第1話 人に潜み、闇に潜み

 夜の住宅街は、閑静と云うより沈黙に近い。日中は煩わしい位の生活感や喧騒・雑踏が
一気に引いて、防音構造の壁に籠ってしまうと、その落差は気味悪ささえ感じさせ。
 隔てられた家々は、互いのプライバシーを守ると同時に、誰かにプライバシーを侵され
ても、その実情を包み隠す効用を持つ。尤も、プライバシーを侵された自体もプライバシ
ーの一つで、隠されるべきとの見方もあるのか。
 一階の共同入口が電子ドアロックで、防犯対策は決してルーズでもない六階建てのアパ
ートで。五階にある妙子の部屋には窓の外からの侵入者等ある筈もないのに。
 彼女は、何に怯えているのだろう?
「来る……、来る……!」
 何が来る事を彼女は恐れているのだろう?
 夜通し電気をつけ続け、テレビやコンポの音を、近所迷惑も構わずに、否意図的にガン
ガン鳴り響かせて。幾ら防音構造の壁でもこの大音量では、両隣から苦情が来るだろうに。
 その上騒音が複数絡むので、どの音もまともには聞き取れぬ。何を聞くにも意味がなく、
唯大音量を響かせる、それだけが目的の様に。
 自身はリビングの隅に座り込んで、夜景しか見えぬ筈の、窓の外の闇に意識を集中して。
窓と反対側を向いて座っていても、その無理な姿勢が却って窓に−窓の外の暗闇に−神経
を張りつめている様を、際立たせている。
 壁方向にはテレビもない。窓に背を向けた彼女からは右側だ。だが騒々しい音声を垂れ
流す深夜番組にも、妙子の意識は向いてない。テレビは唯そこで映像を流し、音を発して
いるだけで良いと云う姿勢で、意識の脇にある。
 電気が照し出せない外の闇が、焦点なのだ。
 その集中のし方も少し違う。何と云うのか。何かが出て来る事・見える事を期待してい
るのではなく、何かが出て来ない事、見えない事を期待しつつ、尚それが望めないと分っ
て。
 分っている故にいつ出るか、いつ見えるか、逆の結果を祈りつつも気にせずにいられな
い。
 それは超常的な恐怖だった。古典的表現では心霊現象で、現代的表現では幻覚・幻聴か。
昨今その存在を否定する声も多いが、その実在が真実か否かは別に、未だそれに怯え、悩
み、苦しむ者はいるらしい。この妙子の様に。
 夜は人に恐れの心を増幅し理性を覆い尽す。日中は明るさと他者の存在で悟性を保てて
も、日が暮れれば灯りの衰微に比例し内なる畏れが鎌首をもたげるのは、万古普遍の人の
性か。
 不要な迄に電化製品を動かすのは文明の力で怖れを拭いたい故か。大音量のテレビとコ
ンポ。風呂場にトイレに枕元スタンドの電灯まで全て点け、己の恐怖を紛らす。普段は厭
う隣人も苦情を云いに来て貰えるなら有難い。
 誰かと話す事、誰かと関る事、意識される事。それだけで、孤独から生れる妄想に近い
恐怖が、どれ程減殺される事か。一人で闇に残された恐怖は、二人の時の二倍では利かぬ。
 最近夜になると、なぜか携帯の電波が届かなくなる。二十六歳で独り暮しの彼女が次善
の策として出来た処置が音と光の氾濫だった。電化製品は科学と文明の証だ。人工的な喧
騒や輝きは人を夜の闇から、闇を怯える心から、守ってくれる。部屋の雰囲気が異常なの
は、妙子の異常な怯え故なのか。或いは妙子を怯えさせる何かの影響が、現れている故な
のか。
 視線を逸らしつつ、それでも意識は背後の窓に集中している。怖い物見たさと云うより、
安全を確認せねば堪らないのか。それは何も現れなくても朝迄集中を続け、幻覚や幻聴を
受け易い疲弊を、招き寄せているとも言えた。
 妙子は何か起るのを待っていたのだろうか。望ましいか否かは別に、何かが起ると決め
て掛る以上、何かが現れる迄待ちの緊張に終りはない。更に云えば何かの出現を望むに近
く。
 開戦前夜の緊張、試合開始の緊迫、大舞台直前の硬直。それに類似した、起って貰わな
いと困る、何か起る事でしか解放されぬ類の緊縛。それが良い事でない故、望むという言
葉は妥当ではないが、いつ迄も続くと人は却って疲弊する。人はそれ程強い存在ではない。
 破滅と分っていても現状を保てない。その脱却が転落だと分っても、今を維持し得ない。
意志の力が尽きる時。いつかそれに、身を委ねてしまうのが、人という生き物なのだろう。
 妙子も拒絶しつつ、朝迄状況に耐え続ける事に疲れ果て、何かが始ってくれる事を心の
片隅で期待し。それが彼女に嫌っている筈の何かに似た幻覚を見せ、幻聴を聞かせるのか
も知れぬ。精神科医なら、そう云うだろうか。
 それを見たのは彼女だけなのだ。何度か知友人を招いて実在を確かめ、恐怖を分ち合い、
助けて貰おうとしたが、他の誰かがいる時にはなぜかそれは現れない。帰ってしまった後、
眠りについた後、彼女一人がそれを見る羽目に陥る事もあった。視たのは妙子だけなのだ。
 誰にも信じて貰えない。その思いと、
『私だけを狙って、誰かがいる時には現れず、その誰かが寝静まった時を狙って現れ、私
にだけ分る様に現れて、他の人を寝かしつけたまま来て、去っていく。全て自由自在に、
私だけを脅かせる。誰も頼る事が出来ない…』
 どちらにも伴う、共通した孤独感。
 誰にも、知って貰えない。分って貰えない。 妙子がこんなに苦しんでいるのに。彼女
がこんなに悩み、困惑していると云うのに。
 一人住いで特定の恋人もなく、親兄弟も遠隔に住み、心開ける者がない。プライバシー
を侵されぬ生活を心から望み、それを漸く手に入れて妙子が気付いたのは、自立した生活
ではプライバシーも己で守らねばならない事実だった。それこそ自立の真の意味なのだと。
自由に付随する負荷も、負わねばならないのだと。この事態になって思い知らされるとは。
 徐々に身体を刻まれるなら、いっその事ひと思いに心臓を突いて欲しい。嫌いつつもそ
の到来を『待っていた』妙子の背中に、衰えつつある獣の感覚の残存に、何かが触れた…。
 来た!
 背後の首筋の毛が逆立つ感覚が分る。手足に通う血液が凍りつく感覚を、止められない。
胃袋から喉に叫び出したい衝動がつき上げて来る。額から、冷たい汗が流れ落ちる。
 目線が向く。振り向いてしまう。
 自分を捕食する者が何者か確かめなければ、死に切れぬのか。或いは背を向ける事が余
りに無防備なので、正面対峙する事は多少応対が出来るので、死中に活を求める即応なの
か。或いは何者かに振り向かされてしまったのか。
 そこに何かがある事は分った。
 そこに誰かがいるとも分った。
 しかしそれは一体何者なのか。
 五階の車道に面した窓の外、ベランダの更に外の虚空に浮いている。それは不確かだが、
人らしき手足を持った影だったのだ。人…?
 身長は百六十センチ弱で大柄とは云えぬが、体格も肩幅や手足の太さを見るにそれ程大
きくはないが、中高生程の体格だが、一体全体どうして人が、五階の窓の外に浮いてい
る?
 しかも、はっきりとした輪郭がない。
 室内の光が届く程近いのに、口元が微笑む動き迄分る気がするのに、なぜか影は黒の侭
色彩もなく、服装も顔も分らない。輪郭がぼやけたシルエットの侭、窓の外で滞空を続け。
 この影は何者なのか。妙子は真実を見ているのだろうか。これは疲れと思いこみがもた
らした、幻覚ではないのか。
「ひっ……!」
 相手の口元が、微笑んだ様に見えた。彼女の怯えを楽しみ、その動揺に元気づけられる
様に。その黒い影は闇の中でも更に分る程に、黒さ・濃さを増していって。
「来ないで……」
 望めば相手は逆を為して来る。
 不意に全ての電化製品が、動きを停止した。ライトもテレビも消え、音の氾濫が突如静
まり返り。ブレーカーが落ちた様に全てが闇と静寂にのみ込まれ、外の異空間に文明世界
が巻き込まれた。夜が、全てを染めて増殖する。
 これも、その何者かの影響なのか。
 その何者かが意図した行いなのか。
 恐怖に妙子の視線がこわばる。明りがある間は、喧騒がある間は、ここは昼で、文明社
会で、魑魅魍魎が徘徊する夜とは別の世界の筈だった。そう思い込めた。
 それが一息で夜に変えられる。何と脆くて儚い。人の行い等、夜の前では何の抗いにも
ならぬのだと、思い知らせる様にあっさりと一瞬で、全てが闇になる。その暗闇の奥から、
「しゃああああああ」
 微かに響く何者かの息遣い。それこそ妙子を毎夜毎夜悩ませ、疲弊させ命を吸い上げる
悪意ある誰かの、喜悦に満ちた息遣いなのだ。
 空しい抵抗も全く利かず、今夜もまた夜の闇を導く何者かに睨まれて、睨まれて、朝迄
妙子は相手に怯え震え続けねばならず。
 叫びが出せない。恐ろしさなのか、相手の報復を恐れてなのか、或いはその両方なのか。
 窓の施錠が勝手に解ける。窓が勝手に開けられる。中空に浮いて来たその存在は、外か
ら届かぬ窓の鍵を操り、触れた様子もないのに窓を開け、妙子の空間に入り来た。
 理不尽なのは、誰が指摘する迄もない。
 始りから全てが理不尽の塊だ。今更それに幾つか追加要素があっても、全体を覆う不可
思議・奇天烈さに特段の変化はない。
 それが実在でも幻覚でも妙子はここ数週間、この何者かに夜な夜な苦しめられ、生気を
搾り取られているのだ。この黒い影が部屋の中迄入り込んできて、妙子を追いつめて、覆
い被さって、妙子の体の中に重なって、食い込んで、血管や筋肉の中迄思う存分に入り込
み。
 妙子はその場に座り込んだ。最早逃げる気力もない。窓の施錠を三つに増やし、電気機
器をガンガンつけて、魔除けのお札も貼って見たが、何もかも気休めにさえなりはしない。
 逃げる事は無意味だった。相手は姿も影もはっきりしない化け物である以上に、妙子の
逃げようとする所に現れて先を塞ぐ。正視も避けたいその化け物を、つっ切って向う側へ
逃れ出ようとする程の勇気は妙子に無かった。
「た、たすけ……」
 なぜか声も出せない。何に抑えられているのか、喉が万力の様に締めつけられて、出る
のは僅かなかすれ声だけで。
 電話も不通、壁や窓を幾ら叩いても返事もない。この影が現れた瞬間から、妙子は外界
の全てと隔絶されている。そんな錯覚を感じる程、見事に何もかもシャットアウトされて。
それは、この化け物の意志による行いなのか。
 怯えて竦み上がり、救いも呼べぬまま座り込む妙子の、動くに動けない状況を知ってか、
黒い影は急がずゆっくり間合いを詰めて来て。
 何かが触れる。触れる以上肉体はあるのか。だがその肉体は粘土より遥かに脆く細かな
何かで、障る度に崩れ、崩れる先から修復する。それを確かな存在と言い切れぬのは、そ
の侭妙子の身体に触れて、触れた肌から指先から、妙子の身体の中に入り込んで重なり合
う為で。
「ひいいぃぃ……」
 その何物かは身体を崩し、崩れた姿も修復せず、どんどん妙子の身体に繋って来る。妙
子の肌の下に、筋肉や血管を通る様に、異物感が関知出来る時、妙子は自分の身体が生き
た侭喰われる様な、真性の恐怖を味わうのだ。
 そんな事が出来る物質等、生き物等聞いた事がない! それは一体何者なのだ。
 それは夜な夜な続いて終る事のない、闇に付き物の悪夢。どの様にしても逃れ難い狂気。
彼女の身体を蝕み、心を蚕食する怪奇だった。
 体が重い。疲労の末に動けなくなる様な重さが、筋肉の奥から、骨から積み重ねなって。
 だがこの夜はいつもと違う。変化があった。初めてまともな声が聞えたのだ。それはい
よいよ彼女の幻覚が酷くなった事の証左なのか、いよいよ心霊現象が酷くなった事の証し
か…。
「ん、……せぇ……」
 初めて声が聞えた事である。未だ若い少年と云って良い声だが、それは妙に生気に欠け、
感情が抜け、抑揚がなく平板で。人でない何かが人の口を借りて出させている、そんな声。
「私が……私が一体、何をしたって云うのっ。
 止めて、止めて頂戴!」
 だがその声さえも掠れ掠れで、大声で叫んだ積りでも、耳を近付けないと聞き取れぬ。
 声の主は、その言葉を機械的に繰り返すのみで、彼女の反応や問いには答えもせず、唯、
「せん、せぇ……」
 身体が重なっていく。何者かが体内に二重に在って蠢く。自分の意思ではどうにも出来
ない。既に己の身体は誰かに侵入された脱け殻で、中にあった大切な何かは大半が失われ。
自分の身体の中に好き勝手に入って来られる。それは、心を蹂躙されるに等しい気分だっ
た。
 朝方にいつの間にか消え去っているその時には、妙子は起き上れない程に疲労していて。
パジャマがぐっしょり濡れる程の寝汗、昼近く迄収まる事のない鳥肌、赤く血走った瞳。
そして恐怖と疲労で朦朧とした美しい容貌。
 最初は妙子も誰かが、部屋に入り込んでいるのではないかと疑った。その方がひょっと
したら怖かったかも知れないが、幸か不幸か、鍵は朝になって見れば全てが施錠されてい
る。
 部屋にいたのは妙子一人だし、誰が入りって来ても出て行く人に内側で鍵は掛けられぬ。
人が来た様な痕跡も残ってない。事実はやはり幻覚か本当の超常現象かの二者択一になる。
「キッキッキッキ……」
 少年らしき声だけが耳に残る。今日も夜迄この感覚が、抜けずに残り続けるのか。
 朝が来ても、妙子は救われた気にはなれなかった。朝はいずれ去り、夜が訪れる。夜が
いつか来る以上、妙子に真の安らぎはない。
 恐怖がすぐ傍ではなく、少し離れた所にあるだけの話に過ぎない。少し向うの暗がりで、
時を待っているだけの話なのだ。
 妙子のアパートの窓が面した通りに、妙子の部屋を見あげて動かない、少年らしき影の
存在を確認出来た者はいなかった。真夜中である。誰もそんな所を注視してはいない。
 だがその少年らしき小柄な、身長百六十センチに満たない細身な姿は、口元に微かな歪
んだ笑みを漂わせながら、この辺りのどこかの学校の学生服姿で、1人立ち尽くしていて。

「今日は……皆さんに、一緒に勉強する事になる、新しいお友達を、紹介します……」
 野上妙子の声は努めて平静を装っていたが、疲労の影の濃い事は、彼女のクラスの生徒
の多くには、既に周知の事実になり始めていた。
 転入生として紹介を受ける花純が分る程だ。日頃接する生徒や同僚に気付かれぬ筈がな
い。噂は密かに広がっていたが、妙子は知らないと云うより、それどころではないのが真
相か。
 今の妙子が真っ当に勤務をこなす事に、どれ程の労力と気力を、要するか。端から見て
無責任な噂を立てる者達には、想像もつかないだろうに。教職は中々気軽に休めないのだ。
「樋口、花純さんです……」
 心がここにない。一生懸命身体に繋ぎ止めようとしているが、いつ意識が途絶して倒れ
込むかと云う危うさが、周囲でも感じ取れる。
「へぇえ。結構、可愛いじゃん」
 こういう時に、余計な囃し声で進行を妨害する生徒程嫌な物はない。煩くて云う事を聞
かず、話の腰の骨を折るから良い印象のない英俊の声だが、今の妙子には叱る気力もない。
「前の学校には、彼氏とかいたの?」
 気安くみんなの面前で聞いてしまう辺りも、傍若無人と日頃自称する彼らしい。確かに
花純は小柄で可憐で、端正さ・美貌の点で平均を大きく凌駕する『気になる』存在だった
が。
 肌の艶とか、きめの細かさとか、黒い双眸とか、背の中ば迄伸ばした艶やかな黒髪とか、
顔だちの良さは隠せぬ美点だろう。だがそれ以上に花純には、必要最小限以上の何もない。
 ほくろとか、えくぼとか、八重歯とか、特長となる物が何もない。鼻筋も通っているが
高い方ではない。日本人の平均は大きく外れてないので、低い訳でもないが。意志の強さ
が現れる言動の割に、美貌の割に特色がない。
 塑像の途中と云うか、これから個性をつける予定だったのにつけ忘れましたと云う様な。
黒い瞳が異様に深く見えるのは、その意思の強さを知って後の話なのか。表情が崩れず常
に澄まして見えるのが、冷淡さを際だたせ美しさを引き立てるが、親しみ易さを遠ざける。
 身体付きの細さも尋常な範囲に収まっていて無理に絞った感じではない。手足の細さも、
クラスで首位を争う程だが異常に細い訳ではない。云ってみれば、彼女の持つ美点はずば
抜けた物でなく、誰もが持ち得る美点を少しずつ備え、それで尚似顔絵を描く目安になる
個人識別の信号が何もない、作られた美で。
 だが、その平均的に出来過ぎた綺麗さが全てを際立たせる。クラスに姿を現した時にあ
がったホーっと云う溜め息は、少しの驚きを含んでいた。神秘的な趣を皆も感じたらしい
 透明感と云うのか。その容貌は奇妙な程に表情が希薄で、付き纏う好奇・関心を撥ね付
ける冷たさを感じさせる。英俊が敢て声を上げたのは、近づき難くて他の誰も云えぬ思い
を、言ってやろうと云う確信犯の意識の故だ。
 制服は同じなのに、その材質が軽やかに見えるのは、気のせいか。転入生だから、身軽
そうな細身だから、新鮮に感じるだけか。その雰囲気・容貌に、浮世離れした印象がある。
 俗世間の物を映さぬ様な、昏い瞳。透き通って何者も受け付けない無感動な笑み。身体
の軽さの故か、足音も違う気がする。それは精巧な人形が人の振りをしているに似て。
「宜しく」
 静かに頭を下げる花純の身長は百五十センチに満たぬ。花純が妙子の隣に立つと、百七
十センチに近い妙子の長身が、余計に目立つ。
 こちらも均整が取れ、素晴らしいプロポーションを持つ。両者の違いが互いを際立たせ。
妙子が大人の色香を漂わせる美人の理想なら、花純は未完で儚く脆い少女の美の理想なの
か。
 背中迄伸びた、ウエーブの掛った真っ赤な妙子の髪の広がりが、花純の標準的なストレ
ートの長い黒髪を、圧している感じがあるが。 余計な事を云うなと、常の妙子なら英俊
を注意しただろう。そんな注意で心を入れ替える彼ではないが、その場の口封じ位にはな
る。
 女性の教諭・若い教諭となると、生徒の方も悪賢くて、素直に云う事を聞く者は少ない。
英俊を始めとするクラスの面々も、多くが勝手気儘で、常でも収まりのつけられぬ状態だ
が、最近は更に酷くなってきて。学級崩壊というのだろうか。教室内は誰彼なくお喋りし、
その為に席を立つ者迄現れ、彼女の手に余る。
 妙子は疲労と気落ちから、半ばクラスの統制を放棄しており、先週も不登校の女子が現
れたにも関らず、何も動いてなかった。為せなかったと云うのが、正しいが。
 このクラスに苛めがあるのかも知れぬ。
 生徒間で何か問題があるのかも知れぬ。
 だが、今の妙子はそれどころではない。
 花純は英俊の問いには静かに微笑むだけで、言葉では何も返さなかった。それは唯はに
かんだだけなのか、見下すが故の無回答なのか。
「ええっと、樋口さんの席は……」
 眠さと云うより疲労に頭を占拠されていて、まともな思考に中々繋らない。そんな妙子
に、
「おれおれ、俺の隣!」
 英俊は自分の隣の空席を大声と共に指し示すが、妙子は首を振って、
「そこは渋谷さんの席でしょう」
 先月末から不登校なのは、渋谷雛乃だった。
「良いよ、渋谷なんて、どうでも。
