鮭 の 子


海の声 (重々しい声が、天とも地とも判別できないあらゆる方角から、降り注ぐ様に)
    「鮭の子よ、おまえはどうして海に行く。
     そんなに小さい、弱い魚が、大きな、広い海に飛び出してったところで、満足
    に泳ぎ回る事もできないまま、餌を得られずに死ぬか、大魚に食われるか、大波
    に飲み込まれるか。
     とても辛く、厳しいのに鮭の子よ、どうしておまえは、海に行く?」

鮭の子 (ピチャッと小さな水音。淡い月光のみが照らす暗い水面に、小さな魚の頭が一
    つ現れて)
    「おいら、海に出て、大きくなるんだ。
     大きくて、強い、立派な鮭になるんだ!」

海の声 「鮭の子よ、大きくなるなら川でも育つ、池でも十分育つではないか。
     池や川で育って、終生海に出る事もなく生きる鮭もいる事を、おまえは知って
    いよう。
     大体、何百何千、何万もの鮭が、毎年毎年馬鹿みたいに数多く、嬉々として大
    海にこぎ出して行くが、生きて帰ってくるのは、一体何匹いる?
     育とうと思うなら、川でも育てる。沼でも育てる。何を求めて死の危険ととも
    に大海を、あの大海原を、泳ぎたいと思うのだ?」

鮭の子 (ただ一匹川面から首を出して、闇空の虚空に向かって)
    「だめなんだ、海でなきゃ! 川では、何かが足りないんだよ。
     川は確かに、大魚も少ないし、波も小さい。
     流れだって海に比べればずっと緩やかだし、安心できる場所さ。
     でも、鮭は、海に出なければ、本当の鮭にはなれないんだ。このまま、ここに
    いたままでは、おいらは、本当の鮭にはなれないんだ。
     今はまだはっきりとは分らないんだけれど、心の奥から、聞こえてくる声が言
    うんだよ。
    『ここは、おまえのいる場所じゃない。おまえの本心は、こんな小さな所で一生
    を終える事を、決して納得してはいないんだ。
     おまえは、飛び出したがってる。自分の力いっぱい泳ぎ回れる海を、自分の力
    いっぱい泳いでも、泳ぎきれない程広い海を、お前は捜している。決しておまえ
    は、ここに安住する事に満足していない』
     このまま川にいても、先が見えちゃうんだ。
     それじゃおもしろくないよ!
     ただ惰性のままに生きて、何の苦労もせずに大きくなって、何も残す事なく川
    の藻くずとなっていくだなんて、そんなのごめんだよ、お断りだ!
     生きた証も残さないまま、生きた満足感も残さないまま、何一つ精一杯に取り
    組む事もなく時間を過ごし、老いを待つだなんて、そんな寂しい人生なんて、嫌
    いだよ。おいらは、生かされたいんじゃない。生きたいんだ!」

かえる (岸の木の葉の上から口を挟んで)
    「いいんじゃないの、ケロケロ。
     危険な海に出ていくだなんて、ケロケロ。
     全くもったいないよ、ケロケロ。
     今のままでもいいんじゃないの、ケロロ」

鮭の子 (かえるの方を向き直って)
    「そうかも知れない。それが、賢いのかも知れない。もしかしたら、正しいのか
    も。
     天下泰平、安全第一、何も不満の持ちようのない川の中で、黙って生き永らえ
    る。何かに進むのではなくて、死を先伸ばしにする…。
     それでも、良いのかも知れない。
     そうした方が良いのかも。
     でもおいら、今はそうは思えないんだ。今のおいらには、そうは感じられない
    んだ。
     もっともっと広い世界が、開けているのが、見えるんだ。まだ見た事のない世
    界、見る迄は推し量る事もできない、広くて大きな世界。
     厳しい波や、大魚に追われて逃げ回るのが精一杯かも知れない。苦しいかも知
    れないし、辛いかも知れない。逃げ出してしまう事だってあるかも知れない。で
    も、でもね。
     行かなきゃあ、いつまでたってもおいらは、大海原に、いつまでたっても、挑
    戦する事さえ、できゃしないんだ。
     君はあの大海に、身を任せてみたいとは、思わないか?
     君はあの中を力一杯泳ぎ、命の限り進んでみたいとは、思わないか?
     君は自分のひれや浮き袋の力の限り、挑戦してみたいとは、思わないか?」

