第2話 答は己の奥の奥に

 夜の病棟は音もない侭、異質な何者かの跳梁にその静寂を乱されていた。
 面会者も帰り、消灯時刻を過ぎ、寝息の他には、風が窓を叩く音しか聞えぬこの夜更け。
病棟は無機的な非常灯の輝きが冷たく、雑踏や生活感は綺麗に拭い去られ。近代病棟の清
潔感が、逆に人の気配・親しみを断ち切って。
 消毒用アルコールの香りが、どこからともなく、周囲の全てから感じ取れるのは、ここ
が入院病棟だとの先入観から来る錯覚なのか。人を治す筈の病院に感じる、不思議な警戒
感。
 何かあると思わせる。何もないのに、ない筈なのにそう思わせるのは、生と死と、人の
運命を最も深く分け隔つ力場が持つ歪み故か。多くの人を収容し、死に行く人を活かし、
生を望む人を看取る。近代医学の粋を凝らした命を守る要塞であると同時に、彼岸に最も
近い幽明の境でもあるそこに、夜に蠢く何者か。
 姿を見た者はいない。存在を確かめた者もない。病院の怪談にありがちな、深夜蠢く得
体の知れぬ影。どこかで聞いた様なその噂は、病棟で夜を過ごす者の一部には、心底恐怖
に値するのに、信じられず、孤独・孤立を強い。
「いっ、ひっ……、いっ、あっ……」
 漏れ出る小さな悲鳴は、悪夢の故か。ナースコールのボタンも押せず身悶えて、痙攣す
るのは、体と心が寝ぼけて繋ってないだけか。
 快方に向かう筈の病人が、理由も分らぬ侭衰弱する。安定した容態が、精神面迄含めて
突如乱高下し、一進一退を繰り返す。まだ死期に早い筈の患者が、生気を抜き取られた様
に一夜で息絶えていた事実は、極秘扱いにも関わらずその日の内に知らぬ者等なくなった。
『帰れなくなる……帰れなくなる』
 家に、家庭に、生者の住む娑婆世界に。
 静かな波となって不安は、人々の心を飲み込み押し流す。誰もが誰も、一応保つ平静の
裏側に、言いえぬ不安を隠せない。隠せない互いの顔を正視できぬ故に、尚己の中に沈む。
己の恐れから逃れる為、時の経過を待ち望み。
 時が過ぎれば、昼が過ぎて夜が訪れるのに。
「うっ、うっ、うえっ、おっ……」
 心臓をざくざく刺される錯覚は気の所為か。
 四肢を押さえつけられて身動きできぬ金縛りは、単なる自然現象なのか。
 魂を砕き吸い出される虚脱感、心臓に穴を空けられた気がするのは、唯の悪い夢なのか。
 扉は誰も開けてない。昨夜も今夜も消灯前に個室にいたのは彼女一人だ。誰一人出入り
もなく、朝目覚めれば誰もいない。ベッドは掻き乱されているが、その寝相が物語る様に
彼女の所作だ。だが違う。悪夢に魘される前の彼女はここ迄布団を乱す寝相ではなかった。
そして思い出した様に疼く、心臓辺りの痛み。
 針でも刺さっているのか、否、何かを突き刺された跡の治りかけに近い痛みに、誰も有
効な説明は出来なかった。唯、痛みは彼女の体よりも心をより強く掻き乱し、侵して行く。
 理性を崩し、感情を。平衡した思いを砕き、傾きに抑えの効かぬ思いの丈を。誰かを頼
りたい思いを消して、誰にも頼れぬ孤立を望み。必死に、必死に己の中から何もかもを消
して。
 目の前に広がるこの光景を、錯覚だと必死に己の目を背け。しかしナースコールを呼ぼ
うとする腕は指一本動かす事も叶わず、助けを呼びたい喉は一息を吸い込む事も能わずに。
 尋常ではない。尋常ではないがそう認めては耐えられないから、無理にでも否定したい。
ここから逃れ得ぬ事を、悟った様な行いだが、彼女はもうすぐ退院の予定ではなかったの
か。
 そんな事も分からなくなって。否、退院出来ぬ状況に己がいると思いこまされている?
 誰に、一体何者に? この所作は一体誰が。
 病院側は当然必死に否定したが、奇妙な事に患者の大多数も、この不安を必死にうち消
そうとし、事を隠そうとした。認めたくなかったのか。狂気の如く看護師や職員に心霊を
訴え救済を求めたのはごく少数の者に過ぎぬ。
 自分達は、『死の病棟』にいるのではない。生きて病を治し元気に社会に家庭に戻るのだ
という建前に身を浸し、目前の今夜の脅威に目を背け、唯身を晒す以外に術を持たぬ、逃
げる事さえ考えつかぬ多くの者に、囲まれて。
 ああ、今夜もまたあれが来るのか。
 ああ、今夜も朝迄絶える夜が来る。
 訪問者よ、貴方が見えません。見えぬ物はないのです。見えぬ貴方が何をしても、為し
た事迄含めて存在しない。故に私は防がない、逃げもしない、気付かない。この痛みは錯
覚。
 でも痛い。でも萎える。恐ろしい。幾ら目を逸らし心欺いても、理屈で装っても我を貫
くこの痛み、この悔恨。夢なのに、幻なのに、あり得ぬ者をなぜこれ程怯え震え、忌み嫌
う。
 闇よ。闇には実体はない筈だ。光に照らされれば、そこに何もなかったと分る筈なのに。
「いっ……! いっ、ひっ……」
 何故その悪意が肌を通じて感じ取れるのだ。
 何故その憎悪が息吹を通し察し取れるのか。
 何故その害意が自分に向けられねばならぬ。
 だが間違いなく、その標的は彼女なのだ。
 ああ、視たくない。視たくない。見えずに済むなら、否、済まされなくても視たくない。
 故に彼女は、悪霊の噂なんて絶対信じない。決して認めてはいけないと分っていた。非
合理的な、獣の直感に身を委ねてはお終いだと。
 だから耳を傾けない。根拠のない噂話にも、夜に耳元で語りかける地獄の声にも、己の
内なる直感の警告にも、全てに耳を塞ぎ、心を閉ざし。何も見えない、何も聞えない、何
も感じない何も認めない、何も何も何も何も…。
 頭を下げて夜を過ごせば、朝は必ずやってくる。今迄もそうだった以上、今後もそうだ。
台風は過ぎ去り、冬は春に変わるのだ。例えこれが悪夢でも、否悪夢ならこそいつか終る。
 何もしない。する必要がない。してはならない。する事が相手を認知し、牙を剥かせる。
「ううううう、ううううううう」
 微かな呻きは、泣く事も出来ぬ中途半端な嗚咽は、口でも喉でもない処から漏れ。上に
被さる黒い影も、満たされる日を期待できぬ狂気に身を委ね、獣の唸りに近い息吹を重ね。
 気付かぬなら良い。だが、いい加減気付く筈だ。気付け、認めろ。でも逃げは許さぬと。
魂を抑え、心を圧し、命を鷲掴みに縛り上げ。
 朝迄続き、朝で終るその行いは、次の夜に持ち越され、終りを見せぬ。朝が来る以上夜
も必ず来る事を、互いは心の底で知っている。そうと分って尚逃げぬ者の心のあり方こそ
が、本当の不可思議なのかも知れぬ。
 だがそれはありがちな話の故に、幾ら信じる者が言い募っても、信じぬ者は取り合わぬ。
入院患者と看護師の少数が身を震わせる一方、信じぬ者は何がどこで進んでも知る術もな
い。
 何者かの哄笑と何者かの呻きと、何者かの嗚咽と。そしてそれらを包み込む沈黙の闇と。
 人の心を蝕み、人の命を侵し、人を穢し。
 病院は、目の前に患者が衰弱し、錯乱し、助けを求める事実があっても尚、手を打たぬ。
打つ必要がない、だって何もないのだからと。手を打てば、瑕疵があった事を認める物だ
と。
 どこかで聞いた問答の繰り返しの末に、視て視ぬ物達のごく間近で、視て視ぬ者を獲物
にし、今宵も夜の闇より深い影の浸食は進む。五十メートル先のナースセンターが、遙か
に遠い。彼にも彼女にも人の助けは来なかった。

「今晩の面会は、もう終わっちゃいました」
 見るからに外部の者の香りが濃厚な来客に、史恵は少し砕けた語調で話しかけ、背に先
輩の主任看護師の咎めの目線を感じてしまった。
 しまった。もう面会者も来ない頃合だから、気が抜けていた。そう気付いても、もう遅
い。
 夜も九時を回っている。面会者も終了時刻九時ぎりぎり迄いる事は滅多にない。帰るべ
き者は帰り終え、消灯を迎えるこの時刻、病棟に人が来る事はまずないのだ。
 この時刻にもなれば病院の正面玄関も閉まっている。急患用に裏玄関は二十四時間通れ
るが、そこを通って面会終了時にここ迄足を踏み入れる者を、普通想定しない。
 三方向に伸びる入院病棟は、その付け根に看護師達の詰め所を兼ねるナースセンターを
置き、エレベーターでも階段でも、外部から入り来た者、或いは出て行く者が、どう出入
りする際も、通らねばならぬ様に出来ている。
 患者の行動に責任を持たされる一方、外部からの不用意な侵入にも適切な対処が求めら
れる病院ならではの、最適の位置に張ったこの網に、来訪者も立ち止まってくれた訳だが、
「−−に会えると思ったのに、残念ね」
 最初の方は良く聞き取れなかった。しかしその語調は、文字に表す程残念そうではない。
声にも感情の起伏は希薄で、静かに艶やかで。
 黒衣の女。黒いスーツに黒いガウンを羽織り、ショートな黒髪の若い女だ。二十三歳の
史恵より年下に感じるが、妙に老成した感触が気になる。若さの割に落ち着きすぎている。
 黒いサングラスの所為かも知れぬが、それ以上にこの平静さは尋常ではなさそうに思わ
れた。静かなのに、大人しいという印象が出てこない。虎が蹲り、猫を被った様に感じる。
 身長はそう高い方ではない。百六十五センチ弱の背丈は、百五十五センチと小柄な史恵
には見上げる形になるが、現代日本の女性として目立つ程ではなかろう。史恵の後ろにい
る主任看護師の篠原翔子は百六十八センチだ。
「もうすぐ消灯です、申し訳ありません」
 威圧された訳ではない。気圧された訳でもない。対峙するだけ、会話するだけなのだが、
相手は何か史恵ではなく史恵の後ろの空間迄含めて会話している様で。相手の掌の上で転
がされる感じなのか。手の内を隠しつつ隠した事を示す様な対応に、史恵は腰を引かされ
つつも、好奇に似た思いに前のめりに導かれ。
 こんな錯覚は、初めてだ。この病棟勤務であっちの方面の感覚が妙に研ぎ澄まされてい
る故なのか、或いはそれらの噂に惑わされて、不要な鋭敏さを己が作り出している故なの
か。
『人ならざる雰囲気を、人に感じるなんて』
 細身だが、スレンダーと言える程ではない。
 端正だが、衆目を唸らせる程華麗ではない。
 可愛らしさでは明らかに史恵に軍配が上がるし、凛とした美しさでなら翔子が上だろう。
この女も理知的な容貌は持つが、それだけだ。素材は悪くないと思うがそれ以上の何もな
く。美人に近いが美人ではない。その差は大きい。
 だがこの女性の本質はもっと違う処にある。キャリアウーマンのキリリとした美しさで
も、ほのぼのした可愛らしさでもない、もっと別種の何かを隠し、隠しつつも滲み出てい
る…。
 奇妙な、圧迫感とも言えぬ気配に押される。沈黙しても、会話を交わしても押されてい
る。
 これは錯覚なのか。それとも実感なのか。
「そう……」
 相手が未練を抱くだろう事は、分っていた。夜更けに来る事自体、逢いたい思いが強い
現れだ。入院患者が彼女とどんな関わりを持つのかは分らぬが、その求めは切実なのだろ
う。だが、そうと分っても意に添えぬ場合はある。
「明日は、朝九時から面会ができます」
 断りと促しを兼ねて躱しに掛るが、史恵は実は押しが弱い。カールの茶髪の軽やかさ・
可愛いさが、相手の強気を導くらしい。無邪気で誠実そうな童顔が、相手に無理な要求で
も押せば受け入れられそうな錯覚を呼ぶのか。
 強引に引っ張ってくれる事を望む発想に問題がない訳ではないが、彼女はその姿形から
押され易いタイプなのだ。故に翔子の様な者と組ませないと、善良さの故に危なっかしい。
 二人での夜勤病棟詰めも数巡を経ている翔子は、史恵の弱みも強みも大凡把握している。
その断り方では押しが弱いと感じ取れたのか、
「本日の面会は終ってます。お引き取りを」
 翔子が左横から現れて、面会時間を記したボードを示す。相手が来客なので、普段口癖
の『きちんと視なさい』『事実を正視なさい』は出さないが、言いたい事はそう言う意味だ。
 ルールには従って貰う。それを確認させる。そうでなければ面会自体を拒む。それ位強
く構えねば、この女は押し返せない。冷淡より厳しい応対は、相手を視た故の翔子の結論
だ。
 史恵にとってこの女性は、入院患者の誰かに逢いたい思いの強さも本物で、正面切って
断るのも悪く感じるが、翔子から見ればそうではない。この女は、面会終了時刻に現れる
非常識さと、簡単に帰らぬ図太さと、得体の知れぬ胡散臭さを持つ、極力関わりを避けた
い相手だ。日中に来ても、入って欲しくない。病棟に知己がいても、通したくない類の女
だ。
 翔子は感情的な判断で人を分け隔てせぬと反駁するだろうが、彼女は理性的な判断で×
を出す前に、史恵と話す彼女を見た瞬間に×を出していた。相容れない、相容れたくない。
 その上で全ての判断が史恵の甘い対応では不十分で、弾き出せと告げている。己の好悪
の情を抜き去ってみても、その判断は適正だ。故に、そこに好意の欠片とてあろう筈がな
い。
「もうすぐ消灯です。入院患者にご配慮の上、本日の面会はご遠慮下さい」
 感情を露わにはせぬが、逆にとりつく島を与えない事務的な翔子の介入に、
「じゃ、出直してきた方が良さそうね」
 サングラスの向こうから視線の投射が分る。己の視線が丸分りで、相手の目線が見えな
い。こんな状況を翔子は嫌う。相手を正視して話す彼女は、相手もそうする事を無意識に
望む。
 故に対峙しても、好意は沸かぬ。むしろ感じるのは苛立ちで、敵意で、警戒心で。それ
は押しの弱い史恵の代りに、この女を突き返さなければならないとの責任感にもよる物か。
「そうして頂けると、助かります」
 冷然と、答えるよりも言い放つに近い翔子の応対に、史恵は却っておろおろしているが、
「……風が、澱んでいるわね」
 相手は動じるどころか、この応酬を全く気にも留めてないという感じで、何気なく呟く。
その時になって漸く翔子も史恵も感じ取れた。
『この人は、周囲を睥睨し軽んじている…』
 意識してか無意識かは分らぬが。目前の人が見えていながら、視てないかの如き言動は、
眼中にないのだ。王様が平民を眺めるが如き感触は、平民だらけの現代では絶えて久しい。
 どう言葉を返して良いか、言い倦ねる間に、
「人の生き死にの境にある場なら、思い残しが澱むのはむしろ当り前なのでしょうけど」
 言っている事は分らなかった。日本語ではあったが、単語は理解できたが、繋りが掴め
ない。何を言いたいか分らない。彼女達が普段使う言葉とは、中身や概念が異なるらしい。
 その語調から、感情の所在や本気度合いは計り知れぬ。無表情ではないが、自然な平静
さだが、故に却ってその底の分厚い平常心・何があっても動じぬ強い自我が透けて見える。
 敵意に近い思いを抱く翔子でさえ、認めぬ訳に行かなかった。この女は、良くも悪しく
もただ者ではない。そして恐らく前者では…。
『叩き返さければ。お引き取り、頂かねば』
「お話は、お分かり頂けましたでしょうか」
 女は翔子の話に答えず唐突に己の世界に入り、独白していた。それに対抗するかの如く、
翔子は彼女の呟きを一切無視して、己が話しかけた話を続けて答を迫る。鏡返しの様な行
いは非好意的で済む領域の限界を極めていた。
 私の話を聞いて答えろと。己の独白に逃げ込むなと。無視せず目の前の私に向き合えと。
そして自分はそんな貴方の不規則言動に付き合う積りは更々ないと。そう言う事だ。
 史恵が端で見ていられず口に手を当てる位、それは苛烈な応酬だった。少なくとも翔子
はその気で腹を据えていた。そうでなければこの言動を初対面の人には為せぬ。翔子はこ
の若い黒衣の女に紛れもなく危険を感じ取ったのだ。不快感でも嫌悪感でもなく、危機感
を。
 笑みが、女の頬を揺らせた気がする。小さすぎて、瞬間なので、苦笑なのか小馬鹿にし
たのか、怒りの故かも不確かだが、平静な語調の途切れは感じ取れた。翔子の突きつけた
刃が、確かに相手にも刃だと認識された様だ。
 病棟は自動でスイッチが切れ、非常灯等を除いて全てが闇に帰結して行く。朝迄の長い
時間、テレビもラジオもCDもない、現代の世には滅多に見られぬ沈黙と闇が全てを覆う。
 その縁で、光と秩序と近代科学とに繋って、史恵と翔子は屹立し、整然と応対する。闇
から生まれ出た様な、混沌に溶け込み黒衣の輪郭も判然とせぬ、合理にあらざる何かを前
に。
『彼女は、【向こう側】の物なのではないか』
 唐突に、史恵はそんな事を思ってしまった。
 私達は死を遠ざけ、死に瀕した者を彼岸のこちら岸に留める。生の側で、死に向き合っ
ている。踏み留まって、死を彼方に見ている。
 だがこの黒衣の女性はそうではない。彼女達の全てと違う。こちら側に身を寄せてない。
こちら側に立ってない。留めようとしてない。
 根拠を問われれば答えようがないが、それは唐突な印象に過ぎないが。感情や利害を排
した純粋な印象は時に真実を射抜く。この黒衣の女は、ただ者じゃないどころではなく…。
 そして翔子は明らかに、それを感じ取りながら、認めないに相違ない。その様な印象は
こけおどしだと。史恵を安心させる為に、自身を安心させる為に。半ば、実感で分りつつ、
無意識に実感を認めるが故に、敢て拒絶して。
 しかし周囲は全て夜に満たされる。どこを見ても光は心許なく、闇の深さを際だたせる。
物音が沈黙の深さを強調する様に、彼女達は目の前の存在の深みをこの問答で、浮き彫り
にしてしまうのか。正体に繋る一端を、明かしてしまうのか。知らぬ方が良い類の物迄を。
 黒衣の女は、そんな二人の心の浮動を知ってか知らずか、微動だにせず立ち尽くして、
「理解する事と納得する事は、違うみたいね。
 だからこそ話は単純でもしばしば行き違う。
 聞いても、視ても、感じても認めないなら、後は相手の奥深く迄入り込む他に術はな
い」
 彼女は何を言いたいのか。それは先の独白の続きの様で、翔子の問に答えた様でもあり。
禅問答にも似た応酬に次の言葉を惑う翔子に、
「事実を正視なさい、だものね」
「……!」
 それは、翔子の心を盗み取った一言だった。他人行儀の中では非礼になる故抑えている
が、本来きつめな性格と自己診断する翔子の腹にはその言葉が常住している。己にも他者
にも、事実の直視から全てが始まると、信じる故に。
 それを言い当てられた事こそ驚きだったが。
 それを目の前で言われた事は衝撃だったが。
 微かな笑みが、逆に翔子の心を凍結させた。
 この女は、意図してこの言葉を使ったのだ。翔子が衝撃を受け、驚きに我を失う故にこ
の一言を選び発したのだ。翔子の奥深くをどうやって看破したのか、説明さえも付かない
が、
「貴女、一体、何者……?」
 史恵が目を丸くするのを気遣う余裕もない。見てはならない何かに踏み込みつつある。
この女と長く会話してはいけない。さっさと追い払わないと、関われば関わる程深みに填
る。
 警戒というより、危機感に突き動かされた瞬間だった。凍結した翔子ではなく、史恵が
脇から無理にでも退出を促そうとしたその時、
「近い内に、また来るわ……」
 心の隙に身体を押し入れるが如き錯覚を感じさせていた黒衣の女は、意外にもあっさり
とそう告げて踵を返す。今迄見せた粘りが嘘だった様に、滑らかな足取りには未練もなく。
 突如の重圧消失に、翔子も史恵も逆に呆然として動かない。その視界を、微かな光が深
さを印象づける夜の闇を、漆黒のガウンが輪郭から溶け込み歩み去るのを、唯眺め行くが。
「ああ、そうそう」
 言葉もなく身動きもせず見守っていたので、十数歩先で振り返ったその動きに、二人は
即応できる筈だった。視界の中で、注視している間での振り向きに、驚愕等あろう筈がな
い。
 なのに何故なのか。心臓を捕まれた感覚は、全身を縛り付けるに似た感覚は。心の底か
ら、翔子も史恵も、この女性に巻き取られていた。心が引きずられている。気になって止
まない。どうやっても視線を外せない。一挙手一投足が何故か、自分達の全身に直結する
錯覚を…。
 自覚してか無自覚でかは分らないが、石化の錯覚を与えつつ、黒衣の女は静かに二人を
振り返り、その重厚な質感からは想像し難い、だが外見からは充分類推可能な静謐な語調
で、
「訊かれたからには、答えた方が良いわね」
 サングラスの向こう側で、視線が微笑む様が分る。分るがそれは、今から銃を撃つから、
避けてみなさいと言う類の笑みだ。代官が弓使いに戯れで、汝の息子の頭に乗せたリンゴ
を射よと言い、返事を待つ時の笑みだ。軽くて重く、深くて浅い。そして無視を許されぬ。
 聞かねばならぬ。受けねばならぬ。それは翔子が発した問への答なのだから。なぜなら
その結末は、彼女が望み導いた物なのだから。
 その求めは間違いだったと、実感したがもう遅い。彼女は既に見るべきではない何かの
一杯詰まった蓋に、手をかけてしまったのだ。己も誰も何も知らぬ内にさえも、運命は進
む。
 初めて見せる、史恵と翔子を標的にしたその動きに、二人は答える言葉もなく対峙する。
「私は、彩。色彩の彩と書いて、あや」
 静かに、感情の起伏を感じさせぬ声で語る。
 翔子は彼女に、何者かと問うたのだ。答は、名乗り以外の何物でもなかろう。それが芸
名なのか仮名なのかは、別として。彩の答は極めて穏当だったが、引き続く沈黙は、唯名
を告げられただけでは済まぬ状況を示していた。
 名を告げる事が、相手を認め会話を交わす事が、これ程重い物なのか。日常茶飯事にし
ていた事が。相手が桁違いだと、一つ一つの所作が招く結果も、桁違いになるという事か。
 重圧は先程の比ではない。自動販売機に話しかける感じだった彩の焦点が、目の前の二
人に向いて。それだけでここ迄違うのか。視線で心臓を締め潰す感じは本当に錯覚なのか。
 重い筈の空気の中で彩は軽快に言葉を紡ぎ、
「縁は結ばれた。篠原翔子さん、磯貝史恵さん。貴女達の望みも叶う様、祈っているわ」
 再び踵を返し、歩み去る。そこに重圧感も何も感じないのは、今度こそ彩が彼女達に興
味を失い、己の先行きに執心している故なのだと、何故二人ともが分ってしまうのだろう。

