「あれ……?」
高林教授の呟きから、話は始まった。二階の廊下から中庭を見下ろして、何も語らず。
なん、だ?不思議そうな呟き。
今彼がいるのは、確か大学の構内のはずだ。いると言えば可愛げもないガキ共か、事務
のオジサン、オバサン。そして相も変わらぬ退屈な同僚の面々……の筈だが、
偶然一人で中庭に面した廊下を通りかかったら、見えた。見えた?何が。
緑の雑草生い茂り、手入れもされぬ中庭に、いるんだよ、ほら。ところどころに咲いて
る白い花に紛れる様に。見えないかなあ。
教授は目を丸くして、ガラスに張り付いた。ほとんど雲一つない青空に、昼過ぎの太陽
がさんさんと輝いてまぶしい。
女の子だ……。
中学生くらいの小さな女の子が一人、中庭を虫捕り網をもって駆け回っている。なんで、
こんな所に?チョウチョウも少ないしバッタだっていない。第一都会のど真ん中。大海原
の小島の様に残ってる、外とは隔てられた中庭に、子供がどうして入って来れる?
さっきから中庭の草の中を、飛んだり跳ねたり忙しいが、何を追いかけてるのやら一向
に見当がつかない。果して、見えているのだろうか?
廊下の人通りがひどくまばらな事もあって、彼は窓ガラスに張り付いたまま、その子の
動きを見つめてる。女の子はとても元気よく跳ね回っていて、ゴムまりの様。実に生き生
きしていて、全く疲れる様子がない。
飽きもせずに十分位見ていたろうか。女の子は彼の視線に気づいたのか、唐突に振り向
いた。柔らかい風に女の子の黒髪が踊る。二階の彼を見あげて、何かしゃべった様だった。
何と言ったのか分からなかったが、来てほしいと言った様に思えた。違っていれば聞き
直そう。その位の気持ちで、彼はのそのそ降りてくる。
中庭への出入り口はシャッターで二か所とも閉じられていて、どうやって彼女が入れた
のかは不思議と言う他はない。が、鈍重な彼は考えもせずにシャッターを開ける。
さっそうと飛び降りた積もりが、運動神経の欠如で尻餅をつく。いててっ……。女の子
が走り寄って来た。黒と白との対比がとても深く感じられる服、それに黒いロングスカー
ト。漆黒の髪の毛も、深淵の瞳も、肌の白さとあいまって可愛い。
美しい、と言うには早すぎるだろう。かと言って幼い、と言うにも彼は躊躇する。可愛
らしい、と言う一種あいまいな表現が、一番ぴったり来る様な気がする。
女の子はあいさつ代りにか、首をちょっと傾げて、天使の微笑みをする。何と暖かい笑
みだろう!明るい陽光の元で、これ以上ないくらい心が躍るのが、わかる。
初々しい、瑞々しい、春の野原を思わせる、穏やかな微笑みは、一体誰に為しうるだろ
う。彼はしばらく恍惚として、何もできない。女の子の声が彼を正気に戻すまで。
ねぇ、女の子の声は思ったより現実的だった。現実的、と言うのは彼が勝手にこの子を
天使か妖精にでもしてしまって、声までもがそれに相応しくなくてはいけない、と思い込
んでいた為だろうか。それは、平凡な女の子の声、物を尋ねる声だった。
ねぇ、女の子は彼の目を見つめて言う。背の丈は百五十センチ位、頭ひとつ違う。
手伝ってよ、彼の白衣の袖を掴んで、女の子は言う。彼は虫とり網を見つめて、
「何を、捕まえるんだい?」と問う。
風を。答えは簡潔だった。ごく普通の、当り前の様な言い方に彼はちょっと戸惑う。
「風?風、風ったって、君……」
彼は何かを言う暇もなく、袖を引っ張られてヨタヨタと駆け出す。
「早く早く」
女の子は自分の答に全く疑いを持ってない。
風なんか、捕まる訳がないだろう。しかし、それを言えたのは息ゼエゼエが治まってか
ら。
『風ってのは、大気の温度差や圧力の変化、地球の自転なんかから生まれる空気の流れの
事……だからあ』
そんな物、捕まえられるのかい?が、そんな事向こうは全く聞いてない。
はい。虫とり網を手渡して女の子は微笑む。後は全ておまかせと言った感じだ。
「これだけ、捕まえたんだけれど……」
女の子はどこからか取り出したのか、ゴミ袋程の大きさの茶色い布袋を見せる。
「小さいのばかりで、なかなか大きいのは捕まんないの。ほら、これ……」
なるほど。確かに布袋の中に何匹か何羽か知らないが、幾つかごそごそ動いている様だ。