 あんなやつ、臭いから嫌だぜ!」
 英俊は先生の云う事等気にも止めず、
「おれおれ、俺の隣に来て。花純ちゃん!」
 渋谷なんて来なくて良いって。今の内に席を埋めとかないと、来た時に座られたら大変。
「俺と一緒に、楽しい事でもしようぜ」
「きゃはははは、英俊、口説いてるぅ」
 英俊の声が、場を日常に引き戻しつつある。秩序も統制もなく、だらだらと喋り騒ぎ、
うろつき回る、歯止めの欠けたクラスの日々が。
「おいおい、いきなり求愛かよ」
「目移り激し過ぎるぞ、英俊ぃ」
「お似合いお似合い、応援する」
「この前の西中の女の子は、どうすんだよ」
 英俊の積極さが、花純に迄注目を呼び込む。好ましくない傾向だが、拒絶すると波風が
立って、更に注目を集めそうなので難しい所だ。
 それでも、花純と英俊に気を向けるのはクラスの半分に満たぬ。それ以外は先生の話を
聞いて朝会を進める訳でもなく、自分勝手にお喋りを始めて。自分や周囲の二、三人以外
には、彼らには全て他人で、世界が別なのか。
 叱る気力がない妙子は、銘々勝手なお喋りを放置して、自然に鎮まる時を待つ。だが今
時の生徒に喋り疲れはなく、一層快適に自分達の勝手に安住し、時間は過ぎてゆく一方だ。
「来てよ来てよ。俺、大歓迎だから」
「あ〜あ、下心丸出しだぜ」
「でも、渋谷が戻る位ならその方が良いか」
「そうねぇ。あの人、ジメジメしてるしぃ」
 いつ迄も話が進展しない。このまま一時限目に突入しても、妙子の監督不行き届きにな
ると、生徒の側も分って、なめて掛っている。半分は初対面である花純の反応を窺う感じ
で、
「ささ、座っちゃって。座っちゃって」
「先生は怒らないから。大丈夫だって」
 花純が困惑していると見て、面白がって唆す英俊達だが、花純の反応は予想外に平静で。
静かに佇み、囃し立てる級友を見つめるだけ。それが分るのは花純の次の一言による。彼
女は周囲の予想以上に強い己を持っていた様だ。
「先生、席を指定して下さい」
 数分後、花純は静かだが確かな声で教諭に仕事をする様求めた。着座すべきは花純だが、
指示を出すのは教諭の仕事だ。各々の職分を果さなければ何事も処理されずに堪っていく。
その意欲に欠けた者は別として、花純には思い定めた為すべき事がある。いつ迄も、無意
味に時を潰す愚行につき合う気はないと。
 だがこの一言は、生き方で英俊達クラスの全てと、反対を向くとの宣言だ。日常に流さ
れて己を見失うのと、日常を流し己を保つのは、見かけは似ていても正反対だ。余りに鮮
烈なその対照は、無秩序を自覚させられると云う意味で、英俊達のみならずその輪を外れ
た者達含む、クラス全員の不快感を呼び起す。
 それを自覚してなのか、無自覚でなのか。
「私は、無為に時を過ごしたくはありません。
 時が余る程あっても、為すべき事はそれ以上に多く、複雑です。何もかもが過ぎ去って
戻り来ない以上、何事も速やかに動きたい」
 中学生に似合わない言葉だったが、今時大人でも滅多に使わぬ云い回しだが、花純には
なぜか良く似合う。その雰囲気を纏う彼女だからこそ許される。そう思わせる何かがある。
 そこ迄言い切れば、彼らが見下された気持になって黙り込むのも無理はないか。これは
納得の沈黙でもなく、又服従のそれでもない。反抗と拒絶と、様子見の意味を込めた沈黙
だ。
「そ、そうね……」
 妙子の指導力のなさや、統率の意志の欠如を指摘する様な清洌な言動に、妙子が押され
る形で話が前に進められる。妙子には引かれ、他の生徒は睨む視線なのを、知ってか知ら
ずか花純は平然と立ち尽し、周囲を見下ろして。
 反発するならしても良い、私は人の嫌悪等恐れないと、態度で語っている。だが、一人
で意見表明する強さと明快さこそが、こういう怠惰な中では突出して見え、最も嫌われる。
 教諭さえ突き放す冷徹な言動は、やがてクラスの異物を取り込む・又は排除する動きと、
ぶつからずにいられぬだろう。集団に添わぬ者を嫌い蔑むのは、普遍的な人の性の一つだ。
「では……ええと……」
 統一した思考が保てなくなっている。熟睡に入る寸前に近い感覚で、次に何をしたら良
いのかが繋って来ない。そんな妙子に、助け船を出す様な別の男子の声が、
「先生、僕の隣が空いてます」
 一番後ろにいた圭一の声だ。
 英俊と違って陽気ではなく、妙子の云う事にも柔順で静かな雰囲気を漂わせるその声に、
「そうね。では、樋口さん、そこに座って」
 そう。そこに座らせようとしていたのだ…。
 妙子の指示を受けた花純は、廊下側の前から二番目の空席に歩みを進めていく。教室の
雰囲気は未だ、花純の様子を窺う感じだった。
「よろしく……」
 静かな、と云うよりやや暗い雰囲気を持ち、今迄誰とも喋る様子も見せてなかった圭一
が、まともに口を利いたのは、妙子への先程の一言に続いて、この喧噪の中でもまだ二言
目だ。
「よろしく」
 花純の答えは、表面上は挨拶だが、慇懃無礼と云うべき冷たい応対で、それ以上は踏み
込んで来るなと言外に伝える、厳しい視線だ。
 圭一もそういわれては、先に続ける言葉もなさそうで、困惑の表情を見せるが、その関
係は英俊達から圭一が睨まれずに済むのには、むしろ良い結果かも知れなかった。
 英俊達は、花純をクラスの雰囲気から突出した異物と認識し始めている。花純と仲良く
する事は、衆を敵に回す事になろう。子供は己の感性に忠実な故、時に残虐非道な天使に
もなる。先程の清冽な一言で、クラスの雰囲気は醒め切った。特に英俊の視線が執着的だ。
「はい、それでは……」
 だが、花純の様子を窺いつつ、とりあえず互いの感触を確かめ合う今時点では、クラス
は表面上むしろ平静で、統率がとれた感覚で。妙子には束の間であっても有難い。実は苛
めの最中こそ、大人向けには何も起ってないと柔順な生徒・学級を演じる物かも知れない
が。
 漸くそれで歯車が回り始めたのか、朝会は順調に進み。少しやつれているが、赤毛美人
な妙子の指導力が、今日は常より強く見える。指導性とは指導する側だけで決まる物でな
く、指導される側の受け入れも重要な要素らしい。

「ねぇ、前のガッコの話、聞かせてよ」
 英俊は、皆の前でああなった以上、引っ込みがつかぬと感じているのか。彼は休み時間
でも授業中でも、花純への口出しや手出しを止めようとはしなかった。人との関与を拒む
様に冷淡な応対を、崩してやろうという様に。
 最初は好意だったかも知れぬ。だが花純の反応が清洌に過ぎ、状況を大きくねじ曲げた。
クラスで花純が浮いた事と彼への無視に近い冷やかな応対が、英俊に逆方向の炎をつけた。
 クラスは決して、彼女を快く思ってない。
 そして自分も又、彼女を憎く思っている。
 クラスは彼女に制裁を与えたがっている。
 そして自分も彼女に仕返しを望んでいる。
 真っ当に会話を望めぬなら痛めつけてでも。多数の意見と自分の思惑が一致した時、英
俊はいつの間にかクラスの雰囲気を背景に花純を圧殺しようと図る集団の先頭に立ってい
た。
「俺、花純チャンと仲良くなりたくてさ」
 一時限目が終るとすぐ、英俊は花純の隣にやって来た。待ち兼ねたと云う感じで圭一が
外した後の席に座る。その入れ替りは、仕組んでもないだろうが絶妙なタイミングだった。
 間近に数人の男女が見えるのは、英俊の更なるアプローチへの期待と好奇心の故だが、
その心情は英俊を支援する姿勢で花純を威圧しつつ、尚己は直接責を負わぬ立場にいたい。
花純が大人しく苛められる人物か否かまだ分らぬ中で、クラスの多数には迷いがある様だ。
 だが、これ迄経緯がある英俊はそう行かぬ。彼の心は、可愛い娘を衆人環視の元で先頭
に立って苛められる立場に奮い立っていて。先鋒に立つ武将の気分とはこう言う感じなの
か。
 花純は目線を一度だけ英俊に向けたが、何も答えなかった。淡々とノートや教科書をし
まい、次のそれらを取り出して机の上に並べ。
 中途半端な好奇心で、初対面での馴れ馴れしい言動は、花純は望まぬ様だ。その気配は、
教室の雑踏の中で確かに浮き上がり、孤立する程平静で、寄せつけ難い冷淡さを感じさせ。
 美しさが人を遠ざける事もある。小説や伝聞に知ってはいても、実例に当るのは初めて
な英俊は、不本意ながら黙らされた。彼女の対応は、貴族的な程に傲然としていた。物音
がしたから見ただけとの感覚が顔から読める。
 初対面からそこ迄吹っ切って、意識して他者を見下せる者は、そうはいない。彼らが他
人を苛める時だって、数を揃えて絶対優位を作り、更に相手が無抵抗にやられるだけので
くの坊と分ってから、初めて見下す物なのに。
 そうでもない時点で、一人で多数を見下す視線を表に出して、反応を窺いもせぬ。そん
な応対をする者は、今の世にはむしろ希少だ。それが己への過信に過ぎぬのか、内実を伴
う物なのかは分らないが。気に食わない英俊は、
「ねぇねぇ、このストレートの長い髪、前の彼氏の好みィ?」
 花純の背に回って、その髪の毛を引っ張る。
 引っ張ると云っても、すぐに離し、花純の反応を窺うだけなのだが、
「私の好みよ。御免なさいね」
 花純は即座に後ろを振り向き、英俊の目を見つめてそう答える。その強く早い反応と正
面からの受け答えが、調子に乗って苛めたいクラスの面々の動きに、竿を刺す効果になる。
 ここでやられるに任せたり、弱気に止めてと懇願すると、彼らは嵩に掛って来る。目に
映る事が虐めの効果を物語るのだ。それは実は苛める側もが確固たる強さを持たぬ故だが。
 敵が弱く、自分達が集団でなければ掛っていけない。にも関らず、多数になるだけで彼
らが自分達を強いと思うのは、苛められる側が弱みを見せるからだ。孤独を怖れるからだ。
 花純は孤立を恐れないし、孤立が弱いとさえ思ってない。故にその受け答えは誇り高過
ぎる程堂々として、却って英俊達を怯ませた。
 子供世界でも人生は戦いである。美しい文言や概念に踊らされた子供は、しばしば美し
くない現実に打ちのめされるが、世の中とはむしろ、理想的な人間関係の方が少ない物だ。
 花純の生意気な迄に平静な受け答えに、
「ねえねぇ、前のガッコの話、教えてよ」
 別の女子の声が覆い被さる。花純の対応をすっ飛ばしている。非礼でしつこい質問だが、
真の問題は声の主が目前の女子の誰でもない事だ。彼女は人に隠れた位置を使い、匿名な
立場で嫌がらせの如く、同じ問を繰り返した。
 一応顔を見せる英俊より悪質だが、その悪質さが多数派の虐めの最大の利点なのだから、
彼らは無意識でもそれをフル活用する。実行犯を多数の壁で隠し、誰もしてないととぼけ
つつ誰かが見えぬ処から標的に痛手を与える。
 それは誰ともつかぬ多数故の、誰でも皆に隠れれば責は問われぬとの安易な発想による、
発作の如き行いで。現在の子供は指導性がないと言うより、責を被せられるトップを嫌う。
このクラスも、雰囲気や気分で流れが突然決まり変る風頼みの感じが濃くつき纏っていた。
 理由や理屈が効かず、感情と思いつきで全て決する世界である。ロシアンルーレットだ。
理由など殆どなく、運が悪ければ標的になる。故に場の空気を読み違えると大変だ。乗り
遅れても大変だ。先走っても勿論大変だ。特徴も個性も許されず標準普通に縛られる子供
達。
「私も聞きたいなぁ」
「俺も聞かせてよぉ」
「特にその長い髪を好きな前の彼氏の話を」
 いつの間にか花純を囲む形で、周囲には十数人が集っている。座る所がないので、多く
は立った侭で座った花純を見下ろすが、これも威圧の一種だ。教室の一角に奇妙な人だか
りがあるのが、外から見れば分っただろうが、職員室から死角である上に精神的に随分遠
い。
 生殺与奪の、舞台設定は整った。後は小生意気な転入生に、身の程を弁えさせるだけだ。
『転入生を気遣って、みんなで彼女の前の学校のお話を聞いていました』
とでも云って置けば、妙子は嘘と分りつつも、それで納得した振りをして黙認する。
 だが、花純はこの視覚的にも明瞭な状況を、無視しているのか、本当に気付いてないの
か、
「話す程の事でもないわ」
 花純は平静に答えると、向きを戻す。英俊の問いかけにまともに答える気は、ない様だ。
 だがこれでは雰囲気に押された英俊の立場がない。彼もクラス全体の顰蹙を買うのが怖
い立場は同じだ。調子の良い時は追い風でも、いつ風向きが逆さになるのかは彼にも分ら
ぬ。この追い風にも関らず何の成果もなく退いたなら、彼の弱腰にクラスの鬱憤が来かね
ない。
「そんな事云わないで、聞かせてよぉ」
「そんな事云わないで、聞かせてよぉ」
 男子の誰かが同じ調子で繰り返し、場を交ぜっ返す。英俊はそれを無視する花純の長い
黒髪を再度引っ張って、
「無視するなよ。折角聞いてんだからさぁ」
「答えてあげて良いんじゃない、花純さん」
 女子の声に、別の男子の声が、
「おいおい、花純さんだって。友達みたい」
「良いじゃない。英俊が言ったんだものっ」
「英俊は良いんだよ、新しい彼氏なんだし」
 恋人関係にして置けば、色々な揉め事が発覚しても花純も責任の半分を逃れられぬから、
告げ口もしにくい。憎らしい程狡猾な策だが、
「止めて貰えない?」
 花純は今度は振り返らぬ侭、左腕を後ろに回し、己の髪を引っ張る手を牽制する。だが
それは瞬間的な効果しかなく、逆に花純が嫌がる反応がある事を喜んで、何本もの手が代
る代る花純の髪を、一房一房引っ張り始めて。
 背後で直接見えぬ事による匿名性。
 クラス全体で行う事による集団性。
 彼らが漸く調子づいて来たのは、花純が嫌がる姿勢を見せた為だ。彼らは苛立ち、数の
優位で押し切る事にし始めた様だ。これは彼らの思い込みに過ぎないが、実は彼らの行動
とは殆どが、思い込みによる物なのだから。
 こいつは弱い、こいつは反撃出来ない、こいつは馬鹿にしても云い返せない。そういう
思い込みが彼らに安心を与え、暴走を誘う…。
 多くの人間は、一度その様に思い込まれて集中攻撃を受けると、独力でそれを跳ね返せ
る程強くないので、結果から見ると弱みを持つ者に見える。だが、その程度の弱みは責め
立てる側にも同様にあり、苛める側と苛められる側を別つのは、運不運と云うのが至当で。
 既に数人いるクラスの不登校女子にしても、特別又は明確な理由で苛められ、学校に出
て来なくさせられた訳ではない。些細な理由で始り、後は流れが決ったら止められぬだけ
で。
 その危険の中で、誰が他人の為に危険を被るだろう。次の瞬間に己を苛める側になるか
も知れぬ者に。己が苛められる時にも見て見ぬ振りするだろう、クラスの中の他人の為に。
 遊び半分に髪を引っ張る複数の手に、花純は振り返って牽制する。だがその時には既に、
髪を引っ張った手は存在しない。多数の攻め手には牽制も一時凌ぎに過ぎぬと、攻める側
は熟知して。代る代る、花純の目の届かぬ方向からネチネチと攻め続けて、動揺を強いる。
 彼らは言い逃れる為に、目の届く範囲では決して動かぬ。不特定多数故に不気味であり、
自分は場に居ただけで、無罪だと言い逃れる余地を残す。自力で抗議する強さを持つ花純
の様な相手に、彼らは正面からは仕掛けない。
「どうしたのぉ。花純ちゃん」
 英俊は完全犯罪を達成した様な得意満面で、
「その長い髪にまつわる話を、聞かせてくれる気になったかなぁ……」
 花純の抗議と牽制の視線にも、彼は白々しくそう応え。振り返った花純の背後で、別の
手が数本既に彼女の髪の毛を引っ張っている。このチクチクと心を苛む心理作戦が、多数
な故の安心に支えられた、苛める側の真骨頂だ。
「貴男に聞かせる様な話ではないわ」
 花純は答える必要もないのだが仕方ないとの感じで、代表の英俊に一言云うと席を立つ。
「他者の不愉快を意図して招く様な人間達に、過去を曝け出す程、私は愚かではないわ
…」
 私は貴男達の生き方に干渉する積りはないから、貴男達も私への余計な詮索や手出しは
止めて頂戴。私が貴男達に望むのはそれだけ。
 自分より背が高い者もいる、自分より遥かに多くの者達の好奇と羨望と嫉妬の眼差しを、
花純は逆に、侮蔑と嫌悪と隔絶で跳ね返して、
「分り合いたいとか、友達になりたいとか、思ってないから……私に、関り合わないで」
 ストレートに言い切る。同時に二時限目の始業のベルが響く。良いタイミングだ。これ
迄の両者のやり取りに関係なかった物達が一斉に席につき、逆に彼らが浮き上ってしまう。
 花純の動きに応じ立ち上った、英俊の座っていたその椅子に、圭一が戻ってきた。それ
が場の流れを象徴している様にも感じ取れた。
 流れに乗り遅れる、或いは読み違える事が、苛める側と苛められる側を別つラインだと
知る彼らは常に、雰囲気に流される。二時限目の村上教諭は、四十二歳の厳格な男性教員
だ。
 攻め時を失した。彼らの顔にはそう書いてあった。とりあえず、今は引いた方が良いと。
とりあえず今は、の話に過ぎないが。
 花純の取りつく島もない物言いに、圧倒された形で困惑を顔に示していた英俊にこれは、
むしろ丁度良い潮時、だったのかも知れない。それでも彼は、精一杯の余裕を顔に示しつ
つ、
(劣勢を認めれば、苛められっ子に転落しかねないとの強迫観念の故である。これも彼ら
が強者ではなく、集団である優位だけで苛めている弱者集団に過ぎぬ事を、示している)
「嫌われても構わないのが、恋心って奴だよ、花純ちゃん。ようく、覚えといてね」
「恋心ぉ恋心ぉ」「ひゅうひゅう」
「覚えといてね」「花純ちゃんっ」
 級友達の個性のない囃し立ても虚勢である。先頭に出てリスクを被る気はないが、勝馬
に乗る位の感覚か。孤立が怯えに直結しない花純には、それが透けて見えるので、不用意
に心を乱される事もない。完璧な無視で応じる。
 隣に座る圭一が、何かあったのかと云う顔で眺めるが、花純は心配や好奇をシャットア
ウトする大理石の美貌で、平静に沈黙を守る。
 接触を求めて話し掛けたのは、圭一の方で、
「余り、クラスを刺激しないでくれないかな。 先生の悩みの種は、今あるだけで十分
だ」
 静かな語調だが、奇妙な台詞だった。クラスの雰囲気に逆らうなと云うだけなら、教諭
は要らぬ。言い方が、悩みの種は今で丁度良い量があると聞える。状況は今安定している、
掻き乱すなと。声に、不思議な威圧感がある。
 彼は教室の雰囲気に従えとは言っていない。結果はそれを求めているが、教諭の心労を
増やさぬ為で、英俊やクラスの多数派と花純の真の和解は二次的な、どうでも良い問題だ
と。
 彼は教諭を気遣う一方で、その統制を乱し続ける英俊達を、不快にも思っていないのか。
 手をだせないと云うなら分る。英俊達は多数派だから。だが圭一には、そもそも英俊達
が教諭を悩ます状況その物が、変えねばならない、良くない状況だと云う認識がない様で。
 教諭を気遣いつつ、教諭の苦痛を放置する。
 どう云う事なのだろう?
