではない。戦いに向いた人ではない。彼女の守りは、
刃に己を突き刺して止める様な所作の連なりだ。
それを為させ続ける事は、桂さんを不安に落すし、私が見ていられない。桂さんが彼女
を守って傷つく柚明さんを前に、哀しみ痛む様は見るに忍びない。桂さんの守りには私の
方が適任だ。どうしても柚明さんが桂さんを守ると言うのなら、柚明さんも含め私が守る。
柚明さんの更に外側で私が2人を守れば良い。
大事な話になるので、上がってすぐにとは行かないけど。今日明日は、2人と話し合う
時間に事欠かない筈だから。桂さんとの語らいを愉しんで、夕食後辺りが良いだろうか…。
今回の来訪は予め伝えてある。休日なので、桂さんは私を百貨店にエスコートすると言
ってくれた。首都からそう離れてなくても千羽の家に生れ育つと、買い物や流行に疎くな
る。瀟洒な人の集う所での身の処し方は分らない。社会勉強の積りで、誘いに身を任せる
と応えた処、予想以上に喜んでくれた。私も嬉しい。
柚明さんも一緒にと想ったけど、
『桂ちゃんの楽しみは烏月さんとの時間です。ノゾミちゃんも外せる様に、ガラス玉に力
を注いで2日位保つ青珠の代用品を用意しますから。心ゆく迄2人きりを愉しんで下さ
い』
やんわりと断られた。私はむしろ、拾年の時を止められて現代に馴染み切れてない柚明
さんと一緒の方が、ショッピングモールでの己の不自然さを緩和出来ると想っていたのに。
そして、私が今回訪れるのは2人に会いたい想いとは別に、葛様から与えられた任務の
故だ。土曜日午前拾時から日曜日午後4時迄三拾時間、贄の血筋、桂さんと柚明さんを警
護するようにと。何があるか、何に備えてかは言えぬ様だけど、言えぬからこそどんな事
態にも即応出来る者が求められたという事か。
2人の守りは私の望む処だし、2人に迫る脅威があるなら速やかにこの手で排除したい
私だけど、2人が別々にいては守りは難しい。柚明さんの気遣いと桂さんの気持は分るけ
ど。
結局夕食以降、羽藤家でノゾミも含め一つ屋根の下で夜を共にする事になった。葛様か
らは当人達への守秘も課されており、私の来訪は前回同様、束の間の休日に桂さんに会い
に来た事になっている。鬼切部が求められる何かがあるなら夜だろう。夕刻以降一緒なら。
爽やかな秋晴の空の下、部屋の前の呼び鈴に手を伸ばした時、室内に気の乱れを感じた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「うづきぃ、いらっはいな……げんきぃ?」
酔っ払った様な声と共に目の前に浮いて顕れたノゾミに、私はドアを閉める事も忘れ木
刀袋から維斗を取り出していた。時刻は朝十時の少し前。鬼が出るべき頃合ではない筈だ。
その表情は弛みきって無防備で。故に一刀の下に切り捨てようとの反射的な抜刀を、す
んでの所で止めたけど。ノゾミが昼に姿を顕わし、誰に害意抱いても何程の事も出来ない。
「イトね、それイトね。私、切っちゃう?」
あははははあぁ。きゃはははは。
視線が私を捉えてない。事を把握出来てない様だ。血に飢えて理性が崩れたか、悪い想
念で自制を崩されたか。昼に出ては拙い事を半ば承知で、己を抑え切れてない。己を律す
る事の出来ない鬼は、本能や生存に我を失う。
「ノゾミちゃん、早く青珠に戻って」
半透明なノゾミの向うに、普段着の上にエプロン姿の、飾らない柚明さんの姿が見えた。
希薄なノゾミの霊体を、右掌に力を微量に通わせしっかり首筋を後ろから掴み。悪戯を
した幼子が、母か姉に捕まった感じに見える。左掌に持った青珠に押しつけ、中に押し込
め。
「ゆめい、青珠、少しせまい……。力、注いでくれないと、又抜け出そう」「分ったわ」
柚明さんはノゾミに触れた掌から癒しも流し込んだ様だ。それで漸くノゾミも少しは我
を取り戻したらしい。それにしても『鬼切り役』ではなく『うづきぃ』とは。一体何が?
「烏月さん、こんにちは……ごめんなさい」
バタバタした処を見せてしまって。柚明さんは青珠をエプロンのポケットに入れ、玄関
に正座し挨拶に三つ指をつく。私も頭を下げ、
「お久しぶりです。一体、何があったと?」
これは葛様の命に関連する事なのだろうか。
柚明さんの優しげな困り顔は、一言での説明が難しい故か、口に上らせるのが拙い事か。
「う、う、烏月さん……?」「桂ちゃん」
奥から桂さんの声が聞える。でもその声は妙に弱く、身体が歩み出してくる気配がなく。
「今上がって貰うから、少し待っていて」
はぁぃ……。諦めた声は更に弱々しい。
「まずはお上がり下さい」「分りました」
水曜日夜電話した時の勢いでは、桂さんは外行きの姿に完全武装して玄関前で待ち伏せ、
家に上がる暇も持たせず、私の手を引っ張る感じだったのに。ドアを閉めて、中に上がる。
招かれたちゃぶ台に正座する寸前に、奥のソファに身を横たえた桂さんを目に入れた時、
私も状況は大凡理解出来た。顔色が真っ青だ。その瞳が私を映し出した時、意思の光が漸
く、
「烏月さん、ありがとう。来てくれて……」
「桂さん。無理せず、横になっていた方が」
身を起こそうと力の入らない全身に、顔を歪めて抗おうとする桂さんに、私は思わず歩
み寄って、その身を抱き支える。吸血されたかの様に肌が冷たく力がなく、視線が虚ろだ。
普段ならここ迄密着するとお互い恥じらいも生じる処だけど、今はそれどころではない。
「烏月さん、ごめんね。ちょっと力、入らなく……」「気にしないで良いよ。それより」
何があったんだい?
間近で肌を寄せ合って、しっかり肉を支えないと崩れてしまう。座った姿勢さえ保てな
さそうに力が抜け、表情にも脱力の色が濃く。柚明さんに驚いた様子が見えないのは、つ
いさっきに始った類の異変ではないという事か。
「ちょっとだけ体調がね、その、ほんのちょっとだよ。外出には全然、影響ないから…」
一生懸命言葉を紡ぐけど、声音が弱々しい。
「桂ちゃん。やはり今日の外出は無理じゃ」
「良いの。わたし、元気だもん。行くもん」
柚明さんの心配そうな声に、漸く少し強い声を返すけど、風邪引きの子供が遠足に無理
して行きたがる様を想起させる。具合が悪いのに、懸命に外行きの服装を身につけたのか。
フリルの付いた白とピンクの服は桂さんの可愛らしさに似合って普段なら映える処だけど、
生気を失って横たわる姿には痛々しさが増す。
「その様子では、無理よ」「行けるもん!」
柚明さんの困った表情はこの所為なのか。
「是非とも行って貰いたい処なのだけど…」
柚明さんでなくても、外出を止めさせたくなる。否、柚明さんなら絶対行かせない処だ
ろう。風邪か食あたりか分らないけど、今の桂さんに外を歩かせるのは倒れろという様な。
「行くったら行くもん。せっかく烏月さんが、貴重な休みにわざわざ訪れてくれたんだも
ん。今日を逃したら、次にいつ逢えるのかも…」
私は柚明さんに目を合わせ、どうやって桂さんに諦めて貰おうかと想いを通わせるけど、
それが桂さんにも視えたらしい。ここ迄親しくなれば互いの考えは大凡分るのかも知れぬ。
両手に縋り付かれ、上目遣いに願われる。
「2人心合わせれば、出来ない事は何もないよ。烏月さん、お願い。帰っちゃわないで」
この求めには逆らい難いけど、潤む瞳に否とは言い難いけど、今桂さんを連れては行け
ない。葛様の命は桂さん達の警護だ。倒れさせては失敗だ。桂さんが私を前にどうしても
町に行くというなら、諦めさせる為に身を引く選択もあった。何も2人と同室で守れとの
命ではない。帰った事にして近辺で守れば…。
「楽しみにしていたんだよ。ずっと、他の事に手が付かない位、待ち望んでいたんだから。
2人で一緒にお買い物、2人で……うっぷ」
吐き気が兆したのか、言葉が途中で詰まる。
身体に突如緊張が走り、私の手を振り切って便所のある方向に、小走りで駆けて行って。
後には困惑の静寂が残された。
「烏月さんが来てくれるという電話をくれた水曜日の夜迄は、体調も良かったんだけど」
どうやらその翌朝から体調を崩し気味らしい。しかもよりによって今日が最も酷い様で。
「わたしの力は対症療法が主なの。風邪位ならともかく、この不調の原因には及ばない」
一時的に緩和出来ても、不調の根が身の内にある限り何度でもぶり返して桂さんを苛む。
柚明さんが力を注ぎ続ければ良いけど、私との2人を楽しみにしていた桂さんは、大丈夫
だと示す為に朝からそれを拒んで、苦しんで。
「ノゾミのそれにも関連がある事ですか?」
座って向き合う私の問に柚明さんは頷き、
「ノゾミちゃんは、桂ちゃんと深く繋っているから……。この家に来てからの吸血は抑制
的だけど、経観塚にいた時は結構な量を吸っていたでしょう? 彼女の霊体を為す要素の
大部分は、桂ちゃんと言って良い状態だから。間近にいれば一層その好不調が響き易い
の」
桂さんが風邪引けばノゾミが肺炎になる?
「ええ……桂ちゃんは濃い贄の血を持つから。ノゾミちゃんの自制や理性を越えて血が匂
い、誘われるのを止められないみたいなの。今朝は特に酷くて、昼なのに外に誘われる迄
に」
放置しておけば消えてしまう処だった。
「わたしが青珠に力を込め、ノゾミちゃんを強めて自制や理性を補助しているのだけど」
桂ちゃんの方が血は濃いから難しいみたい。
間欠的に桂さんの短い悲鳴が聞える。その度に柚明さんが哀しそうに瞼を伏せる。柚明
さんは桂さんの不調の理由を知っている様だ。ちゃぶ台に座しても青珠を握り続ける彼女
に、
「桂さんの不調の原因は、何なのですか?」
これが葛様の命に関る事なら聞いておかねばならない。関らなくても、何かが襲い来る
時に桂さんが元気なのと倒れそうなのでは対応は大きく変る。現状は把握しておくべきだ。
口外を憚る様な事なのか、憂いを秘めた瞳を伏せ、かぶりを振って柚明さんは応えない。
絶対の拒絶ではなく、応えるか否か惑う感じに見えた。少し考える猶予を持たせるべきか。
なら、今日話そうと想っていたあの件を…。
「今晩時間があれば、柚明さんと桂さんに折り入ってお話ししたい事もあったのですが」
桂さんの容態によっては前倒し、否、話自体を次に持ち越さざるを得ないかも知れない。
桂さんが応えられる状態でなければ、柚明さんの耳に入れるだけでもと口に上らせる私に、
「そのお話は今聞かない方が良いでしょう」
今度は即答だった。ゆっくり話を進めようとした僅かな隙に言葉を挟まれ、語る順番を
奪われた。桂さんが具合悪くて話せる余裕がない以上に、柚明さんは私の話を一度拒んだ。
柚明さんは、話の中身を分ってそう応えたのか。未だ何も伝えてないけど、彼女は少し
前迄経観塚でご神木に宿るオハシラ様だった。贄の血を力として使いこなせば、特異な能
力も顕れるらしい。私の求めを理解済なら話は早いけど、こういう大事な事柄は間違いな
く、礼を尽くす意味でも確かに言葉で伝えるべき。
その思索迄把握しているのか、柚明さんは静かな声音で私の言葉の出る寸前を先取りし、
「烏月さんが桂ちゃんやわたしを想ってくれての提案に、否の答は基本的にないのですが
……少し待って頂けますか。6時間後にその提案をして頂ける様でしたら、桂ちゃんが反
対しない限りわたしに否の答はありません」
桂ちゃんの前で、一緒にお話を伺います。
『6時間後? 今から夕刻迄の間に何が?』
基本的に承諾の答を貰え、桂さんと一緒に話を聞くと手続きを示され、求めが受容され
る道筋は見えたのに、妙に引っ掛る。柚明さんは本当に話の中身を分って応えたのか?
