「ここ、例の公園よ。回り道、しない?」
半歩遅れて少女の不安げな声が付いてくる。
暗い夜道の二人歩き。人気の失せた住宅街で、心細さを補う物は、互いの存在感だけだ。
少女は話す事で怖さを払いたくもあったのか。
夏の長い日も既に落ち、街路灯や家々の窓から漏れ出づる光が瞬く夜の住宅街を、部活
で遅くなった男女二人の高校生が、方向が同じだと云う事で共に帰宅する、九時半過ぎに。
周囲は人気がなくて久しい。通勤通学の時間を外れたこの辺は、生活臭を闇に隠された
今となっては怪談を語るに丁度良い淋しさだ。
「出るって、あんなの、ただの噂だろ…?」
「噂って、みんな云ってるよ。ここは危ない、ここは出る、ここで見た、って」
ミディアムの黒髪を揺らせ、理恵は卓に肩を寄せた。不自然な程に近寄るのは、半ばこ
の闇への畏れだが、残りは彼への好意の故だ。
「恐いのよ。何もなくても、こんな夜に…」
理恵が恐がれば恐がる程、逆に卓の恐れは冷める。強がりというより、夜の闇に於ても
彼は、そういう何かの気配を懸念していない。迫る自動車も、気付かなければないと同じ
だ。
「大丈夫だって。何も起らないよ」
大きく迂回する不便を考えれば、今更引き返す程の理由にはならぬ。己の判断に疑いも
ない様子で卓は、むしろ大胆に道を歩きだす。
左は昏い夜の公園でも、右は道路を挟んで住宅街だ。道も通学路で街灯があり、真っ暗
ではない。その故に公園の暗さが際立つ事を、彼女は気にしているが、突っ切る訳でもな
い。二、三百メートル片側が昏いだけではないか。
尤も、闇があるだけで恐れを抱いてしまう者もいる。恐れは理屈ではなく気持ちなのだ。
「もしそうならこの辺の住人こそ堪らない」
公園は結構広い。周囲を低木と草むらで覆われ、所々覗き見は出来るが、一望は難しい。
閑散とした印象が、確かに不気味だ。
「でも、みんな噂しているよ。
夜ここを通り掛って、見た人がいるって」
彼女の訴えは、噂を信じて欲しいと云うよりは、否定して貰いたい、繰り返し云う事で
繰り返し否定して貰いたいと云う感じだった。
「実際に見た奴は、いないんだろ?」
「そりゃ、あたしは直接知らないけれど」
卓は合理主義と云うより、人の口に上る噂の不確実さに、疑念を抱いている様子だった。
学校の鞄の他に、汚れたユニフォームが入っているのか、バッグを一つ左手に持って、
「噂は無責任に広められる。でも、自分が見たと云う奴はいない。みんな友達の友達だ」
噂なんて、都市伝説なんて、そんな物だよ。
恐れの気持ちは濃厚だが、一人でその場に残されるのも、一人でここから引き返して夜
道を遠回りするのも恐い理恵は、少し早足で、
「でも、いかにもありそうじゃない。
誰もいない夜の公園なんて、恐くて……」
「全く恐くないとは、云わないけどさ。
でも、もう少し歩けばおしまいだろ」
体育会系の彼には、夜の静寂と云う設定も、得体の知れぬ何かへの恐怖も現実感が乏し
い。
彼には先輩や監督の鬼の様な特訓は恐いが、実感の掴めない存在は分らないのだ。
分らない事に思考停止で終らせるか、更に想像力を逞しく恐がるか。噂の世界に足を突
っ込んでいる理恵の方が、敏感なのは必然か。
「そうだけどぉ……」
「気にするなよ。注意してしまうから、余計な物が見えて来るんだ。俺みたいにさ……」
卓は上手なタイミングで、十センチばかり背が低い理恵の肩を、右手で優しく抱き寄せ、
公園を囲む低木の森を共に見つめる。高さ一メートル程の低木の群は、中にはやや高い木
々も混ざるので、公園は一目では見渡せない。
公園の中にも外灯はある筈だが、故障なのか角度が悪いのか灯りは見えぬ。その故に彼
らの視点からは本当に少ししか視認できない。
「暗いんだから、どうせ何が居たって見えないと思えば見えやしない。真っ暗だろう?」
適当な緊張感がなければ、肩を抱き寄せる条件が消失する。それを分る卓は、敢てその
場に止まって彼女の肩を抱き寄せたまま、公園の暗闇を共に見つめて、一緒の時を過ごす。
理恵には卓の掌の感覚だけが、確かな現実との接点で闇に対峙し続ける心の支えだった。
恐さとそれを抑える卓の肩の微妙な均衡が、若すぎる男女の接近を理恵に許し。そうで
なくば、理恵も現状をそのまま受け入れられぬ。
二人は夜の闇より間近な互いが気になって。
例え心が望んでも、そうせざるを得ない状況の演出が要る。己が望む形はとりたくない。
女とは、己に迄も弁明したがる生き物の様だ。
卓は頭抜けて背が高くはなかったが、理恵より十センチ程高い。野球で鍛えられた筋肉
質の身体に、広い肩幅に太い腕に、軽々しくないその言動が、闇夜では頼もしく感じられ。
特別な言葉はなかった。行動もなかった。
初々し過ぎるとも云えるが、その様な言葉や形式に至らぬ、友情と愛情の混ざった微妙
な好意で、この時の彼らは十分だった。だが、
「……あれは……?」
昏いから見える筈がない。見える物がない。そこに何かを見付け瞬間に、噂は現実にな
る。
「何だ、あれは……!」
卓が警戒と好奇を混ぜた視線で心持ち身を乗り出したのは、彼が本当に実際的な人間で、
恐れより好奇心を抱くタイプと云う事なのか。
何かあったらどうしようと云う感じで腰を退きがちな理恵は、見た瞬間から卓に抱きつ
いている。その抱きつく腕の強さが更に強くなるのは、恐い物見たさで目線が向いた時で、
「な、何なの? あの、突然輝きだしたの」
それは怖いと云う思い込みが見せた錯覚なのか。低木の茂みの上−或いは向うなのか−
にぼうっと白く淡い何かがある。その何かが、無明の闇だった公園の奥を、照し出してい
る。
理恵は卓の瞳を覗き込んだ。自分だけが見た錯覚であって欲しいとの、願いを込めた目
線はしかし、相方の驚愕の表情に裏切られた。
「誰かの悪戯じゃないよな。電灯でもない」
見たのが自分だけでない以上、これは現実だと卓も判断した様だ。集団幻覚とか云って、
自分の五感迄を否定する程強固な合理精神は、この闇に似つかわしくない。
理恵と卓は顔を見合わせた。お互いにまだ正気だが、互いの顔は固まっていた。
「確かめてみよう」
卓は即断を下した。恐怖を好奇心が凌駕している。両足が公園に向けて動き出していた。
「ちょっと待って」
理恵は、怖いとか危険だとか云って卓を止めたかったのだが、彼の動きの方が早かった。
遅れず付いていくのが精一杯で、言葉が続かない。今更一人で夜道を逃げ去る事も出来ぬ。
こうなれば何かの悪戯か種明しがある事を祈るのみだ。二人は足音を抑えつつ、吸い込
まれる様に公園の暗闇に踏み込んでいく。
「ねえ、卓、止めとこうよ。怖いよ」
私そんなに、お化けには強くないんだから。
話さないと怖さが胸に満ちて溢れ出そうだ。誰かに聞かれる事を怖れ、しかし闇夜の沈
黙にも絶えられないが故の理恵の囁きに、卓はしっと人差し指を立てて、口元に当ててか
ら、
「これから一生、ここを避けて歩く訳にも行かないだろ?」
怖さの源を分らないといつ迄も怖いままだ。
卓から返ってきたのは、意外な答えだった。
「俺はいつ迄も正体の分らん物を、分らないままで怖がっていられる程、強くないんだ」
怖さの正体を見極め、乗り越えてしまおうという考え方は卓らしい。だがそれが、こう
いう物相手に良い対処なのかどうか。
奇妙に強気と弱気が併存した、しかし圧倒的に積極的な卓の行動に、引きずられる様に
理恵も低木の脇を進み、淡い灯りの見通せる位置迄移動する。公園中央部、水の止まって
静かな池になった噴水の向う側に見た物とは。
「きゃははははははははっ」
「きいぃっひひひひひひひ」
娘達の嬌声が複数、無人の夜の公園に響く。
周囲の人家の灯火も遮られる公園の中央部。
深夜の公園は、人の目が届かぬ一種の閉鎖世界となる。低木と藪のベルトで周囲を囲ま
れたこの公園は、噴水を中心に数個の遊具とベンチがあって、昼間は遊び場や憩いの場に、
夜には若者達の逢引きに使われたが、最近は例の噂の故か訪れる者も少ない。
正体の掴めぬ淡い白色の輝きに照らされて、広場の中央が妙に明るく浮き上がって見え
る。
それは果して気の所為か、本当に何かの理由で明るいのか。その辺りは定かでないが、
どこが光源と云うでもなく、広場の中央部がぼうっと明るいのは確かで。その中に浮き上
がって見えるのは、十人近い女子の高校生だ。
煙草の煙ではなさそうだが、煙が渦を巻いて見える。霧ではない。野火でもない。だが、
確かに朧な煙に似た何かが、うねって見える。
それは奇妙な光景だった。
この夜遅くにと云う意味ではない。確かに善良な少年少女には帰宅時間だが、その枠を
外れて出歩き夜遊びする者はいる。それは標準ではなかろうが、奇妙とは呼べぬ。
奇妙なのは、彼女達の様子だった。どう見ても、まともだとは思えないのだ。
殆どの者が惚けている。意識を失い呆然と、大地に寝込み座り込み、めいめい勝手に蠢
き。
秩序も集団意識も何もない。己の存在も意識の内にない様な、動きと云えぬ蠢きを続け
る女子達の顔は一様に凍り付いて、無感動で。
座り込み或いは寝転がり、寛ぐとも違う気の抜けた制服姿の少女達の真ん中で。身長程
の高さの高さの鉄棒上に両足を揃えて立って、唯一まっとうな意識と思考を保つ金沢由香
は、眼鏡を掛け艶のない黒髪が長い高校二年生だ。
だがそのまなこに宿る憎悪と敵意の狂気は、尋常ではない。凡庸で、特段綺麗でも可愛
くもないその顔に宿る修羅の形相は、周囲で踊らされて蠢く者達を見下し、侮蔑し、睥睨
し。
「いい気味だわ。もっと空騒ぎしなさい…」
生暖かい微風が、Tシャツにジーパン姿の彼女の長い髪を靡かせる。その黒髪に艶はな
く、ぼさぼさな髪に一度櫛を入れた程度だが、奇妙な淡い輝きに照し出されて、輝いて見
え。
否、髪だけではない。その輪郭が、全身が淡い輝きに包まれて、夜の闇に浮き上がって。
「今の私は、これ迄の私とは違うんだから」
瞳の中に宿る自信と驕り。鉄棒の上に両足を揃えても落ちない奇妙な迄のバランス感覚。
更に同級の、女子達を酩酊させる不思議な技。
それは確かに普通の女子高校生が持つべき物ではないが、では何故彼女はそんな力を…。
眼鏡の少女の周囲に、半透明な野太いチューブが何本もうねって見えるのは錯覚なのか。
発光は、大地からもあり、大地を少し離れた空中にもある。光る粉の様な物が散布され、
舞っていると云う感じなのか。
鉄棒の上に立つ眼鏡の少女を中心に、輝きは最も強く、二十メートル半径を照し出して。
「新しい私の力を、味わいなさい」
得意げに右手を振ってみせると、風が巻き起る錯覚と共に、輝く長い何かがうねり、そ
れに連動して呆けた少女達にさざ波が生じる。身体を操られた、ウエーブと云う感じなの
か。
全ては由香の思う通り。金沢由香の思う通りに。その心も体も全て操られ、縛られて…。
全てに満足げだったその目線に一瞬、険が走った。何かを察知したと云う顔だ。続いて、
「私の勘から、逃れる事は出来ないのよ!」
由香の指示に従う様に、光の粉が渦を巻いて伸びる。由香の間近程に鮮やかではないが、
その周辺部程の明るさで闇を照される。由香の周囲の輝きを外れ、公園の闇にいた物とは。
「きゃっ……!」
芝の陰から様子を窺っていた、理恵と卓だ。状況の不可解さに思考が付いて行かない様
で、
「か、金沢さん……」
「理恵のクラスメートか?」
クラスの違う卓に由香の識別は難しい様だ。
卓の問に理恵はうんと頷いて、
「うん。今週から、学校に来てなかったの」
理恵がそれ以上を語る前に、
「あらこんばんは、長谷川さんじゃないの」
同級なだけで、理恵と由香には特別な経緯はない。故に由香は、酩酊する少女達に抱く
憎悪と侮蔑を、理恵達に抱いてない様子だが、
「和美や江里香じゃ、なかったの。残念ね」
優越感で見下したがる不快な瞳は変らない。
周囲の女子は皆和美や江里香の仲間だった。結構な人数がいるが、肝心の江里香と和美
がいない。由香自身も数日前迄由香もその一員であり、その一員に過ぎなかった筈なのだ
が。
その優越感は、劣等感の裏返しか。自分を抑え付けた者への嫌悪、屈辱の過去への憎悪。
「これは金沢さん、あなたが、やったの?」
理恵の問には、時間稼ぎ程の意味しかない。状況は不合理ながら由香の介在は明瞭だっ
た。
「やられて当然の連中なのよ!」
由香には問への答より、彼女達がそうされるべき・由香の怒りや恨みを買う者だと伝え
る方が重要で。今の彼女には、己を縛る常識や社会通念がない。それだけは二人も分った。
「あなた達も、一緒に踊らない?」
由香がにんまりと笑みを漏らした。
恨みではない。道端で見つけた蟻を、特段の必要もないが邪魔なので踏み潰す。そんな
時の子供に通じる無邪気な故に嗜虐的な笑み。
「これを受けると幸福に包まれるらしいの」
要らないと云う答は恐怖で声に出なかった。
由香の心を察したのか、その両肩にうねっていた二本の光のチューブが地を這って迫る。
何が迫るのか、何を為そうとしているのか、何が起るのか。全てが常識を越えていて対
処の術も分らなかったが、知っても知らずとも、気付かなくても、世の中諸々の事は進む。
「に、逃げ……」
恐怖に身が竦む理恵より、運動神経に優れた卓の方が動きが早い。意味は分らないが危
険を察し、理恵の右肩を思い切り突き飛ばす。
一緒に逃げる暇はないと云う、即断だった。
卓が光の渦の直撃を受けたのはその直後だ。淡い輝きのチューブらしき物に身体を巻き
取られる。突き飛ばされて転んだ理恵の目前で、
「な、なんだ。これは、これ……」
頸や肩に絡みつくと、外そうにも外れない。圧迫感は感じるが、掴もうとすると手がす
り抜けて掴みようがないのだ。外れないままに、別に息苦しい訳でもないが奇妙な痺れで
動けぬ卓の表情に、数秒で激変が生じた。
彼はその場で立ったまま光悦の表情を浮べ。
「あはは、あは、あ、あは……」
彼はその場で己の意識を失った。唇から流れるよだれが、卓の漂う夢心地を現している。
「どう? 言葉で言うよりも、簡単でしょ」
由香は心から満足そうに哄笑して、
「みんな私の奴隷になるの。みぃんな、ね」
ほおおぉぉほほほほ。由香の哄笑が響く。
「きゃはははははは」
「ひいぃぃひひひひ」
周囲の少女達も笑い出す。それは由香への追従ではない。彼女達にそれ程の自我を残っ
てない。むしろ条件反射させられている様だ。
「和美や江里香に伝えて。今からは私が支配者よ。あんた達は全員私の足でもお舐め!」
みんな私の前に跪くの。文句は言わせない。
由香の高笑いが響く。周囲に風が巻き起る。
「待って。あたし貴女に恨み買う事なんて」
「もうどうでも良いの。私が害を受ける側じゃないから。やりたい放題出来るんだもの」
話を聞き入れる状態にない。彼女が理恵をすぐそうしないのは、いつでも出来るからだ。
彼女の恨みの対象は敵である和美や江里香だけではない。己以外の全ての者に向いてい
る。理恵が憎い訳ではない、全てが憎いのだ。
卓は呆け意識がない。理恵は畏れと驚きで、自力で逃げる事も出来ぬ。走らねばならぬ
が、頸が恐怖に縛られて由香を向く姿勢から離れず、後ろ向きに走る形になって、よろめ
いて。
「さ、あなたもこの恍惚の中に入りなさい」
足下が定かならず、倒れ込む理恵を正面から受け止め、動きを止める物が現れたのはそ
の時だった。普段なら良いが、切迫した現時点では、それは一種の障害物だ。
揃ってあの輝きの直撃を受けてしまう!