「へぇ、風って捕まえられる物だったのか」
彼の方が感心して袋を受け取る。
『どんな形をしているんだろう?』
バカだった……。人間って奴は馬鹿だったと、この時程痛感した事はない。
ブウワッ!袋は叫び出した。
風に形などあるものか。形もない、色もない、そして彼は情けない。全く、分かりきっ
た真理だろうに……。
のけぞる彼にそれらは、嘲る様にぶつかり、吹きつけ、飛び去っていく……。後に残っ
たのは女の子の、
「あ〜あ、み〜んな逃げちゃった」
という呟きの声。よっこらしょ、彼が起き上がって尻をパンパンと払って、
「任せときなって、すぐに大きいのを捕まえてあげるから、うん」
しかし高林教授、あなた、風の捕まえ方なんて、わかってらっしゃるので?心中の疑問
と女の子の疑わしげな目に、
「ようしっ!始めるかっ」
と大きく胸を叩いてせき込んでから、
「ところで、どうやるの?」
あのね……。
「こうやって網を持って……」
女の子はその風捕り網を横に構えて、実演して見せる。草や木がなびくのを見て風の進
路に立ち、サッと網をふるう。それだけ。蝶を捕まえるより簡単かも知れなかった。
網の中に空気のふくらみがある間に、それを袋の中に放り込む。半信半疑でやってみる
と、これが捕れちゃうんですね。全く、あっけない程簡単に。ほら、かぼちゃくらいの。
ところが、捕れるのはいいけどどれも小物ばかり。大きいのが捕まらない。師匠が悪い
のか弟子が悪いのか道具のせいか。それともはたまた、この辺に大物がいないのか。
「なかなか、捕まんないのねぇ」
やや落胆した声に彼は奮起して飛び回るが、結局むだ骨に終わってへたり込む。普段の
運動不足が祟って、足もとふらふらダウン寸前。
『立てぇ、ジョー、立つんだア』
「ハア、ヒイ……もう、だめ……」
彼は壁にもたれ掛かる。女の子はどこへ消えたかと思うと、手に何かを持って走って来
た。小さな白い花。いつも無視して歩いてた、名前も知らぬ雑草の花だったが、良く見て
みると可憐で可愛い。
はい。お礼の積もりか?いつの間にか子供に振り回される自分に気づきつつ、受け取る。
「小さな風じゃあ、ダメなのかな?」
彼はひと息ついて漸くそれだけ絞り出す。女の子はこっくりと頷いて両手を広げ、
「大きい大きい、こ〜んな大っきいのが、いるの。私たち」
うわああ……。彼はひっくり返る。だって、今まで捕まえた中で一番大っきいので、バ
ケツ位。女の子の言う大きさとは桁が違うのだ。
「どうして、そんなに大きな風が?」
青い空、白い雲。その元で彼は問う。
「だって私たち、風を持ってないんだもの」
ヒュウウ……、小さな風が二人の間を駆け抜ける。女の子は一瞬だが、初めて寂しそう
な表情を見せた。そして、
「一番大きい風って、何?」
ウウ〜ン、彼は考え込む。
「台風、かな。地球上では」
でも、水爆何千個だかに匹敵するエネルギーとも言う台風は、この虫捕り……いや風捕
り網では、ちょっと無理がある。
先にそれを言うべきだったかも知れない。
南のほうにある、と言う前に。
突風が体を叩きつける。うわっ!からだが、持ち上がる……飛ばされる?
「わわわっ!」
絶叫、そして暗黒……。
そこは密林。熱帯の森だろうか。足下が踝まで水につかる。
女の子は多くの枝葉の間からもれる輝きを見上げ、隣の少年は立っている。背中に矢筒
を持ってはいるが、弓はない。ボロボロになったTシャツと青い半ズボンをはいた、健康
そうな茶色の髪の少年。瞳の碧さが印象に残る、俊敏そうな十一、二歳の少年だ。
女の子は少年のほうを振り向かずに、
「ここは、南の国ですね」
「そうかも知れない」
少年は日本語を話すようだ。
「台風がどこにいるか、知っていますか?」
タイフウ?少年は聞き返した。
ええ、女の子は頷いて、目を向けて、
「大きな風です。大きな雲が、渦を巻いて動くのだそうです。とっても、とっても大きい
風だと聞いたんですが……」
あの土色の袋は持ってない。またどこからか取り出すのだろうか。
「風を、捜しているんです」
「僕は、水を」
少年は答えた。まさか、その矢で水を射止めるなんて言うんじゃないだろうな!