 花純の登場で、妙子も英俊達も、なあなあで来た関係の刷新を迫られている。妙子には
悩みを見つめず放置してきた腐臭を認識させ、英俊達には常軌を逸した自らの姿を知らし
め。どちらにも花純は厄介な存在なのかも知れぬ。
 だが圭一とは、一体何者なのだろう?
「この席も、本当は小森広子と云う人の席」
 花純が今いる席も本来不登校の女子の席だ。だがそれを勧めた妙子は知っていた筈だろ
う。
 最初に口にしたのは、圭一だった。妙子は促されて、花純にこの席を勧めた。英俊達の
騒擾も、圭一の一言で上手に彼の許容範囲に収まっていた様だ。このクラスで真に面倒な
のは表面で騒ぐ英俊達ではないのかも知れぬ。
 そのカラクリを、普通の人なら気付かない、無意識の外に弾き出されている事実を、こ
こで持ち出す。花純の切り返しも、並ではない。
 その眼が意外さそうに瞬いた。彼の威圧の奇妙さに、気付き、指摘して平然な存在とは、
何者なのか。花純は事実を最初から指摘せず、彼の忠告・警告を待って、切り返しに使っ
た。
 並の神経ではない、のかも知れない。
 彼はそれ以上何も語らなかった。何かを暗示する事で花純を黙らせようと試みた様だが、
少しどころではなく異なる物には利かぬ様だ。
 花純は、見かけこそ小柄で華奢で可憐でも、その内実は、衆目の予想以上に強靭なのか
…。

 二時間目以降、英俊達は敢て花純への接触を避けていた。花純の言葉に納得した訳では
ないが、黙らされたと云うのが近い。憤懣は滞留しているが、花純が予想外に強固なので、
尚叩き付けて更に返されるのを逡巡している。
「私は、数の多さだけを頼みにして、どんな非礼も侮辱もできると思い込む様な、恥知ら
ずな人間達の、好意や理解を求めはしない」
 云ってくれる。苛烈に過ぎるが、正論だ…。
 正面からそこ迄徹底されると、攻め立てる側に攻め口がない。苛められっ子はその多く
が、小数派である事を負い目に感じ、孤独に怯え、無視される事に慄いて、最下層でも良
いから仲間に入れて欲しいと望む弱みを持つ。
 それが苛められっ子最大の弱みであると同時に、実は苛める側もそれしか攻め口がない。
それを平然と否定し、友情や信頼や交流は求めないと迄切り捨てられては脅しも無意味だ。
クラスの空気は、前例がない事態と相手とに多少の距離を保っていた。花純が望んだ様に。
「では、教科書を開いて。七十六ページ…」
 四時間目は妙子の持つ英語である。妙子は疲労の色を隠せない様で、授業にも余り実が
入らない。読ませて、訳させて、流していく。
 間違いを指摘する作業は出来ぬ為、先に黒板に訳を書き連ね、訳させた文との相違を生
徒に読み取らせる。授業の丸投げに近い形だが、それに応じて生徒も勝手に喋り立ち騒ぎ。
 妙子はそれを見て見ぬ振りで、生徒も授業は無視するが公然とは反抗せず、微妙な均衡
が保たれる。生徒達の開放区だ。授業中でこうなら、彼女の目が行き届く訳もなく、苛め
の芽を摘むどころか助長しても無理はないか。
 英俊は離れているが、花純に近い席の女子や男子が、消しゴムをカッターで小片に千切
って、花純の後頭部や首筋にしきりに投げ付ける。花純の乱れや弱りを刳り出したいのか。
 花純が振り返って抗議したら、それを捉えて授業中の私語だと、皆で非難する。その設
定は整った。やられっぱなしなら、花純はやはり打たれっぱなしの苛められっ子だとなる。
 動かぬ事が弱気であり動かす事が罠となる。だが、振り返った花純の先制は、止めてく
れとか何の積りなのとかの個人的抗議ではなく、
「授業をまともに受ける気のない者が、ここに留まる必要はないのよ。好きな事をして遊
びたいなら、遊ぶ場所を探して好きに遊べば良い。今ここは遊ぶ為の場ではないわ」
 英俊達が口実に備えた『公』を花純は先に使ってきた。彼らが、私語ではない花純の公
的な抗議に非難の文句を探すのに畳み掛けて、
「目的を持つ者が目的の為に動く姿を、私は美しいと思う。明確な目的も、自分のいるべ
き所も定かに知らぬ者達が、ただ群れて蠢くだけの姿は見るに堪えないわ。鳥や獣以下よ。
 雰囲気ではなく己の意志や使命で動いて」
「……!」
 妙子が、心臓を打ち抜かれた顔を示すのも分る程の苛烈さだ。直接自分に向けられはせ
ずとも、怠惰な部分をどこかに抱えて生きる、殆どの人の魂を殴り付ける力がある。凡百
の生徒に、この言葉とそれを支える気迫に対応できる筈がない。それは子供の台詞ではな
い。
「分って?」
 花純が敢て答を求める。それは誰に向けてと云う訳ではなかったが、云われた者は一人
一人自分に云われた錯覚を覚え。それ程に衝撃があったと云う事か。実質ダメ押しになる。
「御免なさい……」
 思わず女子が一人、そう洩らしてしまう。
 これは敗北宣言である。誰もそれを否定せず、まぜっ返し話題を変え誤魔化す事も出来
なかったのは、不本意でもこの場では全員が敗北を受け入れざるを得なかったと云う事だ。
「さ、それじゃみんな、授業に戻って」
 話題を変えられたのは、その職責に形だけでも従っていて、大人である妙子だけだった。
彼女にもこの問は重すぎて、放置しておくと潰されそうだった為でもある。
 英俊達は憤懣を更に溜め込みつつ、妙子の一言に救われて、形だけの授業に形だけ参加
する事で、お茶を濁す。全員が協力せねば、仮面のクラスは保てぬ程追い詰められていた。
 情況が急転したのはその三十分程後の事で、
「先生……! しっかり、して下さい!」
 ベルがなる時間を見込んで、授業は僅かに早く終えていた。午前中の授業を終えて安心
したのか、妙子が教室の戸口の近く迄来て、突然力をなくした様に倒れ込んだのだ。
 万事に無気力で反応鈍い生徒の中で、真っ先に駆け付けたのは、後部の席の圭一だった。
「う、ん、ん……」
 表情に苦しみの色はないが、意識もない。
「先生! 先生、先生……!」
 圭一は抱え起しても答のない妙子の身体を、二、三度揺さ振ってみる。この時点で漸く
他の生徒達も異常を分った様で、ゾロゾロ詰め掛けてくる。その多くは心配より、珍しい
事態への好奇の目線で。或いは、赤毛美人な妙子の、倒れこむ無防備な姿を見たかったの
か。
「う、う、うん……ん?」
 虚ろな目線だが、漸く妙子が意識を戻す。
 未だ三分と、経ってはいない。妙子も自分がどうなっていたのかを凡そ理解できた様で、
「わ、私、倒れていたのね……。ね?」
 慌てて立上がろうとはするが、足が縺れて立てない。圭一が支えて立たせるが、千鳥足
に近い感じで、どう見ても不安だ。
「保健室に行きましょう。僕付き添います」
 この判断は賢明だろう。職員室に戻るより保健室で休んだ方が、身体に良い筈だ。幸い、
四時限目が終ったので、暫くだが時間もある。
 妙子は未だ思考力が完全に戻ってない様で、余り考える事が出来ぬ侭圭一の進言に頷い
た。彼女の体重の何分の一かを受けつつ、圭一が戸口へ向うのに、その戸を開いたのは花
純で、
「私も、付き添うわ。ついでに、保健室の場所も知っておきたいし」
「……」
 妙子の異変に際し行動を示した者は二人だけだった。許可を求めると云うより、意志を
宣告する花純の語調と、確かに役に立ってみせる行動で、保健室行きは三人になっている。
「保健室なんて俺が案内するから良いのに」
 背中から声を掛ける英俊を無視する花純に、
「妙子先生は、圭一に任せてやった方が良いんだよ。余計な外野は入らない方が良いんだ。
俺達もそう云う関係に入ろう、花純ちゃん」
「悩まされる女と悩ます男と云う関係に?」
 花純の鋭い指摘に圭一の眉が微かに動いた。それは英俊に向けた刃であると同時に、彼
にも向けられた『謂れ』のある言葉の暴力だったが、今はそれを云々するべき時ではない
…。
「邪魔な外野が入る類似点も未だ続きそう」
 教室を一緒に出ていく。英俊から見た花純と圭一の関係も、海千山千と云う所だろうか。

「僕が付き添っているから、職員室の先生の机の上に、先生の教材を置いて来て欲しい」
 現代の学校の保健室は、授業に出たくない子供達の駆け込み寺になっている。
 空である事がまずない保健室は既に、生徒が男女各一人ずつベッドに寝かされていたが、
幸いもう一つ空いていて。教師である妙子の登場に、保健婦は少し驚きつつ、迎え入れて。
まず寝かせ、体温を測り、簡単な問診を行う。
 冒頭の一言は、状態が一段落した時に、圭一が思い出した様に花純に下した指示である。
気付いたなら己がやればと返す事も出来たが、それも子供じみている。それに妙子に関す
る限り圭一には、妙に拘りがありそうに見えた。
 この辺りは、英俊の言葉を裏付ける事になるのか。花純は静かに保健室を離れる。
 妙子の教材類は、持って来る余裕がなかったので、教室に置きっぱなしだ。異様な盛り
上りに包まれている教室に花純が戻ったのは、妙子を連れだしてから十五分位経った頃で
…。
 圭一は、こうなる状況を予期していたのか。積極的に招かずとも、放置すればこうなる
と。
「お帰りなさい、花純ちゃん」
 さっき敗北宣言をした女子・香苗が、それを取り返す様に挑発的な言葉で、迎え入れる。
教室内の雰囲気は、妙子が倒れた事と自由な給食時間と云う事で、混沌に逆戻りしていた。
 教壇にあった妙子の教材類を持つ花純に、
「給食食べないのぉ、花純ちゃん」
「一緒に食べようよ、花純ちゃん」
 英俊の声に、数人の男女が唱和する。その挑発的な一致が不愉快だ。花純は無視して教
室を出ようとするが、
「折角の転入のお祝いを、無視する気ィ?」
 善意を無視した悪い奴のレッテル張りを富美子が試みる。花純には、彼らの企みが凡そ
見えているので、冷然と振り返って、
「チョークや綿埃を混入した食物を祝いとは、良い神経ね。貴男達の気持がとても良く分
る。
 私は、本当に善意でも貴男達の手を経た物を食べる気にはなれないわ。御免なさいね」
 花純は好意を求めない以上に、悪意には敵意で対抗すると言い放った。そこ迄の覚悟と
気合のある者への苛めは、多数派にも容易ではない。最後の謝罪は、慇懃無礼と言う奴だ。
 言うべき事は云い終えたと、教室の戸に手を掛ける花純に、背後から、
「そんなに圭一に惚れ込んだって、圭一は妙子先生一筋なのさ。片思いの花純チャン!」
 英俊の露骨な一言が、花純の動きを止めた。真相を当てたと云うよりは、そこ迄虚言を
弄して人を貶めたい、その情熱に呆れたのだが、
「当たってるぅ。当たってるぅ!」
 嘘でもそこで盛り上って、花純を動揺させたい。その思いは英俊だけではなかった様で、
他の者達も口々に、根拠のない観測に乗じて、
「俺も花純ちゃんに片思いだから気持分る」
「おいおいそれは英俊だろう?」
「彼は花純ちゃんと両想いだから別なの」
「じゃあ彼女、圭一と二股って事なんだ」
「妙子先生に片思いする圭一に片思いの花純ちゃんが、実は英俊も好きで、そしてみんな
の恋するプレイガール。どう?」
「何か、混乱してきて分らない」
 花純を根拠のない噂の泥沼に一緒に落して、品性迄貶めようと。その策謀より、それに
乗って騒ぐ事で人生を浪費する彼らの愚昧に花純の軽蔑が向くと、彼らは遂に分らないの
か。
 人生を賭け、花純を打ち負かしたい強い想いがあるなら分る。花純の存在を許せず、放
置できぬ事情があるなら分る。だが、彼らは暇に飽いて、時間と労力を無意味な遊びに浪
費しているだけだ。何とも愚かしい。
「保健室に戻って、妙子先生と三つ巴だぁ」
「職員室の妙子先生の席に、画鋲まくのよ」
「恋する乙女は何をやりだすか分らないし」
 花純が唖然とするのも無理はないが、その僅かな亀裂に刺さり込む、彼らの神経も相当
陰険だろう。彼らは一人一人が弱者なだけに、人の弱さを知り尽している。微妙な陰りや
僅かな惑い、言葉の澱みに、感受性鋭く反応し。
 感受性の鋭さは、昨今良く心の清さを示す様に云われるが、実は人の道徳性とは別物だ。
数学が出来ても人格的な優劣と別である様に、感受性が鋭くてもその鋭さを悪用して人の
心を責める者もいる。嫌がらせをする者を想像力欠如と云うのは、一面的に過ぎる。何を
すれば嫌がるか考えて、彼らはそれを為すのだ。
 彼らに個人で対抗するには、花純の様に弱みを隠し、徹底した鉄面皮・強面で押し切る
のも、一つの方策かも知れない。それができる強さを、己の中に養わなければならないが。
「何をやりだすか分らぬ乙女に、不用意に手出しする貴男達の勇気は、称賛するけれど」
 花純は、彼らの仮定に敢て乗ってみせて、
「本当に危険を負う覚悟があっての行いなんでしょうね? 己が痛みを負うとの覚悟が」
 冷やかな問い掛けも、彼らは軽く受け止め、
「俺、花純ちゃんの為ならどの痛みも負う」
「花純ちゃんの身体と心に痛ぁい傷を残して、俺も一緒に痛んでみたぁい」
 日本語になってない気もするが、真剣な問もまぜっ返す事で無効化できる。彼らの、花
純の気に障る事が目的な言辞に、
「じゃ、その給食を片付けて。どんな事でもできるなら、綺麗に食べておいてくれるね」
 実行等期待してない。彼らの上っ面だけの売り言葉を、矛盾の淵に落し込む事が目的だ。
悪意には悪意で、卑劣には卑劣で、狡猾には狡猾で。自分が悪い人になる事を恐れる良い
子・苛められっ子には、この強さは望めない。
 悪辣ささえも、時に人の悪意を斥けるのに必要な人の資質・必要悪である事を、社会は
子供達に教えるべきだ。美辞麗句よりも先に。
 怒りより蔑視を込めた視線を残し、花純は戸を空けて職員室に去る。彼らに屈従しても
決して安楽は得られぬと、花純は分っていた。
 奴隷の平和とは、いつ御主人様の理不尽で遊び半分な意向で崩されるか分らない、見せ
掛けの平和である。どんな平和でも戦争よりましだと云う敗北主義は、花純の心の片隅に
もなかった。自分が納得できるなら、花純は逆に戦争でも平和でも善でも悪でも構わない。
 だが、この現代にその様な考え方を持つ女子中学生等、果して存在できるのだろうか?

「野上先生……最近、具合悪い様ですね?」
 いつの間にか、保健室は二人以外誰もいない。男女二人の生徒は早退すると言って帰り、
保健婦は昼食を取りに外出した様で、保健室は誰かが望んだ様に二人っきりの間になって。
「五時間目は先生の授業はなかったですよ」
 彼は彼女の授業日程を知悉しているのか。
「え、ええ……」
 否定は出来ないとの感じで頷く妙子に、
「何か、不安な事でも、おありですか?」
 圭一はずばりと訊いて来た。この辺りは英俊の傲岸さにも近いが、それより彼の表情に
は瞳には、心情が現れている様に感じ取れて。
「僕は、先生が最近いつも疲れた様子でいるのが心配なんです。心をどこかに置き忘れた
と云うか、何かに魂を奪われたと云うか……。
 今にも倒れてしまうのではないかと思えた時もありました。心配なんです!」
 強くそう訴える圭一に、妙子は驚いた顔で、
「……心配してくれるの……」
 そう云えば、彼は時折妙子を遠くから見つめていた様な気がする。最近の彼女の変調を、
心配していたのだろうか。定かではない意識の中でそんな事を思い浮べる。そんな妙子に、
「当り前じゃないですか! 僕の先生ですよ。
 先生が僕を心配してくれる様に、僕も先生に悩み事がありそうな時は、心配して当り前
じゃないですか。当然ですよ!」
 こう云う場・誰もいない所だからこそ、云えた台詞だろう。保健室には、教室にいられ
ない者が数人いるのが常なのだが、妙子と云う大人がいる事で、入りにくいのだろうか…。
 日中に人気のない保健室と云うのも希少だ。それどころか、誰かが走り回り話し声が聞
えて然るべき周囲の物音さえ、シャットアウトされたかの様に、静寂で。廊下迄無人と
は?