何かと勘違いしていないか。受け答えはいつもの如く柔らかで優しげだけど。顔に浮ぶ憂
いは桂さんを想う故か、私の提案を分る故か。
柚明さんは今ここでの話を、止めただけだ。時間稼ぎなのかも知れない。でも6時間と
いう短期の時間稼ぎに何の意味があるのだろう。桂さんの容態が落ち着く迄という事なの
か?
「……分りました。その様に致します」
私は軽く頭を下げて彼女の求めを受容する。柚明さんの背中の向うでは、桂さんの嗚咽
が間欠的に聞えていた。心配だけど、声を出し動けるのは未だ日常の苦痛だ。場所がトイ
レなので、女子同士でも踏み込むのは憚られた。
「……烏月さんに、頼みがあるのですけど」
柚明さんの語りかけは、やや唐突だった。
私からの話は6時間棚上げになったけど、
『桂さんの不調の原因には答が貰えてない』
その中で柚明さんから、頼みを求められる。彼女の頼みなら叶う限り応えるけど、今日
の彼女は様子が何か妙だ。話の繋ぎや流れがやや不自然。他の人と話していたなら気付か
ない程だけど、柚明さんだから気に掛る。桂さんやノゾミの不調が、柚明さんにも影響
を?
一度美しい瞼を伏せて、決意した様に面を上げて、私の視線に正視を返し、確かな声で、
「桂ちゃん今日は、女の子の日、なんです」
それが何を示すのか、私は不覚にも分らず、一度聞けば分るべき答を再度問い返してい
た。言葉ではなく、視線でだけど。それに彼女は、
「月のもの、月経……生理の日なんです…」
困った様に言いづらかった理由が氷解した。
今迄言うに言えなかった事情が納得出来た。
明かす様にも声にも苦さが宿る訳が分った。
癒しも及び難い訳だ。病でも老いでもない。身体には負荷でも、それは女子の正常だか
ら。
ノゾミは正真正銘、血の匂いに酔っていた。桂さんの贄の血は尋常ではなく濃い。しか
もノゾミは桂さんの血を呑んで深く繋っている。影響が出ない筈がなかった。更に言うな
ら…。
「桂ちゃん、烏月さんが来ると聞いて、色々物思いに耽っていたから。とっても元気だっ
たの。とっても、とっても元気だったの。烏月さんを思い浮べ、楽しみだって。ずっと他
の事に手が付かない位、誰も目に入らない位待ち望んでいたって。2人で一緒の……を」
微かにその言葉の連なりが心に引っ掛った。
静かな語調だったけど、それは彼女らしくない。私の知る柚明さんが口にする内容では、
「桂ちゃんは烏月さんを好いているわ。烏月さんに欲情を抱いている。烏月さんを奪うか、
烏月さんに奪われたいと想っている。その烏月さんと逢える今朝が、そして逢えた今が最
も症状重いのは、今目にして分るでしょう」
声は平静だった。荒れ狂うでもなく低く沈むのでもなく、常の静かな語調だけど。でも
それは私や桂さんの知る柚明さんの言葉では、
「柚明さん、一体、何を……?」
私は目の前の人に何を問いたかったのだ?
「桂ちゃんを想うなら、烏月さん。この家から出て下さい。桂ちゃんの贄の血が匂いすぎ、
ノゾミちゃんが理性を崩されている。あなたが桂ちゃんの月経を重くして、苦しめている。
あなたは間近の禍も感じ取れず、迫る嵐も気付けない。今のあなたに桂ちゃんは守れない。
……この家から出て下さい。早急に」
強い瞳を向けて言ってくる。経観塚では私の哀しみも弱さも受け止めてくれた深い瞳で。
狂気でもなく傀儡でもなく、確かに柚明さん自身の意思で紡がれた言葉が私に刃となって。
「柚明さん。その、私には、事が呑み込め」
呑み込めているけど、呑み込みたくない。
理解しているけれど、得心が行ってない。
その躊躇いが私の思考を止めて、惑わせ。
でも目の前の人の言の葉は容赦なく私に、
「……この家から出て下さい。早急に」
冷徹と表現したい静かな声がダメ押しを。
「あなたは今、ここにいるべき人ではない」
「ひどいよ……」
でもその声に答を返したのは私ではなく、
「ひどいよ。柚明お姉ちゃん……幾らお姉ちゃんでも、言って良い事と悪い事があるよ」
柚明さんの真後ろに、トイレから出ていた桂さんが俯き加減に立っていた。その気配を
気付かぬ柚明さんではない筈なのに。私を立ち去らせるのはともかく、桂さんの耳に届か
せては拙い内容だろうに。桂さんの身体が小刻みに震えているのは、不調の故の悪寒では
なく、心の奥から噴き出す冷たい怒りの故だ。
「桂ちゃん……」
柚明さんが桂さんから見えない状況で両目を瞑る。それは諦めたというか、来るべき物
を受け止めたというか。聞かれる事は覚悟の上か。むしろ聞かせる積りだったという事か。
柚明さんの私との断交を桂さんに示す為に?
その表情は痛みさえ見えるけど、それは一体何への痛みなのか。一体誰への痛みなのか。
「あれだけ言わないでって、お願いしたのに。烏月さんにだけはって、お願いしたのに…
…。そう言えば今日のお願いに返事なかったけど、でも、お姉ちゃんいつも返事なくても、
わたしのお願いに応えてくれたのに。わたし確かに烏月さん好きだけど、今日の2人きり
本当楽しみだったけど、色々物思いに耽ったけど。例え本当の事でも、言って良い事と悪
い事がある位、お姉ちゃん分っているでしょう!」
確かに色々思い浮べたけど。確かに色々考え込んだけど。確かにドキドキしていたけど。
ショッピングは行けないかもと想ったけど。烏月さんを迎えてもこれじゃ迷惑なだけだ
と、半分諦めたけど。いくら何でも酷すぎるよっ。
俯いて見えない顔の細い顎から滴が落ち。
「どうして? どうしてなの、お姉ちゃん」
そんな事言う人だと想ってなかったよ。
最後の救いを求める声に、震える声に、
「……この家から出て下さい。早急に」
柚明さんは最後迄向き合う事も応える事もせず、私への勧告を平静に、平静に繰り返す。
私は桂さんの激怒と柚明さんの平静さの懸隔に言葉を挟む術もなく、答を返す暇もなく。
発されたのは桂さんの叫びだった。
「柚明お姉ちゃん、だいっきらい!」
桂さんは身を翻し、靴を履いてその侭秋の日の燦々と降り注ぐ外へと駆け出して行った。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「桂さん!」
動きになら動きで応じられる。私も維斗を左手に、桂さんを追う為にちゃぶ台を立った。
通り抜けようとする私の前に立つ柚明さんに、
「柚明さん。今日のあなたは何かおかしい」
正直私も平静ではなかった。自身の怒りではなく、桂さんを哀しませ涙させた事への憤
りが渦巻いていた。桂さんが私に寄せる気持は感じていたけど、私の想いが届いている感
触はあったけど。こんな形で露わになるとは。姉でも言って良い事と悪い事がある。私達
の仲を引き離したいなら、他に術はあった筈だ。彼女の辛い時に、一番心を痛める方法を
何故。
サクヤさんなら確実に柚明さんの襟首を持ち上げ怒鳴りつけていた。引っぱたいたかも
知れない。私もこれ以上妨げられれば手を出す事も厭わなかった。幾ら桂さんの大切な人
で私の大切な人でも、今日の彼女は許せない。
玄関に続く入口の前で、肌が触れそうな程間近で正面から見つめ合い、視線を交わして、
「……烏月さんに、頼みがあるのですけど」
『何を言っているのだ、この人は。頼み?』
はね除けようと、動き掛ける手を止める。
理性を動員し、自身の苛立ちを抑え込む。
それはさっき彼女が言いかけていた事だ。
彼女が言いかけて止め、この話題に移る分岐点だった。ここ迄立場が変った後で、不調
なのに外に走り出した桂さんを放置して、今頼まねばならない事とは。聞いてみたかった。
聞いて断る事で、私からの断交表明になる。私が話だけ聞く姿勢を見せた真意を知って
か知らずか、間近で少し見上げる視線を向けて、
「桂ちゃんの後で、良いんです。わたしを、守って頂けますか?」「柚明、さん……?」
今迄の流れなら断ると応えて良い筈だった。そうするべきだった。桂さんを傷つけ涙さ
せ、その信を裏切って哀しませた。今迄に寄せていた想いが尋常でなかっただけに、その
傷口は大きく根も深い。そんな事を桂さんに為す人を、私が守る謂われは……謂われはあ
った。
葛様から承けた使命は、桂さんと柚明さんの警護だった。その立場の変化に関らず、取
り消されない限り使命は今尚継続されてある。私はこの人も明日の夕刻迄守らねばならな
い。
でも、その使命と今彼女に向けた答は別だ。彼女を守ると応える事は私の受けた使命に
はない。最後に彼女が無事であれば良いだけで、頼られても想いを返す必要は、特段なか
った。躊躇は瞬時だった。否の答は用意済みだった。彼女の言葉が淀めば先に拒絶を返し
ていた…。
「今の桂ちゃんの体力では、そう遠く迄走れません。1キロ行かない内に、ばてて座り込
むでしょう。走り去った方向に1キロ少し行くと小さな公園があります。ベンチで休ませ
てあげれば容態は少し良くなると想います」
「? 柚明さん……?」
声音は全く変りがない。静かで確かで、穏やかで。異変を感じる前から異変を感じたさ
っきもずっと、そして今私がもう一度異変を感じたこの時迄も、その語調はずっと変らず。
「烏月さんもご存知と想いますが、この周囲半径十キロ強の範囲で、贄の血の匂いを隠す
結界を張ってあります。青珠がなくても今の桂ちゃんは鬼に気付かれる心配はありません。
雨降りでもないので濡れる心配も今の処は」
安心して、桂ちゃんを追いかけて下さい。
『安心して、追いかけて? 早く追いついて家に連れ戻す事を、想定してない? 私を引
き留めて時間を稼ぎ、桂さんを少し進ませて、公園で休ませる様に導く? 何を考え
て?』
それ以前に、彼女は自ら桂さんを追って連れ戻す事を考えてない。これも柚明さんらしくなかった。さっき私にここを去れと勧告したのは、私と桂さんを引き離す為ではない?
「私が追いかけて、桂さんを休ませて一緒に過ごして、良いのですか? 2人きりで…」
桂さんの容態も気になったけど、柚明さんの心中は更に不可解だった。柚明さんが言う
通り、桂さんの状況は生命に関る物ではない。即追わねば生命を落す物ではなかった。逆
に桂さんを追いかければ、暫く彼女と話せない。
分らなかったと言うよりも、分りたかった。私に桂さんから離れる様に責めつつ、2人
きりの場を外に用意する。桂さんの容態が良くない以上、2人にするなら屋内で、外すの
は彼女の方がずっと簡単だ。あそこ迄私を責めておいて、その私と桂さんが添う場を作
る?
「今のわたしは、桂ちゃんの前に行ってもその心を乱すだけ。烏月さんが包んでくれるな
ら、その方が桂ちゃんの守りになるなら…」
そうしたのはあなた自身ではないですか。
言いかけて喉迄来ていた私の声が凍った。
『この人は、それを承知で選んで為した?』
分らない。私の思考では彼女の意図が未だに見えてこない。彼女は何が桂さんの為にな
ると考え、何をどうしようと想っているのか。
「……この家から出て下さい。早急に」
桂ちゃんがわたしよりあなたを待っている。
声音は尚静かに穏やかな侭だけど、それは、
「あなたは今、ここにいるべき人ではない」
この状況を招く為のお膳立てだったのか?
