人々の、気に留められぬ小さな村で、人々の、気に留められぬその時に……。
私がなぜ、その村に立ち寄る気になったのかは振り返ってみてもはっきりしない。特段
の目的はなく、何かの必要に迫られていたと云う自覚もなかった。時間は、余る程あった。
少なくともこの村を訪れた時の私には、余りすぎていて苦痛な程に。
何かをしようと思えば、足りなさばかりを意識する時間だが、何もしたくない時の時間
とは苦痛な程に過剰な物だ。私は何かアクションを起して状況を、雰囲気を変えたかった
のかも知れぬ。それも、出来るだけ人気のない所、知己の目の届かぬ落ち着いた所を好み。
成り行きに流されるままに行き着いたのがその村だったのは、果して偶然なのか必然な
のか、それとも何者かの作為だったのか。
雪のふたを被せられて、街ごと全てが眠りについた様に静寂なその村に。辺り一面を白
に包まれて、建物迄が姿を隠すその村に。
乗る者に、いつ廃止されるかも分らないと云う印象を与える典型的な赤字ローカル線の
鈍行列車が駅に着く。半ば通過駅の様な木造の粗末な駅のホームで、定年間近なのは間違
いない、年老いた温厚そうな駅長が、一人雪の降り行く中に佇んでいて、駅に降り立った
ばかりの私を出迎えてくれた。
「あのう……」
さて、どうしよう。何と言っても初めて降り立つこの土地だろうし、知り合いもいない。
宿にしたって有名な観光地ならばホテル位は空きもあるだろうが、こんな田舎の村の冬で
は、民宿の一軒もあるかどうかが怪しい物だ。
「珍しいですね、時たま来る帰省者や富山の薬売りさんの他には、滅多に立ち寄る者もい
ないこの駅に」
年老いた駅長が、人なつっこそうに声をかけてくれたので、私はほっと白い息を吐き出
した。私が周囲をうろうろ見回す様を、唯一人の客であるが故に目に留まったらしい。
「寒いでしょう、待合室に入りなされ」
小柄だけどまだ健康そうな年長者に導かれて私は、小さなホームを歩いて行く。
後ろを振り替えれば、たった今まで乗っていた一両編成の錆ついた鈍行列車は、視界の
中を次第に小さくなっていく。たった今まで、身体の一部の様に一緒に動き進んできた列
車が自分を離れて遠く去って行く。僅かな寂しさを感じつつ私は駅舎に向かって歩み出し
た。
歩み出した私の額に、何かひやっと触れる物がある。上から落ちてきた様なので考える
より早く上を眺めると、
「雪……」
薄く曇った空から、落ちてくるのではなく踊りながら舞い降りる柔らかい雪。この辺り
は海からの風も吹き込まないし、雪は上から真っ直ぐに降ってくる物らしい。
「良い雪の天気ですな」
少々寒いのは、年にこたえますがね。
駅長はそう言って、お茶を勧めてくれた。
「良い雪の天気……?」
私は訊きかえした。
「雪が、良い天気なのですか」
ええ、老駅長は頷いて、
「雪の降る曇の日は、余り冷え込みは厳しくないんです。おてんとさんが照ってないのに、
却って暖かいくらいです。
雪の少ない年に限って、冷え込みは厳しく、生活は苦しい。昔からそうです。
雪は冬の間、私達を冬の寒さから、守ってくれているんですよ。暖かい春の来る迄ね」
「実際、雪の降らない年の大地は芯から冷え込んでしまい、春になっても中々生き返らず、
みんな苦労した物です。
雪の包んでくれた大地のほうが作物を育み、土を養うのには良いらしいのです。科学的
な話は、良く分りませんがね」
昔、この村の農家の三男坊だったと云う駅長さんは、意外な話を聞かせてくれた。雪と
は冬の代名詞で、雪国の人にとって天敵だと思っていた私の驚きは、小さくなかった。
「まったく知りませんでした」
私が素直に驚きを語ると、駅長は顔をほころばせて、
「他の里の事は分りませんが、少なくともこの村では雪は喜ばれています。
良く言うではありませんか」
犬は喜びにわ駆け回り
猫はこたつで丸くなる
「庭を駆け回りたい方ですよ、この村はね」
仕事場とだんらんの場とをごっちゃにした様な、いかにも田舎らしい良い雰囲気の中で、
これ又年長の駅長夫人がお茶を煎れてくれる。
「いやあ、すみません」
何十年前に建ったのか分らない位古そうな木造の駅舎には、他に誰も来る者もなく三人
の独占するが侭に任せている。今日の発着はこれで終りなので、もう誰も来る者もいない
と駅長夫人は云っていた。
ズズ、ズ……。
熱いお茶を口にすると、一息一息が生きているという実感がある。眼鏡が曇るのも半ば
楽しみつつ私は、熱いジャパニーズ・ティーを胃袋に流し込む。胃袋が突然の熱い液体に
びっくりして飛び上がるが、すぐにそれは体の芯から温まる湯たんぽになる。
ぷは〜……。
胃袋の底から暖まった息を吐き出して私は、かじかんだ手で茶わんを置き、その手をス
トーブに火あぶりに処す。古い石炭ストーブはガンガン燃える炎が見えてとても頼もしそ
うだが実は、すぐ近くしか暖まらない。
室内全部を暖めるには到底足りぬだろうが、週に一人誰かが降りれば多い方だというこ
の小さな駅で、待合室全てを暖める必要は絶えて久しいのではあるまいか。
外はと眺め見ると、しんしんと降り積もる雪の群れは、舞い降りると形容するしかない。
微風に踊り、回り、流れ、それぞれの動きを見せながら地上に降り積もる、その無限の繰
り返しを、ついぞ関心を持った事もないのに、私は魅せられて見つめていた。
「吹雪いては、来ないんですか」
「雪は毎日の様に降りますが、滅多に吹雪はしませんよ……。時々は来ますがね」
静かな村でしょう。
奥さんの言葉に思わず私は頷いた。
「こういう所では、駅前通りが商店の揃う町中ではないのですか」
「ええ、そうですよ。人通りは少ないですが、こう見えても村で一番の繁華街です。
時々来る人は、この村は冬になると死んでしまうって言います」
そう見えるんですね、冬を迎えた村を見ると。駅長はお茶をすすり込んで、一息ついて、
「この様な日に、良く出るんですよ……」
「良く、でる……?」
その話を聞いたのはこの時が初めてだった。
ゆきこ……。
何か柔らかそうな響きの名前だ。
『そして、由紀子……』
その響きは、鈍らせた筈の感受性に鈍痛となって突き刺さる。過去を、振り返りたくな
い過去を引き寄せてしまう響き。見たくないと思いつつ見ずにいられない、怖いと分って
いるのに引き寄せられる、そんな感触に心が引きずり回されている。
私は思い出したくないにも関わらず、その名前を何度か口ずさんでいた。もしかしたら、
私は本当は過去と訣別したがっていないのか。過去から逃れる為に、過去へ向きがちな己
の心を紛らわせる為に、わざわざ見た事も聞いた事もない、初めての場所を探り当てなが
ら、ここ迄逃れ来たというのに。
物思いに耽る事が、過去に心をいざなう罠だと、そこで気付かされた私は、慌てて首を
振って思索の縁から抜け出した。
ここ迄来て、ここ迄遠ざかって尚、私は私から、私自身の後悔から逃れられない。それ
は私が私であり、今後も私で居続けようとする限り、無理な話なのかも知れなかった。
「面白そうな話ですね」
余り意味もなくここに立ち寄った私としては、持て余した暇を潰す何かを、捜していた。
最初の印象に複雑な物を感じはしたが、それはむしろ私の抱えた事情による。この話に首
を突っ込んでいっても、恐らくそれ以上私の過去に繋がる話にはなって来るまい。
どうせ表向きの理由でも年中暇を持て余す三流作家の、取材旅行も兼ねた鈍行の旅路だ。
真相を云えば、目的もなく、急ぐ当てもない。滞在する間に何か面白い発見でもあれば良
い。
私は理性でそう判断を下し、好奇心を優先させる事にした。しかしその理性さえ、既に
この白い薄暮に呑み込まれ、大きな何者かの掌の上で操られた上で、そう判断させられた
だけだったのかも知れない。
怪奇スポットを探検したがる者が、己の好奇心で行っている積りで実は、向う側の招き
に操られている事に気付かぬ様に。なぜそんな無謀をそんな場で、というよりは、既にそ
の時点で相手の術中に嵌っていたのだと。
「それって雪女か何かみたいな物ですか?」
ふ〜ん、年長者は腕を組んで考え込んで、
「似ていると言えば似ている様であり、似てないといえば似てない様でもあり……。儂は
見た事がないので、よう分らんのじゃがな」
駅長さんは余り怖くなさそな答え方をした。
「駐在さんが、見た者の話をしておったわ」
「駐在さん?」
「そこの警察署の、おまわりさんだよ。
わしもこの村の出身じゃが、駐在の太郎の方がわしより古い話はよう知っとる筈じゃ」
そうそう、今夜はどうするのかね。
ありがたい筈のその一言が、耳に入るよりも早く、私は外に駆け出していた。
外に出ると、上から降ってくる雪は本当に舞うが如き軽さでゆっくりと降ってくる。
肌に突き刺さる針の様な寒さや、体中に叩き付ける大理石の破片の様な吹雪の寒さとは
一味違った、それ程厳しくない寒さ。
はあ、と吐く息が白く広がっていく。
駅前通りは十件程の店屋が並ぶ小さな商店街だったが、その多くは古い為に華麗な装飾
や人目を引く看板もなく、現代人の感覚の洗礼を受けた私には多少寂しく、多少変った想
像力をかきたてられる町並みだった。
道の説明を受ける間もなく飛び出してしまったせっかちな私だったが、その様な小さな
村においては案内など必要ない。誰の目にも交番は、一目で分るのだ。
積り始めた新雪を踏み踏み進むのも楽しい。踊り回る雪の粒たちに目を向けて、一人目
を回すのも気が和む。静かな方が、この村には似合っているのかも知れない。
そう思いつつ私は木造の交番に入っていく。街の警察署は何となく入りにくいが、こう
いう所なら入り易く感じるのは私だけだろうか。
「はい……?」
出てきたのは私の想像(と期待)に反して、まったくの新米の若い巡査だった。二十歳
前とも見える、背の高いひょろっとした若者が、右腕に黄色地に黒字の『交通安全』の腕
章のついた巡査の制服姿で、私の顔を見つめる。
私がこの村の人でないので少し珍しそうな顔をしているが、愛想の良さそうな兄さんだ。
『三十年前から居るだってぇ』
あの駅長、かなり齢とってるから、もしかしたら……。も・う・ろ・く?
