第1話 歪む定めを手繰り寄せ

 浪人生になって二ヵ月に満たぬ桜田智彦が、友人・武者小路健太郎の頼みを受け、連れ
立って中西一哉の家を訪れたのは、五月も最後の土曜日だった。梅雨を先取りし朝から空
は暗雲が低く、いつ雨が降ってもおかしくない。
「天気はいかにも妖怪変化を呼びそうだね」
 智彦は身長百七十五センチ。学生から浪人に生活が切り替わって、崩れつつある生活が
少し気になる十八歳。白地に黄のTシャツや青いジーパン姿も、平均的な黒髪の日本人だ。
 相方の健太郎も、名字の派手さの割に外見は平均を外れてない。身長百七十センチ弱の
体格は微かに太めに見えるが、温厚な印象を補強する。紺の地に明るい緑や薄い青が交差
するチェックのズボンにグレーのTシャツだ。
「この天気もそいつが呼んだ物かも知れん」
 そう答えつつ、健太郎は数十メートル離れた家の二階を視線で示した。立ち並ぶ住宅街
の中で、特に目立つ程新しくも鮮やかでもなく、古くもない、標準的な薄蒼い壁の家だが、
「何かあの辺、ちょっと昏い気がしない?」
 智彦の、自分の視覚に半信半疑な尋ね方に、
「お前の目にも、そう映るか?」
 ここを訪れるのが初めてではない健太郎も、
「あの家の周辺は、最近いつも、こうなんだ。以前はそんな事、気にもしなかったんだ
が」
 この一件が始まってから、気が付いたんだ。
「近所は、気の所為と思い込もうとしている。日を遮る高層建築もない住宅街の中で、あ
の家が常に周囲より昏いのは説明つかないと」
 住宅街の一角でそこだけが昏い。雲の影なら動く筈だ。常に暗い事はない。それにこの
暗雲では、どこかが特別昏いとかもない筈だ。健太郎の話では、あの家のみが周囲より昏
いのは、昼に限った話ではなく、夜でもどんな天気の時でも同じ様で。光を透さないと云
うのか。見えにくい。夜は夜で、街灯や近所の家の灯を遮る様に一層暗いと、健太郎は云
う。
 いつも周囲より少し昏い。この自然現象に、該当する物が思いつかぬ。四六時中こうな
のだ。彼等の持つ科学知識で、この現象の解析は無理だった。彼らに残された領域は、超
自然現象だ。学問の道を目指し、常識の世界にいたい二人には、好ましくない括りだった
が、
「仕方ないよな……云う通りだよ」
 智彦が頷く相手は健太郎ではない。微妙に隠しているが彼は左に頷くのに健太郎は右だ。
それに健太郎は何も語りかけてない。見えるのは立ち尽す男の姿が二つだが。携帯電話を
使う訳でもないのに、彼は何に話し掛けて?
「特別な力や感覚なんて要らない程に、強い瘴気って事みたいだよ。こりゃ拙いかも…」
 後段は健太郎に向けた言葉らしい。これからその家・その一件に関りにいく途上だと云
うのに、智彦は他人事の様に楽天的な語調で、
「これって、そいつの実在の証になるかな」
 得体の知れぬ何物かの存在を、万人に納得させる。と云うよりむしろ、自身を納得させ
る証拠が欲しい顔つきで問う彼に、健太郎は瞳を閉じてから静かにかぶりを振って、
「デジカメで撮ってみたけど、駄目だったよ。微妙な色調の違いのなのか、そうと分る程
に視えてこないんだ。もしかしたら、視覚ではなく心や脳の作用なのかも知れない」
 大月教授を納得させられる程の、確かな証拠にはなりそうもない。健太郎は当代の合理
主義に卓越した有名人の名を挙げて匙を投げ、
「でも、訪れに行く途中から、いやと云う程感じるだろう? そして、俺がお前に相談を
持ち込んだ訳も、凡そ分って貰えると思う」
「俺って云うよりは、俺に付随する『彼女』に、だろう。用があるのはグリコのおまけ様。
そうでなかったら、俺が事の解決に直接責任を持つ、ヤバイ立場になる訳なんだけど…」
 智彦は、何の変哲もない一般常識人だから、本当は面倒事には関りたくないし、関って
も無事で済む身体や心の強さを持ってはいない。
 彼の能力や技能がではなく、彼に付随する『彼女』の能力が買われた事情は自身が分っ
ている。逆に彼がこの件に引っ張り出されたなら、とてもまともな助けになれる筈がない。
 健太郎もそれは承知の上だ。それで尚この異常な一件に、敢て智彦の関与を求めたのは、
最近数週間で智彦に生じた特殊事情を、知る為だ。智彦の実力や気質に関係なく、今の彼
に関る特殊事情が、こう云う一件に決定的に有効になってくれると、なって欲しいと願い。
「俺のキャラクターでは、本当はこんな場面、場所に来る筈じゃなかったのに……いて
て」
 いでいでいででで。いでっ。
「分ったよ、分った。分った、から」
 智彦の右耳が何かに引っ張られて見えるが、彼の背後に誰も見えぬ事は健太郎が確かめ
る迄もない。智彦も耳を何が引っ張ったのかは見る迄もなく分っている様子で、耳を抑え
て、
「行きます。つべこべ云わずに、行きますよ。
 行くと決めた以上、途中で帰ったりはしないから。もう、そんな急かさなくたって…」
 その光景にも最近健太郎は少し慣れてきた。ドラえもんやオバQを見知った世代の持て
る異常事態への柔軟な適応性というのだろうか。或いは彼が特別に物事に動じない性分な
のか。智彦の小さな悲鳴と独り相撲を平静に見守り、
「頼むよ。俺の友人、否俺の為だと思って」
 本当は健太郎の友人の妹の為なのだが、それを己の為と言換える辺りが彼らしい。他人
の為に動く自分は仲介者と云う印象を与える言葉を、敢て己が責任を被る言葉に言い換え。
だが、当初にそう云えなかった余裕のなさが、健太郎の焦り・懸念を余す所なく表してい
た。
「分ったよ。この桜田智彦が、一肌脱ごうじゃないの。俺って云うよりも、本当はむしろ
俺の後の闘う女神様って事なんだけれど…」
 二人は人気の少ない正午前の住宅街を歩む。塀や垣根に囲まれ隣家の庭も互いに窺えぬ
街は意外な程に人影がない。暗雲が彩る街は無人と沈黙に支配され、不気味ささえ感じさ
せ。
 智彦達の共同作業は、これで何度目になるだろう。どうか、今回も巧く成功します様に。

「健太郎か、久しぶり」「ああ、そうだな」
 中学卒業迄健太郎と同級だった中西一哉の第一声に、疲労の色を感じたのは、彼の悩み
の概要を前知識として智彦が持っていた故か。
 健太郎が瞬間だけ意外げな顔を見せたのは、久しぶりでもない故だ。彼は一哉から今回
の一件の相談を聞いた時に一哉に逢っているが、それは五日前なのだ。子供の感覚なら五
日も置けば久しぶりだが、通う学校も違う今の彼らではそう云うまい。そこには毎日を苦
悩と焦りが占め、長く思う一哉の主観が影を落している。楽しい時は短く苦しい時は長い
物だ。
 そうと気付いた健太郎は、怪訝さを瞬時に拭い、全てを受け容れる彼特有の柔和な笑み
に切り替える。相手が心浮かぬ時だからこそ、欝を増幅する同情の顔ではなく、活力を引
っ張り出す笑顔を見せねばならぬ。
 その戸惑いも瞬間的で、人の心中を図る余裕のない一哉は気付かなかった様だ。智彦も、
最近の諸事情で人を細かく観る様になっていなければ、見落していた。温和なだけでなく、
健太郎は繊細な気遣いを知る人物だった様だ。
「元気そうで、何よりだ」
 健太郎は敢てそう云って、
「その後は、状況はどうだ……?」
 今日はその解決に智彦を連れてきた訳だが、一哉にはその案件は決して愉快な事ではな
い。話させる事は嫌な記憶の想起であり、苦悩の反芻だ。一哉から話させ、助けを求めさ
せるのも辛かろうと、健太郎から話し掛けるのに、
「変らないよ。あれ以上悪くはなってない様だが、良くなる兆もない」
 一哉はその話題自体を取り上げたくなさそうな顔を見せたが、己の焦りを抑え込む様に、
「悪いな。こんな、面倒事を頼むなんて…」
 余裕のない状況でも何とか人を気遣おうとする。気遣われている事は分る様だ。健太郎
は、そんな一哉の負い目を拭う柔和な笑みで、
「紹介するよ。今回の、助っ人をさ」
 一哉の視線を智彦の方にいざなって、
「春迄同じクラスだった桜田智彦」「ども」
 軽く右手を挙げて挨拶する。若者同士だし、問題解決に来た以上率直に話し合える関係
になりたいので、余り肩肘ばった挨拶は避ける。
 やや軽い印象を与える智彦の挨拶のフォローは健太郎が担う。智彦が人好きのする取っ
付き易い人物との印象は与えた。後は彼の力量への信頼だ。この辺りはチームワークか。
想定問答集があったかの如く健太郎は巧みに、
「今は志望校に入れなくて浪人中だが、歴史、哲学、神話や民俗学、それに心理学に詳し
い。今回の一件を相談してみたら、似た話を知っていると云うんで、助っ人に来て貰っ
た」
 並べられる虚偽に自嘲しつつ、智彦はそれを自信の見え隠れする照れ笑いに装って健太
郎の偽証を肯定する。本当は違うが、違うと今悟られては拙い。2人とも嘘を使い慣れぬ
ので難しい場面だが、大事の前の小事である。
 ここはこうでも云わなければ、初対面の浪人生が、この情況に介入する理由が付かない。
智彦がこの種の異常事態に対処できる特殊な立場を獲得できた理由は、全く別の所にある。
 この売り文句は本当は健太郎にこそ相応しい物だったろう。その健太郎の証言で、智彦
の信頼性が担保されると云う目論見なのだが。
「民俗学、心理学……」
 健太郎は、予め助っ人の話を伝えていた故、一哉も驚きはしなかったが戸惑いは隠せな
い。百六十五センチと背が高くない一哉だが、高校時代柔道部所属でその身体付きも筋肉
質だ。ひょろっとした智彦が、逆に頼りなく見える。
 同年輩で、体格も強健そうではない。善良そうだが軽い印象を与える智彦に、事を任せ
ても良いかとの不安が微かに窺える。この一件に関与するべきなのは、霊媒師や祈祷師・
妖術使いの類だろうと、その顔が語っている。
 流石に、霊媒師の大学を受けたとか、祈祷師が趣味とか、妖術使いの家系の生れとかは
言えぬ故、やや異なる方面からアプローチする言葉を雑多に揃えて来たが、言い募る彼ら
自身が後ろ暗い。どの程度信頼されるだろう。
「民俗学では色々な憑き物の研究もするんだ。昔話や、古老の言い伝えなんかの経験の蓄
積だよ。中には、民間療法で回復した例もある。その中から特徴を探る。そうやって研究
していく内に対処法についても分っていくのさ」
 霊媒や妖術の話より、民俗学や心理学の用語で迫る方が、未だ智彦には似合うか。一哉
は半信半疑な感じで首を傾げた。十分納得の表情ではなかったが、健太郎の推挙が効いた。
 状況が、ここ迄悪化していなければ、一哉も躊躇しただろう。原因不明の体調不良に家
族の介護も医師の処方も効果を見せず、どうにもならない状況にいた彼を見兼ねて、事態
を知った健太郎が智彦に話を持ち込んだのだ。
「僕の手に負えない様なら、知っている教授に頼み込む手もあるけど、まず状況を把握し
ないとね。全ては、それから」
 これもまた出鱈目だ。彼には、こういう事情を相談できる様な懇意な教授等いないのに。
 だが、自分が全てだと言わぬ智彦の姿勢が、一哉の好感を招いた。智彦の背後にまだ手
段があり、智彦がそれに連なる扉だと思えると、智彦個人への評価はそれ程重要ではなく
なる。
 智彦が悪人ではなく思えていた一哉はそれでぐっと気が楽になった様だ。勿論、2人が
そう思って貰おうと努め偽った事実は、後で明かさねばならない。今は事態に向き合う事
だ。その場に辿り着きさえすれば、智彦に為す事は殆どない。全て『彼女』に委ねれば…。
「良い方向に動きだすよ、きっと」
 健太郎が後押しする様に静かに云い切ると、なぜかそうなりそうに思えてくるのが不思
議だ。そしてその一言が、一哉の決断を促した。
「上がってくれ」
 言葉は簡潔だったが、部外者である智彦に、異常事態にある家へ上がる事を勧める意味
合いを、知らない者はこの中にはいない。助っ人は、とりあえず認められた。
 時刻は未だ午前の十時ちょっと過ぎ。にも関らず、空はむしろ暗さを増しつつある。こ
れからの彼らの行動の行く末に影を落す様に、室内も急速に暗さを増し始めていた。

 中西一哉の妹・紀子に起った怪異の始りは、一月程前に遡る。健太郎が志望校に合格出
来、智彦が不合格し、一哉が専門学校に入学したこの年の四月下旬、高校二年に進級した
紀子の変調に最初に気付いたのは兄の一哉だった。
 最初は、不眠症の類だと思っていた。確かに彼女の不調の直接の原因は不眠症だったが、
その遠因が尋常でなかった。それが分った時には、既に状況はかなり進行していたらしい。
「なんで、もっと早く話してくれなかったのかと、今でこそ思うけれど……」
 逆説の接続詞に続く言葉は、彼が呑込んでも訪問者達には分った。常識の世界の住人に、
突然非日常の悩みが訪れても、即座に理解し対応できる筈がない。仮に早く話を持ち込ま
れても、果してどれ程真剣に受けとめたろう。
 信じないのが普通だ。そしてそういう判断の九割九分がそれで適切なのだ。一哉の心の
基盤にある常識は、大多数の場合に於いて正しい。それは責められるべき咎ではなかろう。
 そして多分妹の紀子も、常識人だったのだ。つい数週間前の智彦や健太郎の様に。彼女
がその事を誰にも相談できず、独りで十日以上も悩み続けたのも、常識を意識した為だろ
う。
 話しても信じて貰えないと思っていたのか、怪異に魘われた自身を認めたくなかったの
か。恐らくはその両方で、彼女は人に変調を気付かれる迄事態を放置し、悪化させて。
「家の中が、静かだね」
 智彦が云いたかった印象は違うが、開きかけた口を塞ぐのも不自然なので、言い換えた。
一哉は初対面なので、そこ迄は気付かぬのか。
 玄関のすぐ右側に、奥に向かって伸びている階段に、自分が先導に立ちながら、
「母も、夜に備えて眠ってるんだ。紀子の身に起きる異常は、夜が本番らしい。昼の間は
比較的穏便というか、小康状態というか。日中は体力温存の為にも、何もしていないんだ。
 分っていると思うが、静かにしてくれよ」
 数本の足が木造家屋の階段を上がっていく。
 物音で来訪者を察したのか、一階の少し奥で襖を開ける音が微かに聞えた。一哉の母が
開けたのだろう。しかし既に階段を半ば上がり掛けていたので、智彦も足を止めなかった。
一哉は最初から紹介しない考えだったらしい。
 一哉の母も連日の怪異現象で疲弊しており、起きて彼らに会う気はなかったという。一
哉が受け容れた以上は、怪しい者ではなかろうとの判断もあり、肉体的・精神的疲れが堪
っていて、人に会える状態ではなかったらしい。
 唯、応対する予定のなかった彼女がわざわざ襖を開ける迄の動きを見せたのは、ここ数
週間淀み滞っていた家の空気を一掃し吹き払う清涼な風を心に感じた故、階段を上る足音
が声の数より多く聞えた故と知る者はいない。
 それはここ数日この家を襲っていた怪異と同じく、再現も検証も難しいが、自然には通
常起り得ぬが、決して錯覚ではなく。
 家の空気が、一階から吹き払い清められて行く。玄関を開ける物音と同時に流れ込んで
きた涼風の錯覚が、鬱屈した淀みを流し去る。颯爽と清冽に二階へと。むしろそれに追随
する感じで、階段を上る音も幾つか二階へと…。
 智彦が言葉には出さず健太郎に、両腕を両肩に当てる『寒い』のポーズを見せると、健
太郎も黙って頷いた。初めてではない彼には、智彦の感じている違和感の内実が分るらし
い。
 入った瞬間、体感温度が下がった気がする。来訪者の体温を吸い、気力を萎えさせ、忌
避を求める様に、室内の空気が冷やかだ。空気が澱むには閉め切らねばならぬ。だがそう
すれば少なくとも外と隔絶され、屋内は暖まる。
 クーラーが掛っている様子はないのに空気が冷たい。家は、死んだ静寂に包まれていた。
日常の雑音を抑え込む様に、生気を失った雰囲気が違う。物音は彼らの足音と息遣いだけ
だ。昼夜逆転の生活で、疲れ果てている故か。
 階段から真っすぐと直角に右に伸びる通路があるが、一哉は曲らずに直進する。左側は
壁で、右側手前が一哉の、奥が紀子の部屋だ。
 隣の部屋にいる一哉は、日中も変事に備えている様で、読みかけのマンガやカップ麺の
器が閉めてない戸口から見える。テレビのコンセントが抜いてあるのが少し気になったが。
 一哉が先導し、初見ではない健太郎が続く。異変が生じたのは、智彦が一哉の部屋の前
を通り過ぎようとした時だった。入ってないテレビの電源が突然入り、雑音が流れ出たの
だ。
 ザザ、ザザザ、ガガ、ザ……。
 誰も触れた者はいない。電源は切れていた。にも関らず、テレビはどの局ともつかぬ乱
れた像を、雑音と共に流し。次々に入れ替わる画面は、何が映るかも定かではなく、歪ん
だ原色の何かが意味の繋らない音声を垂れ流し。
 形を取らず、意味を為さず、その故に不気味の極致にある画像の乱舞は、智彦の反応を
誘い出す事が目的の様に荒れ狂う。第一テレビのコンセントは、目の前で抜いてあるのに。
 侵入者の存在を感知し、警告を発し追い払おうとする悪意さえ窺える。智彦は怯えると
云うより事を呑込めない顔で立ち尽していた。
「……まただ……」
 一哉のしかめっ面が目蓋の裏に浮んできそうな、良い加減参ったと云う声が前から届く。
 慣れっこなのか、智彦の質問に先回りして、
「不定期に起るんだ。そういう者が来てる時、何かを感じ取れる時、何かが起りそうな時
に。
 止める方法がなくてね」
 電源を抜いてあるのに、この有様さ。
「電灯も突然点灯したり、点滅したり、逆に点灯しているのが切れてつかなくなったり」
 序盤で動揺されては彼も困る。智彦も予測の範疇なので動揺は表に出さぬ。例え心中動
揺しても、それを表せば相手側の思う壷と分っている。それに、彼には強い味方がいる…。
 だが、そうと分ってはいても尚、恐ろしいのと気持ち悪いのは、止められないのだが…。
「電気的な物らしいとは、分ったんだがな」
 見れば、電灯がほんのり発光しているのが分る。灯りを点けた時程ではないが、カーテ
ンを開け放っても昼尚暗い中で、僅かに妖しく朱の輝きを放っていた。その輝きはテレビ
の雑音に連動している模様で、雑音の高まりと共に強まり、弱まると一緒に少し暗くなる。
 音の異変に気付いた健太郎も首を覗かせる。智彦のここ暫くの異常事態を何割か共有し
た健太郎は、智彦以上に動揺が欠如して温厚に平静だ。智彦は日常の顔つきを変える事な
く、
「手の内を隠した侭、こっちの反応を様子見している。余裕を示しながらも、細心だね」
 大物なのか鈍いのか、事を理解していないのか。一瞬だけ、一哉の顔に困惑の色が浮ぶ。
「別に、止める必要はないよ。逆に積極的に警報機代りにした方が良い。ガイガーカウン
ターの様な物だから。感知する機械は、悪くない。関知された者に、対処すれば良い」
 この台詞も、使い回す内に巧くなってきた。最初はガス警報機に例えていたのに、なん
と上等な機械の名前を持ち出してくる。
 自信満々と云うより、平然淡々と日常をこなす智彦に、一哉は驚きと納得を感じた様で、
顔に生気と表情が少し戻る。信頼に、一歩近付いた感じか。相手が相手だけに、今後の展
開は全く読めぬが、期待してみる値打はある。
 異変は一分と少し続き、唐突に終る。始る時が突然だった様に、終る時も何の前触れも
なく、終った後は何かあったのかと云う感じで消えたテレビの画面がこちらを眺めている。
「納まっちゃった」
「云うなよな、そんなに穏当な口調で……」
 窘める健太郎の口調の方が更にのんびりとしていて、それこそ仙人か何かの様だ。智彦
が異常事態を日常感覚で受けとめるのに対し、健太郎は日常が浮き世離れして超俗に近し
い。
「だって、納まっちゃったんだもん」
「そうだけど、もっと緊迫感と云う物が…」
 そういう健太郎にこそ、緊迫感がないのだ。そんなやりとりに、一哉の苦笑が割り込ん
で、
「驚かないでくれて、俺も嬉しいよ」
 一哉の顔には少しの爽快感があった。ざまあみろと、この異変を起した者の意図が挫け、
少しでも反撃できたと、嬉しがって。相手の意図の上を行けた事に、溜飲を下げた感じか。
「この程度の事なら、もう慣れっこだから」
「日常茶飯事に近いからね、もう」
 智彦が動じず、挑発とも威嚇ともつかぬ現象とその意図を受け流すのに、向うも手詰ま
りを感じたのか、異変は一分少しで終息した。取り敢えず向うの初手は一蹴したが、向う
は未だ手の内を明かしてない。勝負はこれから。
「この部屋だ。今は日中だから、少しはましな状態だが。……紀子、起きているよな?」

