今は唯この愛しさにのみ身を委ね


 羽藤さんのお母様がお亡くなりになったのは、夏休みの少し前の事だった。何度かお会
いした感じでは、身体にも心にも張りのある、細身だけど強さを感じさせる美しい方だっ
た。亡くなる様な兆しは、全く感じ取れなかった。

 事故に遭った訳でもなく、病も怪我もなく、少し寝込んだと思っていたらその侭、だと
か。過労の様な物だと、医師は言っていたらしい。

 人の定めはどこでどう転ぶか分らないけど、この転び方は酷すぎた。羽藤さんにはお父
様もご兄弟もおらず、祖父祖母も親戚も居ない。唯一の肉親の喪失への哀しみは尋常では
なく、葬儀の時も傍で白銀の髪の豪奢な女性に慰められる様に、中々励ましに近づく事も
憚られ。

 でも尚羽藤さんは自身を抑えていたのだろう。心にも生活にもぽっかり空いたその穴は、
恐らく誰にも埋め合わせられず、奈良さんもわたくしも月並みなお悔やみしか伝えられず。

 親戚も来ない葬儀を取り仕切ったのはサクヤさんというその髪の長い女性で、自身も深
い哀しみに美貌を曇らせつつ、羽藤さんを力づけ。彼女が今後、羽藤さんの保護者に…?

 羽藤さんの今後が気になったけど、わたくしにできる事もないので問は控えた。羽藤さ
んは未だそこ迄考える余裕はなさそうだったし、傍の奈良さんに憂いを持ち込む事になる。
いずれにせよ、子供の世界で決し得ない事だ。

 付き添って励まし力づけて差し上げたかったけど。わたくしは人を慰め癒す行いは得意
ではない。唯一の肉親を失い、天涯孤独な羽藤さんの悲嘆を受け止める自信はなかったし、
海外旅行を中止できない事情もあって、残念ながら夏休みの多くは日本を離れる事になり。

 わたくしにできたのは、夏休み迄の間出来るだけ羽藤さんに寄り添って声をかける事と、

「あたしがついているから、安心しなって」
「奈良さんがいらっしゃるから、不安です」

 その間を奈良さんにお願いする事だけで。

 奈良さんはわたくしと多少異なり、無理でも駄目でもそうすべき・そうしたいと想った
ら踏み込む方だ。やり過ぎ、又は誤って羽藤さんを傷つける危うさもあるけど、想いは本
物だ。一番辛い時期に傍にいない者に結果を云々する資格はない。多少ではない心残りを
残しつつ、わたくしは瑞穂の国を暫し離れた。

 わたくしが異国を訪れている間、羽藤さんも父方の実家がある異境を訪れていたと伺っ
たのは、日本に帰って間もなく、空港を出る前に掛ってきた奈良さんからの携帯電話で…。

「ちょ、ちょっとお凜……。はとちゃんが」

 飛行機の到着直後に電話とは、変事があったか、奈良さんが良く羽藤さんに為す悪戯か。
奈良さんの悪ふざけは、短い付き合いだけど大凡読める。中々引っ掛らないので、奈良さ
んも最近余り仕掛けてこない。傍に1人、入れ食いで引っ掛ってくれる人がいる為かも知
れないけど。海外旅行帰りのスキを狙った悪戯か、本当にすぐ報せねならない様な大事か。

 奈良さんの電話は、敢て言うならすぐ知らせたい変事でも、悪い事や急を要する事、急
げば間に合う事ではない様で。電話では要を得なかったけど、羽藤さんに変化があったら
しい。一言で伝えきれない様で、旅行土産を渡す名目でその翌日、まず奈良さんと合流し。

「もう、すっごいんだから。はとちゃん…」

「黒髪のすっごい美人の一夏のアバンチュールと、家出童女の財閥令嬢と、白銀の髪の長
い自称二十歳の女性ルポライターと、外見は中学生なのに千三百歳の夜にしか出られない
可愛い鬼と、拾年行方不明でその間全く歳を取ってない奇跡の女性と、もう全員が羽藤さ
んとラブラブで深い仲……ですか? はぁ」

 結局逢って話しても要を得ず、予備知識と言えない断片的な情報を話し続ける奈良さん
と羽藤さんを訪ねる。それ迄の話と言うより奈良さんの様子から、羽藤さんが緊急に何か
を要する危うい状態ではないと分っただけで収穫だった。それ以上は奈良さんに求め難い。

 アパートの玄関前に立って気付いたのは微妙な空気の違い。奈良さんは感じてない様だ。
羽藤さんがお母様と住んでいた頃とも、お母様を失い穴が空いた頃とも違う。満ちている。
欠落を同じ物を埋め合わせは出来てないけど、別の何かが。微かに甘い花の香りを感じた
…。

「あ、陽子ちゃんにお凜さん。お久しぶり」

 羽藤さんは、奈良さんとは実家のある村から帰ってきた後で何度か会っていた様なので、
お久しぶりはわたくしに向けて。わたくしも、

「こちらこそ、お久しぶりです、羽藤さん」

 お元気そうで何よりですわ。

 哀しみの影が払拭されていた。喪失の哀しみは簡単に拭えないけど、それを乗り越え希
望を掴み取れたと分る。奈良さんの言う通り、実家の村での諸々が羽藤さんを変えたらし
い。それも悪い方向ではなく、確かに良い方向に。

 微かに中の空気に埃っぽさの残滓を感じた。引っ越し前後の荷の整理? 暫く旅に行っ
ていたなら、数日分の掃除を纏めてやった後か。妙な処でわたくしは視覚や聴覚等が鋭い
様だ。

 羽藤さんは、春の日のお天道様の様に温かな笑顔でわたくしと奈良さんを迎えてくれて、

「スの付く国に行っていたんだよね。確か」
「スワジランドかスリナムか、スーダンか」

 想い出そうとする羽藤さんを妨げる意図しか感じ取れない奈良さんのミスリードに、

「陽子ちゃん。それって、……国の名前?」

「……羽藤さんを引っかけるには、例に挙げる国名がマイナーすぎますわよ。奈良さん」

 スペイン、スイス、スウェーデンはメジャー過ぎるとしても、せめてスリランカやスロ
バキア等の聞いた事のある国名を上げないと。

「地上二メートルに引っかけロープを巡らせても、わたくし達には罠になりませんわ…」

「たちってお凜、あんたは別っ。その突っ込みする時点で、はとちゃんと別括りだから」

 等と話している時だった。お母様を亡くして家族がいない筈の羽藤さんのお宅の奥から、

「桂ちゃん、お客様……?」

 優しげな声と共に現れたのが、奈良さんの話していた諸々の一つで、最も重要な一つの、

「陽子ちゃん、こんにちは。今日も来てくれたのね。有り難う。前回はろくなおもてなし
も出来ずご免なさい。未だ落ち着いてなくて。
 それと東郷凜さんですね。桂ちゃんからお話は伺っています。桂ちゃんと仲良くしてく
れて有り難う。初めまして、羽藤柚明です」

 羽藤さんの従姉である新しい同居人だった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 羽藤さんから相談を受けたのは、新学期入りして数週間経った、金曜日の昼休みだった。
奈良さんが風邪でお休みなので、わたくし1人が写真部の暗室で相談を受けたのだけど…。

 わざわざ日光の届かない所で相談となれば、相手は羽藤さんだけではない。自然身構え
てしまう。何も彼女は姿を顕す時だけ居る訳ではなく、常に羽藤さんのお守りに宿ってい
る。今身構えても遅い事も、頭では分るのだけど。

「頭で分っていても怖れを抑えきれないのが人の常だから。あなたの応対はましな方よ」

 中学生位の和服を着た女の子の姿がうっすらと、暗い空間に浮き上がって淡い輝きを帯
びている。特殊効果でも何でもなく、彼女は、

「ノゾミさん。ご機嫌よう」

 外見は未だ幼いショートヘアの鬼の少女だ。

 実家の村を訪れた羽藤さんは彼女とその妹に襲われて血を吸われ、生命迄落しかけたと
聞いた。その後色々あって彼女に生命を救われる事もあり、今は羽藤さんの携帯ストラッ
プのお守りに宿って落ち着いたとの話だけど。

「あなたは、余り宜しくなさそうだけど…」

 瞳を猫の様に細めて、少し意地悪そうに、

「無理もないわね。初見ではなくても鬼を目の前に迎えると、常の人は冷静さを保つのが
難しい様だから。度量が試される処かしら」

 わたくしの応対が、警戒と怖れを含む事もお見通しで、やや見下ろす語調で話しかけて。
わたくしの警戒に応ずる冷たさを出しつつも、尚わたくしが冷静に対するなら応える感じ
だ。

 自分は安全だから怯えなくても良い等の甘い囁きはない。それは逆に彼女の率直さを表
すのか。外観は中学生位の女の子だけど、喋り口調は時々妙に古風な響きが混ざっている。

「少なくとも、羽藤さんの期待には応えたいと想っています……。で、今日のお話は?」

 羽藤さんの話は信じても、血を啜り生命も奪える得体の知れぬ鬼を傍に見て、完全に平
静でいられる程わたくしも人間が出来てない。むしろ隠せぬ内心なら、表に出した方が良
い。彼女は人の心を見抜く感応の力も持つ様だし。

 取り繕って表面だけ笑顔で、本心が震えたり、敵意に満ちたり、警戒に身構えていては、
言葉や所作を全て疑われ唯でも微妙な関係が拗れかねない。多少の隔意は隠さず本音で応
じる。決裂さえせねば羽藤さんも許容範囲だ。

「わざわざわたくしにも見え聞える姿を取って、相談しなければならない事なのですね」

 現身を持たない鬼は、強い光に当たると存在を散らされると羽藤さんから聞いた。故に
昼の間は、原則彼女は出てこられない。経観塚にいた時は肉を持たぬ鬼だった柚明さんも、
羽藤さんの生命を救いに真昼の中に飛び出して消える寸前迄行ったとか。羽藤さんの血が、
鬼に良く好まれる特殊な血が、柚明さんの存在を辛うじて繋ぎ止めたと。ノゾミさんは元
々その血を欲して羽藤さんを狙っていたとも。今はその生命を狙ってはいないと言うけど
…。

 私は既に奈良さんと、事情に深入りしすぎてしまっているのではないだろうか? それ
も羽藤さんがわたくしと奈良さんに寄せる深い信頼の故だと、嬉しくも有り難かったけど。

「けいは何を誰にどう相談して良いかも弁えてなくて、危なっかしいのだもの」

 ノゾミさんは、羽藤さんをちらりと横目で見て、奈良さんよりもきついダメ出しをする。

「けいったら、陽子に相談しようとしていたのよ。秘密を要する相談をするのに一番不向
きな者をわざわざ選び出すけいの人を見る目のなさは、天賦の才に近い物があるわね…」

「ううっ、それはわたしにも酷いけど、陽子ちゃんにもかなり酷い言い方だと想う……」

 奈良さんは自宅でくしゃみしているかも。

「否定はしないのね? 指摘を分るおつむがあって良かったわ。すぐ分って貰えた凜も」

「まあ、相談の性質は掴めましたけど……」

 奈良さんは万事開けっぴろげで、誰かに気付かれない様に密かに事を進める等の行いと
は対極に位置している。秘密を要する相談なら、わたくしでも奈良さんよりは適任だろう。

「午後の授業まで時間は余りないらしいから、手っ取り早く話を進めて頂戴。けい」

 そこで羽藤さんが話し始めたのが、最近の柚明さんの連日の深夜の散歩についてだった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 柚明さんが最近連日の様に夜出歩いていると羽藤さんが知ったのは、一昨夜の事だった。

 トイレに起きるという珍しくもない日常の所作で、目を醒ました羽藤さんは柚明さんの
不在を知った。少し頬を染めつつ、時代劇を真似て布団に手を当てて出た頃合を測った処、
暖かみがなかったので、出立は暫く前らしい。

「時刻は二時半頃だったと思う」

 経観塚で消滅した戸籍を復活させ、羽藤さんの家に越してきた当初は『拾年行方不明』
で『突如発見され』『その間全く歳を取ってない』『奇跡の人』として何かと注目された
柚明さんも、先週頃に漸く周囲が落ち着いて。

「夜に出歩く用事なんて、別段ないのに…」

 羽藤さんには、何も告げてなかったらしい。寝静まるのを待って出た様だ。羽藤さんは
この年の女子にしては夜は早く、日付が変る頃には就寝していると言う。眠る際は毎度顔
を合わせ挨拶するので、出歩いたのはそれ以降。

 雑誌記者が周囲にいた間も、柚明さんは平然と日中買い物に行っていたと言う。彼らの
目がないのに夜に出歩くとは。彼らが居なくなったから、夜に出歩ける様になったのか?