 まるで二人、否圭一の為の様な舞台設定だ。
 奇妙な程の静寂を保つ静的な空間で、圭一は妙子を覗き込む様に顔を近付ける。身長百
七十センチの妙子に対し、身長が百六十センチ強で未だ低い圭一だが、ベッドに横たえら
れた現状で身長差に意味はない。その視線に、言葉に、妙子は異様な力強さを、感じ取れ
た。
「春日井(圭一)君……」
 そう、まるで『俺がお前を守ってやる』に近い。圭一は、もしかしたら妙子の事を……。
 彼は緊張の故か、ややうわずった声になり、
「せんせぇ、僕は心配しているんです。
 せんせぇが俯き加減になると、僕も俯き加減になる。せんせぇの授業が楽しみなのに、
せんせぇのホームルームが楽しみなのに、せんせぇが元気ないと、僕は安心出来ない」
 何かあったら、僕にも力を尽させて下さい。相談して下さい。先生の悩みを取り去るの
に、僕も頑張りたいんです。先生の為に。
「せんせぇの為なら僕はどんな事も出来る」
 こういう情況でこそ、想いでこそ、多少なりとも言葉に真実味がでると云う物だ。だが、
「有り難う、春日井君。心配してくれて…」
 そう言われても、相談出来る内容ではない。子供には、生徒には、他人には相談できな
い。今回の妙子の事案は、面妖怪奇に過ぎるのだ。
 彼の申出は有難い。その気持は嬉しかった。だが、焼け石に水と云う奴で、彼の申出を
受けても状況が好転すると思えぬ中では、彼と彼女の間の様々な壁を考えれば、気持に礼
を言っておく以上の事は彼女には出来なかった。
 実際、妙子は人に丹念にこの事案を話して相談する気力さえも、喪失していたのだから。
「でも大丈夫よ。少し、疲れただけだから」
 謝絶と云う答えを、彼は予測していたのか。生徒と教師の立場を考えれば、それも必然
か。
 だから、圭一は意を決して次の行動に出る。それはこうなる事も半ば予期して、決意の
上での行いなので、その動きは多少ぎこちない。
 彼はやや強引に、妙子の右手を自分の両手で掴んで、二人の真ん中に迄引っ張りあげて、
「せんせぇ。僕は本当にせんせぇの事を…」
 圭一は、その返事を世間体に気を使った建前だと考え、それを打ち破れば良いと思った。
困っている大切な人にもっと近づくには、自ら動く他に術はない。彼は妙子の右手を掴む。
「春日井君?」
 流石に妙子も、彼の行動に不審を感じ、手を振り解こうとしつつ彼の顔を見つめ返すが、
「せんせぇ、僕は本気です!」
 僕の想いを受け止めて下さい。僕に力を尽くさせて下さい。僕の心を受け入れて下さい。
 彼はがっちり妙子の両手を掴んで放さない。 普段大人しく沈んで目立ちもせず、彼女
も注意を払って来なかった圭一が変貌している。否、この思いを明かしては拙いから、日
頃は静かな優等生を演じていただけなのか。
 受け入れてくれなければ死んでやる、或いは殺してやるに近い目線が、妙子を恐怖させ
る程だ。赤く血走っている瞳は寝不足の故か、それともこの一言に懸ける思いの強さの故
か。
「先生の悩みを一夜で消し去ってみせます」
 二人っきりで、教師と生徒とは言え男女で。妙子に微かに危険だと云う想いが芽生えて
も、無理はない。妙子が、受け入れる気が全くないのに返答に惑うのは、拒絶は憤激や焦
りを招くとの恐れの故だ。既に場の主導は圭一で、妙子はその意向を伺わずにはいられぬ
立場で。
「僕を受け入れて下さい。後悔はさせません。
 先生の為なら、僕はどんな事でもできるっ。先生が今眠れない程悩んでいる事も僕な
ら」
 妙子に覆い被さろうとした圭一の、不意を突く女声が別方向から聞えたのは、その時で、
「どんな悩みなのか分って云っているの?」
 戸口に花純が立っている。そんな馬鹿な!
 圭一は衝撃を隠せぬ顔で振り返った。お前がなぜここにいると、顔が語る。鍵こそかけ
てなかったが、今ここに人は寄り付かぬ筈だ。その様にしたのだから。だから大胆な行動
も為せたのに。その登場は妙子には助け船だが。
「君が、どうして?」
 辛うじて口に出せたのが決まり切った台詞な事が、圭一の動揺の大きさを物語っている。
「私は指示に従っただけよ。貴男が置いて来て欲しいと云ったから、置いて、来たのに」
 花純に弁解は無用だった。状況が、圭一が妙子に迫った状況が、彼の劣位を決している。
花純はまともに答える必要も問う必要もなく、圭一の言い訳を待って良い。右手で戸を掴
むのも、事態を公開できると云う象徴で脅しだ。
「……君は、一体どうやってこの部屋に…」
 入れる筈がない。近付ける筈がない。誰も来ない前提で保健室と云う場所で告白してい
た圭一は、土台が崩れ去った時、後ろ向きで、
「鍵は、掛ってなかったわ」
「そんなんじゃない、問題はそんなんじゃ」
「じゃあ、どう云う事が問題なの?」
 花純が本当に聞きたかったのは、この先だ。だが圭一は、それを云っては拙いと口を塞
ぐ。
 花純は圭一に何を言わせたいのか。圭一は何を云っては拙いのか。そしてそれを分って
いる様な花純とは、圭一とは一体何者なのか。
 だが常の人に過ぎない妙子には、花純が単に圭一の行いを責めているとしか受け取れぬ。
花純も多分そう偽装し、圭一が先に馬脚を現す様に、問うているのだろう。
「落ち着いて、春日井君」
 状況は変った。妙子はもう圭一の意向を伺う立場ではなく、生徒に対する教師に戻れる。
 彼女は自力でベッドから降りて、立つと、
「この事は、余り公にすべきではないわ。彼に誤解をさせたのは、私の落度でもあります。
 私達の間だけで、伏せておきましょう」
 生徒に迫られるのは、妙子の失態でもある。彼を守る口実で、自分の不祥事をも隠蔽す
る。自分の落度も認め、『自分の為だろう』との突っ込みに予防線を張る辺りは、流石に大
人だ。
「樋口さんも、分って」
 欺瞞的に動く事が、一番事を小さく収め、表面に傷を残さぬ場合もある。圭一を守る事、
それを口実に己を守る事、その片棒を花純に担がせる事。それらを複合した妙子の言葉に、
花純は気易く頷かないが否定の姿勢も見せぬ。
「彼は、先生を本当に心配してくれていたの。心配し過ぎる位に。その気持は嬉しかっ
た」
 彼は、情熱的なのよ。何事に関しても。
 妙子は花純に歩み寄るが、この動きには圭一から離れたい思いの故だ。妙子は未だ圭一
への恐れを残している。一対一で迫られた恐怖は、簡単に拭えぬ。事を収めるのに納得で
きぬ心の一部を代弁されている錯覚で、妙子は妙に花純が身近に思えて。圭一はその場を
動けない。下される処分を待つ被告人状態だ。
「人は時に間違いを犯すけれど、一つの間違いで全てを否定する事を、先生は望みません。
 春日井君が私を大切に思ってくれる気持は、決して間違った物ではないと思いますか
ら」
 手法が間違っていると言外に込める。だが、本当は寛容でなくても、取り繕うべき時も
世にはある。妙子は生徒への愛より世間体を己から無理やり搾り出し、その言葉を紡ぎだ
す。
「……すみませんでした」
 圭一がぼそっと謝罪する。
 これで学校的な和解の形式は整った。
 花純は縛られる必要はないが、事実隠蔽の共犯にされた。談合には皆の合意が不可欠だ。
 花純がこれに従ったのは、所詮は他人事で、大人とは揉めたくなく、更に圭一は今その
仮面を脱ぎ捨てる様子がないと云う判断の為で。
 花純が現れた瞬間は圭一も動揺し、その本性を現すかと思えた。その後も問い詰めれば、
馬脚を現しそうな状況もあった。しかしここ迄事が落ち着けば、花純も挑発を行い難い。
 少し間を置いて、次の機会を待つべきか…。
「有難う、樋口さん」
 妙子の礼は、談合の参加より、危機にきてくれた事への感謝だ。花純の意図は分らぬが、
花純のお陰で、妙子も暫くは教師でいられる。扱いにくい生徒だと感じていたが、多少堅
物でも、厄介な生徒ではなさそうだ。そう思って貰える事が、実は花純にとっては思う壷
で。
 花純は、圭一が人払いをする一番最初の段階では、その意に沿って動いたのだ。流れを
見れば、花純はあの状況を待って現れた様で。
『花純は、僕の本性を誘い出す為に、敢て僕を泳がせたのではなかろうか。妙子先生を餌
に扱って、その餌を僕の目の前に放置して』
 だとするなら、妙子の感謝も道化になるが。この場で誰が一番賢く、誰が一番愚かなの
か。

 花純の給食が用意されたのは悪意の結果で、善意の故ではない。故に、その片付けがさ
れてなかったのは当然の帰結と云えた。花純も、片付けてと言いはしたが、幻想は抱いて
ない。
 五時限目をもう少しで迎える頃合に教室に戻った花純が、給食の内容物がグチャグチャ
に引っ繰り返された自席の机と椅子を見ても、特段の衝撃を受けた様子はなかった。
「花純ちゃん、どうしたのォ」
 英俊が白々しい口調で顔を突っ込んでくる。侮蔑されている事を知りつつ、語るに値し
ないと見られる故に、自分がそこに出る事自体が花純の不愉快と分って、のこのこ顔を出
す。
「貴男には、片付けてと頼んだ筈だけれど」
 どんな事でもしてくれるのではなかった?
 ここで花純が自ら席の汚れを収拾に動けば、これが常態化する。上靴や教科書を隠され
たり、体操着を切り刻まれたり。一人が目を届かせ得る範囲は限られている。個別に警戒
を払っていては、個人は絶対集団には勝てない。
 花純は前の言質を掴えたが、それがなくても彼らの目論見通りの行動を彼女は為さない。
為してもいない事の責任迄処理しては、絶対少数派は手が足りぬ。汚れに触れさせて視覚
的に蔑み、その隙に髪を引っ張り突き飛ばす、それで花純に敗北感を与える事が目的なの
だ。それに引っ掛っては、愚かな迷える小羊共だ。
「俺はそんな事、聞いてないなぁ」
 云った憶えもないしィ。誰か、聞いてる?
「知らない知らない。しいぃらないっ」
「聞いてないなぁ、俺も」
 一人の証言を潰す術は容易い。他の多数が結託して否定すれば、云わなかった事でも云
った事に、云った言葉もなかった事に出来る。周囲が共謀してそうでしたと証言すれば、
多数に少数の圧殺等簡単だ。これが民主主義か。
「自分の発言を臆面もなく翻して、恥と思わない人を、卑怯者と云うの。知っている?」
 花純も又強硬だった。言葉遣いこそ静かで激高の片鱗もないが、その内容は敵意を隠す
積りさえない。今更集団に許しを請い、仲間に入れて貰って、奴隷の平和を求める積り等
ないとの対応は、吹っ切れた者にしか出来ぬ。このクラスに何月いても、その間緊張感と
敵意に晒されても、誇りを捨てる積りはないと。
 仮に誇りを手放して、奴隷の平和で彼らの片隅に入れて貰えても、何の安楽があるのか。
苛められずに済む保障等あるのか。自分を仲間として尊重してくれるのか。そんな許容の
為に己を奴隷に貶めるのか。目先の平安に惑わされ、長久に悔いを残す積りは花純にない。
「聞いてない事は、聞いてないもんね。
 卑怯者って云うのは、云ってない事を云ってたって言い張る、誰かさんじゃないのォ」
 生き方に好い加減な者は、言葉にも好い加減なのか。卑怯者が、そうと指摘した者を逆
に卑怯者呼ばわりする笑い話にならぬ状況に、
「これをやった人が誰かも、分らないのね」
 花純の問には確認程の意味合いもなかった。
「知ぃいらなぁいなぁ」
 犯人不明が、花純の席の汚れは花純に拭かせる結論を導く。クラス全員に疑惑が拡散さ
れ、疑いの濃厚な者も灰色で済む。疑わしきは罰せずが原則だ。全員が口を拭えば、妙子
にも手は出せぬ。良心の呵責を知らず、平然と笑みさえ浮べて、状況の推移を待つ彼らに、
「そう……」
 今度こそ多数派の強味を見せ付けた。その実感に酔う英俊の頬を、花純の平手打ちが急
襲したのは、次の瞬間だった。何だってぇ!
 予兆もなく、突然実力行使に出られるとは、英俊も思ってなかった様だ。衝撃に顔が硬
直して、即応できないのは他の面々にも共通で、誰もが誰も暫くは動く事さえ出来なかっ
た…。
「て、てめぇ、何しやがんだよ!」
 花純の平手打ちに、それ程の打撃力はない。あるなら、それは心理的な物だ。英俊さえ
花純がこれ程強烈に先制してくるとは予測の外だった。苛められっ子は大抵、悪者になり
たくない一心で、身を護る暴力も使わないのに。
 多数を味方に出来ぬ苛められっ子は、正義を味方に欲し有害な程に善人であろうとする。
幾ら殴られ強請られても反撃せず、大人への通報も拒み、悪を為さない事だけが善と云う、
倒錯した心理に陥って。頼る物がなく追い詰められた弱者の悲劇だが、己の中に頼るべき
何かを見出せぬ弱さの導く業でもある。己の誇りを捨てぬ花純にこの類の弱さはない。
「クラス全員が談合しても、真実は覆い隠せない。口先で言い繕っても、過去は修正が利
かない。私は、卑怯者の言葉は信用しない」
「てんめぇっ! 優しくしてやっていれば」
「酷いじゃない。やってないって云うのに」
 一応、罠に掛った感じか。だが彼らの予測と状況とは異なる。花純は、彼らの広げた罠
を食い破ろうとしているのだ。それも独力で。
「私の日常を破壊する者には、相応の報いを受けて貰う。私は私の判断だけを信頼するわ。
証拠なんか無くても構わない、貴男は黒よ」
 開き直った。小手先の証言合戦で埒が明かない相手だと分っている。なら、善人の仮面
を被って弱者の席に座るより、理不尽でもその故に怖さを持つ者だと見られる方を選ぶと。
 言い掛りを付ける不良学生ややくざに近い手法だが、執拗な多数の悪意には、その根元
を討つ明晰さと、自分の中の悪も自在に操って解放できる図太さが無くては、対抗できぬ。
「お前、一体自分が何を云っているか分っているんだろうな……。先に手を出したのは、
お前なんだぞ。後悔するなよ」
「誰が先に、手を出したですって?」
 花純は食物で汚れた自席を指差し、
「云った筈よ。痛みを負う覚悟があるかと」
 これだけの事をしてくれたものね。それ相応の報いがある事は、予期していたでしょう。
「何をやりだすのか分らないって云ったのは、貴男の方よ。今更驚いた顔をしないで頂
戴」
 自分が泥を投げ付けなくても、向うが泥を投げ付けてくれば泥に汚れる。そう云う時に、
泥塗れになるのが嫌だと、投げ返す事をしなければ、相手は嵩に掛って泥を投げ付けて来
るので、自分は黙って泥塗れにされるだけだ。
 花純は、反撃の泥を手に掴む事を厭わない。
「私を本当に屈伏させたいなら、痛みを恐れず全力で来る事ね。誰にも痛みも危険もなく、
私だけが大人しく嬲られる事はあり得ないわ。
 私を打ち砕くには、相応の反撃が伴うの」
 花純の意識は、苛めっ子対苛められっ子ではない。それを漸く英俊達も分り始めていた。
花純は苛められているのではない、戦っているのだ。故に、相手にも痛みは及ぶ。それを、
無抵抗な者への苛めと誤認していた英俊達は、読み間違えて幾度も蹉跌して来たと云う訳
か。「貴男達で、綺麗にして頂戴。出来なければ、この侭五時限目を迎えるだけよ。事が表
沙汰になって困るのは、貴男達の方ではなくて」
 ここ迄言い切るには、クラス全部でも敵に回せる度胸がいる。花純は、苛められっ子で
はない。その席に安住しないし、出来ない…。
「けっ、誰がやるか。俺は知らないもんね」
 英俊も引く気はなさそうだが、花純は窓際に歩いて行って、窓枠を背に衆を眺めて立ち、
「判断は貴男に任せるわ。先生の前で尚違うと言っても構わないけれど、そこ迄言い張っ
た末に認める無様さは、想像を超えるよ…」
 証拠や証人の問題ではない。花純は彼に自白を強いているのだ。何の手札も持たぬのに、
そこ迄強気に出られる花純も尋常ではないが。流石に彼らの方に少し不安の色が現れてく
る。
「花純さん貴女、まさか見ていた訳じゃ…」
「だとしたらどうなの? 証言が翻るの?」
 刃を突然向けられて、富美子がしどろもどろする。その動揺が、これ迄の彼女達の証言
の胡乱さを過不足なく現していた。
「私は私の応対をするだけなのだけれども」
 結局誰も自供しなかったので、その侭五時限目に突入し、公民の遠藤教諭(三十八歳・
男性)の目に留まる。若干の押し問答の末に、
「誰も手を下さないで、この状況になる物か。
 ふざけるな! 転入生に向って貴様等、一体何を考えているんだ」
との怒号を頂いて、漸く十八人の犯人と、残りの傍観者達が一括して叱られる事になった。
 勿論、清掃も食器類の片付けも彼らが行う。彼らの屈辱感は想像するに余りあるが、そ
の状況を招いたのは彼ら自身で。自業自得だ…。
 この未来を承知しての行いなのか、花純の強気の徹底は鮮やかだった。花純は反発を怖
れない。平手打ちに見られる実力行使も平然と為す。しかも孤立を恐れない。煮ても焼い
ても食えぬとはこの事か。彼らは欝憤を溜め込んだ侭下手に動けず、事は膠着状態になり。
 圭一が早退した後の帰りのホームルームは、平静の極みだった。花純がこの姿勢を崩さ
ぬ限り、事は嵐の前の静けさを保つのだろうか。
 果敢な反撃は、己を守る姿勢は、結局花純の何かを守りぬいた。正義も大人も友達も、
確立した自分が選び頼る物であって、初めて信頼に足る。自分を救えるのは、自分なのだ。
 花純の周囲に感じ取れる見えない壁は、人を拒み嫌う代物だが、今は必要不可欠な壁だ。
不要な物でも邪悪な物でも、状況により使うべき時はある。それを使いこなせて一人前だ。

「今晩は……、先生、いますか?」
 自分に迫る恐怖の中で、打つ手もなく夜を迎えようとしていた妙子の部屋に、階下から
ドアホンの声が入ったのは、午後九時過ぎか。
「……余り、体調が良くないんだけれど…」
 疲れた声で答える妙子だが、夜更けにここ迄訪れた生徒を拒む事は出来ない。それが昼
間に彼女を助けてくれた花純なら、尚の事だ。 夜の怪異に疲労していた妙子だが、今日
は昼も圭一の一件で逆に疲れが高じ。それでも疲れと怖れだけで済んだのは、花純があの
場に現れた故だと彼女も分っている。その感覚が生徒の来訪を喜ばぬ妙子を、動かしたの
か。
 階下の電子錠を解除し花純を待つ。数分後、ドアのベルが鳴ると妙子は緩慢な動作で扉
に歩いて行き、錠を外す。生徒との交流が少ない妙子は、部屋に生徒を上げるのも初めて
だ。
「すみません。こんな夜遅くに相談なんて」
 奇妙な程に弱気な花純に、妙子の気持が幾分和らいだ。日中の鋭さが印象的だったので、
その調子で一対一で対峙するのは困るかもと、妙子も心のどこかで危惧していた様だ。
「いいえ、そんな事ないわ。特に貴女なら」
 靴を脱ぐ可憐な姿を迎え入れ、麗しい部屋の主はコーヒーを煎れる。室内は二十六歳の
女の一人暮しに典型的な、豊かな色彩と趣味の良いインテリアに彩られ、教壇に立つ時の
やや地味な服装から受けたイメージとは違う。地毛が赤く目立つ故、職場では彼女は服装
や装飾を暗色に抑え、言動も控えめにしてきた。
 その裏返しなのか、室内は華やかな原色に包まれて、生活感を拭い去る感じだ。妙子の
衣服も他人に見せる訳でもないのに、否その故か、やや大胆に派手な原色と肌を露出して。
花純のセーラー服が場違いな印象さえ与える。
 疲労しているが、それ故に物憂げな感じが一層色香を際立たせる妙子は、静かな語調で、
「遅くなると云う連絡は、ご両親にした?」
 大人とは広く気配りできる生き物だ。色々な方面に目を配る為、時に生温いとか応対が
遅いとか言われるが、拙速が成功を貶める場合もある事、それを望む者さえいる事を、大
人社会は知っている。特に妙子は、己の責任になり得る事柄に布石を打つ事には気が回る。
 花純が小さく頷くのを確認しつつ、妙子はカップを乗せたお盆を持ってリビングに戻る。
「先生は未だお加減宜しくないんですか?」
「ええ。少し、疲れが溜っただけだけどね」
 当然花純にも本当の悩みを云う積りはない。
 テーブルを挟んで花純と向い合って座ると、
「お砂糖、要る?」
「いえ、いいです」
 妙子は、自分のカップに一杯砂糖をいれる。
「転入早々、貴女も悩まされている様ね」
 話を進める為に、妙子の方で話を切り出す。何について相談したいのかは、学級の現状
と花純の言動を半日も見ていれば想像はついた。
 クラスに溶け込めぬと言う話題は、花純に限った話ではない。新年度始って以降、妙子
の学級では彼女の力量不足もあって、苛めや恐喝が頻発していた。不登校の生徒も、実は
先月の女子を含めて複数いた。
 生徒達は、先生がどれ位頼れるか、意欲を持ち本気で生徒に接するのかに敏感だ。頼れ
ないとなれば心を明かす事を諦め、学校に見切りを付ける者も現れる。その以前から妙子
は熱心な教師とは云えなかった。
 花純の性格では、巧く行かないのも分らないではない。花純に問題がない訳ではないが、
学級状況は教諭も含めそれに輪を掛けて悪い。積極さを欠く妙子なら、悩みを聞くだけで
それ以上は特別何もしない怠惰な応対になろう。
 花純がその相談に妙子を訪れたのであれば、とんだ見込み違いで無駄足だ。妙子は教師
としても大人としても余り頼れた人物ではない。
「ええ、まあ、それはそうですが……」
 妙子は給食時に花純が英俊達にされた事や、その対処を見てない。教諭間の連携も重視
しない妙子は事態の深刻さを認識してなかった。生徒と密着し難い教諭の現状認識は常に
浅くなりがちで、それを補うには努力が求められる。妙子はそれに努力を払う人ではなか
った。
「今日は、その事ではないんです」
「え……?」

 妙子の驚きに、花純の双眸がキラリと光る。花純は苛めからの助けを頼みに訪れた訳で
はない。それが無意味と分る程度には賢いと云う事か。転入生に迄頼られぬ事実を示すの
か。
 残る相談内容と云えば、圭一の一件だけだ。あれは、花純の相談と云うより圭一か妙子
が、誰かに相談したい内容だろう。確かにあの場に花純はいたが、彼女は傍観者に過ぎぬ
筈だ。
「春日井君について、なんですが……」
 整った容貌が、悩みを打ち明ける姿勢の故かほんの少し崩れ、弱気に見える。それが日
中の堅い印象とのギャップで、花純を儚げに見せるのか。妙子が大人びて感じられる。
「あの後、彼が、何か云ってきたの?」
 何もなければ事を伏せる。圭一に未遂の事実を蒸し返す利はないし、隠蔽を提案した妙
子に寝た子を起す必要はない。利害関係が希薄な花純さえ納得すれば、一件は伏せられる。
 困惑の表情で、話を聞こうと試みる妙子に、
「彼も転入生だって話を、聞いたんですが」
「ええ、そうよ。一ヵ月位前だったかしら」
 転入生が同じ学級に続けて入る事は、余りないんだけれどもね。
 理由を云わないのは、彼女の不都合の故だ。彼女のクラスの不登校児童が欠員扱いで、
転入生を優先的に要れる枠に、数えられたのだ。だが、花純にはそんな裏事情等どうでも
良い。
「静かな子でね、クラスの雰囲気に馴染むかどうか心配だったけれど、余り軋轢もなく問
題を起す事もなく、自然に納まってくれて」
 ……貴女を責めているのではないのよ。唯、彼は巧く学級の雰囲気に取り込まれたみた
い。
 そこに少し食い下がる様に花純が、
「全く何も起きなかったと云う訳では、ないのでしょう?」
「……今日の一件の、相談ではないの?」
 圭一の原点に遡る様な問に妙子は微かな不審の色を見せた。花純は何を尋ねたいのだ?