 一哉の妹で、二つ年下の紀子は高校二年生。野球部のマネージャーで、成績はほぼ平均
点に位置する彼女は、年頃の故かやや両親に反抗的でも、塞ぎ込む性格ではなかったと云
う。
 セミロングの黒髪に、両耳に真珠ののピアスを付け、動き易いジーパン姿で。身長は百
六十センチ、体型はやつれた故か痩せ気味だ。肌が乾いて荒れて見えるのは最近の疲労故
か。若者特有の瑞々しさがなく、全体に虚ろだ…。
 その顔が、眠たげに疲れた視線を漂わせている他は、常の若者と云えたろう。否、虚ろ
な視線が現代の若者の最大の特徴であるなら、彼女こそまさに現代人と云って良い。
 生気に欠け、気力を失い、眠らないだけで、起きた侭沈んでいる。そんな疲労の底にい
る無表情が見て取れる紀子の部屋に、一哉は一声かけて入り込むと、電灯を点けた。
 昼前なのにどんどん暗くなる曇天に、電気を点けねば、互いの表情も見えづらい。そん
な中、電気製品への恐れ故に触る事さえ出来なくなった紀子は、闇に独りでとり残されて。
 服は着ていたが、ベッドに上半身を預けた形で座している。その動作も全般的に緩慢で、
疲労とそれ以上の心労による無力感が窺えた。
「紀子、友達を紹介する。健太郎は知っているだろう。これが健太郎の親友の桜田智彦だ。
今日は、お前の悩みの解決に、来て貰った」
「……ちわ」「やあ」
 智彦は軽く右手を挙げて挨拶する。初対面ではない健太郎には、もう少し挨拶の仕方も
あったのかも知れないが、先に智彦がそうしてしまった故か、同じ仕草で追随する。
「……」
 少女は疲れた視線を侵入者に向けるだけで、挨拶しようともしない。状況が状況だけに、
世間体に気を使う余裕もない感じだ。
 表情全体に窺える深い徒労感が、彼女を己の中に閉じこめている。それは少しでも自分
を守ろうと、意識を内向きに集中している者に独特の姿勢だった。内向きに、逃げている。
 怯えるのに疲れきり、疲れが己を弱めていると分るから尚恐れ。疲れの故か姿勢は硬く、
反応は鈍い。外界の動きに応じる気力がなく、あってもそんな雑事に回す余裕はない感じ
だ。目を逸らせ、気付かなければないと思いたい。
 初見にしては礼を失した対応を受けた智彦だが、そんな事を気にする彼ではない。こう
云う異常事態への対面が初めてではない以上、異常に直面して疲弊し、心の平常を保てな
くなった常識人に直面する事も初めてではない。
「大丈夫、もうすぐ、良くなるから」
 根拠なさそうな、だが彼には確実な根拠を持つ静かな励ましの言葉をかけ、智彦は一哉
に勧められる侭に、紀子の座するベッドの脇に座り込んだ。室内は子供部屋の常で、窓際
にベッドが一つあれば他に座る余地が少なく、距離感が非常に近い。手を伸ばせば届く程
だ。
「健太郎も、入って座ってくれよ」
 智彦が来る事は伝えていた様で、日中は夜に備えて眠る事が多い紀子も、気が進まぬ顔
ながら、パジャマを着替えて待っていた様だ。
 初見の印象では、それ程綺麗な訳でもない。若さ故の可愛らしさはあるが、どこにでも
居そうな、平凡な女の子だ。特別強い印象も受けない。唯疲れた様子が分るだけだ。
『今度の助っ人は、貴男? 何を出来るの』
 紀子の疲労した表情が、疑念を浮べている。その奥には、軽々に相手を信用してぬか喜
びに終りたくないとの、怯えに近い思いが見え。『奴』を下手に刺激して、もっと酷い事
態を招くのは厭だ。それなら現状維持の方がまし。
 また失敗するんじゃないの?
 貴方なんかに私を救う事が出来るの?
 この異常事態を振り祓うだけの何がある?
 値踏みの視線にも、智彦は漸く慣れてきた。ただ、自信を持って見つめ返す迄は中々出
来ない。幾つかの異常事態を解決したとは云っても、彼の力で解決できた訳ではないのだ
…。
 その弱気を、内から突き破る『声』が届く。
【智彦が、頼りなさそうなのがいけない。そんな相手に助けを申し出られても、迷うだけ。
 もっと自信を持たないと。それでは、相手の不安を増幅させ、事をより困難にしてしま
う。正しい事を為すのだから、人助けなのだから、もっと堂々と、悠然と、敢然と】
 凛とした女声が、智彦の耳の奥だけで響く。
『そんな事云ったって』
 智彦は聴覚ではない振動で心に響き、叱咤する何者かの意志に、こちらも言葉に出さず、
『この顔つきや仕草は、十八年かけて養ってきた気質なんだから。取換えられるものなら、
取替えて貰っているさ。もっと格好良く啖呵を切れる、熱血戦士の顔にでも』
 ファンタジー小説の主人公でないんだから、簡単に中身迄ヒーローになれる訳がないだ
ろ。
 怒りにさえ気合いが入らぬのが智彦らしい。健太郎もそうだが、類は友を呼び合う様だ。
この女声の方が、種族が違って見えて来る。
 だが、この会話に集中すると、どうしても周囲との応対が疎かになる。気を付けても中
々巧く行かない様で、紀子の疑念を買う事を怖れた智彦は、数秒でこのやり取りを切り上
げた。耳の痛い言葉が多いが、聞き流すのだ。
「この部屋の感じ……」
 健太郎の言葉は、目聡くその状況を察しての行いだ。両者の性格と応酬を多少知る健太
郎は、目先の状況を動かして両者を事実に向き合わせた様だ。この局面で一番大人で冷静
で客観的なのは、健太郎だったのかも知れぬ。
「空気が冷たくて重い。心を押し潰して滅入らせ、頭に入り込んで来て冷静さを吸い取る
様な、変な感じがする」
 前に来た時も似た様な感じはあったが、こんなに濃密じゃなかった。否、今回はこんな
に濃密だから、俺が気付けたのかも知れないが、この空気は尋常じゃない。素人にも分る。
 この指摘は一哉には為せなかった。解決の目処が立たぬ中では、兄は妹を囲う現状の酷
さに触れられなかった。それは病人に顔色が悪いと云う行い故に。局面打開に自信があり、
見通しがなければ云えぬ。それを敢て口に出す姿勢が、健太郎の自信と闘志を現していた。
「でもこれを、逆に良い契機にしてしまおう。患部が明らかになれば一挙に解決も望め
る」
 物は考えようだ。常にプラス思考の彼だが、今日はとりわけ攻撃的に自らも鼓舞してい
る。
 この一件は智彦やその連れの戦いではない。勿論主力は、頼みの綱は智彦とその連れに
なる事は言う迄もないが、己の非力は承知の上で、この件は健太郎が先陣を切らねばなら
ぬ。
 関った以上、彼の友人和哉の妹である以上、これは健太郎の闘いである。紀子や一哉の
心を沸き立たせるのは、智彦達よりも、むしろ自分の役柄だ。彼はそう認識しているらし
い。
 その力強さに紀子が微かに反応を示した様な気がする。気はするがその反応は淡く薄い。
「……いつ迄も、人でもない奴らに人の事情を左右させてはおけないさ」
 健太郎がウインクしてみせる。
 紀子の両目が、僅かに生気を帯びて見える。日頃温和しくて、決意や意気込みを語る事
さえ稀な健太郎の温厚さは、紀子も知っている。その健太郎が、これ程に強く解決を示唆
する。
 望みがあるのか。解決を望めるのか。
 その希望に縋っても良いのかと、弱気な瞳が語りかける。期待の視線に彼が応えるのは、
彼が少し紀子に面識がある以上に、己を囮に智彦とその連れの前に相手を誘き出す積りで。
 智彦はその想いを分ってくれる。彼の連れは必ずその想いに応えてくれる。信じる事が
全ての原点だ。行動する事が全ての基点だ。
「いつ迄も人を見縊っていると痛い目に逢う。彼等もそろそろ身にしみて覚えた方が良
い」
 智彦は、周囲の冷たく重い空気全てを吹き払う積りで言い切った。即座に反応があるか
も知れないと、内在する者と共に一つの身体で即応の構えで、半ばは怖れ、半ば期待して。
 全身に緊張感と力をこめて、待ち構える。
 敵が動けば彼らも動く。出てきた所を叩き潰す。速戦即決も望める。『彼女』は準備も
覚悟も整っている。後はタイミングだ。だが。
 だが、反応はなかった。
 電灯もテレビも反応はなく、物音も声も風の音さえ聞こえない。全くの沈黙。室内にい
る者達の息遣いが、分る程の静寂に包まれて。
「……仕掛けてこない、ね」
「相手も馬鹿じゃない、か」
 少しの残念さを覆い隠し、出てこぬ敵への勝利宣言に近い語調で、智彦が当面の結論を
述べた。相手はすぐには打って出て来ぬ様だ。
 紀子を悩ませる怪異の主は今は現れぬ様だ。逃げたのか、邪魔者の到来に一旦退いたの
か。だが彼も健太郎も常の人の装いで訪れている。智彦の連れの存在は向うも流石に気付
けまい。
「少しだけ、時間が掛るかも知れない」
 多少事情に明るそうでも、特殊能力を持たぬ智彦は、相手にとって過剰に怯える程強大
には見えぬ筈だ。それでも大事を取り、退いて様子を見ると云う判断はある。だがそうで
あるなら、相手は中々思慮深い、厄介な敵か。
「でも、そんなに長くは、掛らないよ」
 即座の決着が不発に終って残念そうな一哉と、不安げな顔を見せる紀子の心中を察して、
智彦は自信過剰気味な不敵さでそう付け加え、
「今日の日没迄に、決着は付いている筈だ」
 暗雲は、昼前にも関らず更に低く垂れ篭め、風はこの時期には珍しい程冷たく、彼等の
連帯を断ち切ろうとするかの様に、荒れて来て。事の先行きは、現状では誰にも見えてい
ない。

「紀子も、久しぶりに安心して眠りに就いている。爆睡だ。それだけで、大きな収穫だよ。
 今迄は、日中も安心できなかったから…」
 一哉の顔に生気が戻って見えるのは、気のせいではない。彼にも、微かだが状況打開の
可能性が見え始めている様だ。これで、いよいよ智彦達に掛る期待も、大きくなるのだが。
「敵さんは、夜を待っているのかな」
 健太郎が、一哉が煎れた緑茶を呑みつつ智彦に問う。彼等が上がり込んで一時間弱が経
過した。眠りについた年頃の娘の間近にいるのも拙いので、三人は隣の一哉の部屋にいる。
 何かがあれば即応できる。智彦に物の怪の気配を察する能力はないが、その能力を持つ
者と一体だから、察する事が出来る様な物だ。
 一哉の部屋は複数の訪問者で、久しぶりに人気に満ちている。敢てテレビのスイッチを
入れ、昼尚暗いと電灯を点け。そうとは見えぬだろうが、これは智彦流の早期警戒体制だ。
「この暗さなら、いつ仕掛けてきてもおかしくはない。夜迄待つ様に思わせておいて、不
意打ちって云う事もあり得るしね」
 健太郎は、智彦のその台詞が誰かの受け売りだと察していたが、何も云わなかった。
「案外、家の外辺りで機を窺っているんじゃないのかな。こっちの正体とか探りながら」
 相手もしぶとく粘り強いのか、想像以上に奸智に長けて狡猾なのか。或いはその両方か。
挑発に乗って敵が前面に出てくれば、こちらもすぐに『主力』を出せる体勢で来たのだが。
「お前、結構凄いんだな」
 智彦の事情を詳しく知らない一哉は、局面を主導できる彼の度量に、驚きの表情でいる。
 そうは見えないと、何度云われた事か。
「そうでもないよ。こういう案件に何度も遭遇していれば、誰だって慣れて対処法を覚え
てくる物さ。日常茶番劇って云うじゃない」
「それを云うなら日常茶飯事だろ」
 すかさず健太郎が誤りを正すと、
「……そうとも云う」
「俺にとっては、そういう事が日常茶飯事な生活の方が、想像できないけどね」
 一哉の僅かに興味深そうな問い掛けに、
「そりゃ俺だって、つい二月前迄は、ねぇ」
 健太郎の答はない。事が終ってない段階で余りネタばらしに繋る近い過去に触れるべき
ではないと、窘める視線である。やばやばっ。
 ここは話題を変えるに限る。
「それより、時間が出来たからには、もっと詳しい事情を教えて貰えないかな。健太郎か
らは多少聞いたんだけど、もう少し具体的な、目に見えた姿形とか、起った異変の内容
…」
 新客来訪を告げるブザーが鳴り響いたのは、その時だった。疲れ気味の母に寝ていて貰
いたいと、一哉が一階迄降りていって応対する。
「……ちょっと」
 何を思ったのか智彦が立ち上がった。座したままの健太郎の右肩に、軽く手を触れると、
「トイレ、行きたいんだけど」
「トイレなら二階にもあるよ。階段を上った所から折れた通路の行き止まりに……」
 隣の部屋で紀子が無防備に眠っているのに、一哉が降りていってわざわざ一人欠けた時
に、と怪訝な顔を見せる健太郎に、智彦は重ねて、
「一階に、行きたいんだけど」
「……分った。案内する」
 智彦は(正確には智彦ではないが)一階に来た訪問者に何かを感じたのだ。トイレと云
うのは口実である。そして智彦は、紀子を僅かな間でも誰一人傍にいない状態を作って迄、
その何者かを健太郎にも、視て貰いたいのだ。
 彼の感触、彼の印象、彼の見方。
 健太郎の、常人だが平凡ではない独特の感覚は、時に人の本質を理屈抜きで射抜く。智
彦は『彼女』の判断を健太郎に伝えて、彼のその独特の感覚に協力を要請したと云う訳だ。
 階段を下りる二人の視界に入って来たのは、紀子が通う学校の制服を着た、一組の少年
少女だった。女子の方は、花束を持っている。
 少年の方は、運動系部活の伝統的な丸刈で、良い体格と精悍な容貌の持ち主だ。身長百
八十二センチ、体重六十九キロはずば抜けて大きい訳でないが、智彦よりは大きく腕も太
い。
 恋を夢見る年頃の女子が理想に描く紅顔の美少年とは云えないが、厳つい顔の中にも若
者の持つ情熱と躍動が感じられ好感が持てる。しかし、智彦が『視に』来たのは少女の方
で、
『可愛いね、彼女。彼の、恋人なのかな?』
 身長は百六十三センチ。体重は明かしてくれなかったが五十キロ弱。今時の女子高生に
しては、痩せすぎでもない位か。モデルやアイドルの様に体型に生活を賭け、体重に命を
懸けて生きるのでもない限り、標準と云えた。
 ミディアムな癖のない黒髪が艶やかで、黒目が大きくて印象的だ。全体的に落ち着いた、
それでいてはきはきした応対の少女である。
 階段を下りていけば玄関が真正面で、智彦も健太郎も二人の少年少女も、互いの存在を
確認できた。お互いに、少し首を傾げている。
『こういう時に、遊び友達って事はないね』
『あちらさんも、そう云いたそうな顔だよ』
 二人は目線だけで会話をするが、似た様なやり取りが高校生サイドの間でもあった様だ。
学制服姿の男子の方が、微かに女子の方に注意を促すのに、分っていると云う頷きを返す。
「……折角来てくれたのに悪いが、今眠りに就いたばかりなんだ。ここ数日、ずっと具合
が悪くて、夜も昼も満足に寝ていなくてね」
 これは嘘ではないのだが。
 一哉は年下の来客に、ばつの悪そうな顔で、
「久しぶりに熟睡している今、訪問客は断りたい。悪いが、時を改めて来て貰えないか」
 そう云って来訪を断っている時に、紀子の眠る二階から二人の来客が降りてくると云う
のは、一哉にはバッドタイミングだったろう。
 紀子にではなく、兄への来客だと云っても、いずいのは事実だ。もう少し隠れていてく
れと云う心の叫びが届いてきそうだが、智彦達はまさにこの二人を見る為に一階に来たの
だ。視る為に、視られてしまう事も、承知の上で。
「一哉、智彦がトイレに行きたいって」
「ああ、案内してやってくれ。悪いな」
 会話がわざとらしく聞えるのは気のせいか。家の者を隔て、2組の2人組は互いに互い
を確認し。その時間は2秒程か。だがそれはお互いに、只の兄弟の友達へ送る視線ではな
い。
 互いにここで起る事の重要性を知り、その場になぜ相手がいるのかも推察し、そこに偶
然ではなく必然を感じる者同士の探り合いだ。
 少女の視線が言い訳がましい語調の一哉を飛ばし、トイレに向う智彦の背に向けられる。
一哉の言葉に実がないと見抜かれたのか、もっと重要な何かを二人の方に見出だしたのか。
 その非礼に不快を示せないのは、一哉に後ろめたさがある証左だ。少女の行いはやや冒
険的だったが、その故に一哉を怯ませ、智彦達の目論見に再計算を命じるに十分な牽制で。
「じゃあ、また、出直します」
「近い内にもう一度来ますので、起きたらこの花束を渡して、私達の事を伝えて下さい」
 最初は少年の言葉だが、その主導権は後を受けて云い終えた少女の物だと透けて見える。
少年の菓子は単に渡しただけだが、少女の花束はその来訪を紀子に伝えさせる効果を持つ。
 強気だ。そう感じたのは、背中で声を聞いていた智彦だけではなかっただろう。健太郎
はそこに、強気というより切迫した事情から来る、焦りに近い物を感じると云っていたが。
「失礼しました」
 男子の声が退出を告げる。声を聞く限りでは、朴訥で誠実そうな声だった。