「……それは、言えているわね」

 ノゾミさんがわたくしの推察に頷きを返す。

「余計な部外者には見られたくない。そしてけいにも知られたくない。そんな何かを…」

「で、柚明さんは、その夜のお帰りは…?」

「あ、うんうん。わたしも心配に想って…」

「ゆめいが居ないと心細くてでしょ。けい」

 ま、まあ……。羽藤さんの苦笑いは、子が親にはぐれた様な不安な想いと、夜に出歩い
た柚明さんを案じる気持が、半分ずつの故か。

 羽藤さんは最近お母様を亡くしたばかりだ。柚明さんも拾年間行方不明で、漸く一緒に
住み始めた状態だ。喪失への怖れはむしろ今の方が強いのかも知れない。そんな羽藤さん
の心境を分らない柚明さんでもないと思うけど。

「取りあえず玄関迄出てドアを開けようとした処で、ちょうどお姉ちゃん帰ってきたの」

「刻限は丑三つ半って処かしら?」

 ほぼ3時。羽藤さんが気を揉んで、術も分らず玄関に出ようとした処で、帰り着いたと。

『桂ちゃん……心配させて、ご免なさいね』

 第一声が柚明さんらしい。その時刻に帰り着いて羽藤さんの迎えを見た瞬間、羽藤さん
がどれ程その身を案じ、又不安に想っていたかを悟って。そう言う人が、敢て言わずに出
歩いたのは更なる不安を招かない為? なら。

「余り、よろしくない事なのでしょうか?」

 故に羽藤さんに隠して夜に1人赴いたと。
 羽藤さんはわたくしの言葉に不安そうに、

「最近、帰宅途中のOLさんや塾帰りの女子高生が、刃物持った不審者に襲われたって」

「今朝も先生に、注意を促されましたわね」

 でも羽藤さんの心配は自身への禍ではなく、柚明さんに降り掛る禍の方にある。わたく
しの危惧にも、自身よりも柚明さんの身を案じ。己より人を気遣うのが羽藤家の気質なら、
柚明さんの行動は、逆に羽藤さんを想う故の…。

「柚明お姉ちゃんはその場でわたしに謝ってくれて、謝る事なんて何もないのに、わたし
の身体を『夜中に待たせて冷えてない?』って抱き留めて温めてくれて。それはとても」

 嬉しかったけど。幸せだったけど。でも。

「何故出歩いていたのかは、分らなかった」

 ノゾミさんは簡潔に、やや冷淡な感じで、

「けいはゆめいに撫でられたり抱かれたりすると、手なづけられて終ってしまうから…」

「ちゃんと聞いたんだよ。心配だったから」

 確かに、柚明さんの滑らかな細腕に抱き留められると不思議に心地良く、流されてしま
う気持も分るけど。慈しみが肌を通じて流れ込むと、他はどうでも良く感じてしまうけど。

 抱き留められた胸の内から見上げた問に、

『もう少し、隠しておきたかったのだけど…。
 桂ちゃんの心配が要る様な事ではないから、一区切り付いたら事情は全部話すから、今
少し理由を聞かないで見守っていて欲しいの』

「それで引いてしまって、後で悶々と悩んで再び問い返す事も出来ないのだから、全く」

 ノゾミさんの苛立ちは、羽藤さんが柚明さんの求めに応じ、理由を聞かず暫く見守る事
を約したにも関らず、やっぱり心配で心細くて問いたくて、でも今から再び問う事が出来
ない、羽藤さんの行きつ戻りつする心に向く。

「でもお姉ちゃんは一区切り付いたら全部話すって約束してくれたし、それに応えてわた
しも今暫くは聞かないと頷いちゃったし…」

 大好きな柚明さんとの約束だけに、今更反故にはしたくない。その気持も良く分るけど。
昨日羽藤さんが何事にも上の空だったのは…。

「それで昨日今日悶々とする様を傍で見せられては、こっちが堪らないわ。昨日も『一区
切りっていつ迄の事なんだろう』とぼやいて。そう言う事はその場で訊いておくべき物
よ」

「ううっ、その時はその時の流れがあって」

 頭撫でられ心地良くされて流されたのね?

「情けない。あなたではゆめいでなくても誰にでも、丸め込まれてしまうに違いないわ」

 私は優柔不断が嫌いなの。そうやって、うじうじうじうじする様を見ていると苛立つの。

『心を決めなさい。再度ゆめいに問うか問わないか、問わないなら問わないでしっかり待
つ心をけいに定めて貰わないと、私の方がその一区切り迄、苛々させられて保たないわ』

 柚明さんもそんな羽藤さんの心境を分らない筈はないと想うけど。余程重大な事なのか、
或いは終りが間近に見えている事なのか。どちらにせよ羽藤さんはもう半日も待てなくて、
それ以上に傍に添うノゾミさんが耐え難くて。

「昨日の夜も、柚明さんはお出かけを…?」

「だと、想うんだけど……」

 羽藤さんの答が曖昧で自信に欠ける理由は、

「私がゆめいの依頼で眠らせたの。一晩中悶々と待たせるのは心にも身体にも良くないと。
自身で為せばと反論はしたけど、最後はけいの為だもの。一つ貸しにして力を及ぼしたわ。
けいに一晩中悶々と過ごされていては、苛ついて私の作業も捗らなかったでしょうし…」

「ノゾミちゃん、わたしに一言も言わず…」

 2人がわたしを気遣ってくれているのは分るけど。羽藤さんの少し口を尖らせた反応に、

「私はけいに逐一話すとか約定してないわ」

「ノゾミさんに心当たりはないのですか?」

「私はけいの青珠に取り憑いている鬼なのよ。ゆめいの動向に気を遣うべき者じゃない
わ」

 私には夜しか時間がないから、色々と忙しいの。まあそれも昨夜で終ったから良いけど。

 ノゾミさんは一体何をしていたのだろう?
 でも今はそれより問わねばならない事が。

「心当たりは、ないのですか?」

 重ねて問うと、ノゾミさんは苦笑を見せた。わたくしの問に答えてないと見抜かれた事
を察した笑みだ。重ねて問う意味が届いた様だ。怪盗が名探偵の力量を認めた様な笑みだ
った。

「正直、私も把握してないわ」

 騙せなかった賢さに応えてあげるという感じで、双眸を閉じ肩を竦めてやや投げやりに、

「ゆめいが結構離れた場所に足を運んでいる事は確かね。私の気紛れと興味で探った程度
だけど、一里半は超えていたわ。田舎育ちのゆめいはその位普通に歩いていたみたいね」

「ノゾミさんは、柚明さんに訊いてはみなかったのですか? 何をしているのか、とか」

 ノゾミさんも好奇心の塊の様な方だ。柚明さんの動向は、気になっていないのだろうか。

 重ねに重ねた問いかけに、ノゾミさんは、

「私の一番は常にけいなの。ゆめいは唯の同居人よ。夜に出歩いたって、心配も気遣いも
する謂れはないわ。大体あの女には、刃を持った不審者でも鬼でも鬼切部でも、倒すどこ
ろか傷一つを与えるのが至難なの。心配したくない以上に、心配なんて要らないのよ…」

 行き先や目的を聞き出せても、けいに言えなければ意味がないわ。ゆめいはけいに正面
から暫く訊かないでと求めた。仮に私に明かしても引換に暫く口止めするに決まっている。

「それでね、わたし考えたの」

 そこからがわたくしへの頼み事らしい。

「柚明お姉ちゃんの行く先や目的を、聞き出す事なく知るには、どうすれば良いかを…」

 羽藤さんも安心したかったのだ。知りたい想いは隠さず、約束破りにならない方法をと。

「考えられる方法としては、夜に出歩く柚明さんを尾行して確かめる、位でしょうか?」

 後を追わないとは羽藤さんも約束してない。

 右の人差し指の第二関節を唇と顎の間の窪みに添え、その手の肘を左掌で支えつつわた
くしが応えるのに、羽藤さんは驚いた様子で、

「お凜さん凄い! わたしが昨日から一日以上考え込んで漸く達した結論に、拾分で…」

「けいのおつむの血の巡りが、鈍いだけよ」
「ううっ、ノゾミちゃん幾ら何でも酷すぎ」

「自力で思いつけた事は、まあ認めるけど」
「なる程、奈良さんに話せない訳ですわね」

 柚明さんに気取られない様に、柚明さんの深夜の散歩を尾行する。奈良さんは秘密と反
対属性の方だし、今は風邪で相談も出来ない。

「今夜、お凜さんのお家に泊る事にして欲しいの。今日はわたし、お家には帰らずに…」

「わたくしの家に泊っていると想わせ、柚明さんを自由に動き易くして、後を付けると」

「けいは想った事が顔に出るから、家に一度でも帰れば、ゆめいに全て読み取られるわ」

 準備も何もないけど、望むなら思いついたら即実行しかないのよ。不出来なけいにはね。

 ノゾミさんの言う通りだった。羽藤さんは顔色を繕い意図を隠すのが巧くない。逆に柚
明さんは繕いや偽りの類を見抜く術に優れる。ノゾミさんをも上回る感応や関知の力を持
つのなら、拙速でも即座に為さねば気取られる。

「今晩、柚明さんを尾行するのですね。羽藤さんとノゾミさんと、わたくしの3人で…」

「うん、その積り……って、お凜さんも?」

 少し遅れて驚きの声を上げる羽藤さんに、

「勿論ですわ。相談して頂いた以上、皿迄食べなければ、わたくしも得心行きませんし」

 羽藤さんは多分、泊り先の名義貸しだけ頼む積りだったのだろう。奈良さんが風邪で駄
目な今、それが出来るのはわたくしと。一緒に夜道を行く事は想定してなかった様だけど。

「羽藤さんの悩み事は、わたくしの悩み事」

 逆に言うなら、泊りの名義貸しを為す交換条件が、わたくしの随伴とお考え下さいませ。

 わたくしの好意より強要に近い申し出に、

「でも、夜遅くになっちゃうよ。お家の人を心配させちゃうし、それに先生も言っていた
刃物持ちの不審者も気になるし。うら若い花の女子高生が、深夜に出歩くのは危ないよ」

「それを為そうとするけいが言う事でもないと想うけど……凜は危険を、承知なのね?」

 不審者が幾ら危険でも、生命や血を啜る鬼より怖くはない。人数が多い方が安全も増す。

「家の事は大丈夫。両親には、今夜わたくしが羽藤さんのお宅に泊めて頂くと申します」

「ふえ……? お凜さんが、わたしの家に」

 羽藤さんにも、泊りの名義を貸して貰う。
 それで双方自由に動く時間を確保できる。

「ええ。明日は休みですし、今日の習い事は比較的早く終りますので。夕刻場所を定めて
合流いたしましょう。外で軽く夕食を頂いて、その後羽藤さん宅間近で刑事ドラマの如く
張り込みを行うと言うのでは如何でしょう?」

「わたしは、全然構わないけれど……」

 そこ迄付き合わせちゃって、良いの?

「付き合わせて下さいませ、羽藤さん」

 そこでわたくしはノゾミさんに向き、

「今回の一件はノゾミさんと羽藤さん共同の相談と受け止めています。協力の交換条件は、
ノゾミさんにも出させて頂きますけど…?」

 頼まれた強みでノゾミさんを正視すると、

「……言ってみなさいな」

「わたくしの一晩の安全を委ねます。羽藤さんの次にわたくしの身を守って下さいませ」

 羽藤さんの学友であるわたくしを害する事を、賢いノゾミさんが為すとは考え難いけど。
これは不審者対策でもある。鬼の彼女が申し出を受けてくれれば安全は保証されたに近い。

「あなた、考えたわね。分ったわ。一晩私がけいの次にあなたの安全を請け負うわ、凜」

 私もけいが悶々とし続ける様に、好い加減耐え難いし。今回の相談は確かにけいの為だ
けど、けいの心配を拭わないと安らかに過ごせない私の為でもあるの。けいもあなたの半
分位は、その賢さを持って欲しい処だけど…。

 あなたも根っこではお馬鹿さん。頼みを唯受けて、後で結果を訊ねるだけで充分なのに。
敢て首を突っ込む。多少賢くても強くても長生きできる生き方でないわよ、常の人にはね。

「羽藤さんと奈良さんに関してだけですわ」

 特に、羽藤さんには。この内心もノゾミさんには読まれているのだろうか。ノゾミさん
への拭えない怖れを承知で尚、羽藤さんの傍に寄り添いたいわたくしの想いを。

『一番辛く寂しい時期に、一緒にいてさし上げられなかった。役に立てなくても心救えな
くても、傍に寄り添い触れ合わせたかった』

 数少ない友の一番人恋しい時に、よりによって。同じ国にさえ居られなかった。全ては
この身の不徳の致す処だけど。自身心から好いた人に、何も成せなかった事への、贖罪を。

 最早必要は薄いと想うけど、何か役に立てるなら。鬼も斬れる千羽さんや保護者代理の
サクヤさんや、柚明さんやノゾミさんもいる今の羽藤さんに、今更わたくしが必須な事等
ないだろうけど。後はわたくしの気持の整理。羽藤さんに尽くしたく想い願うこの気持を
…。

 柚明さんが羽藤さんに心配させて迄為そうとしている事も気掛りだった。この2人の間
に割って入る事は出来ないだろうけど、羽藤さんの不安が払拭される迄、わたくしは共に。

「では、そう言う事で」

 3人の話が纏まるのと、昼休み終了5分前の予鈴が鳴ったのは、ほぼ同時刻だった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「うん、そうなの。お凜さんの家にお泊りする約束を、言うの忘れていて。ご免なさい」

 はい、はい。宜しくと、伝えておきます。
 それと、お姉ちゃん今晩も出るんでしょ?