何故こうせねばならないかは分らないけど。
何故桂さんを傷つけたのかは分らないけど。
柚明さんは、そうせねばならなかったのか。
桂さんがここを飛び出すべきで、私がそれを追いかけるべきで、柚明さんがそれを追う
べきではない事情があり、それに添ったと?
今朝迄の柚明さんを知るだけに、今少し前の柚明さんを見ただけに、思考が纏まらない。
何を信じて良いのか、分らない。この想いは、振り払うべきなのか、受け止めるべきなの
か。
「伝えて頂けますか。桂ちゃんに、わたしがごめんなさいと、謝っていたって……。桂ち
ゃんには、わたしが面と向って、多くを謝らなければならないけど。烏月さんにも多くを
謝らなければいけないけど。でも今少し…」
ごめんなさい、未だ全部は言えないの。
両肩に柚明さんの両手が触れて、この胸に艶やかな髪と頬が寄せられて。頼むと言うよ
り、間近で申し訳ないと頭を下げ。言いたいけど言えない事情の重さが肌身に感じ取れた。
「いつも最優先なのは、一番たいせつな人」
長くは身を添わせず、すっと離れて私の進路を開け放つ。やはり彼女はここに残る気だ。
私が桂さんに添う事に何の意味があり、彼女が残る事に何の意味があるか、分らないけど。
彼女は桂さんを追いかけられないのだ。
彼女が桂さんを追ってはいけないのだ。
そうでなければ彼女は絶対に残りはしない。
私に語りかけるより何より先に馳せた筈だ。
柚明さんのそれは必須なのだ。後になれば必ず話は繋って来る。確かに見えて分る筈だ。
この人は何度か桂さんを涙させたけど、その涙させた行いさえ桂さんを想う故の物だった。
「夏ではないから日射病の心配はないけど」
体調が良くないから、少しでも風よけに。
大きな麦わら帽子を2つ、渡してくれる。
その細やかな気遣いは、正に羽藤柚明だ。
「あなたにはこの一件について、納得の行く説明をして頂きます。何故桂さんを傷つけた
のか、何故そうせねばならなかったのか…」
その答を聞かなければ私も得心いかないし、それ次第ではあなたでも唯で済ませはしな
い。
私の正視を柚明さんは、確かに見つめ返し、再度ゆっくり深々と頭を下げていつかの様
に、
「桂ちゃんのこと、お願いします」
「任されました」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
柚明さんの言った通り桂さんは、1キロ弱程歩いた先の、住宅街の狭い脇道の隅にしゃ
がみ込んでいた。意識が朦朧とした桂さんを、間近な公園と柚明さんの元と、どちらに連
れて行くべきかでは、彼女の勧めは妥当だった。
「桂さん、しっかり。立てるかい?」
息遣いは返るけど言葉は返らない。意思を問う事は諦め、桂さんをお姫様だっこで運び
行く。休日の昼前は人通りも少なく、意識のない可愛い人を抱く私を見咎める人もいない。
間近に意識を失った桂さんは、普段の可愛らしさより素の綺麗さが前面に出て、触ると
壊れそうに儚げで。柔らな身体の感触も温もりもそうだけど、微かな呼気が私の理性をノ
ックして、奥から何かを引きずり出しそうだ。
本当に心から、守らせて欲しくなる人だ。
私のたいせつな人。特別にたいせつな人。
私に守る喜びと大切さを教えてくれた人。
「これからは、私がこの手で確かに守るよ」
微かな息遣いが良いよと応えた様な気が。
公園は、住宅街の中にぽっかり空いた閑静な空間だった。周囲を緑の生垣で囲まれ、中
には数本の太い樹や花壇や、ブランコや砂場等の遊具もあるけど、今は無人だ。真ん中奥
に白くて長い、背もたれ付きのベンチがある。
桂さんを寝かせ、私が膝枕する形になった。堅いベンチに頭を置くより、私の足の方が
ましだろう。艶やかな髪も汚れないし、何より私が桂さんの寝顔を傍で眺めて容態を把め
る。
柚明さんから貰った麦わら帽子を顔に被せ、私も被る。秋の陽射しはきつくないけど、
女子同士で肌触れ合わせての膝枕には恥じらいもあった。否、異性と為しても恥ずかしい
かも知れないけど。私もやや人目が気になった。柚明さんの気遣いは果たしてそこ迄考え
て?
閑静な住宅街は、日常の物音や小鳥の鳴き声が微かに届く位で、静かに時を刻んでいく。
桂さんは当初少し苦しそうだったけど、徐々に呼気も落ち着き、寝顔も安らかに緩み始め。
その温かさと肌触りを確かにこの手に抱き。守りたい物を確かに守れる。その幸せに身
を浸しつつ、気は抜かず。前にこの安らかな寝顔を間近で眺めたのは、さかき旅館でだっ
た。
魂削りを使った反動で昏睡した私を、桂さんは布団に運んでくれて一緒に。翌朝先に目
を醒ました私は彼女の無防備な寝顔に、身に触れる浴衣越しの柔らかさに、息が止まった。
可愛らしさに身が固まった。己の成果に久方ぶりに充足を憶えた。守る事の喜びに魂の奥
迄揺さぶられた。守れた幸せに心震わされた。
幾ら鬼を切り倒しても得られなかった物が、ミカゲ達を討ち損ねたあの時に得られたと
は。本当に欲しい物は足元に転がっていた。血眼になって突き進むその先にではなく、間
近に。こんなに柔らかく可憐で温かに伸びやかな人。敵を討ちたいではなく、人を守りた
く想った。
「桂さん。あなたが、私のたいせつな人だ」
あの時私は思ったのだ。桂さんを守りたい。この手で守りたい。この人の守りに些かで
も不安があるのなら、私がそれを確かにすると。この人に迫るこの世の全ての脅威を退け
ると。例えそれが鬼だろうと神だろうと人だろうと。
私のたいせつな眠り姫。お伽話の眠り姫は王子様のキスで目覚めるけど、不調でお疲れ
の姫を今無理に起こすのは良くない。暫く私の膝で眠るのも良い。私はそれも幸せだから。
確かに守れる範囲に抱き留めて、安らかに気力と体力を取り戻し行くその姿を見守る事も。
私はこの人とあの人に、人を守る意味を肌身を通じ教えられた。確かに心に刻みつけた。
あの人が今何を想うのかは正直分らないけど。
微かにその身が目覚めに動き始めたのは、
「う、ん……ん」「目覚めたかい?」
携帯で確かめると、正午を少し過ぎていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「烏月さん、ごめんね……」
目覚めた桂さんが私の膝枕を知って動揺が少ないのは、不調で感情に揺れ動く余裕がな
い故か、私の所作を自然に受容している為か。私を見上げる真っ直ぐな瞳は幾分潤みがち
で、
「わたしが具合悪かった所為で、せっかくのお休みを潰させて、こんな後味悪い事に…」
不調より申し訳なさに笑みが曇る愛しい人を和ませたくて、私は心からの微笑みを返す。
私は満たされていたから。買い物に町中を歩んで元気な桂さんを見るのも良いけど、静か
に肌を合わせて過ごす時も良い。桂さんもこの感触とこの時を、嫌う様でもなかったから。
「良いんだよ。身体の不調は桂さんの所為ではないし、残り半分も桂さんの所為ではない。
私はこうして桂さんを膝枕出来る今が嬉しい。商店街を歩いても映画を見ても、こうして
桂さんを膝枕する事は、出来なかっただろうし。
桂さんが少しでも元気を取り戻してくれる事に役立てれば、私の今日も意味があった」
「そう言ってくれるのは、有り難いけど…」
客観的に見て、今日の展開は最悪だった。
「楽しみにしていたんだよ。ずっと、他の事に手が付かない位、待ち望んでいたんだから。
2人で一緒にお買い物、2人で一緒にお昼食、2人で一緒に映画見て。今日の為に陽子ち
ゃんに、夕陽が綺麗な丘も教えて貰ったの。手を繋いで夕陽を眺め、一緒に頬を赤くし
て」
血色が良くなるのは、何を想ってだろう。
でもそれに思索が向くと、自然さっきの。
「こんな事になっちゃって、ごめんね……」
柚明お姉ちゃんが、あんな事言うなんて。
「桂さんの所為じゃない。謝る事はないよ」
でも。惑い揺れる双眸を静かに見下ろし、
「桂さんは、柚明さんを、好きなんだね…」
惑う想いは、柚明さんを切り離せないから。虐待されても親の愛を欲し縋る子の様に、
桂さんはあれ程酷い事を言われても柚明さんを嫌えない。これ迄の温かさが忘れられなく
て、寒さを一層きつく感じる。心から愛し肌触れ合わせたい。それを拒まれた気がして、
許されない気がして、求められない気がして、桂さんは懊悩している。柚明さんを尚心か
ら愛している。だから心の傷はより深くより痛む。
桂さんは私の言葉に魅入られた様に一瞬固まって、黒目の真ん中に私を映し出してから、
「……あんな柚明お姉ちゃん、嫌いだよ…」
視線を逸らすのに、私は笑みを浮べつつ、
「あんなではない柚明さんなら好きだと?」
逸らした視線が私に戻ってきて又逸れる。
桂さんの気持は表情や仕草にすぐ表れる。
「烏月さんの、いじわる。……烏月さん、わたしの答を分って訊いてくる。ずるいよ…」
私の腹に顔を寄せて来て、頬を染めつつ、
「烏月さんはわたしのたいせつな人の悪口言わないもの。サクヤさんが突っ掛っても、ノ
ゾミちゃんがからかっても、烏月さんは静かにクールで、格好良いもの。さっきだって…。
烏月さんと一緒にいる方が良い。肌触りも滑らかで柔らかいし、お話ししても爽やかで
愉しいし。ずっとこうして一緒にいたいよ」
見上げる瞳の潤みに心臓が止まる。染まった頬の恥じらいに魂が抜かれる。吐息と柔ら
かな感触に身体が突き動かされそうだ。それを抑えたくて、否、抑えたくなくてだろうか。
「本当にそう想ってくれるなら、ずっと一緒を桂さんが望んでくれるなら、私はそうして
も良いと、本気で想っているんだけどね…」
私は、柚明さんに言いかけたあの求めを。
「烏月さん?」
微かな心身の緊張に、肌を合わせているから気付いた桂さんが、ふと見上げて問うのに、
「桂さん……私と一緒に、暮らさないかい」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「烏月さん……それって、どういう……?」
「桂さんが今の家を引き払って、千羽の私の館に来て、一緒に住んでは貰えないかなと」
一つ屋根の下って言う言い方になるのかな。
「桂さんを迎えたい。桂さんの日々をこの手で守りたい。桂さんの人生全てをこの私が引
き受けたい。もう絶対危ない目にも逢わせないし、怖れも不安も感じさせはしないから」
贄の血の定めも何もかも私が引き受ける。
恥ずかしさに澱む言葉を勢いで押し出す。
「千羽の館は広いし、敷地には母屋と別に幾つも家屋があって、その多くが空き家だから。
外見は古風な日本家屋だけど、電気も水も通っている。千羽党の本拠では、多くの者が間
近に或いは同居して、互いに助け合っている。設備や費用も殆ど掛らず、身体一つで来て