「あの二人は、(紀子の)クラスメート?」
 いや。一哉の答が短いのは不機嫌の故だが、それは智彦達の行いの故ではなかった。
 戻り来た一哉の部屋で、彼らはお菓子箱から取り出してきたピーナッツをつまみながら、
「男子の方が紀子の一級上で、同じ野球部に所属している平井健行(たけゆき)。エース
で五番、奴の存在がチームを甲子園も夢じゃない所迄引っ張り上げている原動力らしい」
 紀子は野球部の、マネージャーだったっけ。
「爽やかだね。少し不器用そうだったけど」
 智彦が短く印象を述べるのに一哉も頷いて、
「野球部のスターの話は、紀子に聞かされていたから。それこそ、耳にタコが出来る位」
「……それって」
 健太郎の気付いた事は、智彦にも分った。
「野球部の連中で俺が分るのは、あの平井と、その隣にいた北川朝子、それにあと数人か
な。俺も春迄在学はしていたが、学年も違う妹の、クラスもばらばらな部活のメンバー迄
は、俺も追いきれないさ。後は名前しか分らない」
 兄の印象は、妹の学校生活における心の比重を表しているのか。紀子は野球部のマネー
ジャーという職分に、青春を賭けていたのだ。朝子は、何度か紀子を迎えにきた事がある
と云う。健行は野球部の期待を担う男子らしい。
 だがそれ以上に、一哉の耳に紀子の口から流れこんだ情報が多かった事実は否定できぬ。
 その情報は智彦と健太郎に、簡潔な事実の取捨選択をさせていた。紀子が兄に覚えられ
る程に朝子と健行の事を話したのは、彼女にとって二人がそれだけ重要人物だったからだ。
 その二人が揃ってここを訪れた事に、意味のない筈がない。仮に当人に意図がなかった
としても、それで事態が動きだす場合もある。運命の糸とは、自らの意志で紡ぐ事もあれ
ば、己が気付かぬ所で勝手に紡がれる事もある…。
「だが、今日に限って来るなんて」
 一哉の表情が苦いのは、実は朝子の粘り腰な応対による物でもなかった。彼女の応対は
少ししつこかったが、常識の範囲を逸脱してはいない。しっかりと人の目を意識している。
「(朝子は)彼女に会いたがっているね」
 智彦の指摘に、健太郎が補足して、
「会わなければならない事情を抱えている」
 そんな感じだったな。考え込む様子で、
「今はこっちも衰弱しているから、起すのに問題があった。でも一眠りして起きた頃に様
態が落ち着いていれば、問題ないと思うが」
 これは健太郎が決められる案件でないので、助言する形に止める。健行の応対は朝子の
それに比べ、やや控え目なので目立たなかった。自然彼らの関心は朝子の方に集まる。
 そこには少し年下の異性と云う要素も、若干影響していたかも知れない。朝子は特別綺
麗な訳ではないが、明らかに人目を惹く程に生き生きと充実して、眩しささえ感じるのだ。
「何の用件なんだろう?」
 見舞いや心配などを排除した智彦の提起は、それらだけで彼女がここに来た訳ではない
と、分っていればこそだ。そして健太郎も一哉も、朝子の強い意志、願望を肌で感じ取れ
ていた。故に、その前提に異義もなく頷いて考え込む。
「彼女には強い意志というより、切迫した事情から来る、焦りに近い物を感じるな」
 健太郎は静かに語って、
「上がって貰って、尋ねるって手もあった」
 その場で云わなかったのは、家の者である一哉の判断を優先させたと云う事なのだろう。
 一哉も、意地悪で彼女達を家にあげなかった訳ではない。彼にも彼の判断があったのだ。
 一哉の渋い顔は、善意で見舞いに訪れた朝子を、正当な理由があっても、門前払いして
しまった後ろめたさの故だ。智彦達はこの件の解決に必要な故に、部屋にあげているのに。
質が違うと分っているが、結果片方を受け容れて片方を拒んだ形になるのは、後味が悪い。
「でも、上げたら中々帰って貰えなかったな。起きる迄、待つって云われたかも知れな
い」
 奇妙な迄の熱心さに、一哉が一抹の不安を感じたのは事実だ。それは智彦達にも分った。
「それに、今は紀子の周りでいつ何が起るか分らない状態だ。出来るだけ人を近付けたく
ない。良い話なら別だが、こういう事だし」
 一哉が常識的な見解を述べるのに、
「こういう事に関係がある人だとしても?」
 智彦の問いに一哉の身体が硬直する。智彦は自然な語調だが、それはあっさり云ってし
まって良い内容ではない筈だ。関係者の中には加害者も含まれるのだ。
 健太郎に驚きが見えぬのは、智彦が一階に行くと云った時から、それを予測出来ていた
為か。どうやらあれは生の朝子をその目で視て、その様子を窺いたいと云う事だった様だ。
 だがこれは、非常な危険を伴う冒険でもあった。朝子か健行のどちらかが、紀子をこの
様な目に遭わせた張本人で、充分な戦意に満ちていたなら、その場で即超能力戦争の引金
になりかねない程、微妙で危うい行いだった。
 故にそれは、多分智彦の独断ではなかろう。智彦の背後にいる『彼女』の指示だったの
か。
 なら、それは様子窺いと云うよりむしろ挑発に乗り込んだと云うべきかも知れぬ。勿論、
敵だと言う確証があった訳でもない。しかし、敵と分れば即戦いに入る可能性は濃厚だっ
た。智彦も、後になってそう気付き愕然としたが。
『戦いには、持久戦もあれば速戦即決もある。
 相手が様子伺いで覚悟も戦意も整わぬ内に、待ち伏せに近い形で総突撃を仕掛けて一気
の勝利をもぎ取ってしまうのも、一つの戦術だ。そう云う時には微かな緊張や気後れが失
敗を招く。智彦が私の全てを平然と受け容れられる位剛胆になれば、事前に示しても良い
が』
 そう云われれば智彦の方に返す言葉がない。覚悟はしていた積りでも、求められる強さ
のレベルが違う。だが、相手も戦いを望む程の敵なら、彼とてこの応対に付いて行けねば
なるまい。平和の国で、日常を平穏無事に過ごしてきた智彦には、厳しい事かも知れない
が。
 結果決戦は不発に終ったが、下手をすると今頃は戦いも修羅場も全て終って、白黒付い
た後だったかも知れぬのだ。一哉が望んでいた出来るだけ早い解決の、その極みになろう。
 そう思うと、心が微かに身震いしてしまう。
 にも関らず、と云うべきなのか。
 健太郎が驚く様子もなく簡潔に、
「朝子の方か?」
 健太郎の平常心は、むしろ超人的と言えた。智彦のそれとは違い、彼は意識せずに神仙
のの境地にいる感じで、何事にも常に平静で。
「うん」
 分った様な問と答だが、一哉には事がまだ理解できない。説明を求める視線に、智彦は、
「微かだけど、彼女にも感じたんだ。
 なんて云うのかな。そう、紀子さんに憑いていた『物の怪』の気配、みたいな物を」
 慎重に言葉を選んで答えるが、その慎重さの故に一哉には事態が未だ良く見えて来ない。
「君の妹さんを悩ませていた、得体の知れない化物か何かが取り憑いた様な気配を、あの
朝子って子にも感じた。そういう事だよ」
 それでも智彦は未だ言葉選びに慎重だ。
「で、それって、どういうことなんだ?」
 一哉が事を噛み締める様に、更に問う。
「彼女にも同じ奴が取り憑いている、彼女もそれに取り憑かれているって、事なのか?」
 それが解決に向け幸になるのか禍になるのか、全く分らない感じで答の先を促す一哉に、
「そうかも知れない。でも、違うかも。
 果して彼女は被害者なのか加害者なのか」
「おい、加害者って、それはどういう事だ」
 智彦の言及に一哉の語調がきつくなるが、
「朝子が詛いを発していたと言う可能性を、避ける訳に行かない。そういう事だろう?」
 健太郎が静かな語調で問への答を受け継ぐ。
 その応答で、2人は段階を追って説明すべき内容の大半を、一気に伝え終えていた。だ
がそれは、平成の世に生きる一般人には時代錯誤な言葉である。神経がまともな時に聞い
ていたなら、一哉も正気に受けはしなかった。
 紀子の不調は詛いと云う超常現象の故だと。それは実在し、幾らかの物理現象を伴いつ
つ、人の生活や健康を脅かしていると。しかもその詛いを発した疑いが、紀子と近しい関
係にある朝子に掛っている。明朗快活な朝子に…。
 智彦達はその前提で、紀子を助けに現れたのか。紀子を包む詛いを打ち払いに来た撃退
屋と云う事か。漸く話が繋ってきた。同時に、漸くこれ迄彼らを取り囲んでいた怪異の全
貌が把握できた気がする。今迄は何が起っているか一哉も家族もよく分ってなかった。だ
が。
 ありえるのか。そんな事が、この現代にありえるのか。混乱の中、疑いの方が先に立つ
一哉だが、二人の来訪者はその根本的な疑念を素通りして、一哉の認識を置き去りに進む。
 漸く一哉も事実認識の近くに来た。智彦は確かに一哉の悩みを解決に来た切札で、その
方面の専門家だったのか。未だにそうと見えぬが、この同年輩の若者は撃退屋だったのか。
 智彦は健太郎の明確な補足に頷いてみせて、
「詛いを抱く人物とは、いつの世でも被害者に関連を持つ者、深く繋った者。逆に云うと、
関りも薄く利害も感情も込み入らない疎遠な者は、愛も情も親しみも持たない代り、嫉み
も恨みも憎しみも抱かないからね」
 犯罪者は被害者の近くにいる。深く関っている事も多い。間近に接してなければ接点が
生じない。通り魔とか行き当たりばったりな犯罪もないではないが、むしろ珍しい部類だ。
 そういう意味では、紀子の兄に迄印象を及ぼした平井健行や北川朝子は、紀子との繋り
も十分に深く、その資格を持つと云えるのか。まず関りを持つ事が、最大の前提なのだか
ら。
 関りを持つから、摩擦が生じる。繋りを持つから、軋みができる。社会生活とはその繰
り返しだ。それは俗世に生きる以上止むを得ぬが、それに擦り切れた心が限界を超えると。
 犯罪捜査が常に近親者から探すのは、その犯罪の必要性や有効性を知る者、被害者から
それを奪う意味や奪うものの所在を知る者が、世の中にそんなに溢れている訳ではない故
だ。
 超常現象も人の所作なら、人の行動原理の範疇にある。分らない事はあるが、何もかも
分らない訳ではない。所詮人の行いだ。その確信に基づく故か、来訪者のこの落ち着きは。
 唖然としつつ話の推移を見守る一哉の前で、
「一見しただけでは、肯定も否定も出来ないんだけどね。もっと会って、相手の感情に触
れて、本音を探って、懐迄入り込まないと」
 常識外の話でも日常に流せる二人の会話の中で、問を挟む間もない侭、ここ数週間を振
り返って一哉は、詛いこそが事を淀みなく説明できる言葉かと、納得できてきた様な顔で。
 理外の理という奴か。実感なのか。材料が近場に転がっていても、事柄を繋げて把握せ
ねば、何が起っているか、起っていたか掴めない。一哉もそれを無意識に避けていた。知
る事が怖い、対応できぬ状況を認めたくない。
 だが、心は既に感じていた。肌はそれを察していた。身体は既に身構えていた。それを
見せられて、見せつけられて。今知ったと言うよりは、今知っていた事に気付いた。
「信じられんな……」
 一哉は額に右手を当てて、考え込む姿勢を見せた。だがその言葉には力がなく、それが
願望にしか過ぎない事を彼自身も分っている。
「信じられんというより、信じたくない…」
 智彦の言葉が信じられぬというのではない。詛いが実際に力を及ぼすという話を、信じ
られぬと云うのでもない。一哉はそこ迄強固な無神論者でもなく、合理主義者でもなかっ
た。
「紀子が恨みを買う理由が、思い当らない」
 妹が、呪われる程誰かに憎まれていた事を認めたくない。それは妹の不徳に繋る。逆恨
みという例外もあるが、この国では恨みや憎しみを買うには、それ相応の因を前提と見る。
 それはあって欲しくない。信じたくはない。
 それに加えて、あの北川朝子がそれを為すと云う事が、一哉の中でも考えにくい。そこ
迄陰湿で卑劣な性分だとは、今でも思えない。
「どう見てもそんなタイプには見えないが」
 彼の呟きも無理はない。それは一見しただけだが智彦も健太郎も共通の印象だったのだ。
「彼女は今とても充実している。そう見て取れた。多分、部活や学校生活は順風満帆だ」
 本人は毎日大変かも知れないが、周囲が見れば最も躍動した青春時代ど真ん中って奴さ。
見れば分るよ。あんなに生き生きしている高校生は、今時そんなに多くない。
 智彦が慎重に言葉を選ぶのも、詛い程今の朝子に不似合いな行動はないと見えるからだ。
行動的で積極的で、快も不快も自らの言動で表明し伝える。そういう性分に、詛いの様な
迂遠で間接的な表現方法は似合わないしまだるっこい。第一思いつかないだろう。
「それどころか、彼女は他人に気を配る立場にいる。だから今日、彼女が紀子を訪れた事
自体は、それ程に珍奇な話でもないんだが」
 紀子が学校を休んで、二週間が経っている。本当の理由は勿論学校の誰にも告げてない
が、その故にそろそろ休みの長さに不審を抱かれても、おかしくない頃合だ。来週も休む
のかと云う感じで心配し、見舞いに来てもおかしくはない。一哉の補足も納得できる物だ
った。
 三年生は最後の甲子園も近い。そんな中で、紀子も含む複数のマネージャーを取り仕切
り、チームを側面から支える。元気良く以上に色々な方面に気を配り、人に気を配らせる
様に促す世話役なのだ。
 為すべき事を持ち、時間に追われる者なら、同世代の一般生徒より輝いて見えても必然
か。為すべき事を為し、いるべき所にいる。それが人にとって最も有意義で躍動する時な
のだ。
 詛いの存在や有効性の有無を棚上げにしても尚、朝子と詛い、紀子を襲った怪異とは全
く関係ありそうに見えない。見えないのだが。
『だが、この好感もその故に、問題なのか』
 心中の呟きに、健太郎は瞬間『彼女』の視線を感じた。形に見えぬ何物かの気配の接触。
事情を知らぬ者には錯覚と切って捨てられそうな微妙な気配だが、最近は彼も慣れてきた。
『彼女』に、今の彼の心中を隠す積りはない。むしろ己の推測も、判断材料に使ってくれ
と云う感じで、心の表面で思索していたのだ…。
 彼には智彦の特殊条件とも異なる、奇妙な未来関知の才がある。彼がふと立ち止まる所、
物、言葉には何かの意味が隠れている事が多い。必ずと云う訳でもないが。それを知って
立ち止まる訳でもないが。匂いに近い何かが、健太郎の意識に引っ掛るのだと、自身どう
説明して良いのか分らない顔つきで話していた。
 久しぶりに街で見かけただけで気になって、肩を引っ掴んで喫茶店に行き、事情を聞き
出すと云う真似は、昔の同級生にも中々出来ぬ。まして彼の性分は行動的・積極的とは縁
遠い。
 蛮勇に近い行動を彼にさせたのは、一哉が沈んでいて気になった為と云うが、そう気付
けた最初の者が健太郎だったのは、偶然ではない。同じ理由なのだろうか。彼が智彦の身
に数ヶ月前に生じた異変を、その後の彼らを、抵抗もなく受け容れて自然体でいられるの
は。
「魔女狩りになったら拙いから、先に云っておくけど、彼女が黒と決まった訳じゃない」
 彼女も被害者かも知れないし、偶然関りを持っただけかも知れない。風邪の菌を持って
いても、病原とは限らない。彼女も移された側かも知れないし、偶々触れただけかも……。
 単に朝子にその気配を感じるからと、彼女を敵視するのは短絡的だ。魔女狩りが、魔女
でもない無実の人々を、沢山沢山巻き込んでいった様に、彼女も無実である可能性がある。
 それを狙った相手方の、罠の可能性さえ考えられるのだ。目先を逸らす策謀の可能性も。
「だが……」
 智彦の言葉を受けて健太郎は元の話に戻り、
「彼女は、何らかの関りを持っていると考えるべきだ、と俺は思う。何を知っているのか、
或いは感じているのか。今日俺達が来た事に即応してなのかどうかも、分らない。だが」
 突破口になりそうな物は何でも掴むべきだ。
 事を進める為に、朝子を会わせるのは一考の余地がある。彼らもいつ迄もここには居座
れぬ。持久戦になると、彼らがここにいる事にも世間向きに不都合が出る。切札を持って
来た以上、掻き回してでも早期打に開せねば、精神的・肉体的に紀子も家族も保たなかろ
う。
 敵方はこの家付近を戦場に常時紀子を脅かしていれば家族も含めて疲弊を強いられるが、
彼らの側はこの場から敵を打ち払い二度と脅威が及ばぬと紀子を安心させねば駄目なのだ。
 来ただけでは意味がない。闘い勝って二度とここが戦場にならないと安心せねば事は終
らない。なら、早期解決の為に積極的に仕掛けるべきなのは我々だ。健太郎はそう云うが、
「彼女を、会わせるのかい?」
 だが、意外にも智彦の方が乗り気ではない。その表情には未だ状況を掴みかねている故
の不安が窺える。少し考え込む表情で、
「紀子さんは、逢う事を望むかな?」
 一哉の顔を見るのは、紀子の意向も大事だが、兄である一哉の判断を抜きに出来ぬ為だ。
彼女は今正常な判断が出来にくい状態にある。周囲が判断を促さねばならぬ場合もあろう
が、その場合彼女の兄の判断は、非常に重くなる。
「起きたら、話してみよう」
 本人の判断に任せるというのも、選択肢だ。
 兄の判断を求められる場合はあるが、それは今ではない。一哉は健太郎や智彦の意見を
聴き入れつつ、思案を巡らせている様だった。状況を整理するにも、時間が欲しいのだろ
う。
「それより早く、彼女が来ちゃったら?」
 何時間か置いて、また来るのではないか。
 朝子が、日を改めてと言わなかった辺りを、智彦は微かに気に掛けていた。否、普通そ
こ迄は言わない物だが、朝子の心理状況が普通ではない可能性もある。その問い掛けに、
「(紀子が目醒めたら)こっちから連絡すると云って、引き取って貰うしかないさ。漸く
安眠できているんだ。これ迄の疲労も溜っている。目覚める迄は、寝かせてやりたい」
 確かに、彼女の体調の回復も至上問題だ。
 来訪者達が頷くのを見て、
「お前達も一休みした方が良いだろう。寝ていてくれとは云えないが、昼飯位提供するよ。
 下からカップ麺を持ってくるから、そこの電気ポットの電源を入れといてくれるか」
 そう、それ。その時には既に彼の姿はない。
「腹が減っては戦もできないって云うよね」
 どんな時でも、食事は人の心を和ませる。