「その通りです、高……何とか教授」
少年は明るい瞳を前方の樹上に向けた。地上数十センチの所で背中が枝に引っかかって、
降りようにも降りられないのだ。
「ここにいたんですか、良かった」
女の子は黒い瞳をにっこり笑わせる。
何も良くないっ!一体どうなっているんだ。
「どうなったのかは知らないが、とにかく早く降ろしてくれえ」
間もなく、その願いはかなえられた。
ふう、助かった。彼はぼやく。
何で、こんな所に……?聞いても無駄な内容と感じつつ、彼は尋ねる。
「わかんないわ……」
女の子は首を傾げる。
いいんじゃないの、少年は大らかに言って、
「どうしてこうなったかなんて説明できる物は、この世に一つもないんだから……」
……まあね。彼も頷く。
三人は密林の中で一息ついた。考えてみれば、奇妙な組み合わせだ。どこの誰かも分か
らない女の子とたった今会ったばかりの少年。静かな、時々どこかで鳥の鳴き声のする、
森。
一応、彼は名前を聞いてみた。彼ら二人には奇妙な神性があって、黙っていると向こう
の必要がない限り話しかけてこないのだ。それでいて存在感があると言うのも不思議だが。
芳しい答が得られたのかは聞くまでもない。
「さて、行こうか……」
少年は立ち上がる。
どこへ?女の子は少年に問う。
捜しにさ。当然のように、少年は答えた。
「捜すって、水なら足下に幾らでもあるじゃないか……ほら」
彼は足下の水をピチャピチャ蹴って見せる。
少年はかぶりを振って、
「ダメですよ……これじゃあ、足りない。
もっともっと、ずうっと大きくないと…」
「大きな“水”ねえ……フウン」
彼は腕を組む。その袖をひっぱって、
「あの……お」
女の子は話しかける。その無邪気な顔が見上げる様はとても可愛い。
「あの、台風って、ここにないんですか?」
南ですが……。女の子は不思議そうだ。
「ああ、確かに南だけどもね……台風ってのは、確か熱帯の海上−海の上の事だよ−に出
来るからね、ウン」
「ウミ、ですか?」
海と言う物自体を知らない様な女の子の答。
少年は理解できないのか首を振る。
「まあ、とにかくここを出てしまおうよ。
何となく、足下が濡れてると、ね」
あ、ちょっと待って!さっきの突風はなしね。彼は間髪をおかずにくっつけた。
ダメ、ですか?女の子の問い。
ダメって、君がやった訳じゃあ、ないだろ。
「ええ、そうだけど……。何となく、今風が来そうな気がしたので……」
「じゃ……」「ちょっと待った!」
彼は少年が口を開くのも止めて言った。
「鉄砲水で吹っ飛ばすってのもナシね」
良く分かりますね、少年は感じ入る。
なに、大抵分かるよ。彼はそう言ってから、
「君が水を動かす訳でもないんだろ?」
「まあ、そうですが……ただ、何となく足下から水が吹き出しそうな気がしたんだけど」
ああ、ここはどうなってんだ、彼はぼやく。
「二人まとめて問うけど、二人とも自分がどこに運ばれるのかは、分からないんだろ」
「ええ」「そうです」平然とした答。
「ただ、私たちの行くべき所に、順番通りに運んでくれると思いましたが」
「運ばれた時に感じるんです。僕はここに来たかった、そう思っていたんだって」
そこで二人はやや異なっていた。本当かどうかも疑問だったが、そんな事を今更言い出
す程彼も馬鹿ではない。彼が今ここにいる事自体が不思議そのものなのだ。
ここは一つ大人の意地って奴を見せなきゃ。彼は先頭にたって威勢よく、
「歩くのだけは、人間の得意技さっ」
しかしい、残念な事に彼にとって初めての密林は不慣れな所。その上前述のとおりの運
動不足。彼は間もなく最後尾に着いてしまう。
……無念。
全く損な役回りだ、彼はぼやく。猿らしい動物の影が樹上にいて、手を振って見送って
くれた。はあふう言いながら彼はついていく。
しばらく行くと、不意に前を進む少年のあゆみが止まる。何だ?