期待の枠外の人物に逢ってしまって、何と言って良いのか分らずにもじもじしていると、
「おい、どうしたぁ」
と後ろのほうから声がする。
駅長は健康でした。心の中で一瞬だけ疑ってしまった自分を叱りつけて謝って。
よっこらせっと。
年老いた、これこそ私の期待通りの老警官。
巡査らしき制服を着て、もうかなりの歳ではないかと思うのだが、動きは意外と素早く、
奥の畳部屋から立ち上がって、こっちに来る。
「啓二、お客さんだべ。茶ぁ飲ませてやれ」
「はいはい」
どうぞ中に入って下さい。啓二と呼ばれた若い巡査は、彼を中に招き入れて椅子に座ら
せると、部屋の真ん中にある石油ストーブの上に上がっている大きな鉄ヤカンから、きゅ
うすにお湯を注いでお茶を煎れる。
「珍しいですなあ」
この時期に村を訪れなさるなんて。
ちょっと訛りのかかったその言葉は、人を安心させる魔力を持っている物か。部屋の中
にいても尚、お茶を飲んだ私は白い湯気を吐き出した。ゴジラの様だ。
「確かに、あんまり多くないみたいですね」
駅にの待合室にゴミが全くなかった事を述べて、人の往来が少ない事を感じ取れたと私
が合いずちを打つと、老いたおまわりさんはうんうんうんうん頷いて、
「多くないってよりも、いねえですよ。
犯罪もない、産業もない、人も少ない……。
でも、こんな平和で静かな村なんて、もう日本のどこにもないんじゃないですかね。
本当静かな村ですよ。ここ十年犯罪もない、死亡事故もない。何か起れば村の者は総出
で駆けつけます。大体この村に、警察なんて物は要らんのじゃないかと私は思いますが
ね」
この村の平和を自負する老警官の言い方に、嫌な感じは受けなかった。警察が商売繁盛
な状況とは、治安の悪化なのだ。であれば、警察の暇とは天下泰平、極上の極みといえよ
う。
話がひと息ついた所で、私はおもむろに、
「駅長のおじさんから伺った話なんですが」
と言って、雪子の話を持ち出した。
「ほう、サブちゃんがそんな事を云うとりましたか……」
あの駅長とこの老警官とは幼なじみなのか。
あの駅長は、そんな事は匂わせもしなかったが、小さな村なら、敢えてそう言わずとも、
皆顔見知りで知己なのだと考えるべきなのか。
「お雪とか、雪ちゃんとか言った者もありましたなあ……」
「あ、その話し初めて聞く」
若い啓二も興味ありそうに横から割り込んできた。巡査の服を着ていながら、ちっとも
警官らしくない。どっちかと言うとコンビニエンスストアの兄ちゃんと言った感じだ。
「こういう、雪の日に良く現れると聞いたのですが……」
外を見あげると、空は雪を降らせるねずみ色の綿飴の雲が一面に広がっていて、向うの
山の裾が見えない程だ。雲は空に天井の様に一面に広がって、天を覆い隠している。
降り続ける雪は一向に止む事もなく、また強くなる事もなくしんしんと降り続け、村は
全て眠ってしまったかの如く誰も出歩かない。
「雪のカーテンだ……」
私は思わず呟いていた。
雪が舞い踊りながらゆっくりと降る、その雪で通りの向うの雑貨屋が見えなくなってい
く。それはまるで、雪模様のカーテンが私の目から全てを覆い隠していく様で、幻想的で。
「このカーテンを巡らしているのが、さっきの雪ちゃんと云う訳ですか」
啓二は余り詩的な表現ができないながらも、要領が良い。お茶の茶わんを持ったまま窓
枠に立って、私は外を眺める。
「またですよ、向こうも見えなくなる様な雪。
冬には霧はないと思ったらこれですからね。
こうなったらもう、誰も出歩きませんよ。隣の家でも、無事に行きつけるかどうか分ら
んのです。みんな、寒さは厳しくないので家に籠って昔はままごと、今はファミコンをや
って、時間を潰します」
「お雪が着替えをしておるんじゃ。だから覗きに行ったりしてはいかん。
昔からの言い伝えではそうなっておる」
老警官はそう言ってから、
「こういう雪の日に出歩いてはいかんという、戒めも含まさっておるのじゃろろうがね」
なかなか巧い事を言う。昔の人の言い回しに、私は心惹かれる物を感じた。
「まったく降り止む様子もないですね」
いつも、どのくらい降り続けるのですか?
冷めかかったお茶を一気に飲みほして私が尋ねると若い巡査は、近くの棚の上でお茶の
葉を入れ替えながら、
「いつまでも。
一日、二日、三日……、一週間でも二週間でも、降るときは降り続けます」
最近はそれ程ひどくもない様ですが、この前も六日程降り続けて参りました。その間は
私どももずっとここに詰めていましたよ。
「下手に帰ろうとして道に迷って、警官が遭難でもしては、目も当てられませんからね」
若い巡査はそう言って笑うのだが、真実の所、こう言う時に良く起きる遭難事件に備え
て何日でもこの派出所に詰めて、待機しているのだろう。それこそご苦労様だ。
「余り寒くはないから、凍死する人は少ないでしょう」
「まあ、そうですね。いねぇですわ。
他の地方の雪女の伝説では、人を凍死させるのが雪女の商売の様ですが、ここのは少し
違うらしいですわい」
「そう言う話を、赴任してから未だ一度も聞いた事がないんですよ」
啓二はだからこそ、今の『雪子』の話が初耳だと驚いているらしい。
水の減ったヤカンに水を入れる為に、啓二は大きな鉄ヤカンを持って部屋を出る。
闇に隠れて生きる
俺たちゃ妖怪人間なのさ
啓二の歌声がここまで聞えてくる。
「雪子って、妖怪とか、幽霊とか言う連中の仲間ですか?」
私の問いに老警察官は、
「そったらおっかねえ物じゃ、ねえってば」
と首を横に振る。
「ただ会ってよ、会ったら会ったで挨拶して、それだけよ。何でもねえ、ちょっと変わっ
た森のざしきぼっこみたいな物だべさ」
「はあ……」
分った様な分らない様な、曖昧な返事で取り敢えず私は答えておいて、
「こんな日に、ですか……」
「村外れの森とか、山向うの小学校分校に連なる山道とか、南にある鏡池とか、そう……
西の峠道でも見られた事があるそうじゃが」
「ほうほう」
石油ストーブの赤々した炎に眠気を誘われながらも、彼は静かに頷いた。
「その人は、本当に見たんですか?」
「それは本人に聞かなけりゃ分らんじゃろ」
啓二がヤカンを重そうに抱えて戻ってきた。
「見た人は今でも生きているんですか?」
「雪女とは違うと言うたじゃろう。実在する。
山向うの分校の校長も、その一人だった筈じゃ……。もう、かなりの歳だがの」
「自分の事を差し置いて、人を老人扱いしては怒られますよ」
よっこらせっと、重いヤカンを持ち上げて、ストーブの上にドシンと置いて、啓二が冷
やかし半分にそう言うと、
「わしは駅長のサブちゃんや分校(校長の)文太よりも、二か月以上も若いのじゃ……。
昔は、年長だと言って苛められたがの」
ちなみにこの老警察官の名前は太郎さん。
五十年以上昔の事を根にもつなんて、ちょっと陰険ですよ。啓二は笑いかけるが、その
実ちっとも陰険に感じられない。
何て元気なのだろう、この村の老人達は。
粛々と老いている。老いて尚命を愉しんでいる。捨て鉢になっている訳ではない。勿論
萎縮してもいない。命の終焉を、不自由になりつつある体を心を、彼らはそのまま受け入
れて、最後迄味わい尽そうと云う様に。
達観というのだろうか。影がない。否、影はあるのだが、老いは確かに感じるのだが、
眠りにつくに近い感覚で。怖れや嫌悪の思いが希薄だ。眠そうな感じはあるが、もう少し
起きていられる。起きていられる間は愉しもう、起きるのが辛くなったら眠ってしまおう。
眠るだけ眠ったら、又起きられる様な錯覚。そんな不思議な確信でもない限り、説明の
付かない、そんな柔らかな印象が心に刻まれて。
一見死んだ様にも見えるがこの村は、冬の衣を被って居るだけで、実は夏に劣らず生き
生きしているのではあるまいか。
雪子か……。
「会ってみたいなあ……」
僕が行っても、会ってくれるでしょうかね。
俗人の、部外者の、初訪問者には、恐らくは無理だろうという返答を予想していた私は、
意外な答えにちょっと驚かされた。
「会えるんじゃないかね」
ちょっと無責任っぽいが、その語調は結構楽天的だった。
「歩き回っていれば、そのうち会えると思うがね。ま、相手は人間様じゃないから、向う
の事情はよう分らんがね……」
村の者でもいつ逢えるか、逢えるのか逢えないのかも、分った物ではない。村の事情に、
人の事情に左右される存在ではないのだから、私が逢えるか逢えないのかも、二分の一だ
と。
何とも豪快な結論だが、この答が真実に一番近いのか。真実とは、究極の所人の所作や
思惟を越えた所にあるのだろう。明快な答とは嘘に限りなく近く、本当の正答とは、答に
なってない様な物を差すのかも知れない。
まさかりでネギを叩き切る様な結論だが、私は余り大きくない希望を感じ取れた。
「雪が少し降り止みそうになったら、その辺を散歩してみると良い」
老いた巡査は、私ににそう言って、
「この雪が降り止んでしまったら、何の変哲もないただの村だべし、雪子は天気の良い日
の昼間なんかに、現れてくれはせん。
ずうっとこのまま降るって訳ではなしに、時々一休みした様に、ちょっと降りが弱まる
時もあるから、そう言う時に出て見るのも良いってもんだべや」
この老警察官は、遭難という言葉を辞書の中から抜き去っているらしい。啓二が慌てて
何かを言って止めようとするが、全く意にも介さないで、
「ぐるぐる回っていると良い、その内どこかに辿り着けっから。迷っても気にしないで、
のんきに歩いてなされ。
こんな村に立ち止まる様だから、あんたも相当のんき者だろうし、次に止まる列車は明
日の朝だ。道路もあってない様な物だし、退屈する様だったら出歩いて、雪子を捜して見
るのもええかも知れんわ」
「また、何かあったら村長のばあ様に怒られますよ」
啓二は心配そうだったが、
「なんに、凍死するような寒さでねえってば。
大体この村で凍死した人間なんて、今の今迄一人も聞いた事がねえ。眠りさえしなけれ
ば、全然安全なものですわ」
「多く見られる所というとどの辺ですか?」
結構な距離を歩かなければだめでしょうね。
こういった田舎道は、その多くが古い山道で多数の人が歩く事がない。冬の間は恐らく、
あってなきが如き道を元気に歩いて(車は埋まるので却って困る。)、かなりの距離を歩
かされるのが田舎道の常だから。