迫り来る光のうねりが、本当に手が届く程近く迄来て突然消失したのは、その時だった。
左右に外れたのでも、反転した訳でもない。消えてなくなったのだ。信じられぬ顔なの
は理恵だけではない。由香も同じ顔つきだった。
「助かった、の?」
理恵の問に答え得るのは、卓でも由香でもない。理恵と卓の更に後ろの闇から現れたも
う一人の女子、佐々木翡翠の負う役割だろう。
状況が僅かな間、硬直した。
何が起ったのか、由香も理解してない為に、行動に躊躇して。新たに現れた翡翠が状況
を理解或いは打開する者だと思われるが、彼女は佇んで由香を見つめるだけで、動きがな
い。
「佐々木さん……どうして?」
転入二日目の翡翠の顔は卓にも知られてない。なら、数日休みの由香には分り様もない。
正面から身を投げ出す形の理恵を受け止め、揺らぐ事もなく佇む翡翠は、意外な程力強
い。見かけの華奢さが詐欺な程がっしりしている。
「この空気の中でも、動じないなんて、ただ者じゃあないね……あんた、何者なのさ?」
翡翠は身長百七十センチ強、制服であるセーラー服に、鞄一つ持つ様子もなく、背の半
ば迄達する、僅かにウエーブの掛った黒髪を、由香の方から微かに吹き付ける風に靡かせ
て。
均整の取れた端麗な長身を、場を包む淡い輝きに照され。眼差しは感情の抑揚が極限迄
少なくて。彫像の様に、清冽だが生気を欠く。
「あんた、見かけない顔だね。転入生?」
翡翠は超然と、輝きの範囲を少し外れた所に立って由香に向き合う。二十メートル以上
離れたそこが、異常現象の境界だった。驚きも怖れも警戒さえ、その表情には見て取れぬ。
「操り人形に名乗っても、意味は薄かろう」
低い声だった。感情の抑揚をまるで感じさせない、機械的なと云って良い程低い女声だ。
その言葉も意識も視線もが、眼鏡の少女を見ていない。目線が偶々そこにあると云うだ
けで、背後の虚空を眺める様子で。由香が美香や史恵を劣位に見て軽んじる以上の無視だ。
己の行為を鏡に映された不快感が、由香の顔を歪ませる。元々それ程可愛い顔つきでは
ないが、否その故に、端正で無感動で澄ました翡翠の存在が、気に障ったらしい。
「お前も、一緒に踊るんだよ!」
気のせいなのか。由香の感情の浮動に沿う様に、彼女の周囲の輝きが強まって見える…。
そして由香の周囲にうねる光の渦にも似た何かの姿が、徐々に鮮明に浮き上がってきて。
光の渦が数本迫る。さっきより周囲の光が強いが、その中でも更によく分る程強い輝き
を帯びた、光る螺旋が翡翠を目がけて。しかもその速さは自動車に近く、回避は至難だが。
消失した。翡翠やその左にいる理恵、右にいる卓の眼前で、それはまたもや消え去った
のだ。まるで今迄も、何もなかったかの様に。
呆けて座り込む卓と、竦み上がる理恵と、平然と身動き一つ見せなかった翡翠の前で。
「なに?」
由香の眼が今度こそ疑念に包まれ硬直した。
「馬鹿な。そんな、どうして。お前一体?」
翡翠の目線は、その問に答える物だったろうか。冷徹に獲物を追い詰める感情のない瞳。
この異変を知って驚きもせず、今の由香を見つめて怖れもせず、己の意図の理解も求めず。
彼女が静かに由香に語りかけるのは、
「被り物を脱ぐが良い。終りの時だ」
「な、何を、云っている。被り物、だと…」
翡翠は一体、何を云っているのだ。
細く長い足が、脇で見守る理恵の心配そうな視界の中で一歩踏み出した、その時だった。
「コラ! 全員静かに、大人しくするんだ」
事情の分らなさそうな、男の怒声が聞える。
「逃げるな! 抵抗は止めなさい」
方角は同じだが、さっきとは別の男の声だ。まだ距離は少し遠い。公園の外から近付い
て来る感じだ。しかし、かなりの多人数である。
後で分る話だが彼らは十数人の警官だった。この公園で女子高校生の集団が乱闘中だと
いう通報が、少し年少らしい女子の声であって、急遽駆けつけたと云う。
「チッ……!」
由香の応対は早かった。己が全てを支配した筈なのに、状況を把握できてない苛立ちは
あるが、このまま座して待つのは愚であろう。
この変転を受け、周囲の異変にも変化が…。
淡い白色の輝きが瞬時に消えて、公園が唯の夜を取り戻す。言葉に尽せぬ異様な雰囲気
や奇妙に澱んだ空気の匂いも、急速に消失し。由香の気分一つで動かされ蠢いていた者達
が、糸の切れた操り人形の様に倒れ伏して停止し。
忌々しげに顔を歪めて由香は、翡翠に向い、
「……その面は忘れないよ。憶えていな!」
公園の闇に走り去る。それも人の動きとは思えぬ程に素早かったが、感心している場合
ではない。脅威はこの場にいた者全てに襲い掛るのだ。理恵や翡翠が無関係だと言い張っ
ても、例え事実がそうでも、面倒事になるに決まっている。なら、この場は逃げるが一番。
由香の周囲にいた少女達は未だ呆けている。酔いは酒類摂取を止めても暫く続くのだろ
う。
由香には彼女達は仲間ではなく弄ぶ対象だから、見捨てて当然と云うより、悪意に見捨
てて警察に引き渡したという方が至当なのか。だが理恵は卓を置き去りにする訳には行か
ぬ。
叩き起してでもここから脱出させなければ。
理恵の稲妻の様な平手打ちが卓の頬に炸裂したのは、これで通算二回目になる。
「お、おれ……?」
幸い卓は未だ『酒量』が少なかったらしい。
頭をぶるんぶるん振って意識を取り戻すと、ゆっくり立ち上がる。理恵は状況説明を後
回しにして卓を促す。さっき迄の奇妙な状況を憶えているのかいないのか、卓はやや頼り
ない足取りで芝生の闇に消え。理恵も急がねば。
「……邪魔が入ったか……」
翡翠は冷やかに呟くだけで動く気配もない。対処の術があるのか、警官を怖れてないの
か。
足音が近付いてくる。再び闇に閉ざされた公園の中で、懐中電灯を手にしたその接近は、
見え隠れして。状況は非常に拙い。
理恵は、翡翠にも状況説明の時間はないと、
「ひ……佐々木さん、逃げるよッ。こっち」
人が変えた状況なら、理恵にも対処はある。物に動じぬと云うより鈍感なのではないか
と疑いつつ、理恵は左手で翡翠の左手を掴むと、
「捕まっちゃったら、面倒そうだからね…」
同意を得ぬ内に引っ張って、警官隊の来るのとは反対側に駆け出す。卓が消えた方角だ。
取り残された十数人の女子が、正気を取り戻したのはそれから間もなく、警官隊に組み
敷かれてからの事だった。そちらに目がいってくれた故に、理恵も卓も逃走に成功出来た。
昨日は、有り難う。
理恵は翡翠が己を救ったと思っている様だ。
「ひ……佐々木さん。昨日の事で、少し話をしたいんだけど、時間借りちゃって良い?」
構わないが。翡翠は常の、冷やかな語調で、
「少し、後にして貰えるか」
二時間目が終った後で、全くその話を切り出す様子の見えぬ翡翠に理恵は、自ら話を持
ちかけてみた。別に、待っていた訳ではない。
理恵は腹の探り合い等不得意だし、元々その積りもない。内容が周囲に聞えて拙いかと
気遣っただけで、昨日の事については一度話をせねば、自分が収まらない事を分っている。
「うん……」
だが翡翠の答は平静というより冷淡に近く、昨日の全てを無視する様だ。今も、理恵の
話題を避けている様に聞える。後でと云う言葉が本当に後で話すと云う事なのか。或い
は?
理恵は言葉を額面通りに受け取る事にした。
「じゃあ、昼休みにねっ」
「それ迄に、手が空けば」
トイレに去る理恵と話に応じていた翡翠に向く級友の目線には、興味本位な瞬きがある。
転入二日目になる佐々木翡翠の評判は、今の所余り良くないとの辺りに落ち着いていた。
第一印象の端正な容貌と年齢不相応な落ち着きが、多くの女子に冷淡だと不評を招いた
のだ。しかもその同じ要素が、クラス横断的に男子を動かした事が、事態を複雑にした。
それは翡翠の罪ではないが、翡翠の所為と云う事にはなるのか。校内女子の想い人だっ
た数人の男子が接近を試みた辺りで、女子には微妙な競争意識や嫉妬が交錯し、翡翠忌避
の雰囲気が生じ始めて。直接関連がなくても、わざわざ火中の栗を拾いに出る者はいまい。
元々人付き合いを好みそうになく、冷やかにぶっきらぼうな応対をする翡翠は、取っ付
きにくくて近寄り難い存在だと、映った様だ。
それを後ろめたさもなく、気にもせず。
人の輪に溶け込む事を明言して拒否はしないが、転入して来た者は普通そうすべきだと
の周囲の視線にも一向に動じずマイペースで。
それで異性の興味を引立てれば、同性には良く思われなくて当然なのか。必ずしも当人
ばかりが悪い訳でもないが、人間関係の亀裂や摩擦は、善悪の問題と関りなく生じる物だ。
奇妙な展開を見せたのは実はこの後である。
翡翠が美男子系の誘いを門前払いに近い形で断ると、男子の間ではその熱が急速に冷め。
彼らで駄目なのだと云う大多数の者の諦めと、自負を持っていた当人達の憤りや失望で、
綺麗だけれども好めない奴との見方が広がって。
翡翠は近くに人が詰め掛ける状況が、余り好みではないらしい。静けさを好むといえば
それ迄だが、人付き合いは巧そうではない…。
異性に離れられれば同性に好かれるかと思えば、そうならないのが人間心理の微妙さだ。
憧れの男子を冷たくあしらい、傷つけた仇敵の印象が、前の悪印象にプラスされ。
今では話しかける者も殆どいない。彼女が端正な美貌と長身でバランスの取れた肢体の
持ち主だと云う事は認めざるを得ない。だが、それと好悪の感情とは別物らしい。
席が近い長谷川理恵を唯一例外に、他の者は翡翠との接触を避け。翡翠も自ら話し掛け
るタイプでないのと、妙に勘が良くて校内案内も不要な為、静々粛々と時間を過ごし行く。
午前の授業が全て終り、昼休みに入った十二時半過ぎ。孤独を淋しいと思う感覚もない
のか、平静とも平然ともつかぬ感じで軽い昼食を終らせた翡翠のいる教室には、
「あいつだよ、気に食わないのは」
「あの髪が長く、鋭い眼のかい?」
耳に囁き掛ける美香に、和美は確認を取る。
美香と早百合はこのクラスの面々だが、和美や江里香達は違う。教室の出入口で、それぞ
れ本人に気付かれぬ様に翡翠の顔を確かめて。
「あんた達は待ってな。呼び出しに行くのは、私と美香と早百合で良い」
和美の視線が心持ちきつくなる。闘いや狩りをする時に、人は緊張する物だ。大きな危
険を伴う事のない、多人数対一人の狩りでも。
和美は即決を下すと、他の者の動きを確かめず教室内へ踏み込んでいく。自分の云った
通りに事が動くと疑わぬ。それはメンバーへの信頼と云うより、自分の指導力への信頼だ。
決断すると時を置かずに動くので、周囲の者達は後に続く形になる。和美が普段殊更仲
間達を引き連れる訳でもないのに、そう見られ易いのは、こう云う時の印象が強い為だ…。
教室を平然と歩んで、翡翠の机のすぐ傍迄行くと、その机に軽く手を置いて注意を引き、
「佐々木翡翠サン。転入生、ね……」
何の力みもない自然な語調で、語りかける。
だがその姿勢は座した翡翠を見下ろす感じで、逃がさないと云う意志の力が込められてい
た。
翡翠が和美の声に反応し、首を向けるのに、
「少し、付き合ってくれないかしら。
時間は、余り取らせないから……」
美香と早百合はまだ口を挟まない。段階と順序を間違えると、和美の機嫌を損う事を彼
女達も知っているのだ。後ろから顔を覗かせ、和美が一人ではない事を、示すだけに止め
る。
「……」
この時の翡翠の表情をどう表現するべきなのか。待っていたとも、予測できていたとも、
どんな事態になっても対処できるとも、そのどれでもある全てを察した様に不敵な無表情。
和美達の意志を察したのか、翡翠は招きに応える形で席を立った。翡翠が立つと、百六
十五センチ弱の和美は少し見上げる形になる。
ここ迄全く彼女が無言なのが気に入らぬが、どこへでも応じるとの意志表明と受け取れ
る。逃げるなら、ここで強硬に嫌がるべきなのだ。和美はそれだけを心配していたと云っ
て良い。
だから、翡翠のこの行動はその真意がどうであっても、和美達には応諾となる。嫌がら
ない以上他の生徒達にも介入する理由はない。
「物分りが良くて、助かるわ。こっちよ」
和美に先導され、美香と早百合に背後を固められ、翡翠が『連行』されたのは、体育館
の裏側だった。角度的に職員室や他の教室から死角で、和美達の学校での溜り場でもある。
他の者は和美に睨まれる怖さを知っている。彼女の存在は、進学就職を前にもめ事を嫌
う上級生にも先行き長い下級生にも大きかった。
じっくりと翡翠に注目できる条件は整った。
「私達の招きに応じてくれて、有難う」
「……」
向き直った和美の白々しい謝辞にも、翡翠は言葉を返さなかった。初対面で突如の呼び
出しは不躾だが、相手の言葉の完全無視も非礼だろう。挑発と取られても仕方ない応対だ。
待機していた江里香達を合わせ、その陣容は十人を超える。昨夜公園にいた面々もいる。
和美が自分の前髪をたくし上げながら、
「ちょっと、悪い噂を耳に入れたんでね…」
この言葉を合図に、周囲の女子が手筈通り配置に動く。一人が見張りに立ち、江里香が
和美の隣に立つ他は、翡翠を中心に全員が囲い込む形になる。これで逃げ場は、塞がれた。
ショートカットに少し厳つい容貌と太い唇、鷹の目線は余り綺麗とは云えぬ。隣に立つ
江里香はロングヘアで僅かに背が高いが、儚げな顔立ちを目線の鋭さが打ち消して勝ち気
だ。
「応えて貰えないかしら、佐々木翡翠サン」
和美の声には若干の疑念がある。この形勢で翡翠は落ち着きすぎなのだ。その不安のな
さが気に入らぬ。一人で多数に対峙を強いられる、不安・孤独・怖れと云った物が見えぬ。
これは刑事が取り調べ等で使う手法に近い。相手の逃げ道を塞ぎ、孤立と不安で精神的
に追い込む戦略なのだが。それが効いてない?
切れ長の怜悧な双眸が黒く瞬いて、次の行動を待っている。主導権は表向き和美にある
様だが、翡翠は十分な余裕と見通しを持って、機を窺っている。決して無力な小羊ではな
い。
雰囲気が奇妙だ。釈迦の掌の上で踊る錯覚。絶対有利を信じる他の者には分りもしない
が、江里香は和美の微かな苛立ちを感付いた様だ。
和美の行動が躊躇するのを見、江里香が代行として目配せで行動を促す。儀式の始りだ。
「あんた少し生意気すぎるんだよ」
「貴女の行動は、私達の秩序を乱したの!」
「葛城や小瀬を誘惑し、たらし込んでっ!」
周囲の女子達の弾劾が始った。怒声で相手を震え上がらせ、許すも許さないもお前の出
方次第だと、選択肢を残しつつ、追い詰める。
翡翠は何も応えない。それを、震えて何も云えないのだと、彼女達は一層強く周囲から、
「そのうえお前、葛城や小瀬をあっさり振ってしまっただろ。みんなの前で、無神経に」
「あの二人に憧れている女子の気持、考えた事があるのかよ。自分勝手に誘惑しといて」
「あんたの冷たい言動で、校内の多くの人間が傷ついたんだよ! どうしてくれるんだ」
彼女達の中にも、ルックスの良い小瀬や活発な葛城に仄かな恋心を抱く者はいたらしい。
望んでも、手を伸ばす事さえ躊躇っていた高値の花を、いきなりやってきて踏み躙られた。
その想いは、正邪を超えて憎悪と化して、
「いきなりやってきて挨拶も為しに、良くやってくれるじゃないかよ」
「ちょっと顔が綺麗だからって、何でも許されると思っているのかい」
集団心理が彼女達の行動を過激に導く。自分達が多数である事・相手が一人である事が、
どんな行いも許すと思って。翡翠の無反応が何をしても大丈夫との印象を、補強している。
史恵が後ろから翡翠の肩を掴む。だがその瞬間宙に舞ったのは、史恵の大柄な体だった。
翡翠は無言の侭、肩を左から掴んできた彼女の右手を捻り、同時に足払いをかけて態勢
を崩し、しゃがみこむ動きの中でその勢いも使いつつ、左腕一本で彼女を投げ落したのだ。
素人業とは思えない流麗な動作に、地上五十センチで一回転させられたその身体は、尻
から地面に叩き落されて、茫然と座り込んで。
突進し掛っていた皆の動きが思わず止まる。
ただ投げ飛ばすだけではない。頭から落して怪我をさせない様に、一回転させて尻から落
してやったのだ。手加減できる余裕がある…。
その俊敏さも、瞬発力も、気概も、余裕も、今迄彼踏み潰してきた無抵抗な小羊とは違
う。
「挨拶もなしにと、云うけれど……」
漸く開いた翡翠の口振りは、怒りとか鋭さとかよりむしろ冷やかで、爽やかで、
「……私は、貴女達の名前も聞いてないが」
翡翠を所用で呼び出すなら、名乗るべきなのも挨拶するべきなのも、己からではないと。
投げ飛ばす動きの中でしゃがみこんでいた翡翠の、立ち上がるだけの行動に、周囲の女
子達が思わず一歩引いて距離を取る。その間合いでは何かをされた時に、有効に対処でき
ないと、皆が一様に気圧されたのか。
逆に云うと、全員にそうと感じ取らせる翡翠の何かが、並ではなかった事を示している。
威厳・気迫・殺気? どれでもない。
あえて云うなら、動きだす前の獣の闘志か。
「は、話を逸らせるな!」
「こっちが問題にしているのは昨日の話だ」
「史恵を痛め付けやがって。許さねぇ」
その罵声にも、主導権を奪われて取り戻そうとの焦りが窺える。集団に一人で対峙して、
翡翠は主導権を簡単に奪った。しかもそれを再度失っては拙い、困ると云う姿勢でもない。
例え再度場の主導権を失っても、いつでも自分の好きな時に取り返せる。余裕と自信が
確固としてあって。和美の視線が険しく変る。
翡翠には彼女達の動き等どうでも良かった。彼女達に囲まれた状況も、その弾劾の内容
も、その本心も、興味の対象外だ。翡翠は静かに、
「そんな事は、どうでも良い」
男言葉で低く平静な声音で、
「私にとって大事なのは、貴女達が私には手を出せないと、校内全体に知れ渡る事で、余
計な者が寄り付かなくなる、その結果だけ」
怜悧な黒い双眸は周囲の誰をも向いてない。
敢て云うなら正面に少し離れて立つ江里香と和美の方向だが、それは彼女達を注視・凝視
するとかでなく、唯茫漠と眺めているだけで。
それは怖れて視線を外すと云うのではなく、正視する値のある相手がこの場にいないと
の、軽侮の一種だ。昨夜由香にみせた、あの様な。
「こいつ……!」
江里香が思わず、してやられたと云う呻き声をあげた。翡翠は無目的に誘われてきたの
ではない。唯のこのこやってきた訳ではない。
翡翠は自分の目的で動いている。偶々必要な舞台設定が備わっていたから、便乗したに
過ぎぬのだ。更に云うなら、彼女達の目論見・力量や気概等、何も脅威には思っていない。
「さっさと終らせてしまいたい。そちらから来ないなら、こちらから適当に仕掛けるが」
翡翠に必要なのは結果だけだ。彼女達が苦もなく翡翠に捻られて、もう手が出せないと、
校内に知れ渡る程度の損失を負わせれば良い。
だがその思考発想に、どれ程の傲岸さが要る事か。淡々としてはいるが、只者ではない。
攻め倦んだ様に対峙し続ける彼女達は、
「て、てめぇ。ふざけやがって」
「なめてんじゃねぇ。この野郎」
強気そうな怒声は出すが、実情は一人に気圧されている。幾ら吠えたてても、巨大な岩
盤に砕け散る波で、全然効いていないと分る。
熊に対して猟犬が吠え掛る様な物で、吠えて熊の存在の巨大さを伝える他に何も出来ぬ。
人を畏怖させては楽しんできた彼女達には、屈辱に近い展開だ。身体を掴んで、組み伏
せ、学校に顔を出せない屈辱を与えてやろうと意気込んでいた美香や早百合は、耐え切れ
ずに、
「うわあぁっ」
「おおうおぉ」
飛び掛るが、翡翠はそれを求め誘って威圧したのだ。彼女達が主導権を掴んだのではな
い。攻撃をさせられた、暴発を誘われたのだ。
左斜め後から飛び掛って来た美香を、身体を僅かに捻って躱し、その右肩を左腕で軽く
後ろから突く。ほぼ同時に右斜め前から組みついて来る早百合には、自ら一歩前に出て、
すれ違う態勢になってから、その背を突いて。
美香や早百合の勢いを、止めるのではなく、微妙に逸らせる感じで受け流し、掴ませな
い。
「きゃっ!」
「ひっっ!」
和美も含む全ての者が瞠目し、黙り込んだ。
美香も早百合も、己の勢いの故に自滅的に倒れ込んだ形だ。相手にされなかったに近い。
追い打ちをせぬのは、外の者への警戒より、彼女達が皆敵ではない、いつでも打ち倒せ
る、起き上るのを放置して良いとの姿勢の表明で。
『こいつ、只者じゃない……』
翡翠の身体に、触れる事さえ出来なかった。
彼女達を怪我させない様に、手加減できた。
それは途方もない技量の懸隔を意味している。
少々気が強い位の素人に過ぎない面々では、手に負えない。素人と玄人、否素人と達人
の違いがある。それこそ、本気で武道でも学んでなければ、翡翠に対抗する事など覚束な
い。
さっきの気配にしても、豪胆とさえ云える言辞にしても、今の動きにしても、決して飾
りでも虚構でもない。一本の線で繋っている。
【翡翠に下手に手を出せば、痛い目を見る】
正体等知る必要はない。兎が虎の牙の鋭さを知らずに逃げるのと同様、和美達は翡翠の
存在を知り、余計な手出しを控えれば良いと。
緊張が彼女達の間を走り抜けた。翡翠は只者ではない。一人や二人では勝てそうにない。
それでも闘いを挑むのか、引くのか。その判断を求めて、彼女達の注意は和美にも向く。
勝とうとするなら全員攻撃、さもなくば退散。
和美は無言のまま翡翠を凝視するが、翡翠は正面にも関らず、視線を感じないかの様に
冷淡な無表情で、氷結した印象をさえ与えて。
その目は和美の方を向くが、その瞳は和美を視界に捉えてない。完全に無視している?