「気をつけてね。夜は何かと危ないから…」

 羽藤さんの心からの気遣いは、同時に柚明さんの今夜の予定の確認にもなっていた。

 五時間目の後の休み時間、羽藤さんが柚明さんと携帯電話を目の前で終えてまず一声が、

「柚明お姉ちゃん、陽子ちゃんのお母さんと近所のスーパーで今、行き合っているって」

 適当に陽子ちゃん宅に泊るとか言っていたら、目論見がご破算になっている処だったよ。

『そう言う処で、妙に鋭いのよあの女は…』

 ノゾミさんの言葉が耳に甦った。勘でもないけど、確かに凄い巡り合わせを持っている。

 柚明さんは、急な泊りの申告にも余り問を発さなかった。泊り自体は前から決めていて、
柚明さんに言うのだけ忘れていたと。昨日も悶々とし続けていて言い忘れ、今更断れない
というのは得心できる為か。それで更に問われたなら、わたくしが助け船をと思ったけど。

「想ったよりあっさりでしたわね」「うん」

 お凜さんの家だから、なのかな。

 廊下でノゾミさんの見解は伺えない。言いたい事がある時には、取り憑かれている羽藤
さんは声も聞けるけど、特段反応もない様で。わたくしも携帯で、羽藤さん宅に泊る旨を
実家に告げる。同じく了承を貰えたのは、相手が羽藤さんの家の故か。双方共作戦は順調
だ。

「陽子ちゃんもそうだけど、お凜さんにも事情を話しておいて正解だったよぉ。柚明お姉
ちゃんやノゾミちゃんの事をお話してなかったら、こんなお願いはできなかったもの…」

「わたくしも最初は、不用意に込み入った事情を知りすぎてしまったかとも想いましたけ
ど……。もう、踏み込んでしまいましたし」

 そこ迄信頼を寄せて貰えているという事は、単純に嬉しい。好いた人に頼られ相談され
ている事は、尚の事嬉しい。それに伴う様々な諸々はあるにせよ、今は唯その信を喜びた
い。

 羽藤さんは家に戻らず、スーパー銭湯に行くから洗面道具は入浴セットを買うと言い繕
った。わたくしは洗面道具を駅前のロッカーに預ける。どちらの家にも上がらず荷を置け
ない以上、双方共に身軽な事が望ましかった。

「午後6時で良い?」「問題ありませんわ」

 羽藤さんの家の近所のハッキンビーフバーガーで落ち合って、軽い夕食を取る。羽藤さ
んは美味しそうに頬張っていたけど、美味しい血の持ち主の食事を前に、間近にいる筈の
ノゾミさんは食欲を刺激されないのだろうか。

 残光が消えて急速に空が蒼くなる中、わたくし達は羽藤さんのアパート入口を覗く事も
出来る街路の影で、缶コーヒーを片手に時を待つ。本当に、刑事ドラマの張り込みの様だ。

「凜は気付いた様ね」「ええ、この雰囲気」

 ノゾミさんが、未だ真っ暗ではないけど物陰に隠れて、着物姿の現身で顕れて問うのに、

「アパートの周囲の気配が違いますわ。前回羽藤さんを訪ねた時も、甘い花の香りと羽藤
さんを包み込む優しい気配を感じましたけど。今回はもう少し違う、羽藤さんを守る為に
寄り付く物を見極めて弾く様な高い敷居を…」

「どういうこと、お凜さん?」

 羽藤さんは感じてない様だ。わたくしも微かに感じるのが精々だけど。満足そうな声は、

「昨夜まで数夜かけて、私がけいの家の周囲の結界を張り直して、力を注ぎ足したのよ」

 けいは血を持っていても修練も何もないから全く気付いてない様だけど、凜は前から気
配の様な感じで気付いてはいたのでしょう?

「けいの家の建物敷地を包み込む様に巡らされたこの結界は、元々けいの母の作だから」

 そう言う事だったのか。何度か羽藤さんの宅を訪れた事はあったけど、その度に今とも
前回とも少し違う、心を洗い流す様な爽快な気配を、建物周囲から微かに感じ取れたのは。

「霊体の鬼の進入を阻む呪符による結界。けいも経観塚で何度か見たあれよ。けいの母も
それをこの周囲に及ぼしたの。贄の血の匂いを遮断して気付かせなくする効果も兼ねて」

 少しだけノゾミさんは苦い笑みを見せた。

「青珠だけでは不安だったのね。けいは何をしでかすか分らない子だし、ここは経観塚じ
ゃない。青珠の守りを外れた瞬間、けいには家も鬼を呼ぶ死地に変ってしまう。羽様の様
に贄の血の匂いを隠す広い結界は無理でも」

 自宅位は安全にしたかったのね。私とゆめいが来た時は既にその効果も薄れていたけど。

 けいの母は術者じゃない。呪符を貰って張る事は出来ても、力を注ぎ足す事は出来ても、
それを長く保たせ続ける事は出来ない。羽様の結界の様に末永く放置して尚保てはしない。

「青珠のお守りや、携帯電話の電池と同じく、力を注がないと切れてしまうのですね
…?」

「切れていたお陰で、私はけいと一緒に住む事が出来たのだけど。けいの母の張った結界
は、霊体の鬼を弾いて阻む障壁だったから」

「そうなんだ。じゃ、柚明お姉ちゃんは…」

「ええ、ゆめいの張り直した結界は、けいの母のそれと性質が違うわ。私が入る余地を残
しつつ、贄の血の匂いを外から遮断する…」

 私が前回訪れた時に感じた少しの違和感は、柚明さんの結界の故か。あの包み込む温か
さと甘い花の香りは、その前迄訪ねた時の爽快さとも違う、柚明さんらしい心地よさだっ
た。

「お凜さん、今迄そんな事一言も」

「ご免なさいませ。余りこういう事は口外する事ではないと。わたくしの感覚はそれ程鋭
い物ではありませんもの。今でもノゾミさんが顕れてくれないと、会話も叶いませんし」

 父の仕事柄、人の真剣や気合いのこもる場に居合わせる事や、武道家や殺気を帯びた人
にお会いする事もありまして。人の心の動きや本気度合いを見定める経験が、気配の察し
に繋ったのかも。とは言っても所詮素人。寒気や暖かみを感じる程でしかないわたくしは。

「ごめんなさいませ。話が脱線しましたわ」

 ノゾミさんはわたくしを尚少し気になる目線で見ていたけど、羽藤さんを見つめ直して、

「ゆめいはここに来るなり早々に結界を張り直したわ。ゆめいは呪符ではなく、自身の力
で結界を張れる。けいの母の結界の残滓に力を注ぎ足し、私が出入りできる様に少し性質
を変えて。でもそれは、一時凌ぎの繕いよ」

 三月は保つけど、力を注ぎ足さないといずれ力を失う。青珠を持つけいはそれで即危う
い訳ではないけど、けいを大切に想うゆめいにしてはおざなりな対応ね。今のゆめいなら、
拾年単位で保つ結界も為せるのに。最近はけいの傍を外して夜な夜な出歩き。何を考えて。

「だから私がゆめいの結界に力を注ぎ足して、私流の結界に作り直していたのよ。ここ数
日、日中は顕れられない私は夜限定で」

 わたくしが感じた結界はノゾミさんの物か。だから以前とも、前回とも今の印象が違う
と。羽藤さんの害になる者を弾き拒み、その他の者にも敷居の高さを感じさせ容易に近づ
けず。その源は心の力なので、人の特長が出る様だ。

『私には夜しか時間がないから、色々忙しいの。まあそれも昨夜で終ったから良いけど』

「作業が捗らなかったと言っていたのは?」

 羽藤さんが、両の瞳を見開いて問うのに、

「あなたの為に結界を張り直していたのよ」

 より確かに、より長く、より強靱に。ゆめいがその気になればもっと堅牢に出来るので
しょうけど、ゆめいがそれをしないのだもの。ゆめいにも見せつけてやる積りで巡らせた
わ。

「ノゾミちゃん、わざわざわたしの為に?」

 時間かけて、力使って、わたしの為に?
 ノゾミさんの頬が少し赤いのは照れか。

「当たり前よ。ゆめいが完全に為すなら私の出番もないけど、私もけいの役に立ちたいの。
今回のゆめいの動きには私も得心行かないわ。何の用か知らないけど、けいの守りを過剰
に気遣うゆめいが、何に執心しているのか…」

 それはそれとして。ノゾミさんは思索を中断し改めて羽藤さんの美しい瞳を覗き込んだ。

 誕生日のぷれぜんとって言うのかしら?

「私は鬼でお金も何も持ってないから、けいに形のある物を贈る事は叶わないけど。けい
とより愉しくて濃い恋い夜を過ごしたいから。けいに邪魔されて少し遅れてしまったけ
ど」

 更に頬を赤く染めつつ横を向いて、

「十七歳の誕生日おめでとう、けい」

 浮いた現身を包み込む二本の腕が、

「ありがとう、ノゾミちゃん……!」

 わたくしは、ここに居ては拙かったのかも。羽藤さんを抱き留めつつ、ノゾミさんがニ
ッと笑う瞳をわたくしに向けて。それを見た瞬間、私は自身の存在意義を知った。ノゾミ
さんは、羽藤さんとの絆の強さを見せつけたがってもいる。わたくしは格好の観客だった
…。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 ノゾミさんが羽藤さんを想う気持は本物だけど、その想いと返される羽藤さんの気持を
見せつけたい意図も本物だ。それがわたくしの介在を認める代償なら、目の当たりにする
事もやむを得ないけど。2人の甘い抱擁を破るわたくしの声は自身でも幾分冷淡に聞えた。

「柚明さんが、動き出しましたわ」

 涼しい夜風にも関らず、わたくし迄が血の巡りが多く少し温かい。そんな中わたくしは
己の値を再確認する。わたくしが居なければ、その歓喜と抱擁の間に柚明さんは行ってい
た。

 やや距離を置いてわたくし達の尾行が始る。黒のタートルネックにオフホワイトのカー
ディガンは、柚明さんらしい上品な着こなしだ。

『今夜は何時に行くのかな、お姉ちゃん…』

 出発地から見失っては尾行は成り立たない。家の周囲に張り込むのは良いとして、本当
の刑事の様に何時間も外で待つのは結構きつい。羽藤さんもノゾミさんも気長な方ではな
いし、若い乙女が夜に町の片隅に居て動かなければ、事情を訊かれる。羽藤さんの近所で
顔見知りなら逆に言い訳も利かない。柚明さんが動く頃合を見極め、その前後に張り込み
たかった。

『暗くなったら即、動き出すと想いますわ』
『根拠を言って貰えるかしら? 即答の…』

 ノゾミさんが、挑み掛る視線で問うのに、

『柚明さんも早く済ませたいと想うからです。羽藤さんの心配を長引かせたくないと想え
ば、柚明さんは必ず今夜の決着を望むでしょう』

 日中できる事ではなさそうだ。羽藤さんが学校の間、柚明さんが動いた形跡はない。羽
藤さんが電話で泊りを告げた時も買い物中で。羽藤さんが外す今夜は柚明さんの好機だろ
う。

『だと、良いのだけどね。あなたはゆめいのけいを想う気持を、そこ迄断言できるの?』

『わたくしの見た感じでは。この目が節穴だったなら、話も変って来るでしょうけど…』

 心配はむしろ、張り込んだ時既に柚明さんが出立後という事態だ。羽藤さんが電話で柚
明さんを心配し『夕ご飯ちゃんと食べて出掛けてね』と求め、答を貰った事が幸いだった。
外食を殆どしない柚明さんは、羽藤さんとの約定を守り自ら夕食を作って食べて出立する。

『ゆめいの事を良く分っている様な言い草ね。逢った事も過ごした事も殆どないあなた
が』

 探る様な目線の問は、その答への疑念と言うより、わたくしが柚明さんをどこ迄理解し
ているかを見定めたい様で。羽藤さんが言葉を挟めずにやり取りを見守る中、わたくしは、

『逢った事も過ごした事も殆どないわたくしも感じ取れる位です。ノゾミさんは既にその
事は織り込み済みなのではありませんか?』

 柚明さんの羽藤さんを想う心は全身を巡っており、日常の所作の一つ一つに滲んでおり、
四六時中満ちて溢れていた。新婚の細君でもこれ程深く細やかに愛し見守る感じは受けな
いだろう。これは霊感や眼力の有無ではなく、分らない方が人として問題だ。奈良さんが
後妻(うわなり)討ちを為そうとわたくしを呼んだ事は後で知ったけど、例えその気にな
っても、わたくしと奈良さんでは敵う筈もない。

 始めて逢った時柚明さんに抱かれた優しい感触を想い出すと、今も頬が少し熱を帯びる。

 玄関で柚明さんはわたくしの両手を両手で取って胸の前に持ち上げて、瞳を瞳で見据え、

【これからも、桂ちゃんのお友達で居て下さいね。そしてわたしも宜しくお願いします】

 拾歳年上だけど、行方不明の拾年間歳を取ってない奇跡の人なので、外見は羽藤さんや
わたくしとほぼ同年輩だ。滑らかな手触りで自然に触れられ、視線も温もりも間近に感じ。

 過剰な筈の親愛の表現がそう想えず、後に理性で気付くのは、柚明さんの情愛をわたく
しも肌で感じた故か。羽藤さんにされた時とも別種の嬉しさと気恥ずかしさは、想い返す
度頬を染める。柚明さんは行為を長引かせず速やかに手を解いて、わたくし達を中に招き。
奈良さんも最初にこれを為され調子を乱され、羽藤さんと共々に『良い子』にされたらし
い。

 その侭羽藤さんの家に上がり、互いの土産話になったけど。羽藤さんの話は波瀾万丈と
いうか、初見の人には荒唐無稽に聞える物で。彼女を知り、柚明さんを前に見たわたくし
は、呑み込まざるを得なかったけど。奈良さんが本気で纏められず、要を得た説明が出来
なかった訳だ。長話の中日が傾くと、夜を待たずノゾミさんが顕れ、それらの話にダメ押
しを。

【そんな事迄話してしまって大丈夫ですか】
【陽子だけじゃなく凜にも話してしまうの】

 ノゾミさんの呆れた声はむしろ常識だろう。常の者ではない鬼が常識を口にするのも違
和感があるけど、羽藤さんは満面に笑みを湛え、

【陽子ちゃんとお凜さんは、大丈夫だから】
【そう言って頂けるのは、嬉しいですけど】

【もう聞かされちゃったんだから。別に覗き見たり盗み聞きした訳じゃなくて、はとちゃ
んの意思と了解の元で話して貰った訳だし】

【奈良さんは簡潔明瞭で羨ましいですわ…】

 存在を知られて不本意なノゾミさんを前に、わたくしはそれ程簡単に状況を呑み込めな
かった。鬼神を封じたオハシラ様や、鬼を斬る人々・鬼切部や、羽藤さんと柚明さんの贄
の血筋。信じる信じないの問題ではない。奈良さんもその辺は最初から素通りした様だけ
ど。