別にそれが嫌いだと言う訳ではないのだが、冬の寒い時だから、できるなら道に迷わず
に早く『そこ』に辿り着きたいのは人情だろう。
「最近見られたところと言うと、どのへんになりますか?」
「さあなあ」
そこからは話が曖昧になってくるのは仕方ない事だろう。現代までこの様な伝説が残っ
てこれた事自体が十分珍しいのだ。
「さあ、山向うの分校の若い先生が、見たと言う話を聞いたのだがのう……。あれは、一
体いつの事じゃったろうか」
山向うの……。結構歩きそうだ。
「分校へ行く途中だから、村外れの森を通りながら行く事になるが、ええじゃろう。
あすこも、結構現れる事があると聞いた」
「はあ……」
「それ程雪は積もりはしないから、歩きにくいと言う事もない筈じゃ」
会えますかね、信じてないのにのに期待を膨らませる自分に気づきつつ私はそう言った。
「まぁ運次第、じゃろうよ」
「日頃の行いとかは、関係ないんですか?」
啓二が横から口を出す。
「さあなあ、子供に説教する時にはそう言ったかも知れんが、それとこれとは別だとわし
は思っとるよ」
しかし、雪子に会う為には、やはりそれなりに、心の準備と言う物が必要だと、わしは
思っとるんじゃが。
「心の準備?」
啓二がおうむ返しに聞くよりも早く、
「つまり、こういう事ですか。
受験やら仕事やらで心が一杯になっていて、他の者を顧みるゆとりがなくなると、自分
の目の前に何にも、見えなくなってくる……。
空に七色の、綺麗な虹の橋が架かっても下をむいて歩き続ける暗い心では、見える物も
見えはしないし、現れた物を見る事もできはしない。見ようという気にもならないのかも、
知れませんね」
「そうそう、出て来てくれるかどうかはあちらさんの都合次第じゃが、こっちの方であち
らさんを見つけ出せるかどうかという心配もあるしな」
ま、精々努力して見た方が良い。
「行ってみて会えない様だったら仕方ないが、部屋の中でストーブに当たりながら話を聞
いてるだけでは、いつまで経っても真偽のほどは分りはせんよ」
そのとおり。面白そうな話を聞かせてくれた二人のおまわりさんにお礼を言って、私は
交番を後にする。
「もし会えたらどうしましょう?」
インタビューするという訳にも行かないでしょうし。合言葉とか、心構えとか何か要ら
ないんですか? 私のその問いに、
「そういうのは実際会った事のある者に聞いた方がええ。これから行きなさるその道は、
山ひとつ越えれば分校に続く道じゃ。校長の分太は昔みた事があると言うとったわ」
聞いてみるとええ。大体雪子に会いたいと言うたのはあんたじゃろうて。
「どうせ言い伝えですよ。万が一いたとしても、会えるかどうかは、相手次第なんです」
啓二は気軽にそういった。いや、その方が正しいのだろう。
私は二杯目のお茶を喉に流し込んで、私は窓の外を眺め見る。舞い踊る雪の粒たちの、
その密度がほんの少し薄くなったと思った時、私は立ち上がった。
雪降りしきる森の中、雪舞い散り、雪踊り。
雲は空から日を隠し去り、天は乳白色の霧に包まれた如く眠りに入り、雪は地から土を
覆い、命ある者はみな雪に包まれて、いつ果てるとも知れぬ眠りに入る。
その中で、その眠りの支配する時間の中で、雪子は踊り、唄い、駆け回る。果たしてそ
れは何者か。見た人だけの幻か、見る人にだけそれは見えるのか。
見ようと思えば誰にでも見れると、村の古老は言っていた。老警官は、そう話していた。
しかし本当に、誰にでも見る事ができるのか。
私は村外れの道を進む。両サイドに杉の木が連なって立ってるので並木道と変わらない。
樹齢百年は越えるだろう、背の高い杉の木の枝が見下ろす中を私はてくてく歩いていく。
多分舗装されてなかろうこの道を、多分車が通る事も稀であろうこの道を、間違えようも
なく私の歩みは進んでいく。
駅前の小さな商店街を通り抜けると、私の目の前に広がったのは、辺り一面に広がる雪
原と、その少し向うにぼんやりと、淡く見える林や森の影だ。村を囲む形であるという山
々もこの天気では、おぼろげな姿さえ視認できず、雲は一体どの位低く迄垂れ下がって来
ているものか見当もつかない。
道を進むと人家はなく、数十歩も歩かないうちに駅前の小さな人間の営みも視界から消
え去って、それがあった事さえも分からない。
人間の営みなんて、小さな物だ。私は思う。
人間の支配したと思っている時間なんて、短い物だ。そうも思う。
都会にいれば人間の作り出した環境ばかりしか見えない物だから、この世には人間しか
いなく、人間とその作り出した物だけが世界だと思い込みがちだが、実際はそうではない。
それは人の認識能力の低さがもたらす錯覚だ。
後ろを振り返れば既に、私と駅長やおまわりさんたちとの時間は遠く戻らず、人間には
戻る道はないというが如く、全ては遥かな霞に消え去って。私は一人道を進む。
『人知では計り知れない所に、真実真理が眠っている。それは何だといわれれば、疑おう
とする心がまず先に立つのは仕方のない事だ。
それは幾らでも疑えるがしかし、信じる事ができるなら、それ程素晴らしい事はない』
誰の足跡もなく、車のわだちも一つもない、そんな道を私は先に進む。
先は見えない。先は見えないがしかし、見えないからと言って佇んでいるだけでは、い
つ迄経っても何も進展はないのだから。
私が一歩踏み出す度に、道を覆う雪の衣は私の靴跡を記し、その度に雪の衣は少し汚れ
てしまう。真冬の事なので靴跡と言っても泥の形がつく訳ではなく、靴の形に雪がへっこ
むだけなのだが、こう迄人跡未踏の雰囲気があると、それだけでも純白の大地を汚す悪い
事の様な気がしてたまらない。
磨き立てのガラスに指紋を押しつける様な物だろう。せっかく雪の衣で全てを包む雪子
にとっては、迷惑そのものでしかないのかな。
雪子に逢えたらまず、その事を謝るべきだろうか。そこ迄考えて、私は思わず笑みをこ
ぼした。雰囲気にだまされて、私までが伝説に引き込まれかかる。でも、そのくらい幻想
的な趣をこの村は、持っている。
「少し先まで、見通しがきく様になったとは思うけど……」
相変わらず一面に広がる雪原、空には一面ねずみ色の雪雲、そして目の前は雪の舞い踊
る中、数十メートル先さえおぼろげな夢か幻の世界が広がる。昔の人ならずとも、この地
の人ならずとも、この状況に来てみるならば、雪子の存在を信じる気持になるのではない
か。
杉の並木道は数百メートルだと聞かされていたが、ここの数百メートルと私達の数百メ
ートルとは尺度が違うのか、一万歩以上歩いてもなかなか山道にさしかかれない。
『峠は山道を上り始めるとすぐじゃあ、別れ道もないから迷う心配もねえ。杉並木の道を
通っていけばそのうち、村外れの森の脇を通りかかる事になるから、雪子を捜してみるも
ええし、分校へさっさと行って話を聞くもええし、好きになされや』
『この天気じゃあ、杉並木と森の区別もつきにくかろうが、森と言ってもど真ん中を通る
訳でもねえっし、二百メートル位森の外れをかする位だけだから、迷う事もねえ』
『道らしく開けた所を通っていけば、分校には着けるんですよ。学校児童のとおる道でも
ありますからね、一目で分かりますよ』
『村の大通りだから、何も心配する事はねえ。
夏には農協から作物を運び出すトラックも通れる道だ。斜面もなだらかで崖もねえし、
雪崩の季節でもないから、安全じゃ』
「私の一歩が冬道で三十センチとして、一万歩余り歩いたら……三キロ以上」
冗談じゃないっ!何でこんなにかかるんだ。
並木道を歩いて数百メートルで山道に出て、数百メートル上れば峠に出てそのすぐ近く
に分校があるだなんて……。え?
「まさか……」
道に迷ってぐるぐると堂々巡りしているのではないか? 私は、冷や汗が体中から吹き
出すのを実感した。
冬道で道に迷う事は危険なだけではなく死に直結する。山登りに関しては専門家でも何
でもない私でも、その位は知っている。
「冗談きついよ!」
絶対迷いようのない道だって、言ったじゃないの!
私はそう叫んだが、誰が聞いてくれよう物か。この山奥、この田舎道、この冬の雪の日
に、全く人気も何もないこの雪原にぽつんと立った私一人の叫びなど、誰に届こうものか。
届く筈もない。
右を見ても左を見ても、雪の粒の降り続ける姿の向こうには何も見えてはこない。視界
が極端に悪いのは今に始まった事ではないが、命取りだ。さあ進退きわまった、どうす
る?
私は慌てて、自分の通ってきた道を振り向いた。後ろとて視界不良な事に違いはないが、
靴の跡でも残っているならば、と思ったのだ。しかしそれは全く意味のない徒労に終る。
この雪の降り積る中で、その様な物が永遠に形を変えずに残っている等、雪子以上の妄想
だ。
どうやら私はこの雪原で『道に迷ってしまった』らしい。とんでもない事だ!
分校まで距離にして一キロ半、山道である事は彼がまだ上ぼり坂に当たってない事から
無視してよし、森か並木道のどこかを私は、さ迷っているのだが……。さて、私は一体ど
こをさ迷っているのでしょう?
「雪は止まない……」
私の都合に合わせてくれよう筈もなく、無情にも行きは彼の体を埋めんと降り注ぐ。
雪はとっても綺麗なのだが、雪はとっても華麗な舞を見せるのだが、雪はとっても心を
和ませて暖かいのだが、雪は雪だ。私の住む所は雪の中ではない。私の体は心と共にアス
ファルトの壁に閉じ込められていて、私の生活はコンクリートの城の中にあり、私の持つ
時間のそのほとんどは、人間的とは言いにくい壁に囲まれた空間の中に閉じこもっている。
「雪か……」
この村に来る迄私は、長い事雪という物を見てなかったのではなかったか。泥なら見た
事がある。大都市の、粉塵飛びかう埃に霞んだ中で、歩道に申し訳程度に顔を見せている、
今にも消え去りそうな黒い泥のついた、汗をかいた雪。最後に雪だるまを作ったのはいつ
の頃だろう。随分昔の事だった様な気がする。
私は空を見上げた。ねずみ色の雪雲から、そのどこかの一点から雪の粒が生じて、回り
ながら踊りながら降ってくる。
雪の日のせいか余り寒さは厳しくない。
晴れの日は放射冷却現象なる物で、却って冷え込む事があると、聞いた事がある。寒く
ないのでついつい眺めるのに夢中になる。
状況を忘れ、緊迫した心さえとろかされて私は雪の舞い散る様を眺め続けて、暫く経つ。
「……」
ん? なんだなんだ?
