第1部 岩は生きている
「博士ェ、ここに置いといたセイロンの紅茶、どうしましたァ?」
ロバートは大きく開いた棚の中に頭を突っ込んだまま、そう尋ねた。昨日はあった筈の
セイロンの紅茶が、行方不明なのだ。
夜逃げしたと考えるには動機がないし……。
「セイロンの紅茶?」
年配の女性の、姿は見えずにその声だけが、
「さっき水と空気の循環器系の六か月点検に来たパーカーさんに、出しちゃったでしょ」
ガガーン!
ロバートの心の中で、ガラスの割れる音が鳴り響いた。
「幾ら国から給料が出るからって言ったって、この宇宙の果てまで計器の点検に来てくれ
るのよ。安物なんか出したらバチが当るわ…」
バスルームから出て来たばかりと一目で分かる、頭をタオルで拭きながら現れたライサ
女史は御年六十二才と女盛りの生物学博士。
まだ二十代前半のロバートにとっては、おばあちゃんだ。
「ちょうど一回分紅茶が残っていたんだもの。 この時に使って下さいってティーバッグ
が言っていたの、聞えなかった?」
「聞えたのは紅茶の悲鳴でしたよ」
ああ、哀れな紅茶。はるばるセイロンからこのロバート・E・クラークに味わわれる為
にやって来た可愛い可愛い紅茶たちよ!
大仰に天を仰いで見せるロバートに、
「何も紅茶一杯にそこまでこだわらなくても良いじゃないの……」
これだ! 繊細な神経を持つせーぶつ学者ともあろう者が、どうしてこう大雑把なの!
「僕は毎日おいしいセイロン紅茶を飲める所でしか働けませんっ! どうして僕が小惑星
帯の外れの宇宙船カンヅメ勤務を了解したか、分かりますか? 紅茶ですよぉ、紅茶
ぁ!」
宇宙の果てとか宇宙船内密封カンヅメ勤務とかは我慢できても、セイロン紅茶抜きの生
活だけはロバートには絶対我慢ならない様だ。
研究者に特有の、余り身なりを気にしない性格なのに、年の割には艶もあり皺も少ない
(若作りと云います)女博士は、風呂から出たばかりの、湯気香る頭をタオルで掻き回す。
その様は、四十年前なら結構色っぽかったかも知れない。
「台湾産の高級ウーロン茶ならあるわよ」
「セイロンのでなきゃヤダ」
ロバートはへそを曲げて座り込んだ。
「あの香り、あの味わい、あの喉ごし……。
僕には、あれしかないんですよ。浮気なんてできゃしない。あれがないと、死ぬゥ」
彼は自分の首をつかんで苦しがって見せる。
どおして研究や観察には俺をぴりぴりさせる程集中できる彼女が、紅茶一袋を……。
浮気ね。彼女は肩をすくめて見せるのみだ。
「死活問題ですよぉ、僕にとっては」
しかし老練な博士にはこたえた様子もなく、
「ウソ言うんじゃないの。人間の生存に不可欠な要素に高級セイロン紅茶があるだなんて、
聞いた事がないわ」
「それがロバート・E・クラークに不可欠の要素には明記されているんで……」
「一回分だもの、今日飲んだと思えばいいじゃない。今日手元から、消えてなくなる定め
だったのよ、あのティーバッグは」
ああ、何と酷い事を!
「博士ぇ、ゴビ砂漠の真ん中で死んだ人に水を持ってっても、間に合わないんですよ。死
ぬ前に持っていってあげれば、それは最高の水になるのに。
タイミングですよぉ、タイミング」
はいはい、比喩になってない比喩を云う彼に、女史は誠意のこもらぬ声でそう答える。
「ああ、あの最後の一杯を心ゆくまで楽しんで、一滴余さず飲み干して、使い終ったティ
ーバッグに今生の別れを告げる。
その筈が……ああ!」
別れの一杯はもう戻らない。こんな事なら昨日の内に、もっと味わっておくべきだった。
「ああもったいない!」
「昨夜使ったのならまだダストシュートの中。
再処理されてはいないけど」
「僕は二番せんじは嫌いですっ!」
地球を離れる事四十億キロ。小惑星帯(アステロイド・ベルト)の外れに浮ぶ、研究用
宇宙ステーション『アルキメデス』でロバートは駄々をこねる。
こうなったら彼の紅茶中毒には手がつけられぬ。ライサ女史はただ成行きを見守るのみ。
「仕方ありません、博士」
ロバートはすっくと立ち上がって、
「明日行く予定でしたが、今日買い物に行ってきます!」
来た! ライサ博士はやれやれと、
「何もそこまで意地にならなくても……」
「スクーターで行ってきます。何か必要な物があったら言って下さい……」
こうなると分かってて、頭の中でライサ女史はショッピングのリストを呼び出している。
「紅茶訪ねて三千里、ロバートは遂に宇宙の彼方目指して、雄々しく飛び立って行くので
したっ……!」
ルンルン、と聞こえてくるロバートの鼻唄に、博士は頭痛を我慢した。
宇宙服に着替えるのは、ここ半年余りの宇宙勤務で慣れている。研究資材や生活物資の
多くは、半年に一度来る国営配給船に持って来て貰うが、消耗品の欠乏はいつとは知れぬ。
日常使う紅茶や電池やガラス瓶は、足りなくなったら近隣の小惑星のバザールへ直行だ。
さあてと。ロバートはより動きやすい様にと改良された宇宙服を身体にまとって変身し、
真空と機密を隔てる二枚のハッチの真ん中で、宇宙のバイクとも言うべき『スクーター』
に身体を任せる。
スクーターは地球上のそれにタイヤがついておらず前後に噴射口がついてるだけの違い
で、低温核融合のエネルギーを使用して推進する身近な乗り物だ。この頃には宇宙母艦や
観測基地などでは、必要不可決の備品の一つとなっていた。小回りが利く事、大きな場所
を取らずに保管できる事が利点で、今では機械音痴のロバートでさえ使いこなせる程一般
的な装備になっている。
ライサ博士から手渡された買い物のリストを確認し、スクーターの計器もチェックして、
「ひとっ走り、行って来るかぁ!」
今の時期ならいつもと変わらず小惑星セレスは数万キロの彼方にある。軌道も障害物の
少ないコースだし、うん、よろしい。
太陽から隔たる事四十億キロでは、膨大なその光熱もそれ程の影響は与えないし、楽々
数千キロ位は飛べてしまう。それに第一真空中では空気抵抗がないから加速度はそのまま
加算されて、スピード感知器でもあったらとんでもない『超暴走族』になってしまうのだ。
スイッチを押して、二枚のハッチに挟まれた室内を真空状態にして、青いランプがつく
のを待ってから彼は、外側のハッチを開けてゆるゆるとスクーターを真空中に押し出した。
ハッチの開く方向が軌道の逆なので、すぐ発進という訳には行かないのだ。スクーター
と彼をつなぐ命綱が絡まらない様に用心しながら(彼には艱難辛苦の前歴がある)、彼は
おそるおそる真空の中に乗り出した。
ふわっ……。水飴の中を泳ぐ様な感覚で彼は宇宙に泳ぎ出した。まずスクーターの位置
を設定し、巧く軌道に乗せなければならない。
変な軌道に乗ったら修正が大変だ。人間の手作業の軌道設定は、大雑把に間違っていな
ければ良く、後は発進してから軌道修正で巧くごまかして低燃費で行き着ければいい。
「ええっと、この軌道で……よしと!」
レーダーのほぼ中央にセレス市の発進信号を捕らえる向きで、彼はスクーターに改めて
またがって、宇宙服の指のない手袋から発信される微電流でエンジンを起動させて、
「さて、発進!」
星々は無限の輝きを持って彼を見下ろしている。いや、彼が見下ろしているのだろうか。
三百六十度全ての方向に星々が見える自然界の大映像に、彼は心呑み込まれる。
「人間は、本当小さいよな……」
小惑星帯は星の屑が密集していて、身動きできない程そこここに星屑が泳いでいる様に
思われがちだが、実の所そうでもない。
宇宙空間という奴は本当に広大無辺で、星の屑が非常に密集している空域と言っても人
の目から見ればそれは、まばらな真空にしか過ぎないのだ。まったく拍子抜けする程に。
太陽系の第五惑星に本来なる筈だったこれら小惑星は、そのすぐ外側を回る木星の巨大
な重力の影響によって星になり切れなかった、『星の素』達で、大きさも直径数百キロか
ら小石か砂塵の様な物まであり、軌道も火星の内側まで入り込む物から土星の外を回る物
まで様々だ。『星の素』ゆえにむき出しの鉱物資源が採掘しやすい範囲に、無尽蔵にある
と言われていて、一山当てようと考える者達がぽつらぽつら姿を現していて、昔の北米大
陸に招来したゴールド・ラッシュのその先駆けに近い活況が見え始めていた。
全くそれまでは観測基地と研究ステーション位しかない、閑散としたド田舎だったのだ。
南京大学在学中に、小惑星帯まで赴任するこの話を聞いた時は、まさか冗談だろうと彼
も思っていた。彼の専攻したのは宇宙生物学で、どう考えても生命の可能性もなさそうな
小惑星帯まで出張って仕事をする事なんてありえないと、彼も固く信じていたのだ。
『僕、いつから宇宙物理学に研究目標変えましたっけ?』
『おいしいセイロン紅茶の飲める所なら、宇宙の果てでも良いとか言ったのは君だろう』
国営配給船と言う手がある事は彼も知っていた。この頃は保存技術も目覚ましい進歩を
遂げてるし、辺境の地に行けば行くほど各種手当もついて研究生が厚遇される事も彼は分
かっている。
しかし一体、生物の『せ』の字もない小惑星帯でカンヅメになって、何を研究しようと
言うのだろう。全く不可解だ。そういう彼に、『地球に飛来してきた隕石に生物の源とな
る有機物が見られたと言う話は、君も知っている筈だ。最初の生物は宇宙から飛来したと
言う説は今の所有力でないが、その元となる物質が宇宙空間に充満してる可能性は高い』
『太陽の熱量の乏しい所は生命発祥の可能性も常識で考えるなら、少ないと思うのだが』
『宇宙から飛来する隕石に生命の起源があると言う説は余り支持されてないが、この場合
消去法で生物の起源を辿っていくのも無駄ではないと思う……』
結局俺は特別賞与と奨学金返済免除、そしておいしいセイロン紅茶を毎日飲む予算だけ
は絶対に削らない事を条件に、みんな嫌がる『宇宙の果てに星流し、宇宙ステーションに
カンヅメ勤務』と言う生物学史上に残る栄誉ある勤務につく事になった。
当局の研究費用に対する姿勢は、バイオや遺伝子関係で大企業の『善意の寄付』を多量
に受け、更に国策として補助金をかなり引き出せているにも関わらず、ケチな物だった。
彼らは新しく宇宙ステーションをあの空域まで持ってって研究所にして、そこで選りす
ぐられた研究員を揃えた上でみっちりと研究するという金のかかる方策を避けまくって、
既に一部民間企業の援助を得て研究を進めている研究者のステーションを中にいる人員毎
買い取る方式を採ったのだ。
ロバートが勤務しているこの『アルキメデス』も、国際穀物業界のトップの某メーカー
から借り上げる形で、共同研究の名義になっている。ライサ博士は二十年も前からこの辺
境にカンヅメになって研究を続けてきている。
そしてこの付近にはもう一つ、世界中の薬市場を一手に握る某薬品メーカーから同様に
して借り上げて共同研究と言う事にしている宇宙ステーション『コロンブス』があった。
この空域にまで生物学者を送り込んで研究をする様な物好きは他にはおらず、この小惑
星帯については二つのステーションの独壇場と言っていい。そのステーションにもロバー
トと同じ様に、地球の大学から送り込まれてきた研究員(兼助手)がいて……。
「あ、オディッセイア号……」
ロバートは向こうから迫ってくる宇宙艇の名前を口にした。それはよく見慣れた、彼の
知り合いの連絡用小型宇宙船。
長距離を飛ぶと言う感覚ではなく、付近の宇宙ステーションとの連絡艇として用いられ
たり、大型客船に緊急脱出艇として備えつけられていたり、小回りの利く小型宇宙船だ。
大きさは地球上の自動車を二回り大きくした位、形は丸っこい流線型、強化ガラスの窓
とハッチが見える。
遥か向こうに見えたと思ったのに、両者が加速度をつけつつ向かってくる物だからその
距離は瞬く間に接近する。
パッパッ、合図のランプを受けて彼は、逆噴射を命じた。スクーターへの命令は彼の宇
宙服の掌から流れる微電流で殆どが為されるので、外から見ても彼が何か動作をしたふう
には見えないだろう。
物の速度を比較する、絶対の対象物のない空間に於て、彼のスクーターからの逆噴射の
炎が見えるが、実際少しでも相対速度が遅くなっているものか早くなっているものかは、
皆目見当がつかない。この辺りはベテランのパイロットならば目見当がつくと言うのだが、
彼は接近する宇宙艇にスキャナを合わせて相対速度を計器に表示させる事にする。
宇宙では多くの場合、先に発見した方が声をかけて、怪しい者ではない事を伝達する事
に決まっている。が、いつもの間柄なら省略する事も結構ある様だ。(宇宙海賊なども稀
にいたが、こんな金にもならない航路で待伏せする様な間抜けはいない)
向こうも相対速度を減らしつつ接近してるらしく、計器に示される数字はどんどん小さ
くなっていくのだが、双方の航路はぴったり合っていて、ずんずん正面から接近していく。
蛇に睨まれた蛙とか死神に睨まれた人間とは、こういう気分なのだろうか。ブレーキの
壊れた自動車で電柱に突進する感じ。
ぶつかる……何度も安全だと分かっているのに、彼は思わず体をこわばらせる。
『……』
音もなく彼のスクーターは、小型宇宙艇の外側に突き出たフックに引っかかった。命綱
がぴんと張って、衝撃で座席から放り出されそうになった彼を拘束する。
「おわっとっとっ……!」
ほっ……。何Gかの重力を受けて、うまく引っかかったロバートはほっと一息ついた。
「宇宙の暴走族め、元気にしとったかあ!」
接触回線が効くと同時に彼に声をかけてきたのは、小型宇宙艇『オデュッセイア号』の
船長であり、この近辺でもう一つだけある生物学研究用宇宙ステーション『コロンブス』
の研究者、ライサ女史とはライバルで大の喧嘩相手のカトウ教授。ここに来て研究を始め
たのが今から二十年近く前だと言うが、もう六十九才なのでここに来た時点でかなりの年
寄りだったと言う事になる。ライサ博士とは毎週のようにステーションを訪問しあっては
互いの成果を見せつけあって、自慢しあった末にあっかんべえをする、変な仲だ。
これがまたライサ博士に負けず劣らず楽天的で脳天気な性格なので、助手を務めるリン
ダも苦労すると言う物だ。
「暴走族は御互い様ですよ」
彼は第二外国語で覚えた日本語を結構流暢に扱って、
「ところで教授、どうも『アルキメデス』に向かう航路にいるみたいですが、また何か新
発見でもあったんですか?」
小惑星帯と言えども最近の生物学の発展は次々と隠れた有機物を発見し始めており、日
常的に新発見が相次いでいる時期だった。
ただ惜しむらくは、地球本星や火星などでの発見と違ってここでは、それらを評価する
者がいない事だった。地球の学者たちを仰天させる様な大発見でなければ、彼らの名前は
科学雑誌の隅にも乗れないのだ。
例えば、地球外生命体の発見とか……。
「おうおう、その話じゃ」
カトウ教授は思い出した様に手を打って、
「面白い物を見つけたんじゃ。ライサの頑固ばばあにも拝ませてやろうと思ってな、わざ
わざ見つけたてのほやほやを持ってきてやったんじゃよ……」
「何ですかぁ? 面白い物って」
「何だと思うかね。いい物だよ」
カトウ教授が中に入る様に勧めたので彼はスクーターに密着している命綱を緩め、宇宙
艇のハッチに向かう。
「気密は抜いてありますか?」
内部の空気圧を抜いてある事の確認を取ってから彼は、ハッチのコックをひねって扉を
開け、中に入っていく。リンダもカトウ教授も最初から宇宙服を着ていたらしく、内部に
空気圧の残滓は感じられなかった。
ハロー、ロバート。若い娘の声が、
「元気だった?一週間ぶりね」
「一週間? なんて果てしなく長い時間だったろう!」
どこかの二流のオペラにありそうな口ぶりを真似してロバートは、リンダの前でわざわ
ざ宇宙服のまま膝まづいて見せて、
「この前君に会って以来、僕の心は闇の中をさ迷って居たよ。君に会えない時間がこんな
に長かっただなんて、君に会えない時間がこんなに辛かっただなんて、ああ!」
大げさに演技して見せるロバートだったが、彼が少々リンダに気があるのは事実だ。そ
れはまだあんまりはっきりした気持ちではないけれど、その内宇宙の果ての者同士、同性
間なら友情に、異性間なら愛情に変わっていくのは自然なことで、後は時間の問題だ。
「OH,リンダ!今日また君に会えるなんて、僕は何て幸せものなんだ。君のその深く蒼
い瞳に見つめらてると思うだけで、僕のか弱い心臓は深海の重圧に潰されそうだ」
遥かなる真空の宇宙空間をさ迷ってきたのは正にこの為だ。君に会う為なら火の中水の
中、宇宙の果てまで追いかけるとも。
(実際、彼らは宇宙の果てにいるのだから)
「そしてあなたはいつもこう言うのよ。
『リンダ、僕は君をとっても大好きさ。上質セイロン紅茶の次にね』って」
「かなわないなぁ。僕は人間の中では、君を一番好きなんだけどなあ……」
リンダ・W・ハイゼンベルクはロバートよりも二つ下ながら優秀な、ブラジル大学出身
の宇宙生物学研究生で、カトウ教授の助手兼御守り役としてつけられたらしい。どうも、
研究者としてよりも生活無能者に近いカトウ教授の面倒を見る為といった感が強く、家事
に雑事にご苦労様だ。
一見偏屈そうな老人に見えるかも知れぬが、一言言葉を交わしたならばこの教授がいか
にあけっぴろげで豪放な性格をしてるのか良く分かるだろう。だいたい今時の学者なんて
物はみんな、自分の研究室を密封して研究成果も一切秘密にしたがるのに、この教授はそ
れを人前にひけらかして自慢するのだ。
知的所有権だとか発見者権利だとか言って、特許権の様にどこかの企業に売り出す事し
か考えない、そんな連中が多すぎて今、地球の科学界は異様に風通しの悪く、相互に連係
の取れない非生産的な学閥や財閥の巣になっているらしい。本当に情けない事だ。
「それで今日は、一体どういう発見をなさったんですか」
ハッチの扉を閉めながら彼がそう尋ねると、教授は後ろの船倉から何かを取り出してき
た。
「教授ったら、昨日からそればっかりなのよ。 最初は何でもない石ころだって、私が採
集した時は見向きもしなかったのに」
「あれはただお前の鑑定眼を試していただけなのじゃ……」
見栄なのか本音なのか分からない事を言いながら教授は、金庫の様な真四角なケースを
取り出した。ケースの蓋を開けると二重蓋になっているが、内蓋は強化ガラスなので中身
は透けて見える。
「いわ……?」
そこには漬物石程度の大きさの、一個の岩が鎮座していた。どこからどう見ても、何の
変哲もなさそうな、そのへんに浮かんでいるただの石である。
「これが、どうかしたんですか」
「普通は、誰でもそう言う」
カトウ教授は物知りぶって首をふった。
『この岩を、ライサ博士に見せるんでか?』
『あったぼうよお!』
カトウ教授はそう言って胸を張って(宇宙服を着込んでいるので、ロバートの目にそう
映る為には、かなり大げさにそっくり返って見せなければならなかったのだろうが)、
『この岩を見せて、あの頑固ばばあがぐうの根も出せない様を見届けてやるんじゃ』
