偶には鬼も鬼の居ぬ間に洗濯を


 鬼切り役と陽子が引き上げ、けいの住処が静謐を取り戻したのは、日付も変る頃だった。
けいは客間の座布団やテーブルを片付け、私は汚れた皿やコップを現身で浮いて台所へ運
ぶ。台所のゆめいは手渡したそれを前に、一旦作業の手を止めて、私の瞳を奥迄見つめて、

「有り難う、ノゾミちゃん」「……」

 応える言葉を探せなくて、私は黙し俯いた。

 日常素直に礼を言われる生活に慣れてない私は、感応の力を持つ鬼である私は、瞳に宿
るゆめいの感謝の思いが分る故に恥ずかしい。けいもそうだけど、この時代を生きる人間
は、みんな日々の細々した事で何かして貰う度に、一々相手に確かに礼を述べているのだ
ろうか。

「これで最後よ」「そう……」

 ぷらすちっくのたらいに溜めた湯に食器を浸し、泡立てたすぽんじで撫でると、飲物の
色や口紅の痕が消え、器は透明さを取り戻す。その様とそれを導くゆめいの滑らかな手つ
きが魔法の様で、私はついその様子を凝視して、

「ノゾミちゃん?」「な、何でもないわ…」

 ゆめいに不思議そうな視線を向けられる。

 経観塚を訪れたけいの血と生命を狙った鬼の私が、けいの青珠に取り憑いて経観塚から
遠く離れたけいの住処にきて、数十日過ぎた。経観塚で主さまの封印を巡って敵対し、け
いの血と生命を奪おうとした私とミカゲを阻み、生命のやり取りをしたゆめい迄共に同居
して。

 今は私もけいの生命を欲しないし、ゆめいとも和解して、この状況で数十日が経つから、
違和感は薄れているけれど。未だにゆめいに『ノゾミちゃん』と呼ばれるのがこそばゆい。
これも元々けいの所為だ。千年を生きたこの私に、経観塚で生命を脅かしたこの私に、当
初からノゾミちゃんと呼びかけたけいが悪い。

 経観塚では拾年前に出会った時から敵対関係で、けいを巡って対立し、私がけいに絆さ
れて和解した後も、簡単にはそれ迄の経緯は流し去れず、ゆめいも私を呼び捨てだった…。

 否、同じ呼び捨てでも込める想いの違いは見えたから、本当は呼び捨てで構わなかった。
ゆめいは私に呼び捨てを止めろと求めてない。唯私は、青珠に宿った為に、けいと四六時
中を共に出来る一番近い位置取りを独占できた。

 鬼切り頭より鬼切り役より、観月の娘より遙かに間近で、けいの日々を寄り添い見守る
立場になれた。その独占を、ゆめいの同居に崩されて少し癪に思ったのが、本当の本音だ。

 ゆめいがハシラの継ぎ手をけいの兄に、半ば奪われた末に人の身を取り戻し、けいの住
処に同居するとなった時。私も既にゆめいとは和解していたから、それは受け容れたけど。

『私は千数百歳は年上なのよ。呼び捨てはやめにして頂けない? 四六時中一緒にいるの
に、年下に呼び捨てにされるのは不愉快よ』

『……そう?』

 ええ。少し考え込む様子のゆめいの正座姿に、私は浮いた現身で上から目線で畳み掛け、

『大体あなた、年上どころか年下に迄敬称を付けているじゃない。けいにも鬼切り頭にも、
この前は陽子も呼び捨てしてなかったわ…』

『確かに、そうだよね。葛ちゃんとか、陽子ちゃんとか。わたしは、桂ちゃんだものね』

 けいの援護射撃が、今の結果をもたらした。
 前段の、私の求め方が拙かった訳ではない。

『ほら、ご覧なさい。貴女が私だけ呼び捨てるのは不公平と、けいも認めているのよっ』

 尚私だけを、呼び捨てし続ける積りなのっ。
 追い詰めたと思えた。勝利は目前に見えた。
 まさかゆめいがあんな答を返して来るとは。

『……じゃあ、ノゾミちゃん♪』

 満面の笑みと共に出された言葉の連なりに、心臓を杭で貫かれた吸血鬼の気分で私が沈
黙した数秒間で、事もあろうにけいはその呼称に大賛成し、そうしようと勝手にゆめいの
両手を両手にとって、私を抜きに決めてしまい。

『桂ちゃんと、同じ呼び方にしてみたの…』

『柚明お姉ちゃんが口にすると響きが綺麗』

『そう言って貰えると嬉しいわ。でも、桂ちゃんが【ノゾミちゃん】と呼びかける時の可
愛らしさには、敵わないわね……』

 私の承諾を抜きにどんどん話を進めるし。
 後から振り返れば並べた事例が悪かった。

 年上の私は年下の事例ではなく、観月の娘等に触れるべきだった。呼ばせ方を考慮して
なかった。考えれば年下でもゆめいは鬼切り役をけいに倣って烏月さんと呼んでいたのに。

 最近てれびで見た『ぶるーが入る』という異国言葉は、こういう状況を指すのだろうか。

『ノゾミちゃんも、それで良いよね……?』

 けいに問いかけられたのは、従姉妹同士で散々盛り上がって話を楽しんだ末の確認の様
な物で、呼び捨てだけを強く拒んだ私に敬称の種類の選択権は実質なくて。まあ、実際私
もそれをあくまで拒む積りは、なかったけど。

 敬称の中身より私は、ゆめいの同居でけいの独占を失って、何か引っ掛っておきたかっ
た気分の発散だから。ゆめいは嫌いではない。憎み憎まれた経緯はお互いあるけど、拭え
ない過去だけど、今はけいを大切に想う同士だ。味方として受け容れるとゆめいはかなり
献身的だ。けいにのみならず、周囲の他の者に迄。

 ハシラの継ぎ手として先代とも感応済みで、太古からの積み重ねと今の知識を併せ持つ
為、今に疎い私に適切な答を返せる。現代しか知らないけいに答え難い問も、ゆめいにな
ら…。

「奴僕の仕事を好んで為す貴女の心を知りたくなったの。貴女、祭りは途絶えていたけど、
ご神木に宿るハシラの継ぎ手で、祈られ崇められる立場だったのよ。格で言えば神なのに、
自らの手で人の使った器を洗うなんて……」

「今は人に戻ってしまっているし」

 ゆめいにとって身分とは、任じられれば就き、解かれれば戻る物である様だ。大抵の人
には身分とは、一度上昇したら後戻りの効かない物なのに。一度向上した生活や気位や言
葉遣いが元に戻る事なんて、聞いたためしがない。生贄になって後人に戻された希有な立
場のゆめいに、常識は通用させられないけど。

「現代の羽藤家は、下男や女中を抱えてお姫様暮し出来る程裕福ではないから。それに」

 わたしはこれを、喜んで為しているのよ。

「桂ちゃんや、桂ちゃんの大切な人の役に立った器を綺麗にする。綺麗にして、また桂ち
ゃんや桂ちゃんの大切な人の役に立てる様にする。わたしがその為に役立てる。それは」

 とても嬉しい事ではなくて?

「人にやらせ任せるのではなく、自身の手で出来る。それは、わたしの喜びでもあるの」

 次々と皿やコップをお湯で流して並べゆく。

「それも、一つ間違えば桂ちゃんを涙させたり不安に陥れる様な戦いではなく、柔らかな
笑みを作り出せる日常で役に立てる事が…」

 日常一番役立てている現状が、平穏無事を表して良いとゆめいは言う。確かにその通り
だろうけど。守る立場としては望ましいけど。唯、鬼の力を揮ってけいを救う必要も薄れ
て久しい近況は、活躍の場がなくて少し残念…。

 けいが本当に困り脅かされないと、私に出番は来ない。鬼の私が出なければならない程
の危険は、けいの住むこの町には少ない様だ。私は、けいの役に立って頼って貰いたいの
に。抱き支え、守ってけいに喜んで欲しいのに…。

 同じ様に鬼の力を使えるゆめいが、積極的に力をけいの前で揮って役立とうと望んでな
い事は、私には少し不思議だった。出し惜しんでいる訳ではない事は、私にも分ったけど。

 ゆめいはどうやら、けいの目の前で役に立つ事だけが守りではないと思っているらしい。
役に立てた事を知って欲しいとも思ってない。守った事実も支えた過去も助けた結果も、
何一つけいに知られなくても、役立てた自身に満足できる。行いに、褒賞も賛美も感謝の
心も求めない。究極の自己満足と言えるだろう。

 唯、私はそこで少し違う。異なっていた。

 私はけいに応えて欲しい。問うて応えるやり取りの中でけいを想う気持を表したいから。
伝えたいから。分って欲しいから。だから今日のけいの応対には、正直不満が募っていた。
それはさっき迄共にいた陽子も同じだと思う。

「桂ちゃんに、言いづらい想いがある様ね」

 ゆめいの近くに浮く事も、珍しくないけど。夜であれば家庭の電灯程度なら、今の私は
二、三時間現身を取っても消滅の心配はないけど。ゆめいは語調や仕草や気配の類で、特
段感応や関知を発動させなくても、気付く事がある。私も気付かれなければ、喋り出す積
りだった。

「あなたは、けいが鬼切り役とらぶらぶでも、全然気にしないのね。陽子はけいと鬼切り
役の目の前で、悔しがって抗議していたけど」

 流され続けても陽子は自己主張をし続けた。
 私も今宵はそれに同調気味だったのだけど。

「2人仲良く、親交を深め合っていたわね」

 作業を進めつつ、浮ぶのは心底嬉しそうな笑みだ。けいの喜びをその侭己の喜びにして。
余裕なのだろうか。そんなゆめいも少し癪だ。どうしてこんな安穏な顔が出来るか分らな
い。

 傍であれだけ親密な様を見せつけられれば、けいを大切に想う者なら、苛立ちを感じて
当然だ。それを訴え分って貰おうとして当然だ。陽子や私の様に過剰に自己の存在を主張
してでも注意を目線を惹こうと試みるのが当然だ。

 けいを取られると、けいが鬼切り役のみ向いてこっちを見向きもしなくなるとの心配を、
抱かないのか。けいが鬼切り役に惚れ込んで深く踏み込むのを喜ぶ如く。心中が分らない。

「共通の敵を前にしたからよ。けいが私達の傍にいながら殆ど私達を見ず、鬼切り役にべ
ったりなのだもの。瞳も意識も言葉の殆ども『烏月さぁん』に向いた侭で。陽子のぼやき
はあの状況でなければ、私が黙らせたい程にうるさかったけど、それも気にせずけいは鬼
切り役と2人の世界に最後迄浸りきって…」

 今から数時間前、陽子との学校の帰り途で、けいは鬼切り役からの携帯電話を受け、そ
こで振り返れば奴がいた。青珠に守りの力を込める為に訪ねても良いという話を、経観塚
にいた時にけいにしていたらしい。真昼は現身で顕れられない私は、鬼切り役の左腕に両
手を回して引っ張るけいと、それにオマケ扱いかと憤慨しつつ尚離れられない陽子を含め
た成り行きを、夕刻迄は唯見守る他に術もなく。

 夕食を、けいの住処で取る事になったのは、夕刻以降でも確かな現身で顕れるのはやや
問題がある私を思いやっての事ではなく、鬼切り役がゆめいにも逢いたいと言った末の話
だ。

 青珠に四六時中宿る私の存在など、考慮もしてない。陽子もほぼ同じ扱いで、憤慨を表
しても流され続け、尚先に帰る事は選ばずに。鬼切り役も、視野の真ん中に常にけいを収
め、私も陽子も隅にいる事を確認される程だった。

『確かに約束した訳でもないのに、わざわざ青珠に守りの力を注ぎに来てくれるなんて』

『あなたも好い加減気付きなさいな。あなたの間近にはゆめいがいて私もいるのよ。青珠
に力を入れるなんて、口実に過ぎないのに』

 私は思いきりけいと陽子の目の前で、鬼切り役の動機の不純を指摘してやったのだけど。

『えぇっ! じゃ烏月さん、わたしに逢ってくれる為にわざわざここ迄足を運んで…?』

『口にするのは恥ずかしくてね。早く言うべきだった。ノゾミの言う通り、私は桂さんに
逢いにここに来た。桂さんと柚明さんと…』

『烏月さぁん♪』

 私の直言がけいを感激させ鬼切り役に取り縋らせるきっかけになる。逆効果も良い処だ。
陽子がけいの反対隣で放置されて、むきーっと上げる叫び声が、我が身の想いに重なった。

『わたし、烏月さんの為にお夕飯作るっ!』

 けいは時々ゆめいに料理を手伝いつつ習っていたけど、その腕前はかなり不安定で成功
と失敗の落差が大きく、そのどちらでも見た限り確実にゆめいの作業が何割か増していた。
それもゆめいが主を担い、けいが従を担う場合だ。鬼切り役に料理を作りたいと、けいは
今日はその主を担いたいとゆめいに願い出て。

 ゆめいが主を担う時はゆめいが4の作業に、けいが1の作業だったけど。今宵はけいが
3でゆめいが7の感じだった。全体の作業量は増えている。それでもゆめいは、けいのも
てなす心を支え付き合って、台所で楽しそうに。

 結果、私と陽子と鬼切り役が一緒に居間で待ち時間を過ごす。これも珍奇な構図だった。
私は鬼切り役ともゆめいとの和解に引き続き、当面の信は得た様で、斬られる怖れはなく
なっていた。でも決して仲良しになれた訳ではない上に、陽子が同席し事情に首を突っ込
む。