かえる 「思わないね、ケロケロ。
     俺さまにはヒレはないね、ケロケロ。
     浮き袋もないね、ケロケロ。
     俺さまはかえる、海に出たいなんて思わないね、ケロケロ。
     それでもやる気になればやれるだろうが、一番大事な事には、やる気がないね
    ケロケロ」

海の声 「波は、叩き付け魚肉が砕け散る様に強いぞ。
     飢えは、ウロコが乾き上がる程に辛いぞ。
     大魚は、えらが縮みあがる程に恐ろしいぞ。
     それでも、行くのか」

(鮭の子は、返事の代わりに元気よく空中に飛び上がって見せる。漆黒の中では水滴も輝
かず、ピチャッと水音だけが小さく響く)

海の声 (相変わらず感情のこもらぬ重々しい声で)
    「生きるのに必死で、何の為に海に出たのかを忘れ去る事もあるだろう。海に出
    た事自体を後悔する事になるかも知れぬ。海に出ようとしたかつての自分を、あ
    ざ笑う事になるかも知れぬ。逃げ帰れば臆病者とも言われよう。
     何よりそれが正しい道だという確証もない。
     失敗しても誰の助けも期待できない。成功しても尚、認めてくれる者がいるの
    かどうか。
     その成功が、お前を満足させるのかさえ、誰にも保証ができぬのだ。生きて帰
    っても尚、後悔する決断なのかも知れぬのだ。それでも。
     それでも行くというのなら、誰にも留める事はできないだろう……行くが良 
    い」

かえる (全く他人事と言った感じで)
    「行けよ、ケロケロ。
     行っても行かなくても同じだし、ケロケロ。
     最後にゃ水の泡さ、ケロケロ。
     それで心に悔いが残らないなら、ケロケロ。
     良いんじゃないの、ケロケロ。
     もう悩んでいないのなら、自分を信じて決めた事なら、良いんじゃないの、ケ
    ロケロ。
     おんなじ人生、自分に悔いなく使い切るのこそが本当に利口ってものさ、ケロ
    ケロ」

海の声 「いったん決意した以上、それは必ず貫き通せ。と言うより、貫き通すしか他に
    術がないのだぞ、鮭の子よ。
     中途半端な気持ちで海に出る事は即、死を意味するのだ。
     大波に体を砕かれたからと言って、川に引き返す訳には行かないのだぞ。ウロ
    コが干上がる程腹が減ったとしても、餌は遥か外洋の彼方を泳いでて、追いかけ
    て行かねば決して捕まらぬ。才能と努力のみが生き残る力だ。
     一生懸命生きている事に違いはない。しかしそれは生きのびて初めて言える事
    であって、死んでしまえばおまえの命など、何の価値もないのだ。最初からなか
    った事と同じになる。
     ただの犬死にになるかも知れぬ。それでも行くのだな?」

鮭の子 「命の値打ちは、他人が決めるものじゃないよ。おいらの命を、おいらが満足行
    く様に使いこなせた事で、おいらが満足すれば、例え回りで小魚が何をどう云っ
    たって構うもんか。
     そういうのを、かえるの頭に小便って言うんだよ!」

かえる 「あの生暖かい水は嫌いだ、ケロケロ」

かえる (そこでかえるも、天を見つめて)
    「どうせ行くんなら、ケロケロ。
     七つの海一番の最高の鮭になれ、ケロケロ。
     どんな大きな生き物よりも大きな七つの海を征服して、ケロケロ。
     鮭の王になれ、ケロケロ。
     どんな鮭にもひけを取らない、絶対立派な鮭になれ、ケロケロ」

鮭の子 (鮭の子は首を天空の闇夜にむけて)
    「おいら、必ず立派な鮭になって見せるよっ。
     これこそ本当の鮭、これこそが大海原を、七つの海を力一杯泳ぎ切った本物の
    鮭なのかって、誰もが誰も、認められないではいられない様な、そんな、そんな
    鮭になって見せるよっ!」


 その夜、一匹の鮭の子が、河口から海に向かって泳ぎ出した事を知る人は、いないでし
ょう。
 鮭の放流シーズンの過ぎた後で、わざわざ群れを追いかけて、大きなハンディキャップ
を背負いつつ、果てしない海へ泳ぎ出して行った鮭が一体、どこでどうなったものか、知
っている人は、いませんでしょうか。
 もしいた様でしたら、川と海の合流点の川岸に座って、今日も鮭の子、じゃない鮭の王
の帰還を待っている、年老いたかえるに教えてあげて下さい。
 かえるも喜ぶと思います。

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