いつもお互いに意地の張り合いで、どっちかが黙るなんて事は、天地がひっくり返って
もあり得ないのだが……。
『せいぜい頑張って下さいよ。ライサ博士も先週の屈辱を晴らすんだって言って気合いを
入れて研究に励んでいましたからね』
『おう、返り討ちにする気か。
この儂を迎え討とうなど十年早いわ……』
(ロバートは十年遅いの間違いではないかと思ったのだが)
とにかく酸素ボンベの中身は限られているので余り長居もできないロバートは、愛しの
リンダと長く会話する事も叶わずに、再び宇宙の大海に身を投げ出して行く。
スクーターに身を任せ、軌道はさっきのを少し修正し。オデュッセイア号には発射バネ
がついていた為、さっきよりも初速はかなり早くなるので、時間はむしろ無駄にはなって
ない。宇宙の不思議と言うやつか。
『最近は、この辺も人数が増えてきておかしな奴等もいるから、気をつけた方が良いよ』
リンダは別れ際に彼にそう注意してくれた。
以前は彼女も頻繁にスクーターを使っていたのだが、最近はもしもの事があったら大変
だとカトウ教授が認めてくれないのだそうだ。
この辺に来る連中は、およそまともな会社勤めの人間ではないと言って良い。中にはい
い奴も沢山いるのだろうが、世の中良い奴ばかりじゃあない。小惑星で、でっかな鉱脈を
一つ当てて後は一生楽して暮らそうだなんて思う連中は大抵、人生の前半生を失敗した者
で、その上失敗した原因を改善しないままでここに来ているのだから、成功する筈がない。
最近この辺にやって来る山師、三流不動産、それらを相手にする何やら怪しげな商売と
か、どれも一つ間違えば宇宙強盗(海賊)になりかねない連中なのだ。もっとも、そのお
陰で消費人口が増えて、とかく物の揃わぬ事で不便さ世界一との悪名高い『セレスバザー
ル』も漸く、バザールらしくなってきたのだから、『世の中万事塞翁が馬』という奴だ。
小惑星セレスは直径七百七十キロ。千八百一年一月一日にイタリアのシシリー島、パレ
ルモア天文台のピアジ氏によって発見され、古代イタリア神話の中に登場する豊饒の女神
の名前をとって命名された。小惑星帯の中では最大の星だが、それでも月の直径(三千四
百キロ)に比べれば遥かに小さい。
中にはセレス市庁舎があったり電気屋やら食料品店やら薬屋やらが揃っていたりとなか
なか悪くはない星なのだが、やはり辺境。
「ほいほいっと」
ロバートは、外から見ると殆どただの岩にしか見えないセレスの表面を、その微小な重
力に捕まってあげるといった慎重な運転で、スピードを落としつつ、滑って進んでいく。
直径七百キロ、円周は二千キロ。地球上では結構な距離だが、空気の抵抗もなく速さの
感覚の狂ってしまう宇宙空間に出てしまえば大した距離感はない。走っている内にセレス
の夜の面を飛び越えてしまい、彼の乗ったスクーターはセレス市第二宇宙空港に辿り着く。
宇宙空港とは名乗ってみても、名前ほどに大した物ではない。六か月毎にくる国営配給
船や鉱物資源を運び出す大型船が入ることもある第一宇宙空港とは異なって、ライサ博士
の様なセレス市郡部に居住する、小口使用者向けのこぢんまりとした発着場に過ぎない。
「どれどれ……、ひらけぇ、ごまぁ!」
コンピュータ管制なのでロバートは、宇宙服の右の掌をスキャナにかざし、電気信号に
よる暗証番号を確認させる。真空中なので音は伝わらないままにトラックが横向きに入れ
る位の大きさの扉が開いた。
「開いた開いた」
これぞ大魔導士ロバート君の呪文の力だね。
ふっふっふ。意味もない事を呟きつつロバートは、セラミックのゲートをくぐって、セ
レスの空洞の中に消えていった。
セレス市は小惑星帯の中心都市に当たるが、セレスは地球程大きい星ではないので、空
気を繋ぎ止めるにたる重力はなく、その施設の多くはくり抜いた坑道を外から密封して内
部に気密構造の居住空間を作る『月方式』が採用されている。
気密部と真空を隔てる二枚のゲートの間で『へんしん!』と言いながら宇宙服を脱いだ
ロバートは、端末のコンピュータに滞在予定時間数を示して、事前の届け出に一部変更の
あった事(明日の予定だったのに今日来てしまった)を照会し、許可を得てから初めて開
いたゲートの中に、のこのこと入っていった。
(スクーターはこの空間の一室に『駐車』していく。駐車料が格安なのはセレス市の市営
駐車場の為だし、彼の場合は研究雑費で落とせるので彼の懐には全く関係ない)
彼の入った六番ゲートは、いきなり市庁舎前の大通りの脇道に繋がっている。それほど
広くもない『地下』の空間しかないセレス市では、乗り物使用は厳禁である。
資源採掘公社が掘り進んだ太い坑道を中心に、網の目となって星の内部を包む坑道が道
の代わりをなし、市庁舎前の大通りは直径十数メートルの大洞窟で、ここに彼の目的地で
ある『セレスバザール』がある。
セレスバザールを想像する上で一番参考になるのは、中近東・イスラム世界に見られる
バザールだ。あの様に豊かな商品がそろっている訳ではないし、それ程賑やかでもないが、
基礎のしっかりとした建築物はほとんどなくて、バラックやらプレハブやら、中には地面
に敷物を敷いただけの店もあり、あんまり綺麗な町並みとは言えないながらも活気に満ち、
勝手を知り尽くした者には、この上なく人なつっこい町並みなのだ。
ロバートがここに赴任してきてからセレスバザールを訪れるのは四度目。一つの場所に
日毎に交代で店を出してる商店主もいるのでまだ全部ではないが、もう顔なじみになった
店の人もいる。
「よう、ライサ婆さんとこの兄ちゃん」
孫かなんかと間違われた事もある。
酒屋、理髪屋、瀬戸物屋、部屋貸し(ホテル兼用)、食料品、雑貨、文房具、電気屋、
クリーニング、保険屋、不動産、弁護士……。
本屋に食堂・レストラン、喫茶にスナックふろ屋(公営浴場)まで、なかなかそろって
いる様に見えるのだが、どっこいそうは巧く行かないのが世の中。品揃えが悪い。
ここでコーヒー・紅茶・ココア・クリープ等を仕入れる正当な方法はただ一つ。三か月
に一度来る国営配給船に、予め『特別注文』をしておき、それを受け取る。それしかない。
しかしそれでは、突発的な紅茶欠乏症に悩まされるロバートの心に安らぎをもたらすに
は程遠い物だと言わざるを得ない。大体それでは『アルキメデス』にいる時と、どれ程違
いがあろうものか。彼がはるばる二時間もスクーターに乗ってくる意味がないではないか。
だから最初にここを訪れた時点でロバートは、『正当な唯一の方法』を諦め、それ以外
の方法を強要された。物々交換である。
ここの経済は表面上『自給自足が不可能な閉鎖された特殊な循環系の為に、国営配給船
の運んでくる物資を中心とするカード経済が、全てを占めている』と言う建前になってい
る。
しかし世の中、政府主導の統制経済ある所には必ず闇経済と言う物があり、お偉いさん
や学者先生達のデスクの上には現れてこない経済活動と言う奴がある。この宇宙の果てで、
一体どうやれば配給物資以外に『物』が出回る事がありうるのだろうかと思える中にさえ、
消費者のちょっとした買い過ぎ等から、簡単に物々交換による原始的、しかし合理的この
上ない私的経済活動が行われるのだ。
一応セレス市当局では『小惑星帯空域には闇経済などと言う物は成立しうる余地がない
から存在しえない』と言う見解を示していて、『闇経済などは存在しないのだから、敢え
て禁止する必要もない』と言う巧い理屈でこの闇経済活動を黙認しているのが現状だ。
ロバートはバザールの中をうろつきながら、「よう、ライサんとこの兄ちゃん、いいフ
ラスコが手に入ったんだ。見てかないかい?」
と話しかけるトルコ人らしい頭にターバンを巻いた中年男の店を覗いたり、
「『アルキメデス』のあんちゃんだね。このティーカップ、買ってかないかい。この前ア
メリカン・リーグの優勝決定戦でどっちが勝つかで、トムが博打に負けたロジャーから巻
き上げた物さ。傷ひとつない、いい物だよ。
これで茶道を極めるってのも、『結構なお手前』ってやつさ……」
と声をかける顔中ひげだらけの日本人男性に袖を引っ張られたり、全く世の中さまざまだ。
「おい、この宇宙服J型用ランドセルジェット、耐用年数切れてんじゃないのか。
大丈夫かよ」
「大丈夫大丈夫、こいつの耐用年数はかなり実際よりも少なくつけてるんだから……」
「たったこれだけの牛肉で水二リットルの配給チケットと交換だなんて、あんまりだ!」
「へん、この宇宙の果てで牛肉なんて人間の
食い物を口にしようとする方が間違いさ」
高い安いと言いつつ取り引きは様々だ。
通りは八十人以上の人影が動き回っていて、セレスバザールにしてはかなり賑ってる方
だ。
ロバートの捜し求める店はこのバザールの中では老舗と言うべき、基礎のしっかりした
平屋建ての建物で、四十才過ぎの黒人女性が亡くなった主人との間にできた三人の子供を
育てつつ茶・コーヒー・クリープ・クッキー・ビスケット・まんじゅうなど、生活の疲れ
と単調な配給宇宙食百三十選を離れて、束の間の安らぎを求める、そんなファンの声に支
えられて、もう十年近く続いていると言う。
十年前に鉱石爆破ミスでご主人が亡くなった時、ライサ博士もカトウ教授も、この店を
出して再出発しようとする彼女に多大な援助投資をしたと言う事で、それ以来この店は、
多少の我がままでも聞いてくれる『アルキメデス行きつけの店』となっている。
店の女主人のミセス・スーザンにも彼の紅茶狂いは既に周知の事実なので、常に幾種類
かの紅茶を揃えてロバートを待ち構えるのだ。
「いらっしゃい、紅茶を訪ねて天竺まで来た三蔵(法師)さん」
「あ〜る時は三蔵法師、またあ〜る時はマルコ少年、またまたあ〜る時はリンドバーグと
も呼ばれた紅茶捜しの探険家、ロバート・E・クラーク只今参上!」
ばかなポーズにもスーザンの子供達は歓声を上げて喜んでいる。精神年令はかなり近い。
「ご苦労さん、今日は昨日仕入れたばかりの上質セイロン茶がありましてよ」
スーザンは、近くの棚の中から紅茶らしき渋い色のカンカンを取り出して、
「特注だから本来高くつく筈なんだけど、配給船の船員の手荷物を譲り受けて半額以下で
仕入れる事に成功したの。中身は四分の三位残ってるし。水配給カード六度数分でいい」
思ったより安い。中々のお買い得商品だ。
「へぇ、気前いいんだあ」
ロバートはそのきっぷの良さに惚れ込んで、「よし、それじゃあこっちもお宅のかわい
いサンディにも、アメ玉をお支払しましょう」
「まいどあり! ほら、サンディ、ロバートのお兄さんにお礼を言いなさい……」
へへへ、しめしめ。まんまと紅茶を手に入れたロバートが、ライサ博士から頼まれた筈
の買い物リストをきれいさっぱり忘れ去って、意気揚々と店の外に踏み出した時、事件は
発生した。グレイのコートを着た男に突如肩をつかまれて、
「ロバート・E・クラークだね?」
俺の名前は、デビッド・ルイス。国際連邦警察、ロサンゼルス市警の刑事だ。
『刑事さん……?』
一人がそう名のったかと思うと、
「ちょっと署まで来てもらおうか」
ロバートが何か返事をするより早く、屈強な男の二人組は、哀れな無実の被疑者を連れ
てセレス市庁舎に向かう。そこには、セレス市庁舎内に併設されている『連邦警察セレス
分署』があったのだ。一体何がどうなったのかはさっぱり分からないが、ロバートは警察
に捕まってしまったのだ。
「ああ、無情!」
ロバートの叫び声はセレスバザールの雑踏の中に飲み込まれ、かき消えていった。
「ったく、もう!」
ロバートは三時間近く尋問を受けた末に、全くの無実、『シロ』と判明されて漸く釈放
される運びになった。ライサ博士やスーザン一家、そして多くのバザールの顔見知り達の
証言で、彼が怪しい者ではなくただちょっと紅茶にうるさいだけの人畜無害な研究員だと
分かった為だが、それを地球から来た刑事達に納得させるのに、三時間近くもかかったの
だから、全く参った物だ。
「一体、何なんですかぁ。会った途端に捕まえて、三時間も尋問して。こっちだって忙し
い身なんだ。スケジュールが狂っちゃう」
(実は彼はヒマを持て余しているのだが。)
「いやいや、申し訳ない」
何が何やら全く事情の分からないロバートは、警察から詳しく説明を受けてようやく話
が飲み込めてきた。
地球で強盗殺人を犯し指名手配中の犯罪者、ジャック・ハミルトンがこの近くまで逃亡
してきたと言うのだ。
へえ、はるばるねえ。ロバートの、今一つ気合いのない声に刑事は少し気抜けしながら、
「最初は、女絡みの殺人を犯してロス市警に追われる事になったんだが暫く潜伏しててね。
惑星間航路のどこかに乗ったのは確実だったから、ずっと追跡し続けててね。漸くそれ
らしい奴がいると分かったんだ。それもこの、小惑星帯に」
「ここまで追い詰めればもうこっちの物だ。
小惑星帯は人口が少ないから容疑者だって限られてる。後はこの辺に最近現れた者で、
不審な行動のある者を洗い出せばいいだけ」
「で、明日来る予定の買い物に今日来た僕が疑われたって訳ですか?」
警察が捜索に来た事を知って、脱出の準備に動いたと思われたらしい。
「たかが紅茶一杯で買い物の日程をずらすなんて、我々には十分不審な行動だったんだ」
まあ、そうかも知れないけど。一面ではそうも思いつつロバートは、
「たかがじゃないですよ、僕にとっては」
「分かってるよ、スーザンさんに聞いたから。君が命の次に紅茶を大事にしてるって事
を」
「紅茶は人間の人生を優雅にする飲み物です。文化の香りがあります。紅茶ない生活なん
て、僕には考えられませんね。
だいたい、紅茶はですねぇ……」
ライサ博士を閉口させたロバートの『紅茶文化論』の登場だ。
まあ、刑事達にそれに反対する謂れはない。
「どうだろう? お詫びのしるしにと言っては何なのだが、何か飲み物でも飲みながらこ
の辺りの事情について教えて貰えないか?」
この地に顔なじみのいないデビッド刑事は、情報収集の為に彼を、紅茶で吊り上げよう
と考えたらしい。が、それは正解だった。
「我々も長い船旅から解放されたばかりでね、この辺りの事については何にも知らない
ん」
もう一人のマイケルという若い刑事もそう言って誘ったので、彼は予定外の喫茶店訪問
と言う収穫を握り締め、死刑宣告から逆転無罪を勝ち取った被告人の顔をして、警察分署
を出る事にしたのだった。
刑事たちの必要経費という事で、誰の懐を痛める事にもならないと知ったロバートは意
気揚々と一般市民の羨望の眼差しを受けて止まない高級喫茶『ルナ』に二人を導いていく。
ここに入るのは彼も初めてなのだ。
ところが、とんでもない情報が彼の予想外の楽しみを奪い去る結果になってしまう。
正に店の入り口をくぐらんとする時、紅茶の味と香りは既に彼の舌の上でフラダンスを
踊っていると言うその時に……。
ピーッ、ピーッ、ピーッ。
二人の刑事の腕時計にセットされている、緊急事態を知らせるアラームが鳴り響いた。
「どうした?」
無線通信器でもある腕時計に口をつけてデビッド刑事が尋ねるのに若い婦人警官の声が、
「酒屋のデニスンから通報がありました。
酒の配達途中に見慣れぬ宇宙艇を発見。
例の盗難宇宙艇にそっくりだそうです。船籍照合を行ったところ、無回答のまま逃走し
て行ったと言う話でした。
発見場所は,星間図三次元座標でX321、Y773、Z935。逃走方向は……」
それを聞かされた時に、ロバートはゲッと驚きの声を上げてしまった。
アルキメデスのある方角じゃないか!
「なにッ? それは大変だな」
「ひょっとしたらひょっとするかも知れん」
女盛り故にライサ博士が性的暴力を受けるとはちょっと考えられないが、アルキメデス
は今、博士一人の筈。そんな凶悪犯に立てこもられたら、博士の命だって危ない物だ。
二人の刑事も大変だと言う顔をして、
「よし、すぐ警備艇で直行しよう。今あいているパトロール艇はあるか?」
「確か、パトロール艇七号があいていた筈」
マイケルの返事にデビッドは立ち上がって、「よし、行くぞ。急げ」
紅茶の香るその薫りだけを胸に吸い込んで、結局ロバートは、刑事達と共にアルキメデ
スに向かう。今日は本当に紅茶に縁のない日だ。
「外部から破壊されたという形跡はありませんね」
「何者かが外部から入って立てこもっているという事も考えられるな」
二人の刑事はロバートの気持ちを知ってか知らずか、目指す宇宙ステーション『アルキ
メデス』を目の前にしてやけに慎重だ。
警備艇でアルキメデスに急行する一時間半というもの、セレス無線局もロバートたちも、
何とかしてライサ博士と連絡を取ろうとしたのだが、どうした事か女史からは全く返事が
ない。やはり何かあったのだろうか。
不安を打ち消す確かな証拠が欲しくてロバートは、絶対に応答しない事を許されない連
邦正規軍の使用する強制受信回線の周波数を盗んで悲鳴よ届けとばかり訴えかけたのだが、
アルキメデスは沈黙のままだ。
不安と期待を喉の奥に押し込めたまま、彼らを乗せたパトロール艇はさっき、アルキメ
デスに接近して停船した所である。船内から全く反応がないので、彼らは今、宇宙服に身
を固めて、その中に潜入しようとしていた。
しかしおかしな事もある物だ。つい六時間前まで自分の住家だったのに、『潜入』とは。
彼は外側からハッチを開くスイッチを押す。内部からロックできる作りになってはいる
が、特別の事情がない限り開く様になっているのが常である。扉はロバートに実に忠実だ
った。
二重構造の外側のハッチが開き、暗証番号による照会を手のひらの電気信号で行ってか
らロバートは得意そうに、
「この扉は良く飼いならしてあるんですよ」
非常事態なのでこの際刑事二人はロバートのたわごとに構う事なく中に乗り込んでいく。
「二枚目の扉は暗証番号なしで開きます。
外の扉を閉めて気密性が保たれてる事が確認されれば、扉は手動で開くんですよ……」
そう言ってロバートはOKのサインの示される筈の液晶画面を見つめたのだが……。
危険・酸素漏れを示す赤ランプが点灯して居る。ばかな、そんなばかな!
「おい、船内の機密が保たれていないんじゃあないのか?」
マイケルの当然の指摘に、ロバートはみるみる青くなった。正真正銘、背筋にゴースト
が居座った。
「バカな……こんな事って……」
「とにかく、中に入ってみよう」
デビッドが先頭にたって不測の事態に警戒しながら船内を泳いでいく。当然の事ながら
無重力の宇宙船内の移動は遊泳である。船内はそれ程広くはないので、廊下を進めばリビ
ングルームまで十メートル程だ。
その奥が研究室なのだが……。
「異様に酸素濃度が低いです」
空気漏れですね。その囁きに、
「宇宙服は脱がない方が良いようだ」
「電気系統は生きています。が、これは非常用です」
一体、彼の不在の間に何があったと言うのだろう。言いようのない不安が喉の奥から飛
び出しそうで、きりきりと歯ぎしりをする。
「この奥が研究室です。ライサ博士はここに一日中立てこもってます……」
そういいながらロバートが扉を開けたその奥に見た物は?