「……ふう」
 史恵の溜め息が、翔子の張りつめた心をほぐしてくれる。夜勤病棟のナースセンターは、
消灯後の静けさに包まれた唯の職場だ。侵入者も脱走者もなく、徘徊する者とていない。
 それを何度か見回して、納得し肌に感じて、息を吸い込んでみて、漸く翔子も安堵の溜
め息をつく。早くあの、重圧感を忘れ去りたい。威圧された訳でないのに格の違いを思い
知る。
 大会社の社長や、一国の首相や国王との会談にも似た緊張感だった。それらに全く経験
はないが、ついさっきそれ以上の経験はした。あれは極上だ。もうしてみたいとは思わぬ
が。
「せんぱい、疲れましたぁ」
 史恵は茶碗を両手に掴んで机の上に伸びる。縫いぐるみの様に力が抜けた姿は、女の翔
子が見ても小悪魔に可愛い。仕事の合間に見せるそんな仕草を、密かに心の滋養にしてい
る翔子だが、今はそう呑気に構えてもいられぬ。
 来訪者への対応に、意外と時間を食われた。やるべき事が片づいてない。彼女達はここ
にお泊りに来たのではなく勤務に来ているのだ。
「巡回、嫌なんですよおぅ。特に、最近…」
 史恵はそう言う感情的、情緒的な理由での仕事の好悪が、翔子の勘に障ると分っている。
 分っているから、普段は抑えているのだが、今夜ばかりは翔子のショートより少し長い
黒髪が、ぴくりと揺れても言わずにはいられなかった。理由の一つは、やはり彩なのだろ
う。
「先輩も噂は聞いているんでしょう? 黒い影が毎夜毎夜、患者の誰かに取り憑いて、錯
乱や衰弱や、様態急変をもたらしてくって」
 あの対峙は、かなりのストレスだったのか。抑えが効かなくなっている。普段は言わぬ
事、軽く触れる位に留める事、主張しても抑制できる事が抑え切れぬ。言いたい己が暴走
する。
 一息つくと、だらけて伸びるのは深呼吸の史恵バージョンでいつもの事だ。害がある訳
でないし、長く続く物でないから、翔子も文句を言わぬ。史恵も言われぬ位に留めている。
「何人も錯乱し衰弱する人が出てるんです」
 だがその先は危険水域だ。仕事に好き嫌いを言う事が、許されぬ事位彼女も知っている。
言われる前に抑えるのが職業人だ。史恵が密かに憧れる、翔子の様な大人の女だ。それな
のに、いつもなら出来るのに今夜は何故か…。
「磯貝さん、貴女自分が一体何を言っているか分っているの? 根拠もない噂話を…!」
 翔子も、常よりきつい己の語調に気付いていた。普段事務的に装う事、嫌悪感出さずに
済ませる事が、巧く行かぬ。胃袋に不快な生き物が住み着き、蠢いている。吐き出したい。
「患者の言う事に振り回されてどうするの」
 噂話に一喜一憂するのは、こういう職場ではむしろ悪だ。中途半端な姿勢でいると、病
棟では噂の助長に手を貸す事になる。唯でも心霊や怪談に事欠かぬ環境なのだ。看護師の
中から締めて行かないと。史恵の錯覚が患者や医師迄含む全員の共有錯覚になっては遅い。
 実は既に遅いのだが。史恵は実は噂話に疎い方で、この様な話は大抵先に翔子が耳にし
て蓋をする。それで史恵の知る処であるなら、それはほぼ皆に蔓延しているに相違ないの
だ。
 そうなっている現状に憤りはあったが、それは史恵の責ではなく、彼女に帰する話では
ない筈だ。にも関わらず翔子の刃は誰かに当りたがって堪らない。おかしい。八つ当り等
翔子が最も嫌う、冷静さを欠いた愚行なのに。
 己の心に引きずられている。抑制が効かぬ。
「定められた職務をこなしなさい。貴女ももう新人じゃないの、いい加減しっかりして」
 しかしそれ以上に、そう言う話を忌み嫌い、職場の規律を保ち常識を守りたい己の性向
が強く出て、史恵の弱さへの憤りが抑え切れぬ。空気が震えている様は、史恵の表情から
分る。
「一人や二人の話じゃないんです。錯覚でも何でも、衰弱や錯乱は確かに出てるんです」
 どうして分ってくれないのかと目線が向く。助けを求める必死さが正面から迫るその愛
らしさにはドキドキした。お伽話の姫君なのだ。可憐で華やかで清楚で、守りたく思わせ
る…。
 だからこそ。人の優しさに入り込む哀願を翔子は最も嫌い、嫌悪する。それが史恵の真
であればある程、愛らしく感じれば感じる程、踏みつけたくて。それは嫉妬なのかも知れ
ぬ。
「動揺しては駄目だって言っているの。
 未確認な物に、看護師が慌てて対応しては、患者が不安に駆られる。怯えは誰にもある
けれど、私達は怯えを気付かせてはいけないの。それも職務の一つなのよ。分るでしょ
う!」
 怯える弱さを克服なさい。事実をしっかり見れば、そう奇抜な物はない。何かが潜むか
知れぬ闇だが、その多くは何もない唯の闇だ。変質者や強盗が潜む訳でもない。ここは病
棟なのだ。物事を正視すれば、必ず対応できる。
 懇切丁寧を装うが、実は己の思いを叩き付けているのだと、心のどこかで気付いていた。
史恵の言い分を受け容れたくない、拒みたい、叩き折りたい。人を頼る弱さ、可愛さに頼
る弱さ、噂に惑わされる弱さ、霊を信じる弱さ。
 何もかも気に入らない。今迄もそれはあったが、何故か今夜は極めつけだ。そう嫌う己
の憤りに、歯止めが利かない。そんな己の弱さにも更に憤りがあって、八つ当りしたくて。
「自分の中の怖いという思いに振り回されないで。他人の無責任な話に振り回されないで。
 貴女が確かに見て、聞いて、感じた事を」
 それは史恵にも分っている。故に説諭等出来る筈もない。ストレス発散を公憤に装って
も誰も従いはせぬ。否、それ以上にこの時史恵も己の思いを押し通したい己を持て余して。
「誰がどう見てもおかしいです。先輩も病院当局も、みんな、不安を分って無視して…」
 分ってくれない。分って欲しい。どうして聞いてくれないの。こんなに困っているのに、
こんなに苦しんでいるのに。今迄抑えてきたのに抑えきれぬ。その思いだけは二人共通で。
「私はこの目で見たんです。錯乱も衰弱もその直前の異変も、見て聞いて感じたんです」
 声が上擦っている。翔子が嫌う感情的反駁だが、心霊現象を見れる己に劣等感を抱く史
恵は決して好まぬ暴露だが。発動する激情は全ての自己規制を振り切りつつある。
「説明が付かないんです。付けようがないんです。手の施しようもないんです。対応でき
ないんです。次にそれが私に降りかかって来ても、誰かに来ても、為す術もないんです。
 こんな、こんな、こんな尋常じゃない…」
「いつ迄も子供みたいな事を言ってないで」
「事実を見てないのは先輩じゃないですか」
 多くの怯えは噂の故だが、根には不審な事実もある。事実を見よと教えてきた翔子には、
痛い指摘だ。規律や不安の抑制を重視し、噂を嫌う余り、事実を繋げぬ様に意識している
事を、史恵に指摘されるとは思わなかった。
 翔子はむしろ己の性向に沿わない自身の行いに、気付かされた故に思わずカッとなって、
「私達は遊びに来ている訳じゃないの。仕事なの。これで生計を立てているの。人の生き
死にを看取る事ももう初めてじゃないでしょ。
 目の前にある確かな物だけ見つめなさい」
「見てないのは先輩じゃないですか!」
 我を忘れて怒鳴り合う。通り掛る者もなく、耳を傾ける人もいない事こそ幸いか。寝静
まり、廊下を出歩く人もない夜故、二人の会話は熱気を帯びても、誰にも知られる筈はな
い。
 詰め寄る史恵と、威圧する翔子。史恵が激情に駆られて掴み掛り、翔子が平手打ちを返
す。物理的な衝撃より精神的なショックに呆然とし、翔子に寄りかかって泣き出す史恵に、
翔子が慌てて肩を抱いて包み込んで。
 二人は果して気付いていたろうか。潜在的な小さな望みが、共々に叶えられていた事に。

 制約を解き放ち、己の侭に生きたい。人目があり、職場があり、隣人がいて家族がいて、
己が思う侭の生活は送れぬ。それは社会生活を送る人には叶い得ぬ夢だろう。だが人は常
に自由と言うよりも、満度の自由を手に入れた己を心のどこかで夢見ている。それを出し、
見せ、分って欲しい。見て貰い認めて欲しい。
 史恵は奔放と快楽と可愛らしさを、翔子は冷静さと秩序と美しさを好み、実はそんな己
を認めて欲しいと望み。更に互いは相手の美点も好んでいて。微かに二人はこの関係をも
う少し深めたかった。気になっていた。知り合いたかった。見せて欲しい、知って欲しい。
 しかしそれはまだ、どこにでもある先輩と後輩、歳の離れた同僚の関係に過ぎなかった。
先程迄、彩が現れ空気を掻き乱すその時迄は。
 彼女は意図して何かした訳ではない。意図して何かをしたならこの程度で済む筈がない。
だが、現れて、居て、言葉を交わした時点で、相互の縁は絡み合った。彩の効果が二人に
及んだのか。逆に言えば二人の効果も、彩に…。
 彩の本性が、何もしなくても、近くにいただけで影響を及ぼしている。己を出したいと
言う欲求、己の真の姿を分って欲しいという願いが、思いの侭に溢れだしたのはその故だ。
 自制が崩れる。思いが抑えきれぬ。職場の縛り、嫌われる事への怯えや自己嫌悪や恥じ
らい等の殻が溶ける。それは人の想いを汲み、解き放ち、応える事を職分とする彩の特性
だ。
 正体のない不安を身体全体で訴えた史恵も、仕事に情を持ち込む事への嫌悪を現した翔
子も今迄、心の底を晒す事は自制し合っていた、相手がある、職場だから、先輩・後輩だ
から。その障壁を除かれ、心ならずも心の侭に、心にある何もかもを相手にぶつけ合う事
になり。
 決裂は予期されても防げなかった。互いに本音が出る故に、憤りも主張も曲げ様がなく、
捨て様がない。事実関係はともかく、己の抱く想いは簡単に見放せぬ。
 だがその奥で。そのもっと奥底で。彩の影響は二人の常日頃の想いだけではなく、その
更に底の底に潜む欲求迄をも炙り出していた。
 二人は全く異なる存在だが、否その故に互いを欲し憧れていた。己の持たぬ美点を発し
合う互いが、眩しかった。もっと近づきたかったのだ。近づくには、壁を壊さねばならぬ。
 職場の同僚という繋りは、職場の同僚に過ぎぬという壁でもあった。互いを気にしつつ、
史恵も翔子もそれ以上進む事を躊躇っていた。大人なら当然だろう。子供の様に無邪気に
は行かぬ。人には歳によって備わる自制がある。
 友達関係に踏み込むのは、年々難しくなる。その自制を、何かが溶解させてしまわぬ限
り。
 二人が感情を激突させたのは、心の奥底でそれが互いを知り合える近道だと知り、望み
合っていたからだ。子供の様に立場を持たず、互いをぶつけ合う関係が一番近い。嫌い合
う存在は、そもそも感情を費やして己の想いを露わにし、伝え分って欲しいとさえ思わな
い。
 二人は己を明かしたかった。二人は相手の真を知りたかった。二人はそれを通じ、相手
を同僚以上の友に迎えたかった。彩は何かをした訳でないが、唯いただけで、自制の壁が
波及的・一時的に崩れただけで、この結末か。
 彩は何もした訳ではない。望まれた訳でもなく、祈られてさえいない。二人の願いは潜
在的で、二人自身さえそうと自覚しておらず、結果から良かったと振り返れる位で。その
大多数は、二人が自ら選び為した行いだったが。
 翔子が史恵に手を上げたのは、史恵が激情を抑えきれなくなっていた故だ。激した人は
ショック療法ででも我に返させないと、誤って己や周囲を傷つける恐れがある。
 怒りに任せるなら、翔子は心を閉ざし冷徹に事務的な口調で仕事をやれと追及していた。
しかし翔子はそれを選ばなかった。目の前で分って欲しい思いを訴える史恵を愛しく思い、
その暴走を止めたく願った。故に手を下した。
 それを瞬時に理解できたから、目が覚めた史恵は、翔子に寄りかかって泣き出したのだ。
怒りに任せて叩かれたと思えば、当の相手に寄りかかって泣く等しない。己を正気に戻す
為に取った非常手段だと分ればこそ、最も無防備な自分を預けられる。その意図を把握で
きた故に、翔子は史恵の肩を包み抱いたのだ。
 異なる者が己をぶつけ、理解し合い、固く結ばれる。憧れ合う同士にしても巧く行き過
ぎだ。そこに人ならざる何かの介在を見るか、又は無数の確率から拾い上げた偶然を見る
か。
 漸く泣き止んだ史恵に、翔子は手を上げた行いを心から謝り、自制の殻の外れた二人は、
感極まって抱擁し合う。普段なら、否この後友人関係になっても命を左右する場面でもな
い限り、恋人にする様な熱い抱擁は行わぬし、できなかろう。だが今なら何の躊躇いもな
く出来る。それがこの経緯を経たからばかりではないと、どこ迄二人は気付けていただろ
う。
 視る人もない中で、二人だけの時が過ぎる。

