第1話 月の迫る夜に

 出来て間もない住宅地は、森の大海に点在する小島にも似る。周辺が、これから開発さ
れると云う話だけを先行させて。
 数百年の昔から生い茂る木々の枝葉や茂みに覆われて昼尚暗く視界も狭く、夜にもなれ
ば駅の近辺以外は住宅地と云えど街灯もない。夜に道路を照すのは月明りだけという状況
で。
 飽和した既存の都市圏から、鉄路や高速道路の伸張を見込んで前倒しで拡張された住宅
地の卵達は、当初はバイ菌が小規模な群体で、力を蓄え飛躍を待つ様に、未整備な町並を
当分は甘受する外に術はない。
 周辺施設が未整備で、その故にまだ値段の安い内にと、この辺に新居を購入した人々の
帰宅は今暫くは、暗い空き地や道路沿いの森林を心細さと共に歩くか、タクシーを頼むか。
 夜遅く帰宅する者は、選択を迫られる。時には人生を運命を変える、だが日常繰り返さ
れる小さなその選択を。
 タクシーの稼ぎ時と云える、終電が到着し客を吐き出し去っていく午前零時。駅から出
る客を捉えに、空車が散発的に群り来る様は、少し離れると漆黒の森であるが故に、上空
から眺めると夜光虫が外灯に殺到する姿に似て。
 その輝く夜光虫の一つから、話は始る。
「お嬢さん。お嬢さんって歳でもないかね」
 中年のタクシー運転手は妙に陽気に、後部席の珍しい客に語りかけた。周囲は既に夜で、
車道から見る未整備な町並・沿道は暗い森で。
「この時間に駅に行くなんて、旦那のお迎えかね? それとも恋人との待ち合わせかね」
 彼が陽気なのにも訳がある。乗せた客が美人だっただけではない。彼の目当ては駅で捕
まえる客なのに、その駅に向うと云う『一粒で二度美味しい』客が転がり込んで来た為で。
『乗車拒否しないでやって来たご褒美かな』
 駅に群がるタクシーは大抵、駅で拾う客目当てだから、空車で行く。駅で客を拾うには、
駅に着く迄に別の客を拾って他の方向に行く訳には行かぬ。駅に電車がついて十分位が勝
負で、時を逃せば閑散たる駅舎が待つだけだ。
 商売仲間にはこんな時、沿道で手を挙げる客がいても無視して通り過ぎたり、行き先を
聞いて方角が違うと乗せない者も少なくない。
 邪道だが、効率よく稼ぐのには短距離の客は足手纏いなのが現実だ。客にすれば迷惑千
万だが、目先の銭に釣られる者は意外と多い。
 そう言う輩を客は一々覚えてはいないから、苦情がまともな運転手に来る事も、結構あ
る。自分に身の覚えのない事だが、気持ちも分る。
 正直者は、損だ。それでも正直を捨てて生きられる程図太くない彼は、正直を通すとい
うより小心の故に、今日迄誰も拒まず来たが。
「まあ、そんな処ね」
 後部から聞えるのは、若い女の声だ。だが、二十歳過ぎに見える若さの割りには妙に落
ち着いて、言葉数が少なく、言動が全体的に平穏で、闇に溶け込む様な黒い衣装が印象的
で。
 要するに、今時の二十歳代前半の若くてピチピチした(?)女のイメージが、ないのだ。
むしろしっとりとして、もう少し年上の様な。 老けていると、云うのではない。バック
ミラーで少し窺っただけで、それは明確に解る。酒場で働く若い女達を何度も乗せている
彼には、化粧でも隠せない基質の違いが、明白で。
 艶やかな白い肌。今時の女性にも珍しい均整の取れたスマートさ。高過ぎない身長。適
当に彫りの深い容貌は、大理石の如く端正で。その瞳は黒いサングラスの故に窺い知れぬ
が。
 美しさに非は見当たらない。問題は、アクセントがない事位か。これだけ美点が揃って
いても、目立つに足る何かが、彼女にはない。それが彼女を『潜在的な美女』に止めてい
る。
 傑出して色っぽい・可愛い又は儚げだとか云う『特色』が見えぬ。唯大理石の彫刻の様
に端正であるだけで、素材としては極上だが、工夫次第でもっと人目を惹く演出を、幾ら
でもできそうなのにと、男の彼が思う程なのだ。
 動くマネキンに近いのか。人を拒む訳ではないが、生気を感じさせず、感じさせようと
の努力もなさそうで。表情も殆ど変化がない。
『言い寄る男が、いない筈がない。この夜に、彼女が駅迄行くと云うのは、誰かの出迎
え』
 くどくど詮索したくはないが、気にはなる。本音を言うと、詮索したくないと云うより
は、詮索していると思われたくないだけなのだが。
 沁みもそばかすもほくろも痣もない、端麗にすぎる程の素肌は、僅かに蠢いて、
「待っている人がいるんだけれど、中々捕まらなくて。世の中、中々巧く行かないわね」
 最初の答に曖昧さを感じて、下手な追及を思い止まろうかと考えていた彼に、投げやり
と云うよりしみじみと語り出す感じの彼女に、
「あんたの様な美人が巧く行かないとはねぇ。
 おいらには、信じらんないんだけど」
 そこで彼が遅まきながら口を閉ざしたのは、彼女が誰かの不倫相手である恐れを考えた
為。
 こういう美人に限ってと言うか、美人だからこそ、金や決済権を持つ上司等の不倫相手
になる事は、大いにあり得る。彼女達の多くは同年代の若い男にその類の旨味を感じない
のだとは、昼間読んだ雑誌記事の分析だった。
 相手に妻子と別れる気がなく、若い女の身体だけを弄ぶ積りなら、彼女から見て中々巧
く行かぬのも当然だろう。クールな積りでも、己の状態を見る客観性だけは欠くのが人間
だ。
 そう言う恋の泥沼に、うっかり口を挟もう物なら大変な事に繋りかねぬ。幾ら美人でも、
他人の愛憎の縺れに首を突っ込んで怪我を負う程には、彼とて馬鹿でもお人好しでもない。
 美人だから気になるし、少しでも語りかけてみたい。そうは思うが、それだけの為に己
が負う危険を考えない程に、彼も若くはない。
 だが、相手の女性は彼のそんな褪めた心中を知ってか知らずか、余裕綽々な程に平静で、
「貴方に貴方の悩みがある様に、私には私の悩みがある物なのよ。思う様に行かない事は、
美人にも不美人にも、共通であるのだもの」
 自分が美人である事を、受け入れた口調で、
「良く出来た物よ、世の中は」
 巧く行かない時にこそ、人間は多くを悟った哲人になれるらしい。運転手は、今迄そう
言う実例を見て、何人も後ろに乗せて、あしらって来ていたから、もう余り驚きもせぬが。
「こんな夜遅くでないと、駄目なのかね?」
 彼があえてこう言うのには、理由がある。
「いや、夜の密会や逢引を責める訳じゃない。
 人の色恋に口を差し挟む気はないんだが、最近数週間だけは若い娘に物騒らしくてね」
 彼女の行動が、正当な恋愛に基づくかも知れぬ。その可能性を無意識に無視した彼の言
葉に、彼女は敢て指摘も言及もしなかった。
「若い女が行方不明らしい。らしいってのは、何人が行方不明者か解らない為で、行方不
明が一人以上いるのは確実だ。詳しい事は分らないが、とにかく姿を消してそれっきり
だ」
 流石に最近は、警察も動き出した様だがね。
「通勤帰りにタクシー逃し歩きを選んだOL。夜遊び好きな女子高生。同窓会帰りの若い
人妻に、スナック勤めの女。噂は錯綜するが」
 どれが本当なのか、どれも本当なのか。それも確かでないが、若い女が何人か行方不明
なのは事実の様だ。ここ二か月で、連続して。
「まだ町内会も、きちっと出来てないだろう。
 誰がいなくなったか以前に、誰がいたのかが解らない。警察も状況が掴めなくて困って
いる様だ。一人か二人の家出って話から、十人近い連続失踪って話迄、噂は乱れ飛んで」
 タクシ−運転手には、酷い話だ。危ないと思えば人は外出を控える。出歩く者自体が少
なければ利用客も激減で懐に直接響いてくる。
 その上その悲運は、彼らに襲い掛る恐れも拭えない。相手の正体が分らない。不特定多
数の客を乗せる彼ら程危ない商売はないのだ。
「最近は、女の運転手も増えて来ていたけど、この一件で、夜勤は男だけになってね。日
勤に女が集団で回るだろう。俺達は日勤を減らされる上に夜勤が激増で、参っちまってさ
ぁ。
 俺は、おばさん運転手なら、余り心配もないんじゃないかって云ったんだが」
 最近増えて来たタクシー運転手に、おばさんは少ない。むしろ若い女性の方が多いのだ。
「危険は分る。営業中にそんな事件に引っ掛ると大変だって事情も分る。でも俺達男なら
危険でも良いって会社の姿勢は、問題だね」
「そうなの。夜は危険なのねぇ」
 どことなくその声は、他人事の様に聞えた。
 危機感に欠如した、自分だけは何も起らないと根拠もなく思い込む、最近の日本女性の
典型的な油断を運転手は感じ取れた気がして、
「あんたにとっては、危険は最近に限った話じゃない筈だ。若い娘の夜歩きには常に危険
が付き纏うもんだ。決まった男がいない限り、避けるのが正しいと俺は思うけどね」
 正論だった。これ以上ない位の、述べている彼の頬が痒い位な正論だったが、彼女は彼
を揶揄したり、嗤い飛ばしたりはしなかった。
 逆に彼女はルームミラーから、サングラス越しに彼の瞳を正視して
「私には、大切な人なの。危険を冒しても捕まえたい位の人で、捕まえてさえしまえば、
どんな危険も意味をなくす位に、特別な人」
 危険は承知の上と云う語調だが、その云い回しが微妙で、日本語として少し違うのでな
いかと、思えたのだが。彼女の云いたい事は、その男と居られれば安心だと云う事と違
う?
「危険を冒しても−侵してこそ、ね−得る物がある。リスクを背負ってこそ、噛み締める
成功の果実がある。本当は、私にももう少し簡単に思えたんだけど、ね」
 確かに、それも真理の一端かも知れないが。
 彼女の口調は何が起きても予測の内と云わんばかりに平静で、静穏に過ぎ、逆に彼の不
安をかき立てる。彼女は本当に彼の忠告を分って聞いているのだろうか。
「実はさ、孝文−俺の息子なんだ−の婚約者も、行方不明らしいんだ。紀代子って云う、
二十歳過ぎの可愛い娘だったんだが……」
 成り行きだった。彼が初見の客にこんな話をする必要はなかった。この女性客の身を思
い遣ると云うより、始めてしまった話を中途で止めるのも不自然な流れに押されて、彼は、
「だから心配なんだよ。あんたの様な歳の女を見かけると、気になってならないんだ。
 息子が落ち込んでいてね。良い娘なんだよ。
 長い黒髪にパーマをかけた、華やかで背の高い娘でね。でも、その外見とは違って、性
格はとても繊細で、几帳面で、大人しいんだ。
 人の心を明るくする為に、素顔とは違う楽しい娘を演じてみせる事も出来る。芯の強い、
優しくて面倒見の良い娘だったんだ」
 未来の義理の娘を彼も気に入っている様だ。
「父親を、早くに亡くしたそうでね。
 母親に育てられたんだと、云う話だ。
 俺の家は逆でね。妻を早くに亡くして、孝文と次男の守と三人で、男所帯だった。
 その為に色々あいつには不自由をさせた」
 ……漸く良い相手を見付けたって云うのに。
「神様は、一体どこを向いているんだろうな。息子が、漸く幸せを掴めると思った瞬間に
だ。
 今迄の苦労なんて苦労じゃない。誰にだってあり得る、不運の一つだ。でも、それを越
えて漸く幸せに手が届きそうになった瞬間に、その幸せを放り捨てられりゃ、もう何も信
じられねぇ。世の中に神も仏もありゃしない」
 そう思ったって、不思議じゃねぇだろ。
「行方を示す手掛りが、殆ど何もないらしい。
 揉み合った跡とか遺留品とかが、何もない。警察は自発的に付き従ったか、或いは騙さ
れて連れ去られたと見ている様だが。夜になれば、この辺りは人気も疎だ。独り歩きでも
すれば、何があっても誰にも分らない」
 叫び声をあげたって森の奥では……。
 今の日本じゃ実感できないのかな。俺がガキの頃は町外れは真っ暗で、男も避けた物だ
ったが、今じゃ小学生が塾の帰りに歩き回る。
「それが治安が保たれていて、良い事だと思ってたんだが、人を無防備にさせて、本当の
闇の恐ろしさ迄忘れさせる結果になるとは」
 女子供が深夜に平然と出回る今の世の中は、何か違う。彼の皮膚感覚は、そう云ってい
た。それが通らぬ今の世に、通らぬまま無防備に女子が事件に巻き込まれる状況に、彼が
苛立るのも分らぬではない。闇への畏敬、恐怖がない世に、人々は違和感を覚えぬのだろ
うか。
「どこかに監禁されてるのか。山野に縛られ捨てられ、助けを待ってるのか。或いは…」
 行方不明から二週間が経つ。俺達に出来る事は何もない。無力感と、苛立ちと、息子の
沈み込む姿とが、交互に心に押し寄せてくる。駄目だな。俺は、励ますべき立場なんだが。
「若い女を乗せると他人事に思えないんだ」
 彼女は暫く無言だった。実感のこもる当事者の話故に心に響く物があったのかも知れぬ。
 だが暫くの後に返ってきたのは意外な答で、
「助け出したいと、思っているのね?」
 今この一瞬も、職務に励む一方で、情報集めに気を配っている。情報を流しながら、収
集して、何か役立てたい、役に立ちたいと…。
 彼女の問い掛けは、運転席の彼の表情を見ての物だったのか。心の中を見透かされた様
で、ひやりとした感覚が心臓を走り抜けるが、
「ああ、そうだ。俺が行けるなら、俺の力で何とかなるなら、今すぐに助けに行きたい」
 俺に出来る事なら、何でもしてやりたい。
 俺が代れるなら、代ってやりたい。だが…。
「俺には何も出来ない。分らない。捜査のプロが本気で取り組んで、進展がないんだ。俺
達が、どうにかしたいと、思ったってよ」
 失意と、悔しさと、それを認めざるを得ない不愉快さを圧し殺す彼の答えだったが、後
部座席の女の言葉は、一体何を考えてなのか、
「その願いが私をここに呼び寄せたのかも」
 彼が分らない顔つきを示すのに、
「貴男は、己を引換にしても息子さんの幸せを願っている。息子さんとその恋人の為なら、
かけがえのない何かの為なら、自分を犠牲にする事をも、厭わないと」
 優しい人。強い人。そして、護るべき何かを、確かに持っている人。その為なら、悪魔
に魂を売っても良いと迄、思い詰めている人。
「息子の嫁が助かるなら、神でも悪魔でも構いやしない。結果さえあれば、それで十分」
「そうね。そうかも、知れない……」
 極限状況に迫られれば、善か悪かではなく、必要か不要か、絶対か絶対でないか問にな
る。彼は自然な感情の赴くままに答を出していた。
 彼女はそれを既に分っていた。この問答は、確認の儀式なのだ。彼の大切な、何かの為
の。
「私が、彼女の力になれたなら、私の条件・願いを、貴男は聞いてくれる?」
「ああ、そうだな。非常に有難い申し出だ」
 彼女は一体何を云いたいのか。本当に、何かできると思っているのだろうか。彼は彼女
の申し出を、単なる誠意と受け止めたらしく、
「俺に出来る事なら、お礼を渋りはしない」
 その瞬間、女の双眸が危険な輝きを帯びたのを、彼は見過ごしていた。前を向いて運転
せねばならぬ立場なのだから、無理もないが。
「太っ腹なのね」
 気安く断言して良いの、と窘める女の声に、
「ああ、俺に出来る事なら、渋りはしない」
 それで紀代子さんが、帰ってくるのなら。
 彼はそれを、有効な契約になるとは思ってない様だが、それでも誠意には誠意で応えて、
「だが、あんたも余り無理はしない事だ。
 危険には、近付かないのが一番良い」
「有り難う。忠告は承っておくわ。
 運転手さん……。そえじま、さん?」
 暗い車内で、免許証のフリガナが読めていると思えないが、身を乗り出して問う女声に、
「おう、副島って書いてそえじまってんだ」
 良く『ふくしま』って読む奴が居るんだが、きちんと読めた奴は最近じゃ、あんただけ
だ。
「副島慎太郎、四十六歳、次もよろしく」
 車はライトに照される駅に着いた。駅の周辺は僅かばかりの店屋と住宅街で、昼ならば
閑静な住宅街と云えたろうが、多くの家々が外灯も消してしまうこの頃合いでは、寂しさ
と違和感の占める寂寞たる空間と化していて。
 違和感の原因は、その寂寥の中に並んで客を待つタクシー達だ。彼らの機械的な姿のお
陰で、ここが未だ現代の高度文明社会に繋がる日本の一部だと、思い返せる。
 しっくりこない、周囲の状況を振り返れば、何かしっくりこないのだが。
 何台かの先着組が、並んで客を待っている。少し遅いかも知れないが、終電は着いてな
い。
 最近は夜が不穏なので、通勤帰りの客によるタクシーの需要は多く、その台数より若干
客が多いのが常だ。これ以外の客が皆無に近い現状では、タクシーもこの待合に集結する。
 三千六百八十円の表示に、後部の客は財布から札を何枚か取り出しながら、
「私は、彩。色彩の彩と書いて、あや」
 黒一色のタイトスーツに身を包み、黒いサングラスとショートカットの黒髪を持つ、彩
と名乗った女性は、どこか謎めいた感触を残しつつ、財布の中から紙幣を数枚出しながら、
「まだ保障は難しいけれど、その女性、無事ならきっと、帰って来るわ。ごく近い内に」
 警察が動きだしたと云う彼の話を受けての答えにしては、語調が妙に自信に溢れていた。
警察の捜査は難航している、と云うよりどこから手を付けて良いか分らないのが、実情だ。
 その事情は、彼の話で彩も分っていると思うのだが。では、彩のその自信の根拠とは?
「己の何かを引換えにしても、叶えたい願い。
 その強い思いは、きっと届く筈よ」
 いえ、それはもう、届いたから。
「神も仏もいなくても、人の願いを叶える物には事欠かないわ」
 それは、副島を元気づけたい善意から発した言葉だったのか。
 ただし。それに続けて、平静な女声は、
「願いが叶ったなら、返礼を覚悟する事ね」
 サングラスの黒の奥で、その双眸が瞬間、輝いたように思えたのは錯覚か。
 彩は紙幣を差しだした。だが副島は、
「良いよ。今回は、要らない」
 彼は紙幣を渡そうとするその手を押し戻す。
 彩が首を傾げるのに、副島は、
「あんたは、俺を元気づけてくれた。お客に元気づけられる様じゃあ、俺も未だ未だだよ。
 それにあんたは、紀代子さんを捜すのに、力になってくれるっても、云ってくれたし」
「でも、それじゃあ……」
「気にするなよ。どうせ俺は、今夜仕事でここ迄くる予定だったんだ。損には、ならない。
 それより、あんたにそう云って貰えて、嬉しかったんだ。何の根拠もない言葉だけれど、
否それだけに、何の手掛りもなくさ迷っている今の俺の心には、良く効く薬だったよ」
 副島の瞼が、微かに潤んでいるのが見えた。
【己の何かを引換えにしても、叶えたい願い。
 その強い思いは、きっと届く筈よ……】
 気休めなのかも知れないが、それでも。
「今夜は、あんたを乗せられて、良かったよ。
 だから、金は要らない。その金以上の元気を、貰っちまった様だからな」
 今回の代金はその分で相殺させてくれ。
 副島は彩が渡そうとする紙幣を押し返して、
「次も、元気でいてくれな。俺には直接関係のない事だが、やっぱ美人は元気が一番だ」
 そして、幸運を祈るよ。運転手のやや思いこみが先行した励ましに、彩は僅かに困惑の
表情を浮べていた。