も即受け容れられるし、嫁入り道具一式持ってきても問題ない。学校も私が通う北斗に一
緒に行ける様に手配させるよ。安心して良い」
今日は柚明さんに、桂さんを私に守らせて下さいと頼む積りでいたんだ。桂さんの具合
が悪かったから、先に柚明さんに打ち明けかけたのだけど、彼女は話の中身を分っていた
様で、桂さんと一緒に聞きたいと止められた。
『6時間待ってとの奇妙な時間稼ぎで彼女が話を拒んだのは、私を家から追い立て無期限
に話を延ばせると見越してなのだろうか?』
桂さんはまだ安静が必要だった。ならこの機会に気持も込めて打ち明けよう。柚明さん
は桂さんと一緒に話を聞きたいと言ったけど、桂さんに先に話すなとは求めなかった。実
は望んでいたかも知れないけど。彼女は話の中身を分っている。他に伝える必要がある人
は。
「桂さんとずっと一緒にいたい。毎日身も心も触れ合わせたい。日々桂さんの笑顔を保ち、
その憂いを即座に断ち、二度と哀しみに曇らせない。この手で桂さんを、幸せにしたい」
桂さんはいきなりの話に判断の材料がなく、唯私を見返すのみだ。だから私は桂さんの
判断を促す為にも、手持ちのカードを全部晒す。
「桂さんが今いる家は、羽様の屋敷と違って先祖代々住み続けた家でもない、仮の住処だ。
お母さんの守りがなくなった今、絶対安全と言い難い。桂さんも贄の血を持つと知った訳
だし、千羽も若杉も行く末を心配している」
私が桂さんを、千羽にエスコートするよ。
「私が身も心も尽くして桂さんを守って、幸せにする。いや、その幸せを守らせて欲しい。
人を守る素晴らしさを桂さんは教えてくれた。それにこの身の全てで報いたい、返した
い」
大きな瞳に私の笑みが映し出されている。
瞬きもなくその視線は、私の魂を見つめ。
「わたしが、烏月さんのお家に。良いの?」
「桂さんさえ、それを望んでくれるなら…」
私は心を込めてゆっくり確かに頷き返す。
「それが千羽烏月の、心からの幸せで喜び。
私が桂さんを守る。鬼からも、人からも。
桂さん。あなたが、私のたいせつな人だ」
私は桂さんを守りたい。この手で守りたい。私の心と身体の続く限り、千羽党の力の限
り。例え敵が鬼だろうと神だろうと若杉だろうと。
「若杉……葛ちゃん?」「違うよ、桂さん」
一瞬兆すのは私の不用意発言への不安か。
でも、これも話しておくべき事実だから。
桂さんが知って置くべき世の実相だから。
「葛様以外の若杉は、絶対信頼に値するとは、言い難いんだ。桂さんを一番たいせつに想
ってしまった、今の私から眺めてしまうとね」
少し深呼吸して、心を休めて。桂さんが葛様に感じた絆を裏切る話には、ならないから。
桂さんに一息つかせる為に、自身も次に喋る内容を整理する為に、少しの間、休ませる。
秋の日は静かに中天を駆け、携帯の時刻表示は1時半を過ぎた辺りだった。閑静な住宅
街は相変らず静謐で、休むにも眠るにも良い。次はここで桂さんと2人で昼寝をするのも
…。
荷物運送のトラックが三台連ねて、桂さんの家の方に走り行く。杉本運送のトラックだ。
あんな感じで金時達も現地に着いた頃だろう。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「私の鬼切り役も葛様の鬼切りの頭も、世の表に伏せてある事は、桂さんも知っているね。
ああ、良いんだよ。奈良さんと東郷さんは。話す前なら止めていたけど、彼女達は確か
に桂さんが信を寄せた人達だった。今の処問題は生じてないし、口外して困るのは彼女達
だ。桂さんの信を裏切ると言うより、鬼切部を軽々に語る者には、千羽ではなく若杉が動
く」
柚明さんが葛様の鬼切りの頭の話だけでも明かす事を止めたのはギリギリの正解だった。
千羽の事なら若杉は千羽の意向も受けるけど、鬼切りの頭の話になるとその応対は違う。
私にも葛様にも止められない可能性さえあった。
「葛ちゃんは、若杉グループ総帥という色々な人に影響を与える公の立場を持つ人だから。
お凜さんや陽子ちゃんの、お父さんお母さんや親戚友達や、ご近所や知り合いにも、仕事
や人間関係で広く影響が及ぶから。今は良いけどそれを知った事で、将来お凜さんや陽子
ちゃんが悩む事になりかねないから。それだけは秘密の侭にって、柚明お姉ちゃんが…」
「確かにそれも間違いではないんだけどね」
柚明さんはその裏側を知って語ってない。
「若杉が鬼切りの頭を長く保てたのは、その厳密な守秘の故なんだ。秘密に軽々しく触れ
る者や明かす者を、若杉は容赦なく処断する。それが鬼切りの隠密で確実な遂行に役立つ
と。
鬼切部や鬼切り頭は、鬼の目の仇だ。それがどこに住む誰で、その親族や愛する人は誰
なのかは、極秘なんだ。世には鬼に成ったり、鬼を使って世を騒がせ、悪事を企む輩もい
る。鬼切部や鬼切りの頭を、邪魔に思う者もいる。鬼切部の所行を明かそうとしたサクヤ
さんが、若杉の手で業界から干されたのは、決して意地悪じゃない。それは若杉の戦いな
んだよ」
若杉は鬼切りの活動の守秘に、巨大企業グループの総力を注いでいる。偶々だけどその
秘密を桂さんは知ってしまった。葛様はともかく、周囲を固める者達が唯では済まさない。
「しかも桂さんは尋常ではない程に濃い贄の血を持つ。鬼を呼ぶ定めと鬼に甘く香る贄の
血を併せ持つ桂さんは、若杉の注意の対象だ。経観塚の山奥に潜むならともかく、この夏
迄の様に隠されていたならともかく、若杉に知られた以上、何らかの対応は来るだろう
ね」
黙っていても、桂さんがここでこの侭暮らしていくのは難しい。何かの間違いで贄の血
が鬼に渡れば危ういと、若杉の幹部は考える。その事態の阻止に先に動く。鬼にその血が
渡る事を防ぐ為なら、手段を選ばない者もいる。
「儀式を破壊する為に生贄を先に殺せば良いと、考えかねない者が若杉や鬼切部にもいる。
鬼に吸われる前に贄の血を絶やせば良いとか。
逆に鬼に膨大な力を与える贄の血は、若杉で厳重に保護し世間から隔離すべきと考える
者もいる。こっちは抹殺は考えないけど結局どこかに幽閉する感じで自由に程遠い。逃げ
るなら遠慮なく追っ手を向ける類の保護だよ。
若杉の幹部では未だ結論が出てないらしい。葛様も私も、どちらの考えにも立たないけ
ど、桂さんの日常や人生、幸せを守りたいけど」
葛様も未だ若杉の当主になって間もないし、独裁者ではないからね。若杉全体に葛様の
考えを浸透させるには時が掛る。葛様の考えを理解する若杉がどの程度いるか。葛様がど
の程度説得力を持って、2つの考えを両方とも退けられるか。どちらか片方が優って幹部
が一枚岩になれば、頭といえど葛様も拒み難い。その前に千羽が桂さんを引き取っておけ
ば…。
「葛様も、それを追認するだけで良くなる」
保護の考えを採った様に見せかけられる。
例え葛様が若杉を抑え得ず、その主流が桂さんの抹殺に傾いても、千羽党を上げて私が
桂さんを守る。間近にいれば、すぐに守れる、確かに守れる。私の生命を尽くして守るか
ら。
桂さんのお母さんを介して、遠いけど私達は血が通っている。想いも確かに通じている。
後は桂さんが一歩、踏み出してくれるだけだ。私のたいせつな人、私の特別にたいせつな
人。私に誰かを守る幸せと喜びを教えてくれた人。
「守らせて欲しい。今度こそ必ず守り抜くよ。経観塚では力及ばず、決定的な時に役に立
てなかったけど、そこで身につけた強さを今こそあなたの守りに使わせて欲しい、桂さ
ん」
2人心合わせれば、出来ない事は何もない。
私の求めに、桂さんは静かに瞳を見上げて、
「千羽の家はお母さんの実家……。お母さんは駆け落ちの様に飛び出して、今迄ずっと関
りを持たなかった……。今更の様にわたしがのこのこ顔を出して、迎えて貰えるかな?」
勘当された様な物なんでしょう、お母さん。
不安を込めた問に私はその手を確かに握り、
「千羽の当主は鬼切り役である私だよ。最終決断は私の物だ。一応、千羽で当主の判断を
代行してくれている大人衆にも、話してみた。反対はなかったよ。快くと迄は行かなかっ
たけどね。『今度逢う事があれば、話してみると良い』と。若杉の承諾を貰えれば良い
と」
若杉が関るのは、贄の血筋と鬼切部・鬼切りの頭の関係から仕方ない。でも葛様は一般
世間より桂さんと距離が近づいて、喜ぶかも。
「桂さんのお母さんは、それなりに考えあって千羽と関りを持たなかったのかも知れない。
でも桂さんがそれを受け継ぐ理由は特にない。桂さんがお母さんと2人だった頃と今では
状況は全然違う。大事なのはこれからなんだ」
桂さんのお母さんが勘当状態でも、千羽が桂さんにそれを受け継がせる理由も特にない。
桂さんは桂さんとして千羽の家に来れば良い。私もしっかり寄り添って仲を確かに繋ぐか
ら。
「でも転校、しちゃうよね。わたし、北斗に編入できる程頭良くないよ。それに、陽子ち
ゃんやお凜さんと別れ別れになっちゃう…」
戸惑いや不安は当然だから、私は静かに、
「編入試験に受かる様に、私が手取り足取り教えるよ。千羽には私より教え方の優れた大
人もいる。少し時は掛るけど正面突破は叶う。
転校で彼女達とは一緒に通えなくなるけど、交流が断たれる訳じゃない。遊びに来る事
も出来るし、千羽の桂さんの家に招いても良い。桂さんの大切な人は私の大切な人でもあ
る」
一緒に迎えても一緒に遊びに行っても良い。
「でも、でもサクヤさんは招けないよね。鬼切部と仲悪いし、葛ちゃんや烏月さんにも」
失礼に近い口の利き方は多分変えられない。
不安要素を皆吐き出したい様な問いかけに、
「大丈夫だよ。確かに様々な経緯はあるけど、今は直接敵対している訳じゃないから。私
も経観塚でサクヤさんには大きな借りを作った。千羽の館に迎えるのはサクヤさんの居心
地の問題もあるだろうけど、桂さんが逢いに行くのも招くのも構わない。みんなにも言い
含めるよ、失礼にならない程度に応対する様に」
その瞳は一瞬喜びに揺れ、すぐ憂いに揺れ。
受容は浸透し、すぐ次の事情を問いかけて。
「でも、でもでも、ノゾミちゃんは連れて行けないよね。鬼だし、昔人の世に禍を為して
鬼切部に封じられた前科があるみたいだし」
「鬼切り役と鬼切りの頭が、受け容れたんだ。今後も他人に害を為さない限り問題はな
い」
一つ一つ、不安を取り除いていく。
一つ一つ、彼女を受け容れていく。
問に答え、応えて次の問を促して。
私は最後の問いかけを受ける事に。
「柚明お姉ちゃんは……一緒でも、良い?」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「その……。今日は散々な事になっちゃって、烏月さんにも本当に、申し訳ない事になっ