私は何かを聞いた気がして辺りを見回した。
誰もいない。当然の事だ。こんな雪原の中に誰かがいよう筈もないのだが。
「確かに何か聞いた気がしたんだけどな…」
いたとしても、この雪では分りもしない。手を伸ばせば届く位の距離までしか視界が効
かないのだ。心の中迄掃き清める様な白一色。
『ふふ、ふふふふ……』
何か笑い声の様な物が彼の耳に入ってくる。
誰かいるのだろうか? こんな所に。
まさか……。
女の子の笑い声の様にも聞えるが、耳に聞えたのかと言われると自信がない。私は、そ
んな所に女の子がいるだなんて不合理な事は、ありえないと知っていたから。
こんな冬の雪の日に、地元の人が出歩く訳がない。旅行客だって滅多にいないだろうし、
『雪のカーテン』の天気に於てである。例え安全だろうとも、女性は出歩きはしない。
しかし少女の笑い声のような物音は、全く物音ひとつしないこの雪原において、確かに
私の耳に入った筈だが。
『ふふ、ふふふふ……』
その声は、私は聞いたと思っている。だがしかし、私はそれを信じていない。
だってそんな所に、誰もいはしない事を、私が良く知っているのだから。
では、いったい誰がいたと言うのだろうか。
「それは雪子でしょう、きっとね」
「まさか」
私は人には余りその話を語らない様にしている。私の耳が悪いのだと言えばそれ迄だし、
私自身気のせいか、風か何かの音の聞き違いかも知れないと疑ってかかっている位なのだ。
誰もその声の実在を証明できる人もいないのであっては、幽霊騒動に等しいではないか。
そして私は、そう言う真偽を巡る人々の話の渦にその印象を感触を放り捨てるのも、気が
進まないのだ。何か、自分の大切な思い出を生贄にする様な感じがして。自分の事を分っ
てくれそうにない人物に、自分の大切な思い出話を話す事は出来ない。そんな感じに近い。
結局その二回余りしか声は聞えず、真偽の所在地番は不明なままに、私は雪原に取り残
される事となった。あれが私の頭の中にしか聞えなかった幻聴なのか、それとも真実だっ
たのかどうかは、今尚不明だ。
ほんの僅かに微風がかすめ、無風の中の微風に思わず顔を向けた私の前から少しの間、
『雪のカーテン』が取り払われて、少し向うの景色が見えてきた。
それは私が少しだけ期待した雪子の居所ではなく、当初目指していた、山向うの分校の
校舎だった。私はいつの間にか、山道を迂回するか乗り越えるかして、分校に辿り着いて
しまっていたらしい。
私は、分校の先生の誰かが飼っていると思われる犬のわんわん歓迎する中を、とぼとぼ
歩いて入って行った。
雪は相変わらず手を伸ばした向こうが見えないほど降り続いていた。
『風もない冬の曇りの日、見るだけで眠たくなる様な全くお日様の見えない空から、雪が
ゆっくりゆっくり降り注いで、降り注ぐ雪に遮られて、腕を伸ばした先まで見えなくなる
事があってな……。そういう日はな、出歩いちゃあ、いけねえ日なんだ』
『どうして?』
熊も蛇も狼達も、みんな眠りについてしまって、雪の衣の中でいびきをかいているんじ
ゃあないの?
『そうじゃよ』
幼い声に老いた声は合いの手を返す。
『そりゃあ、冬の間は他と違って多くのもの達が眠りにつく。だけどな、そう云う者達の
眠りを見守る者は、起きてなきゃあいけないだろう。文太が寝るより先にばあちゃんが寝
てしまったら、文太も困ってしまうじゃろ』
『うん、困る』
『だから冬の間、他の多くの生き物達の眠りを見守りながら、その眠りを邪魔しない様に
雪が降り積もって山の全てを包み込むのじゃよ。毛布の様に、布団の様に、丹前の様にな。
雪子が降らせる雪というのは、そう言う雪じゃ。全てを眠らせ、全てを留め全てを包む。
その雪が降る時に出歩くのは、寝つこうとした分太を起す様な物なのじゃ。
分太も眠い時に起されるのは嫌いじゃろ』
『うん、嫌いだ』
『それと同じ事じゃよ。森の生き物もみんなゆっくり眠りたいのじゃ。雪の衣に包まれる
と、その下は結構暖かいのだよ。かまくらの中は暖かかったじゃろう……。
その上、雪に目がくらむ様な日は、雪子が着替えをしておる日じゃからな、出歩いては
いかんのじゃ』
『雪子が、着替え?』
『そう。雪子はな、人に余り会おうとしないのじゃ。冬の間、山が凍えない様にと山に谷
に雪の衣をかけて回るのじゃが、人里には余り来ないのじゃ』
『どうして?』
『どうしてじゃろうのう……。
恥ずかしがり屋なのかのう……』
そこでばあ様は少し迷った様だった。
『いろりやストーブで、せっかくの雪の衣を溶かしてしまうので、嫌われているのかも知
れんのう』
そこからは、どうやらばあ様の推測であるらしく、確かな事は聞かされなかったと言う。
「ま、私が覚えておるのはその辺りまでですじゃがね、伝説は」
駐在さんに教えて貰った校長の分太さんは、こういう村にいるにしては異様な程に体格
が良く、ケンタッキーのおじさんにも似た白い髭をふさふささせた老人だった。
「問題は、そこからの話じゃろう」
私の体験談を聞きたいのですかな。六十歳まであと数歳と迫ったこの老人は、ロシア人
の様な見事な髭のもぞもぞする中から声を出してくるのだが、それが私には非常に面白く
珍しく、ついつい中を見つめてしまう。
「ええ、そうです」
私の正直な反応に期限を良くしたのか老人は、私にお茶を勧めて、
「その為にわざわざここまできたのだとしたら、あなたも相当な暇人ですな」
確かに、私は暇人ですけどね。
職員室と書かれたその一室にはテーブルが数個あるだけで、誰もいない。校舎内には生
徒の姿もない。冬の事とは云え、未だ夕暮れに間のある午後三時過ぎだ。静かに過ぎる教
室は、未だ薪ストーブの暖かさが残っている。
「あと四人ほど、先生達は居るんだがね。
学校が終った放課後だから。雪の日だから、集団下校だよ。私は年寄りだから、連絡要
員を兼ねた留守番でね」
この堂々たる体格で、年寄りだからとは言えないと私は思うのだけど。
「私も相当暇人でした。学生時代はサブちゃんや太郎と一緒に、沼やら森やら、いろいろ
行って探険した物です」
冬の村も良いが、夏の村も、春の村も、秋の村も良い物ですぞ。生き物が緑がすくすく
と生きて山の香りに包まれる季節は、若さを注ぎ込まれる気がします。秋にそれらの収穫
を取り込み、日の光をため込んで、冬はそれをじっくり使いつつ、人としての思索に耽る。
「今度、来なさると良い。歓迎しますよ」
青々とした木々の枝葉を貫く木漏れ日が滴に反射して輝く様が想像されてきて、何か清
々しい。それはそれで非常に気持ち良いのだが、その錯覚にイメージに暫く心を浸らせて
いたい程瑞々しい思いがするのだが、今回の話題は半年も先の夏の事ではない。
「雪子……に会ったという話を、駐在さんから聞いたのですが、本当ですか?」
「本当かどうかは、実は聞いた人が決める事なのですよ、暇人さん」
性急に話の真偽を確かめようとした私に校長先生は静かに、だがしっかりと釘を差した。
今迄に、この様な話を聞きつけた者もいたのだろう。その中には、私がこの村で逢えた
様な茫洋とした寛容な人々とは異なる人種も、相当数混じっていたのに相違ない。そう言
う話を興味本位に聞きつけてくる人々の多くが、自分のイメージを勝手に抱いてきて、そ
れに合うか否かで判断を下しがちな、せっかちで了見の狭い現代人だったのは想像に難く
ない。
私は偶然この村に来て、何の目論見もないに等しいから心が白紙だが、話の真偽を厳密
に確かめたがり、立証したがる種類の人は、こういう案件に触れるべきではないのだろう。
そしてなぜか、そう言う人間に限ってこういう話を聞きつけてはわざわざ出張ってきて、
己の正しさを立証するエサにしたがる物だ。
「私が真実を話そうと、嘘を話そうと、聞く人が真実だと信じるのなら、それは真実なの
です。その人にとって。
反対に私が、幾ら本当らしい嘘や嘘っぽい真実を話し触れ回ろうとも、聞く人が疑いの
眼(まなこ)を持って見るのであれば、その人にはそれは全く意味のない戯言です」
どんなに本物らしい証拠を突きつけられても、超能力を信じぬ人は嘘だと云いトリック
だと云うでしょう。信じない積りでいるなら、どれ程素晴らしい宝物が目の前にあろうと
も、腐れ行くばかりです。勿体ない話ですが。
反対に、本当の事ではないと万人が百も承知の事でも、人の口に上る度に人々に暖かい
ぬくもりを与える事もあります。毎年クリスマスの度に訪れるサンタクロース。誰も実在
を確かめた者はいませんがね。
あれはもう、嘘と言うよりは真実の一つと言っても良いでしょう。
「大切な事は、聞く人であるあなたがそれを信じるかどうかです。私は自分が体験したと
信じる事を話すのみです」
「……全く、そのとおりです」
私は頷かざるをえなかった。この老人の言う事には理が通っていたし、心のどこにも引
っかかる事なく飲み込めるのだ。
この先生、きっと生徒達からはお父さんの様に慕われて居るのに違いない。校長でも、
小さい学校では先生は全て生徒の共有財産だ。
羨ましくも微笑ましい。
先生が笑いながら生徒を抱きあげて、生徒は先生に駆け寄って、その岩の様な大きさに
安心する。そういう光景を私は、長い間見た事もなければ、頭の中に描いた事もなかった。
精神衛生上良くない所らしい、私の住家は。
私はあらためて彼に頼む事になる。
「では校長先生、あなたが体験したと言うその『真実』を、話して頂けますか?」
いいでしょう。ロシア人の髭が動いて重々しそうな口からそれは語られ始める。
それはちっとも不思議な物語ではなかった。すぐ隣でも起きそうな、身近な事がらで。
「あれは、もう三十年以上昔……」
「私がこの小中学校の先生として赴任したての頃だったと思います」
校長先生は、そう言って薪ストーブに薪をくべる。職員室の暖房は、いやこの小中学校
の暖房は、みんな薪ストーブらしい。
「私が駅前の商店街に買い物に行って、この校舎の裏の教員住宅に戻ろうとした時です」
何の気なしに歩いていたのですが、三十分以上歩いているのに峠に着けないので、おか
しいなあ、と思ったのです。私は長年愛用のこのアナログ腕時計をその頃もはめていまし
たが、どうやらその時は壊れてしまっていたものか、針は止まったままでした。
「私がいたのは、時の狭間だったのかも知れません。今でも、時々止まりますけれどね」