「私、彼に憎まれているかも知れない」
 疑念の色を見せる妙子に、花純は困惑の顔で答えた。妙子には、これだけで事情が分る
筈だと云う顔である。そして、これだけで妙子も分った積りになってしまった。それが実
は偽装だったと、気付かされるのは後の事だ。
「私との関係を妨げたと、云う事なのね?」
 恋は盲目、故に逆恨みも恋敵もストーカーもあり得る。そこ迄考えが及ばなかったのは、
妙子が所詮中学生の初恋と見縊っていた為だ。
 花純は妙子に考える時間を与えるかの様に、コーヒーカップに口を付け、少し間を置い
て、
「彼も転入当初、クラスとの軋轢が少しあったと、他の人から聞きました」
「以外と早耳ね。それを聞き出せるなんて」
 クラスの雰囲気を初日で敵に回した花純に、過去の事情を語る人間がいるかどうか、妙
子も疑問を持つべきだった。いない筈なのだ…。
「確かに転入当初、彼が少し他の生徒と揉めていたのは事実よ。それが原因で、クラスの
雰囲気としっくり行かない時期もあったわ」
『貴女程明快に、みんなとの決裂を選んだ訳では、ないけれどもね』
 多少の皮肉は心の中に収めるが、花純の冷たく輝く双眸は時に、そんな妙子の心の奥迄
突き抜け、見通すが如き錯覚を与える。そんな筈はないと、妙子は小さくかぶりを振って、
「私が偶然その場面を見付けて注意してから、収まったみたい。すぐにとは行かなかった
けれど、沢崎君(英俊)も呼んで−その時も彼が当事者。分るでしょ−仲良くする様にっ
て。そう、一週間位で彼はクラスに溶け込めて」
 ここは少し誇張がある。圭一は未だにクラスに溶け込めてない。花純の様に表沙汰にな
らぬだけで、彼は実質クラスの皆から隔絶されている。圭一が、無視されても気にもせず、
現状で満足しているから問題にならぬだけで。
 唯、彼が苛めを受けそうな状況から、そうではない地点迄、戻せたのは事実だ。それも、
英俊達に媚び諂うのではなく、彼らから上手に距離を置き、互いに関与しない形で。こん
な事は普通ありえない。状況を引っ繰り返し、英俊達を苛める迄せねば苛めは納まらぬ物
だ。
「私の指導が一番良く影響した事例だった」
 これを妙子は指導の成功例に数えているが、それこそ都合良い思い込みだ。妙子は確か
に珍しく−目前で揉めていれば無視出来まい−指導したが、それを本心で聞き入れる程今
の子供は能天気ではない。裏に何があったのか。
「その内機会を見付けて、沢崎君に、貴女に余りちょっかい出さない様に云っておくわ」
「はい……」
 圭一の話が、花純の話になってきた。だが、妙子の都合良い分析や公約を信じる程花純
は気楽な性格ではない。とりあえず頷く辺りか。
「で……、私に尋ねたい事って?」
 自慢になってしまった話題を変える妙子に、
「その頃に、春日井君に何か奇妙な噂が立っていた事を、ご存じありませんか?」
「奇妙な、噂……?」
 首を傾げ、おうむ返しに問い返す妙子に、
「或いは、本人の言動に変化があったとか」
「特に、気になる事はなかったけれど……」
 妙子の目線は、一体貴女は何を聞きたいのと問うている。花純の探る様な黒目が、妙子
の探る視線に当てられると、一度閉ざされて、
「彼はその頃から、変ったらしいんです。
 まるで何かに、取り憑かれたかの様に」
「樋口さん……?」
 開いた双眸は妙子の瞳を見つめ返す。逆に彼女の方が言葉に詰まる、そんな圧迫感が…。
「先生は本当に彼の変貌を知らないのですね。
 彼は、先生のみを見つめていたと云うのに。
 彼はここ数週間、先生を瞼の裏に思い浮べ、夢に思い描いて夜を過していたと云うの
に」
「……何を云いたいの?」
 相談を受けると云う善意が拭え、疑念が妙子を支配しつつある。花純は妙子に相談があ
るのではないのか。この娘は何を聞きたい?
「この侭事が納まると、思っていますか?」
 花純の反問は、妙子の一抹の不安に刺さる。日中迫られたあの時の感覚は、男と女だっ
た。二人きりの状況を用意されれば、中学生と云えど圭一に組み伏せられる怖れは今も拭
えぬ。
「私に隙がなければ彼が間違いを犯す心配はないわ。大人の対処をすれば良いだけよ…」
 妙子は多少の不愉快さを隠せぬ侭、静かに答える。表面的な答の底には、それ以上私に
何を云わせ、聞きたいのかとの思いがあって。
 これは妙子と圭一の問題だ。花純は傍観者に過ぎぬ。気持は分るが、子供が大人の妙子
を心配すると云う事は、妙子がしっかりした大人ではないから、不安だと云うのに等しい。
 事は未遂で終ったのだ。今度は妙子も警戒する。そう簡単に不用意に、近付けはしない。
後は彼女が圭一と一対一で向き合わねば良い。彼が恋の病に魘されても妙子にその気はな
い。醒めるのを待つだけだ。用心すれば、充分だ。
 花純は何を云いたいのだ。或いは何を聞きたいのだ。相談したいと云うのは、嘘なのか。
「先生の悩みを一夜で消し去ってみせます」
 花純は圭一のあの言葉を反復して、
「どうしてあんな事を云えると、思います?
なぜ彼は先生の悩みを知り得たのでしょう」
 そんな事は考えても見なかった。考えなくて良い事は、妙子は考えずに済ませたい。美
しくても、彼女は見せかけだけの存在だった。
 いずれ劣らぬ美しい目線が、相手の思惑を探り合って交錯するが、内在する意志や思考
の差は隠せない。大学を出て教員になり、二十数年生きて来ても、艶やかな赤毛美人でも、
心の中身は関係ない。木偶の坊は木偶の坊だ。
「彼が私の悩みを、分る筈がないじゃない」
 圭一のはったり。花純は妙子の、安易な結論への飛び付きに辟易とした顔を見せた。教
師への尊敬は、見せ掛けからも失せつつある。
「生徒の誰にも言ってない、誰も分る筈がない先生の悩みを、春日井君だけは分っている。
この事実の裏を先生は考えてみましたか?」
 幾人かの友人に相談したが、妙子は職場では同僚にも生徒にも私生活を明かさぬ。悩ん
でいる事も知り得ぬ筈だ。その内実に踏み込みかけたあの言葉に彼女は疑念を抱かぬのか。
 妙子は何も見てない。通り一遍の指導で済ませ、彼が苛めの窮地をどう切り抜けたかも、
彼が妙子に抱いた思いも分ってない。彼が口にした台詞や、保健室の密室の異常にも気付
かない。妙子にとって学校とは、生徒とは?
 花純は、力の抜けた声で一言、
「先生の悩みを招いた張本人が、彼だと云う事です。だからこそ、彼は全て分っていた」
「馬鹿な! 彼にあんな事、できる訳が…」
「じゃあ誰になら、あんな事が出来ると?」
 妙子の言葉と思い込みを詰まらせる花純の云い方は、その内容を把握している様だった。
『先生の為なら、僕はどんな事でもできるっ。
先生が今眠れない程悩んでる事も、僕なら』
『どんな悩みなのか分って云っているの?』
 混乱は、圭一への疑惑と、それと同質な花純への疑惑の両方で起される。なぜ2人とも、
彼女しか知り得ぬ、幾ら話しても信じて貰えなかったあの悩みを分る? 信じるか否かの
段階を素通りして、なぜそれを前提に話す?
 誰も信じてくれぬとあれ程嘆いていたのに、それを受容する者がいても、ちっとも心地
よくなってこない。これは一体どういうことだ。
「貴女は、何者なの。何を、聞きたいの?」
 この問を、自分よりずっと年下の娘に向けねばならない混乱が、妙子の立場を物語って
いる。花純は仮面を脱ぎ捨てようとしていた。
「余り意味があると思えない質問ね。それが分ったとして、一体何がどうなると云うの?
 先生……、いえ、野上妙子さん」
 夜も更けてきた。窓の外には遠く夜景が瞬いている。住宅街の基準に違反して建てられ
たと云う高層マンションは、周囲の家々を見下ろす感じで、近くに似た高さの建物はない。
 低層の住宅街で一棟だけ、天に向って突出したマンションは、夜の闇に、更には異界に
首を突っ込んだ、人界との懸橋の様でもあり。
 何時の間にか、時刻はいつもの深夜を迎えようとしている。電気製品をガンガン鳴らせ、
照しだし、映し出し抵抗しても、苦もなく蹂躙される恐ろしい闇の時間が。無限の長さと
広がりを持って、妙子の理性と安寧を侵蝕する暗黒の時が。『夜』が口を開けて待っている。
「これから迎える運命を貴女は変えようと思っている? どうにかしようと思っている?
 己の意志を持たぬ者は、幾ら武器や知識を得ても使えない。事に向き合おうとする者だ
けが、その為に必要な何かを望む。嵐が去るのを待つならば、雨風に打たれ続けなさい」
 花純はやはり猫を被っていた。彼女が何者かは別として−只の中学生ではあるまい−、
峻烈な迄のその本性は、妙子には対峙するだけで過大な重圧になって。人格が、器が違う。
「これから起きる事迄貴女は知ってるの?」
 花純は答えず妙子の瞳を見つめ返すのみだ。その不敵な迄の余裕に、沈黙に、妙子は真
実の一端を感じ取れた。花純は、知っている…。
「貴女は何者なの。何の為にここに来たの」
 回答を拒絶された問を再度出す混乱ぶりに、花純は哀れみの表情を見せた。そこから抜
け出せないのではなく、そこから抜け出したくないのだ。打開しようと云う意志がないの
だ。
 発狂していれば恐怖はない。腹痛を更に痛い頭痛で紛らすに似て、妙子は嫌う事実への
対峙を拒み。妙子が今迄ここでずっと夜の恐怖を受けてきた心理の一端が分った気がした。
嫌なら、ホテルに逃げるなり術はあったのだ。
 逃げもしなかったのは、諦めの故だ。相手に無防備を見せて憐憫を乞い、それ以上の責
め手を緩めて貰う為だ。だがそれが受容になっている事を、彼女は知っていても認めない。
 妙子は心を麻痺させ、思考停止し震える自分・哀れな被害者の自分・誰も知らぬ恐怖に
襲われる自分に陶酔していた。怯えていれば、相手は妙子を脅かす事で満足し、朝には去
る。
 苛められっ子が、我慢すればそれ以上激化しないと己を殺し、世界で一番哀れな己の無
実に陶酔しつつ、嵐の過ぎ去る時を待つ様に。嫌な物は、触るのも嫌だから、放置すると
…。
 彼らに戦う意志はない。怯え震え逃げ回り、迷える小羊だ。傷を怖れず悪を一部被って
も、譲れない、譲らない、守るべき何かを持たぬ。
 己を守れぬ者が、一体何を守れよう。何も守れぬ者を救う程、世の中は甘くない。守る
物もなく、唯守られたがる彼らを、誰が好んで救おうか。救われる事だけ望む救済亡者を。
 自分を守ろうとする意志と力が、誰かを何かを守ろうとする意志と力に転用されるのだ。
 答のない問は、何度でも問える点で循環だ。それを花純は察知して断ち切りに出た。花
純は妙子の願望に沿う程に優しくも甘くもない。
「私は花純。私が聞きたかった事は二つ。
 一つは、春日井圭一がいつ、どんなきっかけで今の様に変貌したのか、その前後の違い、
そして貴女との接点・繋り・過去の経緯…」
 貴女からそれを聞きだすのは、無理だった。貴女は彼を全く見てなかったと、分ったか
ら。あれ程彼の想いを強く受けていて、これでは。
 花純の黒い双眸は妖しく輝き、妙子は吸い込まれる錯覚に陥る。大人の美しさも、余裕
も色香も、目の前の小娘の秘める本物の強さの前では、ガラス玉だ。妙子の知識も人生経
験も何もかも、砂粒の如く小さく感じられる。
「そしてもう一つは、最早貴女に聞かなくても良い。まもなくここにやって来る物の事」
 そろそろ、かしら……。
 窓の外に、目を向ける。
 花純は、妙子が毎夜毎夜怖れていたその何かを、待っていた? 否、それを待つ為に花
純は妙子の部屋を、訪れたのか?
「貴女、何をしようとしているの」
「もう少し待っていれば、分るわ」
 住宅街の夜が更け、燈が次第に消えていく。闇が、現代文明の無理して得た人工的な昼
を駆逐して行く様が、妙子の鳥肌を呼び起こす。
「電気が、消えるわよ……」
 沈黙を破る花純の一言に妙子がビクッと震えだす。人の死を予言されたかの様な怯え方。
 相談と云う前提なので、テレビもラジオもコンポも電源を付けてない。喧騒はなく、そ
の到来を報せるのは、灯の消滅の他にないが。花純はどうやってそれを先んじて知り得
る?
 ライトが消える。点いて、消えて、また点くがすぐに消え、そしてもう点かない。人の
時間・安眠の夜が、終ろうとしている。

 消灯より暗く全てを包み込む闇がある。
 妙子の理性を蝕む闇が、窓の外にいる。
 部屋の雰囲気が異常なのは、妙子の異常な怯えが見せる錯覚なのか。或いは妙子を怯え
させる何かの影響の故なのか。
 花純と向き合う姿勢から、左に首を曲げるとそこは窓だ。その窓に、暗黒はいる、いた。
「いい、いいいいい……」
 それを知る者は妙子しかいなかった。彼女は二度、知人を招き夜を共に過して貰ったが、
結果は最悪だった。寝ないでと幾度繰り返しても薬を盛られた様に寝入ってしまい、残さ
れた彼女は友人が間近にも関らず、孤独に恐怖に立ち竦み。そして結局話を信じて貰えず。
 相手は妙子以外の者に見られる事を望まず、姿を見せる事も消す事も眠らせる事も、自
由自在なのか。誰も頼れない、頼りにならない。 誰にも、知って貰えない。分って貰え
ない。それは、かつての圭一の思いでもあったのか。
 首筋の皮が張り付く感覚。手足の筋肉が引きつる錯覚。飲んだばかりのコーヒーが胃袋
から逆流を望んで荒れ狂い、辛うじて抑える。額を流れ落ちる冷たい汗を拭う手も動かな
い。
 それはすぐそこ迄、訪れていた。
 それは窓から彼女を窺っている。
 五階の窓の外側に浮いた、人間らしき手足を持った黒い影だ。目と口の所在が分るのは、
その部分だけ妙に黒が薄い為なのか。
 身長百六十センチ弱で、肩幅や手足も余り太くない、はっきりとした輪郭も持たない影。
 ベランダのすぐ外なのに、その口元の動き迄分るのに、なぜかその影は影のままで色彩
もなく、服装も分らず、顔も分らない。ただ、妙子の部屋の外で目の前で、滞空を続けて。
 相手の口元が、大きく裂けて笑みを見せる。彼女の怯えを楽しむ様に、耳迄裂けて。そ
の影は闇の中でも分る程、黒さ・濃さを増して。
「来ないで……」
 既に周囲は異空間だった。妙子の知る常の自分の部屋ではない。どこからどこ迄が闇か
も分らぬ、得体の知れぬ一角だ。光の裏には影が淀む。一枚皮を剥けば、己が起居する空
間さえ魑魅魍魎の住処に変る。その闇の奥で、
「しゃああああああ」
 微かに響く何者かの息遣い。それこそ妙子を毎夜悩ませ、疲弊させ命を吸い上げる悪意
ある誰かの、喜悦に満ちた息遣いだ。今宵も又何者かに睨まれて、妙子は怯え震えるのか。
「いい、いいいいいいいい」
 声が出ない。出せないのではない。彼女自身が状況を変えたくない、悪化を怖れる余り
自分から打開に動きたくない。現状に飼い馴らされてしまった苛められっ子と云う辺りか。
それが、実は相手の思う壷だとも気付かずに。
 チャッ、カッチャ、チャチャ。
 窓の施錠が三つとも解け外から開けられる。中空に浮いた何者かは、届く筈ない鍵を操
り、手も触れずに窓を開け、妙子の空間に侵入し。
 この影が部屋に入り込んで、妙子を追いつめ、覆い被さり、妙子の身体に重なって食い
込んで、思う存分に入り込むのだ。
 電話も不通、壁や窓を幾ら叩いても隣室は反応もない。この影が現れた瞬間に、妙子は
外界から隔絶されているのだ。この影の力で。
 怯え、竦み、絶望と惰性で座り込む妙子の、動くに動けない状況を知ってか、黒い影は
急がず、ゆっくり間合いを詰めて来て。
「せんせぇ……」
「ああ、貴男は、貴男はまさか……」
 問えなかった。事態を新たな段階に持ち込む事を妙子は怖れている。それは己への不信、
自信のなさか。対応できないとの思い込みか。
「せんせぇの為なら、僕はどんな事でも…」
 今迄で最もはっきりした語調だ。最早正体の暴露も怖れてない。日中の行いが、彼に一
線を踏み出させたのか。彼は、春日井圭一だ。
「ひいいぃぃ……」
 その何者かは姿を崩しつつ、どんどん妙子の身体に繋って来る。妙子の肌の下に、筋肉
の中に、血管を通る様に、その異物感を関知した時に、妙子は身体が己の物ではなくなる、
生きた侭で喰われる、真性の恐怖を覚え込む。
 それは夜から夜に続いて終る事のない、闇に付き物の悪夢で、逃れ難い狂気。彼女の身
体を蝕み、心を蚕食する、狂える恋心だった。
 その肉体は、粘土より遥かに脆い何物かで、障る度に崩れ、崩れる先から修復する。崩
れながら進み、進んだ後で修復する。奇妙とも、奇天烈とも表現し難い、その何者かに、
「そこ迄の値がある人に、見えないけれど」
 存在感を消し去っていたもう一つの女声が、冷厳な横槍を入れる。その目線は皮肉の色
で、
「こんな形でしか想いを伝えられない者が惚れ込む相手にしては、妥当な線なのかしら」
 峻烈な語調は、妙子をも驚愕させた。今迄、今迄妙子の近くにいた筈なのに、どうして
妙子はその存在を忘れ去り、一人でこの影に怯えていたのだろう。すぐ傍にいた筈なの
に?
