初めての夜
この夏、わたしは唯1人の家族だったお母さんを亡くし。遺産として残されたお父さん
の実家を見る為に、長い道を行く電車に乗り。
とても不思議な夢を見た。
思い出せない赤い記憶。
群れ飛ぶ蒼い光りの蝶。
そして、悲しい目をした懐かしいあの人。
わたしの生れ故郷でもある経観塚、羽様。
そこでわたしは色々な人と会い。そこでわたしは色々な人と別れ。色々な紆余曲折の末。
自らの手で鎖したたいせつな記憶を取り戻し、己自身を取り戻し、たいせつな人を取り戻
し。
わたしは日常の中に、町の家に帰ってきた。
二度と喪う事のない、たいせつな人と共に。
「たっだいまあぁっ。ふぅ、疲れたぁ…!」
二学期迄、あと半月少しを残す夏休み後半。
空は抜ける様な青で、まだ夏は真っ盛りだ。
先頭を行くわたしは、旅先で何度か悩まされた重たい手提げバッグを下に置き。家の鍵
を差し込んで、扉を開くと同時にごあいさつ。
お帰りと、出迎えてくれる人はいないけど、声は自然と出てしまう。家の中から答はな
いけど、こう言う時が寂しさを実感する場面かも知れないけど、今のわたしは1人じゃな
い。
「漸く辿り着いたよぉ。さ、入って入って」
今日からはわたし達みんなの家なんだよ。
柚明お姉ちゃんを振り返る。日中顕れられないノゾミちゃんは、携帯ストラップの青珠
に潜んだ侭だけど。取り憑かれた状態のわたしは、何の力が無くてもその意図や印象が伝
わる。ノゾミちゃんが伝えたい時限定だけど。
「初めまして。宜しくお願いします」「…」
柚明お姉ちゃんのお辞儀はやや丁寧すぎ。
ノゾミちゃんの感触はやや緊張して硬い。
この拾年お母さんと暮らした町の家は、2人とも今日が初見だし無理もないか。ノゾミ
ちゃんは拾年前、経観塚でお母さんに斬られていたのだっけ。その気配が残っていれば…。
「桂ちゃん。携帯電話、少し貸して貰って良いかしら」「い、いいけど。お姉ちゃん?」
物想いに耽って目の前が疎かになっていた。気付けば青珠の付いた携帯は、柚明お姉ち
ゃんの手の中に。崖から落ちて壊れた先代の代りに、経観塚唯一の携帯ショップで入手し
たお気に入りだ。お姉ちゃんは戸籍回復中で本人確認できない為に、未だ携帯を持ててな
い。
間近に添った綺麗な肌は、盛夏の熱さの為か微かに汗ばんで艶やか。整った顔立ちは優
しい笑みを絶やす事なく。なぜか傍にいるだけで胸がドキドキしてしまう。細い右手が携
帯を持ち、黒い双眸が液晶画面を暫く見つめ。
時間の確認かな? 家に入れば時計はあるのに。お姉ちゃんは携帯を握った手を下ろし、
「入りましょうか」「あ、うん。そうだね」
わたしの携帯を持った侭、お姉ちゃんはその指先で、自身の荷物のバッグを持ち上げる。
すぐ返されないと困る物でもないから良いか。
拾年間わたしが出発し帰る処だった町の家。
いつも玄関を通る時に感じる涼やかな錯覚。
何も変ってない。ここはずっと変る事なく。
お母さんと2人過ごした想い出を宿し続け。
わたし達の新しい想い出を今から刻み行く。
お母さん、ただいま。わたしにも、お母さんにもたいせつな人が、戻ってきてくれたよ。
わたし、もう寂しさでは泣かないから。安心して。前向きに精一杯、毎日に向き合うから。
今から、羽藤家の新しい日々が始る。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「ふぅ、着いたよ」「桂ちゃん、お疲れ様」
「お姉ちゃん、お茶でも飲む?」「ええ…」
両手に持った重い荷物は居間の隅に置き。
間近に座って添うお姉ちゃんに尋ねると、
「まずお願いが、あるのだけど」「うん…」
わたしはお姉ちゃんを奥の部屋に案内していた。そこは拾年間顔を思い出せなかったお
父さんを思い祈る唯一の場で。この夏からお母さんの遺影が飾られた、小さな仏壇がある。
荷を片付ける必要はあったけど。柚明お姉ちゃんが最初に望んだのも、わたしの望みも、
お母さんとお父さんへのご挨拶と報告だった。
「お母さん、ただいま。……経観塚でわたし、記憶を取り戻して来たよ。忘れてはいけな
い人を、失ってはいけない人を、取り戻して来たよ。白花お兄ちゃんはオハシラ様になっ
てしまったけど、柚明お姉ちゃんはここに…」
先を譲って貰えたので、正座して両手を合わせ遺影に向けて語りかける。声に出してし
まうのは、お母さんの死を心の底で受け容れ切れてない為かも。生きた人にはしっかり声
を響かせないと、想いを分って貰えないから。
「たくさん迷惑と負担掛けて、ごめんなさい。わたしが忘れた何もかも、お母さんが背負
って堪えていたんだね。お兄ちゃんやお姉ちゃんや亡くなったお父さんが、代りに心傷め
ていたんだね。何も知らず全て忘れて守られて。その影でみんなに大変な痛みを背負わせ
て」
死んでしまう迄分らなかった。死後も尚分ってなかった。お母さんが生命縮める程疲れ
果てていたと言う事も。最期迄分らず何もできず。己の哀しみに涙を流していた。その間
みんなはわたしの為に、心を痛めていたのに。
「わたし、本当に親不孝者、ごめんなさい」
幾ら謝っても謝りきれる筈はない。もうお母さんに償う事は叶わない。取り返しの効か
ない物も世にはあるのだ。向き合う程に、それを実感させられる。わたしが禍の子だった。
わたしの呼んだ禍でお父さんは生命を落し、白花ちゃんは鬼に憑かれ。柚明お姉ちゃん
は人の生も死も肉の体も抛って、お母さんは心労で生命を縮め。何もかもが、わたしの所
為。わたしが拾年前ノゾミちゃん達を、鏡から呼び出していなければ、みんなはきっと今
も…。
わたしは人の犠牲の上で、何も知らず安穏を貪ってきた。己の哀しみだけに涙してきた。
その底を支える人達の真の悲痛に気付かずに。
「ごめんなさい、本当にごめんなさいっ!」
謝れば謝る程悔恨が心に深く刺さる。せめて死んでしまう前に、ありがとうを言いたか
った。ごめんなさいを伝えたかった。唯この拾年、女手一つで育ててくれただけじゃない。
お母さんはお父さんを喪い、柚明お姉ちゃんを喪い、白花お兄ちゃんを喪って。その上で
尚全ての原因であるわたしを愛し育てたのだ。
その深い愛にわたしは生前、遂に何の答も返せなかった。返せてない事にも気付けてな
かった。忘れ去った物、失った物の大きさを知らず、深すぎる想いに確かな答を返せずに。
せめてもう少し早く全てを思い出せれば!
お母さんはどれ程心安らかに終れた事か。
心の負荷を除ければ、生命も繋げたかも。
わたしは幾重にも親不孝者だ。禍の子だ。
仏壇や遺影に謝る事しかできない。分って安心して貰う事も、喜んで貰う事もできない。
涙が頬を伝う。それにもわたしは悔しくて。この嗚咽は手遅れの証だ。間に合わなかっ
たわたしの後悔だ。己の為の哀しみでしかない。
謝る想いさえ偽善に想えて、冷える心を、
「桂ちゃんは悪くない。強く賢く優しい子」
両肩を後ろから優しく包み込んでくれて。
右の耳に優しく情愛を注ぎ込んでくれて。
「叔父さんも叔母さんも、誰もあなたを恨み憎んではいない。みんな桂ちゃんを心の底か
らたいせつに想い、最期迄守り支えていた」
白花ちゃんも桂ちゃんを必死に助けてくれたでしょう? 悪夢の奥の奥迄も踏み込んで。
柔らかに抱き留められる感触に、頷くと、
「桂ちゃんが禍を招いた訳ではない。桂ちゃんが禍を起こした訳でもない。桂ちゃんは禍
の起こる時起きる場に、偶々居ただけなの」
あの夜の事は、全て定めの輪の中だった。
お姉ちゃんは、哀傷を抑えた優しい声で、
「叔父さんも叔母さんも白花ちゃんも、桂ちゃんの守りに生命を尽くした事を悔いてない。
わたしが桂ちゃんの守りに生命を尽くして悔いてないのと同じ。直接の答は貰えないけど、
心の中にいる叔母さん達に、問うてみて…」
拾年前に主の分霊の手刀の前に立ち塞がり、生命と引替にわたしを助けてくれたお父さ
ん。
この拾年、わたしの心を壊さない為に全てを秘して、女手一つで育ててくれたお母さん。
拾年忘れ去られた後で尚、わたしを守りに悪夢の奥迄助けに来てくれた白花お兄ちゃん。
そして拾年忘れられた侭、わたしが綻ばせた主の封じを独り保ち続けた柚明お姉ちゃん。
底知れぬ程の痛みを負わせ、限りない苦しみを負わせ、尽きる事の無い哀しみを負わせ。
でもお父さんは最期迄、わたしの安否を気遣って声を掛けてくれて。お母さんは生命尽
きる迄、わたしを案じ続けてくれて。白花ちゃんは微笑みの印象を残して封じの要になり。
「叔父さんも叔母さんも白花ちゃんも、桂ちゃんの幸せを願っている。その哀しみや涙を
願った訳じゃない。感謝の想いを抱く事は大事だけど、桂ちゃんが哀しみや悔いに沈む事
は誰の喜びにも繋らない。分るでしょう?」
うん……。柔らかな肌触りが、幼子の肌の様に温かくて心地良い。独りの哀しみに落ち
込んで、見失いかけた己自身を外に向け直す。
後ろから回った繊手がわたしの胸で結び合わされて、繋がれて。背中に柔らかな感触が
息遣いと共にぴったり添ってくれて。嬉しい。わたしは未だ全てを喪ってはいないと想え
る。未だ想いを返す事のできる人はいると想える。
間近に添うとお花の甘い香りが漂って来て。
孤独も哀しみも悔いも痛みも拭ってくれる。
「桂ちゃんの全てを受け止めさせて。わたしはその為にここにいるの。大丈夫、どんな桂
ちゃんでもわたしの最愛の人。羽藤桂と羽藤白花は、永久に羽藤柚明の一番たいせつな人。
身も心も尽くし捧げるわたしの心の太陽…」
無尽蔵な愛で受け止めてくれて。無条件の愛で抱き留めてくれて。無制限に愛を注いで
くれて。この温かな柔らかさと間近にいられる自身の今が、心底嬉しい。底なしに重い罪
を犯し、甚大な痛みを負わせたわたしを、尚許し受け容れ、助け守り、支え愛してくれる。
「桂ちゃんが犯した罪があるなら、共に負う。桂ちゃんが為した過ちがあるなら、共に償
う。その痛み哀しみが拭える迄付き添うわ。いえ、付き添わせて。これはわたしのお願い
なの」
後ろから、頬に頬がぴったり合わせられ。
「……わたしの全ては、桂ちゃんの為に…」
嬉しい。身に余る程の幸せがわたしの心を繋ぐ命綱で。罪悪感に潰されない最後の砦で。
こうして頼る事が、お姉ちゃんの迷惑で負荷になると分って尚、己の弱さを抑えられない。
お母さんがしてくれた様に、頬を唇を合わせてくれて、肌身に心を重ねてくれて。だか
らわたしは救われる。途方もない苦痛と傷を負わせたけど、柚明お姉ちゃんがこうして励
ましてくれるから、わたしは己自身を許せる。この人の想いに応える為になら生きたく願
う。
お母さんも、お父さんも白花ちゃんも喪ったわたしだけど。喪わせたわたしだけど……。
みんなの情愛を感じ取れるわたしは幸せです。それを教えて感じさせてくれる柚明お姉ち
ゃんと、一緒に過ごせる今のわたしは幸せです。みんなの想いに応える為に、わたしは俯
くのではなく、確かに前向きに生きていかないと。深く強い想いに甘えるのではなく応え
る為に。
ありがとう。諸々の罪悪感も苦味も痛み哀しみも越えて、一つだけ心を伝えられるなら。
わたしは、唯その想いだけを強く抱きます。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「叔母さん、叔父さん。戻って参りました」
仏壇の前を譲ると、柚明お姉ちゃんもお母さんの遺影に両手を合わせ、ゆっくり言葉を。
「笑子おばあさんとの、わたしとの約束を最期迄果たして頂き、有り難うございました」
深々と頭を下げる。透き通ってやや哀しげな微笑みには、どれ程の想いが込められてい
るのだろう。号泣も嗚咽も見せなかったけど。哀しみだけじゃなく、感謝も嬉びも懐かし
さも親しみも込めた、深甚な情愛を肌に感じる。
暫くの沈黙の後、その唇は再び綺麗な声を、
「わたしの力量が足りない為に、何度か桂ちゃんと白花ちゃんを哀しませ、危うい目に遭
わせてしまいました。2人を守る積りが、逆に助けられ生命与えられて、今に至りました。
今お二人にご挨拶できるのも、桂ちゃんと白花ちゃんが紡いでくれた人の輪に、支えら
れ守られた末の事です。その中で、拾年前に敵同士で、仇でもあったノゾミとも心通わせ、
日々を共に過ごしたく、来て貰っています」
今ではノゾミは桂ちゃんにもわたしにもたいせつな人であり、生命の恩人です。どうか。
仏壇の前でお姉ちゃんは、床に額をピタと付け。暫くの間身じろぎもせずに額づき続け。
一体何分、経っただろう。柚明お姉ちゃんは面を上げると、わたしの携帯を取りだして、
「ノゾミ。桂ちゃんのお母さんとお父さんに、ご挨拶をして」【……ええ、……分った
わ】
ノゾミちゃんが素直に従ったのは、事前に打ち合わせていたのかな。拾年前お母さんに