なあに?彼の前にいる女の子の問い。
セミ。少年の答は簡潔だった。
せみ?女の子のオウム返しの声。
どれどれ、彼も上から覗き込む。大木の根本に一匹の蝉が横たわっている。死んでるの
だろうか?身動きせずにいるのみだ。鳴きもしない。
女の子は蝉をその手のひらに載せて、
「かわいそうに……」
女の子は何とも言い難い、優しいとも悲しいともつかぬ潤んだ瞳で蝉を見つめ、少年は
手の届かない生と死の領域に何かをこらえる様に見守っている。そして彼は、なぜかこの
一匹の蝉にどこかで見覚えがあって……。
もう、駄目だよ。彼が静かに言ったその時。
「……」「?」『せ、蝉が動いた……』
女の子の視線に気づいてか起き上ったその蝉は、三人を見上げている(彼に言わせれば
ただ見上げた方向に彼らが居ただけに過ぎないのだが)。その蝉に迫る死の影はもはや、
ぬぐい去る事はできなかった。
何か、言い残したい事は?少年の問いに、
「蝉はしゃべれないだろう、君……」
と言いかけた時、
「に……人間になりたい……」
蝉がしゃべった?耳の錯覚か、いや違う。
蝉は彼らを見上げて、すがる様に言う。
「どうして、人間に?」少年は尋ねた。
「だって人間には、素晴らしい物がいっぱいあるって……。トモダチとか、シンライとか、
アイとか言う物があるって、あるって聞いたから。……人間になりたい、人間になりたい、
人間、人間……」
震える声で、蝉はそう語ったらしい。らしい、だって?そう、彼にも自信の程はない。
だって、蝉だもの。
せみの声はか細くなり、来るべき時は迫る。
しばらくの沈黙が時を包み込み、そして、
「きっと、なれるよ」
少年は明快に語った。女の子も祈る様に、
「だって、それだけ強く願っているんだもの。それだけ熱く待ち焦がれているんだもの。
叶えられない筈ないわ。……必ず、なれる…」
私からも、お願いしてあげるから、ね。
蝉はミーンと一声鳴いて、動かなくなった。女の子は蝉を元の所に戻して、別れを告げ
る。
再び少年が先頭にたって、三人は歩む。
しばらく歩くと、
「出た……」
密林は、唐突に終わってしまい、青々とした草の生い茂る草地に出た。女の子も少年も
一向に疲れた様子も見せなければ、湿気に濡れた様子もない。もう敢えて、問う気にもな
れなかったので、靴下を絞って後を追う。
草原はひざ下くらい迄の草や、稀に白い花も咲く、見渡す限りの緑の大地だった。密林
に別れを告げて、青いお空へごあいさつ。
女の子は喜びの余り、風捕り網も放り出して跳ね回り、少年は駆け回って宙返り。彼は
と言えば、女の子の風捕り網を拾って、くたくたになりつつ追っかける。少年の背中の矢
は一本も落ちなかったが……もう言うまい。
二人とも草原に夢中で彼はついて行けない。寝っ転がって、白い雲を見つめる。
『ああ、ちょっと眠いな……』
うとうとしかけた彼を呼び戻したのは、少年の一声だった。しばらく経っていたろうか。
「あれ?何か、あるっ!」
彼は目をぱちくりと開けた。
なあに?女の子の声と同時に彼は起き上がって、タッタッタッタッ、彼も走っていく。
百メートル余りも走っただろうか。
「これ、なあに?」
少年は目の前にある踏切を指して尋ねる。遠目には良く見えなかったが、線路が一本、
ローカル線の様に走っていて、小さな踏切が目の前にある。全くおもちゃの様な、子供サ
イズの遮断機もある。ほう……。
「これは、踏切ね」「フミキリ?」
女の子は少年に頷いて、
「渡ろうとすると、この棒(遮断機)が落ちて、列車がつっ走って行くのよ」
違うよ、君い……。彼はいらない時に大人ぶって前に出て、二人に向かって、
「踏切って言うのはね……」
足を踏み出して、
「よ〜く左右を確認して、何も来ない、と分かったら安心してエ……」
足をレールにのせる瞬間、正にすさまじい速さでディーゼル車が突っ込んできたのだ。
後一瞬引っ込むのが遅ければ、彼は跳ねられていたかも知れない。ここ、怖い。
はじき飛ばされて尻餅をつく彼に女の子が駆け寄ってきて、
「大丈夫?」と優しく尋ねてくれた。
ここはいつもと違うんだっけ……。残念無念、気を取り直して彼は立ち上がる。もうさ
っきの列車は影もなく、のどかな限りだ。
何だあ、こりゃあ。ワナじゃないかっ!