 ささやかな食事を終え、各人の気持は和み、場の緊張感が少し緩み始めてきた頃合だっ
た。満たされた気持と、安定化した状況と、刻々過ぎゆく時間に、状況が収まった錯覚を
抱き始めた彼らの中を、警告の閃きが駆け抜けた。
 それは智彦の心にのみではなく、健太郎や一哉の心に迄、『間一髪』のヒヤリ感を与え。
何とも説明し難いが、自動車の居眠り運転を自覚した瞬間と言えば感覚は掴めるだろうか。
 電光の閃きが走ると同時に、三人は心を身構えさせられていた。そんな錯覚を抱かされ
れば、寝ていても身構えざるを得ぬ。それは物理的に言えば、3人の脳に微かな電気信号
が特殊なパターンで送られたと説明できるか。しかしそうであってもそれを誰が為したの
か言えなければ、結局説明になってない訳だが。
「なん、だ」「来た、のか」「そうみたい」
 一哉は初の体験に動転しているが、健太郎は何度か経験済みなのでそれが一種の注意報
と受け止め、確認の問である。その発信源にほぼ重なる智彦は緊張の中でも己を保ちつつ、
風の音に耳を澄ませるに近い様子で、二人の様子を確認しつつ、注視を受けて微かに頷き、
「仕掛けてくる。向う側が動いた」
 なぜ分るのかは問いもせぬし答えもしない。切迫を要すると、動く事が最優先される状
況だと、この場の皆が一致して受け止めていた。説明は後だ。今は、誰が、何をすれば良
い?
「……」
 説明に悩むのか、何かを言いかけようと微かに口元を動かしつつ、智彦はその内容を言
い淀む感じで数秒の沈黙が過ぎゆく。その静寂を破ったのは、玄関の来客用ブザーだった。
 最近は、日中は母を眠らせておきたいという事で、来客は一哉が応対している。彼が玄
関に降りていくのは自然な流れだったが、智彦はそれを制し健太郎に行くよう目配せした。
 何を言いたいのかという一哉の視線に彼は、
「眠っている紀子さんの様子を見て欲しい」
 それは智彦の直感や読みではない。彼と共にいた『彼女』が勘づいたのだ。一哉を隣室
から引き離し、皆の注意を別方向に引きつけるそれは敵方の陽動作戦だと。
 本当に誰かが来ているなら、来客は捨て置けないし、本来一哉が対応するべきだ。だが。
 その間に隣室で何かがあっても、年頃の女子が睡眠中の部屋に、他人である智彦や健太
郎は入りにくい。僅かな躊躇や遠慮に、奴らは入り込む隙を見いだす。注意が逸れている
間は、隣にいても瞬間的な手出しは防ぎ難い。
 それを目論む敵方の策と見抜いた『彼女』は当然の分担を逆手にし、いるかいないか分
らぬ来客への応対を健太郎に頼み、眠っている紀子の様子を兄の一哉に看て貰うように…。
『彼女』とて万能ではない。家の中の、紀子の周囲に気を配り、隣室から怪しい気配の有
無を窺い、脅威に警戒しているが、どこ迄も全て見通せる訳ではない。その領域の外側で。
 奴らは蟠り、滞り、淀み、機を窺い、誘い出そうと試みている。一哉もそれを今しみじ
みと感じさせられた。彼らは唯の自然現象ではない。知的で、狡猾で、悪意に満ちている。
 これを防ぐには、唯の介護では駄目だ。
 これを退けるには唯の異能では足りぬ。
 知と勇を兼備した確かな意思、守る気持と闘う覚悟を兼ね備えねば、対応できない。健
太郎が智彦を連れてきた理由が分ってきたし、智彦でなければ対応できない訳も分ってき
た。
 これ相手には経験と、場数を踏んだ上で始めて持てる覚悟がいる。相手の手の内を分り、
それに臆せず対応できねば、救援にはなれぬ。そしてそれは一哉でも健太郎でもなく、智
彦でなければならぬ。それは彼の故と言うよりは彼に付随した物による。智彦の後ろには
…。
「はい……」
 玄関のドアを開けた健太郎を出迎えたのは、無人の街路だった。左右を見ても人影はな
い。僅か十秒余りの間に、押した誰かがいなくなるとは考え難い。走り去れば無理ではな
いがそれはかなり不自然だ。誰かの悪戯の可能性も捨てきれぬが、こう言う時にタイミン
グ良く、普段は起きない悪戯が発生するか。偶々の悪戯だとしても、都合良すぎる自然現
象は、むしろ何者かの使嗾によると見るべきだろう。
 周囲に人影がない以上、本当に人の所作によるか否かも、健太郎には判断が付きかねた。
まあ、どっちでも良い。これは陽動と分った。ここから攻めてくる者、入り込む者はいな
い。
 健太郎はドアを閉め、二階に戻る。空気が、さっきよりもやや暖かくなっている気がす
る。
 このドアは、智彦達が入り込んだ時点で既に守りの機能が修復されている。多少の妖か
し等は通れぬし、それ以上の者が通ろうとしてもそれに伴う『波紋』が生じる。何らかの
影響が出て、それを智彦や『彼女』、それに鋭い勘を持つ健太郎でも感づけるという事だ。
 元々はどこの家も持つ外と内を隔てる程度の機能だが、この家は既にそこから浸食され、
機能不全にされていた。好き放題に入り込み、出ては舞い戻れる様にされていた。外と内
を開け閉める象徴たる入口がこうであるのなら、外と内を隔てる壁も屋根も似た状況であ
ろう。
 そこから真っ先に修復したので、何かがドアを開けた隙に通り抜けようとすれば、見え
もせず聞えもせず、防げもせぬが感じ取れる。
 それ以下の者なら入れないので問題ないし、それ以上の者なら彼の手に余るので手の打
ちようがない。どっちにしても、ここでの所作が陽動だと確かめた事が、彼の役目で成果
だ。
 そして、健太郎がこの役を負った故に、智彦と『彼女』の意識が隣室で目を光らせ続け、
一哉が妹の様子を見に行った故に、紀子へのそれの接触は、瞬時で終らざるを得なかった。
意識に呼びかけた程度で、目覚めさせた程度で引かざるを得なかった。そこで退かねば自
身が逆に危ういと、向うも分っているらしい。
「行ってきたが、誰もいなかった」
 階段を上ってきた健太郎を迎えたのは部屋に一人残された智彦だった。結果としては唯
のお遣いだが、重要で危険かも知れぬ役を担ったにしては気負いのない平静なその報告に、
「さんきゅ」
 智彦は、ある程度結果を報されていた様で、その答にも驚いた様子も見せぬ。それより
健太郎を心配した様子もない語調からは、健太郎の万全な安心をも報されていた事が窺え
て。
「やっぱり、紀子さんが狙いの本命か」
 問を発しつつ座り込む健太郎に、ポテチを勧めつつ智彦は、即答で頷いて、
「だろうね。敵方もそう手数はなさそうだ」
 策を練る事は出来ても、数がなければ展開に無理が出るから採用できる策も制約される。
それも浮き彫りになってきた。今後の攻め手への防御もそれに応じ絞り込める。考慮する
要素が減れば、守りはぐっと楽になる。更に、敵の手駒が少なければこちらから逆襲出来
る。
 向うは、こちらの切札をまだ知らぬ侭に守りの強靭さと柔軟さを思い知らされ、容易に
接触も出来ない事実を突きつけられただけだ。これは敵方には予想以上に痛手になってい
る。
 一撃離脱。己の正体を明かさず、紀子に何かの所作をして事態を悪化させ、それを見守
り智彦達の手の内を見ながらその疲弊を待つ。いつでも舞い戻れるという脅威を残し、四
六時中守らねばならぬ緊張を強いつつ、攻め手はいつでも自在に時を選んで脅威を及ぼせ
る。
 だが、彼らはそれを見破った。その策を看破して脅威から紀子を守り、その浸透を瞬時
に止めた。相手側も、まさかそこ迄的確に対応してくるとは思ってもいなかったのだろう。
 瞬時に来て、数秒で紀子の意識に呼び掛け、処置をして、脱兎の如く去って様子見に戻
る。それを防がれ、紀子に接触できるか否かで逃げ去らねばならなかった。目論見より己
の身を優先したので辛うじて逃げ切れたが、奴もこの守りは容易に崩せぬと知った筈だ。
基本的な状況はそう変らぬが、攻めの優位と守りの不利は変らぬが、その守りは下手をす
ると攻め手を粉砕しかねない程に堅くて強い。簡単に次の手を打てる状況ではなくなった
筈だ。
「それにしても、ピンポンダッシュとはね」
 健太郎のやや呆れた呟きに智彦も応えて、
「思わず釣られる所だったよ」
 巧い。巧い攻めだが、しかし。
「これは、俺の感触なんだけど」
 智彦は珍しくここで己の感覚を前に出して、
「相手は狡猾だけど、正体さえ掴めば意外と簡単に崩せる、脆弱な奴なんじゃないかな」
 ここ迄の対処を見ても、表向きは唯の人にしか見えぬ智彦の介入に用心深く応対し、手
の内を見せず挑発にも応じず、動く時には手の込んだ策を使い、不利と見るや瞬時に引く。
これは慎重さと言うより、狡猾さと言うより、臆病さではないか。用心深い相手と言うよ
り、それが生命線の本当は脆弱な相手ではないか。なら、そこに敵方の弱点が見えて来る
のかも。
「分ってるよ。闘いは必ず強者が勝つようには出来てない。弱者には弱者の戦い方があり、
それを侮ると強者でも一敗地にまみれる事は珍しくないって。その位、分っているって」
『彼女』が智彦にそう言わせるのは、彼に分らせる以上に他の者に分って貰い、気を引き
締めて欲しい配慮か。だがそれは『彼女』も彼の見解に賛意した上での反応だ。そうでな
くば、最初にその事実認識の否定が語られる。
 彼らは実は戦力的にはかなりの優位にある。ひょっとしたら、『彼女』が直接出てこな
くても、智彦を通じ間接的に対処するだけで解決できるかも知れない位に。相手を捕捉さ
え出来れば、相手と正面から対峙さえ出来れば。
 尤もその故に、相手がより慎重に長期持久戦を望み、お互いに相手の正体が見えぬ侭に、
攻めと守りの睨み合いが続く事態になる怖れは高い。それは彼らにも望ましい事ではない。
 紀子の容態は、かなり悪化して今に至っている。可能な限り早く全ての禍と不安を取り
除かねば、彼女が保たぬ。彼らは敵を倒す為ではなく、紀子を守る為に来た。目的と手段
を取り違えてはならない。紀子を救えなければ敵を倒せても意味はない。
 そして局面打開の鍵は、紀子が握っている。その事を智彦も『彼女』も健太郎も知る故
に、紀子が目を醒ました事は、機の到来を感じさせた。敵の排除へと、事の解決へと、彼
女の救いへと、動き出すべき時機の到来を。

「……そう? 健行先輩が、北川先輩と」
 紀子が朝子達の見舞いを知ったのは、一時間程の睡眠の後だ。陰鬱にたれ込めた暗雲は
時の経過を忘れさせ、同時に置かれた状況に余り変化がない事も実感させた。寝起きに他
人は拙いと智彦達は隣室に待機し、兄と二人、普段と同じ顔ぶれも、その錯覚を増幅させ
る。
 寝起きの故か、疲労が未だ残っているのか、彼らの来訪を報された紀子の反応は鈍かっ
た。当初こそ目覚め際を的確に悟られた事に驚いたが、表情も語調もすぐに常の硬い物に
戻る。何かを隠すかの如く、何かを守るかの如く…。
 心に入ってくるなと、踏み込んでくるなと、心配はお節介に近いと、拒む雰囲気が見え
る。その感触を察したのか、一哉は再訪すると云う朝子との応対を要約して伝え、それに
続け、
「疲れているのなら、無理に会う必要はない。
 急ぐ必要はないんだ。良くなれば、互いの会いたい時に、いつでも会えるんだから…」
 だがこの言葉尻で、いつか会わなければならないのだと、紀子は感じてしまったらしい。
 兄は急いで会う必要はないと云いたかった様だが、言葉とは本当に扱いが難しい。ここ
はむしろ紀子の側に、朝子や健行に対し過敏になってしまう要因が内在しているのだろう。
 容態が良くなれば、逢わなければならない。
 会いたいと来る者に対し、拒む理由がない。
 逃げられない。その思いが先行した模様で、
「良いわよ、別に。嫌っている、訳じゃないんだから。来たければ、いつでも来てって」
 そう言って置いて!
 投げ遣りに近い返答に、隣室で智彦と健太郎は隣室で目を見合わせた。一哉は彼らに話
が通じるように、意図してドアを開けた様だ。紀子はそれにも不機嫌なのかも知れぬ。黙
して見つめ合う隣室の視線は、いかにもありがちな展開だと語り合う。
 言葉尻を追えば積極的に事に向き合おうとした様だが、そうでない事は分ろう。己の展
望や意志や考えはなく、流されるその本質は変ってない。相手をどうにも出来ぬからそう
する事を認めただけだ。実体は捨て鉢に近い。
「分った」
 一哉は紀子の屈折した受け入れを、どう受けとめたのだろう。却ってその侭会わせては、
拙いのではないかと智彦は思うが。健太郎の云う様に状況打開に新しい風を招きたいのか。
 彼らも臨戦態勢の一歩手前位の状態で待機して、一時間近くになる。この間、紀子の部
屋は睡眠中で入れなかったが、一哉の部屋に留まりつつ『彼女』は監視を続ける以上に家
の中に籠もった淀みの一掃に乗り出していた。
 清冽な風が吹き抜ける心地よい錯覚を感じたのは、一哉だけではない。今やその風はこ
の家を包み込んだ滞りを土台から切り崩そうとして。目に見えぬ所から、心に感じる何か
から、それは動き始めている。智彦を基点に。
 立て籠もって守るだけではない。彼らは攻めに近い積極的な守りを展開した。敵方が簡
単に入り込めぬ状況を作る。部屋の中に手を出せなくする。それで諦める相手ならそれで
良い。逃げ散って追撃できなくても仕方ない。彼らの願いは紀子の本復で敵の殲滅ではな
い。
 智彦と健太郎は、当面それで充分だ。だが、敵方は都合良く諦めて退いてくれるかどう
か。それには『彼女』に別の見解がありそうだが。
 日は既に中天を過ぎ、低く垂れこめた暗雲は空を不吉な色に塗り変える。以後夕暮に向
うから、暗くはなっても明るくなる事はない。
 敵方の狙いはやはり、智彦達助っ人の神経を磨り減らす、長期持久戦か。今迄は、紀子
の回復や情況把握等で、時間の利は彼らにもあった。だが、夜に向う今後はそうと言えぬ。
事を夜に持ち込しては向うのペースとなろう。
 姿が見えず、得体が知れぬ、合理を超えた何物かがその力を存分に発揮するのは、闇だ。
 この侭待っていても、事が動きだす確証はない。敵の動き待ちという長期戦は、疲弊し
た紀子に良い影響は与えまい。得体の知れぬ異常事態に昼夜悩まされ続けていた一哉達は、
一刻も早く状況を変えたい思いで一杯だろう。
 その焦りを押し隠し、表に出さぬ様に努め、
「何か、食べた方が良い。すぐには、呼ばないよ。それより何か食べて力を付けろ。カッ
プ麺にするか、それとも弁当を頼むか?」
「……カップ麺」
「待ってろ……」
 一哉は智彦達がいる隣室に移動し、カップ麺を片手に取る。視線で会話を交わすが、こ
の時点で異常は起きてないので、智彦も健太郎も事を静観するだけだ。一哉はすぐ戻った。
 何の変哲もない光景だが、智彦達が気になるのは紀子の生気のなさだ。心がここにない。
 襲われているのに、助けを求め苦痛に叫び悶え苦しむ感じさえ見えぬ。生きたくて堪ら
ない彼女を妨げ脅かす何かがいるという感じではない。それ以前に紀子自身の生きる意志、
生きたい心が吸い取られ、抜き取られた様な。
 目線が人を避ける感じが、少し気になった。初対面の智彦はともかく、兄位まともに見
つめはしないのだろうか。瞳で向き合う事を恐れる様な、見つめられる事を恐れる様な…
…。
「逢わなければ、ならないの?」
 隣室からは紀子の声が聞えてくる。その声がやや小さいのは、一哉がドアを閉め切らぬ
程度に閉めてしまった故か、それを見た紀子が多少機嫌を直した故か。締め切っても『彼
女』を通じれば智彦に状況は筒抜けになるが、むしろ気付かれぬ盗み聞きになるので望ま
しくはないし、健太郎にも状況は掴んで欲しい。
 やや棘のある、苛立ちを感じさせる語調に、
「そう急ぐ必要はないって。今は休んでいろ。
 疲れる事を考えるのは、身体が良くなってからで良い。少し休めば、すぐに良くなる」
 身体が復すればいつでも逢える。今は考えなくて良い。その兄の言葉が、身体が復する
迄の猶予、良くなってしまえば逢わねばならぬと、彼女を追いつめていた事を誰が知ろう。
「……部屋を外して」
 事情が分らない顔を見せる一哉に、紀子は、
「脂汗流してカップ麺をズーズー啜る妹の姿を見せたくないの。それにあたし、寝汗をか
いたから、下着を替えたいんだけど」
「……分った。少し外すよ。でも」
 関与を嫌われている。そんな感じを抱いたのか、一哉は神経質そうに一定の距離を置き
たがる妹の言い分を受け入れ、隣室に移るが、
「全てが解決された訳じゃないんだ。お前に降り掛った災難は、まだ終ってない。健太郎
達は、そいつを解決する為に来てくれたんだ。
 こいつらは、只者じゃない様だ。見た感じでは只者だけど、試してみる値打ちはある」
 僅かな間でも、傍にいるとは云え、状況が状況だけに、一人にするのは心配なのだろう。
「もうすぐ解決する。もうすぐだ。だから」
 少しの間だけ、辛抱して付き合ってくれ。
 一哉は初対面の智彦に、紀子が人見知りしていると思ったのか。ただでも体調も精神も
思わしくない。その心配は抱いて当然だろう。しかし智彦も健太郎も、紀子のこの応対を
ただ初見の人に戸惑っているとは感じなかった。
『彼女』も気付いた様だ。紀子が兄の言葉にビクッと身体を震わせたのを。『もうすぐ解
決する』の一言にこそ、彼女が怯えたのだと。
【彼女の恐れは、彼女の中に隠されてある】
 紀子は何の思い当る節もなく、身に憶えもなく、通り魔的に襲われた訳ではない。彼女
の恐怖とは、それを招き寄せた己の行いへの、救いのない過去の己への怯えなのではない
か。
 全てを解く鍵は、紀子自身の中にある。
 彼女は唯超常的な脅威に怯えているだけではない。兄にも相談できぬ何かを抱えている。
誰にも話したくない、自身目を背けたい何か。そうでないなら、あの超常的な脅威を実感
できてから、幾らでも人に相談できた筈なのだ。
 詛いとはどこの誰とも知れぬ者へ放つ所作ではない。それは対象と密接な繋りを感じる
者が為す所作だ。愛も憎悪も、悲嘆も恨みも、のめり込む程の思いが不可欠だ。それは無
関係の誰か、通りすがりの誰かに放つ物でない。明らかに紀子の知友人、名や顔を知る誰
かだ。
 紀子はそれに絡まって泥沼になっている。
 紀子はそれに、どっぷりと浸かっている。
 兄が引き上げる様を、不機嫌そうな目線で追い続けていた紀子は、閉じた扉の向うに他
者が消えてから、初めて少しほっとした顔で、手に持たされたカップ麺を置く。だがその
表情は、苦悩と云うよりは後悔に歪んでいて、
「一体、どうすれば助かるのよ。今更……」
 取り返しは効かない。効かない。効かない。
 傍にあった古い小さな手鏡を右手で掴むと、
「どうするのよ。あたしは一体、どうすれば良いの? あたしはこれから、どうなれば」
 やつれた己の顔を覗き込む。その顔は先程迄の鈍重な不感症ではなく、後悔に歪み苦悩
に崩れ、生の感情を満載して切迫した少女の物だ。ずっと塞ぎ込んでいて、ずっと強ばっ
ていて、誰にも覗かせなかった本当の表情だ。
「やってしまったのよ。戻らないのよ。あたしは今更、誰にも相談なんてできないのよ」
 どこから手に入れたかも定かではない旧い手鏡は、覗き込む紀子の顔を、見返すのみだ。
「本当の事なんて、云える訳ないじゃない…。
 もう、どうして良いのか分んないよ。何がどうなれば良いのかなんて、考えたくないよ。
 あたしは一体どうなるの。どうするの?」
 突っ伏して、声を潜めて、身動きしない。
【教えてやろう……】
 壁一枚を隔てた兄達にも聞かれたくなくて、声を潜めて嗚咽を漏らす紀子の耳に、低く
短い男らしき呟きが聞えたのは、その時だった。