ちゃったけど……でも、でもね。わたし……」
一生懸命言い淀む声を押し出す桂さんに、
「分っているよ。桂さんが心から、柚明さんを愛しているって事は。今日の事には確かに
後で納得のいく説明は貰う積りだけど、それとこれは別だ。柚明さんと桂さんが望むなら、
2人で一緒に千羽に来て貰って構わない…」
そこで漸く桂さんの顔に、確かな笑みが。
「烏月さん、ごめんね。そしてありがとう」
いっぱい不快な思いをさせちゃったのに。
「良いんだよ。桂さんの納得が大事だから」
澄んだ瞳で見上げる頬を左手で軽く撫で、
「柚明さんが、桂さんを守りたい気持は分る。私も同じ想いで桂さんを千羽に招くんだか
ら。彼女が桂さんを守りたいならそれは止めない。私はその更に外側で柚明さんと桂さん
を守る。彼女も桂さん程ではないけど濃い血を持つし、彼女は元々戦いに向いた人ではな
いから…」
彼女に守らせてはいけない。私が前面に出て、桂さんと柚明さんを2人とも守れば良い。
今朝方迄の絆を信じるなら尚大切な人だから。今がどうでも、桂さんが大切に想う限り守
る。
「6時間後に桂さんと一緒に話を聞きたいと言われたんだ。桂さんが反対しない限り、柚
明さんに否の答はないと、言い切っていた」
『この展開を迎えた後では、どの位信用できるかは不確かだけど。私が桂さんの家に上が
れない、桂さんが一緒に私の話を聞けない状態になる事を見越して、そう応えたのかも』
ない筈の事態を現実にしてしまえば、前提が崩されれば柚明さんの答が変る怖れもある。
そもそも柚明さんの賛意は、桂さんが1人で千羽に来る話か、柚明さんも一緒に来る話か。
柚明さんは戸籍上は大人で、保護者や学校の問題もない。彼女は羽藤の屋敷で拾年前迄、
サクヤさんや千羽を離れた先々代と日々を過ごしていた。桂さんと一緒には来て貰えない
かも知れない。来るなら断る理由はないけど。
彼女の思惑は今の私には分らない。分らなければ話して答を貰うしかない。考えを伺い、
その意志を確かめる。それを前にして桂さんがどう判断するか。まず問うてみねば。でも。
「桂さんは本当に柚明さんを好きなんだね」
少し羨ましい位だよ。多少の諍いや喧嘩があっても、桂さんの心の表層が怒っても哀し
んでも、心の根は常に柚明さんを向いている。その位深く強い信を、私も貰える様努める
よ。
「……烏月さん……ごめんね。烏月さんはとっても大好きなんだよ。今日もこうして、わ
たしの我が侭な求めにいっぱい応えて貰って、その、わたしを一生引き受けてくれると迄
…。
とっても、とっても嬉しいの。心の底から。
でも、柚明お姉ちゃんがいないと、わたし。
烏月さんがいないのと同じ位、寂しいの」
お母さんを失ったばかりの桂さんは、大切な人の喪失を心の底から怖れている。柚明さ
んに限らず、サクヤさんでもノゾミでも葛様でも、心通じ合えた人を絶対失いたくないと。
故に千羽の家に桂さんを招く事で、他の人達と引き離しては、哀しませるのでは逆効果だ。
その優しい心を私は守りたい。その双眸を涙に濡らさない。その頬に常に温かな笑みを。
「桂さんは、優しいんだね」
「我が侭なだけだよ。みんなそれぞれ立場があるのに。好きで対立している訳じゃないの
に。わたしがにこにこ笑っていたいから、みんなに仲良くしてって望んで。それはみんな
に心のどこかを曲げる様に、折る様にってお願いかも知れないのに、わたしの我が侭で」
「桂さん……?」
「でも、みんなが衝突して目の前で痛んだり傷ついたりするのは、見たくない。わたしの
大切な人同士が哀しみや憎しみをぶつけ合うのは、見たくない。わたしの、わたしの我が
侭だけど……出来るだけ仲良くして欲しい」
サクヤさんもノゾミちゃんも、葛ちゃんも柚明お姉ちゃんも、烏月さんも。その為にわ
たしにできる事があるなら、何でもするから。少し位なら、贄の血も自由も渡して良いか
ら。
「だから一番みんなに良い結果になる様に」
「桂さん……!」
私が言葉に詰まらされた。桂さんは、自身の未来を己の為にではなく、大切な人達を調
和させる為に、捧げる積りでいる。私は桂さんの今後を考えて求めたのに、桂さんは逆に、
私や葛様や柚明さん達の為を考え招きを受けようと。それは違う。私は桂さんを守る為に。
「とっても、とっても嬉しいよ、烏月さん」
今迄わたしたくさんの人に守られてきた。
今後は少し位、出来る事で返さなきゃね。
「わたしも頑張って、人の役に立てたら嬉しいんだよ。烏月さんの心からの招きがとても
嬉しい。答は少し迷っているけど、全力の問は嬉しいから、わたしも全力で応えるね…」
愛しい。その温かな想いと信の深さがこの上なく愛しい。少しでも身を離す事が切ない
程にこの人の魂に触れていられる今が嬉しい。この人を涙させるとはあの人は何と罪作り
な。
「少し休んで容態が落ち着いたら、一緒に家に戻ろう。訪れの果て迄、私が付き添うよ」
2人心合わせれば、出来ない事など……。
私の頭が、重力より強く桂さんの顔に惹き付けられる。桂さんは逃げもせず焦りもせず、
瞳を閉じ迎え入れようと力を抜いて頬を染め。可愛らしい顔が近くなる。尚近くなる。触
れ合いそうな程近くなる。そして、唇に唇が…。
傾きも殆どない住宅街の脇道を、青珠が贄の血の持ち主を求め独りでに転がり来たのは、
正にそのタイミングだった。取り憑かれている桂さんと、見鬼を使える私に届くその声は、
「あなた達、何を呑気にそんな処でいちゃいちゃ肌触れ合わせているのよ。……ゆめいが、
身の危険に晒されているって、言うのにっ」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
白昼堂々と襲撃者が現れる事は、私も余り想定してなかった。鬼切り役が求められる以
上桂さんや柚明さんを襲う脅威は怪異の類で、その本領は夜に発揮される物と。迂闊だっ
た。いつ来るか分らないから、葛様は私に午前拾時から三拾時間の警護の使命を下さった
のに。事情があったとはいえ、2人をバラバラにし、全てを守れない状況を生んだのは私
の失態だ。
青珠は贄の血の匂いを隠す羽藤家の代々の守りで、贄の血を追って自ら主を捜す様に動
く事もあると聞いた。今の青珠はノゾミが宿っている。桂さんを探して動くのは分るけど。
ノゾミも詳しい事情は分らない様だ。柚明さんは『彼ら』の襲撃の直前に、それを悟っ
ていた如く、青珠を窓から外へ抛ったという。故にその後の状況は彼女も知り得ぬ様だけ
ど。
転がり行く脇でノゾミは、既に襲撃者達がトラックを連ね、何人もの男女が見張りや突
入・連絡など整然と任務分担しつつ事を進め行く様を見たという。標的が桂さんと柚明さ
んである事は彼らの表層思考から読めた様だ。
桂さんの瞳に願いが浮ぶのを、待つ必要もなかった。私の意思は定まっている。私は使
命を与えられている。私はあの人も守りたい。私のたいせつな人。私の特別にたいせつな
人。人を守ると言う事を、想い返させてくれた人。
どんな経緯があろうとも、どんな立場に変ろうと、あの人の危機を私は、捨て置けない。
桂さんが付き従うのは柚明さんを案じてだけど、襲撃者が多人数な事も考え併せ、傍に
付いて貰い私が守る事にした。飛び込む先は危険だけど、ここに残れば安全な訳ではない。
ノゾミも昼は姿を顕せず、殆ど力も使えない。別働隊が付近を探せば桂さんはすぐ囚われ
る。
駆け戻った私達がアパート間近で見たのは、3台の杉本運送の宅配トラックだ。先頭車
両運転席は窓が開いていて、二十歳代の男性が2人いる。後方から近づくと漏れ聞える声
は、
「こちらB班、羽藤柚明と呪力の籠もる蒼い珠は確保した。羽藤桂は不在。繰り返す…」
桂さんの家に踏み込んだ者からの無線連絡らしい。青珠は今桂さんの手に握られてある。
柚明さんが用意したガラス玉を彼らは青珠と勘違いしているのか。でもその確保が念頭に
あると言う事は、彼らはノゾミの存在迄も…。
気配を感じて背後を向くと、桂さんがトラックの影にいた見張り役らしい若い男に、背
後から肩を掴まれる寸前だった。ノゾミが注意を促し気付いた桂さんが振り返るより早く、
「せいっ!」
麦わら帽子を投げつけて男性の視界を塞ぎ、木刀袋に入った侭の維斗を、鞘ごと喉に突
き立て悶絶させる。相手は唯の人間だ。生命を断つ事は躊躇われた。気配の隠し方や足音
で、抜刀が要る程の相手でないと見切れてもいた。
運転席の2人は私達に気付いてない。物陰を進んでもう1人の見張りを殴り倒し、桂さ
んのアパートに突入する。桂さんも不調を堪えて付いてきてくれた。アパートに入り込め
る人数ならそう多くはいない筈だ。打ち倒して柚明さんを解放し、彼らを残らず駆逐する。
玄関口にいた見張りを、声を出される前に維斗の柄で叩き伏せ、室内に入る。この男性
は何故か、化学部隊の様な白い防護服に、目も口も覆う大仰なガスマスクを、被っていた。
室内に入って状況が分った。彼らは催涙ガスに似た人を呼吸困難にする気体をばら撒き、
室内の人の動きを封じたのだ。外に面した奥の部屋の窓から手榴弾の様に投げ入れたのか。
すぐに薄れ無効化する種類の様で、投げ入れた窓ガラスが割れて換気になった為もある
のか、私達が足を踏み入れた時は、既に微かな臭気が残るだけで息も乱されなかったけど。
でも、こんな高価で特殊な機材を扱う者達は本当に数が限られる。暴力団の類ではない。
更に驚くべき事に、踏み込んだ私の前で倒れていた拾数人もの人影は狩衣姿で。鬼切部?
奥の部屋の窓際で、私の求め人は呼吸困難を催すガスに苦しげに咳き込みつつ、ガスマ
スクを付けた男2人に、片方ずつ左右の腕を後ろに捻られて、その身柄を拘束されていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
【……烏月さんに、頼みがあるのですけど】
【桂ちゃんの後で、良いんです。わたしを、守って頂けますか?】
彼女はこの事態を予期していたのだろうか。桂さんとの関りでは常に守る側で、己を守
って等と言った事のない彼女が、今日偶々訪れた私に。葛様の命は伏せてある。柚明さん
は葛様の危惧を何かの手段で察していたのか?
室内には柚明さんの他に、白い防護服にガスマスクの男が4人いた。倒れているのは狩
衣姿の男女が拾数人と、防護服の男が2人だ。柚明さんの抵抗が力尽きた頃合だったらし
い。
格闘戦の後の故か、室内は散らかっている。柚明さんは奥の部屋の窓際で拘束され、絨
毯は多量の血に染められて。傷を負わされた?