 この陽子も奇特な娘だった。一般人なのに反応が一般人とは思えない。けいは陽子にゆ
めいや私や鬼切り役の経観塚での展開をほぼ隠さず話していた様だ。それは私達にとって
以上に、贄の血筋であるけいに危険な情報開示だったのに。危惧を述べる私にけいは一言、

『陽子ちゃんだから、大丈夫だよ』

 ゆめいもその返事に頷き陽子を受け容れた。これも私は衝撃だった。この時は陽子への
けいの全幅の信が羨ましかった。それを羨まず悔しがりもせず、けいに同調し微笑むゆめ
いに苛立った。どうしてゆめいは他人に向くけいの笑顔や視線や信頼に、焦り羨まないの
か。

『陽子ちゃんとお凜さんは、大丈夫だから』

 どういう判断基準か分らないけど、けいは自身の感覚に全幅の信を置いている。そして
ゆめいはけいのその根拠も不確かな言葉を受容して、人ではなかった拾年を経た自身を隠
さず陽子に接し。私が陽子から姿を隠さないのもそれを前にして馬鹿馬鹿しくなった為だ。
確かにその反応は一般とは異なっていたけど、

『わ、かわいー! はとちゃんの生命と血を狙っていた鬼って、こんなかわいー子だった
んだぁ。はとちゃんが生命狙われてもちゃん付けだったの分るよぉ。ああ、あたしが陽子、
ならよーこ。はとちゃんの愛の伝道師よっ』

 初対面でいきなり抱きつかれ頬ずりされて、私は困惑に身が固まった。今の世でもそこ
迄肌を合わせる挨拶は珍しい様だけど、私は陽子の勢いに呑み込まれ、一気にお友達にさ
れ。

 けいの夏休みの終盤、泊りに来てけいと並んで眠りに就いた陽子の心に、私は鬼の力で
探りを入れてみた。陽子は本当にけいの話を全て受け容れ、それで尚善意な友として何の
怖れも思惑もなく私に接する積りでいるのか。

 けいの生命を脅かした経観塚での経緯を知っても尚、警戒もなく楽しげに私の肩を叩き、
現代の食物を勧め、時事ネタを私に伝授して、一緒に時を過ごす事を望んでいるのだろう
か。私がけいの側にいる事を、自称けいの親友は、許して全く問題ないと思っているのだ
ろうか。

 そしてけいを贄の血筋と知った今も、そうと知らなかった頃からけいに抱いた想いの侭、
贄の血のもたらす禍や膨大な力や、それを望む者達からの誘いに目を眩まされず、心許せ
る友であり続けられるだろうか。私が逆にけいの為に彼女を排除する必要はないだろうか。

 私の赤い力は夢に介入出来る。夢に入り込んで無意識に囁き、誘導して心を閉ざしたり
ねじ曲げたりも出来る。憶えた事を忘れさせ、聞いてもいない事を聞いたとも思わせられ
る。勿論私の力にも限度はあるし、一日や二日の記憶を封じても、それに連なる三日前四
日前の記憶が残っていれば、芋づる式に記憶を戻してしまう事はある。万能とは行かない
けど。

【陽子の記憶を閉ざすなら、今の内よね…】

 陽子がけいから経観塚の話を聞いてまだ一月経ってない。私と会った回数も、けいと経
観塚の話題を交わした回数も、そう多くない。今なら私の力でそれらを夢幻に思いこませ
る事は可能だった。逆にこれ以降私と陽子の関りが増えていけば、消すべき記憶が多すぎ
て力が及ばなくなる。消失した記憶に陽子自身が気付いてしまう。取り戻しに掛ってしま
う。気付かれぬ様に細工を為すなら早い内が良い。

【けいには、後で話せば良い】

 生命奪う訳ではない。血を啜る訳ではない。唯ここ数日の記憶の内、私や贄の血に関る
記憶を伏せるだけだ。ゆめいは十年ぶりに再会できたけいの身内との一般向けの内容で、
鬼切り役は実家の村で出会って親しくなった一夏のあばんちゅーるで、私は存在しない幻
で。

【少し心を掻き回して痛めるかも知れないけど、人格を全面的に壊す迄には至らない筈】

 無防備に寝顔を晒す陽子の閉じた瞼の上に、暫くぶりに朱を解き放とうと、屈み込んだ
時。

『駄目よ……、ノゾミ』

 背後にいつの間にか、ゆめいが座していた。
 驚かされたのは、その気配の潜伏ではなく。

 けいの住処に来て以降、ゆめいが初めて私を呼び捨てにした。声音に怒りは宿ってなか
ったけど、静かに言い聞かす語調だったけど、それはわたしへの頼み事ではなく警告だっ
た。

 尚敵視してはいないけど、その分水嶺にいる事を静かな姿勢は感じさせて来た。この侭
言葉に従わなければ、ゆめいは実力行使しても私を止めに掛る。陽子への所作を止めると。

 ゆめいの姿は真後ろで見えなかったけど、ぴんと張った正座姿は、気配で私の背中に強
い存在感を伝えてくる。これ以上、動けない。動いたら、それが私とゆめいの決裂になる
…。

 語調はあくまで静かに言い聞かす感じで、

『陽子ちゃんは桂ちゃんのたいせつなひと』

 あなたが桂ちゃんを想って、危険の芽を未然に摘もうと考えている事は分るわ。でもね、

『それをわたしが為していたなら、あなたは今ここに存在しないのよ。分るでしょう?』

『……』

 私は結局、陽子の記憶を閉ざす事を止めた。従わされた感じで少し悔しかったけど、別
にゆめいが怖かった訳じゃない。唯、ゆめいと本当に対立してしまったら、けいが哀しむ
…。

 取りあえず陽子は目立ってけいの害になる様子はない。けいの言う通り今はまだ大丈夫。
いざとなれば記憶を封じるなんて迂遠な事をせずとも、口を閉ざす術はある。それにそう
なった時こそ、ゆめいに責任を取って貰えば良い。そうならない事、何事も起らない事を、
平穏無事をゆめいは日々願っているのだろう。

 無力なけいならいざ知らず、為せる術を持ちながら手を下さず、力を揮う事も望まずに
事に流され見守るゆめいのやり方は、私にすると煮え切らないというか生ぬるいというか。

 けいを巡る人の輪の中でもそうだ。けいが陽子を強く信頼しても、鬼切り役に深く惚れ
込んでも、そんなけいの心を引き戻そうとせず、流れゆく侭に見守って、時に一緒に流さ
れて。樹木に宿ると世の中全てをそういう風に受け止める心境になってしまうのだろうか。

 どうも分らない。と言うか近くにいると競合はしないけど時々苛立たしい。私がけいに
迫ってべたべたする時も邪魔してこないのは、確かに好都合だけど。でも、時には嫉妬さ
れる事を欲して見せつけても静かに微笑まれて、気力が抜ける事もあって、何か少し悔し
くて。

「……妙に静かね、けい」

 そこで私はゆめいの手元から目線をあげて、けいが座布団を運び込んだ筈の寝室を眺め
る。壁とドアに隔てられて見えないけど、物音がなくなって暫く経っていた。

「桂ちゃん、今日は疲れたのかも……」

 けいは元々、深夜に強い方ではない。

 日中から鬼切り役に入れあげて無駄にドキドキを繰り返していた。疲れ果てても当然か。
漸く邪魔な客人が帰り、私との濃い恋い時間を過ごせる様になったのに。私の時間迄鬼切
り役に持ち去られた気がして、憤りを感じる。

「様子を、見てくるわ」

 ゆめいは洗い物を終えた処だった。でももう少し、台所廻りを拭く作業を残している。
ゆめいに先は越させない。私が先に行ってけいを起す。起して私に付き合わせる。ゆめい
を先に行かせると、明日も学校があるお疲れのけいに就寝を勧めそうだ。そうはさせない。
今からは私とけいの時間なのだ。鬼切り役が引き上げた後で迄お預けを喰らうのは沢山だ。
喰らうなら、けいの贄の血の方がずっと良い。

 一日中陽子の立場で、けいの視野を占められなかった苛立ちが、私を急き立てていた。

 電灯の付いてない寝室に、ドアをすり抜けて入り込んだ私の目の前にあったのは、数枚
の座布団を抱えて下敷きにした侭、俯せに意識のない、無防備なけいの寝顔と寝姿だった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 月明りは経観塚でも町の家でも、変る事なく美しい者を青白く彩る。太古から変る事な
い静かな輝きを受けて、私の求め人は畳の上に倒れ込んだ侭身動きもせず、微かな寝息で
健康に害のある状態ではないと知らせてきて。

「……、けい……」

 綺麗さに圧倒された。普段と違い意識を失ったけいは、その可愛さが抜け、整った造形
が天女の様で。艶やかな肌が、私の魂を誘い招いて見えた。起そうとの意志が吹き飛んだ。

 このけいは、起さなくて良い。
 否むしろ、起してはいけない。

 これは、からかったりやりこめたりいじったりして遊ぶ普段のけいではなかった。意識
を戻させて、普段のけいに戻すのは勿体ない。普段のけいにはいつでも逢える。今宵は、
月の輝きがもたらした綺麗なけいを、楽しもう。

『美しい……』

 普段は表情豊かというか、おっとりした可愛さに美しさが隠されている。私もそれを呑
み込まされた。拾年前私を斬ったけいの母も美しかった。でもけいの綺麗さはそれ以上だ。
ゆめいも似ているけど、けいには及ばない…。

「私の、けい……」

 月光に映えた今のこのけいは、陽子も鬼切り役も知らないだろう。ひょっとすると観月
の娘もゆめいも知らないかも。こんなに綺麗なけいを間近に見るなんて、私だけの特権だ。

 浮いた侭ゆらゆらと、ゆっくりけいに近づいてゆく。動きは半ば無意識だった。私の方
がけいに引き寄せられているのかも知れない。空気を揺らす事がけいの美しさを砕きそう
な錯覚に囚われ、私は慎重に距離を詰めるけど。

「……んっ……んん……」

 突如けいが寝返って顔をこちらに向けてきた時は、心臓が止まった。今のけいが瞳を開
いたら、まともに言葉を交わせる自信がない。見とれた私が恥じらいに頬を染めそうだっ
た。

 けいは、仰向けになっただけで静かな寝息を吐き続け。目を醒ます様子はない。覗き見
を見つからずに済んだに近い、ほっとした感触で、身体の緊張が少し緩んで。

 けいは座布団を片付けようとして、躓くか何かして俯せに倒れ込んで、疲れの所為でそ
の侭寝入ってしまった様だ。けいらしいと言えばけいらしい。両手に座布団を抱えていた
ので、明りをつけるのを面倒がったのだろう。

 組み敷いた座布団の所為で姿勢が不安定だったので、無意識に寝返りを打った訳か。仰
向けになった首筋を月光が青白く照していた。隣家の灯りも既に消えて、一室は煌々たる
自然の輝きの元、静寂に包まれて。

「私と、けいの為の夜だわ……」

 起きて可愛らしく語りを返すけいではなく、寝入って無防備に美しいけいも良い。起す
事なく、私の力で夢に暫く囲った侭、このけいの肌を撫で回して時を過ごすのも良い。艶
やかな髪に手を通し、その頬に頬を寄せ、唇を奪ってみるのも楽しそう。明日朝にその全
てを目覚めたけいに話してみるのも面白そうだ。今はこの美しさを独り占めして、楽しみ
たい。

 どきん。心臓が一つ大きく鳴った。
 ごくん。喉が大きく唾呑み込んだ。

「けいが、私を、誘っている……?」

 けいではない。ここにいるのはいつもの意識ある時のけいではない。だから私を誘って
いる目の前のこの寝姿は、けいではなくて…。

「贄の血に、私が惹かれている……」

 皿に盛って食べて下さいという状況だった。
 何をされても拒まない拒めない状態だった。
 私の為に用意された様な静かな寝姿だった。

 私は今宵、久々に少し疲れていた。家庭の電灯程度なら、二、三時間現身を取っても支
障ないけど、夕刻からその倍以上現身を取り続けていては流石に多少疲れも出る。青珠に
戻れば力は復するけど、緩慢な補充ではなく、贄の血で霊体に力満ちる心地良さは捨て難
い。普段なら私も小刻みに青珠に戻り、ずっと出続けはしないけど。今日は鬼切り役と陽
子を前にした対抗意識で、夕刻から出続けていた。

 その苛立ちも贄の血を吸う事で解消出来る。
 誰も知らないけいを私1人だけが楽しめる。

 鬼切り役は絶対味わえぬこの快楽を、私がけいから与えられる。それも痛快だった。鬼
切り役に差を見せつけられる。帰ってしまったのが今は残念な位。私が贄の血を啜ってほ
んのり頬を染めた様を、冷やかな顔で耐える鬼切り役を想像するだけで、ゾクゾク楽しい。

 普段のけいから血を啜るのも、嬉しくて優越感を満たすけど、独占気分で心地良いけど、
今宵のけいは格別だ。月も大きく鮮やかで邪魔な光も音もない。きっと贄の血も普段に較
べ甘く美味しい。今宵はけいと、私の為の…。

 間近にけいを見下ろして、屈み込もうとした時だった。その身に触れて軽く抑えようと
手を伸ばしかけた時だった。背後間近で声が、

「駄目よ……、ノゾミ」

 誰にも邪魔されたくない夜に邪魔者がいた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 背後にいつの間にか、ゆめいが座していた。
 驚かされたのは、その気配の潜伏ではなく。

 あの夏休み終盤の夜以降、ゆめいが再び私を呼び捨てにした。声音に怒りは宿ってなか
ったけど、静かに言い聞かす語調だったけど、それはわたしへの頼み事ではなく警告だっ
た。