「正直云って、気配が濃密すぎて焦点が合わない。彼女の部屋に潜んでいるか、そうでな
ければ、ダミーに形見か何かが置いてあるか。今の彼女に関連ない筈がないって位、敵の
存在は明瞭なんだけれど、所在が確定しない」
 相手が男なら家捜ししている所なんだけど。年下の女の子で、その兄が目前にいるので
は、善意のお節介にも限度がある。明るすぎて写真が撮れない感じだとぼやく智彦に健太
郎は、
「じゃあ、敵方が今隣の部屋にいるのかいないのかも、正確には掴めないって事なのか」
「いるかいないかの、どっちかだよ」
「それじゃ、答になってないだろ!」
 突っ込みを入れる一哉に、智彦は尚平静に、
「いるなら潜んでいる。じっと身を潜め、モグラ叩きゲームの穴つき床の下にいる状態さ。
引っ繰り返せば、どこにいるのかダミーなのかは分る。でも、まだそれをやれてない…」
 一哉は言葉に詰って、座り込んだ。智彦の答えを、理解しようと試みている様子が分る。
紀子の部屋を家捜しすれば良いと分るのだが、漸く安静を取り戻した彼女を動かし掻き回
すのは好ましくない、その辺りの逡巡が窺えた。
「いないなら、及ぼしてくる力は分る。動きがあれば把握できる。壁もドアも、多分奴の
侵入を防げはしないけど、妨げようとする作用で、俺達にも察知出来る筈だ。
 そして、離れているなら奴は何かのアクションを起さないと、紀子さんに接触できない。
奴の方が君の妹と何時間も離れていられない。帰ってきたくて、近付きたくて堪らない
筈」
 それは恐らく『彼女』の分析なのだろう。
『彼女』の存在が、その力が見えない気流となってこの家を包み込み、淀みを押し流して
結構経った。間接的で潜在的だが、存在を隠している故目に見えた効果はないが、家の空
気の不自然で不健康な滞りは殆ど一掃された。最後に残されたのが紀子の部屋なのは当然
か。最も淀みが濃く、最も滞りが長く、最も気配が強く蟠る、守るべき当人の住まう部屋
が…。
 激流に抗し、最も大きく硬い塊が隣で踏ん張り続けている。そこは流石に守るべき物迄
押し流す訳に行かぬ。潜在するかも知れぬ敵を警戒して、簡単に乗り込んで一掃も出来ぬ。
 圧を掛けつつ炙り出し、いるかも知れぬ相手の崩れや解れを待つに止める。紀子の部屋
のみならず家の外に潜む怖れに気も配りつつ、全方向に備え。彼女は既に臨戦態勢ではな
い。決戦を控えるだけで、一撃必殺に出ぬだけで、闘いの手は進めている。攻めるのも守
るのも、殲滅するのも退けるに止めるのさえも闘いだ。
「問題は、部屋に濃密にある気配が奴自身なのか、又は足掛りとなる形見、分身、祭具を
置いただけか。人を隠すには人の群、光源を隠すなら強い光。気配を隠すなら気配の中さ。
 あの部屋に、我々のごく間近に、奴が潜んでいる可能性も捨てきれない。それは、実は
奴にも非常に危うい賭けなんだけれど」
 トイレみたいな密閉された狭い所で、殺意持つ敵と板一枚挟んで潜み合う感覚さ。敵が
こちらの隙を突き放題に見えるが、外したら逃げる間合もない。互いに最初の一撃が勝負
を決める。油断と失敗が瞬間で生死を分かつ。
「リスキーに過ぎるな」
 健太郎は平静な判断で言葉を繋いで、
「百戦錬磨な相手ならそれは選ばないだろ」
「常識的に、俺もそう考えたんだ」
 智彦は自分の判断を素直に晒し、
「俺は、奴が距離を置いて、家二軒分位かな、こちらの様子を窺っていると思っていた。
力を及ぼしたり接近を試みれば気付かれるけど、逃げる間合いを残せるしね。一撃勝負の
死地に己を追い込む事はないと思ったんだが…」
「予想の上を行かれた?」
「……のかどうか定かでないから、悩んでいるんだ。もしかしたら、俺の読みは正しくて
未だ少し離れた所でこの様子を窺っているかも知れない。彼女の答えは『確かめろ』だ」
「どっちもあり得るって事か」
 向うが神経消耗戦を望むなら、簡単に尻尾は出さぬだろう。だが、それを受けて立つだ
けでは状況は良くならぬ。向うが用意した舞台を掻き回し、その戦いをできなく追い込む。
「本体が宿る物があるか、依代を媒介して力や思念を及ぼすだけの状況なのか。あの部屋
に何があって何がないのかを確かめられれば、戦い方・守り方も格段と確かに主導でき
る」
 敵方がいるか否かはっきりさせない戦いを望むなら、こちらはいるか否かはっきりさせ
る戦いに持ち込む。紀子の部屋を家捜ししてでも、本体がいるのか否かを確かめるべきだ。
 その辺に話が修練されていく過程が見える。二人の会話の概要は、一哉にも掴めた模様
で、
「どこかの国の、核査察みたいな話になってきたな。未だに俺の『常識』では、悪意ある
何者かの『人為的』所作ってのが信じ難いが、これはそう言う物なんだろう。俺も体育会
系の所為か、頭で理解できなくても身体で受け容れた事は結構あった。世の中には信じ難
い事実ってのも偶にはある。ここは、頼むわ」
 妹が嫌がりそうなので、説得に手間取りそうだ。その事に、少し気が重くなりながらも、
それを乗り越えない事には状況が見えないと、一哉の呟きは半ば自分を説得する様でもあ
る。
「妹さん、彼女(朝子)を煙たがってる?」
 静かな声で問を発したのは健太郎だが、それは既に三人の中では結論の出た話であった。
 紀子の反応は、寝起きの為か疲れの故か自制に欠け、本音はぽろぽろ見え隠れし、考え
が読める。もう少し話せば、事情を聞き出せたろう。そう分る故、紀子は彼らを閉め出し、
落ち着く間を欲したのか。真相に迫るチャンスだったのかも知れぬが、無理押しはできぬ。
 だが健太郎が求めたのは、認識の共有の確認以上に、その事実の背景に注意を促す事で、
「彼女と彼(健行)の仲に、妹さんの入り込む隙間はない。客観的に見て、彼女が妹さん
を恋敵として呪う必要は全くない。それでも嫉妬に駆られれば、錯乱し訳が分らない行動
を取る人間も世にはいるが、彼女はほぼ白だ。暴走する部分を繕っている風には見えない
な。
 あの2人は相思相愛だ。君の妹は彼に恋している様だが、残念だけど片思いだ。野球に
打ち込む若者とそれを支えるマネージャーか。マンガにありがちな実は余りない幸せの
形」
 健太郎の印象は、誰もが感じる事実だった。当人は波乱が絶えぬと云うだろうが、周囲
が見れば痴話喧嘩という奴で問題と云えぬ物で。中々実感できないのが幸せで、中々見え
ぬのが己の気持である。二人は着実に進んでいる。
 互いの心をしっかり掴み掴まれ、それで尚周囲への気配りも忘れず。進むべき道は無限
に開け、隣には共に進む相方がいて、仲間がいて。誰かを恨んでいる暇等ないと見て分る。
「二人とも妹さんを心配し、仲間として気遣っているが、それだけだ。彼女の方は妹さん
を心から案じている。想いに何の屈折もない。後ろめたさも憎しみも恐れも、何もない」
 朝子に誰かを呪う必要はなく、その様な性格でもない。逆に紀子の側にわだかまりがあ
る様に感じる。果して朝子達はこの件に絡むのだろうか。仮に絡むとしたら、どんな形で。
「この状況で、絡んでこない筈がない」
 智彦が微かに脇の空間に目線を向けてから向き直る癖がある事に、一哉も気付いていた。
いたが、彼も今は敢て、それを問わなかった。その事で問答するより先になすべき事があ
る。
「この状況を敵方が捨ておく筈がない。人の隙に入り込む事を生命線とする奴らが、この
心の歪みを放置する筈がない。紀子さんは彼女に何かの蟠りを抱いている。それは事実だ。
 それに、感じるんだ。余り強くはないけど、間違いなく彼女にも、朝子にも奴の、隣室
に満ちる何かと同じ気配が残っている。今更それを偶然とか錯覚とかは思わないだろ
う?」
 異論を述べる者はいない。それを確認して智彦は慎重に言葉を繋ぎ、
「朝子が敵でも味方でも、この際どっちでも構わない。潜伏した奴らを叩くのは至難だが、
誘き出せば叩き潰せるんだ。敵でないのなら、妹さんを案じるのが普通だから味方と考え
て良いし、どっちでも不確定要素が一個減る」
 大胆と云うか、無謀と云うか。智彦の後に『彼女』が居ねば、絶対こんな博打は打てぬ。
それに頷く健太郎も、好戦的とか積極性とか云う言葉とは、対極にいる人物だった筈だが。
「向うのペースに乗ってやる必要はどこにもない。人に降り掛かる災いは、人のペースで
処理していけば良いんだ。人でもない連中に、人の運命をいつ迄も牛耳らせて置くもの
か」
 そういう物達に、大切な物を傷つけられ続けた健太郎の思いは、その語調の温和しさに
反比例して激しく強い。本来温和な健太郎が、智彦やその裏に宿る『彼女』の行いに、理
解する以上に同調し助力を惜しまぬのも、そういう闇の者への強い嫌悪の故なのかも知れ
ぬ。
 あの部屋に奴がいるか否かが最大の問題だ。それが明らかにならない内は、動き様がな
い。なら、それを明らかにしてしまおう。智彦の提案は性急に見えるが、堅実で常識的な
物だ。
 思索がまとまる間に、時間も経過している。紀子も食事を終え、落ち着きを取り戻した
頃だろう。眠ってしまっていなければ、良いが。そんな感じで、三人が目線を合せた時だ
った。
 彼らの中を、再び警告の閃きが駆け抜ける。何かが起ると察知した『彼女』の警報の意
味は初めて全身を駆け抜けた時に分っているし、忘れ得ぬ。三人共腰を浮かせ、次の何か
を待ち受ける。緊迫感に心臓を掴まれ鳥肌が立つ。
「今度はピンポンダッシュじゃない。玄関に、そのすぐ外に確実に誰かが来ている。一哉
はここで、紀子の様子の急変に備えていてくれ。健太郎には、一緒に下まで来て貰う」
 そう言うと、智彦はすっくと立ち上がった。その動きは、智彦の意思と言うより何かに
身体を預けたが如く、彼らしくなく洗練されて滑らかで。それ迄の彼を見ていた一哉は一
瞬、目を見張った。それは武道を知る者の動きだ。つい今し方迄の智彦の、常人の所作で
はない。
 確かめるべき者と、敵を敢て誘い込む隙を兼ね、彼らは隣室から一時離れる。相手側の
策に乗って、敢て乗せられて。動かさねば中々進まぬ現状を前に、まず彼らが動き出した。
薄暗い曇天のその先に待つのは、果して…?

 智彦も健太郎も足早に階下へ降りる。相手に気付かれる等の心配は不要だと『彼女』も
言っていた。向うは二人の足音や気配を感じても、今更退く様子はない。それは智彦達も
同じだった。相手の所在が分れば、智彦達が不意打ちする必要はない。正々堂々正面から
応対する。不意打ちを受ける怖れがなければ、『彼女』が妖かし共に後れを取る心配はな
い。
 駆け下りた勢いの侭に、玄関ドアを開け放つ智彦の前に立っていたのは、今正にブザー
を押そうとしていた北川朝子と平井健行の2人だった。内側の二人は智彦を先頭に、外側
の二人は朝子を先頭にして、2人目はその肩越しに相手のペアを見つめ合い、硬直して…。
 沈黙が場を支配する。朝子達はブザーを押す前に到来を悟られていた事に目を丸くして、
智彦達は相手が確かな実体と意志を持つ人だった事に目を丸くして。互いに相手に何を言
って良いか分らず、己が何をすべきかも忘れて立ち尽くし。張りつめた静寂が破けそうだ。
 互いに初対面ではない。だがその関係は紀子や一哉を支点とした非常に細い物に過ぎぬ。
彼らの間には何もない。信頼も愛憎も裏切りも何も。全ては今から始る。何もかも今から。
だがしかしこの非常時に、この切迫した時に、今から信用の積み重ねを始めねばならぬの
か。
 敵とも味方とも分らぬ中、信不信の狭間で瞬間的な判断と対処が必須だ。互いに互いを、
己の所作を妨げる障害と見るか、助け合う味方と捉えるか。この中で、己を取り戻すのが
一番早かったのはやはり『彼女』だった。
 智彦の瞳が細く鋭くなる。黒目部分が縮小し表情の動きがやや鈍くなった。身体を包む
凛然たる気配が異なる。これは、智彦なのか。朝子や健行は先程顔を合せただけだが、そ
れでも分る。感じ取れる。飄々とした人なつっこい青年、さっき見たあの若者と、彼は違
う。
 ここにいるのは智彦の皮を被った何者かだ。
「貴君らの来訪の目的を訊こう」
 その促しがなければ、状況は進まなかった。智彦の口から発され、智彦の声で届く、し
かし智彦の語調でもなく、智彦の意思でもない、落ち着いているが強く心震わせる問いか
けに、
「のりちゃんに、逢わせて」
 朝子の求めは、その意思を表象したが如く明確で簡潔だった。何が起っているかは理解
できないが、何かが起る場に居合わせている。その事を肌で感じているのか、紀子は決然
と、
「彼女が危ういの。話している暇はないわ」
 隠さない。思いの侭に、心を告げる。本心こそ最も強く相手に伝わると信じているのか。
 強い視線を、相手の妨げる意思を突き抜けようとする眼光を向けてくる。生命の危機を
知っているかの如き、常識を外れて直感に導かれた、盲信や迷信に間近な強い思い込みが、
智彦の疑念や不信を、押し渡って行きそうだ。
 この決意は只ならぬ。この思いは只ならぬ。愛でも友情でも憎悪でも嫉妬でも、己の安
穏を保ちつつ何かを望む姿勢ではない。痛みや傷を負う事、妨げや誤解や反発も乗り越え
て、何かの完遂を強く望む。それは、信念に近い。
 立ちはだかったのが智彦でなくて良かった。彼も紀子の身を案じ、朝子達を疑い、危険
が及ぶなら妨げ、不審を感じるなら通さぬ積りでいた。事は紀子の生命に関る。疑念が払
拭されぬ内は、事情が知れぬ内は、誰も通さぬ。その心構えは智彦とて出来ていた積りだ
った。
 その彼もこれには怯んだ。常の彼では、否常ではない緊急時の彼でも、紀子の身を傾け
た強い姿勢に、思わず仰け反り掛けた。グラリと来た。押し通られたかも知れぬ。
 彼は必死に抗ったろうが、その行方は予断を許さない。それ程迄の気迫をこの少女は今、
醸し出していた。これが邪悪な物だったなら。これが助けたい気持の仮面を被った敵だっ
たなら。智彦の中身が今、彼でなくて助かった。
 着ぐるみの様に中身を入れ替えられる身体も使いようか。魂が抜けるのとは違い、魂が
身体の隅に押しやられ主導権を取られる。最近この感覚が妙に馴染むのは少し困り物だが。
「会わなければならないの。通して」
 左手で、首に下げたネックレスの大きな碧い石を掴んで示すと、更に何か言おうとする。
短くは説明できぬが、簡単に信じられまいが、伝える努力・分って貰える期待を捨てぬそ
の姿勢は、切迫感の故か必死の美しさに満ちて。
 智彦の身体を被った『彼女』は、その様子を前にして、大凡の事情を把握した様だった。
「詛い返し……。人を陽動に使ってきたか」
 智彦の声で智彦の使わぬ語彙を操り、鋭い声が短くその得心を伝えてくる。『彼女』は
鍵を見つけた様だ。朝子達の存在を度外視した感じで、智彦の首は即座に真後ろの健太郎
を向くと、その身体を押しのけて、駆け上る。
「即時反転だ。紀子が危うい……!」
 言わずとも行動に出た時点でそれは伝わっている。逆に全部言葉に出す暇がない。俊敏
と言えぬ健太郎も、智彦の腕に押しのけられた後で、叶う限りの反応で階段を駆け上がる。
 その後ろから、2人に付き従って来る朝子達を、止めるべきか否か。健太郎は瞬時迷っ
たが、彼も紀子を案じる方を優先し、階段を駆け上がるのみにした。彼らの追随は止めぬ。
 民家の狭い階段は、健太郎が身体を張れば、一定の時間朝子や健行の進路を阻めただろ
う。だが智彦は、否智彦の身体を借りた『彼女』は彼らを阻もうとの何の意思も示さなか
った。突き飛ばしたり目眩まししたり、健太郎に頼むとか、その様な意思表示も定かにな
かった。
 拒む意思や言動がないという事は、彼らを拒まないという事だ。そうでなければ十分の
一秒位しか時間がなくても、『彼女』は何かの処置や依頼で2人の受入の諾否を明示する。
 敵でないから、脅威でないから、動く侭にして構わぬから『彼女』は彼らを捨て置いた。
対処をがら空きにして、紀子の部屋に全速で駆け戻った。健太郎に示唆も、与えなかった。
 敵でなければ、味方に近い。味方に出来る。少なくとも、放置して害になる怖れはない
と。『彼女』の思考と健太郎のそれは近似にある。
 なら、ここで拒絶に踏み止まるより、彼らを受け容れ、事の解決に立ち会って貰うべき。
『彼女』がいる以上、滅多な事はないと分っているが、分って尚心配な気持は止められぬ。
何かをしたい焦りは消し去れぬ。健太郎も紀子の為に、役に立ちたかったのだ。
 複数の足音が階段を上る。一哉の母が、声は4人だけの筈なのに、足音が一つ多く聞え
た気がして首を捻りながら再び襖を開けたが、その時はもう一階には誰もいなかった。