「貴女は休んでなさい。巡回は私が行くわ」
 少しのやり取りで史恵を納得させ、翔子は懐中電灯を片手に巡回に出た。噂を信じるか
否かは別として、史恵の怯えは本物だったし、興奮冷めやらぬ彼女を行かせる事は、実務
的に支障ありと思えたのだ。
 病棟患者の多くも噂は既に知っている。悪乗りする者や噂を悪用する者はいなかろうが、
悪意はなくとも乗せられて助長する行為に走ってしまう者はいるかも知れぬ。怯えで柳が
幽霊に見える史恵を行かすのは逆効果だろう。
「でも、先輩……」
 仕事をではなく、史恵は翔子の身を案じている。日中雑踏に包まれ平気で人が通う廊下
が、夜にどれ程薄気味悪い静寂に包まれるか。しかも史恵は現実に何かがいると思ってい
る。
 患者を避難させた方が良いと、彼女は思っている。そんな措置が出来る筈もない。だが
万が一、本当に霊的な何かの痕跡が、心霊を信じぬ翔子の目で確認できれば、その時は…。
「物事を正視しなさいと、言ってきたから」
 翔子は尚史恵の話を丸飲みした訳ではない。しかし全く聞き入れぬと言う姿勢でもいな
い。翔子の特徴は良くも悪くも、他人の話を丸飲みにせず、己で見極めようとする姿勢に
ある。
 恐ろしい事・嫌な事を避けたがる史恵には、見ずに良い物なら見ずに済ませたい史恵に
は、その勇気に羨望を抱き、発想に敬意を抱く。
 二人で行く選択肢は看護師の勤務にはない。ナースセンターを空けて、その間に別の病
室から緊急コールがあろう物なら、どうなるか。看護師の職務は命に常時繋っている。悪
霊死霊が怖くても簡単に放棄できる職責ではない。
「本当に、気を付けて下さいね」
 時間を過ぎて来ない様なら探しに行きます。
 巡回に出た看護師が戻らなければ、事故の恐れがある。探しに行く正当な口実になろう。
勇気を振り絞る史恵に、翔子は快活に応えて、
「大丈夫。誰かが起こさない限り何も起こらない。何かがあれば、むしろ解決への糸口」
 この強さが史恵の及ばぬ処だと改めて思う。
 史恵が何かを見たのは事実かも知れぬ。しかしそれが本当に心霊現象か否かは別問題だ。
何かの見間違いか、怖い思いが見せた錯覚か、悪意ある誰かの仕業か、意外な偶然の誤認
か。
 見えればそれが突破口になる。挑む位の意識で巡回に行く翔子を止める術は史恵にない。
「何も見えない事を、祈っています」
 信じてない先輩には、見える筈の物が見えないかも知れぬ。見えた経験がなく、霊的な
資質の有無も不確かな先輩の瞳には、何も映らないかも知れぬ。意識されないかも知れぬ。
 そうであって欲しい。少なくとも見えなければ、見えたと相手に気付かれなくば、悪意
や災いは翔子に来ないかも知れぬ。己が視た物が事実であって欲しくない。翔子に災いが
降りかかる位なら、己の言葉が嘘になっても良い。不吉な予感が、形にならずに渦巻くが、
「大丈夫よ、大丈夫。じゃ、行って来るわ」
 照明眩しいナースセンターに背を向け、翔子は薄暮へ歩き出す。十数歩も進むと非常灯
の他に光源はなく、無機的な清潔感漂う病棟に人気はない。トイレに行く者もいるが、三
十分程の巡回を毎夜二回行うその時に、遭遇する可能性は余り高くない。
 翔子は当初、そんなトイレに行く者を誰かが誤認して、噂となった可能性も考えていた。
時を同じくして起った、あり得ぬ偶然の一致の様に言われる患者の容態の急変は、入院患
者が多くいれば確率論で結構起きてくる事だ。
 偶々何人かの安定して見えた患者の容態が急変し、丁度同じ頃、何かの誤認が巷の心霊
の噂と符合して、広がったと。重くない外傷で入院した患者が実は末期ガンや心臓疾患で、
予告なくいきなり倒れると言う例も結構ある。
 自分に分らぬ事だからと言って、何でも心霊の所為にする気持は翔子には理解できない。
心霊を絶対否定はせぬが、心霊も所詮人の魂なら、出来る事と出来ぬ事があろう。全部が
全部心霊な訳ではなかろうし、心霊だから怖くて不可避の災いばかりな訳でもなかろうに。
史恵の言う事を頭から否定する訳ではないが、史恵の実感は無責任な噂と同列に扱えない
が。
 そう言う論理性が、可愛さのない篠原翔子という人物像を、形作っているのかも知れぬ。
そう思って、時々己に、苦笑いしてしまう…。
 寝静まり、雑踏も絶えた病棟は永遠の静謐に包まれ、足音のみがカツカツ短く木霊する。
外は月が雲と追いつ追われて、顔を覗かせたかと思えばすぐ消えて。明りも影も頼りない。
 廊下は各所の非常灯が微かに光を放つので、真っ暗ではない。手に持つ懐中電灯に意味
は薄い。そんな物を使わなくても、この程度の薄闇なら人影は視認できる。顔立ちを知ろ
うとすればライトを向ける事になるが、
「そう言えば、二人部屋が随分開いたのね」
 容態の急変や退院で、二人部屋に空きが出た話は聞いていた。相部屋の人がおらず部屋
を一人で使う例が一時的に増えているらしい。
「それも要らざる不安を招いているのかも」
 夜中のナースコールも激増していた。それも本当の容態急変以外に、何かいる、誰か見
ている、のし掛られた等の心理的な物も多く。
 看護師に多少動揺があるのも、直に接した結果だ。噂は感染症だ。噂の存在自体が一つ
の事実になり、真実味を得て、更に増殖する。
 噂の増幅の循環が出来つつある。再度看護師から意識を締め直させる事を、婦長に進言
した方が良い。そんな事を考えつつ、ショートよりも少し長い黒髪を揺らせて進む前方に、
「……? 福田さんの部屋ね」
 前方右の病室のドアから、微かに光が漏れている。ドアに窓はないので、光が漏れるの
は締め切ってない為だろうが、その前に消灯時刻には集中管理で室内灯も消えている筈だ。
 トイレに行くにも、足下には非常灯が灯るので危うくない。病院当局は経費節減も兼ね、
夜の一般照明は全て点かぬ様に設定してある。枕元の蛍光灯は点けられるが、その位置か
ら外迄光は漏れて来ない。淡く妖しい黄色の光。微かに、嫌な予感が胸の一角に顔を覗か
せた。

 福田金美は現状で一番困った患者の一人だ。
 三十四歳の専業主婦、身長百五十二センチに体重四十五キロの、小柄で目立たぬ黒髪の、
美人とは言えぬがまずまず平均的な容姿だった彼女は、一月前に交通事故で入院して来た。
 命に関わる事故ではなく、全身打撲と左臑の単純骨折は入院二ヶ月と診断された。性格
も気難しくはなく、同室者がいた当初も消極的だが、人を怒らせたり困らせはしなかった。
「福田さん……」
 妖しい光は気に掛かるが、気に掛かるからこそ尚病室の様子は窺わねばならぬ。光が漏
れるのも、ドアが締め切ってないのも問題だ。だが、通常業務に己を奮い立たせねばなら
ぬ状況が、病棟の空気を物語っている。我知らず、彼女も重苦しい雰囲気に影響されてい
た。
 ひっ。暗い室内から、抑えた悲鳴が聞える。
 金美は、ベッドの上で懐中電灯を三個並べ、枕元の蛍光灯を点け、室内を照し出してい
た。漏れ出た黄色い光は、懐中電灯のそれだった。
「ああ、看護婦さん……篠原さんよね」
 心臓が口を飛び出す位驚いた金美だったが、相手が生身の人だと分ると急激にほっとし
たのか、脱力感にへなへなとベッドに横たわる。どうやらこの時刻迄眠らず起きていたら
しい。
「ああ、助かった。余り、驚かさないで…」
 来たのが人で安心したか、金美は最近珍しく喋った。最近は、日中も何かを怖れる様に
己の中に閉じこもり、話しかけても応えなかったのに。一つには、あの話を看護師が表向
き取り合わず、聞き入れぬ故でもあったろう。
「ああ、済みません。お休み中の処、驚かせてしまいました。ところで、これは一体?」
 敢て訊く。聞かなくても、大凡分る。何度か深夜のコールに応対し、日中も対してきた。
それでも喋らせる事は大切だ。話す事、話させる事は患者と外を繋ぐ。復帰の意欲、回復
の願いを導き出す。喋らせる事に意味がある。
「明りを付けてれば、あれも来ないでしょ」
 ドアは閉め切らないの。どうせ締め切ってもあれは来るのだもの。開けておけば悲鳴が
外に漏れてくれるかも知れない。自衛なのよ。
 その瞳は喋りつつも、虚空の闇を見つめて止まぬ。窓側にもう一つベッドはあるが同室
者はいないので、布団は畳まれていて生活感もない。ここに誰かいたなら、もう少しは…。
 彼女が騒動の核になったのはここ一週間で、噂が院内で急に広まったのもその少し前位
だ。同室だった高齢の女性が、突如容態が急変し、帰らぬ人になる事が、三日おいて二回
あった。
 一人は糖尿病の合併症、一人は中度の脳卒中という話だが、誰もそれが真因とは信じな
かった。昨日迄元気だった者が、一夜で瀕死になる様は、例え自然現象でも中々信じ難い。
「見たんですよ。本当に……本当に」
 金美は言う。嘘ではないと。見たのだと。
「寝静まった山田さんの上に、のし掛かる形のない黒い人影が、心臓目がけて何かを突き
刺す様に拳を打ち付けるんです。すぐ隣で」
 命ある者を憎悪する様に、災いを振りまくのを楽しむ様に、苦しむ他人の姿を悦ぶ様に。
 窓もドアも開いてないのに、誰も訪れた様子もないのに、いつの間にかその影は室内に
いて、凶行は毎夜毎夜繰り返された。逃げる事も叫ぶ事も、目線逸らす事も出来なかった。
 金縛りとは、身体が動かぬだけでなく、魂が縫いつけられ動かぬ事を指すのか。金美は、
ナースコールのスイッチを手に取る事も思い至らぬ侭、唯目の前で、老女が苦しみ呻く低
い声と、その上にのし掛かり凶行を為す黒い影の、荒い息づかいを聞いて。
 それは悪夢だったのか。悪夢ならそれでよいが。しかしその悪夢はまだ終ってないのか。
「本当なのに。誰も、誰も信じてくれない」
 目を逸らす事も出来ぬ中、金美は同室者が魂を叩き壊される様を見せつけられた。例え
幻でも精神の平衡を崩す経験だろう。恐怖を巧く表せぬ侭、近くの誰かにそれを吐き出し
発散しようと望むのも自然な話だ。そして視た物を証明する様な展開は噂に拍車をかけた。
 同室者は急速に病み衰え、緊急病棟に運ばれて帰らなかった。二日三日で土色に変わる
皮膚、開いても焦点の定まらぬ瞳、何を聞いても反応はなく、唯身を小さく畳み、心臓を
抱え込み。二人とも、その辺りに小さな痣があった事は、看護師の一部のみが知っている。
 指を突き刺した程度の青痣だったが。
 別に怪我と言う程の物でもなかったが。
「だって、私だけじゃないんでしょう。私だけの錯覚じゃなくて、あれは何カ所も掛け持
ちで現れているんでしょう。そうでしょう」
 それは確かに、その通りだった。各所で機を同じくして起きた異変は、互いの不安を呼
び合って、話を大きく広めて行って。状況は、金美自身が悪夢の標的になって更に悪化し
た。
 深夜何もなくてもすぐナースコールが来る。訪れて聞かされるのは雲を掴む様な話ばか
り。
 顔の見えぬ黒い影が周囲にいる。害意と笑みで迫り来る。顔は見えぬのに表情は見える。
目は固く閉じているのに入ってきた事は分る。誰も来た形跡はないのに、来たと言い張っ
て。
 何もない事を確認し帰ろうとするが、中々納得しない。引き留める。怖いのだ。一人に
なると影が来ると思っている。相手は一人になった時を見計らって来る様な知能犯なのか。
「誰も信じてくれない。誰も来てはくれない。
 それはもう分っているわ。分っているけど、でも暫くで良いからいて頂戴。いてくれれ
ば、誰かが近くにいればあれは来ないのよ…!」
 恐怖は金美の中に住んでいる。彼女が怖いと思う限り、唯の闇が化け物に見える。唯の
闇に、誰も見えぬ者を一人見てしまうのでは、誰にも追い払う術はない。金美は己の作り
出した恐怖に振り回されていると、翔子は思う。
「ああ、お願い。少しで良いから一緒にいて。誰もいなくなるとすぐ来るの。電気を消し
たらすぐ出るの。ドアを閉めたらもういるの」
「コールして下さい。私達はいつでも対応できるように、待機していますから」
 翔子は枕元にあるマウスより一回り小さなスピーカー付きのボタンを示す。使い方を金
美が知らぬ筈はない。最近は必ず夜に二回以上はコールしてくるのだから。
「だって、コールしても中々来ないんだもの。
 必死に押しても、届かないのよ。あれが来ている間は、この部屋は隔離されちゃうのよ。
 金縛りにあって、目の前で心臓を突き刺されて、逃げたくても逃げ出せなくて、やっと
手を伸ばせたコールのボタンが動かないの」
 機械に話題が移った事は翔子には好都合だ。心霊現象では視た視ない、いるいないの話
で、互いに事実を証明できないが、機械は手にとって試せる。その場で結果が見えてくる
のだ。
「機械の調子は悪くない筈ですよ……失礼」
 翔子はその場でボタンを押してみせる。
 二、三回のコールの後で、暫く待つと、
「福田さんですね。どうしましたか?」
 史恵の声だ。無線機なので、こちらがボタンを押す間はこちらの声が届くが、向こうの
声は聞えない。ボタンを離すと向こうの声がこちらに通じるが、こちらの声は届けられぬ。
「私よ、翔子。巡回は順調。福田さんが、コールの調子が良くないって言うので試してみ
たんだけれど、感度はどう?」
「今は悪くはないです。良く聞えます」
 目の前で実演してみせるのが最も効果的だ。機械は故障でもない限り忠実に動いてくれ
る。多くのトラブルの原因は、使う人の側にある。
「はい、ありがとう。切るわよ」
「巡回、気を付けて、下さいね」
 余計な事は話さず、短めに切る。支障なく繋ると見せられればそれで良い。実は病棟内
のコールの繋りが悪いとの声は、他の部屋でも上がり始めていたのだ。未だに原因ではな
く状況が把握できてないが、この場で不確かな事を話すのも逆効果な事は目に見えている。
「コールは大丈夫です。何かあったらすぐに私が駆けつけます、必ず。安心して下さい」
 とりあえず繋る事は確認した。それで良い。
「……」
 言い募りたい思いの先を封じられた様子で、金美はうなだれ翔子の視線を上目遣いに見
る。
「懐中電灯をこんなに集めて……」
 同室の人がいれば安眠妨害なので止めて貰うが、幸か不幸か二人部屋でも彼女は一人だ。
心の支えが懐中電灯の明かりなら、相部屋する患者が現れる迄目を瞑るのもやむを得ぬか。
「相部屋する人が、来る迄だけですからね」
 翔子はまだここにいて欲しいと視線で訴えかけてくる金美を振り切る体制に入っていた。
巡回はまだ終ってない。金美と雑談する為に来た訳ではないのだ。いつ迄もはいられない。
 諦めたのか、金美はやつれた顔で翔子を見送る。幾ら声を枯らしても、出た姿を見て貰
わぬ限り、決して人は信じない。そしてあれは人が来るといち早く消え去り、人がいない
時に現れる。あれを見る時とは狙われた時で、逃れられぬ時で、誰にも助けを呼べぬ時で
…。
 心を鬼にするのか、鬼の心を表に出すだけなのか。翔子はややきつめな声を敢て作って、
「ドアは開けておきますか? 男性もいる病棟なので、本当は閉めた方が良いんですが」
 目線と微かな頷きで、ドアを開けておく確認を取ると、小さく隙間を残す感じにして翔
子は金美の部屋を出る。夜はまだ長く、やるべき事は残っている。先程迄感じていた何か
との遭遇への不安等、翔子は既に忘れていた。

 再び沈黙の廊下へ出る。先程より空の雲が厚くなり、見え隠れする月の輝きも、減殺さ
れて感じる。翔子は金美を何とか巧く御して巡回に戻れたが、その原因を棚上げしていた。
 帰途にもう一回、様子を見るべきか。案外、疲れた様子だったので寝入った可能性もあ
る。いつ眠ったか分らぬ侭に悪夢を見れば、現実感が伴うかも知れぬ。そう言う時に揺り
起こして事実を認識させれば……。恐らく無駄か。
 思い込みは中々変えられぬ。元々心霊の話を信じる土壌に咲いた花だ。そうでない証拠
を十個二十個出しても、納得させるのは容易ではない。自分が噂を信じる事が困難な様に。
 カツカツと静寂の中に足音だけが木霊する。
 行き交う人の影もなく、耳を震わす物音もない。心の中に浮かぶのは、輪郭のはっきり
しない、人影にも見える真っ黒な縫いぐるみ。金美や史恵の話していた、黒い影の想像図
だ。
「ある程度想像できちゃうから、怖がってしまうのかしらね。本当に伝えたい想いは中々
伝わらないのに、悪霊や死霊のイメージはみんな共通なのか、思い浮ぶだけは思い浮ぶ」
 確かに目の前に実際にいれば薄気味悪いが。
 あり得る筈のない者だけに奇怪には思うが。
「困った物よね。不確かであればある程、人の恐怖を煽り立てる。事実そう言う者がいる
のだと暴かれれば、あっと言う間に自然現象の一つにされて、熊や虎と同じ扱いなのに」
 正体不明な事が最大の恐怖なのだ。知は力とは言った物だ。そして、知る事への王道は、
怖さを振り払い事実を正視する事だ。怖いと思えば思う程、近づき確かめねばならぬ。そ
うせねばそれはいつ迄も正体不明で怖い侭だ。その様に事実への突進を繰り返してきた翔
子には、夜の闇等大して怖くもない物になっていて。代りに可愛さと縁遠くなってしまっ
た。
 他にも少し気になる患者の部屋も回ったが、今夜は眠れずに起きている者もなく、異常
も見られぬ。ほぼ一回りを終え、金美の部屋に通じる通路を左手に、通り過ぎようとした
時、
『光が、漏れてきてない』
 微かに心に引っ掛った。廊下の状況はむしろこれが正常なのだが。足下を照らす非常灯
の光で見る限り、ドアは閉まっているらしい。
 立ち止まっていた。ナースセンター迄戻る積りでいたが、今迄その事に何の疑問も持た
ずにきたが、気になった。正常な事がである。何の変哲もなくある事が、心の琴線に触れ
た。
 金美は諦めて寝たのではないか。いつ迄もあんな事をされていて、困るのは翔子の方だ。
 通常に戻るならそれで何も問題はない。こうやって、部屋の前迄足を運んでこなくても。
 ドアの前で考え込むが、部屋からは物音もない。何かあれば、ナースコールすれば史恵
が飛んできている。何もないのだ。ないから静かで、ないから正常で、何もない。
 ドアにも部屋の廊下側にも窓はない。あるのはそう厚くない壁で、防音施工でもなくて、
何か大きな動きがあれば外迄音も響いてくる。耳を当ててみたが何の振動も物音も感じな
い。
 ドアに鍵はついてない。入ろうと思えばいつでも入れる。だが、そこで翔子は考え込む。
 寝ているなら開ける物音で起こすのも拙い。心ゆく迄寝て貰い、疲れを取る事が身体に
も心にも良い。幻を見たり、見た幻に理性的な判断を下せないのは、疲労と無関係ではな
い。
 漸く眠ったのに起こしてしまい、再び寝かしつけるのに酷く苦労するのも割に合わない。
 珍しく迷った。確認すれば良いと言う性向を持つ翔子だが、今は確認する行いが状況を
壊す設定だ。己の心を決めるのに、少し時間が掛かる。目を閉じて考え込んだ後、深呼吸
をし、意を決して通り過ぎようとしたその時、
「事実を正視なさいは貴女の言葉だった筈」
 いきなり目の前に現れた彩に、翔子は腰が抜ける程驚いた。辛うじて悲鳴を上げる失態
は避けたが、頭が真っ白になって思考がついていかず、足元が不確かだ。まさか、なぜ?
 闇に浮ぶ黒サングラスに黒髪と、黒衣の人。
 何かを考えなければならないが、何を考えて良いか分らない。何か言わねばならないが、
何を言うべきか分らない。唯分るのは、彼女が己の確実な意思でここを訪れたという事で。
 廊下の窓を貫いた雲間の月が、鮮やかに黒衣の姿を浮び上がらせる。それはほんの一瞬
で、月はすぐ雲間に隠れ去ってもう戻らぬが、その一瞬で充分だった。この女は闇で映え
る。
 不意打ちに愕然とする翔子の前で、彼女より少し背の低い黒衣の女性は、微笑みと共に、
「出直して来るって、言ったでしょ?」