「まさ、か……?」
瞳を閉じたライサ博士の、力なく浮かぶ姿。
額からは血を流し、顔は青ざめ、そして室内は爆発があった事を裏付ける様に破片が飛び
散り、それは破壊の嵐の後だった。
「博士……!」
後の事は良く覚えていない。ライサ博士の額から流れ出る丸い血の滴、ばたばたと慌た
だしい刑事たち、取り出される酸素マスク、発信されるSOS、そして……。
「一体、何が起こってしまったんだ……」
ロバートは膝を抱えてうずくまる。
爆発……。刑事たちの口からは、そう言う呟きが漏れた。室内には岩石の破片らしき物
とガラス片が全方向に散らばって突き刺さる。研究室中央のガラスの隔離ケースが内側か
ら『爆破された』と刑事たちは考えてるらしい。
「このケースの中には、爆発物などを入れるのかね?」
デビッドの問いに、ロバートは、
「冗談じゃない、生物学の研究室ですよ。熱核融合炉じゃないんだ。爆発する物なんて、
この船内をひっかき回したってある筈がない。爆発物と言えばポップコーン位の物で
す!」
いつもこの中に、その辺で仕入れた岩石を入れてマジックハンドでいじくって有機物の
有無とか調べるんです。
「ケースの中は真空になっています。船内の空気に触れさせないのは、船内の有機物の付
着を防ぐ為です」
あのガラスにひびが入ったならば、ガラス片は内側に向かって潰れる筈だ。余程の爆発
でないと、外に向かって破裂なんて事はない。
「しかしあの研究室の状況を見るならば、どう考えてもあの円柱型の隔離ケースが内部か
ら破裂した、爆発したとしか思えないのだ」
床から天井まで吹き抜けになっていて直径一メートル余りのあのガラスケースは、彼も
毎日の様に岩石をいじくるのでお馴染みの物。
「この空域で、岩石に偽装した機雷を敷設する過激派がいるなんて考えられないしな」
「あの飛び散ってた岩石は、どこから仕入れた物かね」
「……れれ?」
聞かれて初めて、ロバートも首をかしげた。
ある筈がないのだ。先週からライサ博士は真空中に存在する有機物の研究に取り掛かっ
ていて、岩石採集なんてずっとしてなかったんだっけ。岩石のストックだってなかったし、
どうしたのだろう。
待てよ……。その時、
「カトウ教授をお連れしました」
マイケル刑事の若い声が連れてきたのは、この事件の重要参考人にされてしまったカト
ウ教授と、それに憤懣やる方ないと言った感じのリンダの二人だった。
「こら、乱暴に扱うでない! 儂は人類の生物学史上に残る大発見をする大生物学者…」
「はいはい、今はあんたは、この事件の重要参考人なんだから、おとなしくして」
マイケルは狭い警察分署のどこで取り調べを始めようかと場所作りに苦心している様だ。
「どうしたんですかぁ、教授ゥ?」
ロバートの驚きの顔に教授は、
「どうしたのかだって? どうしたのかだって? そんな事は、この儂が聞きたいわ!」
「じゅーよーさんこうにん?」
ロバートがリンダの方を向いておうむ返しにそう言うと、
「警察では容疑者の別名をそう呼ぶのよ」
彼女は今にも唾を吐きそうな顔をして、罪なきロバートに向かってまくし立てた。
「だいたいここの警察なんて、中央から弾き飛ばされて出世の見込みのなくなった元エリ
ートだから、地元の人を見下すわ地元の事情は知らないわそれでいてエリート意識だけは
異様にあるわで、もう最悪!」
リンダはそばに刑事がいる事を半ば意識してか、声のトーンをまたひとつ上げて、
「早く中央に戻りたくて犯罪検挙数を上げる為に冤罪事件でも何でもでっち上げてるって、
本当だったんだわ!
全く、一般市民をなんと心得てるのかしら。
民間人の協力を得られなければ警察なんて何もできないって事が分かってないんだから。
何が国民の奉仕者で市民の味方よ……」
「ま、まあ、落ち着いて……」
「何もあんたが悪いって怒ってるんじゃないもの、いいじゃないの!」
「静かに、静かに。興奮すると酸素を余計に使うから。ね、リンダ……」
「どうも、儂がライサにあげたあの岩が問題になった様なのじゃ……」
カトウ教授は困惑の表情を示していた。
「問題じゃありません。殺人未遂事件です」
それも状況によっては殺人事件にもなりかねない。若い刑事はそう言って、
あなたは時限爆弾入りの岩石を研究材料と偽ってライサ博士に渡して、彼女を殺そうと
したんですよ」
「冗談やないでえ、何でわてがそんな事せなあかんのや!」
思わず母国語の訛りを出してしまったカトウ教授は、英語に直して同じ事を抗議した。
「あなたは、研究者として競争相手の立場にいるライサ博士を邪魔に思って、その殺害を
計画し、実行した。そうですね」
マイケル刑事の質問は事情を知っている様でいて、実は全く分かってないに等しい。
「だからこの辺りでたった二人の研究者仲間でそんな事をする必要は全くないって、何度
言ったら分かるの!」
リンダはそう怒鳴ったが、この刑事の見方は決して常識外れではない。
地球では研究成果を巡る科学者同士の争いが激化している。世界中の研究者達が、似た
様な研究を、似た様なレベルと資材で進めている為に『発見』の先陣争いは、時間単位・
分単位になって来ているのだ。
ある科学者などは、研究発表に行く最中に渋滞に巻き込めれた為に、他の研究者に出し
抜かれて『知的所有権』を得られずに、数百万ドルの損失を被ったと言う。
また別の科学者は、同じ研究を行っている学者の『新発見』の伝達を遅らせる為にその
地域一帯の電気を停電させた(通信手段を封じた)事がばれて市民に呆れられているとか。
他にも相手の研究がどこまで進んでいるかを探る為に諸々の盗聴を行い、相手の研究を
妨害し、電気を止めたり銀行口座を狂わせたり(資金面が一時的にストップする)、悪質
な者はマフィアと手を組んで、対立する研究者を消す事さえあると言う。
地球でそう言う状況に場慣れしている刑事にとって、それはさほど難しい想像でもなか
った。学者も腐敗しているのだ。
生き馬の目を抜くロサンゼルスの警察官だ。こんなド田舎ののどかな状況など、信じら
れないのも無理はない。
カトウ教授は中央部が禿げ上がった白髪頭のその首を、ぶるんぶるんと左右に振って、
「違う違う! 何度言ったら分かるんじゃっ。
儂はライサに頼まれてこの研究材料を貸してあげたんじゃ。リンダとライサに聞いてみ
れば、すぐに分かぁる」
カトウ教授は精一杯背伸びして抗議したが、
「残念ながら、ミス・リンダの証言は法廷では証拠能力があるとは見做されません」
余り残念でもなさそうにマイケルは言って、
「ライサ博士の証言が欲しいところですね」
「儂もライサももう二十年以上ここで研究を続けておるんじゃ。互いにそんな事を考える
ならどうして二十年も生き延びてこれよう」
「我々は三十年連れ添った夫婦が互いを殺しあう殺人事件も見て来ています。つき合いの
年数は、否定の動機にはなりませんよ」
確かにそれも正論だ。
「で、儂はこれからどうなるのかね」
やりかけの研究は山ほどある。何か月間も留置場に放り込まれるのは、まっぴらごめん
被りたいのだがねっ。
何と言っても相手はナマモノ、じゃない生物だ。面倒を見てやらなきゃ死んでしまって、
データも何も残らないし、リンダを一人にする事にも不安は多い。
「まだ被告人と決まった訳でありませんから、拘留を強制する物ではありません。あくま
でも事情徴収と言う事で」
「強制しない……?」
ロバートが疑わしげに首を傾げるのにリンダは、
「言葉ってのは使いようだわ」
「まずはあの岩の入手経路、それからなぜ自分の研究材料をライサ博士に渡す事になった
のか、その辺から聞かせてもらおうかね…」
「まあ。この漬物石、一体どこから手に入れて来たの?」
ライサ博士は多少の驚きを見せてカトウ教授とリンダ、そしてあの石を迎え入れた。
「なあに、儂の薫陶を受けた優秀な助手が見つけ出したのじゃ」
「質量はおよそ二十五キログラム。重さに対して内部の密度がやや低めで、荒っぽく脆い
構造ですが、平均的な宇宙の石っころです」
リンダがそう言っている間にライサ女史は、中央の隔離ケースの中にその石を封じ込め
て、スキャナでその石の様子を探っている。
「確かに、興味深い石だわ」
ライサ女史は、スキャナの探知画面と隔離ケースの中の実物とを見比べつつそう呟いた。
「タンパク質、アミノ酸、グリコーゲン……。生命に必要な有機物が殆ど揃ってるわ。生
命の痕跡の様な物まで見られるじゃない。
これは本当に珍しいわ……」
「糖質や塩分、それに少量ながら水分も発見されています」
リンダはレポートを読み上げる様にいう。
「ここに生命がいたって不思議のない状態」
ライサ博士はかなりお気に入りの様子だ。
「どうじゃ、すごい発見じゃろ!」
「あんたにしてはなかなかの発見じゃない」
ライサ博士はカトウ教授に見せつけてやろうと思っていた研究成果も忘れてのぞき込む。
「宇宙空間で、この表面に下等な細菌を移植して繁殖させようと思うのだが、成功したら
大変な成功になろう。既にウイルス・リケッチアの類は、真空中に数か月置いてから回収
しても半分以上は死滅しない事が証明されておる。それに加えてこの岩での細菌の保存・
繁殖が成功すれば……」
「そんな事するの……」
ライサ博士は何かを探る目付きでスキャナを見つめながら、そう呟いた。いつもの緊張
ぶりとは、様子が異なっている。
まだ何を突っ込んで研究すれば良いものか分かりかねている表情だ。生物学者としての
キャリアならロバートの年齢に倍する博士が研究材料を前にしてこんなに首を傾げるのは
そうある事ではない。しかも相手は石っころ。
「ねえ、この岩の表面温度、測った?」
「表面温度? どうしてまたそんな物を」
ライサ女史の問いにカトウ教授は驚いて、
「太陽の光熱も少ないこの辺りで、改めてそんな物を測り直す必要があるのかね。
儂はここに来て研究を始めてから、三日で温度計を倉の中にしまいこんだよ」
「これ、見て」
ライサ女史の示したスキャナの探知画面は、『表面温度、せ氏零度』を記録していた。
「せ氏零度、せ氏零度だとっ!」
「どうなってるの?」
教授もリンダも共に驚きの声を上げた。
「せ氏零度ったら、生き物だって生存可能な温度よ。どうしてこの岩がそんな温度を…」
「ふむ、おかしいのう。このサイズの岩で噴火活動があるとは思えんしな」
「ね、これ貸してもらえない?」
ライサ博士は恋する乙女の持つ視界十度の目付きを石に向けたまま、カトウ教授に、
「あなたが前に貸して欲しいって言っていた光合成細菌の低温培養資料、まだ研究は途中
だけどあげちゃうから」
「あ、ああ。別に構わんが……」
このサンプルだったら『コロンブス』にもまだストックがあるし。カトウ教授は石に心
奪われたと言う感じのライサ博士を後にして、『コロンブス』への帰途についた。
「結局この岩はどこから手に入れて来たんですか?」
マイケルの若い声が問う。
リンダはオデュッセイア号のフライトレコーダーを取り出しおおよその位置を教えたが、
何せ郡部の外れで誰も目撃者がいない。疑いの眼の刑事たちは、更に正確な場所を求める
口調をしつつ彼女がフライトレコーダーを書き直したのでないかとうたぐっている。
「たかが岩石採集に、どうしてそんなに外れまで行く必要があるのかね」
「市街地に近い岩は資源開発だ何だで人為的な影響を受けてる可能性が高い。それを研究
材料にしては間違いの元じゃろう」
「普通自分の研究材料を人に渡したりするかねえ、地球では考えられないんだが」
「地球の常識で宇宙を見ないで!」
今度はリンダだ。
「ここでは誰でも互いに助け合って暮らしていかないと生きていけないのよ。人を蹴落と
しあって足の引っ張り合いをやってる地上とは、違うんだから……!」
「そうやって身内の犯罪を隠しあうのが助け合いというのかな」
「あんたらねえ、大体強盗殺人犯とかってのは捕まったの? その為に、はるばる地球か
ら追っかけて来たんじゃなかったの?」
そいつの方が犯人として妥当だと、僕は思うんですけどね。ロバートが横から口を出す。
大体普段の彼らのつき合いからして、殺人だなんてありえない。彼はカトウ教授が博士
を殺したなどと、全く思っていないのだ。
「宇宙艇についてはコンピュータが捜索しているから任せておけばいい」
「相手の機種が分かっているので直接コンピュータに働きかけて遠隔強制リモコン操作で
セレスに引っ張り寄せる事ができます。
勿論奴からも事情徴収はしますが、隔離ケース内からの爆発状況を見る限り、ジャック
の犯罪の可能性はかなり低い」
デビッドとマイケルはそう言って首を振り、
「循環器系の点検に来たパーカーにも尋問したが、彼に疑いの余地はない様だ。
容疑は絞られて来たんだよ」
「それは間違っとるぞ、ワトソン君」
カトウ教授はそう言ったが、彼がホームズだったら、それは聞き届けられたかも知れぬ。
その時扉が開いてセレス分署の警官が、何事かをデビッドに耳打ちした。彼は頷いて後、
「ライサ博士の応急処置が終わった様だ」
「治ったんですか?」
刑事は、何とも言いかねる表情をした。
「植物人間?」
セレス市中央病院の待合室で、クマの様にうろつき回っていたロバートは、医師の白衣
が見えるなり小判ザメとなって食いついた。
「それって、一体どういう事ですか!」
「聞いてのとおりだ。君も生物学者の端くれである以上、知らないとは云わせんぞ」
いきなり詰め寄られて心ならずもロバートの大アップを見せつけられた医師のロジャー
は、不機嫌そうな顔でそう答えた。
「一体何が主原因なのですか?
額の傷はごく軽い怪我にしか過ぎません。
外傷はないじゃありませんか」
「額の怪我、及び出血は極く少量で彼女の命を危うくする程の事ではなかった……。が」
酸素欠乏症。中年の少し頭の薄くなった医師はそう言って、
「暫く酸素の希薄な所で気を失っていた為に、脳に酸素が回らなかったのだろう。外傷は
軽い物だから治癒はたやすいが、問題は彼女の意識がいつ回復するのか見当もつかん事
だ」
「見当がつかないって……?」
「脳細胞にどの程度影響を与えた物かは分からないが、最悪の場合一生このままと言う事
も考えられないでもない」
彼の心で、八つ裂きにされた心臓が水虫の足に、二度三度、踏み潰された。
この病院の粗末な設備では、高度な脳外科の検査手術は不可能だ。今は安静にして様子
を見る以外に方法はない。
「ここではこれ以上処置のしようがないから、様子を見ても病状が好転しない様ならば火
星か地球の病院に移送する事も考えられる」
「そんな……」
隔離ケースの『爆発』が、空気循環や湿度調整を司る電気系統を寸断し、コンピュータ
を破壊して船内の環境調整機能をお釈迦にしてしまったのだ……。
機械は直せば何とかなる、しかしライサ博士に代わりはいない。
「とにかく、会わせて下さい」
医師の許可をもぎ取ってロバート達は、ライサ博士の眠る病室に直行した。
「博士……?」
ふらふらとロバートはベッドに歩み寄る。
頭を包帯に包んで寝かされてる女史の姿は、眠ってる様にしか見えなかった。セレスで
は重力が余りに小さすぎるので患者の安全の為に身体を緩いベルトで固定しているが、そ
れも毛布に隠れてるので全く通常と変わりない。
しかし幾ら話しかけてもライサ博士はこんこんと眠り続けるのみで答えはない。
「ライサ……」
カトウ教授は呆然と立ち尽くしている。
「なんで、なんでこんな事に……」
これから一体、何をどうしたらいいんだ。
ベッドに歩み寄ったロバートから、嗚咽が漏れた。彼にとって博士は、単に上司で同居
人と云うだけの関係ではなくなっていたのだ。
リンダもロバートの辛そうな顔を見る事ができないで、思わず顔を背ける。
しかし、カトウ教授の反応は違っていた。
「良かった。生きていて……」
「は……?」
意外な程静かな声にロバートは振り返った。
「生きてさえいれば、いつか意識は戻る。
生きてさえいれば、いつか健康になれる」
生きてさえいれば、いつか……。
「そうだろう。希望は残ったじゃないか。
最悪は避けられたじゃないか。
ライサ……。いつでも良い、いつ迄も待つ。 だから、だからもう一度、目を見開いて
くれ。ライサ……」
刑事達の目の前で、取り乱す事もなく静かに目を潤ませる老いた教授の姿は、確かに刑
事達の心証を変えるには足る物だった様だ。
果たして、彼らのこの声は、ライサ女史には届いているのだろうか。
ライサ博士はいつまでたっても起きる事なく眠り続けている。その表情には一見、何の
苦しみもないかの様だ。しかし、彼女の昏睡が覚めるその時は、全く見当もつかないのだ。
閉じられた目が再び開くのは一体いつになるのだろう。
さて、どうしよう。
ロバートは心の中で何度同じ呟きをしただろう。しかし今の彼には何もする気が起こら
ないのだ。
研究者としてするべき仕事は残っている。
観察、レポート、予定した実験。それに地球から送信されてくる、数々の学会における
研究成果や最新の研究論文、実験結果や新たな仮説。研究所は、二人して半日も開ければ
するべき事は山積みになってしまう。
細菌からハムスターまで船内にいる生き物の面倒も、いつまでも機械に任せている訳に
も行かない。コンピュータは標準的な健康管理は行えるが、それぞれ個性を持った生き物
一匹一匹の体調に応じた運動・ストレス処理などは、同じ生き物である人間にかなわない。
生身のものを相手にする研究所は、当然ながら働く者の都合を考えていない。するべき
ことはたまる一方なのだ。
しかし『ライサ博士の頭脳が研究所』だったアルキメデスから彼女を取り除いたら、慣
性の法則に従った研究の続きしか為されないのは、目に見えていた。
アルキメデスはとりあえず危険を避ける為に応急処置をした。もう一度パーカー氏に来
てもらって水と空気の循環器系を直して貰い、漏洩した水分や酸素が付近の空間で凝結し
ているのも回収し、破壊された電気系統や通信機能も応急処置ながら直されて、人が住む
分には不足のない環境になっている。
しかし、北国のストーブの様に空間の中央にいつも鎮座して、住む者の心を安心させる
『太陽』を欠いた今のアルキメデスに、彼は戻りたくはなかった。いや、ライサ博士のい
る所こそがアルキメデスなのだ。
戻らなくても彼には分かる。たった一人のアルキメデスがどんな物か。半年間だったけ
ど、博士との思い出は余りにも重すぎた。
あそこには、もう戻りたくない。あそこは、博士と彼の研究所だ。彼一人では、あの研
究室は余りにも広すぎる。
「何やってんの、大の男がクラゲになって」
リンダがそう言いながらロバートの部屋を訪問した時、彼はまさにクラゲになっていた。
「リンダ……」
「リンダ、じゃないでしょう!」
彼女は彼にはっぱをかけて、
「いつまでそうやって腑抜けてないで、元気になりなさい!」
『人ごとだと思って無理をいってくれるよ』
セレスの微小な重力では、飛び上がっても床につくのに時間を要するので、その間体は
正に『浮かぶ』のだ。空気中に浮かぶその姿は、文字通りクラゲ。
彼らはステーションに戻る事を許されずに、警察の指定したホテルに泊まっていた。こ
れからの捜査方針等を、現地の警察と協議しなければならぬのだそうだ。コロンブスの二
人は行動の自由を保留されたまま、狭い空間に押し込められてしまった。ロバートには行
動の自由はあったが、彼は心の自由をせばめてしまっている。
「あなたが植物人間になった訳でもないんだから、落ち込む事はないでしょう」
それはそうだけど……。
「あなたが落ち込んだからって、ライサおばさんが意識を戻す訳でもないのよ」
(リンダもつき合いは半年だが、既にライサをおばさん扱いにして良い仲になっている)
「博士がいない、今の研究所を切り盛りするのが補欠研究員のあなたの役目でしょう!」
リンダの叱咤するのに彼は、
「そんな事言ったって、何もする気になれないんだから仕様がないだろう。
心に太陽のない時に、活力が沸いてくる訳がないじゃないか」
そう言って彼は、鳥の羽の落ちる様な状態のまま体を起こした。セレスの弱い重力の上
でも体が重く感じるのは長い無重力生活の為のみならず、彼の心が沈んでる為でもあろう。
「今がどういう時か分かってるの?」
リンダは、ロバートをベッドの上まで引っ張り降ろして座らせる。
「分かってるよ」
ロバートはげんなりした口調で、
「ライサ博士が意識不明で、カトウ教授が捕まって、俺達はここにいる。それだけだよ」
「違うわ。あんた、分かってないの」
あんたはちっとも分かってないの。リンダは彼の瞳を覗き込んで、ロバートの視線を無
理やり自分の瞳に合わせ、
「この小惑星帯にたった二つしかない生物学研究の宇宙ステーションが、二つ揃ってなく
なるかどうかの瀬戸際なのよ」
「……?」
意識不明のライサ博士がこのまま治らない限り、近い内にアルキメデスは閉鎖若しくは
休止に追い込まれる。殺人の容疑をかけられてしまったカトウ教授だって、いつ首にされ
てコロンブス閉鎖という事態になるか分かった物ではない。
それに裁判ともなれば殺人事件だ。どうしても火星の高等裁判所まで出向かない訳には
行かないだろう。そうなれば、長期の不在でどっちにしてもコロンブスは休止に近くなる。
後任にこの僻地まで来てくれそうな物好きな研究者なんていそうにないし、研究員二人
では研究を進められはしない。日をおかずして両研究所は閉鎖されよう。
地球の研究所に今更戻ったって、彼らの手がけてきた分野は地球のどの分野とも異なる
部門だ。彼らが向こうで働くには、また最初からやり直し、しかも人よりずっと遅れて。
進退極まったのは意識を失った博士や容疑を受けた教授だけではない、ロバートもリン
ダも今、崖っぷちに立たされてるのだ。
彼らの研究所は一体どうなるのか、閉鎖するのならば彼らは地球に呼び戻されるのか。
人件費の嵩む増員を押え込もうとする当局の事だ。下手すると地球で実績を全く認められ
てない彼らは、再就職さえ困難かも知れない。
「どうするの? あなたはこの状態を黙って見ているだけなの? それで良いの?」
「困った時に困ったと言って何が悪いんだ。
苦境にあったら落ち込むのが当たり前だよ。
それ以外に一体、何をどうしろってんだい」
重い頭を振ってだるそうに答えるロバートにリンダは声を一オクターブあげて、
「困った時に落ち込んでてどうするのよ!
