その社は、千年一日と云う言葉を具現化したが如く、古びた佇いのまま、時の経過を忘
れさせる様に、在り続ける。幾百年昔から生い茂っているのかさえも解らない、緑の海に
囲まれて、この社は今日迄、幾千人の想いを受けて来たのだろうか。
由来を聞き知る者さえ既に少ないその社は、積雪の白色に溶け込む様に、埋もれる様に
…。
悠久の太古から、永劫の未来へと。
万古不変の物等、世には実際は存在せぬが、不滅不朽の物等、一度も存在した事はない
が。
それ故に、人は自分より古くから在り続けて尚滅びないもの、後の世に迄残りそうなも
のに、特別な思いを抱きたくなるのだろうか。
己の有限さを知る者こそ、己の果てを知れば識る程に、絶対無限の何かを求める。それ
は、切り捨てるべき弱さや業・執着ではなく、知性を持つ者の普遍な祈りと云うべきなの
か。
僻地の村の、錆びれた中心部から山と谷を一つずつ隔てたこの社が、過疎が一向に改善
されもしない寒村で維持され続けているのは、信仰心と云うより、世に不滅の物が在って
良いではないか、長久に滅びず在り続ける物が在って欲しいとの、思いの故なのかも知れ
ぬ。儚い者達の、永遠への憧れや、希望を込めて。
自分達が不滅だとは、思えない。思わない。そんなに偉大な者ではないと、彼らにも解
る。個人では到底、永遠に及ばない。及び得ない。
だが個人を越えた何かなら、どうだろう?
子孫や、伝統や、集団。労苦の末の成果…。
尽きる事なくあり続けて欲しい。これは皆の願いなのか。不変の物等世にはない。だが、
自分に繋る何かは在り続けて欲しい。母校や、村や職場や、形見や思い出。自分が確かに
ここにいたと云う、何らかの証。自分が関った何かが残る事が、自分の存在の証に繋ると
信じてなのか。自分個人は有限でも、自分に繋る自分を含む集団の命脈は永遠で在りたい
と。
人とは、消滅に耐えられない生き物なのか。世に何の足跡も爪痕も残さず、誰にも気付
かれぬまま、思い返される事もない。そう言う『縦の時間軸の孤独』、その虚しさに抗っ
て。
いつから在るのかさえ今では不確かな社が、古いだけで、自分と関りが在って古いと云
うだけで、残しておきたいと人は望む物なのか。
最も近い民家迄、夏でも歩いて一時間近く、獣道の様にうねった道路を迂回せねば、文
明の灯を目にする事さえ叶わない。冬には勿論、道路を進んでもその三倍は掛る。山と谷
を越える山道の方は、一年の半分は不通になって。
こんな僻地の村の、その外れに。特別な伝説や由緒がある訳でもないのに。草木が凍っ
て割れる程の寒さにもなり、烈風が大木を揺がす事も稀でない真冬に。わざわざこの社を、
訪れる者はそう多くない。奇特と云って良い。
その多くない訪問者を、荒れそうな冬空の元で迎え、非日常的な、非人間的な、生活の
香りから遠ざかって久しかった社は、幾分生気に満ちた様にも見える。
突然の訪問者は果たして、気付いたろうか。
社に着いた時から、否来る途中から、自分が逐一見られている、感覚を。興味深そうな、
視界の外側ぎりぎり迄来ていながら尚見えぬ領域で息を潜め窺っていそうな何かの気配を。
「たく、こんな所迄来させられなくても…」
貴昭の顔つきが、不平満載なのも、当然か。来たくて来たのではない、来させられたの
だ。
村道から分岐した更に細い一本道を、積雪と寒さの中、一キロ弱も歩くのは楽ではない。
この社は夏も詣でる者が少なく、村出身の貴昭も、大学在学で村を離れている間に廃棄
されると思っていた位なのだ。交通の便の悪さは一級品で、冬には陸の孤島と化す山林の、
ど真ん中の高台にある社は、石段を上るだけでも息が切れる。
上っても村を囲う連山程には高くないから、見晴らしも良くはない。視界が少し開ける
位で社を目的に来る者以外に、メリットはない。
『社には神様が、今でも棲んでいるって言う。中に入る時は、挨拶を忘れるんじゃない
ぞ』
父親に言われた注意書きが頭をかすめるが、
「けっ、今時ぃ」
忘れた事に、しておけば良い。
親父への言い訳を考えておけば十分だ。否、適当に参拝したと言い繕えばそれで良かろ
う。
貴昭は、ほんの少しの後ろめたさを感じつつも社の正面を通り過ぎ、脇にある小さな小
屋に歩みを進めていく。そこは、夏場や祭りの時等に、掃除や管理の者が来る時に一休み
出来る様にと用意された、人間用の休憩室だ。
「ここがあるって思い出さなかったら、俺もこんな社、来る気にもなりゃしねえ、絶対」
ううぅ、さぶさぶ。
貴昭は、彼の訪問を拒む様にギシギシ唸る木戸を無理やり押し開け、中肉中背の身体を、
小屋の中に滑り込ませた。