 尚敵視してはいないけど、その分水嶺にいる事を静かな姿勢は感じさせて来た。この侭
言葉に従わなければ、ゆめいは実力行使しても私を止めに掛る。けいへの所作を止めると。

 ゆめいの姿は真後ろで見えなかったけど、ぴんと張った正座姿は、気配で私の背中に強
い存在感を伝えてくる。これ以上、動けない。動いたら、それが私とゆめいの決裂になる
…。

 語調はあくまで静かに言い聞かす感じで、

「分っているでしょう。自身を、抑えて…」

 あなたが今、疲れを感じているのは分るわ。桂ちゃんの血を呑めば、それが全快する事
も。桂ちゃんは多少ならあなたの吸血を拒まない事も。後で話せば分ってくれる事も。で
も…。

「これはあなたの問題。約束したでしょう」

 ゆめいは私に順々に説いて教え諭す。私の動きが一時止まった事を見て、その声は尚静
かに背後の一点から動かず。経観塚にいた時の『桂ちゃんから離れなさい』ではないけど、
もう半歩踏み出せばその声は私に飛んでくる。

 私はゆめいの促しに沿って、鬼切り役や観月の娘や鬼切り頭達の前で、けいに向けて為
した約定を再び口に上らせる。霊体の鬼が言霊で明言して交わした、破る事困難な約定を。

「非常時以外、けいの血を吸う時は、けいの意識がしっかりあって、けいの確かな了解を
貰えた時に限る……」「その通り」

 寝付いた今のけいに、了解を貰う事もせず血を啜るのは約束破り、言霊破りだ。けいの
美しさに魂を抜かれ、我知らず寄り添ってその肌に歯を立てようとしてしまっていたけど。

 霊体の者の約束は、肉を持つ者のそれと違って簡単に反故にできない。想いだけの存在
が一度でも己の口に上らせた想いを覆す事は、自身の否定に繋りかねない。受け容れて明
言すれば言霊になって心を縛るし、その約定を破れば心に棘となって刺さり続け、判断を
鈍らせ意志を挫き全ての所作に差し障り続ける。外からそれを指摘すれば、効果を倍増さ
せられる。極端な話、生殺与奪を掴む事も出来る。

 私はけいと約定を交わした。みんなの信を得る為にそれを求められた。交わした以上約
定破りは私を苛む。ゆめいの指摘は単に桂を守るだけではなく、私への心配でもあるけど。

 今即の吸血は為してはいけなかった。約定を自ら復唱して確認させられ、諦めに力を抜
く私に、ゆめいはほっと気の張り具合を緩め、

「分ってくれて、有り難う」「……っ!」

 その微笑みの気配が気にくわなかった。

 それは決定的な対立を回避できた証だけど。私の今後も守ったけど。腹の虫は収まらな
い。今日私はけいに振り回された。鬼切り役にベタベタ惚れ込むけいを見せられ苛立って
いた。それを補填する術があったのに、心晴れ渡る2人の時があったのに。憤りはゆめい
に向く。

 柔らかな労りの声も、勝者の嘲りに聞えた。邪魔なゆめいが声を挟まなければ、私は綺
麗なけいを心ゆく迄堪能できたのに。今けいを諦めたのは、強制ではなく自身の意志だけ
ど。決してゆめいが怖い訳ではないけど。諦めるきっかけを持ち込んだ事が、そもそもゆ
めいがここにいる事が気に喰わなかった。私のけいの独占を、崩す存在自体が気に喰わな
くて。

「代りに、わたしがあなたを、補うから…」

 だから今は、私を配慮してくれるゆめいの気持を踏み躙りたく、蹴飛ばしたくて。けい
へ及ぼす事を諦めた朱を己の中に収めてしまう事はせず、瞳に宿した侭背後を振り返って、

「では、あなたの血で補って貰おうかしら」

 ゆめいの双眸に、邪視を送り込んでいた。


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「ノゾミちゃ……」

 その言葉は最後迄紡がれる事はなく。
 その意志は素肌の内側に封じられた。

 正座した姿勢の侭で、ゆめいの双眸が意思を失い、動きを止められている。私も久々に
為した呪縛の成功を悟ったのは、その少し後の事だった。膝の上に置かれた華奢な両手が、
行き場を失い指示を失って、手持ち無沙汰だ。

「邪視、効いてしまったの……?」

 素直に信じられなかった。ゆめいが私の邪視を受けて、身も心も奪われ呪縛されるとは。

 苛立ちをぶつけただけで、防がれたり躱されたりすればそれ以上何もなく、悪ふざけで
終っていた。確かに力は込めたけど、たった今迄私を実力行使で止める気迫も感じさせた
ゆめいが、素直に力を被るとは予想外だった。

 経観塚で敵対した時も、私はゆめいに呪縛を試みなかった。敵対し生命のやり取りをし
ていたゆめいに、そんな回りくどい所作は無意味な以上に、ハシラの継ぎ手を担い贄の血
の力を扱え、私を妨げ闘う程の力を持つ以上、邪視の呪縛を黙って受けるとは思えなかっ
た。

 けいに関する限り、ゆめいの所作には隙がなかった。経観塚にいた時もそうだったけど、
ここに移り住み、日常の安穏に身を浸してもそれは変らず。今もゆめいはドアを開ける音
も空気の動きもない侭、既に正座した姿勢で私の背後にいた。肉を持つ今のゆめいは、私
の様に壁をすり抜ける事は出来ない筈なのに。

 私が思うよりゆめいのけいへの守りは堅い。今もゆめいがわたしを滅ぼす積りなら、私
は抵抗の術もなく消されていた。背後を取られて声掛けられる迄全く気付けず無防備だっ
た。なのにゆめいはけいを守る時は完全無欠でも、私が一度けいの吸血を諦めた途端気が
緩んで、

「他愛のない。あなたけいは守れても……」

 私の本気ではない、戯れの邪視を防げも躱せもせず、受けて縛られていた。今のゆめい
の力量なら、正面から受けても弾く気があれば出来ただろうに。この落差は一体何なのだ。

 座り込んで動かないゆめいの前に歩み行き、

「……自身の守りは甘々じゃないの」

 立った視点から見下ろして語りかけるけど、答はない。わたしの邪視はゆめいの虚を突
いた様で、呪縛を解く意思も感じない。姿勢も変らず身動きも敵わず、動こうとの意思も
窺えない。抗う意思も残せず、瞳も焦点を失い。

 私の邪視を受ける等と想ってなかったのか。舐められた物だ。少し思い知らせるべきか
も。私は鬼なのだ。例え力が多少あって使えても、人に戻ったゆめいとは在り方が違う。
時に子供をあやす様に接するゆめいは少し生意気だ。

「あなたに補って貰うというのは、名案ね」

 多分ゆめいは自身の紡いだ力をわたしか青珠に及ぼして、癒し補う積りだったろうけど。
考えてみれば、ゆめいも贄の血を持っていた。人に戻れた以上、その血は私の良い糧にな
る。

 けいの血を吸う事には色々制約を設けて私を縛ったゆめいだけど。私の吸血に抵抗感の
少ないけい自身より、難色を示して一々うるさいゆめいだったけど。こうなってしまえば、

「あなたと私の間では、血を啜り啜られる事への決め事は、一切約定してなかったわね」

 けいは濃い贄の血を持ちながら、血の力を使う術を知らない。血の匂いを鬼から隠す守
りの青珠に力を注ぐ術も知らない。前はゆめいやけいの母や祖母が青珠に力を注いだ様だ。

 今は青珠に私が宿ってけいの血の匂いは隠せているけど。贄の血を私が少量吸い上げて、
この存在を保ち余る余録で青珠を満たすけど。ゆめいの助けも不要な程力は満ちているか
ら、鬼切り役が力を込めに来る必要さえないけど。

 鬼切り頭や観月の娘は、私がけいの血を啜る事が青珠の守りの補充にもなると、私がけ
いから血を得る事を、やむを得ずある程度認めた。けいの血は羽藤の歴代でも類がない程
濃い様で、僅かの吸血で充分効果を発揮する。それでも吸いすぎない様に、けいの害にな
らない様にと、ゆめいも鬼切り役も私の吸血を様々に制約してきた。特にゆめいは自身が
鬼だった故に鬼を知り尽くしており遠慮がない。

『それで足りないなら、わたしが補うから』

 己の贄の血の力を使えるゆめいは、青珠に力を込められる。私がけいから一滴も血を得
られずとも、ゆめいが青珠に力を満たすから良いと言い、私がけいの血を無制約に吸えな
い様にと、言霊の約定で私を幾重にも縛って。

『あなたの贄の力なんか欲しくないわよ。
 私が欲しいのは、桂の想いと血潮なの』

 結局、元々敵方で他の面々の信頼を得たとは言い難い私は、幾つかの約定を受け容れざ
るを得なかった。けいと共に過ごす日々を得る為の代償だとそれも己の意思で受けたけど。

「あなたもけいの近親ね。用意周到に見えて、やる事に大きな穴が開いているわ。あなた
はけいを守る為に様々に私を縛ったけど、同じ贄の血を持つあなた自身を守る約定を、私
と何も交わしてない。私はあなたを啜り放題」

 ゆめいは自身が力を扱え抗えるから、必要なら私を力で抑え防げるから、約定を不要と
思ったのかも知れない。それはそれで一つの考えかも知れないけど、こうなってしまうと。

「隙を見せたのが、命取りになったわね…」

 この状況でも言霊の縛りがあれば、私は尚ゆめいを襲いにくいけど。ゆめいの意識が確
かにあって、その確かな了解を貰えない限り云々と約定を交わしておけば、尚その血を啜
る事に私も躊躇いがあっただろうけど。不用心にそれも為さず、鬼に隙を見せる様な人は。

「血を吸い尽くされても文句は言えないの」

 言ってみてから、経観塚でけいの生命を狙っていた頃を想い出す。それを想い出させる
語調だった。楽しげに嗜虐的で、酷薄に笑みを浮べていた。少し前の自身が己の内にまだ
残っている。否、それは消し得ない自分自身。

 上に皮を何枚か被り、装い繕いはするけど、けいと分り合えた新しい自身の根に尚、自
身の過去は断ち切れずあり続ける。青珠に宿ってけいと心通わせても私は千年を生きた鬼
だ。

 その本質は変え得ない。ゆめいの様に人に戻る術を私は持たない。私はどこ迄行っても
血を力に変えて啜らねば生命保てぬ鬼の身だ。だからこそ、今のゆめいは絶好の餌食だけ
ど。

「まあ、けいが哀しむから生命は奪わないでおいてあげる。感謝なさい。経観塚にいた時
にこんな失態を私に見せていたら、鬼が血を啜り取られる無様を晒していたでしょうね」

 とろんと意志の抜けた瞳は、私の言葉にも反応がない。抗う意思が生じる前に呪縛を受
けた様だ。眠った侭金縛りを受けたに近く、それを解く意思も出ない。例えその意思があ
っても一度掛った邪視を解くのは無理に近い。

 関節を極められると腕力があっても簡単に振り解けない様に、一度掛ってしまった技は
かなり力量が上であっても、容易に外せない。外から衝撃でも与えない限りこの呪縛は解
けまい。ゆめいの生殺与奪は今私が握っている。

 私は瞳に更に朱を強く込めて、ゆめいに、

「……今宵はあなたの血を、頂こうかしら」


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 今宵はけいの血は諦める。ゆめいは結局私の心に約定を想い出させる事だけは果たした。
今から再び眠った侭のけいの血を啜る気にはなれない。少し後ろ髪は引かれるけど、今の
けいの綺麗さは意識を失っていてこその物だ。血を啜るには、けいを起さなければならな
い。起してしまえばいつものけいに戻ってしまう。今のけいを食す望みは、今の私には叶
わない。

「叶わない望みを抱くノゾミなんて、不出来なけいの小咄でもあるまいし……」

 ゆめいの牽制はなくなったけど、私は別にゆめいが怖くてけいの血を諦めた訳ではない。
ゆめいが見ていても見ていなくても、約定の所為で今宵私はけいを諦めるのだ。今ゆめい
と敵対すると、けいが哀しむから仕方なくだ。それよりも、今私の目の前には意識を失っ
たゆめいがいる。こちらも得難いご馳走だった。

「あなた自身が言っていた通り、今宵はあなたに私を補って貰うわね。私の今日の苛立ち、
憤り、その身に受けて貰う。覚悟なさいな」

 考えてみれば、私はゆめいの血を呑んだ事がない。贄の血と言えばけいの血で、吸血と
言えばけいの血を啜る事で、鬼切り役や観月の娘の心配もけいの安全で。ゆめいの力は何
度も私や青珠を満たしていたにも関らず、否、その故に、私もゆめいの血で己を補おうと
は考えもしていなかった。ハシラの継ぎ手でいた拾年間、年を取ってないゆめいは肉体的
にけいとほぼ同年代だ。若い娘の鮮血はそれだけで鬼の力になる。けい程には甘くなくて
も、濃い贄の血潮は、私の心と力を満たすだろう。

 今迄ゆめいに受けた様々な縛りの鬱憤も、一気に晴らす事が出来るのだと、今になって
漸く気付いた。ゆめいの血に償わせれば良い。けいを得られぬ不満も、けいの心が私に向
いてくれない苛立ちも。けいの近親なのだから。

 鬱憤晴らしは、少し力が入るかも知れない。その意味でもけいを傷つけるより、ゆめい
を痛めつける方が私も気楽に出来た。けいは非力に過ぎるし、傷つけ過ぎると少し可哀相
だ。その点ゆめいなら、相当痛めつけても血の力で己を癒せるし、痛む様も痛快かも知れ
ない。