或いは、自分の優位を信じ切った上で、事の早い決着を望んで、挑発しているのか。
両者の間に、次の状況が読めない緊張感が漂う。もしかしたら緊張感は和美達だけの物
で、翡翠はそう感じてないのかも知れないが。
事態を一変させたのは、一つの男声だった。
「こら、紀村(和美)、岡本(江里香)。
こんな所で、何をしているんだ……!」
佐藤教諭の若い声が、緊迫感を打ち壊す。
誰かが事態を通報したのか。職員室のみならず他の殆どの部屋からも見えぬこの一角に、
わざわざ教諭が走り来る事は不自然だ。だが、
「行くよ……。覚えて置きな!」
どちらが急変を望んでいたかは、対処の速さの違いで明白だ。和美は負けに傾く状況を、
負けではなく水入り引分けで戦場離脱できる。
投げ飛ばされた史恵も、転ばされた早百合も美香も、他の者達の敏速な撤収も、素晴ら
しい速さで散って。教諭がその場に着いた時には、翡翠が一人残されていただけだった。
翡翠がその場を逃げ出さず、教諭に招かれる侭職員室に行ったのは、彼女にその意味が
薄いからだ。和美達は札付きのワルだ。最初から逃げる方が良いのは明瞭だったのだ。
この場を逃げ切れば、後々に前の案件を一々穿り返さないと云う、不文律が出来ている。
昔の悪事を掘り返したら切りがないと云う事情もあるが、教諭の側に和美達に真剣にぶつ
かってその更正を促す気がない傍証でもある。
逃げ切ればほとぼりが冷めるのを待つだけで良く、捕まれば現行犯で形通りに叱られる。
和美達がその場逃れに熱心になるのも当然か。
だが転入したての翡翠の扱いは、今迄の所普通の生徒で、逃げても後で呼ばれて事情を
尋ねられる可能性は多分にあったし、少なくとも彼女の側に叱られる非はない筈だ。
教諭に見付かって助かった顔を見せる筈が、有難そうでもないのに、教諭が少し戸惑っ
た。彼は、翡翠が美香達を退ける瞬間は見てない。
囲まれて怯え、泣き叫ぶ生徒や竦み上がる生徒の前に、遅すぎで登場した事も多い彼に
とって、この状況は違和感伴う物だったろう。
何もなかったと、和美達が口裏を合わせるのならともかく、被害者にあたる筈の翡翠が、
何の怯えもなく隠しもなく、それで大した事でないと、あった事実を認めた上で軽視して。
職員室内の他の教諭達も、言葉を荒立てたりする訳でもないのに微妙にすれ違う生徒と
教師の認識に、不思議そうな顔色を見せる。
翡翠の感覚は、彼女達に囲まれて教諭に救い出された者の出す、雰囲気や語調ではない。
「クラスに、巧く溶け込めてない様だが…」
「はい」
教師の応対と云う物は、いつも裁定者の立場を取る以上、足して二で割った結論が多い。
どちらかが明らかに非がなく正しい場合でも、それを認めず双方を諭す。そう言う形を好
む。
和美達の行いを遺憾としつつ、翡翠の可愛げのなさをも指摘し。和美達は逃げ去ったの
で、後で注意すると教諭は云うが、云う事を聞く奴らじゃないと云う諦めが、見え隠れし。
「女子から浮き上っている様だし、男子とはまともに言葉も交してないそうじゃないか」
「はい」
人の御意見は、聞きそうにない者より聴いてくれそうな者に多く発される。転入早々で、
その人となりを知られてない翡翠は、元々和美達より云い易い相手と云う事もあったのか。
「もう少し、人の和に合せる配慮が要るな」
「はい」
大人に反発しないのは、それが却って面倒を招くと云う計算か。翡翠は教諭の諭しには
反発したり、皮肉ったり、無視したりしない。
しないがそれは表面上で、話だけは聞くが、聞き流すと云う姿勢が透けて見える。それ
は、そう見せたいと翡翠が望んだと云う事の様だ。
転入生に、郷に入れば郷に従えと云う感じの説諭をする佐藤教諭も、翡翠の慇懃無礼な
姿勢に感付いた模様で、途中から急に言葉の調子が弱くなる。諦めが異様に早いのは、彼
の特性なのか、昨今の学校教諭の特徴なのか。
だが、この善意は後ろ向きで、弱い者に分を知って生きろと云う諭しに過ぎぬ。和美達
を抑えるとか説得する等の方向には動かない。
「先生の云いたい事は、分ってくれたかな」
「はい」
分っても、聞き入れる用意が翡翠にないと踏んだ教諭の問いに、翡翠は表向きは柔和に、
その底には教諭の裏の読み迄も肯定して頷く。
翡翠は、自分で泥を被る覚悟のない誰かの助力や善意を期待する程に甘くはない。そこ
迄透徹してなくても、大人の行動を伴わない善意を信じ頼る程、昨今の子供達は甘くない。
この教諭が、悪人ではないが頼りにならぬ、己の授業をこなすだけの日課教師と陰口を
叩かれるのも、理由のない事ではない。
時に容赦ない冷徹さを見せる翡翠だが、この類の役に立たぬ善意を煙たがり、距離を置
く行いは、この学校の生徒に一般的な対応で、彼女の特別な鋭敏さを物語る所作とは云え
ぬ。
「……今後は、気をつける様に」
具体策を示さぬ言葉での説諭から既に、教諭は翡翠の身を気遣ってないと分る。彼が気
になるのは職員室内にいる同僚の視線の方だ。
そうと分れば普通なら、ふざけるなと反撥するか、落胆し無言で職員室を出る所だろう。
しかし翡翠はそんな大人の保身を平然と受け流し、微塵も心揺らす事なく己の行動を為す。
「ところで、先生。職員室にこの事を伝えにきたのは、長谷川(理恵)さんですか?」
翡翠の危険を通報する事は、翡翠と同様和美達に狙われる危険を被る事にも繋りかねぬ。
校内でその危険を侵す程翡翠に好意的なのは、まだ話し掛けてくるお人好しな理恵位だ。
否、理恵とて翡翠と長い時をかけて友情を育んだ訳ではない。彼女は皆に好意的なだけで、
翡翠を気遣って職員室に駆け込む程の関係なのかどうかは疑問だが。しかし、
「いや、違う」
教諭の答えは意外と云うべきなのか、或いは予測された答えだったと、云うべきなのか。
「下級生だったな、確か。見かけない顔だったが、一年に転入生が入ったって話だから」
運が良かったな。関係ない者に助けられて。
やや冷淡な教諭の言葉は既に、翡翠の心に届いてない。彼女はもう職員室を出る態勢で。
「失礼しました」
向き直って職員室の引き戸を閉める。最後の最後迄年長者への礼を失わず、それであり
ながら最低限の礼を守るだけで、敬意さえ見せ掛けと、そう示す。慇懃無礼とはこの事か。
だが、翡翠の姿勢が一変するのはむしろこの直後である。既に五時限目に入り、教諭達
の多くが各教室に出向いて職員室も半ば空き、人の出入りもやや少なくなったこの時間帯
に。
職員室の引き戸を締め終り、多くの人の意識から、戸板一枚だが隔てられた瞬間、猫を
被っていた翡翠の本性が顕になる。それは…。
「余計な通報をしてくれたのは、貴女か?」
引き戸を締め終った態勢のまま、後ろも見ずに翡翠がそう問い掛ける。その語調は大人
や他の者の前で装っている冷淡な感じでなく、刃の鋭さで相手を圧する気合に満ち全然違
う。
後ろを見せているがその気配は臨戦態勢だ。振り向かないのは居合いの達人が刀を抜か
ないのと同じで、油断とも立ち竦むのとも違う。
その闘志に近い威嚇は、和美達の時の比ではない。やはりあれも本気ではなかったのか。
だが、同時にこの凄じい威圧は、本気で威圧しなければならない相手に翡翠が対峙して
いると云う事をも、示しているのだろうか?
「貴女の窮状を察知して助けてあげたのよ」
この緊迫状況を作り上げる為に、余人を遠ざけたのかと思える程誰もおらず、誰の声も
届かぬ静寂の廊下で、翡翠の真後ろに声を返してきたのは、意外にも幼い程の女声だった。
廊下の幅はそんなに広くない。端と端でも五メートルは超えぬだろう。その至近距離で、
「感謝されても、罰は当らないと思うけど」
端正な顔つきの童女である。翡翠と同様この学校の制服を着てはいるが、年の頃が十三、
四にしか見えぬのだ。高校生の装いはしても、背伸びした印象がある。背が低いだけでな
い。その身体つきも容貌も、未だ子供の物なのだ。
可憐と云って良いその容貌には、世間を生きる人間に抜き難く付き纏う俗っぽさがなく、
純化されて今時の高校生らしくない。一年生と云われれば、そうかも知れないと思うが…。
童女の方は、超然と云うか生意気というか、翡翠が己の実体を把握していると云う事さ
え考慮の内だと云う姿勢だが、翡翠のこの気配・雰囲気に、平然と言葉を返せるその神経
は、見かけの年齢に見合う物では決してない。
黒く深い瞳、背の半ば迄届く艶やかな黒髪、身長は一メートル五十センチに至るかどう
か。その身体つきは華奢だが、その故に身軽そうな印象も受け。腰骨の辺り等、細過ぎる
位だ。
翡翠が健康な女子の肉体で、太くないにも関らず、彼女に比べると太めに見える程である。
「私の目論見を砕く目的で、あの場に助けを呼び込んだ事に、礼を述べるべきなのかな」
まだ振り返らず後ろの気配に向けて云う翡翠の真意は、相手の娘も分り切った話だった。
翡翠の真意は、和美達の誘いに乗った形で、逆に和美達に恥をかかせる惨敗を強い、二
度と自分に手出しさせない様に、する事だった。
人との関連をできるだけ避ける。それが翡翠の基本姿勢だった。篤い友情を望まないの
も、友との関りで己の自由が制約される為だ。
翡翠にとって己の行動を付け回され詮索される事は行動の自由を半分縛られる事に繋る。
好意にせよ悪意にせよ、注目され身動き出来なくなる状況は避けたかった。その為には、
誰とも親しくならず無関心に置かれるべきだ。
後は強く反発する者がいれば、喧嘩を買ってでも力と気概で黙らせる。完膚なき迄に粉
砕されれば、多くの者は忌避に出る。それでも尚立ち向おうとする勇者は、そう多くない。
苛めで執拗に付け狙われるのは、苛められる者が自ら孤独に踏みだす強さを持てない為、
本当の孤立を怖れる弱さに付け込まれる為だ。それを本人の欠点と云うのは酷だが、苛め
る側はその淡い善良さに付け込む汚さを備える。
翡翠は偶々その弱さと無縁だった。一人で集団に対峙する力と意志と業を持ってもいた。
それでも尚、校内の誰とも分り合う必要はないと迄思い切れたが故に、こうして遠慮のな
い反撃に出て、相手を黙らせる蛮勇を見せた。
だが、人の事情は千差万別だ。この行いも、決して誰にでも勧められる対処とは云いえ
ぬ。
翡翠は和美達を木っ端微塵に粉砕し、それが校内の噂になる事迄見込み、誰もが翡翠と
積極的に関りを望まぬ状況を、目論んでいた。善意で寄り付く者も怖れ、悪意で付け狙う
者も手出しは出来ないと諦めさせる。ところが。
童女の『助け船』によって、翡翠の目論見は実質破綻した。これは善意の通報ではない。
その効果を狙った策動である。
第一に、和美達との確執は未決着だ。歯が立たずに敗れ去るのでなく、教諭の登場で一
時停戦の現状では、和美達の蠢動は終らない。
和美達も完敗ではないので、屈辱感と勝利への希望が残っていて、終るに終れぬ。これ
では再度対決の場を設定しなければ、事は収まらないだろう。図った様に中途半端なのだ。
第二に、それ迄の間翡翠はその動静を和美達以上に、級友達の心配或いは好奇心による
『二重の監視下』に置かれる。苛めなら、或いは勝って孤高を守るなら無関心でも済むが、
引き続く抗争はどうしても野次馬が着目する。
第三に、教諭を引っ張り出す事で職員室が翡翠を覚えてしまう。それも、和美達と巧く
行ってない生徒として。それ迄の普通の生徒を見る目より、注目されるのは当り前だろう。
翡翠の行動を縛る為に、これだけ人間を掻き回すとは。正に最小の労力で最大の効果だ。
「今貴女に動かれると、非常に拙いから」
既にお分りだろう。昨晩翡翠がいたあの公園に警官を招く通報を行なったのが誰なのか。
翡翠とこの娘は、あの公園の何かを巡って対峙している。互いの力量を認め合い、その
底力と覚悟を量りかね、競合する立場から牽制し合って。彼女達があの公園に何を求めて
いるのかは、この会話からは未だ窺えないが。
だがこれは、逆にこの娘が翡翠を威圧していた事も示す。娘が翡翠を警戒した様に、翡
翠も彼女を警戒した故に行動を思い止まった。
翡翠は警官等怖れてない。幾らでも人を騙し、思い込みの淵に誘い込む手段はある。問
題は、それに横から妨害があるか否かなのだ。
昨晩も事情を知らぬ理恵が無理矢理手を引っ張るのを拒まず退いたのは、警官と理恵の
狭間にこの童女が介在する畏れを考えた為で。
娘は威圧されたと被害者・弱者を装ってみせるが、翡翠は表面的な華奢さに騙されない。
翡翠の存在感に、気配に劣ってない。翡翠の気配は、確かに常人の出せる物ではなかっ
たが。その威圧を受け流す様に、華奢な娘は翡翠に全く気圧された様子もなく佇んでいて。
二人の間を遮る物は何もない。背を向けた翡翠に少女が話し掛けている、一見何の不思
議もない情景だが、周囲が異様に張り詰めて、人っ子一人いないのは偶然なのか作為なの
か。
「分り切った問答をする為に、私の前に顕れた訳でもあるまい。用件を、述べて貰おう」
娘は翡翠を衆目の注視に置くと云う目的を既に達している。敢て姿を現すのは、翡翠に
直接伝えねばならない何かが別にあるからだ。
男言葉の実務的な問い掛けに、
「私は沙紀。今となっては、護るべき何物をも持たぬ、落ちぶれた【もの】だけれど…」
娘は翡翠に自ら名乗った上で、
「この一件では、私は貴女より関りが深い」
沙紀は翡翠に、あの公園での何かにおける優先権を主張したのだ。理由は述べずとも二
人の間では分る事だからと、詳細は云わぬが、
「貴女は少しの間(沙紀の策動で)、大きな動きは出来ないでしょう。黙って見ていて…」
これは要請であり威嚇であり、宣告であり警告でもある。そのどれでもあり、どれでも
ないと言い逃れられる曖昧さは秀逸と云える。 沙紀は交渉で、翡翠の動きの封じ込めを
試みたのだ。その発想は唯の子供の物ではない。
だが、翡翠も又簡単にその網に縛られる存在ではなかった。この位の絡み等片手間で引
き千切る膨大な潜在力を、沙紀も感じていた。故に沙紀は自ら姿を現して対峙を選んだの
か。
英雄は英雄を知り、智者は智者を知る。
沙紀と翡翠は全く違う物の様だが、人にあらざる者と云う点では、むしろ類似点が多い。
翡翠は既定の答えの様に、余り考えもせず、
「断ると云ったら?」
「その時に考えるわ」
逆問に沙紀はあっさり答えるが、その内実は高等だ。翡翠は仮定の逆問で沙紀に、お前
は報復・或いは対抗手段を取るのか・取れるのか、更に自分を敵に回す覚悟があるのかと、
問い質したのだ。これは宣戦布告の一歩手前である。挑発と見られておかしくない言動だ。
それに対し、沙紀はどんな報復をするとかどんな覚悟で妨害・対抗するか等の手の内を
一切見せず、己はフリーハンドを保った侭で、和戦両様の構えから選択を迫ってきた翡翠
に、尚和戦両様の侭『ボールを投げ返した』のだ。選択を迫られたのは、再度翡翠の側に
なった。
子供の問答ではない。器は子供でも彼らは老獪と言える哄笑を展開して平然としている。
「……私は翡翠。神でも、魔でも、人でもない者。故にその行動は、神にも、魔にも、人
にも縛られる必要はない……」
翡翠が名乗るのは実はこの学校で初めてだ。転入生紹介の時は教諭が黒板に名を書いて
読み上げ、彼女自身は型通り『宜しく』を云っただけで。以降も彼女は人の輪に入る事、
入れられる事を避けた為、名乗る必要がなくて。
それが、この真性に脅威な存在に名を告げるとは。親しんで欲しくて告げるのではない。
武者が戦場で敵に名乗りを上げるのに近しい。
翡翠は沙紀の要請を容れなかった。それも正面からの拒絶ではなく、己の生き方の再確
認の形を取って間接に表明する辺りが、微妙に違う。これは、沙紀への宣戦布告に直接繋
らない形を選んだのか。沙紀の優先権は認めないが、己が優先権を持つと述べてもいない。
沙紀の縛りは受けないが、沙紀の行動を妨害する意志もない。沙紀との対決が主目的で
ない翡翠は、関り合わずに終れれば良いのか。
今正面から拒絶すれば、今両者の直接対決になりかねない。だが翡翠には、沙紀の要請
を容れる意志も、そう装う意志さえなかった。
己の行動しか考えない翡翠の独特な性格もあるが、このレベルの者の間では口先での騙
しは通用しないと云う判断でもあるのだろう。
沙紀は翡翠の介入を懸念しているのだ。懸念する者を安心させる嘘は並大抵では通せぬ。
下手をすると、ばれる嘘と云う結果を残す…。
翡翠は沙紀が妨害をするなら受けて立つし、沙紀の優先権は認めないが、己の優先権主
張もなく、いつ行動に出るかも明言せず。己の意志は隠さぬが、こちらも巧妙に和戦両様
で。
翡翠は尚も、後ろを振り返る様子を見せず、
「私には貴女の意思はどうでも良い。私にとって大事なのは、貴女がここで私の排除を望
んでいるのかいないのか、その判断だけだ」
翡翠の気配が、更に強く濃密になっているのが素人目にも分る。対峙していた沙紀の存
在感が、釣り合わなくなる程に。更に大きく。
威厳・気迫・殺気。その、どれでもない。
あえて云うなら、動きだす前の獣の闘志か。
沙紀の動きも、翡翠の動きを制約し妨害する物でない限り彼女には関りのない事らしい。
故に沙紀の抱える事情等翡翠には関心の外で。
翡翠に問題なのは、沙紀が彼女の前に立ちはだかるか否かだけだ。和戦両様とは、戦う
覚悟がある者にのみ為せる言動である。
先程の早百合や美香に加えた威圧と同等で、闘志を持って戦うか否かを相手に迫る感じ
だ。 怜悧な黒い双眸は、目の前の職員室の引き戸等見てはいない。背後の沙紀に意識が
集中し、圧倒しようと試みているのが分る。
沙紀の黒い双眸が心持ち険しくなった。
翡翠は沙紀の出現を待っていたのだ。和美達の誘いに意図あって乗った様に、沙紀の登
場も逆用して直接面談し、和戦の決断を迫る。これが翡翠の目論見だったのだ。それは相
手の懐に踏み込んで正体を暴く危険な手法だが。
相手の懐に入り、本音と実力を見て話を付け、事を決する。危険は伴うが有効な手法だ。
翡翠には、沙紀の注視も面倒だった。否沙紀こそが最大の不確定要素であり、唯一の脅
威だったのかも知れぬ。他の者達は所詮人だ。予防線を張っているが、本当の脅威ではな
い。
流石に和美達とは相手が違うが、この場で決着を付ける力が己にあるとの認識は同じで、
「さっさと終らせたい。返答を願う」
翡翠が欲するのは結果だけだ。歯向うなら翡翠は沙紀を叩き、その後に己の目的に進む。
障害が一つ増え不確定要素が一つ減るだけだ。
自身を信じていると云うのか、他者を全て意に介してないと云うのか。