「紀子、おい紀子……! ん?」
 階段を掛け上ってきた集団を、一哉は何があったのかという戸惑いで出迎えた。紀子の
部屋の前で、ノックして返事を待ちつつその反応のなさに、不審を感じ始めていた一哉は、
智彦達の激しい動きと倍加した人数に驚くが、
「おい、智彦。お前……」
「急ぐのだ。邪魔するな」
 智彦の瞳の奥に、智彦ではない何者かが宿る様を、健太郎と一哉はこの時、肌で感じた。
 智彦は、紀子の返事を待たずに扉を蹴破る。内から鍵が掛けてあったのか。体重を乗せ
た一撃は様々な妨げを粉砕し、抗議も困惑も置き去りにして、彼は室内にその身を躍らせ
る。
 金属の鍵と木の扉は、彼の侵入を数秒も防げずに蹴破られて果てた。その結果ではなく、
威力と技の切れの方に、一哉は目を丸くした。ほぼ一撃で、脆くもない鍵と扉を、把手ご
と弾き飛ばすとは。だが、開かれた扉の向うの室内はそんな困惑を弾き飛ばす驚愕があっ
た。
 尚躊躇う者達を、引きずりつつも動きを止めず智彦は、室内に身を躍らせ、中央を突っ
切って唯一の窓に、窓の外に向けて直進する。紀子は窓から外に忍び出ようとしていたの
だ。
 身体は既に部屋の外にあった。外に背中を向けた姿勢で背中を丸め、右手で窓枠を掴ん
で身を支え。窓の外は、一階の屋根が傾斜して少し続いている。彼女は屋根を伝って庭に
降り、外へ逃れ出ようとしていた様だ。その瞳が見開かれたのは、驚きの故か怖れの故か。
「いけない……。そっちに行っては駄目だ」
 智彦も感じ取れていた。窓の外に奴がいる。
 健太郎も感じていた。家の外は悪意の渦だ。
 紀子は地獄に己の身を投じようとしている。その自覚がない侭に。目先の厭な事から逃
れたい思いに動かされ、招かれ、導かれる侭に。そこが救いでも何でもないのだと分らぬ
侭に。
 室内は涼風ではなく、寒風に満ちている。これは『彼女』の起した清涼な気流ではなく、
悪天候の中で物理的に窓を開け放した結果だ。その中を、窓から身体を室内に押し戻す強
風吹き込む中を、智彦達は前傾姿勢で空気を突っ切り、紀子を大声で呼び止め、手を伸ば
す。
 紀子は二階から、飛び降りようとしていた。勿論自殺等する気ではいまい。民家の二階
から落ちても軽傷が良い処、死ぬのは却って難しい。あれは逃避だ。左手に掴んだ外履き
がその傍証だ。状況に耐え得ず、何かの囁きに乗せられ、今いっときを逃れれば楽になる
との思いに心を染められ、つい足を踏み出した。
 だがそれはいけない。それは危うい。
 今その囁きに乗っては、いけないのだ。
 今その誘いに導かれてはいけないのだ。
 それは、逃避で済まぬ重大な結果を招く。
 ここは二階だ。慎重に飛び降りれば怪我もなく庭に着地できようが、一階の軒先に手を
ついてぶら下がれば足先から地面まで一メートルあるかないかだが、物理的な怖れは問題
ではない。それ以上の超自然的な脅威こそ…。
「腕を伸ばしてくれ。降りちゃいけない!」
 紀子は智彦達の乱暴な迄の突進に驚き怯え、思わず窓枠から手を離す。否、そう操られ
た。
『思わずつい』に見えるが、否その故にこそ、それは紀子の意思を超えた所作だ。そうさ
せられたのだ。促されたのだ。そうでなければ、怯えれば通常人は何かにしがみつく。奴
はそうさせたくなかった。奴は獲物を奪われたくなかった。室内に、人の世界に、救いの
手に、委ねたくない。奴が紀子を貪り食うのだから。
 傾いた一階の屋根はソックス履きの紀子の身体のバランスを保てず、足の滑りを止める
物はない。2秒保たず、紀子は仰向けにひっくり返る。身体の重心が煽られた様に揺らぐ。
 その右手を、智彦の細目な左腕が掴み取る。勢いと紀子の重みに、智彦も窓枠から身が
乗り出る。紀子は瞬時空に浮いた。それを掴む為の、無謀に近い突進は智彦迄も窓の外へ
飛び出る勢いを与えていた。健太郎が腰を引っ張らねば『彼女』とて踏み止まれたかどう
か。
 智彦に押しのけられた一哉の脇をすり抜け、続いて部屋に飛び込んだのは健太郎だ。彼
は最初から、智彦の側面支援を担う積りでいた。見えるか否か分らず、気配も定かに知れ
ぬ敵ではなく、智彦の身体の動きに注視していた。
「紀子!」「のりちゃん!」「中西!」
 体勢を立て直した一哉がそれに続き、その背に阻まれる形で朝子、その後に健行が続く。
部屋にその人数を受け容れる広さはあったが、動転し混乱した彼らは空間を有効に分け合
えてない。誰が何を為すのにも身動きが取れぬ。
「きゃああぁぁぁ!」
 天地が回る感覚に囚われた紀子の叫びに兄の顔色が蒼くなる。慌てて窓枠に駆け寄るが、
智彦の腰を抱えて動けぬ健太郎の、その肩越しに外を覗いて、一哉は思わず絶句した。
 肉体の3分の2を乗り出し、体勢が悪くなった智彦が、紀子の右手首を両手で掴んで保
っている。それで辛うじて彼女は落ちてない。
 傾いた屋根の上でバランスを失った紀子は、智彦の腕一本で辛うじて身体を止めている
が、今にも落ちそうだ。どこにも捕まる術がなく、腰から下が空にある。動かしても空を
掻くだけだ。その全体重は、智彦にのみ支えられて。
「紀子! 紀子、しっかりしろっ!」
 駆け寄りたいが、己の腕で引き揚げたいが、己の腕力なら引き揚げる自信がある一哉だ
が、窓が健太郎と智彦に塞がれて動けない。紀子を掴む智彦の半身や、それを支える健太
郎を踏み抜けば紀子は転落するし、彼らを避けては紀子の元に駆け寄れぬ。一哉に見えた
のは、窓の外にぶら下がった紀子の姿とそれ以上に。
「な、何なんだ、あれは?」
 紀子が気付いてもいない物を、一哉は見た。
 智彦や健太郎が感じ、気付き、警戒していたそれを、一哉も遂に己のその目で確かめた。
紀子の身体に絡みつく様にその間近を浮遊し、滞留し、闇へ引き込もうとして蠢く何物か
を。

 窓の外の風景は、異常だった。異様に暗く、人気がなく、風は冷たく。そこは異界だっ
た。
 分厚い雲が夕暮れの如き情景を作り上げているから異様なのではない。室内の彼ら以外
人の姿が何一つ見えぬから異様なのではない。隣の家も見えぬ程暗く雲が掛って、薄暗が
りと靄に閉ざされたその情景は尋常ではないが。
「生きている気配が、ない……」
 日中の町中なのに、生活感が見て取れぬ。
 住宅街の一角で、人の気配が感じ取れぬ。
 窓の外側は、今迄住んでいた町ではない。
 何かのフィルターに掛けられ、青黒く染め尽くされたそこは見知らぬ異界の住人の住処。
彼らがかつて住んだ事もなく、往った事もなく、行けば戻ってくる術を知らぬ、彼らとは
異なる何物か達の住まう、統べる、どこかだ。
 暗すぎる。違いすぎる。不吉に過ぎる。
 己の目で見ねば信じ難い体質の一哉も、ここに至って鳥肌を呼んだ己の感覚を信じ得た。
それが例え幻覚でも、幻覚を生じさせた何かは確かにこの付近にいる。それは彼の妹への、
確かな害意と執着を持って、取り憑いている。
 全てが蜃気楼の如く、闇の中で尚形を朧に不確かに崩れて見える。隣の家の形さえ、闇
と靄と、それ以上に熱気の対流なのだろうか、角が崩れる以上に奇妙にひしゃげて見えて
…。
 形が形を保ててない。己が己を保ててない。目に映る物も真実ではない。目に映らぬ物
にも真実が宿る。その真理が、ここでは極限に広げられる。感覚に振り回されてはいけな
い。感覚を操り、制御し、己を保ち対峙するのだ。
 為すべき事を思い出せ。願い欲する物を見失うな。自分は一体何を守ろうとしているか。
 智彦が掴んだ紀子の上半身は、まだ見える。温度の違う空気の塊があるにも似て、無色
無形だが見て分る浮遊した水飴が身体を取り巻いているが、それだけだ。身体に非常に近
い位置に幾つもあるが、尚紀子には触れられぬ。
 智彦達が、手を繋いで引き止めている故か。彼の腕が、引き込まる彼女を繋ぎ止めてい
る。部屋の中と外は、窓の内と外は異なる力場だ。
 最早単に二階の屋根から落ちるか落ちぬかの問題ではない。それは紀子が向う側に引き
込まれるか否か、生死を分つに近い意味を持つ。故に智彦は渾身の力で紀子を繋ぎ止めた。
 だが、その下半身は既に闇に呑まれている。
「紀子! しっかりしろ、紀子、紀子っ!」
 屋根が尽きて下半身が影にあるのではない。屋根の端が見えぬのだ。影に隠される以上
に、紀子の鳩尾辺りから先が靄に隠された様にかき消えて。映像をマジックで塗り消した
様に、その先が消失して。ある筈なのに見えぬのだ。
 そこから先が異界なのか。そこから先に往くと、彼女はどうなってしまうのか。しかし、
「バランスが悪すぎる。支えきれない…!」
 智彦の苦々しい声は腕力の限界を示すのか。健太郎も紀子迄含めた体重を支えに顔を紅
潮させている。2人共体育会系の人間ではない。想いは強くても、根性や無理には限りが
ある。どちらも長く持たぬだろう。状況は秒を争う。智彦の声は、彼の中の『彼女』を促
す為の…。
 階段を下りる足音がする。一哉が何も出来ぬなら、その後ろの朝子や健行は人形同然だ。
見ていられなくなったのか、考えがあるのか。今はそれに気を向ける余裕もなく、暇もな
く。
「早く、まだか、早く、してくれ」
 頬を撫でる空気は温くて緩く、先程の強風が嘘の様だ。生き物の生暖かさを連想させる、
湿気を含んだ空気が微風と言うより、緩い波の様に顔に身体に打ち寄せて来て気味が悪い。
 それは明らかに身体に悪い物だ。身体というより心に悪い。全身を内側から蝕む何かだ。
言葉に出来ぬのがもどかしいが、場の誰もが感じ取れた。窓の外から流れ込む、悪い物だ。
気を保たねば己が何物で何を為すかを見失う。
 こんな中に落されたなら。こんな中に取り残されたなら。こんな中に引き込まれたなら。
「ひっ、ひ、ひ、ひいいいぃぃっ」
 紀子が漸く己を取り巻く状況を呑み込めてきた。周囲の異様を超えた有様、健太郎が連
れてきた初対面の男の腕一本で支えられた己、そして間近に得体の知れぬ何物か達を、見
た。
 事実の直視が良い結果を招くとは限らない。時と場合によって、事実も混乱や誤解を招
き、事を更に悪化させる。紀子は漸く状況を見て把握して、改めて驚愕し怯え混乱し、不
自由な身を捩って暴れ出した。引き揚げる力に不足し、現状維持が厳しい智彦にこれはき
つい。
「あ、暴れないで。動かないで危ないから」
 唯でも不安定なのに、今にも引き込まれそうで、落ちそうなのに。健太郎の腰が浮き掛
っているのに。今バランスを崩されたら拙い。状況を保てなくなる。『彼女』が打開する
迄、事をひっくり返す迄、せめて現状を保たねば。
「いやああ、助けて、助けてええぇぇ!」
 それは、紀子が漸く出した心の叫びだった。
 様々なプライドや読みや、隠したい諸々があって、素直に人に助けを求められなかった。
求める事さえ出来ぬと己を閉ざしていた、強ばっていた。その己を突き破る、心の底から
の本音だった。ここ迄追いつめられなければ、ここ迄危うくならなければ、文字通り生命
の危機に瀕しなければ出せなかった心の叫びだ。
 助けを拒む者を助ける事は不可能だ。いっとき助けた様に見えても似た失陥に再び填る。
自ら助かりたいと望まぬ者に、自ら助かる事を望み自覚しない者に、救いの手は届かない。
 己だけで危機を脱せぬ時はある。己だけで全てに対処できぬ時はある。つまらぬプライ
ドに拘って助けを外に求めるべき時に求めず、己を閉ざし必要な助けを拒む者に待つのは
…。
「動かないで。静かに、静かに」
「落ちたくない。落ちたくない。助けて!」
 助けを求める願いが、痛い程伝わってくる。助けを求めようにも求め得ず一人闇で煩悶
し、従ってはいけない声を頼ってしまった苦衷を感じる。それを突き破って尚助かりたい
強い気持、生きたい想い、強い欲求が目に見える。
 だが今は暴れないで。今は静かに。身体を揺らすと、その分だけ腕の繋りが外れていく。
この繋りは今は切れない。切ってはいけない。
「お願い、助けて。助けて、助けて!」
 声と共に発される強い願いが、握った腕を通じて智彦に伝わってくる。塞がれて充満し
た想いが、ダムの決壊の如く押し寄せて来る。それは声だけで、瞳だけで、十二分にその
想いを健太郎にも一哉にも伝えていたが。
 生きていたい。例えどんな酷い事をしても、悪いのが私でも、それでも私は生きていた
い。取られたくない。私を、私を取られてしまいたくない。私は酷い事をした。したけど、
それでも、私は生きていたいの。生きていたい。
「死にたくない。夜になんか往きたくない」
 涙を流して絶叫する。遮蔽された身体から心が助けを欲して流れ出て、溢れ出て、周囲
を取り巻く者達を強く拒む。往きたくないと。助けて欲しいと。生きていたいと。強く叫
ぶ。
 今迄共にあった者と、諦めて受け容れていた者と、囁きかけていた者と、決別し。だが、
既に鳩尾から先は往きたくない『夜』にある。今ここで振り落されれば、今ここで手を放
されれば、それで終る。状況はそれ程に危うい。
 周囲を飛び交う人魂の様な無色無形の何かも気色悪い。足元から吹き上げる生暖かい風
も鳥肌を呼ぶ。周囲の暗がりの全てから囁きかけ、呼び招く錯覚も耐えられない程に厭だ。
 今迄気付かなかった。こんな物だったのか。紀子に囁きかけていた物は。紀子に対処を
示唆していた物は。紀子を招き導いていた物は。こんな得体の知れぬ、信用の置けぬ物な
のか。
 今迄、己の中しか見てなかった。己の過去にしか目が向いてなかった。囁きに耳を傾け
ても、目を向けた事等なかった。気付かなかった、誘われていた、受け容れていた。なぜ。
 そう促されていたのか。通常聞き入れぬ胡乱な声になぜ。それは風邪のウイルスと同様、
人が弱ったり傷を負った時を見計らって訪れ、入り込むのだろう。突破口を見つけ、中に
入り込めば悪意持つそれは、人の扱いに長けている。無警戒な時、眠っている時、混乱し
憔悴した時に、囁き続け。無意識への作用は彼らの得意技だ。我に返らねば思い出せもせ
ぬが、それ程巧妙に意識が心が操作されていた。
 それを振り返させられて。
 それを見つめさせられて。
 己と、己とは別のそれを見つめ直した末に。
 紀子は漸く己を破滅に導く存在を認知した。
 恐怖と共に、悔恨と共に、憤激と共に。
「うおおおぉぉぉ! 諦めるなあぁぁ!」
 一哉が健太郎の後ろから、智彦の両足を両腕で抱え込む。重さで少なくともバランスは
取れるし、2人の負担もかなり軽減されよう。何をして良いか見当が付かなかったが、見
ていられなくなって己の出来る事を察した様だ。健太郎と智彦に、肌を通じて声を通じて、
強力な励ましがビンビン伝わってくる。驚きに、力を抜かぬ侭振り返る真っ赤な顔の健太
郎に、
「何が何だか分んねえが、引き揚げるぞ!」
 万力の様に締め上げる。太い筋肉が盛り上がって、何をして良いか分らず萎縮していた
一哉の全てが、智彦の身体を引き揚げに掛る。
 今迄何もできなかった。何をして良いかも分らず、何もできぬ侭手を拱いて、己を嘖み。
誰かの悪意の所作とも知らず。その鬱憤を憤懣をまとめてここで叩き付ける。借りは返す。
漸く力の行く先を見つけ、身体を動かす一哉は吹っ切れて力強い。過剰な程の想いと力が
充満し集約し、見る見る顔が赤くなる。だが、
『なんだこれは、とんでもなく、重いぞ!』
 2人分の重さではない。智彦や紀子の下に、更に何人か加わっている如き重みに、健太
郎や一哉が引き込まれ掛る。バランスを取るのが精一杯だ。現状を保つのが精一杯だ。と
んでもない。腕を引き千切りかねない。智彦の身体が、中央で裂けるかと思える程の重量
だ。
 紀子は、彼女はこんな状況で保てるのか?
 だが今はそれを危惧してもどうにもならぬ。
「紀子、待っていろ。今引き揚げてやる!」
「助けてっ! 早く、早く引き揚げてっ!」
 お兄ちゃん! 紀子の叫びが迸ったその時、
『来たかっ!』
 健太郎と智彦には、その感覚は既知の物だ。身体の奥の骨や神経を駆け抜ける瞬間的な
熱。それは一哉も紀子も初めてだが、厭な感じではなく、戸惑いは感じてもむしろ好まし
い…。
 間に合った。そう心で智彦が呟いた時。
 ビシイッ。何かの砕け散る音が聞えた。

 一哉は健太郎の背後なので見えなかった。
 健太郎と智彦には見なくても分っていた。
 だが紀子の瞳にはそれは視認された。一階に降り窓の真下に回り込んだ朝子と健行にも。
 下に回って受け止めようとしたという彼らの目に映ったのは、その窓の周囲二、三メー
トル四方にだけ密集した黒い靄だった。一階の屋根の端は見える。二階の壁も屋根も見え、
近隣は曇天の元で人気こそ少ないが常の街だ。
 異常は、紀子の部屋の窓の周辺だけだった。窓の外側の、両手両足を伸ばした程の広さ
の空間だけが黒くくすんで光を吸い込み、映像を全て遮断している。そこにいる筈の紀子
が見えぬ。彼女を掴んでいる筈の智彦が見えぬ。
 見えぬだけなのか。本当は2人はそこにいる筈だ。唯見えぬ様にする事がそれの目的か。
否違う。紀子の足が見えてない。屋根の端は見えている。紀子は窓から外に出て、屋根を
滑ってその半身がぶら下がっている筈なのだ。
 見えないのは絶対におかしい。窓を包み窓から続くあの靄と、朝子達が見守る窓の外は
繋ってないのか。紀子や彼女を掴んでいる智彦は今現在一体どこにどんな状態でいるのか。
説明付かない。納得出来ない。対応できない。
 どうして良いか分らない感じで二階を見上げていた2人の前で、靄を切り裂く光が走る。
同時に、音にならない音が2人の心を駆け抜けた。それは何かが砕け散る様な、何かを叩
き割る様な。閃光の槍は靄を貫き、半瞬の後に周囲全てを眩く照し、靄を全部弾き飛ばす。
 吹き散らしたとか、押しのけたとか言う感じではない。即座に、どこかに行く事も許さ
ずにその場で消去した感じだ。耳に音は響いていない。だが朝子も健行も耳を抑えて過剰
な何かを防ぎ止めていた。凄まじい音が光が、頭に響いている。耳より目より、心が一杯
だ。
 それを真に目の当りにしたのは紀子だけか。本当に紀子の間近で力を及ぼし、その身体
に触れ、その心を包みつつ、黒い何かを退けたその者を、見つめる事が出来たのは。瞬時
の事で、眩すぎて、靄を飛ばす瞬間迄しか形を為さなかった、凛とした美しい女性の鎧姿
を。
 瞬間だったが、その姿は紀子に焼き付いた。一言で言えば正々堂々たる戦女神だ。百七
十センチを超える長身に怒り肩、朱と金で文様が描かれた鎧を身に纏い、ストレートの柔
らかな金髪を束ねて垂らしている。その麗質はアイドルの可愛さではなく、意志の強さを
感じさせる威厳を備え。これが智彦の切り札か。
 智彦の像と重なって、その身体をすり抜ける様に女性の姿が迫り来る。時間にして十分
の一秒程か。だがコマ送りの様にゆっくりと、紀子の視野は鮮烈に見知らぬ女性が正面か
ら己に重なり来るのを瞳の裏に焼き付け。焼き付けさせられたと言うべきなのか。これ程
に鮮烈な像は、拒む意思があっても逸らせない。
 ぶつかる。正面から、紀子の方に落ちてくるのだ。紀子も一緒に屋根の下に滑り落ちる。
 そう思った。目を閉じた。衝撃に備えた。
 しかし、紀子に届いたのは暖かなそよ風と、何かの砕け散る音、何かの叩き割られる音
で。
「きゃあっ!」
 懐に瞬間誰かの手を感じた。そんな所に手を伸ばせる人はいないのに。この屋根の上で
紀子の懐へ手を伸ばす者などいない筈なのに。手は紀子の懐からあの旧い手鏡を抜いてい
た。
 砕け散ったのが、叩き割られたのがその手鏡だと知ったのは一秒位後か。そしてその行
いが紀子を取り囲んでいた靄を払い、紀子を呑み込もうとしていた異界を阻み、紀子を標
的に定めた所作を退けたのだと知るのもまた。
『彼女』は瞬間で要所を見極め、その処置を終えていた。紀子に絡みつき絡め取ろうとし
ていた、闇の者の力を中継する祭具を特定し、物理的に壊す以上に呪術的な意味で粉砕し
て、紀子との絆を切り払い。その効果の劇的さは、周囲の者より切り払われた者が知るの
だろう。
『ちいぃぃ……!』
 囁き声と気配が、急激に遠ざかっていく。
 闇の者はここには潜んでなかった。力を繋ぎ意を伝える祭具を介し関与を保ち。慎重に、
己が直面する事は避け、紀子を操り、紀子を促し、紀子に囁く事で、自滅を誘う。最小の
所作で最大の利を得る。狡猾で細心な相手だ。
 なら『彼女』の所作は決まっている。そうと分った時点で、祭具を特定し、破壊して紀
子との関りを断つ。部屋にある物か身に付ける物かはこの時点迄分らなかったが、身体に
触れて生気を交わし合えば筒抜けだ。故に触る事は非常に重要だが、器の智彦は男子なの
で初見の年頃の女子に軽々しく触れ得ずに…。
 敵の前進基地の破壊に近い。それも紀子が望まぬ限り、紀子が受け容れぬ限り出来ない
支援だった。智彦が紆余曲折の末に『彼女』を受け容れた様に。拒む者に己の意思を押し
つけるのは、人でも神でも魔でも至難の業だ。
 それが紀子を助けたい善意でも、自身が望まぬ限り、自身が受け容れぬ限り。紀子が別
の者に縋り頼り、その促しや囁きに耳傾ける限り。己を滅す者を中に秘め飼い続ける限り。
 紀子が漸く心を開いた。紀子が漸く助けを求めた。紀子が漸く自身の望みに立ち返った。
その瞬間、兄を求め健太郎を望み智彦を頼んだ瞬間、『彼女』の流入する回路は開かれた。
智彦と一体であるが故に、その縛りと繋りの内に身を置く武の女神【朱雀】の力と意思を
伝達するその途が。紀子へと伝わるその途が。
 祭具を砕くと、舌打ちの印象が残雪の様に薄れ行く。囁きも気配も、懐の旧い手鏡を中
継して来ていた以上、それを割って繋りを斬れば消失するのは当然か。鮮やかに断ち切り
すぎた為、発信源を探れなかったのが唯一の難点だが、紀子の早急な安全には代えられぬ。
そこは『彼女』も分ってそうしたのだろう…。
 紀子にも『彼女』の存在が視えたのは一秒以下だった。一瞬で全ては終っており、視認
できたのも瞬間だ。朝子や健行には唯閃光が走り、直後に黒い靄が晴れたとしか見えてな
かろう。一哉には光も見えてないかも知れぬ。だが、それでも場の皆の心を、響きと波は
駆け抜けた。最後の滞り、紀子の部屋に最後迄蟠っていた陰気な気配が一気に押し流され
る。
 何もかもが、この一撃で劇的に改善された。
「靄が、晴れたわ」「見ろ、中西が見える」
 智彦達に朝子と健行の声が聞えたのもこの時が漸くだ。二階と一階、窓の外と窓の下が、
捻れた様に近接しながらも断絶していた。見える筈の像が見えず、聞える筈の音が聞えず。
 夜の濃紺に沈み込んでいた智彦達の視界が、瞬時の閃光の後、平日の曇天レベル迄急激
に明るくなった。カーテンを開けたか、雲間から日が射したかと思える変動と共に、二階
の3人に掛っていた重圧が、一気に軽減された。
 紀子の下半身に数人ぶら下がっている如き重みが消え、紀子と身を乗り出した智彦の重
みに収まる。健太郎と一哉が2人掛りで引き込まれるのを保てず、共々に引き込まれ掛っ
ていた、あの重みが嘘の様だ。智彦の腕を引き千切る程の『引き』が、なかったかの様に。
 もう危険はなくなった。超自然的な怖れは回避された。今あるのは唯の物理法則だ。重
力に沿って物は下に落ちるべきとの単純な常識の世界だ。それでも紀子が屋根から滑り落
ちそうになっている状況に変りはないのだが。