 邪視を少し強くする。呪縛ではなく、傀儡に変える。ゆめいの瞳が私の朱を強く受けて
見開かれた。でも意思を取り戻す訳ではない。強い力を受けて、身体が反応を示しただけ
だ。ゆめいの意思は深く沈んで動かない。私がその代りに、ゆめいの身体を動かす指示を
出す。

 ほんの軽い悪戯だ。生命を奪う訳ではない。呪縛より傀儡の方が術の浸透は深い故、疲
れを引きずるけど、ゆめいは己で疲れも癒せる。その点でもけいと違い、心配も遠慮も不
要だ。

「衣を全て脱ぎなさいな。肌と肉を食い破って血を啜ったら、衣が汚れてしまうでしょう。
衣に贄の血を吸わせるのは、勿体ないもの」

 上も下も、肌着も何もかも全て脱ぎなさい。
 ゆめいを丸裸にする。一糸纏わぬ姿にする。

 私は衣を纏った侭ゆめいの血を啜る。頃合を見計らって間近のけいを起し、私に血を吸
われるゆめいを見せつける。ゆめいに絡みついて血を啜る様を目の当たりにして、けいは
嫉妬の炎を燃やすだろう。どうしてけいではなく、ゆめいかと羨むだろう。鬼切り役にベ
タベタして見せつけてくれたけいに、私はゆめいの血を啜る事で、見せつけ返して楽しむ。

 同時にゆめいへの邪視も解く。けいの目の前で、丸裸で私に血を吸われ放題なゆめいは、
羞恥で暫く立ち直れまい。経観塚の屋敷に逃げ帰るかも知れない。そこ迄行かずともけい
か私の視線を受けるだけで、今宵の羞恥を思い起し、口答えも出来なくなる。もうあの教
え諭す語調も怖くない。見つめるだけで黙らせられる。二度と呼び捨てもできないだろう。

 いい気味だ。四六時中私と共にいながら私以外の誰かに視線を向けがちなけいの、嫉妬
に困惑する顔が見たい。日頃大人目線で私を教え諭したりけいの吸血を制約するゆめいに、
瞳を向けるだけで勝利し俯かせ黙らせられる。

 今迄私はけいに目が向いていて、ゆめいを引っ掛りに感じてきた。一度互いの立場を確
かにするのに、徹底的に蹂躙して、服従を教え込むのも悪くない。生命を奪う訳ではない。
そこ迄するとけいが哀しむ。誇りや姿勢を砕いて、私に強い事を言いにくくさせるだけで
充分だ。ゆめいは今後もけいと暫く同居する。私とも暫く同居する。邪魔な時、目線を向
ける前に場を外す様な、けいにも気付かれずにお楽しみの場からいなくなっている様な、
気遣いの出来る女になってくれれば、文句ない。

「そう。素直で良い子ね、ゆめい」

 傀儡は細やかな技能は使えないけど、歩けとか殴れ位の指示しか出せないけど、ゆめい
は速やかに纏う衣を脱ぎ捨てた。瞳に相変らず意思はなく、事を為すと裸身で座して次の
指示を待つ。ゆめいは正座が常の姿勢らしい。

「って、どういう事よ。ゆめいあなたっ…」

 思い通りにして得られたのは、勝利感ではなく、敗北感だった。全裸にしてやったのに、
全て剥いだのは私だったのに、ゆめいは綺麗な素肌を外気に晒し意思のない侭黙して座り。

 月光がゆめいの肌も彩り照す。ゆめいはけいにも増して、月明りが良く似合う娘だった。

「き、綺麗じゃないの。思ったよりは……」

 艶やかだった。それはけいと同じく意志が抜けて別の顔が見えたという事か。見せつけ
る意図のなさが、逆にその美しさを際だたせ。

 いつも穏やかに温かに微笑み見守る事が多くて、己の主張を声高にせず、常に支える側
を担い、自ら迫る事を知らないゆめいだけに。私に指示に従って衣を全て脱ぎ捨てただけ
なのに、誘い招く様に見えるのは、気の所為か。

 意思のない瞳が、私を吸い込みそうだった。ゆめいは普段、己の魅力を故意に抑えてい
るのだろうか。少なくとも、日頃のゆめいにこれ程引き込まれた事はない。私がけいばか
り向いて視線を向けてないと言うだけではなく。

「けいより、良い身体しているじゃない…」

 けいは可愛いけど、ゆめいは綺麗だ。その印象の違いは、けいの場合意思が宿ると可愛
さが強く増すのに対し、ゆめいは意思が宿ると歳不相応な程落ち着きが増して美点を隠す。
意志が抜けて漸く分った。ゆめいは常日頃けいと並び立つ事を避ける為に己を抑えている。

 けいは鬼切り役や観月の娘に対して劣等感を抱いている様だけど。ゆめいを比較対象に
見てない様だけど。私も今迄そうだったけど。或いはそれもゆめいの意図による誘導だっ
たのか。私と言うより、けいを思いやるが故の。

 けいよりも私よりも大人の身体だ。改めて見て気付かされた。もう絶対隣には立たない。
衣を全て脱がせたのは成功だけど失敗だった。見つめたわたしがむしろ頬を染めてしまう
程、その姿は滑らかに隙がなく艶やかに正座して。

 立ち居振る舞いが美しい。姿勢の基本が美しい。凛々しさも艶めかしさも、その意志次
第で自由自在に乗り換えが効く。私の負けだ。なぜか分らないけど、無性に悔しい。見つ
めて責め苛む積りが、視線を放せず縛られた…。

「い、良いわよ。別に……」

 私が敗北感を抱いたと知られなければ良い。ゆめいはけいの前で、淫らに私に吸血され
る様を晒して恥じ入れば良い。その様に私が美しさを感じ、心を惹かれた等絶対口にしな
い。

「今は私が主人なのよ。間違えないで」

 聞く者もいない呟きを漏らし、私は座した侭のゆめいに正面から身を重ね、左の喉元に
唇を寄せた。血流の位置を暖かみで確かめて、その両肩に両の手を添わせつつ、歯を立て
る。贄の血は久々で、ゆめいの血は初めてだった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 私の歯がゆめいの肌に突き立った。食い込んで、肉を挟んで、すりつぶし、引きちぎる。
けいの時もそうだったけど、こうして温かな肌に唇を寄せて歯を突き立てるのは、問答無
用に押し入る感じで痛快だ。柔らかな若い娘の素肌を食い破って鮮血を染み出させるのは、
嫌がる抵抗を踏み躙る様でゾクゾクと楽しい。

「……んんっ」

 首筋に食い込んだ私の歯が、肌の弾力を越えて肉を食い破り、神経に一瞬の痛みが走る。
呪縛が浅ければ、又はゆめいに己を戻したい闘志があれば、これが最後の機会だったけど。

 抵抗の意思は肌の下にも感じ取れず、一糸纏わぬ可憐な姿は私の蹂躙に答を返さず。身
体を走る反射も続く何者も呼べず、ゆめいの身体は傀儡の侭で、指示を待って黙している。

 思い通り。ゆめいは私の思いの侭の人形だ。
 今や血を吸われ放題の、肉の塊に過ぎない。

 けいの時と違い、傷の深さ大きさは気にしない。けいは可哀相だから痛みを減らすのに
邪視で魅惑したり、傷も浅く小さくしたけど。ゆめいを哀れむ程に、私は優しい鬼ではな
い。

 むしろ傷を治せるゆめいだから、傷つけて困らない構わないゆめいだから、思い切り傷
つけて楽しむ。肉を食い千切り鮮血を啜るのも、噴き出す血潮で腔内を一気に満たすのも、
青珠に宿ってからは私は一度も為していない。けいに為す吸血は、もっと限定的で抑制的
だ。言葉の刺で責め立てるのは、その代償だった。

 知らず知らず自身の中に鬱積が堪っていた。私の苛立ちは、今日の鬼切り役や陽子に対
しての嫉妬ではなく、今迄のゆめいに対しての不満ではなく、実は自身の『抑制された
鬼』という不自由な在り方に向けた物だったのか。

「……んっ、んっんっ……んっ……」

 私の中で肉の奥で獣が踊り喜ぶ様を感じた。
 思い通り無制限な吸血に魂が震え勇み立つ。

 私の中の鬼が空腹ではなく空腹感を埋めたがっていた。血を呑む事で生命を繋ぐ以上に、
血を呑む快楽と充足感を求めて暴走していた。踏み躙り蹴散らし、奪い尽くしたくて躍動
し。

 私の本質は鬼なのだ。抑えているけど、控えているけど、血を啜り生命を啜る鬼なのだ。
けいは別として、他の者に遠慮等本来しない。けいが哀しむから、私が自重しているだけ
だ。それを分らず、けいの様に無防備に近くある者に迄、けいに対する様に接する義理は
ない。

 ぷしゅっ。やや深く穿った傷から、勢い良く鮮血が噴き出す。私の唇では最初の噴出を
塞ぎきれず、口元から赤い滴が零れてゆめいの肌を流れ落ちた。首筋から胸の曲線に進路
を歪められ、みぞおちを通ってへそを伝って。

 一滴や二滴構わない。と言うよりそれを追いかけて唇を外せば、傷口に満ちた血潮が噴
き出した。太い血管を傷つけたらしい。私が口元で抑え付けておかないと、飛び散る程だ。
勿体ない。ゆめいが危ういとか考えなかった。私が呑む血が散るのが惜しい。これは私の
分。

 口の中に堪る温かな液体を、舌で掻き回しつつ味わってみる。とろりとした贄の血は思
った通り甘くて旨い。けいの血程に濃くはないけど、極上の贄の血だ。その他の有象無象
の血とは全く違う。鬼切り頭の血を少し呑んだ事があったけど、あれも濃くて力になる旨
い血だったけど、それが紛い物に思える程だ。

 甘くて、すっきりとしている。けいの血の甘さには劣るけど爽やか。それにこの感触…。

『すぐに、力になる。と言うか、呑む前から既に力で、呑んだ瞬間私の力になっている』

 それは、贄の血の力を眠らせているけいと、日常青珠も不要に贄の血の力を使って血の
匂いを隠し続けるゆめいの違いなのか。けいの血は、濃さの違い分ゆめいの血を更に超え
る力の素にはなるけど、原石で、私が呑んでから力に変える迄に若干の時間が掛る。力と
して取り込むのに、私の側に多少の労力が要る。

 ゆめいの血にはそれが要らない。寝ても覚めても贄の血を力にし使いこなしているから、
血が力を使える状態で宿している。起きていると表現すべきか。呑んだ瞬間から力になる。

 既に私は月の輝きを受けて力を増していたけど、ゆめいの血はそれを遙かに超えた充足
感を私に与えた。甘く、すっきりして、即力になる。緊急時にはけいの血より使えるかも。

「んっ、んっんっんっ、んっ、んっんっ…」

 飲み下す。口に堪る甘く温かいとろりとした液体を、喉が胃袋が全身が欲して堪らない。
五臓六腑が新鮮な血液を望んでいた。私の魂が力を請うていた。充足感に飢え、渇仰して。

 旨い。旨い。甘くて、旨い。

 すっきり感が止められない。もう一口飲みたくなる。もう一口啜りたくなる。もう一口。

 そして呑んでくれと求める如く、私の穿った傷口から新たな血潮が自ら私に入り込んで。
力になる。生命になる。満たし行く。ゆめいの中の生命が減って、私の中の生命が増える。

 吸い尽くし行く感覚が心地良い。どんどん生命を減らして私に吸い上げていく様が素晴
らしい。私の存在を保つ最低限以上に、私が満たされ強く伸びやかに変り行くのが嬉しい。

 青珠に宿ってからの私は、常に制約されていた。生命を奪わない様に、健康に害になら
ない様に、己を消失させない程度しか血を呑まない様に。それは観月の娘や鬼切り頭から
の抑制であると同時に、私もけいを想う故に約定を交わし受け容れてきた制約だったけど。

 縛りを外して漸く気付いた。私は自由を求め欲していた。人の血を啜り尽くし、生命を
一滴残さず啜り尽くす自由も欲していた。否、青珠に宿る迄はその自由こそが、全てだっ
た。

 けいはたいせつな人だから生命は啜り尽くさないけど、健康に害ある吸血はしないけど、
目立つ様な大きな傷痕は付けないけど。そうでない者に迄、己を抑える必要などなかった。
陽子やゆめいや凜に迄、けいに対する様に見守り一歩引いて、己の欲望を抑える必要等…。

 飢えではなく飢餓感。空腹ではなく空腹感。生命を保ち現身を保つ以上に、身体を満た
し行く血を私の魂が欲している。それが鬼の性なのだ。誰にそれを止められよう。けいか
ら頂けないのなら、けいを想う故にその生命を残したいのなら、けい以外から頂けば良い
…。

 血を吸い上げる。深く抉った傷口からは尚血が流れ出るけど、私は舐め取るのではなく、
吸い上げたかった。傷口から大量の血を、一気に吸い上げて飲み干す。喉も口もその内側
が真っ赤に染まる程に。口元から何滴も朱が零れ落ちる程に。その体温を奪い去れる程に。

 力が満ちる。どんどん満ちる。ゆめいの力の減少に比例して。そうだろう。私が吸い上
げる事で、ゆめいの血が減っているのだから。もうゆめいは私を抑えたり拒んだり出来な
い。ゆめいの力の多くは私の力になった。今宵のゆめいは例えこれから意識を取り戻し抗
う意思を抱けても私の敵ではない。私は既にそれ程強大な者になった。ゆめいの血で。ゆ
めいの血を減らし力を減らす事で。だから実は今から意識のないけいの血を啜ろうとして
ももう、ゆめいには私を止める力もないのだけど。