翡翠の黒髪が、風もないのに勝手にそよぐ。その背に立ち上る空気の流れが、心持ち熱
い。
翡翠は選択を迫っている。和美達の時と同様に。和戦両様で相手を威圧し、相手を諦め
させようとの当初の両者の方策が、相手の意思の強さにぶつかって、激化しつつある。今
はそれは、翡翠の攻勢に傾き掛っている様だ。
和美達はこの圧迫に耐え切れず攻勢に出て粉砕された。行動は彼女達が起したが、それ
は促され、気圧され、状況を維持できなくなっての物で、実質威圧への敗北だ。
だが沙紀は、翡翠の狂暴な程の闘志に、闘志で更に張り合う事・張り合えなくて自暴自
棄な攻勢に出る事は選ばなかった。沙紀にも、ここで翡翠と危険を冒し闘う意味は薄いの
だ。
「……私は、告げる事だけは告げたわ。
後は貴女の受け止め方次第よ。貴女が何者で何を考えていようと、私は私の為すべき事
を為すわ。貴女がそうである様に」
静かだが確かな語調で再度己の意思を告げ、沙紀はこの場を退いた。逃げたとも取れる
が、それ自体は罪悪でも失態でもない。それに沙紀は闘わず退いた。戦略的撤退と呼ぶべ
きか。
部下や仲間を持たぬ沙紀は、和美と異なり他の連中の手前と云う、拘るべき面子がない。
話し合いは不調で、脅迫が利かない以上、闘い以外に睨み合いを続ける意味も希薄だ。
危険を冒し戦いを仕掛ける必要はない。沙紀も翡翠が目的ではないのだ。翡翠は沙紀の
敵に回る・妨害すると云わなかった。沙紀の求めは拒絶し競合関係にあるが、敵とも違う。
良好な結末と云えないが、直接逢えた意義はある。言葉を交せた事で相手の性格や目的
・正体は確かめたし、己の意思も伝えられた。
相手に存在を明かしてしまったと云うデメリットも双方が負う為、一方的な損ではない。
「近い内に、又逢う事になるか」
沙紀の気配がその場から消える同時に、周囲の雰囲気が急に和らいだ。何かに押え付け
られて滞っていた埃っぽい日常が、どっと周囲に雪崩込んで来る。喧騒が、翡翠の耳の周
りで甦った。どうも沙紀が細工していた様だ。
人の無意識に働き掛け、余人の介入を防ぐ。職員室に行く者を足止めし遅延させ忘れさ
せ。
なぜか妙にそこだけを躱してしまう。精神操作とか洗脳・催眠とか呼ぶ行いだが、沙紀
のそれは遥かに洗練されて。行動を司る何かを一つ変えるだけで人の行動は連鎖的に変る。
その要諦は簡単に掴み取れる物ではないが、
「流石は、神々の一人か。侮れないな」
何時の間にか、職員室前の廊下は放課後で、走り回る生徒の姿がある。それ迄の緊迫感
は翡翠の心に収められ。この場にいる者達は先程の緊迫を、存在も知らず日々を過ごすの
か。
ぶつかり合う可能性は濃厚だが、未だ確定してもいない二人の微妙な対峙は、翡翠が振
り返らないまま数十分の時間で終える。
「ひ、佐々木さん、大丈夫だった?」
掃除の終了報告に来た理恵が、声をかける。普段より遅いのは、皆が掃除を終えてもな
ぜか喋り続け、中々来れなかった為だ。野球部のマネージャーである理恵は、掃除も早々
に切り上げねばならなかったが、顧問の教諭も職員室に篭もっていて、幸い練習も未だで。
「……ああ」
この問答、繋っている様で実は微妙にずれている。翡翠には、沙紀との対峙の後なので、
その解放感から来る頷きだが、理恵のそれは和美達との対決や教諭の事情聴取の方を指す。
それに気付き、実感を込めた苦笑いで思わずそう返事してから、我に返った翡翠は冷た
い無表情を取り戻し、黒い双眸を理恵に向け、
「貴女が心配する必要は、ない事だ」
「そんな事なくてよ。クラスメートだもの」
屈託がないと云うか、理恵には天性の明るさがある。人見知りせず、人嫌いを装う翡翠
を気に掛ける様子もなく声を掛けて来る。
卓と安定した関係にある理恵は、嫉妬も不要なのだろうが、それだけで誰にも好意的に
なる説明にはなり難い。やはり本来の性向が、逢う者逢う者に好まれたいと望んでいるの
か。
「貴女が体育館裏に呼び出されたって知って、心配したのよ。でも、私が知った時にはも
う、佐藤先生が仲裁に入った後だって……」
翡翠の見込みも、間違いではなかった様だ。
「気をつけてね。あの人達は集団だし、力を持て余していて、何やりだすか分らないよ」
ショートカットより少し長く伸ばした髪を僅かに揺らせて、理恵は翡翠を見上げる形で、
「でも、先生に見つけて貰えて良かったね」
大人が見てしまえば、知らぬふりは出来ぬ。大人は頼りにならないとの共通認識はある
が、理恵はそれでも大人の存在意義を分っていた。
「……まあ、ね」
翡翠には有難くない不要な介入で、却って面倒な善意だったが、この場で理恵にそう知
らしめる必要もないので一応肯定してみせる。
だがこの『一応の肯定』が理恵の眼には奇異に映った様で、両手で口を抑えて声を潜め、
「手遅れ、だったの……?」
手足や服装は手傷や破れ目はないが、余り教諭の介入を歓迎してない翡翠の姿勢から理
恵が連想する状況は『間に合わなかった』だ。
心配の表情が喜びに変って、又心配に落ち。その落差の大きさは、見ている方が面白い
位だが、理恵はどうやら本気で翡翠を心配していたらしい。その真摯さに、却って翡翠は、
「いや、そうではない。大丈夫」
人を寄せ付けない常の冷淡な語調が怯んで、まともな受け答えになって。自分の事情よ
り、理恵に自分が無事で心配ないと分らせなければならない流れに、翡翠も困惑を隠せぬ
様だ。
「本当? 本当に、大丈夫だったの?」
「間違いなく、大丈夫」
理恵は翡翠の膝に微かについた砂埃に気付いた様だ。突き倒されたりしたのではと。史
恵を投げ飛ばす動作の中でついただけなのに。
人とは、勝手に人を憎み、嫉妬し、気遣い、恋し、人を襲い護りたがる。心配も、理恵
の心から自発的に湧き出る思い故に、翡翠の心配無用な事情を分らせなければ、収まらな
い。
強硬に断っても理恵は恐らくそれを、酷い事をされた翡翠が、心の傷を見られたくない
故の強がりだと、受け止める。
不快に思って離れ、無関心になってくれるなら幸いだが、理恵はそうはならないだろう。
監視の眼が増えるに近い。何が理恵の気に入ったか分らないが、善意も翡翠には困惑物で。
心配と云う形ででも、自分に深く関られる事を望まない翡翠には、望ましくない展開だ。
翡翠は結局丁寧に、自分が無事で心配が不要な事を話すしか、その心配を解消できない。
丁寧な会話が、単なる経過説明でも心の繋りを作ると翡翠は分っていた。分ってはいたが。
翡翠の堂々として平静な受け答えに、漸く安心して良いのかと半信半疑になった理恵の
目線が、尚もまじまじと翡翠を見つめるのに、
「……何か、云いたい事でも?」
「髪の毛が、少し乱れているわ」
翡翠が意表を衝かれた表情を、一瞬だけ見せた。沙紀との対峙で緊張した時に少し乱れ
たらしい。怒髪天を衝くと云う程ではないが、翡翠が全力の発動を試みると、髪が乱れ出
す。気付かれぬ内に整え直すのが常だが、引き続き理恵との会話に移行したので、忘れて
いた。
思わず己の巻き毛に、手を回して確かめて、
「……直しておこう」
ふふふっ。
理恵が不意に笑みを盛らす。それは、何か楽しい物を見付けた時の笑みだ。
「……?」
「だって、いつも男言葉でぴしって決まってるのに、今だけ女の子交じってたんだもの」
翡翠は、人に不審を抱かれぬ内に直しておけば良いと云う感じだが、理恵はその仕草に、
女性らしさを感じた様だ。これは翡翠と云うより、理恵に女子の感性がある為なのだろう。
「あ、別に、悪い意味で云ったんじゃないの。
ひす……いや、佐々木さんは、とても綺麗だし、背も高いし、スタイルも良いし、生き
方も雰囲気も、人に流されない強さが感じられて、初めに見た時から、気になってたの」
己と違う特徴に気を惹かれる者は結構多い。真面目少年が不良っぽい雰囲気に憧れると
か、少女が大人の色香に憧憬の念を抱くとか。
野球部のアイドルで卓とは恋人関係にあり、級友にも面倒見が良く、一見何の不自由も
ない理恵も、人の美点に心動かされる事はある。
孤独を怖れず、一人でも己を通し、それが根拠のない無理な強がりでもなく、何かは分
らないが確かな強い自信の裏打ちを持つ翡翠は、理恵には颯爽として好ましく見えた様だ。
「ごめんなさい。気分、悪くした……?」
やや興奮気味に言い募ってしまった事と、翡翠の『女っぽくなさ』を誉める内容なので、
理恵は云い終ってから拙いと口を塞ぎに掛る。
だが、なぜ笑みを見せたのかの説明は、この思いの所在を分って貰わねば成立しない。
「……云ってくれるな……」
これにつむじを曲げたふりで距離を取り直す選択もあった。だがそれでは、理恵の心に
傷を残し、却って気懸りを引きずる事にも…。
「だが、自分の思いをいざと云う時にしっかり云える気質は、私も嫌いではない。そうや
って、野球部の彼にも想いを告げたのか?」
「知っているの! 卓とのことを?」
己への心配から焦点をずらそうとの翡翠の初歩的な動きに、理恵は見事に嵌った。顔を
朱に染めて問い返すが、その瞬間から、翡翠の心配より、自身の事情に関心が移っていて。
「別に、秘密にしてる訳でもないんだけど」
翡翠の答を待たずに、語り始めている。
「でも。ひす……じゃない、佐々木さん」
「翡翠で良い。姓は仮の物だから」
姓(せい)と云わずに、姓(かばね)と云う辺りが、妙に古風だったが、それが翡翠の
男言葉や語調・雰囲気に妙にマッチしている。
「じゃ、私も理恵って呼んで。ね」
妙にうきうきとそう言う理恵に、消極的に、
「そうしよう」
「良かった!」
何が良かったのか? ファースト・ネームを呼び合う関係が、喜ぶべきなのか。恋愛関
係ではない。彼女には卓がいるのに、理恵の今のそれは恋人に告白できたに近い喜び方だ。
「用事は、未だ終ってないのではないか?」
「あ! そうだった」
掃除の終了を、先生に報告にきたんだっけ。
慌てて職員室に駆け込もうとする理恵だが、
「(和美達に)目を付けられるから、人の大勢いる所にいた方が良いよ」
多分、昨日の事を問い質したいと思うんだ。卓も昨日の事は殆ど憶えてないみたい。史
恵とか美香とか公園で捕まった面々は、朝方迄派出所だったらしいよ。由香は行方不明だ
し。
理恵も情報を集めていたらしい。
「和美も仲間思いの所があるの。でも彼女達、やり方が荒っぽいから。誤解を解かないと
ね。話取り持つ様に動くから、少し時間稼いで」
この類の心配が無意味な事情を理恵は知らない。だがその事情を洗い浚い話す事は面倒
なので、当面理恵の助言は丁重に伺っておく。
「私の身に心配は無用。それより、貴女自身の身を心配した方が、良いのではないか…」
翡翠に近い立場には、和美達の視線が向く。これは理恵への気遣いでもあるが、和美達
の影を怖れるなら離れる方が良いと云う薦めで。
その程度で離れるなら、最初から心に住まわせる友ではないとの割り切りは中々出来ぬ。
頼りにならぬ友等、不要だと言い切れる強さ。
強い者の友になるには己も研かねばならぬ。素晴らしい友を持つには、己も又それに見
合う素晴らしい友である事を、求められる物だ。
これは恋人関係にも師弟関係にも云えるが、世間では己に見合う者が集う。己を上回る
者を求め欲するのには、己の容積を増やさねば。
「大丈夫っ。私はタダではやられないから」
確かな恋人を持ち、野球部員と良好な関係にある故の安心がそこには見える。和美達と
て自分には、軽々しく手は出せない。翡翠の様に一人で屹立は出来ないが、その代り理恵
には仲間との緊密な繋りから来る安心がある。
信頼できる仲間を背景に持てれば、集団にも対峙できる。むしろ理恵の生き方が、翡翠
のそれより普遍的な解決策かも知れなかった。
孤独を受け止め、耐え、振り払って、誰にも脅かされない個を確立するのは至難の業だ。
それが受け入れられる状況を、作り出す事も。
それより、己を安心して委ねられる集団を見つけ所属する方が、普通の者には遥かに現
実的だ。理恵は自分を生かしてその道を選び、選んだ集団に力を貸し状況を作りだしたの
だ。
全員は、常に一人を気に掛け面倒を見てくれる訳ではない。そうあるべきだと云う主張
は机上の空論で願いであって、実質は無理だ。
だからこそ、全体の一部が中間集団としてきめ細かな面倒を見る構造が世の各所にある。
一人で生きられぬ多くの者には、一人一人を大事に云々の倫理教本の主張より、一人一人
を実質的に担保する中間組織を、いかに選び作るかを考える方が、ずっと建設的だ。
「翡翠も、困った事があったら、気軽に相談してね。私一人ではどうにも出来ない事でも、
誰かに相談して何とかできる事もあるから」
理恵は確かに可愛くて、綺麗だった。それに加えてこの瞬間、純粋さだけでなく、その
強さ迄が見えた気がする。彼女は唯能天気に八方美人で人におもねる女ではない。
自分の限界を心得、時には自分の弱さや欠陥迄見据えてそれを補う事もできる。一人で
は立っていけない己を知るが故に、己が選び所属して作り上げた仲間の輪に己の身を置く。
一見して賢そうでないが、彼女は時に狡猾な迄に賢くもなれる。そして翡翠はそう云う
現実的で好意的な人物を、嫌いではなかった。
『早めに決着を付けた方が、良さそうだ…』
状況が余り良い方向に動いてない。破綻が見える前に早めに全てを終えて、撤収せねば。
翡翠は、人間関係が複雑化しそうな状況を見て、がんじがらめになる前に、拙速でも事
を処してしまった方が良いと、判断を下した。
沙紀の介入は逆効果に出た。だがこの決断には結構な危険があり、沙紀は決して無益な
愚行を為した訳ではない。翡翠が沙紀の予測を超えて、豪胆で迅速で積極的だっただけだ。
尤も翡翠がこの挙に出る事を、沙紀が予期もしてないとは、翡翠の側も思ってなかったが。
沙紀の警告を受けた翡翠の取る方策は二つに一つ。その警告を容れるか、容れないかだ。
他に選択肢はない。警告に従って状況を見守るか、警告に従わずに行動に出るか。
沙紀は翡翠の動きを封じる手を打ってきた。そして後は構わずともどんどん面倒になる
様、周到に作られてある。明日以降翡翠が煩わしい人間関係から解放される確証はない。
面倒になる事はあっても、解消される事はない…。
起すなら拙速、起さないなら巧遅。
二者択一で翡翠が選んだのは、前者だった。
「待ってたわよ。優等生の佐々木翡翠さん」
お説教は、意外と長かった様ね。
決着を望む点では、同意見な者の再登場だ。校門を出て暫くの辺りで、翡翠は和美達に
呼び止められる。学校の間近では教諭の介入がありうると踏んで、離れた地点を選んだの
か。
集団では目立つとの配慮か、後ろにいるのは美香と早百合と史恵の三人だ。直接翡翠に
屈辱を感じ、報復の念に燃える面々を選んだのは、和美達の紛れもない戦意を示している。
理恵は昨夜の事について詳細に話をしたい、部活中に時間を作るので校内で待ってと頼
み、翡翠も了承した。卓も含めて話を整理したいと云うより、下校途中を狙われる事を怖
れた理恵の予測は的中だが、翡翠は約束を破った。
今や事は、誰がどう口を利いても収まりそうにない。仲裁者に迄火の粉が及びかねない
中で、翡翠が敢て和美に捕捉される動きを見せたのは、翡翠の当初方針以上に、理恵に迷
惑を掛けたくないと云う意味でもあったのか。
「まさか、あの経過を踏まえといて、今からの誘いに逃げるなんて事はないでしょうね」
挑発気味な和美の問に、翡翠は黙して答えない。答え迄分り切っている和美には、その
必要がないと云う意味でも、あったのだろう。
袋叩きを怖れるなら、この時点で急反転し全力疾走で振り切るしか術はないが、翡翠は
昼休み時にそれ以外の答えを示した。翡翠が今更逃げるとは思えない。戦意溢れる面々で
迎えたのも、逃げはないと確信している為だ。
「てめぇ、聞いてんのかよ!」
無言を保つ翡翠に、苛立つ史恵が一歩前に出て怒鳴るが、翡翠は視線さえ向けなかった。
和美も視線に入れぬのだから、無理もないか。
「相変わらず、無口ね」
和美が史恵達の激発を抑える形で、皮肉げな言葉を投げ掛ける。未だここで事を起すの
は早過ぎるとの判断は、翡翠にも共通認識だ。
流石に午後四時の通学路の脇で乱闘は拙い。通行人も下校途中の生徒もいる。どちらも
事に臨んで人目は避けたかったし、和美達は別の場所で待つ者と合流しないと全員が揃わ
ぬ。
史恵もそれは分るのか、和美の視線を受けると、己の怒気を抑え黙り込む。もう少しだ。
だが翡翠は相変わらず、ガラス玉の様な感情を持たない目線で受け流し、気にも止めぬ。
「でも、その反応は、拒絶ではないのよね」
それ以上を云う必要はない。和美は翡翠に背を向けて、翡翠を先導する様に歩き始める。
翡翠の右斜め前を早百合、左斜め前を美香、背後を史恵が固め、歩いて行く事五分と少
し。彼女達が翡翠を招待したのは例の公園だった。
空は誰の上に落ちるか分らない遠雷を響かせつつも、まだ雨を伴わない曇天で、午後四
時にしては暗い方だ。唯、雨はそう遠くない。
「ここはねぇ、最近恐ろしい何者かが出回るって云う噂で、評判の公園なのよ」
和美が翡翠に威圧を加えようと語り掛ける。
「何なのかしらねぇ、恐ろしい何物かって…。あんたも極め付けに怖い思いをしてみ
る?」
だが、翡翠の作られた様な端正な顔立ちは、揺るぎもせぬ。和美も、翡翠から反応は期
待できないと分っているから、落胆の色はない。
「全く、生きたマネキン様だね。あんたは」
あんたに先に、少し訊きたい事があってね。
早速飛び掛りたい美香を、江里香が制する。和美の用件が終る迄は、待てと云う事らし
い。
「その前に、一つ訊きたいのだが良いか?」
良くてよ。和美は興味深そうな表情を見せ、
「その代り、後で私の問にも、応えて貰う」
人に話しかける事も稀な翡翠が、何を問うのか。その辺りも興味の対象だったのだろう。
「この公園を選んだのは、貴女か?」
公園は昼間なのに人気がない。夜の怪談と、昨夜小百合達が集団で乱闘し捕縛された情
報が、人気を遠ざけている。或いはそれ以上に、ここの人気を排したい作為が働いている
のか。
(結局、乱闘中と云う通報は相手がいないのでデマだと分り、美香達は夜遅くに公園にた
むろしていた事のみで補導され、朝方迄派出所で、午前中は校長室で厳重注意を受けた)
和美達の陣容の半分位は、昨夜ここに居合わせた者だ。昼なら安全という考えは普通し
なかろう。それで敢てここを選んだ者とは…。
そこに一体、誰の作為があるのか?