幾ら歩いても先が見えないこんな雪ですし、私は気が焦って早歩きになるのですが、ど
こまで歩いていっても、いっこうにどこにも辿り着けないのです。
周りはこの様に雪が降り注いで、まるで何も見えませんし、どうしたら良い物か、途方
に暮れてしまいました。
「小学生の頃から、村外れの森には結構出入りもしていましたし、森の外れをかすめる程
度の道だから、迷う筈もないのです。私は現にその道を通って、九年間も学校に通ってい
ましたからね。目をつぶってたって行き着く事はできるんです。それが、行き着けない」
おかしいなあと思いましたよ。
校長はヤカンからきゅうすにお湯を注いで、二杯目のお茶を入れにかかる。その湯気の
様を眺めていると、何かしら心にみずみずしさが戻ってくるような感じがして、気持ち良
い。
「実際、おかしかったんです。
どう見ても距離以上は歩いてますし、これは私が道から外れたのではないか、とも思い
ましたよ。万に一つもない事ですが、もしかしたらこの雪に騙されて、道を外れてしまっ
たのではないか、とね。そんな事は、百年に一度もある筈がないのですが」
道は間違っていなかったのです。
校長先生はいよいよ話し始めると言った感じで息を深く吸い込んで、
「しばらく動かない方が良かろうかと思った私は、雪原の中に立ちつくしました。その時
の雪は、凄かった……。
舞う様な感じの大きくふわふわした、こんな感じの粒なのですが、今よりももっと降り
方が多くて、もう少し粒が大きかった……」
綺麗だったなあ……。校長先生は遠くを見つめる様な潤んだ目をして、
「私は、中学を出て以来ずっとこの村に戻って来ていなかったんですよ。高校、大学、教
員として……十年くらい。正月も盆も戻らないで、勉強し続けました。
この片田舎の教育は、今の受験体制に向いていません。それはそれで個性的で良いのか
も知れませんが、私が教員になるためのハードルは、それ自体が高い以上に、私は地下室
から飛び上がらなければならなかった……」
死に物狂いでした。老校長は呟いた。
「先生に憧れていましたからね。ましてや親の仕送りを貰っています。豊かでもない親が
血のにじむ様な苦労をして作り出したその金を、無駄にしてはならないと……。
余裕も何もありませんでした。他人に追いつく為にはそれ迄の、学歴の溝を埋めなくて
はなりません。就職してしまえば何の役にも立たなかろう紙の上の知識の為に……」
何年かを、ギャンブルにつぎ込んだ気分でしたよ。そうして、教職員試験。
奇跡的と云って良いのでしょう。私は合格出来ました。全ての模試で、合格率は五割に
至るかどうかと云う所だったんですけれどね。事が上手に運ぶ時とは、そういう物なのか
も知れません。
「やっと村に帰って来れても、村の空気になじみにくかったんですよ。何かこう、空白が
あって、そこだけパズルがしっくり来ない」
考える早さが違う。考える時に考慮する素材が違う。考える前に感じる事が違う。何を
考えるのか、何の為に考えるのかが、ずれて。
何かおかしい。しかしどこが違うか分からない。そんな中でした、久しぶりの雪空です。
私はそう言った雪空を……空という物を眺める事が久しくなかった事に気がつきました。
「虹を見るゆとりさえなかったのです。教員になって、この村に戻って来てからも、どう
もそのサイクルになれてしまった為か、性格がせせこましくなったままでした。
そのうち治るだろう、どこかで治るだろうと思いつつ、放っておいた心の傷が、不意に
雪に埋められて、なくなってしまった様な気がして……。満たされた気持ちでした」
その紡ぎ出す一言一言に万感の思いを込めて、彼は在りし日の青年教師の心を語る。
「急いで帰る事なんて、ないと思いました。
そのままここに、ずっと立っていたいとも思いました。降り注ぐ雪に体を包まれ、この
まま雪の塔になっても良いとも、思いました。
今思うなら、その時に私は久しく心の物置にしまって、しまった事さえ忘れていた物を、
引っ張り出せたのですね。
その時です、声が聞こえたのです……」
「声が……?」
私はお茶をごくりと飲みこんで、前につんのめって校長先生の顔に接近する。
「笑い声でした」
「笑い声……?」
ええ、彼は私のおうむ返しな問いに頷いて、
「聞えたのは、女の人らしい笑い声でした…。
耳に聞えたのかどうかは、ちょっと自信がないのですが、確かに届いたのです」
ここにね。校長先生は、年甲斐もなくハートの部分を指さして見せて、
「私は確かに、心で感じたのです。すごっく近くに誰かが居る、と。目と鼻の先くらいに、
誰かの気配があるのです。
雪は止まないで私の回りを舞い続けますが、その雪がなかろうとあろうと、誰も居ない
事くらい分りきっている筈なのに、確かに誰かの気配は居るのです」
「……それが、雪子だと?」
「まだ終ってはいませんよ」
文章を商売道具にしている者にありがちな、先を読む癖を私は心の中で叱りつける。
「笑い声は、もう一度聞えました。
ただ、ふふふって、笑うのみです。とっても美しくて可愛らしい声だったのですが……。
何とも言い表し様がありませんな。その声を聞いた時、私は心が安らぐのを感じました。
不思議な程心が静まって、もろもろの焦りとか執着とか心の中で燃える炎が、綿に包ま
れて消え去ってしまうのですよ」
勿論それで、人間の持つ苦しみが全て解決されたと言う訳では、ありません。苦しみや
悩みを忘れられるのはその一瞬だけで、終ってしまえば私はただの人間です。
あの時だけは、悟りを開いた様な気分にいましたが、戻ってみれば錯覚でした。
「相変らず人間は、人間の業からは逃れられないです。小さな事に憤り、どうでも良い事
に不満を漏らし、得られない物を追い続ける。
それは変らない。がしかし、そのいっときの間に感じた安らぎを忘れなければ、その安
らいだ心を求めようとするならば、教科書のない勉強よりも、目指す物への道のりが遥か
にたやすい事でしょう」
校長先生はそう言いながら、私に四杯目のお茶を注ぐ。外を見れば、相変わらず手を伸
ばした先も見えない様な、雪、雪、雪。
「私はそこで、忘れ去っていた何かを取り戻した様な気がしました……」
あれは、夢だったのかも知れませんね。
そこで校長先生は目を閉じて空を見つめる。
「全く無風だった雪原にその時、僅かな微風が吹いて、私を淡い幻から解き放ちました」
全くさっきの私の体験と同じではないか!
私は冷や汗が出るのを禁じ得なかった。どうしてそこまで……。こんな偶然が、果たし
てあるのだろうか?
「そこで私の、現実か幻か分からない奇妙な体験は終り、夢の世界に入ったのです……」
「教えて下さい、その先を」
私は高ぶる心を抑え切れなくて、せき込んで迫った。私はそこから学校に、つまりただ
の現実に引き戻された。しかしあそこが現実と幻の分岐点だと言われても、私はちっとも
不思議には思わない。私はそこから現実を選び取ってしまったのだ。偶然に、無意識に。
しかしもし、そうでなかったならば……?
「僅かな風が、私の顔に吹きつけたのです」
校長先生の体験談は、私の経験を見ていたかの様に正確無比だった。
「私は、微風によって切り裂かれた雪のカーテンの向う側に、この学校の校舎を見ました。
私が、降りしきる雪の壁の中に浮び上がった木造の校舎に歩き出そうとした時です…」
でっかい鉄やかんがフーフー音を立てる。
窓の外は風も吹かず、物音も何もかも全て吸い込んでしまった沈黙の中を、ただひたす
らに雪は降り続け、十メートル程窓の外側にある白樺の木も隠れかかっている。
「私は、不意に後ろを振り返りました……」
「後ろを……?」
私は、ただおうむ返しに言うだけだ。
はい。校長先生はできるだけ詳しく想い出そうとしてか、眉を寄せて考え込んで、
「今考えてみれば、あの時どうして後ろを振り向いたのかも、分らんのです。別に、意味
のある行いでもなかった。そう思います……。
ただ、振り向いたのです……」
そう、貴男が唯、この街に降り立った様に。
私は身を乗り出して、話の核心に迫ろうとした。校長先生はケンタッキーのおじさんの
ひげを右手でしごいて、
「驚きました。微風が吹いて視界が効く様になったのは、目の前だけでなかったのです」
もう一方向、真後ろにもあったのですよ。
よく視点を変えて物事を見るとか、視野の広さが大切とか聞きますが、あの時は驚かさ
れました。連立方程式の解き方の、片方しか知らなかった様な気分に、させられましたよ。
「私は、夢を見ました……」
校長先生は遠くを見つめる目をした。
「実際、そうとしか説明できないでしょう。
私は、面倒な理屈や何かをこねくり回して理論づけようとは思わないです。そんな事を
して、一体何になるでしょう。それで果たして本当に真実に近付けるのでしょうか。あの
あやふやな事実を、嘘か本当かのどちらかに切り捨ててしまえるとは、思えない」
あれは夢だった。そう人には語っています。
「でも、あれは真実でした……」
冬の日暮れは早く、山に囲まれたこの分校では更に三十分くらい日の入りが早い。まだ
早い時間だというのに、周囲は真っ白な雪のカーテンの色が少しづつ暗みを増していって、
薄暮に至る。相変わらずの雪の壁が人間の目を眩ましているので、日が暮れたのか暮れて
ないのかは、私には正確には分からなかった。
「後ろを振り向いた、私の視界に入ったのは、雪のカーテンのほんの僅かな切れ目に見え
た、白い着物のすそでした。それこそ、錯覚だったのかも知れない。望んで見えた、幻覚
なのかも。でも、私は思わず一歩踏み出しました。分校の方にではなく、真後ろに見えた
森へ」
勿論、私だって雪子の話は聞いて知ってはいます。私が会えるとは思っていませんでし
たが、まだそういう物がいてもあっても不思議ではない時代でした。
「森の方向へ踏み出しても私の視界は尚狭く、ほんの僅かなカーテンの切れ目でしかあり
ません。いくら進んでも、他の方向には視界は開けてきませんでした。後ろを振り返った
りはしませんでしたが、おそらく後ろも同じ事だったろうと思います。
私は、雪子の誘いを受けてしまったのです。彼女の気が済むまで遊んであげなければ、
帰しては貰えないでしょう」
一晩とことん遊ぶしかない、そう思うと急に楽になれました。校長先生は、また右手で
見事な白髪ののひげをしごきながら、
「白い着物の裾は、私の狭い視界の隅の方に辛うじて見えるか見えないかで、私には彼女