 それは、しない。ゆめいとの関りではなく、それはけいとの関りでしないのだ。少し残
念だけど、今宵はゆめいで我慢する。我慢してあげるから、無制限に私に血を吸わせなさ
い。

『あなたの血はけいより薄いから、代償にはけいから呑む予定だった量の倍は頂かないと、
釣り合いが取れないわ。あなたもその位は覚悟して、代りを申し出てくれないと困る…』

 口に浸す。喉に流す。胃に落す。

 力が満ちるに連れて、啜る勢いが強くなる。
 満たされるに連れ、更に欲求が増えてゆく。
 残り少なくなる程、もっと吸い上げたく…。

 最期の血が、生命を繋ぐ最期の血が濃くて一番旨い。その旨みに徐々に近づき行く事を
私も感じた。もう一口、もう一口、もう一口。

『拒ませはしない。もうあなたには拒めない。拒む力を持ってない。あなたは私の物。私
の思いの侭に生命を握られ吸い上げられる、哀れな贄。私の意志の侭に身を晒し、私の意
志の侭に操られ、私の意志の侭に血を吸われ』

 ああ。何と素晴らしくも解き放たれた夜か。

 けいの血には及ばないけど、けいの血の甘さには敵わないけど。でも、けいと違って過
剰な配慮や気遣いもなく血を啜り取れる高揚感は久々で、力以上に心を満たし、解き放つ。

 いつの間にか、ゆめいの両の腕が私の背に回され、軽く添えられて。血を啜りつつ私は、
肌を晒した侭のゆめいに抱き留められていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「ふっ、ふぅ……」

 首筋から一旦唇を外し、唇と腔内を外気に晒す。傷口からもう血は噴き出さず、目の前
でとろとろ小川を作って柔肌を流れゆくけど、その位はもう気にならない。私はゆめいの
生命を啜った。血の一滴や二滴、どうでも良い。

 左手で口を拭ってみる。贄の血の甘い香りが手の甲についた。ぺろりと舐めてみる。勝
利感の残余に浸れて、開放感の残滓に浸れて、心が落ち着いて満たされて。これなら暫く
の間昼間に現身を取る事だって、出来るだろう。本当に、かなりの分量の贄の血を啜った
……。

 そこで、私はゆめいに軽く抱き留められていた己を知った。丸裸にしてやったので寒気
を感じたのか。傀儡に指示は下してないけど、止まれとの指示も下してないから、多少動
く事はある。意思と言うより、鈍い反射に近い。肌で探ってもゆめいは意思の欠片もお休
みだ。

 ゆめいは間近にいる者は誰でも抱き寄せる癖があった。けいでも私でも陽子でも。唯軽
く抱き寄せ、数言語りかけて、すぐ解き放つ。愛おしむ様に抱かれるのは、ゆめいの細腕
の滑らかさもあって嫌いな感触ではなく、私も逃れつつ嫌がりつつ、心底は拒んでなかっ
た。ゆめいもそれを分って為した節があったけど。

「ふん。生命を半分以上啜り取られておきながら、その相手を愛おしむなんて間抜けな」

 目を醒ましたら、愕然とするでしょうね。

 生命の半ば以上を吸い尽くされ、大きく力の減退した自身と、それを取り込む事で今や
ゆめいを上回る力を持つに至った私と。ここ迄無防備に血を啜られた失態に。その元凶を
抱き留めていたなんて。幾ら無意識とはいえ。

「目を醒ましたら……目を、醒ましたら?」

 言い終えてから、はっと気付いた。

 目を醒ましたら、ゆめいは文句を言うかも、知れないけど。驚愕するかも、知れないけ
ど。ここ迄してしまった後で、果たしてゆめいに目を醒まさせて良いのだろうか。そして
更に、ゆめいは果たしてこの後で目を醒ませるのか。

 触れたゆめいの肌に暖かみが希薄だ。
 それは生きた人肌にしては冷た過ぎ。

 見上げた頬が月光を受けた以上に青白く変じていた。瞳に意思はなく、表情に苦しみも
何も浮んでいないけど、その頬に赤みがない。

 私は、ゆめいの血を吸いすぎていた。
 必要以上にその血を啜りすぎていた。

 最初は少しの鬱憤晴らしの積りだったのに。
 一口二口吸い上げて満足する気だったのに。

 ゆめいは今や生命迄奪っては拙い者だった。
 我に返らされた。己の立場に気付かされた。
 私は、けいのたいせつな人に何て言う事を。

 満たされて、鬼の欲求不満を満たされて漸く私は己の今いる位置取りを想い返したけど。
毎日を共にする者の生命を根こそぎ奪ってはいけないと、今更の様に気付かされたけど…。

 現身を保つ以上に、旨さ故に贄の血を多量に啜っていた。けいに嫉妬心を抱かせるとか
ゆめいに苛立ちをぶつけるとか、私の存在を保つ以外の理由で人の生命を危うくしていた。
真の空腹ではなく、空腹感からゆめいの生命を吸い上げていた。血の旨さに負け、理性を
流され、呑みたい欲求の侭に血を呑んでいた。それこそが鬼切り頭や鬼切り役が深く心配
し、最後迄捨てきれなかった、私への懸念だった。

 私は正に悪鬼だった。彼女達の不安を証明する形になった。状況が許せば生命を脅かす
迄吸血してしまう。啜り始めたら止まらない。真に飢えてなくてもいつ襲い掛るか分らな
い。けいを守る鬼ではなく、唯生きるだけの鬼に。唯生きて人を襲い血を啜るだけの鬼に
堕して。

 生存の為の吸血ではなく、旨さと充足感の為に吸血していた。欲求不満の解消に吸血し
ていた。最低限の範囲を超えて、ゆめいの生命を危うくする迄旨さに引きずられ傷つけて。

 私は、ゆめいの生命を奪いかけていた。
 けいのたいせつな人の生命をこの私が。

 首の傷口から尚鮮血が流れ出る。最早私もそれを呑もうと思わない。その流出が今ゆめ
いを危うくしているのだと、漸く気付かされ、分らされ。背筋を冷たい危機感が走り抜け
た。この種の危機感は手遅れになって気付く物だ。

『止めないと。この出血を、止めないと…』

 簡単な方法は目の前にあった。ゆめいへの邪視を解けば良い。ゆめいは己を取り戻せば、
贄の血の力を使え己の傷を治し疲労を癒せる。この状況でも意識さえ取り戻せば、ゆめい
は贄の血の力を紡げる筈だ。私が邪視を解けば。

 でも……。ゆめいが今更己を取り戻せば?

『解けば……ゆめいに今宵の吸血を知られる。生命を危うくする程の吸血に、ゆめいは心
を閉ざし、敵意や哀しみや、多分私とけいとの先行きへの不安を心に抱く。けいにも恐れ
られ嫌われる。やはり生命を危うくする程血を啜る鬼だと、私は目の前で見せてしまっ
た』

 邪視を解かないといけないのに。ゆめいは今流血を続けているのに。私が邪視にあった
かの如く動けなかった。身体というより心が硬直していた。ここ迄多量に吸血した事実が、
生命を危うくする迄飲み干した事実が、怖かった。隠せないけど知られるのが怖ろしくて。
ゆめいを我に返して、事を知られるのが怖い。

 ゆめいの反撃や報復など怖くない。怖いのはゆめいの私に抱く不信で失望で拒絶だった。
ゆめいはけいを深く想い案じている。私から守ろうと隔てるのは、理の必然だった。どう
見ても私に弁明の余地はない。それを招いた因が私にある以上、けいも今迄の様に天真爛
漫には接してくれなくなる。けいが私に向ける怖れの瞳が怖かった。私に向けて一度は開
かれた心が警戒に固まり、敵意に隔てられる。

 ゆめいの目覚めは、けいと私を引き離す…。

 早くゆめいを目覚めさせ傷を治させないと、危うかった。でもそれでゆめいが意識を戻
せばここ迄多量に吸血した事を知られてしまう。否、この侭放置してさえいつか事は明ら
かに。血は癒しの力では取り戻せない。どうやっても今宵の所行は、隠し通せる物ではな
かった。

 首筋からは、尚赤い小川が流れ続けている。
 一歩一歩、傷口から生命が零れ続けている。

 蠱惑的な香りを伴う贄の血だけど。
 もうその血を呑もうとは思わない。

 力も心も満ちた以上に、満たされた事実が今は後ろめたかった。約定も交わしてないの
に、言霊の約定を破ったにも似た苦味が心を苛む。気分が沈む。この侭消えてしまいたい。

 私が食い破って穿った傷は想ったより深く、流れる鮮血は止まらない。噴き出さないの
は、私が相当量を飲み干した末残る血が少なくて内圧が減った為か。状況は深刻かも知れ
ない。

 ゆめいは明日以降暫く貧血に苦しむだろう。
 暫く起き上がる事も出来ないかも知れない。
 下手をすればこの侭意識戻らない怖れさえ。

 贄の血の力は傷口を治す事や疲労を癒す事は出来ても、なくした血を戻す事は出来ない。
自然の回復に委ねる他にない。だからゆめいや観月の娘は、私にけいからの無制限な吸血
は拙いと抑制し、幾重にも縛りを課したのだ。

 鬼切り役がけいを訪れた真意は、けいに逢いたい想い以上に、私と同居するけいやゆめ
いを案じての査察だと、漸く私も思い至った。だから鬼切り役はゆめいにも逢いたいと告
げ、夕刻を羽藤家で過ごした。私の出られる場を用意して様子を見て。今宵鬼切り役を私
は知らずやり過ごせたけど、その疑念は的中した。

 ああ、こういう事態を招かない為に。
 この状況に陥る事を未然に防ごうと。

 それを分らず、私は自身の抑制力を過大評価して、何を縛るのかと、けいと私の間柄に
口を差し挟む事に不愉快で反発し。自身が己を一番見えてなかった。私は所詮、鬼だった。

 結果はこの通りだった。犠牲がけいではなくゆめいだったのは、ゆめいがこの事態を考
えに入れて、けいとの間にのみ言霊の約定を、縛りを用意した為だ。けいにだけはこの類
の事態を生じさせないと言う、ゆめいの準備と心配は正解で、私の自信は砂の城だった。

 ゆめいは衣を全て剥ぎ取られ、一糸纏わぬ姿にされて、座らされた侭尚身動きもしない。
柔らかな瞳の光も今は意思を繋げず、放置された人形で。何とも無防備な艶姿だったけど、
今はそれこそが私への全幅の信に感じられた。

 けいが私に身を委ね血を吸わせるのに似て、ゆめいは為される侭に全てを受けた。己に
邪視が来るとは思いもせず、否、私の邪視を受けても生命脅かされるとは思いもせずに。
だから血を啜る私の背に腕を回して抱き留めた。

 無意識でも己を害する者への抱擁は本能に反する。自然、腕を身体の前に挟めて私を押
しやり、己を守ろうとする筈だ。それもしないゆめいは、意識の底で迄私を微塵も疑って
ない。生命を危うくする迄吸血をされて尚…。

『ゆめいはけいとは違う。あれ程けいの守りに用意周到なゆめいが、己の守りを忘れる筈
がない。ゆめいは忘れたのではなく、用意しなかったのだ。それは抗う力を持つ故ではな
く、不要だと判断した故。私には不安も懸念も疑いも不要と考えたから。啜り放題な状況
が出来ても、私がそうしないと信じたから』

 ゆめいは自身に及ぶ危害を心配していない。だから私と敢て何の約定も交わさなかった
し、警戒もしなかった。けいの心配はゆめいの本能だ。己の守りを為さない時点で、ゆめ
いは私に身も心も許していた。その深い信を私は。

「裏切って、しまった。己に負けた末に…」

 鬼切り役が青珠に力を注ぐ事が不要な様に、私が青珠に宿る事も実は不要だった。私が
けいから少量の血を啜って青珠に力として流し、余録で霊体を保つ。贄の血の匂いを鬼か
ら隠す青珠の守りは、今やそんな補充さえ不要だ。ゆめいが贄の血の力を握って直接注ぎ
込めば、私の存在などあってもなくても変らないのに。

 本当は不可欠でもない私を、ゆめいは受け容れてくれた。鬼切り役の様にけいには今や、
危険も負担もなく守ってくれる者がいるのに。それでもゆめいはけいの願いを受けて、け
いの負荷になり害になる怖れを秘めた鬼の私を近くに置く事を、観月の娘や鬼切り頭や鬼
切り役に、頭を下げて認知を求め、承諾させて。

 あの時は、ゆめいはけいの願いを断れないとしか思わなかったけど。どれ程の危惧や不
安を自身の内で呑み込んだのか。その同じ危惧や不安を問う観月の娘や鬼切り頭達を説き
伏せるのに、どれ程の困難が影にあったのか。

 けいは単純に心から喜び、私はけいと私の望みを誰に邪魔出来るという感じでいたけど。
こうなって分った。ゆめいはこの事態を恐れつつ、それを怖れ指摘する声に向き合いつつ、
日々の幸せを支え続けるのに一生懸命だった。それを守る為に己の身を供する事も、考え
て。

 平穏無事を保つ事が、ゆめいの願いだった。何もない日々、私が何も役立てずとも、害
にならなければ充分な日々がけいと私の幸せと、ゆめいは見通していた。正にその通りだ
った。

 何の役に立てずとも軽口を叩いて過ごし行く日々のこの幸せが、どれ程尊く大切な物か。
それを私は見落して、軽んじて、あろう事かその基盤を壊そうとして。つまらない嫉妬に
踊らされ、真の空腹ではない空腹感や贄の血の甘さに負かされ。愚か者は私ではないか!