困った時に手を拱いて何もしないでいたら、状況はもっと悪くなるだけじゃないの!」
リンダは、ロバートの耳たぶの中に大声を流し込んで一喝を入れて、
「困った時こそ、落ち込んだ時こそ、希望を捨てないで、悲観的にならないで、打開策を
見つけ出すのが、後に残された者の役目じゃないの! 研究所のあるじが必ず戻ってくる
と信じて、戻ってきても何事もなかった様に研究を再開できる様に、残された城を守るの
が私たちの役目でしょう!」
「今更僕達が何かをしたからって、一体どうなるって言うんだ。希望を持ったからって、
どうなるって言う物じゃない。
僕が落ち込んだからって、誰に迷惑をかける訳でもない。養う家族もいないし、ライサ
博士もいない僕にはもう、頼られる人だっていないんだ……」
『離婚した両親を、家族だと感じた事はない。兄弟も親戚もない。研究仲間が俺の全て
だ』
城を守ったって主将が帰って来ないんじゃどうしようもないじゃないか。その上城は、
いつ味方に切り捨てられるか分からないんだ。
「もう何もかも面倒だよ。
これ以上成算のない事に情熱だけ燃やして、空振りになるのが分かりきってる事に突っ
込んでいく気になれないのは当然じゃないか」
これ以上の苦労は徒労だ。僕はドン・キホーテじゃない。今の現実と明日の展望が持て
ないんだ。このままにしといてくれ。
何もしたくないんだ。何もやれないんだ。
「仙人の様に現実から逃げまくって、それで一体何が切り拓けるって言うの!
空振りを嫌って見逃しの三振をして、後でもっと大きく後悔するのが分からないの?」
ライサ博士やカトウ教授は、この地に生物学の新しい一ページを記そうという希望を持
って、根を下ろしたのよ。
頭を抱え目を塞ぐロバートの心を、リンダは揺さぶり揺さぶり、
「あの二人は正にそうして来たんじゃないの。
あの二人の二十年は失敗だったと思う?
ライサ博士は、カトウ教授は後悔してた?
あの二人は二十年間を徒労に終わっても尚、今でも嬉々として研究に励んでいるわ。あ
の二人の人生は正にドン・キホーテよ。
あの二人は、あなたの様に失敗すると言って塞ぎ込んでる? 無駄になると言って、す
るべき事を放り投げて、目を閉じていた?」
教授達は二十年の間、ずっと生き物の痕跡を見つけながらも生命を見つけられなかった。
学会も当初の希望的観測が当たらなかったと知ると失望して早々に撤退し、人員も予算
も引き揚げてしまった。最初は意欲的だった当局も予算の無駄遣いと言って金を出し渋る。
小さな成果はあった。発見・発表が、地球周辺であったなら学会の隅に席を貰えそうな
発見も、幾つかあった。しかし、彼らの存在は常に遠隔地と言うそれだけの理由で、世に
知られる事なく、今日もなお冷や飯食らいをさせられている。
それでも彼等は希望を捨てなかった。悲観的にならなかった。可能性を信じ、自分を信
じ、そしていつか報われるその日を信じて。
「二十年。二十年の間、彼らはたった二人で研究をし続けて来たわ。報われるアテもなく、
たったあれだけの研究資材で、何をどうすれば良いんだと愚痴る事もなく。先人達の残し
た物も何もない、後世の人の評価を受けるに足る物かどうかさえ分からない。そんな中で、
学会も研究仲間も先人の遺産もない中で、ひたすら二人は、来るか来ないかも分からない
その日を信じて、努力を続けて来たの」
二十年なんて長い時間、私達には想像する事さえできないわ。
「困った事を困ったと言う事はたやすいわ。失敗や不慮の事故で、落ち込むのは当り前よ。
でもね、困った事を解決しようとせず心の中に閉じ籠もってばかりいて、前に進もうと
しなかったら、決して物事は解決されないの。
そして、自ら解決しようとしない限り物事は、一歩も前には進まないし、幾ら現実から
逃げ出しても、どこへ逃げだそうとも、本質的には何も変わりはしないのよ!」
「あなたのその、嫌いな事に出会う度に逃げ出したくなるその生き方が変わらない限り、
貴方はどこに出てもおんなじ事を繰り返すの。
断言するわ、あなたのその性格は、一生変わらない。一生変わらないの!」
「今この研究所が二つとも閉鎖されてしまったら、人類史上初めての『地球外生命発見』
の論文は、ライサ博士とカトウ教授の共同論文と決まってるその努力は、どうなるの!
祝賀会だって予約済なのに(これは嘘)」
小惑星帯における二人の研究は、実際には地球のトップレベルでも及びもつかない実地
に基づいた素晴らしい成果を得てるにも関わらず、ただ僻地であると云うだけで日の目を
見る事なく忘れ去られ、長きに渡って正当な評価を受ける事なく放置されるのか。
小惑星帯でしか行いえない研究が山とあるのに、それらに賭けた研究者達の努力は報い
られ得ないのか。埋もれるのか。
メンデルの様に、ウェゲナーの様に、ガリレオの様に。
「先駆を切った研究者が、その成果を認められる事なく無念の最後を迎えて、後世になっ
て再評価される。そんな話は、科学の世界では巷に溢れているわ。
だけど私は、カトウ教授とライサ博士にはそうなって欲しくない。人一倍苦労して、人
一倍努力した先駆者が報われない悲劇なんて、もう沢山。そんな話、二十世紀でおさらば
よ。
正当に評価されるべき物が、正当に評価されるべき時代ってのは、待つ物ではなくて、
作り出す物なの。誰かがではなく、私達が。
今の一瞬一瞬が、徒労に思える苦労の一つ一つが、必ず新しい時代の扉を開くと信じ」
「新しい扉を開いたって何になるんだ!
ライサ博士はもういない。僕には身寄りはないし、研究が成功したって時代が変わった
って、一緒に喜んでくれる人もいやしない。
僕がここに居なければいけない理由なんて、見当たらないよ。僕は誰にも頼られてない。
僕は所詮独りぼっちなんだ!」
「誰も頼る人がいない、ですって!」
あなた正気でそれを云ってるの?
リンダは今度こそ、本当に怒った声に驚きも混ぜて、
「ライサ博士は死んじゃいないのよ。意識の底の無意識で、恐ろしい病魔と必死に戦い続
けているのよ。あなたが落ち込んで腐ってふやけて、寝込んでしまってる今この一瞬も」
あなたには、ライサ博士がいるじゃない!
あなたを誰よりも頼りにして、心の柱にしている人は、あなたの一番身近にいるのよ!
口が利けないからと云って、声を出せないからと云って、あなたの耳に助けを求める声
が聞こえないからと云って、ライサ女史が、あなたを頼りにしてないとでも思っているの。
「……?」
あなたの耳には聞こえないでしょう、博士は口をきけないのだから。でも、あなたの心
には聞こえる筈よ。あなたが本当に博士の事を思い遣っていて、あなたが心から博士の今
の状態を分かっていて、あなたが今の現実から逃げ出さない限り。
「あなたの心に、それは響くのよ」
それをあなたに聞こえなくさせるのは、あなたが、博士や自分に降りかかる面倒な事共
から逃げ出そうとしているからで、何もできない博士を嵐の中に置き去りにして自分だけ
地に臥せって嵐を避けようとする、エゴなの。
「あなたを必要とする人は一番身近にいるわ。そして今、あなたの助けを必要としている
の。
忘れないで、それを思い出して!」
「一番、身近に……」
やや虚ろな声でロバートは呟いた。
『ライサ博士……』
「一番辛いのはあなたじゃないのよ。
一番辛いのは、今死線をさ迷っているライサ博士と、博士を死なせる素を持ち込んでし
まったと頭を抱えているカトウ教授なのよ」
リンダはようやく顔をもたげたロバートの瞳を食い入る様に見つめて、
「教授は、刑事に取り調べを受ける事なんてちっともこたえてないわ。だって、教授は全
くの無実なんだもの。やましいところなんて、ないんだもの」
でもね、毎回毎回心の中で囁き続ける声が、『お前がライサを殺したんだ』って言う声
が、博士を滅入らせているの。あんな石を見つけなければ、あんな石を持ち帰らねばと、
毎分毎秒、教授は心の中で悔やみ続けているの。
「このままじゃ教授、逮捕される前に病気になっちゃうわ」
彼女の声が心なしか湿り気を帯びて、
「あんなに憔悴した教授を見るの、私始めて。 あんなに元気だった教授なのに、あれ以
来まだ十二時間も経っていないのに、このまま何十年分も老けこんでしまいそうな気がし
て、どこかに消えてなくなってしまいそうな気がして、私、何かとっても心細いのよ」
それなのに、それなのに。
「あなたが、唯一元気なあなたがここで一人落ち込んでる様じゃ、私は一体誰を頼りにす
れば良いって言うの!」
『一体誰を、頼りに……?』
頼りに……?
誰が、誰を。彼女が、まさか。いや……。
リンダは、僕を頼りにしている!
リンダの声は涙声に近かった。その激しい訴えの中に、彼は確かに何かを見た。
それならば、それならばこそ、ふがいないロバートにリンダが苛立つのも分かろう物だ。
『慰めて欲しいのは俺ではなかった!』
瞬間、心に雷鳴轟いた。
それは彼の心にだけだったが、彼はそれを生涯忘れないだろう。
『辛いのはあの二人だけではない!』
実際にあの石を見つけたリンダも又、慰めて欲しかったに違いない。いや、最も慰めて
欲しい彼女を慰める筈のカトウ教授があの状態では彼女が一番傷ついてるに違いないのだ。
リンダ……! 僕の女神よ。その女神の危機に、自分のつまらぬ弱気で落ち込んで……。
ぼくの、ばかっ!
「リンダ……ごめん」
彼が、今度は彼が慰めてやる番だ。
彼が、リンダの悲しみを受け止める番だ。
彼は生気ある瞳でリンダの視線を見返した。
半分泣きながら、怒った姿勢のままで体を震わせているリンダを、優しく両腕で包み込
んで、彼はリンダを抱き締めた。
「僕が、間違ってたよ。
僕は、自分一人が苦しいと、勘違いしてた。 自分だけが苦しみの中心にいて、他の人
は見物者で、誰も自分の心なんて分からないと思ってた」
ライサ博士も、一人だった。博士は生物学の魅力の虜になったキャリア・ウーマンで、
その為に離婚している。長い期間宇宙に出て生物学を実地に基づいて研究する、実践主義
の好奇心旺盛な女性だった。
「主人との仲がどの様にヒビ割れていったのか詳しい事は分からない。でも、博士はそれ
以来ずっと孤独で、同じ孤独同士、僕を理解してくれる人と思えたのは博士だけだった」
ライサ博士を失ってからはもう、世の中に何も失う物もないし、執着すべき物もなく…。
「自分を必要とする人間がいるなんて、思いもよらなかった。自分がそんなに価値のある
者だなんて、考えもしなかった」
でも、違ったんだ。
「僕にはまだ、リンダがいた。そしてカトウ教授も。僕はまだ、必要価値があったんだ」
あたりまえじゃないの。リンダの泣き笑いした声が震えて、伝わってくる。
その心の暖かさが、今の彼には分かるのだ。
「苦しい事をただ苦しむなら全く前進はない、そのとおりだよ。全くそのとおりだよ!
世間では、誰もが苦しい事に出会えば苦しがるだけで、悲観的になるだけで、逃げ出そ
うとするだけだ。僕も含めてね。
でもリンダ、君は僕に『信じる』事を教えてくれた。勇気の力を、努力の報われる事を、
そして希望を信じる事を教えてくれた!」
「教えたんじゃないわ。あなたは思い出しただけなのよ」
リンダが云い添えるのにも、彼は構わず、
「困難にぶち当たれば、困るより先に打開策を考えよ、か。名言だよ、これは真理だよ。
悲観的になる勿れ。悲観的になれば悲観的な未来が開け、希望を捨てなければ未来に必
ず希望の光さす!」
OH、リンダ!彼の叫びは獅子吼となって、
「僕はここにいる! 一緒に歩もう。僕には、僕を必要としてくれる人がいる。こんなに
嬉しい事が、またとあろう物か。
僕でなければできない事があり、僕でなければ駄目だという人がいてくれる。こんなに
生きがいになる事が他にあるだろうか!
カトウ教授が、ライサ博士が、そして何よりもリンダ、君が、僕を待っているんだ」
ここで立たなきゃ男がすたる!
彼はベッドから立ち上がった。涙を拭いたリンダを抱き起こして、
「地球でデスクに向かってキーを打つ事だけが研究だと思っている連中に、一泡吹かせて
やろう。報われぬ先駆者の悲劇なんて、二十世紀の遺物だって事を見せつけてやろう!」
ロバートは、一体心のどこから沸き出してくるのかと思える程の歓喜に身を包まれたま
まリンダを抱き寄せてこう言った。
「リンダ……一緒に、歩もう」
二人は唇を触れ合わせた。
「うん、儂もそう思う」
一晩たって、逃亡の恐れがないと分かってコロンブスに帰る事を認められたカトウ教授
に、少し泊まらせてくれる様に頼んだ彼には、カトウ教授の精神状態が不安だという以外
にも、まあ人が聞いても、おかしくないだけの理由があった。
「宇宙での独り暮らしは危険すぎる。
特に、人里離れたステーション暮らしともなれば、一人という事態は絶対避けるべき」
儂が『重要参考人』でなかったならば話はもっと簡単になるのじゃがな。カトウ教授は
いささかやつれた顔で苦笑いして、
「正直言って、儂がライサの研究成果を妬んで岩に爆弾を仕込む様な事をすると思うか」
「思いませんね」
ロバートは、教授の瞳をまっすぐに見つめ返して即答する。横からリンダが、
「大体教授が、命の次に大事にしているサンプルをそんな事の為に使う訳がないでしょう。
ロバートがセイロン紅茶で毒殺を試みるのと同じくらい、馬鹿げた話よ」
と言った言葉は正鵠を射ていた。
「教授を犯人と見る刑事たちの推論は、彼らの先入観が前面に出すぎています。地球では、
その直感はかなりの確率で報いられるのでしょうが、宇宙においては事情が違う。
シュレーディンガーの猫はとても気難しい。
彼らは、すぐに行き詰まりますよ」
素人のロバートに簡単に読まれるのだから、この一件で刑事たちの果たす役割は、大し
て大きくはない様だ。
「さあ、あの岩石の研究を始めましょう!」
ロバートがそう言い出した時、カトウ教授とリンダは彼が何を考えてるのかと思ったと
いう。そして彼が続けて、
「この大変な時にどうして、と考えるかも知れませんが、回り道の様でこれが実は、事件
解決への、いや事故原因解明への一番の近道かも知れないのです。
考えてみて下さい。ライサ博士は何か理由があってあの岩を特に研究したかったんです。
その理由と言うのが、気になりませんか」
この一件は、事件と言うよりもむしろ事故と言うべきです。
何か予想もつかない突発的な理由があって、あの岩が爆発した。ライサ博士も気づかな
かったその理由は、あの岩の中にあるんです。
「あの岩に事件の解明の鍵が隠されている、と言うのかね」
ロバートの明確な肯定に、教授はウームと考え込んだ。
「あれは事故でした。
誰も予想しえない不慮の事故であり、不幸な事でした。しかし教授、あなたに罪はない。
あなたは、あなたの無実と真実を、警察と教授自身に対して証明しなければならない」
そうしなければ教授はいつまでたっても、
『自分がライサを殺したのだ』という罪悪感だけで塞ぎ込んで人生を棒に振り、ライサ博
士と共に積み重ねてきた、二十年間の研究の全てをも失う事になってしまう。
それは教授一人にあらず、リンダをも不幸にする事になるのだから。
「教授、こんな時に研究なんてできゃしないと塞ぎ込んでいたら、教授と博士の捨てたに
等しい二十年は、誰に報われるのですか」
自分を救えるのは、自分だけです。
『教授は今、何でも良いからとにかく何かをして、気分転換をするべきだ。そして同時に
それがライサ博士に起こった災厄の原因追及にもなるのなら……』
あの岩石はどうして爆発したのか。
「そこにこそ、真実に通じる扉がある」
ならば、彼らは行くしかない。
「疑わしき物は確かめるまで疑えが科学の大原則だ。それに従う以上、やるべきだな」
久しぶりに生気を取り戻した感じのカトウ教授は、指先で計器の電源やチェックシステ
ムを起動させながら、
「コロンブスにはあれと似た様な岩石のストックが幾つかある。表面温度には気づかなか
ったが、有機物がこんなに沢山見つかったのは初めてなので、付近の岩石を採集しておい
たのじゃ」
「部屋の用意ができましたよ」
リンダが顔を出す。今まで倉庫だった一室を改装して、彼の寝る部屋を作る。何せ手先
の器用なリンダの事、彼が話しをしてる最中におおよその事は終えてしまったらしい。
「ご苦労。早速研究に取りかかろう。
ライサをあの様な目に遭わせた原因は、儂が絶対に突き止めて見せる」
教授は勇壮に叫ぶ。その子供っぽい性格は、リンダには既に周知の事実なので敢えて構
わないが、ロバートは大乗り気で、
「拙者も助太刀致す」
と、丸めたカレンダーで日本刀の居合抜きをやって場を盛り上げ、カトウ教授には喝采を、
リンダには精神性の頭痛をもたらせる。
「ところで教授、セレス警察分署から電文が入ってましたよ」
んん、カトウ教授のその返事は先を促す時の返事だ。リンダは続けて、
「引き続きカトウ教授より事情徴収を受けたいが、教授のご希望があればこちらからコロ
ンブスを訪問したい。希望の日時を調整したいので連絡乞う、以上」
『どういう事なんだろう?』
刑事達の心証が良くなってきている為かも、知れないな。ロバートの推測は、当たらず
とも遠からずと言った所だった。
「この周辺の状態がのみ込めてきて、カトウ教授の人柄が飲み込めてきたから、殺人犯の
容疑が如何に的外れか、分かってきたのよ」
リンダはそれこそ、天にも昇らんばかりの喜び様だ。早くも無罪を勝ち取った気でいる。
「セレス市の収容人口に問題が出ているせいでもある。空気循環系が旧式だから、バザー
ルの日には一時滞在者の増加などで収容人口ぎりぎりになっているって話、知らない?」
それは聞いてたけど。ロバートは続けて、
「確か、新型器の導入で収容人口は大幅に増えて大気の質の悪化は大きく改善されるって、
言ってなかった?」
「取りつけたらの話でしょう。セレス市は今、できるだけ人間にいて欲しくないのよ」
「それで刑事達がこっちまで来てくれるって
話になったんだ」
「代用監獄に放り込まれるよりもずっとましでしょう。それに刑事たちを追い出せてそれ
でもセレス市は助かるのよ」
「冗談じゃない!」
露骨に困り顔を見せたのはカトウ教授だ。
「儂はこれから戦争に入るんじゃ。警察の都合なんかに合わせていられるか、たわけ!」
「そう伝えましょうか?」
リンダにそう言われて、さすがにそれはいかんと教授も気付いたのか、
「そうだな、研究の合間に少しだけ話に応じられるかも知れぬ。この辺で待機してくれる
と嬉しいのだがな」
それは無理ですよ。ロバートは首を振って、
「コロンブスだって空気循環器は多人数分はない筈です。今まで二人で暮らしていた物を、
僕が入っているのにその上刑事さんまで入ったらみんな窒息しちゃいますよ」
「そうでもないわ。確かコロンブスの空気循環器の処理人数は、五人だった筈よ」
二人迄は大丈夫という事になるわ。リンダはどこから引っ張り出したのか、埃だらけの
空気循環器の説明書を読みつつそう答えた。
「ほう、ちょうどいい。ここでどうして岩が爆発したのか検証してその場で警察に見せて
やる事ができるという訳だ」
「研究室内を荒らされたりはしませんか?」
リンダは少し不安そうだ。
「なあに、その為に心強い男手を仕入れてきたんじゃ。なあ、ロバート」
えっ、思わず首がつんのめるロバートの肩をカトウ教授は後ろから『バン!』と叩いて
豪快に笑い、
「ささ、研究に入ろう。岩は逃げはしないだろうが、時間は待ってはくれないぞ……」
教授に続いて研究室に向かおうとする彼にリンダは、
「ロバート、紅茶でも飲まない」
セイロン産の紅茶が、コロンブスにもあるの。なかなかの味わいよ。
少しでも落ち込む彼を励まそうと言うのだろう。とっておきの紅茶のカンカンを取り出
す彼女に、
「紅茶ぁ? ……やめておこう」
一瞬顔をほころばせたロバートはさっと顔を引き締めてかぶりを振って、
「僕が紅茶を口にするのは、この事件を解決してからだ。
それがあの岩の秘密を解く事なのか、ライサ女史が意識を取り戻す事なのか、それとも
いるかいないか分からない真犯人を挙げる事なのか、それは分からない。
だけど、この一件を解決しない内は僕は、紅茶を絶つ事に決めたんだ。これから、全精
力を傾けて、カトウ教授の研究を助ける」
今はあの岩を調べる以外に、立ちはだかる謎の壁を突破する方法は見当たらない。
「まず、我々はあの岩について何も知らなさ過ぎる。まず、追い求める事だ」
「ロバート……」
鬼気迫るロバートに彼女はびっくりして、息をのんだ。いつもの頼りがいなさそうな感
じはかけらも見せぬ。
「リンダ、全てはそこから始まるんだ」
今のって、条件付きの告白なのだろうか?