「決めたのは私だよ。ふざけた事をやらかしたのは、あんただけじゃないらしいからね」
和美も仲間から昨日の事を聞きだしていた。その定かではない記憶には、彼女達が見た
者の中に由香がいて、理恵がいて、翡翠がいた。
酩酊し全ては憶えていなくても、十人近くいれば片言隻句は記憶に残る。複数の記憶を
付け合わせると、事の残像は朧に浮び上がる。
「ここは元々私達の溜り場に使ってたんだ」
奴にでかい顔をさせて置く訳には行かない。
和美は由香の懐に飛び込んだのだ。
人気のない事は和美達にも好条件だ。ここで翡翠を袋叩きにし、盤踞する事が、由香へ
の挑発にもなる。由香が何の罠を持ち技を使うかは知らぬが、飛び込まねば状況は見えぬ。
相手の懐に危険を承知で飛び込む。仲間を弄ばれた以上、ボスとして和美は動かぬ訳に
は行かない。どちらも、ただじゃ済まさぬと。
「その単純な行動原理、相手に読まれるぞ」
相手はそれを狙って罠を張ってくる。挑発し、誘い出すのにこれ程簡単な相手もいない。
表情を変えないまま冷然と指摘する翡翠に、
「あんたと同じだ。言えた義理じゃないよ」
和美が頭に来ていたのは、翡翠が自分より徹底して単純で強い、云ってみれば彼女の理
想型だった故なのかも知れぬ。本当の所和美は翡翠を一番客観的に高く評価している様だ。
和美は、苦味の混じる笑みで睨み付けると、
「今度は私が尋ねる番だね。応えて貰うよ」
あんたが昨晩あの時にあの公園に居合わせたのは偶然じゃないね。目的は、由香かい?
ズバリと切り込む。駆け引きよりも相手の核心を突く事に力を用いる。この辺りに、和
美が他の女子を従え皆が従う理由があるのか。
「あんたが由香に何を望むか、知りたいね」
和美も馬鹿ではない。転入して間もない翡翠があの場に偶然居合わせた等、信じはせぬ。
理恵や卓ならともかく、翡翠の家とされた方向は違う。下校途中と云う事はありえない。
最近の公園での異変と、由香の不可解な動き。同時期に起る変異は関連あると考えるべき
だ。なら、翡翠は言動以上に出現その物が問題で。
和美の問は、翡翠の目的と現状把握、更には翡翠が知る由香の状況に迄も迫る物だった。
翡翠が少し眉を顰めたのは、和美が想像以上に切れるトップだと認めた証なのだろうか。
「……彼女本人に、興味はない」
翡翠の声は相変らず感情による抑揚がない。
「ほう。じゃあ、本人じゃない彼女には用があるって事かい、その言い方は?」
史恵が眼を白黒させる。この切り返しには、意味があるのかと云う顔つきだ。だが、翡
翠は意味の分らぬ事を云うなとは返さなかった。その辺が怪しいと云う和美のやや当てず
っぽうな問いかけが、真相の一端を掠めたらしい。
「それ以上私が答える必要は、ない筈だ。唯、彼女に会う用があるとだけは云って置こ
う」
彼女の事情に用はない。翡翠は切れ長の目線を左右の美香達の動きに向けて、牽制する。
和美の仲間だった由香が、何故和美に制裁を受け、恨みを抱き復讐に出たのか。その様
な事は翡翠には問題ではないのだ。では…?
「あの馬鹿に、逢ってどうする積りなのかは、云って貰えないんだね?」
和美のマグマが胎動する感触は、江里香達も感じていた。和美は単に翡翠が生意気とか
仲間の憧れの美男を振った腹いせとか、そう言う事で締め上げようとしているのではない。
それはむしろ口実に使われただけの感がある。
「答えるべき質問は、終った筈だが」
「肝心な所は何一つ答えないままね」
和美は馬鹿ではない。翡翠の常ならぬ強さを分って尚仕掛けるのは、単に崩れかけた権
威保持の為ではない。余程の覚悟がなければ、敗北し全てを失う畏れもあるこの挙には出
られない。それで尚彼女にこの行動をなさしめたのは誰の策動でもない。和美自身の決意
だ。
和美自身の思惟の結論なのだ。
「正直な所、逢って見なければ分らない。
状況次第だから、何とも答えようがない」
翡翠の答は恐らく本心なのだろう。しかし和美は、どう出てくるのか分らない相手に今
の事態を、由香を委ねる訳には行かなかった。
「そうかい。じゃあ」
どうする積りかは一つ一つ、その華奢な身体に訊いてみるしか、なさそうだね。
和美の瞳に危険な程の輝きが宿る。
「奴は、由香は私達の獲物だ。売られた喧嘩を他人にかっ攫われる訳に行かないね。あん
たを片づけた後で、由香の馬鹿も始末してやるから、あんたは安心してくたばっていな」
「クドクド問答する時は終りだ。始めるよ」
江里香のこの言葉が宣戦布告になる。
「さっきは、舐めた真似をしてくれたわね」
「今度は大人は誰も来ないから、覚悟しな」
公園中央で少女達は翡翠を挑発する。包囲した上で翡翠を先に動かせ、動いた瞬間を叩
く気だ。和美の隣に江里香が立ち、離れて二人が見張りに立つ。状況は昼休みに似ていた。
暫く動かない翡翠だが、手を拱いている訳でも竦み上がっている訳でもない。翡翠は平
然と佇んで。これも昼休みの対処に似ている。
「自信満々でいられるのも、今の内だっ」
「這いつくばらせて、丸坊主にしてやる」
自信があるから、だけではない。己の力への強い信頼は無論だが、囲み終えた相手を倒
す事で翡翠は幾つかの利点が期待できるのだ。
第一に、必勝の形の粉砕で、完敗を強いる。何をしても勝てぬとなれば、報復や反抗の
意図も挫ける。敗北ではなく、再起できぬ精神的痛手を植え付ける方が翡翠には重要だっ
た。
第二は、中心にだけ焦点が集まる包囲網は、その焦点を抜け出てしまえば、ばらけるだ
けの無駄な配置に変る事だ。昼休みに見せた翡翠の動きなら、逆に各個撃破さえ可能だろ
う。
「優等生には、ちょっと痛い目見て貰うよ」
「可愛いお顔が、痣だらけになっちゃうね」
美香や小百合がナイフやバットを持つのも、翡翠を甘く見ていない事の傍証であろう。
翡翠は変る事のない無表情で正面を向き続けて、無回答のままでいる。
武器を持っても尚、翡翠が彼女達をまともに相手にしていない事に、史恵はカッと来て、
「……痛い目、みやがれ!」
背後で木刀を振り下ろす。頭を狙うと本当に死ぬので右肩を狙うが、その動きは素早く、
見えていても普通の者には対処し難く思える。
「……」
翡翠は無言のまま右足を引いて木刀を躱し、その動きから手の甲で史恵の右頬を張り倒
す。
「ぶひっ……!」
後ろに目がある様な反撃迄は予測外だった史恵は虚を突かれた。身体が翡翠の一撃で浮
き上って、崩れ落ち。掌だが威力は拳に近い。
史恵の目線が虚ろなのは、精神的な痛手以上に脳髄を揺られて暫く立てぬ。KOなのだ。
素早く連続した流麗な動きに、他の者達も思わず目を見張る。だが、この時の翡翠は唖
然とした彼女達の隙を放置しなかった。
「げっ!」
「あっ!」
一陣の風と化した翡翠の動きは足を止めず、拳ではなく平手で、包囲の少女達を次々と
張り倒す。翡翠は確かに尋常の者ではなかった。
それは突風か、鎌鼬か。
ナイフを振っても、棒切れで叩いても、ブロックしても、翡翠の動きは止められぬ。
彼女達の対処を瞬時に崩し或いは先回りし、防御を叩き壊す力迄持って、翡翠の攻撃は
少女達の数を減らす。皆の攻撃は空を切り、その動きは背後で躱され、先攻が常に後攻め
で。
信じられぬ。幾ら何でも、二十人いて一人をどうにも出来ぬとは。後ろに目があるどこ
ろの話ではない。動きが、逐一先取りされて。
「ちいぃつ……!」
早百合が地に伏した時点で、その場に立っているのは、和美と江里香だけになっていた。
「この辺りで敗北を認めるか、もう少し試すか。判断は任せるが、結果は同じ」
息も乱れない翡翠に、和美は上擦った声で、
「てめぇ。只者じゃないって程度じゃねぇ」
だが和美達も、この状況を前にして尚簡単には逃げ散れぬ。そうはできない事情がある。
「私に答える義務はない。答えなければならないのは、貴女の方だ。答えないと云う答え
なら、私なりに解釈するが?」
「……てめぇは、殺す!」
リーダーの意地と威厳なのか。和美も無傷では引けぬ様だ。それに和美には奥の手が…。
二人は左右に別れて翡翠に向って走り寄る。単なる同時攻撃ではない。包囲も簡単に躱
した翡翠が、その程度の連携が通じないレベルにいる事は彼女達も承知の上だ。殴り掛ら
ず、翡翠の両脇を走り抜ける彼女達が笑みを見せ。
「掛ったな、馬鹿女が!」
江里香が初めて勝利の雄叫びをあげた。
翡翠の背後で二人は交差し、更に翡翠の前に回り続けるが、その時になって漸く翡翠も
彼女達の目論見を分った。肩口が、肘が、何かに締め付けられる様に拘束されている。
「強さに溺れたね。今、沈めてやるよ」
彼女達はピアノ線で翡翠を縛り上げたのだ。動きを止めれば幾ら翡翠とてやりたい放題
だ。見えにくい割に強靭なピアノ線は、彼女達の指にも危ないので彼女達は手袋を履いて
いる。
「ぐっ……?」
動きを封じられた翡翠の周りを、二人は何度も回り続ける。肩口だけでは不安なのか、
高さを変えて肘から手首・足首迄、念をいれ。途中からは翡翠を引っ張って、突き転ばせ
て、
和美の怖さは、劣勢や手負いになった時だ。
必要とあれば己の周囲の全てを武器に転用し、何を捨ててでも最後の勝利のみを狙いに行
く。虫の息からでも逆転を狙う執念の凄まじさだ。
「ほら、海老天にしてやるよ」
「いや、蓑虫って所かな」
翡翠にもこれは予測の外だったのか、和美達の術中に嵌った感がある。美香や早百合が
ひれ伏した地面に、己も転がされ、
「ホラ、こうやってやるんだよ!」
「二度と立てない身体にしてやる」
史恵達が起き上がる迄の時間稼ぎと、翡翠の反撃力を削ぎ落す目的で、二人は今迄の欝
憤を思い切り脚に乗せ、翡翠の胴に食い込ませる。悲鳴が聞えないのは流石だが、無事で
は済むまい。身体が衝撃に反応するのが分る。
江里香も和美も、限度の意識が消えていた。否、手加減したら次は自分だとの怖れにつ
き動かされて。逆の意味で彼女達も必死だった。
相手は化け物なのだ。その狙いが由香である以上、それを止められるのは自分達だけだ。
絶対に翡翠を放置出来ぬ。そして早く由香に。
「顔だろうが、胸だろうが、構うもんか」
「内蔵破裂する位に、蹴り潰してやる!」
翡翠の制服が土埃に汚れ、和美や江里香が疲れを感じた頃、雨の先駆けを告げる僅かな
雨粒が、額に数粒落ちてきて二人は我に返る。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」
「これ位やれば、もう、動けまい」
やや距離を置いて、漸く起き上がる仲間達と合流し、ゴミの様に転がる翡翠に再度目を
向けた和美は、そこで硬直した。馬鹿な!
翡翠は起き上がったのだ。がんじ絡めに巻き付いた筈のピアノ線を、独力で振り解くと
云う信じられない業をやってのけ。馬鹿な!
完全に縛り上げてないとは云え、それがどれ程の力を要するか。散々和美達の遠慮のな
い蹴りを受けた、その後で。やり過ぎたかと思っていた和美の瞳は、ゾンビを見た目線で。
「あ、あ、あ……」
江里香の言葉が出ないのも無理はない。史恵がその肩にしがみ付くのも感覚として分る。
あの状況で人間は立ち上がれる筈がないのだ。
「詰めが甘かったな。あそこで殺さねば…」
流石に口元は切れている。だがそれだけで、翡翠の顔に痣はない。何度か顔にも江里香
の蹴りが食い込んだのに、汚れだけで痣もない。
「尤も、あの程度で私は殺せないと思うが」
不意を突かれた後で、翡翠がやられるままに任せたのは、力の格差を思い知らせるのに、
この方が有効だから。包囲される迄待っていたのと同じ発想だ。無理にピアノ線の拘束を
引っ張った制服が数ヶ所切れて、血が滲んでいるが、見掛け以上に翡翠のダメージは軽い。
「何物なんだ。てめぇ、化物か!」
翡翠は和美の問に言葉で答えず、静かに微笑む。だがそれが、これ迄ずっと無表情だっ
た翡翠が見せたこの笑みが、その問への答だとするなら、何と恐ろしい答だろう! そこ
に真実があると、分らせる答え方ではないか。
これ迄の無表情が、この僅かな笑みが、嘘やはったりとは無縁な翡翠の驚異的な対処が、
全てこの瞬間の伏線だったと感じ取れた時…。 昼尚暗い公園で少女達は、翡翠と云う少
女の皮を被った、異質な何かに触れてしまった。そんな錯覚を、錯覚だと思いたいのに、
思えない。もう既に、肌が真実を感じている。
翡翠は人間じゃない。化物、化物だ。
ひい……。誰かが、背を向けて逃げ掛る。
それを見ず、気配で察知した和美の声が、
「ここで逃げたら、ただの負け犬だよ!」
同時に、雷鳴が轟いた。それに乗り掛っていたもう一人の動きも、びくっと止まる。
この時点で尚引かぬ和美の闘志も、瞠目に値した。負けは負けでも、逃げ散るのと挑ん
で敗れ去るのでは、値が違う。後々への影響が異なると、和美は知っている。
『例え相手が化物でも!』
翡翠は制服の土埃を払いつつ、相手の動揺が総崩れに繋るのを待っていたが、彼女達が
自滅せぬ様子を見て、感情の起伏のない声で、
「闘って散るのが望みならそれに応じよう」
雷鳴が間近になった。雨もじきに追い付く。
だが、この時既に、状況は変り始めていた。気を失っていた何人かが、不意に和美の背
後で立ち上がった時、翡翠の目が険しくなって。
状況が急変する、その直前の気配。片方から吹いていた風が、全然違う方向からの風に
変る、変るその直前の風向きの分らない状態。
夜ではないが、暗雲がその蠢動を招くのか。
既に天は、唯の雨空にしては暗過ぎる程雲が濃密で、長い夏の日に関らず電灯が点いて。
その電灯を白熱灯のガラス玉を、次々と弾き割る物音に、和美達も何かの存在に気付いた。
「誰だ……まさか、これが由香、なのか?」
江里香は音に反応して視線を振り向けるが、音の方向に脈絡も一貫性もなく、状況が把
握できない。姿も見えず、足音もないのだ。
空を飛び回る飛礫か弓矢の様に、次々に電灯が弾き割られる。それを由香に繋げられる
江里香や和美は、実は真相に至近な所にいる。
和美も、翡翠の感触の変化を察知していた。
臨戦態勢と云うか、本気と云うか。憎らしい程の余裕が影を潜め、相手の様子を窺う態
勢になって。今迄がお遊びだったと云う事か。
外の家々が予期せぬ暗さに電灯を点けても、公園中央迄光は照さぬ。数十メートルない
のに雰囲気が違う、存在感が違う、香りが違う。この一角は、小さな異世界への窓口にな
った。
そして次の異変は、翡翠から見ると正面に当る和美達の背後や脇で、明瞭に視認される。
和美の後の仲間の動きが、何人かおかしい。
和美がそうと気付いたのは、その数人が翡翠への怖れも警戒も悔しさも見せず、和美を
さえ意識せず、無防備に翡翠に歩み寄ろうと、江里香や和美の脇を通り抜けた時で、
「美香、早百合……あんた達、一体?」
表情がない。さっき迄、闘志や痛みや憎悪等に彩られていた彼女達の顔に、感情がない。
その無表情は翡翠を超えて、無意識に近くて。
立ち尽す和美の脇を抜ける少女達は一様に、歩かされている。己の意思さえ不確かなま
ま、翡翠との距離を詰め。身体を操られている?
「奴は、化物だ。安易に仕掛けると……」
和美が、美香の肩を後ろから掴んで、声を掛ける。異様な雰囲気を心配しての行いだが、
美香は振り返りもせず、無言でそのまま歩み。外れる腕を更に伸ばして捕まえに掛る和美
を、美香は奇妙に静かな動作で後方に突き飛ばす。
その腕力は、本気の美香でも出せぬ程強い。本気の美香でも出せない力を出す美香と
は?
和美にこんな対応を示す美香とは?