2人が柚明さんの左右の腕を後ろ手に捻り上げて身を抑え、1人は膝を折った柚明さん
に語りかける様に屈み、もう1人は無線機を手に警戒中で。苦しげに咳き込み続ける柚明
さんが、私の飛び込む足音と気配に気付いて、
「烏月さん……助けに来て、けほっごほっ」
言葉がまともに発せられない。意識は辛うじてあるけど、満足に呼吸が出来ず足腰も立
たない窮状が、一目で分った。わたしが飛び込めたのは、今正に連れ去られる間際だった。
「何、だ。貴様まさか」「柚明さんを放せ」
私の警告は、警告の意味を為してなかった。言葉に対応する暇も与えず、その侭彼らに
維斗を叩き付けていた。彼らはこの人数で女性の家に押し入って、乱暴狼藉を為した。釈
明も弁解も通らないし、通す積りも私にはない。
手近にいた無線機の男を鞘の侭で叩き伏せ、残り3人に突き進む。桂さんは少し遅れて
室内に入り、息を呑んだ処だった。屈み込んでいた防護服の1人が、私を向いて立ち上が
る。
その男に維斗を振るうべく、直進する私に。
「烏月さん……、危ないっ!」
柚明さんの叫びの意味が分ったのは、目前の男の右手にスプレー缶の噴射口を見た時で。
間合いを詰めるのが半瞬遅い。恐らく柚明さんを呼吸困難に陥れ、その抵抗力を失わせた
気体が顔面に吹き付けられる。そう想えた時、
「……っ!」「ぬがあっ」
両腕を捻られた柚明さんが、その足を伸ばして男の足に絡みつかせ、バランスを崩させ
てスプレー噴射のタイミングを外す。1秒に満たないけどそれだけ時間があれば、充分だ。
眉間を叩き伏せ、残る2人に視線を向ける。柚明さんは後ろ手に両腕を捻られた侭無理
を為し、辛そうに咳き込んでいるけど、生命に別状はない。唯その乱された服装の下半身
から流れ出る多量の鮮血は絨毯を染め。まさか。
防護服姿の2人は私を見て、驚きの声を。
「何で、千羽の……」「鬼切り役が、何故」
私の側に面識はないが、彼らは私を知っている? これ程の装備と人員。狩衣姿の者達
を使役する。そして私を鬼切り役と。彼らは。
「お前達、まさか若杉の者か?」
望ましくない答より先に後ろから別の声が、
「柚明お姉ちゃん!」
すぐ後ろに来ていた桂さんが私の肩越しに状況を見て喉を詰まらせた。それを見た瞬間、
「羽藤桂だ……」「C班に連絡っ」
柚明さんを捻り上げる2人に動揺が走った。
「こちらB班、羽藤家の中で今羽藤桂を発見。直ちに無力化ガス弾を要請する。繰り返
す」
柚明さんの右腕を後ろ手に捻る男が、空いた右腕で腰の無線機を取り出し話す。そこに
隙が見えた。柚明さんが、注意と力の抜けた右腕を振り解こうと力を込めて、2人の体勢
を崩し、私は間髪を入れず一気に踏み込んで、
「せいっ!」
2人を叩き伏せて気絶させる。拘束を失った柚明さんが力なく崩れ落ちるのを抱き支え。
柔らかな肌触りだけどその身は疲弊し脱力し。
未だ微かに意識はある。容態を確かめようとその右手首を左手に握りつつ、表情を窺う。
背後間近に桂さんが駆け寄ってきて。その時、
「烏月さんっ!」「分りました!」
言葉は、要らなかった。危機感が柚明さんの身体を突き動かし、脱力した身に無理に力
を通わせる。この抱擁は即解き、彼女は瞬時に身を起こし、私も体制を立て直し、割れた
ガラス窓の外を向いて2人、手に持つそれを。
私は桂さんの豚の貯金箱を。
柚明さんは目覚まし時計を。
外から投擲された、ガスをばら撒く二個の手榴弾にそれぞれ投げつけて空中で打ち落し、
投げつけた者達にそのガスを叩き返していた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
柚明さんは一度狩衣姿の者達を撃退した後、手榴弾のガスを受けて窮地に落された。彼
らの無線連絡でそれが再度来ると読めた彼女は、それらを空中で打ち落とす事を考え、私
と…。
2人心合わせれば、出来ない事は何もない。
「お姉ちゃん!」「柚明さんっ!」
屈んだ姿勢の侭2人並んで下を眺め、相手方が混乱で第2射を出来ない状況を確かめて、
息の限界に来た柚明さんが、再び崩れ落ちる。傍に来ていた桂さんが左、私が右を抱き支
え、
「烏月さん……守って、頂いて、有り難う」
こふ、こほっかふっ。少しの間咳き込んだ後で、桂さんの潤む瞳に目を向けて苦しげに、
「桂ちゃん。酷い事言って、ごめんなさい」
「しっかりして! 謝らなくて良いからっ」
気を確かに持って、大嫌いなんて嘘だから。大好きだから、お願いだから死なないでっ
…。
桂さんも抱き支えた柚明さんの疲弊と脱力を肌で感じている。かなりの量の出血が柚明
さんの物と分っている。柚明さんの下半身は。
「今病院呼ぶから。すぐに治して貰うから」
その股間から両太股が、血に塗れていた。
今にも涙溢れそうな瞳を堪える桂さんに、
「その必要はないの……桂ちゃん。けふっ」
苦しそうな顔で咳き込む柚明さんだけど、
「これは怪我じゃない……治す必要がないの。わたしの、生理の、出血だから……こほ
っ」
「やはりそう言う事でしたか。柚明さんも」
経観塚で桂さんの血を呑んだ。量もノゾミより遙かに多い。彼女も桂さんと深く繋った。
故に桂さんの不調は柚明さんにも響く。ノゾミと違い肉の身体を戻せた柚明さんは、鬼と
して血の匂いに酔わされぬ代り、桂さんと月のものの周期が同調し。不調は桂さんだけで
はなかった。そんな身で襲撃を迎え撃った?
激しい動きの所為で、受けた打撃や呼吸困難の所為で、出血は増したかも知れないけど、
他に外傷はない。貧血が少し心配だけど、今から安静にすれば生命に別状はない。しかし、
「お姉ちゃんっ……」「何という無茶を!」
あなたは、この襲撃を知って受けましたね。
私は別の意味で怒りに身体を震わせていた。
「私と桂さんがこの家を外す様に暴言を吐いたのは、この襲撃を1人で受け止める為…」
当初私があなたも一緒に買い物に誘った時断ったのも。さっき桂さんを憤激させ出て行
かせたのも。私に後を追わせ公園で休む様に促したのも。私と桂さんを家から遠ざける為。
「烏月、さん。お姉ちゃん、もしかして…」
「そうだよ、桂さん。柚明さんは、私達をこの襲撃から遠ざける為に、わざと心にもない
暴言を口にして、桂さんを怒らせたんだ!」
「じゃあ、あの酷い言葉は全部、お姉ちゃんの、本心とは違う、偽りって事で良いの?」
「ごめんなさい、桂ちゃんを、哀しませて」
瞳に浮かぶ美しい輝きは羽藤柚明だけど、
「私には納得が行かない! どうしてあなたが私を差し置いて、敵を迎え撃つ必要が…」
危ないではないですか。現にあなたは囚われていた。私が助けに入らなければ、今頃…。
「彼らの思う侭、連れ去られている処でした。助けて頂いて、守って頂いて、有り難う
…」
その答に私は怒りも忘れて魂が固まった。
柚明さんは私の救援迄予測に入れていた?
その時背後で微かに人の動く気配がする。
柚明さんは桂さんに任せ、私は後ろを向き鞘に入った侭の維斗で身構えるけど。そこで、
私は身を貫く衝撃に凍り付いた。狩衣姿のその鬼切部は、背の低い中年男性は私が知る…。
「金時……なぜ?」「烏月様、こんな処で」
どういう事なのだ。千羽党が何故ここに?
身を起こした金時は、私を前に戦意を失った様子で、その場に座り込む。狩衣姿の他の
面々も見れば全員千羽党だ。人数は丁度十六人。それに杉本運送の3台の宅配トラック…。
「まさか、秀郷氏を介して大人衆が受けた今日の金時達の使命とは、桂さん達の確保?」
さようで。私の震える問に、金時は頷き、
「贄の血の民2人を、生命奪わず確保する事。それが今回千羽党が受けた命にございま
す」
どうなっているのだ。若杉は……葛様は?
私に下された使命は、今日から明日にかけての桂さんと柚明さんの警護だった。脅威の
対象は明かされなかった。使命は極秘だった。まさか私は、この千羽と若杉の襲撃に備
え?
そして千羽の大人衆は、一体何を考えて?
『今度逢う事があれば、話してみると良い』
若杉の承諾があれば良いとの答の真意は。
若杉に確保された後の2人の身柄は、若杉との話し合いになる。逢って話しても桂さん
の意向は若杉の承諾の枠内だ。千羽の血を引く桂さんは、生かして保護幽閉するなら千羽
に預けられる可能性もあった。柚明さんは…。
抹殺であった場合など、考えたくもない。
「相手は娘2人に昼に出られぬ霊体の鬼一匹。娘1人は鬼に近い技を使う等少し厄介なの
で、鬼の事も考え併せ、夜よりその力が外に出し難い昼に為せとの指示でした。秀郷氏は
彼女達の不調の周期も把握済みで今日決行と…」
徐々に狩衣姿の男女が起き上がる。私が千羽の館で朝すれ違った面々だ。最年少は拾四
歳の藤太から、最年長は金時に至る迄、男拾名女6名。皆私を前に動きが止まり、金時の
様子を窺い、判断に迷う感じでその場に座り。
「防護服の面々は、我らが失敗した時に備え、秀郷氏が用意された若杉の者達です。我ら
の力量を信用されぬかと憤りましたが、この結果に相成りました。鬼切り役の前で面目な
い。
元々我らは手加減する積りでいたのですが、我らに誰も深手なく撃退されたという結果
は、彼女が手加減してくれたという事でしょう」
その通りだった。金時達は単に気絶させられたに過ぎぬ。無我夢中で抗ったのではなく、
深手を負わせぬ様に気遣った。日中は蝶も飛ばせず、蒼い力を及ぼすにも触れねばならぬ
柚明さんが、兵卒といえ千羽の者を相手にここ迄戦えるとは、私も予想外だった。彼女は
その自信故に1人で襲撃を受けようとした?
振り返ると、未だ咳込みが止まらない侭柚明さんは誰かに携帯電話をかけていた。身を
苦しめる自身の呼吸困難を押して一体誰に?