「おい、ロバート、リンダ。ちょっと来とくれ。サンプルを運び出す……」
その声に、ロバートは彼女の心を異次元に引きずり込みそうな、不敵な笑みを見せて、
「はいはい……」
彼がその心の炎を見せたのはその一瞬のみで次の瞬間にはカトウ教授の命令にほいほい
と応じる元のロバートに戻っている。
一体今の彼は本物なのだろうか。それともさっきの彼が本物なのだろうか。
「男って、良く分からない生き物ね」
「ふむう、表面に生き物はいない様だ。
生き物がいてもおかしくないだけの有機物は、充分過ぎる程あるのだが……」
何度調べても生命反応がないのに少し落胆したカトウ教授に、リンダはコーヒーを出す。
「温度もせ氏零度のまま。こっちのは零下五十度のまま、そっちのは零下百度のままで」
「真空極低温に置いてあるんだから、周りはほぼ絶対零度。岩自身に温度調節機能がある
なんて事は考えられないから、岩もそれに準じた温度になる筈なんですがね」
ロバートも、少し首を傾げつつコーヒーを右手にデータのグラフを眺めている。
「どうしてかしら、これほど生命にいい環境なのに。それに、なぜかは分からないけど、
みんな表面温度が、ある程度に保たれてる」
「そのなぜかに問題があるんじゃないかな」
こんなに小さな岩が、どうして長時間に渡って温度を一定に保ち続けられるのか。
そこが鍵になるのではなかろうか。ロバートはそう睨んでいる。
「ええい、分からん」
カトウ教授はいつもの白髪を掻き回す癖を押さえ切れない様子だ。
「一体どうなっとるんじゃ、この岩は」
「内部温度を均一に保つ気体、又は液体の循環系がある為と思われます。内部密度が思っ
たより低い上に、細かい構造を見ると微細な空洞が多く、換気孔の様に隅々まで行きわた
っています。内部を液体又は気体が満たしていて温度調整の機能を果たしていると考える
なら、理屈上無理ではありません」
リンダの言い方は、中々に慎重な言い回しだった。生物でもないこの岩に温度調節機能
があるなどと、常識では考えられる訳がない。
「理屈上、か」
教授は頭を抱え込んで、
「生物でもない物体が、外界と異なる温度に自らを調整できるには、惑星ぐらいの大きさ
がなければならん。せめて火星くらいのな」
気体を引きつけて離さないだけの重力がなければ、気体や液体の循環で温度調整を行い
得たにしても、数百年ともたぬのは明からだ。
「知ってのとおりセレスは直径七百キロを越えるのに、四十億年の歳月は容赦なくあの星
からも大気を奪い去った。それに比する事さえおこがましいこの岩が、重力だと!」
そのかけらも見当たらない。
「地球なら重力で閉じ込めた大気の中で対流が生じ自発的に温度調整できるんですがね」
「教授、ナンバー7に低温繁殖菌を移植した様子です。見て下さい」
リンダは、あれ程多くの有機物のある環境でなぜ微生物さえ繁殖しないのかを不思議が
って、サンプルの幾つかにかなりの低温でも繁殖する様改良された細菌を植えつけたのだ。
「んん……何だこれは?」
「御覧になりましたか?」
細菌の生命反応が一時期をピークにしてどんどん減っている。増えたかと思ったら急激
に減り始めたのだ。
「多くの細菌が消失しています。休眠状態に入るのかと思いましたが、依然として表面温
度は細菌の活動に必要な温度・湿度・養分を満たしています。環境は変化していないのに、
細菌が消失しているのです。細菌の方は冬眠状態に入ったのとも違い、細胞核を抜き取ら
れた様に細胞質の抜け殻のみが残った、死にかかった細胞があるのみです」
「死にかかった細胞……」
アメーバを核のある方とない方にちょん切ったら、両方ともすぐに死ぬ訳ではないが、
やがて核のない方は増殖できずに細胞の老化を待って死に至る。核のない細胞は死にかか
った細胞といっても良い。それは脳死状態で栄養分だけを補給し続けて行く事に等しい。
「細胞核だけを吸い取った……?」
「真核生物(細胞核を持つ生物。ここではその中の細菌類を指す)はそうなのですが…」
リンダは打ち出されるレポートをめくって、「原核生物(細胞核を持たない生物。核に
あるべきDNAは細胞の中に遍在する)を移植したナンバー6では、DNAが細胞質ごと
吸い取られて、細胞膜しか残っていません」
「この岩は一体何なのだ!」
まるで宇宙のハエトリ草ではないか!
「生命反応が減少し始めたあたりから、どのサンプルも軒並み表面温度が十数度上昇。
生命反応がほぼなくなってから暫くたって、温度は下降して安定しましたが、元の温度
に比べるとどれも数度、高くなっています。
それ以降、表面温度に変化はありません」
「まるで、恒温動物の様ですね」
細菌類を、食ってるみたいだ……。
何気ないその呟きが、ひらめきとなる事も人生たまにはある物だ。ロバートの声に教授
はピクッ、と首をかしげ、
「細菌類を、食らう。食らう、食らう……」
動物、動物……恒温動物……。
まさか! カトウ教授は頓狂な叫び声を上げて、飛び上がった。
「ライサの着眼点はここにあったのか。あの時彼女がこの途方もない発想を思いつきつつ、
はっきりしない内にそれを口に上らせて狂人扱いされるのを恐れて、心の中にしまいこん
だ理由も分かろうという物じゃ!
こりゃあ、とんでもない仮説やで!」
やりかけていた研究も放り出してこの岩に没頭したライサの気持ちも分かる。この岩が、
一体どれ程の大発見をもたらす事になろう物かは、それこそ想像もつかぬ。
「どうしたんですか? 教授ゥ」
「どうかなさったの、又コーヒーこぼして」
浮かび上がる黒い液体が教授の白衣に着かない様に素早く掃除機でキャッチするリンダ
に構わず、彼は身体中を震わせて、
「いいか良く聞きなさい。我々は人類の新しい夜明けにいるのかも知れないのだ。そう、
我々『四人』でな」
これ程の震え、これ程の歓喜、前代未聞だ。
おっほん、教授は大きく咳払いをして深呼吸をする。荒ぶる自分を鎮めるのにも一苦労
するのはいつもの事だ。
「この岩は、生きている。
この岩石は、生きておるんじゃっ!」
「岩は生きている……?」
ロバートがオウム返しに聞き返すのに、
「そう、研究発表の題名は『岩は生きている』だ。それで行こう」
この生物は『熱』を直接エネルギー源とする生命体なのだ。細菌類の活動熱、太陽熱、
そう言った物を直接吸収するのだ。
「現在知られている、世の中に生きる、ありとあらゆる生命体は、方法こそ様々にあるが、
何らかの形でエネルギーを作り出して、命を受け継いでいる」
大多数の植物は光合成によって自らエネルギーを作り出し、そして動物は他の生き物を
食らう事によってそのエネルギーを取り込み、菌類は生命の死骸を分解する事によってエ
ネルギーを得ている。
基本的な物はそれだけだが勿論例外もある。
細菌類の中には他の生き物に寄生するだけではなく、ある種の化学物質等を分解する事
でエネルギーを得ている物もあり、地球上の食物連鎖は単純な物ではない。
酸素呼吸を行わない生物もあれば、はっきりした細胞核を持たない生物もある。細胞を
持たない生物も珍しくはないし、単に複雑な化学変化を起こすだけの物質に過ぎないのか
生物と呼んでよいのかの境界線が不明確な物まで、現在世の中には様々な段階の物がある。
そして『これ』も今、新たに生物の仲間に加わろうとしてるのだ。彼らの発見によって、
この岩は物質の中から生物の仲間へ、宇宙に於ては初めての仲間入りだ。
「我々人間は栄養素を身体に取り込み、呼吸によってエネルギーを得るが、この『生き
物』は表面で感知した全ての熱を直接エネルギーにしている」
カトウ教授は興奮した声でそう言って、
「この岩が有機物を付着させているのは、細菌類を発生させる為、誘い込む為だ。
この岩に付着した有機物を苗床として細菌が発生すると、その熱を吸収してしまう。
その際に熱だけではなく、熱を発する細菌の活動の源泉である細胞核まで飲み込んでし
まうのじゃ」
「岩の表面が思ったよりも荒っぽくて、岩石全体の密度が低かったのは無数の小さな空洞
が開いていた為。そしてそれはこの岩の循環器系でもあり、消化器に当たる部分であった
のね。そこから細菌の核を吸い込んで……」
「その熱をもらっていたという訳なのか!」
「そのとおり、賢いぞ!」
賢い二人の生徒を前に、カトウ教授は驚きと嬉しさ一杯の表情で、
「こいつ自体が一つの生き物だったのだ。
細菌の寄生した物を食らって生きる生き物なのだから、表面にどんなに生命に必要な物
が揃っていようと、なかなかそこには生命は発生しえない。したとしてもすぐに食われて
しまうから、その発見は至難の技だろう」
こうやって人工的に細菌類を移植してみない限り、その正体は分かりはしない。この岩
が食事の時を捕まえない限り、それも入念に表面温度を確かめない限り、細菌が繁殖して
食われる様なんて、肉眼では分かるまい。
それも岩の表面で食われる細菌類の多くは、細胞核を抜き取られたまま宇宙放射線を受
け続けるので生命の痕跡はすぐに分解され、有機物しか残らない。生命活動のあった事さ
え、知る手掛かりは、なきに等しくなる。
二十一世紀の今まで、二種類の生命がこの様にして人間の目から、大宇宙の真理の闇の
中に覆い隠されてきた。空気もなく、強烈な放射線飛びかう極低温の中に於て、宇宙空間
でも生存繁殖できる細菌類の多くと、それのDNAを吸収する事で熱量を得る、岩石生命。
彼らはついぞこれまで、恐らくは太陽系の至る所に、最低でもこの小惑星帯の周辺には
たくさん、たくさんあり続けながら、知られる事なく、気付かれる事もなかった、初発見
の地球外生命体なのだ!
「どうりで、宇宙空間に有機物が多い割りに、下等微生物の一つもない訳だ。十年位前か
ら、もっと宇宙空間にも生命は存在してもおかしくないという議論が提起されていて、学
者連中はみな、おかしいおかしいと首を傾げ続けていたのだ」
こんな形で生命があるなんて、思ってもみなかった。一体どこをどうすればほかの岩と
見分けがつくと云うのだろう。
「熱がこの生命の命だ。零下六十度の生命に熱があるのかと言うかも知れんが、辺りの空
間は太陽から遠く隔たったこの空域は、絶対零度に近い環境だ。それに比すれば十分高い
体温を持っていると言えるのではないか」
「しかし、今の生物学会の主流意見は『太陽の光届かぬ所に生命はない』ですよ。これを
生物と認めてもらえるかどうかは、ちょっと厳しいです」
ただでさえ途方もない仮説なのだ。十分な論拠を足して発表しないと、田舎学者のたわ
ごとと笑われるのが落ちである。
しかしこれが正しければ、彼が正しければ、今までの宇宙生命に対する見方は、根本か
ら覆される事になる。それだけではない、生命その物の概念さえも大きく変形・変質する
事を強いられるだろう。生物学その物に大きな方向修正を促すこの発見の驚異に、ロバー
トも体の震えを抑える事ができなかった。
何を言うかぁ、ロバートの指摘に、教授は笑って、
「地球でも太陽の光届かぬ深海で、海底火山のエネルギーを利用して生き物が、コロニー
(共同体)を作っておるではないか」
そんな古い化石理論を弄ぶ様な権威主義は、真実のスペシウム光線の前に砕け散る、神
風特攻隊に過ぎんのだ。
「これが生き物だとすると、排泄物がある訳ですよね。それとも、熱を直接吸収する生命
は光合成する植物の様に特に便など要らないんですか?」
リンダの質問に教授はウムムと考え込んで、
「要らない、といい切りたい所じゃが、そう簡単な物でもないのじゃろう」
排泄物を出すのは、他の生命を体内に取り込んで(食べて)エネルギーを得る生命体に
のみ、見られる現象だ。いらない物まで取り込んでしまった後に、いらない物は排泄する。
植物が排泄物を出さないのは、自らエネルギーを作るからだ。自分のいらない物までも、
わざわざ作ろうとはしないだろう。
この岩石生命体の場合、熱を吸収する為に、熱を持って活動するDNAを細胞核ごと吸
い込む訳で、無駄は非常に少ない。
不用物といえば熱を吸収した後の細胞核があるが、それも微量だし、岩石の表面で主に
それを吸収しているので中で詰まる事もない。
「岩石の表面に着いている有機物は、かつてこの岩石生命体の吸収した微生物の抜け殻・
あるいは死骸。この生命にとって、熱エネルギー以外であって不必要な、つまり排泄物」
岩石の体内は少量の気体と液体の循環系が、自然現象と殆ど変わる事のない対流を行っ
て、熱を体中に循環させる。
体温は一定に保つ。そして微生物の死骸は有機物として残され次の微生物の発生を待つ。
微生物が繁殖すればする程、熱量も大きくなる。そうなる様に岩の方も、細菌類が繁殖
し易い環境を作り待ち構えるんじゃないか」
カトウ教授は、発想の一線を越えたら急に十才位若返った様だ。
でも。リンダが横から、
「この岩には細胞構造が見当たりません。
これを生物だと言うのはちょっと……」
「それじゃあ、ウイルスやリケッチアは細胞がないから生物ではないと言うのかね」
一応彼らも生物の仲間に含まれておる。
生物の範囲を、もう少し広げて考える必要がありそうだな。今までは我々の概念だけで
生きている生きていないを決めつけてきたが、自然は無生物と生物とをそれ程区別して作
っていないのかも知れぬ。
双方の中間的な形質を持った物も、もっといるのかも知れんな。
今まで我々が気づかなかっただけで。
「この生き物の成長や繁殖はどうなるんですか? ……分裂ではありませんよね」
こんな固い生き物が分裂でもしよう物なら、生きてられたもんじゃないですから」
「うむ、それもどうかは分からんぞ。
貝殻は表面上固くみえるが、中身はやわい。あの生き物を固い生き物と頭っから決めつ
けてかかるのも危険だ」
「では、あの岩は体を守る為の鎧の様な物で、中には柔らかい身体がある、と……?」
「それはこれからの研究課題で、推測しかできないが、これらの岩はどんどん大きくなる
事が繁殖であり、分裂するよりは合体してでも大きくなる事を望むのではなかろうか」
小さくなって固体数が増える事だけが繁殖ではない。合体してもそれは共食いと異なる。
片方が死ぬ訳ではなく、より大きな全体の中で安全な命を保てる訳だ。保温効果も抜群に
違う。
「地球の生命にしても、粘菌類等は一つ一つがめいめい勝手な、独立した命でありながら、
場合によってはまるで一つの命、統一された全体の意志を持つのではないかと思える程、
規則性のある動きを見せる」
あれは一つの命なのか、それとも多くの命なのか。あれに個々の意志はあるのだろうか、
集団となった時の意志とは異なるのだろうか。
「生命とは何と多様性に溢れた物なのだろうな。いや、宇宙とは、か」
カトウ教授はそう言って、落ち着いた笑いを二人に見せて、
「大きくなった方が、より熱量を大きく保存できる。重力の結びつき以上に、惑星の生成
当初はそういった『生きている岩達』の、熱の保存と安定化を求める巨大化志向が、縦横
無人に動き回り爆発や回転等で遠心力も多く働く岩と岩とを合体させ、大きな惑星を作り
上げる、その源になっていったのではないだろうか」
少し推測だけで喋り過ぎてしまった様じゃ。
この様に無責任な憶測を言う癖は、ライサにはなかったな。
カトウ教授は自嘲気味にそう言って笑う。
その後をロバートが引き継いで、
「そして温度の変化に非常に敏感な生き物である岩石生命体は、熱によって生死を決めら
れる生命体でもある……」
惑星生成の原初期には、原始太陽の圧倒的な熱量や惑星生成の熱も十分あって、エネル
ギー不自由する事のなかった岩石生命体だが、その後、熱量の補給が続かなくなってくる
と次第次第に、低い熱にも敏感に反応する生き物になっていかざるを得ない。それは同時
に、高い温度への適応性を捨てる事にもなった…。
小惑星帯は冷え始め、木星の巨大な重力の影響で大きな惑星を作れない内に冷え込んで
しまったこの空域に生きる岩石生命体は、低い温度でも生きられる形質を得たその代りに、
高い温度下には生きれなくなってしまったのだろう。
「そして数十億年が過ぎた。遥か内惑星の奥から、知恵を得て遥かな空間を踏破してきた、
見慣れない生き物が、小惑星帯を訪れる」
リンダはそういいながら目を閉じて、半年前に初めて自分が小惑星帯を訪れた時の事を
思い出しながら、あの無限に広がる、凍てつく程に暗く澄み渡った星々のまたたきを思い
浮かべた。初めてきた時は何と寂しく、何と冷たい処かと思った物だ。
「彼らは『生きている岩』を見ても生き物とは気付かなかった。ただ表面に着いたごみを
ちょしては、あーだこーだ言っていた……」
宇宙服の暖気を通して、宇宙の冷たさが感じられた。最新のテクノロジーを通じて、尚
克服し得ない真空の極低温が感じ取れた。
人類最高の叡智を通して、尚垣間見る事も叶わないこの大宇宙の真理の遠大さ・悠久さ
・厳しさと優しさが痛い程感じ取れた。
『そしてこんな僻地だからこそ、人は温かく、強く、そしてしたたかで明るいのだと』
宇宙の果てにカンヅメ勤務なんて、普通の人間であれば発狂してもおかしくはない。そ
れを笑ってこなせるロバートの様な人間こそ、二十年も住み続けていてこの地に骨を埋め
る覚悟をしてる、そしてこんな僻地に於ても尚、知的好奇心に導かれて研究の手を休める
どころか緩めもしない二人の科学者達こそ、強き人なのだ。
「しかしある日、ある卓越した生物学者に拾われた岩石の一つが、実験の為に熱を加えら
れた時、悲劇が起こった」
精神的に破産状態で、投げやりになって安易にここへ来る事を承諾した自分に、リンダ
が何日もの間後悔したのは、確かだった。
しかし、ここでの生活は本当に人間的で、楽しかった。ここでは、閉鎖的な秘密主義や
学閥や、スポンサー企業の露骨な意向とか裏の世界のスパイとの提携とか、面倒に入り乱
れた男女関係とか、そう言った物が夢物語だ。
本当にこの空域は、宇宙空間の真空の様に純粋で、ここに住む人々は、真空の極低温を
乗り越える程暖かくて、そしてこの研究所はリンダの空っぽになった心に、潤いと温もり
を注ぎ込んでくれた。
リンダは、今ではここに来れてよかったと思っている。最高だったとも思う。自分の決
断は失敗の様に見えて、失敗でなかったのだ。
そう思う理由は多くある。
彼女の近くに、それは多くいる……。
「数十億年来感じた事のない程の熱量に『彼』は絶えられなかったのです」
そして『彼』は体の膨張に絶え切れないで、絶叫しつつ破裂した。ライサ博士を害した
のは『彼』である。
しかも『彼』こそは正にライサ博士に殺された『被害者』だったのだ。恐らくは初めて
の『殺人岩』だろう。そして、ライサ博士もまた、歴史に残る初めての『岩殺し』である。
荒唐無稽な呪いでも何でもなく、本当に岩が人を殺してしまったのだ。双方共に哀れ。
と言う事は……?