和美は理解できない顔つきで、座り込んで、
「美香、あんた……」
彼女達は答えもしない。構いもしない。道にある石ころを、取り除いた感覚か。
その人数は十数人になる。意識を失った者に特有の現象の様で、気絶してない和美と江
里香以外には、早く気が付いた史恵と千香が、表情も硬く状況を受け止めかねて立ち尽し
て。
そう言えば見張りに出した二人も姿がない。
誰も和美を意識してない。否、同じ状況にある互いをも意識しておらず、唯前を向いて。
「てめぇ、何をしやがった!」
江里香の詰問は八つ当りだ。罵声を誰かに向けないと、後ろの史恵と千香が恐怖に押し
潰されるのだ。直面した恐怖に負けないには、己の中に恐怖に対抗し打ち消す、何かが要
る。知恵か、腕力か、誇りか、責任感か、怒りか。
江里香の怒声は、史恵や千香を踏み止まらせる以上に、己に巣くう恐怖を振り払う為で。
翡翠には悪いが、何物かの正体が分らない以上、当面の敵に叩きつける。理には適って
ないが、実践に適った統率と云えよう。
翡翠はその事情を分っているのか、己への八つ当りや誤解を解く必要はないと云うのか、
怒声には答える姿勢さえないまま、美香達に、
「その器と中身では、宿願は成就できまい」
翡翠は、美香や早百合の身体を動かす存在も意図も予測し理解できるのか平然と対峙し。
「クウウオオオオオ!」
「カクオオオオオオ!」
甲高い異形の叫びは鳥のそれを連想させる。
彼女達は同時にその異常な雄叫びをあげて、数メートルの距離を猛ダッシュで詰め。木
刀を持つ者、ナイフを持つ者、何も持たない者は鬼婆の様に両手で掴み掛かる姿勢で。そ
の素早さと異様さは、さっき迄の比ではない。
それは連携と云うより、一つの意思の元で操られていると云うべきか。唯盲目に殺到し。
同士討ちを怖れず、とにかく身体を捕まえようと、強引で犠牲をも厭わない者達が迫る。
美香が横に振るう木刀を、翡翠は身を沈めて躱すと反動で飛び上がり、顎に平手を打ち
付ける。彼女は泡を吹いて倒れるが、その脳天を狙って千帆が背後でバットを振り下ろす。
翡翠は無言のまま高速で振り返ると、木刀が額に落ちるより早く、その顔面に右の平手
を正面から叩きつけ。その威力は張り手並だ。
ナイフを突き立てようと迫る者を躱して足払いをかけて転ばせ、指で目を突いてくる者
には手を掴むとその手首を捻って投げ飛ばす。
全ての動きが洗練されて無駄がない。速さではさっき迄と似た様に思えるのだが、逆に
早さがないのに対処できている事実は衝撃だ。
「あいつ、本当にあれで対処できるのか…」
和美が目を見開くのも無理はない。美香達の動きは当初より数段早く、己の犠牲も痛み
も怖れず、味方を盾にし踏み台にしてその影から攻める等の、えげつない攻めが多いのに。
翡翠の動き自体は同じだ。それが最高の速さと技とは見えない、未だ余裕を残している
と和美も分るが、翡翠はその程度の対処で十分に、本気以上の美香や早百合を弾き倒して。
翡翠は全てを完璧に、お約束の様に、早くない動きで彼女達の攻めを躱し、凌ぎ、受け、
反撃して、怪我をさせない程度に叩きのめし。その切れはいよいよ流麗で疲労も感じさせ
ぬ。
少女達が折り重なって倒れこむ。翡翠は数分掛らず彼女達を再び斥けた。その時である。
「う……おう」
「あ……あえ」
美香達の身体から立ち上る空気がある。冬の日の息の様に、煙の様に、掴む事の至難な、
微かに映るその何かは陽炎の様に自然に消え。
痛みは神経を駆け抜ける。その痛みは時に人の意識を引き戻す。人に乗り移る者の除去
には、生身の痛みが最も単純な対処だ。或いは翡翠の一撃に、特異な力がある事の傍証か。
美香達を更に操って、更に翡翠に立ち向わせようとしても、身体が対応せぬ様だ。痛み
が自我を呼び起すと、心が空でなくなるので、それが困難になると、翡翠は後に語ってい
る。
「これで分って貰えたと思うが……」
局面を変えたのは、翡翠の次の一言だった。
「虚ろな魂しか籠もらぬ器を使っている間は、私を消耗させる事も出来はせぬ。それを確
かめたなら、さっさと顕れるが良い」
正々堂々と出て来いと叫ぶより、お前自身が出なければ話にならないと迫る方が、翡翠
の流儀なのだろう。その声に答えるかの様に、
「お前が化け物だって事が、良く分ったよ」
やっぱり力を使わないと、駄目そうだね。
いつの間にか周囲がほんのりと白く明るい。
その照し出された一角の中央には、噴水の水の最上段に浮いて、濡れる事なく立つ由香
の姿がある。由香は警察に捕まらなかった上昨晩は家に帰らず、今日も学校を休んでいた。
「由香、お前……」
「また逢えたわね。それもこの、日中から」
由香は江里香の語りかけは無視して翡翠に、
「少し邪魔者がいるみたいだけど、良い?」
「由香てめぇ、無視する気か!」
由香は江里香にも和美にも、睥睨する視線で一瞥し、侮蔑の笑みを見せるだけで応えも
しない。昨夜見せたあの嘲りと同質だ。
彼女の言葉に仕草に応じて、周囲の淡い輝きが揺れて明滅する。生き物の様に、蠢いて。
それが昨夜より明瞭に見えるのは気の所為なのか、由香の気力が能力がより強化された
事を物語るのか。様々な太さの−人の腕位の物から、胴回り位の物迄−光るチューブが複
数、とぐろを巻いて、周辺に身をうねらせて。
誰の目にも、常の状況は越えていた。
「私はもう、お前達とは住む世界が違うのよ。
気易く話しかけないで貰いたいわね」
そうじゃなくて、翡翠さん。
由香も多少は情報を仕入れたらしい。だが、翡翠には由香さえも和美や江里香と変わら
ぬ存在で、瞳は向けども目線は向いておらずで、
「そう。貴女も私の真価を、分らないのね」
可哀想な人達。まあ良いわ、すぐ分らせてあげる。この美しい白蛇の力で。
哀れみ迄込めた優越感の瞳は、初めて見る。集団で痛めつけた数日前には逃げ、怯えて
いた由香が、自信に満ちた眼で周囲を睥睨する。
「白蛇、だって? お前何を、云っている」
今迄見た事もない程自信に満ちた由香の瞳、その妙な圧迫感に、江里香が一瞬怯んだ刹
那、
「あんた達も、踊りなさい」
由香の左手が繰り出される。二十メートルの距離を隔てているのに、それが間近の様な
錯覚を与える……。違う。錯覚ではない?
由香の左手から光が伸び、江里香達に迫る。そのスピードは、人が走るより少し早い位
だ。
だが、和美も江里香も対処法は考えていた。
「技が単調なんだよ、馬鹿野郎が!」
江里香と史恵、和美と千香が左右に分れて、光の渦を交わしつつ石を投げる。どんな遠
隔技でも、それを扱う意識の集中を妨害すれば無効の筈だ。それが異様な技でも、間近に
迫る石礫への注意に気が分散すれば扱い切れぬ。
「魔法遣いだって、達人でなきゃ怖くない」
江里香の鼓舞は、真理の一端を突いていた。
うるさい! 由香は怒鳴り返すが、内容のない反駁は明らかにその戸惑いを現している。
超越した力を手に入れた筈なのに、江里香や和美にも復讐出来る、強大な力をここで与
えられた筈なのに、押しつけられた筈なのに。「その中枢で、ホームグラウンドで、畜生」
ぶっ殺してやる。怒りに目の前が真っ赤になって、何も分らなくなる。その瞬間だった。
己のすぐ右脇に、突如気配を感じたのは。
「その器でも私に対抗は出来ぬ。姿を顕せ」
「お、おま……」
いつの間にか、翡翠が真横に。噴水の、水の上に立つという離れ業をやってのけた由香
のその右側に、ジャンプして迫ってきていて。
ぱしぃ。乾いた響き。
翡翠に左手の平手打ちが由香の右頬を襲う。
由香の体はバランスを崩し、噴水の間近の地面に落ちる。それは翡翠の身体能力以上に、
超常事態への対応力の高さを現す。和美が石礫で為した事を、彼女は肉弾戦で為したのだ。
「ぎゃん!」
倒れて、起きあがろうとする由香の間近に、翡翠がふわりと降り立った。ジャンプの軌
跡を辿れば自然な動きだが、座り込んだ姿勢の侭の由香は、思わず身を固くする。
遠隔技に頼る者は、敵の接近を嫌う。由香も体勢が崩れ、相手がその隙に間近に来た事
で我を失っていた。由香は所詮、唯の少女だ。
その時由香は死の香りを感じた。翡翠の冷たい視線、容赦も気負いも怖れも、哀れみも
憎悪もない、空虚に透き通る無機的な視線に。
翡翠は由香を、由香の力を抹殺に来たのだ。
「ひ……来るな、寄るな、来るんじゃない」
こ、来ないでよ!
恐怖から逃れようと、激昂に身を委ねた由香が、至近で光の渦を乱発する。しかし間近
では却ってその発動が躱し易く、翡翠は側背に回り込んで、身を摺り合わせる程近付いて。
終りだ。抑揚のない声が由香を恐慌に落す。
さっきの翡翠の一撃は、由香の宿る超常の力迄丸ごと打撃を加えていて、立ち上がれぬ。
立ち上がれても、この間合いでは逃れられぬ。
一瞬で進退窮まった。翡翠は本当に並ではなかった。しかもその繰り出される右手に見
える輝きは、由香のそれを更に集約した強い白色に満ち。やられる、防げない、躱せない。
「ひ……ひ、たす……」
翡翠の手を止めたのは、意外にも和美達の石礫だった。四つの石がほぼ同時に翡翠の側
面を襲って、動きを止める。命中しても翡翠には痛手にならないが、和美もそれは承知だ。
「云った筈だよ、由香は私達の獲物だって」
和美の言動に一番分らない顔を見せたのは、由香だった。由香は和美達にも敵だった筈
だ。その窮地を救う真似に出て、何の利得がある。
尤もそれを分らないから、和美や江里香が由香を馬鹿だと云う訳でもあるのだが。
「その馬鹿をどうする積りか、今ならあんたも云える筈だろ。今度こそ、答えて貰うよ」
由香は遠隔技を使うが、翡翠は接近戦型だ。
和美達は荒い息を収めながら、既に走るのを止めて、翡翠との間合いを詰め始めている。
「他人に始末させる訳には、行かないんだ」
「身内の不祥事なんて、格好悪い物を、ね」
身内。江里香のその言葉に、和美の真意が現れている。例え権威失墜・全面敗北の怖れ
を負ってでも、翡翠との闘いに出た事情とは。
「私に彼女の無事や生存を気遣う気はない」
翡翠は和美達の真意迄分って、その真意を活かす受け答えをしていたのではないか、と
後で和美は呟いている。確かに結果を見ると、そうと取れる由香を怯えさせる展開だった
が。
「ぶぎゃっ! ……ひい、ひ!」
翡翠が軽く由香の背に触れると、由香は焼きごてでも付けられた様に苦しんで転げ回る。
肉体的な衝撃ではなさそうだが、それは見ているだけで目を背けたくなる苦しみ様だった。
「おい、待てったら!」
人の神経・心に介入すれば、快楽も恐怖も絶望も激痛も与え放題らしい。和美は追うが、
翡翠は無言で転げ回る由香を追う。第二撃を加えるなら、妨害すると云う姿勢の和美達だ
が、翡翠に牽制される様子は見えぬ。
周囲の白色の輝きは尚滞留しているが、その躍動は由香の同様や苦しみとはやや同調を
外れ、揺らいで。これは、何を意味するのか。
「全然、全然駄目だよっ。歯が立たないよ」
翡翠の一撃は軽い接触に見えるが、由香には内蔵を掻きむしられる打撃らしい。体中か
ら脂汗を流しながら、埃りまみれになって転がる由香に、さっき迄のふてぶてしさはない。
「や、止めろ、止め、止め助けて、和美…」
その呟きが漏れ出た時、和美と江里香が翡翠の両手首を両腕で握りしめ、彼女を止めた。
「これ以上は、あんたの好きにさせないよ」
「今度こそは、捕まえたからね。あんたも」
投げ飛ばされても、膝や肘を当てられてもこの手首だけは放さず、動きを封じる。力量
とか技ではなく、気力で翡翠を止める構えだ。
「江里香、和美、あんた達……?」
分らない顔を見せる由香に、
「幾ら出来が悪くて情けない奴でも、身内が外の奴に襲われれば、守ってやるのがボスの
権威って奴だろ。史恵の煙草所持を密告した事への罰は、あの制裁でもう終ってるんだ」
「お前がひねくれてその後何かしでかしても、それはそれ、今は今だ。悪さへの罰は、後
でじっくり考えてやるから、今は逃げてなよ」
善悪は別として窮地にある身内はまず救う。異変に迅速に反応し、放置せず、関りを諦
めない。それが彼女達の権威の本当の源だった。
「史恵、千香。この馬鹿をあっちに連れて行きな。こっちは私達で、片を付けるから」
彼女達の目的は翡翠にではなく、由香にあったのだ。江里香がそう指示を下した直後に、
「彼女が人を頼る様になり、今迄頼られていた者が捨てられたと感じた様だ。そろそろ」
翡翠の言葉は、由香にしか分らない内容だ。
「被り物はなくなった。使うべき器もない。
姿を顕す他に術はないぞ」
翡翠は一体誰を挑発しているのだ?
だがそのあてどない挑発に応じる声がある。
「おのうれい、我を呼び醒すとは愚かな…」
それは老いた男声だったが、声を模倣した何かの物音にも聞える。肉声らしくないのだ。
この低く、殷々と響く声はどこから来る?
「何者かは知らぬが、この我が領域の中で我の怒りに触れる怖ろしさを知らぬ愚か者が」
空は更に雲が熱くて青黒く、地に生暖い風が滞留し。公園の外の物音は何一つ届かない。
翡翠は別段怖れた様子もなく、だが正体の見えぬ相手故に気配を探る目つきで、
「残念だが、貴女達の時間は終りだ。
次は、この者との付き合いになる」
特に振り解く動作もなかった。翡翠は、何があっても話す積りなかった二人のその手を
抜いて、簡単に自由を取り戻し。しかも間近にいる和美達を攻撃もせず、警戒さえ見せぬ。
「てめぇ、ふざけやがって!」
これはその何者かに隙を見せて攻撃を誘う為で、和美達への言葉ではない。そう分る故、
敵ではないと云う端役扱いに黙ってはおれぬ。例え翡翠にそれ相応の力量があると分って
も。
だが、和美もそれどころでなくなって来る。
ゴウゥーゥン、とでも表現したい鈍い響き。
それは耳に入る音ではなく、頭の奥に直接響き、意識に直接働き掛けてきた、何かの力。
首の後ろから後頭部に上り詰めてくる、心地好い痺れに似た感覚と共に、心を消し去って。
今ここにいる理由を、己を、忘れ去る錯覚。
白色の輝きは由香が気を失っても更に強まる。
薄暗い闇に閉ざされ行く公園の中で、辛うじて正気を保てていた史恵と千香が倒れこむ。
眠気に夢に、引き込まれる。頭が突然重たくなって、地面に吸い込まれる様に倒れ行く。
接地の衝撃も分らず、身体の軽やかさが最後の記憶で、眠りに堕ちるのを止め得ない。
逆らえない。抗えない。己を保てない。
「またもや裏切った、またもや、またもや」
その声は低く重く怒りを溜め込んで、
「もう誰も許さん。体力も、若さも、生命も吸い尽してやる。人間への恨みを込めて!」
その声は、どこから聞える声なのか。
江里香が、続いて和美が膝を折り、崩れ落ちようとする。猛烈な眠気が頭全体を包み込
む様で、どれ程気合を入れても耐えられない。
「眠ると良い。人は、見ない方が良い物は見なければ良いのだ。貴女達の為ではないが、
私が奴を始末しておくから、後は心配無用」
翡翠の声が耳に入る。彼女はこの働き掛けを己に無効だから放置し、和美達を眠らせよ
うとしたのだ。邪魔な端役の退場を促す為に。
「てめぇ、とことん雑魚扱いにする気か!」
和美の勘に障ったのは、道具に使われた事ではない。それ以上に、翡翠が実質『守る』
に近い、情けに準じる言葉を吐いた為である。
闘った末の敗者と、逃げ散った敗者との差以上に、守って貰う・情けを受ける弱者では
質が違う。和美には受け入れ得ぬ屈辱だった様で。その精神力が一種の奇跡を起したのか。
十数秒間、江里香と和美はその状況に耐え続けたのだ。江里香は崩れ落ちる時に偶々膝
に石の角がぶつかって、和美は意識して小石を握り締める事で、痛みで辛うじて己を保ち
続けた訳だが、人としての限界は超えていた。
意識は残したものの、座り込んだ彼女達に立ち上る気力も体力もない。否、本来なら…。
後少しその時間が伸びたなら、間違いなくと思われたその時、状況を打開したのは、翡
翠が発したある種の気合に近い何かの放散で。
「……汝の力も、余り残ってはいない様だな。
娘二人眠らせずにいるぞ。それとも或いは」
翡翠は、和美達を眠りに誘う効果の強弱で、相手の力量を測っていたらしい。翡翠がそ
れを破りに出たのは、和美を助けると云うより、その力量を見切ったと云う事の様だ。
翡翠に特段の変化は見出せない。視覚的にも翡翠は泰然と立っているだけで直立不動だ。
光も音も、特に発した様子はない。それでも、翡翠の気合は優にその鈍い響きを、凌駕し
て。
数秒の内に、それ迄の重圧は嘘の様に消え。
茫然と座り込む少女達は既に翡翠の意識の隅にもないらしく、その良く透る声は朗々と、
「どうせここから逃げられぬなら、さっさと姿を顕したらどうか。小手先の術策では私は
消耗せず、汝が力を浪費する羽目になる」
私は汝がここを去るか消えるかしない限り、動く気はない。汝が見下していた人間でさ
え、勝ちを得るには己が闘う他ないと分っていた。
「闘う勇気がない者なら、狩り出すだけだ」
「貴様、唯の霊能者や妖術使いでもないな」
何者かの声は、さっきより近く聞える様だ。翡翠の挑発に、乗って来たと云う事なの
か?
「私の正体を知りたければ、直接私に挑むと良い。汝の力の及ぶ迄は分るだろう」
翡翠の身体の周囲に、仄かな上昇気流が感じられる。長い黒髪が微かにざわついている。
空は暗く荒れ狂い、雷鳴は更に間近に迫り、雨粒が徐々に増え。雨天の一歩手前の状況
だ。天空の状況は、地上の嵐に相応しているのか。輝きは翡翠達の周囲にだけ集まって更
に強く。
「……云ってくれるわ! かつては、神とも崇められた、この儂にっ。馬の骨が」
後悔させてくれる、女!
翡翠の背後に襲い掛る人影がある。人影?