 黒い影の、動きが止まる。
「ひ、樋口さん……?」
 生徒を思い出せば、自分が教師である事も思い出す。そこに、一人の襲われる女と云う
現状の立場を脱したい、妙子の願望があるが、その目線は花純の変貌に逆に硬直させられ
た。
 何時の間に花純は衣更えしていたのだ?
 花純は、青白い和服を纏って、立っていた。紋様はなく、唯濃紺の帯を巻いて、清楚と
も幻想的とも言える細身な姿で、影を見つめて。足の裾が動き易さを考える以上に短く、
膝の更に上で終えているのが、妙子の目を牽いた。
 細い素足の幼さに、その肌の艶めかしさに、同性なのに妙子は目を見張らされた。筋肉
質ではないが、猫科のしなやかさを感じさせる。肉付きの良さが肌を張らせて、躍動感を
与え。容姿の端麗さと冷淡さが、何も履かない素足や腕や腰の細さが、理想を超えて洗練
されて。
 そしてその髪は、輝く艶やかなストレートだが、漆黒ではなく闇に浮き上る白銀色で…。
「妙子さん、御苦労様。貴女の役はここ迄」
『私をあの影を誘い出す為の餌に扱った?』
 その姿は、淡い銀の輝きを帯び、闇に浮き上って見える。人を見下し駒の様に扱う冷た
い視線さえ、その端正さに相応して感じられ。
 華はないが、昼に咲く大輪の華ではないが、闇夜にひっそり咲く触れ難い美しさだ。妙
子の様な外見だけではない、意志に支える美しさ。髪の銀色は清純さより神聖さを分らせ
る。
「せんせぇ、俺はぁ、せんせぇを……」
 影は更に妙子に歩み寄ろうとするが、
「貴男が求めているのは、妙子さんではない。 貴男自身の中にある幻は、幾ら追い掛け
ても現実にないから、決して捕まる事はない」
 貴男は闇の作り出した幻の囚人に過ぎない。
「逃れたくない故に果てしなく逃れる事が叶わない、自分自身の欲望の幻。貴男はその幻
からいつ迄も逃れられない。春日井圭一君」
 花純の言葉に、影が止まる。反応を示す。
「お、お前僕を……妨害するのか。何者だ」
 僕の恋を妨害するな。僕と妙子先生の中に割って入るな。お前は一体、何者だ。敵か?
 少年の声は妙に生気に欠け、感情が抜けて、抑揚がなく平板で。人ではない何かが人の
口を無理やり借りて出させている、そんな声に、
「これを恋と呼ぶ。大和言葉も変ったわね」
 冷やかに花純はその濃密な思いを受け流し、
「人に幻を与えて取り憑く事で、生命を吸い、自分の思うが侭に操って。その貴男自身も
又、幻想に取り憑かれている事に気付かないで」
 人に隠れ、人を食し、人を操り従えられると云う都合良い幻想に陥って、己を見失い…。
 花純は、一体誰に話し掛けているのだ?
「私を知らない訳では、ないのでしょう。
 人の影に隠れてないで、出てきなさい」
 声音は同じだが、明らかに発想や思考の基盤が異なる別の声が、花純の語りかけに応じ、
「貴様を我が、知っているだと。ふざけるな、娘。我を誰だと思っているのだ……まさ
か」
 影は圭一だけではなかったのか。同じ声の筈なのに、その語調は全く異なる。老成した、
全て知り尽した様な嗄れ声だが、それは同時に花純の存在を、思い出したかの様な驚きで、
「闇の護り手。魔の裏切り者。花純か…!」
「裏切りだけは余計ね。裏切り者は、闇の縛りを破って人界に密入した貴男でしょうに」
 裏切り呼ばわりにも冷然と答え。この位の強靭さは今迄の言動から推測できたが、その
応酬から漸く花純の本性が僅かに窺い知れる。
 この影は、何物なのか。圭一と老いた声はどういう関係で一緒なのか。更に花純とは?
「我は絶対に、闇に帰ったりはせぬぞ」
 影は最早妙子に意識を向けてない。花純はそんな相手の決意の強さにも怯む様子もなく、
「貴男が帰る必要はない。私が帰すのよ」
 唯帰れない場合が、あるかも知れないだけ。
 それは抹殺を意味するのか。優位を確信する花純の余裕の裏返しか、影の方に焦りの色
が濃い。人知を超えた物同士の力の比較では、花純の力量がかなり上らしいと見て取れる
が。
「まさか貴様が、ここに現れるとは……」
 闇に浮き上る淡い輝きと闇より更に濃い影の対峙は、長い様に見えても数分に至らない。
「おい、どうしたんだ。邪魔者は全て、お前が排除してくれるんじゃ、なかったのか…」
 同じ影から、圭一らしい声がする。それは心地好い夢から無理遣り醒まされ、未だ寝呆
けた声にも聞えたが、その故に余裕が失せて人間味が強く現れて。それを、抑えこむ様に、
「……相手が悪い。ここは引くぞ」
 老いた声の見切りは早かった。圭一の声が、
「えつ。そんな、だって」
 未だ納得どころか状況を理解してないのに、
「黙って従え。貴様も花純に消されたいか」
「いや、そんな。分った」
 分らないがとりあえず従うと云う了承だが、
「私とこうして向き合えて、黙って帰れるとは貴男も思ってないでしょう。逃がさない」
 冷やかに、断定的に、この齢の娘が口にすると高慢に聞える言葉が、引き締まった唇か
ら発される。その一言一言が、闇に包まれた空気を震わす錯覚は、妙子だけの物ではない。
「喰らえっ!」
 影が微かに身体を動かすと、その左胸や右脇腹が伸び上がり、花純の身体に飛び付くが。
 ピシャッ。水が鉄板に落ちた時の音がする。 青白い和服に触れるだけで、それは花純
には全然痛痒を与えない。逆に伸び上った闇の一部が消失したのが、妙子にも見えて分っ
た。よく見れば、厳密には相殺し合っている様だが、力量の隔たりが大きすぎる。触感が
曖昧な影では、確かな肉を持つ花純と触れあっても、互角に打ち消し合うまで行かぬのだ
ろう。
「貴男の得意業は、他者との心身の融合ね」
 分析できる余裕と知識は、花純がその老いた声と同系列の者でも格上である事の証左だ。
見かけは娘だがやはり花純はただ者ではない。防御の姿勢もとらず、唯気を抜かぬだけで
敵の攻めを防ぎ止め、触られた衣に視線を配り、
「私の衣に浸透し、素肌に重なって、身体に融合できれば、結果も少し違っていたかな」
 花純の側に防御の意志があり、全く不意を襲った訳ではないが、何の仕草もなく平然と
受けとめて危なげない程、力の格差がある?
 花純はそれを思い知らせる為に、敢て受けてみせたと云う感じで、微かに笑みを浮べて、
「目晦しにも、時間稼ぎにも、ならないね」
 これじゃあ、逃げ出す隙も、作れないよ。
「いうぬぬぬ……」
 存在感の強さが違う。花純は、圭一と老いた気配の混合であるその影を圧倒して、押し
潰さんばかりで。これが花純の本性なのか…。
「樋口さん、貴女は、貴女達一体何物なの」
 話に割り込むと云うより、花純を自分の味方だと確かめたい。その一心で、縋る思いで
口を挟む妙子に、全て見抜いた声音で花純は、
「樋口なんて人は、私は知らない。私は花純。
 私は闇と人の接点を管理して、勝手な流入と流出を抑える使命を帯びてここにいる護り
手・封じ手。わが使命は人を護る事にあらず。本来ここにいるべきではない者を、闇に帰
し或いは消去する事。今宵のこの時の為に…」
 貴女に接触の機会を求めて乗り込んだだけ。
 力の焦点が貴女に向いている事は分っていたから。発信源は巧妙に隠せても、作用する
場所迄紛らす事は出来ない。発動する力を誤魔化す事は出来ない。そう言う事か。
 花純は影へ向けた目線はその侭で、
「云っても信じないし、理解できなかったでしょう。毎夜毎夜苦しめられても、貴女自身
昼になれば半信半疑に戻っていた。抜本的な解決を望まず、あの現状にいつ迄も居座り続
けている事を望んだ貴女には」
「そんな……」
 生徒でもなく、人間と云う共通基盤もない。
 妙子には花純もこの影も同類だと云う事が、未だ飲み込めてない様だ。
「気付かなかった? 転入直後の彼が苛めにあって、貴女の指導の後も止まず激化する中、
闇の囁きに耳を傾け力を得た前後の違いも」
 貴女の指導の故ではない。彼は貴女への恋心と皆への憎悪で闇を呼び出し、その力を借
りる事で人の心を誘導し、苛めを回避したの。
「苦況を食い止めた彼が次に望んだのは、貴女だった。分るでしょう。貴女に起る異変が、
彼への苛めの終息とほぼ同時に始った事で」
 彼は貴女に恋心を抱いていた。それは事実。
 貴女のクラスに不登校児童が相次いだのもその影響よ。弱い者から重点的に生気を吸い
上げる方が、効率的なの。勿論苛める側の生徒達の心も蝕んで、扇動して。数は力ね。
「貴女がそれを防ぐ上で世間一般の教諭より、資質と意欲に欠けていたのも事実だけれ
ど」
 そう言うクラスだから狙われたとも云える。弱い所に牙が伸びるのは、獣の世界の必然
だ。
 生意気そうな、軽やかな語調が気に障るが、花純の言葉には説得力があった。花純が妙
子に事実を明かすのは、事実を己に都合良く解釈する妙子の性分に苛立ちを覚えた為なの
か。
「それは春日井君と云うより、闇の、魔の利益に繋る事なの。成功報酬と云う辺りかな」
 貴女への夜の接触は、彼の欲望と闇の生気の欲求の一致よ。彼も流石に、先生に堂々と
思いを告げるには、少し躊躇があったのね…。
「でも、それも今日でおしまい」
 もう少し、長居も出来ないではないけれど、貴女のクラス、酷すぎる。いるに値しない
わ。
「もう少し生徒を愛してあげないと、こんな歪んだ愛しか貰えない先生になっちゃうよ」
 花純は、苛烈な言葉を爽やかに締め括って、
「さあ、本当におしまいにしましょう」
 話している最中も、影は外に逃亡する機会を窺っていた。だが、花純は話をいつでも中
断できる態勢でいるので、大きくは動けない。
 それでも年の功かジリジリ小刻みに、花純の攻撃を招かぬ程度に動いて、何とか窓際に
は来ていて。花純はいつでも一撃で影を粉砕できるとの過信の故か、それを見過していた。
「我らは未だ終りにする気等ないのだがな」
「貴男が終る必要はない。私が終らせるの」
 攻撃の刃を怖れる必要のない花純は強気だ。
 だが、影は花純が答える瞬間を待っていた。ほんの僅かでも、喋りながらの動作には隙
や狂いや甘さが出る。年の功は、伊達ではない。
「チエェヤァッ!」
 掛け声一つ。後ろ手に窓を開け放ち、己の身を一歩外に出すと、十分の一秒も置かずに
窓を締め直す。花純が何かの動きに出る前にその窓枠に両の脚を掛けると、反動で一気に
夜の闇空に弾ける様に飛び。逃亡成功か?
「愚かな。その場逃れにしかならない事を」
 空中には反動を得る足場がない。空を飛ぶ事は、実は動きを緩慢にし、狙って下さいと
云うに等しいのだ。余程の運動性能の技術か、特別な手段で速い者でなければ、狙い撃ち
だ。
 格闘ゲームを少しでもやった者は分ろうが、この老いた影は追い詰められ、自らを身動
きの取れぬ宙空に置いたのだ。止むを得ぬとは云え、それは花純の言う通り、その場逃れ
だ。
 気配を感知できる花純に、闇に紛れる効果はゼロだ。少し距離を置けただけで、王手の
状況は同じだ。花純が慌てないのもその為で。
「空に浮いた身を撃つ事は、却って容易い」
 花純の反応も遅くはない。半瞬遅れるだけでその細身は窓に駆け寄っており、駆け寄る
時には既に鍵は三つとも解かれている。後は窓を開け飛び出すだけだ。撃ち落した後の止
めを考えて、己も外に出て置こうと考えたか。
 だがその瞬間、その絶対優位が、一つの要素とタイミングで引っ繰り返る。ここに老い
た魔の経験が生きた。花純は、彼の罠に掛る。
「掛ったァアア!」
 影は花純に、正面から風の筒を打ち出した。それはどうと云う事のない、先程花純が衣
の上で受けとめて斥けた触手と同程度の、禦ぐに値しない力量の念動力による一撃だった
が、
「はっ……!」
 花純も直前にそれを悟った。それは花純の防御を破って一撃を加える事が目的ではない。
それは花純の前面のガラス窓を砕き、花純の身にガラスの破片を突き刺さんが為の一撃で。
 ガッシャアアアァァン。
 硬質な音が激しく響く。妙子の室内に、大小のガラスの破片が降り注いだ。花純に異能
の力は及ばなくても、確かな実体を持った物理的な攻撃は有効だと。敵も百戦錬磨である。
「やったか!」
 一瞬だけ、圭一の声が、続けて老いた声が、
「顔を引き裂け、目に刺され、肌を食い破れ。あの高慢で生意気な娘が。泣き叫ぶと良
い」
 勝ち誇った声が響き渡る。だが、半瞬の後、
「……ちっ、流石に、鋭い……」
 老いた声の舌打ちは、花純が直前に被害を最小限に抑えた事への悔しさの表明だ。彼女
は事態その物は止められなかったが、両腕で衣に護られぬ首筋から上をガード出来ていた。
「……つうぅ……!」
 それでも、打撃は決して無効ではなかった。ガードに使った両の手の甲に、衣に、ガラ
ス片は幾つか突き刺さり、その白い肌に青白い和装に、赤い彩りを添えていた。それは現
在進行形で花純の痛みを呼び、その集中を乱す。
 左手の甲に二ヶ所、右手の甲に一ヶ所、ライター程、右肩の付根には拳大の破片が突き
刺さって、赤い糸を導く。そのガードの奥で、花純の瞳は痛みと怒りにその輝きも一層強
く。
 この瞬間の優位と劣位を、老獪な影が捨ておく筈がなかった。まともな状態では絶対得
られぬ、漸く掴んだ攻勢である。先攻の権利は相手を罠に嵌めた側の物だ。
「ヒャハ、ヒャアアアアァ!」
 影は無色無形の唸る風と衝撃波を連打する。それは花純の防御の上に当るだけで、無意
味にも見えるが、そうでもない。常の花純にならば無効でも、傷口を抱えそこにガラス片
が食い込んだ花純なら、防御に力を込めるだけで自動的に痛みを感じ勝手に傷口が裂け開
く。
 だが、花純も撃たれ続けてばかりではない。
「つあああぁっ!」
 強い意志を秘めた良く透る女声が響いた時、花純の掌打が右の腕から繰り出されていて。
 無色・無形・無臭の念動力の風の筒。それは先程影が打ち出したのと類似するが、それ
より更に鋭くて。日中なら、温度の違う空気の様に、透明ながらその存在が分っただろう。
 影が恐怖に竦む様子が、目に見えて分った。
「グギャアアアアッ!」
 影が地に落ちていく。しかしそれは花純が期待した、粉砕する効果には、ならなかった。
やや照準が甘かった風の筒を躱し、吹き抜ける力の流れを足場に反動を得て巧く下方向へ。
「直撃は躱した……? つぅ。」
 花純の顔が歪むのは、攻撃の際に新しい痛みを受けた為だ。腕の動きに相応して踏みだ
された右脚は、周囲に散らばったガラス片を踏みつけていたのだ。状況打開の為とは云え、
何も履かぬ素足の裏を襲う痛みは鋭い。
 ベランダの下では、少年らしき人影が走って逃げるのが見える。影と、乗り物の圭一か。
 花純の一撃は、効いている。元々実体を取れる程強い存在ではなかった影だが、靄の姿
も保てなくなって圭一の身体に潜り、逃走を指示したのか。靄では反動を得られないので、
地を蹴って逃げ走るのにも不都合なのだ。
『圭一やそのクラスメートの生気を吸収して、漸くこの段階迄実体に近付いたと云うの
に』
 妙子を死ぬ程怯えさせていた己が、死ぬ程怯えさせられる皮肉。だが今は、影も己の不
運を云々できる状況でなかろう。死神に狙われたに等しく、彼も己の生存に必死なのだ…。
「今放置すると、逃げられる……」
 花純はベランダに二、三歩足を踏み出して、少年の逃げ去る方向を見つめる。若干の躊
躇の後で、ベランダを囲む鉄柵の上にひらりと飛び乗って。既に、左足にも痛みは伝播し
た。
僅かに歪む大理石の美貌、夜風に靡く銀の髪。
「樋口さん、あ、貴女……」
 妙子はその先に何と続けたかったのだろう。
 貴女は何者なの? 貴女とあの影は同類なの? あれは圭一なの? それとも別物な
の? 生徒を装ってきたのはこの為だった?