「加熱処理をしていたサンプルが危ない!」
三人は文字通り飛び上がった。彼らは、岩石をせ氏数十度から百度位にまで熱を加えて
様子を見る事にしていたのだ。彼らは大慌てで駆け寄って、熱のスイッチを切りにかかる。
「サンプル1と2の電熱線を切りました」
「サンプル5、6、7。みな無事です!」
『後は隣の部屋にあるサンプル3と4と8』
ロバートがその部屋の扉に手をかけた時、
ドドーン! 何かの破裂する音。
『しまった!』
岩が、百度の熱に耐え切れずに爆発したか。『早く残りの二個も救わなければ!』
ロバートが扉を押し開けるより早く、内側から扉が開かさって、
「わあああああああっ!」
中から何者かが飛び出してきた!
見慣れない、本来いる筈のないその男は、全身に岩の破片が刺さって小さな怪我をして
いるらしく、体中血まみれで、ロバートの襟首を両手でつかんで、恐怖心故の、火事場の
くそ力で彼の体を揺さぶって、
「岩が、岩が、岩が破裂したああああっ!」
「わあああああああっ!」
ロバートの方もその顔を見て叫び出した。
セレスの警察で見た凶悪な強盗殺人犯、ジャック・ハミルトンではないか!
互いに互いの出した叫び声に、訳の分からないままとにかく狼狽して怒鳴り合い、転が
って、もみ合って、騒ぎを大きくする。
「わああああおお!」
「おおわああああ!」
ぶつかってきたジャックに押されて、壁に背中をしたたかに打ち付けて、尚も暫く二人
して火事場のくそ力で掴み合ったまま、互いの顔を睨み合う。数分もそう言う事を続けて
からロバートは、お互いしらふに戻った状態で、両腕で抱きあう格好になってしまってる
指名手配犯の、
「ばかやろう! さっさと道を開けやがれ。
この俺を、一体誰だと思ってやがるんだ」
と怒鳴る声に、今更知らない振りをしても始まらないと、頷いて、
「強盗殺人犯のジャック・ハミルトンだろ」
「良く知ってるじゃねえか。
だったら(いつまでも抱きついてないで)、さっさとどきやがれ!」
彼は、自分が離れなければ壁に押しつけられたロバートが何時までたってもどきようの
ないのに気がついて、体を離す。
オホン! 大きく咳払いをする。
「今からこの船は俺の物になる。いいな」
ジャックはフランス語でそう宣言した。
三十才位の、髭ぼうぼうの山男に近い感じ。右手に持った凶器の御威光で、彼は宇宙船
内を支配下に置いたと宣言した(錯覚もした)。
宇宙船を強奪された立場の三人は、何が起こったのか理解してなく、きょとんとした視
線を向けてくるのみだ。
緊急警報のランプが、さっきの爆発の為に鳴りっぱなしだ。宇宙船内は原色の点滅灯で
照し出され、地球のディスコを思い出させる。
「何の用で逃げ込んできたか知らないけど」 ロバートは、ジャックが来合い抜けする程
間延びした声で、
「この宇宙ステーションには金なんてないし、食料品や飲み物だって少ないし、小惑星帯
の外れにあるから発見は容易いし、その上二十年近く動いた事もないから、逃走のしよう
もないんだよ」
好きにしてよ。特に逆らう積りもないから。
「……」
指名手配犯は面食らった様な顔をした。
「俺はこの船を乗っ取ったんだぞ。お前達三人は、警察の追跡を逃れる為の人質なんだ」
分かってんのか、お前ら。
少々緊張した顔を見せるリンダ。『非協力・不服従・非暴力』を顔つきに出して両の手
を上げて見せるカトウ教授。
そしてロバートは……。
「空気が漏れてるみたい!」
リンダの声にロバートは顔色も青く変身した。隣の部屋だ。爆発のショックに違いない。
「やばい、みんな酸欠になっちまう」
様子を見てくる。ロバートが動き出しかけるのにジャックは、
「この銃が目に入らねえのか!」
動くんじゃねえ! そう言うのに、
「うるさい、今はそれどころじゃない!」
ロバートは強盗殺人犯を気合いで押え込んで、空気漏れを示す赤ランプを指さして、
「空気の漏れ出る音が聞こえないのか!」
換気孔に穴が開いたんだ。すぐに修理しないと、宇宙船から空気がみんな漏れてしまう。
「ここでぐずぐずしていると、どんどん空気が漏れてって、最後には宇宙船内全体が周囲
の真空に飲み込まれちまうんだよ」
隣の部屋だから彼らは怪我を負うことなく済んだものの、
「このまま空気の漏れるままにしておいたら、ライサ博士の後を追って酸欠の植物人間に
もなりかねない。どけ!」
「早く換気孔を閉鎖するんじゃ。それから、まだ爆発してないサンプルの電熱線も急いで
消す。空気循環系を総点検して、すぐに救援を頼むんじゃ」
専門家に頼まんと、これはどうにもならん。
カトウ教授のその声にリンダが動き出そうとするのにジャックはロバートを振りきって、
「黙れ。救援信号を出すなんて事は、この俺が許さん。警察を呼び寄せるつもりだろうが、
そうはさせねえぜ。お前達で応急処置をして、何とかするんだ」
何とかだなんて、私たち生物学者よ。循環器系の補強整備なんて、できるわけがないで
しょう! リンダの抗議の声にジャックは、
「うるせえ、黙って俺の言うとおりにしろ」
この銃で身体を蜂の巣にされたくなかったらな。銃口を向ける男の瞳を見返してリンダ
は、それにちっとも恐れた風でもなく、
「あなた、本当に地球しか知らないのね」
まあ、地球の犯罪者だから、知らないのも仕方はないんだけど。リンダはそう言って、
ショートカットのまっすぐな金髪を揺らせて、
「宇宙船の中で銃を打ったらどうなるのか、あなた考えた事があって?」
「……!」
ジャックは答えない。
銃弾一つ分の傷でも、宇宙船の気密構造は壊れうるのよ。それだけで、鉄扉に守られた
この宇宙船の命は、全て死に絶えるのよ。
「あなたも私もみんな死ぬの。分かる?」
う、うるさい。この俺様に、指図するなっ。
彼はリンダの、教え諭すような云い方に腹を立てたらしく、
「いいかっ、これから俺の命令に逆らう奴はどいつもこいつもこうなるんだ。見ておけ」
彼は銃口を天井に向けて、一発。
ダーン! バチバチバチッ。
彼の銃声と共に、室内の照明は明滅する。
銃弾は、どこかの電気系統をショートさせた様だ。主電源が切れて、周囲は一瞬真っ暗
になり、非常用電源に切り替わる。
機器を動かし、必要最小限の照明しか行わない非常電源に変わると、室内は暗い。
「く、暗いじゃねえか。何とかしろ!」
指名手配犯は狼狽した叫びを上げた。宇宙の数カ月の航海を経験すれば、まず天然の光
と漆黒の闇が嫌いになり、照明が好きになる。
特に地球付近での太陽のあの、ギラギラした輝きを見てしまった者には、人工の白色灯の
暖かい明るさが、何とも言えず懐かしい物だ。
船倉に潜んで、常に闇の中で密航を続けてきた彼にとって闇は恐怖以外の何者でもない。
「早く何とかしやがれ!」
「とにかく応急処置だ。見てくる」
「うるせえ!」
動くんじゃねえといった筈だ。
強盗殺人犯は、たった今云った事と矛盾するのも構わないで、大声を出してロバートを
静止させて、
「お前らはただ、俺のいった通りにしてればいいんだ。黙って俺に脱出用の宇宙艇と、水
と食料とを用意して渡せ。ささ、さもないと、この宇宙船内を破壊しちまうぞ」
「そんなことをしている間に、あんたも酸欠で死んでしまうだけだよ」
ロバートはジャックに向かってそう言って、
「ここは地球じゃない。循環している空気の量は、限られてるんだ。ほっといたらあんた
が宇宙服に着替える前に、あんたの体が真空で悶絶するんだよ」
破壊なんてしてみろ。あんたも一緒にあの世行きだ。ここじゃあ、地球の常識は通用し
ないんだ。俺達はガラス細工の中で生きているに等しい。何でも許されている訳じゃない。
「黙りやがれ!」
ジャックがロバートに銃口を突きつけたので、彼はしかたなく口を閉じた。
「真空で悶絶する前に、俺の銃弾で頭に風穴を空けて欲しいのかよ」
「空気漏れのランプがついているのが見えるだろう。早く処置をしないと手遅れになる」
両手を挙げて、反抗の意志のない事を示して見せてロバートは、
「後三十分もかからないで、この宇宙船内の空気が全て漏れ出してなくなってしまうんだ。
早く処置しないと」
「うるせえ! 俺はだまされんぞ。
お前ら何か企んで、俺を警察に突き出そうとしているな。俺に見えない所で勝手に救難
信号を出して警察を呼び寄せ、俺を捕まえる積りなんのだろう!」
「そんな事しなくたって、どうせ二、三日後には捕まるのは決まり切ってるのに」
カトウ教授の声に、ジャックはロバートに向けた銃口はそのままに、その視線だけをず
らせる。
「こんな宇宙の辺境に逃れるなんぞ、愚かの極致じゃ。逃げるならアマゾンかアフリカの
未開地にでも逃げた方がまだましな物を」
小惑星帯における人間の活動範囲は非常に限られている。セレス市の様な大規模な宇宙
ステーションでも収容人口はせいぜい千余人、その周辺のステーションやアルキメデスの
様な郡部の小型ステーション等はもっと少ない。
しかもその生活は地球からの限られた資源の配給で全てを賄っているので、子供の人数
からペットの頭数、大きさやその種類まで何もかも管理されている。その気になれば公の
機関は全てを把握できるのだ。
地球の様に森や林や、人々の雑踏の中に逃れ込む事などできはしない。
だから宇宙では、犯罪は却って少ない。
辺境になればなる程、そういった犯罪者達に逃げる場所と隠れる方法がなくなってくる
のだから、当たり前だろう。
「宇宙ではお互いに助け合わないと、お互いに相手の事を思い遣らないと生きてけないの。
あなたの様に自分勝手な事ばかりしてると、あなた自身だけじゃない、周囲をも一緒に
死の危険にさらす事になるのよ。分かって?」
リンダの言葉は的確だったが、的確であるが故に一層彼は不快だった様だ。
「なあニイいいいい!」
てめえ、この銃が見えねえのか。
ジャックの銃口がリンダの方を向いて静止した。しかし彼女はひるまない。
「何よ、そんな銃なんか。そんな物を持たなきゃ、女を一人黙らせる事もできないの」
「なん、なん……」
強盗殺人犯は先の言葉が出てこなくなって、しどろもどろした声を出した。まさか、銃
口を突きつけられた女性が、こうも真正面から反発してくるとは思わなかったのだろう。
「てめえ、分かった様な口利きやがって」
「分かってるわよ、あなたなんかより」
リンダは当然といった口調で言い返した。
ものの弾みで強盗殺人犯になってしまい、逃亡先がたまたま宇宙だっただけと云う宇宙
旅行歴一年余りのど素人に、何が分かろうか。
「宇宙ってのはね、あんたの様な甘い考えで、自分勝手な行動をとって、自分の思い通り
にならないからといって銃をぶっ放したり、人を殺したり、そんな事で生きていける程宇
宙は甘い世界じゃないの!」
「う、う、うるせえ!」
「空元気や、威勢や、腕力で、この小惑星帯が動かせると思っているの。鋼鉄の板の一枚
向こうは、人間の利害も権力も武器も、何も通じない死の世界なのよ」
あなたは火薬庫の側で火遊びをしてる子供。
その本当の恐ろしさを、何も分かってないじゃないの。
「この銃が見えねえのか!
うう、打たれたくなかったら静かにしろ」
ジャックは銃の引き金にてをかけた。
「そうやって、力で人を押えつけようとする。
そうやって、人を従わせようとする。人の行動を束縛しようとする。
あなた、もしかして地球でもそうだったんじゃないの。自分の云うとおりにしないから、
信用する事ができないで彼女を常に束縛しようとするから、地球でも、女に嫌われる事に
なったのよ!」
き、き、きさまあ……。
女の勘とはかくも恐ろしい物なのか、とロバートがつくづく思ったのはこの時である。
それは真実だったのだ。
図星を指されてしまって、ジャックは声が詰まってしまって、返答できないでいる。
云う事は的確なのだが、人の古傷まで容赦なく抉り出してしまう所がリンダの長所でも
あり、短所でもある。心の中の蜂の巣をつつかれて、ジャックの目は血走り、銃を持つ手
には殺気が籠ってきた。
「あなたなんか、好いてくれる女なんている訳がないじゃない。武器を持たなきゃ、何か
力を持っていなきゃ相手に物を言う事のできない男なんて、最低よ。
持った武器や力で相手を拘束して、自分で嫌われる様な事をしておきながら、嫌われた
からって云って誰の姓だって云うの。
あなた自身の起こした事じゃない」
全部自分に帰ってきただけじゃないの!
『いかん、ジャックの額がピクついて来た』
「あなたがそうである限り、あなたがいつも人の事を考えられないで常に自分の思い込み
や疑いやつまらないわがままな心を抑えられないでいる限り、あなたを好いてくれる人な
んて、いるもんですか」
あなたは結局臆病者なの。武器がなければ、腕力がなければ、あなたなんて結局何もで
きないんじゃないの。そんな物の通用しない所に来てみれば、あなたがどんなに無力でち
っぽけな存在なのか、分かって来ない?
「あなたなんて、誰にも必要とされていないのよ。誰からも、あなたの存在は欲されては
いないのよ。あなたは、不要なの。
この宇宙ではね、必要のない人間、誰にも必要とされていない人間までを養う余力なん
てないの。ないのよ」
「リンダ……」
機関銃の様に言葉飛び出すリンダの舌鋒にロバートが漸くブレーキをかけた時には既に、
強盗殺人犯は理性を失っていた。
「云い過ぎたみたい……?」
思わず、強烈な言葉の爆弾を連発して投げつけた事にはっと気がついたリンダは、声を
格段と落として、ロバートを横目に見ながらそう呟いた。彼女の心臓に目がけて、銃口は
ぴったりと固定されていて、ちょっとでも刺激を与えれば爆発寸前の膨らませ切った風船
の様なジャックを刺激しない様に、今更ながら彼女、身じろぎも出来ない。
「もうちょっと気付くのが早ければ、ね」
ロバートもそうしか云いようがない。
「てめえ、てめえ、良くも、良くも」
やばいやばい!
ジャックの指が引き金にかかる。撃つ気だ。
撃つ気だ。彼はリンダを撃つ気なのだ。
「こ、ここここ、殺してやる!」
引き金に力がかかるのが見える、その瞬間。
「俺のリンダに手を出すな!」
ロバートが、そのかけ声も格好よくリンダとジャックとの間に割り込んで、その銃口を
正面に受ける事になる。
「ロバート……」
「て、てめえ!」
耳が二つあるからではないが、ロバートは背中にかばったリンダと、目の前で彼の体に
銃を突きつけて、その引き金に手をかけているジャックの、双方のせりふを同時に聞ける
事になった。
「どいてロバート。死んじゃうわ!」
「てめえ、殺されたくなかったらどいてろ」
この銃は、脅しじゃねえんだぞ。
「そんな事、そんな事分かってらあ」
ロバートはジャックの瞳を見つめ返して、
「俺だって怖いさ。怖いんだよ。
だけどさ、だけどここで逃げ出したら、俺、又かけがえのない、大事な物を失ってしま
うんだよ」
前回、不注意にもライサ博士を一人にして、植物人間にさせる原因を彼は作ってしまっ
た。
大事な物は、もう失いたくない。このまま時間を食い潰していてもみんな揃って酸欠死。
この強盗殺人犯を何とかしなければならない責務を負うのは、この中で唯一の若き男手の
ロバート・E・クラークなのだ。
「お前に宇宙船の機密構造の補修ができるか。三十分以内に空気漏れの箇所を調べて直す
事ができるか。生き残る為に今一番必要な事が、お前には盤石にできるのか」
お前の銃は怖いさ。でも、お前だって銃を構えたまま死にたくはないだろう。
「みんな助け合わないと生きていけないんだ。
みんな助け合わないと生きていけないのが、宇宙空間であり、小惑星帯なんだ」
もう殺させない、もう失わない。
嫌な事や怖い奴から逃げ回っていれば、確かにその場凌ぎにはなる。でも、その代償は
きっと、利息をつけて戻ってくるんだよ。
あんたが、自分の怯えやわがままを克服できずに、殺人を犯す結果を招いた様にね。
「ここが俺の一線だ。打てる物なら打ってみろ。殺せる物なら殺してみろ!
俺は、自分の愛した者の為だから、怯えだって乗り越えて見せる。
自分は、変えられるんだ!」
その視線が真っ直ぐに、強盗殺人犯のその血走った目を見つめて、くじけない。
ロバートに、震えは見られなかった。
その銃を降ろせよ。
ロバートは静かにそう言った。それは全く、静か過ぎる程静かだったが、却って相手に
はそれが不気味に映ったらしい。
「お、お、お前……」
自分を乗り越えた者と、自分を乗り越えられなかった者の差が、出たのだろうか。
ジャックの手に持つ銃が、震えている。
何に怯えるのだろう、何を恐れるのだろう。
銃を持ち、リンダをその身の後ろに庇って動く事もできない筈の、素人の、生物学者の
ロバートの、生殺与奪の権を握る彼が、なぜにその手を震わせる?