の姿は見えないに等しかった。
しかし私には分りましたよ。彼女は私より一つか二つくらい年下の、真っ白な着物を着
た、綺麗な娘だってね」
雪子は見る者の、最も望む姿で現れると言います。恐らく、私のイメージした姿で現れ
てくれたのでしょう。私が最も望み、恋焦がれていたあの姿で。校長先生は立ち上がって、
少し離れた電気のスイッチを押した。室内が少し明るくなって、再び、
「雪子の姿はなかなか確認できませんでした。
私が追いつけなかったと、言ったら良いのでしょうか。耳をくすぐる軽やかな笑い声と、
雪のカーテンの切れ目に垣間みえる着物の裾。
それだけです」
追いかけっこを楽しんでたのかも知れない。
雪のずぶずぶ埋まる中です。長靴を履いているので、私の歩みはそうそう早くなれない
のですが、彼女は一向に気にするでもなく、私の視界から離れかかり、また少し近づき…。
「私が懸命に走り走りするのを楽しむ様に、彼女の気配は右に左に移り変ります。私は追
かけて行くので精一杯でした。若くてまだ体力には自信のあった私ですが、参りました」
考えてみれば相手は常の者じゃありません、常ではなく身が軽くて当然かも知れません
が。
「私も意地になりましてね、こうなったらどこまででも追いかけてやる、向うが飽きるま
で、追いまくってやろうと」
走って、走って、走りまくりました。一生分走り尽してやると思いましたよ。それでも、
それでも追いつけなくて。どんどん逃げるその僅かに後を、誘うが如き間近にあって逃れ
続けるその気配を、追いかけて、追いかけて。
「どのくらい追いかけて言ったのかは分かりません。私はもう体力の限界で、アヌラック
(アノラック)の表面にまで汗がにじんできた時点でダウンしてしまい、立ち止まってし
まいました。心臓の唸り声が指先迄感じ取れました。熱い息が足の裏からも噴き出ました。
『もう、一歩も歩けない……』
そう思った時、初めて言葉が聴えたのです。
『もう終り?』と……」
「それは……」
本当ですか、と言いかけて私はすんでの所でそれを飲み下し、代りに、
「それは確かに、校長先生の耳に聞えた言葉だったのですか?」
「それは不確かです」
聴こえたのは確かなんですが、どうも耳に聞える音ではなかった様な気が、するのです。
校長先生はそういって上のライトを見上げ、「多分、ここに聴こえたのでしょう」
校長先生は心臓の部分を指さして、
「友紀子の声に、そっくりでした……」
「友紀子……?」
「昔の恋人です。振られてしまいましたが」
愛してました。
校長先生の瞳が、帰らざる時間の向うを見つめて、少し潤んだ様に見えた時、私は問う
て良い物かどうか、躊躇した。話し出すのを待っている私に、彼は一度深呼吸をしてから、
「そっくりなのです、初めて会った頃の彼女に、その人格が。その笑顔が、その声音が。
人を弄ぶ様でいて優しくて、捕まえようとすれば逃げるけれど、手の届かない程遠く迄
は行かない。どこにいるのかも分らない彼女に向かって、私は降参を言いました」
幾ら追いかけて行っても、追いつけませんでした……。
「いつだって私が降参すれば、彼女は笑いながらも、私を受け入れてくれたのです」
しかしその時の友紀子は違いました。
「もう、三歩?」
「そう。もう、三歩です」
私の問いに彼は答えて、
「彼女は言うのです。
『もう、三歩だけ歩きなさいよ。もう、三歩だけ』
私はいつも、あと少しの所だったのです。
あと、三歩。あと、三歩。
あと、少し。あと、少し。
そして遂に彼女は私のもとを去って行って、戻って来なくなりました……。
私は両ひざをつきました、もう歩けないと。
『もう、三歩だけ』
彼女は更にそう言います。息が苦しくて目を開けていられなかったのですが、驚くほど
近くに彼女の気配はありました。本当に、彼女の息吹が顔にかかる位近くにまで、私は来
ていたのです。
そこまで来ていながら。そこまで近付いておきながら。辿り着けない。あと少しなのに。
それこそ、幻という物の本質なのでしょう。間近でリアルであるけれど、決して掴めは
しない。そして幻とは真実の別名でもあります。確かめられた真実なんて、何一つありま
せん。
どんな法則にも突き詰めれば一段上に別のもっと奥深い法則が隠されている。物理学で
も生物学でも、それが世の真相でした。今の真実とは未来には幻の様に消え去る物であり、
今の幻とは未来の真実なのです。
そして本当の真実とは永久に捕まえ得ない。法則の裏に法則があり事実の裏に事実があ
る。なら、本質は常に仮面の奥に隠されていて、永遠に眼に触れる事も手が届く事もなく
て。
そう、出会っても尚確かめ得ぬ雪子の様に。
『もう、本当に一歩も歩けないんだ』
立とうとしてみましたが、体が鉛のように重たくなって動かない。三歩どころか、立ち
上がる事さえ至難の技ではなかろうか、と。
本当に、体が……と言うよりは足が、大地の一部となって、バカみたいに重くなったの
です。金縛りにあって、動かない感じです」
「三歩、歩いて……」
私が復唱すると彼は正にその通りと頷いて、「あの失敗を、ここでまた繰り返すのか…
…。
夢の中まで、現実と同じ失敗をするのか…。
そう思うと、心の中が、煮えたぎりました。自分のふがいなさに対しての、生まれて初
めての激烈な怒りでした。友紀子に振られたその時でさえ、私は怒りを表に出した事はな
かったのに。振られた己を一層惨めにするだけだからと、言い聞かせていましたが」
実は、傷ついている己を認めたくなかっただけなのかも知れません。失敗を、失敗の存
在を深く深く追う事を、私は嫌ったのです。
でも、その時は違いました。その時だけは。
最早失う物は何もない。得る物もない限り、自分しかいないこの場所で、この時に。
幾ら傷つき怒り、泣き喚き、憎しみ、愛し、悲しみ恋して熱く叫んでも、良いのです。
自由自在なのです。そしてそうしなければ、それを乗り越えなければ、向き合わなければ、
避けている限り、私は決して前に進めないと。
「私は気付けました」
前に進む為には、後ろを常に意識しなければならないのだと。前に高い高い壁があれば
あるほど、助走を付ける様に深く深くバックして出直さなければ、ならないのだと。
失敗もある、深く傷つく事もある、萎縮して、何もする気力が沸かない時もある。でも、
「己に向き合う事を避け、重荷に感じる限り、心は決して軽やかにはならない」
心を言い当てられている錯覚を私は感じた。事は違うが、状況は違うが、向き合いたく
ない過去を持つという立場では人類共通のその話題に、私も引っ張り込まれて、
「何やかやと理屈をつけて、逃げ回っていた私はもう、逃げられないのです。私は体中が
石像になっても、重力に抵抗して立ち上がろうとしました。あと、三歩!」
『あと、二歩』『あと、一歩』
友紀子の声が耳に吹きつけます。
「石化した体が崩れ去る感じでしたが、私は歩きました。歩く度に、体は一層言う事を聞
かなくなり、重くなるのに、反対に心は軽く弾んでくるのです。三歩目を踏み出した時に
は、私の体中の疲れや重みは足の裏に集中して、他に何も感じられませんでした……」
三歩目……。
「私は三歩歩くと同時に、雪の中に倒れ込みました。もう指一本動かせなかった。だけど
体は不思議な程軽やかで、力が抜けきって…。
ふふふって、笑い声が聞こえました。私はもう、それに答える事は出来ずに眠りに落ち
て行くばかりでしたが、それでも雪が降り止まなかった事は覚えています。私の眠りも包
み込んで、雪は降る降る……。
私は見て確認した訳ではないのですが、私の倒れた所は森の中の小さな空き地で、十メ
ートル半径のその中心に太っとい樫の木が王様の様に腰を下ろしている雪の原でした。
目を閉じたきりでは分る筈がないのですが、私の閉じたまぶたの裏側に、鮮明な風景が
見えてくるのです。樫の木の根元に立って、三歩歩いた私を迎える雪子の姿までもが鮮明
に、鮮明に見えてくるのです。
倒れ込んだ私に歩み寄る彼女の姿も、私の体中に降り注ぐ雪の粒も、私自身の姿までが、
見えるのです」
「……」
「私が、起きていたと断言出来るのはそこまでですが」
そこで校長先生は、少し考え込む様に下を向いてから、
「その後私にはもう一つ記憶があるのです」
どっちが正しいのかは分らないのですが。
校長先生はお茶をすすりながら、
「私は眠りながら起きていました。起きながら眠っていたと言ったら、良いのでしょうか。
そこで私は、二十歳前後の彼女と樫の木を巡り巡って追いかけっこをし、樫の木の根に
腰を下ろし肩を並べて空を見上げ、手を伸ばしては降りしきる雪を冷たい雪の粒のままで
つかんで、時を過ごしました。半分眠っていた様な気もするのですが、確かではなく、体
はまるで重みを感じないのですから、これは夢なのかと。
私は常に追う者でした。彼女は常にひらりひらりと身をかわし、隣に座った時さえ捕ま
える事は出来ませんでした。でも、よかった……」
綺麗でしたよ、老人は目を潤ませる。
「雪子は、どこからどこ迄友紀子そっくりでした。笑う口元、ふくよかな頬、涼やかな瞳、
柔らかな耳、きめ細やかな肌。何から何迄も。そうですね、一つだけ違う所がありました
か。
髪の毛です。髪の毛の色が、そうですね。
湖に張る氷の様に輝く、銀色でしたね…」
銀色……。
「私は雪子と二人で降りしきる雪の中をいつまでも飛び回っていました。本当に、遊び終
えたと言う記憶がないのです。気がついたら、朝になっていました」
昨日までの雪はうその様に降り止んで、空にはお日様が高く上り、雪はその表面が光を
受けて輝いて、まぶしい程でした。
「私は、樫の木の前にうつぶせになって倒れたまま、一夜を過ごしていたのです」
「それでは雪子とのコンタクトは、幻と?」
「そう言う事も、出来るのですがね」
幾分落胆しかかった私に老校長は、
「そうでも、ないらしいのです。
と言うのも、あの樫の木の周りには、まごうかたなく二種類の足跡があったのですから。
一つは私の物。それも不思議な事に、樫の木を中心にした円を描いてはいるものの、私の
倒れた地点には一度も近寄らずに。
そしてもう一つ、私のよりも二回りくらい小さい、そして浅い足跡が、私の足跡と重な
り離れて、又重なって……」
それ以上は言う迄もない。