「前金を、貰っちゃった様な物よね……」
 本当は、金銭で貰う積りはなかったのに。
 受け取ってしまった以上、捨て置くのも気が引ける。彩の顔には、そう書いてある。
 終電の過ぎ去った駅は、少しの人々を吐き出して一日の業務を終える。有り合わせの白
熱灯に照し出された本日最後の利用客は、互いの面識が余りない事もあってか、言葉少な
げにタクシーの待合に向かう。
 行方不明事件の影響は、彼らの心にも影を落している様だ。ほろ酔い気分の者迄含め、
歩こうと試みる者は皆無に近く、タクシーの待合は順番争いで、閑散として売店も閉まっ
た駅は一か所だけが密集状態で、熱気に溢れ。
 終電の利用客は、最近旬の夜の危険を意識しており、乗り場から動く様子もない。運転
手達も台数が不足と見ると無線で仲間を呼ぶ。
 稼ぎ時であり、需要があるのだ。
 第一陣が混雑さえ感じさせながら全て吐き出される、丁度その頃に、第二陣の数台がそ
れに乗り遅れた客を掬い上げにやって来る。
 その第二陣が去ってしまうと、駅は一日の業務を終えて眠りにつく。駅員はライトの届
く近所の住人で、歩きで数分の距離だがその故に彼らはこの状況でもタクシーを呼べぬ。
 駅は治安への不安が昂じている時だからと外灯と一緒にあえてライトを点けたままだが、
人間は皆引き上げてしまうので、却って変な無人の感覚に、見る者は困惑するに違いない。
 ゴースト・タウンに近い感覚。
 邪悪な者・恐るべき者の徘徊を、この光の当たる処でだけはあり得ないと言い聞かせる
様な、無機質で新しく汚れない、人工的な無味乾燥が、ドラマのセットの様に思えて来て。
「……」
 今日も駄目かしら、ね。
 言葉には出さぬが、表情に軽い落胆の色合いを浮べた彩は、駅前のまだ新品の青いベン
チから立ち上った。だがその表情には、絶望や疲れの色はない。それはある程度、予測出
来たと云う感じでもあり。
 既に動く人影とてなく、最早新たに降り立つ客もない。閉ざされた駅の入口から出る者
は他に誰もなく、彩がこの時迄一人でいると云う事は、その目論見が破れた事を示すのか。
 既にタクシー等あろう筈もない。携帯電話の普及で公衆電話もない為タクシーも呼べぬ。
 この様な事態も予想できたにも関らず、危険を承知で彼女がこの行いに出る理由とは?
 彩は気をとり直した表情で、近くのジュースの自動販売機に歩み寄った。ポケットの小
銭を探りながらラベルを見比べる、彩のその真後ろに異変が起ったのは、その時で。
「今晩は、レディ」
 若い男性の声だ。それも、どこか気取った感じを与える、やさ男に良くありがちな声…。
 背後至近から語りかける、突然現れた気配。声は彩より少し高い処から発されているの
で、身長は低くはなさそうだが。
「タクシーに、乗り遅れましたか?」
 夜は、危険ですよ。特に、今日みたいな月が空から、迫って来る様な夜には、ね。
 端正だが、どこか歪んだ印象を与える文学青年の顔だちに、中肉中背の、二十歳代後半
の、どこかに憂いを感じさせる若者だったが。
 その瞳が獲物を狙う気合いに満ちた一瞬を、銀色の輝きを帯びた一瞬を、彩は販売機を
前にして彼に背を向けていたので、見ていない。
 しかしその故に、若者もこの瞬間の彩の表情が、見えてなかった。その声を受けた時に、
彩の顔が一瞬笑みを浮べたのを。それは人を罠にかけた時に浮べる、獲物を射程に捕えた
時に見せる満足感に近い、見ようによっては青年の見せた笑みにも似た、酷薄な笑みで…。
 瞬間、サングラスで遮られて見える筈のない瞳が、輝きを発して見えた。それは錯覚だ
ったのか。正面にある自動販売機が証言を許されたなら、何と答えたことだろう?
「そうみたい。待ち合わせに、遅れたのね」
 どうしよう、帰り道。最近この辺りは物騒だって云うし、歩いて帰るのも考え物ね。
 彩は販売機の方を向いたまま、声に答える。
 この時の彩の瞳を、男が見ていたなら?
 この時の男の瞳を、彩が見ていたなら?
「どうです?良ければ乗っていきませんか」
 僕も待ちぼうけを食わされた組なんですよ。本当は誰かを乗せる筈だった席なので、貴
女には失礼と思いますが、貴女の様な美しい人がここで朝を待つのは危険だ。美肌にも悪
い。
 男の斜め後方には、車が一台静かに止まっている。若者の年齢には不相応な高級外車だ
が。何者なのか、外見での判断は難しそうだ。
「待っても、始発迄は誰も通りませんよ」
「そう、みたいね」
 彩の答は、若者の先を促す様に簡潔だった。
「貴女のお望みの所迄お送りしますよ。嫌に思ったり不快を感じたりしたら、すぐその場
で降りても良い。無理にお薦めはしませんが、夜の独り歩きは貴女の様な美人には危険
だ」
 言葉遣いは丁寧で、その物腰は柔らかで。
 だがこの若者を、どこ迄信じたら良い物か。
 彩に暫く答はない。迷う様を背中に感じる。
 少しの沈黙の後、若者がもう一声何か語りかけようかと口を開く、その一瞬前に、彩は
唐突に彼を振り返って、
「お願いして、宜しいかしら」
 ショートカットに切り揃えた黒髪が、自動販売機を照す光を受けて、その漆黒の色合い
を際立たせていて、妙に艶めかしくて。それは人を夜の淵に誘い込む、入口だったのかも
知れぬ。抜け出る事の叶わぬ闇の世界にいざなう、死の女神にも似た印象を、彩は与える。
 静寂を保っているのに異様に躍動的な、今にも躍りかかりそうな獣の感触が感じられて、
若者は目を瞬かせた。カメラを通して見れば、それは大人しい受け答えにしか見えなかろ
う。
 だがこの奇妙な錯覚。吸い込まれる幻覚。
 若者は、経験から来る常識に従う事にした。こう言う印象を与える女だって、世の中捜
せばいない訳ではない。世の中には印象の見かけ倒しだって、多々あるではないか。まし
てや女とは、己さえ騙し飾り立てる人種なのだ。
「……ええ、勿論ですとも」
 どうぞ。若者は破顔大笑して、自らの外車に彩を誘う。やや神経質そうだが、その印象
を和らげるかの様な無邪気な笑みは、先程の銀色に輝く瞳を見た者には、逆に信じられな
かったに相違ない。若者の方は、見事に自分の一面を隠しきっている様だ。
「僕は北山肇。肇と書いて、はじめ。云う所の、金持ちのドラ息子、ですかね」
 二人の位置から車迄は、二十メートル程だ。
 肇は彩を助手席に導いて、扉を開けてやる。
「ジェントルマンなのね」
「その積りですよ」
 彩が車内に乗り込むと、肇は軽くドアを閉める。逃げ道を塞いだと云う思いの故なのか、
運転席に回る時に彩から自分の顔が見えなくなる一瞬、若者はもう一度、黒かった筈の双
眸を銀色に輝かせ、危険な歪んだ笑みを見せ。
「貴女のお名前、訊いていませんでしたね」
 運転席のドアを開けて頚を入れた肇の問に、
「あら、云った事、なかったかしら?」
 意味ありげな視線をサングラス越しに送って様子を窺う女性に、肇は微笑みを浮べつつ、
「訊いていたなら、決して忘れはしませんよ。貴女程に魅力的な方の名を忘れる筈がな
い」
 そう? 彼女は一体何を思ったのか、ふふふっと妖しい笑みを漏らしてから、やや訝し
げな彼の細面を改めて見つめ直し、
「じゃあ、今度は憶えて。そして忘れないで。
 私は、彩。色彩の彩と書いて、あや」
 語調は静かだがサングラスで瞳が窺えないので、表情の動きの少なさと相俟って、その
雰囲気は読み取り難い。掴み所のない女だが、彼にとってどちらでも話に大した違いはな
い。
「憶えました、二度と忘れませんよ」
 二人を乗せた車は、漆黒の闇に消えていく。

「綺麗な月の夜ね」
 走りだした車の窓から、身を乗り出す様に見上げる彩の視線の先には、青白く輝く満月
がある。片側二車線の太い車道の沿線は、大部分が未開発のままの原野か森林で、晴れ渡
った星空の輝きを妨害する物はなきに等しい。
 偶に交差する横道の向うに建物らしき影があり、何十もある窓の幾つかに灯りが燈るが、
繁華街のネオンと違い星空をかき消す威力もなく、辛うじて人間の存在を主張する程度で。
 ここは未だ人の支配する世界ではない。
 いずれ開発されゆくにしても、いずれ人に占拠され、夜道を塾帰りの小学生や女性が安
全に闊歩する文明に塗り替えられるにしても。
 ここは未だ太古から続く世界の続き。夜は闇が支配し、昼尚暗い森の奥に物陰に何かが
潜み、光が限定され、人知の限界が明らかな、人外の者達の息遣いを感じ取れる古き世界
だ。
 その世界の全てを照らし見下ろし、見守る様に上りゆく満月は、何千世代・何万世代も
昔から今日この日迄、多くの生き物達の血を騒がせ、奮わせ続けてきた。
「ええ。美しくて、危険だ……」
 肇は視線を道路から彩に移し、
「満月の夜に様々な伝承がある事は、ご存じでしょう。凶悪犯罪の発生が満月の夜に集中
して多い事や、狼男を始めとする多くの怪奇が満月に絡む例の極端に多い事や。
 月の満ち欠けはこの星に生命が生まれ出た時から、尽きる事無く働き続けていた」
 古来満月の輝きは人に、人ならざる者にも、大いな力を与える超越存在でした。その美
しさが、世の諸々の心を狂わせてきた元凶だと分っていて尚、惑わされてしまう美しき狂
気。
「どの様な危険を伴おうとも、その全てを含んで尚欲しいと思わせる輝き。地上には存在
し得ぬ、手の及ばない世界。貴女の様に…」
 既にタクシーの込み合う時間も過ぎ、一度対向車線に長距離トラックを見かけた位で、
多少脇見をしても運転に支障はない。
 語りかける肇に対し彩は沈黙を保っている。不快、ではなさそうだ。戸惑う様にも見え
ぬ。サングラスなので微細な表情は窺えぬが、時折彼の語り口を向くので、聞いてはいる
のか。
 その細い身体は座席の向うの漆黒に、溶けて消えてしまいそうに見える。
「月の光は永遠で美しいが、その輝きは無機的で死に絶えています。貴女の輝きはいつか
崩れ去るのかも知れぬが、生きた美しさだ」
 肇は運転中なので一瞬だけ彩に視線を移し、
「貴女の様に落ち着いた美しさを見せる方は、最近珍しい……。最近見かける多くの女子
は、若いだけで、唯綺麗なだけで、内面がない」
 綺麗な事は悪ではありません。でも、折角美しく生まれついた者なら、内面も美しくあ
って欲しい。限りある美しさなら、尚その美しさを際立たせる為に、大切に扱って欲しい。
 私は、そう願うのですが。
「貴女は、その内面も称賛に値する」
 肇は半ば彩の美しさに、半ばは自分の言葉に酔った感じで、そう歌い上げるのに、
「お褒め戴き有難う。お世辞でも嬉しいわ」
 でも、未だ逢って一時間も経たない私の内面まで誉めて戴けるなんて、少し出来すぎよ。
 彩は若干冷やかな物言いで応えるが、
「人の内在する資質は、表に現れるものです。
 全てを隠し通せる物ではありません。
 意識させぬ様に試みても、その美点は漏れ出ますよ。尤も、貴女がそれで尚隠している
と云うのなら、貴女の美点は私が見出した以上にあるという事になるのでしょうが」
「貴男がこの席に乗せる筈だった人が、今の話を聴いたら、何と思うかしらね?」
 彩の気を惹こうとして流暢に弁を振るう青年の熱を、醒ます様な現実への引き戻しにも、
「聞かせても好いですよ。
 別に、極悪非道な事ではないでしょう」
 悪びれる様子もない。拙いと思う神経の持ち主なら、そもそもこういう姿勢は取れなか
ろう。その意味で彼の賛辞は、諸々のしがらみをふっきっていて、いっそ爽快な程だった。
 今は今、後は後。そういう考えなのかも知れぬ。風を切って車を進ませつつ、
「美人は何処にいても、誰の物でも美人です。
 他の誰かへの素直な賛辞に嫉妬する様な女性を、伴侶には持ちたくありませんね」
 美しさへの賛美は、万人の権利です。
 軽妙過ぎかも知れない。上擦って滑り去って行きそうな、軽い肇の恋愛感を示す口調に、
「嫉妬は、その人を失いたくなければこそ、大切に思えばこその想いよ。醜く見える時も
あるけれど。失う怖れを抱かない愛情なんて、現実に存在できるのかしら? 私は、嫉妬
される程の独占欲に、包まれてみたいと思う」
 彩の恋愛観は、肇の理想ほど健全な物ではなさそうだった。これは男女の異なりなのか、
それとも単に個人的に嗜好が違うだけなのか。
 表向きの冷静さ・色気の薄さ・端正過ぎる容姿に隠された、暗く燻る炎。誰もが扱いに
戸惑う程苛烈なその炎は、一端発火したなら、絡み付き、己も相手も、燃やし尽くさずに
は、いられない。そんな情念の強さが垣間見える。
 彩がそれを常には表に現さず平静でいるのも、その真情を覆い隠す為なのだろうか。
「良いですね、それも」
 彼はそんな彩の反応にも軽快で、
「貴女に愛される日が来れば、僕も嫉妬の劫火に包まれ、焦がし尽されそうだ。
 尤も、貴女の様な人に嫉妬され縛られるのなら、滅ぼされても本望でしょう」
 肇は意外な程懐が広く、彩の言葉に少しの恐れに近い感想を述べながら、否定はしない。
 理想家とはその多くが夢想家だが、自身が世間の常識から飛躍しているにも関らず、他
者の発想の跳躍を認めない狭量な人物が多い。我こそ柔軟な思考の持ち主という者に限っ
て、自分が許した範囲の中を認めるだけで、それを越えた物に対しては一般人より硬直し
た応対をしてしまう多くの例がそれを示している。
 だが、肇という人物はそれらガラスの理想主義者とは異なるらしい。そして、それに対
する彩の答えもまた、凡百の物ではなかった。
「私が縛り付ける分だけ、私を縛り付けても良いのよ。嫉妬は、恋する万人の権利だもの。
 嫉妬の炎を燃やし合い、相手を身も心も焼き尽し、我が身も心も焼き尽くされて、劫火
に包まれ地獄の底迄も共に落ちる。どう?」
 嫉妬に嵌る人間は、己の嫉妬だけを肯定し認め、相手の嫉妬等考えもしない。存在さえ
意識しない。彩の様に、相手が自分と同じだけの嫉妬を持つ事を認め、互いの身を焦がし
合う事迄了承の範囲に持つ者は、実に極小だ。
「貴女となら、地獄の底迄でも落ちていきますよ。悔いはない」
 肇の答えは、それをも呑込もうとする強さを秘めていた。答えが早く簡潔に過ぎたので、
彩の言葉の意味を果して分かっているのかと思えて来る程『軽い』が、
「簡単に云ってくれるのね。本当かしら」
 冷やかな答えは、肇の真意をもっと掘り返さない限り、まともに答える訳には行かない
という事なのか。言葉では、何とでも云える。
 だが、生の本音の交じった応酬に幾度も晒されれば、虚偽や薄っぺらな思いは自然と剥
がれ落ちていく。彩は肇が申し出に込める思いの深さを量っている様だった。
「私は常に、自分に正直に生きてきました。
 今の言葉も、今の私の正直な思いですよ」
 肇は誠実には違いない。だが彩は、その言葉の落し穴迄見据えていた。
「今だけの思いに乗るのもねぇ。
 ……悪くは、ないのだけれど」
 ところで、何処に向かっているの?
 彩は行き先を云わなかったし、肇はどこにいくとも云わなかった。自動車は既に、三十
分以上は走っている。
「ああ、暫く月夜のドライブを楽しもうと走らせていたのですが。どちらに行きます?」
 ハンドルをもっている強い立場を、余り露にしたくない肇の問い返しに、
「そうねぇ……。行き先は貴男に任せるわ」
「良いんですか。貴女が待っていた人は?」
 少し意地悪な肇の問いに、
「その言葉をもう一度云われたら、そっちの方が気になってしまうかも」
 サングラスの向うで彩の双眸が、笑った様な気がする。
「分りました。行きましょう。地獄の涯迄」
 夜の闇に、二人を乗せた車は消えていく。