 嫉妬を心に抱いた自身が、後ろめたかった。独占できない程度で憤った己が、悔しかっ
た。私はゆめいが支える幸せの基盤にただ乗りし、食い潰していた。それに今の今迄無自
覚で…。

 けいはともかく、ゆめいが一番守りたく願った眼目のけいはともかく、そのオマケであ
り、けいの幸せを共に願い支えるべき立場にいる筈の私が。その上でこの幸せを壊してけ
いを哀しませるのでは、私は一体何の為に…。

「……ごめんなさい、ゆめい」

 傷口を手で抑えて止め、同時に邪視の傀儡の術を外す。ゆめいの失血を早く止めないと。
それが何にも優先する。とにかく生命の危機を回避する。そして意識が戻ったら、ゆめい
に素直に謝ろう。許してくれるか否かは分らないけど。けいには甘々にすぎるゆめいでも、
今回は許されると思えない。私はけいではないし、例えけいが強く庇ってくれても、けい
を想う故にゆめいが厳しい判断を下す可能性は、今宵のこの結果を経た故に、充分あった。

 第一けいがこの結果を見て、ゆめいが脅かされた状況を知って尚、私をたいせつな人に
入れ続けてくれるか否かも分らない。ゆめいもけいのたいせつな人だ。それを殺めかけた
私を、警戒し怒り憎しみ恨む怖れさえあった。

 今宵の過ちで、私は全てを失うのだろうか。
 ミカゲを捨て、主さまを諦めて得たけいを。

 私の愚かしさの故で、私の自業自得の末に。
 最早私に、過去の失敗を取り戻す術はない。
 為し終えた事は変え得ない。取り返せない。

 けいの幼い幸せを、一度奪い閉ざした様に。
 私はこんな処で躓いて折角得た珠玉の時を。

「ごめんなさい、ごめんなさい……」

 構わない。己の所作の招いた結果だ。因果の報いは受けなければ。それを乗り越え私は、
ミカゲを切って主さまを断って、今に至った。今更己から逃げ出す事は、願っても出来な
い。

 ゆめいの意識が戻る様に促す。失血が多いので意識が深い眠りの奥にいるのか、中々素
肌の下に反応や意思が戻って来る様子がない。両腕は相変らず背に軽く回して私を抱き留
め。

「お願い……目を醒まして頂戴」

 焦りを帯びた声に返る応えは、

「うう、ん……ノゾミちゃん?」

 ゆめいに正対して抱かれた私からは背後少し離れた床に横たわる、けいの方が先だった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「ふえ……ノゾミちゃん……その、姿は?」

 この事態は予測外だった。否、元々はこうしてやろうと、思っていたのだけど。ゆめい
からの一口二口の吸血を見せつけて、けいの嫉妬を誘おうと思った数十分前が遙かに遠い。

 けいの寝ぼけ眼が、裸身のゆめいに抱き留められた私の間近な接し方への驚きに、一気
にまん丸に見開かれ、その眠気が吹き飛んで、

「わ、わわ……。の、ノゾミちゃん。柚明お姉ちゃんも、わ……その、そ、そのっ……」

 ろれつが回らないのは、目に入った像が刺激的に過ぎた故か。月明りの照す中、私達の
抱擁は鮮烈だったかも。口元も手元も、ゆめいの晒した侭の素肌も血に濡れて、床を彩り。

「け、けけけけ、けいっ。これはね、その」

 私も頭の中が真っ白になった。けいに注意が向き、視線を感じた瞬間に。ゆめいは尚無
意識で羞恥もないけど、なぜか私がその分迄も恥ずかしく、説明を求められて応えられず。
背に回された腕を解けぬ侭、首だけでけいを向くけど、冷静さを失った私は、けいの赤く
染まる頬と視線を受け、いよいよ進退窮まり。

「ゆめっ、柚明お姉ちゃんに、ノゾミちゃん、一体何を、しちゃったの……? その…
…」

 ゆめいの反応が鈍いので、けいの問は私へ。私は事実を見られた焦りで一層弁明に困惑
し、首はけいへと後ろ向きな侭、今は邪視を解いたので意識を戻せる筈のゆめいの身を掴
んで、一糸纏わぬその身を両手で掴んで揺さぶって、

「ゆ、ゆめい、答なさいな。あなたが、私に補うからと言ったのよ。ちょっとゆめい…」

 つい答弁を押しつけてしまう。返事がないので、けいの視線を逃れたい余り、更に揺さ
ぶって、答をゆめいに出させようと促すけど、

「ノゾミちゃん。そっ、その、両手っ…!」

「ゆめい。あなた知らぬふりを決め込んでないで、応えたらどうなの……けい、両手?」

 けいは答よりむしろ私のゆめいを揺さぶる両手が気になる様で。私はそこで促される侭
に漸く首をゆめいの方に戻し、自身が揺さぶって答を求めていた所作を己で見たのだけど。

「……ああぁっ……!」

 私は両手で、丸裸のゆめいの両乳房を掴んで揺さぶっていた。どうも感触が柔らかいと
いうか妙な揺れ方をしているとは思っていたけど、背後のけいに気が散っていて、まさか。

 驚きに硬直すると、一層両手の締め付けが強くなる。爪が食い込むのが自ら見て分った。
軟らかな肉に血が滲む程私の掌が食い込んで。これで反応を返さないのだから、ゆめいが
邪視に捕らわれたとけいが察しても無理はない。

「ノゾミちゃん、ちょっと、柚明お姉ちゃんに一体何を……? 分る様に、説明してっ」

「わわっ。わた、私、その、けいの、血を」

 ゆゆ、ゆめいが私の疲れを補うって言って、それで、私がゆめいの血を、その、少しだ
け。

 動揺の様をけいに見られた、何て情けない。でもこの時の私は、本当に混乱の極みにい
た。考えてもいなかった事の流れに心が乱されて。

「ノゾミちゃん!」「け、けけけ、けー?」

 ゆめいの乳房から両手を外す事さえ忘れて、けいの視線に焦り、手はゆめいを揺さぶっ
て答を求め、意思が戻らぬゆめいの様子にけいの視線が痛くて、けいを見返してしまうけ
ど、正視出来ずに再び逸らし。そんな堂々巡りが何分続いただろう。全身茹で上げ状態だ
った。

 困惑に身動きできなくなって固まっていた、私の背に回っていた腕が微かに強く締めら
れ。

「ノゾミちゃんの言う通りよ、桂ちゃん…」

 私を救う声が、頭上間近から降ってきた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「ノゾミちゃんが疲れた様子だったから、わたしの血を呑んで貰っていたの。桂ちゃんは
お疲れで、眠っていた様だったし……」

 ゆめいは私の言いたかった事、言ったけど巧く繋げて説明できなかった事を、寝起きと
思えぬ滑らかな語調で穏やかに説明し、私の背中に回した腕に力を込めて、ぐっと衣姿の
私をその素肌へと抱き寄せて、その身を重ね。

『一糸纏わぬ侭を恥じらって、私を盾に?』

 身を捩って離れたかったけど、けい以外に抱かれたくなかったけど、流石にこの現状を
招いたのが私なので、今宵は拒絶も言い難い。まあ、ゆめいも肌触りは悪くないのだけど
…。

「桂ちゃんもノゾミちゃんに、何度か血を呑んで貰っていたでしょう? わたしも桂ちゃ
ん程濃くはないけど、贄の血を持っているから。ノゾミちゃんの役に立てればと思って」

 私の顔を正面からその首筋にぴたりとつけ。さっき私が血を啜る為食いついていた箇所
に。薄闇だったけど、その艶めかしさは目の毒だ。けいの頬を締める恥じらいを、私も共
有する。血の少なさ故か冷たいけど柔らかで滑らかな肌触りの心地良さに、逆らう意思を
失い抱き留められる私の間近で、ゆめいはけいの問に、

「でも柚明お姉ちゃん、服全部脱がされて」
「……これは自身で脱いだのよ、桂ちゃん」

 静かだけど、喋って喉が動く度にまだ傷口から贄の血が溢れ出る。それを間近に感じて、
漸く私もゆめいの意図に勘づいた。ゆめいの私の抱き寄せは、恥じらいの故だけではない。

 暗いので、血の流れる様は分っても、傷口の深さ迄は確かにけいも見えてない。それを
私と身を重ねる事で隠して。けいを心配させない様に、不安を抱かせない様に。けいには
恥じらいで素肌を隠したと見えれば良いと…。

「肌と肉を食い破って血を啜ったら、衣が汚れてしまうでしょう。衣に贄の血を吸わせる
のは、勿体ないもの。ね?」「そ、そうよ」

 頷きはしたけど、救いの手は受けたけど、その言葉の連なりは最近どこかで聞いた様な。

「その通りなんだから。全部ゆめいの了承済みと言うより、ゆめいの望みを受けただけ」

 私はつい、ゆめいの救いに乗ってしまう。

 ゆめいは己の現状を知って尚、けいの心を乱さない為に、この場を穏便に収める積りだ。
けいが哀しむ事態を避ける為に、己が全て呑み込んで、何も変事はないと示して流す気だ。
私とゆめいの間柄は尚平穏無事だと、私の為した所行をけいに知らせる積りは一切ないと。

 それがゆめいの望みだという以上に。それで私はけいに哀しまれずに済むから。嫌われ
ずに済むから。罪を知られずに済むから。それに救いを感じてしまう己がかなり情けない。

 ゆめいは私の為に場を繕う訳ではないのに。けいに心配や哀しみを抱かせぬ為なのに。
私の利得はついでだ。何一つ私は努力も貢献もしていない。私はゆめいの犠牲にただ乗り
だ。

 けいに嫌われたくなかった。ゆめいの生命を危うくする程吸血した今宵の過ちを知られ、
哀しまれ嫌われるのが怖かった。柔らかで温かな笑みから見放される時が、心底嫌だった。
だからゆめいが許してくれる限り私は表向き、

「けいが心配する様な事なんて何もないわ」

 心を見抜かれそうで怖い。早く言い切ると、ゆめいの首筋に頬を寄せ、けいの瞳から視
線を逸らす。ゆめいの肌は失血の為か尚冷たい。傷は塞がり始め、流血は収まり始めたけ
ど…。

「……そうなの? 柚明お姉ちゃん?」

 普段なら、私の答ではなくゆめいの答で判断を下すのかと、首をもたげて文句を言う処
だったけど、流石に今の私にその気力はない。やや強く私を抱いてくれるゆめいの腕の中
で、その素肌に衣の上からぴったり身を寄せられ、私は必要以上には動けず動かず喋れず
喋らず。

 私の生殺与奪はゆめいの掌にあった。それは昨日今日に始った事ではなく、私が青珠に
宿ったあの夜からずっと。私こそがいつゆめいに抹消されてもおかしくなかった。ゆめい
は常にけいを想い最善を尽くす。時にけいの血を啜り負荷になる私は、必ずけいに益する
とは言い難い存在だった。今宵私がゆめいに牙を立て血を啜る事出来たのも、今迄ゆめい
が私を見逃し続けたお陰だ。そして今も私はゆめいの一言で、けいの信頼を繋がれ保たれ。

 ゆめいのゆっくりした頷きが、素肌の動きで感じ取れた。そして、後で振り返って驚い
たのだけど、ゆめいは何一つ嘘を言ってない。けいを安心させる為に全てを語ってない処
はあるけど、少なくとも虚偽を口にしていない。

 衣を脱ぎ捨てたのは、邪視の傀儡の所為ではあるけど、ゆめい自身だ。私がゆめいの血
を呑んだのも、ゆめいの申し出だった。私も望んだけど、ゆめいも拒まなかった。ゆめい
がそれを拒んでいない限り、何一つ嘘はない。

 ええ。ゆめいは静かにけいに声を返して、

「桂ちゃんは、何も心配しなくて良いのよ」
「……柚明お姉ちゃんが、そう言うなら…」

 少しだけ疑念を引きずる了承を返すけいに、

「ノゾミちゃんに、血を吸って貰っている処を見せて、少し嫉妬させちゃったかしら?」

 私の当初目論見に切り込んで問う。ゆめいは本当に今迄傀儡にされていたのだろうか?

 ぴくと身を固めたので、多分ゆめいには気付かれた。ゆめいは人の所作に潜む真意の読
み解きに異様に優れている。この時もけいが嫉妬を抱いたと分っての問かも知れないけど、
同時に私の反応を伺う位は為す。あれ。そう言えばゆめいは少し前から失血多量で、まと
もに意識を繋ぐのさえ苦しい筈ではないの?