 取り巻く靄が拭い去られた時、そこには屋根から落ちかけた紀子と、その右腕を掴んで
支える智彦の半ば身を乗り出した姿があるだけだった。最早そこに介入し妨げる物はない。
 否、退けただけだから実は周囲に尚いるのかも知れぬが、『彼女』の猛威を前にして今
ここで何かを仕掛ける事は、流石にするまい。『彼女』はそれに備えて姿を隠しつつ待機
しているのだ。それを分らぬ程迂闊な相手でもあるまい。故にその心配は今は棚上げでき
た。目先の問題は、『彼女』の領分ではない所だ。
「引っ張り上げるぞぉおお!」
 一哉は満身に力を込めて、智彦ごと紀子を引き揚げようと試みる。だが例え超自然の力
がなくても、屋根の端から半分以上身体がはみ出し、掴まる物も支える物もない紀子の身
体を、今更引き揚げるのは難しい。彼女を繋ぐ智彦が半ば落ち掛っているのだ。2人を引
き揚げるのは健太郎と男2人でも結構きつい。
「痛い。腕が痛いよ……。早く、助けて」
「もう少し、もう少し待ってろ。ぬおお」
 一哉は相当の力持ちで、気合いは充分入っていた。彼1人で紀子を持ち上げるなら出来
たろう。だが体勢が悪過ぎた。智彦の繋ぐ手が力尽きかけていたし、紀子も自重に耐えき
れない。何か縛る縄でもあれば、掴まる棒でもあれば。だがそれを探す暇も彼らにはない。
 もう一段の手助けが要る。もう一つ何かの知恵か力がないと。それも早急に、今すぐに。
「のりちゃん、落ちてきて!」
 下の庭から朝子の声が響いたのはその時だ。
「健行と2人で受け止めるから、跳んで!」
 紀子はもう半ば屋根の外にはみ出している。二階に引き揚げるのは至難の業だ。なら逆
に庭に軟着陸させた方が負荷は少ない。朝子だけなら不安だが健行もいる。不可能ではな
い。
「いやっ、先輩、見に来ないで、あたし…」
 紀子はそれを拒んだ。パジャマ姿を気に病んでなのか。紀子は元々逃げる気で部屋を出
ただけで、外に行く意識を持った訳ではない。靴こそ持ったが(既に落したが)、一眠り
の際に着替えたパジャマ姿でガウンも羽織らず、何しにどこへ行く気か正気を問われる姿
格好だった。今更ながら、それに気が付いた様だ。
 しかも真下にいるのは、そんな姿を最も見せてはならない恋する健行と、恋敵とも言う
べきその彼女だ。向うは意識してなかろうが、紀子の意識の中ではそれは絶対の禁忌であ
る。
 何が何でも這い上がる。何が何でも下には落ちられぬ。彼らに助けられる訳には行かぬ。
この姿を見られる事もそうだが、それ以上に紀子には、彼らの助けを受ける資格がない…。
「ダメなの。ダメっ。お願い、引き揚げて」
 紀子の悲鳴に、健行と朝子の声が応えて、
「無理よ。下で受け止めるから、落として」
「今は非常時だ。気にするな、落ちてこい」
「ダメったらダメったらダメっ。ダメなの」
 兄さんお願い、何とか引き揚げて。
「待ってろ。今引き揚げて、ぬんっ……!」
 一哉は尚紀子を引き揚げる姿勢だ。健太郎も状況の変化は感じているが、下向きに身を
乗り出した智彦迄は降ろせないので、掴んだ腕は放さない。智彦も紀子と下の連携が確立
せぬ内には放せぬので、掴んだ腕はその侭だ。
「無理だよ。ここ迄身体が落ち掛っている」
「しっかり受け止めるから、手を放してっ」
「ダメダメダメ、ダメったらダメ。お願い」
 健太郎が判断に迷う顔を見せた。放して下で受け止めた方が負荷は少ないが、紀子が拒
む内はそうも出来ぬ。だが現状を保つのは…。
 その時厭な感覚が健太郎の中を走り抜けた。これは警告だ。自身の感覚が何かを察知し
ている。さっき退けた筈の気配、さっき出先を叩いて断ち切った筈の、闇の住人の存在感
が、
「どう言う事だ。朝子から、また感じるぞ」
 彼らに委ねて大丈夫なのか。この侭降ろして大丈夫なのか。手を放しても大丈夫なのか。
 事は終ったと思っていた。終ってないのか。
 奴は退けた筈だが、本体は生き残っている。
 尚関りを求めているのか。尚接触を諦めてないのか。だが、その気配がなぜ朝子から?
 健太郎が困惑の表情を見せた。こう言う時の己の感覚は信頼に足るが、朝子への印象が
その受け容れに難色を示している。彼女も健行も紀子を案じていた。そこに、邪心は感じ
なかった。これも健太郎の素直な感覚だった。
 その朝子から、あの闇の物の波動を感じる。今この時も、階下から。どう言う事なの
だ?
 階下に紀子を委ねて大丈夫なのか。健行には闇の気配を感じない。故に明瞭に、朝子に
感じる闇の気配は突出していた。判断に迷う。己の感覚の判断が割れて、身動きが出来な
い。
 特殊感覚でも判断が付かぬ、と言うより鋭い感覚の陥穽に落ち込みかけていた健太郎に、
しっかりと進路を指し示したのは智彦だった。内に宿る『彼女』ではなく、桜田智彦本人
が。
「大丈夫だ、健太郎。朝子は、信じて良い」
 智彦の、それは彼の確かな声だった。
「後はタイミングを計るだけだ。下の2人と息を合わせ、俺がこの手を放す。それだけ」
 その間も紀子と朝子達の会話は続いていた。
「大丈夫、降りてきて。受け止めるから!」
「いや、ダメっ! こっちに来ないでっ!」
「怖がらないで。私達は、仲間でしょう?」
「あたしを放って置いて。関わらないで…」
「貴女がこうなった原因は、私にもあるの」
 貴女の今には、私が密接に関わっている。
 だから、これからに関わらせて。お願い。
「違う。先輩は関係ない。何も知らない…」
 あたしの行いは誰も知らない。想像も付かない。この心の闇は誰にも受け容れられない。
 朝子と健行が事の遠因だ。だが、それを朝子の所為と言えぬ事位、紀子も理解していた。
そこ迄責任を感じられては紀子が惨めになる。詛った者に慈悲を受けては紀子の立場がな
い。せめて黙過して。これ以上は事実を見ないで。
 だが、朝子の自責の念は実はそこではない。朝子と健行の中が紀子のそれを招いた以上
に、彼女にはもっと積極的に紀子に関りがあった。故に最後迄責任をとらねばならぬ。故
に朝子は己にやり逃げを許せない。健行は付き合ってくれる男だったが、彼が来なくても
彼女は1人ででも紀子を助け上げねばならなかった。
「大丈夫、私は1人じゃない。貴女も一人じゃない。みんなで受け止めあえば、出来る」
「俺達は逃げないから、お前も逃げるな!」
 健行は朝子の思いを分っている。健行は朝子の抱えた事情を知っている。故に己も逃げ
る訳に行かなかった。紀子に向き合わねばならなかった。2人の来訪が、彼の来訪が紀子
の苦痛になると分って尚。その苦痛の向うに、紀子を包む闇を拭い去れる術が見出せるな
ら。そうするしか明日を展望できる術がないなら。2人には、今尚紀子は大切な仲間なの
だから。
「無理だよ。誰も、誰も逃げずにはいられないよ。耐えられないよ。明かせないよ。知ら
ないから言えるだけだよ。知ったらきっと」
 紀子の心は震えている。紀子の瞳は揺らいでいる。凍りついた心は震えはしない。固ま
った想いは揺らぎはしない。彼女は怖いのだ。望みを裏切られるのが怖いから、簡単に願
いを口に出せない。紀子は本心では2人を受け容れたがっている。受け容れたくて堪らな
い。受け容れて欲しくて堪らないのは紀子の方だ。
 だがその後で裏切られるのが怖い。みんなになった後で、再度捨てられるのが怖いのだ。
己の罪深さに、事実を知ったみんなが再度引いて、もう一度救いのない独りぼっち、本当
の孤独に落ち込むのが怖いのだ。そうなれば、今度こそ救いがない。今度こそ耐えられな
い。孤独を癒された後で前以上の孤独に落とされるのは、僅かな水を飲まされて砂漠に再
度捨てられる様な物だ。それがどれ程残酷な事か。
 なら、望みを抱かずにいた方が傷つかない。
 なら、諦めこの孤独にいた方が耐えられる。
 結果が同じなら、この罪深さの真実を誰も知らない、今の方がましだ。これ以上真実を
晒して、誰の同情も買えなくなる事態は厭だ。今更素直になったところで事は悪化するだ
け。
「もうダメなの。これ以上、関わらないで」
 あたしはやっぱり1人だよ。これからいつ迄も1人だよ。1人だけの望み、独り占めの
望みを選んじゃった瞬間に、この人生は1人だけの人生になったんだ。今更変えられない。
「のりちゃん!」「中西っ!」
 応酬は続くが、支える側の持久力には限りがある。早く軟着陸させねば、紀子が地面に
放り出される。心を閉ざして貝になる紀子を開かせる為に、朝子はここで爆弾発言に出た。
「貴女が私に詛いを飛ばした事は知っている。だからもう何も隠さなくて良いの。だか
ら」
 それは本当はもっと落ち着いた場で、状況が好転してから、時と場と顔ぶれを選んで口
にするべき言葉だった。紀子の閉ざした心を打ち砕く為のハンマーは、紀子自身を壊し自
身との友人関係も壊しかねない威力を持つと、分って朝子も言っている。彼女も勝負に出
た。
「許すから。受け容れるから。受け止めるから。私達で受け止める。だから私を信じて」
 知るまいと思っていたのに、朝子は何もかも知っていた。全て知られていた。最も隠し
たいその中枢を。紀子の心の闇もその所作も。知って尚紀子の元に、健行と朝子は来たと
…。
 紀子の心の糸の切れる音が聞えた気がした。絶対に護らねばならぬ一線が既に破れてい
た。その事に気付いてないのは実は己1人だった。何と愚かしくも、ばかばかしい。そう
思えて、緊張が解けるその瞬間を、智彦は待っていた。
「受け止めてくれ。君達なら、出来る筈だ」
 智彦の言葉の意味は健行にも伝わったろう。
 紀子の身体がふわりと浮いて、2人の腕の中に落ちていく。その動きが妙に軽やかで掛
る筈の衝撃が少ない気がしたのは気の所為か。或いは彼らの先行きを気遣う誰かの心配り
か。
 智彦がジタバタしつつ2人掛りで上に引き揚げられたのは、それから数分後の事だった。

『そこのお嬢さん。そう、あんたの事だよ』
 下校途上の紀子を呼び止めたのは、見知らぬ老婆だった。白髪混じりの長髪を暗緑色の
バンダナで止め、手首も顔も深く皺が刻まれ、絵本の魔女の様に鼻が長く突きだして目立
つ。
 身長は異様に低く紀子の胸迄で、体格もそれに合せる様に撫で肩で華奢で、印象は小人
に近い。濃紺のフードつきの長衣は埃に汚れ、魔術師の雰囲気が香る。初見の得体の知れ
なさに、腰が引き気味な紀子に、上目遣いに下からにじり寄ってきて、奇妙に馴れ馴れし
く、
『恋に悩んだ顔をしておるわい。
 その想いを、届かせてみたくはないか?』
 何の前振りもなく、いきなり心中を突き当てられて、紀子は動揺した。健行への淡い恋
心を抱き、彼女は溜息をついた所だったのだ。誰も知る筈がなく、誰にも打ち明けた事な
い紀子1人の想いを、通りすがりで当てるとは。
 もう少し大人なら、動揺を隠す術もあった。気が強ければ『ふざけるな!』と相手の非
礼をなじって振り切れた。少し世間ズレしていれば、年頃の女子の溜息は恋愛沙汰と推測
がつく事を了知して警戒する。だが、そのどれでもなかった紀子は、想いの露見と、それ
を見抜かれた驚きに心を真っ白に染め抜かれて。
『強く願えば、望みが叶う事もある。
 深い祈りが、変化を促す事もある。
 己の想いを、現実にしたくはないか?』
 心は、先に返事をしてしまっていた。
 瞳は、老婆の双眸に絡め取られて動かない。
 エメラルドグリーンの老婆の瞳はこの国の物でない以上に、この世の物でなく思われた。
皺の刻まれた顔立ちに表情は窺えなかったが、嗄れたその声に感情の起伏は感じなかった
が、音でもない響きが身体と心を包み込んでいく。
 人の不幸を望んだ訳ではない。何かを踏み躙って欲する自覚もなかった。唯願ったのだ。
己の望みを、紀子が憧れ恋い焦がれた男子の微笑みが、己を向いてくれる事を、心から…。
 無意識の了承が、契約の締結になっていた。拒まなかった事で、申し出は受容されてい
た。承諾は告げなかったが右手は物を受け取って。
『この手鏡を持っておくが良い。後は願うだけぞ。強く思えば望みは叶う。肌身離さず持
ち歩き、囁きに耳を傾けろ。思いの強さが道を開く。常日頃、祈り頼り耳を傾けるのだ』
 老婆がどこの誰で何者なのか知る由もない。いつ紀子の前から去ったのかも定かではな
い。突如現れて、その瞳を射抜いて心を硬直させ、囁き、渡す物を渡し、気が付けば消え
ている。残した物は他になく、連絡の術もなく、心の一角にとっかかりを作られた感じで、
恋の秘密を知られた紀子は、その場に暫く立ち尽し。
 気味悪さを感じたのは最初の内だけだった。どことなく古臭く、飾りもなく、コンパク
トだが、鏡の向うから視線や息遣いを感じる小さな手鏡。それでも、一晩懐に入れて過ご
した後では怪しさ等忘れ去っていた。翌日放課後に、朝子が怪我で学校を休んだと知る迄
は。
『中西、タオルどこにあるか、知らないか』
 紀子が部室に来た時、健行は1人で物探しに難渋していた。普段はマネージャーが備品
を扱う為、部員の多くはその配置を良く知らぬ。大抵朝子が健行の言葉を先取りするか共
に探し出す故、紀子に問う等月に一度もないのだ。しかも今、部室は紀子と彼の2人きり。
『朝子が足を挫いたんだ。大したけがじゃないが、足首腫れていたから今日は休ませた』
『そ、そうですか。確か、こっちの棚に…』
 紀子の直感はあの手鏡の効果を悟っていた。理屈ではない。どの様に理性や知識を組み
合せても、手鏡を抱いているだけでそんな現象が起きる筈がない。それは紀子も分ってい
た。
 だが、紀子は千載一遇のチャンスを感じた。望んだ訳ではなかったが、願った訳でもな
かったが、結果紀子は健行と2人きりになれた。それはタオルを探し当てる迄の数分に過
ぎなかったが、日常会話の延長に過ぎなかったが、彼に少しでも近付きたい紀子には天佑
だった。
 健行は朝子や多くの部員達に囲まれていた。紀子は朝子や他のマネージャー達と共にあ
り、健行の近くにはいても常に誰かと一緒だった。常に他の誰かが彼と紀子の間に挟まっ
ていた。その最たる者が、彼の幼馴染みの朝子だった。
 朝子は健行の幼馴染みだ。朝子は紀子達マネージャーの長だ。朝子は健行の日常に接し、
野球部では紀子の間近にいる。どうあっても朝子がいる限り、健行と紀子が2人になれる
状況は作れない。彼女がいなければ思い通りな訳でないが、その他の障害全てに匹敵する
かそれ以上の壁を、紀子は朝子に感じていた。
 それが、いない。紀子と健行を2人きりにさせてくれない朝子がいない。いなくなれば
良いと願った訳ではない。けがをして欲しいと望んだ訳でもない。唯健行と近付きたいと、
唯もう少し近くで親しく言葉を交わしたいと。
『サンキュ、やっぱマネージャー様々だね』
 紀子が2人でいる時間を伸ばす為にわざと少し手間取ってから渡したタオルを、健行は
心からうれしそうに受け取って、微笑みかけ、
『また、頼むわ』『はい……、いつでも…』
 また先輩の役に立ちたい。また先輩に語りかけて欲しい。その瞳に映りたい。多数の中
の誰かではなく、中西紀子として、その心に。朝子の壁を乗り越え、朝子の壁をすり抜け
て。
 それは悪しき願いでは、ない筈だ。
 それは害を為す想いではない筈だ。
 あの手鏡に感謝しよう。あの老婆に感謝しよう。この巡り合わせに、心から感謝しよう。
それが始りだった。それが最初の自覚だった。
 翌朝、足にテーピングをした朝子を見た瞬間に、紀子の心は凍りついた。取り払った筈
の壁が戻り来た苛立ち、己の所作が見抜かれているのではないかとの怖れ、そして何より
己の所行の結果に直面する嫌悪が、己の正気を揺さぶり続け。心が何かにドス黒く染めら
れ行くのを、半ば自覚しながら抑えられない。
 昨晩紀子は、罪悪感に魘され続けた。己の為に他者を傷つけた事への悔いが心を占拠し、
己が知る以上いつか誰かに知られるとの怖れが心を浸食し。あの幸運が不正なぼろ儲けに
思えて、嬉しかったと同じだけ後ろめたくて。
 でも今更元には戻せぬ上に、まだ誰も知らぬ以上、誰にもこの事を言わなければ、知ら
れはしない。もう使わなければよい。もう願わなければよい。己のその弁明に嫌悪を感じ、
それでも鏡を捨てられない、自分自身が厭で。
 一睡もできなかった。良心と欲求が競合した侭、罪悪感と怖れと弁明が同居した侭、朝
を迎えて、半ば自動的に学校に行って、朝子に会った。その瞬間、普段の元気を取り戻し
て見えた朝子を見た瞬間、スイッチが入った。
 猛烈な憤懣が、理性も思惑も吹き飛ばした。
 自分は悩み苦しんだのに、彼女は天真爛漫、明朗闊達、いつもの朝子で、何も堪えた様
子がない。健行の前に立ちはだかって、紀子の側につきまとって、その行く先を悉く塞ぐ
…。
 これなら、もっとやって大丈夫。否、やるべきだ。やらなければ紀子が保たぬ。罪悪感
も良心も嫌悪も怖れも計算さえも消えていた。
 朝子がいるだけで、己の足元が揺れていた。朝子がいる限り、健行への道は開かれぬ。
それを改めて思い知らされ、再認識すると共に。この道に踏み込んだのに。他人を排除す
る術に手を染めてしまったのに、尚届かないのか。いつ発覚するかも知れぬ、己の行いが
無駄に終る。この危険と怖れを乗り越え、その向こうに行かなければ永久に健行に辿り着
けない。
 やらなきゃダメ、今更引き返せない。
 健行とのあの時間を、取り戻すんだ。
 始めてしまったんだ。もう戻れない。
 その錯覚に導かれ、その憤激に後押しされ、紀子は続けざまに朝子の不運を手鏡に願っ
た。それが距離を超えて手を汚さず証拠を残さず、朝子の足止めを為してくれる。どの様
な不運を招くか紀子は知らぬが、効果だけは確実に。
 そんなに酷い目に遭わせる訳ではない。
 唯紀子の前に出て来られなくなるように。
 唯健行の側に居続けられなくなるように。
 だが、多少の事では朝子の痛手にはならぬ。
 痛い目を見て貰わねば。動けなくせねば…。
 己の思惑や所作に矛盾があると気付けぬ辺りで、紀子は詛いを操る側から詛いに操られ
る側になっていた。今迄手を触れた事もない物に、知らぬ侭深入りして行く混乱ぶりも又。
 朝子が休みがちになり、紀子の詛いが密かにエスカレートしていく、その流れが逆転し
たのが二週間前だ。既にその前から一晩中手鏡を睨み、詛いの文言を吐き続け寝不足で目
に隈ができ、その様子は訝しがられていたが、身体を起せぬ程の何かが降り掛ってきたの
だ。
『な、何なのよ、これ。この、不快感……』
 胸がムカムカする。臓物を異物が動き回る。関節の節々が痛む、血管や神経が痺れ、筋
肉に力が入らない。起き上がれば倒れそうだし、歩き出せば何かにぶつかる。僅かでも意
識を抜けば、何をしているか分らない。頭が重く、足腰に力が入らず、肩や腕が持ち上が
らない。
 階段を転がり落ちて足首を捻挫し、一日休む事にして以降、紀子は通学できなくなった。
捻挫は治ったが、全体に体調がおかしかった。
 する事をなくし、健行に会う機会も失って、塞ぐ心は朝子への呪詛に集約した。己の不
幸への憤懣、為せぬ事への鬱積を、まとめて朝子に。ストレスを解消し身体が快復する迄
に障害も除ける。紀子が学校に通える頃、健行の前に邪魔者はいない。親の目の届かぬ所
で、夜も昼も紀子は朝子への呪詛を手鏡に訴えて。それこそが己を蝕み衰えさせる行いと
知らず。
 紀子は急速に体調を崩していった。物理的に昼夜呪いを敢行すれば身体も心も疲弊する。
精神的にも呪詛に寝食を忘れる事態は尋常ではない。そして言うではないか。人を詛わば
ば穴2つと。素人にはそれは自滅的な行いだ。
 詛う気力も体力も失った頃、紀子は己が正に呪詛を受けたに近い状況にある事を知った。
否、そう報された。兄の友人の健太郎が連れてきた、少し年上の軟弱そうな若者によって。