「荘重で静けさに満ちて、良いお屋敷ね」
 車を降りた彩は、余り驚いた様でもなくそう呟いたが、普通の感覚なら感嘆の溜息を漏
らしていたに違いない。欝蒼たる森林の奥に、二メートルを越える分厚い石の塀に囲まれ
た、地上三階建ての洋風の邸宅があったとは。
「今となってはどうでも良い話なんだけれど、僕の家系は結構由緒正しい旧家だった様
で」
 巨人の物と見紛う様な邸宅の門を通り抜け、余り整備されておらず低木や草木が生い茂
る庭を横目に見ながら、二人は中に踏み込んだ。
「昔は大地主だったらしい。と云っても、父の代に、資産の多くは手放してしまって…」
 幾ら走っても尽きる事のない森。昼尚暗く静まり返る森の奥に一軒だけ、周囲との交り
を拒絶する様に塀に囲まれて建つ大きな屋敷。
 深夜の帰宅の為か、起きている者はいない様で、何十もの屋敷の窓に灯はなく、物音も
ない。月夜に照らされているからこそ屋敷の全貌が見えてくるが、塀の外には黒々とした
夜の森があるばかりで、却って不気味な程だ。
「今では、僕の屋敷みたいな物です」
 時間が早くても殆ど灯りはつけてない。今となっては、部屋の大多数は使い道もなくて、
埃を被った状態でね。困った先祖さ。
 没落することを考えて、売り払える様な所に家屋敷を残して欲しかった。
「手放そうとは思ったけれど、売り払うにも交通の便の悪さで、碌な値がつかない。
 この辺が開発されれば、先祖の道楽なこの物件も少しは値が上がる。それ迄は、他にも
多少あった資産を食い潰して日々を暮し…」
 悪びれる訳でもなく、誇る訳でもなく。
 自分の運の周りがそうだから受け入れた。そういう肇の言い方には、下手な羞恥心や後
ろめたさがなくて、却ってさばさばしていた。
「静かそうで、良い所じゃない」
 それに対する彩の返答は、消極的だったがその故に、快も不快も強く印象付けられない。
 彩は余り実感のこもらない云い方で答え、
「でも、お金持ちには、お金持ちなりの出費が嵩みそうね? 屋敷が大きければ大きい程、
修復や維持に手間暇が掛る様に」
 肇が高級そうな外車を乗り回す割に、意外とその服装や装飾品にブランドへの拘りがな
い事に、彩は気付いていた様だが、
「どちらかと云うと出無精な方でね。余り銭は掛りません。子供の頃から身体が弱く、外
に出て人間と交際するのが苦手だったので」
 今でも、人の集まる所は苦手でね。この屋敷も、そう云う点では悪くない環境なのだが。
「自分に、事業展開に必要な商才やバイタリティーがない事位は、承知していますからね。
 下手な事業に乗り出して有り金を全てつぎ込んだ挙げ句に倒産、なんて結末より、残っ
た資産を切り売りしていけば、僕の残り人生位何とか出来る。その方が確実で安全だよ」
 肇の周囲に漂う生気のなさは、幼少時の病弱さの故と云うより、その生れが育んだ性分
なのかも知れない。退嬰的で、静かに淀み、己からは動く事も少なく、動くとしても夜で。
 滅び去った栄華の跡と云う言葉が、月明かりの魔力で、人格を与えられて出てきた様だ。
「さ、正面から入って」
 ほぼ並んだ姿勢から招き入れる肇に、彩は少なくとも表向き驚く様子もなくこの成り行
きを受け入れ、招きのままに玄関の扉に歩む。分厚い木製の扉は高さ二メートル近い物だ
が、
「頑丈だけど、意外と軽い。大きさが大きさだから、軽々とは行かないけれど」
 肇が彩の前で扉を押すと、ギイイィと軋む音を立てて扉が内向きに開く。邸内も灯りは
なく、窓もカーテンで塞がれて月光も差し込まぬ漆黒だが、彼は迷いなく足を踏み込ませ、
「どうぞ。作りは古いけれど、金に糸目を付けなかった頃の作りだから、足元が抜けると
か言う事はありません」
 招かれて中に入った彩が、その闇に紛れる様な人影を見付けたのは、数秒ののちだった。
「……ああ、起きてきたのか。済まない」
 肇が驚きを抑えて静かなのは、不気味な印象を彩に与えたくないとの気遣いか。だがそ
れは逆に、その異様さを浮き彫りにしていた。
「僕が子供の頃から女中をしている和子だ」
 お伽話に出る魔女に近い。頭からすっぽり土色のフードを被って顔を隠し、手も足も素
肌が殆ど窺えない。その歩き方の慎重さは身体が悪いのか、或いはかなりの高齢なのか…。
 身長は百四十センチ弱。体格は細目で、女性にしても低い位だ。撫で肩で、シルエット
を見る限り若々しくはない。その姿を浮き上らせているのは、皺の深く刻まれた右手が辛
うじて持てている燭台の蝋燭の灯で。
 印象が異様なだけではない。招かれるまま彼の屋敷迄初対面で深夜に上り込んだ彩に、
邸内の者との接触は望ましくない。日中なら理由は付けられようが、草木も眠る深夜の参
上は、例え正当な理由があっても、その信憑性を貶める程に怪しい。
 肇のリードを待ちたい姿勢を見せつつ、視線をぶつける事は避けて、少し伏せ眼がちに、
「深夜に、お邪魔します……」
 ばつが悪そうなのは彩だけではなく、肇にも共通な様で、苦笑いを浮べつつ老婆の元に
歩み寄ると、燭台を静かな動作で取り上げて、
「起きて来なくても大丈夫なのに。
 僕にはお前の方が心配だよ。この燭台だって、そんなに軽い物じゃないって云うのに」
 怒声や叱声は彼の美意識にそぐわない上に、老齢の相手にきつ過ぎる。そう考えたのか
肇の口調は心配し窘める、むしろ老婆が彼に見せる姿勢を先取りした形で。薄暗い中であ
り、フードに覆われた顔が俯き加減な事もあって、和子が本当に老婆なのか、それとも身
体が不自由なだけなのか、確認はできなかった。
「大丈夫だよ、部屋に戻ってお休み」
 彩の見た感じでは、その燭台も金属製で結構重そうだった。肇はともかく、この老女が
片手で姿勢に無理なく持って来られるのは?
「……」
 だが、彼女(女との確認も取れてないが)はすぐに屋敷の闇に消えて行こうとはしない。
 鈍いのか、彼の声が聞えてないのか、或いは聞えてないふりを決め込んでいるのか。暫
く肇のすぐ脇で立ち尽くし、深夜の侵入者の非礼を咎めるのか、探るのか、じっと動かず。
「どうしたんだい? 何も心配は要らないよ。
 ……分かったよ。深夜に出歩くのは、危険だって言うんだろ。今度から気をつけるよ」
 老婆は彼の言葉も耳に届かない様で、じっと彩の方を向いたままだ。フードに覆われた
頚を下に向けているのでその視線は窺えないが、それは『我が家の坊っちゃん』に寄って
くる悪い虫を見極め、威嚇する姿勢なのか。
 一言も発しない姿勢が奇妙だった。
 彩は軽く頭を下げるが、相手はそれに応えるでもなく沈黙し。和子は暫く動かなかった。
 面倒な展開になる事を懸念したのは肇で、
「この人? 彩だよ。
 前に話した事、なかったっけ?」
 これは、一見和子へのごまかしに聞えたが、実は彩へのごまかしだった。
 肇から見れば、彼の事情を全て知る和子を騙す必要はなく、むしろその様に騙せる只の
老婆だと彩に思い込んで貰うのが、このやりとりの目的だった。唯一、いつもとは和子の
対応が違っていた理由は、後で明らかになる。
「大丈夫、いつもの様に丁重に扱うから。
 本当だって。うん、うん」
 肇の説得に促され、老婆は渋々という感じで奥に引き上げていく。彼女(?)は燭台が
なくても闇目が効く様で、その足取りは早くはないが着実だった。足音が殆ど聞えず、絹
を引きずる様な僅かな物音が遠ざかって。
 老婆はゆっくり闇の中に消えて行く。その姿が見えている間中、彼女は終始無言だった。
そして彼女を、見送る彩も。
 肇が背後に回って扉を閉めると、邸内は再び漆黒の闇に閉ざされた。

 屋敷は異国風に作られていて、土足で入る作りの様だ。肇も、靴を脱ぐ姿勢も見せない。
各部屋に上がったらスリッパがあるのだろう。
 彩は、一般人なら困惑する程豪奢な作りを気にもせず、肇の後をついていく。邸内が真
っ暗に近く、その華麗さや装飾が見えない事もあろうが、それ以上に彩と云う女性が肇の
想像を超えて豪胆、或いは鈍感らしいのだ。
 現状では燈は肇が持つ燭台の炎だけだから、その行動は当り前だが、恐れも不安も警戒
さえ感じさせないので、綺麗な容貌にも関らず、生気も色気も可愛げもない。こう迄平静
では、男側が励ます事も力付ける事もできないのだ。
 多少騒いだり怯えたりしてくれた方が扱い易い。尤もこれは男の側から見た話に限定は
されない。女から見ても、多少単純でおっちょこちょいなの男の方が、扱いは簡単だろう。
 だがこの時の彩も肇も、そういう人物ではなかった様だ。二人とも知的で冷静で、そし
て少々の物事には動じない。それでいて、結構危険な部分まで平然と足を踏み込ませる。
 どういう根拠で己は安全だと思っているのか、或いは危険でも気にしないのか。怖さを
知らぬだけなのか。その辺りは分らないが。
「鉢合わせするとは、思ってなかったよ…」
 困惑した声音で彩の理解を求めつつ、肇は邸内を導いていく。彩は和子と対峙してから
十分位、その場を一歩も動いてなかったのだ。
 それを彩が憮然としている、不快に思っている、と心配したのか。彼の弁明ともガス抜
きとも思える中途半端な語調に、
「良いのよ。確かに、こんな時刻に人の家を訪れる私の方が、非礼だったんだから」
 彩の語調はずっと平静に近く、感情の起伏が窺えないので、これだけ聞いても彩が不快
なのか、全く気にしてないのかは分らないが、
「でも、こんな時刻に、自宅に初対面の女を誘い込む貴男も、結構豪胆ね」
 非礼はおあいこと云う言い方だったが、その語調には冷めた怒りではなく、力の抜けた
気楽さが感じ取れる。
『彼女は、それ程不快には思ってない』
 今帰ると騒がれたなら、感情的な縺れになったなら、それこそ彼の最も嫌う美しさも何
もない終末になってしまう。彼の美意識では、それは許されざる展開だった。彩の図太さ
と落ち着きは、彼に取ってこそ有り難かった。
『この冷淡さ、平静さの裏、覗いてみたい』
 真っ暗な回廊は電気もついてない。使わない部屋に電気を行き渡らせても意味がないの
で館の中の一部分にしか電気は通わせてないと肇は云う。電気料も馬鹿にならないそうだ。
「流石お屋敷ね。今でも使用人はいるの?」
「和子ともう一人です。祖父の代から引継いでいましてね。暇を取らせても帰る所がない。
 それに、邸内もまだ一応使っていますから。古くなったとは云え−否、古くなったから
こそ−掃除や維持管理に、いて貰わないと困る。
 御曹司扱いですよ。時代錯誤は承知ですが、邸内は人も含めて五十年位時が止まってい
る。申し訳ないがこの中では付き合って下さい」
 漆黒の中を頼りなげな蝋燭が招く。周囲の闇は濃密なだけでなく、それ以上に意思を持
って彩を肇の導く方向に押し出す様だった。
「夜は月の輝きも、差し込まないのね」
 多少不満そうに呟く彩に、
「廊下両側が部屋になっていますから。外からの輝きは部屋に入るべきで、廊下は邸宅の
主が支配する空間として邸宅の燈が照らす。
廊下の両端の窓は光が差し込む作りですが、夜になるとカーテンで閉ざしてしまいます」
 その代り、月光の差し込むお部屋を、貴女にはご用意いたします。
 彼の声が斜め前から聞える様になるのは、彼が階段を上り始めた為か。どうやら彼は二
階の一室を彩に宛がう積りらしい。再び平坦な通路に出ると、肇は彩を、更に奥へと誘い。
 彩は物音が殆どしない闇の中を、息を乱す様子もなく淡々と追随するのみだ。
「ラブホテルとか、公園の薮とか、山林とか、考えなかったの?」
 彩からの問い掛けは、肇がどんな答えを返してくるかを、窺って楽しむ問いか。
 だがそれも考えられる云えた話だったろう。初対面で相手の家迄上がり込む女性も少な
かろうし、普通はそれを見込んで誘う側も家には招かない。男にせよ女にせよ、そこ迄大
胆で図太くなるのも、問題だ。
 彩が、そこ迄の大胆さと図太さを持ち合わせた自らを棚に上げ、出会った誰にもこう扱
うのかと指摘するのも、盗人猛々しいのだが。
「証拠の残らない所ですか?」
 彼は逆に核心部分に、自ら切り込んできた。
「最近噂の、連続行方不明事件を引き起した犯人ならば、そこを選ぶかも知れませんがね。
僕は余り外に長居したい方ではないんです」
 自宅でないと気が休まらない。幼少時に体が弱くて、屋敷の外に殆ど出なかった、その
名残なのでしょう。外では寝ても湯に浸かっても、休んだ気にならない。疲れも取れない。
 ここに帰って初めて、身も心も休まる。
「この館は広い上に作りが頑丈です。音も漏れません。灯りに気をつければ、使用人が眠
る反対側では、深夜に何をしても気付かない筈です。今迄も結構忍んできたんですよ」
 今夜は偶々起きていたが、大抵は深夜に目醒める事はない。この屋敷は閑静な所にある
から、結構気に入って貰える事が多かった。
「貴女の様に綺麗な人を見付けたら、その犯人だって心ときめかせたでしょうが、貴女は
今は私の客だ。他の誰にも、手は出させない。
 例えあの駅で貴女が待っていた筈の誰かが、今ここに現れてきたとしても、ね…」
「強気なのね」
 冷かす様に先を促す彩の言葉に、
「何しろここは私の縄張りですから。犬でも蝶でも小鳥でも、自分の縄張りでは元気百倍。
 私にも、獣の血が少しは残っていますよ」
 自嘲と苦笑いを込めた、強がりか。或いは、彼の中に眠る何かの真相の一端なのか。
 前を歩く肇の足が、ぴたりと止まる。
「こちらが、客間です」

 扉を開けると、窓から差し込んでくる月明かりが眩しく感じられる。肇が先に数歩入り
込んで、彩を待つ。
 三十畳を越える大きさと思われる一室は、今日この日の為に設えた様に、豪勢に飾り立
てられていた。電気はついておらず、相変わらず辺りを支配するのは夜の闇だが、部屋は
月明りに照しだされて、少しは見通しが効く。夜目に慣れた彼らには、それでも十分だっ
た。
「少し待って。今灯りを付けますから……」
 流石に肇も部屋に入って迄燭台に頼る積りはなかった様だ。少し探す動作があってから、
二人を照す灯の主力は燭台や月光ではなく、人為的なシャンデリアの輝きに取って代る。
 得体の知れぬ何物かが潜むかも知れぬ闇は部屋の中から追い払われ、面白みはないが危
険もない白日のまがいものが、ここに局所的に現出した。これが現代文明の力という奴だ。
 雰囲気はやや冷めた感じだが、人の心を安んじるには人の技術に包まれた方が有効と、
肇は考えていた様だ。計算違いは、彼の予測を超えて彩が物に動じない性分だった事で。
彼女は電灯が点いても特段安心した様子もなく、その輝きを有難がる様子もなかったのだ。
 彼にとってこの白色灯は健全に過ぎて、適当な段階で巧く消してしまうべき、ある意味
では邪魔な輝きでもあったから、彩の為に付けた灯りなのだ。彩に不要と分かっていれば、
最初から付けない事も考えたのに。
 例え表向き平静を装っていても、内心に不安を抱えていれば、電気が点いた瞬間に緊張
の糸が弾ける。それを解きほぐさないと、本当に穏やかに事を迎えられはせぬ。それが肇
の推測した女性、否人間の範囲だったのだが。
 どうやら彩の性格は、彼の推測の範囲の外にいるらしい。肇が、人の推測の範囲の外に
いる存在であるのと同様に。
「良いお部屋ね」
 単純にその一言で片付けられる様な部屋ではない筈だが、彩の感触は悪くはないと云う
程度で、大人しすぎる好評だった。常の者がこの部屋に踏み込んで述べる感想ではない。
 金箔が塗られた太い柱のベッドと云い、美しい壁紙を貼られた壁と云い、ふかふかの床
のカーペットと云い、金に糸目を付けなかった頃の豪勢さが、若干の改装を経ただけで燦
然たる輝きを放っている。時代を経ても変らない価値の高さが、素人目にもよく分る。
 部屋の奥にあるソファが店頭で売られるとしたなら、一体幾らになるだろう。夏なので
火は点ってないが、暖炉の作りも古風で良い。
 何もかもが、云ってみれば過去の栄華を残した遺品で、歴史と値打をを無言の内に示し。
 それを傲然と受けとめ、驚くでも竦むでも震えるでもなく、女帝の様にあっさり受入れ、
簡単にだけ誉める。それは、部屋の高貴さを認めつつ、それに相応する値打が自分にある
との強烈な自負がなければ、出せない応えだ。
「この館で最高の、客間ですから」
 答える肇の言葉尻に、僅かな動揺が窺える。暗闇に一人残されて立つ彩も、華やかなソ
ファに身を預ける彩も同じなのに、その雰囲気の違う事。違うにも関らず、その根では違
わぬ彩の個性が共通して息づいて。今迄が今迄だけに、少し寛いでみせただけで、生々し
い。
 これは、彩と言う女の生き方・詐術なのか。サングラスを取ってもいない彩はまだ、そ
の魅力を出し切ってない。出し切ってないのに。
 大理石の冷徹さと寛ぎの生々しさ。
 闇に潜む魅惑とソファに着座する威厳。
「貴女の為に、この部屋をしつらえた様だ」
 女王・或いは女帝と云う言葉がこの若さで似合う人物を目にするのは、彼も希少だった。
時として彩には魔王の風貌さえ見え隠れする。
「有難う。でも、本当の女の価値は、この明るさの中では、中々見えてこなくてよ」
「物事には、順序と云う物があります」
 消灯を彩が申し出る展開は、肇には不本意だった。自分の領域で彼女に主導権を握られ
ている。そんな錯覚が彼を突き動かしたのか。
 肇はやんわりと彩の申し出を拒んだ。拒絶して自分の決めた順序に従うよう、彩に求め。
 この辺りには、良家に育った彼の性分が出ているか。寛容で鷹揚ではあるが、相手の主
導権を、自分の許した範囲迄しか、認めない。
 しかし彩は、更にしたたかだった。
 彩の拙速に近い申し出は、彼の反発を見込んでの行いだ。肇が自分の主導で物事を運ぶ
事に拘ると、あっさりその仕切りを彼に委ね。
「では、貴男の順序に、従いましょう」
 彼の反応を待っていた様な彩の言葉に、肇は却って彩の望む状況に嵌っていく気がして、
複雑な顔だ。だがとりあえず己の意は通せた。
 それに一時的に主導を彩が握れても、最後迄それを押し通せはすまい。落ち着いてみれ
ばここは彼の館で、朝迄まだ六時間以上ある。
 落ち着いて事を処せば良い。彼女は自分の懐の大きさ・器を量っているのだ。ある程度
踊らされてやっても良いではないか。それで彩が喜ぶなら、可愛い物だ。最終的には彼女
とて、彼の手に堕ちる存在なのだ。
 本当に掌に乗せられているのが一体どっちなのかは、朝迄に分かれば十分だ。今は乗せ
られているふりをしておけば良い。
「お任せください。貴女に今宵、別世界を体験させて差しあげましょう」
 ソファに座った彩が、僅かに頚を動かした様に見えた。だが、彼女に肇の言葉の真意は
分るまい。別に、分らなくても困りはしない。
 どうせもうすぐ、身をもって分るのだから。