は、ノゾミちゃんは鬼で敵だった。ノゾミちゃんにもお母さんは、拾年前に己を斬った仇
だった。でもこの家で一緒に暮らすなら、ノゾミちゃんも今迄の経緯を避けては通れない。
わたしが拾年前の過ちを避けて通れない様に。
日中顕れられないノゾミちゃんは、取り憑かれたわたしと、多分血の力を使えるお姉ち
ゃんに聞える声で。短くややぶっきらぼうに。
【ノゾミよ……あなたに斬られた恨みはあるけど、主様を封じた羽藤への憎悪はあるけど。
私は誰より主様より桂を好いたの。あなたの娘を。人の世界を生きる桂の傍に共にいたい。
桂を一番たいせつに想うから、私は桂と桂のたいせつな者を害しない。守り助けるわ…】
いつも強気なノゾミちゃんだけど、遺影を前にやや弱気だ。そう言えばノゾミちゃんが、
誰かにお願いする図って、殆ど見た憶えが…。
「有り難うノゾミ」【あなたの為ではない】
ノゾミちゃんは、お姉ちゃんの労いにも、
【私の一番たいせつな桂と、一つ屋根の下で共に時を過ごす為には、必要な手続だもの】
お姉ちゃんは、ノゾミちゃんが戻った青珠付きのわたしの携帯をその胸元にすっと入れ。
再び仏壇に正対して、美しい頬を締め直し、
「わたしは未だ約束を果たし終えていません。
白花ちゃんからも桂ちゃんを託されました。
為さねばならない事は山積みです。でも」
戦いに挑む様な、凜とした気迫を感じた。
唯柔らかく優しく、静かなだけじゃない。
鋭くて涼やかに動じない、気高い強さが。
「わたしは、わたしの幸せを守り抜きます。
わたしの一番たいせつな人の幸せを、叔父さんと叔母さんの一番たいせつな人の幸せを、
羽藤柚明の全てを注いで、守り支えます…」
叔父さん、叔母さん。今迄、わたしの幸せを守り支えてくれて、有り難うございました。
その為にお二人の生命を縮めさせ、碌な助けも為せずに、本当に申し訳ありません。今か
らはお2人の手が届かない処を、桂ちゃんと白花ちゃんのお陰で肉の体を取り戻せたわた
しが、確かに守り支えます。どうか安らかに。
それは願いと言うより、決意の表明だった。
お母さんとお父さんに、心配は不要だよと。
唯悼むだけじゃなく、唯祈るだけじゃなく。
この人はお父さんとお母さんの真意を汲み。
柚明お姉ちゃん自身の真の想いと願いから。
今後はその手でわたしを確かに守りますと。
仏壇に深く一礼したお姉ちゃんは、正座の侭立つ事はせず、左にいるわたしに向き直り、
「桂ちゃんにも、正式にご挨拶しなければ」
今のこの家の主はわたしだからと、お姉ちゃんは両手を添えて、頭が床に付く程深々と、
「桂ちゃんのご厚意に甘えて、一緒に住まわせて頂きたいと思います。拾歳も年上なのに、
生活費を稼ぐどころか、社会復帰の準備から始めねばならない、暫く何の役にも立てない
従姉だけど。叔母さんが桂ちゃんの為に残した遺産で、暫く養って頂く事になるけれど」
できるだけ早く、社会人として職について、桂ちゃんに負担が掛らない様に頑張るから
…。
「その守りと幸せにこの身と心を尽くさせて。宜しくお願い致します」「おっ、お姉ちゃ
ん。要らないよ。そんな他人行儀なごあいさつ」
下げた侭の両肩を、わたしは躙り寄って掴んで引っ張り上げる。この家は確かにわたし
の家だけど、わたしの頑張りの成果ではない。頭を下げられる程の値はわたしにはない。
そして柚明お姉ちゃんに一緒に住んで貰うのは、お姉ちゃんの願いではなく、わたしの願
いだ。頭を下げて頼み込むのは、わたしの方なのに。お姉ちゃんの願いに許しを出すので
はなくて、わたしがお願いしてこの家に来て貰ったのだ。
その撫で肩を両手で持ち上げ、黒い双眸を覗き込む。艶やかな肌が、美しい目元が、涼
やかな唇が、間近に触れそうでドキドキする。
「柚明お姉ちゃんは、拾年前も今もこれからもずっとわたしのたいせつな人、大事な家族。
一緒に暮らして欲しいのはわたしの願い、わたしの望み。拾年前迄住み慣れた経観塚のお
屋敷じゃなく、この家に来てくれてわたし本当に嬉しかった。それが叶わなければ、わた
しも経観塚に住ませて貰おうと思っていた」
学校とかお友達とか生活とかは後の話し。
お姉ちゃんがいる処ならどこでもいいの。
「お姉ちゃんと一緒が、わたしの願いなの。
わたしの願いを叶えてくれてありがとう。
わたし、いつ迄もお姉ちゃんを大好きっ」
その背に両腕を回して正面から身を重ね、
「桂ちゃん」「わたしの、たいせつなひと」
左頬に左頬を合わせる。お母さんがそうしてくれた様に、拾年前も今も柚明お姉ちゃん
がそうしてくれる様に。この愛しさを表したく伝えたくて。分って欲しく感じて欲しくて。
一瞬戸惑った後、お姉ちゃんの繊手がわたしの背中に回って繋り。本当にわたしの全て
をどこ迄も受け止め。大きくないこの胸がお姉ちゃんの胸を潰し潰されつつ、届く息吹は、
「……わたしも、桂ちゃんを大好きよ……」
暖かくこの心を、幸せで満たしてくれた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
【好い加減に離れなさいな、あなた達っ!】
ノゾミちゃんはこの抱擁を暫く見て見ぬふりしてくれて。遂に我慢できなくなったのか。
【次は私の順番よっ。私も家主の了承がなければ訪問客の扱いなの】「ノゾミちゃん…」
霊体の鬼は自在に動けて一見便利そうだけど、霊体の故の縛りもあるらしく。ノゾミち
ゃん程力のある鬼なら、強引に入り込む事もできる様だけど。靴を履いてもガラスや釘の
散らばった道は好まない様に。住み着くなら、それなりの手続を経る事が望ましい模様で
す。
さっきお姉ちゃんが促したお母さんへのご挨拶も、その一環だったのかな。儀式と言う
程大げさな物じゃないけど、わたしかお姉ちゃんが仲立ちしないと、難しそうな間柄だし。
ノゾミちゃんは漸く普段の強気な語調で、
【今から私も一緒にこの家に住ませて貰うわ。その代り私は桂を好いたから、生命は奪わ
ず守ってあげる。良くて?】「うん、良いよ」
ノゾミちゃんはわたしの生命の恩人で、柚明お姉ちゃんの生命の恩人で、いつ迄も一緒
にいて欲しい、たいせつな人だから。お互いにもう、失えない程に深く繋った関りだから。
「今からこのお家は、ノゾミちゃんのお家でもあるの。ただいまって帰ってくる処だよ」
わたし達は経観塚のあの夜に生命を分け合い補い合った。血縁より深く繋った3人姉妹。
ノゾミちゃんならこの血を少し啜っても良い。わたしも頑張るから、一緒に幸せを保とう
ね。
崩れかけた足を正座に戻して、頭を下げて、
「よろしくお願いします」【本当に無邪気に脳天気に太平楽なのね。人の血を啜る鬼と言
う以上に、何度かあなたの生命脅かした私を前にして。観月の娘や鬼切り頭が危ぶむ訳ね。
危なっかしくて抛っておけない。まぁ桂がそう言うなら、私は受け容れてあげても良い】
但し一番年長は私よ。桂は不出来な末娘ね。
生れ順から考えても、それが相応でしょう。
【今からは桂ではなく、けいって呼ぶから】
「桂じゃなくて、桂? ノゾミちゃん…?」
「ひらがなで呼ぶって言う事よ、桂ちゃん」
柚明お姉ちゃんは語感の違いが分る様だ。
幼子扱いというか年下扱いというか。年上を相手に認めさせたがる処が子供っぽいと思
うのだけど、大人のわたしは言わずに置こう。
ノゾミちゃんはそんなわたしの心中よりも、年上を認めさせたいもう1人に意識が向い
て。
【それから、ゆめい。あなた】「はい…?」
柚明お姉ちゃんは、必須な事をする時は引き締まって美しく強く動じないけど。それら
を終えた日常では、柔らかに静かで大人しい。ノゾミちゃんは勢いに乗った感じで畳みか
け、
【私は千数百歳は年上なのよ。呼び捨てはやめにして頂けない? 四六時中一緒にいるの
に、年下に呼び捨てにされるのは不愉快よ】
……そう? 正座姿で、少し考え込む感じの柚明お姉ちゃんに、ノゾミちゃんは強気に、
【大体あなた、年上どころか年下に迄敬称を付けているじゃない。けいにも鬼切り頭にも、
この前は陽子も呼び捨てしてなかったわ…】
陽子ちゃんは、柚明お姉ちゃんとは未だ直接会ってないけど、とても仲の良いお友達だ
と言う事は、お姉ちゃんも既に知っています。
「確かに、そうだよね。葛ちゃんとか、陽子ちゃんとか。わたしは、桂ちゃんだものね」
わたしの素直な印象は、どうやらノゾミちゃんの援護射撃になったみたい。声高らかに、
【ほら、ご覧なさい。あなたが私だけ呼び捨てるのは不公平と、けいも認めているのよ】
尚私だけを、呼び捨てにし続ける積りなの。
ノゾミちゃんが、勝ち誇って答を迫るのに。
柚明お姉ちゃんが、柔らかに返した答とは。
「……じゃあ、ノゾミちゃん♪」【ほえ…】
「いい! それ、とってもいい! 素敵っ」
わたしは想わずお姉ちゃんの両手を両手にとって、胸に持ち上げ軽く揺らせ見つめ合い。
ノゾミちゃんの反応は、正直意識の外だった。『ノゾミちゃん』との響きがお姉ちゃんか
ら発された事が、美しくも可愛らしく好ましく。
【ち、ちょっと待ちなさい。けい、ゆめい】
「桂ちゃんと、同じ呼び方にしてみたの…」
「柚明お姉ちゃんが口にすると響きが綺麗」
【私は未だ良いとは一言も言ってないわよ】
「桂ちゃんに、そう言って貰えると嬉しいわ。でも、桂ちゃんが『ノゾミちゃん』と呼び
かける時の可愛らしさには、敵わないわね…」
「お姉ちゃんが『ノゾミちゃん』と呼んでくれると、本当にノゾミちゃんが家族に受け容
れられたんだなって想える。わたし嬉しい」
【ちょ、私を置き去りにして話しを勝手に】
「桂ちゃんに喜んで貰えるのはとても嬉しいけど、少し恥ずかしいわね」「恥じらう事な
んて無いよ。涼やかで爽やかな響きだよぉ」
暫く柚明お姉ちゃんと2人、手に手を取り合い見つめ合い『ノゾミちゃん』という響き
を口にし合って微笑み合って。当のノゾミちゃんが未承諾だと気付いたのは、拾数分後で、
「ノゾミちゃんも、それで良いよね……?」
【……好きになさいな。もう、良いわよ…】
ノゾミちゃんの快い承諾を得て、わたしとお姉ちゃんは仏壇の前で、お母さんお父さん
の前で、今少しの間、身を添わせ合っていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「お夕飯を作るわね」「お手伝いしたいっ」
柚明お姉ちゃんが再びわたしの携帯を胸元に入れ、すっと立つのに、わたしも付き従う。
すぐに返されないと困る物でもないから良い。
窓からの夕日が室内を染める。ノゾミちゃんも顕れて良い頃だけど。新居なので慎重な
のかな。経観塚では日没前に顕れていたのに。
お買い物に出る必要は、今日はありません。お姉ちゃんとのショッピングも楽しみだけ
ど。食材は2人で経観塚から結構な量持ってきた。
経観塚へ出立前に、家の冷蔵庫で保存の利かない野菜や果物はカラにしたけど。経観塚
のお屋敷であの後暫くを過ごしたわたし達は、烏月さんや葛ちゃんも含む大所帯になった
為に、サクヤさんの携帯食料ではとても足りず。
経観塚のスーパー等で購入したけど、使い切れなかった食材も結構あって。向うに置い
てきても無駄にしてしまうので、バッグに詰めて持ってきました。なので重かったのです。
「今日は時間も余りないから、簡単な物で済ませるわ。1人で大丈夫よ」「わたしがお手
伝いさせて欲しいの。お願い。……ダメ?」
柚明お姉ちゃんはこうやって、下から目線で瞳をうるうるさせると、大抵の頼みは聞い
てくれる。拾年前わたしはこれで相当我が侭を通したけど。今のわたしは我が侭じゃない。
お姉ちゃんの役に立ち、共に事に挑みたくて。
お姉ちゃんはわたしを間近に見つめ返し。
穏やかで柔らかに静かな笑みを浮べつつ。
「……分ったわ。じゃ、お手伝いをお願い」
「わぁい。やっぱりお姉ちゃん、大好きっ」
わたしの願いを拒むお姉ちゃんではない。
答はやはり拾年前と同じくわたしの勝ち。
拾年前と同じくわたしは、お姉ちゃんの柔らかな肌にこの頬を触れさせて、両手を回し。
拾年前と違うのは、わたしの両腕がお姉ちゃんの背で繋って、確かに抱き締められる事か。
お姉ちゃんはそんなわたしの抱きつきも柔らかに受け。心を込めて抱き返し、肌を添わせ。
お母さんにも抱きつくなんて、最近余りしてなかったけど、お姉ちゃんとは拾年が欠落
しているから、抱きついていた日々が昨日の様で、連続している気がして、躊躇いがない。
わたし、経観塚に行く前よりも心が幼いかも。
そこで、お姉ちゃんの胸元に当てた頬に違和感が。ノゾミちゃんの携帯だ。肌身に声が、
【日が沈む前からいつ迄くっつき続けて…】
わたし達はノゾミちゃんを挟んで抱擁していた。全て知られていた。そう気付くと急に、