通話が繋ったらしい。桂さんが間近で抱き支えつつ、事の推移を見守る中、柚明さんは、
「わたしです。烏月さんに、助けて頂きま……こふっ、こほっ。はい、もう結構です…」
よろしく、お願い、します、こほくふっ。
通話を切ると脱力し桂さんに身を委ねる。
その直後、突如周囲にある通信機器が全て、自動的に動き始め。桂さんの家の電話機も
スピーカー状態で語る。桂さんの携帯も私の携帯も柚明さんの携帯も。金時や倒れた侭の
千羽党や、防護服の連中の無線機や携帯迄もが。
「若杉及び鬼切部千羽党の皆さん、葛です」
柚明さんの連絡先は葛様の直通電話だった。
「まず第一に、羽藤桂さんの家の周囲1キロ以内で為される鬼切部への指示は、千羽烏月
への物を除き全て鬼切りの頭の未承認事項です。直ちにその遂行の無条件中断を命じます。
次に、羽藤桂さん、羽藤柚明さん及びノゾミさんに、若杉を代表しこの度の不始末をお
詫びします。鬼切部の本意ではない一部の暴発が、皆様を危うくし損害を与えた事に、心
から謝罪申し上げると共に、実損回復と慰謝の措置と、今後皆様の平穏な生活を乱さない
事を、鬼切りの頭として確約させて頂きます。
内部統制の乱れは、全て若杉当主であるわたしの力量不足であり責任です。今後この様
な不手際は起こしませんのでどうかお許しを。以降鬼切部の羽藤家への対応は、千羽烏月
に全権を委ねます。その指示に従いなさい…」
桂おねーさん柚明おねーさん、無事ですか。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
彼らの襲撃は、無期限に中断されて終った。
外の若杉の者達もその指示に無条件で従い、金時達も散らかった部屋の整理や掃除を為
し、割れた窓ガラスや汚れた絨毯が急遽調達され。それは羽藤家に何事もなかったかの如
き偽装を考えて、予め用意済みだったらしく、羽藤家の面々の前で驚く程のピッチで修復
され…。
夕刻前には大方の修復を終え、後は自分達で為すから良いと、柚明さんが金時達に引き
上げを促し、私がそれを受けて彼らを帰らせ。唯一任務を終えてない私が羽藤家に居残っ
た。
「今日はお見苦しい処ばかり見せてしまって、申し訳ありません、烏月さん……。桂ちゃ
んにも改めてごめんなさい。桂ちゃんのたいせつな烏月さんに、酷い事を言ってしまっ
て」
無理に無理を重ねた柚明さんは未だ体調が復しきっておらず、桂さんに無理矢理押し込
められた布団から、半身を起こし頭を下げる。
「いえ、その。今回は、私どもの不手際で、桂さんにも申し訳ない事になってしまって」
桂さんも体調は万全ではないけど、回復傾向にある。室内なら動き回れる様で、千羽の
年若な者の修復作業に手を貸して話をしたり。
『藤太君達、後で千羽で怒られちゃうの?』
最初は柚明さんを襲った相手なので、警戒し怖がっていた桂さんも、対立する事情が消
失し、柚明さんが彼らを隔てない姿勢をとってくれたお陰で、中途から年少の藤太等にや
や馴染み、後々の処遇の心配迄してくれて…。
『命令に従っただけとはいえ、桂さんや柚明さんに害を為したから。私は厳しい処断を考
えていたけど、桂さんがそれを望まないなら、寛大な処置も考えるよ。彼らは千羽だから』
防護服やトラックの連中は若杉の管轄だから葛様の判断になる。アパート周辺の盗聴部
隊や秀郷氏も。柚明さん達が弱る日の巡りは、盗撮盗聴でもしない限り掴めない筈だから
ね。
「昨日迄にこの部屋に仕掛けられた盗聴盗撮の機械は4百個余り。若杉の少なくとも8つ
の系統が各々別個に、桂ちゃんとわたしの動静を窺っていました。千羽もその一つです」
「わ……」「まさか!」「ゆめい……」
柚明さんはガウンを羽織って半身を起こした姿勢で、桂さんからコップの水を受け取り、
「背景は理解できましたから。鬼を呼び鬼に力を与える濃い贄の血が、町中に無防備にあ
る。わたしは少し前迄オハシラ様で、人に戻れた今も安定したか不確かです。世の平穏を
保つ為に、若杉は現状を把握する必要がある。葛ちゃんも、それは黙認したのだと想いま
す。
千羽が烏月さんに内緒でわたし達の監視を始めたのは、烏月さんの変化を見ての事でし
ょう。経観塚から帰った烏月さんは傍目にも、それ迄より確実に強く美しく柔らかになり
ました。その要因が気にならない訳がない…」
悪意ではなかったと思っています。なので、わたしも桂ちゃんの心を乱す様な事は言わ
ず、黙って見られる侭聞かれる侭に知らぬふりを。わたし達が日々の平穏を心から願い、
それを保つ技量と意思を確かに示せば、若杉や千羽が手を下す必要はなくなる。そう判断
できる材料を与える為に、敢て監視されていました。
ノゾミちゃんは機材を室内各所に付けられたと知っても、何を意味するか分らないから。
機械に意思はないから感応の力でも分らない。わたしは関知の力で設置された時点に遡っ
て、設置者が誰かや指示の系統迄を確かめたけど。
「そんな事だと知っていれば、私が夜の間に色々思い知らせてやったのに。……ゆめいは、
私に何も明かさず直前に突然『襲撃があるから烏月さんの助けを呼んできて』と抛るし」
夕刻を迎えたので、ノゾミも現身をとって柚明さんの上空に浮いた姿勢で口を尖らせる。
「ごめんなさい。これが最善だと想ったの」
後で聞いた話だけど、秀郷氏の暴挙は若杉の最高幹部の保護と抹殺のいずれにも寄らぬ、
単独の先走りだったらしい。贄の血の2人を確保してしまえば、抹殺も保護もすぐ為せる。
葛様や最高幹部の賞賛欲しさに、その意向を確かめず、どっちでも良いから先物買いだと。
葛様はその動きを知って逆用を考えたらしい。
若杉の失態を晒し、羽藤に謝罪しその保全を確約し、事態収拾に対応をその場にいた私
に全権委任する。動きつつある失態への収拾でなければ、幹部達も簡単に承諾しない処だ
けど。追認せざるを得ない状態だった。葛様は多分この暫定措置を無期に引き延ばす気だ。
柚明さんの最善が、私を引っ張り出して、葛様の最善をも引き出せたと言うべきなのか。
「今回の襲撃に千羽党が使われたのは、烏月さんの反発を見越してでしょう。烏月さんに
秘密でわたし達を監視していた事を明かすと、脅されたのかも知れません。千羽党を巻き
込んで事を為せば、烏月さんも若杉幹部に抗議しづらい。了承の上でしょうと。千羽の当
主として烏月さんは知らなかったと言い難い」
己の顔から血の気が引いていくのを感じた。
「何て事だ……。千羽の、大人衆が……桂さん、柚明さん、ノゾミにも。申し訳ない…」
6時間後とは、これを見越してだったと?
今日起こる、これを踏まえた上で話せと?
彼女は全てが見えて、私は全く見通せず。
「あっ、烏月さん。さっきのお話」「……」
桂さんが思い出した様に口に手を当てる。
でも私は静かにかぶりを振って苦く笑い、
「そんな話、出来る筈がない。千羽の当主だの最終決定だのと。鬼切りの実働以外、当主
の責務を大人衆に委ね、その動きも判断も懸案も把めず、この事態を防げなかった私に」
柚明さんの厳しい指摘は、正鵠を射ていた。今更だけど彼女は何一つ虚偽を口にしてな
い。私は間近の禍も感じ取れず、迫る嵐も気付けない。今の私に桂さんは守れない。まさ
かその嵐が己の属する若杉や千羽党の物だとは!
「私から申し上げる話は、何もありません」
深々と頭を下げる。柚明さんが見抜いてくれてなかったら、私は2人を迎えると言って
受け容れさせた直後に、2人を裏切る形になっていた。私はこの結末を見せつけられる瞬
間迄、己の想いを曲げなかっただろうから…。
「桂さんにお話しした事も、忘れて貰いたい。
葛様は若杉の膨大な組織人員の統率に身体と時間が足りない現状を自覚しておられたが、
私は身内千羽党の統率がしっかり出来てない己を自覚もできていなかった。恥ずかしい」
大切に想う気持と、それに必要な判断力や思慮深さは、必ずしも対応するとは限らない。
桂さんへの想いに較べ私の力量は全然足りぬ。桂さんを迎えられる資格は、今の私にはな
い。
恥辱と屈辱に俯き沈む私に、静かな声は、
「……それが烏月さんの答なら、正解です」
柚明さんは、私の見通しの甘さを責めず、
「本当に、烏月さんがこの経緯を経て尚桂ちゃんを、千羽に迎えると言ってくれたのなら、
わたしはそれも正解だと、桂ちゃんが拒まない限り、わたしには否の答はなかったのです
けど。烏月さんの判断が、そうであるなら」
彼女は本当に否と言わない積りでいたと?
桂さんを千羽に引き取る事迄了承の内と?
「千羽をこれから掌握して態勢を整えるから、是非桂ちゃんを迎えたいと、あなたは一度
口に出したなら、必ずそうする筈です。烏月さんは、生真面目な方ですから。……桂ちゃ
んをお願いしますと、応えていたのですけど」
少し残念そうなのは、今の答に残念なのか、桂さんを私が迎えていたなら残念なのか
…?
「でも、これも烏月さんの桂ちゃんを真に大切に想い、己に真摯に向き合った末の、烏月
さんらしい良い答だと想うので。わたしはその判断を尊重します。今後も羽藤の桂ちゃん
を宜しくお願いしますね。千羽の烏月さん」
実はその答は私に、二重の救いになった。
「えっと、わたしここに……ノゾミちゃんと柚明お姉ちゃんと一緒に、お母さんの想い出
のあるここに居続けても、良いんだよね?」
その一言に桂さんの真の想いを、見落していた己を気付かされたのだ。確かにこの一室
は羽藤の屋敷と違い仮の住処だけど、桂さんには亡きお母さんと拾年を過ごした処だった。
大切な帰るべき場所だった。私は今後を考える余り、桂さんの喜びや悲しみや日常の寄っ
て立つ今や過去を軽んじていた。それを確かに承知して、その想いを守り保ってきたのは。
「桂ちゃんがそれを望む限り、いつ迄も…」
【人を守るという事は、その身体や生命と同様に、その心をも守る事。その人の想いも守
る事。その人の大切な物迄も守る事です…】
「良かった。良かったよぉ、ノゾミちゃん」
「私には、何が何だか分らないのだけど?」
「良いの。分らなくても良い。わたしもきちんと説明できないけど、とても嬉しいから」
意味分らぬ侭抱きつかれるノゾミを前に、
「桂ちゃんはノゾミちゃんが大好きなのね」
瞳を細めて見守る様が心から嬉しそうで。
今桂さんを真に守れるのはこの人だけか。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
この襲撃の日時が決まったのは、火曜の夜か水曜の午前らしい。隣室の盗聴員への報告
要請の頻度が増して柚明さんに察された様だ。ノゾミは隣室の彼の動きに気付いた様だけ
ど、何を為しているか理解が及ばなかったらしい。
柚明さんは水曜午後に直通電話で、葛様に助けを要請したという。土曜から日曜にかけ、
『若杉でも千羽でもなく、烏月さん』指名で。葛様は多くを聞かずとも事を分る聡明な方
だ。
「烏月さんの助けを頂ければ充分と想っていたのに、予想以上の結果を導いて頂けて…」
私が葛様に呼び出されて使命を承けたのが水曜日の夕刻で、桂さんと柚明さんに今日の
来訪を告げたのはその夜だった。桂さんはともかく柚明さんは、私の所用も全部承知で…。
ならばこそ、私は訊かねばならぬ事がある。
彼女より戦に向いた者、戦うべき者として。
「何故襲撃を前にして、私をこの家から遠ざけたのですか? 何故、分って1人で襲撃を
迎え撃つ等という無茶を為したのですか?」
これだけは語調も厳しくならざるを得ない。
当初私があなたも一緒に買い物に誘った時断ったのも。さっき桂さんを憤激させ出て行
かせたのも。私に後を追わせ公園で休む様に促したのも。私と桂さんを家から遠ざける為。
「酷い言葉を口にして心を傷つけ、本当に申し訳ないと思っています。烏月さんにも、桂
ちゃんにも、幾ら謝っても謝りきれない…」
うなだれる柚明さんを責めるのは私も本意ではないが、こればかりは言わずにおられぬ。
「私が言いたいのはその事ではありません」
何故あなたが鬼切り役の私を差し置いて、1人で襲撃を迎え撃つ必要があるのですか!
「危ないではないですか。現にあなたは囚われていた。私が助けに入らなければ今頃…」
そこで桂さんも漸く、柚明さんの所作がいかに危うかったかを分って、大きく瞳を見開
いた。ノゾミは黙して話を見守る姿勢でいる。
「彼らの思う侭、連れ去られている処でした。助けて頂いて、守って頂いて、有り難う
…」
柚明さんは私の救援迄予測に入れていた?
だがそこ迄察しが出来る彼女なら、何も!