それが人ではなく、人の形をしたマネキンだと和美達が分るのは、少し後での事になる。
それ程にその出現は唐突で、動きは早かった。
誰かの落した木刀を両の腕に持ったそれは、翡翠の背面で左右から上段と中段、同時に
横薙ぎを加えて来て。分って尚防ぎ難いその速さにも、翡翠はタイミングを知悉した様子
で、後背に飛んで攻撃を躱す。斬撃を加えた相手の真上に飛んで躱し、頭上に剣を振り下
ろす。
「剣……。あいつ一体どこから、そんな物」
人殺しにならぬからと云うより、これが翡翠の真の目的だから、遠慮が不要と云う訳か。
両面に刃の付いた、刀より古風な長い剣。
「人形がどうして動くんだ。マネキンが!」
「先に、抜けられたか。
用心深いと云うより、臆病に近いな」
翡翠の一撃は、人なら頭蓋を二つに割る致命傷だったが、マネキンは殺せぬ。細長い剣
の刃が数センチ食い込むが、鮮血も噴かなければ叫びもなく、電池切れの様に止まるだけ。
翡翠は右手一本で、突き刺さっている剣を引き抜く。それにも結構な腕力が要る筈だが。
「この地で怪談の噂を最初に流したのが誰なのかはどうでも良い。もしかしたら、それは
人ではなく、ここの主だったのかも知れない。
貴女達が夜の公園から人を遠ざける為にその噂を利用した事も、今はどうでも良い事だ。
唯その波及効果が、この地に眠る白蛇にも力を与えてしまった事だけが、計算違いか」
ここの主は訪れる人の心に便乗し、煽り立てその感情の起伏を吸収して、己の糧にして。
祈りを失って久しい神は、望まぬ人の心に介在し、心の起伏を無理矢理作り出す事で力
を得て。だが、それは収入を得る為に仕事を作る行いだ。医者が怪我人を作り、大工が家
を焼き、軍人が戦を招くに等しい危険な行い。
「だがそれが成功し、己の気配や力が増大する事が、一つの危険を伴う事を彼は見落した。
……私に、見つかる危険性だ……」
翡翠の正体の方こそ、超常現象なのだろう。
「かつて神と祀られ、崇められた者よ。
唯生き続ける為の生を天地(あめつち)は望まない。汝の妄執・歪みは、限度を超えた。
魔も人も神も、度を超えてはならない」
この言葉に神も人も魔も度を超えない限り、その存在も許容範囲と読む者はかなり高度
だ。
だがそんな事を娘に言われたくはないのか。
「ふざけるな! 貴様は一体何様の積りだっ。何の資格でその様な規範を我に告げ、押し
つけるか。我は告げる者、我は示す者、我は」
我は神。祀られ崇められ、全てを操り招く。
一旦動きを止めた筈のマネキンが再び起き上ろうとする。その動きに注意が向いた瞬間、
翡翠は無数のピアノ線に縛り上げられていて。
「ぐうっ……!」
気配は周囲全体に滞留していた。故に逆に読めなかった。ピアノ線は視覚では追い難い。
しかもマネキンが陽動になって。マネキンを動かす相手が、ピアノ線位動かせぬ筈がない。
その線を持つ者はない。誰も持ってないのに。
強靭な線は翡翠をギッチリ縛り付け、そのまま柔らかい肉体を引き裂くのが目的なのか、
「愚かな。その思い上り、己を犠牲に償え」
和美達は、単に翡翠の動きを止めるのが目的だった。ピアノ線は強靭だが、それ故に強
い力で引っ張ると、自分達も手を痛めるのだ。
だが今回は違う。ピアノ線は手の痛み等気にならぬ何者かに操られ、そのまま翡翠の身
体をハムの様に輪切りにする気でいる。
「それ、犠牲の鮮血を我に!」
線に縛られた各所から、血飛沫が噴き出る。
「ぐっ……!」
流石に翡翠も思いっきり力を入れられたこの状態では、強引に抜け出す事も出来ぬ様だ。
本当に身体が筋肉迄切り裂かれる状況にある。
「己の思い上りの報いを知るが良い」
その老いた声が勝ち誇ってそう云った瞬間、
「力を込める為に、気配を収縮させたな」
人は痛みで正気を戻し、神の器であり続ける事が難しい。人形は神経も筋肉もないので、
神が器として使う事が難しい。自身で間近迄迫らねば翡翠は討てぬ。力を及ぼすにも確実
な効果を見込むにも、間近に迫らねばならぬ。
最高のチャンスに見えれば、間近に顕れる。
翡翠の発想は常にその辺りにある。相手が察知して遠ざかるより早く、彼女は行動に出
ていた。今回の相手は、正体定かならざる何者かだが、それは逆に翡翠が得意とする者で。
「はああああっ!」
息を吸い込んで、力を込める。それだけで、
「うぬおおおぉ!」
状況は劇的に引っ繰り返された。翡翠の周りに立ち篭めピアノ線を縛り付けさせていた、
その気配自体・全体を翡翠は狙い撃ったのだ。
風が、僅かな風が、翡翠を中心につむじを巻いて、気配がそれに吹き散らされていく…。
重さの違う空気の流れが、目で見ても分る。
後日翡翠は理恵に『実体ある者は打ち倒さねばならないが、ない者は吹き払えば良い』
と語っている。霧の様な気配には攻撃が当らないが、それ以上に誰かの気合や心の浮動、
日光や突風等、微細な物事にさえ左右される。
それを為す力と意思が消失すれば、ピアノ線は唯身体に絡まっているだけの線に過ぎぬ。
「お、おのうれぇ。儂、儂をたばかったな」
幾分弱まった男の声が少し遠くから聞える。
翡翠の怪我は、相手を引き寄せ図に乗せる為の、陽動の掠り傷だったのだ。この構図も、
今迄和美達に見せてきた手法の焼直しである。
「さて、そろそろ決着を付けるに良い頃か」
二十メートル程離れた処に、白い陽炎が浮んで見え。それが『神』の気配の集中の様だ。
これは彼が本気になったと云うより、集中せねば散る(散逸して消失する)怖れがある
所迄、翡翠が追い詰めたと云う事らしい。肉体を持たぬ生命とは非常に脆弱な存在なのだ。
全ては翡翠の主導で進み、終るのか。
「この場に囚われ、遷る意志も失い盲目な己の思いに縛られた、神の妄執よ。この歪みの
是正には、汝の消失しか方法がなさそうだ」
「うぬぬぬ……」
翡翠が一歩一歩、歩み寄る。その距離が、間が、その神と名乗る『白蛇』の寿命を示す。
「恨みも、憎しみも、怒りも、寂寞も拭い去ってやろう。その想いを抱く汝の存在ごと」
最後の数メートルを翡翠が詰める。その時、
「ぬっ……!」
走り出す翡翠の進路を狙った様な、無形無色無臭の空気の流れが、天空から落ちてくる。
翡翠を狙った一撃は、急停止した翡翠の黒髪を掠めて地面に突き刺さるが、痕は残らぬ。
唯何かが通り抜けた、風の感触が残るだけで。
効果は、精神的な何かに限定されるらしい。翡翠や由香が見せた効果に近いが、焦点を
絞り込んでいる為に、威力は強く濃密で危険だ。
「日中に、空に浮く行動に出るのは好きではないけれど、そうも云ってはいられない…」
昏い空に、地上十メートル位に浮いていたのは、沙紀である。彼女は、翡翠に先行され
たので、最短距離を飛んで顕れたのだ。その姿は仮の制服姿ではなく、白い衣に緋の袴を
纏った巫女の正装で。その瞳には覚悟が宿り。
翡翠が和美達の敵意に囲まれ公園に入った為に、出し抜かれた様だ。気配は気配で隠せ
である。怒りや闘志や喜びで沙紀の索敵を潜り抜けた結果、多少翡翠が先行できたらしい。
平静・超俗・冷淡・涼気。それらの資質は翡翠にも共通するが、年下を装う沙紀には未
完成な印象がある。細い素足の清楚さが逆に艶めかしい。大和撫子と云うのか。正確には
違うが、今時の者が古風に思える要素の、その美しさを凝縮した、『永遠の美少女』で。
「……!」
躱せはしたが、この介入に翡翠も警戒の視線を隠さぬ。沙紀が今敵に回る可能性は高い。
沙紀は最低限翡翠の足止めに成功したので、ゆっくりその動静を見ながら地上に降り立
つ。
どうやって空に浮くのか等、最早誰も問わぬ。
「貴女には云った筈よ。私も譲る気はないの。
この一件では、私は貴女より関りが深い」
沙紀は一体何を考えているのか。翡翠の手を斥けて後何をどうしようと思っているのか。
両者の中間に、翡翠を左に見る形で沙紀は、
「同胞として、滅ぼされる様を黙視しては置けない。例え貴女を敵に回す事になっても」
気迫では、沙紀も翡翠に劣っていなかった。
中間に立ってはいるが、沙紀の立場は翡翠をブロックする形で明確に『白蛇』の支援だ。
「貴女は歪んでおらず一点に留まらぬ存在だ。討つべき対象ではないが、私の行動を妨げ
るなら、やむを得ぬ。貴女にもこの剣を使う」
翡翠の声はこの時点でも平静で、冷徹だが、
「片の刃は神を薙ぎ、片の刃は魔を祓う…」
沙紀は翡翠の剣の効用を、知っているのか。
「それで斬られたら、私もおしまいかな?」
それに貴女のその、岩盤の様な分厚い気迫。
沙紀は翡翠との激突の危うさを分っている。神は神でも闘神とそうではない神では、素
人と武道家程に違う。その上翡翠は神でもない。
「警告は一度だけだ。遮れば汝も敵と見る」
翡翠の凝視が、彼女の沙紀への評価を表していた。だが、その姿勢に変化はない。
敵対するもせぬも、沙紀の選択だと。
「相変わらず、強圧的なのね」
「答えないと云う答なら私なりに解釈する」
沙紀の時間稼ぎに翡翠が付き合う理はない。
禦げるなら禦いでみろと、云わんばかりに歩み始める翡翠に、沙紀は苦い笑みを浮べて、
「やはり、来て貰って正解だったわね。私の力だけで禦ぐには、貴女は少し危険過ぎる」
沙紀は更なる介入者の気配を察知していた。それはその到来を待っていた故に分ったの
か。
「なぜ、貴女がこの場にいる?」
翡翠の目線が和美達の更に向こうを見ると、そこには理恵の姿があったのだ。一体な
ぜ?
理恵は一人で走って来たのだろう。額から玉の汗を迸らせながら、荒い息の中で、
「か、下級生の女の子に、教えて、貰ったの。
翡翠が危ないから、行ってあげてって…」
使嗾した者についての記述は、不要だろう。理恵に尋ねたい事がある状況で、先に翡翠
の問に答える辺りが彼女の誠実さだ。だが次の瞬間、理恵はその場に倒れこんで苦しみ始
め。
のた打ち回って苦しむという類の動きではない。痙攣して、殆ど微動だに出来なくなる
類の苦しみ方だ。沙紀は彼女に、何をした?
「彼女、結構無理したのよ。短距離走でここ迄二キロ近く、突っ走って来たの。途中殆ど
息継ぎもせずに。余程貴女が心配だったのね。
だから私も、少し彼女に手を貸したの」
「理恵に一体、何をした……?」
「気になる? 貴女には関りない事だけど」
翡翠の表向き冷淡な視線を受けて、沙紀は、
「理恵さんの想いを受けて、限界以上に力を出させてあげたの。早くここに来たい一心で、
それを望んだから。後で辛い目に遭っても構わない、貴女が大事って念じてくれたから」
人はその持てる力の三割も使いこなせぬと、良く云われる。三割を使える者は鍛練を重
ねた武道家や格闘家だから、普通に文明社会に生きる理恵等は、二割も使っているか否か
で。
その全てを使いこなせたら、と人は良く考えるが、修練もなくそうする事が招くリスク
・デメリットに迄考えが及ぶ者は、多くない。
普段やりもせぬ使い方を強要された神経は、筋肉は、骨は、心臓は、どれだけの負荷を
被るか。その激変に果して人は堪えられるのか。
修練も積んでいない理恵が、心で願うだけで身体の準備もなく、突然潜在力の四割五割
も使えば、身体の方が破綻を来すのは必然だ。
沙紀は全て知っていた。知って突然、ここで理恵の助けを切った。こうなる事を見越し。
誰かが助けなければ破滅する理恵を用意して。
それで尚、沙紀が人の願いを受けてそれを為したとの言辞も真実なのだ。確かに理恵は、
翡翠を心配する余り、急ぐ一心でそう願った。
願わぬ者に力を及ぼす程沙紀は野暮でない。『白蛇』との違いは人の祈りを受けると云う、
神の本来の職能に忠実か否かにあるのだろう。
由香は落ち込んでいただけで、復讐等考えてなかった。彼女の中には復讐遂行中も常に
先行きへの不安とやり過ぎへの懸念、そしてこの力への怖れが、抜き難くつき纏っていて。
あの睥睨は不安感解消の為の、由香が作り出した心の麻薬だった。しがみつき切り離せ
ぬ白蛇への怖れを、誤魔化す為の。和美達はそんな由香の気の小ささ迄見抜いて救いに…。
相手が、正体の分からぬ不気味な何かでも。
友とは、有り難い物ではないか。理恵も又。
「大変。大切なクラスメート、助けなきゃ」
翡翠はそれには言葉を返さないが、
「ね! そう思うでしょ、翡翠さん」
語調は白々しくても、意思は伝わっている。
心臓だけなら心臓発作と云うが、理恵の身体は突っ走ってきた負荷に全身がショック症
状を起している。全身発作と云う呼び名があるのかどうかは分らないが、そう云う状態だ。
これは沙紀の、狡猾な迄に巧い時間稼ぎだ。
翡翠は現状、秒を争う状況にない。白蛇にここを立退く気はないのだ。舞台設定は、翡
翠が理恵を救う時間を少し要しても変らない。その上理恵の苦悶の原因には、翡翠への好
意が関っている。沙紀はこの繋りに賭けていた。
その為にも、理恵には本当に危ない状態になって貰う。放置すれば命が危険になる程に。
理恵を救うには、理恵に何かせねばならぬ設定も巧妙だ。ここで沙紀が理恵の心臓に力
を及ぼすなら、翡翠は沙紀を倒すだけで良い。翡翠の足止めにはなるが、己も手が放せな
い。
だが、これ迄の理恵の無事が沙紀の干渉の故で、それが消えた瞬間に理恵が破滅に瀕す
るこの状況では、沙紀をどうしても無意味だ。
「……束の間でも、友だ」
翡翠は理恵に駆け寄る。
「そうしてくれると、信じていたわ」
沙紀もこれで稼げた時間を、無為に過ごす積りはない。沙紀の望みは、翡翠の撃退や抹
殺ではなく、白蛇の方にこそある。
「翡翠に任せれば殺してしまう。その前に」
「翡翠……。あ、有難う。でも何かどんどん、苦しさが、戻ってくる感じがするんだけ
ど」
駆け寄った翡翠の所作に、特別な物はない。力の及ぼし方の一般的な手法は、背中をさ
する事だ。常の人が為しても効果ゼロではない。
「苦しさを感じられる状況迄、身体が復して来ていると云う事だ。もう少し、黙って…」
理恵に外傷はない。見比べれば、転ばされ蹴られピアノ線で切られた翡翠の方が、ずっ
と痛手を負って見える位だ。少しの間を乗り切れば、彼女に疲労以外の後遺症は残らない。
「翡翠こそ、怪我してるじゃない。危ないよ。
だから気を付けてって、云ったのに……」
自分の危うさを理解してない故の言葉だが、この時点での己への気遣いに翡翠も苦笑し
た。理恵のこの好意はどこから湧き出るのだろう。
「こんなに滑らかな肌に、傷が残っちゃう」
「私は、大丈夫。全部、掠り傷だから」
「痛そうだよ、痛がってる。可哀相だよ!」
理恵は翡翠の僅かな無表情の切れ目に食い込んできた。それは理恵の想いの強さなのか。
「翡翠の肌が痛がってる。翡翠の腕や足が泣いてるよ。強くて何にも堪えられるからって、
無駄に痛めちゃいけないよ。翡翠が強くても、翡翠を心配する人はそんなに強くない。血
を見れば、怪我を見れば心配する。気になるよ。翡翠を護れない事を気に病んで、後悔す
る」
「私を、護れなかった事を、気に病む…?」
そう云われた事は、翡翠も初めてだと思う。
心の扉をこじ開けられた感じで、意外そうな顔色を見せる翡翠に、理恵は畳み掛ける様に、
「当り前でしょ。翡翠は大切な友達なの!」
約束破りの、出来の悪い悪友よっ。
確かに、翡翠はできる範囲で理恵に配慮はしたが、それは理恵が思う程熱い友情では…。
「翡翠が何者でも構わない。誰と敵味方でも、どうでも良い。私は翡翠の味方よ」
この思い込みの激しさよ。彼女は卓との恋にも、この様に情熱的に挑んだのに違いない。
それは翡翠の心の内側迄入り込むかに思えた。
「私には、友は要らない」
だが、翡翠は自らの縛りに、踏み止まった。理恵は人で、翡翠は神でも魔でも人でもな
い。
「私は翡翠。神でも、魔でも、人でもない者。故にその行動は、神にも、魔にも、人にも
縛られる必要はなく、縛られてはならない…」
休憩は、終りだ。理恵は危機を乗り越えた。
立ち上れぬ理恵を残し、翡翠は背後を見る。
向うでは向うの展開があった様だが、翡翠にそれらの斟酌の必要はない。状況は同じだ。
「さて、そろそろ、決着を付ける頃合か」
「祀るとの口実の元に封じられ、願いと恨みに縛られ制約され、報恩もなく忘れ去られ」
「私もそうだった。それは神の定めだった」
その後の展開は、沙紀に何も益する事のない堂々巡りで。時間制限がある沙紀は焦燥に
駆られるが、相手は予想より頑迷だった様だ。
「儂は古くから、もう覚え切れぬ程昔からこの地にあり、ずっと人の願いを受けてきた」
「私もそうだった。かつて、人が神を敬う心を広く長く、深く持っていた時代に生きて」
神は神同士での、通じる話題があるのだが、
「それが、どうだ。用がなくなれば捨て去る。
碌な手続きも話も納得もないまま、神の社が預り主に過ぎぬ人の手を勝手に行き交って。
誰にも忘れられ、誰にも捨てられ、儂が今迄受けてきた人の思いは一体どうなるのだ」
それは忘れ去られた老人の、愚痴にも似て。
童女の前に、淡く白いうねりが浮び上がる。
「人の側に、手落があった事は確かよ。でも、戻らぬ日々を懐かしんでも、得る物はない
わ。ここに生きる人の思いを受ける『神の縛り』を超え外に出ましょう。自らを解き放っ
て」
「儂はここを動く気はない。儂はここの神ぞ。
儂はお前の様に浮遊した、根なし草の、守るべき物持たぬ何かに落ちぶれる積りはない」
「貴男は歪んでいるのよ。気付いてない?」
彼の語調が妙に俗っぽい事を沙紀は指摘し、
「もうここは神域ではないの。清浄ではない。
ここは俗世間。人の雑多な思い、憎しみも喜びも恨みも享楽も交錯する、人の世界なの。
敬虔な思い、必死の願い、そう云うものが来る事を前提にした場では、なくなっている。
それどころか、ここには暴力的な、刹那的な、欲望や憎しみや、倦怠感が積っている」
受ける祈りも選ばないと、人の思いに左右され私達も変質していく。ここに集う雑多で、
時には悪質な願いを、少ないからと喜んで受けてばかりいては、貴男自身が歪んでいくの。
「黙れ黙れ。ここで祈る人の心を、神としてどうして放置できようか。叶えた者は我に感
謝する。更に祈る。民人を増やす。それが我が力となる。かつての栄華を、取り戻す迄」
「栄華は人の物なの。神の物ではない。人の祈りや願いを受ける為にある私達が、人を操
り煽ってはいけない。それは力の濫用なの」
神や魔の存在意義は己の拡大強化じゃない。
「それではいけない。願いも選び取らないと、願う人間に押し流され、私達も操り人形
よ」
「儂は操られはせぬ。儂は願いを叶える事で、人を操っておるのだ。そうとも、儂は
…!」