大きくなった今のわたしは恥じらいを憶えて、頬に血の気が回るけど。お姉ちゃんは平静
に、
「じゃあ、始めましょうか」「……うん…」
「じゃあ、桂ちゃんはこっちをお願いね…」
食器並べを頼むお姉ちゃんに頬膨らませ、
「お姉ちゃん、わたしも経観塚で包丁捌きを習ったんだから。切る物があるなら任せて」
お姉ちゃんは優しく甘いけど、やや過保護な感じがある。『可愛い子には旅をさせよ』
と諺にある通り、少しは刃物を任せてくれて良いと思う。何も烏月さんの維斗を使わせて
と頼んだ訳じゃない。大根の皮を剥く位なら。最早わたしは幼いけいちゃんではないので
す。
経観塚ではそうやって、サクヤさんや柚明お姉ちゃんから、ニンジンやイモを半ば奪い
取って、切らせてと言っては指を切ったけど。そこでたくさん経験値を積んだ今のわたし
は、
「いたっ!」「桂ちゃんっ、大丈夫……?」
やはり切ってしまいました。大根ではなく指先を。水仕事で濡れた指の上で、贄の血が
滲んで広がって。幸い傷は深くない様だけど。
「う、うん。平気だよ」「ちょっと見せて」
自ら言い出した末の失敗で、痛みを訴えるのも格好悪い。わたしも高校生だ。ここは傷
口を舐め絆創膏でも貼って、すぐに戦線復帰する。自ら申し出たお手伝いは止めたくない。
と、思っていたら。左手人差し指の出血を引き寄せじっと眺めていた柚明お姉ちゃんは。
更に顔を近寄らせ、俯かせつつ艶やかな唇を開き。赤い花の蜜に惹かれる様に、髪留めの
蒼白い蝶がゆっくり降りる。それはいつかの、
「……んっ」「おっ。お、お姉ちゃんっ?」
指の先端をその口に軽く咥え込んでいて。
さかき旅館で、血をあげた時を想い出す。
肉の体を取り戻せた柚明お姉ちゃんには。
最早贄の血は、特段必要もない筈だけど。
指を舐め取る様が背筋に痺れを走らせる。
出血した指先の傷口が集中的に気持良い。
わたしは暫く痺れた様に身動きも叶わず。
こくっ……。
小さく喉が上下に動く。口に入った生命の素を、飲み下す。続いて、少し長いため息が。
「ふうっ……」
贄の血は今もお姉ちゃんを酔わせるのかな。
血の力は今も差し障りなく使える様だけど。
唇を離した指先はもう出血も傷の跡も無く。
「ありがとう。ごめんね余計に力使わせて」
今のお姉ちゃんはこの位の傷を治すのには、大した疲労も負担もないと思うけど。わた
しの至らなさで足を引っ張った事が申し訳ない。わたしはいつも失敗して迷惑をかけてば
かり。
「気にしないで。傷を治した力は、桂ちゃんの傷口から流れ出た贄の血による物だから」
お姉ちゃんは、明らかなわたしの勇み足も失敗も責めず、穏やかな笑みを僅かに曇らせ、
「ごめんなさいね。もう少し注意して見守っていれば、ケガをさせずに済んだのに。痛い
想いをさせて。桂ちゃんは何も、悪くない」
瞳で瞳を覗き込まれた。頬や唇が間近に過ぎて、触れてしまいそうで、胸が高鳴ります。
「お手伝いを申し出てくれた好意は、難しいお仕事に挑戦した勇気は、悪い事ではないわ。
失敗は何かを為す時に付き纏う物よ。次に活かせば失敗も決して唯の失敗では終らない」
気を落とさないで。次回、頑張りましょう。
そう言って、正面間近で軽く頷いてくれて。
幼子をあやす様だけど、あやされたわたしは実はそれに恥じらいを憶えつつも嬉しくて。
暫く間近に繋ぎ合った両手を放したくなくて。
お姉ちゃんはわたしに甘すぎる気がします。
お姉ちゃんの胸元で微かに鈴の音が鳴った。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
お夕飯がやや遅くなったのは、柚明お姉ちゃんの予定だった様だ。ノゾミちゃんが無理
なく出られる日没直後に3人分を盛りつけて。わたしも途中でその意図は分った。経観塚
のお屋敷でもお夕飯は一緒していたので、ノゾミちゃんも人の料理を食する事に惑いはな
い。
『私は桂の血さえあれば、人の食物なんて』
最初はそう言っていた、ノゾミちゃんも。
後半はサクヤさんや柚明お姉ちゃんの味つけを、すっかり気に入って。お代りを求めて
葛ちゃんに『3杯目はそっと出す物ですよ』と言われていた。現身の口から入った食物は、
現身が霊体になった時には一体どうなるのと、わたしが尋ねて。お姉ちゃんとノゾミちゃ
んの答に、烏月さんも葛ちゃんも耳を傾けたり。そう、お食事時は色々とお話しも弾むの
です。
「ごちそうさまでした」「お粗末様でした」
「けいの血には及ばないけど褒めてあげる」
夜なら家庭の電灯程度なら、今のノゾミちゃんは朝迄顕れ続けても、消滅の心配はない
らしい。多少疲れる様だけど。鬼の力は電気や磁気と干渉し合うので、電子機器に触れる
際は、現身の肌の下に力を抑える必要があるみたい。その辺は血の力を扱え、拾年前迄経
観塚で暮らしていた柚明お姉ちゃんが先達で。
テレビを間近に本格的に見て、その音声や映像に興味津々なノゾミちゃんに緑茶を淹れ
つつ、わたしにも淹れつつ柚明お姉ちゃんは、
「洗い物は、わたしが済ませておくから…」
わたしはお風呂に入る様にと勧められた。
「桂ちゃん、今日は長時間移動で疲れたでしょう? 暖まって疲れを癒した方が良いわ」
それならお姉ちゃんも条件同じ筈だけど。
洗い物のお手伝いも一緒したかったけど。
「わたしは、大丈夫だから」「……はぁい」
お姉ちゃんはやっぱりわたしに甘いと思う。
いつも自分の事は大丈夫って後回しにして。
お母さんなら文句なく受容するけど。拾年歳を取ってない柚明お姉ちゃんは、見かけも
わたしと同じ歳なので、余り気配りをされすぎても、やや不自然に感じるのです。昔の様
に明らかにわたしが小さい訳でもないのだし。
唯ウチのお風呂は、高校生になったわたしとお姉ちゃんが、一緒に入るにはやや狭そう。
これ程綺麗な年頃の子と一緒するのも恥ずかしい。順に入るなら誰かが先陣を切るべきか。
長時間移動で疲れていたのも事実なので。
ここはご厚意に甘えさせて頂きましょう。
着替えを持って部屋に背を向け脱衣所へ。
遠ざかる背後に聞える声はお姉ちゃんの、
「ノゾミちゃん、余り長く現身で顕れ続けると疲れてしまうわよ。特に今日は初日で、あ
なたも未だ場に馴染み切れてないでしょう」
「分っているわよ。だから日が沈む迄顕れるのを控えたのだし。夜になれば今の私に障り
はないの。戸外には出ないから安心なさい」
ノゾミちゃんは多分画面に見入った侭だ。
「疲れたら勝手に青珠に戻るわ。鬼としての生は私の方があなたより遙かに長い。姿形に
惑わされて、けいと同じに扱わないで頂戴」
「なら良いけど。気をつけてね。ここは…」
お姉ちゃんは誰にも甘いのかも知れない。
お母さんが亡くなってから、随分広く思えたアパートを。今は多くの気配や物音が埋め。
1人迎えた夜の寂しさに耐えられず、付けたテレビの音声は空虚だったのに。誰かが居る
と思えるだけで、同じ機械の音声が賑やかに。
お風呂に入っても、皿を洗う音や水音が生活感を届かせて来て。わたしは独りじゃない。
今迄も今もこれからも。お母さん、これならわたし、寂しさに心折られずやっていけそう。
温かな湯にこの身を浸し、幸せに心を浸し。
異変が生じたのは、その少し後の事だった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「おっ、おねぇちあぁゃん! の、ノゾミちゃんがっ……ちょ、ちょっと来てぇっ…!」
湯船の横の洗い場で、座り込んだわたしは、意識を失ったノゾミちゃんを膝枕した侭、
悲鳴を発していた。見られればタオル一枚纏ってない艶姿だけど、恥じらう余裕もなかっ
た。
エプロン姿の柚明お姉ちゃんが走り来て、
「桂ちゃん大丈夫っ……? 何があったの?
落ち着いてお姉ちゃんに、お話しして…」
ノゾミちゃんが霊体で風呂場に入ってきたのは、少し前の事だった。あの朝以降、経観
塚のお屋敷でわたし達6人は数日を一緒して。五右衛門風呂にも何度かお世話になったけ
ど。
ノゾミちゃんは好奇心の侭に、人の入浴に割り込んで、見られた人の反応を面白がって。
烏月さんやサクヤさんや柚明お姉ちゃんにも。わたしも恥じらいはあったけど、女の子同
士で敵でもないから。今風のお風呂を教えたり。
葛ちゃんやノゾミちゃんは、見かけが可愛く無害そうだから、見る事を意識せずに済む
のです。見られる事への恥じらいはあるけど。
経観塚の五右衛門風呂は薪をくべて湯を沸かす。ノゾミちゃんはそれにも好奇心旺盛で。
火を焚く組と湯に浸かる人の間を、霊体で浮いて行き来して。ここのお風呂は火を焚く作
業を見る事が出来ないから、やる事は一つか。
偶にドキッとさせる事を言ったり、妖しい仕草や艶めかしさも見せるけど。余り嫌でも
なかった。ノゾミちゃんもわたし達が心底拒んでないと分るから、割り込んで来たのかも。
唯突然入り込まれると、年頃の女の子としては思わず身構えてしまう。湯船から上がっ
て体を洗おうとした処で。背後の気配に振り返ると、浴室の扉を開けず霊体ですり抜けた
ノゾミちゃんが目前に。お一人さまなので胸も腰も隠してない。恥じらいに身が固まった。
ちょっ。2本の腕で胸と股間を慌てて隠し。
びっくりさせられて、身が竦んで動けない。
びっくりさせた満足で、目前のノゾミちゃんが悪戯っぽい瞳に笑みを浮べたと思ったら。
「突然『くあっ』って小さな悲鳴を上げて」
わたしの前で浮いた現身が突如床に落ち。
揃えた両膝の上に顔を落した侭意識失い。
最初は何かの悪ふざけかと思った。でも。
呼吸もなく顔色がいつもより更に青白く。
己の裸を見られた羞恥より、ノゾミちゃんの身に起きた事が心配で、わたしは叫び声を。
結果、ノゾミちゃんを裸で膝枕したわたしの姿を正面から、お姉ちゃんに見られる事に。
お姉ちゃんは、いかにも誤解を受けそうな濃密なスキンシップにも、驚いた様子はなく、
「まずこれを使って。濡れた肌の侭でいては、夏でも風邪をひきかねないわ」「うん…
…」
風呂上がりに使う筈だったバスタオルに身をくるむ。ノゾミちゃんが膝の上に頭から倒
れ込んだ侭なので、わたしも動くに動けない。なのでこの一枚は色々な意味で助かりまし
た。
事を把握し冷静に対処できる人がいると本当に助かる。1人では何をどうすべきかも分
らなかった。わたし、突発的な事態に弱すぎ。
わたしが事の流れをお話しする脇で。瞳を顔をわたしに向けて声に耳を傾けつつ、お姉
ちゃんの手はノゾミちゃんの首筋に軽く触れ。
「そう……結界に引っ掛ってしまったのね」
「結界? 結界って、経観塚で見た様な?」
ええ。お姉ちゃんは、ノゾミちゃんの普段より尚青白く生気を失った左頬に左手を当て。
でもその表情の曇りは余り深刻そうではない。困った感じはあるけれど、緊迫感はやや薄
く。
「烏月さんのお札で、さかき旅館の一室や羽様のお屋敷を囲った事、あったでしょう?」
「うん。でもこのアパートに結界って、あ」
そうだった。わたしのお母さんは千羽の人で烏月さんと縁戚だった。それも聞いた話し
では、当代最強と言われた程の凄腕だったと。結界を張るお札を入手できても不思議はな
い。
経観塚のご神木から離れると、わたしの血の匂いを隠す方法は青珠だけ。手放したりし
よう物なら、このアパートさえが死地になる。確か柚明お姉ちゃんのお父さんお母さんが
生命を落したのも、青珠の守りから外れた為と。
「お母さん、わたしの為にこのアパートを」
「ええ。桂ちゃんの贄の血の匂いが漏れ出さない様に、霊体の鬼が入り込めない様にと」
結界を張ってくれていたんだ。わたし今迄、全く気付いてなかったよ。じゃお姉ちゃん
は。
柚明お姉ちゃんが屈み込み、首筋に唇で触れて癒しを注ぐ。ノゾミちゃんは尚意識を戻
せず、着物姿は濡れるに任せ。お姉ちゃんも濡れる事を厭わず、ぴったり背後に身を重ね。
「ええ。桂ちゃんの携帯を借りたのは、実は青珠を借りていたの。わたしの力を及ぼして、
ノゾミちゃんが徐々に結界に馴染める様に」
叔母さんが防ごうと想定した鬼は、ノゾミちゃんの様な鬼なの。拾年前に、ここに移り
住む直前に出会った、害を為す手強い存在を。
なるほど。だからノゾミちゃんはお母さんの遺産であるこのアパートの結界と、相性は
最悪だと。まともに入ろうとすれば弾かれた。青珠に宿って尚、お姉ちゃんが肌身に包ん
で一種の偽装をせねば、通り抜けられなかった
うっ……。微かにノゾミちゃんが声を出す。
少しだけ、頬に生気が戻ってきた様な気が。
「もう少し、我慢してね」「……んっ……」
お姉ちゃんは、俯せのノゾミちゃんに覆い被さって、肌身に力を及ぼしている。エプロ
ン姿のお姉ちゃんも、濡れて体の線がくっきり見えて。首筋に触れる頬も唇も艶めかしく。