 疑問符はつきない。そして、常ならこの立場で大人が教師が子供に生徒に云うべき事も。
 危ないからお止しなさい。そんな酷い怪我をして。その姿は何を意味するの。手当を…。
 多過ぎる事柄が妙子の心を逆に乱していた。彼女の力や知恵で推し量るも難しい者を前
に、その躍動を前に、妙子は混乱し続ける事で局外に己を置く事が、安全だと感じていた
のか。
「……」
 そんな妙子を花純は一瞥すると、無言で鉄柵から身を踊らす。あの影も空に浮いていた。
花純も自ら飛び出す以上それ位はできるのか。普通なら、飛び降りる等考えもせぬ高さだ
が。
 答える必要を感じない。別れを告げる値も感じない。そんな冷やかな美貌が、印象的で。
 最後迄妙子は状況に己に向き合えなかった。
 変ったのは周囲の状況だ。彼女こそ、苛められっ子と同様、報われぬ苦労を重ね続ける、
流され人生を送っていた。無実無罪・善人優良で乗り切れる程、この世は優しく甘くない。
人の利害や喜怒哀楽が、複雑に絡む俗世では。
 結果として妙子は自ら何もせずに事が進み。
 だがこんな幸運は、常に期待出来はしない。
 己が変らぬ限り、彼女に振り掛る苦労は手を変え品を替え、終る日も来ぬ。窓を閉めず
幾ら虫を追い払っても、きりがないのと同様。それを運命として受入れるなら、話も別だ
が。

「つうっ……!」
 重力を半ば無視し、尚も半ばは囚われつつ、猫の様に身軽に裏通りに飛び降りる花純だ
が、足の裏のガラス片が更に食い込む感覚は痛い。深く食い込んだそれを抜き取るのも更
に痛い。少し顔を歪ませると、影の逃げた方向に走る。肩口や手の甲のガラス片は抜き取
りもしない。
 圭一は子供で人間だ。逃走範囲も手法も限られる。だがその制約は、圭一に憑く影を縛
りはせぬ。影は影の判断で、時に圭一を捨てて花純の関知範囲の外迄逃げる怖れがあった。
その上打撃を受けて影は気配が弱まっている。ここで見失えば、再び捜すのは容易ではな
い。
 尤も折角の媒体を衰弱した今抛棄するのも、影にとっては痛恨だろう。見捨てるにして
も、せめて体勢を立て直す迄は離れたくない所だ。影がどの段階で圭一を捨てるのか。ど
こ迄圭一を使って行く積りか。問題はその辺りだが。
 圭一は心の準備がない為か、走り方もどこか不自然で早くはない。肉体的な男女の差と、
足裏の痛みの中での追走を考慮すれば、彼が有利に思えるが、その差は思う程に開かない。
『ここで捕える……! 今夜で決める』
 影は圭一を捨て、別の誰かに乗換える事も出来た。その場合花純は又、微かな影の気配
を辿る根気のいる作業を求められる。
 人界は広い。生ける人の気配は濃密で強い。その中に寄生する微弱な気配を探り出すの
は、至難の業だ。ガラス片を取るより追走が優先なのは、人と違い花純が精神生命に近い
存在で、怪我の治癒もその気になれば人より早い故で。急ぐべきは、事の始末だ。
 実体を持たぬ者は、殴打や剣撃を恐れない。その代り常に霧の様に、風にも日光にも人
の気合にも掻き分けられ散逸する希薄な存在で。己の動きさえ容易く定められぬ。揺らさ
れる。故に実体を持つ何かに寄りつく事を強く望む。
 依代を持たねば彼らは人界に居続けられぬ。黙っていても消失の道を辿る。あの影の様
に魔が人に寄生を望むのは、入れ物がなければ消失を防げぬ故で、依代や周囲の人の生気
を吸収し捕食する事が、生命を繋ぐ術だからだ。
 寝静まった夜の住宅街を、学生服の少年が逃げ、和服姿の少女が追う。その後には花純
が流し踏み締めた、赤い足跡が点々と続いて。目撃者がいれば何とも奇想天外な風景だろ
う。
 他に出歩く者もなく、その追走劇を目撃する者もない。それは果して偶然なのか、互い
が望んだ必然なのか。電灯が点いた家々の脇を駆け抜けても、気付く者とていない。真実
は、誰もが知れるが、誰も知らない処にある。
 走りつつの故なのか、先程の術は使わない。照準が合わぬのか、力を込める間が要るの
か、精神を打ち抜く砲は肉体に有効ではないのか。
 それ迄直線に走っていた圭一の姿が、十字路を左に曲がる。三十メートルの距離を隔て
て追う花純の足首を異変が襲うのはその時だ。
『こ、これは……?』
 防ぐ間もなく花純は前のめりに転ばされる。
 ロープを張られ、足を引っかけられたのだ。
 でも、こんな深夜の、こんな所で一体誰が。
 圭一の所作ではない。彼にそんな準備の間はないし、花純は彼を追っているのだ。圭一
の気配は捉えている。彼に罠は用意できない。
 前方に、圭一にだけ集中していた花純が脇に潜む気配の存在に気付かされたのは、十字
路の左右の闇から、複数の人影が現れた時で。
「おおっとぉ、妖怪変化さまぁ」
「こんな姿で、お可愛そうにぃ」
 富美子や香苗の声に応じる様に、何本かの足がガラス片の刺さった花純の手の甲や足の
裏を踏みつけ、その動きを封じつつ痛めつけ。
「あ、貴男達……何を、いたっ!」
 俯せになった花純に歩み寄る影は一つや二つではない。踏みつける足にも体重が掛って
いて遠慮がない。そしてそれ以上に強い悪意。
「昼の仇は闇討ちでって言葉、知らない?」
 花純ちゃん。英俊は残忍な笑みで見下ろし、
「今度は君にも、痛みを憶えて貰おうかな」
 なぜここに彼らが? だが今はそれより、
「は、放して。貴男達と遊んでいる暇は…」
 こんな所で時を潰してはいられない。圭一が、彼に取り憑いた影が逃げてしまう。だが、
「俺達は夜中暇だから、構わないんだぜぇ」
 彼らには花純の焦りも楽しみの肴か。青白い衣の無防備な胴体を蹴り付けて、柔らかな
肌に食い込む痛みに身を捩り悲鳴を抑える可憐な姿に、皆が光悦の笑みを浮べる。両手両
足を踏まれている為、起きあがる事もできぬ。
「あうっ、あいっ、いた」
 全くの不意を突かれた。こんな所でこの深夜に、花純を狙って彼らが潜んでいようとは。
だがどうやって彼らは花純の所在を知った?
「お前やっぱり、人間じゃないんだなぁ」
「転入の書類が、何もないって聞いたぜ」
 見開いた花純の瞳は驚きを示していた。
 その地に長居せぬ場合、花純は面倒な書類や戸籍を偽造せず、暗示をかけるだけで済ま
せる事が多い。二、三週間ならそれで破綻はないし、偽造の場合には消去も面倒だ。人の
記憶は巧くやれば、何度でも書き換えが効く。だがそれは、人の行う催眠術より遙かに巧
妙でこの短期では気付かれる事もない筈なのに。
 本気で力を揮えば、いつでも人の意識は操れる。集中できる瞬間があれば、人の束縛を
振り解く等容易い。慢心に近い自信が花純に様子見の対応をさせた。問答の裏に浮ぶ本心
を読む方が、唯相手を視るより早く簡単に心を覗ける故だが、多数相手に激しく動きのあ
る中で、興味本位な問に執心する閑は危うい。
 花純は今組み敷かれ、今痛めつけられようとしている。今辱められようとしているのだ。
早く振り解いて距離を置かねば、密着した姿勢でそれが始まれば。集中して力を操る事が
できなくなれば、花純とて身体は小娘なのに。
「どう云う事……?」「こう云う事だよ!」
 花純の身体が抱き起される。助けではない。何本もの腕がその細身を捉え自由を縛るの
だ。
 両腕を後ろに捻られて無理矢理座らされる花純に、集団の悪意を込めた好奇の眼差しが
注ぐ。洋服が常識となった現代日本で、花純の和装は確かに異色だった。
 改めて英俊達を眺める花純の瞳に、訝しげな光が微かな怯えと共に宿る。一時的にでも
囚われ自由を束縛された。その経緯が、心に引っ掛っている。未知とは、神にも魔にも怖
れなのだ。人の独占物ではない。
 それを彼らは自分達への怯えと受け取った様で、漸くの勝利感に沸き立って。暗い衝動
が彼らを突き動かしている。冷やかで可憐で小生意気なこの娘を、地に叩き落し汚すのだ。
「綺麗な姿じゃない。とってもあでやかよ」
「でも少し、お色気が足りないわね」
「まともに考えさせるな、気を散らすんだ」
 抵抗の予防にと抑え付けられた花純を殴り蹴る男子より、その隙に花純の衣を脱がしに
手を伸ばす女子の悪意の方がより深刻だった。
 今迄彼らは男女構わず標的をトイレや更衣室で身ぐるみ剥いで不登校に追い込んで来た。
全裸にされる、晒し者にされる屈辱は甚大だ。相手に完全な敗北感を植え付ける、決定打
だ。
「なっ、あっ、やめ……いた、あっ」
 殴られて、僅かに朦朧とした間に、彼らの腕が花純の背で結ぶ濃紺の帯を力づくで解き、
白い衣を引き剥がす。この人数でのし掛って身体を掴えられた上、瞬間意識が遠くなった
花純に、機を掴んだ効果的な対処は望めない。
 二十人ものクラスメートには誰一人躊躇の気配も見えぬ。彼らが取り出すナイフやカッ
ターは、剥がした後でその衣を切り刻む為か。彼らの対処は組織的で効率的だった。恨み
や逆上だけではない。誰かの指示の影が窺える。
「ひっ、何を、やめ、おね、まって」
 思いの侭に花純の衣をはぎ取ると、尚ばたつかせる両手両足を引っ張り、全てを晒して。
一糸纏わぬ妖精の華奢な身体が大の字にされ、男女の興味深い視線の鑑賞を受ける。抗う
意思は次々に身体に触れる痛みや動きに撹拌され動揺させられ、まともな形を為してこな
い。嫌がる感情を拒む意思に変え、どの様に為すかをまとめなければ、身体も心も動きは
せぬ。
「さあ、これが花純ちゃんの本当の正体だ」
「放しなさい! 放して。痛い、いたっ…」
 手足を捻られる以上に、その肉や皮をつねりつまむ行いが花純を責め苛む。傷口を開い
て愉しんでいるのか、血肉の痛みが倍加した。新たに肉を浅く切り裂き食い込む痛みもあ
る。乳房を掴まれ股を開かされては、最早圭一を追うどころの話ではない。己が逃げ出し
たい。
「ほおぉぉ。まるで、人間の女の子だよな」
「態度は大きいのに大した事ないのね。もう少し大人だと思ったのに、期待外れだわ」
「弾力あるよ。渋谷や小森よりずっと柔い」
「嫌がってる嫌がってる。喘いでいるよ!」
 全裸で取り押えられた花純の目前で、白い衣を濃紺の帯を富美子達が切り刻む。男子の
歓呼と女子の嬌声が花純の頭と心とに響いて、
「止めてっ。止めて頂戴!」
「止めてっ。止めて頂戴!」
 複数の男女の声が、花純の声を真似て叫ぶ。
 繰り返し繰り返し。それは花純の無力な懇願の様を、何度でも何度でも再生する行いだ。
「ヌードデビューおめでとう。花純ちゃん」
「写真も撮って上げるから、安心してねっ」
「お嫁に行けなくなっちゃう。どうしよぉ」
 この時の花純の震えを、彼らは絶望や怯えの故と思っていた。この時点で怒って抵抗す
る程強固な者を敵に回した事はなかったのだ。この時は彼らの側に誤算が出た。気を抜い
た。慢心の瞬間に蹉跌が始るのは、世の常なのか。
 花純の身体に触れる腕から、電流に似た痺れが彼らの身体を駆け抜ける。がっちり掴ん
だ筈の彼らの腕を、花純の身体がすり抜ける。それは直接触れてない者に迄似た効果を与
え。
 痺れに力が抜けて倒れ座り込む男女の間で、花純の裸身は淡い白色の輝きを受けて屹立
し。それはそれで夢幻的で、常ならぬ美しさで…。
 その瞬間、彼らはあり得ない筈の物を見た。
 花純の周囲で、衣と帯が形作られる。その輝きと白色が強まって、花純の姿を覆い隠し、
彼らは思わず目を覆い。瞳を再度あけた時は、既に花純の青白い衣と濃紺の帯は元の通り
で。
 花純の周囲に尚漂う白色の輝きは何なのだ。
 攻守がひっくり返っている。彼らの満足と勝利感の油断に付け入る形だが、花純は不意
打ちでもされない限り、こう対処できるのだ。
「何が、どうなった?」
 花純の右手人差し指を、いつの間にか己の額に突きつけられた事を知る英俊は、言葉を
失った。他の面々も皆、出所の知れぬ光のこの激変に毒気を抜かれ、立ち尽して動かない。
「人の分際で、良くやってくれたわね」
 花純が怒りの目線を向けたのは、初めてだ。その眼光の鋭さに、低い言葉の圧力に、英
俊は強がりも装いも吹き飛ばされる錯覚を感じ。怒りが、硬く重い怒りの塊が押し迫り。
これは今迄の虐めで受けた事のない反撃の目線だ。
「貴男達を生かすも殺すも、私の胸先三寸なのに、私が人でない事迄分ってわざわざ…」
 私の怒りを招きたがるとは。
 誰一人、花純の本気の威圧に身動きとれぬ。遠くの者も左右背後にいる者も、直接視線
を交わさぬ者迄、心臓を掴まれ両目を打ち抜かれた様に、立ち竦み、座り込み。馬鹿な!
 これが花純の力なのか。人ではない存在の迫力なのか。人の数を圧倒する魔の技なのか。
彼らの中を、戦慄が走る。手を出してはならない者に、彼らは手を出してしまったのかと。
「群れれば何でも出来ると、思っているのね。悲しくも愚かしい人の性。こんな烏合の数
を揃えても、大切な時に何にもならないのに」
 自分達が操られ動かされている事も知らず。
 花純の怜悧な瞬きは、彼らの心の無意識領域を眺める様に深く暗い。だがその双眸は強
烈な自我を宿しつつ、既に英俊達を怒りの視野に入れてなかった。人に噛みつく獣は許せ
ないが、駆除すれば良いだけで憎悪の対象ではないと。彼らを同等に見てないが故の、平
静で侮蔑的な言動は、それこそは常の花純だ。
「何故貴男達が私の行動を阻む位置にいたか、貴男達にも分ってないでしょう。貴男達の
行動が意志が、全て誰かの思う侭だとしたなら。
 そしてこれからは私の思う侭だとしたなら。
 貴男達は常に掌の上の虫に過ぎないのよ」
 思い知りなさい。人の身の限界を。そして、
「己の孤独を見つめ返し、闇に怯えなさい」
 花純の瞳は英俊達を見つめてない。彼女は屹立して周囲の動静を探る姿勢から、
「側にいるのは分っているわ。顕れなさい」

「最高のショーだったよ。素晴らしかった」
 乾いた拍手の音が響く。英俊達をこの場に誘い、花純を襲わせたのは圭一だった。だが、
この短時間で果して準備が間に合う物なのか。
 立った侭失神した英俊。座り込んだ侭放心した富美子。倒れた侭起きない香苗。それら
に囲まれた花純と、その輪を外れて外灯に照された圭一と。今意識を持って動くのは二人
だけだ。影と彼は、逃げずに戻ってきていた。
「逃げ散る事に集中した方が良かったのではなくて。人を焚き付けて攻めに出ても、この
結末は貴男達には見えていた筈よ」
 英俊達を唆すのに、圭一が間近にいる必要はなかった。影は圭一と一体でなければ長居
も叶わず、誰かを操る力を発するには圭一の身体に安定していなければ難しいが、英俊達
の花純への憎悪は、操る必要さえもなかった。
 電波の届く範囲を超えればラジコンは動かせぬが、英俊達は情報を流せば己の意思で花
純を襲う。花純が妙子の家を訪ねた事を知って圭一は、帰り道を襲う様に情報を流し、逃
走の途中に影は花純の正体を、直接英俊達の頭に流し込んで、それなりの絡み方を示唆し。
 人である彼らが例え花純の不意を襲っても、実効は見込めぬ。成功を、英俊達の花純へ
の勝利を期待できぬ以上、時間稼ぎと割り切りさっさと逃げるが賢い対処だ。なぜ戻り来
た。
 花純が冷やかに語る相手は、圭一ではなくその肉体と精神の奥に隠れる影の方だ。彼女
には圭一も人であり、乗り物に過ぎぬ。武者を討つに、乗馬に話しかける必要はなかろう。
「力は強いけど、使い方は幼くて愚かだね」
 影ではなく、この肉声は圭一の意志だ。語調で分る。無視された事に不快そうな顔を一
瞬見せた彼は、花純の神経を逆撫でする言葉を探して発した様だが、圭一への答はなくて、
「顕れないなら、身体の上から処置するわ」
 花純には、人語を意味も分らず繰り返す鳥の鳴き声の扱いか。圭一は憎悪の宿る目線で、
「何をどう処置するのか、教えて貰おうか」
 花純はもう、圭一の問には答えなかった。
「人の身体に籠もった程度で、私の攻勢を防げると、思っている訳では、ないでしょう」
 くっくくく。圭一は何を思ったのか、突如笑みを漏す。何かを確認した様な瞳の動きが、
微かに花純の気に障る。
「何も知らない娘は、これだから困る」
 意味ありげな笑みを無視して花純は、ゆっくり圭一に歩み寄る。逃げる様子がないので、
花純も拙速な接近は一応避ける。
「どんな策を考えても、貴男の力で私には勝てないわ。逃げられないよ。大人しく従えば、
痛み少なく、闇(の世界)に返してあげる」
 少し感覚が変だ。疲労なのか。軽傷は負ったし先程の事もあるが、常の花純なら危うい
程でもない筈なのに。身体に力が、入らない。
 圭一は逃げずに、接近を待っている。
 待っているが、距離が中々縮まらぬ。
 花純の歩みが進まない。圭一の声が、
「早くここ迄来てくれよ。処置しておくれ」
 笑みを含んだその声が、何故か遠く聞える。
「な、待ってなさい。もう少し……もう…」
 感覚が変だ。五感だけではなく、気配を察知する力迄が鈍ってきている。ここ迄近付い
たのに、圭一の中に影の存在を濃く感じない。
 いない、のか。影はもう彼を捨てたのか?
 平静を装って花純は圭一の間近で向き合う。双方の距離は、一歩踏み出せば手が届く程
だ。
 動揺が見て取れる。彼は笑みを浮べつつ、
「暴れていたから、薬の回りが早かったか」
 薬……? そんな物、いつ? まさか!