「まずは疲れを癒し、気持ちをほぐす飲み物が必要でしょう。暫く、待ってて下さい…」
 良いワインがあった筈なんですよ。あ、ワイン、飲みますか。ウイスキーでもブランデ
ーでも、結構種類は揃っていますから、何でも好みを云って頂ければ、対応できますけど。
 肇は自分の主導権が取り戻せた事で、元来の鷹揚さも取り戻した様だ。これももしかし
たら彩の目論見の一環なのかも知れないが。
「貴男の好きな物を、お願いするわ。
 貴男の好みなら私にも合いそうだから…」
「承知しました。では、少しお待ちを」
 だが、肇が喜んで部屋を出ていくのと同時に、彩は彩で別種の動きを始めていたとは、
流石の彼とて思い及ばなかったろう。
 肇が持ってきた唯一の燭台を持って行ったのは、彼女に部屋を出られない様にとの意地
悪や企みの為ではない。己の歩行に必要だったからだ。彼女が勝手に、自らこの闇の廊下
に足を踏み出す等、思いもつかなかったのだ。
 館は、少し変形した『H』の字をしており、左右二対の棟が中央で繋がれた形になって
いる。彩が連込まれたのは右棟二階の奥、肇が食物を取りに行ったのは、正反対にあたる
左棟一番手前の地下室だ。その奥の酒蔵でワインを取ってから、その上の右棟一階の厨房
で適当につまみ類を集めると、彼は云っていた。
 時間は少しある。逃げるなら、今かも知れない。最後のチャンスという奴か。だが彩の
発想に、逃げと云う概念は存在してない様で。
「さて、と……」
 優雅にソファに身を沈めていた彩が、突如動きだすと、雰囲気は又一変する。それは猫
系の獰猛な獣が食餌を求め徘徊するに近く、動きはしなやかさと美しさに合致すれども、
その雰囲気は危険な迄の緊張に満ちていて。
 彩の身長は百六十五センチ弱で、現代の日本女性にしては、やや高めと云えるだろうか。
 身体は総じて細目で、男性の抱く理想像とは少しずれがあるかも知れない。締った体付
きだが、胸も大きくないのだ。手も足も細くしなやかで、その肌の瑞々しさから、年齢は
二十歳過ぎだと思うのだが、受け答えが余りにも大人で余裕がある為か、老けて見られる。
 黒いサングラスをかけるので、人の忌避を招き損を被りそうだが、その効果は彼女の狙
いらしい。彼女が大きな反応を見せる事・感情の起伏を顕にする事がないのはここ迄で読
者もお分りだろう。雰囲気としては抜き身のナイフと云うより、鞘に納まった名刀に近い。
 部屋を一歩出ると、人為的な輝きの全くない漆黒の闇の中だ。何が潜むかも分からぬ闇。
何も潜まないと分かって尚恐れてしまう闇。
 多くの人には原初的・根源的な畏怖を与えるこの闇を、彩は恐れぬのか、気にする様子
もなくその姿を踊らせて。身なりが元々漆黒なので、光に晒される時より保護色の効果で。
「……」
 扉が開いていると部屋の灯りが真っ暗な廊下に溢れ出る様で目立つので、すぐに閉める。
 闇に慣らす為なのか、少しの間目を閉じる。サングラスに手を延ばし、一呼吸だけ外す
と、すぐに戻して歩き始め。何かのお呪いか?
 足音まで消去した彩の歩みは、まず肇の後を辿って廊下を進み、中央の階段を下る。
 使用人は全員肇が行った手前の左棟で休んでおり、その外の部屋は肇自身か来客がない
限り使わないと云う。屋敷内の電灯を瞬時に点けても、全て見通せる訳ではない。彩が平
然と出回るのも、それを考慮に入れてなのか。
「足音が消えて行ったのは、こっちね」
 その方向は一瞥するだけで、彩の焦点は別の方向にある。だが、初めて訪れた館の中を
よく知らないのに歩き回るとは、大胆と云うより無謀であり、主に対しては無礼であろう。
 故にその行動を見られたと気付いた時には、一瞬、彩も流石に拙いと云う顔つきを見せ
た。それでも動揺も見せない辺りが並ではないが。
 両側を部屋に囲まれて、非常灯もつかぬ漆黒では、夜目も中々効きにくいが、それにし
てもこの深夜に、相手もなぜこんな所にいる。
「……?」
 彩の正面に、通路の真ん中に何者かが立っている。立って、彩の方を見つめて動かない。
 さっきの老婆か。頭からフードを被って、魔女の様に全身を覆い。雰囲気は似ているが、
外装も似ているが、その故に特定が難しい。誰かがその老婆に化けても、見抜く事は至難
だろう。老いを隠したい思いは女性共通かも知れぬが、それだけでこの扮装は説明出来ぬ。
 本当に老婆なのか、人なのかも怪しく思える扮装だが、とりあえず老婆だと思う……。
 邸内の者にはできるだけ会いたくない彩には、面倒な局面だったが、彩はふてぶてしく、
「名家の使用人も、最近は質が落ちた物ね」
 主の客人の素行調査でも、している積り?
 弁解も何もない。冷然と徴発する。一体何を考えているのか。だが老婆は何も聞えない
かの様に、立ち尽して、立ち塞がって。
 聞えないふりなのか、耳が遠いのか。或いは挑発を無視する為の沈黙なのか。深夜の招
かれざる客を威嚇し、値踏みする積りなのか。
「……」
 老婆は彩の言葉に応える事もせず、自ら喋りだす気もない様で、俯き加減なまま視線を
放ち。これでは彩に動き様がない。
 館にとって自分が招かれざる客だと分っている彩だったが、己の行動が如何にも怪しい
と知る彩だったが、ここ迄非好意的な態度を示されては、不愉快だろう。非常識な深夜の
訪問者でも、館の主人に招かれて訪れた彩に、そこ迄嫌われる謂れはない筈だ。
「案内は不要だから、下がりなさい」
 静かにそう言う彩に、老婆が唐突に反応を示した。左手を上げ、彩の背後方向を指差す。
指差す方向より、その布から見えた嗄れた手の方が、注目に値する物だったろう。
 どうやればそこ迄皺を深く刻み込める?
 どうやればそこ迄干涸びた手ができる?
 死人の手でも、もう少し艶があるだろうに。
 それに注視が向く事は、予測の内なのか。或いはそれが彩の背後への合図だったのか。
 僅かな空気の動きを察した彩が振り返る。
 振り向いた視界の闇に微かに黒く見えた物は、二メートルは超えるだろうがっしりとし
た、それこそ獣の如き何者かだった。
「人……?」
 そこで言葉は断絶した。
 それは果して、人間だったのだろうか。間近にいても尚、漆黒の闇は真実を覆い隠すが、
この真相は永遠の闇の方が良いかも知れぬ。
 人間だとしてもそれは怪物じみた巨漢で、人類に数える事に躊躇が残る。その巨漢から
伸びる太い二本の腕が、彩の両肩を握りしめ。
「な……!」
 巨漢の動きは、その大きさにも関わらず俊敏だった。そうでなかったとしても、暗闇で
こんな出会い方をすれば、全うに身を躱せはすまい。一旦捕まれば体格の差で、身動きも
叶わない。彩は立ち姿のまま取り抑えられた。
 互いの姿も定かではない漆黒の中で、美女と野獣の視線が互いを捉えた様に思える。
 恐怖が言葉を、抑え込んでいたのだろうか。
 静寂を破ったのは、老婆の低い声だった。老婆が彩の前で声を発するのは、これが最初
である。だがその内容たるや、
「そのまま肩を砕いて、地下穴に放り込んでおしまい。本当は息の根止めてやりたいんだ
が、肇があの熱の入れようだから仕方ない」
 嗄れたその声は、憎悪と悪意の籠もる声で、
「こいつはこれで暫く様子見だ。肇の納得がない内に勝手に殺す迄やって活きを下げ、肇
に怒られたら面倒な事になるからね」
 振り返った彩からは背後になる老婆の声は低く濁っていたが、邪悪と呼んでも良い程の
薄気味悪い微笑みを感じ取れたのは、錯覚か。
「食べ物の恨みは、怖しいって云うからね」
 叫び声を封じようと云う感じで彩の口元に生気のない手が背後左右から伸び、抑え込む。
 グギベキキ……。
 普通の人生を送る者には聴く事の稀な、骨の軋む音が彩の耳に届く。尋常の力ではない。
 あり得ぬ非常事態に抗おうと、筋肉が瞬間的に緊張するが、それも長い話ではなかった。
何かの反応を示す前に、両肩が悲鳴を上げて砕ける音が確かに聞えて、全身の力が抜ける。
「上出来だ。確かに放り込んでくるんだよ」

「いたた……」
 湿った階段は一旦勢いがつくと、止まる事が至難の業だ。武術家でもない彩に、転落を
止める術はなかったし、その心の準備もない。更に云えば、今の彩は両腕がないに等しい。
 下手をすると頭を打って死んでしまうのではないかと思える程無造作に、彩は湿った石
の階段を下に突き落とされた。入口は屋敷の一階のどこかだったから、老女和子の云って
いた『地下穴』とはここなのだろう。
 背後で扉が、重く軋む音を立てつつ閉まる。
 無明の闇に違いはないが、空気が湿っていた。今迄の闇が助けを求め得ぬ冷やかな闇な
のに較べ、この闇は悪意を実体化させ妄想で心を塗り尽す生きた闇だ。意志(というより
狂気)を持った様に濃密で、己の存在さえ不確かにする。目を閉じても開いても変らない。
「やってくれるじゃない。結構、鋭いか…」
 激痛の筈なのに平静でいる。否それ以前に、身体の損耗を気にしていない。ふてぶてし
いとか云う物ではない。彼女も、並ではない?
 一番下迄固い石段を突き転がされ、漸く止った彩の周囲にあったのは、湿度の高い生暖
い空気と、その空気に命を与えられたかの様に蠢いている、沢山の生きた骸の群れだった。
 それは果して生きていると呼べるのか。命を吸い取られると云う表現を絵に描けばこう
なると、正にそんな地獄がこの一角に現出し。
 誰も彼もが干涸らびて、まともに老いたとさえ思えぬ程枯れ果てた手足を持っていた。
 しかもその服装は皆、若そうな、今時の女性達の被服であり、装飾品だ。十人以上いる、
その耳には多くがピアスで、手には指輪で、靴下に靴にコンタクトに、セーラー服迄いる。
片隅には、それらの死した本当の骸迄がある。
 彩でなくても推測はつこう。全員行方不明になった女性達だ。彼女達は皆ここに招かれ、
肇や和子の迎えを受けて、こうなったのだ。
 何をどうやったかは不明だが、月の光も届かぬ地下牢に、異形に変えられた女達を閉じ
こめる。この行いに、館の主人が関りを持たぬ筈がない。普通の者なら卒倒する状況だが、
「これはこれは……沢山、いらっしゃる」
 本来なら、彩は痛みにのたうち回ってなければならない。驚いている場合ではないのだ
から、驚かなくても良いとは言えたが、事ここに至っても尚その表情には曇りもなくて。
「彼も相当、掻き集めたのね。若い女を…」
 医学的には彼女達はまだ死んでない。彼らはまだ動いていたし、声も上げるし、意識も
ある。生きていると云っても良い。それを望ましい生の姿かどうかは、別の問題になるが。
 その数は十を越えるか。和子の様に、否それよりもっと酷い形で、かつて人間だった、
若い女だった者達の生ける屍が、蠢いていて、彩に群がってくる。襲い掛ってくる?
「うが、う、うう、うお……」
「いえ、え、えい、いい……」
 カサカサの肌は渓谷の様に額から足の裏迄身体を深く深く刻み、異様に痩せ細った手も
足も、肉体との均衡を失っている。
 多くの者は肋骨が浮き出る程に痩せ細り、顔は頬が窪んで目が突出し、さながら絵巻物
に現れる餓鬼だった。爪も髪も伸び放題に伸びて、その多くが白髪なのは、膨大な恐怖を
身体全体で受けとめてしまった代償なのか。
「お願い、助けて」
「私達を、助けて」
「若さを、分けて頂戴……」
 最早人と呼べるか否かも怪しい、それでも人の意識を残す彼女達は何を思い何を求む?
 彼女達は肇によって、彩の様にここに誘い込まれ、この姿にされ、閉じこめられたのか。
でもどうやれば人をこう迄変貌させられる?
 腹部が水膨れの様に突出し、手足は骨と皮が強調される中、血管が皆浮き出て、艶を失
ったぼさぼさの毛髪は殆ど抜け落ち、残った毛髪も白く乾き。人間でない者が蠢いている。
理科室の標本が歩くより尚グロテスクだった。
 彩には事情が飲み込めていたらしい。その容貌に驚きは皆無で、状況を分析把握する視
線は冷やかで、周りの女達の狂熱と対照的で。
「助けて、助けて」
「返して、返して」
「私達を、私達を、元に」
 何日も、何週間も、狭く暗い所に放り捨て、人間とは云えない扱いのまま、死ぬ決意も
持てないままに。死ぬ事が出来ないままに、死ねないままに、ずっとその苦しみを受け続
け。
 その動きは決して早くなかったが、普通の者なら恐怖に竦んで、正気を失うに相違ない。
なまじ人間を引きずっているから、化物である以上にその姿や動きは、人を恐慌に陥れる。
 理屈ではなかった。己の有限さを知る人にとって、限界を越え去った者は人間ではない。
ましてかつて人だった者が人ではなくなった姿等、自分もそうなる・されると云う事を見
せ付ける存在等、受け入れられる筈がない!
 それを目の当たりにして、自分に迫ってくるこの場において、平然と正気を保てる彩の
方こそ、一体何者なのだと、問うべきなのか。
 彼女達は自分が今なぜこうなって、どうすれば元に戻れるかも、分ってない。これは単
なる自暴自棄で、失った若さ・美しさを持つ彩への、怒りの八つ当たりとも云うべき物で。
 黒いスーツの上から、外見からは予測不能な程強靭な力で掴み掛って、抑え込みに掛る。
体調は健康と程遠いが、正気のたがを外れた暴力は、理性や恐怖に抑えられたそれを圧倒
する。その何本もの腕に、動じる様子もなく、
「どうやら、願いでも祈りでもないみたいね。
 単に私を羨み破壊したいだけ、ならば…」
 平静と云うより、むしろ余裕がある。その口元に、微かに哀れみと云うより状況を楽し
む様な微笑みが見えるのは、気のせいなのか。
 この程度の拘束は、いつでも振り解けると、云わんばかりだ。腕力でも人数でもどう見
ても彼女達が絶対有利に見えるのだが、必死なのは獣と化した彼女達の方で、滑稽な程で。
 羨望。嫉妬。渇仰。欲求。彩の喝破の通り。
「助けて、助けて、助けて」
「戻して、戻して、戻して」
 彼女達にとって、彩が何者で何が出来るのか出来ないのかなど、どうでも良かった様だ。
助けを求めると云うより、自分の持たぬ若さを持つ女の存在に食い付く事で、その若さを
分け与えられると云う錯覚に導かれて。
 狂気だった。人が心の基盤を全て破壊された時に、最後に逃げ込む場所。肉体を現世に
残しながら、心だけを異世界に解き放つのだ。
 常識は通じなかった。否、彼女達の今が常識に見放されたのだから、それも無理ないが。
 この柔らかな肌はつい最近迄自分達が持っていた物。この艶のある髪は少し前迄自分達
が輝きと共に所持していた物。この形の良い胸も私の持つべきだった物。
 殆どの者が服を着てない。着てないと云うより、体型の激変で身に纏えなくなったのか。
破れ千切れてなくなったと、見て推測できる。服の形を残している者、服が破れて用をな
さなくなった者、身に纏う布切れさえない者。それはここに連込まれ・或いは攫われてき
てからの、日数の経過の違いなのか。
「あらあら」
 何本もの手に絡み付かれ身動きできぬ彩だが、表情に困惑はない。持たざる者達の強い
嫉み恨みさえ、衆に対する優越の証明として楽しんでいる様で。哀れな生贄の顔ではない。
 彩は他者のの渇仰を己への絶賛と考えた模様だ。それは、美しい悪魔と云った所だろう。
 倒錯した状況も、全て己の力でどの様にでも出来るという、完全な自信の裏付けの元で、
今だけされるままに『させている』のだから、恐れもない。だがその自信はどこから来
る?
 腕力ではなかった。確かに身体は臨戦態勢で緊張し、全身に力は込められていたが、彩
の細腕でこの変貌した女性達の絡み付く腕を振り解けるとは思えぬ。まして彩は両肩を…。
 両肩? 彩は全然痛そうにしていないが?
 その時だった。『風』が抜き抜けたのは。
 ざわっと、驚きの気配が周囲の女達の間を駆け抜ける。狂熱に冷水を浴びせかけた様に、
無視が物音に射すくめられる様に、女達の動きが止まった。否、硬直して動けないのだ。
 彼女達の間を恐慌が駆け抜けた。これは!
「分る? 分るよね。この感覚」
 貴女達が、一度は感じた感触だもの。一度だけで十分にも思えるこの感触を忘れる程に
は、貴女達も愚かではないでしょう。
 彩の肌を通じ流れ込むその感覚が驚愕を呼ぶ。それは彼女達をこの地獄に落し込んだ各
人各様の『あの夜』の物だ。肇との、あの若者との血が沸き立つ様に過ぎ去ったあの夜。
「いい、いい、いいいいいいい」
「いお、いお、いいおおおおお」
 彩がそれを実行する必要はなかった。銃の効果を知る蛮族が、空砲に逃げ去るのと同様、
既に肇でその恐怖と地獄を知り得た彼女達には、彩は威示行動だけで十分だったのだ。
 女達は競って飛びのき、反対側の壁に張りついた。彼女達には、彩がこの瞬間肇に見え
たのか。一センチでも離れたくて、互いに生贄に押しつけあって、己だけは助かりたいと。
「自分だけは助かりたい、か。獣以下ね…」
 冷やかな呟きに非難の語調はない。元々人間性をその程度だと思っていれば、再確認で
きたという感じで、憤る必要もない。
「そう迄なって、尚生き延びたい物かしらね。人間って、本当にしたたかで、強い生き
物」
 死んだ方がましだって思いながら、いざ迫られると必ず死を忌避する。他人を押しのけ、
陥れ、生け贄を差し出しても、生き残りたい。
 己の醜悪さに目を瞑る事が出来るのだものね、いざと云う時には。
「まあ、生きる事・命自体に最大の価値がある、と言う考え方も、あるから」
 彩はそう呟きつつ、最早邪魔する者もなくなった状況を確かめ、おもむろに両手をつい
て身を起し、立ち上がった。両手をついて?
 彩は砕かれた筈の両肩を平然と動かして、痛みも感じてない。肩は両方とも平常通りだ。
 どの様な奇術を使ったのだろう?
 あの時、確かに彼女の肩の砕ける音はした。彩は痛みを感じていた。この地下室に突き
落された時も起き上がれなかったのは、その為ではなかったのか。彼女は一体何者なの
だ?
 女達の間を駆け抜けた気配とも振動ともつかぬ何かは、催眠とか集団妄想とか云えば説
明は付くかも知れぬ。だが、確かに砕かれた肩を数分で完治させ動かす術など、あるのか。
 真性の恐怖とは、普通の人が日々過ごす視界のすぐ外側に、大人しく静かに佇んでいる。
 視界の外側の存在を知らぬ者は、見える範囲を全てだと信じて判断し、行動する。壁の
反対側で竦み震え、互いを彩に押しつけ合ってもがき合う女達に、彩はどの様に映るのか。
「ふうん……」
 彩が僅かに興味を示したのは、もがき合う女達の中で、唯一人彩の視線を真正面から受
け止める存在に気付いた為だ。恐怖の対象に自ら目を向けられる者は、そう多くない。
 彼女だけは他の者の様に仲間にしがみつき、相手の足を引っ張り或いは犠牲を促して己
を生き残らせようとはしてない。その為に、彼女は押しあいの中でその先頭にされて、彩
に正対する役を負わされてしまったのだ。
 恐怖や不安はその瞳にも深く刻まれている。彼女の心にしみ渡って正気を脅かしていた
が、まだ狂気に身を委ねきってない。その双眸は苦しみ悩みつつも、尚人の理性を残して
いた。
「貴女、気に入らないわね」
 彩の語調はやや低い。相手方は一塊りなので、誰が指されているのか、はっきりしない。
先頭の彼女を初め、誰もが恐怖に囚われて正対する為に、誰もが己の危険だと思っている。
 彩はそんな彼女達の塊に一気に歩み寄って、
「紀代子さんって云う人、いる?」
 先頭の女の顎を右手で軽く持ち上げて問う。
 尋ねると云うよりは、品物を吟味する目だ。顎を捕まれた女は視線を返すのみで睨み返
し。怖れに心臓を掴まれても、その双眸はまだ己を失ってない。緊迫した沈黙が場を支配
する。
「……」
 それは数秒で終りを告げた。彩は答のない彼女を唐突にうち捨て、その斜め後ろで震え
ている別の女の顎を持ち上げ、至近な瞳に同じ事を問いかける。だが、彼女は最初の女と
は違って、己の意志と云うよりは恐怖の故にまともな答えが返せなかった。
「答えては、くれないのね?」
 柔らかな声だが報復を予期させる彩の問だ。
 絶対の強者からの問である。下手をすればもう一度彼女達全員に、肇が見せた『あの地
獄』を見せる力を持つ相手からの求めである。
 問の答が何をもたらすのかは、定かでない。応えて現状が良くなるか否かも分らなかっ
た。
 互いに名前も知らぬ物同士だ。肇に連れ込まれたと云う点でしか共通項はない。下の名
だけでは求める紀代子なのかどうかも不明だ。
 私は違う、私ではないと首を振り合う。それは自分が該当しなくて良かった、該当させ
ないでくれ、誰か悲運を被ってくれれば良い、不運の種は出ていってくれと、囁いていて。
 餌になってしまえ、生け贄になってしまえ。
 それでこの悪魔が満足して去っていくなら、それで私の命が取り敢えず繋がれるなら。
誰かの生命を踏み台に生き残るのは自然の摂理、人間の原理。さあ不運な誰か、さっさと
名乗り出ておくれ。ただし自分だけは犠牲はご免。
 二人目にも答を得られなかった彩は、更にその後ろにいたブレザー姿の女の顎を持ち上
げて同様に問う。元は女子高生なのだろうか。彼女も恐怖に取り憑かれていて、答が出な
い。
「いないなら、良いのよ」
 名乗り出る者はいない。彩は静かに、
「全員を対象に、するだけだから」
 何度やっても、楽しいわよ、あれは。
 サングラスの向うから、獣の眼光が見えた錯覚が彼女達を襲う。何をするか云わずとも、
その瞬間に女達は降り掛る運命を想像できていた。『あれ』は今尚鮮烈な印象を残している。
「ひいいいいぃぃ」
「いやあああぁぁ」
 再び恐慌が皆を捉えかけた、その時だった。
噴きあがる、幾つかの叫び声を掻き消す様に、
「私が紀代子、三島紀代子よ」
 先頭で彩に正対していた、最初に問を受けた女性だった。決意した様に立ち上がり、彩
に向き合って、心の奥から虚勢を総動員して、
「私に、何の用があるというの」
 嗄れた声で、精一杯の語調で詰問するのに、
「貴女に用はないのよ、有難う」
 彩は肩透かしを食らわせ、顎を持ち上げていたブレザー服の老婆の脇に右手を入れると、
「貴女が目当てだったのよ。行きましょう」
 その身体を一気に持ち上げる。彩は想像を超えて素早く、力強くてしなやかだった。
「ひ、ひぃぃぃぃ」
 一瞬で立場が入れ替る。生贄を逃れたと胸をなで下ろす者と、絶望に突き落され恐慌に
震える娘と、決死の問をかわされた紀代子と。
「少しでも若い方が、やはり生気は多いの」
 干涸らびた老婆姿の故か。事態に体も心もついていけぬのか。彩は強引に娘を引きずり、
彼女は引きずられ、石の段を登り始める。
「いい、い、た、助け」
 助けて。漸く嗄れた声がそう云いきれた時、彩の腕に抗う力がもう一つ加わっていた。
右腕に負荷が二人分掛って、動きが一時止まる。
「私に用事があったんじゃないの、化け物」
 彩の予測に間違いはなかった。紀代子だ。
「つきあってあげるから彼女を放しなさい」
 精一杯の挑発だ。心は恐怖に波打っている。狂気がそこ迄迫っている。逃げ出したい思
いは山々だ。だがそれでも、身体は動いてしまう。後々に災いがあろうとも、今思う事が
動きに繋ってしまう。それが人という物なのか。
「早死にするわよ、貴女。
 心の命ずるままに生きていると」
 彩の口元に何かを楽しむ様な笑みが見えた。唇一つで、人の運命を決める立場にいる者
の、妖しくも生々しい、絶対者の気紛れな笑みだ。
 だが、紀代子はそれに抗う様に、
「ご忠告は有り難いけど、お生憎様。もう死んだ様な私に、そんな脅しは通用しないわ」
 さあ、地獄でもどこでも連れて行きなさい。
 昂然と睨み返し、いい放つ。この時点で彩の機嫌を取り結んでも意味はないと、紀代子
は己の運命に見切りをつけていたのだろうか。
「……余り深い意味は、ないのだけれどね」
 二人の影が石段を登る。十数分前に彩が突き落された扉がある。その向うに待つ物とは。