「この結界は、唯贄の血の匂いを漏らさないだけじゃなく。唯霊体の鬼の侵入を阻むだけ
じゃなく。入り込んだ霊体を締め上げる効果も持っているの。アパートは様々な人が出入
りするから。誰かが間違えて、又は騙されて依代ごと霊体の鬼を持ち込む場合にも備え」
桂ちゃんが怖れ怯えを感じた時に発動する。
拒み嫌った相手に霊的な締め付けが掛るの。
ノゾミちゃんは強いから失神で済んだけど。
相当強い霊体の鬼も消し潰される程の圧よ。
肉の体を持つ鬼でも動きを鈍らされる程に。
泥棒や変質者等の不審者対策も兼ねる様ね。
「わたしが反射的にノゾミちゃんに抱いた恥じらいと怯えが、締め付けを発動させた?」
「……桂ちゃんは、何も悪くはないの……」
お姉ちゃんは少し困った様子で頷きつつ、
「ノゾミちゃんには注意を促したのだけど」
柚明お姉ちゃんは、ノゾミちゃんが馴染み薄い新居と言う以上に、結界に引っ掛る事を
案じていた。でもノゾミちゃんは、鬼として生きた年数や経験は自分の方が上だと言って。
言葉を尽くして説明しようにも煩いと嫌がり。
「せめて明日の晩迄、悪戯心を抑えて欲しかったのだけど」「それを先に言いなさいな」
漸くノゾミちゃんが弱気に答を返すけど。
お姉ちゃんはぴったり身を添わせた侭で、
「ごめんなさいね」「全く、あなたはっ…」
お姉ちゃんが謝る事でもない気はするけど。
忠告を容れなかったのもノゾミちゃんだし。
お風呂に入り込んだのもノゾミちゃんだし。
でもノゾミちゃんを想う気持は同じだから。
わたしも突っ込みは入れず、もう少しの間。
バスタオル一枚でノゾミちゃんを膝枕して。
濡れた女の子同士の密着を、間近に見守る。
「大体結界は暫く力を注がれてなくて、薄れて効力失いかけていたじゃない。こんなにき
つく締まるなんて、思ってなかったわよ…」
ノゾミちゃんも、結界の存在は分っていたんだ。感覚が鋭いからこそ、お姉ちゃんの忠
告も分っていると、聞き入れなかったのかな。お姉ちゃんはわたしにも分る様に言葉を選
び、
「青珠と同じで叔母さんが遺した結界も、力を注ぎ足さないと、徐々に効力を失って行く。
わたし達が来た頃には、既に相当薄れていたから、ノゾミちゃんも中に入れたのだけど」
それでは贄の血の匂いの漏出を防ぐ効用も薄れる。桂ちゃんを守る効用が薄れる。だか
らとりあえず夕刻迄掛けて力を注ぎ足したの。
「あなたの所為で私が締め付けられた訳?」
「ええ……だから、ごめんなさい。今この結界の効用は元より強い位よ。明日の夕刻迄に、
ノゾミちゃんを受容できる結界に、張り直す積りでいたのだけど」「あは、そう言う…」
柚明お姉ちゃんは、ノゾミちゃんに少し申し訳ない立場ですと。やや辛そうな表情で拗
ねて見せるノゾミちゃんの、首筋に頬を寄せ。
「償いにわたしの癒しを及ぼすわ。消耗に倍する力を注ぎ込む。わたしの力が浸透すれば、
叔母さんもノゾミちゃんを受容し易くなる」
「あなたになんか償って欲しくない。私を補うのは桂の血よ。これはあなたの失態の埋め
合わせ。償わせてあげているの。感謝して」
ノゾミちゃんは暫く、お姉ちゃんを謝らせ添わせ続けさせていたけど。それが本当に怒
っては見えず。柔らかな肉感や肌触りを好む故に、もう少し続けて欲しい故に、わざと拗
ねて見えたのは。気の所為でないと思います。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
柚明お姉ちゃんの促しで、ノゾミちゃんが青珠に戻ったのは、少し後の事だった。癒し
は一段落した様だけど、一度引っ掛った結界の内で、現身で出続けるのは良くないみたい。
ノゾミちゃんは訝しげに問うていたけど。
「今のあなたならこの結界を一息で吹き祓い、私を受容する結界を張る方が、手間も掛ら
ず簡単でしょうに。崩れかけた家の壁や柱を取り除いて、組み直す様な面倒を為さずと
も」
四半時あれば私が顕れても問題なくなるわ。
その間も青珠があるからけいに不安はない。
「あなたが面倒を好み選ぶ理由が分らない」
確かにそう言われてみると、その通りか。
ノゾミちゃんの不満にも、一理あるかな。
わたしの膝枕の上で、背中でお姉ちゃんに添われた侭で、俯せに口を尖らせるノゾミち
ゃんに。柚明お姉ちゃんは首を左右に振って、
「それはしたくないの。この結界は叔母さんが遺した桂ちゃんを案じる母の想いだから」
「あ……。お姉ちゃん、それでわざわざ…」
面倒でも、ノゾミちゃんがこうなる怖れを分っても、敢て吹き祓ったりしなかったんだ。
だから柚明お姉ちゃんは、ノゾミちゃんにごめんなさいと。この今を導いた事を許してと。
「母が子を愛おしみ案じる事は過ちじゃない。
その想いは桂ちゃんにとっても好ましいわ。
わたしの一存で吹き払って良い物ではない。
多少の不都合は手を加える事で解消できる。
叔母さんの想いなら、わたしが語りかける事で心通じ合わせられる。必ず分って貰える。
叔母さんの想いも活かしたいの。お願い」
明日の夕刻迄には、ノゾミちゃんが顕れて障りがない様に結界を張り直すわ。それ迄は。
拾年歳を取ってなくて、外見はわたしと同じ位のお姉ちゃんが、一見中学生のノゾミち
ゃんに身を添わせて願う様は、倒錯的だけど。2人とも濡れた肌身を合わせて耽美的だけ
ど。
お姉ちゃんは、最後迄ぴったり身を添わせた侭、今宵は青珠にこもり続ける様にと願い。
「分ったわよ。あなたの言い分は分った…」
ノゾミちゃんはほんの少し不機嫌そうに。
でも本当はそう不快でもないと分る声で、
「あなたには常にけいが一番なのだものね。
私にとって常にけいが一番なのと同じく。
けいの親の心を活かしたい事情は分った。
それがけいの為なら、私も了承するから」
明日の夕刻迄よ。それ迄には何とかして。
ノゾミちゃんの姿が電灯の光の中ですうっと薄れ、声も気配も無くなって。お風呂場に
は濡れたエプロン姿のお姉ちゃんと、濡れたバスタオル一枚羽織っただけのわたしが残り。
「桂ちゃん、びっくりさせてごめんなさい」
優しい右掌が、この左頬に触れてくれて。
お花の香りと優しい声音が、心も満たす。
「体冷えたでしょう。もう一度お湯に浸かって、暖まって」「うん。でも心は暖かいよ」
お姉ちゃんこそ、服も身体もずぶ濡れで。
余計に力使わせ、疲れてもいる筈なのに。
効率や手早さよりお母さんを心底想って。
この人と一緒に暮らせる今が本当に幸せ。
この人と時を過ごせる今が心から嬉しい。
促される侭に濡れたバスタオルを渡して。
「お姉ちゃんも下着迄濡れているから、体を拭いて早く着替えた方が」「心配してくれて
有り難う、桂ちゃん……わたしは大丈夫よ」
両肩を軽く抑え、頬に頬を合わせてくれた。抱き留めてくれなかったのは、エプロンや
服が濡れている為か。わたしに不快を与えると、体を更に冷やすからと。頬を合わせてく
れたのは、わたしの求めを肌身に分っている故で。
肩に触れる細い指が、左頬に触れる柔らかな頬が、わたしの心を安らがせつつ昂ぶらせ。
恥じらいつつも嬉しく。そして同時にわたしは更に肌身を合わせたく。優しい感触は心を
満たすけど。この身が冷えない内にと、長引かせず終えて去った後には。なぜか微かな物
足りなさが。何か未だ満たされ足りない気が。
冬の日に、暖かな空気に浸って漸く冷えた体が震え出す様に。貪れば貪る程に飢えを感
じる。これ程優しく柔らかな親しみを肌身に何度も感じて。総身で何度も抱き留められて。
わたしはこの上、一体更なる何を望んで?
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
お姉ちゃんのお風呂も終り、お掃除やお洗濯等は明日に回し、少しの時間を過ごした後、
疲れも残るわたし達は、早めに就寝する事に。
青珠はノゾミちゃんの申し出で、お母さんの遺影の前に置いた。わたし達を抜きに朝迄
お母さんと向き合いたいと。お母さんの想いの残り香は、会話できる程濃くない様だけど。
ノゾミちゃんはある程度の想いは感じ取れる。
なので今宵柚明お姉ちゃんは、奥の部屋から居間に布団を持ち出し。それを見守りつつ、
どの様に話しを切り出そうか、迷っていると。
「桂ちゃん、ちょっと座って貰って良い?」
お姉ちゃんもわたしにお話しがある様で。
うんと頷き座って互いに瞳を見つめ合い。
穏やかで優しげな仕草はいつ見ても綺麗。
「桂ちゃん、時々だけど、叔母さんに添い寝して貰っていたのでしょう?」「……うん」
それはわたしが切り出そうとしていた中身。
いきなり核心を問われて、驚かされたけど。逆にいきなりだったのでわたしも頷き終え
ていた。お姉ちゃんに嘘を応えても始らないし。
経観塚の日々を取り戻す迄、わたしの一番古い記憶は、お母さんに抱かれて眠る幼いわ
たしだった。赤い痛みに身を強ばらせ、竦むこの身を抱き留めて。震える心を包み込んで。
悪夢の怖さもあったけど。想い出を全て失った空っぽが怖くて。寄り掛る物のない自分
が、夜の闇に解けて消えてしまいそうで怖く。残された最後の肉親迄が、失われそうで怖
く。その柔肌に痕が残る程、強く縋りついていた。
「毎日じゃないんだよ。流石にわたしも高校生だし。その、お母さんがお泊りの仕事で数
日空けて帰ってきた夜とか、わたしが学校行事で外泊して戻ってきた夜とか。月に数回」
言えば言う程、頬に熱が回って声が裏返る
この歳にして恥ずべき事だとは分っている。
1人で眠れぬ夜があるなんて幼子の甘えだ。
お母さんはそれをあけすけに指摘しつつ尚。
無制限ではないけれど、迎え入れてくれた。
記憶を鎖したわたしの事情を分ってくれて。
あの夜に尚魘され続けるわたしを。この心が崩れない様に、壊れてしまわない様に。肌
身に抱き留めて、愛しさを実感させてくれた。
でもそれはお母さんだから願えた事であり。
傍目に同じ歳の柚明お姉ちゃんには流石に。
望み願える歳でないとは自分も分っている。
でも今のわたしは、記憶を全て取り戻せたわたしは、お姉ちゃんを取り戻せたわたしは。
お母さんを失う前より、拾年前の夜より一層縋り付きたくて。柔らかな肌触りに、暖かな
肉の感触に、静かな吐息に近く接してないと。
手放して眠ると、朝には消えて無くなっていそうで怖い。何もかもわたしの夢でしたと
なっていそうで怖い。経観塚に旅立つ前と何一つ変らないこの家が、経観塚の夏で漸く取
り返せた全てを幻に変えてしまいそうで怖い。
「夢にも願えなかった幸せだから。今も尚夢心地に近い幸せだから。だから夜も朝もしっ
かり身を合わせて感じてないと、不安なの」
お姉ちゃんは綺麗すぎて優しすぎる。わたしの願いが形になった様な人。わたしが夢に
思い描いた侭だから。わたしの意識が想いが途絶えた瞬間に、煙の様に消えてしまいそう。
幼いとか甘えとかいい歳してとか、幾つも思い浮かぶ窘めや叱声を覚悟の上で。わたし
はお姉ちゃんの両手を取って、必死に自身の想いを訴え続ける。言葉も仕草も、的確にこ
の心の内を表しきれなくて、まどろっこしい。
でも柚明お姉ちゃんは、穏やかで静かな視線を返し、わたしの訴えに耳を傾けてくれて。
「じゃあ……お約束しましょう。桂ちゃん」
両の手を絡め合った侭で、お姉ちゃんは、
「桂ちゃんは、夜は必ず、桂ちゃんのお部屋にお布団を敷く。そこで寝ても寝なくても」
本当はわたしも1人で寝るのが原則だと。
柚明お姉ちゃんはまず正論を述べてから。
「その代り、わたしは桂ちゃんが求めてくれた添い寝には必ず応える。望まれるなら毎夜
でも。夜更けでも夜明け前でも。桂ちゃんが望む時に来て良いし、いつ去っても構わない。
いつでもいらっしゃい。わたしは拒まない」
予想外の満額回答。いや、満額以上だった。
これからは、わたしもしっかりしなけりゃいけない。今迄お母さんにされた様な接し方
は望めない。お姉ちゃんにお母さんの代りは求められない。わたしも1人で夜を乗り切る
と。今迄も月の多くはそれで凌げていたのだ。
やや心細いけど、今後は常に独り寝を心に定め。それが世間の標準なのと己を説き伏せ。
唯今宵だけ、最初の夜は。柚明お姉ちゃんに添って寝たかった。町のアパートで始る日常
で一度、この柔らかさ暖かさを感じたかった。それがわたしの切り出したかったお話しで
す。
何とかその1回を了承して欲しくて。
どうにかこの心情を分って欲しくて。
あくせくしていたわたしに、お姉ちゃんはそれを遙かに超える回答を。満額以上の答を。
「依存心を植え付けては良くないから、本当は大きくなった桂ちゃんに、いつ迄も添い寝
し続ける事は、余り望ましくないのだけど」
微かに困った表情を見せるのはわたしの為。
この求めが負荷になる事を厭うのではなく。