絶対の優位にある彼の瞳が、きょろきょろと常に定まる所がなくせわしないのに比べて、
ロバートの視線は落ち着いて、前の男を見つめる瞳は澄みわたっていた。
「さあ、銃を降ろせよ」
ちょっと息苦しくなってきた。そろそろ…。
そう思いかけた時、またもサンプルが……。
ドーン! 再び爆発。
ダーン! 銃声が同時に響いた。
ジャックが思わず、手に持つ銃の引き金を引いてしまったのだ。煙の立つ銃口、そして
ロバートの体が倒れ込んで気を失って、無重力の中に彼のO型の血液が球形を崩しながら
浮かんでいく……。
「ロバート!」
空気漏れのランプがいよいよ明滅する。
黄色いランプより赤いランプが増えてきたのは、水漏れにせよ空気漏れにせよ電気系統
のショートにせよ、早く処置しないと危険な状態に入りつつある事を示す。どこかで空気
の漏れる、シューッという音が聞こえるのは、気のせいだろうか。
倒れ込むロバートを抱き締めるリンダに、突如ロバートは目を開いて笑いかけた。
「ばあ!」
肩を掠めただけだよ。大した怪我じゃない。
思わずリンダはロバートをひっぱたこうと、手を上げかけたが、今はそう言う時ではな
い。彼の怪我は、ジャックの手元の狂いで本当にかすり傷で済んだ模様だが……。
「てってってってっ、てめえ!」
しかし、ジャックの銃口は再び彼に向き…。
ダーン! 銃声に今度こそだめかと、三人は思わず目を閉じた。
「いててっ!」
ロバートに向けられた筈のその銃口から打たれた弾は、リンダかロバートに当たった筈
なのだが、痛みは感じなかった。
えっ? どうして。
痛くない、弾に当たってない。
不思議そうな眼(まなこ)のロバートが、周囲を見てみるとそこには、銃を持っていた
ジャックが肩から血を流しながら、無重力の中に浮かび上がって、気を失っている……。
「犯人逮捕にご協力頂き、感謝します」
その声は、マイケル刑事。デビッド刑事も。
そう言えば、事情聴取に来るって、云ってたっけ。ロバートは思わず膝から崩れ落ちた。
安心したかと思えた、その十分の三秒の後、ロバートたち三人は、再びバネ仕掛けの如
く立ち上がった。
『まだ爆発していない、もう一個のサンプルが危ない!』
彼らは、強盗殺人犯も刑事達もはねのける勢いで隣の部屋に突進して慌ててヒーターの
スイッチを切り、ガラスケースの中から恐る恐る一個の置時計程の大きさの石を取り出し、
命の次に大事な品物への扱いで、別のガラスケースに運び込んだ。その様は、事情を知ら
ない刑事達にとっては、奇異な物だったろう。
「たすかった……」
ロバートのその呟きは、事情を知る三人にとってのみ、真実真理理解できる言葉だった。
「偉いぞお。良く我慢した」
おまえはやっぱりわしが見込んだとおりの、日本一のど根性ガエルじゃ。
カトウ教授が、そうやって孫に接する様に、岩に向かって感謝の呟きを漏らすのを見て
も、ロバートには、笑い飛ばす事はできなかった。
本当にその岩石生命が我慢強かったお陰で、彼らは間一髪で命助かったかも知れないの
だ。
本当の所は分からない。しかしあんな爆発が続いて起これば宇宙船が危険にさらされる
のは明らかだったし、それが何秒後に来るのか何分後に来るのか、それともコンマ数秒後
に来るのかは、正にこの岩の我慢強さにのみかかっていたのだから。
爆発の危険のなくなった事を確認してから、彼らは再び膝から崩れ落ちた。
今度こそ、安心して怯えられる。
そう思った瞬間、三人ともこれまで我慢していた分の反動が出て、一気に震え出した。
ガタガタと口をかみ合わせながら、
「やっぱり刑事さんがいると安心だ」
ロバートの呟きは実感のこもった物だった。
「でも、ロバートも頼りがいあったわよ」
リンダは彼の肩の怪我が、ほんのかすり傷だと分かって、服を脱がせてペタペタ消毒液
を塗ってからカットバンを貼りつける。
「あたたた、あたっ!」
その塗り方が結構荒っぽいので、情けなくも悲鳴を上げてしまうロバートに、
「情けないのね。こんな傷ぐらい」
「こんな傷はないだろう、こんな傷は」
痛いものは痛いんだから!
傷口に消毒液がしみて思わず目がうるうるしてしまうロバートだが、
「何よ、この程度。私が初めて包丁でネギの千切りした時の怪我よりも小さいじゃない」
「そうではないぞ、リンダ」
そこへカトウ教授が横から口を出して、
「その傷はな、ロバートが愛する乙女を守る為に、体を張って、命をかけて、負った傷だ。
ロバートの名誉の勲章、そして愛の結晶。
勇気の証しだ。大事に介抱してやりなさい、十年でも、二十年でも、一生かけても、
ね」
おっと、これは年甲斐もない事を、云ってしまったかな。
「忘れとった。循環器系を応急処置するのにパーカーを呼んでこなければならん。無線室
に行ってくる」
教授は気を効かせて席を外した積りだったのだろうが、ひとまずジャックを船倉に放り
込んだ刑事たちが、ロバートの怪我が軽いと見て早速事情聴取にやって来たので、二人の
時間は『次回のお楽しみ』になってしまった。
「この辺の空域をさ迷っているという情報は掴めていたんだがね、例の事件やら何やらで、
手間取ってしまってね」
二人の刑事は、武器をとりあげ手錠で縛り上げた強盗殺人犯を、セレス市に送っていか
ねばならないので、もう少し滞在する予定だったが、早めに引き上げる事になるらしい。
「コロンビア産のブラック・コーヒーです」
少々苦い思いでしょうが味わって下さいな。 カトウ教授の無罪が、たった今確定した
所なんですからね。そう言いながら、リンダが蓋付きのコーヒーカップにブラックコーヒ
ーを入れて現れた時、刑事達は意外な程低姿勢でリンダの険もほろろな出迎えを受け入れ
た。
「いやあ、まったく苦い限りです。少し砂糖を加えては、貰えませんかねえ」
あれまあ、これはなんと云う変わり様。
「あれから、我々も色々調べてはみたんですがね……」
「どうも、他殺だと考えるにはおかしい状況証拠が次々と出て来たんですよ」
刑事達は、すまなさをそのまま顔に表して、「ライサ女史が岩石に仕込まれた爆弾で爆
殺されたのだとすれば、あの爆発物の破片か何かに、火薬なり起爆装置なりの爆発物や器
具などが、なければならない」
ところが……。
「そう言った物は一切見られなかったので」
「それに、アルキメデス内の状況を記録したフロッピーのデータから、カトウ教授の主張
の一部が、正しかった事が確認されました」
ライサ博士がカトウ教授からあの岩を譲り受けたのは彼女の強い希望による物で、カト
ウ教授には元からそれを渡す積もりはなく、爆殺する仕掛けを中に施す時間もなかった事
が、判明したと言うのだ。
「その上その後の博士の言動を追っていくと、どうも生物学に専門外の我々には理解しに
くい事が多く語られていて。それが、あの爆発した岩に深く関わっている様なのです」
どうも博士は、あの岩が生きていると考えていた様でして……。
「岩が、生きている?」
三人は、同じ意味の言葉を自分の母国語で異口同音にそう云った。
それにデビッド刑事はまとめて頷いて、
「これは計画性のある犯行・事件ではなくて、偶発的な事故ではなかろうか、と云う結論
に達した訳です」
「そこで、そうなれば生物学の専門家に助言・協力を仰がねば捜査も進まないと考え、お
詫び共々、お伺いした次第なのです」
「まあまあ」
ちょっとお待ち下さいませ。
「早速、砂糖とミルクを持って参りますわ」
ロバートには、刑事達の姿勢の変化よりもリンダの応接態度の急変ぶりの方により驚か
された。リンダはコーヒーを余程入念に苦く入れて来たらしく、刑事達は顔を見ても分か
る程、本当に苦い思いをした模様だ。
「ここに、アルキメデスの情報を記録したフロッピーがあります」
「これを見て頂ければ、真相解明の手助けになるのではないかと、思うのですが……」
「実際、我々もカトウ教授の人格を見るに、人を殺せそうにはない人間だとは感じていた
のですよ」
言う事がどうも都合が良い、と思いながら聞いているロバートに、デビッド刑事は、
「そう言う顔をなさるお気持ちも分かりますよ、ミスター・ロバート」
ですが、我々の立場も考えて下さい。
我々は地球で『そんな事ができる筈ない』と思った人間が、残虐無比で冷酷非道な殺人
犯人だったという様な事件を、それこそあなた方が顕微鏡を覗くのと同じ位、数多く取り
扱って来ているのです。
善良そうな顔をした悪党にだまされた事が一体何度あった事か、そして時にはその為に
事件の解決が遅れ、第二第三の犯罪を防ぐ事ができなかった、そう言う事もあるのです。
「だから我々は、自分の受けた『好い人』だとか『善良そう』だとかいう印象は極力排除
して、捜査を進めなければならないのです」
いったん疑わしいと思ったならば、それが白であると断定されるまで疑い、捜査する事。
そこに可能性があるかぎり、調べる余地は残されていて、探究の意義は存在する。
「あなたがたの世界にも、それは同じ事が言えるのではありますまいか」
確かに、彼はそれには頷ける。疑える限り疑い調べろ、は科学の大原則だ。素朴な一つ
の疑問から、誤差にも等しい小さな可能性から、行きづまりの壁をぶち破る科学の大前進
がなされた事も、何度となくある。
「こうやって本音を割って話せる時がとっても気楽で楽しいんですよ。善人に見えた人が
本当に善人だと分かったこの時間が、一番僕は好きですね」
「ま、それは俺も同感だな」
彼らも、職務に忠実だったのだ。彼らも、感情を顔に出さない様に苦労していたのかも
知れぬ。そう思うと、ロバートはこの刑事達にも、人間味と親近感を覚えてきた。
「地球に帰るまでの間に、セレスの高級喫茶『ルナ』に行きましょうね。約束ですから」
その時は、カトウ教授もリンダもつれて、みんなで行こう。頷く刑事達を目の前に、彼
の頭は、いや舌は既に、セレス市の高級喫茶に飛んでいた。
研究用宇宙ステーション『コロンブス』は、パーカー氏の修理のなされる間、循環器系
の動きを最小限に抑えなければならない為に、彼と彼の助手の二人を除いて一時的に、全
ての人間に所払いをかける事になり、三人がこのフロッピーのデータを確かめる事ができ
たのは、半日後、警察の用意した例のセレス市のホテルの一室での事だった。
「これは、余りにも無謀な妄想かも知れない。
そんな、幾ら今までの観測結果と一致する仮説だからと云ったって、そんな途方もない
事がそうそう信じられる訳がないわ」
岩が生きているだなんて……。
「カトウ教授には、誇大妄想だって笑われそうだったから、確証を掴む迄は云わない事に
したけれど……」
これがもし事実だったなら、私達は生物学だけじゃない、科学の新しい時代の幕開けに
いる事になる。その幕を開ける事になるのよ。こんなド田舎の、中央から見たならゴミに
も入っていない小さな研究所が。
「確かに、熱を吸収するわ。
摂氏零度のまま、表面温度が一定で変わらなかった岩石生命が、低温繁殖細菌の活動熱
を受けてから、急速に変わっていく」
表面温度及び内部温度を走査するスキャナの反応を見ているのだろう、ライサ博士の声。
微生物が活動すると共に、表面温度が上昇していく。最初は微生物自身の活動熱、それ
が徐々に岩石に吸収された熱に入れ替わっていき、岩石の内部を循環する熱量に変わって
いって、表面温度は逆に低下していった。
「顕微鏡で拡大して見て見ましょう」
真核生物では細胞核が、原核生物では細胞質ごと、活動する部分が吸い取られてる。
「これは熱を直接吸収する生命なのね」
吸い取った細胞核を分解して養分にすると云うのではない、細胞核から、活動するDN
Aから熱を直接吸収しているんだわ。
ああ、そうなのですよ。だから、熱を余り与え過ぎてはいけないのです。
熱が源の生命は、与えられた熱を処理する事ができない時は、熱を蓄えるだけ蓄えて、
破裂するしか他に、方法はないのですから。
「それにしても、変わった生命ね。
顕微鏡で見る為に当てたライトの光熱からもエネルギーを得る。体で感じ取る全ての熱
を生命のエネルギーに変えていく……」
小惑星帯での研究が、報われる日が来たわ。
「それにしても、どの位熱を吸収できるのかしらね……」
いけない。それ以上、熱してはいけない。
ロバートは思わず、テープレコーダーの向こうにいるライサに呼びかけた。しかし……。
えっ? ライサ博士の最後の声は、驚きを示す短い、信じられないと云った一言だった。
そして爆発音。
ザーザザーザー。
「以上が、回収された記録の全てです」
彼らの仮説は間違ってはいなかったのだ!
「ライサは、一足早くこれに気付いてたのだ」
「全くの、事故ですね」
今更刑事達を呼び出して確認する迄もない。
刑事達は、ジャックを連れて来週にも地球に向けて帰る事になる。後はセレス警察分署
の巡査達に捜査は任される事になるが、もう彼らには、真相解明は終わったと云えた。
しかし、事件は終わった訳ではない。
「ライサが甦らない限り、意味はないか」
カトウ教授の呟きが、寂しそうだ。
するべき事をなし遂げても、終わってしまえば、結局博士は戻って来ないのだ。
ライサ女史は戻っては来ないのだ。
走り抜け、駆け抜けても、ゴール・インを共に喜ぶ仲間がいなければ、一体どう喜べる
のか。緊張の糸が切れてしまえば、教授は元の精神状態に落ち込んでしまう。
ロバートのした事は、ただ悲しみを、先に伸ばしただけに過ぎなかったのだろうか。
「過ぎた事を振り返っても、どうにもなりませんよ、教授」
過ぎ去った事に胸を一杯にするのは、枕に顔を埋めてからです。今は、前を見なければ。
しかし彼がその先に続けた言葉は、リンダにも全く予測のつかない事だった。
「昨日、当局から電子メールで指示がありました。ライサ博士の病状が良くなる見込みが
立たない様であれば、アルキメデス研究所を閉鎖すると云う事です」
「閉鎖……」
「そんな、いきなり!」
「ライサ博士を欠いた状態での研究所の運営は不可能であり、代わりに小惑星帯迄出張っ
て来てくれる研究員の代替要因もいない以上、これが常識的結論である、と当局は……」
「それはそうだが……」
時間的猶予とか何かはないのかね。
この研究を発表できれば、閉鎖どころの話ではなくなる筈じゃ。もう少し、もう少し。
「確実に成果は上がる、そのすぐ近くにいるというのに」
当局は、それをまとめて発表する合間も考えてはくれませんでした。こんな田舎の研究
所の発表なんて、どうせ研究所閉鎖を逃れる為の口実の、大した事もない研究の羅列なの
だろうという感じで、報告を送っても、目を通してもらえないんです。
「アルキメデスを閉鎖する隙を窺っていたかの様じゃな」
「実際、こんな僻地に研究所は二つもいらないという声が中央では上がっているそうです。
こっちに流れる筈の補助金が浮くとなれば、どこかで、懐の暖かくなる研究所もあるの
でしょう」
「何よそれ!」
何もこっちの言い分を聞かないで、まるでライサおばさんが倒れるのを待ち構えていた
様に、獅子の死んだ後に残された獅子の子を、みんなハゲタカになってつつき合うの!
リンダは憤慨した。当然のその憤りがもし、中央に届いていたなら、その気勢に地球の
当局も、考えを悔い改めたかも知れない。
「僻地の研究所は常に統廃合の危機にさらされている。僕も博士がこうなる迄は気付かな
かったけど、中央から見て研究成果が目立たない研究所は、軒並み予算を減らされてる」
リンダも気をつけた方がいい。
「コロンブスだって、カトウ教授にもしもの事があったなら、どうなるか分らないんだ」
「そんな……」
君も、分かったか。教授が後を引き継いで、「誰しもこんな僻地に来たくはないだろう
し、遠隔地の研究所は、維持するだけでも膨大な負担になる。わしらはここに骨を埋める
積りだから良いが、他の者にまでわしらと同じ世捨て人の生活を求める事は、できぬじゃ
ろ」
カトウ教授は実情を心得ていた。いや、ライサと教授の二人のみが、この二つの研究所
が二つとも、いつも閉鎖寸前にある事を本当に分かっていたのだろう。
彼らには、真空の極低温や漆黒の暗闇よりも先に、経済的問題で当局相手に悪戦苦闘し
なければならなかったのだ。本当の科学とは全く関わりもない事で憔悴して、そして尚こ
こは宇宙の果てで、人里離れた僻地であって。
そんな詰まらぬ苦労さえなければ、彼らはもっと早くこの偉大な発見をしていて、彼ら
はもっと早く、もっと早く……。
「当局は、ライサ博士の病状が、今後確かに良くなる見通しがあるならば、研究所の存続
について検討の余地は残るといってきてます。しかし、ライサ博士があの状態ではその見
通しなんて夢物語。当局は、その最終判断を一週間後迄に報告するようにと求めていま
す」
一週間後が、アルキメデスの死刑宣告の日と言う事になる訳です。
「宇宙の果てに島流し、ならぬ星流し。
宇宙船内密封カンヅメ勤務という名誉ある研究員生活も、半年余りで終わる訳で」
その後は、僕は職を失ったただの兄ちゃんです。この辺りで金属鉱脈を当てようなんて
夢物語に人生を賭ける積りはないし、ライサ博士の面倒を見てあげなきゃならない。
ライサ博士には公務災害という事で、生活援助が出される事になりました。僕が一人で
博士の面倒を見て食っていく位なら、どんな職についても、何とかやっていけそうです。
「小惑星帯を、離れるの?」
リンダの声は心なしか、震えていた。
「ああ、そうなると思う。
まだ仮定の話だけど、そうなる可能性は非常に高い……」
地球か、火星か、その辺りまで戻らなければならないでしょうね。そう繋げようとした
時、リンダの声が不意に彼の言葉を遮った。
「だめ!」
だめったら、だめ!
リンダの声は今迄彼女が、どんなに怒った時よりも強烈に、彼の耳の近くで響き渡った。
「リ、リンダ……」
「ダメよ、あなたなんか、絶対に一人で生活なんか、していけないんだから。絶対ダメ!
あなたは金銭感覚もなってないし、掃除機を置いた場所も忘れるし、ハムスターの餌に
カルシウム加える事も怠りがちだし、一日だって安心して自炊を任せられないんだから!
あなたも、カトウ教授とおんなじで、一度着た服を着替える事もしないで、そのまま次
の日も、そのまた次の日も着ている様な、そんなまぬけで大ざっぱな性格しか、していな
いんだから!」
あなたなんて、誰かが近くにいてあげないと、一日だってまともな生活のできない人間
なの。誰かが近くにいてあげないと、どうにもならない人間なの。
「あなたは、私がいつも面倒を見てないと、絶対に生きてはいけない人なんだから」
あなたは、私が、一生面倒を見ていてあげないといけない人間なんだから。
「リンダ……」
ここであなたが行ってしまったら、あなた一体何の為に、命を張って強盗から私を守っ
たのよ。それこそ無駄もいい所だわ。まさかカトウ教授の為に命を張っただなんて、言い
逃れする積りじゃないでしょうね。
横で聞いているカトウ教授には、ちょっと可哀想な問いかけだったが、ロバートは、
「君の為だよ、リンダ」
僕は君をこの宇宙で一番好きなんだから。
彼は恥ずかしさを抑えて、そう明言した。
「せっかく守ったお姫様をほっぽり出す気?
あなた勇敢な王子様だったら、救い出したお姫様に口づけして、幸せに結ばれてみなさ
いよ。そうじゃないと、みんな納得できないんだから!」
「僕は王子様じゃないよ。
僕はしがない生物学の研究生ロバート・E・クラーク。幸せになれるかどうかは、人生
のページをめくらない限り、分からない。でも、君を好きな心の深さは絵本の中の王子様
にも、太平洋のマリアナ海溝にも、負けはしないさ」
冥王星の向こうからでも呼びかけて見せるよ。君を大好きだって、君だけを愛するって。
しかし、リンダにはそれで納得できる筈がないのは周知の事実だ。
「セイロン紅茶と私と、どっちが好き?」
どっちなの、どっちなのよ。
全身で詰め寄ってくるリンダにロバートは弱ったといった顔を見せて、
「参ったなあ。
セイロン紅茶は、ロバート・E・クラークの生存に必須の要素のその最上段に、第一番
目に大きく書き込まれていて、修正は効かないんだよ」
彼はそう言って一瞬悲しそうな顔を見せるリンダを両手で抱き寄せて、
「でもね、リンダ。
僕はセイロン紅茶が宇宙で一番好きだけど、君は僕にとっての最高級セイロン紅茶だ
よ」
「ロバート……」
涙を流しかけた顔がいきなり幸せの微笑みに変わる、その激変に本人が恥ずかしそうで、
リンダは顔をうつむかせ、ロバートの腕の中で視線をそらす。
「君は宇宙一のセイロン紅茶だ。
浮気なんてできやしない」
「じゃあ、これからどうするのよ」
私達、これからどうなるの。
その問いには彼も、有効な答えの持ち合わせがない。目の前は五里霧中だ。
「でも、手放しはしないよ、何があっても」
宇宙勤務で少し細くなってきたロバートの腕に抱かれながら、カトウ教授の近くにいる
事も忘れて幸せの春日の中に身を置いている二人の耳に、ドアホンを押す音が聞こえたの
はそんな時だった。
「どなたじゃね、いい所なのに」
誰にとって良い所なのかを明確に云わないで教授が老いた体にしては素早い動作でドア
ホンに答えるが、相手は無言のままドアホンをもう一度押すだけだ。
「鍵はかけとらんよ、入って来なさい」
そう云う声にも、相手は三たびドアホンを押すばかりで、姿を見せようとしない。
「ふむ、出向かえにこいとは、結構高飛車な客人じゃのう……まるでライサの頑固ばばあ
の様じゃな」
そう言って教授がドアの前にたつと、ドアは外側から開け放たれて、そこには……。
「ライサ!」
そこに立っていたのは間違いなく、ライサ女史本人だった。意識は戻っていたのか?