全くどこのJRだっ、文句つけてやるっ。
「へえ、そうなんだあ」
知らなかった。少年は感心して踏切を見る。
どうしよう、女の子は呟いた。
「風の子がいるのに、行けないわ……」
風の子?風の小さい奴かな、彼は勝手にそう解釈して踏切の向こうを覗き込む。ふうん。
風だ、ほんの微風しかなかった草原で、ここだけは顔に向かって風が吹きつけてくる。
潮の匂いだ……、彼は感じた。
海だな、彼は呟く。草原がどこまでも続くかの様に見えていたが、ちょっと行けば海岸
なんだ。南の海だから、ひょっとすると台風が見つかるかも知んない。もっともこの右手
に持つ風捕り網で台風を捕まえられるとは、彼も思ってなかったが。
「海が近い……この向こうに海がある」
彼は初めて断言した。何となく、言ってもいい様な気がしたのも初めてだった。
「行こう、この向こうに海はある」
誰も反対はしなかった。風になびく青草が、彼らに別れを告げている。蝶々が一羽、目
の前を飛んでごあいさつ。
「ひとつ、聞いてもいい」
少年の声に彼はドンと胸を叩いて見せた。今度はせき込まない。何か調子がいい、何で
も言い切ってしまっていい様な気がする。
「ウミって、何ですか?」
「海ってのはねえ、大きな大きな水が……」
あっ、れれのれっ?彼は目を丸くした。
『おい、答は目の前にあるんじゃないのか。
しっかりしろよ高柳、じゃない高畠、じゃない……。いいっ、もういいっ!名前なんか
分かったって、何になるんだ。
彼は少年の方に向き直ってしゃがみこんで、
「君、水なら何でもいいのかね?……だからその、量さえあれば、少々塩辛くってもいい
のかね、君い」
突然の勢いにやや戸惑いつつ少年は、
「え、ええ……。一応、量さえあれば。見渡す限りの、こんな野原の様な水、ですよ」
いいともいいとも、任せときなって。彼は胸を叩いてせき込んだ。女の子にも、
「君にもどうやら、大きな風がプレゼントできそうだ。期待していいよ」
良かった良かった、彼は一人で大喜び。
台風は海の上で生れる。海は水だし、台風だって雨をいっぱい降らせてくれる事だろう。
この二人がそれを捕まえられるかどうかは別として、これにて問題は一挙解決。
南の海の台風で、全ては解決なのだ。
「ラッタッタアのピイヒャララア」
彼は遂には一人で踊り出す始末。しかし今の彼は冴えていた。ここをどうやって渡るか
だって、考えてない訳じゃあない。
「いいかい、これから石を投げるよ」
あいつは石でも走ってくるだろうか。来たら、一瞬通り過ぎるのを待って、飛び込む。
渡ってしまえば後の祭りだ、さあ行くぞっ!彼は石を構える。手のひらに乗るくらいの石。
「そおれっ!」ひょろっ、と石を投げる。
ゴオッ、一陣の突風。石が地に落ちる前に、列車はそれを持ち去っていってしまう。そ
れにしても速い。左に去る電車を見ずに、
「それっ!」三人は飛び込む。その時!
左側から、もう一台の機関車が突っ込んでくる。まさか!線路は一本なのに、理不尽
だ! でっかな蒸気機関車が……危ない!
黒い機関車がスローで目の前に広がっていき、そして……。
「わわわっ!」暗黒。
そこは、南国の砂浜。
椰子の木が少し遠くに生い茂り、空はどこまでも青く、砂が白く果てしなく続く入り江
の浜。海の水は澄み渡り、空気は清浄で、少し岡に行くと密林や緑の野原が生い茂る。
そこには、風があるだろう。そこには、水があるだろう。そして多分、そこで彼らが捜
していた物は見つかるだろう。
珊瑚礁がある。その向こうにイルカが泳いでいるのが、見えた。ああ、青い海、白い雲。
彼は浜に寝転んだ。太陽がまぶしいので、目を閉じる。カモメだろうか、水鳥の鳴き声。
ああ、のどかだ。彼は呟く。
何だろう、この気持ち。縁側に寝そべる猫の気持ちだ。このまま動かず、寝ていたい…。
「やっと見つけたぞ……」
彼はそう呟いた。が、いったい何を?
波の音が体にしみる。穏やかな風が通りすぎる。彼は再び目を閉じた。
ミーン、ミーン、鳴いてみる。まるで蝉。
良かったな……人間になれて。彼は呟いた。