求めに応える事でわたしに及ぶ影響を案じ。
「夏迄と今では、桂ちゃんの置かれた状況が違うわ。桂ちゃんはお母さんを亡くして未だ
日が浅い。人肌恋しく思うのは無理もない」
添い寝が無くても大丈夫な夜は、お部屋に敷いたお布団で眠って。判断は桂ちゃんにお
任せ。わたしの添い寝を望む時は、いつでも何度でもいらっしゃい。わたしはどんな時も
どんな求めでも、桂ちゃんの望みは拒まない。
肌を合わせ、瞳を見つめ、肩を寄せ合って。
とりとめもないお話して、息吹を感じ合う。
「桂ちゃんと過ごせる時間はわたしの幸せよ。
桂ちゃんを胸に抱く時間もわたしの幸せよ。
あなたはわたしの一番たいせつな人。身も心も全て好き。あなたの幸せを守り支える事
がわたしの幸せだから。桂ちゃんの害にならない範囲でなら、全ての求めに応えるわ…」
黒い双眸は柔らかに優しい笑みを湛えて。
わたしの求めの全部以上をも受け止めて。
姉妹でも尚近しすぎる触れ合いを厭わず。
むしろより一層強い親愛を返してくれて。
「さっそく今夜添い寝をお願いして良い?」
おずおずと、瞳を見上げて問うわたしに。
愛しい人は、静かな笑みで喜びを表して、
「ええ、喜んで。いらっしゃい、桂ちゃん」
この身を想いを胸に受け止め抱き留めて。
やはりお姉ちゃんは、わたしに甘いと想います。他の誰にも甘いけど、わたしには特に。
初めての夜が、愛しく暖かく更けて行く。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
お母さんが使っていたお布団は、高校生になったわたしと柚明お姉ちゃんが枕を並べる
とやや狭いけど、だからより肌を密着させて。
三日月の輝きが窓から差し込んで、青白く薄明るい夜の一室で。わたしは愛しい人の容
貌を見つめる為に、首を右に曲げて。お姉ちゃんもそれに応える様に首を左に。柔らかな
視線と暖かな吐息が間近に感じられて嬉しい。
「昔はこうして一緒のお布団で、絵本読んで寝かしつけてくれたよね」「ええ、そうね」
何年も忘れていた。忘れ去っていた。思い出せた今となっては、昨日の事の様に鮮明だ
けど。こんな風に経観塚の日本家屋で添い寝してくれた夜があったなんて、思い出せずに。
こんなに近しかったのに。こんなに愛おしい人を。こんなに深く強く想ってくれた人を。
わたしの所為で綻んだ主の封じを、その身に代えて保ってくれたのに。ありがとうも言え
なかった拾年を経て、その上で尚何度もわたしを助けに消滅を踏み越えて。なのにわたし。
「ごめんね。本当に、本当に。拾年もの間」
傍にいる幸せを感じれば感じる程に、踏み躙り続けた拾年が心に刺さる。この夏迄わた
しの憶えている人生全てだった拾年。その全ての裏で、昼も夜もお姉ちゃんは独り耐え難
い苦痛を、わたしの為に、わたしの所為で受けていた。わたしはそれを思い返す事もなく。
お母さんに添い寝されていた間も、学校に通っていた間も、陽子ちゃんやお凜さんと遊
んでいた間も。ご飯食べてテレビ見て、音楽を聴いて雑誌を読んで、寛いでいた間も全て。
それがどれ程残酷な事か。言い表す術がない。
親愛を感じれば感じる程に募る罪悪感から。
沈み行く心を優しい腕は抱き留めてくれて。
「わたしはずっと幸せだったわ。桂ちゃん」
細い首筋にこの頬を寄せられて。この仕草も拾年前迄、あの夜の前夜迄されていたっけ。
体と心を一緒に温め、愛しみ慈しんでくれて。
「桂ちゃんが羽様のお屋敷に生を受けてから、あの夜迄に過ごした日々も。あの夜以降桂
ちゃんの幸せの礎を支える為に、ご神木に身を捧げた日々も。再び羽様を訪れてくれた桂
ちゃんを、助け助けられ間近に過ごした日々も。
わたしは間違いなく、ずっと幸せだった」
穏やかに優しげに、肌身に想いを滲ませ。
直に聞いても俄に信じがたい内容だけど。
この人の愛の深さには本当に底がなくて。
「逢えない事は不幸せじゃない。哀しくても辛くても打ち拉がれても幸せは感じ取れる」
絆を断ち切られたあの夜以降も、白花ちゃんと桂ちゃんは、ずっとわたしの一番だった。
わたしが想いを抱き続ける事は、できたから。哀しくて辛くても、苦痛や悔しさに身を心
を震わせても。たいせつな人に尽くせた事がわたしの幸せ。悲嘆も苦痛も悔恨もあったけ
ど。その上でわたしはこの拾年ずっと幸せだった。
この人は心底嬉しそうに穏やかな笑みで、
「想い出してくれた事は嬉しかったけど…」
最期迄わたしを思い出せなかったとしても。
わたしと逢う事もなく町へ帰ったとしても。
二度と定めの交わる事がなかったとしても。
「どんな桂ちゃんでもわたしの一番の人よ」
わたしは好んで望んでそれを為している。
桂ちゃんの為になると進んで受けてきた。
それは全てわたしの願いで喜びだったわ。
そして今日からわたしは桂ちゃんの傍で。
桂ちゃんの幸せを、守り支え、保ちたい。
「今迄も今もこれからも、未来永劫変る事なく、羽藤桂は羽藤柚明の一番たいせつな人」
甘いお花の香りが焦燥感を冷まして行く。
本当に何一つ嘆く様も悔いる顔も見せず。
今はわたしを抱き留めて本当に幸せそう。
お姉ちゃんに禍を招いたわたしを、尚愛し慈しんでくれて。一層強く包み守ってくれて。
わたし、こんなに幸せに恵まれて良いのかな。思わず不安になる程に、この幸せは大きく
て。
二度と失いたくない想いを込めて。わたしは拾年前の様に身を丸くして。この頬を柚明
お姉ちゃんの胸元に寄せ。瞳を閉じてその温もりと肌触りで、深く強い情愛を交わし合い。
2人だけの夜は涼やかに暖かに更けて行く。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「ねぇ、お姉ちゃん」「なぁに、桂ちゃん」
拾年前の様にお姉ちゃんは問の続きを促す。問うた時に問の中身を承知済みな気もする
位、どんな問にも穏やかに答を返す人だったけど。
「……訊いても良い?」「ええ、どうぞ…」
やはり今から問う中身分っているのかな。
肉の体を戻せたお姉ちゃんに、一つだけ気懸りがあった。これは他の人の前では問えぬ。
経観塚のお屋敷ではあの朝以降、今朝の出立迄6人同居で、2人きりになれる機会もなく。
ノゾミちゃんが青珠から出られず、お母さんと話すと別室にいる今宵は、最高の機会か。
明日以降、ノゾミちゃんは自由に顕れられる。2人きりの話しを望むなら、最初で最後か
も。
「……柚明お姉ちゃんは拾年の間、オハシラ様を務めていたんだよね」「ええ、そうよ」
「ずっと主を、鬼神を封じて、一緒にご神木の中にいたんだよね……」「ええ、そうよ」
「主と、その、色々あったんだよね。白花お兄ちゃんに憑いた主の分霊(わけみたま)が、
言っていた様な事も……」「ええ、そうね」
声は尚静かだったけど、答は尚穏やかだったけど、肌身に微かに反応があった気がした。
経観塚で迎えた満月の夜わたし達を前に。
白花お兄ちゃんの体を奪った主の分霊は、
【貴様は槐の中で、封じられたわたしの籠絡に成功したらしいな。感応でわたし自身から、
貴様の心の弱点でもあれば嬲ってやろうかと、この拾年余の所作の絵図を求めたのだが
…】
返されるのはわたしと貴様が睦み合う図だ。
腕を回し合って足を絡めて交尾に励む図だ。
貴様がわたしの性欲を求め望み受ける図だ。
貴様、わたしを心まで開いて受け容れたな。
貴様は槐で、獣欲に耽っているではないか。
貴様は拾年、肉欲に溺れていたではないか。
思い返すだけで震え出す。ケイ君の、白花お兄ちゃんの声で発された事実はこの心を抉
ったけど。実はそれは柚明お姉ちゃんにこそ。
【本当は、訊かれる前に伝えておくべきだったのかも知れないけど……ごめんなさいね】
【わたし、もう綺麗な身体とは言えないの】
否、想いだけの儚い物になったわたしは。
綺麗でなくなったのは身体よりむしろ心。
存在しなくなった身体が汚れる筈はない。
【想いだけの存在なら汚れるのは想いだけ】
【ご神木で、わたしは主と2人永劫を過ごす。
主はご神木を抜け出られず、わたしはご神木を抜け出ない。他に入れる者はなく、後に
生れる者もない。ずっと2人。錯覚が作る虚像世界は、眠りも不要な長久に安定した何も
ない処。わたしはそこで主と2人、時に話し、時に抗い、時に主と男女の交わりもして
…】
確かにそう。彼の言う通りよ。わたしは、
【ご神木で主と男女の交わりをした。何度もした。強いられた事もあり、望んでも受けた。
拒めなかったのは確かだけど、わたしが応えたく想い、全身全霊で受け止めた事も、ね】
【桂ちゃんを傷つける事になってしまった】
その上でこの人の悲痛は自身の受けた傷にではなく、それを報されるわたしの心の傷に。
わたしのショックや哀しみや、失望を案じて。どこ迄も己の事ではなく人の事ばかり想っ
て。
「……桂ちゃん、……ごめんなさいね……」
優しい瞳は今にも溢れそうな想いを湛え。
美しい声にわたしは慌てて己の口を挟む。
「ちっ、違うのっ。わたし、お姉ちゃんを責めている訳じゃない。お姉ちゃんは何も悪く
ない。わたしの所為で、わたしを庇って受けた痛みを、わたしが責める筈がない。ごめん
なさいはわたしが言わなきゃいけない事っ」
柚明お姉ちゃんは、拾年前から今も変らず、今後もずっと、わたしの特別にたいせつな
人。いつ迄も肌身を合わせて過ごしたい愛しい人。
わたしは謝罪や償いを欲して、お姉ちゃんの辛い話しを蒸し返したのではない。問題は
その先にあった。だから訊きづらかったけど。わたしの代りに受けた傷は、わたしも一度
は正視せねば。お姉ちゃんの傷であるその話題に触れるのは、わたしも生涯一度きりにす
る。
「お姉ちゃんは、今は、どうなっているの?
その、肉の体を戻した柚明お姉ちゃんは」
精神に受けた傷は肉体に響くのだろうか。
肉体に受けた傷は精神に及ぶのだろうか。
「ご神木の中で、主と……、色々な事をして、されて、傷つけられて。その後で、確かな
体を取り戻せたけど。今のお姉ちゃんは…?」
女の子を取り戻せたのか。失った侭なのか。
もし後者であるなら羽藤桂は、この一生を注いでも愛しい従姉に償わなければ。お母さ
んがお父さんと為した様に、愛し合い合意の上でならともかく。人でもない物に無理矢理
されたのだ。わたしの所為で傷物にさせてしまったのなら、わたしが生涯責任を負うべき。
大好きなお姉ちゃんの大事な物、わたしの所為でわたしを守った為に失われた物が。体
を取り戻せた今も、失われた侭なのかどうか。二度は訊けない。わたしにも訊く勇気がな
い。だから一度だけ、気力を注いで事実を問うて。
言葉が巧く回らず、中々要点を示しきれず。端で聞く人がいれば、何を問うか分らない
言葉の連なりだったと、思うけど。静かな答は、
「……心配してくれて有り難う、桂ちゃん」
抱いてくれる柔らかな腕に少し力を込め。
返してくれる声に微かに暖かな息を混ぜ。
「わたしは大丈夫だから、心配しないで…」
桂ちゃんを守る為に負う禍なら、桂ちゃんを庇う為に受ける痛みなら、桂ちゃんの笑顔
を保つ為に被る傷なら。わたしは望んで喜んで全てを受けて悔いもない。安心して良いの。
お母さんがしてくれた様に、お姉ちゃんが拾年前してくれた様に、ぽんぽんと軽く頭を
叩き。その感触は、とても懐かしく心地良く。その情愛の深さは、静かに優しく心を満た
し。
幼子扱いへの反発もない訳じゃない。でも、拾年前と変らないお姉ちゃんを間近に見る
と、わたしもそれに順応し。引っ掛りは抱くけど、その緊密な接し方もわたしはむしろ望
ましく。撫でられる事も抱かれる事も頬合わせる事も。
この話題でなければ、その侭流されていた。本当に柚明お姉ちゃんは、声音にも仕草に
も表情にも、慈しみが満ち溢れ。我が侭言って、この美しい人を困らせたくない。この笑
みを困惑や憂いで陰らせるのは、わたしがイヤで。この侭流されればお姉ちゃんが微笑ん
でくれる。それを望みつつ好みつつ、この時だけは、
「心配するよ。だって柚明お姉ちゃんの大丈夫は、自身について言う時だけ、時々大丈夫
じゃなかったりするものっ」「桂ちゃん…」
再び訊けない問だから。最初で最後の問だから。甘いお花の香りと優しい穏やかさに流
され掛る自身を必死に抑え。わたしは微かな困惑を秘めた美しい双眸に、強い視線を返し、
「お姉ちゃん、わたしや他の人を助けて痛みを負っても、いつも大丈夫って。消えそうな
程に消耗しても、痛い苦しいを決して言わず。
だから信用できない。本当は大変な状態じゃないか、手遅れじゃないかって、心配で」
大丈夫と優しく静かに微笑むその裏側で。
この人はどれ程の非業を背負ってきたか。
この情愛に包まれるのは、心地良いけど。
ずうっと包まれていたく望むけど。でも!