「なんでなんでなんで?」
一体全体いつ、目を覚ましたんですか?
幽霊を見る様な顔つきのロバートに、
「ついさっき。よ〜く寝かせてもらったわ」
ちょっと寝過ぎて、首がだるいんだけど。
ライサ博士はそうやって首を少し傾げる。
後ろから医師のロジャーが、少しでっぷり
した腹を揺らせながらやって来て、
「目が覚めたのはついさっきだ。
意識が戻らないだけで外傷はないに等しかったので、後遺症の有無を見て、リハビリに
戸外に出てもよいという許可を与えたのだ」
地球なら絶対安静という所だろうが、ここは重力の極端に少ない小惑星帯だ。
体にかかる負荷も少ないし、本人の後遺症も左手に少し痺れが残る程度の物らしい。
少し動き回って運動機能を慣らしておく方が体には良いと判断したら、真っ先に君達に
『会いに来る』と言い出したのだ。
「ちょっとびっくりしたよ。病人が見舞いを受けるのではなくて、自分から訪問して君達
をびっくりさせたい、なんてね」
いかにもライサらしい考えだ。
「病人だから手荒に扱うなと云っても、元々歳が歳だから、肉体労働もしてないんだろう。
普通の生活がリハビリになる環境だ」
無罪放免! ロジャーはそう言って彼女を病院から解き放ったのだ。
「研究所は存続だ……!」
全ての発見も何もかも、彼とリンダの未来もが全て、確かに、確かに保証されたのだ。
ロバートは、三たび膝の力が抜けてしまう。
「あら、リンダ。ロバートなんかに抱き締められちゃって、どうしたの?」
カトウ教授の前でもそんなことができる程、二人の仲は進んでいた訳ぇ?
「いつの間に、あんた達も隅に置けないわ」
その問いにロバートは顔を赤くして右手で頭を掻くが、リンダはちっとも恥ずかしそう
でもなく、
「そうなの。そう言う仲になったのよ。
今日は最高の日! だって、今日はロバートが私の事を、宇宙一のセイロン紅茶だって、
云ってくれた日なんだもの」
「……セイロン紅茶ね。彼らしい事」
博士はそう呟いただけで、論評しなかった。
「実は、ライサ。君にお願いがあってな」
医師が自分の仕事に帰って四人が漸く落ち着いてきた時、教授はおもむろに語り始めた。
博士の体には幾らかの痺れが残ったものの後遺症は殆どなく、軽いリハビリを毎日続れ
ば数週間の内にそれも全治するだろう。その間でさえ、日常生活及び研究活動には支障は
なく、博士と研究所にかかっていた保険金が下りるわもう笑いが止まらない状態になった。
博士の完全復帰と云う事になれば、当局も研究所の閉鎖を強行する口実がなくなる。実
に簡素な事務連絡で、当局はアルキメデスの存続を了承する電子メールを送って来た。
全ては元のさやに収まるのだ。
いや、元通りにはならない物もある。
あの生物学史上に残る大発見と、この一連の事件の間に芽生えた、ロバートとリンダの
間の恋愛、そしてもう一つ……。
「わしの願いというのは、他でもない。君に、わしのパートナーになって欲しいのじゃ」
「教授が、博士を」
「パートナーに?」
リンダとロバートが、目を丸くしておうむ返しにそう言ったのに反応して教授は、
「いや、その、なんだ。家族としてのパートナーではなく、その、あれ、『生きている
岩』についての共同研究論文についての、パートナーなのだがね」
どうだろう。別にわしに、やましい気持ちが会っての申し出ではない。それは云える。
「あくまでも研究者としてのだな、その、何と云うのかね、純粋に生物学を探究する同志
としての、パートナーと思ってもらいたい」
カトウ教授は本音を隠す時、嘘をつく時にはやたらに言葉が早くなる癖がある。
「ただの、生物学のパートナーだけ?」
ライサはどうやら、彼の口に出せない本音を見抜いている様だ。それを相手の口に云わ
せようと言葉を誘う辺りは、結構意地が悪い。
いや、なに、その。
彼は勝手に真っ赤になって、弁解する様に言葉を続けて、
「決してやましい気持ちがあって云っているのではないぞ。その、あれ、ほれ。
今回の事件では、君が突然倒れてしまって、わしも心配で心配で、夜も昼も眠れなかっ
た。
こう言っては何だが、お互い結構いい年だ。
こう言う事件になってみて初めて、お互いの大切さと云う事が、かけがえのない存在だ
と云う事が、ようっく分かって来てな。
そのなんだ、お互い宇宙の果てに一人ずつ、こうやって毎週の様にいがみ合って来たの
もその、非常に子供っぽい事だったと、今では非常に大人気なかった事だと、おもうのじ
ゃ。
これからも生物学の研究は進めねばならぬ。
お互いに同じ分野を探究する物同志、協力し合うべき事は今後ますます多くなる筈じゃ。
そうでなくても、この大発見を観測結果の裏付けを取った上で発表するとなれば結構な
時間と資材と資金を要する。これまでの様な研究体制ではお互い、やっていけなかろう」
そこでな、そこでだ。
「君が非常に優秀な生物学者である事は…」
生物学者ね。ライサはそこで言葉を遮って、「生物学者? それだけ。私ってあなたに
は、ただの生物学者の値打ちしかなかったの?」
ロバートとリンダは二人して、無言で二人の成り行きを見守るのみだ。
「いや、そんな事はないともさ。君は、そう、生物学者と云う事は除いて考えても、一般
的に云って、非常に魅力溢れる、女性だよ」
どこかの国の苦しげな国会答弁を思い起こさせるその口調に、質疑の矢は飛んだ。
「一般的に云って?
あなたにとってはどうなの、あなたには。
あなたには、私の事はただの頑固ばばあにしか映っていないって云うのかしら?」
そそそそ、そんな事はないともさ。
「うん、わしの目から見ても君はキュートでチャーミングだとも、うん……」
その言葉が、次第にしどろもどろになっていくのを、ライサは楽しんでいる様だ。
「じゃあ、どうなのよ。キュートでチャーミングだったら、放って置くって言うの?」
「そそ、そう言う訳ではない……」
「私って、頑固ばばあなんですものね」
あわあわあわあ。いつもの科白を取られて慌てふためく教授の困りようといったら……。
「白雪姫は口づけをされた王子様とどうしたんでしたっけ? 眠り姫は?」
『この人は、本当に内気なんだから……』
顔中真っ赤になって、湯気の立つほど熱くなっている教授が、しまいには哀れになって、
ライサ女史はその辺で彼を解放する事にした。
「はいはい、家族のパートナーでも、研究のパートナーでも、何にでもなって見せますよ。
愛しのカトウ教授!」
ライサも彼を嫌いではなかったらしい。
待っていたとばかりに二人の聴衆の拍手が鳴り響いて、第二のカップルはそろって顔を
赤くした。特にカトウ教授、これ以上頭に血を上らせては、本当に倒れてしまうかも知れ
ない位、顔が真っ赤。
でも、正式なプロポーズが欲しいわね。
ライサ博士はそう言って立ち上がり、
「さあ、眠り姫ライサはさ迷っています。
この美女に愛の口づけをして、眠りから解き放ってくれる勇者は、一体どなた?」
「こ、こここ、このわしだとも!」
「じゃあ、して見せて」
「こ、ここでか?」
ギョッとした顔で、二人の見物者の視線を伺うカトウ教授に、
「あの二人だって、私達の前で堂々と抱き合ってたのよ。まだまだ、若い者に負けてなん
かいられないわ」
博士は平然とそう言うが、見てるロバートとリンダの方が恥ずかしくなってくる。
「ここここ、ここで本当にやるのか」
「何よ、そんなに恥ずかしい事? それとも、あなた本当は私を愛してないの?」
「ああああ、愛してるとも!」
カトウ教授はそれこそ何かにせかされてる様に、急いで彼女の口に軽いキスをした。
「これだけぇ?」
ライサが少し不満そうな顔を見せるのに、
「続きはまた後で、じゃ!」
カトウ教授はハアハア荒い息を整えながらライサの誘いを断ち切って座り込んだ。
「まったく最近の老人ときたら、若過ぎる」
ひと息ついた所でロバートが声を挟んだ。
「さてさて、それではここで、ティータイムと参りませんか」
出たっ! ロバート得意のセイロン紅茶。
「ねえねえ、リンダ。前に話しただろう、あのティーカップ。アメリカン・リーグの優勝
決定戦で、どっちが勝つかで、トムが博打に負けたロジャーから巻き上げたって言う、い
わくつきの品物さ……」
「あれだったらさっき向こうの棚に置いたっていったでしょう!」
どうしてこんなに簡単に物事を忘れられるのかしら、男って本当に不思議ぃ。リンダは
飽きれた様な呟きを残して、一人紅茶を入れに席を立つ。その後ろ姿にライサ博士が、
「そう言う物なのよ、男って」
自分は何でもできる、何でも自分がいないとどうにもならない、そう思ってる割りには、
日常生活ではちっとも役に立たないの。置き物の様にふんぞり返っている位しかできない
から、巧く操縦する人がいないと、どこに飛んでいく物やら、危なっかしくて仕方がない。
「そう言う事はないじゃろう。最近の若い者とこのわしを、一緒にされては困る」
カトウ教授は抗議する(ロバートはそれにも更に抗議したかったが)がライサは微笑ん
顔にしわを作りながら、その抗議に応じずに、
「同じよ、老いも若きも男なんて」
みんな一緒、変わらないわ。
「でもねリンダ。何かあった時には、なんにもできないくせに、何か役に立つ訳でもない
のに、いるだけで不思議と安心できる物なの、頼れる物なの。男って、そう言う物なの
よ」
この人には、かなわない。
ロバートに、漸く本来の笑みが戻ってきた。
「ちょっと待ってて下さいね。
今僕の、可愛いセイロン紅茶が、おいしいセイロン紅茶を入れてくれますから」
「表面温度の異なる物があったじゃろう」
右手に入れてもらったばかりの紅茶の熱いティーカップを持って、カトウ教授は語った。
「あれはそれぞれの固体の、低温への適応の度合いの違いなのじゃ。より低い温度に於て
も生存可能な物と、少し高い温度でなければならない物。より低い温度、少ない熱量でも
生存できる物の方が進化の進んだ物だったのじゃな。
地球の生物が水から離れられないながらも、魚類から両生類、は虫類へと徐々に水に頼
る度合いを低めているのと同じ様に、岩石生命も熱に依存する生命であると云う基本から
は離れられないものの、熱に頼る度合いを徐々に低め続けて四十数億年、進化を続けて来
た。
皮肉な事に、一番環境に適応した筈の最低温グループが、最も熱……環境の変化に弱い
生命となってしまった。……恐竜の様にな」
ああ、自然とは何と力強く、そして脆弱な
物なのだろう。
「生命に一番大切なのは自己再生能力、繁殖。生命の名を持つに足る物は皆、自分の複製
を作れなければならないわ」
あの生命の繁殖形態が気になるわね。
ライサ女史は左手こそ不自由そうだったが、右手の方は心配ないらしく、セレスの小さ
な重力の中ですぐにカップを飛び出そうとする紅茶の液体のプヨプヨ動き出すのを巧くコ
ントロールして、口に持っていく。
地球の十分の一もない微小重力ではあるが、アルキメデスの様な完全無重力に日常慣れ
親しんだ四人の宇宙生物学者には、立派な重力として感じ取れるのが不思議だ。
「熱を求める生命。自分では動く事ができず、植物や菌類の様にただ熱が来るのを待って、
それをエネルギーにする、待ちの体勢」
でも、惑星生成期の熱の溢れる時代が過ぎ去って、それだけじゃ生きていけなくなった
彼らは、表面に細菌類を発生させる有機物の土壌を用意する事で、細菌類の活動熱を捕獲
する術を覚えた。
ロバートに続けてリンダが、
「ハエ取り草への進化。それとも、動物流に言えば他者をおびき寄せて、狩猟で生きる事
を覚えたと云うべきかしら」
でも、彼らの進化は、それで終わったの?
「だってそれではまだ、熱の捕獲が不十分だもの。その熱量を吸収しつくしたら細菌類が
動けなくなって、結局は自分の首を絞める事になってしまうわ」
確かに、リンダの指摘は正しい。
「細菌類が自分の表面に繁殖してくれる偶然を待つだけ、と云う生存形態はやはり生命と
しては古いタイプに入る筈よ。偶然に頼って、それが来ない限りじっと我慢の子って云う
のは、効率が悪過ぎるわ」
それよりも、表面の細菌の活動熱を全て吸収してしまうのではなくて、ある程度細菌の
活動に必要な熱量を残したまま、細菌類を活動させ続けて、もっと熱量を補給させ続けた
方が、ずっと良いとは思わない?
順番で最後になったロバートのカップに紅茶を注ぎながら、リンダは思考を促した。
「種籾も食べてしまえば次の年の収穫は0よ。
でも、生きるに十分な環境を整えてあげたなら、生命は無限に再生産を繰り返すわ」
1は3にも4にも、無限大にもなれる。
それが生命の本当の魅力の一つなの。
「まさかリンダ、君は……」
この岩石生命が牧畜や農耕に近い事をして、自分の環境を調整しているって言うのか
い?
ロバートは驚きの声を上げるが、ピンと来る物があったらしく、そこで手を打って、
「それはあり得る! 彼らの意志の如何に係わらず。地球でも、多くの捕食者は必要以上
に相手を狩り尽くす事をしない。彼らは取り尽せば餌がなくなってしまう事、食物連鎖の
バランスが崩れる事を本能で知ってるんだ」
「細菌類は岩石生命の表面で活動熱を供給し、岩石生命は細菌類に生命の場と有機物など
の養分を提供し、互いに共生状態に入る者も、いておかしくないわね」
ライサ博士の推論が早かったのは、彼女も少なからずその事を考えていた証拠になる。
カトウ教授が、カップを口から離して、
「低温に適応するのみならず、少しでも自ら熱を作り出し、環境を適応できる状況に作り
変える。理屈上不可能ではない、あり得る!
生命にも、多種多様な物がある。そのそれぞれの組み合わせの種類を見ていけば、その
共生形態は、実に多岐に渡る筈じゃ……。
生命とは本当に可能性に富んだ物じゃのう」
「理屈上、ではないのかも知れませんよ」
ロバートは漸く手渡された紅茶のカップをリンダの香気薫る手からありがたそうに押し
頂いてから、
「我々は、そんなサンプルを一つ知っている筈です。余りにも巨大過ぎて、余りに身近過
ぎて、気付かなかっただけなのでしょうが」
第一発見者はアウストラロピテクスと言う事になるんでしょうかね。
我々はまさに、その巨大な岩石生命の上で生を受け、進化を続けてきたのだと、言える。
「まさか、それって……」
ライサがカップを落としかける程の驚きは、そうそう見られる物ではない。
「我々のガイア(地球)も生きていないと、言い切れますか」
事ここに至っては、その可能性まで視野に入れる必要があるんじゃないですか。
ロバートは、紅茶の薫りを楽しみながら、
「カトウ教授はこう言いましたね」
『……これらの岩はどんどん大きくなる事が繁殖であり、分裂するより合体してでも大き
くなる事を望むのではなかろうか』
固体数を増やす事だけが繁殖ではない。合体は共食いとは異なる。片方が死ぬ訳でなく、
より大きな全体の一部になる訳で、保温効果も抜群に違う。
「大きい方がより熱量を大きく保存できる」
「単細胞生命の集合体という生存形態は地球にも例があります。岩石生命だけを生命と認
めて、その集合体である地球を、惑星を生命と認めないのは理屈に合いません」
紅茶を前にしたからではないだろうが、ロバートの推論は驚くほど鋭かった。
「太陽に近い地球はその光熱を多く受ける事ができるし、惑星の大きさになれば火山活動
で熱が生じるので表面に生きる生命の活動熱は不可欠ではなくなります。
重力に捕われた気体は大気を形作り、熱は水や大気と共に循環しながら、岩石表面の生
命たちの成長と進化を促す……」
地球は今のところ熱は有り余っているから、ある日突然人が地球に呑み込まれるって言
う事は、当分なさそうだ。
「それは分る。それは考えられる。しかし」
しかしそれを認めるのなら、地球が生きている、山も海も砂漠も火山も大地も、みんな
生きているという事になってしまう。
「生物学と物理学の壁がなくなってしまう」
いや、そんな物は人間が人為的に作り出した壁に過ぎぬのだったな。
カトウ教授はカップを置いて、
「自然の摂理は、生き物とそうでない物を、
それ程区別して作ってはないのかも知れぬ」
双方は厳密に壁によって仕切られる物ではなく、世の中には我々が思っていたより中間
的な段階の物が、数多くあるのかも知れない。
そうね、ライサは珍しくカトウ教授の言葉に全面的に頷いて、
「私達の体の細胞は、一つ一つでは生命とは呼べないわ。でも、必要な養分を与えれば、
少しは活動できる、培養もできる。
もしかしたら、岩石生命も本当は前生命段階か、凍結した受精卵の様な物かも知れない」
意識を持たない細胞の集合体である私達が意識を持つ様に、岩石生命の集合体の惑星が
意識を持つかも知れないわね。
「意識……。思考力を、心を、持つと?」
リンダは、自分の紅茶を注ぎ終って、手に持ったままそう訊ねた。
「バクテリアに、我々が意識を持って生きている事が分からなかった様に、我々もずっと
今迄ガイアにも心がある事を知らなかった」
どう。まだ仮説だけど、美しいと思わない? うんうん頷くリンダにライサは、
「私達がバクテリアと異なるのは、分かろうとする事ができるという事よ。努力のしがい
がある、どこまでも可能性がある。私達人間の思考こそ、生物学最高の神秘かも知れぬ」
「うん、さすがにセイロンの香りは最高だ」
ようやく紅茶にありつけたロバートの、何も考えていない、本当に幸せそうな猫の瞳を
横目に見ながら、カトウ教授は、
「海も生きている、山も生きている、大地も生きている。この分では太陽も生きていると、
云えるかも知れぬのう」
「火山の噴火はガイアのくしゃみ、噴き出す溶岩はガイアの血液、大地を揺らす地震はガ
イアの身震い。
黒点はアポロンのあざ、太陽風はアポロンの呼びかけ。
星だけじゃない、宇宙全体が生きている」
銀河も、クエーサーも、ブラックホールも、宇宙全体がみんな命を持って、意識を持っ
て生きているのだとしたら。
宇宙の全てが心を持っていて、我々はそれを知らないだけで、それぞれに好みや知性や
愛情や、様々な心を持っているのだとしたら。
「死の世界と言われた宇宙が、実は命に満ちあふれていた。それも地球では想像もできな
かった程多様で豊かな、力強くもはかない生命圏(バイオスフィア)を形作って」
「ああ、偉大なのね、生命って」
リンダは思わず、その壮大さに心奪われてその視線が宙をさ迷う。
複雑で精緻で、単純で頑丈で。
「素晴らしいわ。本当に素晴らしいわ!」
「それを分かる事のできる我々も、素晴らしいんだよ」
いつの間にかマジメな顔をしたロバートが、スッとリンダの肩を抱き寄せた。
「ロバート……」
自分の体を、暖かく抱き締める男の顔をリンダはうっとりと見上げながら、
「私、生物学の研究を選んで良かったと思う。
とってもね」
多くの意味を込めた言葉だと彼には分かる。
そしてその最も大きな部分を自分が占めていると分かっているロバートは、リンダの頬
に軽くキスをする。
「まだまだ。もっと好きになるよ、絶対ね」
そこで終わればカッコ良かったのだろうが、ムードに浸り過ぎて彼、熱い紅茶を自分の
膝の上にこぼしてしまって、大事な所で悲鳴を上げる。
「ひいええ、熱い! 爆発するう」
思いっきり飛び上がってムードをぶち壊すロバートにリンダは大声で、
「あんた一体いつから岩石生命になったの」
ほんとうにこういう時に頼りにならないんだから! バカバカバカバカ。
彼女が憤慨する声もまた可愛い。微笑むと、バカにされたと思うリンダが更に怒り出す
のが分かっているロバートは、ひとまず中身の少し残っているティーカップ片手に逃げ出
す事にした。
「ああん、こんな時まで紅茶を持って逃げるんだからぁ!」
リンダが後ろから抗議の声を浴びせかけるのにロバートは、走り出してこぼれかかる紅
茶を巧く操りながら一言、
「最高級のセイロン紅茶の扱いは難しいや」
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