「君は詛いの副作用の上に、朝子さんの詛い返しで、自ら放った詛い迄受けていたんだ」
 正面の智彦にそう言われ、今更の様に両脇を助け支える健行と朝子を、紀子は見つめる。
左肩を支え抱き留めた朝子の胸元に、碧い石を下げたネックレスを見た時、全員が事実を
悟っていた。その石が、朝子を護る為に紀子の詛いを弾き、返していた詛い返しの呪物だ。
「彼女に詛いの気配を感じたのは、必然か」
 健太郎の言葉は少し苦い。大きな過ちは避け得たが、彼はその敏感さを逆用されたのだ。
「俺達2人が貰った様な物だったんだ。優勝のお守りにと渡されていたけど、朝子の周囲
がどうも妙だったから身に付けさせたんだ」
 その時から詛い返しが発動したのか。入手の経緯も不確かだが、常の若者が保持するの
はやや不自然だが、呪物の効果は本物だった。
 紀子が放った詛いは朝子に届き、跳ね返されて紀子を襲う。それは朝子から飛来したと
見えよう。奴は、朝子の呪詛返しを知って紀子にそれを伝えず、呪詛を乱発するに任せた。
 その実体は紀子の味方でもなく、紀子の願いを受けた所作でもない。奴は詛い自体を欲
していた。邪念が渦巻く事を望んでいた。紀子は苗床に過ぎなかった。餌に過ぎなかった。
「奴はどっちが滅んでも成功しても構わない。詛いがあればある程、介在する旨味が増え
る。戦争を煽って双方から利益を貪る死の商人さ。奴らはそうやって人の心の隙に入り込
み、泥沼に追い込んで生気や活力を掠め取る。誰の為でもない。己の利得の為にね。しか
も…」
 健太郎や智彦の目眩ましにも使う。狡猾な。
 今なら智彦の言葉も紀子の心に届く。奴が離れ、奴への依存を断ち、正常な判断力を取
り戻しつつある今ならその言葉を吟味できる。自身の中の常識や思索に対比して、相手の
言い分が妥当か不当か考えられる。類推できる。
「奴は最初から、君を陥れて貪る積りだった。
 君の恋心に挟まって、成否に関らず君と呪詛の標的と、連鎖的に周囲の人を不幸に陥れ、
人の敵意や憎悪を足がかりに生気を喰らう」
 不合理とか非科学的とか言う者は誰もいなかった。この場に臨めば、この状況を経れば、
見て感じた事を素直に繋げば、それが最も簡潔な説明だと、心の方が悟っている。彼らは
科学文明のエアポケットに、迷い込んだのだ。
 それはまだ解明されてない、まだ理論化されてない、だがいつか人の智が届くなら理屈
だった説明も可能かも知れぬ、レアケースか。滅多に遭遇も出来ない、何かの極大値か極
小値の様に日常の常識や論理が通じなくなる瞬間に、偶々填り込んだのだと。だがそれ故
に。
 世の大多数は、常識の通りで間違いないと。科学と秩序が下支えする日常は、殆ど全て
適正だと。怪力乱神が蠢くのは特殊条件での現象に留まると『彼女』は智彦を通じ念押し
し。
『彼女』も含む尋常ならざる者達は、科学文明の香る現代社会の片隅に、迷い子として存
在するのみで、大きな影響は与え得ぬ。その効果に悪酔いし、己の正道を外さぬようにと。
その方面にのめりこみ己を見失わぬようにと。
 それは、『彼女』自ら己の存在意義を否定する説諭で、窓口を務める智彦は多くの妥当
性と微かな苦味を感じたが、『彼女』はあっさりしており少なくともその印象は爽やかで。
「のりちゃん。もっと早く気付けていれば」
 身を守る為とは言え、呪詛の相手を知らなかったとは言え、己が関って招いたこの結果
に、朝子が自責の念を込めて語りかけるのに、
「ああ、もう全部気付かれていたんですね」
 紀子はそれこそ全てを失って、隠さねばならぬ闇も恥も秘密も失って、掴まる物がなく
て困る程身軽になった、心の所在を定めかね。
 朝子は相手を知らず、己への呪詛を防いだだけだ。紀子と知っていれば、対応は違った。
紀子は朝子が全て知った上で紀子を標的に詛い返しをしたと思っているが、そうではない。
身を守ろうとした結果、こうなったに過ぎぬ。素人である彼らに選択肢はなかった。だが
…。
 どちらにせよ、知られてしまった。知己の紀子が朝子に呪詛をかけた。その事実と、そ
れが皆に知られた事実に変りはない。否この智彦という若者は闇の者を討ちに来た以上…。
「糾弾に来たの。それとも、報復、成敗?」
 もう隠す意味がなくなった。もう心配は消失した。守りたい物迄含め、全てなくなった。
喪失感に身を浸し、敵意さえ失って、表情からも声からも起伏を失った侭問う紀子を前に、
「紀子が、詛いを放った側だったとは……」
 危機が去り事が済んでも、一哉の語調に苦悩が宿る。紀子は被害者でなく加害者だった。
彼女が先に詛いを放っていて、その副作用と、詛い返しで反転した効果で、幻覚や変調、
悪夢に襲われ。中途からの急速な悪化は、朝子が自衛し呪詛を撥ね返した故だ。責は問え
ぬ。
 時に真実が最も過酷で厳しい事もある。紀子が心を閉ざし誰にも相談できず、己にも誰
にも向き合う事を拒んだのも、今なら分った。それが自滅であり、負債を増やし続ける愚
行と分って尚、そうせざるを得なかった事情も。
 そして呪詛返しが効いて己への脅威が消え、紀子の休みが不審を招く程長引いた頃、詛
いの主を推察できた朝子が、詛い返しを使った責任を感じ、事の打開に動いて来た事情も
又。紀子に逆恨みを抱かせた以上に、朝子は詛いを跳ね返した事で、加害意識に囚われた
のか。
 朝子が頼れたのが健行だった。彼も朝子の頼み以上にこの一件への責を感じ、朝子と共
にここ迄来た。そして事実が明かされ、呪詛の源を特定し使嗾者を退けた以上、残るは…。
「私を断罪する? 見下す? 許して下さる? 今更隠す何もない。私は先輩を詛った。
この結末は自業自得。私は愚かな卑怯者」
 許されぬ事位分っている。私をみんなはどうしたい? 私はみんなにどうすれば良い?
「教えてよ。教えて頂戴よ。もう分んないよ。あの囁きは間違いだった。私を陥れようと
していた。あんな声に耳を傾けた私が悪かった。じゃ私は次にどうすれば良いの? どう
すれば迷わなくて済むの? 誰に従えば良いの」
 謝るの、償うの、許しを請うの? それでなかった事に出来る? めでたく話は終れる
の? この罪を、罪を犯した私を、何もなかった様に近くに置く? それとも遠ざける?
 乾いた笑い声が誰へともなく絶望を告げる。全てを失い、闇も恥も秘密も失って、紀子
は今奈落の淵にいる。邪悪で愚かで卑怯な敗者として、皆の前に何もかも晒す事を強いら
れ。
 再生の一歩ではない。まだその前だ。破壊の極致は、次へ繋げねば唯残骸が残るのみだ。
ここ迄全て晒け出し、壊された紀子を一体誰が受け止める。紀子の傷を、自ら広げたとは
いえ甚大な心の淵を、誰が縫い止め塞ぎ得る。
 一哉が心を打ち抜かれた様に動きを止めた。一件落着ではない。むしろ今から本題なの
に、その故に口を挟めない。紀子の心の傷は兄やその友人には塞げない。その心の傷は人
を傷つけ人を詛った事に由来する。恋人でもなく、紀子の一生に責任を持てぬ者に気易く
入れぬ。
「詛いに手を染めたのは、確かにあたしなの。詛いを唆していた奴は消えた。けど、あた
しは残っている。詛いの術を手に入れれば又使ってしまうかも知れないあたしは残ってい
る。
 この侭で良いの? あたしは許されるの? 放置されるの? それとも形だけ許されて、
腫れ物扱いされて後の人生を余されるの?」
 厳しい問いかけだった。紀子の奥に宿る不安を形にした問だった。例え今許して解決し
ても、闇の者との接触を断っても、一度罪に手を染めた前科者、呪詛に足を浸した紀子と、
今迄の様に付き合えるのか。それはむしろ健行や朝子が直面する問だ。紀子はそれを怖れ
失いたくなくて、頑なに事実を隠そうとした。
 その道を閉ざす事は、紀子の希望を閉ざす。だが、紀子の受容を呪詛を受けた朝子や日
常の住人である健行に望めるだろうか。呪詛に関り他者に害を為した者を、そうと知って
尚以前の如く迎えられる程、全ての人は強くないし甘くもない。一哉の言い淀みは、彼で
さえ紀子の人生を全て背負い切れぬと知る故だ。
 一哉はいつ迄も紀子の兄だけではいられぬ。誰かに恋し、夫となり、父となり紀子とは
別の生を歩む。紀子も通常はそうだろう。兄妹とは言え、その道程はいつ迄も重なりはせ
ぬ。紀子の今後を、何もかも背負う等誰に出来る。
 一哉が多少の分別を、哀しげな瞳に浮べたその時に。その溝を考えもなしに跳び越えて、
紀子のいる闇の淵へと降りていく声が響いた。引き揚げるのではなく、共に底へ降りて行
く。
「私は、許さない。忘れもしないわ」
 ずっと許さないから、ずっと関り続けるの。
 朝子は紀子の最後の挑戦を正面から受けて、
「許して終らせはしない。終らせて遠ざけはしない。私は貴女と関り続ける。貴女が健行
のハートを狙っていても。私は譲らないから。それでも貴方が彼を望むなら、奪いに来
て」
 貴女が彼の心を射止めるなら、それも良い。
 健行がびくと身を震わせたのは武者震いか。
「恋敵で仲間、良いじゃない。傷つけ合った者同士、詛いを撃ち合った者同士、同じ痛み
を知る者同士。今更私は逃げないし、貴女の逃げも許さない。のりちゃん、貴女は私を詛
う程奥に踏み込んで、殺し損なった。その責任はとって貰う。一生関り続けて貰うから」
 貴女には一生私を引き受けて貰う。
 私は、一生貴女を引き受けるから。
 躙り寄る朝子に、心持ち紀子が引き気味だ。その紀子の視線を、朝子は眼力で縛り付け
て、
「私は逃げられない。貴女も逃げられない」
 己の罪悪感からは逃げ得ない。為した事はかき消せない。呪詛を為した貴女も、返した
私も。ここ迄踏み込んだ以上私達は一蓮托生。
「健行も込みで最後迄もつれ合う他ないの」
 許しは2つの心を隔つ。救いは救う側と救われる側を永遠に分つ。例え同じ場にいても、
その心は交わらぬ。加害者と被害者、咎人とと無罪の者。許しは両者を分け隔てる行いだ。
 実の兄が、気遣いつつ生涯を背負えはせぬと身を引いた紀子に、決して恋人にはなれぬ、
むしろ恋敵で啀み合うべき朝子が奥迄踏み込んで、全てを背負うと、絡みつく錯覚を与え。
「立ち直りなさい。私と一緒に、立ち直って。貴女は一人じゃない。私が常に側にいる
わ」
 それは激情が招いた無謀なはったりか。
 全ての計算や思惑を超えた強い友愛か。
「そして、貴女も私を1人にしないで!」
 強い一言に、朝子の万感が込められていた。
 朝子は紀子の断罪が己の断罪に思えたのだ。
 朝子は紀子とでなければ己が立ち直れぬと。
 紀子が崩れ滅ぶ事が、朝子の傷と罪になる。それは紀子には自業自得で己の所為だが、
朝子には朝子の所為で紀子が滅んだと映る。朝子は、紀子の立ち直りなくば己が立ち直れ
ぬ。
 それが嘘ではなく、朝子の真実だったから。
 紀子の生きる値がそこにあると感じたから。
「私の目の前で、私と共に立ち直って頂戴」
 その訴えに、紀子は涙と共に頷いていた。

「紀子に手鏡を渡した老婆と、手鏡に憑いていた『奴』の行方がまだ、残っているが…」
 手鏡は、奴の本体ではなかったのだろう?
 一応口に出した健太郎の問に智彦は頷くが、
「次の機会に訊くよ。今はこれで良い。もう紀子にも、その周辺にも、奴らが割り込む隙
はない。あっても、入り込ませる彼女達じゃなくなった。それに万一の時も、俺達との縁
・糸が繋っている。察知も対応も遙かに早い。奴らに動きがあれば次は即座に朱雀が動
く」
 赤光が頬を照す帰り道、智彦は猫の細目で、
「みんな感極まって、しかも疲れ切っている。それに、聞いても多分太い繋りは掴めな
い」
 朝子と紀子の繋りは、深く強かった。でも、逃げ去った闇の者と紀子達の繋りは、逃げ
去った結果から見て、深くなければ強くもない。危地で踏み止まれなかった奴が、完全に
拠り所を失った今、再び寄りつく事はない。それを憑かせた老婆との関りは更に薄い。奴
らは紀子達との関りで絡んだ訳ではなく、誰でも良いと割り込む隙を探していた、流行感
冒だ。
「悪質商法の販売者や支店は、閉鎖や移転を繰り返して素性も尻尾も掴ませない。一つの
糸では末端から源迄は追いきれない。多くの糸を寄り合わせ積み重ね、源に迫らないと」
 智彦は、諦めと希望を混ぜ合わせた声音で、
「朱雀を得ても尚簡単に手が届かないけど」
「俺達の手に届かぬ程遠くはない様だから」
 視線の交差は不要だった。互いの思いはこの数週間で磨き抜かれ、己の心の様に把握し
ている。それに到る道程は大変だったが、非日常に関って尚己を見失わず日常に戻れる彼
らの強靭さは、表層から窺い知れぬ程に深い。
 彼らの失った物を取り返す為、彼らの奪われた物を奪い返す為、彼らの大切な物の為に。
 奴らを追い続ければ、いつか届く。奴らを燻り続ければ、いつか源の大物へ辿り着ける。
大きな危険を伴うが、常の覚悟では挑めぬが、科学文明の香る現代社会では認知されぬ故
に孤立無援を強いられるだろうが。
 彼らは選択を下した。思い描き、行動した。信じる事が全ての原点だから。行動する事
が全ての基点だから。健太郎は常の柔和な声で、
「当事者が本気で取り組まないと、決して道は開かれない。全くこれは永遠の真理だよ」
 今回の件は、元々微かな隙に強引に割り込まれた末の悲劇だったが、それをその侭終ら
せず、喜劇に変える強さを朝子達は見せつけてくれた。彼らもその様にありたい。彼らこ
そその様にありたい。そして最後には彼らも。
「みんなで飽きる程この日常を愉しむのさ」
 健太郎はその笑みに朱雀の笑みを重ね視た。

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