 ショックは身体より魂・心臓を打ち抜いた。
「あ、あ、あ、貴女一体……」
 翔子は何を言いたかったのか。何故貴女が、どうやってここに、何の為に、どうして今
…。
 そのどれでもあり、どれでもない。言葉にならぬ呟きは、振り絞っても漸く喉の奥から
微かに漏れる吐息でしかなくて、人の耳に聞き取れる音量の下限を極めていて。それでも、
「正視できる人だと思っていたけれど、背中を押されないと駄目な人みたいね。貴女も」
 さっき追い払った筈だ。あれから二時間近く経過している。彩はその間に侵入したのか。
だがナースセンターには史恵がいる。素通りは出来ぬ筈だ。一体今、夜何時と思っている。
 疑念も憤りも寄せ付けず、警戒も物怖じも何もなく、平然と佇むその姿は平静で軽快で。
「貴女、人間社会のルールを何だと思っているの? 自分の考えだけで、勝手ばかりを」
『何様の積りなの。人を人とも思わないで』
 全てを込めた翔子の低い声音の問いかけに、
「ルールとは、必要に応じて人が決める物よ。
 最後は己の判断で守るも破るも決める物」
 平静に、だが中身はかなり過激な答を返す。
 彩は正面対峙してもサングラスの故に視線は見えぬ。見えぬがしかし、その方がまだ生
の視線の重圧より遙かにましだと分っているこの感覚は、一体どこから来るのだろう。
 彩は翔子の左脇を通り抜ける。ドアノブに手を掛けるのに翔子は慌てて振り向き、その
右手首を左手で掴み止める。即応しなければ、彩は躊躇いなくドアを開けた。その動きは
洗練されていて迷いがなく、足音もなく。
「貴女、何をする積りなの?」
 今度こそ翔子は腹を据えて詰問する。何者でもここで勝手はさせられぬ。警察に通報ど
ころか事と次第では彼女がここから叩き出す。
 返事次第ではというより、まともな返事ががなければ、次の瞬間この手首をねじ折ろう
かという気迫で迫る翔子に、彩はその緊迫を不感症の様に静かに受けて、動じる事もせず、
「事実を正視するべきではなくて?」
 その言葉は翔子の闘志を一気に打ち抜いた。確かめたいのは彩ではなく翔子なのだ。そ
の事を、告げられる迄翔子は心中深くに沈めていたが、職責と常識の壁で囲っていたが。
 彩はその本性に火を付ける。彩は真の望みを呼び起こす。人の性向を顕在化させる。そ
れを直感で分るが故に翔子は心底怯えるのだ。
 己にない物を強要する相手を、翔子は怖れない。襲い掛かってくる相手は怖いが、害意
を抱く相手は警戒するが、それだけだ。嫌な行いを強要されてもそこに翔子の気持はない。
 しかし彩は違う。彩の示唆は翔子が本心望む行いで、望んでもしてはならぬ様な行いで。
己の心が見透かされ、それだけでも薄気味悪いのに、事もあろうに解き放たれる。
 心のダムを好き放題に決壊させられるのだ。満水の水は己が溜めた物だが、溢れたがっ
ているのは自身だが、それを止める自制の心を崩し去る。そこに彼女の真の怖ろしさがあ
る。
「貴女が止めたいなら、止めても良いのよ」
 それはむしろ翔子の心を試す問だ。翔子は彩に挑むのではなく、自分に挑まされている。
 自制を取り払う。望みを呼び起こす。己の本性を見つめる。それは、事に正面から向き
合う事を己に課す翔子にさえきつい。美しくもなく高邁でもない己、下卑で粗野で欲望が
巣くう己に向き合うのは、地獄を覗く行いだ。
 その間隙を縫って、彩の問いかけは静かに、
「貴女が本当に望まないなら、ドアは開けないわ。私には、これは不可欠な行いではない。
でも、貴女にはどう? 確かめなくて良い? 福田さんの言葉を検証しなくて良いの?」
 福田金美との関係に於いてではなく、篠原翔子自身の生き方に於いて、それで良いの?
 彩は良い処を突いてくる。憎悪を感じる程にその問は的確で、翔子の本音を告げていて。
「良いわ、貴女の挑発に乗ってあげる……」
 彩の読みを−それは読みと呼べる物でもなかろうが−肯定し、翔子は凄絶な笑みを浮べ、
「確かめましょう。何かがあると、貴女は言いたいのでしょう? それが目的で、貴女は
深夜に私達の門前払いを受けて尚ここ迄来た。何かの確信がなければ、とても出来ないも
の。
 貴女と一緒に中を確かめてあげる。本当に何がかあるのか、何もないのか、見れば分る。
責任は私が被ればそれで良い。その代り…」
 珍しく饒舌なのは自身への怒り故だ。彩の行いは翔子が望む行いだ。彩を認める事は己
を認める事だ。覗きに近い行いを求める自分。好奇心満々な自分。職責をはみ出す事を妄
想する自分。認めたくない自分を露わに晒され、認めさせられた、その苦味が胸を黒く染
める。
「貴女や私の望んだ物があってもなくても、その後で貴女には出て行って貰う。いえ、私
がこの手で叩き出すから、覚悟なさい!」
 拒絶よりも厳しい受容。その視線は闘志と言うより殺意に近いが、そこ迄張りつめても、
「貴女の真意に任せるわ」
 彩は軽く受け流す。果して、彼女は翔子の憎悪と怒りを分っているのか、いないのか。
 黒衣の女は翔子を向いて、重ねられた翔子の掌をその侭に、その手首がドアノブを捻る。
 室内は暗闇だった。暗闇だったのに見えた。視たかった物、見てはならなかった物、見
る事が何かを呼び招く物。光源もなく、閉ざされたカーテンの外も雲に包まれて月光も届
かず、街灯からも遠い一室で。見えてしまった。
 夜の闇より深い闇。暗黒に横たわる福田金美の上にのし掛かる、輪郭のぼけた黒い影を。

 しっ。彩は翔子を振り返ると、唇の前で人差し指をたてて見せ、
「音を発しない限り、貴女は気付かれない」
 彩は何かをしたらしい。だがその所作には何の変哲もなく。信用する必然は何もないが、
翔子はとりあえずそれを了承して見せ。彩もそれ以外は、何の物音も立てぬ。その二人の
目の前で情景は、大画面テレビのリアルさで。
 ウインクした気がした。黒サングラスの向こう故に定かでないが、仕草が少し軽い気が
する。ドアは音もなく、静かに開け放たれた。
「……、……!」
 思わず何かが漏れ出そうになるのを、両手で意識して抑え込む。それは予期できた事で
はなかったか。金美に何度も聞かされ、話されて、瞼の裏で想像できる迄になっていた像。
 枕元の蛍光灯も消え、懐中電灯が三個とも消えた真の闇。足元を照らす非常灯も点いて
ない。カーテンの向こうも漆黒に閉ざされて、これでドアさえ閉めればここは完璧に暗闇
だ。
 その暗闇の中、ベッドに横たわって身動きできぬ女性の上に、その身を包む毛布の上に、
その黒い塊は馬乗りになって、微かに蠢いて。
 ああ、翔子が思い描いた像と全く同じだ!
 闇の中でも黒く浮び上がる姿は男性なのか、体格は翔子より大きい。相応の重さがあれ
ば、金美は金縛りでなくても逃げ出せないだろう。輪郭は不確かだが、それは闇に溶けて
いるのではなく、最初から実体がない様にも思えた。この至近で見て目鼻立ちが分らぬの
も無理はない。そもそもそんな物はこの影はないのだ。
 この影は生き物でさえない。生きる為に必要な器官など、必要としてないのだ。
『これは、幻……? 私は今、夢なの…?』
 喉から出かかる叫び。両手で口を抑え込み、辛うじて止めるこの叫びが迸れば、この悪
夢から目覚められるのではないか。私は一人廊下の隅で、居眠りしているだけではないの
か。
 目前の光景は余りにも非現実的で、余りにも想像通りの光景は夢想的で、見ている己の
方が夢か幻に思えてきてしまう。彩の左手が翔子の右手に伸びて、そんな彼女を現に戻す。
 黒いサングラスの目線が翔子の瞳を射抜く。その言う処は、今更言葉にする必要さえな
い。
『事実を正視なさい』
 故に、翔子も焦点を定め直した瞳で見つめ返すと、ベッドの上を眺め見る。二歩踏み出
して手を伸ばせば届く距離、しかし容易には触れる事さえ叶わぬ彼岸の彼方の何者か。
 金美が言った通りだった。金美が見た通りだった。そして今金美がそれを為されている。
 左右の拳が、思い切り天に伸びてから、ひっきりなしに彼女の心臓に、振り下ろされる。
心臓に叩き付ける様に、ナイフか何かを突き刺す様に、息の根を止めるかの如く。
 金美は金縛りなのか。身動き一つ出来ない様で、微かな呻き声が聞える。意識が定かで
ない侭に逃れ得ぬ悪夢に苦悶して。ぴくぴく震えるのが精一杯で、腕一本動かせぬ様子だ。
 喉が動かない。思う侭に息が出来ない。両腕も抑え込まれてはいないが、首筋一つ動か
せぬ。その中で、黒い影が腕を振り下ろす度、金美の生命が削られて行くのが『見える』。
 誰も信じてくれぬ中。誰も助けてくれぬ中。二十四時間看護のその奥で、誰一人理解す
る者もなく。金美は一人、この人知を超えた脅威に晒されて、毎夜毎夜晒され続けて今夜
迄。
『気付いて、あげられなかった。信じて、あげられなかった。こんな、こんな馬鹿な事が
あるなんて、思っても見なかった。人がいなくなった隙を、本当に狙う者があるなんて』
 最早夢でも幻でも構わない。確かにこの目に映ったのだ。自分は確かめてしまったのだ。
事実は確定した。どれ程信じがたい事実でも。それを拒む事こそ事実を正視しない事にな
る。
 しかしこれは何という事実なのか。金美はこの過酷な状況に毎夜朝迄、晒されたのか。
 何という孤独か。誰に話しても信じられず、誰の助けも得られぬ侭、苦しみ続け。今も
彩が現れなければ翔子は部屋を素通りしていた。
 誰もが誰も防犯体制も完備されたこの奥で、ドア一枚向こうに何があるか思いも巡らさ
ず、助けも呼べぬ金美の思いを受け止めず、放置して。それは犯罪的な無知であり頑迷だ
った。
 あれだけ訴えていたのに、あれだけサインを出していたのに、あれだけ状況を把握して
いたというのに。翔子は常識に囚われる余り、一歩先に出れば分った事実に目を瞑り続け
て。
 この脅威に、他の患者も晒されていたのか。
 この脅威が死亡した者にも及んでいたのか。
 この脅威が、今も知る者だけに認識されて、この病棟を席巻しているのか。助ける者も
ない夜で、野放しに好き放題し続けているのか。
 許されない。誰よりも、今迄この事態を放置してきた私が許されない。心に重く刺さる
この杭を、捨て置く事が許されない。
 紛れもなく黒い影は患者に害を為している。それは人ならざる物だが、及ぼす相手は翔
子が受け持つ患者、彼女が職責を負うべき者だ。金美の話を受け容れず、信じず、その事
実を今迄見逃し続けてきたその失態を取り返さねば。金美は今、翔子が助けなければなら
ぬ!
 あの影を止める。金美に及ぶ害を防ぐ。それには何を為せば良い。まず、声を立てる事。
 一歩を踏み出そうとした時だった。正視し、意を決し、後は行うだけとなったその時に
…。
 彩の左手が真横に伸びて、翔子の動きを無言で制す。動くなと、言うのか。だがしかし、
それを聞き入れては金美が害に晒され続ける。なぜ妨げるのかと、睨む視線を向ける翔子
に、
『音を発しない限り、貴女は気付かれない』
 さっきの言葉が戻ってくる。同時に翔子に向ける彩の視線と微笑みが、分ってしまった。
 彩は問うている。翔子の真意は、何処かと。
 翔子は本当に金美を助けたいのか。あの害に触れ、次には害を受ける恐れもある今も尚。
妨害が、標的を己に向ける恐れもある中で尚。
 唯の職責で、贖罪感で、好意や善意で、己が害を受ける恐れもある、得体の知れぬ何か
に手を出すのか。挑むのかと。
 何が通じるかも分らぬ。何物も通じないかも知れぬ。腕力や防犯設備や警察は効くのか、
霊能者さえ通じるのか否か分らぬこの相手に、仕事で関わった程の他人の為に尚関わるの
か。
 翔子は真に望んでいるのか。翔子は他人の為に、そこ迄尽くす事を心の底から望むのか。
 心霊現象は、翔子がそうだった様に中々公には認知されぬ。医療ミスより闇に葬り易い。
話しても人は信じぬのだ。彼女が被害者になった場合もそれは同じに相違ない。今ここで、
唯一の証人となる翔子が口をつぐめば、見なかった振りをすれば。通り過ぎたのと同じだ。
 関わらなければ、祟られない。悪魔の声が己の中から囁きかける。それも己の姿なのか。
 金美は悪夢に魘されるが、それで即死ぬ訳ではない。目で見た光景は確かに恐ろしいが、
実際金美は苦しんでいるが、本当に容態を死に追いやっているか否かは分らない。
 金美の同室者二人も、結局死因は医学的に解明された。死因が彼女達を死に至らしめた。
なら、金美も死ぬ時は金美の肉体に因がある。影が何をしようとも、それが人の死に繋る
と決まった訳ではない。そう思いつつ心の底で、
『この憎悪と悪意が影響を与えない訳がない。命が削られ、散り散りにされていくのが分
る。心臓を、心を、理性を、砕くのが見える…』
 この影は止められない。この影は並の死霊や悪霊ではない。肌で感じたから分る。これ
は常の入院患者の思い残しや迷える魂などとは違いすぎる。実際目にするのは初めてだが、
こういう者に正面から遭遇したのは初回だが。
『尋常じゃない。触れてはいけない物だ…』
 声を立てれば金美から影の注意を逸らせる。だが同時に、相手は自分を認識し標的にす
る。
 その後の展開は金美が見せた通りになろう。助けを呼べる時は現れず、人が不在な時を
見計らって現れ、誰も呼べなくして後魂を苛む。翔子の悩みは誰も信じられず、証明は不
可能。相手は好きな時に彼女を苛み、好きなだけ虐げ、勝手に去る。唯の人である翔子は
それを、防ぐ事も逃げる事も、退ける事もできぬのだ。
 常の人に過ぎぬ翔子が、幾ら理性を保ち恐れを拭って対峙しても何が出来よう。永遠に
寝ずに過ごす事は出来ないし、一人にならずに生きて行く事等出来はせぬ。肉体よりも先
に精神を破壊される様が、容易に想像できた。
 声を立てれば、金美の一時の助け−目線を逸らす程−の代りに、己の人生が危うくなる。
いっときの贖罪感と職責と善意の故に、そこ迄投げ捨てる覚悟が本当にあるのか。それは
篠原翔子の真意なのかと彩は問うて来たのだ。
『今、私が何もしなければ……』
 声を立てねば、それで済む。何もなかった様にナースセンターに戻れば、夜勤に戻れば。
この絵さえ忘れれば、心にしまえば、普通に生きていける。否、早くこんな病院は辞める。
影が次の標的を翔子に定める怖れは、尚残るのだ。ここにいて、福田金美に接する限りは。
 気付いたと知られては拙い。奴の目に留まる事は猟師に鹿が撃ってくれと言うに等しい。
頭を低く、やり過ごせ。己の明日を守る為だ。彩の挑発に乗ってここに来たのは失敗だっ
た。
 知らなければ己を貫いて生きてこれたのに。
 知らなければ翔子は幸せな日常にいられた。
 知っても為す術もない事を知って何になる。
 知っても絶望する他ないのでは意味がない。
 心が閉ざされていく。事を正視せよと言い、己にも言い聞かせてきた。その結末がこれ
か。その果てにある光景がこれか。知らなければ、翔子は今尚何も知らない幸せの中にい
たのに。
 影はいずれ金美の心を破壊し、損失は肉体に及ぶ。やがて金美を殺し終えると、次の標
的を探すだろう。それは隣室で何も知らず寝静まる罪のない患者か、史恵の様な看護師か。
『……!』
 血が逆流する。影は理不尽をやりたい放題で、翔子は尻尾を巻いて逃げるのみか。影が
どこの何者かは知らぬが、その為に何の咎もない患者や看護師が次々にその毒牙に掛かる。
そんな事が罷り通るのか。通って良いのか!
 目の前では相変わらず影が腕を振り下ろし続けている。ナイフでも突き刺す様に、憎悪
と喜悦を込めて殺意と悪意を、叩き付け叩き付け。金美に逃れる術はない。身をよじる事
もできない。唯晒され続け、唯打たれ続けて。
 その右腕がナースコールを握りしめている。金美は翔子の示唆に従いボタンを押したの
だ。しかしコールは鳴ってない。なぜだ、なぜだ。あの影はコールを止める術を心得てい
るのか。
『彼女は私の言葉に縋って、コールした…』
 翔子は彼女の言葉を門前払いにしたのに。
【何かあったらすぐに私が駆けつけます…】
 金縛りになっても必死にコールを掴み、押した侭硬直し。それしか縋る物がないとはい
え、否その故に、駆けつけられなかった翔子の悔いは重く澱む。一層己が、許せない。
 事実はすぐ目の前で覆いを被せられていた。翔子は正視した積りで実は何も見てなかっ
た。そんな無知の幸せに、一体何の意味があろう。知らない侭に、知った積りになって物
事に向き合えと、正視しろとのたまう己が恨めしい。
『私は、何も知らないで』
 知った上で、知らない方が良かっただと?
 知る迄は、知る事が肝要と言い続けてきてその様か。知らぬ事の幸せ・虚偽の上に立つ
幸せを否定し、分け入って正視する己を貫いたから、今があるのに。今更尻尾を巻くのか。
今更視た物迄見ぬ振りするのか。出来るのか。
 出来る訳がない。それをしても翔子には何も残らないのだ。これ迄積み上げてきた生き
方をここで放り捨てて、彼女は何を得られるだろう。何を守れるだろう。出来る訳がない。
 すうぅ。声を出す為に息を吸い込む。
 腹が据わる。闘志が宿る。目線が上を向く。
 気配に気付き、彩の視線を睨み返す。彩は何時の間にか翔子を制する様に横に広げてい
た左腕を畳んでいた。相変わらず動きはなく、静かに佇んで、動揺も見せず状況を眺め続
け。
 彩は答を待っている。翔子の自問の結末を。彼女は何も強いはせぬ。唯望みに気付かせ
る。その本望を呼び起こす。正視させる、直面させる、答を出させる。それだけだ。そし
て…。
 無言の問いかけへの返答は、決まっていた。
 問う迄もない事を、問い続け、悩んでいた。
 人を生贄にしても幸せを欲する思いは確かにある。関わった故に被る巻き添えを厭う思
いは己の物だ。安穏な暮らしの固守を望んで、人の信頼も己の生き方迄も放り出そうとし
た。恐れに煽られ周囲が見えなくなる愚かしさも、己の実像に向き合う事を嫌う弱さも、
自分だ。
 人は容易く折れ掛かり、折れぬと思った処で砕け散る。己の愚かしさに、無知に、矮小
さに、卑屈さに、言行不一致に、塞ぎ込みたくなる思いを繰り返し、繰り返し。
 だがそれでも翔子は事を正視したい。それらの邪心も全て己の内にあると受け止めて尚、
そうではない決断を望む。幸せな結末に繋らずとも、それが自分の行く先ならば、諦めが
つく、納得がいく。むしろ納得行かぬのは…。
 例え行く先に地獄があろうとも。望み続けた物とは違う光景が、広がっていたにしても。
何より自身を殺して先に見える物等何もない。魂宿らぬ身がこの先数十年生きても、生き
る意味はどこにある。何事もなく生き残れても、今迄の生き方を折り曲げられて何が残ろ
うか。
 そう言う己にも、正対するのだ。
 そう言う己をも、正視するのだ。
 結末に待つ物が何かは知らぬ。知らぬがそれを、ある限りの力と知恵で、乗り越えて切
り開く。篠原翔子の生き方で生き抜くだけだ。この影を、とことん正視してやる。看破し
て、喝破して、目で殺す位の視線を注ぎ込むのだ。
 無言の問に無言の答を返して翔子は一歩前に出て、吸い込んだ空気を腹から吐き出して、
「……そこのあんた、姿は見えているわ」
 止めなさい。私の患者に、私達の職場に、あんたの様な者がいて貰っては困るのよ!
 黒い影の動きが出し抜けに止まる。もう一歩前に出れば手が届く程間近で、見上げる形
の翔子もベッドの上に座る影も身動きをせず。唯の闇より更に深い暗黒が、周囲を包み込
む。