「わたしがノゾミちゃんへの逆襲に失敗して、お姉ちゃんが消されかけたさかき旅館の夜
も。崖から落ちたわたしを助けに、夏の陽の中に顕れてくれたあの昼前も。ミカゲちゃん
に囚われたわたしを助けに、赤い霧と紐の中に踏み込んで、身を危うくしたお屋敷での夕
刻も。白花お兄ちゃんの身体を乗っ取った主の分霊を倒して、自身も還りかけたご神木の
前でも。
お姉ちゃんはいつも大丈夫って。全然大丈夫じゃない時迄。わたしを心配させない為に、
哀しませない為にって。優しさは分るけど」
助けた相手以上に酷い状態だった事、何度もあるでしょう? とても大丈夫とは言えな
い状態だった事も。だからお姉ちゃんが自身について語る時だけ、大丈夫は信用できない。
「事実を、教えて。お姉ちゃんの本当を…」
お姉ちゃんの困惑はわたしの我が侭の故に。確かにこんな問はお姉ちゃんには迷惑で非
礼だ。でもそのお姉ちゃんに守られ庇われたわたしは、その末を知らずには済ませられな
い。お姉ちゃんがわたしに知らせる事は好まない、羽藤桂の罪深さもわたしは全部受け止
めたい。
たいせつな人だからこそ。今から長く一緒する人だからこそ。深く繋り合えた人だから
こそ。想いと生命重ね合わせた人だからこそ。わたしもいつ迄も、幼いけいちゃんではな
い。
「お願い。二度は訊かないから。本当を…」
必死の問に間近な美しい人はやや困惑し、
「心配してくれる優しさも、過去に向き合う勇気も嬉しいけど。わたしは本当に大丈夫な
のよ。主と男女の営みを為したのはご神木の中で、確かな体を持たない状態での事で…」
やや強く、胸元に頬を抱き寄せ触れ合わせ。
わたしの心を鎮めようと、してくれるけど。
子供扱いで、流そうとしている様にも思え。
「桂ちゃんが憂いを抱く事はないのよ。わたしは本当に大丈夫だから」「……じゃあ!」
お姉ちゃんは厳しい現実を、心が幼いわたしに見せない様に気遣っている。そう思えて。
「お姉ちゃんの大丈夫を、確かめさせてっ」
勢いで突き抜けようと、声を発していた。
優しい抑制をこの瞬間だけ邪魔に感じた。
わたしが受ける筈だったそれらであれば。
苦痛にも哀傷にも正面から向き合いたい。
いつ迄も、わたしを幼子扱いしないでよ。
わたしは全身全霊を注いだ視線で、柚明お姉ちゃんの双眸を覗き込む。応えてくれる迄
退かないと、身も心も固くして。お互いに頑固な羽藤の血筋だけど、ここは絶対譲れない。
困惑の中にも愛しい笑みを浮べた黒い瞳に、硬い表情の必死なわたしが映っている。で
も。
どうやって? と、もし問い返されたなら。
確かめる術は、一つしか、考えつけてない。
わたしは熱い頬を一層朱に染めて、まともに応えられず。求めを引っ込めていた。必死
に紡ぎ出した問だけど、この時点でお姉ちゃんに問い返されて、答を返す余力はなかった。
唯視線に込めた気迫で押し切る他に術はなく。
多分この人は、そんなわたしの心情は全て承知で。問い返せばわたしを退けられると分
った上で。想いが胸いっぱいなわたしを見ていられなくて。敢て拒み通す事を選択せずに。
「どうぞ。桂ちゃんの気が済む迄確かめて」
却ってわたしの心臓がばくばく高鳴った。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
お姉ちゃんはわたしに軽く身を重ね。羽藤桂に全てを委ね。今この美しい人はわたしの
物だ。羽藤柚明は今暫く羽藤桂に為される侭のお人形だ。何て可愛く綺麗に蠱惑的なお人
形だろう。触る事で傷つけ壊してしまいそう。
「……本当に、良いの?」「ええ、どうぞ」
逆にわたしが硬くなっていた。今ここで前言を翻して拒んでくれれば、この左手を引っ
込められたのに。答は柔らかな受容を変えず。
細い右手はわたしの左手首を軽く握って。
おへその辺りに掌を当てて導いてくれて。
「わたしは、桂ちゃんの望みは拒まない…」
わたし自身が、渇仰し熱望した筈なのに。
こくんと、喉が大きく動いて音を立てた。
お姉ちゃんの女の子が無事か否かをわたしが確かめる術は、この手で直に触る他にない。
柚明お姉ちゃんの右腕はわたしの背を抱き留めに戻って。わたしの左手は自由を戻した。
背に回る腕がわたしを抱き寄せてくれるので、わたしは唯手を伸ばす他に考える必要もな
く。ここ迄来てしまったら最早わたしも退けない。
目の前には、唇も頬も触れる程傍にわたしを慈しむ微笑みが。肌身に感じるのは柔らか
な肉感と肌触りと温もりと、甘いお花の香り。
今からこの人の大事な処に触ります。この左手を伸ばして触れて確かめます。わたしの
所為でわたしを庇う為に受けたこの人の傷は、わたしが知らなければいけないから。今わ
たしが求められるのはどんな種類の覚悟だろう。
左の掌をゆっくり這う様に進めて行く。下腹部を越え、かつて触れた事ない大事な処へ。
当たり前のお話しだけど、自分以外の誰かのここに触れるのは、今宵が生れて初めてです。
体中の神経が左掌に集まったみたい。既にこの時お姉ちゃんも、緊張に身を強ばらせて
いたのかな。己の心音がやけに大きく響く中、
「……んんっ……」「お、お姉ちゃん…?」
「わたしは、大丈夫よ。……気にしないで」
穏やかな声はほんの少し震えて聞えたけど。
間近な瞳はわたしを正視して柔らかに瞬き。
ほんの少し強く抱いて変らない受容を示す。
中学校の保健で教わった知識を、思い返す。
わたしの左指先は小さな丘の肉感に触れて。
その侭茂みを縦の割れ目をわたしはなぞり。
「んぅっ……」何かを堪える吐息が漏れる。
わたしを抱き留める柔肌が微かに震えた。
流石にそこは、女の子の敏感な処なので。
苦痛や疲弊には怯まないこの人も硬直し。
幾ら賢く綺麗に強くても、やはり女の子。
抑えきれずに感じ怯み震える事もあると。
わたしと変る事のない肉の身体を持って。
なよやかに華奢で柔らかに素直な女の子。
その実感が、恥じらい以上に強くわたしを前へ促す。二度と申し出られないけど、この
申し出は成功だった。そして二度とできないからこそ、これは完遂せねば。怯んだり嬉し
さに酔う暇はない。もう少しこの左手を進め。
お姉ちゃんに特段の動きはない。身を退く事も捩って逃れる事もせず。手足でわたしを
阻みもせず。この背を右手で軽く抱き寄せて、肌添わせた侭為される全てを静かに受け容
れ。
愛おしむ視線は拾年前と変らず。拾年前に子供だったわたしを見つめる視線と変らずに。
でも拾年経ったわたしはもう、子供じゃない。
わたしの指はわたしの確かな意思に従い。
触れてしまいました。女の子のわたしが。
愛し合う大人が性愛を交わす大事な処に。
承知で望んで為したとはいえ身が固まる。
心臓がばくばく鳴り出して、止まらない。
未だ触れただけなのに、これからなのに。
でもその強ばりはわたしだけではなくて。
「んんぅっ……だ、大丈夫よ。わたしは…」
わたしを尚受け容れる意思は確かだけど。
その声音がいつになく艶っぽく弱々しい。
でもお姉ちゃんは年上の自覚を手放さず。
柔らかな瞳はわたしを穏やかに見つめて。
「どうぞ……桂ちゃんの真の想いの侭に…」
左手の中指の腹に全ての神経を集中させ。
決して邪な気持で為す訳じゃありません。
怯みそうになる自身を叱咤し奮い立たせ。
触れるだけじゃいけない。確かめるには。
お姉ちゃんが女の子が無事なのか失われた侭なのか。それは押して指が入って行くかど
うか、穴が穿たれているかどうかで分る筈だ。誰かに破られ穴が穿たれていれば、お姉ち
ゃんは大人の女性だ。この中指が入れなければ、未開通ならば女の子だ。力を入れて強く
触る。
こんな事は二度と出来ないけど。させて貰えない以前に、申し出る勇気が持てないけど。
「確かめるよ、お姉ちゃん」「……どうぞ」
ひくっと震える感触が肌に伝わってきた。
わたしを抱き留める腕や胸が微かに揺れ。
でもお姉ちゃん以上にわたしも強ばって。
力の加減が巧くない以上によく分らない。
割れ目の中央部に左手中指の先を当てて。
「……んんっ、んっ……、ふぁっ……ぅ…」
徐々に強く押してみる。入って行かない。
指の先端位迄は入るけど、その先はダメ。
弾力のある肉感がわたしの指を食い止め。
その度にお姉ちゃんの短い吐息が挟まり。
ふるるっと、柔らかな体が微かに震えて。
わたしの指が拒まれている。やや強く押しても入らない。これ以上押すとわたしが破っ
てしまいそう。左右の肉が唇の様にきゅっと締まって進めない。つまり未だ破られてない。
柚明お姉ちゃんの肉の体は今尚女の子の侭だ。
「……よかった……」「……桂ちゃん…?」
お姉ちゃんが今尚清い侭で、よかったよ。
わたしは間近な細い首筋に、頬を合わせ。
「例えお姉ちゃんの初めてが喪われていても、大事なお姉ちゃんだけど。好きな想いは変
らないけど。でもわたしの所為でわたしの為に、喪った侭でなくて本当によかった。お姉
ちゃんが今も女の子でいてくれて本当に嬉しい」
安心できた途端に、嬉し涙が溢れてきた。
緊張は、嬉しさや恥じらいだけじゃない。
この人の傷は全て、わたしの所為だから。
お嫁さんに行けない様な傷を残したなら。
わたしはその事だけで一生償えぬ罪を負う。いや、己の罪や罰はどうでも良い。問題は
わたしにその損失を償う術がない事で。だからお姉ちゃんの女の子が無事で本当によかっ
た。それはわたしと言うよりお姉ちゃんの幸いだ。
幸せの錯覚に心が軽く温かくなるわたしに、
「わたしはご神木に身を捧げる迄、男の子と交わった経験がなかったから。白花ちゃんの
生命全てを託されて、肉の体を作り直した時、同化する前のこの身をその侭作り直した
の」
今更の様にお姉ちゃんが事実を語る。でも例えそれを聞かされても、この手で確かめな
い限り、わたしはお姉ちゃんの言葉を信じ切る事はできなかったし、得心もできなかった。
柚明お姉ちゃんは、わたしを安心させる為に、致命傷を受けても尚大丈夫と微笑む人だか
ら。
こうして触って確かめた後だから、わたしもお姉ちゃんの言葉を頷いて受け容れられる。
2人だけの初めての夜は、未だ終らない。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「どう……? 桂ちゃん、確かめられた?」
暫くお姉ちゃんの胸元に唇を寄せて。幸せに抱かれていたわたしは、その声でふと我に
返る。わたしの左手は未だ大事な処に軽く触れた侭だった。お姉ちゃんは目的を果たした
と目に見えて分っても、わたしの意思で離れる迄、この手を退ける事も身を捩る事もせず。
「んんっ……」甘く熱い吐息がこの髪に掛る。
気付いたわたしが左手を少し動かしたので。
敏感な処なので思わず声が漏れ出た様です。
お姉ちゃんの大事な処だから、無理もない。
任務完遂した左手を呼び戻そうとの動きに。
「んっんぅっ」わたしを蕩かす呻き声が返る。
いつも穏やかで清楚で抑え気味で可憐に。
慈悲と優雅さの完全な調和の取れた人が。
砕けて蕩けて豊満に妖艶に崩れて見えた。
今迄に見た事もない程熱っぽく乱れ掛り。
どんなに厳しく辛い劣勢でも、消失の危機を何度迎えても、こんな声音や気配は見た事
がない。誰かを守らねばならない非常時には、絶対揺らがない人だけど。今宵は本当に安
らかな唯の日常だし。こっちの方で困らされた経験は、実は柚明お姉ちゃんも少ないのか
も。
わたしの心に何かが囁きかけて来ました。
二度とできない事ならば、もう少しだけ。
引っ込めようとしていた左掌を再度当て。
「もう少しだけ、確かめさせて」「えっ…」
少しの驚きと困惑が肌身に伝わってくる。
わたしは拒絶がない事を、受容と取って。
お姉ちゃんの敏感な処に尚指を当て続け。
割れ目に添って押し付ける様になぞって。
ゆっくりと行きつ戻りつを繰り返させる。
「け、桂ちゃん」「もう少し確かめたいの」
だって今夜の柚明お姉ちゃん、とても可愛いんだもの。ふるるっと肌を震わせる反応も、
熱く漏れる短い吐息も。今迄に見た事がない。
今迄ずっと綺麗だったけど。柔らかで静かで優しく穏やかだったけど。でも余りに理想
のお姉さんでありすぎて。お淑やかに賢く強くありすぎて。完全無欠が物足りなかった…。