 扉は少し重かったが簡単に開いた。鍵も閂もつけてないらしい。逃亡を全く怖れてない。
「老婆の身体にされた後じゃあ、逃亡も難しいから、警戒も不要と云う事なのかしらね」
 その姿では逃亡が幸せに結びつく訳でもないし。元いた所にそのまま戻れはしないと云
う絶望も、見込んでいるのかも。
 邸内廊下の闇に身を躍らせた彩が呟くのに、
「貴女は、未だ知らないのね」
 この扉を、二度目に潜った者を待つ運命を。
 紀代子が続いて闇に身を投じる。その行動は初めて水に飛び込む小学生を思い起させた。
 生存への執着を諦めた彼女は、石段を登りきるのに息が上がっていたが、対等な語調で、
「何故私達がここを出ようとしなかったのか。
 いえ、何故ここを出ようとした者が一人も生きて館を逃げられなかったか。貴女も…」
 紀代子にはその先を語る事は出来なかった。実際の脅威が迫ってきていたのだ。
「ググフフフフ」
 廊下の闇の向うに、彩の向かおうとした方角にその息遣いは待っていた。この漆黒の闇
でも、その存在感の巨大さは他を圧していて、人類とは思えなかった。間違えよう筈もな
い。
「思いがけなくも、お早い再会だこと」
 流石に言葉を失う紀代子を尻目に、彩は怖れる様子もなく数メートルの距離を置いてそ
の巨漢と対峙して、逃げ出す気配も見せぬ。
「出タ、奴ハ、喰ッテ、良イ、云ワレタ…」
「屍食鬼(グール)か。なる程ね。……でも、人肉食は高コレステロールで良くないの
よ」
 彩は事情を了承した呟きを漏した。逃げる者はこの巨漢が肉体的に食い殺していたのだ。
館に招かれた女達は屍食鬼の餌でもあったと。
 肇や和子が生気を吸い、骸は残さず彼が喰う。廃棄物は殆ど残らない。気付かれもせぬ。
 地下室に幾つか見えた屍も、巨漢の食後か。逃げる者がいなくなれば、餓えを満たす為
に適当に、地下室で餌を漁らせたのに相違ない。それが彼女達のなけなしの理性をも崩壊
させ。
 それを目の当たりにすれば流石に逃げ出す気も失せる。老婆にされた身体でこの巨漢の
運動能力から逃れきる事等、出来ないだろう。
 巨漢は言葉もないまま一気に直進して来て、間近な側にいた彩に躍り掛った。脅しも牽
制も時間稼ぎも無意味だ。この巨漢に今見えているのは、敵でも味方でもなく、餌なのだ。
 体重をかけた体当り一撃で彩を押し倒すと、悲鳴も聞えぬ内に右手で首を抑え左手で額
を掴んで固定する。ここまで一秒も掛ってない。
 叫びを漏す暇もなかった。熊が子鹿を押し倒すのに似て、止める事も危険を報せる事も、
己が身構える事さえ出来なかった。この圧倒的な体格に組み敷かれては、対処の術もない。
 しかもこの巨漢は、一気に彩の頸を捻ってしまう。何の躊躇もない。遊びも嬲りもない。
何より餌の命を絶つ事を優先し。紀代子は又一つ生命の炎が消される瞬間を目にした、そ
う思った。だが、驚愕はそこから始る。
 事を終えた巨漢の力が、僅かに抜ける瞬間、
「?」
 絶命した筈の彩の両腕が突如動き、その首を未だ抑えている野太い両腕に、手を掛けた
のだ。首を捻じられているのに、彼女は尚生きていると云うのか? 生きた屍である紀代
子達でもそんな事は出来得ない。あり得ない。
 それが、それが、目の前で起ったのだ!
「ッギイヤッ」
 短い叫び声は巨漢の物だ。彩の声ではない。
 何が起ったのか、闇の中では暫く分らない。唯気配が、彩にのし掛って組み伏せていた
筈の巨漢が慌てて飛び退く気配と物音が、紀代子の耳にも届いてきた。明らかに、彩の何
かに恐怖を感じた巨漢が自ら、飛び退いたのだ。
「ウウ、ウウ、ウウウ……」
 巨漢はその場に屈み込んでいる。動く様子がない。痛みか、恐怖か、何が彼を押し止め
るのか。そんな中、彩がゆっくり身を起こす。
 廊下に座り込んだ状態の彩と巨漢の視線が、漆黒の闇で交錯した。互いを視認したと紀
代子が思えた時、氷が融けだした様に事は動く。
 巨漢は物も云わず背を見せて、その場から走り去ったのだ。逃げ出した、のか?
「意外と賢いのね。即座に逃げを選ぶとは」
 彩は驚くでもなくその様を見送る。両肩を砕かれ首を捻られた相手にも、敵意は見えぬ。
 紀代子が驚いたのは、その時彩が両手に持っていた何かを捨てた、その何かが何だった
のか分った時で。その音と質量感、その位置。
「貴女、それ、もしかして?」
「私は屍食鬼じゃないから、もぎ取った腕を食べる趣味はないの。欲しかったらあげる」
 ドサッと抛り捨てたのは、巨漢の肘から先の両腕だったのだ。彩が掴んで、無造作に捻
りとったのか。だが、どうやればあの細腕に。唯持ち上げるだけでも、結構な重量なのに
…。
「でも、草食獣の肉に較べて肉食獣の肉が不味い様に、人肉に較べても屍食鬼の肉なんて
更に食べられた物ではないわよ。不味くて」
 どうでも良い様に語ってサングラスを探す。
 そういう話ではない。それも驚きの話だが。
 瞬間を見てないから信じられぬのではない。その瞬間を見ても信じ得ない。組み伏せら
れ、のし掛られた状態でなくても、この細腕であの重厚な筋肉が包む腕を捻り取れる筈が
ない。
 あの巨漢以上に、彩こそ人間でないのではないか。外見上人間に近そうだが、端正な外
見は細身だが、その行いは驚愕を越えている。
「貴女、彼らの敵? なら、私達の味方?」
 紀代子は彩の無事を確認しても近寄り難い。
味方であってもそうだろうし、彩が紀代子の味方なのか否かも未だはっきりしてないのだ。
 不安と期待が入り交じったその問いかけに、彩は振り返ってもすぐに応えなかった。サ
ングラスの所為もあるが、それ以上に彩には感情の起伏が少なく、快も不快も読みとり難
い。
「これは貴女達の性(さが)であり業なのね。
 自分達にとって、益虫か害虫か、神か魔か、敵か味方かを、己を中心に判別したがるの
は。世の中心にいるのは常に自分達だと思って」
 冷やかな低い声が紀代子の耳より心に響く。彩は人の味方でも何でもない。敵なのかと
云われれば、敵でもない。彩は彩でしかないと。
「たまには、世の中に人間以外の知性の存在を感じ取って欲しいわ。そう、畏怖と共に」
 紀代子の瞳を射抜く視線を感じた気がする。
 振り返った彩は静かに紀代子にそう応えて、
「さあ、行きましょうか。
 余り肇を待たせるのも、悪いから」
 彩は、何をしようと云うのだろう。