 影はやはり頭部に鼻も口もない。ここ迄間近にいて尚輪郭がはっきりせず、顔形が識別
できぬのはまともではないが、
「出て行きなさい。ここは病を治す処。人を害する者がいて良い処じゃないのよ!」
 気合い負けだけはすまい。例えどんな姿を見せても、動きをしても。気合いで押されて
は悔いを残す。そんな翔子の闘志を、相手はどう受け取ったのか。金美の身体に座った姿
勢から、ベッドの上に仁王立ちに立ち上がり、
「コオォォォオオォォ」
 それは声ではない。翔子を振り向いた影は、何かをしようと息を吸い込んだのか。天井
に達する程巨大な影は、いつの間にか横にも膨らんでいて、翔子の身体を飲み込む程に見
え。
 怯えの心はない訳ではない。こんな事しなければと言う思いもある。それでも、これは
自分の真意なのだ。これは自分の欲求なのだ。自分の職場にこんな訳の分らぬ物の徘徊を
放置出来ぬ。ここは生死を分かつ彼女の戦場だ。医療で闘う彼女の戦場だ。余計な物の介
入は、
「邪魔なのよ。あんたなんか、要らないの」
 出ていって頂戴。そして二度と来ないで!
 怖い思い迄含めて叩き付ける。こんな相手にはもう二度と直面したくない。だからこの
一度で決める。一度で決めるが、再来するなら何度でも対峙して叩き出す闘志は心に抱き。
 目が光った。目はあるのか、それともたった今出来たのか。そんな理不尽も、元々理屈
を超えたこの影になら自在な気もしてきたが、赤い目は彼女の姿を捉え、威嚇する様に輝
く。
『大声を出してやる。動き回ってやる』
 金縛りを打ち破る気合い。静寂を破る大声。孤立を崩す動き。相手の意図を、逆さに行
う。それが相手の嫌がる行いで、勝利への近道だ。それは直感だったが、かなり鋭い読み
だった。
 相手がなぜ人がいない時を狙うのか。相手がなぜそれを隠匿するのか。相手がなぜ夜に
現れるのか。その方が都合が良いからだ。逆を行えば、相手に都合悪くなるのは当り前だ。
 金美は必死にそれを模索していた。だが入院患者に出来る事には限界があった。翔子は
看護師で、容易に人を呼べ、処置を下せる立場にいる。幾らでも、徹底的に、やってやる。
 どの位打撃になるのかは分らぬが、いかにも闇と湿気に籠もるのが好きそうなこの影が、
嫌い厭い避けそうな事を、逆にとことん迄も。逃げぬなら撃退し、耐え切れぬなら反撃す
る。
 怯えより、徹底抗戦の闘志に満ちる翔子を、影は飲み込む様に覆い被さる。布団が倒れ
てくる感じで、視界が黒一色に染まる。何か分らないが、非常に危うい予感がする。する
が、今更この間合いとタイミングでは避け得ない。
 翔子は唯、最後迄目線を逸らさず対峙するのが精一杯で、己にこの後何があるか予測も
つかず。紛れもなく悪意だった。狂気だった。憎悪だった。赤い双眸は宝石の様に瞬きも
せず、爛々と光って彼女の何かを押し潰そうと。
 最後迄目を閉じなかったから。
 最後迄目を逸らさなかったから。
 最後迄睨み付ける闘志を失わなかったから。
 その影が瞬時に窓際へ後退するのを、見た。
「そう言う突き抜けた姿勢、私は結構好き」
 彩の一言が状況を激変させたとは、後になって感じた事だ。彩はどんな術かは知らぬが
『音を立てねば気付かれぬ』場を作っていた。それが彩と言うより、翔子の心底を見極め
る為に役に立ったが、彼女はそれを意図して…。
「見るべき物は見終わったわ。もう結構よ」
 お疲れさまと言わんばかりの軽い語調だが、その与える影響は甚大だった。影は彩を認
識した瞬間に退いて守りを固め、二言目を掛けられるとその場から消失したのだ。煙の様
に夜の闇より濃密な闇が、段々薄く消えて行く。
 威嚇も憎悪も警戒も不満も何もない。見た瞬間にまな板の上の鯉で、散れと言われたか
ら散った様で。何の意思も介在させない、介在できない様な事の流れは、圧倒的な懸隔を
示す物か。あの影が唯の死霊や悪霊ではない様に、この彩も唯の霊能者や魔術師ではない。
 彩がいつでも影を消し去れる事を影も分っていて、退去の許可を貰った状況だ。彩は翔
子の為に見守っていた。翔子の為というのが語弊なら、翔子の反応を見る為に佇んでいた。
 その思う処は分らないが、その企みは尚見えないが、正視し続ければいずれ見えてくる。
 翔子は踏み込んでしまったのだ。なら突き抜けて真相を見極めるだけだ。他に彼女に道
はない。その最奥に彩はいる。翔子の行く手を示しつつ問い返しつつ、唆しつつ、時に危
険に踏み込ませつつ、尚その最奥に彩はいる。

「福田さん……福田さん、大丈夫?」
 金美は幾分か脂汗が引いた様にも見えるが、相変わらず意識がない。駆け寄ってその容
態を確かめる翔子の脇に、彩は静かに寄り添い、
「中々しぶといのね。まだ死相が出てない」
 冷徹な言葉に翔子は思わず彩を振り返った。
「貴女、人の命をなんだと思っているの!」
 至近で睨み付けるが、彩は平然とした物で、
「貴女がさっき見過ごそうとした程の物よ」
 冷やかに言うそのふてぶてしさが憎らしい。翔子の怒りは、惰弱に走り掛け命を見捨て
ようとした己への怒りの発散も兼ねる。翔子の内奥迄見透かした語調は彼女に殺気を呼ぶ
が、それは己への殺意だと渦巻く憤懣を抑え込む。
 見た限り外傷はない。四肢に抑え付けられた跡もなかった。何度も拳を振り下ろされた
臓部にも出血はなく、呻き喘いでいた喉は深い息遣いを繰り返し。疲労の所為か、目覚め
る事なく眠りの淵にいるが、状況は悪くない。
「精神は疲弊しているだけよ。酷い状態だけれど、壊れてはいない。この若さなら、幾ら
でも持ち直せる。肉体的にも何の異常もない。
 本気で死を拒んでいない割には、巧く生き残れている。意外にも、人って強靭なのね」
 分る為に見るの応用型が、見れば分ると言う事か。やや離れた地点から眺めただけの彩
の判断は、翔子が間近で診た結果と遜色ない。
 安心すると同時に、翔子は目線を向け直し、
「助けて貰った事には、感謝するけど…!」
 意図はどうあれ、彩がいなければ金美も翔子も助かってなかった。否、むしろ翔子は彩
に引き込まれた面もあるが、それは言うまい。翔子は彩に引き込まれる事を望んでいたの
だ。
 それでも彩の言動は翔子には不可解だった。何か根本で、それは摂理に背いている。そ
れを言葉に出来ぬのがもどかしいが、何か違う。力点の置き場が違う。結果は同じでも動
機が。
「助けたのは貴女よ。もう少し、彼女の身を大切に扱ってしかるべきじゃないの!」
 戸惑いと疑念を隠せぬ翔子の問に彩は、
「助けた積りなんてなくてよ。幾ら私でも本気でもない願いに応えに来る程暇じゃないわ。
例え死にたくない、生きたいという願いでも、本気でそれを願わない者に応える謂れはな
い。
 私が見たかったのは、貴女の本気なの」
 静かな語りが、翔子の心も氷点下に落とす。
 彩の目的は金美ではなかった。金美が襲われる様を見せて、翔子の反応を見る事だった。
更に言えば、あの影の姿を見たかったのだと。
「貴女の心に秘めるその思いが本物かどうか、見て見たくなったのよ。真の目的はあの影
なのだけれど、その正体は大体掴めているし」
 私が弱者の危機に都合良く現れる救いの女神様ではない事位、貴女も見て分るでしょう。
 今更言う迄もない事と言う顔で彩は婉然と、
「私の属性は闇で、本性は混沌で、及ぶ効能は人の真の望みを目覚めさせ、解き放つ事」
 この時こそ、本当に翔子は彩の一端に触れた気がした。闇より暗いあの影よりも、更に
黒く深い処に潜む彩の真の姿を。影を恐怖させ瞬時に退散させた彩の底知れなさの一端を。
 福田金美の為に来た訳ではない。篠原翔子の為に来た訳でもない。彩は彩の目的の為に
ここを訪れ、偶々状況に興味を抱き関わった。だからこれは全て気紛れ。気紛れだがしか
し、
「それを呼び込んだのは貴女よ、篠原さん」
 幸運は完全な確率論じゃない。観測者の行いが事象を定める。貴女の行いが因になって
果を呼んだ。あれは、貴女でなければ呼べない類の気紛れだった。それは間違いないわね。
「じゃあ、貴女は本当は福田さんも私も…」
「ええ、助ける義理はないのよ、元からね」
 唯、状況がそうなっただけ。
 彩はもうここに留まる意味はないという様子で踵を返す。ドアに向く後ろ姿に、翔子は
何か口を開こうとするが、彩は先手を取って、
「私が次に行く処はもう貴女も分っているでしょう。後は貴女がついて来るかどうかよ」
 事実を、正視する?
 無言のその問には、最早答さえ不要だった。

 行くべき処は確認の必要もない。翔子はそこを知っており、彩はそこを知る必要もなく。
静まり返った夜の廊下を進む。窓の外は黒雲に包まれて星も月もなく、街灯の輝きもない。
「貴女はあの影を、一体どうする積りなの」
 場合によっては、彩の真意次第で、今から翔子が彩の敵に回る。さっきあの影から金美
を守る選択をした様に、今から彩が患者に害を加えるなら翔子の敵だ。例え相手が誰でも
ここは命を救う病院で、死を拒んで闘う場だ。
 それを妨げる者は、掻き乱す者は、神でも魔でも、容赦せぬ。使える限りの手段を使い、
翔子は職責を果たすだけだ。
 彩に翔子が何程の事を為せるかはさておき、翔子は意図を訊かねばならぬ。事実を正視
せねばならぬ。これは一緒に歩む情景ではない。傍目にはそう見えるが、実は彩の標的へ
の進路を、防げぬ翔子はマークしながらの追随で。
 答を引き出せるとは限らない。彩が応えるとは限らぬし、力づくで答えさせる術もない。
どの時点かで、満足な答を得られなければ進路を阻み、通す代りに答を迫る選択も考えて。
 それで先が見えるかどうかは分らぬが。
 それで事が見通せるか否かは分らぬが。
 その気迫が彩のこの姿勢を呼び込んだのか。
「貴女には、答えた方が良さそうね」
 尚サングラスを外さず、息を乱す事もなく、
「あの影が、救いを求めて、求めて得られず、悶え苦しんで他者を巻き込み続けている事
に、既に気付いている貴女になら」
 翔子は肯定の沈黙を返す。間近で暫く見ていた故か。彩の指摘は、翔子の感想にほぼ一
致した。それで事が分ったとは到底言えぬが。
「貴女、結構順応性が高いのね。今迄一度も『見た』事がない人が、最初にあれを見てま
だ思考が働くなんて。素養はあったのかしら。しかも私の本性を知っても、それに触発さ
れる事を怖れず、むしろ逆用して迫ってくる」
 知りたい思い、事を正視するという生き方、それを求める己を導き出す彩の影響を逆用
し、当の彩に問いかける。切り込み迫る。苦笑いなのか、彩は微かに口元を緩めつつ、
「私は、彼の祈りに応える為に来た」
 福田金美の為でも、翔子の為でも、他の誰の為にでもなく、あの影の源の為に。
 なぜかと目線を向けるより早く、彩は短く、
「彼の願いは、正真正銘、本物だったから」
 彩は相手を男性に絞り込んでいるが、翔子もそれに異を唱えなかった。見れば分るのだ。
男性か否かではなく、誰なのか迄分っている。だがそれよりも翔子には問うべき事があっ
た。
「貴女は、死にたくない、生きてたいという福田さんの思いが、本気じゃなかったと?」
 生きたい思い、死を拒む思いは、生きとし生ける者に共通の絶対の願いの筈だ。それが
本気ではない等という事が、あり得るのか?
「人は時に、小事に囚われ大事を見落とす」
 紡ぐ言葉にはどれ程の思いが籠もるのか。
「本当に死を嫌うなら、影を厭うなら、どうしてこんな危うい処で一人で夜を迎えるの?
 ナースセンターに駆け込んでも、騒いで人目を引いても、隣室に乱入しても良いのに。
 退院すれば良いのに。こんな処で一人夜を迎える必要はないのに。逃げ出せば良いのに。
 なぜ霊能者でも何でも呼ばないの。神主でも僧侶でも神父でもカウンセラーでも呼べば
良い。病棟の怪異は解き明かせなくても、彼女の精神の不調は気付けていた。手は打てた。
 それを何もしなかった。結局噂話で己を紛らわし、死地に留まりながら何の策も考えず、
状況に流される侭時が過ぎる事だけを待ち」
 これで真剣に死を拒み、危難を避けようとしていたと言える? 何が何でも生き抜く強
い意志があったと言える? 己の持てる全てを擲っても守り通す覚悟があったと言える?
「影の脅威を認知したにしては余りに杜撰な、とても真剣とは思えない中途半端な対応
よ」
 厳しいが、正論だった。半信半疑の故に翔子はあの応対しかしなかった。史恵の怖れも
あの位だった。金美はもっと切実だった筈だ。脅威は身に浸みていた筈だ。それでこの程
度なのは、彼女の意識に問題があると。
 時に死を拒む為には、命以外何もかもを投げ出さねばならぬ事もある。誇りも、名誉も、
富も安穏な生活も幸せも信頼も愛も全て放り出さねば守り得ぬ時もある。迷いが死を招く。
そう言う時に、そう言う相手に迫られた時に、
「人の目線や世間体や面倒を嫌う余り、手近な呪いや気休めに頼る。根本を変えなければ
ならないのに、明日を前提にした動きばかり。明日を迎える為に全てを投入するべき時
に」
 兵力を惜しむ余り大将を討たれて敗走する大軍とか、出費を惜しむ余り契約を取り逃が
した企業とか、目先を取り繕う為に稚拙な隠し事をして結局暴露される不祥事とか。
 そんな物を取りに、又は守りに行った為に致命傷を負う。何が大事かを見落とした故だ。
そんな事も見極められぬ者の願いは本物ではない。その通りかも知れぬ。なら、心の底に
眠る本望を呼び起こす彩の特性は、その為に。
「何が大事で、何を捨てられるか。絶対に失えない、或いは奪いたい何かを見極め、それ
以外の全ての犠牲を惜しまぬ覚悟を抱けるか。
 死ぬか生きるかなんて実は余り決定的じゃない。覚悟があり、決意があるなら本物よ」
 そして本物ではない、紛い物の願いに応える程に私も暇ではないの。
 その語調は相変わらず平静だが、その言う処は冷徹の極みで。彩には命のやり取りさえ
真に重要ではないのか。サングラス越しの視線の圧が、翔子の心を飲み込む錯覚がある…。
「例え全知全能でも、人の欲求全てには応えきれない。本当の思い、真の欲求、誠の祈り
のみが、それを叶える者に届く。犠牲を厭わぬ強い願い、己も明日をも省みぬ真摯な想い、
心の底から血を吐き叩き付ける訴え。そうでもない紛い物に付き合う程私は暇じゃない」
 彩の答の苛烈さは、そこに偽りがない為か。彼女が嘘偽りなく、己の事実を晒す故なの
か。
 これ迄その様に行動してきて、今現在その様に行動しており、今後もその様に行動する。
それが遠慮も妥協もなく事実だから、純然たる真相だから。翔子のそれとは異なるが、常
の物とはかけ離れているが、それでも己を貫くという一点で、翔子とは微かに繋りがある。
 だから比較できる。猫と虎を比する様な物だが、子犬と猛犬を較べるに近しいが。金美
と彩では図りようがない。猫と桑を比する事が出来ぬ様に、子犬と絵画を較べられぬ様に。
 そして、その状況を迫られた者がこの病院にいると。否、いたのだと翔子は知っている。
「あの人の思いは、本物だったと言うのね」
 それは問と言うより、それに直面を強いられる自身に言い聞かせる言葉か。彼を放置す
れば金美が危ういし、翔子にもその害は及ぶ。その上彩は彼に用があるらしく、そうなれ
ば逆に彼が危うい。どちらにせよ翔子は直面せねばならぬ。行って立ち会わねばならぬの
だ。
 彩は分り切った問には応えず、
「今回は異例なのよ。そうある事じゃない」
 貴女もあれ程明瞭に影を見たのは初めてでしょう。死人の魂なんて、墓場や病院には普
通に漂うけれど、それらを信じない貴女の様な人が見て分る程明瞭な事は、そう多くない。
「勘の鋭い人や見慣れた人には、道端でも家にいても見えるけれど、信じない人・見えな
い人には一生分らない。無関係の人には唯の牛や羊でも、飼って身近に接していれば一頭
一頭見分けられる。それに似た話かしらね」
 実は少しのコツなのに、車の運転に似て出来ぬ者には分らない。見えぬ人には見えぬ以
上、そんな存在は信じられぬし、対応の必要も感じない。先程迄、翔子がそうだった様に。
 そこには翔子も己に対し苦味を禁じ得ぬが、
「でも、あんなの余りに出鱈目よ。死人の数だけあんな事が起こっているなら、世間は」
 唯じゃ済まない筈だ。心霊現象が証明されるだけでは済まぬ。幾ら巧妙に隠れて災いを
なそうと、数が増えれば事は漏れる。全ては封鎖出来ぬ。呪いの成功という、結果が残る。
話は噂ではなく、対策の形で目に見える筈だ。
 実際人に脅威を及ぼす者が、各病院に死人の数いるなら、世界観も百八十度変って来る。
あんな理不尽な物が多数いる事を前提に今の世間は出来てない。人を死に引き込む物がう
ようよいては、病院の意味が薄れる。それは翔子の知る常識や世間とかけ離れ過ぎている。
 翔子が今迄世界を何も知らなかっただけか、あの影から今迄全部一連の悪夢で幻想なの
か、或いはあれは事実でもごく特殊な一例なのか。
「貴女達の応対は多分間違いじゃなかった」
 確かに、貴女の抱く常識は九割九分妥当よ。
 彩の肯定は率直で平板だった。
 全体に彩は色香を欠く。男装や中性を意識する訳でないが、容貌も肢体も端正だが何か
が足りぬ。史恵なら華がないと言うだろうか。それは、彼女が見られる事を意識しない、
見つめる側に居続けた事を物語るのかも知れぬ。
「例え死人の魂が幾つ病院や墓場に漂っても、特段人に脅威はない。生きた人に影響を及
ぼす物等、そんなにいないの。怖がる者は柳も怖がるし、心臓が弱い等むしろ本人に因が
ある故に彼岸を渡ってしまう者はいるけれど」
 そよ風は、人目に付きにくい時や場所で吹き続けるけれど、それが人の運命に決定打を
加える事は非常に少ない。そう言う事よ。
「強い恨みや悪意を抱いていても、人の魂に訴えかけ、認知させ、何か為せる者等殆どい
ないわ。生者に格闘家や武道家がいて、熊や獅子を打ち倒す者がいる様に、死者にも生者
を呪い殺す者も、皆無ではないけれど」
 航空事故の確率より低いわね、きっと。
「死者の呪いや恨みが生者に及んで見える多くは、生者に罪悪感や贖罪感がある。悔いや
恐れや拘りを心に抱き、実は呪詛を待ち構え、己の中で再生産し自滅の淵に沈む。その様
が、自身にも周囲にも死者の呪いに見えるだけ」
 死者の思いは単独では殆ど生者に影響を与え得ぬ。恐怖を煽る程で、人の自滅を促す位
で、囁きかけるのが精一杯で。何かを為す上で、肉体を持たぬ彼らは生者に遠く及ばない。
 自ら何か為せる者さえ少ない。何かを為して生者の行いを促し、妨げる事も珍しいのに、
生きる望みを持つ人の魂を、抵抗を押し切って冥府に引きずり込む等、実質的に不可能だ。
「分るでしょう。あの影がいかに希有な物か。本当に人に害を及ぼせる霊体は真に希有な
の。
 そして、折角生じたその希有な物に、貴女を向き合わせない手はないと、是非とも逢わ
せたいと、私が貴女を唆したその訳が」
 彩は飛行機が落ちる場に、翔子を招いたと。落ちるのを放置して翔子に見せていたのだ
と。墜落を止める事はいつでも出来たのに。それは家が燃える様を、子供に眺めさせる行
いだ。
「貴女の本気も、少し気になっていたから」
 思わず殺意が顔を覗かせる。金美の命の危機を翔子の心底を見る為だけに利用した彩を、
あの影以上に憎悪するが、翔子は暴れたがる腹の虫を己の意思の力を総動員して抑え付け、
「今回のそれは特別だって言うのね。普段は、私達の常識で動いていたこの病棟が、今回
だけ特別に何かの作用で、今の事態を迎えたと。
 そしてその特別な何かの作用さえ、貴女は大凡把握していて、対処できると。対処しよ
うとして訪れたと。そう言う事で良いのね」
 翔子が知りたいのはその対処法だ。彩が何を目論み、誰の為に、何をなそうとするのか。
それが誰に害になり、誰に益をもたらすのか。それを知らなければ、翔子は彩を止めるべ
きなのか援護・黙過するべきなのかも分らない。
 感情に走っても得る物はない。彩は翔子と別の論理で動く。非難しても翻意を促しても、
まともな答は返って来ぬ。妨げる時は全力で挑めば良い。怒鳴りつけたい気持は山々だが。
 翔子の好き嫌いではなく、次に何を為すべきか判断する為に、彩の真意を訊かねばと意
識を集中する。一つ一つの聞き慣れぬ単語の連なりに、どういう意味があるのか探るのだ。
 知的な瞳はサングラスを食い入る様に覗き込むが、見て取れる物はない。簡単に覗ける
筈はない。簡単に伺える筈もないが、翔子は視線を彩にロックした。隙があれば打ち込む
位の気合いで、彩の表情から何かを盗み取る。
 その意図は露見していようが、彩はそれを知って知らぬ振りなのか、放置しているのか、
「彼には願いがあっただけ。影の行動と力は、彼の物ではない。彼は祈り、望むだけだっ
た。それに何かが加わった。その何かも大凡分っている。多分私の同類よ。……それだけ
なら、尚私が関わるべきではなかったのだけれど」
 彼の願いは、聞き届けられるべきよ。
「彼の願いも、分っているの?」
 彼の願いを叶える術も、持っているの?
 それは問と言うより、答を引き出す為の誘い水だ。有無の答は翔子にもほぼ見えている。
問題はその向こう側だ。問題はその次の問だ。
 まだ翔子が聞きたい問には辿り着いてない。だが、その先はどうやら行動で見せて貰う
他に術はなさそうだ。足が辿り着いてしまった。
「少し喋りすぎたかしらね」
 二人の足が、その一室の前で止まる。
 彩は、それ程後悔したという語調でもなく、
「貴女に望んで関わった私としては、今更貴女を排して事を為すなんて、考えてもいない。
貴女が望む限り、最後迄事に関わると良い」
 彩には全てお見通しか。翔子がその行いを阻止するのも、援護するのも、黙過するのも、
したい侭にせよと。己の真の、望みを為せと。
 何を為すのか、何を為せるのか、何が目的なのか、結局定かでない侭に、彩はその一室
の扉を開ける。翔子は唯、己の心の赴く侭に、真の望みの滾る侭に、考え動く他に術もな
く。
 沈黙の統べる暗黒は二人の姿を飲み込んだ。