「初めて僕を見てくれた。漸く、真実に辿り着いた様だね。そう、逃げる積り等ないよ」
 英俊達は花純の傷を掻き回し、新たに切りつけてもいた。あの時痺れ薬・眠り薬を花純
に擦り込んだのか。英俊達は自らの発案と思っているのか。無意識に操られたとも知らず。
 英俊達の役割は、花純に薬を擦り込み、薬効が出る迄の時を稼ぐ事にあった。傷口から、
なければ新たに肌を裂いて、その柔肌に薬を。彼らももう少し時間を耐えれれば、意識を
失った花純を好き放題に嬲る事が出来た訳か…。
 影の気配は相変わらず感じられぬ。圭一の身体にいないのか。或いは花純はそれも関知
できぬ程に薬が回ってきたのか。痛みも稀薄だ。思考がまとまらなくなっている。危うい。
「実体を持つ者には、実体を持つ者なりの攻撃方法がある訳さ。そろそろ、始めようか」
 頭が重い。視線が虚ろに泳ぐ。瞼をあけ続ける事が、猛烈に辛い。手足の力が、抜ける。
 花純の両腕を圭一が支え掴まえ覆い被さる。
「僕は君を処置してから、改めて妙子先生に求愛に行く。妨害がある程、愛は燃え盛る」
 君はここで僕とあいつの生贄になって貰う。
 花純の背についた地面に、外灯が描く影より暗く濃い何かが浸透している。圭一の太い
と云えぬ両手が、花純のか細い首筋に伸びる。首を絞めあげる感覚が分った頃に、漸く花
純は己が彼に組み伏せられた事を、分ったのか、
「は、放し、て……」
 花純は身体に『力』を込め、圭一の手を英俊達にやった様に弾こうとするが、出来ない。
敵は前面だけでなかった。手足が地面に杭か何かで張りつけられた様に、身動きが取れぬ。
力を吸い取る様に、心を意識を呑み込む様に。
 花純の顔に危機感が見えた。花純は圭一に伸し掛かられる以前に、何かの力で地面に吸
着された様に動けない。力が出せない。
「全く無防備になっておった。食べ頃じゃ」
 影は圭一から離れ、待っていたのだ。花純が無防備になるこの時を。影は花純の衰弱に
乗じ、傷口に食い付いていた。その身に出来た傷口は、守り難く攻め易い。しかも時と共
に花純の意識集中は、薬効の力で鈍っていく。
「愚かな娘よ。儂にさえ手を出さねば、の」
 正面から対峙すれば、影と圭一が力を合しても及ばぬ。だが、連携して背面に側面に回
りこみ、搦め取り、薬で弱らせて超常の力を揮わせなければ、花純は華奢な娘に過ぎない。
気付かれていれば、一撃で滅ぼされたろうが。
「お前には恨みがある。僕、春日井圭一が」
 僕と妙子先生の仲を、引き裂こうとして。
 協力してくれた影を、滅そうともしたな。
「くっ……く、は、放して……いや」
 抵抗どころか身動きも叶わぬ。意識が遠ざかりかける己を、必死に引き戻す。だがそれ
も数秒も持たぬ。何と言う事だろう。人の身を超えた存在が、人の身を操作する為に開発
された、新参の文明の品で落とされようとは。
 手足の痛みが減少する。薬が効いて、意識が薄れる。対処できなくされ、戦えなくされ、
思う侭にされてしまう。これが影の目論見か。
『貴男の得意業は、他者との心身の融合ね』
「さぁ、儂と融合するのだ。儂に従うのだ」
 屈従し、お前がこの驟雨の一部になるのだ。
 老獪な影が名乗るのは、勝利の確信の故か。
『私の衣に浸透し、素肌に重なって、身体に融合できれば、結果も少し違っていたかな』
 今正に、花純の傷口から【驟雨】は融合を遂げようとしていた。花純に痛みを怖れぬ意
思が確かにあれば、防ぎ止められる。断固たる力と心があれば、多少食い破られても切り
捨てられる。奥の奥迄の融合は防げる。だが今の花純はその心の作用が一番怪しい状態で。
 四肢に闇が浸透するのが分る。染み渡るのが分る。妙子の様に、朝には引き揚げる構え
で身体や心を残す積りはない。残らず花純を食い尽くす気だ。飲み尽くし、成り代る気だ。
「もうすぐ心も同じくなる。一つになれる。
 圭一と儂がした様に、クラスの心を一つにした様に、お前が圭一の云うが侭になってい
く様に。この苦しさから逃れ、儂に従えい」
 それでも影はこの侭では花純に同化できぬ。出来ても無意味と言うべきか。元々彼は、
望まぬ者にも同化できる程に強い存在ではない。圭一も彼の力を望んだからこそ、同化で
きた。花純の様な上位の者に融合を強いても、下手をすれば主導権を失う。それでは彼が
花純に併合されるに近しく、融合の旨味が全くない。
 驟雨が花純を喰うのでなければならぬ。花純が大きくて、彼が片隅に追いやられるので
は意味がない。花純を屈服させ、跪かせ、意の侭に従わせ主導権を握って漸く旨味が出る。
 そこに彼の老獪さがある。花純の心を砕くのは簡単ではない。彼女の云う通り、実体を
持つ者と持てぬ者の差は大きい。それが出来るのは実体を持つ者同士だ。意識のない内に
融合して既成事実を作って屈従を迫る手もあるが、もっと直接的に、花純を戦意喪失させ
その心を打ち砕いて膝下に這わせれば最良だ。
「誰が、従う……ものですか、この……」
「ほうほう、未だ少しは気概が残っているか。だが、いつ迄持つかのぅ。闇の守り手も、
力を使えなくては唯の娘だ。この薬効に、いつ迄抗ってその拘りを保ち続けられるかの
う」
 虚ろになりかかる視線に入るのは、日中からは窺い知れぬ、変貌した圭一の憤怒の相で。
「一度ならず、二度迄も、僕の思いを告げる瞬間を邪魔し。許さない、絶対に許さない」
 その目が赤く、血走っている。
「お前が何者なのかなんてどうでも良いんだ。
 お前が何の為に現れて去るのかも関係ない。
 だがお前は、僕の恋路の邪魔をした。それが何の為であれ、それが誰であれ、僕は絶対
に邪魔物は許さない。僕はお前を許さない」
 圭一は激情に燃えていた。花純は身を捩って抗うが殆ど無意味だ。白銀の長い髪が土埃
で輝きを減じて見え。夜の街路は人通りもなく、呆けた英俊達が虚ろな顔で座り込むのみ。
「人の愛の途を阻む愚かな娘の、末路だよ」
 圭一の怒号が花純を震わせる。それは尽きる事のない妄執。己を燃やし、相手を焦がし、
全てを破壊してやまぬ愛の狂気だ。
 圭一は青白い和服を上半身から脱がそうと、両手を胸元にねじ込む。花純に即応の力は
ない筈だが、危機感は瞬間影の抑圧を凌駕した。
 胸元に伸びる圭一の手に触れるが、力が入らぬので防げない。それに対し圭一は花純に
強引にキスを迫る。首を振って花純は躱すが、こう密着しては防ぎ得ぬ。二度目に唇が触
れ、すぐ外すが三度目はしっかり唇が唇と重なり。花純が硬直する瞬間圭一は再び衣を脱
がせる。
 花純が動揺すれば、圭一のキスは更に深く長く続き、花純の気がそちらに向く間に圭一
がその後を受けて上半身から全てを取り去る。胸元がはだけた花純は、意識薄れる中で抱
き抱えられ。圭一の狂気だけがひしひしと迫る。
「……やめて……」
 衝撃と敗北感の混交した声を上げた時には、花純の背に手を回す圭一のみが、素肌を隠
す。花純は戦いも使命も忘れて動揺の極みにいる。
 首を捻って外す唇を、圭一は更に捕まえて、
「思い知らせてやる。僕の邪魔をする者、妙子先生との仲を裂く者は、どうなるのかを…。
 お前の心を引き裂いて、楽しんでやるっ」
「キキキ、闇の守り手もやはり娘か。
 若い男に迫られると、弱いのぉぅ」
 返す言葉がないのか、花純は無言だ。視線には誇りと怒りと屈辱が残るが、それさえ…。
 優位を確信した圭一は、花純を俯せに引っ繰り返す。生暖いアスファルトに素肌を隠す
花純の背で、濃紺の帯が解かれる動作が分る。逃げ出そうと試みるが身体がまともに動か
ぬ。
「逃がしはせぬぞ。今逃がすのは勿体無い」
「二度と逆らう気も起きなくさせてやるよ」
 二人の目的と意志は合致して。今の圭一に痛い物も怖い物もない。あるのは憎むべき邪
魔物とその始末だ。花純の背で帯を解きつつ、
「邪魔物を排除した後で、僕は改めて妙子先生に恋を打ち明ける。妨害を乗り越えた恋は
強い。先生もきっと最後には、僕の思いを受け入れてくれる。きっと受け入れてくれる」
 妙子先生と僕の仲を妨害する奴は許さない。
「そういう奴は、僕が不幸の底に叩き落す」
 圭一が花純の衣を持って立ち上がる。彼の体重が消えるのと同時に、花純の細身な身体
を覆っていた衣も消え、全てが再び曝される。
 圭一の顔は勝者の顔だった。俯せに転がされた花純は、彼に向き合う事も出来ぬ。達成
感と、傲慢さと、爽快さに彩られた彼は、
「僕はずっと先生に憧れていた。先生は僕を気遣い、声をかけてくれた。見守ってくれた。
僕は美しい顔に、身体に、声に惚れたんだ」
 だから、僕の物にする。僕の好きにする。
 だって僕も先生も互いに好きなんだから。
「僕に出来ぬ事はない、愛に不可能はない」
 自分に酔っ払った笑顔を見せる圭一に、花純の痛烈な反撃が襲ったのは、その時だった。
「好きなら、どうして好きと云わないの?」
「え……?」
 反撃の刃は、勝利に酔う瞬間を狙って圭一に刺さる。勝ちを確信した時に蹉跌は始まる。
「本当に好きなら、生徒と先生の関係を超えて、愛を告げられる筈でしょう? 真っ当に、
面と向い、相手を受けとめる覚悟を持って」
 花純は立つ事も振り向く事も叶わぬが、その故に苦しげな顔は見せず、声のみは尚凛と、
「貴男が云えないのは怯えの故。断られる己を分り、傷つくのが恐くて、傷を責任を負う
立場から物を云えない。只好きなだけ。鑑賞したいだけ。目の届く処に飾って、好きな時
に己に都合良い決った返事を貰いたいだけ」
 貴男は一面、賢いわ。そんな男を女は決して好んではくれない。それを分っているから。
「な、な……何を云う!」
 花純の言葉は予想外に圭一の心に深く突き刺さった。彼の動揺は驟雨にも伝播している。
抜けはせぬが、消失はせぬが、浸透が止まった。思わず二歩下がる彼に、花純は向き直り、
「影の力を借り、走狗となって、それで彼女の何を得られるの。彼女は確かにこんな脅し
に容易く屈する、内実のない美人に過ぎない。
 でも、それで手に入れた彼女の好意は貴男にとって値があるの?」
 それは、圭一の力で勝ち取った物ではない。
 汚い手段・不当な方法で、最高に欲しい物を得て、満足できるのか。自らで掴み取らず、
他人に取って貰い噛み砕いて貰う事で充実できるのか。それが彼の高貴で崇高で望むべき
物であればある程、悔いが残るのではないか。
「貴男はその力を持ちながらクラスの混沌を黙認し、彼女の苦しみを放置してきた。彼女
の悩む顔を見て喜び、彼女の消沈にときめき、彼女が困れば困る程舌舐めずりし」
 貴男は彼女の何を好いて、求めているの? 大切な人なら何故一緒に闘う事、護る事を
考えないの? 助けようとは考えないの?
 それは恋ではない。歪んだ妄想に過ぎない。
「貴男が好きなのは誰でもなく、自分自身」
 妄想に心踊らせている貴男自身への自己愛。
 彼女の心を射止める事等出来はしないと最初から分り諦めた人なら、それで満足できる。
 花純の指摘は冷酷な程に鋭くて、
「彼女の形は手に入るかも知れない。赤毛美人の野上妙子の肉体は。だが彼女の愛は?」
 そんな事は考えてなかったのだろう。彼の心が基盤から引っ繰り返されるのが見て分る。
「危険も負わず人の心を掴み取れる訳がない。
 それが出来るなんて云う物は偽物よ。自分の利益の為に誰かを唆す、表向き利害一致で
も内実は寄生で、己の為でしかない者」
「ぐぎゃっ……!」
 圭一が思考停止に入る隙を、花純は逃さなかった。花純は傷口の痛みを承知で、両手両
足に張りついた影の触手を弾き跳ばす。
「お、お前っ、どうしてっ!」
 自由を取り戻した花純は立ち上がると、体勢の乱れた圭一から衣を奪い返して身を包む。
帯は未だ彼の足元にあるので、常にどちらかの手で衣を抑えねばならぬが。疲労と薬効を
精神力で暫し押し止める。相手の思惑を外す。そうせねばならぬなら、己の出来る限り迄
は。右太股に突き刺したガラス片は、痛みで意識を保つ為か。流れ出る血は常の人と変ら
ぬ朱。だがその覚悟は常の人が持てる物ではない…。
 息遣いと、艶やかな銀の髪を少し乱しつつ、
「私は怖れない。どうしても為さなければならない事の為には、危険も痛みも怖れていら
れない。それに値する大切な何かの為なら」
『云った筈よ。痛みを負う覚悟があるかと』
 花純は傷口から既に引き抜いていたガラス片を、突然右斜め後の闇の中に、投げ付ける。
 小さな悲鳴が、影の存在を明示してくれた。驟雨は再度今度こそ逃げ散ろうとしていた
が。
「同体化し、共に戦った彼を置いて、自分だけ逃げ去る気? 所詮、そういう関係なの」
「……」
 圭一も影も返す言葉を持たなかった。双方共に、形勢の良い時だけは互いを利用しあい、
不利になった時は共に真っ先に逃げようと…。
 影は身動きもしない。出来ないのか。影が傷口に食い込む事で花純の動きを止めた様に、
花純は何らかの力を込めたガラス片を投げ付けて刺す事で、影を呪縛した様だ。
「私に立ち向い、勝つ可能性に賭ける行動は、私に敗れ消去される痛みや危険を覚悟した
事。その後に逃げ散るのも貴男の勝手だけれど」
 私に逃がす積りはないわ。
「ひひい……」
 逃げにも戦いにも危険は付き纏う。選ぶ事は、否選ばない事にもリスクは伴うのだ。安
全な処から収穫だけを望むのは虫が良すぎる。
「哀れね。闇へお帰りなさい。闇に戻る迄の身柄は、一応私が保障してあげる……」
「う、う、ううおおおぉぉ!」
 花純は左手で衣を抑えて圭一を向いたまま、右腕一本を後に向けて、何かを操る。影の
気配はその場で無理遣り収縮させられて消える。
 圭一はその間、花純の視線に牽制されて動く事が出来ない。だが仮に動けたとしても?
 終った事を確認する様に黒い双眸を閉じて、
「貴男こそ、人に操られていたのよ。気付かない? 貴男は、人を利で釣って操った様で
いて、その実人の欲望に押し流され、自分の望みを越えた拡大成長に巻き込まれていた」
 自分で起した波に、自分が押し流されて…。
「どこかで貴男は、春日井圭一の欲望に枠を填め止めるべきだった。分を知れば私にも感
知されず、静かに時を過せたのに。欲望を全肯定する世は、魔にも甘美な毒なのかもね」
 栄養も取り過ぎは病の源となる。神も光も、強すぎれば却って人の世に災いになった様
に。
「貴男は人の心の闇に惑わされ、己を見失ったのよ。人々の間に潜み、願いを叶えて糧を
得る本来の私達の、魔の生き方を」
 それは、宿主の選び方にも関るのだけれど。
 この間も圭一は動けなかった。例え目を閉じていても、自分は花純の射程にある。不意
を襲えたからあの状況も現出できたが、今となっては彼の身柄も花純の掌の上だ。
「ぼ、僕は人間だ……ただの、人間だ。
 君が僕を狙う理由はない筈。そうだろ?」
 この言葉は、圭一自身信じてない。この期に及んで安全を望むのは無理と、彼にも分る。
 花純は善意の塊でも、神でも仏でも、天使でもない。むしろあの影と同類の、闇の物だ。
「私の使命に、闇の漏洩に繋った人を裁くと云う項目はないわ。使命遂行の為に邪魔な物
を排除する手段に、制約はないけれどね…」
 花純は劣位を分った瞬間から卑屈に戻る圭一に冷たい視線を向ける。人と云う生き物は、
立場や境遇が変る位で本性に変化を生じない。
「……私の帯、取って貰える?」
「ああ、いいとも」
 圭一は足元から帯を拾い、素直に帯を渡す。
「渡す瞬間を、狙わなかったのね」
「ああ」
「そんな事で今更信頼されるとでも思って」
「……」
 好意を作りたい心中を、見透かされた彼に、
「あの言動は驟雨が唆した為で、己の本意ではなかったとでも、云う積り? 自分は彼に
歪められていた、自分のせいじゃないと?」
 先に言われては台詞がないと云う顔の彼に、
「貴男にも、云っておかないといけないわね。
 余計な妄執に駆られて、同朋を呼び出さないで。人の欲望に引き摺り回されて、多くの
闇の物が迷惑を蒙っている。驟雨が招かれたのは、貴男の側に彼を招く素養があった故」
 花純の弾劾は、同族ではない彼にこそ厳しかった。人は己に都合良く、全てを惑わせた
のは魔(闇)だと言い募るが、むしろ人の欲望が憎悪が怨恨が、彼らを招き寄せていると。
 人こそが歪みの本体なのだと。
「責任を他者に転嫁しても、不様なだけよ。
 敗北・痛み・苦しみを受けとめる事も時には必要なの。責任や痛みを回避し続ける者は、
その行動で信を喪い己の値を減らし続ける」
 花純は後背に両手を回して、帯を締めるが、その間も圭一に逃げ出す隙はなさそうだっ
た。彼はまだ、薬効が花純の気力を上回る瞬間を待っているのだろうか。逃げる為、襲う
為?
 それを喝破した視線で、視線は一層炯々と、
「そんな事で、貴男は本当に好きな物を手に入れられるの? そんな事で、貴男は挫折や
苦況を乗り越えて大切な物を守り通せる?」
 手に入れた後でそれを守る事等、考えた事もなかった圭一には、何も返せる言葉がない。
「誰かに頼り、力を借り。自分は何一つ反撃を受けない処から、誰かを恐がらせ、困らせ、
或いはそうなっている様を放置して楽しみ」
 何も動かずに全てを手に入れられる?
「そんな事は、ありえないわ!」
 例え私の介入が、なかったとしても。
 花純の口撃は彼の肺腑を抉る。
「貴男に満足はない。野上妙子は貴男に満足を与える程豊かな女性ではないし、春日井圭
一はそんな彼女を痛め付ける事でしか喜びを感じ取れない男にすぎぬから」
『蟹は甲羅に似せて穴を掘る』と云う言葉を、知っている? 貴男が選ぶ様な彼女と、彼
女に選ばれる値もない貴男とでは、決して貴男が思い描く満足は得られない。危険も犯さ
ず、覚悟も決めず、何も動かず、望む全てが黙って手に入る。そんなに都合良く運ぶ訳が
ない。
「私が嫌うのは、貴男の様に無自覚に欲望を抱く者が呼び寄せる事で、本来眠っている筈
の闇の同朋達が引き寄せられる事」
 私は貴男の先行きに等感知しない。貴男が驟雨の後盾を失って再びクラスで苛められよ
うと、野上さんとの関係がどうなろうと、私は知らない。それは私には全く関係のない事。
「人は我が領分にあらず。人は人の赴く侭に。我が領分は闇にあり。その護りこそ我が使
命。
 私が望んでこの身に受けた、私の使命」
 帯を締め終えた花純に、圭一は最早いつ撃たれるか分らぬ侭、黙って対峙する外にない。
蛇に睨まれた蛙の脇を、眼中にないと言う様に花純は黙って通り抜け。銀の髪が肩に触れ
る程の距離を、掠めてそれは去って行く。
 花純は遂に、圭一に何も手を下さなかった。痕跡を残したくないのか。花純は肉体を持
つ人には手を下し難いのか。人が彼女の領分ではない等という世迷い事を、圭一は信じな
い。殺すに値せぬという言葉を、彼は考慮できぬ。
 その横顔が、作り物の平静さ・冷徹な美貌なのが印象的で。花純は夜の闇に消えていく。
 近くでは未だ英俊達が定かな意識もなくふらついて、闇と外灯の光の間を徘徊して蠢き。
「……殺されなかった……」
 圭一が、生れて初めて『生で』死の恐怖を感じた。死は彼の肩を掠めて去った。なぜ助
かったのか、なぜ命を拾えたのかも分らない。
 彼が花純の立場なら絶対圭一を殺している。生殺与奪の力で思いの侭に執拗に責め続け
る。
 それは、圭一には永久に分らない事なのか。
 花純の心の内側は、彼には窺い知れぬのか。
 闇は見えない。あれども決して見える事はない。光ない処が闇と分るだけで、その正体
は永劫に定かではない。花純の心の内の様に。

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