「その足跡が絡み合う様を見ている内に、私は腹の底から微笑みが漏れてくるのが分りま
した。もう何年も忘れ去っていた、心の底からの微笑みです」
校長先生はそう言って、歌を口ずさんだ。
幸せは 歩いて来ない
だから歩いていくんだよ
「一日一歩、三日で三歩。
三歩進んで二歩下がる、ですね」
それでも結局人間は、一歩一歩前に前にと進んでいく。たゆまない前進が人を人にする。
ええ、校長先生はすごく満足そうな笑みを浮かべて、
「この話をすると、話している私自身とても楽しくなってくるのです。心が安らいで、し
っとりと湿り気のある……。
すべては夢の事だったのかも知れません」
どっちが本当の事だったのか、あるいはどっちも幻なのか、どっちも本当なのか。
「ただ、あの日から私は再び、この村の住人になれました。
この、時の停止した様な村は他から見れば、沈滞してこれといった産業もない、神社一
つもないさびれた村に見えるでしょうが、住んだ者に言わせてみれば、京が何だ江戸が何
だ、名古屋大阪なんぼのもんじゃい、ですわ」
はっはっは、すっかり上機嫌になった校長先生は豪快に笑って、
「この村には雪子がいます。それを見つけられるかどうかは問題ではなく、確かにいるの
です。私はそれを知っています」
もちろん、それを信じない人はいるかも知れません。疑う人もいるでしょう。でも、人
は必ず、何かを信じた上で物事をなすのです。
最初から疑う事しか知らない人には、何も分りませんよ。
「疑う者は 仏をも疑うのです」
真実とは、いつでもどこでも、誰にとっても正しい事だとどこかの偉い人が言っていた。
そうですね、私がそう頷きかけた時、
「ああ〜、しんどかった」
木製のドアがぎしぎし言いながら開く音がして、ドタドタと何人かの足音が、古い木造
校舎に悲鳴を上げさせながらこっちに向かってくる。
「ああ。先生たちが帰ってきた様ですな…」
ちょっと失礼、校長先生は話しを中断して立ち上がった。
「寒い中を、大事な生徒を送ってきてくれた先生達です。その先生達にお茶を出してあげ
るのも、留守番たる私の役目なんですよ…」
雪は舞う。風はない。
そして物音一つしない中を私は歩み続ける。
もう日が暮れて、暗くなってはきているが、私は今日この時にしか、彼女に会う事はで
きないと感じていて、自分にしては珍しく強引に夜道を行く事を選んだのだった。雪は少
しも降り止む気配を見せず、むしろ天から白い布を重ね重ねしてそれは、一層厚く濃く、
目隠しの布のように私の目の前に降り続け。
「沙羅双樹……」
優雅に降り注ぐその様が、私の心のせかしさをとろかす様で、時間は止まる。
ここにあるのは、悠久の時の営み。
降る雪にも、積もる雪にも、そしてこの森の静けさにも果てるという事はなく、私から
時の流れを忘れせしめる。
来る時とは逆の道のりを辿って駅の方向に、取り敢えず私は進む。雪は一向に降り止む
様子を見せず、私の歩みは前にも後にも何もその痕跡を残さない。私に見えるこの足跡も、
数分経たずに舞い散る雪の腹に消えてゆく。
全ては過ぎ去りゆく一瞬のできごと。
悠久の時の流れから見るならば、全ては…。
あるのはこの雪の空、そしてこの雪でさえ春になれば消え去る運命にある。そして姿を
現す大地とて秋までの命で。再び、全てを冬が覆い……。万物は変り行く。何もかも、不
変の物は何一つない。逆に変わり行く世の摂理故に、変わらぬ愛に友情に理念に、人は感
銘を受け、心洗われ、揺さぶられるのだろう。
世の摂理に挑戦する姿が、試み続ける意思が、敢えて逆らうその心こそが、人なのだと。
天と地さえ永遠ではありえないこの世の中で。
「ふふ……ふふふ……」
笑い声。心の角をくすぐる様な、私の心を休める為にあるかの如きその声に、私は心踊
らせる。
必ず会える、必ず会える。
それを私は疑わぬ。
きっと会える。
私は、私はそれを望んでいるのだから。
「ふふ……ふふふ……」
幻聴ではない。確かに私の耳には、彼女の笑い声が聞えるのだ。そう、私の最も望んだ
あの聞き慣れた声で、雪子は私にコンタクトを求めてきたのだ。私の声は、私の望みは、
届いていたのだ。
雪は相変わらず濃く厚く、手を伸ばした先の手のひらさえも見えない状態になってきた。
それでも私は歩みを緩めない。道に沿ってると信じて、ただひたすらに歩み続けるのみ。
例え私が道から外れていても、それがあちらさんの示した道に違いないと。
この村で、凍死した人間なんていやしねえ、と言っていたおまわりさんを信じ、私は手
応えなき雪の壁を掻き分け掻き分け、突き進む。
間違った道だろうと、構わない。
既に私は人の道を間違えていた。
森に迷い込もうとも、構わない。
既に私は迷宮に迷い込んでいる。
今この時に、雪子に会えるのならば。
今この時、由紀子に会えるのならば。
間違いを間違いで補正できるなら。
悪夢を幻で打ち払えるなら。
迷宮を更に彷徨う事で突き抜けられるなら。
機を逃さず大成功を収めた人間の話、機を逃して致命的な失策を冒し後世に悔いを残し
た人間の話は、歴史上枚挙にいとまない。
瞬間の判断なのだ。人生とは常に瞬間の連続である。今はこの勘に、流れに全てを委ね。
私は、この機を逃したならば二度とここに立ち戻る事はできなかろう事を知覚していた。
「雪子……かい?」
返事はなかった。現実主義の声が片隅で、返事なんてある訳がないだろうと呟くが、こ
の時ばかりはそんな声を隅に押し込め、
「私はまだ、起きているよ。……だから姿を見せてはくれないんだね。もうすぐ君の世界
に行く、もうちょっと。
私にも、逢ってくれるよね……」
どうしてこんなわざとらしい迷信なんかを、と呟く声は心の奥底でくすぶっている。
しかし私は、敢てそういう声を押しきって、
「私は、ここだ。雪子、姿を見せておくれ」
私はいつしか森に踏み込んでいるのに気がついた。樹齢数十年の太い木の幹が、目の前
五十センチに突如現れて、慌てて止まる。
「森か……」
迷い込む事は、最早気にもならない。狂気が心を支配しているのか。だが、狂気だって
人の心の大切な一部には相違ない。時には狂気に身を委ね、事の打開を望む場合もあろう。
こういう発想自体が狂気なのかも知れないが。
森の奥だろうが、泥沼の湿地帯だろうが、どこ迄でも追いかけてやろうではないか。
あの声は?
声は聞える。確かに聞える。例え耳に聞える声ではなかろうと、私のハートには確かに
あの涼やかな声は聞えている。
「ふふ……ふふふ……」
目の前は、いよいよ一寸先も見えない雪の夜だ。森は一切の物音を消し去った如く沈黙
を保ち、生きとしと生ける者全ては雪の衣に包まれて、つかの間の眠りに入る。
人々から離れ、動物たちからも離れ、私はただ一人、真か否かも分からぬ歩みを止めず。
ああ、例え雪子の存在が事実だったとしても、眠りについた動物たちや、家から出て来
ぬ人間たちには全く、夢の世界の話なのだ!
私は突き進む、声がすると信じた方角に。
最後は自分の判断なのだと、腹を括って。
そうなのだ。私もこうしていれば良かったのだ。あの校長先生の様に。あの時に、私も
私を貫いて、もっと、もっと。
「雪子……君はいるのか……」
それとも人の心の中の、あって欲しい願望の投影にしか過ぎないのか。
『幾ら追っても捕まえられませんでした…』
幾ら追っても捕まえられない物。それは幻なのか、それとも真実なのか。
人間は究極の幸せを追い続けてきた。私もそれをテーマの奥底に秘めた作品を描いて、
何とか今まで作家稼業を行ってきた。
はあ、はあ……。私は走り出す。
科学者、宗教家、哲学者、技術者、政治家。みんながみんな、それを追いかけて、いま
だ捕まえ得ぬ。果して、それは永遠に捕まえられない幻なのか。いつかどこかに辿り着け
ば手に入るという類の物では、ないのだろうか。
そこで私はいつでもこう思う。
いつかどこかで手に入る様な物が完全なる真実ならば、そこに辿り着きえなかった無数
の人間は一体どうなるのだろう。そんな不公平が、完全な真実に許されて良いのだろうか。
否、違う!
走りながら、苦しい息の中でも、私は強くそれを否定した。
いつかどこかで手に入る様な不公平な物が世の真実である筈がない。なら、可能性は二
つだ。真実とは、決して手に入らない・理解できない・見つけ得ない物であるか、又は既
に周囲に普遍的に満ち満ちていて、あって使っていても尚誰も気付いていない物か。
そして更に、少なくとも真実とは、観念ではなくて実際の人間の生活に活力を与えられ
る物でなくてはならない。私はそれを疑わぬ。
そうでなければ、そんな真実に意味はない。生きる者に寄与しない真実なんて、何の意
味があるだろう。それなら虚無の方がまし、幻想の方がましという物だ。
では人間にとって、永遠に捕まえ得ない物が果して、真実と言えるのだろうか。今私の
手の中を逃げて捕まらぬ雪子は果して……?
ズボッ。
長靴が雪にはまり、私の歩みが止まる。
「ちいっ……!」
私は慌てて膝まではまった足を引っこ抜き、汗の雫が額に流れ落ちるのも構わずに追い
かけるのを止めず、
「追いついて見せる……」
『追いかけて。私を、捕まえれる?』
「捕まえて見せるよ。私は、努力と希望で前進できる、人間だから」
どんなに困難な夢でも、どんなに不可能な妄想でも、人の前進を阻む事はできなかった。
「私もその端くれの人間だから!」
視界の中に、私の物ではない手が見える。
白い着物の裾が見える。その魂はすぐ近くに感じられるのに、声だけは遥かに遠く。
生と死を分つ境とは、こういう感じなのか。
隔てられた心の隙間とは、こういう感じなのか。すぐ側にいても尚、すぐ側にいても尚。
この雪の中に見えるという事は、目と鼻の先の筈だ。すぐそこにいる筈なのだ。なのに。
なのに幾ら走っても追いつけない。やはり、絶対に追いつけないのか。
もう少し、もう少し。
内なる声か、外なる声か。その声は果てしなく私を走らせる。どこ迄走らせるのだろう。
私が息絶えるまでか、私が力尽きるまでか。
追いかける、追いかける、追いかける。
息が切れて、足がもつれて、それでも追いつけそうにないと、微かな絶望が心に芽生え
た始めた時、私は前のめりに倒れ込んだ。
雪はちっとも冷たくない。顔に当たっても柔らかく、水は汗と混じり合って消えゆく中、
「さあ、私を捕まえて」
その時、その声ははっきりとそう言った。
「私はここよ」
ああ、その声は!