 石岡亨は五十七歳の会社役員で、入院して半年経つ。末期ガンで入院前から余命半年の
診断は伏せられたが、徐々に悪くなる病状を見れば、薄々先行きを分っていたかも知れぬ。
 ただ、正式に告知されなかった為に彼はまだ希望を持っているのか、そろそろと思われ
た頃になっても彼の意識は途切れず、命は消えかかる炎でも、尚身体に留まり続けていた。
 ここ一月は寝たきりだが、身体を苛む激痛は麻酔も効かなくなっていたが、まだ命は費
えてない。入院する迄は病気知らずだった強健な身体は、ここに至っても尚死を拒み続け。
 ここも二人部屋だったが、四週間前に同室だった中年男性が心筋梗塞で死して以来、相
部屋する患者がおらず一人部屋になっていた。容態は徐々に悪化しているが、今日明日危
うい訳でないので、まだ一般の入院病棟にいる。
『考えてみれば、二人部屋が埋まらずに一人空きの状態になったのは、彼が最初だった』
 時期は一月程前で、この噂が出始めた時期に符合する。噂を信じ注意深く状況証拠を積
み上げれば、ここに行き着けたかも知れぬが、
『私は見ないと信じなかったし、影は人目を避ける知恵を心得ていた。無理ね』
 誠心誠意を尽くしても、人の想定に限度はある。もう一度以前に立ち戻れても、以前の
状況で知り得ていた事と己の性向を考えれば、やはり己は以前の様に応じていたに違いな
い。
 為せる最善の事を成す。最善を為して届かぬ物は、天に任せる他に術もない。祈るとは、
己が為せる最善では到底届き得ぬ事を知った者の、絶望から始まる訴えだと、翔子は思う。
届かぬ事さえ知らぬ者に祈る心は起こらない。
 ならこの一室の住人は、己の病状に絶望を抱く余り、他者を巻き添えに望んだのか?
 翔子も彼は知っていた。会社重役で、穏やかさと気遣い・鋭さを持つ恰幅の良い人物で、
病み衰える己への苛立ちを出さぬよう務めていた。世間を知り、知らぬ物も多いと言う事
も知り、後半やや気弱になったが、退院したら孫を遊園地に連れて行きたいと語っていた。
 痛みや薬の副作用で、思考は乱されたかも知れぬ。衰弱する己への恐れは、理性を壊し
たかも知れぬ。だが翔子が知る限り、彼は己が生きられぬからと言って、他人迄死に引き
ずり込む無意味な愚行とは、縁がなく見えた。
 福田金美の病室で立ち上る黒い影に、濃密に彼の感触を感じた時も、信じられなかった。
彼が正気でその様な行為に走るとは思えない。
 尤も人を死に追い込む等、誰でも正気では為せぬ。彼は既に正気でなければ考え得るが。
そう考えたくない己がいる。患者を害する者、排除すべき者も患者の矛盾を、嫌う己がい
る。
 それとも向き合わねばならぬ。
 逃げる己を叱咤せねばならぬ。
 最早問う迄もない。あの行いは止めさせる。それは当然だ。金美に何も落ち度はない。
あの影の跳梁は止めさせる。だが、その為には石岡をどうすれば良いのか。患者である彼
を、外からの侵入者の様に叩き出す訳にも行かぬ。
 翔子もこの様な経験は流石にない。史恵なら多少あるかも知れぬが、彼女にこの状況を
負わせるのは荷が重い。彩の知恵と力を借りる他術はないが、彩は彩の意図と目的を持つ。
翔子の為に都合良く力や知恵を貸しはせぬだろう。それどころかここ迄来て尚、翔子は尚
彩の次の行動が見えてない。
 止めるべきか、援助・黙過するべきかさえ、判断が付かない。それでも今は彩の所作に
任せるしかない。それで拙いとなればその時は、直ちに手段を選ばず妨げる、で行くしか
ない。
 今は彩に事をさせ、その経緯を見守る時だ。
 そんな翔子の心中は折り込み済みか、眼中にないのか。彩は堂々と踏み込んだ。室内は、
足元を照らす非常灯も切れているのか漆黒で、ベッドに横たわる者がいる他には何も見え
ぬ。
 何が潜むかも分らぬ沈黙の闇を、敵意が潜む怖れも濃厚な闇を、彩は気にする姿勢も見
せず、ずんずんベッドに歩み寄っていって、
「石岡さん。さっきあれに、逢ってきたわ」
 初対面にしては馴れ馴れしい言葉を掛ける。
 彼はここ数日喋る事も難しく、意識を保つ事も難しくなっていた。呼べば反応はあるが、
思考の結果ではない。声を発する時も夢現で、中身が繋がらず受け答えにならない事が多
い。
「あれに貴男が望んだ事を、教えて頂戴」
 初対面の者がいきなり中身の凝縮した話を持ちかけても、満足に応対できる身ではない。
彩にその旨は伝えねばと、翔子が脇に立ったまさにその時だった。彼は微かに目を見開き、
「安らぎを……もう、疲れました……」
 それは一つの奇跡なのか。又は唯の偶然か。彼の容態は悪化していたが、可能性は断た
れてなかった。難しいだけで、日々一刻困難になっているだけで、絶対無理と言えなかっ
た。
 それでも翔子には、この迅速な問答は奇跡に準じた。初対面で、あんた誰だこの夜にと
いう状況で、彩の問いかけに即答したのだ。
「病み衰え死んで行くこの身に望むは、安らぎです、痛みや苦しみのない、安楽です…」
 それは彼の心底からの望み故、即答し得たのか。思索や迷いの余裕はない。故に必要最
低限の、絶対外せない真実だけを、彼は語る。それを引っぱり出せたのも、彩の影響なの
か。
 彼も死は予期できていた。日一日、身体のどこかが不自由になる。痛みは増え、苦しみ
は深まり、苛立ちは募る。出口はなく、無へ消え行く恐れのみが倍加する。
 存在自体が苦痛だった。出口はない。否、出てしまえば楽かも知れぬ。進歩した医学は、
人を死から遠ざける一方、避け得ぬ死への進みを遅滞させた。死を前にした者の痛みをの
ばし、恐怖する時を増やし、問答無用で死後の無に向き合わせた。しかも病院や寺院に封
じられて、死は日常から隔離され、向き合うのはここに至って漸くという者も珍しくない。
「この命を渡しても良かった。死後の魂をも。唯、安らぎが、欲しかった。欲しかった…」
 回復が望めぬのなら、安楽死を。今の日本でそれは認められぬが、ならせめて痛み苦し
む心の方に安らぎを。それは、心を殺してくれという事か。理性を壊してくれという事か。
 考える事さえ苦しみな今、聞える声を発する労苦がどれ程か。その苦しみは、瀕死にな
った事もない翔子には、想像さえつかないが、
「命を委ねたのね。更に、死後に魂もと…」
 目を閉じて、彼は彩の問を肯定して見せた。翔子が彩の顔を覗き込んで解説を求めるの
に、
「私の同類が訪れて、契約を結んだのよ。
 彼の望みを受けて、彼の祈りに応えて」
 貴女達が普段、神とか魔とか言う者達。強い願いを抱き、絶望と渇仰を抱き、本当に心
の底から希う時に、現れる事もある闇の住人。人の願いを受け、何かを代償に望み叶える
者。
「あの影が、貴女の同類という訳なの?」
 翔子の問は苦く複雑になる。彩は一応人の姿形をしているが、あの影は人からかけ離れ
ていた。及ぼす気配がどことなく似ていたが、見た目の違いは彼女の中で拘りになってい
た。
 あのおぞましい影と、凶悪な影と、人とは思えぬ影と同類なら、翔子は彩と決して分り
合えない。その助けを求めねばならぬ今も尚、彩を拒みたくて堪らぬ己が腹の中で暴れ出
す。
 だが故にこそ、彩は影にも充分対抗できる。それも感じられた。霊能者が多く理性のた
がを外し、狂気に近い形で異能を発揮する様に、あの影の魔性に抗するには人では駄目で、
人ではない者に頼らねばならないのかも知れぬ。
 感情と思考が分離し声が低くなるその問に、
「だからこそ本来、重複する立場である私が顕れるべきではなかったのだけれど」
 そうも言っていられないでしょう。
 理知的な容貌は心なしか苦々しげに、
「己の何かを引換えにしても、叶えたい願い。
 人に願いがある限り、神も仏もいなくても、心からの願いを叶える物には事欠かない
わ」
 右手を石岡の額に置き、彩は翔子に正対し、
「……でも、叶えると言って叶えられぬ様を見せられて、黙ってはいられないでしょう」
「どういうこと?」
 それが今回の特殊事情か。漸く翔子は真実に迫る問を見つけた。否、彩が示したのだが。
「人にあらざる側の契約不履行と言う事よ」
 影は彼に、安らぎを与えられなかったのだ。
 彼は安らぎを欲していた。痛みや苦しみの除去を望んでいた。その為に何をも差し出す
と願い、全てを引換えにするならその望みを叶えようと応じた者がいた。約定は結ばれた。
 残り少ない命を力に使い必要な所作を委ね。死した後魂を渡す。死に瀕した弱さか諦め
か。彼の命を影が使う代り、影は彼の安楽を保ち、死後その魂を得る。故に影は石岡の命
を被る。
 影を見た瞬間に翔子が石岡亨を感じたのも至当だった。彼の命を被っていたのだ。事情
は石岡亨の肉体を乗り移り操っているに近い。誰が見ても、石岡を知る者なら彼だと答え
る。
 だがその中に、彼にはあり得ぬ凄まじい憎悪や狂気、悪意が充ち。あれが影の性なのか。
人の魂を被った別の何か。悪霊や死霊と言った生易しい相手ではない。故に、常の怪談や
心霊では起こり得ぬ実際の悪影響が、患者達を襲って、次々と命を脅かして。
 だが、話はそれに留まらぬ。真の特殊事情、彩が出るべき事情とは、闇の住人と石岡亨
の提携ではない。それは、翔子にとって珍しくても、彩には珍しい事でない。では?
「彼の命は長く持たない。旨味は薄い。故にこれは必要経費・着手金よ。そう遠くない死
後報酬に彼の心を得る。……不快そうね?」
 改めて相手を人ではないと認識し直した翔子の目線は当初より厳しい。内容もそうだが、
彩と相対する事が、翔子の魂を震わせているのだ。魂を、命を弄び、取引に扱う外道な存
在を許したくないと、心の底から何かが叫ぶ。
「当り前でしょう。そんな事を、契約なんて。まるで金銭取引みたいに。貴女正気な
の?」
 逃げを許さぬ強い視線に、彩は静かな声で、
「私の行いではなく、彼と影の間の物だけど、まあ私も似た様な物だから、応えて置くわ
ね。
 結婚も、洗礼も、就職も、決意表明も、全部取り決めは契約なの。扱う物が重いか軽い
かは関係ない。一滴でも大量出血でも血は血、富豪でも貧民でも命は命、魂でも命でも悪
魔でも神でも契約は契約なの。守るべきもの」
 取引自体は、互いの自由意思で行われるわ。誓約が為されればそれを守る。貴女達が人
の命を救って糧を得る様に、私達は人の望みに応えて相応しい代償を得る。それだけ。
 何が非難に値するのかという平静たる様に、
「己の欲望の為に、自分の力や努力が及ばぬからって、誰かの力を安易に借りるなんて」
 翔子は己の嫌悪感を、なぜなのか自らの内にも問い返しつつ、更に彩にも答を求めるが、
「魂の平安を欲して神に縋る人は善で、己の欲望を欲して魔に縋る事は悪なの? 魂の平
安や正義さえも、所詮人の望みに過ぎぬのに。
 科学や技術の、他人の力の上に成り立って生きてきた人の言葉ではないわね。それで尚、
魔の力を借りる事だけはいけない、嫌うという人の趣向には、私は口を挟まないけれど」
 祈りや願いに応えるのが魔(神)の生き方。
 その点に於いて聖と邪に何程の違いもない。
 彩は何も弁明しない。闇に住まう己を飾り立てる事も取り繕う事もせぬ。唯人が、神を
好み魔を嫌う、その双方がほぼ同質だと指摘して、翔子の意識を醒ますだけで。
 言葉と言うより、言葉の裏にある倫理。
 倫理と言うより、倫理の裏にある思い。
 翔子の腹を掻き立てて止まぬ何かを、それは静かに冷やし行く。言葉で言いくるめられ
た訳ではない。心から納得出来た訳ではない。唯言動の一貫性に、信じ得る物を感じたの
だ。
 異なる倫理の上で動いているが−翔子が納得できる物ではないが−少なくともその上で
は彩は誠実であり、実直であり、一途だった。彩は彩自身に対し誠実なのだ。それは認め
る。
 拭えぬ警戒感は彩の倫理が理解できぬ故だ。未知は何にせよ警戒を呼ぶ。腹の中で異物
を嫌い、排除を望む声は尚も音を立てているが、
「先を話して。貴女は本来、私を必要とはしてない。それでも、私がここに追随する事を
拒まなかった。今は親切に説明迄してくれる。貴女の真意はまだ分らないけど、それはそ
れ。
 貴女に話す気がある限り、聞かせて頂戴」
 深呼吸して、己を落ち着かせる。その様を、その割り切りを見て、彩は微かに笑みを浮
べ、
「人の側が代償を嫌い、成果を得た後で契約を破る事も少なくない。昔話にあるでしょう。
神に乗り換えて代償を踏み倒すとか。本当は、それこそが逃れ得ぬ魂の縛りなのに。人っ
て、本当に自分勝手でしたたかで、強い生き物」
 でも今回は例外中の例外。契約不履行は影の側で、人に咎はない。命を委ね、魂迄差し
出して尚、彼は安楽を得てない。今もここで、彼は病み衰え、痛み苦しみ、悶えているか
ら。
「影は望みを叶えるのに失敗している。私が敢て同類の所作に介入した理由はそこなの」
 影は他人の命を奪って注ぐ事で、彼の回復を目論んでいるのか。病棟の患者達を次々と
襲い、その命を叩き壊してかき集め、彼を快復させ痛みと苦しみを除去しようと。
「人の命を犠牲に、石岡さんを治そうと?」
「それが出来ていれば、まだ良かったのよ」
 冷やかな声は彩の苦味を感じさせた。
「明確な目的を持ち、生きた人の力を借りた『魔』が襲う。己の死を承服できなかったり、
他の命を嫉妬するだけの他の霊とは格が違う。
 まともに対処せず、目を瞑って身を丸めてもやり過ごせる訳はない。好き放題に殺めら
れたのは、貴女も承知の事でしょうけれど」
 彩の話の促しは翔子に苦い思いを惹起する。そんな事があるとは思いもせず、信じもせ
ず、今日迄いた。何人もの患者が集中治療室に運ばれた。その末路は看護師だから知って
いる。
 事もあろうに病院で、命を奪う行いが。
 自分のいる病棟で、患者を殺す行いが。
 しかもその源が同じ患者にあったとは。
 目の前で苦しんだ患者、怯えを訴えた患者、錯乱した患者。信じなかった自分。己を呪
う。己の生き方を、選択を、全てを呪いたくなってしまうが、これを正視しろと彩は言う
のか。
『彩じゃない。私自身が、そうなのだから』
 何ともきつい。きついその事実に向き合い、彩への殺意に近い思いを、改めて噛み締め
る。
「彼が求めたのは安楽よ。痛みや苦しみの除去であって、快復ではない。それも一つの手
段だけれど、ここ迄悪化した病状を、他から奪ってきた命を注いでも持ち直せはしない」
 彼の身体は死にかけている。穴の空いた瓶に他から水を奪って注いでも満たせはしない。
今から彼を回復させて安楽を与えるのは殆ど無理よ。それを分らぬ影でもないでしょうに。
「貴女達が良くやる、延命治療の様な物よ」
 その指摘も、現代医療に携わる者にとっては厳しい指摘だが、今はそれを棚上げにして、
「石岡さんは、自分の望みを叶える為に影が他人の命を奪ってくる事を知っているの?」
 翔子の問は何を求めての問だったのだろう。
「そんな事を、本当に彼は望んでいたの?
 人の命を奪い去る事を彼は追認したの?」
 石岡亨の中に故意がなくて欲しい。彼の中に人を犠牲にして生き残りたいという意思が
なくて欲しい。彼が人の命を吸い上げる選択に同意したのではなく、影が独走した事であ
って欲しい。人を、患者を、敵と見たくない。患者が患者の害であるという矛盾を避けた
い。
 その希望に対して彩は冷やかに一言、
「それは私が知るべき必要がない事ね」
 彼は知っていたかも知れないし、知らなかったかも知れない。手法を主に明かす必然や
義務はないけれど、隠す必然や義務もないの。知っていたか気付いていたかは、分らない
が。
「それは私にとって余り意味はない。結果は、残っているのだから」
 彩は冷徹に事実を告げた。石岡がその事を承知していたとも、不承知だったとも、気付
いていたとも、気付いていたとも答えぬ侭に、どちらにせよ影が襲った事実があったとの
み。
 善意悪意に関わらず事実はあった。故意ではない、知らなかった、影が勝手に。そう言
う逃げ道を用意したいのは、実は石岡亨の為ではない。矛盾に直面したくない翔子の為だ。
 金美を襲った災いの源は、間違いなく亨にある。善意にせよ悪意にせよ、故意にせよ過
失にせよ、弁明で事実は曲げられぬ。翔子はその途に逃れようとした己に向き合わされた。
 不快だが、翔子の生き方を貫く限り、それは避け得ぬ。不快な事実も、それを正視した
くないと思っていた己も、確かな事実なのだ。
 本当に、心から、呪わしい。その不快感を心の中に満載させて、噛み締めながら、
「……貴女は、どうする積りなの?」
 本性を極限迄抉り出され、事実を事実の侭受け容れる他に術がない迄追い込まれた翔子
に残された問は、後の展開だ。行う事は大凡定まっている。後は対応に全力を尽くすだけ。
 どこでどう圧倒されても、患者だけは守る。闘志を失わぬ引き締まった表情こそ、彩が
翔子に望む物だったのも知れぬ。相手が誰でも心の底からの意思こそが彩の望み求む物だ
と。
「石岡さん、契約を解除なさい」
 貴男の求める物を、あれは提供できないわ。今なら、契約不履行は向こう側、貴男は咎
なく契約を断ち切れる。私へと乗り換えなさい。
 彩は静かにその額に掌を当てたまま、
「貴男の望みと契約は、私が受けるわ」
 なっ。翔子はその意を問い質そうとするが、彩は彼女に正対した侭視線で彼女を抑え付
け、
「あれに貴男の望みは叶えられない」
 私と契約なさい。私が貴男の望みを叶える。私は奴と同類、承認を心に念じるだけで良
い。
 彩は言いつつ、左の手で黒いサングラスを外した。同時に、風が吹き抜ける。
『気配が、桁違い……?』
 目は閉じている、双眸は尚閉ざされているにも関わらず、その眉間を中心に烈風が迫り
来るのは気の所為ではない。気配の濃さの桁が違う。存在感の格が違う。今迄のが偽物で、
人の世を忍ぶ仮の姿なのだと、分らせる様な。
 凄まじい威圧だ。威圧を意識せぬのに周囲が勝手に感じて後ずさる。翔子の心が臨戦態
勢だった故、辛うじて踏みとどまるが、そうでなければ理性が飛んでいた。失神していた。
 神の威とはこういう物か。あの影の狂気さえ、彼女の前では児戯に等しい。故に奴は彩
を認めた瞬間に逃げ去って、ここにも戻らず、何処かへ消えた。こんな物と対峙したくな
い。こんな物を見たいとは思わない。望まない。
 そんな相手に無理矢理対峙して、足をがくがく震わせて。跪きたい衝動を、目線を逸ら
せたい本能を、一秒一秒叱りつけ、脅しつけ。
 それは瀕死の石岡亨でも、感じないではいられないのだろう。その表情が微かに動いた
気がする。驚きか、恐れか、希望か、それは分らないが、確かに彩の働きかけに心は応え。
彩は彼にも分る様にその気配を解放したのか。
 傍に寄り添って、掌を静かに額に当てて、
「他人の命を破壊して奪い、注ぎ込むなんて無意味な愚行はしないわ。事はもっと単純」
 受け容れるだけで良い。承認を念じると同時に貴男の望みは叶う。痛みも苦しみも、そ
の向こうに見える無への怖れも何もかも消す。
 端正な顔立ちは平静だが、それは詰めるべき思いを満載させて、動かせぬ故の静けさだ。
空っぽなのではない。その逆だから、翔子がどの様に敵対し警戒し、挑発し問い質しても、
彩は微動だにしない。させられる訳がないと。
 微かに石岡亨が頷いた気がした。見えた訳ではない。この闇の中だ。気配で感じるとは
こう言う事を指すのか。頷かせたに近い流れだったが、彼の承認は感じ取れた。その瞬間。
 彼は息を引き取っていた。