【陽子は単純すぎるのよ。私が経観塚ではけいの生命を脅かし、その血を啜り、それ迄に
も数多くの人の生命を奪ってもいる邪視使いの鬼だと分って尚、張り付いてくるなんて】

 ノゾミさんの指摘に誘われた様に奈良さんは、浮いた着物姿の現身に左手を伸ばして身
を巻き付かせ、困惑に身を捩るノゾミさんに、

【だって今はもうはとちゃんと仲良くなって、他の人も襲わなくなったんでしょう? ち
ょっとは血を吸うけど、はとちゃんの生命もあたしの生命も奪わなくなったんでしょ
う?】

 羽藤さんやノゾミさんの話した経緯を丸々信じて、ばたばた手を振って逃れようとする
ノゾミさんに、怖れも嫌悪もなく頬を寄せて、

【あたしのはとちゃんが信じた人だもの。はとちゃんの友はあたしの友。あたし達は何一
つ隠し事ない仲なの。身も心も一心同体、相思相愛なの。今回は期せずしてその絆が露わ
になったけど、信頼には応えないと。はとちゃんが受け容れた人はあたしも受け容れる】

 冗談に聞えるけど奈良さんは本気だった。
 本気になればなるほど冗談に聞えるけど。
 奈良さんも又別の意味でずば抜けていた。

【だから、あたしもノゾミちゃんを恐れたりしない。はとちゃんが恐れないノゾミちゃん
をあたしが恐れる必要も理由もないもの…】

 聞いた話では、ノゾミさんは霊体の鬼には破る事困難な言霊での約定を受け容れたから、
もう人に害を為す怖れは低いという。絶対と迄は行かないけど、余程の事情や強い想いが
ない限り、敢て破る類の物ではないと聞いた。

《私は桂の生命は奪わない。私は桂を守るわ。私は、桂と桂の大切な人と、自身を守る以
外に人に危害を加えない。……これで良くて》

 故にノゾミさんは奈良さんに反撃出来ず、

【離れなさいな。もう、この、陽子ったら】

 最後は細腕に似合わぬ鬼の腕力を、奈良さんを痛めない程度に揮って引き剥がし、苦手
を顔に表しつつ羽藤さんの後ろに浮いて退く。その気になれば簡単に引き剥がせた訳だけ
ど。

 ノゾミさんの肌触りがお気に入りになったのか、少し残念そうな顔を見せる奈良さんに、

【柚明お姉ちゃん以外で苦手そうな顔を見せるノゾミちゃんって、初めて見た】

【べ、別に苦手なんかじゃないわよ。ゆめいだって陽子だって。千参百も年下の娘に…】

 そこで話の向きを変えようと想って、ノゾミさんがわたくしに視線を向けて、

【……あなたの様に、怖れを感じるのがむしろ当然の反応よ。私は人の生き血を啜る鬼で、
実際多くの人を殺めてきたの。今は力の出し方を約定で制約されているけど、本当はあな
た達なんて私には餌なのよ。分っていて?】

【……感じますもの】【……お凜さん…?】

 今は羽藤さんと心通わせてその影響を受けて和らいだ感じを受けますけど、その本質は
鉄をも寸断する鋭いワイヤー、或いは細身の刃物。軽々しく触れる者は時に血を見ますわ。

 表向き温厚だったり静かな人が心に羅刹や夜叉を飼う事がある様に、ノゾミさんは内に
鬼を持っている。否、ノゾミさんには鬼が本分だ。羽藤さんに、好いた人の傍にいる為に
己を抑えても、本質は違う。それを分る故に、

【恐れられて結構よ。不快には思わないわ。私は鬼ですもの。それにあなた、私に感応の
力があると知って、怖れを隠さず出す方が言葉に信頼が宿ると分っている。賢いわね…】

 怪盗が探偵の推理を認めた様な笑みを見せ。

 安心しなくても信じなくても良い、聞いておきなさい。私はけいを好きだから、けいを
哀しませる事はしない。けいの大切な人である限り、あなたに害を為す気はないわ。但し。

【あなたがけいに害を為したり哀しませた時は、覚悟なさいな。陽子でも、ゆめいでも】

 私のたいせつな人を傷つける者は許さない。けいが望まなくても私がけいの涙に報復す
る。けいが止めても私がけいの痛みを叩き返すわ。

 一瞬苛烈さの兆した瞳からふっと力が抜け、

【それさえ犯さない限り、あなたの血は欲しない。あなたの生命は奪わない。まあ、けい
が居るから私の食事は間に合っているし…】

 今更普通の血なんて飲めた物じゃないから。

 一応緊張は抜けたけど、どう収拾して良いのか分らない場の雰囲気を、引き継いだのは、

【陽子ちゃんも桂ちゃんもお凜ちゃんも全て正解よ。ノゾミちゃんは、ノゾミちゃん…】

 柚明さんは、ノゾミさんが無害な鬼だ、安心してと諭す事はしなかった。わたくしの抱
く危惧と、羽藤さんや奈良さんが信じた絆を、ノゾミさんの両側面だと静かな声で肯定し
て、

【お凜ちゃんの心配が己のみへの物ではなく、桂ちゃんへの心配だという事も分るから
…】

 奈良さんが羽藤さんを信用する様に、羽藤さんがノゾミさんを信用する様に、わたくし
は完全に身も心も預けられない。それが羽藤さんへの信の薄さとするなら身の不徳だけど。

【お凜ちゃんは心から桂ちゃんを案じてくれている。その気持も分るから。だからね…】

 柚明さんはすっとわたくしに躙り寄ってきて間近に正対し、深い瞳でわたくしを見据え、

【……その心配を、拭ってあげる】

 ゆっくりと、真正面から、抱き留められた。

 最初は驚きに、次は恥じらいに言葉が出せず身が固まるわたくしに、柔らかな感触が重
なって。衣服を通じ温もりが流れ込んで来る。慈しみや愛しさが、確かに肌に伝わってき
て。

 柚明さんの両腕はわたくしの両腕の上から軽く身を抑えて背に回っている。滑らかな首
筋がわたくしの首筋と触れ合っている。左の頬が、柚明さんの左の頬に触れて妙に温かく。
病気の熱ではなく、赤ん坊の肌の様な温かさ。

【ユメイさん】【お姉ちゃん】【ゆめい…】

 声は当事者ではない故、微かに頬を染める程度で済んだ3人の口から。わたくしは余り
の急展開に顔中が耳朶まで赤くて声が出せず。為される侭、逆らう事も腕を柚明さんに回
す事も叶わない侭、人形の侭数分の抱擁を受け。

 唇を合わせた訳でもないのに、冷静さを褒められてきたわたくしの半生を打ち砕く様に、
胸の高鳴りと動悸が止まらない。考えるべき事が考えられず、想いも感覚も柔らかな肌触
りと温もりに馴染む侭、堂々巡りを繰り返し。

【はい、終り】【柚明さん、これは一体?】

 先を続けようとした時、何かに気付いた羽藤さんが電気を消した。柚明さんが笑みを浮
べたのは、羽藤さんの察しの良さに対してか。

【お凜、あんた身体が蒼く輝いちゃって!】

 仄かな燐光がわたくしの身を縁取って、薄ぼんやりと浮び上がっている。

【お姉ちゃんこれ、経観塚の旅館でわたしにしてくれた、ミカゲちゃん達が触れなくさせ
たおまじない。オハシラ様の……】【ええ】

 贄の血の力。修練でその血を使いこなすと、血の匂いを隠す以上に種々の効用がある様
だ。今それを使えるのは柚明さんだけ。羽藤さんは更に濃い血を宿すけど、修練がないら
しい。

 経観塚でノゾミさん達に襲われた羽藤さんを救い、彼女達を退けたおまじないだと言う。
輝きは徐々に消えるというか身体の内に引いていくけど、その暖かみは骨の髄に宿り続け。

【お凜ちゃんが霊体の鬼に危険を感じた時は、お凜ちゃんの意思で発動し身を守るわ。余
程強大な鬼でない限り、触れなくなる。肉の身体を持つ鬼や物理的な攻撃は防げないけど
…。
 桂ちゃんの時と違ってやや強く、身の内側に注いだから、使わず収めておく限り一月は
保つわ。使い続ければ、1時間が限界かしら。光の強い場所へ逃げ切る迄の繋ぎと考え
て】

 切れそうになった時必要なら又注ぐから。
 柚明さんはわたくしに守りの力をくれた。
 わたくしの心に残る一抹の不安に応えて。

 それは羽藤さんを案じる問の答でもあり。
 柚明さんがいる限り羽藤さんは大丈夫だ。
 そして柚明さんの守り故にわたくしも又。

 ノゾミさんがゼロに近い低い可能性で牙を剥いても、守りは万全にわたくし迄包み込む
と。羽藤さんがわたくしを信じ全ての事情を告げた様に、柚明さんはわたくしを案じその
特異な力を明かす怖れを踏み越えて、守りを。

【いきなりで驚かせちゃって、ご免なさい】
【有り難う、ございます。……柚明さん…】

 この肌触り、この温もり、この情愛。わたくしの微かな危惧も汲み取って。心の隅の不
安も受け止めて。人を襲う怖れの殆どない今のノゾミさんへの、むしろわたくしに根ざす
怯えも抱き留めて。お母様を亡くした羽藤さんの心の穴が、埋められた訳だ。覗く事も躊
躇われた哀しみと喪失感を、拭い去れた訳だ。

【別にノゾミちゃんが危険だから、お凜ちゃんに守りの蒼い力を注いだ訳ではないのよ】

 柚明さんの声はいつの間にか、ノゾミさんに向いていた。備えをされた事に抱く、ノゾ
ミさんの微かな不快迄も見抜いて柚明さんは、

【お凜ちゃんは、未だあなたと会ったばかり。人となりも分ってないわ。話しても短時間
で全部の理解は難しい。まして心に兆す不安は実体がなくても生じて残る。時間をかけて
築く関りもあるわ。備えは今暫くだけのもの】

 ね。理解してあげて、ノゾミちゃん。

 柚明さんは浮いたノゾミさんに手を伸ばし、抱き留めていた。こちらは守りを注ぐので
はなく、その想いを通わせる為に。ノゾミさんは頬を微かに染め、身を捩って逃れようと
…。

【わ、分ったわよ。凜が常の人で、鬼を怖がる位当然だから。私は凜の血とか生命は欲し
ないし、備えをされても不快でも何でもないから。良いから分ったから身を離しなさい】

 その後奈良さんが【はとちゃんがされた事ならあたしも経験しないと】と申し出たけど、
羽藤さんに【ダメ。絶対ダメ。もう誰にもお姉ちゃんはダメ】と拒まれて。羽藤さんは優
しすぎる柚明さんを守ろうと(?)自ら柚明さんに抱きついて、その苦笑いを招いていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 わたくし達の尾行は順調だ。柚明さんは背後を振り返りも迷いもせず、雲間に見え隠れ
する月の元で歩みを進め。やや距離を置いて、街灯も頼りない夜の住宅街を静かに追尾す
る。

 夜でも未だ帰宅途上の勤め人や塾帰りの学生も疎らに歩く頃合だ。知人に会って事情を
問われると拙い。事情の説明が難しい以上に、時間を取られると柚明さんを見失いかねな
い。

「柚明の足が止まったわ」「お巡りさん…」

 十字路で、柚明さんが自転車に乗った巡査に呼び止められていた。不審者徘徊に対応し
た巡回らしい。年若い娘が夜道を行く様を心配された様だ。言葉を交わしているけど、双
方穏やかで。注意を促され従っている感じか。

 最後に巡査が左手を挙げて自転車に乗ると、柚明さんが両手を膝の前に合わせ頭を下げ
て、

「こっちに来る……?」「えっ、えっぇっ」

 見つかるとわたくし達も注意される。問答の間に見失う怖れもあるし、揉めれば気付か
れる怖れも。ノゾミさんの邪視は今使えない。

「力を使えば、絶対ゆめいに気付かれるわ」
「どうしよう、どうしよう。お凜さん…?」

 取りあえず脇の道路に身を隠す位しか思いつかない。それで見つかったら打つ手はない。
危険ではないけど尾行の成就には大ピンチだ。と想っていたら、巡査の自転車は十字路を
左に折れて、別方向に行ってしまい。助かった。

「ふう……」「危なかったわ」「ですわね」

 冷や汗を拭うとすぐ尾行を再開する。徐々に夜も深まって、人影も減って来て。身を包
む秋の夜気も涼しさを過ぎ冷たくなってきた。

「結構歩いたよぉ。どこ迄行くのかなぁ…」

「それを探る為の尾行なのでしょう。全く」

「でも、結構な距離ですわ。もう5キロは来ています。ここ迄で半分に至ってなければ」

 修練のないわたくし達には、少しきつい。

「余り強く想わないで。ゆめいは唯でも私より感応に優れているの。勘も良いし、関知を
使われれば過去と未来から動きを悟られるわ。私も含む気配を付近住民に紛らわせたけ
ど」

 居ない事が前提だから、居るなんて想ってないから、隠れて尾行できる。そうでなくば。

 怪盗は名探偵の力量を推察できる物らしい。

「柚明さんは何故、羽藤さんを力で寝付かせてから、出掛けなかったのでしょうか…?」

 ふと気になったので口に出してみる。わたくしの推察が及ばなくても、3人寄れば文殊
の知恵だ。何かヒントが探れるかも知れない。

 柚明さんは昨夜、ノゾミさんに羽藤さんを寝付かせてと頼んだ。柚明さんはノゾミさん
より力量が上なのに、自ら為さず。柚明さんの側にそうせねばならない事情があったのか。