「心のバランスを取り戻して。
自身の心を、見つめ直して。
人が神に縋るだけでは物事を解決できない様に、神も人に縋るだけでは神の業を越えら
れない。この場から離れ、己を解き放って」
「ええい。お前は己が護るべき物を失ったその腹いせに、儂にも同じ思いをさせようと云
うだろうが、そうは行くか。聞く耳持たぬ」
人には人の理がある様に、神には神の理がある。それに基づく説得を聞き入れない時…。
「そんな事……せめてこの場に執着しないで。
少しの間で良い、ここを離れて。俗世の醜悪さが、定着し動かぬ貴男を知らず知らず歪
ませている。人は以外と広い範囲を動き回り、誰かと何かと接触して、歪みを緩和してい
る。
定着した神は、清浄な処にいる前提だから、俗世間に対処しきれないの。お願い。少し
の間で良い、ここを離れて。そうしないと貴男滅ぼされてしまう。翡翠は別(こと)天つ
神。
数少ない仲間を、失いたくないの!」
童女の声には、悲壮感が籠もってきている。
「落ち零れに仲間呼ばわり等されたく無いわ。
我が神域を脅かす者は何者であれ許さん」
儂はこの地の神だ。この地に生きる神だ。
「この地を離れ、神に生きる意味等あるのか。逆に問う。貴様は一体何の為に在り続け
る」
言葉に詰まる沙紀に、老いた神の声は強く、
「儂の神域を盗み取ろうと云う企みに、乗せられるか。貴様から始末してくれる、小娘」
「待って! 待っ、はうっ……」
沙紀の身体をピアノ線が縛り付ける。強靭な線が巫女の衣を引き裂いて、細い身体に食
い込むと同時に、正面から現れた操りマネキンのナイフが、沙紀の心臓近くに突き刺さる。
「ぶふっ……」
闘う態勢に無い沙紀には禦ぐ間が無かった。この憎悪の爆発は、最近の人間の『キレ
ル』心の動きに似ている。神の性向ではない筈だ。それも気付けないのか。気付きたくな
いのか。
「駄目よ。憎しみに、流されているでしょう。
それでは、駄目なの。神は、人の憎しみを、聞き入れる事はあっても、自ら何かを誰か
を、憎むべき物では、ない……。分って……」
沙紀が肉体の損傷で死ぬ可能性は、僅少だ。
だが神々といえど、急所を刺されれば無事では済まぬ。死なない故に痛みは却って長く…。
「浮遊霊が、勝手に云っているが良い!」
マネキンに、突き刺したナイフを抜かせず、刃で沙紀の身体を抉らせようとする。その
時、唐突にそのピアノ線の緊縛が解ける。
「……!」
マネキンが心臓部を長い剣に貫かれ、数メートル飛ばされて、白い陽炎の辺りに落ちる。
貴様、おのれ! その老いた声は無視して、
「巧く行かなかった様だな……」
翡翠は沙紀の目的を分っていたのだろうか。屈む沙紀を、支えようとも斬ろうともせず
に、
「やはり、剣が出る事になるか」
歩みだす翡翠の右足を、沙紀の左手が掴む。
「……苦しませない様に、お願い……」
事ここに至れば万策尽きた。相手にその気がなく、今の沙紀では、これ以上は望めない。
沙紀が種々の策で翡翠の動きを鈍らせ、止めんとしたのも、同胞を救いたい思いの故だ。
翡翠の力を知る沙紀に残された術は、彼をその標的から外す事だった。その最低条件が、
留まって歪み続ける現況の改変で。
宅地になっていれば、彼も諦め、この地を離れる気になったのか。だが、人が定住せぬ
公園と云う中途半端−元は社だった地への微かな配慮−が、この神に望みと累をも残した。
「私は私の為すべき事を為す。確か、これは貴女の言葉だったが、私もそうさせて貰う」
沙紀には致命傷ではない事を分っていてか、翡翠はそれ以上彼女に関らぬ。沙紀に先行
させる事も翡翠には一種の障害物除去になった。
沙紀が説得に成功すれば翡翠の白蛇追討は不要になり、失敗すれば沙紀は白蛇の説諭を
諦め、翡翠の妨害には出なくなる。
「う、の、おうれぃ……!」
心臓を刺されても尚動くその人の形を、翡翠はもう一度、頭から真っ二つに断ち切って、
陽炎の中に突進し。誰も邪魔する者はいない。
「汝の歪みを、その存在ごと消す」
白い陽炎の中央部分に分け入って、地面にその剣を突き立てると、翡翠は気合を込めて、
「はあああぁつ!」
何があったかを視覚で知る者はいなかった。だが皆が感知できていた。肌を震わせ頭を
揺さ振り、魂に響くこの感覚。周囲に巻き起る小さなつむじ風は、その気合の象徴に過ぎ
ぬ。その真の影響は、老いた神の想念を、彼に託されていた想いごと消し去る、猛烈な奔
流で。
何かの叫びが聞えた気がした。気はしたが、それは肉声ではなく、心に微かに届く残滓
で。既に実体を取り得ぬ程衰弱した白蛇の神には、翡翠の繰り出す気合の奔流は苛烈過ぎ
た様だ。
全てが終った後で、本格的な雨粒の群れが額を打ち付ける。それは誰の涙雨だったのか。
「翡翠……! 大丈夫だった?」
何がどうなっているか分らない中でも、翡翠に平然と駆け寄れる。その身を案じられる。
理恵の深甚な好意はどこから湧き出るのか。座り込んで傍観していた和美と江里香の脇
を駆け抜けて、走り来る理恵は未だ顔色が青い。
「貴女が心配する必要は、ない事だ」
冷淡な受け答えにも、慣れたと云う表情で、
「いいえ、私が貴女を心配するのは、私の正当な権利よ。私は貴女を、好きなのだもの」
理恵は平然と言い切る。逆に翡翠がどう応えて良いか分らない感じで、困惑の顔を見せ。
「貴女達には、二重に悪い事をしたみたい」
脇から介入する沙紀の声に、理恵は改めて心配の目線を向ける。彼女に翡翠の危機を通
報して急かした少女の顔は、未だ忘れてない。
「ねえ翡翠。彼女は、病院に行かなくて…」
「その必要はないわ」
翡翠の答よりも早く、沙紀が拒絶の語調で、
「貴女の情けを受ける値は、私にはないの」
病院が不要である以上に、沙紀には理恵の優しさが負担になって。その気持ちは翡翠に
も少し分るが、沙紀の思いはもっと重層的だ。沙紀には、理恵にもっと大きな負い目があ
る。
「……貴女の心に、翡翠さんに抱いた友情の芽を、意図的に植え付けた、私には。
そう思うでしょう、理恵さん……」
「……?」
心臓を貫かれた痛みを、死なぬが故に逆に治る迄苦しみ続けねばならない沙紀は、屈ん
だ姿勢のままで、顔をあげる事をせず、
「翡翠さんの行動を抑える為に、善意でその動きを見守り、縛りたがる資質の持ち主を選
んで、好印象を植え付ける工作を、私はした。
貴女をこの場に走らせたのも、貴女を瀕死の目に遭わせたのも、私の目的の為。私には、
貴女の心配を受ける値はない」
ここ迄明かす必要はなかったかも知れない。
だが沙紀には、目的の為でも策謀的に動いた己への嫌悪が積っていたのか。何も知らぬ
理恵の善意が重荷だった様で、云わない事が心残りになると見極めたらしい。
雨が彼女達の艶やかな髪を、濡らしていく。
「……」
翡翠はそれを予期していた。と云うか元々友情を過信しないので衝撃が少ない。所詮行
きずりの関係と云う、諦観に近い思いがある。
だが、予想を更に超えたのは理恵の反応で、
「そこ迄して、護りたい物が、あったのね」
それは、護りたい何かを持つ者にしか理解できぬ想いだ。恋人の卓、友達の翡翠。見掛
けに寄らず情熱的な理恵だから、分ったのか。
「誰かを自分を傷つけ、時には己を貶めて迄、護りたい何かがある。大切なのは結果で、
手段を選んでいられない。どうしても失えない。
そう云う時は、人にも神にもあるものね」
私も、翡翠が傷つくのを座視できなかった。
だから、貴女の囁きに応じたの。
「私は結局、翡翠の足を引っ張る事に、なっちゃったけれど……でも、有難う」
貴女のお陰で、翡翠と友達になれたから。
沙紀が理恵にそれ以上何も答えず、話の対象を翡翠に移したのは、愚かさを突き抜けて
極めた人の良さに、耐えきれないからなのか。
「翡翠さん。貴女には礼も云うべきかしら」
その語調は皮肉を過ぎて敵対的でさえある。
「私が負うべき苦味を代りに被ってくれて」
歪みの是正は、翡翠のみの職権ではない。
犯罪者の身内が、警察への出頭を促すべきなのと同様、神の歪みは神々で整理すべきだ。
和美や江里香が由香を弾劾しつつ外部の翡翠からは庇う様に。苦しみや悲しみを負っても。
神でも魔でもない翡翠の登場は、強制執行だ。
説得を聞いて貰えなかった無情と、他者に処分を委ねざるを得なかった苦衷と、結局は
数少ない同胞を失ってしまった寂寞と。沙紀の心に残る想いは失望で、寂寥で、悲しみで。
沙紀の頬を流れ落ちるのは、雨粒ばかりではない。あの神の言う、浮遊霊という非難も、
あながち間違いではない。その苦味迄を含め。
「そこ迄して護ろうとして、護りきれない」
可哀相にと言外に込め。大切な物を失ってない理恵は、そこでは共感出来ず、同情する
のみだ。こう云う時は冷厳さの方が有り難い。
「私は、為さねばならぬ事を為しただけだ。
私は地には縛られず、己の使命にのみ縛られている。今の貴女がそうである様に」
翡翠は髪から額に流れる雨の雫を拭いつつ、
「仇討ちを望むなら、いつでも受けて立とう。
我が前に、立ちはだかると良い」
翡翠のこの言葉は実は、微かな同情を示す。やり場のない悲しみに身を焦がし、自責の
念に耐えられぬなら、翡翠を恨み闘いを挑めと。
勿論、負けてやる気も手加減する気もない。だが、自分で背負い切れぬ悲しみや苦しみ
に潰された者が最後に選ぶのは、自虐か他虐だ。
無力な人に八つ当りして己を貶める位なら、思い切りぶつかって来いと云うに等しいこ
の言辞は、翡翠流の思いやり、なのだろうか?
「彼(あの老いた神)も、貴女を恨んではいないでしょう。最期の感覚は悪くなかった」
沙紀は闇空に顔を上げて、天を仰ぐと、
「彼は最期に、歪みから解放された。死は一般に望むべき事でないけれど、時を得た死で
救われる人生もある。彼は一面喜んでいた」
生きる為とは言え、己を貶める事は悲惨でもある。自分が安い存在に落ちていく課程を
味わう程に苦しい事は、ないのかも知れない。
あの瞬間の叫びの中に、沙紀は翡翠と同様、老いた神の長久な記憶に、同調していたの
か。人と近しかった頃、正常で温厚だった頃、若く血気に逸る頃もあった、太古からの営
みを。
喜びとは、幸せとは、何なのか。それは神にも魔にも確かな答を出せる問ではない様だ。
「私は沙紀。今となっては護るべき何物をも持たない、落ちぶれた【もの】だけれど…」
未だ私が為さねばならない事は残っている。
「……後悔に捕われ、誰かを恨む事で、この【神生】を食い潰せる程、私も暇ではない」
責任感でか、誇りでか、情熱でか。沙紀は痛みを堪えつつ、雨中でゆっくり立ち上ると、
目線を横にずらして翡翠の顔をじっと見つめ、
「もう私がここに留る理はないわ。お先に」
タンと地を蹴ると、如何に身軽とは云え人には無理に近い高さに、飛び上がる。沙紀は
そのまま昼尚暗い闇空に、紛れる様に消えて。
異常事態の後始末を翡翠に任せた形なのは、沙紀のせめてもの腹いせだったのかも知れ
ぬ。
「翡翠、雨合羽一着持って来たの。被って」
翡翠が酷い目に遭わされた後なら、傷や汚れや涙を見せぬ為に、身体を覆う何かがいる。
そう発想できる細やかさが女子の特長なのか。
理恵が翡翠に、それを着せようとするのに、
「貴女が風邪を引く。貴女ももう知ってしまった様に、私の身体に心配は要らない」
「そうじゃない。風邪を引くかどうかじゃなくて……。翡翠の服が、切れ過ぎているの」
既にこの場にいる者は、雨に曝されて全員ずぶ濡れだ。今更合羽を羽織る意味とて薄い。
「翡翠の服、ぼろぼろに切れているでしょう。見せなくて良い所迄、肌が見えちゃうよ…」
本格的な雨が、額を打ち付ける。降りそうで降らぬ、降雨を押し止め時間を止めた様な
状況が、漸く動き出した。そんな錯覚がある。
「一応見かけは、綺麗な女の子なんだから」
翡翠が虚を突かれた顔を見せる間に、理恵はその腕に雨合羽を絡ませ、半ば押し着せる。
「一応、ね……」
翡翠の静かな反応に理恵ははっと気付いて、
「あっ、御免っなさい! 失礼しちゃった」
「確かに、その通りだから返す言葉はない」
翡翠が苦笑いを見せたのは、理恵の錯覚か。
「だが、自身の抱く好意が、誰かに作られた虚像・幻影に依拠する物と分って尚、貴女は
私への好意を持ち続けられるのか?」
これは深甚な問だと、翡翠自身思っていた。これが友情の終焉にもなりかねぬ、問であ
る。
「うん。ちょっと、ショックだったけどね」
だが理恵の答は翡翠の予想を超えて自然で、
「でも、それって、きっかけだけの話でしょ。
私の心を如何に神様でも、常に操り続ける事は出来ないと思うの。所詮別人の心だもの。
なら、出会の好印象が沙紀さんの作為でも、その後で抱いた貴女への好感・友情は私の
物。
あの人はお見合の場を設定してくれただけ。その後の私と翡翠の関係は、私と翡翠で作
り上げてきた。そう思えたら、何も怖くない」
あの人が私を選んだのも、私が翡翠を好むって分ってたから。だとすれば、あの人の作
為は実は余り大きくなく、私達で作り上げてきた信頼関係と云って、間違いでないでしょ。
「貴女に出会えた事が、私はとても嬉しいの。
だから、私は沙紀さんに感謝しても良い位」
沙紀は成功しすぎたのかも知れぬ。翡翠はやや圧倒されたと云うか、処置なしの状態で、
「お見合に、例えるか。……彼氏が聞いたら、誤解するぞ」
理恵はそんな言葉を気にもしてない。
「知らない? 『嫉妬される程、良い女で居たい』って台詞。この前ね、小説で読んだの。
それが、主人公がとっても味のある女性で」
今度、貸してあげるね。
云いつつ理恵は、翡翠の雨合羽の襟を整え、
「はい、これでさっきより目立たないと思う。でも早く帰って着替えよう。ずぶ濡れだ
し」
「……そうしよう」
二人は既に歩き始めており、尚座り込んだまま動かぬ和美達の脇を通り過ぎる。江里香
も和美も、気が付いた数人の女子も、雨中で翡翠に挑もうとはしなかった。和美達は和美
達で、自分達の事情の整理に忙しかったのだ。
「ご免なさい、ご免なさい……」
怖かった。とっても不安で、怖かったの。
雨中に座り込でいる江里香に、身を投げ出して由香が泣きじゃくっている。江里香が動
かないのは、由香を受け止める為だ。周囲に集まる仲間達にも、弾劾の怒気はない。
「ああ、後でみっちりお仕置きしてやるから、今の内だけ、よおぉく泣いて置くんだよ
…」
「彼女達は、どうなるの……どうするの?」
理恵の二つの問に、翡翠はすぐには答えず、切れ長の眼を後ろに向けた。和美の気配、
何かを翡翠に発しようと云う気配を察したのか。二人は十数メートルの距離を置いて対峙
する。
「翡翠! 今度だけは、礼を言っておくよ」
こっちの身内は、助けて貰った。ただし。
和美はそれでも翡翠への鋭い視線は変えず、
「今度私の身内に断りもなく手出しをしたら、例えお前でもただじゃ済まさないよ」
叩き付ける語調にも、翡翠は冷徹なままで、
「憶えておこう。紀村和美、岡本江里香」
これは和美の休戦宣言だ。翡翠が和美達に手出ししなければ、和美達も敵対しないと…。
由香の一件が終えた以上、翡翠が和美達に手を出す必要もない。和美が敢てこう云う意
味は、その辺にしかないのだ。和解迄行かないが、敵対関係ではなくなった。上々だろう。
「……漸く、名前を呼びやがった。畜生め」
この返事に和美は苦笑いを見せた。一件が全て終って、漸く翡翠は和美と江里香を、自
分の視界に入れるに足る存在だと認めたのだ。
「少年漫画に出てくる、ライバルのノリね」
理恵は感心しつつ、少し羨ましそうな視線さえ送ってそう呟くのに、翡翠は尚も平然と、
「彼女達の性格を考えれば、これ以上忘れさせる工作をする必要はない。警戒し過ぎて無
用の策動を為すと、却って綻びが生じる物だ。
彼女達はもう、私に関っては来ない」
事を暴露しようとも、しないだろう。
素人の喧嘩と命のやりとりをする武道では、同じ肉体を使った応酬でも、その世界が違
う。和美達と翡翠の闘いが、全く違う物と分った以上、和美達が翡翠に挑む必要は、ない
のだ。彼女達には彼女達の世界がある、青春がある。
問題があるとするなら、それをはみ出し翡翠の世界に踏み込みつつある理恵の方だろう。
「未だ起きてない者も気絶しただけだ。少し疲労しているが明日になれば痕も残るまい」
「私から、聞いても、良い?」
聞きたい事は今迄勝手に聞いて来た理恵が、こう尋ねるのは、理恵が聞きたくない内容
だ。
「翡翠は、いつ迄ここに居てくれるの…?」
友達になれたばかりの理恵には辛い、だが聞かねばならぬ問だった。翡翠の正体を凡そ
知った理恵には、為すべき事を終えた翡翠がここを離れるのが、時間の問題と分っている。
これは人の常識では測れない。神でも魔でも人でもない、翡翠の判断でしかないのだと。
「もう数日、ここにいようと思っている…」
数日しか、と思いかけた理恵を制して、
「本当は、今から姿を晦ましても良いのだが。
次に赴く所が定かでない事情と、この辺りにもう少し引っ掛りを、感じた……。何もな
いか、何かあるか。確かめるのにあと数日」
「数日……。いつも、そう云う感じなの?」
「時と場合によるから、平均値に意味はない。ただ、用が終れば留まる理はないから去
る」
私は、神や魔でさえないから。淡泊ともドライとも云えるその行動は、簡潔明瞭に過ぎ。
「騒ぎにならない様、上手に後始末して?」
「人は多く己の望む虚像を求む。望む虚像を与えれば、人は驚く程単純に幻想に安住する
物だ。貴女もそれは心得ておいた方が良い」
貴女の様に真実に迫る者は、そう多くない。
「わざわざ私に、種明かしをして良いの?」
「貴女を欺く事は諦めた。だから構わない」
翡翠は確かに理恵に好意を持ち始めている。
出口迄来た時、理恵が何か思い出す様に翡翠を振り返った。まじまじと見つめる理恵に、
「……何か、云いたい事でも?」
「翡翠、あの剣は。忘れたの?」
翡翠は鞄しか持ってない。意表を衝く問い掛けに思えたが、次の瞬間翡翠は平静な声で、
「心配無用。回収は終えている。それより」
野球部や彼氏は、放置したままで良いのか。この雨合羽、どうも彼氏用の寸法に見える
が。
「心配無用、相合傘で帰ります」
語調を反復させて答える理恵に、
「彼が待っていてくれればの話だと思うが…。 雨天でもここの野球部は練習するの
か?」
理恵が愕然とした顔を見せた。雨天なら練習は休みだ。体育館はバレー部が使っている。
拙いと一声残し、理恵は学校に走り去って。
翡翠がその背に確かな笑みを見せる。それは、何か楽しい物を見付けた時の笑みだった。