「どういう事なの……!」
 翔子は仰け反った身体を立て直して彩に詰め寄った。目の前の変転に、ついていけない。
 病室は先程からの闇が全てを閉ざしていて、ベッドには男の身体が横たわり、寄り添っ
て立つ端正な女の姿は浮動だ。状況は変わってない。何も絵は変わってない。中身を除け
ば。
 故にその中身が問題なのだ。彩は何をした。彩は何をして、石岡亨は一体どうなったの
だ。
 彼は動かない。微動だにしない。先程から殆ど動きはないが、今の静止はそれとは違う。
息遣いがない。体に宿っているべき物がない。確かめる迄もなく、彼の現状は抜け殻だっ
た。
 問い質す翔子の気迫にも、彩は尚静かだが、
「彼の望みは、成就したわ」
 詰め寄って襟首を掴んだ翔子の尋問に彩がそう応えた時、翔子の自制は真に弾け飛んだ。
「この、悪魔……!」
 稲妻の平手打ちが、憎悪を込めて炸裂した。今迄の鬱積を、叩き付ける時を欲してうず
うずしていた憤懣を、全て右の掌に載せ。彩の左頬を翔子の手は、拳の様に打ち抜く。
「貴女に任せた私が馬鹿だった。痛みや苦しみを除くと彼を騙して、命を奪って……!」
 彩は抵抗しない。否、翔子がさせないのか。襟首を捕まれて、揺さぶられ。吹き飛ばさ
れてもおかしくない状況を堪えたが、その故に翔子の抗議に密着され、逃げを打てない?
「許さない。あんたは絶対に、許さない!」
 怖れ等超えていた。考え等超えていた。職責も嫌悪も警戒もない。あるのは沸騰する何
か。叩き付けねば収まらぬ何か。衝動に突き動かされる侭に、沸き出す何かが身体を操る。
「何が彼の望みよ、命を奪って何の望みよ」
 そんなまやかし、そんなまやかし……!。
 激昂し、抑えの効かぬ思いを叩き付ける翔子に、彩は打ち返す冷水を知っている。白熱
した感情を醒ます決定打を持っている。
「事実を正視なさい、篠原翔子さん」
 まやかしに身を浸しているのは貴女の方よ。
 事実から目を逸らしているのは貴女の方よ。
「不快な事実にこそ、向き合いなさい」
 言われた瞬間、翔子の動きは突如停止した。ぎりぎり歯を食いしばる音が聞える。止ま
った故に、音が耳迄届いたのか。意思を超えた激情を、更に上回る何かで無理矢理抑え付
け。
 翔子は彩の主張に透徹した一つの理を感じ取っている。納得はせぬが、認めぬが、彩で
もああするしか術はないのいだと分っている。
「彼は今、安らぎの中にある。承知なさい」
 事実に向き合えば、それは充分予期できた。
 現状を見つめれば、打開策はこれしかない。
 それ以外にどんな奇跡が手持ちにあったか。
 石岡亨は死に瀕していた。現代医療の助力故に今日明日には死は迎えぬが、回復はほぼ
不可能だった。影が他人の命を奪ってきても盛り返せぬ様に、翔子達が点滴や薬物投与や
手術を為しても、壊れた瓶に水を注ぐ行いだ。
 彼は助からない。助けようがない。助けるには奇跡が要る。翔子は、彩に奇跡を求めた。
『ああ、私は、自分に出来ない事を他者に』
 それは絶望から生じる祈り。翔子の手では、人の力では及ばぬ処に彼と彼の問題はあっ
た。ならその結末に、届き得ぬ立場にいる翔子がどの様に憤り不満を持っても何の意味が
ある。大人の話に子供が割り込めぬ様に、善や悪で解決できぬ問題に倫理を振りかざす様
に、翔子の抗議は無意味なだけの愚行だった。
 それを翔子は分っていた。分っていながら分りたくなかった。その己を正視しろ、都合
良く己の失陥を素通りする己を見つめ直せと。不快な事実以上に、不快な事実から逃れた
がっていた己の事実が、一層翔子を打ちのめす。
 だが彩の言葉はそれ以上に冷徹で、
「彼が求めたのは快復ではない。痛みや苦しみや、恐れの除去よ。それが何を意味するか、
終末医療にも携わってきた貴女に分らない筈はないでしょう。己を偽るのは止めなさい」
 そう。彼は安楽死・尊厳死を望んでいた。
 だが日本では、人を一分一秒でも肉体的に生かす事が至上命題の現代医療では、彼に死
なせて安穏をもたらす事は許されぬ。幾ら苦しみもがいても、麻酔を効かせる位で、絶対
に助からぬ命でも、明日には消えゆく命でも、今ここで断って安穏を与える事は出来ぬ。
 死ぬしかない状況で、死ぬ程の苦しみに一分一秒理性を破壊され続け、人としての尊厳
も何もないチューブだらけの肉体で、食も喉を通らず呼吸さえ自力で出来ぬ身体で、快復
の見込みがないと分って尚、生を強要される。
 患者を守ると翔子は言うが、それは非常な矛盾を孕んでいた。治る見込みがあるのなら
良い。だが、治る見込みもなく、暫く延命するだけで、延命された期間全てが想像を絶す
る苦痛に苛まれるなら、それは守っていると言えるのか。何から何を守っているのだろう。
 彼の苦しみは生きる事そのものにある。彼の苦しみは残り少ない命が終わらぬ事にある。
釈尊は人の四つの苦しみに生老病死をあげた。生きる事自体が苦でもあるのだと、生きる
事自体が苦しみの根源の一つだと、その通りか。
 彼は快復しない。死へ向かって進むのみだ。痛み、苦しみ、死後の無と向き合い己が消
えて行く恐れや苛立ちに魂を切り刻まれている。しかもそれは己の手では終わらせ得ず、
誰も手を下してもくれぬ。誰も救ってくれぬ。医学も神も、善意も励ましも彼の救いにな
らぬ。
 故に、魔の声に耳を傾けた。故に死後の己の魂を与えて迄、この地獄から逃れたかった。
なのにその願いを、あの影は果たさなかった。あれは唯彼の命を浪費するだけで、何も彼
に与えてはくれなかった。だから、彩が訪れた。
 彩がするべき事は来た時点で定まっていた。
「彼の感覚を奪う手もあった。感覚を遮断すれば痛み苦しみは感じない。彼の理性を壊す
術もあった。魂を壊せば痛み苦しみは感じても分らない。命を奪わずに済ませる事は不可
能じゃなかった。でも、それで良かったの?
 肉体から切り離され、或いは魂を滅ぼされ、それでも肉体だけあり続ける事が大切な
の?
 数日で滅び行く活きた骸が、魂を失い或いは感覚を失って反応も出来ぬ、何も関知し得
ぬ肉体だけがある事に、意味があるの?」
 翔子は彩に、言葉で頭を殴られた。翔子のよって立つ基盤、職責自体を切り崩す言葉に、
その事に目を背け続けていた彼女は、それ迄の怒りを消し去られる衝撃に、立ち尽くす。
「死して肉体を失えば、痛みも苦しみもなくなる。『無』になれば、『無』への怖れも消え
る。感じる己が消滅する。それが彼の望みを完全に解決する、唯一つの術だった」
 貴女は目を背けていただけよ。だから私の一言に怯んだ。貴女は知っていたの。それを
認めたくない思いと共に。私への怒りは、同時に貴女自身への怒りであり、世界への怒り。
 抵抗の姿勢も見せぬ彩を、すぐ押し倒し引きずり回せそうなのに、翔子は呪縛されて動
けない。力は溢れ、意思は満ち、いつでも身体は目の前の悪魔に鉄槌を下せるというのに。
 その様を瞳を閉じた侭、彩は静かに見据え、
「貴女の身体から溢れる怒りは私にも見える。
 それは貴女自身が他に術を見いだせぬ事への怒り。人の限界への怒り。世界への怒り」
 でも、貴女はそこには留まれない。唯私を憎んで終らせる事は出来ない。私を憎みつつ、
私を否定しつつ、貴女自身が進む途を探さなければ収まらない。貴女であり続けられない。
「己を貫く、強さは好きよ。だから翔子さん、とことん己を貫いて見せて頂戴。私は見た
い。
 人がどこ迄己に屈せずあり続けられるのか。
 貴女は事実を正視したいと言った。正視したいと思った。正視なさい。どこ迄も、貴女
を壊す程に過酷な事実を前にしても、逃げず、目を逸らさず、本当の貴女が求め欲する
侭」
 迫っている筈の翔子が逆に迫られていた。
 問いつめている翔子が逆に問いつめられ。
 膝がガクガク震えている。血の温度が急激に下がっている。溢れ出す熱気が、霧散する。
 彩は翔子の手が及ぶ範囲の遙かに外にいる。
 彩は翔子の心が思う範囲の遙か彼方にいる。
 正に彼岸の向こう側に。正に人と魔の隔て。
 彩の為した事は契約の履行であり、己への誠実であり、彼には救いだった。命を絶つ行
いは彼の願いを唯一完全に満たした。その他の全ての選択は不完全で不徹底で時間稼ぎで。
 分っている。分っている。分ってはいるが。
「それでも許せない。あんたが……!」
 全ての理屈を超えて、全ての真実を超えて、翔子は唯、納得できぬその怒りを抑え切れ
ぬ。
「あんたこそ事実を正視なさい。あんたは咎のない命を奪ったのよ。病に意識が混濁した
物の曖昧な承認で、一つの命を殺めた…!」
 再び身体に力が巡る。再び心に怒りが巡る。再び彩に殺意を向ける。今度こそ、抹殺す
る。その思いが頭を巡り心臓を圧し背筋を駆ける。そうだ、我はずっとこの機会を、待っ
ていた。
 彩の気配がふっと変わった気がした。隙だ。
『今こそこの女の胸に杭を打ち込んでやる』
 ずっと気に入らなかった。常に嫌っていた。彩は翔子にとって絶対相容れざる存在だっ
た。
 それでも無理矢理許容し、受け容れ難い存在を今迄認めてきたのは、この異常時への対
処の為だった。それも終わった。彼女が終わらせてしまった。翔子が決して許せぬ方法で。
「許さない。あんたは絶対唯では置かない」
 翔子は何かに満ちている。強力な何かが背中を押している。腕に籠もるのは唯の腕力で
はない。怒りの底に憎しみが、意思の底に別の意思が、翔子の身体に何かが入り込んで…。
「あの世で彼に謝ると良い。何でも理屈通りに力づくで、好き放題に事を進められると思
ったら大間違いだ。あんたを、否、お前を殺してお前のもたらす行いに終止符を打つ!」
 ドン。翔子の両腕が彩を壁際に押しつける。
 抵抗の間もなく壁に叩き付けられた身体を、翔子は追いかけてその心臓部に右拳を据え
た。逃げを許さず、右腕一本と気合いで彩のみぞおちを押さえ、ぐりぐり押し込む。常の
翔子でも、大した力の出ぬ女の細腕でもそれは身動きできぬ痛さだろうが、今の彼女は別
物だ。
 左腕はその喉首を押さえ、というより喉首を上に向かって締め上げて。こちらの腕力も
尋常ではない。体格ではほぼ互角、翔子が僅かに肩幅がある程度だが、形勢は明確すぎる。
 彩は抵抗の力がないのか、意思がないのか、状況の急転について行けず、壁に押しつけ
られて、何も語らぬ。否、語れぬのか。気道を塞がれては、呼吸さえ容易には出来なかろ
う。
 意外な程に、本当に呆気ない程簡単に彩を絶命の危機に追いつめて、その成功に翔子は
今迄感じた事のない爽快感と陶酔に浸りつつ、
「最初からこうしておけば良かった。そうすれば石岡を殺される事もなく、病棟は皆…」
 何もかも、お前がいなくなればそれで良い。
 お前は絶対に許さない。お前はここで死ね。
 お前に二度と我の仕事の邪魔はさせないっ。
 侵入者めが。外から、後からやってきて…。
 食い込んだ肉の感触が暖かい。血管の流れが活き活きと感じ取れる。それを抑える事で、
身体が悲鳴を上げているのが手に取れる様だ。
 翔子は彩の命を掴んでいる。彩が石岡の命を絶った様に、彼女もここで彩の命を断てる。
簡単に、一息に。因果応報という奴だ。超然と人を見下してきた彩にも、罰は振り下ると。
それは翔子に麻酔にも似た高揚感をもたらす。
「ああ、素晴らしいわね、世界って」
 今の翔子の腕力なら、この細い首を今の侭骨ごとねじ切れる。今の翔子の腕力なら、息
づく心臓を素手で取り出せる。それ程の充実。尋常ではない躍動に、己が信じられぬ侭、
「さあ、何か言って頂戴。声を聞きたいわ。
 今の事実を正視した貴女の声を聞きたいの。
 私の腕に命を握られた貴女のか弱い声を、叫びでも遺言でも、泣き言でも良いから」
 それは何を求めていたのか。絶対の優位の確認なのか。心臓はいつでも拳で打ち抜ける。
喉はいつでも掌でへし折れる。心さえ、今や己の支配下にあるのだと、示したかったのか。
 だが彩の答はこの時点でも、不敵に静かで、
「私の死が貴女の望みなら、応えてあげても良いわ。それが貴女の真の望みなら。心の底
から願う、本当の貴女の求め欲する物ならば。貴女に問う。貴女の本当の望みは我が
命?」
 奇妙だった。この高揚感、この酩酊感、この爽快感。何か違う、何か異なる。どこかで、
翔子は大事な物を心に置き残している。何だ。
 命を生かす病院で命を殺めた彩を翔子は許せなかった。だが、許せぬからと彩を抹殺す
る選択肢など翔子にあるのか。翔子は彩を憎んでいる、嫌ってもいる。だが、許せぬから
と彩を殺せば事は解決されるのか。彩への憤りは自身への憤り、世界への憤りだった筈だ。
 納得出来ぬが、承服せぬが、それを彩に叩き付けても、収拾にならぬと分るから、一層
腹立ちは大きかった。それにこの異常な腕力。
「今の怒りが心底貴女の怒りなら、その侭叩き付けると良い。この命を奪い、憤りと苛立
ちを解き放てば良い。貴女が真に望む物がそれであるなら、その程度で叶えられるなら」
 この息の下で、彩の声は尚も息遣いに乱れもなく、逆に翔子の肺が急激に苦しさを訴え。
 何がどうなっている。形勢は翔子が絶対有利だが、その腕力は不安定だが尚抑え付けて、
彩に抵抗のそぶりさえないが、この動揺は、
「貴女の求めた生き方が、貴女に事実を示す者を抹殺する結果を認め得るか否か、見せて
貰うわね。答えなさい、汝らは何者なのか」
 風が、壁から吹き付ける。瞳が、開かれる。
 目を焼き尽くす青い光。頭蓋を貫き、心を消し飛ばし、体中の神経を引き抜く錯覚を与
える烈風が、翔子の意識を瞬時だが抹消した。
 青い瞳。二つのガラス玉の青さは、夢に描いた南国の海の色、空の色。透徹した輝きは
翔子の瞳を貫通し、後頭部迄突き刺さる様だ。あれが純粋の怖さなのか。あれが魔性なの
か。恐ろしいのに、吸い込まれたくて堪らない…。
 翔子は暫く、死に染まった。傍に立つ死を、関知した。彩は四六時中そうなのか。彼女
は人ではない。人では絶対耐え得ない。この至近にいる事さえ、あってはならぬニアミス
だ。
 彼女に死は意味が薄い。彼女は魔物とさえ言えぬのかも知れぬ。異質すぎて、あの影の
方がまだ人に近い気がする。こんな者に遭遇してはならない。ならないが、篠原翔子はこ
れをも正視せねばならぬ。否これこそ正視せずにいられぬ。彩の本質が正気を壊す物であ
っても、正気を壊す物であればこそ。そして、
「私は看護師。命を守る者。奪う者じゃない。貴女の死は……私の望みでは、なかった
わ」
 膝が力を失ってへたり込む。激情を、何者かが煽り立て、彩への憎しみを膨らませたが、
それは己の真意ではない。そう唆す声に乗ったのは己の弱さだが、彩を滅ぼせば全ての矛
盾に目を潰れると縋る心抱いたのは事実だが、
「私にとって、貴女は正視能わざる真実なの。だから絶対に目を背けられない。貴女もそ
れを分って為すが侭に身を委ね、問うたわね」
 翔子が問う彩は既にその双眸を閉じている。存在感は依然として大きく不動だが、それ
でも瞳を開けた時に較べれば、遙かに人に近い。あの瞳は凶器だ。サングラスで塞ぐのも
分る。
 憎悪は駆け巡っている。今も尚、翔子の中には己と、彩と、それを取り巻く世の矛盾の
全てに対する強烈な憤りが吼え続けているが、それは抹殺した処でどうにかなる物でもな
い。
 だからこそ、正視して乗り越える術を探さねばならぬ。山は黙っていても低くならない。
山を壊すのではなく、登るのだ。一生かけて、登り詰められるかどうかも分らぬが挑むの
だ。
 己を取り戻すとは、こう言う事か。本来の信条に立ち返る。己の姿を言動を見つめ直す。
時に身を苛む思いはするが、進む事で見える物がある。進まねば決して見えぬ諸々の物が。
「貴女の憤懣に影が乗ってくる事は、想定の内だったわ。貴女が最後迄影に身を委ね心を
明け渡し、己を閉ざす決断を下すかどうかは見所だったけれど。良く己を見通せたわね」
 彩は翔子を使って、影をおびき寄せたのか。そして一網打尽を目論んだ。翔子が己を取
り戻さねば、まとめて殲滅したのだろう。翔子が寸前で己を取り戻したので、影は取り憑
いていられず、結果寸前で逃げ散る形になった。
 床に落ちたサングラスを拾うが、彩はここで再びそれを掛ける事はせず、やや軽快に、
「貫けば貫く程きつい途になるけれど」
 その辛さが楽しくて堪らないのよね。
 翔子の視線が突き刺さる。もう一度張り倒してやろうかと言う位、闘志に満ちた目線に、
「当分貴女には、私達の出番はなさそうね」
 身を翻し、その侭病室を出る。事は終わったのだ。気配でも視覚的にもそう分り、ふと
気が緩む。そんな翔子に、彩の方が微かに未練があったのか。ドアを開けてから振り返り、
「でも、その内また逢えるかも知れない」
 双眸は閉じているのに、その視線は強く翔子の身体を圧し、魂に刻み込む様に注がれる。
「人に願いがある限り、神も仏もいなくても、心からの願いを叶える物には事欠かない
の」
 いつか会う日は来るかも知れぬ。どこかで巡り会う事はあるかも知れぬ。その時も、そ
の時迄も、翔子は翔子の侭でいよう。彼女が彼女で居続ける事を、彩は微かに望んでいる。
それに応える事を、実は翔子も望んでいる…。
 軽い音と共にドアが閉ざされる。だがそれが演出に過ぎぬ事を、翔子は既に悟っていた。
追いかけ探しても彩を見つける事は叶わぬと。彼女は既に、この病棟から消えているのだ
と。
 夜は再び、常の暗闇に包まれた。