「うう、ううん。その、ね……ははっ……」

 けいの苦笑は、私の当初目論見が半分成功した事を示す。確かにけいはゆめいからの吸
血に、置いてけぼりにされた残念さを感じていた。私が鬼切り役にけいを取られた気持を、
けいも微かに感じている。今となってはそんな当初目論見などどうでも良かったのだけど。

「仲良すぎて、ちょっとだけ、羨ましいかなって。見た感じ、随分艶めかしく見えて…」

 わたしが吸血された時も外から見るとこうなのかな。そう想うとちょっと恥ずかしいよ。

 後で聞いたけど、ゆめいはこの時けいの心に微かな疑念を視たという。けいは意外と感
性鋭い。私が唯の吸血を踏み越えていた事をけいが感じた怖れを、ゆめいは危惧した様だ。
根拠の不確かな、後に引いて残したくない疑念をけいの心に残さず、別の想いと話題で塗
り替える為に、ゆめいは敢て嫉妬に言及した。

 大の懸念を小の懸念で塗り潰す。本当の懸案は、気付かれない内に引き受け解決してお
くからと。ゆめいの在り方は、平穏無事を願うと言うより、誰知らぬ内にそれを作り支え、
危惧や不安を気付かせもせず収める事だった。

「大丈夫。ノゾミちゃんの一番は常に桂ちゃんだから。わたしの一番が常に桂ちゃんであ
る様に。今のわたしは代打。本当は今宵もノゾミちゃんは桂ちゃんをお望みだったけど」

 桂ちゃんはお疲れで、明日学校もあるし。

「桂ちゃんはまた次の機会にしましょうね」

「……はぁい」

 血を呑まれる機会が先に伸びた事に、仕方なさそうな了承の答を返すけいもけいだけど。

 ゆめいの言葉をけいは疑わず受け容れて心安らかで。私がゆめいに為した吸血に、頬膨
らませ微かに嫉妬する様も苛めたい程可愛い。けいの顔に書かれてある想いは読めてしま
う。

『柚明お姉ちゃんをノゾミちゃんに取られたというか、ノゾミちゃんを柚明お姉ちゃんに
取られたというか、何か複雑……。でもこの2人が仲良くて、2人共わたしを大切に想っ
てくれているなら、それはそれで良いかも』

「ノゾミちゃんも、それで良いでしょう?」
「分ったわ。今宵はあなたで我慢したもの」

 私は敢て普段通り強気に応えるけど、胸をなで下ろしていた。そんな私にゆめいはいつ
もの穏やかな笑みで応え。ゆめいの笑みは一見何も知らず日常を漫然と過ごす笑みだけど。

「有り難う。分って貰えて、良かったわ…」

 何と強靱で温かに静かな笑みなのだろう。

 痛みも苦しみも哀しみも呑み込んで、何もなかったかの如く。今も尚平穏無事を装って。
今迄の穏やかな笑顔の裏に何があるのか、あったのか。今後も伏せて、微笑み続けるのか。

 私は微かに、この笑みが絶える時が本当に怖くなった。呼び捨てにされた時に引かなか
ったなら、この笑みが絶えた先に、経観塚で敵対したユメイがもう一度顕れたのだろうか。
そんな日が来ない様に今後は少し配慮しよう。

 そして私が抱いたもう半分の当初目論見は、完全に失敗だった。ゆめいの反応は私の予
測を超えている。様々な意味で、色々な面で…。

 ゆめいはけいに、丸裸で私の吸血を受けた様を見ても羞恥に消え入らない。多少の恥じ
らいを感じていると分るけど、その精神の揺れ方は、私の予測より遙かに平静で穏やかで。
それどころでない実情の故かも知れないけど。

 私を素肌の侭で抱き留めて身を重ね。見つめるけいの頬が赤い。それもゆめいの考えの
内か。けいを動揺させ、余計な疑いに向く感性を効かせない為の。暫く私を抱き留めた後、

「いつ迄も素肌の侭では、恥ずかしいわね」

 声はゆっくりと落ち着いて、焦りもない。

 既に吸血は終っていた。ゆめいが素肌を晒す理由もなくなっていた。ゆめいが暫くその
侭だったのは、流石に次に移行するのに今のゆめいでは『溜め』が必要だったという事か。

 ゆめいの促しを得て、重ねた身を離すと…。

「わあぁ……」

 一室を染め変える青白い光にけいの嘆声が漏れる。私も何度見てもつい視線を奪われる。
悔しいから、絶対それは口にも出さないけど。

「柚明お姉ちゃん、オハシラ様の青い衣姿」

 光の粒を衣の形で身に沿わせ輝きを拭って固定させ。文様もサイズも生地も憶えている
様で、念じるだけで所作はほぼ自動的らしい。

 きれい……。見とれるけいの呟きも、その視線を釘付けし心に抱く疑念を忘れさせる効
果を見込んだ、ゆめいの所作の結果なのかも。敢て常の服を着るのではなく青い光を帯び
て。

「久しぶりに見るけど、相変らず綺麗だよ」
「ふふ、有り難う。桂ちゃん」

 贄の血の力を揮えるゆめいは、今ではかりそめの物質を作り出す事も、無理なく出来る。
蝶も飛ばせるし、ブラシや櫛や衣も作り得た。

 ハシラの継ぎ手の力と技は、槐の力と言うより宿った羽藤の遠祖の力で、羽藤の血に宿
る贄の血の業だ。充分血の濃い者が力を使いこなせば、ハシラと類似の事は叶う。継ぎ手
を経て肉の身体を取り戻したゆめいなら特に。

 私の穿った傷が、いつの間にかなくなっていた。出血が止まっただけではなく、治癒さ
れただけではなく、痕が消えていた。青い衣とその身の周囲には、月の輝きを凝縮した色
合いが漏れつつ痩身を淡く包んで、幻惑的だ。

 にも関らず、この従姉妹同士が交す会話は、

「喉が渇いたかしら? お茶でも飲む?」
「……うん。貰っちゃって、良いかな?」

 全く日常の延長で。否、それがこの2人の特長なのかも知れない。羽藤家の日常が、草
木も眠る丑三つ時を迎えて、再び動き始めた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 ゆめいが淹れた緑茶を3人で囲んで、取り留めのない話を三十分弱続けた後、ゆめいは
けいを寝付かせた。いつもと違ったのはその後で私に、けいが起きない様に夢の操作を指
示した事か。夜の半ばで一度目醒めたけいが、寝不足にならない様に気遣ったと言えたけ
ど。

 今私は、ゆめいが台所で3人の使った湯飲みを湯に浸す様を、脇で浮いて見守っている。
数も少ないし夜も遅いので、これは今は洗わずに、明日の朝食後に纏めて洗う積りの様だ。

 月は西の隅に傾いたけど、家庭用電灯を灯しても夜なら私の夢への干渉は、この程度の
隔てを問題としない。常なら、あなたがやりなさいなとか多少は反発してみせる私だけど、
今宵は素直に従った。私に力が余ってゆめいに足りない状況は私が作った。けいの耳に入
れずに話したい想いは、ゆめいも同じらしい。

「ゆめい……その、ごめんなさい」

 水を止め、簡単な作業を終えたゆめいは何を言っているのかという瞳で私を眺めてきた。
私はそれを見つめ返す勇気を持てず、俯いて、

「ノゾミちゃん、何のこと……?」
「私があなたの血を、啜った事よ」

 ゆめいは私に全部喋らせて自覚を促す積りか。考え込む顔つきで先を促される侭に私は、

「本当に飢えた訳ではないのに、血を求めた。鬼切り役に惚れ込むけいへの苛立ちや嫉妬
を埋める為に、血を望んだ。血の甘さに誘われて、あなたの身を害する程に、血を啜っ
た」

 私の所作は、ゆめいも己の身体で大凡分る筈だ。言えと促すなら、全部語ろう。懺悔し
よう。私の所作だ。ゆめいは傀儡にされて意識を奪われていたから、全ては知らないかも。
謝罪は謝るべき事を確定させて意味を持つと聞いた。ゆめいが促すなら私は応えるべきだ。

「私があなたを危うくさせた。けいの大切な人であるあなたを。私の大切なけいの日々を
支えているあなたを。必要以上に、吸血した。霊体を保つ以上にその甘さに負けて、身体
に差し障る程に啜ってあなたを、危うくさせた。
 ……ごめんなさいっ、ゆめい。私、私…」

 私は千数百年の生の中で、人に謝った経験が殆どない。人だった頃は幽閉された姫君で、
人に接する事自体が少なかったし、鬼に成った後も大部分の歳月は良月に封印されていた
から、誰かに謝る事も謝られる事もなかった。

 言葉をまともに交わしたのは、ミカゲと主さま位だけど、主さまは謝罪を求める方では
なかったし。ミカゲには謝るべき事をしても謝った憶えがなかった。そう、けいになら…。

 申し訳ない事をした。やってはいけない事を為した。謝り方を分らない侭言葉を連ねる。
果たして想いは届くだろうか。謝ってもゆめいの血は復しないけど、許しは望めないけど。

 俯く顔を無理に上向かせ、語りを紡ぐ私に、

「ノゾミちゃん……」

 呼び捨てでない事が救いに思えた。ゆめいは私を見放してないかもと微かに望みを抱く。
潤んだ私の瞳を間近な笑みは静かに見下ろし、

「……何も、謝る必要なんて、ないのよ…」

 罪の内実を語らせていると想ったのは私の邪推だった。ゆめいは本当に私の謝罪を不要
と想っていた様だ。謝罪を要する過ちは何もしてないと。生命に関る吸血を経て、まさか。

「わたしがノゾミちゃんを補うと言ったのは、こういう意味でもあったのだから」

 代りに血を啜られる事は承知だったと。
 生命を捧げる事も予測の範囲だったと。
 それを前に防ごうとも抗おうともせず。
 当初から受け容れる積りだったのだと。
 驚愕に答を返せない侭凍り付いた私に、

「間違えて桂ちゃんの血を吸いすぎない様に、あなたにきつい縛りを掛けた。それは必要
な事だったけど、それであなたが困るならわたしが満たす。最初からその積りだったか
ら」

 わたしに補えるからこそきつく縛ったの。
 あなたは何も悪い事をした訳ではないわ。
 文字通りゆめいはわたしを補う積りだと。
 信じられないけど瞳は笑みを湛えている。

「あなた、けいを守る為に自身を贄に…?」

 ゆめいが前面に立って吸血を受ける事でけいを守る。私が存在を危うくする程消耗した
り、私の欲望が暴走して、多量の吸血を欲する事態があれば、ゆめいがその身で私を満た
し補う。ゆめいの最後の一滴を啜り終る迄はけいに向かないようにと。けいの吸血に縛り
をかけ、ゆめいに縛りがないのはその為だと。

「でも、どうして? ゆめい、あなたなら」

 防げば良いじゃない。言霊の縛りや血の力で己を守り、私を調伏すれば。心の隅に警戒
の念を置けば、私の邪視は効かなかった筈よ。なぜあなたが己の血と生命でけいを守る必
要があるのよ。あなたは力でけいを守れた筈よ。それで、あなたは自身も充分守れた筈な
のに。

「今宵の様な過ちは最初からなかったのに」

 推測の及ばない問に声が鋭くなっていた。
 分らないから。その真意が見えないから。

 ゆめいはなぜわざわざ私に食いつかせる途を残したのか。私を陥れる為だとは思えない。
それ程ゆめいは悪辣ではないし、第一ゆめいがその為に危機に瀕している。分らなかった。
ゆめいは好んで痛みや苦しみを求めている?

 私の見上げる視線に、ゆめいは正面から、

「警戒の必要な者を桂ちゃんの、わたしの一番たいせつな人の間近に、置きはしないわ」

 単純明快な答に、私の言葉が続かなかった。

 ゆめいがわたしをけいの間近にいる事を認めたのは、全幅の信を寄せた故だと。ゆめい
が備えねばならない様な私なら、けいの側にいる事を許す筈がないと。私にけいの傍にい
る事を許す以上、自身には備え等不要だと…。

「あなたは桂ちゃんをたいせつに想い、桂ちゃんにたいせつに想われた。それが確かなら、
それを認めるなら、わたしの警戒など無意味。無用な警戒はお互いの心を隔て遠ざける
わ」

 その通りだった。否、そうでも尚拾年敵対した私とゆめいが心通わせる事は難しかった。
ゆめいが全面的に心を開き、私が厚かましく踏み込まないと、今の関係は成立していない。

 ゆめいの答は剛胆で無茶だけど正解だった。
 でもそれは時に己の身を削る正解でもある。

 その代償を受容して、その危険を承知して、その不利益を蒙って尚揺らがず。信を仇で
返されても微笑み、尚その身を差し出し続ける。まだ啜っても良いし、何度でも啜って良
いと。ゆめいが、保つ平穏無事の影で担う負荷は…。

「あなたが桂ちゃんのたいせつな人なら、わたしにとってもあなたはたいせつな人。あな
たが桂ちゃんをたいせつに想ってくれるなら、わたしにとってもあなたはたいせつな人
…」

 わたしの望みは桂ちゃんの幸せ。桂ちゃんとの幸せではない。その幸せの相手が誰であ
っても良い。わたしは嬉しいし、心から祝う。烏月さんでも、陽子ちゃんでも。今はあな
たも確かにその幸せの一部なの、ノゾミちゃん。

「だから、わたしはあなたの幸せも守るわ」

 私の為でもあると。けいのたいせつな人である私の為でもあると。故に私を闘って退け
たり威嚇し隔てるのでは無意味だと。私の暴走を受け止めるのも私を想う故で守る為だと。

「葛ちゃんや烏月さんの心配を取り除く為にも、それが最善だった。わたしが備えなく安
全である事が、あなたの無害の証明になる」

 私が人の生命を脅かさない事が、鬼切り頭達を納得させる鍵だった。私のけいとの同居
を鬼切部が暗黙にでも認める最低条件だった。

 ゆめいが受け止めて大丈夫な限り、私はけいの害ではない。ゆめいが無事な限りけいの
安全は揺るがない。私は斬るべき鬼ではないと鬼切部に、ゆめいがその身で保証していた。

 漸くゆめいの思考を後追いでも辿れた。ゆめいは唯けいの肉体や生命を保つ訳ではない。
唯けいの安全を願うなら私を隔てる方が早い。私が、陽子の記憶を抹消しようとした様に
…。

 ゆめいはそれを為さなかった。私がけいの傍にいる事も受け容れ、陽子がゆめいや私の
事を知っても何の処置も下さなかった。注意深く見守っているに違いないけど、陽子への
けいの信頼を尊重し、その行動に枠を填めず。

 同じくゆめいは私を受け容れて尚排除せず。私の危険度合いは、実際陽子のそれを遙か
に凌ぐ。陽子はけいの身を害する動機も力も持ってないけど、私はその両方を持つのだか
ら。

 その強さと優しさは、私に及びようがない。

 焦りや不安を呑み込んで、けいの信に身を委ねる。けいが信じて心を預けた相手に、己
の生殺与奪も全て託す。一番大切なけいも込みで。その覚悟抜きにこんな無茶は叶わない。

 ゆめいは私が鬼切部の斬るべき悪鬼ではないと生命で証していた。ゆめいが日々を平穏
無事に生きる限り、私は少しだけ血を頂くけど生命は奪わぬ小鬼だと。鬼切り役がゆめい
に逢う事を望んだのは、その状態を見る為だ。けいに危害が及ぶ前段に、必ずゆめいに危
害が及ぶ。それが、私の悪鬼か否かの答だと…。

 ゆめいは鬼切部から私を守っていた。私に見える場で、斬った張ったで守るのとは違い、
無害な者だと証明し、敵ではないと示す事で。犠牲も負担も一身に受け私にも何も語らず
に。

 何で黙っていたのかと、憤りを目線に込める私に、ゆめいは知られぬ方が意味があると、

「あなたを守ったのはあなた自身の行いよ」

 烏月さんは何もせず引き上げたでしょう?