「3人で青珠も持って買い物に行けば、襲撃を空振りに出来たではありませんか。桂さん
の不調もあなたがいれば緩和できる。宅配トラックが昼から夜迄居続けるのは不自然です。
若杉も千羽も出直しを迫られたでしょうに…。
あなたは襲撃を退ける為に私を呼んだ筈だ。相手が若杉や千羽の手練れの者だと、あな
たは予見できていた。1人ここに残る事がいかに危ういか、あなたに分らない筈がな
い!」
2人で迎え撃てば。否、私に任せて貰えればあなたも苦しむ必要はなく、桂さんを心配
させずに済んだのに。私を招く算段をしておきながら遠ざけるとは、どういう了見ですか。
柚明さんの技量は、今日改めて予想以上と知らされたけど、彼女は本来戦う人ではない。
戦いに向いた人ではない。彼女の守りは今日も刃に己を突き刺して止める様な所作だった。
それを為させ続ける事は、桂さんを不安に落すし、私が見ていられない。桂さんが彼女
を守って傷つく柚明さんを前に、哀しみ痛む様は見るに忍びない。桂さんの守りには私の
方が適任だ。どうしても柚明さんが桂さんを守ると言うのなら、柚明さんも含め私が守る。
「あなたが前面に出て戦うのは間違いです」
桂さんのあなたを想う気持を察して下さい。あなたが傷つく度にどれ程桂さんが哀しむ
か、あなたには分るでしょう。私やサクヤさんがいる今、あなたが戦いを担う必要は薄い。
危険は私達に任せ、あなたは桂さんを間近に抱き留めて、その心を守ってくれれば充分で
す。
私の叱声に、柚明さんは少し驚いた顔で、
「申し訳ありません。以後、そう努めます」
何の弁明も反論もなく静かに頭を下げる。
顔つきが微かに嬉しそうなのは、私が柚明さんを想う故の叱声と分るからだろうけど…。
「ゆめいの考えを聞かせて頂戴。あなた鬼切り役が口にする事はそもそも分った上で、こ
の襲撃を1人で受け止めたのでしょう。私は日のある内に使いっ走りをさせられたのよ」
ここ一月の事に尚少し引っ掛りもあるし。
私だって問に答えて貰う権利はある筈よ。
ノゾミの問いかけは実は私のそれでもある。
柚明さんは私が今言った事など百も承知だ。
桂さんの視線も向いた時点で、柚明さんは心中を全て喋らざるを得ないと観念した様で、
「実は千羽と若杉の襲撃はこれが最初ではありません。先月にも既に1回……」「ぇ?」
全く知らなかった様な桂さんに対し、ノゾミの驚きはやはりという感じで、心当たりが。
「やっぱり、そう言う事だったのね。経観塚に戻っていた間の室内の空気の妙な違いは」
「先月、わたし達は泊りで羽様に行きました。白花ちゃんの誕生日に『わたし達は幸せに
暮らしています』と報告しに。でも、帰ると」
家具の配置も絨毯の柄も、変ってないけど。
何一つ荒らされも盗まれもしなかったけど。
「痕跡は殆どありませんでした。現状を見て頂ければ分ると想います。食器の並びも壁の
汚れも、ほぼ完全に復されています。今の様にその日の彼らの襲撃を示す証拠は何もない。
ノゾミちゃんは微かに疑念を抱いた様だけど、確かに断言できる痕がない程巧妙な偽装で
す。わたしは関知の力で、不在の間に彼らが為した事を知りましたけど。……お分りです
か」
空振りにしても襲撃は先延ばしされるだけ。
確かな跡も示せない以上は警察も動かない。
脅威は残り続け、いつ来るか分らない侭に。
受けて退けなければ、根本的な解決はない。
桂さんの瞳が見開かれ、ノゾミの瞳は細く。
「怖れも不安も憤りも己の内に収めました」
話して桂ちゃんを不安に陥れても無意味。
ノゾミちゃんの反撃は逆効果を招くだけ。
一定の解決を見る迄明かすべきではない。
その時から烏月さんに頼ろうと想っていました。サクヤさんに助けを求めなかったのは、
サクヤさんが若杉や千羽を退けると、サクヤさんが若杉や千羽の敵にされてしまうから…。
「最近余りサクヤさんが来てなかったのは」
桂ちゃんが今気付いたと声を漏らすのに。
「ええ。サクヤさんにもサクヤさんの事情があって、余り来られなかった様なのだけど、
それ以上にわたしが少し遠ざけていたの…」
サクヤさんと鬼切部の関係は今尚微妙です。桂ちゃんもノゾミちゃんも纏めて、千羽や
若杉の敵にされかねない。何としてもサクヤさんに知られる前に、介在させずに解決せね
ば。
「烏月さんに縋る他術はありませんでした」
「……ならばこそ、です。そこ迄の事情は分りました。でもならばこそ、ここで当初から
襲撃を受けて退けるのは、私であるべきだ」
柚明さんは指摘に頷きつつも瞳を閉じて、
「いつも最優先なのは、一番たいせつな人」
わたしと烏月さんが家で襲撃を迎え撃つ時、桂ちゃんは誰とどこにいる事になります
か?
語り部以外の3人の動作も表情も凍結した。
「桂ちゃんを危険に巻き込む訳にはいかない。桂ちゃんに家を外して貰う事は、必須でし
た。わたしがここに居続ければ、監視の目を力でごまかせます。機械の画像は変え得ない
けど、盗聴員の意識に作用して錯覚を抱かせられる。わたしがここを外せば桂ちゃんの不
在を繕う術はない。彼らに示す疑似餌も必須でした」
だから、柚明さんは囮として1人残った…。
「外に出た桂ちゃんにも、守りが必要でした。彼らが組織的に集団で来る以上、近辺にい
れば見つかる怖れは残ります。わたしより鬼切り役の烏月さんの方が、桂ちゃんをより確
かに戦い守れる。烏月さんは、強いですから」
あの麦わら帽子は、顔を隠す目的も兼ね?
この人は全部承知だったのだ。何から何迄分った上で、桂さんの安全を最優先して敢て
危険を被ったのだ。私の心配などとっくに…。
「何よりわたしは、ここで敗れて烏月さんに助けて貰う必要がありましたから」「な?」
青珠を手元に残したのは、烏月さんに助けを乞う為です。襲撃の際は携帯も使えないと
想ったので。昼は力も揮えず、贄の血に酔ったノゾミちゃんには、大変だったと想うけど。
「適当に抵抗し、尚ここから連れ去られずに、烏月さんの助けを待つ必要があったので…」
サクヤさんの事情と同じです。羽藤が単独で若杉や千羽を戦って退ければ、羽藤が若杉
や千羽の敵にされかねない。それは葛ちゃんや烏月さんにも、何より桂ちゃんに不幸です。
「わたしは禍を福に転じたかった。この襲撃を機に逆に若杉や千羽と関係を結びたかった。
その為に、烏月さんに助けて頂く事が必須でした。例え撃退が可能でも、わたしが彼らを
退けてはいけない。烏月さんに助けて頂く事、葛ちゃんの命を受けた烏月さんに守って頂
く事で、羽藤対若杉・千羽の構図は崩せます」
羽藤を襲った者も若杉と千羽であり。
羽藤を守った者も若杉と千羽である。
なら、相殺とは行かない迄も、千羽も若杉も失態を自らで取り返せた事になり、今後の
関係も望み得る。烏月さんも葛ちゃんも桂ちゃんと今迄通り仲良く付き合う事ができます。
「鬼切り役が助けに来る迄、戦いを長引かせる積りでいたの? それって勝って敵を倒し、
追い払うより面倒で難儀な事ではなくて?」
「そうね。でも、それが必須だったから…」
千羽の人達は使命に正直だから、わたしを即連れ去ろうとした。そうされる訳に行かな
いわたしは、全て打ち倒さざるを得なかった。彼らと対峙した侭時を稼ぐ事は出来なかっ
た。若杉の第二陣のガスは意外だったけど、あの場に烏月さんが一緒にいなくて良かった。
維斗も気体は断ち切れませんから。一度受けたお陰で、次の攻撃は一緒に弾き返せました
し。
「攻め込ませて崩れず、負けて尚敵を逃がさぬ……私にも、為せる自信がない類の戦だ」
それをあなたは、私や葛様の為に?
あなたの真意も分らず憤った私の為に?
満面の笑みで信じ切った心を彼女は明かす。
「わたしのたいせつな烏月さんや葛ちゃんの為であり、何より桂ちゃんの、わたしの一番
たいせつな人の為ですから。桂ちゃん、本当に烏月さんと葛ちゃんを大好きなんですよ」
見ていて羨ましくなる位に。烏月さんや葛ちゃんと結んだ桂ちゃんの絆を、その温かで
確かな想いをわたしは守りたかった。そして、
「必ず助けに来るって分っていましたから」
千羽烏月は求められた助けを断りはしない。
すみません。今回は甘えさせて頂きました。
心臓の奥から突き上げてくるこの苦味は、
「……私は、明言して応えなかったのに…」
応えないどころか断る気でさえいたのに。
この人は変らぬ強く篤い信をずっと私に。
私はすんでの処でこの人を失う処だった。
この人の想いに、応えられない処だった!
桂さんを想い、私や葛様を想い、先々迄見据え、全て承知し呑み込んで。敢て窮地に身
を置いて、助けられる敗者も甘受して、悪役も誤解もその身に被り、心の内に幾つ傷を刻
んだか知れぬのに、尚静かに穏やかに微笑む。
その強さと優しさには、及びようがない。
釈迦の掌の上の孫悟空とは、正に私の事。
頭を垂れる。否、自然に頭が垂れてくる。
「遅くなりましたが、応えさせて下さい…」
この人の求めにこそ、応えねばならない。
応えない事には、私が己を許せなくなる。
「千羽烏月は羽藤柚明を、羽藤桂の次に全身全霊をかけて、愛し守る事を、約束します」
約束したい。させて欲しい。愛し守る事を許して欲しい。どこ迄深く人を想い、己を捧
げ得るかの果てを見せてくれた人。私の心を救い優しさの限りを示してくれた人。この人
が居なければ私は桂さんを幾度哀しませたか。
頭を下げて三つ指ついて、請い願う私に、
「顔を上げて下さい。わたしの大切な人…」
心が竦む私を救う柔らかな声が身に響く。
柚明さんは面を上げた私の瞳を正視して、
「千羽烏月は、羽藤柚明のたいせつな人…」
強く綺麗で生真面目で、心優しい愛する人。
「唯一のとは言えないし、1番とも2番とも、言う事もできないわたしだけど。有り難く
嬉しいその想いに、叶う限りの想いを返します。
ふつつか者ですが、宜しくお願いします」
気付いた時には私は彼女の肩を抱き寄せて、滑らかな首筋を胸に抱いていた。桂さんや
ノゾミの前だと想い返せたのは言い終えた後だ。一瞬でも桂さんさえ心の視界から消えて
いた。
「あなたの想いを承けられる事が幸せです」
この人の為なら私は、誇りも使命も喜びも、桂さん以外のこの世の全てを、捨てられる
…。
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四者四様に頬を熱くして、暫くの冷却期間を置いた後、目の前で静穏な人は言葉を紡ぎ、
「後日、今日のお礼に千羽の館を訪れても宜しいですか? 出来れば桂ちゃんも一緒に」
叔母さんはそれなりに考えがあって、千羽と関りを断ったのでしょう。でも桂ちゃんが
それを受け継ぐ必要はないと想うの。夏から今迄で桂ちゃんを巡る状況は変りました。烏
月さんと桂ちゃんも深い絆で結ばれましたし、わたしも烏月さんに何度も助けて頂きまし
た。
千羽は叔母さんの実家で、桂ちゃんの血縁。桂ちゃんさえ嫌でなければ、正式にご挨拶
して、お付き合いさせて頂く方が良いと想うの。
「そうだね……わたし、お母さんの方の親戚とか従姉妹とか、全然知らなかったものね」
藤太君や金時さんにも又会えたらいいな。
「若杉にも、お礼参りに行かないとならないよね。葛ちゃんにも、お世話になったし…」
「お礼参りの意味を分っているの、けい?」
「喜んでエスコートさせて頂きます。桂さんも柚明さんも、私のたいせつな人ですから」
柚明さんは私達に2人で外食、又は出前を頼む様に促したけど、彼女の不調を知った上
でその選択を採れる私達ではない。桂さんは、
「わたし、お姉ちゃんの為にお粥作るっ!」
私は厨房に共に立ちその助太刀を担おう。
「鬼切り役、あなた料理なんて出来るの?」
「鬼切部の戦いは時に月も跨ぐ。山野で食せる物を捌いて己の身と為す術を知らねば鬼切
りは勤まらない……味の自信はないけどね」
2人立ち上がり台所へ行く私達の背後で、
「私も助太刀しなければ、ならないかしら」
って、ゆめい。なんで私を引っ張るのよ?
「ノゾミちゃんは少しの間、わたしと癒しの修練をしましょうね。望んでいたでしょう?
『今後桂がケガをした時は、私が治してあげないとならないの』って。試されてあげる。
強弱深浅の感触も肌身を通じて伝えるから」
「ちょ、ちょっと。ゆめい、わ、あなた…」
二人心合わせれば出来ない事は何もないわ。
背後から、聞える言葉は月並だったけど、
「桂さん、柚明さん……正にその通りです」