「羽藤さんが夜に柚明さんの不在に気付いたのも、彼女が力で寝付かせなかった為ですわ。
最初にそれを為しておけば、この一件は生じていません。柚明さんは羽藤さんに知られず、
心配かけず事を進められた。なのになぜ?」

「確かに、そうね」「うん、うんうん」

「でもそれを柚明さんは為さなかった。為せなかったのではないでしょうか? ノゾミさ
んにできる事を自らが為さないのは、出来ない事情があったと考える方が、自然ですわ」

 右手人差しの指第二関節を唇と顎の間の窪みに添え、その肘を左掌で支えるわたくしに、

「けいは気付いてないでしょうけどね……」

 ゆめいは夜に出歩いて帰った後、毎回相当力を失っていたわ。肉を持つ今の柚明は力を
使い切っても消える危険はないけど、あの消耗は尋常じゃない。肉を持つ柚明の力の消耗
はけいに見えない様だけど、私は感応で分る。

「鬼か鬼切部と戦ったかの様な疲弊よ」
「そんな……柚明お姉ちゃん、まさか」

 羽藤さんが眉を曇らせるのに、わたくしは出来るだけ状況を冷静に見るべきと語りかけ、

「柚明さんに、傷や出血はありましたか?」

 悪い想像ではなく、確かな事実から推測を積み上げる。良い物でも悪い物でも、事実に
立脚した物でなければ、心を乱すだけに終る。思いを巡らせるより、思考を促すわたくし
に、

「ないよ。なかったよ。痛そうな顔もしてなかったし、それに服も汚れてなかったし…」

「ゆめいがけいの前に傷ついた姿で現れる筈がないでしょう。そんな事にでもなればそれ
こそゆめいの手に負えない、最悪の事態よ」

 あの女は力で自身の傷を治せるの。余程の深手でも、今のゆめいなら致命傷でも治せて
しまうかも知れない。けいを心配させない為に、力を使い果しても傷を治して帰ってくる。

「柚明お姉ちゃんが傷を負って、その治しに力を消耗しているって事? それって…?」

「どっちでも似た様な話みたいね」「はい」

 癒しにせよ戦いにせよ、膨大な力を消耗する程に使う事態に、柚明さんは毎夜直面して
いる。それは、充分に憂慮すべき事態だろう。

「力の消耗は偶然ではありませんわ。それを予測できたから、柚明さんは羽藤さんを眠ら
せに力を使う事をしなかった。必要時はノゾミさんに頼んだ。力を温存して行きたかった。
羽藤さんを寝付かせる程度の力も惜しんで」

「それ程の強敵と、対峙しているって事?」

「ノゾミちゃ……!」

 想わず出そうになる羽藤さんの声を左右から2人で塞ぐ。流石にそれを出させては気付
かれる。否、既に心が乱高下するわたくし達は拙いのかも。それ以前にこの尾行は尚続け
るべきなのか。柚明さんが危険に挑んでいるなら、わたくし達もそれに近づいている事に。

「お姉ちゃんが斬りつけられちゃうよっ…」

 羽藤さんは例の不審者をイメージした様だ。敵と言っても実体が分らないので、身近な
脅威の情報に肉付けした感じで。ストッキングを頭から被り、やや低めな身長にがっしり
した体格で、年齢も若いと言うだけで不確かだ。

「幾らちょうちょ飛ばしても、力づくで突き抜けられたら、掴み掛る腕や刃は危ないよ」

 間近に迫られたら、烏月さんと違って維斗も持ってない。防ぐ術がないよ。斬りつけら
れちゃう。組み伏せられちゃう。どうしよう。

「落ち着きなさいな、けい」

 ゆめいは簡単にやられる様な女じゃないわ。あの女は今や私も殺し方が分らない存在な
の。

 ノゾミさんの叱声は羽藤さんではなく自身を落ち着かせる為の物だ。柚明さんが容易に
勝てない相手はノゾミさんも想定が難しい為、絶対あり得ないとも断言できない困惑が覗
く。

 そこに踏み込んだのはむしろ羽藤さんで、

「今のお姉ちゃんは、霊体になって逃げる事もできないんだよ。力を使えても間近で掴み
掛られたら、殴られたり首絞められて心を集中できなくされちゃったら、危険だよっ…」

「うっ」「確かに、それは一理ありますわ」

 柚明さんは特異な力を持つけど、相手も既にそれは知った筈だ。機能させないか無効化
する位は考える。羽藤さんが想像する様な相手なら、腕力で上回るなら、不意を突いて掴
み掛れば。組み敷かれたら、流石に抵抗は難しい。柚明さんもそれは想定すると想うけど。

 羽藤さんは常に己より柚明さんを心配する。己より人を気遣うのが羽藤家の気質なら、
柚明さんは羽藤さんを案じる故に、その身に危険を及ぼさぬ為に羽藤さんに何も告げず
に?

「……お姉ちゃんを、早く呼び戻さないと」
「そうと決まった訳では、ありませんわ…」

 再度出そうな羽藤さんの声を、再度左右から2人で塞ぐ。その身を左右から2人で抑え、

「……それでは、全ての説明が付きません」

 ふと少し遠くに、視線を感じた気がした。

 わたくし達を更に見る者がいる? まさか。今宵わたくし達が柚明さんを尾行できるの
は、柚明さんの出歩きを予め知っての事だ。わたくし達を今宵偶然見つけて尾行とは考え
難いし、今宵のこの行動を予め知る存在はいまい。

 後ろに首を振ってみる。疎らな街灯が照す住宅街は、家々の明りが窓から漏れる程度で、
人の姿も見えはしない。わたくしの勘違いか。わたくしの感覚は結構当たるけど所詮素人
だ。

 ここには鬼のノゾミさんがいる。ノゾミさんもわたくしに誘われた感じで後方を向いた
けど、顔色も変えずすぐ羽藤さんに向き直り。

 時刻は夜9時を回っていた。柚明さんはどんどん住宅街を先へと進む。わたくし達もそ
れを追いかけ、どんどん住宅街を奥へと進む。一瞬視界の端に蒼く淡い輝きを見た気がし
た。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「説明が付かないって、どういう事よ…?」

「柚明さんが消耗を強いられる程の強敵と毎夜戦っているというのは、理解できません」

 ノゾミさんの挑む視線と、羽藤さんの願いを込めた目線に左右から問われてわたくしは、

「ノゾミさんは、柚明さんが夜の出歩きを始めて今日で七日目と言いましたね」「ええ」

 六日かけて決着付かない戦いと言うのは。

「あり得ない話じゃないわ。鬼でも人でも」

 戦いは試合じゃない。制限時間なんてない。
 ゆめいは拾年戦い続けたし、主さまは千年。

「あなたの常識で図る事は難しいわよ、凜」

 ノゾミさんは鬼の実戦を知って言っている。
 わたくしは鬼の実戦を知らない。でも逆に。
 わたくしは柚明さんという人を見て知った。

「それ程の強敵が居るなら柚明さんが六日も放置する筈がありません。柚明さんなら…」

「放置って、相手が強くて手に負えなければ、決着付けたくても付けられないじゃない
の」

 ゆめいも日中は贄の血の力が減殺されるわ。夜に出て倒そうとしているけど倒しきれず
に、逆に追い縋るだけで精一杯なのかも知れない。肉を持ち贄の血の力を使える今の柚明
の力量は半端ではないけど、世間は上にも上がいる。

「ゆめいに消耗を強いる様な相手で私が考えられるのは、鬼切り役か観月の娘位だけど」

「烏月さんと……なんで、サクヤさんが?」

 どうやらそれは失言だったらしい。ノゾミさんが慌てて口を閉ざし会話が途切れるのに、

「柚明さんなら、そう言う人達を援軍に呼んでいるに違いないからです」「「あ……」」

 わたくしの挟んだ答に、2人の声が重なる。

「柚明さんが勝てない程の強敵に遭ったなら、必ず翌日以降勝てる策を加えます。味方を
増やすか敵を弱めるか、己を強化するか。その侭翌日に入る無策はしません。柚明さんに
倒せない強敵がこの町を、羽藤さんが住む町をうろつく事態を、捨て置く筈がないです
わ」

「助力も求められなかったし、誰かに来援を求めている様子も見なかったわね。確かに」

 でも、私はけいの青珠にいるからゆめいの動向を四六時中は分らないわ。ゆめいは日中
鬼切り頭とかに、連絡しているかも知れない。求めた応援がまだ来てないのかも知れない
わ。

「それでゆめいが今現在、1人で戦わなければならない状況にあると、考えられない?」

「考えられなくはありませんけど。ただ…」

 柚明さんはノゾミさんに何も告げていません。万一柚明さんが敵に討たれたり捕まる事
があれば、その脅威が町を自由に泳ぎ回る事になる。そんな状況を残す柚明さんではない。

「心配させない為にとけいには言わなくても、私には告げる筈よね。確かにその通りだ
わ」

「柚明さんが言った通り、羽藤さんの心配が必要ない事かも知れません。その可能性も」

「そうね。今もゆめいは気配を隠すとか、臨戦態勢の様子もない。唯歩いているだけよ」

 危険に近づくにしては余りに自然体。まあ、あの女は戦いに挑む時も直前迄自然体だけ
ど。

「ううっ、柚明お姉ちゃんが『わたしの心配が要る様な事ではないから』って言ったから、
鬼切りに忙しい烏月さんや、お仕事抱えたサクヤさんへの相談は、遠慮したんだけど…」

 お凜さんまで危険に巻き込んじゃったかも。
 ごめんね、お凜さん。

 わたくしに迄気遣いしてくれる羽藤さんの可愛らしい目線の潤みに、わたくしは静かに、

「今は前に進みましょう。ここでわたくしが1人退いてもはぐれた帰り道が危ないかも知
れません。むしろノゾミさんに守って頂きつつ一緒に進んで、柚明さんの為そうとしてい
る事を確かめるべき。ご一緒させて下さい」

 この同行を願い出たのはわたくしです。覚悟は今定めました、今宵は羽藤さんと最後迄。

「お凜さん、そんな、今即座に覚悟なんて」

 経観塚で何度もそれを為してきた羽藤さんが、わたくし程度の覚悟に驚くのも妙だけど。

「わたくしの家の関係者は、常にその決断を下せる準備を求められています。わたくしが
それを為せない様では、示しが付きません」

 ましてそれが羽藤さんに関る事であるなら。
 羽藤さんが尚も身を引く積りがないのなら。
 わたくしの寄り添いたい想いをその侭伝え。
 羽藤さんも柚明さんもわたくしの大切な方。
 そんなわたくしにノゾミさんは瞳を細めて、

「ふうん……良い覚悟じゃない。まあ、けいの次にあなたを守る約定はしたから、一緒に
いる限り力は尽くすわ」「お願い致します」

 夜歩きの終着点は、羽藤さんの宅から9キロ程歩いた先にある、大きくない神社だった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 神社は住宅街の外れの小高い丘の上にあり、林に左右を挟まれ暗い参道が上に伸びてい
る。日中は子供も遊ぶ草木の生い茂った処だけど、電灯もなく家々と隔絶した人気のない
神域は、

「ちょっと、不気味だね」「……ですわね」

 雲間に見え隠れしていた月迄が覆い隠され、暫くその照射を望めなくなって。心を覆う
不安の雲を拭おうと、互いに言葉を掛け合って。ノゾミさんと羽藤さんと共にいる事が心
強い。

 柚明さんは少し前、参道の闇に消えて行った。電灯もないのは常駐する人もいない為か。

「ゆめいは上に着いたみたい。上迄は石段で百五十弱って処ね。今の処戦いの様な強い力
の動きはないわ。他に気配もないし、ゆめいも平時と変らない。……行くんでしょう?」

 ノゾミさんが先頭に立って羽藤さんが続き、わたくしがしんがりを担う。一度、ふと後
ろに目線を向けたのだけど、住宅街はそろそろ家々の電灯も消え始め、街路に人影はなく
て。

 やはりわたくしの気の所為だろうか。ノゾミさんが何も言わず、対応もないという事は。

 先頭を行くノゾミさんが浮いた侭進むので、羽藤さんは足元の感覚が手探りになる。小
さな懐中電灯で足元を照すけど、上に向けると柚明さんに気付かれるので間近しか照せな
い。

 左右は樹齢百年を超えた程度の木々が茂り、雑草が腰程の高さ迄伸びて暗い。空は木々
の枝葉で遮られ、先行きは電灯の一つもない中、

「蒼い、輝き……?」「ゆめいの力の様ね」

 参道の4分の3に達する辺りから、行く手に蒼く淡い輝きが漏れて見え始め。電灯の輝
きではない。炎でもなく月明りでもなく、それは柚明さんが隠さず力を揮っている傍証…。

「柚明さん以外に気配を感じ取れますか?」

「少し離れた処に力の存在を感じるわ。ゆめいはそこに向けて、力を蝶に変えて揮ってい
る様ね。送っている。放っている。けど…」

 敵? でもノゾミさんは奇妙に惑う声で、

「その力もゆめいとほぼ同質なの。敵対の感じがないどころか、ゆめいがもう1人いるみ
たい。何か奇妙。ゆめいの蝶や青珠に感じる様な気配。ゆめい以外に気配を感じない…」