 外の敷地を歩む彩の頬を、短剣が掠め去る。
 彩は戦闘的な笑みを浮べた。宛然というか、興味深げというか。彩はまだサングラスを
掛けてない。この再戦は彼女も想定していた?そうでなくば、背後から気配も物音もなく
投擲した短剣を、目を瞑った侭躱せる筈がない。
 投げられた短剣が、少し先の地面に刺さる。短剣で致命傷を負う彩ではないが、彩の様
な物に傷を負わせる短剣である可能性は高い。
 歩みを止めた彩に低く抑えた声が向いて、
「余計な介入をし、我が目論見を砕くとは」
 闇に影が浮び上がる。闇よりも濃く、黒が浮き出た。十メートル程離れた、病院敷地と
外を隔てる壁の影に顕れた彼は、金美の病室で相対した時と随分違っていた。一言で言う
と、人に近い。だが、断じて人ではない。
 雲が切れ始め、夜の静けさの中に微かに月の光も射し込み始める。その薄明かりの中に、
影は一層黒く密集して漂い、沈殿して動かぬ。
 振り返った彩の前に見えるのは、中肉中背の暗殺者めいた黒い影だ。顔は白く無表情に
輝くが、目のある穴は何もなく、口は喋れども開かず、肌は柔らかに張って皺一つもなく。
 感情を排除した蝋人形の肉体に動きはなく、唯その抑えた語調膨大な負の感情を覗かせ
る。目の前にいても、あらゆる気配を感じさせぬ。言葉を交わしても、動きに繋る要素が
見えぬ。
 これが影の本気の殺意なのか。それに彩は、
「次の相棒を捜した方が、良くはなくて?」
 一度ならず二度迄吹き散らされ、契約者を失い、再び漂うだけの物になった貴男に、今
更私を襲う意味も勝ち目も薄いと思うけれど。
 それは、警告なのか勧告なのか挑発なのか。
「ああ、そうさせて貰おう。だがその前に」
 お前を二度とここに来られなくしないとな。
 影もまた感情の欠片も覗かせぬ声で応える。
「……そう言うこと。懲りないのね」
 影は尚ここの誰かに囁きかける積りでいる。同じ事をする気だ。その時再度邪魔されぬ
様に先に彩を始末する。考え自体は悪くないが、
「二度も吹き散らされたのに、強気なのね」
 彩の力量は尋常ではない。そう知った故影もまともな対峙は避け、逃げたのではないか。
 彩の問いかけにも答はない。問答を交わせば手の内を見られると言う事か。堅実な判断
だ。彩が翔子や史恵と交わした会話は抑えたから、もう話させて思考を見る意味も薄いと。
 思ったより本気で、戦い慣れている。そう言う相手なら、一撃で決めてくる。隙を狙い、
本気を出す前に、迎撃や反撃の発動を待たず、決定打を与えて終わる。暗殺者のスタイル
だ。彩は尚構えもなく、立ち尽くして影に正対し、
「飛び道具があるってだけでは、なさそう。貴男、意外な迄に力を溜め込んでいる様だけ
れど、それで私に勝つ気でもないでしょう」
 まあ良いわ。名前だけでも聞いておくわね。
 飛び道具を持つ側に距離を置かれても、完全に包み隠した殺意に対されても、彩には怯
えも警戒も敵意さえも窺えぬ。リラックスと言うか、常の平静さで対峙を続け。影が短く
名を告げたのは、その対峙が崩れた時だった。
「ダーク、ね。闇に潜む物と言うよりはそれ、貴男が使う短剣(ダーク)に因んだ名
前?」
「俺には名前などどうでも良いんだよ」
 声は彩の背後に短剣を突き立てた影からだ。
 白い無表情、闇に溶け込む中肉中背、しなやかで皺の一つもない皮膚。目前の壁を背後
に立つ影と同じ物が、彩の背に後ろから心臓に短剣を突き立てている。彩の目の前のあれ
は偽物か。相手を惑わす陽動だったのか。
 背後から短剣を投げ振り向かせれば、躱しても背後にいたそれが本物だと思う。しかし
それが偽物で、更に逆側に潜むとは。それは本来彩の進行方向だった。見事な迄の騙しだ。
 手応えはあった。刃は肉に食い込んでいる。病棟で様々な物の命を壊し、砕き吸い上げ
てきた致命の刃。それは彩の背に根元迄刺さり、
「見た目に引っ掛ったな。気配を隠して姿を現す愚行に、何の意味もないと思ったのか」
 後は彩の命を吸い上げるだけ。幾ら人にあらざる物でも、同類の必殺の刃を受けては…。
 彩は身動きしない。出来ぬのか。影に密着されて、刃を突き刺されて、言葉も発さずに、
「今こそこの女の胸に杭を打ち込んでやる」
 囁きかける声がある。刺し傷から流れ出すのも口から溢れ出るのも、鮮血だけではない。
「何もかも、お前がいなくなればそれで良い。
 お前は絶対に許さない。お前はここで死ね。
 お前に二度と我の仕事の邪魔はさせないっ。
 侵入者め。外から、後からやってきて…」
 悪意と狂気、憎悪と殺意。刃と共に打ち付けた暗い想念は、彩の命を砕こうと荒れ狂う。
「ブラック・プリンセスも大した事はないな。実に呆気なく騙される。魔王の妾だか娘だ
か知らぬが、この刃に掛ればおしまいだ。傷口からストローとなってお前の命を吸い上げ
る。
 相手が魔でも同じ事だ。もう少し大人しく刺さっていろ。じきに、干涸らびた骸にして
やる。それでもお前は死ねないかも知れぬが、死んでいた方が幸せな姿に変えてやる故
に」
 艶のある肌も、締まった肉も、若々しい後も、全部中身からそっくり頂いてやる。ああ、
やり放題だ。吸い上げ放題だ。戴き放題だ!
「我の行いを妨げた、愚かしさを悔いよ!」
 逃げ得ぬ様に、左腕を回して彩の胴を掴み、ダークは短剣をかき回す。その痛みは尋常
でないが、それ以上に刃は相手の命を砕き吸う。これで何人もの患者の力を壊し奪い、枯
らしてきた。例え相手が人にあらざる物だろうと。
「吸い上げる力が強すぎる。石岡亨の消えかけた命を借りた程度で、二度吹き散らされて。
 貴男やはり、奪った人の命も己の物に…」
 彩の言葉は痛みの故か低くくぐもっている。それに対し、ダークは勝ち誇った感を隠さ
ず、
「やはり、かよ。勘づいていやがったのか」
 そうともさ。俺は奴の命を借りて他の連中の命を叩き壊して吸い上げたが、奴には渡さ
なかった。お前の言う通り、壊れた瓶に幾ら注ぎ込んでも水は漏れだす。意味を為さない。
 だから俺が戴いてやったんだ。お前が邪魔さえしなければもっと良い思いを出来たのに。
 まあ良い。お前を始末した後で、やり直す。お前の邪魔が入らねば、人は人の思考の枠
に閉じこもり、見る物も見えぬ。邪魔も出来ぬ。
「我は思いの侭に命を吸い尽くす。我は思いの侭に命を叩き壊し、己の物に変えて行く」
 この世の全ての命を我に。この世に命は我だけで良い。他に何も要りはせぬ。
 刃をぐりぐり食い込ませつつ語るダークに、
「……誰の……為に?」
 もう長い言葉が出ぬのか。短く彩は問うが、
「誰の、為だと? お前、何言っている?」
 我の為に決まっている。我以外の誰の為に。そもそも魔が人の願いを叶えに契約するの
も、代償を得る為、己の為ではないか。今更何を。
 彼は己の饒舌に気付いていただろうか。己を晒す事を嫌い、彩と正対しても言葉を交わ
す事さえ最小限に留めた彼が、なぜこんなに己の目論見や思いを、語ってしまっている?
 彩に近く接した影響が、彼にも及んでいる。彼は己の真の望みを願いを、隠しきれなく
て。
「我は我の為に為し、我は我の為に生きる」
 その為に人も魔も、神も食らう。何が悪い。
 お前も我が食らってやる。我が栄養になれ。
 瞬間、全ての流れは逆転した。
 どこかで撃鉄の落ちる音がした。
「貴男、私の同類だと思っていたけれど…」
 短剣から吸い上げる命の流れも、停止した。
「どうやら、違ったみたいね」
 止めた積りはない。枯れるのは早すぎるし、彩はまだ瑞々しさを保っている。なぜ止ま
る。
 それにこの存在感の違い。細い胴を締めて、絡め取って、身動きできぬ筈の彩の存在感
が、突如激甚に増し、とてつもない質感を持って。命を吸い上げる筈なのに、叩き壊す筈
なのに。
 背後でも分った。彩が目を見開いたのだ。あの紺碧の双眸を、開け放ったのだ。しかし、
「うおおおおおぉぉぉ!」
 どういう事だ。彼の、彼の命が吸い出されるなんて。短剣から、短剣から彼の命が吸い
出され行く。それも、凄まじい勢いで。
「良い得物ね。命を吸い出す、ストローか」
 でもストローって私が吸うのにも使えるの。
 彩はダークの短剣を使い、己の傷口から彼の命を吸い上げて。彼は填められたのだ。彩
は彼に目的の為に、短剣を突き刺させたのだ。
「ひぐ、ぬぐ、ぎ、ぐぐぐ、ぐげ」
 逃がさぬと絡みついた彼だが、それは彩が彼を逃がさぬ為に絡みつかせたのだ。上を行
かれた。彩は己を餌にして、彼を捉えたのだ。
 手を放すんだ。ダークを抜け。身体を引け。剣は捨てろ。駄目だ、これ以上絡みついて
は。離れろ。俺が命を吸い取られる。離れるんだ。
「はあ、はあ、はああ、うは」
 飛び退いた時には、大半の力が奪われ去っていた。この病院で、石岡亨に始まり福田金
美に至る迄、様々な人々から吸い上げて溜めてきた力のその殆どを、彼は今ここで失った。
 焦りと恐怖と失陥に屈む彼に、振り向いて、
「誰の為に、と言っていたかしら、貴男?」
 カラン。突き刺さっていた短剣が落ちる音。
 微笑みかける彩の静けさに彼は真に底知れぬ恐怖を感じ、引きつった。能面が、歪む事
も出来ぬ筈の能面が汗ばんで止む事を知らぬ。
「人の祈りを受け、人の望みを叶え、人の願いに応える事が、魔と神の生き方よ。それは
私達の起源に直結する。それを捨て、魔でもない物になって、貴男は一体どうする積り?
 もう一度問うわ。我々は、いえ貴男は誰の為に、何の為に生きているの?」
 彩が振り返る。正視する。弾かれて、飛び退いて、それでもう身動き侭ならぬダークを、
力を吸い取られて微かに縮み、肉体に皺が寄り始めてきた漆黒の影を、昂然と見下ろして、
「止めろ。見るな。その目を向けるな…!」
 その双眸の凶悪さは、さっき彼もその一端を知った。足腰も立たぬ侭必死に後ずさり、
目を逸らし、両腕を翳すが、そんな物で彩の瞳を躱せはしない。それは彼も分っている。
「石岡亨の容態悪化は、病による以上に貴男の所為だった。貴男は必要以上に彼から命を
絞り上げ、それを使って更に他の患者の命を叩き壊して奪い、それを彼に注ぎ込む事もせ
ず己で溜め込んだ。主も契約も放置して…」
 その声が震えていたのは痛みの故ではない。
 その声を低く抑えるのは恐れの故ではない。
 彩がここを訪れたのは、怒りの故だ。その全存在を掛けて、望みを叶え願いに応え祈り
を受けるべき、魔の生き方から逸脱した者を。心底からの願いを発し、その祈りが受け止
められたにも関わらず、その望みが叶えられぬ者がいた事実を、彩は心の底から怒ってい
る。
「契約不履行は、過失ではなく故意だった」
 分っていたから来た事なんだけれど、改めて正視すると、苦いものね。
 彩は淡い笑みを浮べて一度その瞳を閉じる。
 それで漸く喋る隙を得たダークは、必死に、
「わわ我を、殺すのか。誰にも望まれてないのに、誰も我を討つ事をお前に依頼してない
のに。たったそれだけで、それだけの為に」
 己の為に生きる者の心配は常に己の事柄だ。それをなぜ彩が見下し蔑むのか彼は分らな
い。正邪の判断も付かない物に、正邪の判断を超えた処にいる物の思いは、分る筈もない
のか。
 人々に死を振りまいてきてその実、己が死に見込まれた事がなかった彼が、震えている。
己だけ安全圏から力を振るい続けてきた彼が、力の作用のど真ん中にいる。死はとても間
近にいて、身近にあって、彼を包み込んでいた。
 彼は彩が訪れた時点で逃げ去るべきだった。留まるべきではなかった。それを見せ餌に
釣られる様に、巧妙に待ち伏せた積りが罠で…。
 格が違う。桁が違う。器が違う。何もかも。全知全能の立場から、彩の端正な顔立ちは
ダークを静かに正視して、再び瞳が見開かれる。
「いっ、ぎっ、はっ、たっ……」
「貴男は何が大切なの。真に大切な物は何」
 再び視線の暴風に呪縛され、喋る事も考える事も叶わなくなったダークに、彩は強く、
「唯生きる事に何の意味がある。悠久の時を経て永劫を生きる我々に。何ら苦労なく生存
する己の身を思いやる事にどれ程の値がある。
 己の為の行い、己の為の命。そんな錯覚に心奪われて、己の心の底からの望みも忘れ」
 その瞳は月も星もない夜の闇の中、透徹して蒼く輝き、ダークの双眸を脳髄迄打ち抜く。
「思い出しなさい。貴男は一体何者なの?」
 その問を出すな。その問を発するな、俺に発するな。駄目だ、それは問うてはいけない。
ダークの今を、理性と思考の基盤を破壊する。
「ああ、ああ、あああああああ!」

 ダークが逃げ去った後の闇を眺めて、彩は暫く動かなかった。追撃はしない。相手は完
全に恐慌状態で力も奪われ、仕留める事は容易かったが。この程度の傷では彩の動きに何
の影響もない故に、討ち果たす事は出来たが。
「彼の消滅を、望んでいる人はいないから」
 今の侭なら、抹殺を望む人は現れただろう。騙せば騙された側に苦渋が残る。いつか彼
も尻尾を捕まれ、憎悪の対象になる。人の願いがそう働けば彩の様な物が動く事もあり得
る。
 今はまだそれを望む者はいないが、ダークが災いの源だと分れば怨恨は彼に向く。いず
れそうなる。いつ迄も隠し通せはせぬ。だが。
「今の私も、それは望んでない。甘いかな」
 彩は分っているのだ。己と近く接した事で、彼のあり方に再度の変化が、及んでいる事
を。
 ダークはもう、この病院には寄りつかない。魔は人よりも、目に映らぬ物を重視し、拘
り、囚われる。その感覚で見れば、彩は訪れて場をかき回し、根こそぎ変えてしまった。
台風が森を破壊したに近い。既に状況は全く違う。
 その上彩の訪問で彼女と場の縁が強まった。ここに居着く訳でないが、彼女は再度来る
か否かも知れぬが、彼女が訪れた事がこの場と彩の関係性を高めている。ここに寄りつけ
ば、間接的にだが、彩に繋がる可能性が高くなる。互いに意識しなくても、水が溝に導か
れる様に縁が縁を呼び、巡り会う可能性を導き易い。
 あの敗戦を見て尚、彩の気配や彩に繋がる場に寄りつく程、彼は無謀でも剛胆でもない。
しかも彼は彩と衝突した。それだけで彼自身、彩との縁が強まっている。徹頭徹尾逃げね
ば。
 正解だろう。だがそれは彩に言わせれば少し遅い。関係性(縁)が強まる以上に、彼は
彩の影響を受け始めている。真に嫌うなら闘いも避け、出会う事なく逃げ散るべきなのだ。
 あの饒舌。問への答。畏れの露見。全てを完璧に隠し、隠す故に何を望み目論むか分ら
ぬ不気味さとフリーハンドを持っていた彼が。彩に近付きすぎた。彩が巧く誘い込んだと
言えるか。彼はその意味でも、填められたのだ。
 この短剣が人ならざる彩に通じる様に、彩のそれも人ならざるダークに通じた。彩は戦
利品とも言うべき短剣を拾い上げて闇に翳し、
「彼の変化に、期待するとしましょうか」
 その語調はやはり静かで、その歩みは緩く。
 彼が己の生き方を思い出せればそれで良い。今回の彩の決着点はその辺りにある様だっ
た。
 若い者・経験が足りない者は、長い年月の間に様々な出逢いを経る中で、人の思いに振
り回されたり影響を受け、己を見失う事も少なくない。人に接する以上それは避けられぬ。
だが、変化は常にねじ曲がる方向にのみ働く訳ではない。柔軟性は遡及の方向にも働ける。
 人の思いを受けるには、人の思いを分らねばならぬ。その泥沼を悠然と泳ぎ切る強さが
なければ、魔の生き方は長く務め得ぬ。そしてそれは一度の失敗も許さぬ物ではなく、己
を見つめ返す冷静な視点と原点に立ち返る柔軟さ・己の逸脱を認める強さの方が不可欠で。
それを万年保ち続けるのは中々に大変だが…。
「貫けば貫く程きつい途になるけれど」
 雲間から顔を覗かせた蒼い月光と柔らかな微風が、黒衣の人を撫でて行く。それに身を
委ねつつ、語調は平静だがその中身は激越に、
「その辛さが楽しくて堪らないのよね」
 黒衣を翻して歩み去る。残されたのは何も潜まぬ唯の闇。千年万年変わる事ない唯の闇。
変わりつつも変わらずに彩は今尚あり続ける。

「神聖ならざる救い」へ戻る

「黒姫瞬き」へ戻る

トップへ戻る