「結構、良く無事で帰って来られましたね」
 肇は部屋で彩の来訪を受けて、驚いた表情を浮べた。持ってきたワインは封を切られず
にテーブルの上に置いたままで。彩は一人だ。
「和子に動いたと聴かされた時は、心配しました。彼女は心配性で、危険の芽でも感じた
ら動いてしまう。手足をもぎ取ったり腰骨を砕いたり。両肩を砕くなんて大人しい方で」
 その頬に、柔和な笑みを浮べつつ、
「どうやって逃げ出して来られたんですか」
 豪奢なソファに身を任せ、冷静な声で語る。
 部屋の中は電気が消されていて暗い。月明かりがなければ、廊下と同じで真っ暗だった
ろうが、青白い輝きで辛うじて互いが見える。
「良い女には謎が付き物よ。知りたかったら、私の奥の奥まで踏み込みなさい」
 部屋にはさっき迄和子がいた様だ。今はいないが、微かにその臭いと気配が残っている。
 地下室の様子を見に行って入れ違えになったのかも知れぬ。部屋に入った瞬間肇の表情
が暗かったのは、彩に先に手出しされた事への不快感の故で、彩の無事に彼はむしろ喜び
の色を見せていた。少し訝ってはいるが、暫く棚上げしても良いと云うのが、本音らしい。
「良い物を、見せて頂いたわ」
 鍵のない地下の暗い部屋にいた貴重な物を。
 それだけ云えば十分だった。
 肇は心から残念という様子で天井を仰いで、
「可哀想に。よりによって、あの部屋を覗くとは。で、感想は如何でしたか?」
 彩は己の未来を見てしまった。平静ではいられまい。又美学とは異なる結末に終るのか。
 苦虫を噛み締めつつ、それでも彩が表面上で平静さを保つ限りその維持を望む肇の問に、
「結構派手にやったのね。警察が動き始めたそうよ。人間も、そう馬鹿じゃない。深夜に
動き回る貴男の存在は、いずれ知れ渡るわ」
 彩は平然と入って来ると、扉を閉める。
 自ら飛び込んでくれるとは。だが、不思議な事にこの期に及んでも彩に畏れの色はない。
「……?」
 肇が、初めて不審な顔を見せた。それはこの館に連込んだ以上、最後には彼の望む結末
しかないとの絶対の自信に、掠り傷を付ける。
「貴女は、この館の真実を知って、怖れを感じないのですか……?」
 肇は、彩を凝視する。彩は、その瞳をサングラス越しに受け止めて、静かに見つめ返す。
彼の正体に気付き、女達の末路をその目で見てきた彩が、まともに平静に自然に理性的に
肇の視線を受け止め返せるとは、何なのだ?
 誰もが彼の真の姿に怯え、恐怖と絶望の視線を送る。それを連綿と繰り返した彼には奇
怪だった。少なくとも人が返す反応ではない。
「余り趣味の良い物ではないわね。でも、吸血の民の餌の取り方・食生活のマナーに迄口
出しする立場に、私はいないから」
 あっさり答える彩に、肇は更に不思議そうな顔を見せた。それは、信じられないにも関
らず信じざるを得ぬ現実に直面した時の、そう彼の獲物達が今迄彼に見せてきた顔つきだ。
 誰が見てもあれは失神に値する恐怖なのに。
「私の真相の一端を知っておられる。唯のネズミではなさそうですな。和子の警戒も今回
だけは、少しは当っていたのかも知れない」
「いいえ、外れね」
 優位を確信しつつ僅かな警戒を見せる彼に、彩は冷静と云うより冷徹な語調を短く挟ん
で、
「本当に私の危険性を分っていれば、初見で服従か逃亡を選んでいた筈よ。私が上手に正
体を隠せたと云えるのかも知れないけれど」
 中途半端な対処は、時に身を滅ぼすわ。
「ほう……云ってくれますね。そこ迄云って良いのですか。私の真相のどこ迄を知って壮
語しているのかは、分りませんが」
 探る様な目つきで問う肇に、
「別に、全てを知る必要はないの。知る意味のない事だって、世の中には結構あるもの」
 肇の自信の源を、歯牙にも掛けぬ言葉で彩は素通りする。その対処に彼の顔色が変った。
だが肇をそれ以上に驚かせたのは次の言葉で、
「それより貴男、気配が少し弱いのではなくて……隠している様には、見えないけれど」
 肇は、心から衝撃を受けた様だった。
 再び彩をこの部屋に迎えた瞬間から、肇は本性を隠してない。獣の視線で、人を追い詰
め駆り出す真の姿を、曝け出している積りだ。今迄の女達は全て、その膨大な存在感に息
を継ぐ事もままならず、心を圧迫され、圧し潰され、歩く事さえ出来ずにへたり込んでい
た。その眼光は時に女達を失神させる事もあった。
 今日の様な月夜は特に、彼の力が溢れ出て、止まらなくなる。暴走の抑止に苦労する位
だ。彼の細身な身体から溢れだす存在感、圧迫感、威圧は並の者とは段違いに強いのに。
それを、
「僕の気配が、弱いだって? どういう事だ。
誰と、誰と比べて僕が弱いと云っている?」
 衝撃以上に、怒りに近い感情が迸っていた。肇は我知らずその言い草に憤慨を覚えてい
た。
「平均値よ。私とではないわ」
 彩には相変わらず感情の浮動がない。見えるのは、僅かな冷笑位か。しかしその答えは、
肇の神経を更に逆なでする物だった。
 彩は自分を、比較の外に置いたのだ。いつも肇があらゆる人間達の比較の外に己を置く
様に、彼を他の連中と一緒くたにした上で。
「私は、比較の対象にはならないから」
 サングラスの向うで双眸が瞬いた様な気がする。見える筈がないのに、何か瞳が二つ力
を持って、彼の精神を押し返す様な錯覚が…。
「貴男、意外と何も知らないのね。私との共通点は、人ではないという事位なのかしら」
 何も知らないのは彩だと、今迄彼はそう思って疑わなかった。否、今迄の女達は全て彼
の何も知らなかった。彩もその一人だと思っていたのに、逆にこんな云われ方をするとは。
 誘い出される様に立ち上がる肇に、彩はゆっくり歩み寄り、室内の中央迄歩みを進めて、
「私は、気配を完璧に隠し通す事は出来るけれど、何回か必要に応じて力を使っているわ。
 察知できないのは貴男の未熟? それとも力の弱さ? 気付かなければならない筈よ」
 肇は腹に力を入れて、彩の姿を睨み返した。
 今宵は月夜だ。満月の夜だ。暴走は怖いが、力の容量は大きい。全開を、見せてくれよ
う。
「知った様な事を云われる。貴女は一体何者ですか。警察の捜査員ではなさそうですね」
 語調が漸く平静を取り戻してきた。相手を餌ではなく敵として、認識し直した為である。
 一時の混乱が鎮まって来た。この時こそが千載一遇のチャンスだと思えたのだが、彩は
相手の立ち直りを待っている。
「その問に答えてあげても良いけれど、貴男は、自身が何者であるかを承知でいるの?」
 会話の主導権が彩に移り掛っている。だが、それどころではなかった。肇は今、初めて
知らぬ者の劣勢に立たされようとしているのだ。
 部屋のほぼ中央に立つ彩と、少し離れて対峙する肇。どうやって怯える彩を処置しよう
かと頭を悩ませる筈だったのに、状況は違う。
「僕は北山肇だ。それ以外の何者でもない」
 苦虫を噛み潰した顔を表に現す肇に、
「なら、私の答えも、彩で良いのね?」
 肇の言葉に出ない思いを分った上で、同じ表現を取る。それが肇に、自分の隠している
内容が彩の隠している内容と同質だと報せて、
「……まさか、僕と同類の、人外の化物?」
「その云い方は、余り好きでないわね」
 人を最初に世の中心に据えて見た言い方を、貴男に迄されたくはないわ。同類の貴男に
迄。
 彩はショートカットの黒髪を、右手で軽く掻き分けつつ辛辣に、だが静かにそう答える。
「兎も蝶も、白鳥も、誰も化物とは呼ばない。貴男も己の存在を、人とかけ離れているだ
けで、摂理を外れた化物だと思っているの?」
 状況は、彼の正体を曝すどころの問題ではなくなっていた。彼が本当は何なのかと云う、
彼自身の疑問に彩は踏み込んだのだ。
 彩はそれに答を持っているのか。持ちあわせもないのに虎の尾を踏む問で彼を乱すなら、
その罰はまともに生気を吸う程では済ませぬ。
「化物だろう。違うのか?」
 肇は開き直った様だった。顔を上げて、
「異形だ。間違いなく僕は異形の家系に生まれ、人を食い殺す事も為す人外の化け物だ」
 それが時に堪らない光悦感をもたらす。生きてきて良かったと思えてしまう。最高の愉
悦に身が震えるんだ。その魂が、化け物の証。
「貴女には分るまい、誇りと汚辱、優越と劣等の入り交じるこの身体に流れる獣の狂気の、
真の恐ろしさを。その身を以て知る他にッ」
 目が据わっている。彼自身嫌悪する狂気に、月光の招く狂気に、囚われ始めているのか
も知れぬ。自身の美意識は嫌っていても、その本性で解放される事を望んで止まぬ獣の血
が。
 血管の中で騒ぎ立てている。
 筋肉の奥底で、蠢いている。
 脳髄の芯から、彼を押しのけようとして。
 心が浸食される。恐ろしくも甘美な何かが。
 彼と彼のいる世界を作り替える。
「人外の化物、恐ろしい悪魔。この呪われた先祖帰りの血を、貴女には思う存分見せても
良さそうだ。獣の血が、喜んでいますよ」
 僕の尊厳に触れた貴女を、もう帰しはしない。例えただ者ではないにしても、同じ事だ。
 平生彼が嫌う獣。だがその獣を彼の無意識はどこかで好んでいる。その力強さに、その
たくましさに、その苛烈な生き方に、彼の魂は常に揺さぶられ、行きつ戻りつを繰り返し。
「多少の知識や特殊能力で、僕の歩みを止められはしない。まして、今夜は『力』が全開
できる満月の夜、月の迫る夜。覚悟なさい」
 彼の細面な顔立ちに別の彩りが加わる。
「化け物の恐怖、悪魔の狂気、獣の雄叫びに、今宵の貴女は身も心も引き裂かれ朽ち果て
る。
怯えなさい。震えなさい。いつもの女達の悲鳴を倍加した、底見えぬ暗闇に慟哭なさい」
 肇の肉体が心なしか大きく見える。その腕が、首筋が、胴回りが少し太く、筋肉が張り
つめて見えるのは、錯覚なのか。肇の気配が、存在感が猛烈に増幅する様が見て取れる様
だ。
 肇とは一体何者なのだ。そして彩とは……。
「私には、人の方が恐ろしく思えるけれど」
 彩は、その気合の鋭鋒を受け止めて、素知らぬ怜悧な無表情で、声音は尚も平静に、
「神を祀り上げて封じ込め、魔を駆逐する為に大量の同胞を殺戮し。その実、神を操り魔
に通じ、双方を天秤に掛けつつ脅迫さえして。
 強く賢くしたたかで、手段を選ばず、過去に拘らず、見境なく狂気に己を委ねてしまう。
適応力に優れ、繁殖力も旺盛。数での圧倒・ごり押しは彼らの得意技。自滅の怖れさえ考
えなければ、多分人は最強の種族の一つよ」
 肇の存在感は未だ強まり続けている。彩はそれにやや圧されつつも、退く様子なく対峙
を続けて。武術の達人でもいれば、見て分ったろうか。温度の違う空気が目に見える様に、
戦意が肇と彩を中心に渦を巻いている様子が。
「貴男は、人に接しすぎたのね。貴男が人でありたく願い、人に劣等感を感じ、拘るのは
無理もないわ。人には凶暴な迄の力がある」
 獣は手加減も情けも知らないけれど、無意味な争いはしない。己の生存目的以外に他者
の運命に介入はしない。愉しみや享楽や利便の為に、何かを生贄に欲する事はない。
「意味もなく他人を踏み躙り、必要以上に人の生気を吸い上げ、あり得ぬ幻想を追い求め
狩りを続ける貴男の所業は、正に人の行い」
 力は魔物でも、心は人で。面倒な存在ね…。
「貴男は悪魔だ化物だと云いつつ、それを繰り返してきた。嫌ならやらなくても、生きる
上で支障ないのに。それは人の業、人の性」
 彼らが生存の為に他者の若さ、生気、活力を吸い取る必要は、実は余りない。彩は別格
としても、肇とて血に餓えた如く女達を、次々に手にかけていく必要はなかった。出来る
と云う事とそれを望んでやりまくる事は違う。
 事実少し前迄は、彼も暴走しない程に食欲と獣性をセーブし、社会に波紋を及ぼす事態
になってなかった。それを解き放ったのは?
「貴男が貴男の意志で行なった事の原因は貴男自身にある。化物の血や力の所為ではない。
 何でも、力のせいにしないで貰いたいわね。力を持つ者全てへの侮辱になって不愉快
よ」
 力持つ者達が全て力に操られる訳ではない。
 彩の声音は平静に、だがその内容は苛烈に、
「私には貴男自身の闇の方が大きく見える」
「……!」
 肇が言葉に詰まる。返せない。彩はその硬直を突き崩す為にか、更に言葉をついで、
「私の若さ・活力・生気も、吸い取る積りでいるのかしら?」
 これは彩の警告だったのか。或いは挑発だったのか。と云うのは、これが肇の決断を促
す結果になった為で。彩の性分は抑止より粉砕にある。選択を相手に委ねる時、彼女の比
重がどちらに掛っているのかは云う迄もない。
 静かな声音と端正で怜悧な姿形でいながら、彼女の本性は逆にそれら全ての外見を突き
抜けて訴えかけてくる争い・混沌・躍動なのだ。
「定められた運命は、変えられないんだよ」
 選択の余地はなかった。彼は既に身も心も狩りに傾いている。彩が招かなくても、防ご
うとしてさえも、彼が望んだ以上変えられぬ。
「残念だけど、嬉しい気がする。こうやって、僕の本性を出して話して、襲えるなんて。
尤も君にはもうすぐ、嬉しくない話になるが」
 肇は静かに彩に歩み寄る。獣の気配は充満しているが、一気に飛び掛らないのは余裕の
為か、警戒か。今の彼なら七メートル近いこの距離も一飛びで、手が届く。抱き留め得る。
 肇の肉体が別人の様に引き締まって見える。
 今正に、その肉体が躍動して飛び掛ろうとしたその瞬間に。先に動いたのは、彩だった。
 銃声が響く。
 彩が懐から取り出した拳銃を撃ったのだ。
 それが彼女の自信と余裕の源だったのか?
 この日本で、拳銃を持ち歩く婦女子等多くはいない。暴力団に不法所持する者はいるが、
普通の若い女性が持ち歩く玩具ではない筈だ。
 女性用の小さなサイズで、威力ははやや低いが、間違いなく殺傷力を持つ本物の拳銃だ。
 使うなら今と云う絶妙のタイミングだった。しかも彼女は拳銃の扱いも手慣れている様
で、その狙いは正確に彼の胴体を捉えていた。心臓からは僅かに外れた様だが、人間でな
くても致命傷に近い。脅威は去る筈だった。だが、
「銀の弾丸を使いましたね。食えない方だ」
 でも、通じませんよ。
 彼は倒れない。倒れないどころかよろめきもせず、満足げな微笑みを浮べたまま銃弾を
撃ち込まれた胸の辺りを左手でまさぐる。
 己の内蔵をかき回す、クチャクチャした音が静寂の中に響く。彼は痛みを感じないのか。
 カラン、と乾いた金属音が彼の足下に響く。
 数秒で彼は、左手で自らの体内からその弾丸を抉りだしたのだ。浅いとは云え化け物だ。
 多少のダメージにはなっているのか。だが、彼は行動不能にも陥ってない。彼ら相手に
は必殺の一手の筈だが、結果は殆ど無効に近い。
「銃器の扱いに慣れ、しかも吸血鬼対策に銀の弾丸を用意しておく。本当に楽しませてく
れる。貴女は本当に何者なのです?」
 正体を聞き出さない内は、殺すのを猶予したくなってきた。肇の洋服に多少の血が滲む
が、出血も思ったより遙かに少量だ。
「防弾チョッキ? でも、なさそうね」
 右手に拳銃を撃った体勢の彩は、やや意外そうな声音だが尚平静を保っている。それは
平静と云うより、呆然に近いのだろうか?
 弾丸は確かに彼の肉体に撃ち込まれた。その上で彼には致命傷にならなかったのだ。た
だの弾ではない。彼ら対策の特殊仕様の弾だ。伝承が誤りなのか、或いは彼が特殊なのか。
「分厚い筋肉の弾力で弾を内蔵に至らせない。故にその効果も、肌の上を撫でた程度で抑
えられると云う事? 並大抵では、ない様ね」
 少し考え込む表情を見せる彩に、
「ご気分は如何かな、レディ。それがあれば、僕にも打ち勝てる。そう思っていました
か」
 切り札が通じなかった気分を、聞きたい物です。肇が一歩前に踏み出す。それに応じる
様に彩が後退した時に、肇は勝利を確信した。彩が打つ手をなくし展望を失って見えたの
だ。
「恐怖を、味わいなさい」
 言い終えるか否かの内に、彼が跳躍した。
 数メートルの距離を一気に迫る彼に、彩が再び銃口を向ける。今度は彼の動きが先んじ
た。彼の左手の一閃が彩の手首の拳銃を弾き飛ばし、右手が彼女の喉首を抑えつける。が、
「うぬっ! こ、こいつ……」
 しかし意表をつかれた声は、肇の物だった。
 独鈷杵と云うのか。中央に握り部分があり、両端が尖った青い半透明な鉱石の、短い両
刃の槍が、心臓近くに突き立てられ。今度も心臓を貫いてないが、胴体真ん中は致命に近
い。
 これも只の刃ではなく、魔の実体を貫いて浄化し討ち滅ぼす効果がある筈だ。退魔師と
か陰陽師とか云う特殊な業界人が扱う小道具だ。彼女はどこでこんな物を手に入れたのか。
 肇が掴んだ筈の彩の喉首を壁に向って放り捨てるのは、攻撃というより一時凌ぎ・防御
の意味合いが濃い。それでも彩に彼は止めきれなかった。大ダメージにさえ、なってない。
「うはっ……!」
 細腕に似合わない剛力に、壁に叩きつけられた彩の肉体が軽く跳ね、力無くずり落ちる。
 短い悲鳴が聞えるが、それはまだ抑制の意志を含み、瞳は輝いている。彼女の戦意は尚
保たれており、失ったのはサングラスだけだ。瞳は閉じたままだが、盲目なのか。或いは
…。
 しかし、それ以上に強靱なのは胸に刃を突き刺されても平然と立っていられる肇の方で、
「素晴らしい。二発目の拳銃は、フェイクですか。かなり痛いですよ、僕でなかったなら。
でも、惜しいですね。刺さり方が浅すぎる」
 彼は右手で突き刺されたその刃を引き抜く。触るだけで青い鉱石が淡い輝きを帯びるの
は、肇の力を関知して撃滅させる性質の証であり、その機能は確かに発動されている。
 彼の力が強いので、流石の様々な魔除けの道具も貫ききれないと、云う事なのだろうか。
 多少痛みを感じた様子で起き上がる彩だが、突き飛ばされた時点で、壁は背の間近にあ
る。左右どちらに逃げようにも、彼に捕捉される。
「あれが効かないなら、これも駄目って事」
 予測済みにも関らず、それを為す事を迫られた事実は他に有効な手がない事を示すのか。
肇の膨大な存在感が、部屋を埋め尽しそうだ。
「この程度では僕に掠り傷は負わせられても、痛手を与えるには足りませんね。
 余興はこの位で良いでしょう。僕もそろそろ貴女の正体を聞き出したい。焦らせるなら、
貴女の身体に訊ねるという方法があります」
 掌に掬い上げた魚を踊らせて愉しむのにも、飽きたと云う表情だ。目の届く範囲全ての
物を踏み躙りたくて堪らないその本性を、彼は今は隠す事なく剥き出しにして、
「貴女の美しさを、永遠にしてあげますよ」
 肇の手が伸びる時、彩が逆に前に出たのは、肇も半ば予測できた。二回先手を取った彩
が、このまま大人しくやられはすまい。
 その最後の抵抗を退ける事で、彼女に絶望感を味わわせると同時に、全ての面で上回る
形で、一挙に決着をつけてしまいたい。
『思ったより即応が早くて巧いが、凌げる』
 その誘いに彩は乗ってきたのだ。乗らざるを得ない程追いつめられた状況の故だったが、
そこに追い込んだのも肇の手腕だ。彩の渾身の反撃を叩き伏せてこそ、とっておきの隠し
球を撃破してこそ、彼の勝利は完遂される。
 彩が取り出したのは、崩した書体の漢字が様々に書き連ねられたお札だった。相手の突
進に合わせて己も突出して距離をゼロに詰め、相手が対処に迷う瞬間を勝負時に、僅かな
間無防備となったその額に貼り付ける。
 それは相手が並の物なら、二度と動けなくさせる効力を持つらしい。大陸の道士が扱う
札の中でもかなり高度で、肇の様な存在を封印する物だ。例え効かなくても、数秒足止め
ができれば、その間に逃亡への展望が開ける。 だが、その特殊な札が、秒も持たずに黒
い灰になって散ってしまう。剥がれ落ちる前に、その札が肇の力の内圧に耐えかねて、燃
える間もなく腐る間もなく、灰になって空に散る。
 その瞬間に、彩の目論見も空に散っていた。彼女の身体は肇の腕の中で停止し、囚われ
た。
「さあ、もう放しはしませんよ!」
 第三幕も彼の力が彩の術を完全に上回った。彼は迷う事なくそのまま彩を至近で抱き留
め、背骨が折れる程きつくきつく抱きしめる。彼の腕の中に落ちた彩の背が、締め付けら
れて仰け反るのに、肇は漸く満足そうに、
「結構愉しませて貰えたけれど、本当の愉しみはこれからだ。最期迄、つきあいなさい」
 知性と獣性を両方兼ねた、凄まじい形相を見せ始めた。容貌は間違いなく獣なのに、知
性を残した瞳の奥にそれを上回る嗜虐の輝きが宿る。唯命を狩るのではなく、苦しめる事
に喜びを見いだす異常性が獣の力を暴走させ。
「本当に最期の最期迄、貴男が私を手離さないのなら、つき合ってあげても良いわ」
 熱い抱擁を交わしている様に見えたろうか。完全な勝利を手に入れた筈なのに、彩のこ
の平静さは、何なのだろう。全てを諦めたのか。
 彩の細い身体は、さっきより更に太さ逞しさを増して見える肇に締め付けられて、身動
きも取れぬ。気の所為ではない。肇は本当に、一見して分る程、強健な身体に化けつつあ
る。
 今やその対比は完全に美女と野獣だ。問題はその美女役がいつ迄も平静で怜悧で、艶や
かさより場外れた平穏さを尚保ち続ける事で。
「本当に口の減らない人だ。だが」
 そうやって、涼しい顔をしていられるのも、後少しだ。貴女と云えど、無敵ではない筈。
「そう、云われた事もあったわね。何度か」
 声に息苦しさが微妙に反映している。
 絶対優位は肇の手中にある。彩がこの状況を脱するには、己の腕力に頼る他に術はない。
 その現状での肇の問への超然たる彩の答に、
「貴女、ハンターですね?」
 肇は更に真相に迫る問を発した。
「私自身に、遭遇の経験はないんですがね」
 だが、闇に生きる彼らの間に彼らが懼れるべき存在・脅威な存在の噂は語り聞いていた。
 それは彼らにとってこそ致命となる、彼らにとってこそ恐怖となる、神や魔を狩る物達。
 肇や和子やあの巨漢の様な異形を狩り立て、滅ぼす物。その様な存在を許さず、倒す事
を人から請け負い、闇から燻り出し殲滅する物。
 修験者、仏法僧、陰陽師、魔道士、妖術士、祈祷士、神父、教父、霊能者、エクソシス
ト。
 様々な名で呼ばれ、人の脅威となる闇の物を抹殺する、一種の殺し屋・賞金稼ぎ。目的
遂行の為に、過酷な修練や並外れた素養を求められる職種でもある。
 確かに、彩の知識と準備、その行いは決して素人の物ではなかった。人間相手の荒事と
云うよりそれは、肇の様な異形の物を対象としている様にも思える。そしてその操る力…。
 彼は改めて彩の喉首を右手で掴むと、その細い身体を壁に叩き付けて固定した。短い悲
鳴が聞えるが、彩は未だ気を失ってはいない。
 彼は己の顔を至近に近づけ、
「だが、それだけじゃない。貴女は唯のハンターでもない。混血、ヴァンピールか何か」
 彼は獣の習性に身を任せ、鼻をぴくぴく動かし、彩の首筋で匂いをかいでみる。
 彩が彼の為すがままに任せるのは、最早為す術がないのか、尚彼の隙を窺っているのか。
「我々の血を受けながら、混ざった人の血に惹かれて人の側に立ち、人間の為に我々異形
を狩る側に回った存在。違いますか?」
 彩は肯定も否定もしなかった。彼が答を求めている訳ではない事を、分っていたらしい。
彼は彼なりに、彩の行動からその実体を類推していたのだ。全てに於て彩を上回り屈服さ
せたい。その思いを暫く走らせてやれば良い。
「だから、肩を砕かれてもすぐに治癒できた。
 ……それにしても早すぎる様な気もするが、唯の人間が数分であの重傷を自然治癒でき
たとする方が非合理だ。混じり合う血の相乗効果は、理屈を越えるのでしょう。私の様
に」
 中には体内に流れる異形の血を憎み嫌う故、その血で得た特殊能力をハンターとして扱
う者もいると聞いた。我々には結構な脅威だが。
「獣の敵が実は同種の獣である事は結構多い。和子は君の様な存在を怖れていたんだが、
僕の方が特異性では更に一枚上手だった様だ」
 僕の存在は、並ではないと云っているのに。
 和子の心配に困った様な呟きを漏らした時。
 ふふっ、と彩の口元に笑みが見えた。
 肇の、彩の正体を捉えたと云わんばかりの語調に、明らかにその勝利感を逆撫でする、
何も知らない者を哀れみ嘲る笑みである。
 喉をかなりきつく絞められているのに、
「貴男こそ生粋のヴァンパイアではないわね。貴男こそ己を失いつつある、哀れな生贄
よ」
 むしろ彩の問の方が与えた精神的な痛手は大きかった様だ。瞬間的に彼は激情していた。
 彩の喉首を締め付けていた腕が、いきなり頸の骨をへし折りそうなレベル迄高められて、
「貴様ッ……!」
 怒りに目が血走っている。理性も獣性も全て吹き飛ばす激情に、身体が震え、その肉体
が数秒で盛り上がって見える。無意識に腕が骨を軽々と砕く程の力を発している。
 にも関わらず、彩は尚も平然と、喉首を掴ませても尚絶命せず、静かな声音で彼の間近
な両耳に、彼の理性への致命傷を叩き付ける。
「私の血と生気を、吸い上げてみなさい。
 貴男の吸血の真価を見せて御覧なさい。
 できる物なら、貴男程度に出来る物なら」
 吸血の性質を後天的に追加しただけの、リカントスロープ(人狼)。
 彩の表情は全てを見抜いた自信に満ち、肇の知恵を類推を圧倒し。彼の脅威に怯んだそ
の瞳は、今迄彼が多くの女達に見出した瞳だ。
 うう、ううう。肇の心が硬直した。尚肉体は彩を死の淵に落す力と体勢にあったが、そ
の肉体が固まっていて動かない。動かせない。
「人と闇の混血が時に上手に欠点を埋め合い、長所を飛躍的に伸ばし全く斬新な特質を持
つ。なら、その他の種族の血を混ぜ合わせると?キメラを考える者はいつの世にもいるの
ね」
 月の満ち欠けに左右される人狼に、新鮮な人の生気を得ればいつでも力を増す吸血鬼の
性質を植えつけ、好不調の波のリスクを避け。
 彩の指摘は理知的で冷然と、
「貴男が得た力を、私に使ってみると良い」
 弾丸を防ぐ皮膚と筋肉の厚さに、それを増幅できる月夜への対応性。これは全て彼が元
々持っていた人狼の性質だ。逆に云えば彼に吸血鬼仕様の攻めをしても、目的の半分も捉
えられぬと云う事で。では、彩はどうする?
 今は逆に彩の存在感が大きく見える。だが、彼女の肉体にはまだ何の変化も見えぬ。第
一彼女は肇の問に何一つ答えてない。ヴァンピール(人と吸血鬼の混血)なのかと云う問
にも、それ以前にハンターなのかと云う問にも。
 彩の両腕が、喉首を締め上げる彼の太い両腕に静かに添えられる。その意味する所は?
「混ぜ合わせの希望と限界を、知りなさい」
 その一言が、彼の身体を突き動かした。
 肇の瞳に再び野獣の輝きが宿る。満月の輝きが自分に乗り移った錯覚。己の骨の髄から
何かが湧き出し、筋肉の隅々迄行き渡る感覚。それらに増幅された彼の新しい力が動き出
す。
「吸い上げるのは、牙に限った話じゃない」
 無限の月光が僕を絶対の覇者にする。無尽の力が全開で、哀れな獲物の生気を吸い尽す。
 肇の指先が、掌が、食い込んだ彩の皮膚から生気を吸い上げる。吸い上げて、吸い上げ
て、残るのは干涸びた器のみにする。彩は皺だらけの老婆に成り果てる。
 人の残骸を残した生ける屍に成る筈がっ!
 彩の様子は変らない。生気に満ち、若さに満ちた彩の容貌はそのままで、苦悶もなくて、
「付け焼き刃では、この程度が限界」
「どういう事なんだ。僕の力は増幅されてる。
 最高に、暴走に近い程なのに……」
 誰の予測が外れたかは明瞭だった。確かに彩は肇の同類だが、持てる力は桁違いらしい。
「なんだ……なぜ、吸い上げられない」
 逆に、吸い取られる。今夜は満月、僕に力を与える満月、力が幾倍になる満月なのに!
「満月が力を与えるのは、貴男一人ではない。この輝きは、私にも力を与えているのよ
…」
 なっ! 肇の瞳が驚愕に見開かれる。
 彩の双眸が輝いている。その瞳は開くのか。
 そう云えばまだ彼女の瞳を見た者はいない。それは彼女にとって、力の本格的な発動を
示すと後で分った。セーフティの解除なのか。
 切れ長のやや大きめな瞳だが、その色だけが異邦人の紺碧で、異質で、威圧感が激甚で。
 今迄のが獅子ならこれは巨象だ。桁が違うなんて物ではない。この格差に較べれば、肇
と今迄襲った女達の方が未だ近い。膨大な隔たりが肇の戦意を喪失せしめ。全く抗い得ぬ。
「うう、うお、おおおおお」
 駄目だ、駄目だ、駄目だ!
 どうやっても圧倒される。視線を逸らす事も出来ぬ。一体この力この視線、何者なんだ。
 彩の声音は静かだが、最早そんな事でその本質を騙せはしない。獰猛な獣の気配は肇の
身動きさえ束縛して、縛り付けて、
「云った筈よ、貴男の同類と」
 貴男だけの夜ではない。夜は万人の物。闇に生きる全てに開かれた、力の満ち溢れる時。
 元の力が強ければ強い程増幅する力も大きくなり、互いの格差は更に開く。簡単な理屈。
「一対十の差は九、十対百の差は九十」
 彩の力が肇の介在を、皮の上で弾いている。どうやっても、肇の身体に満ちる力が彩の
肌にも食い込んで行かない。吸い上げられない。
「どうなって……お、おわあぁっ!」
 彼が飛び退いたのは彩が逆襲に転じた為だ。彩は締め付けられる頚の肌から、締め付け
る彼の指や掌を通じ、逆に生気を吸い取ろうと。
「吸い上げるのは何も手に限る話でもない」
 彩は必殺より力の顕示を狙った様で、肇が飛び退く隙は許したが、双方の格差は窺い知
れた。彩はいつでも触りさえすれば肇の生気を、彼が女達にした様に吸い上げられるのだ。
肇と人の格差程に肇と彩の格差は開けている。
「……力の程は、見切れたわ」
 彩の頚に残っている指の形の青痣は、肇の締め付けた物理的な力の痕だ。彩が行使して
肇を圧倒した力は、腕力とは異なる力らしい。
「貴男の暴走は吸血の性質の付与による物ね。獣性抑止の因子を同時に除去されたみた
い」
 大理石の無表情は端正さだけを印象に残す。
「それもごく近い過去に。貴男は二つの異なる獣の性質を抑え込む為に、無理にでも己を
強靱に保つ必要に迫られている。皮肉ね。新たに得た性質の故に殺戮を欲し逆に操られ」
「うが、う、が……」
 激情は恐慌に変り、彼は混乱の極みにいる。
 彩の分析の多くは聞えてない。だが、一転して己が窮地に、それもかつてない窮地に立
たされた事は、意識の片隅で分っている。
「貴男の祖父が人里離れた辺鄙な所に館を建てたのは、羽根伸せる所が欲しかったから」
 見開かれる肇の瞳の中で、彩は静かに語る。
「人に化け、社会に混じり、獣性を抑えて生きていく事も、無理ではないわ。でもそれは、
真の己を包み隠す行いで、決して楽ではない。体調の悪い時、心不安定な時、ここで己の
本性を晒け出し息抜きし、再び社会に人に戻る。
 貴男の祖父は獣を抱えつつ人としてひっそり生きていく考えだった。でも、貴男は別の
レールに乗り換えてしまった。若さの故ね」
 強く逞しく躍動的に生きてみよう。その声に、誘惑に、耳を傾けてしまったその時から。
その声が彼の耳に届かなければ彼の人生も…。
「己の本性である獣性を隠し、不自然を保てば体に心に無理が掛るのは当然よ。故に貴男
は幼い時から人として生きる為に、病弱と云うハンディを負わねばならなかった」
 獣を抑え込み社会に溶け込んで生きるには、体を壊す迄の負荷が不可欠だった。逆説的