 もう少し石段を行くと、登り切った処が神社の境内なのか、少し開けて見通しが良くて。
その一角を蒼く彩る、美しい人の背が見えて。

「いらっしゃい、桂ちゃん。お凜ちゃんも」

 神社の奥の闇に向け、淡く輝く光の蝶を次々とその左腕を伸ばして飛ばせつつ、柚明さ
んは声をかけてくれた。幻想的な光景に、暫くわたくしも魂を抜かれて見とれていたけど。

 蒼い輝きは柚明さんの肌のみならず、身に纏う衣服からも溢れる様に滲んで周囲を照し、
柚明さんの周囲数メートルの地面を、空気を風を塗り替えていた。月明りはなかったけど、
ない故に一層周囲の闇との違いが浮き彫りで。柚明さんの周囲を、光の粒が舞い踊ってい
た。

 輝く蝶は、柚明さんの心と力を分けた分身(わけみ)で、周囲に満ちる光の粒の一部が
形を為して生き物の様にはためき、柚明さんの伸ばした左腕に促されて、前方の闇へ飛ぶ。

 敵はいなかった。居るは柚明さんとわたくし達だけ。柚明さんの蝶は戦いの為ではなく。

「危険はないから、こっちへいらっしゃい」

 気付くとわたくしの間近にも、羽藤さんとノゾミさんの間近にも一羽ずつ光の蝶が添い。
サイズはどれも、わたくしの掌を合わせた位。言葉も不要に柚明さんの意思が伝わって来
る。

 わたくし達は、柚明さんに守られていた。
 わたくし達は、柚明さんに悟られていた。

 柚明さんは、わたくし達に危険がないから今呼び招いた。わたくし達に危険がないから
尾行もされるに任せた。この場もここ迄にも柚明さんの守りがあり、危険はないと。わた
くし達の心配は杞憂だったらしい。良かった。

「……いつから、気付いていたのですか?」

 歩み寄って間近で話しかけるわたくしに、

「桂ちゃんが電話をくれた時から」「わ…」

 柚明さんの微笑みに、羽藤さんが唖然とした呟きを漏らす。それではわたくし達の今迄
の行動は、全て柚明さんの掌の上だった訳か。

「今晩で一区切り付くから、桂ちゃんも誘おうと想っていたのだけど、お凜ちゃんのお宅
に泊るって電話が掛って来たから」「あ…」

 何とも間の悪い。羽藤さんが待ち焦がれていた一区切りは今夜だったのか。柚明さんは
学校帰りの羽藤さんに話そうと考えていた…。

「今夜で仕上げる積りだったの。それに桂ちゃんが昨日の様子で、お凜ちゃんのお家に愉
しくお泊りに行けそうな感じではなかったし。夜の自由を確保して為す事と言えば、ね
…」

 柚明さんは神社の奥に手を伸ばしていた姿勢を解いて、わたくし達に向き直る。姿勢が
解けた為か光の蝶もそれ以上は出なくなったけど、身を包む幻想的な蒼い輝きはその侭で。

「ノゾミちゃんが居るから、滅多な事はないと想っていたけど。気付かれない様に導くの、
結構大変だったのよ。お巡りさんの進路を変えたり、蝶に舗装路面の下を進ませたり…」

「わたくし達が9キロ以上歩いてきて意外と程疲れてないのは、地面に癒しの力の蝶を」

 その上を歩く事で接触して癒しが我知らず流れ込む。同時に守られる。ノゾミさんも地
面に足を下ろせば気付いたに相違ないけど…。

「やられた……ゆめい、あなたっ!」

 力と言うより使い方で一枚上手か。

 次に柚明さんは、わたくしに柔らかな瞳を。

 お凜さんも一緒だったのね。ごめんなさい、うら若い乙女に危険な夜歩きさせて。そし
て、

「桂ちゃんに付き添ってくれて、有り難う」

 頭を下げられた。わたくしは、何もしてないのに。一緒に来ただけで、守りはノゾミさ
んにお願いしていたし、役に立ててないのに。

「寄せてくれた想いが嬉しいの。桂ちゃんだけではなく、わたし迄大切に想ってくれた」

 ノゾミちゃんも有り難う。桂ちゃんとお凜ちゃんを確かに守って導いて。嬉しかったわ。

「何よ、所詮あなたの掌の上じゃないのっ」

 緻密に気配を隠して出し抜いた筈が、全て逆を行かれてそれに気付きも出来なかったと、
少しむくれて横を向いてみせるノゾミさんに、

「そうじゃないわ。昨日はノゾミちゃんに助けて貰ったし。そのお陰で漸く完成したの」

「あ、そうそう。完成って、一体何を…?」

 柚明さんはここに何をしに来ていたのか。

 本題を想い出した羽藤さんの問に、ノゾミさんもわたくしも、柚明さんに視線で答を求
めたその時だった。神社の奥の闇から突如温かな風が顔に吹き付けて来て。甘い花の香り。
これは先日羽藤さんの家を訪れた時に感じた。ノゾミさんが組み直す前の柚明さんの想い
…。

「贄の血の匂いを隠す結界を張っていたの」

 風は止むけど、甘い香りと暖かみは微かに滞留して。感じる。それはわたくしの間近や
この神社の周囲のみではなく、もっと広くに。

「お凜ちゃんも桂ちゃんの身体を流れる血が、鬼に好まれ鬼を招く贄の血だという事は知
ったわね。ノゾミちゃんの宿る青珠が血の匂いを隠すお守りで、経観塚にはご神木を中心
に村を覆う規模で血の匂いを隠す結界がある事も。桂ちゃんのお母さんがアパート周辺に
呪符で結界を作った事も、わたしが繕ったそれをノゾミちゃんが補修して作り替えた事
も」

「……ゆめい、あなたまさか?」

 途中迄しか追えなかったけど、あなたが昨日行った方角はこっちではなかった。ゆめい
あなた近辺の神社に力を注いで結界の柱に…。

 ノゾミさんの驚愕も無理はない。柚明さんの所作の規模はノゾミさんの物を遙かに凌ぐ。
柚明さんが読み上げた七つの神社を繋ぐと、羽藤さん宅周辺を包む直径二十キロ強の歪な
円ができあがる。その広大な領域全部が、羽藤さんの贄の血の匂いを隠す結界だと。ノゾ
ミさんや羽藤さんのお母様がアパート周辺に巡らせた結界に類似した物で、町を包み込み。

「力の消耗は、戦いの所為ではなかったのね。それはすっかり寂れて力を失い俗に塗れた
神社を、結界を支える柱に為す為に、呪物に戻そうと力を流し込んだ結果だと。そう言
う」

「わたしの力は癒しも兼ねるから。衰微したご神体に力を注いで、神域の力を呼び戻し同
時にわたしが望む結界の一翼をお願いして」

 この広さを覆う結界の柱には、相応の力が要る。神域その物を結界の柱に。今の世では、
神社も朽ちたり俗に染まっているから、まずご神体を賦活させないと。でも管理する人が
いる建物に、日中入り込むのは無理があるし、遠隔でこの様に力を注ぐなら夜でなければ
と。

「経観塚の結界と違って人払いの効用はないし、害意を持つ鬼を弾く効果もない。唯贄の
血の匂いを紛らわせ、感じ取れなくするだけ。でも、これで桂ちゃんは青珠がなくてもこ
の町内で贄の血の匂いを悟られる心配がない」

 流れ出て青珠の守りを外れた贄の血も勘づかれない。贄の血は、身体の外に流れ出ると
乾く迄匂い続けるけど。病院で手術した時も調理実習で指を切った時も、大丈夫な様にと。

「完成する迄は秘密にしておきたかったの」

 喜んで欲しいのと、驚かせたかったのと。

「これがわたしからの誕生日のプレゼント」

 羽藤さんの瞳が見開かれた。柚明さんが今迄完成迄秘しておきたかったのは、そう言う。

「わたしは社会復帰の準備中で、生活費も入れられてない。わたしは今桂ちゃんに養って
貰っている。作って贈るにも、材料を買うお金さえ桂ちゃんのお金。今わたしが桂ちゃん
に形のある物を贈る事は、叶わない。だから、少しでも桂ちゃんの日々に役に立てる何か
を。
 完成が、少し遅くなってしまったけど…」

 似た言葉の連なりを少し前に聞いた気が。

「十七歳の誕生日、おめでとう。桂ちゃん」

 でもそれへの反応は微妙に異なっていて。

「心配、したんだからっ……!」

 羽藤さんは喜びよりも叱声の方が先に出て、柚明さんの胸に飛び込んで抱き留められつ
つ、密着した胸を自身の両手拳で軽く何度も叩き、

「お姉ちゃんが、不審者の刃に襲われているんじゃないか、鬼と戦って生命が危ういんじ
ゃないか、凄く凄く心配だったんだから…」

 不安で、怖くて、胸張り裂けそうで。お凜さんとノゾミちゃんに寄り添って貰わないと、
怯えを抑えられなかった。折角こうして取り戻せたのに、漸く一緒になれたのに、何も言
わずいなくなって、夜に1人取り残されると、経観塚のご神木のあの時を想い出しちゃ
う!

 この肌触りもこの暖かみもこの愛おしさも、幻じゃないって毎日毎夜証明してくれない
と。

「滑らかな手で髪を梳いてくれないと、素肌で抱き留めてくれないと、唇で触れてくれな
いと。全部疑わしく思えちゃう。全部錯覚に思えちゃう。この拾年の記憶が一瞬で崩れて
嘘と分った様に、柚明お姉ちゃんといる今が明日には崩れてなくなっていそうで、怖い」

 柚明お姉ちゃんはわたしの為に全部を抛つ人だから、何もかも捧げる人だから、いつも
一緒にいてくれないと、儚くて信用出来ない。尽くしてくれた事実がわたしを怯えさせる
の。

「お願い、居なくならないで。その為ならわたしどんな良い子にも悪い子にもなる。お姉
ちゃんを失わない為ならどんな事もするから。わたしの前から消えたり去ったりしない
で」

 わたくしやノゾミさんの前だと承知の上で、羽藤さんは号泣を叩き付ける。お母様を失
い、親戚も家族もない天涯孤独の底知れぬ喪失感を全て埋められる人を、漸く取り戻せた
羽藤さんには、その再度の喪失が真の恐怖だった。

 柚明さんの困惑は一瞬で、すぐ笑みを戻し、

「ごめんなさい、桂ちゃん。心配かけて…」

「あやまらないで!」

 羽藤さんは駄々っ子の如く、泣きやまない。

「柚明お姉ちゃんは、わたしに謝る様な事は決してしない人だから。謝る様な事しちゃ駄
目。わたしをこれ以上、心配させないで!」

 謝ってなんか欲しくない。柚明お姉ちゃんが謝ってくれるの、とってもとっても嬉しい
けど、何度でも謝って欲しいけど、でも謝る様な事にならないのが一番。日々平穏が一番。

 叱っているのか縋っているのか、両方か。

「わたしを、わたしをずっと放さないで…」

 心の奥からの生命の叫びは、例え他の誰が向けられても応えられない。受け止め得ない。
これ程に深く強く激しい愛を包み込めるのは、同じ位に深く強く確かな愛を尽くせる人の
み。

 それを為せる唯一の人は、羽藤さんの身体も柔らかな頬も、胸の内に招いてぴたと寄せ。

「桂ちゃん……有り難う、心配してくれて」

 羽藤さんを一番たいせつに想う柚明さんと、彼女を一番たいせつに想う羽藤さんの抱擁
は、号泣から嗚咽に変り、抱き留められて徐々に鎮まって。暫くは、見守る他に術もなか
った。

 空には漸く月明りが戻り始めたけど、温かすぎる2人を目の当たりにした所為だろうか、
通り抜ける秋風が少し涼しく身が寂しかった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「好い加減に離れなさいな、あなた達っ!」

 ノゾミさんはお邪魔虫と分って声を挟む。

 実際誰かが声を挟まないと、2人は朝迄この侭だった。明日は休みだから良いもんと羽
藤さんは言いそうだけど、ノゾミさんは柚明さんとの競合を意識しており、自重も限界で。

「ここで為すべき事が終えたなら、もう帰るわよ。凜も陽子も私も、あなた達の抱擁に朝
迄付き合わされるのは、真っ平ご免だわ…」

 結局私はこの数夜道化じゃない。折角組み直した結界は、ゆめいの結界の中で丸々無意
味で。あなたの誕生日ぷれぜんとは良いけど、私のぷれぜんとは不出来な役立たずになっ
た。

「そうじゃないわ、ノゾミちゃん……」

 柚明さんは、漸く落ち着いた羽藤さんが少し頬を染めつつ身を離す様を、見守りつつも、

「あなたが作ってくれた結界も、使わせて欲しいの。わたしが張り巡らせた広い結界の支
柱の一つとして。強く確かな想いだから…」

 あなたが桂ちゃんを想ってくれる心も生かしたい。その想いが織りなす力も生かしたい。

 ノゾミさんは浮いた目線から少し驚いて、

「良いわよ。それがけいの為になるなら…」

 それで私の結界も、けいの役に立つのなら。あなたの結界の支えになるのは不本意だけ
ど。

 ぷいと横を向きつつ了承するノゾミさんに、

「わたしとあなたの桂ちゃんの為の結界よ」
「……そう言う事に、しておいてあげるわ」

 ノゾミさんが不承不承という姿勢を見せつつ微かに嬉しそうなのは、自身の労作が無駄
にならない故で、羽藤さんの役に立てる故で。

 人馴れない猫の子の様なノゾミさんの表情を羽藤さんと2人で追いかけている内に、

「お凜ちゃんも、身体が冷えたでしょう…」

 柚明さんが間近にいて、気付くと同時に身が抱き留められていて。拒む意思は元から生
じなかったけど、少しの躊躇い迄呑み込まれ。身体を前から、背に腕を回され、軽く抱か
れ。