弱い部分を、困った顔を、崩れて乱れる柚明お姉ちゃんを、わたしは見た事がなかった。
それは経観塚の夏だけじゃなく、拾年前迄も含め。この人は常に自制を忘れない人だった。
それが今は違って見える。内側からの衝動に耐えきれず、溢れそうな今のお姉ちゃんは。
「ふゃっ、桂ちゃん。少し、待っ」「やだ」
お姉ちゃんの大事な処に当てた左手中指の往復運動は止めない。ゆっくり這わせ続ける。
これがお姉ちゃんの自制を崩す最大の一手だ。この人は、一度了承した事は容易に曲げな
い。その誠実さや優しさに悪のりしてしまうけど。
わたしが強く動かす度に、抱き留めてくれる腕や胸元がひくっと震え、息が止まって溜
息に変る。でも尚わたしを抱き留める事は止めず、わたしの動きを拒む事も躱す事もせず。
だから肌身にその困惑と弱る様が伝わって。
お姉ちゃんはこの触れ合いを嫌っていない。
この感触は柚明お姉ちゃんも好ましいのか。
或いはわたしだから好んでくれているのか。
今分るのは、お姉ちゃんが本当に年頃の女の子だと言う事だ。見かけではわたしと変ら
ない高校生の外見その侭に、反応も瑞々しく初々しくて可愛い。熱っぽい声音も素肌の震
えも困惑した表情も、わたしと何も違わない。
「ふゃっ、け、桂ちゃん。少し、あゃっ…」
声を出そうとするのに合わせて、更に強く指の腹を押し付ける。その侭強く擦りつけて。
止めてとの理性の願いをその感触で押し流す。
微かに肌が熱を帯びて汗ばんできていた。
「とても可愛い。柚明ちゃんって呼びたい位。
いつもお姉さん目線だけど、柚明お姉ちゃんもこんな可愛い声を出せるんだね。強さ賢
さだけじゃなく、お淑やかさ優しさだけじゃなく、乱れた声や艶っぽい顔できるんだね」
心のどこかで、柚明お姉ちゃんも同じ人間だと確かめたく想っていた。幾ら綺麗で賢く
強く優しくても、大事な処を抑えられれば困って崩れ、わたしの様な唯の女の子に想いの
侭に乱される、同じ肉の体を持つ女の子だと。それはお姉ちゃん自身にも感じて貰いたく
て。
消極的な制止は聞き入れず。ゆっくり左手中指を、大事な処に這わせ続け。お姉ちゃん
の腕はわたしを抱き留めると言うより、わたしに縋りついて、己を抑えている様にも想え。
お姉ちゃんは自制を壊されそうで必死だ。
わたしはその自制を壊して中身を見たい。
自制が解けた柚明お姉ちゃんの真の心を。
追い込まれて漏れる可愛い声も好ましく。
ふるふる震える素直な肌の感触も嬉しく。
わたしは左手を動かす己を止められずに。
「け、桂ちゃん。少しだけ待って」「やだ」
お姉ちゃんの何度目かのお願いを退けて。
お姉ちゃんの大事な処をなぞり続けていたわたしの左手中指の腹に、妙な液体の感触が。
汗とも涙とも違う、とろみのあるこの感触は。手を止めてその感触を親指との間で確かめ
る。水飴に近い粘度のある液体が、わたしが触れていたお姉ちゃんの大事な処から染み出
して。
「あ……、これ……」何となく分った気が。
わたしも全く経験がない訳じゃないから。
結構長い間、ここに触れてしまっていた。
この様に、大事な処を暫く嬲り続ければ。
「……桂ちゃん、……ごめんなさいっ……」
こうなる事を、この人は怖れていたのか。
その愛情が自制を越えて、溢れ出す事を。
わたしの求めを拒めず、こうなる怖れを感じつつ、でも受け容れない訳には行かなくて。
「桂ちゃんの清い手を、汚してしまって…」
でも間近な瞳は涙溢れそうな程哀しげで。
絶対侵してはいけない物を蹂躙した様な。
まるでその想いを抱く事自体が罪の様な。
いつもわたしには、全身全霊な人だけど。
いつも真剣に向き合うお姉ちゃんだけど。
この真摯さはその相場さえも越えていて。
どうして? この人はこんなに真剣になって一体何をわたしに謝るというの? まさか。
わたしは敢て、濡れた柚明お姉ちゃんの大事な処に左手全体で強く触れ、その感触をべ
っとりと付けて、互いの瞳の間に持ち上げて、
「どうして……お姉ちゃんが、謝るの…?」
どうしてわたしの手が濡れてしまったの?
お姉ちゃんの大事な処が濡れたのはなぜ?
わたしがお姉ちゃんの制止を聞き入れず。
大事な処を淫らに触り続けてなったのに。
わたしが悪いのになぜお姉ちゃんが謝る?
柚明お姉ちゃんは誰に何を謝っているの?
間近な瞳は柔らかに困惑の光を湛えつつ。
哀しみと愛しみを混ぜ合わせた辛い声で。
柔らかにこの身を再度抱き寄せ頬合わせ。
「愛してしまってごめんなさい、桂ちゃん」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「……許さないよ」「桂ちゃんっ……」
柚明お姉ちゃんがわたしを好いてくれているとは感じていた。この人は拾年前と変らず、
わたしを従妹として妹として深く想ってくれると同時に。経観塚で想いと生命を重ね合わ
せて以降、1人の女の子として愛してくれて。
その後も柚明お姉ちゃんはずっと、家族の愛で接してくれていた。深く強く想いを交わ
しても肌身合わせても、親愛の一線は越えなかった。親密に過ぎる触れ合いもわたしの治
癒に必要な行いで、他の人にも為していたし。
わたしはそれを、人目がある為だと思っていたけど。ノゾミちゃんも出られない今も尚。
どうして懺悔する様な悲哀を瞳に浮べるの?
「許したら、お姉ちゃんの謝りを認める事になっちゃう。謝る様な事をしたと認める事に、
お姉ちゃんが悪い事になっちゃう。柚明お姉ちゃんはわたしに、何も悪い事してないよ」
桂ちゃん? 少し見開かれる間近な瞳に。
どうしてダメなの? わたしは声を強く。
「お姉ちゃんがわたしを愛して何が悪いの?
お姉ちゃんがわたしを好きでなぜ謝るの?
どうしてそんなに哀しそうに愛を語るの?
わたしは……柚明お姉ちゃんが好きなのに。わたしは柚明お姉ちゃんに好いて望んで貰
えるなら、何でも受け容れられるのにっ…!」
どうしてダメなの? 従姉妹同士は血が濃すぎるから? 女の子同士はいけないから?
わたしもう、子供のけいちゃんじゃないよ。
お姉ちゃんと同じ位に迄、大きくなったよ。
お姉ちゃんが大人の愛を抱いてくれる程に。
全部柚明お姉ちゃんのお陰なのに。拾年その身も心も捧げて貰った。何度も生命を助け
て貰った。返しきれない程の想いを受けたよ。わたしも少しでも、想いを恩を返したいの
に。なのにどうしてわたしを愛する事に哀しむの。
「どうしてわたしの愛を求めてくれないの」
わたしは嫌っていないのに。求めてくれればいつでも全身全霊で応えるのに。お姉ちゃ
んなら、わたしの気持は分っているでしょう。
揺れる瞳を覗き込んで、尚強く声を出し、
「柚明お姉ちゃんの、真の想いを伝えて!」
「それは……してはいけないの。桂ちゃん」
返された答は、沈痛な響きを帯びていた。
唇を合わせようと迫るわたしを、お姉ちゃんは拒まず、でも唇は確実に外して頬に迎え。
柚明お姉ちゃんの答は、あくまでも家族の親愛だと。恋人の愛ではなく、性愛ではないと。
それを抱く事を知られた後でも、尚崩れずに。
「今のわたしには、それは許されないの…」
哀しげでも、揺らぐ事のない静かな声が。
わたしの濡れた左手を懐の素肌に招いて。
動悸が鎮まり行く様を肌身に感じ取れた。
お姉ちゃんの本音が、再び鎖されて行く。
優しい強さに、わたしの想いは届かない。
悲壮ささえ漂わせつつ、でもこの人はそうと決めた途は容易に曲げない。黒い瞳はわた
しに抱く、深い愛しさと哀しさに満ちて揺れ。それは本当に嬉しいけど、心を震わせるけ
ど。
「どうして、どうしてなの。理由を言って」
ダメな訳を教えてよ。強く問うわたしに。
お姉ちゃんは一度閉じた瞳を再度開いて、
「今は答えられないの。ごめんなさい……」
「イヤだよ。どうしてダメかも分らないで」
何も知らされない侭に、いけないなんて。
それじゃ経観塚の時と同じだよ。考えないで想い出さないでって、お姉ちゃんは拾年も
1人で痛み苦しみを全部引き受けて。わたしは守られていた事さえ気付けずに。わたしっ。
全ての過去に向き合うって覚悟したのだ。
二度と逃げない忘れないと決意したのだ。
強くなるって、わたし自身に誓ったのだ。
「訳が分れば一緒に乗り越えられるよ。弱くても非力でもわたし頑張るから。お姉ちゃん
の事情を教えて。わたし、今度こそ少しでも柚明お姉ちゃんの役に立ちたい。力になりた
いの。願いを望みを叶える助けになりたい」
わたしも、羽藤桂も柚明お姉ちゃんをっ…。
躙り寄って言い募るわたしの唇を、細い左手人差し指の先は軽く抑えて、言葉を止めて。
再び頬に頬が当てられ、耳に注がれる声は、
「時が来たら必ずお話しするわ。でも今は明かす訳には行かないの。お願い、分って…」
ああ、そう言えば柚明お姉ちゃんの強情が発揮される時とは、誰かを庇い守る時だった。
そして柚明お姉ちゃんの願いとは、いつも願う人の為にする物だった。自身の願いは脇
に置き、わたしや他の誰かが傷つかない様に、お願いって。拾年前も、拾年の間も、今も
尚。
きっとわたしを心配してくれる故に。きっとわたしを想い案じてくれる故に。でも……。
「納得できない。訳も聞かずに分ってなんて。……わたし全部思い出せたんだよ。その上
で過去にもしっかり向き合うって決めたんだよ。そのわたしが知らない方が良い事情なん
て」
「ごめんなさい。わたしが桂ちゃんに抱く想いを、隠し通せず露わにしてしまった為に」
それが悪い訳じゃない。お姉ちゃんは何も悪くない。そんなに哀しげな瞳を見せないで。
わたしの方が胸が詰まっちゃう。こんなに幸せに満ちた夜なのに。漸く一緒になれたのに。
何が何でも聞き出さない訳に行かなかった。
お姉ちゃんが一体何を怖れ憂いているのか。
わたしの何を守り庇おうとしているのかを。
それがこの人の想いを阻み止めているなら。
こういう時のお姉ちゃんはわたしより強情で頑固だけど。口を開かせ本音を吐き出させ
る術を今迄持たなかったわたしだけど。でも。
今宵ならば不可能じゃない。手段はあった。
いや、正確には手段と言うより手その物が。
その心を折れ曲がらせる手を今のわたしは。
間近の人は再び身を強ばらせ困惑した声を。
「……桂ちゃん」「その唇で語ってくれないなら、下の唇から聞き出すよ。お姉ちゃん」
未だ濡れている大事な処を左手中指が這う。
もっと昂ぶらせこの人の自制を理性を壊し。
その本心を露わにせずにはいられなくする。
お姉ちゃんは驚きに弱って身を固めたけど。
その手足で防ぐ事も、退き逃げる事もせず。
この人はわたしの想いを防ぐ事を好まない。
その親愛に甘えるというか裏切るというか。
でもその鎖した唇を開くのに他に術はなく。
何度も何度も執拗に強く触れて想いを伝え。
合わせた肌で、再び動悸が高まる様が分る。
息が乱れ気配が崩れ、肌身が強ばって震え。
さっきの感触もまだ鎮まりきってない筈だ。
「わたしはもう子供じゃないの。いつ迄も幼子扱いで事実を隠すのは止めて。わたし今は
もう、こんな事だって出来るんだよ。お姉ちゃんの大人の愛にだって応えられるんだよ」
「んんっ、桂ちゃん。……ちょっと、ま…」
「応えてくれる迄、止めないから。わたし」
熱い吐息が動揺を伝えてくる。この手を掴んで防ぎたいだろうけど、拾年前以前からこ
の人は力づくや強要を好まなかった。わたしの想いや行いを、止めたり妨げたりする事を。
わたしを抱き留めた侭、肌身や声音で止めて欲しい想いを滲ませ。でもわたしの無理矢
理に無理矢理で抗う事は決してせず。わたしに為される感触の心地良さにも身を震わせて。
尚それに溺れない様に流されぬ様に己を抑え。
「分って……桂ちゃん。それは、ふゃぅ…」
その手が、綺麗な指が、汚れてしまうわ。
弱々しく震える声はキスしたい程可愛い。
それを尚少し絞り出したい想いも込めて、
「じゃあお話しして。詳しい事情を教えて」
この人はわたしを一番に想ってくれている。
拾年前のわたしを一番に想ってくれた様に。
拾年前以前経観塚のお屋敷で、登校前の制服の裾を掴んで『行かないで』と求めた朝も。
お姉ちゃんはその手でわたし達を振り切る事も外す事も出来ず、お母さんに外して貰って。
白花ちゃんとお姉ちゃんの取り合いをして、両手で頬を抑えて唇を奪った時も、為され