が、彼らは人としての生を望めば弱者になる。
彩の様に、今の肇の様に、彼らが己を隠さずに生きるのは、社会に常住しない物の特権だ。
「運が悪かった、或いはそれが運命かしら」
 でも、云ってもどうにもならない事もある。どうにも出来ない事は、意外と世の中に多
い。
「貴男の行いの善悪や賢愚を責める気はない。貴男は貴男の運命を貴男なりに生きれば良
い。私は、私の為すべき事を為す。それだけよ」
 契約は、果さねばならないわ。
「……僕を、殺す積りなのか?」
 漸く肇は、彩の目論見に思いを及ぼす事が出来てきた。彩が肇の全てを看破して館に招
かれた理由は? 当初彩が待っていた者とは。
「さあ、どうかしらね」
 害意を抱いた彼に、彼女が好意的である必然はない。仮に好意的でも敵方に回るだろう。
状況の変転はその時に起る。紀代子の首筋にナイフを当て人質に取った和子の登場である。

 彩は紀代子を室内に招かなかった。肇のいる室内こそ危険であり、あの巨漢もいない今
なら廊下の方が安全と云う判断か。地下室に様子を見に行って異変に気付き、引き返して
きた和子に捉えられた様だが。
 同じ老婆姿でも、和子の運動能力は常人を凌ぐ程で、まともに組めば紀代子に勝ち目は
ない。和子も又、人間ではないのだ。
「お前がこいつを解放したと云う事は、こいつを人質に取る意味も、あると云う事だね」
 動きを止めている間に、やってしまうんだ。
 だが、肇は動かなかった。動けなかったの方が正しいか。力が抜けて、立ち上がれない。
 触れれば弾かれそうな程濃厚だった戦意も、殺気も、獣性も、狂気も今はない。唯空虚
で。
彼は今何を思い何を考え、何を見ているのだ。
「肇、心を奮い起すんだ。獣でも何でも構わない。今目の前にいるのはエサじゃない、敵
なんだよ。我々の生命を妨げる敵なんだ!」
 しかし肇に答える様子はない。魂を打ち抜かれている。闘志を吹き消されている。
「闘わなきゃ生き残れないんだよ。例え相手があのブラック・プリンセスだとしても!」
 和子の怒声に肇の顔が漸く理解できたと云う笑みを見せた。そうか、そうだったのかと。
 黒い髪、黒い衣、紺碧の瞳、端正な姿。
「何て事だ。くく、とんでもない者に僕は」
 力抜けた笑みが響く。乾く声に乗って散る。
「……そう呼ばれた事もあったから、一応正解にしておくわね」
 彩は微かな笑みを浮べ、静かにそう応える。紀代子にはそれが何を意味するのか分らな
い。
「闇に囁く者、魂を惑わす者、創世の立会者、造物主と同等な者、異名は色々と戴いた
わ」
 でも、中々これと云うのがないの。最近は仕方ないからこの通称で妥協しているけれど。
「ブラック・プリンセス、魔王に近しき者」
 和子が敢て、呼んで見せた。実年齢でも肇の数倍を重ねた和子故に、微かに聞き知る。
「聞いた事がある。闇の最深部に触れる女」
 魔王の寵愛で立場が権威が近しいのか、持てる力が真に近しいのか、或いはその両方か。
 吸血鬼とか人狼とか屍食鬼とは違う、闇の本体と云うべき『魔族』最高幹部。にも関わ
らず配下を連れ歩く事なく孤高を保ち、どこに居を持つでもなく流浪し、所属も動きも目
的迄も不明だが(否その故に)光に闇に怖れられる。噂の網に影を見せても真相は尚不明。
 ハンターが扱う小道具を、彩が持つ訳も説明は不要だった。彩に挑み掛って返り討ちに
あった無数の狩人達の遺留品だ。肇に効かなかった様に、それらは彩にも悉く無効だった。
彩は今迄どの局面でも、真に危険だった事は一度もない。肇の手の中に囚われた時でさえ。
「我々に何の用があってきたのよ、今更!」
 神も魔も威光を失した、科学文明の跳梁跋扈するこの現代、この末世に。神が魔が見放
したこの地上に、今更何の用があって来た。
「生きる外に望みもない我々の前に、なぜ」
 今更闇の王族が出て来たって何になるの!
 和子は血を吐く叫びを叩き付けるが、
「生きるだけが望みなら、ここに閉じこもってなさい。生きるだけなら、餌も殆ど不要よ。
 唯生きる外に望みもないのなら、肇は何故余計な性質の付与を望んだの? 貴女も」
 彩の指摘は半瞬で和子を怯ませた。
「貴女のその老醜は、吸血の素質を後天的に付与されても維持できず、憔悴した果ての物。
元々の姿ではない筈よ。非常に最近の結果ね。
 唯生きる以上の何かを求めた末にその奈落に落ちた貴女達に、言えた台詞ではないわ」
 彼らは、この館の者は世に隠れてひっそり送る生以上の何かを求め、誘いに乗ったのだ。
 それこそ時に生命その物より値打ちを持つ事もある、生きる意味という奴ではないか。
「生命は常に闘いよ。そして唯生きる以上の何かを求める者は望んで戦場に身を投じる者。
被害者面は止めなさい、無力な振りは止めなさい。己にある限りの知と力で闘いなさい」
 敵と、味方と、時には大切な者とさえ。
「最も大切な何かの為には、時としてそれ以外の全てを抛つ事が求められるのよ」
 彩の言葉は、理知的な声音に相反して激越だったが、真相の一端を突いていた。
 彩の本質は慈愛にはない。それは闘う意志を奮い立たせる、煽動の女神なのだ。
「立ち向かいなさい。状況の所為にせず、運命の所為にせず、己の意志で挑みなさい」
 その声に瞬間的に反応した者がいた。
「なぬいっ!」
 その悲鳴は和子の声だ。紀代子が彩に気圧された和子の隙を掴んで、首筋に突きつけら
れたナイフを、強引に振り解こうとしたのだ。
 紀代子はナイフを奪い取ろうと和子の両手首を掴むが、一瞬遅れて正気に戻った和子も
ナイフを放さず、互いにもみ合って離れない。
「彩、今の内に彼をやっつけてしまって!」
 もうこれ以上自分の様な犠牲を出させない。
「例え私がここで死んでも、ここで彼らを滅ぼせるなら、彼らを根絶やしに出来るのなら、
私達を最後にこの悲劇が終るなら。私が人質でいる事が貴女の行動を制約するのなら。今
はこの生命を惜しんでなんか、いられない」
『気立ての良い子でね、いつも自分より他人を気遣うんだ。自分がどうして貰えたら嬉し
いか分って、進んでそれを人にしてやれる』
 二人は床に転がって激しく縺れあう。ナイフを持つ両手首を捕まれた和子は身体の自由
を求め、紀代子はその自由を縛り奪おうとし。
「私はもう駄目だけど、駄目だけど。
 孝文さんに、私の死を、伝えて」
 この姿を見られるより、死んだ事にして欲しい。そして、ここの所在を彩から警察に伝
えて貰えたなら、この館の悲劇は自分で終る。
 自分も死ぬ気でいる。生きて残る気はない。
 彩を助ける事でこれ以上の犠牲を防ぎ、自分はその捨て石になっても良いと。
「貴女の事情は分らないけれど、私は貴女の力に縋るしかない。私の事は気にせず早く」
 この肉弾戦はどう見ても和子に有利だ。初動で不意をつけただけで、後はずっと紀代子
は振り回され、和子の動きに受身を強いられ。
 だが、その少しの間があれば、十分だった。
「そうは行かないの。私も不本意だけど、先に報酬を頂いて、契約が成立している以上」
 人の願いを受けて動くのが、神と魔の役目。
「報酬を受けて尚動かない様では、流石に拙いでしょう。幾らやる気の失せた私でも…」
 云いつつ、上になった和子の首筋に後ろから手を伸ばす。和子は気配を察知したらしい。
寸前で紀代子をうち捨て、一気に窓際に飛び退く。危機感の故か、彼女の動きも素早い。
 とりあえず紀代子は解放された訳だが、
「貴女の要請は契約と矛盾するの。受けられないわね。貴女には生きて、ここに入った時
の姿で出て貰うから、その積りでいて」
 下手に貴女に死なれては、私が契約不履行になってしまう。むしろこれは私の問題なの。
「……、……」
 激しい運動は、この身体には過剰な負荷だった様だ。紀代子は何かを云いたそうだった
が、息が上がっていて、まともに喋れない。
 抱き上げて、壁を背に座らせる。近くで見れば見る程単なる老いではなく、顔に深い皺
が走る以上に、カサカサに乾いている。生気を抜き取られたら人はこうなってしまうのか。
「無謀なその勇気だけは、称賛しておくわ」
 彼らが本来の吸血鬼と異なり吸血せぬのは、増殖抑制なのだろう。血を吸えば吸われた
側も吸血鬼となり、血を求め出す。彼らはネズミ算に増え、彼ら自身の手にも負えなくな
る。初期の吸血鬼はその様に街を滅ぼした末に餌不足で自滅していった。生気を吸うだけ
なら、吸われた側が衰滅してしまうので吸血鬼はいつ迄も多数の餌の上に君臨し安泰でい
られる。
 だが、今回はそれが吉に働くのか。
「幾つか条件が必要だけど、巧く行けば貴女も副島孝文と若々しい娘の姿で再会できる」
 なぜ彼のフルネーム迄知っている、という問いが、顔に書いてある。
「頼まれたの、ある人に。頼まれただけなら無視して良いけれど、報酬前払い迄されて」
 代償は、後で頂きにいく積りだったのに…。
『魔』らしくない展開には、私自身不満なの。
「普通、何を代償に求めるのかは、実行者の側の言い値の筈なのに、押しつけられたのよ。
 世の中、中々巧く行かないわねぇ。でも」
 冗舌は、願いを受けたと云うより押し付けられたに近い状況への、自己弁明なのか。
「私が本当にここを訪れた理由はこれから」
 彩は副島慎太郎の依頼を受ける前から、ここに来る積りでいた。彼女の目当ては肇の招
きを受ける前から、既に肇に定められていた。
「う、う、うおおお、おおっ!」
 肇の叫び声。彼は唯惚けていたのではない。その身に起った異常の為に動けなかったの
だ。
 全身が痙攣して、転がって悶え苦しみ始め。強靱な肉体のその内部で、何かが暴れ回っ
て、内部からはち切れそうになっている。
 しまった。和子の呻きの意味を、彩も分る。
「発作が、早く新しい力を注ぎ込まないと」
 だが彩の反応は違っていて、
「それは対処療法に過ぎない。現状を引き延ばしても良くはならない。それより根本よ」
 獣の力が最も大きくなる時、発作も極大に達する。アレルギーが健康の暴走である様に、
彼らの望む月夜に彼らを襲い駆り立てる物は。
「本来違う生命の持つ性質を、無理矢理後天的に付与した、これも副作用。出来ると云う
事と、出来るからやりまくる事は違うのに」
 貴男達は、填められたのよ。
 彩は暴れ回る彼の喉首を掴むと、瞬時に床に叩き付けて動きを止めた。彩はその細身に
何の変化も見せぬまま、肇以上の剛腕を見せ。
「離せ、離せ。血を、生気を、う、うお」
「吸血の発作に生気を注げば一時凌げる。でも、吸血の性質が本来貴男の物ではない以上、
それが根付けば根付く程拒絶反応は激化する。
 月夜を迎える度に巡るその苦しみは、吸血の不足ではなく、過剰を意味しているの」
「なん、だ、と」
「貴男は元々何者なの?思い出しなさい!」
 余計な性質を兼ねた為に、却って貴男は不要な養分や生贄を求めて、理性を失い己を見
失い、自分の生きる場をも失おうとしている。
 彩は右手でその喉を抑え込み、左手で心臓付近に手を当てる。彼は手を振り回し身悶え
して自由を求め、その両手は彩の服を引きちぎるが、彩の抑え込みは微動だにしない。
 さっき彩が銀の弾丸を撃ち込み、独鈷杵を差し込んだ辺りに、左手を当て、そのまま肉
の内部に迄突っ込む。肇もそれをやってはいたが、彼女の腕は手首迄体の中にめり込んで
いる。さっきの比ではない。勿論その出血も。
「貴男の体に異物−吸血鬼の組織片−を循環させる、移植された補助心臓を抜き取るわ」
 貴男を唯の、人狼に戻すのよ。その声に、
「そうはさせるか!」
 和子があの独鈷杵で彩の背中を突き刺したのはその時だった。彩の集中が肇の肉体に集
まって無防備な今は、針の一差しも防げない。
 刺されば内部で、彩の魔を関知した独鈷杵が化学反応を起し、彩を腐らせ破壊する筈だ。
「漸くこの辛気臭い館を捨てられる所なんだ。
 漸く新しい力に目覚め、肇が外に目を向け始めたんだ。もうこの退屈で辺鄙な生気の味
わいもない所は御免だ。折角肇を唆し吸血の性質の移植を受けたんだ。ここを引き払う日
も間近なのに、貴様なんかに介入させるか」
 刃は彩の背中から心臓を貫いていた。赤黒い液体が和子の掌を濡らしていくのが、紀代
子にも分る。独鈷杵の清冽な輝きに照されて。
「貴女今、何をしているのか分っていて?」
 彩の問の意味は和子も承知だ。彩の左腕は肇の心臓近くに突き刺されている。確かに彩
は無防備だが、彩に手を出す事は肇の生命を左右する。和子の目的は肇の救援ではない?
「私の家系はね、肇の血筋に仕える事を使命にされていたんだよ。肇がここを出ない以上、
私もここを出る事は出来ない。だから私は肇を唆し、吸血の性質を付与して貰って、ここ
に住めなくなる様に事を導いたのさ」
「なん、だって!」
 驚愕の声を漏らしたのは肇だった。
「いずれ館に女を連れ込むのじゃ満足できなくなる。そういう体質を付与されたんだから。
 生気の不足はどんどん激化する。ブラック・プリンセスの云う通りさね。吸えば吸う程、
吸血の性質があんたの体に浸透して行くんだ。
 それに、警察の手も伸びる。どちらにせよ、ここに止まりひっそりって訳にはいかな
い」
 云っておしまいなさいな。彩は尚も静かに、
「使命の縛りを解く為には、肇に消えて貰った方がもっと良いって事でしょう?」
 彩の語調は苦しさを感じさせないが、身体の中迄入り込んだ攻撃が効いてない筈がない。
 肇にこれが無効だったのは、分厚い筋肉が刃を防ぎ止めた為だ。食い込めば、肇でも彩
でも特殊効果の餌食になる。しかも和子は傷口を軸に独鈷杵をかき回して肉を抉り出そう
として。その手元を狂わせて肇を殺させる目的だが、同時に彩にも致命傷を負わせる気だ。
「よく分ったね、流石は魔の姫君だ。だが」
 死にはしなくても、痛みで肇を構うどころじゃないだろう。諦めて肇を捨てておしまい。
 それで私は自由の身になれる。この身を縛る腐った使命から、漸く解き放たれる!
「仕える使命を帯びた私に肇は殺せないんだ。こんなチャンスが回りくるなんて、最高
だ」
貴様の臓器もぐちゃぐちゃにかき回してやる。
 和子の哄笑を妨げたのは、紀代子の背後からの一撃だ。拾った拳銃の銃把で、後頭部を
殴りつけたのだ。あれは銀の弾丸を撃った…。
「あんたに彩をやらせる訳に行かないのよ」
 紀代子こそ動ける身体ではなかった筈だが、
「あんたみたいな奴に外に出られたら、人類が迷惑するわ。みんなが、悲しむんだから」
 痛烈な一撃に和子が仰け反って手が離れる。彩の手がそれを掴みあげたのもその時だっ
た。
「うっひぎやははあああおおあ」
 肇の口から大量の鮮血が吹き出し力尽きる。
全ての動きが停止した。狂った様に暴れていた肇の身体が力無く重力に従って、横たわり。
 肇はどうなったのか? そして彩は……?
「あの位の妨害で、私の手元は狂わないわ」
 その声音はここ迄来ても尚変らずに平静だ。
 彩が鮮血に染まる左手を身体から引き抜く。
 力が極大になる月夜の晩だから、肇は生き残れたのかも知れぬ。肇の大きく膨れた肉体
は気を失ったままだが、肺は動き始めている。
「後は彼次第ね。体内を巡る異物の作用が消える迄、拒絶反応は出続けるわ。それに溺れ
て何度人の生気を吸い上げても血を啜っても、もう一時凌ぎにもならない。己を取り戻す
のに肝要なのは、己自身の強い意志よ」
 彩に肇を抹殺する気はない。抹殺すべきは、
「本当に分り易く動いてくれて、助かるわ」
 彩は怪我の痛みを痛みとも感じぬのか、優雅な足取りで和子に歩み寄った。恐怖に心臓
を掴まれた和子は、背を見せる事もできない。
「貴女のお陰で、肇の目も醒めたでしょう」
 彩は和子が動き易い場を作ったと云うのか。
 和子は彩に誘い出され、填められたのか。
「貴女の願いは、何だったかしら?」
 静かな笑みだったが、窓から差し込む月光を背に昂然と輝いて優しげだったが、彩のそ
れは破壊を呼ぶ笑みだ。その対象になって初めて、和子は彩の恐怖を身体で感じた。
 この女は、独鈷杵や銀の弾丸位では本当は、傷一つ負わせられない。それが出来て見え
るのは、彩自身の気紛れに過ぎぬのだと。
「主の望みを受けるのではなく、騙し誘導し己の為に利用し、破滅迄招くのは本末転倒」
 紀代子の角度からは見えなかった。彩の瞳が見開かれ、碧い双眸が和子を打ち抜く様を。
「ひ、ひ……止めて、待って許して……」
 足が動かない。動けない。竦んでいる?
 望みを叶えてあげる。彩はにこやかに、
「貴女を全ての束縛から、解き放ってあげる。
貴女の現在と未来を縛りつける命と体から」
 わひひいいぃぃ!
 彩の右手が和子の身体を持ち上げる。空に浮いた足が手が、十数秒はジタバタ暴れてい
たが、やがてぐったりと動かなくなった。