「わたくし、その、羽藤さんの目の前で…」

 嬉しかったけど。滑らかな肌触りも柔らかな腕も胴も、その想いも手放したくなかった
けど、間近にたった今迄抱き合っていた羽藤さんがいて、その視線が向いてきているのに、

「大丈夫よ。わたしの一番は桂ちゃんだけど、お凜ちゃんも特別にたいせつな人だから
…」

 桂ちゃんの為にここ迄夜道を共にきてくれた。身を冷やさせた。それはわたしが補いた
い。想いには想いで返したい。わたしは幸いあなたに返せる力を持つ。例え力がなくても
わたしはこうしてあなたを抱き留め温めたい。

「あなたは桂ちゃんのたいせつな人だもの」

 柚明さんは、羽藤さんの嫉妬や羨みを恐れないのか。或いはそれもその身と心で受け止
める積りなのか。わたくしは怖れと言うより、羽藤さんが心を乱される事を案じたのだけ
ど。

「羽藤さん、その、申し訳ありませんが…」

「……もう、柚明お姉ちゃんはっ」

 羽藤さんは染めた頬を少し膨らませつつも、ノゾミさんとわたくし達の抱擁を静かに眺
め。その声音も様子も落ち着いていて。柚明さんがいる事だけで、今の羽藤さんは充分ら
しい。柚明さんはそこ迄羽藤さんの心を分っている。

 肌を通じ衣服を通じ、癒しの力を流し込んで頂いて、身体がほかほかする心地良さを感
じつつ、ふと気付いた事がある。首を捻って、

「そう言えば、ノゾミさんさっき、奈良さんと言いましたかしら?」「ええ、言ったわ」

 あなたも、薄々感じては居たのでしょう。
 背後で草藪が、がさっと動いた音がする。

「あなた達を更に尾行する気配の存在を…」

 わたくしと共に驚いたのは羽藤さんだけだ。柚明さんもノゾミさんも既に分っていたの
か。何度かノゾミさんの様子を窺ってもそぶりもなかったので、わたくしは自身の感覚を
疑い。

「拾メートル後方の藪に潜んでいるわ。出るきっかけを失って、どうしようか困っている。
 風邪引きを無理して出てくるから、呼吸も乱れ気配も漏れ放題で見つけて下さいって状
態よ。話がややこしくなりそうだから、向うから割り込んでこない限り放置していたの」

「陽子ちゃん、どうやって今夜わたし達を」

 呟く羽藤さんにノゾミさんはやや冷淡に、

「きっと母親から聞いたのよ。けいがゆめいに携帯で泊ると告げた事を知って、自宅を抜
け出して、習い事に行く凜の後を付けたのね。陽子の気配を感じたのは夕食時以降だし
…」

 心配なのか嫉妬なのか、己が外された事に納得行かなかったのね。体調管理の失敗とそ
の性分が原因なのに。まあ、無理を押して来て目の前であの抱擁では、流石に少し可哀相。

 他人の不幸は蜜の味という冷笑気味な声に、

「可哀相に想ってくれるなら、あたしにもはとちゃんとユメイさんの愛をちょうだい!」

 藪から顔を覗かせたのは奈良さんだけど。

「ノゾミちゃんも、気付いていたみたいね」

「当たり前よ、凜やけいと一緒にしないで」

 浮いた現身で胸を反り返らせるノゾミさんの答に、柚明さんが平静な声音で更に続けて、

「陽子ちゃんの背後に隠れた、刃物を持って頭からストッキング被った男性の気配も?」

「「「「えっ?」」」」

 柚明さんを除き奈良さんも含む四つの驚きの声が上がった瞬間、奈良さんの背後の藪か
ら突如、6人目の人物が立ち上がって、その右手に月光に照り返される白刃を振り上げた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 男性は奈良さんの真後ろにいた。振り下ろせば刃はざっくり刺さっていた。振り返った
奈良さんが、驚きと恐怖に腰が抜けたお陰で、姿勢が低くなって、刃は僅かに遠のいたけ
ど。

「ひ、ひぃ、ひいぃぃいいぃ!」

 腰が抜けた奈良さんは動けない。男性は半歩踏み出し屈めば刃を刺せる。ストッキング
で隠した表情は読めないけど、害意は視えた。わたくし達が皆娘なので、頭数にも怯えな
い。

 助けの手は間に合わない。僅か拾メートルの隔りが、半歩で済む刃との開きが、わたく
し達には埋められない。否、例えその間に割って入れても、わたくしや羽藤さんでは何も。

「陽子ちゃん」「奈良さんっ」「陽子っ!」

 疾風の動きを見せたのはノゾミさんだった。

 わたくしと羽藤さんの叫び声に乗った如く、ノゾミさんは一息で十メートルの隔りの半
ばを詰めて、小さな右手を男性の顔に突きつけ、

「目障りだわ。大人しくして頂戴」

 赤い紐が伸びて男性の手首に、喉頸に肩に巻き付く。それがノゾミさんの力。奈良さん
を守りその刃を阻む意思を受け、紐は更に数を増し。腕振り上げた侭彼は動きを止められ。

「危ない処だったわ……害意が見えたもの」

 赤い紐を左手で軽く引き、弾力で確かにそれが男性の身体を拘束していると確かめつつ、

「先に気付いていたならあなたが陽子の身の安全を配慮しなければ、ってゆめいあなた」

 柚明さんは既に奈良さんを抱き留めていた。ノゾミさんの動きは辛うじて目で追えたけ
ど、

「柚明お姉ちゃん、どうやってあそこに?」

 柚明さんの動きはこの目に追えなかった。

 腰が抜けて立てない奈良さんを、座り込んでその上半身で寄り掛られる侭に受け止めて、
抱き留めて。その位置は、ノゾミさんの赤い紐が男性を止めなければ、代りに刃を受ける。

 左頬同士をぴたりと重ね耳に注ぐ囁きは、

「怖い想いをさせちゃって、ごめんなさい。
 身に害が及ばない様には、したのだけど」

 ノゾミさんが並ぶ位置迄来たわたくしに、

「刃持ちの男を分ってゆめいが、手を打たない筈がない。無駄に力を揮ってしまったわ」

 男性の周りを光の蝶が舞っていた。柚明さんが害意持つ脅威を知って捨て置く筈がない。
既に男性も柚明さんの蝶に付き添われていた。害意を実行に移す瞬間それは発動し、彼の
意識を現から引き離す。ノゾミさんが力を及ぼす前からその必要もなく、奈良さんは道中
常に安全だった。それはわたくし達も同じ事で。

 男性は心ここにあらず、立ちつくした侭だ。

「ゆ、ユメイさん……?」

「そして有り難う。桂ちゃんを、わたしを心配して、病を押してここ迄来てくれたんでし
ょう? 危険が潜むかも知れない夜に1人」

 柚明さんの受け止め方では、奈良さんの今宵の動きもそうなるのか。確かに羽藤さんが
気になって堪らなかったのは事実だろうけど。

「うっ、ひっ、あうぅっ、ユメイさん……」

 言葉への反応と言うより、瞬間でも感じた恐怖らの解放に、反動に、動転して思考が回
らず。流石の奈良さんも今は怖さから逃れたいと、生きた温もりに柔らかさに張り付いて。

「今回の事はわたしが原因だから。風邪引きのあなたを夜歩きさせたのも、結局わたし」

 心配させて、無理をさせて、怖がらせた。

「せめてその償いに、わたしの想いと力を」

 今のわたしは風邪位なら治す事も出来る。
 無理して疲れて冷えた身体を、癒させて。

 わたくし達の見る前で、奈良さんの背に回る柚明さんの締め付けが強くなる。柔らかな
身体がより緊密に重なって、温もりと想いが。

 蒼い輝きが滲み出す。癒しの力が注がれる。奈良さんの怖れも不安も抱き留めて。混乱
も動揺も受け止めて。そして返されるは温もりと癒しと愛おしさ。甘い花の香りが周囲に
も。

 秋なのに妙に頬を熱くする夜が更けて行く。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「ノゾミちゃんは聡くて良く気付く子だけど、時々ムラや見落しがあるから。自身を尾行
する陽子ちゃんの気配を察して全部分ったと想い込み、その背後や周囲迄見なかったの
ね」

 柚明さんが奈良さんに気付いたのは自宅を出る直前、羽藤さんがノゾミさんに抱きつい
た時だという。奈良さんはわたくし達を尾行してその様を遠目に見、強く憤り気付かれた。

 ノゾミさんはわたくしのみならず、奈良さんにも見せつけていた訳か。柚明さんに迄見
通されているとは、想わなかっただろうけど。

 男性の気配に気付いたのはわたくし達が参道に入る頃だと言う。奈良さんもわたくし達
から身を隠すのに執心で、周囲が見えなかったらしい。ノゾミさんの状況と少し似ている。

 柚明さんは男性に、自首する様に暗示をかけた。処置の甘さに不満そうなノゾミさんに、

「ノゾミちゃんが彼の首や腕を落さず、動きを止める程度に控えたのと同じ理由よ」

 柚明さんは人ならざる力の痕跡が残るのを嫌ったのか。派手に傷つけたり生命を奪うと、
けが人や骸の処理に困る。何より羽藤さんや奈良さんを怯えさせる。柚明さんは唯誰にも
優しいのではなく、徹底して羽藤さんとその大切な人に優しい。害意の存在を唯一察知し
て手を打てて、ノゾミさんの手加減の理由迄お見通しの柚明さんに、最早抗う者はいない。

 5人で帰るは羽藤さん宅だ。深夜に訪れて、かける迷惑と心配が最小の処を考えればや
はりここか。柚明さんは神社に向う途上、携帯電話で奈良さんのお母様に事情を伝えてい
た。

『急遽お凜さんもウチに泊る事に変りまして、奈良さんも一緒にお泊りをと、既にこちら
に。はい。体調も今はそう悪くない様ですが、ご心配でしたら、今からでもタクシーでお
送り致します。いえ、わたしは全く構いません』

 奈良さんのお母様は、タクシー使って迄帰宅させる事はないと泊りを容認した様だけど、
そこに柚明さんの力の影響はあったのか否か。

『陽子ちゃん、桂ちゃんともお凜ちゃんとも仲良しだから。一緒にお夜食頂くって。はい。
 お気遣いなく。明日は学校お休みですし』

 嘘はなかった。話に前後はあって、随分大胆に省略したけど、柚明さんが話した内容は、
今現実になりつつある。わたくしが羽藤さんのお宅に泊る予定変更も、奈良さんが一緒で、
その体調が柚明さんの力で既に悪くない事も。

 その上で柚明さんは、夜に歩くわたくし達の空腹を予期し、夜食も出る前に用意済みで。
ノゾミさんが柚明さんを信頼しつつも怖れる訳だ。ここ迄全て読み通されては羽藤さんも、

「柚明お姉ちゃん、さすがぁ」

 全くその兆しもない。無条件に身を預けきって。その可愛らしさが羨ましくも眩しくて。
何を読まれてもどこ迄見通されても、心の闇も含め何もかも柚明さんに差し出して晒すと。

 柚明さんの予測通りわたくし達はみんなでお夜食を頂く。5人でのお話は二度目だけど、
今宵は前回より話も盛り上がって。わたくしの度量試しの積りで隣に座ったノゾミさんが、
意外と箸を使えないと分ってわたくしが密着して『あーん』をさせ、お口にご飯を運び…。

 頬を染めるノゾミさんは想ったより可愛い。

 空腹が収まり、食事より喋りに力が入り始めた頃、柚明さんが洗い物をすると立つのに、

「私も今宵は夕刻から出続けていて、少し消耗しているの。もう青珠に戻らせて頂くわ」

 中盤から無口だったのは、不快ではなく疲れの故か。知らず知らず学校や友達等いつも
の3人の話題に花が咲いて、ノゾミさんや柚明さんが話から外れ掛っていたかも知れない。
言葉をかける暇もなく鬼の少女の姿が薄れる。

 お手伝いすると立ち上がる羽藤さんを、柚明さんは両腕で軽く抱き留めて、頬に頬寄せ、

「桂ちゃんは、お客様のおもてなしをお願い。わたしは洗い物を済ませたら奥にお布団敷
いて休むから、お友達との夜を、ね」「でも」

 柚明さんに家事を任せ自分だけ楽しむ様で、同年代の友達だけで盛り上がって除けてし
まう様で、惑う表情の羽藤さんやわたくし達に、

「わたしも今夜は少し疲れ気味だから、ごめんなさい。3人の夜を存分に楽しんで頂戴」

 羽藤さんが抱き留められ、撫でられ納得させられる様が自然に見える。柚明さんが去っ
てもぼうっと立ち続ける羽藤さんへの、奈良さんの冷やかしが、3人の宴の始りを告げた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 乙女達の宴も終えて静かに更ける丑三つ時。

 風邪治りたての奈良さんが疲れに沈み、憂いが消えた羽藤さんが安眠し。わたくしが眠
りが浅く、小用に目覚めたのは偶然だと想うけど。抑えた涙声が、柚明さんの寝床から…。

「……私の、たいせつな人を返してっ……」

 あなたは主さまとミカゲの仇よ。絶対忘れない。憶えてなさい。必ず恨みは晴らすから。

 嗚咽の主は、座った姿勢の柚明さんに懐かれて、その胸に顔を埋めるノゾミさんだった。
でもその内容は、2人に致命的な物であるにも関らず、柚明さんは静かに優しげにノゾミ
さんの悲嘆を受けて、身動きもせず愛おしみ。

 僅かにドアが開いていたのは故意か偶然か。ノゾミさんからは背後だ。正面に見下ろす
形の柚明さんは、その華奢な背に手を回しつつ、わたくしに向け右手人差し指を唇の前に
立て。