 その通りだった。それを知っても知らなくても、私が生命を吸い尽くす程の害意を抱か
なければ、この日常に破綻は訪れない。私はけいとゆめいと平穏無事な日々の幸せを享受
できていた。己をしっかり抑制できていれば。

『代りに、わたしがあなたを、補うから…』

 ゆめいは私とけいの安全弁だった。突発的な事情でけいの血が啜れなかったり、多量の
血を欲してけいを危うくしそうな時、ゆめいが代りを担う。その覚悟をゆめいは最初から
引き受けていた。間抜けどころの話ではない。その事に考えが及ばなかった私こそ愚か者
だ。

 その安全弁を小さな憤りで壊してしまった。
 幸せを溜めるたらいに穴を開けてしまった。
 守りを守りと知らずに崩したのは私自身だ。

 身が震える。寒さではなく己の不明が憎く悔しい。私はけいやゆめいの温かさに包まれ、
この数十日何を為してきたのだろう。自身の心が冷たく感じられた。先行きが寂しく寒く
感じられた。そんなこの身を尚愛おしむ様に、

「あ……」

 抱き留めてくれる腕の温かさ。
 受け止めてくれる心の温かさ。

 こうやってけいに迎えられた事を想い出す。
 今はこの身がゆめいの両腕に抱き留められ。

 槐の花の甘い香りが私を包み込む。主さまはこの様にゆめいに拾年抱き留められたのか。

「分ってくれて、有り難う」「……っ!」

 陳謝が必須な事を為したのは、私の筈だ。
 礼を言われる事を私は、為してない筈だ。
 なのに今ゆめいは確かに私に有り難うと。
 背中を後頭部を撫でる滑らかな手触りが、

「わたしの血が尽きてしまう迄に、分って貰えて良かった……わたしの為と言うより、あ
なたと、そして桂ちゃんの為に。有り難う」

 その答がわたしの涙腺を破壊した。どうして、どうしてけいでもない私に。経観塚では
何度となくその生命を脅かし追い詰めた私に。

 問と涙へのゆめいの答は、私にも視えた。
 むしろゆめいには、他の答は似合わない。

「あなたは桂ちゃんのたいせつな人だから」

 温かな言葉は、私を胸に受け止めたゆめいの唇から、この身の全てに光の如く降り注ぐ。

「桂ちゃんがあなたを失って、寂しげな顔を見せるのを、捨て置けはしないでしょう?」

 数十日前迄憎悪を投げ合っていた仲なのに、

「桂ちゃんをたいせつに想ってくれるあなたを、一つの過ちでみすみす失わせ隔ててしま
うのは、桂ちゃんにも哀しい事でしょう?」

 けいが私達をこんなに確かに繋いでくれた。

「人にも鬼にも間違いはあるわ。受け止められる物なら、わたしが受け止める事でノゾミ
ちゃんが確かにそれに気付いてくれて、今後の過ちを防ぎ止められるなら、わたしは桂ち
ゃんの為に、あなたに側にいて貰いたいの」

 けいに注がれる無尽蔵の愛の一部が私にも。

「あなたと共に時を過ごす桂ちゃんは、とても晴れやかで楽しそう。見ていて少し羨まし
くなる位に。あなたと一緒にいて幸せそうな桂ちゃんを、今後も支えて保ちたいから…」

 ゆめいは己に湧き出づる嫉妬を喜んでいる。

 羨む程けいを愛でる己を、羨む程誰かを愛おしむけいを、羨む程けいに愛される誰かを。
考えた事もなかった。嫉妬を自ら喜ぶなんて。嫉妬を越えてけいもその相手も愛せるなん
て。

 私の瞳に滲む涙も想いも、全て青い衣と柔らかさで受け止め。信じられない。少し前迄
生命をやり取りしていた相手とこんな抱擁を。

「わたしは今後も、あなたと吸血の縛りは約定しない。あなたが桂ちゃんの血を啜れなく
て困った時は、いつでもわたしに来て貰う為に。わたしは制約を課さない。あなたが苦し
い時や危うい時に制約があっては困るから」

 駄目だ。愛しさも嬉しさも抑えきれない。
 ゆめいへの想いが胸にも喉にも溢れそう。

「力と生命の続く限りわたしが受け止める。
 叶う限り、わたしがあなたを、補うから」

 ぎゅっとこの身を抱き締めて、重ね合わせ。
 私もゆめいを確かにこの両腕で、身に抱く。

 今では、ゆめいも私のたいせつな人だった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 私がゆめいの布団に入り込んだのは、その三十分程後だったろうか。隣ではけいの微か
な寝息が安らかだ。その寝姿も寝顔も可愛らしくて、朝迄傍で愛でて楽しみたかったけど、
今宵の私は為さなければならない事が出来た。

 私の嗚咽を受け止めた後も、最後迄ゆめいは足取り確かだったけど。けいと共に茶を囲
んでも私との吸血を想い返させる等して、不調を気取らせなかったゆめいだけど。その疲
弊の原因たる私だけは、ごまかされはしない。

 ハシラの継ぎ手の衣姿は、ゆめいの本気を示す。けいの目線を奪い思考を逸らす為だけ
ではない。ゆめいは今、血の力を本気で紡ぎ出さないと危ういのだ。それ程追い込まれて
いる。一言も語らないけど、そぶりにも見せないけど、ゆめいは失血に相当苦しんでいる。

「私が、血を呑みすぎてしまった所為で…」

 生命が危うい程吸血したのはついさっきだ。けいは何とかごまかせたけど、血の回復は
当分先になる。日が昇っても沈んでも、数日ゆめいは血の不足に悩む。私が血を啜った為
に。

 私は普段の様に青珠に戻らず、ゆめいの布団に夜這いを為した。無理矢理押し入って蒼
い衣姿に手を伸ばし、拒絶も聞かない姿勢に、

「ノゾミちゃん、まだ血が足りなかった?」

 虚ろな視線で、間近な私を見つめるけど。
 漸く取り繕えない程の逼迫を見せたけど。

「……あなた、自身がもうふらふらなのに」
「わたしの血は、桂ちゃんより薄いから…」

 ゆめいは今この状態が危機だった。血が復する迄、身を繋ぐ事が最優先だった。私等に
更に血を分け与えて良い筈がない。今この一口はゆめいの生命さえ左右する。にも関らず、

「あなたが必要として求めるなら拒まない」

 右腕で私の後頭部を抱いて首筋に寄せる。
 そこは正にさっき私が食い破った箇所だ。
 ゆめいは生命を捧げ私を受け容れていた。

 牙を立てて啜りなさいと。残った生命を吸い上げなさいと。けいから好き放題に吸えな
くした以上、その好き放題はゆめいが補うと。それがけいのたいせつな人を守る事に繋る
と。

「お黙りなさいっ。……ゆめい、あなた!」

 人の心配など出来る状態でないでしょう。
 叱声にも反応が鈍いのはゆめいの意識が。

「あなたの血なんかもう要らないわ。私はもうあなたより遙かに強大になったの。あなた
の血なんて、助けなんて欲しくないから…」

 あなたの微笑みを明日にも欲しい。けいと共に日々を過ごすあなたを、明日にも欲しい。

「だから私に癒させなさい。私の力を使いなさい。あなたから啜って得た生命をあなたに
還すから、その身を保つのに使いなさいな」

 血は返せないけど、想いは返せる。私が冷たくした身を、私が温める。身体で迫る私に、

「あなたに血を分けた事は、悔いてないわ」

 ゆめいは私を拒まなかった。拒む意思を見せなかった。拒んでも、今の私はゆめいの意
思を踏み越えられる。ゆめいから啜った力で。ゆめいは私の意図を言葉に出す前から承知
か。

 邪視も拒まず、吸血も拒まず、夜這いも拒まず。首筋も唇も間近過ぎて私の頬が染まる。
血の匂いとは別の香りで、理性が弾けそうだ。

「唯、それでわたしの血が不足してしまった。血が復する迄の間、この身は暫く寝ても起
きても、足りない血で動き続けるから疲労が募るわ。疲労は贄の血の力で癒せる筈だけ
ど」

「血が少ない時点で、贄の血の力も少なくなっている。あなたは癒す力も私に奪われた」

 ゆめいは布団の中で細腕で、迫る私を抱き留めて、身を重ね合う。蒼い衣から光が溢れ
るのは、全力をゆめいが強いられている故だ。それは私の所為。私の為した結果。故に私
が。

「私の力に、あなたを支えさせなさいな…」

 青珠に宿った私は、ゆめいと同じ癒しの力を持つ。贄の血を大量に得て、私の力は有り
余っている。まだ感覚に慣れてないので巧く操れないけど、ゆめいが私に感応を及ぼし私
の力を操るなら。私も癒しの操りに馴染める。

「べ、別にあなたの肌触りがしっとり滑らかで気持良いからくっついている訳じゃないわ。
これはあなたが危うくなったから仕方なくよ。あなたが血の薄い身の程を弁え適量を把握
していれば、こんな事にならずに済んだの。私が望んで肌を許すのは、けいだけなんだか
ら。あなたは今宵だけ特別扱いよ、悦びなさい」

 今後は、私もあなたの状態を把握して血を啜る事にするわ。生命を奪わなければ何度で
も末永く血を啜れるあなたを誤って損なっては、勿体ない。鶏は生かして卵産ませないと。

 ゆめいは私の強がりを被せた真意を分って、

「有り難う。ノゾミちゃんは、優しいのね」

 けいに時々する様に、右手で頭を軽くぽんぽんと叩く。その感触は温かで心地良いけど、
私が主さまに会うより昔の遠い感触を微かに思い起させ頬を濡らすけど、切なくも幸せな
想いに浸れるけど。でも、それを千三百歳以上も年下の娘にされるのは、されて喜ぶのは、

「ゆめい、千年生きた私を、又子供扱い?」

 己にも向けたい嘆きと怒りを宿らせた声に、ゆめいは半ばこの反応が返される事を承知
で、

「ふふ、ごめんなさい。じゃあ、お願いね」

 子供扱いを止めて、大人扱いに。私の口をその首筋に、少し前に食い破ったそこに当て。
本当にけいにこの様を見られたら嫉妬される。それが今心地良いより後ろ暗いのは、きっ
と私がゆめいにも本気の想いを抱いているから。

 けいが正妻で、ゆめいが愛人か。けいをゆめいに渡す積りはないけど、ゆめいもけいに
渡したくなくて。私の一番大切な人はけいだけど、それは今も間違いないけど、ゆめいも
手放し難く捨て難い。2人が近くにいる事が今更ながら、都合良くも都合悪くて悩ましい。

「流し込んでくれるなら、ここが多分最適ね。さっき迄流出していた口だから。ここから
癒しを流し込めば全身に戻り行く。それに…」

 あなたが尚吸血を望むなら、再度食い破るにも最適よ。さっき迄流出していた口だから。

 柔らかな肌は傷が跡も消えて、白く艶やかで私に再度食い破ってくれと言わんばかりだ。
唇が触れた肉の柔らかさと甘く香しい匂いに、私の意識が心地良さで再度飛んでしまいそ
う。

 歯を立てて食い破りたい衝動を堪え、唇だけを当てて、肌の奥へと息を吹き込む感覚を、

「ふぅっ……」「……ぃぅっ」

 力が熱となって、ゆめいの肌から浸透している筈だ。柔らかな素肌がびくと震えるのは、
癒しを回される事が未経験の故か。或いは私の力の制御が巧くなくて、痛みか苦しみを…。

 ゆめいは為される侭を受け容れて微笑み、

「有り難う、ノゾミちゃん。とても上手ね」

 ゆめいの癒しを受けた時の感触を想い出し、ゆめいの身体に制御して流し込む。ゆめい
の頬が吸血した時の様に朱に染まって熱を帯び。血は戻せないけど、力で身体の疲弊は癒
せる。それが私に出来る限りだから今はその全てを。

 唇からだけではなく、触れた肌の全てから力を流す。私の衣からも、ゆめいの蒼い衣へ。
私達はけいの血を介して既に深く繋っていた。ゆめいの繊手が、身も心も抱き留めてくれ
る。柔肌を求める私の抱きつきが更に強くなって。

 私もけいの間近でゆめいに心を満たされる。
 見られたら本気で嫉妬される光景だけど…。
 偶には鬼も鬼の居ぬ間に洗濯をしても良い。


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