 館の広い敷地を覆う既に崩れ始めた石の塀。
 その塀の破れ穴を外に出た屍食鬼の巨漢は、逃れ出た館を振り返り追撃の有無を確かめ
る。
 両腕の肘から先は失っていても表情に苦渋はなく、ここ迄走り続けて来ても呼吸には乱
れがない。出血は既に止まっているが、それよりその精悍な表情が奇妙な余裕に満ちて…。
「どうやら、俺の正体には気付かない、か」
 彩に対峙した時迄の語調が欠片もない。彼は完璧に己を隠し通していたのか。彩に迄も。
 大した事はないな。冷然と呟いて、
「ブラック・プリンセスと云っても、所詮上流魔族の箱入り娘か。力はあっても洞察不足。
 他愛もない。愚者を装っておけば、簡単に騙され、雑魚だと油断して、逃走を許す」
 呟きが終わらぬ内に彼の身体に激変が起る。首を捻るとその首筋が不自然に持ち上がっ
て。
 そこから生えてきたのは二本の腕だ!
 血が噴き出して、巨漢の肉体は痙攣するが。
 彼はそのまま二本の腕を肩の上に載せて、頸から上を引き抜いていく。一分と掛らない
内に、巨漢の身体から、縫いぐるみを脱ぎ去る様に中肉中背の男の裸身が生えだしてきて。
 腕を引きちぎられた巨漢の身体は、今無理矢理なその出現に上半身を引き裂かれ、血塗
れのまま前向きに倒れ。最後に常人よりやや太めな腕でマスクを捨てる様に顔の皮を取る。
「まあ、悪くない素顔はしていた様だがな」
 そこに現れたのは、面長で真っ青な長髪の、やや歪んで自己陶酔に浸った、面長の美男
で。
「もう少し、弄んでやろうと思ったのだが」
 今日の所は止めておこう。流石に力で倒すのは面倒そうだ。あの女を絡め取り、仕留め、
服従を教え込むにはもう少し、仕掛けが要る。
「あれは回収しておきたかったが、まあ良い。替えは幾らでもある。心地良い囁きを耳に
吹きかければ、引っ掛る愚者はどこにもいる」
 お前の順はもう少し後だ。待ってるが良い。

「誰が作ったか知らないけれど、優れ物ね」
 和子を抛り捨てた彩の左手には、赤ん坊の心臓程の大きさの臓器が二つ、握られている。
一つは肇の身体から、一つは和子の身体から、
「吸血の組織片を循環させ肉体を作り替えるより、吸収した生気を蓄える構造ね。でも」
 こんな不細工な臓器に若さを貯めようとは。
「まあ良いわ。やってしまいましょ」
 彩はやや不快そうな語調で呟くと、
「紀代子さん、悪夢を振り払う時よ」
 貴女の力になる事が、契約だから。
 だが紀代子は両手で近寄る彩を押し止めた。
「待って。私は良い。でも他の人達は…?」
 元に戻れるのはとても嬉しい。生きて好きな人に逢えるなんて思ってなかった。本当に、
今この場で死んでも良い位に嬉しいの。でも。
 紀代子は老いた喉を一生懸命震わせながら、
「みんなはどうなるの。みんな、それぞれ待ってる人がいるのに。私だけ幸せなんて、本
当の幸せには出来ない」
 みんなも助けて。全員この時を待っていた。時に弱く、自分しか見えぬ時はあっても、
悪人でない。みんなにも私と同じ喜びを与えて。
「私が嬉しいから分る。彼女達がどれ程嬉しく思うかって。お願い、私に力を貸して!」
 貴女、賢いわね。彩は悪魔の笑みを浮べて、
「さっき和子を殴り倒して私を援護したのは、この為の伏線だったのかしら。恩の先売
り」
「そんな事、考えて動ける筈ないじゃない」
 貴女が危うく見えたから、助けたいと思ったから、あの人に勝利させたくないと思った
から、自然と身体が動いたのよ。
「では、それとこれとは関係なくて良い?」
「直接関係はないけれど、でも、考慮して」
 そこで紀代子は本音を出した。多分彼女が彩を助けた時も、その後迄は考えてなかった。
だが彼女が彩の為に動いた事実は残る。
「傷ついた乙女に更に頼み事とは、人って本当に自分勝手で人使いの荒い生き物ね」
 彩は複雑な笑みを洩らした。それは、人の愚かしさ・弱さに彩が持つ優越感を崩す、紀
代子の強さ・賢さに、微妙な不快感・対抗意識を抱いた己への、自嘲だったのかも知れぬ。
「神でも魔でも構わない。欲しいのは結果」
 人間中心と笑われようと、私は人を、私を中心にしか考えられない。私がして欲しい事
をみんなにもと望むより、広い視野はないの。
「お願い。みんなを、助けてあげて」
 何とも直接的で、何とも率直。これが人か。なれば、彩も魔としてその依頼を聞こうと
…。
「大切な何かを取り戻す為の奇跡に相応する代償の用意と覚悟は、あるのでしょうね?」
 やや冷淡な声は、紀代子の思いを問い直す。
 彩は力を出し惜しむ訳でも、疲労し力尽きた訳でもない。彼女は何かを引換に願いを叶
える、魔(神)の生き方に忠実なだけなのだ。
「憶えて置いて。私は何もせずに唯願い祈るだけの者に応える様な優しい存在ではない」
 無償の慈愛は、私の扱う商品にはないのよ。
 閉じた瞼の奥から、心臓を貫く眼光を感じたのは決して紀代子の錯覚ではない。その時、
「……僕がやるよ」
 意外な申し出は、肇からだった。
 彼は静かに、だが意志を取り戻した声で、
「贖罪になるとは、思ってない。唯、無意味に生命を殺めた事実は、僕にとっても残念だ。
謂れのない犠牲故に、謂れのない救済があって良かろう。自己満足と酷評されそうだが」
 肇が意識したのは、彩なのだろう。
「未だ生きている生命なら、今は無意味なこの生気を返して、解き放つのが人道だろう」
「人でない者が、人道とはね」
 彩は含み笑いのまま紀代子に近寄り、
「貴女は私の管轄。唇を、貸して貰うわね」
 立ち尽す老婆の肩を抱き、顔を覗き込むと、
彩は柔らかな唇を紀代子の渇いた唇に重ねて、
「くふふああああっ!」
 何かが老婆の身体に流れこむ。
 何かが老婆の胃を突き動かす。
 唇から彩が流し込んだその何かは、紀代子の異物を拒む動きを撥ね除け、染み込み、奥
の奥に届く。指先の細胞一つ一つに染み渡る。
 紀代子の身体が倒れこむ。それは戻りかけとでも云うのか。老婆とも云えぬ人間の女が、
支えを失い転げ回って、副作用に悶え苦しみ。息が止まる。肉が弾ける。神経が千切れ
る!
「身体が順応する迄、暫く時間が掛るわ」
 紀代子は放置して、彩は肇に向き直る。

「何故君は僕に、何も見返りを求めない?」
 月夜の魔力か、彼はもう身動きが出来る迄に復しつつある。人狼は元々回復力も強いが、
「気付いていた様ね」
「何の制約もなければ、今頃君を害しようとした僕は和子の運命を辿っている。違う?」
 死の淵を見た肇は不思議に落ち着いていた。
「私は、彼女の願いを叶えてあげたのよ」
 彩は怖しさと紙一重の静かな微笑みを返し、
「貴男から貰う事には、意味がないの」
 彩がそう言った時、肇は手探りする視線で、
「君はかつてこの館に来た事があるのか?」
「例え来た事がなくても、貴男の波動は届いていたわ。とても強い願いと祈りの声が…」
 若さと甘い囁きの故に不要な筈の力を性質を移植されて、喘ぎ苦しむ貴男の声は確かに。
「心に願いを持つ者がいる限り、願いを叶える者にも限りはないわ」
 肇の瞳が急に見開かれたのはその時だった。「……その台詞、その声音、まさか貴女が」
 彩は無言で肇を見つめ返すだけだが、
「この家が華やかなりし頃、亡き祖父が最敬礼で出迎え、歓待した女人がいた。豪奢とは
縁遠い、黒衣を身に纏った黒髪の、細身で少し背の高い怜悧な顔立ちの、そう、貴女だ」
 彼らの肉体年齢は、人とは違うのだろう…。
「憶えている。思い出した。貴女はそこで」
『本当に、良いの?』
 あの時も彩はこの若さと姿で祖父に問うた。
『獣を封じても、その本性は変らないのに。
 己を偽る負荷は心と体の両方に掛る。己の中の獣を眠らされ、貴男の子孫は無害な代り、
獣の勘も生命力も躍動も失い、人の中でもハンディを負った、弱体な者となり果てる…』
 あの時はその意味する所が分ってなかった。肇は未だ余りに幼すぎたのだ。あの頃は未
だ。
『獣の力が醸し出す魅力や成功・財力・活力に付き従う者は皆離れ、子孫は忠実な少数の
者と永い衰勢を共にする。それで良いの?』
 陰に陽に、時には我らの生存に掛る恩恵迄頂けた貴女には申し訳ないが。祖父は頷いて、
『儂はこれ迄、獣の力で多くの者を踏み躙ってた。騙し、倒し、奪い。正体を明さずに世
を生きる富と地位を得るのに不可避だったが。
 この性質はやはり刃物じゃ。人の世に潜み生きるには、不要な程に大きな鉞です。
 息子や孫には、人の安穏を生きて欲しい』
 祖父の声音は、渋く苦い。それは彩への背信への慚愧と云うより、その行いさえ許容す
る彩を切り離す、己への悔恨か。人として生きるには、魔との繋りは不要な以上に有害だ。
それを分る祖父は、彩に断交を申し出たのだ。
 そう……。彩はこの時も冷静に穏やかで、
「気遣いは不要よ。私は、祈りに応えただけ。貴男の為ではなく、これが私の生き方な
の」
 祈りや願いに応えるのが魔(神)の生き方。
 貴男が人の生を望み不介入を願うなら、祈るなら。怒りも罰もありはしない。その利益
と不利益は、貴男と子孫に掛るだけ。だから、
「今、汝が最善だと思う選択を為しなさい」
 彩は優しい訳でも悪辣な訳でもない。彩の印象とはむしろ相対した者の心の反映なのだ。
 それを分って尚後ろめたい祖父だが、更に、
「唯一つ、気になるのは忘れ去っても残り続ける儂の血、獣の性です。あの血が騒ぎ出す
時、或いはあの血を察知する者が現れた時」
『我が子孫の生殺与奪を委ねます。導きを』
 肇は既に彩の管轄下にあった。彩が動く代償に所有する彼から何を奪っても無意味だと。
 肇の祖父は、背信的な程に取引上手だった。
 子孫を思えば、彼はどこ迄も卑怯になれた。祖父も人の心を得て、人の道を歩みつつあ
る。だが、己を卑怯に思う苦みは拭いようがない。
苦悩に歪む老いた瞳は肇に通じる物があった。
「君の探し人は、僕だったと云う訳かい」
 肇の問に、彩は小さくかぶりを振った。
「いいえ、逃がしてしまったみたい。
 これを奪い返しに来るかと思ったけれど」
 窓から月を見上げるその視線が遠く儚げで、
「今度逢う時はまともに向き合いたいわね」

「あんた、こんな所で何をしていたんだ?」
 副島慎太郎は、後部座席の客に詰問口調で、
「危険だって云ってるのに、性懲りもなく」
 もう仕事を終えようと思っていたその時だ。住宅街を外れた森の脇で手を挙げたのは彩
で。
「危ない目に、遭ったんじゃなかろうな?」
 服が少し汚れた様子がある。その黒髪が少し乱れている。彼に分るのはその程度だが、
「逢えたのよ……逢えたのだけれど」
 彩は微かに明るくなり始めた東の空を見て、
「私が望んでいた人ではなかったの」
乗る時からサングラスを外していた彩だが、瞳は一度も開けてない。それでも、閉じた
瞼を見るだけで彩の端正な容貌は際立っていた。
 整い過ぎて可愛いげがない、綺麗なだけで冷淡で色気がない、艶めかしさに欠けると評
されるが、彫像としては一級品の出来である。
「血の匂いだ。あんた、怪我してるのか?」
 バックミラーで、彩を気に掛ける運転手に、
「……掠り傷よ。その内、治るわ」
「あんたには云っといた筈だ。この辺は危ないって。何があったんだ? 異変があれば警
察に連絡しろと、俺も上から云われてんだ」
 上からのお達し以上に、彩の身の上を心配する故に強い語調になる彼に、彩は静かに、
「もう異変は起らないわ。全部終ったから」
 少なくとも、この周囲ではね。
 彩は目を閉じたままだが、その反応は彼の動きを察した様に滑らかで、奇妙な程だった。
「どういう事なんだ? あんた一体、何者」
 彼は気配の違いに気付いた。サングラスの有無の為ではなかろうが、存在感・躍動感が。
仕草も服装も変らないのに、正体を見せた?
「その辺りで停めて」
 彩が指差すのは沿道の森の一角だ。
「あ、ああ。でも、ここは未だ町外れだ。歩くにしても、街迄はかなりあるぞ」
「良いのよ。元々、貴男に逢う為だけに貴男にこの辺り迄、来て貰ったんだから」
 分らないと、彼の顔には書いてある。
「貴男には、報告だけしておかないと」
 彼は車を停める。闇に女性を置く事は心苦しいので、彼は街迄送り届けたいのだが、今
の彩の言葉には有無を云わせぬ質感があった。
「今頃、紀代子さんから警察に通報が入って、官憲が動き出している頃よ」
 十六歳から二十八歳迄の女性ばかり十二人。
 生き残れた者は全員掠り傷程度だと思うわ。
「一番重傷なのは、多分私ね」
 満月の夜だから、私も余裕があったけれど。
「あんた、一体、何をしたんだ。まさか?」
 彩は代金を払わないまま車を降りると、運転席側の窓に回り込んで、
「お代は、払わないわよ」
「毎度どうも。……次もよろしく」
 何と云って良いか分らない中で出てしまう口癖に、彩は重い存在感に見合わない程鋭く、
「もう使わないわ。酷い暴利よ。
 こんなに高くつく話はないもの……」
 その意味が何となく彼にも分るのは何故だ。
「ああ、だが、あんたは何者……?」
 彩は無言のまま紺碧の双眸を開いて見せた。

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