 ノゾミさんは、強すぎる感情の故に間近のわたくしに気付けなかったのか、知って知ら
ぬふりなのか、或いは柚明さんの所作なのか。それ以上首を突っ込まず、羽藤さん達の眠
る部屋に戻っても、寝付けずに目が冴えたわたくしを、十数分の後に柚明さんの静かな声
が、

「お凜ちゃん、未だ起きている?」「はい」

 行って良いのか応えるべきか悩みつつ、無視する事を躊躇い柚明さんの寝床を再訪する。
俯せに身を預ける泣き疲れた少女を、膝枕で撫でつけつつ柚明さんは、座したわたくしに、

「ごめんなさい。夜遅く起してしまって…」

 柚明さんは先程の姿勢の侭、座り込んだ侭。
 ノゾミさんはぴくりとも動かず意識がない。
 完全に信じ身を委ねたのか、疲労の故か…。

「でも、聞かれてしまったから。中途半端に引っ掛りを残してお凜ちゃんに不安を抱かせ
ても良くないわ。少しお話ししたかったし」

「わたくしは無理に事情を全て知ろうとは」

 聞かれて拙い事、話して拙い事を問い詰める気はない。求める事が誰かを傷つけるなら
敢て求めない選択もある。そんなわたくしに、

「桂ちゃんが信じて事情を明かしたあなただから、わたしも伝えたい。知って欲しいの」

 柚明さんはわたくしがノゾミさんの嗚咽を耳にする怖れを分って、眠らせはしなかった。
無意識や夢に力を及ぼし、記憶や印象の操作も出来る様だけど、それなら聴かせなければ
良い。むしろ柚明さんは、わたくしを深く…。

「ノゾミちゃんは、お凜ちゃん達が羨ましかったの。お友達という在り方が。桂ちゃんと
昼も夜も共に出来て、ノゾミちゃんの知らない今の世を一緒に過ごし話題を共に出来る」

 ノゾミちゃんには、桂ちゃんだけだから。

「その桂ちゃんを目の前に、ノゾミちゃんが昼に割り込めない学校や友達のお話を愉しそ
うにして、突っ込みを入れたり答を返したり、困ったり笑ったり少し怒ったり生き生き
と」

 桂ちゃんにはノゾミちゃん以外に陽子ちゃんやお凜ちゃんとの繋りもあって、幅が広い。
そしてお凜ちゃんや陽子ちゃんと笑い合う桂ちゃんの輪には、ノゾミちゃんは入り難くて。

「途中で青珠に戻ると言ったのは、やはり」

「ええ。わたしが行動で促したの。これ以上居ると羨ましさを巧く表現出来ないノゾミち
ゃんは桂ちゃんに当たってしまう。仲違いはお友達の常だけど、今宵は折角陽子ちゃんと
お凜ちゃんが泊りに来てくれた夜だから…」

 柚明さんも身を引くからノゾミさんもと。

 柚明さんはノゾミさんと違い欠落は拾年で、外見もわたくし達に近く、元々物静かでノ
ゾミさんよりも場に馴染んでいた。それを敢て。

「お凜ちゃん達が、悪い訳ではないのよ…」

 お凜ちゃん達が仲間外れにした訳ではない。未だ共に過ごした時が短いだけ。すぐ輪の
中央に入れないのは当たり前よ。今迄の積み重ねがあなた達にはある。ノゾミちゃんが今
から時をかけて、お友達になれば良い。でもね。

「今感じた苛立ちを今解消は出来ないから」

 呼んで出て来て貰ったの。わたしに想いを打ち明けて、叩き付けてと。はち切れそうな
想いはどこかで誰かが受け止めないと。特に、彼女の千年の友を奪ったのは、わたしだか
ら。

 ノゾミさんの背を撫でる視線が哀傷を帯びるのに、わたくしは言葉と想いを誘い出され、

「ミカゲさん、ですか?」「ええ、そう…」

 倒した敵の筈なのに、羽藤さんの生命を脅かし柚明さんを傷つけた敵なのに。その瞳に
は勝利感も憎悪も闘志の欠片もなく哀しげで。

「お凜ちゃんにとって陽子ちゃんや桂ちゃんの様な人。長久を共にし、苦楽を分ち、他者
に入り込めない繋りを持つ人。わたしがノゾミちゃんから奪った、彼女のたいせつな妹」

 ノゾミちゃんが桂ちゃんだけになったのは、わたしが主を封じ、その分霊を倒し、彼女
の千年の妹の息の根を止めたから。桂ちゃん以外の彼女の何もかもを、わたしが奪い去っ
た。

「因果応報。その責任は、取らないと……」
「待って下さい。因果応報というのならっ」

 わたくしは何に憤りを感じていたのだろう。

 冷静さを平常心を、求められ応えてきた積りの十数年が、この人の前では何と脆いのか。

「何もかもを奪ったのは、ノゾミさんとミカゲさんです。羽藤さんの生命を救い、大切に
想い想われたノゾミさんはともかく、最期迄敵方で、柚明さんや羽藤さんに害意を及ぼし
続けて討たれたミカゲさんへの想いとは…」

 それは受けた当人に言うべき事ではなかった。なかったけど沸騰する想いが止まらない。
羽藤さんの、柚明さんの幸せを拾年前に壊し、柚明さんが人の生も死も、人である事も捧
げて守った羽藤さんを尚脅かしたミカゲさんを。

 ノゾミさんが哀しむのは未だ分る。実は分りたくないけど、千年を共にすれば情も移る。
でも、その悲嘆を柚明さんが受け止めるのは。

「わたしがノゾミちゃんの妹を滅ぼしたのよ。その悲嘆や恨みを受けるには最適でしょ
う」

「ですけど、それで済まない様な事を柚明さんは為されました。その上で、尚羽藤さんの
生命も、ノゾミさん自身も脅かされたのに」

 羽藤さんを一番に想うなら、ミカゲさんを倒した柚明さんはノゾミさんの恩人だ。ノゾ
ミさんの生命の恩人でもある。今ここに羽藤さんと居られるのも、柚明さんのお陰なのに。

 理が通らない。どう考えてもノゾミさんの涙と悲嘆は、柚明さんに向けるべき物ではな
い。柚明さんにだけは向けてはいけない物だ。なら柚明さんの恨みもノゾミさんに返せる
筈。でも柚明さんは何も返さず、ノゾミさんの嗚咽を受けて抱き留め、愛おしんで。どう
して。

「ミカゲさんは討たれるべくして討たれました。戦いを選ぶ以上勝敗は付き纏う物です」

 恨みは柚明さんにもあった。柚明さんは羽藤さんを守るのに必死だった。他に選択はな
かった。わたくしはその場に居なかったけど、柚明さんと言う人を見て知った。柚明さん
の優しさは尋常ではない。さっきもあの不審者に結局制裁もなく、暗示で自首させて終ら
せ。その柚明さんが、滅ぼす結論を導いたのなら。

 この問は柚明さんの辛い過去を掘り起す愚行かも。柚明さんが最も大切に想う羽藤さん
の辛い喪失を想い返させる事になる。わたくしが言い募る事ではない。軽々しく口の端に
上らせる事が冒涜になる程の痛みと哀しみに、

「それは理由に過ぎないの、お凜ちゃん…」

 違う。柚明さんの今の哀しみは、自身のそれではなく、ノゾミさんの嗚咽に共鳴しての。
あくまでも己のではなく、目の前の他者への。

 声は静かに、わたしの胸の焦慮を冷まして、

「幾つ理由を並べられても、それに必須な事情があっても、失って感じる寂しさは別物」

 絶対に和解できない敵であっても。天地終る迄身を削り合う関係であっても。一番の人
を守る為に、共に天を戴かざる者であっても。最期の最期迄滅ぼし合う他に、術がなくて
も。

「たいせつな人は、たいせつな人。違う?」

 答が……答が、返せなかった。

「一番に出来なくても、その人をたいせつに想う事は出来る。決して譲れなくても、何一
つ力になる事も出来ず苛み合う関係でしかなくても、たいせつに想う事は出来る。想う他
に何もできない哀しい繋りかも知れないけど。
 わたしは桂ちゃんを守る為に、そうせざるを得なかった。一番たいせつな人を守る為に、
それ以外は時に切り捨てなければならない」

 心を鬼に変えても、自身を誰かを踏み躙っても、心を剥がす痛みや哀しみを承知の上で、
為さなければならない時はあるの。

 漸く気付けた。その静かな双眸は、深い哀しみを超え、更に深く強い意志を紡いでいる。
哀しみを生む事を承知で罪を被る事を覚悟で。わたしの想いの限界を彼女は突き抜けてい
た。

「例え覚悟は出来てもそれは辛く哀しい物よ。その痛みも哀しみも、彼女の本当の心だか
ら。踏み越えた後で悔いや寂しさに肩を震わせるのも、確かにノゾミちゃんの想いだから
…」

 ノゾミちゃんは千年主を慕い続け、ミカゲを妹と信じて、確かにたいせつに想ってきた。
たいせつな人の死を悼む事は間違いじゃない。その死を哀しむ事は過ちじゃない。そして
その死を招いた者に抱く恨みも憎悪も、正答よ。

 どんな理由があっても、どんな事情があっても、大切なひとを奪った者に憎悪や恨みが
生じない筈がない。わたしがそれを分るから。わたしがこの身で痛い程に、分っているか
ら。

「だからその哀しみも受け止められる。その涙も嗚咽も、叩き付けたい程の恨みをも…」

 わたくしは、何に苛立っていたのだろう?

「では柚明さんの哀しみは、誰が受け止めるのですか? 一番辛い想いを重ね、誰より大
きな犠牲を払い、最も幸の薄かった柚明さんの涙や嗚咽は、嘆きや恨みは、一体誰に?」

 柚明さんが尋常ならざる優しさでノゾミさんを大切に想い受け止めるのは良い。ノゾミ
さんがミカゲさんを想う寂しさ迄受け止めるのも、得心行かないけど了解しよう。でも!

 柚明さんの哀しみや痛みは、苦しみや嘆きは、一体誰に癒され受け止められる? 苛立
ちはその報われなさだった。何もかも受け止めた柚明さんの哀しみは、一体誰が拭うのか。

 血管に荒れ狂う悔しさは、柚明さんが何も求めないから。羽藤さんの感謝や愛さえ柚明
さんには望外の幸せで、望みも促しもしていない。羽藤さんの従姉のこの人は、どこ迄!

 詰め寄るわたくしの両手を温かに握って、

「お凜ちゃん、わたしの為に涙してくれているのね。有り難う。そして、ごめんなさい」

 言われる迄気付かなかった。こんなに心が激しているなんて。熱い雫が頬を伝うなんて。
喉が詰まって声が出せないなんて。わたくしはそれに向き合う本人を前に、なんて非礼を。

「お凜ちゃんを涙させる為にお話をした訳ではなかったのに。お凜ちゃん、冷静さを装っ
ていても心はこの上なく熱くて優しいから」

 ノゾミさんの膝枕の反対側から、抱き留められる。この胸と膝に身も心も預けたノゾミ
さんの気持にだけ同意出来た。宿敵でも仇敵でも、この柔らかさと温かさは突き放せない。
この身が宿す無尽蔵の優しさは拒み通せない。

「わたしは、何度もこうして涙を受け止められてきたの。無知で未熟で、己の犯した過ち
で多くの人を哀しませてきたわたしが、こうして何度も抱き留められてきた。だから…」

 わたしもそうありたいと想う。例え誰に因があろうとも、当人が招いた過失でも、それ
がわたしや誰かを哀しませ心痛めても、たいせつな人の哀しみや痛みなら、受け止めたい。

 理も非もない。柚明さんにあるのは想いだけだ。全部弁えて尚、柚明さんは想いを紡ぐ。
それが柚明さんの生き方で、在り方なのだと。この人の傍で暮らす羽藤さんが心底羨まし
い。

「ノゾミちゃんは今、桂ちゃんの為に役立ちたいと望んでいるわ。桂ちゃんだけではなく、
桂ちゃんが大切に想う人の為にも。お凜ちゃんの守りも承けて、誰に言われずとも陽子ち
ゃんを守りに出た。桂ちゃんの大切な人をノゾミちゃんも大切に想い、守り助け支えたく
望んでいる。絆を繋ぐ事を心から望んでいる。
 その想いを、受け容れて欲しいの。ノゾミちゃんには今桂ちゃんしか居ない。でも、お
凜ちゃんと陽子ちゃんがお友達になってくれれば。わたしにはお願いしかできないけど」

 その気になれば印象の操作もできるのに。
 柚明さんは力で人の心を操る積りはない。
 互いの織りなす想いを信じて、身を委ね。
 望まぬ結果さえ受け止める用意があると。
 答は出終っていた。彼女の求めなら答は。

「柚明さん……わたくしはあなたの願いにだから、応えます。あなたの持つ底なしの優し
さと強さと美しさを、愛してしまいました」

 様々な諸々を全て承知で踏みしめて受ける、柚明さんの強さには到底及ばないけど。失
った大切な者を悼み、それを奪った者への憎悪や恨みも忘れず、尚今大切な者の為に身を
尽くせる。そんな羽藤さんや柚明さんの想いの深さに一端でも触れ、心揺り動かされたか
ら。

「わたくしも、心の底からそうありたいと」

 柚明さんの柔らかな胸の内に頬を沈める。
 わたくしの紡げる限りの愛しさを伝える。

 甘い花の香りと肌の温かさが、心地良い。
 静かに返されるは、穏やかで確かな情愛。

 今は唯この愛しさにのみ身を委ね心を任せ。
 羽藤さん、今宵だけは、ごめんなさいませ。


「柚明の章・後日譚」へ戻る

「アカイイト・柚明の章」へ戻る

トップに戻る