「由紀子……」
私の心に涼風を注ぎ込んでくれた、由紀子。
見る人の最も望んだ姿形で、雪子は現れる。
私は考えていた全ての台詞を喪失して、
「もう一度、会いたかった……」
由紀子は、私の小説が世に出始めた頃からの、最も古いファンの一人だった。
たまたま当時の私の下宿と彼女の家がごく近かった事もあって、七つ年下の彼女は高校
生の頃から、全く生活観念のない貧乏作家を良く訪問して、六畳間と頭の中の理屈に籠り
がちな、私の心の換気扇となってくれた。
私の作品の中に輝いて見える幾度かは、彼女の助言による物でさえあった。彼女もまた
小説家を目指していて、その点でも私達は一種の友人として意気投合できたのだ。
経済的、精神的な支援のみに非ず、彼女は私の小説作りに欠かせない物だった。彼女の
感性は、確かに私が驚嘆する程優れていた。
丸顔で、それ程綺麗でもないが大きな瞳の中に深い知性を秘めた由紀子は、大きな黒目
が動く様を見ているだけでも微笑みが込み上がってくる、私なんかには勿体無い程ありが
たい友人だった。
だからこそ私も、内気な彼女に相想う人ができたという話を聞いた時には、一抹の寂し
さを噛み締めつつも、彼女の幸せを一緒に祝った物だった。少し先の話にはなるが、結婚
も考えていると、話していたその矢先に……。
交通事故。命には別状はなかった物の、左足を失い、顔の半分にやけどを負った由紀子。
そして、一生治らぬ彼女の身体と心の傷を見捨てて逃げた、由紀子の彼。
『みんながみんな、私のこの顔を見ると震えるの……。私は何も変っていないのに、私は
何も恐ろしい事なんてしないのに、みんな怖がって私を避けていくの……』
『最初は足繁く通ってきていた友達も、次第次第に来なくなって、私は世の中からひとり
取り残されていく……』
『私のいる事も、私のいた事も、私といた時間があったって事さえも、みんな忘れていく。
私に触れない様に遠ざかる内に、みんな』
夢を打ち砕く現実、希望の前に立ちはだかる絶望。事もあろうにその時私は、ようやく
売れ始めた作家活動に忙しくて、その事を聞き流していたのだ。
『恋人に迄裏切られた由紀子が今、最も必要としているのは私ではないのか』
事態の重大さに私が気づいたのは、いつだったろう。もしかしたら、最初期から私は気
付いていたのかも知れない。少なくとも、少し気を回せば容易に気付けた立場に私はいた。
親でも立ち入る事の出来ない、生きる夢を共有した私ならばこそ、対処できたかも知れ
ない事もあっただろう。その気にさえなれば、その気にさえなれば、訪問だって出来た筈
だ。
だが。何が私を躊躇わせたのだろう。
由紀子の憔悴した姿を見るのが忍びないという理由は、表向きの物だった。憔悴した由
紀子が恐らく最後に求めるのが私であろうと、私もどこかで分っていたのだから。
私は由紀子が打ち砕かれた姿を目の当たりにする事で、私が傷つくのを嫌ったのではな
いか。人の絶望を見る事で、自分が傷つき悲しむ事を怖れたのではないか。
私は由紀子の元を訪れなくなった。次第に次第に疎遠になって、いつしかその足は別方
向に向き。今更、行ける状況でもなくなって。
それは私が望んだ結末だったのか。
そう。結果には困惑したが、その後で悔いはしたが、私はその時点でそうなる流れを何
ら食い止める事なく放置したのは事実である。
それ迄由紀子の心の傷を放置しておいた事への悔いが心に絡まって、どうしても会いに
行く事ができなかった。一度は病室の前まで行って引き返した事もある。
いまさら何よ、と言われたら、全く返す言葉がない。あわせる顔がない。そう思ってず
っと彼女の一件を、心の中にも放置してきた。
歳月は積り積って、最近のスランプはそれをいつ迄も放っておけないとの罪悪感から来
るのではないかと、漠然と分ってはきていた。
しかし、だからと云ってどうすれば良いか。
時は取り戻せない。覆水は盆に返らない。
今から、今からどうにかしなければならぬ。
だが今更どうすれば良いのだろうか。あの頃よりも事態は更に悪化しているのに。私は、
放置して腐った事件の解決を要請されるのだ。
「もう、どうにでもなれ」
力を使い果たして倒れ込んだ私は、言葉にならない言葉でそう呟いた。
『失った物は、過ぎ去った過ちは、取り返す事ができないんだ……』
もう、あきらめるの? 私はここよ。
ああ、手を伸ばせば届きそうな所に……。
しかしそれこそが人を限りなく誘って(いざなって)止まない、イデアの罠なのだ。
「もう、一歩も歩けない。歩けるものか…」
三歩と言われたって歩かないぞ。
私は柔らかい雪の中に顔を沈める。雪は、それ程冷たくはなかった。
『私はすぐそこにいるわ。手を、伸ばして』
雪子は、校長先生の時とは違う事を言った。
「手を……?」
だめだ、私はちょっと肩を持ちあげてから、かぶりをふった。手が、と言うよりは肩の
筋が突っぱらかって、微動だにしない。
身体が石化したのか。硬直して、動かない。
手を、差し伸べて。雪子は言った。
顔を上げて見た訳でもないのに、私には瞼の裏に、母校よりも鮮明に雪子の姿が見えた。
雪子は、由紀子だった。初めて会った当時の、余り綺麗とは云えなかったが、大きな黒
目がくるくると回る、愛くるしい十六、七の少女の姿形で。
服は白い着物を着ていて、髪の毛は日の光に照り返される白金の峰の如き銀色だったが、
雪子は間違いなく由紀子だった。
手を、差し伸べて。雪子は言った。
動けないんだ、私は自分の体が思う様に動かせない事に苛立ちを感じながらも、力を抜
いた。そうすると、深い眠りの中に居る様に気持ち良い。だが、雪子はそれで承知しない。
由紀子がそうだった様に激しく首を振って、
「だめ。手を、手を差し伸べるの」
「だって……」
私は、強く拒否できなかった。
あの頃からそうだった。私がスランプに陥って、何もかも投げ出して逃げようとした時、
必ず由紀子は全身を使って首を振り、私に事に向き合う様に促した。必ず響きあう物があ
る、必ず探し出せる道がある。だから、夢の舞台に辿り着けた以上は、絶対に諦めてはい
けないと。そしてこの押し問答は、最後には必ず私の弱気が折れて、やる気を振り絞ると
云うより、むしろ私は窮鼠に追い立てられて。
由紀子の雪子でなければ、私は聞き入れていなかった。耳をふさぎ、目を閉じ、心を固
くして拒絶し、身を竦めて時が過ぎ去るのを待っていただろう。
だが、『由紀子』は常に正しかった……。
「手を、差し伸べて。
あなたが手を差し伸べなければいけない人が、二人以上は居るんだから」
私は、心の中に雷鳴響くのを感じた。
「お、おの……れぇ!」
目を閉じて、肩が砕けても構わぬとばかり、私は思いっきり肩から腕を上げた。ラジオ
体操でもない程腕を伸ばし切って、空をつかむ。
何もつかめずに落下する腕を、地に着く寸前に受け止めた手が、彼女の手だった。
「ゆきこ……」
どちらの意味で言ったのかは、私にも良く分らなかった。しかし私の心は定まっている。
『由紀子に、会おう。そして……』
償えないかもしれない。救えると思うのは奢りだろう。しかし私には、これ以上由紀子
を放っておく事はできないし、そんな自分をこれ以上許す事もできはしない。
理不尽はこの世の中に数多くある。
由紀子が負った事故も、由紀子を見捨てた彼も、大きな大きな理不尽だった。それを身
に受けすぎて、由紀子の体は心は、現状どうなってしまっているのだろう。そんな由紀子
を、私は果たして受け止めきれるのかどうか、正直自信はない。私にとっても、それは理
不尽だった。私の好んだ近しい物がそんな目に遭わされて、私が為す術もなく、そして気
にし続けなければならない。だが。
だがその理不尽が私に向ってきたとしても、世の摂理が理不尽から成り立っているのな
ら、良い。私が、由紀子の理不尽を受け止めよう。その全てを。私に受け止めきれるかど
うかは、やってみなければ分らないが。
雪が、幾らか降り止みかけたのか。雪のカーテンの密度が、ほんの少し薄くなった様に
思える。だが見ないでも、分るのだ。
心が、心を感じ取っている。
見えなくても、元から見えない物ならば、敢えて目を凝らす必要はない。今の私には、
見えない筈の物が見えているのだから。
『二人以上、手を差し伸べなくてはならない人がいる……。そして、それを救うのは雪子
に非ず神に非ず。人間であり、私自身だ』
「さあ、私はここよ」
あなたは私を捕まえるのよ。捕まえる為に、果てしないとも思える道を歩み出した。今
まであなたが歩んできたのもその道だったし、今もあなたはその道を歩んでる。
「あなたは真実を知ってるわ。あなたは真実を行なってるの。後はそれに気づくだけ…」
あの校長先生は、『真実とは自分で判断し決める物』だと言っていた。どれほど明白な
真実真理であろうとも、信じない者には何の価値があるのかと。一万円札の価値を認めな
い人にはそれは、ただの役立たずな紙切れにしか過ぎないのだと。
しかし、本当にそうだろうか。
私には、そうは思えない。
本当は、真実とは最初から決まっていて、人間はそれを読み砕く読者にしか過ぎないの
ではないのか。一万円札の価値を認めない人が世界中に何人居ようと、あるいは全てがそ
うであろうとも、一万円札は両替機に入れれば十人の伊藤博文になって出てくる。一億人
がそれを認めないと云おうとも。
万有引力の法則しかり、相対性理論しかり、量子力学しかり。真実は常に真実。誰も知
らぬ内から、気付かれもしていない内から働き続けて、今迄あり続けて、尚変らずに。
誰がどう曲げようとも、曲げられ得ぬ絶対の真実。それこそ、本当の事ではないのだろ
うか。もしかしたら、それも又違うのかも知れないが。しかし違っていても私は良い。
この降り注ぐ雪の中に身体を埋め、自然に溶け込んで、由紀子の雪子と共に今しばらく
の時間を止めて、今しばらくの時間を遊び…。
人の世の現実とは、決してはかない幻などではない、神に滅ぼされゆく物などでもない。
今ここに生きる生を大事にしない物が、どうして別の世界での生を大事に等できようか。
と同時に、夢は決してばかばかしい妄想などではない。夢こそが現実なのかも知れぬのだ。
雪は降り注ぐ、雪は舞い降りる。
私の体は雪に埋もれ、半ば白く覆われて行くのに、私はこうして樫の木を巡り、巡り巡
って雪子と共に、夜が明ける迄駆け巡り……。
「ああ……」
雪が、降り積もる……。
「ふふ……ふふふ……」
その日起ったできごとは、村の人達以外にはまだ、誰にも信じてもらえていません。し
かし私は、雪の降り止んだ翌日の、壮快に晴れた青い空の元で、その樫の木で見たのです。
私の足跡と、もう一つ、少し小さな足跡が絡み合いながら、私の体から全く離れた所で、
楽しそうに遊んでいるのを。
その様を見ていると、不思議と心が明るく朗らかになってきて、微笑みがあふれ出てく
るのです。足跡はいずれ、春になると消えてなくなってしまうでしょう。しかしこの数時
間のできごとは、私の心には生涯生き続ける事になるでしょう、きっと。
人々の、気に留められぬ小さな村で、人々の、気に留められぬその時に……。