る侭で。わたしの害にならない限り、どんな事もこの人は拒まなかった。無理矢理為され
る事さえ、幼子の我が侭さえ喜んで受け容れて。
でもわたしはもう拾年前のわたしではない。
子供ではない年頃の女の子同士であるなら。
何でもどこ迄も受け止めてはいけない筈だ。
今も尚全てを受け止め続けると言う事は…。
この人の情愛は心を満たして和らげるけど。
ずっと添っていたい愛しさと慈しみだけど。
わたしをもう少し大人に扱って欲しかった。
想う以上に言葉や行動や表現にして欲しい。
幼子への想いとは違う気持で抱いて欲しい。
もっと強く激しく、抱き締めて貰えたなら。
この人は静かに優しげに穏やかで、絶対乱れないから。無限の愛情を持ちながら、決し
て暴走しないから。突き崩す隙も付け入る隙も見えなかった。でも今なら、身も心も揺さ
ぶられた今なら、或いはお姉ちゃんの本心を。
「言って貰える迄止めないよ。早く話して」
「……ゃぅ……それは、できない、のっ…」
可愛い。本当に艶っぽく困り果てて弱り。
お姉ちゃんじゃなくて、まるで妹みたい。
拾年前もこうして目先の面白さにのめり込んで失敗し。柚明お姉ちゃんや白花ちゃんに、
いっぱい迷惑を掛けていたと思い返したのは。やはりやり過ぎになってしまってからの事
で。
「お話ししないと止めないよ」「んんっ…」
「愛してくれる迄止めないよ」「ふぁぅ…」
強く指の腹を当てて擦っていた大切な処に、つい爪が当たって何かが破けた。それ迄こ
の指を濡らしていた物とも異なる液体の感触が。お姉ちゃんが瞬時肌身を更に強ばらせ、
短い叫びを抑えつつ、痛みを堪える顔を見せた時。
わたしは、さっきこの手で無事を確かめた、たいせつな人の大事な処を、たった今この
手で破って、出血させた事を確かめ終えていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「ごっ、ごめんなさい。お姉ちゃん、あの」
それ迄の経緯が全て頭の中から吹き飛んだ。そもそもこの濃密な触れ合いは、柚明お姉
ちゃんの女の子が無事かどうかを確かめる為で。肉の体を取り戻せたお姉ちゃんの、大事
な処が無傷だと確かめ終えたその後に。わたしのこの指が傷つけてしまっては全く意味が
ない。
この左手に触れる感触は愛の雫ではない。
これは間違いなくお姉ちゃんの贄の血で。
女の子を破って迸らせたわたしの罪の証。
あぁどうしよう。わたしがお姉ちゃんを。
まだ誰にも破られてないこの人の清さを。
わたしがずっと守り続けたく望んだのに。
事もあろうに、わたしの所為で酷い目に。
「わたし、柚明お姉ちゃんの女の子を、初めてを……あの。痛かった? ごめんなさい」
大変な事をしてしまった。調子に乗って。
女の子の感じ易く弱い処を、責め苛んだ。
結果わたしはたいせつな人の大事な物を。
この手で破って傷つけて喪わせてしまい。
本当にこれでわたしは一生償えない罪を。
でもこの人は穏やかな笑みを戻していて、
「んっ、気にしないで良いのよ。桂ちゃん」
お姉ちゃんは一瞬苦痛に美しい顔を歪めたけど。抱き留めてくれる肌の強ばりも一瞬で。
既に心は立て直され、肌身にも平静さを戻し。
「少し痛かったけど、耐えられない程ではないから。わたしは大丈夫。気に病まないで」
却ってわたしの動揺を鎮めようと、背に回した腕に少し力を込めて。この人は自分の傷
より、傷つけたわたしの心を慰めようとして。
「桂ちゃんは何も悪くない。わたしを想って為してくれた事だもの。そしてわたしは拒ま
ず全てを受け容れていた。悪いとすればそれはわたし。桂ちゃんは優しく可愛い女の子」
幾ら何でも、この人はわたしに甘すぎる。
唯一度しかない生涯初めてを、破られて。
ムードも何もないこんな経緯で喪わされ。
穏やかに柔らかに微笑んで済ませないで。
わたしの大事なお姉ちゃんが喪われたの。
わたしの綺麗なお姉ちゃんが、酷い目に。
それを為した相手をもっと怒って。それを為された事にもっと哀しんで。じゃないと…。
「わたしはもう二拾六よ。元々いつ迄も処女に拘る積りはなかった。愛した人に捧げられ
ればと、好いた人に破って貰えればと望んでいたけど。桂ちゃんに破って貰えたのなら」
それがわたしの巡り合わせ。桂ちゃんに捧げたのなら、嬉しいわ。有り難う、桂ちゃん。
その声は静かだったけど、優しかったけど。
「イヤだよ、そんな、柚明お姉ちゃん……ずっと清い侭でいて欲しかったのに。まだまだ
女の子でいて欲しかったのに。わたしの所為でわたしの指で、破られてしまうなんてっ」
大好きなお姉ちゃんに、わたしは何て酷い。
涙がぽろぽろ零れ出る。許してとは口が裂けても言えないけど。自分で為しておいて許
し迄、この人に求められはしないけど。胸にいっぱいの哀しさと愛しさが苦しくて。肺を
締め付け喉を塞ぎ、涙以外は暫く声も出ない。
「ねぇ、何とか治す事はできないの。贄の血の力で、大人の身体を女の子に戻す事は…」
償いさえもわたしは為せない。唯今は何とかお姉ちゃんの損失を、埋める術を探そうと。
肌身をぴたと合わせて、問いかけるわたしに、
「出来ない事はないけど……」「本当!?」
お姉ちゃんの声は消極的な感じだったけど。
わたしは突然見つけた希望の光に縋り付き。
「お願い。お姉ちゃんの女の子を元に戻して。その為にならわたしの贄の血、いっぱい飲
んで使って良い。飲み放題に呑んで良いから」
助かった。わたしの罪や罰は拭えなくても。
この人の損失を補えるなら今はそれで充分。
「わたしはむしろ、桂ちゃんに破って貰えた証なら、この身に刻んで残したいけど……」
一度進んだ過程を人為で戻すのは、好ましいとは言えないし。やや躊躇う感じの声音に、
「やだ。それはわたしがイヤ。わたしに傷つけられた侭の柚明お姉ちゃんを、残すなんて。
傷つけて痛い想いさせた侭を残すなんて。治せるなら治して。清いお姉ちゃんに戻って」
お願いっ! いつの間にか、わたしはお夕飯の準備の時の様に、下から目線で瞳をうる
うるさせて迫っていた。己の我が侭をこの人に通したい時はこれが一番と、わたしは拾年
前から染みついている様で。そして拾年経ってもこの人は、とことんわたしに甘々だった。
わたしを安心させる為の微笑みを返して。
わたしを抱き留め肌身を重ね合わせた侭、
「分ったわ。じゃあ治すわね。少し待って」
治癒自体はそう難しくなく、大した力も要しないらしい。数分も経っただろうか。終っ
たわ、と静かに告げてくれたけど実感がない。
「本当に、治ったの?」「ええ、大丈夫よ」
穏やかな頷きは返るけど、わたしは尚も、
「本当? 本当に、本当?」問うてしまう。
この人は治ってなくても、死ぬ程の激痛や消耗疲弊の中でも、わたしを安心させる為に
大丈夫と微笑む様な人だから。信用できない。
「あのね、あの、お姉ちゃん。……あのね」
この人はそんなわたしの心中をお見通し。
でも今更言い出せない立場に、もじもじして言うか言うまいか、迷い続けるわたしへと。
「確かめてみる?」短く重大な問いかけに。
頬を朱に染めつつ、うんとこっくり頷く。
恥じらいで動きを止めると、自身が石化しそうなので、躊躇わず左手をお姉ちゃんの女
の子に這い進め。静かにゆっくり縦になぞる。
鮮血も愛の雫もなくなっていた。拭き取った訳ではないけど、贄の血の癒しの副次効果
なのだろうか。最初に触れた時の様に、そこはしっとり柔らかくわたしの左手を迎え入れ。
縦に何度か、余り強く押し付けずに中指の腹を這わせる。今度は破ってしまわない様に。
大丈夫だ。今もお姉ちゃんは女の子です。
安堵で心から緊張が、体から力が抜ける。
重い罪悪感が、幾分でも拭えた気がした。
「安心して貰えたかしら?」「うん、安心」
その時わたしに再度何かが囁きかけて来て。
引っ込めようとしていた左掌を再度当てる。
「もう少しだけ、確かめさせて」「えっ…」
少しの驚きと困惑が肌身に伝わってくる。
わたしは拒絶がない事を、受容と取って。
お姉ちゃんの敏感な処に尚指を当て続け。
割れ目に添って、軽く押し付けてなぞり。
ゆっくりと行きつ戻りつを繰り返させる。
「け、桂ちゃん」「もう少し確かめたいの」
安心できると同時にわたしは、間近に美しいこの人の、可愛く悶える姿を捨て置けずに。
この人はわたしを嫌ってない。確かに愛してくれている。姉妹の愛、家族の愛だけじゃな
く、1人の女の子としても愛してくれている。今宵だけ、破らない程度にもう少し触れて
も。
「桂ちゃん、あのね、ひぅ」「大好きだよ」
お姉ちゃんがわたしを愛する事をできなくても、わたしがお姉ちゃんを愛する事は叶う。
柚明お姉ちゃんを愛せる今が、わたしの幸せ。お姉ちゃんが耐えられず、自制を破ってわ
たしを愛してくれるなら、それもわたしの幸せ。
「もっとお姉ちゃんの無事を確かめさせて」
可愛い。本当に艶っぽく困り果てて弱り。
お姉ちゃんじゃなくて、まるで妹みたい。
そう言えば、拾年歳を取ってないお姉ちゃんの肉体年齢は、わたしより二月位妹の筈だ。
拾年前もついさっきも、目先の面白さにのめり込んで失敗し。柚明お姉ちゃんや白花ち
ゃんに、いっぱい迷惑を掛けていたと思い返したのは。やはりやり過ぎになってからで…。
「いたっ……!」「え……、お姉ちゃん?」
今回はそんなに強く押し付けてない筈だ。
さっきより随分慎重に這わせた筈なのに。
触れて確かめた液体の感覚は、贄の血で。
わたし、またお姉ちゃんの、大事な処を。
そんな、だって、わたし、そんな強くは。
心がひっくり返った様で言葉が紡げない。
ううっ。わたし、突発的な事態に弱すぎ。
でも、お姉ちゃんは一瞬で心を立て直し。
「んっ、わたしは、大丈夫よ……桂ちゃん」
身の痛みよりわたしの動揺を気遣い、背に回した腕に少し力を込め。この人は自分の傷
より、傷つけたわたしを慰めようと。頬に頬を合わせてくれて、尚も受容を伝えてくれて。
「治した箇所は未だ薄皮で、触り過ぎると簡単に破れるのって、言おうとしたのだけど…。
ごめんなさい。しっかり伝えられなくて」
いえ、それはわたしが人の話しを良く聞くべきでした。わたしが不用意に過ぎたのです。
わたし、たいせつな人に再び大変な事を。
罪悪感と己の粗忽さに震え出すわたしに。
この人はこんな時迄穏やかな声音を保ち。
「大丈夫よ、桂ちゃん。哀しい顔しないで」
「だって、お姉ちゃんに、また痛い想いを」
「わたしは桂ちゃんに破って貰えるなら、桂ちゃんに捧げられたなら、とても嬉しいわ」
「イヤだよ。わたしが、わたしがイヤっ!」
ねぇお願い。もう一回治して。柚明お姉ちゃんの大事な処を、もう一度女の子に戻して。
そうじゃないとわたし、たいせつな人をっ…。
「もう一度わたしの我が侭聞いて。お願い」
下から目線で瞳をうるうるさせて頼み込む。この短い間で何度も害を為したわたしの願
いが、そうそう何度も通じる訳ないと想いつつ。愛しい人の清らかさを何としても保ちた
くて。
柔らかな胸の谷間に、涙を伝わせた頬を埋めて、強く強くお願いを訴え続けるわたしに。
お姉ちゃんはわたしを拒まず抱き留めて。
穏やかで柔らかに静かな笑みを浮べつつ。
「分ったわ。じゃあ治すわね」「よかった」
わたしの願いなら、この人には本当に何度でもどんな事でも、通じて叶えてしまうのか。
お姉ちゃんは拾年前と変らない、幼子の我が侭を受け容れる、少し困惑した笑みを浮べ。
わたしの頬に頬を合わせて暫くの時を過ごし。
数分後、治癒の完遂を告げてくれる声に、
「本当に、治ったの?」「ええ、大丈夫よ」
穏やかな頷きは返るけど、わたしは尚も、
「本当? 本当に、本当?」問うてしまう。
この人を、信頼してない訳じゃないけど。
この世で最も、わたしに正直な人だけど。
でもその無事は、その治癒は、傷めた実感がこの手にあるだけに、簡単には呑み込めず。
この人はそんなわたしの心中もお見通し。
最早それを望む気力も出せないわたしに。
「確かめてみる?」短く重大な問いかけを。
何の気負いも力みもなく自然に柔らかに。
本当にこの人はわたしに甘すぎると思う。
でもわたしはそんな柚明お姉ちゃんが好き。初めての夜はその想いを更に強くしてくれ
た。