元々滑らかでない上に、冬季は3か月以上掃除しておらず、積雪で開閉が更に難しくな
っている。十数センチの隙間を開けるのも一苦労で、貴昭は自分を幅に合わせる形で入る。
電気はつく。テレビも、少し画像が悪いが一応見られる。旧式だが置きストーブもある。
壁の芯や柱から冷えきっているので、暖まる迄に時間が掛ろうが、外よりは遥かにましだ。
下手に管理人など常駐してないので、彼は却って自由に休憩室で時を潰せると言う訳で。
「時間を潰す……。何か、待っているの?」
「ああ、そうだ。親父からの連絡を、を?」
何かの声が聞えた気がして、答えてから彼は思わず周囲を見回すが、誰もいる筈がない。
地元の村人も冬は寄りつかぬ山奥の社なのだ。
「気のせい、か……」
不思議と孤独を感じなかった。後になってみればそれがなぜだったか、彼も解るのだが。
カタカタ。閉めてない木戸を震わす風の音。
改めて自分が一人だと確認すると、木戸を押し閉め十二畳一室の小屋に上がり込み彼は、
唯ひたすら時を潰す構えに入る。
「畜生、早く終んねぇかなぁあ」
何十分、経っただろう。
貴昭が気がついたのは、夢の中でだった。
誰かがそう言ってくれた訳ではない。夢でなければあり得ないと思えたから、後で考え
れば夢に違いないと、推測する他ないだけで。
「お……俺は、どうしたんだ?」
彼は真っ暗な中に身を横たえていた。上下の感覚はあった様な気がするが、定かでない。
周囲に何かあったかも知れないが、何も見えては来なかった。真っ暗闇、だったと思う。
自分がどうしてここにいて、何があったのか。その記憶さえ不確かなのに、それにしては
妙に緊迫感がないのが、夢の世界と言うものか。
「確か……俺は、社の隣の山小屋(正確には山小屋ではない)に来て、テレビを見て…」
記憶が定かではないと云うより、今に繋る部分だけが欠落している。それが心のどこか
に引っ掛かっていて。
どうして、こんな社に迄来たの?
それは、どこから聞えた問だったのか。耳に届いた覚えもあやふやなその問は、貴昭の
隠された記憶の泉を捜し出した様で、
「来たくて来た訳じゃない。俺が村の誰かの家に行くって言ったら、親父が『噂の種を蒔
く事になるから、誰の所にも行くな』って」
自分で答えているのかどうかも、意識の外だった。彼は唯、思い返していただけなのか
も知れない。自問自答していただけなのかも。
何の噂を蒔かれるの? 困るの?
「拙いんだ。困るんだよ。結婚を控えた身で、婚約者でもない女が実家に迄尋ねて来てい
て。それを嫌って、俺が家にいられないなんて」
『女の人……恋人?』
「もう終った事なんだ。もう終るって、言ったんだ。この関係はこれで終りにしようって。
俺ははっきり言ったんだ。もう駄目だって」
元・恋人と云う処だろうか。だが、
「あいつだけが、現実を見つめてないんだ」
俺とお前の関係は終りだと、俺はもうこの関係を続ける積りはないと、そう伝えたのに。
「まさか、ここ迄追いかけてくるとは」
『この村迄、追いかけてきたのね……』
大迷惑さ。彼は唇を尖らせて、
「田舎は、村が一つの大家族さ。一日二便の路線バスを降りる客は目立つ。そして見知ら
ぬ誰かが来たとなれば、噂の広まりは早い」
彼女が道を聞いたと言う事で、俺の家に電話が来た。彼女が俺の婚約者なのかと。冗談。
「奴は、俺の縁談の話を知ってて来た」
それを撤回させる積りでいるらしい。ここ迄来たんだ。その位の覚悟では、いるだろう。
『貴方は、その場に居合わせられなかった』
「ああ、そうだよ。家にいられなかったんだ。
窓の外に彼女がいるかも知れない。壁越しに彼女の囁きが聞えるかも知れない。家に入
り込んで来て対面するかも知れないと思った日には、家に隠れている事も出来なかった」
『怖いの? 相手は一人で貴方の実家でも』
「ああ、怖いさ!」
夢の中の故か、貴昭はつい本音を白状した恐がる自分、逃げ出した自分、今露にされた
自分自身に、不快感が一杯な口調を隠さずに、
「憎んでいる訳じゃないんだ。もう駄目だと言ってても、詰め寄られたらどうなるか、俺
自身で解らないんだ。それに後ろめたい…」
悪い事をした様な気がして、ならないんだ。俺は本気でつき合う積りなんてなかったん
だ。それに、結婚なんて愛でする物じゃないだろ。
彼は以外と冷やかな結婚観の持ち主らしい。
「俺は、苦手なんだ。何か、男女の恋愛って、必ず男が悪く言われるじゃないか。俺も彼
女も対等に、愛し愛された良い日々を過ごした。それは終ったんだ。それで良いじゃない
か」
恋ってのは、どっちかの思い込みで始って、どっちかの拒絶で終る物だろう。相手の合
意が必要なのは、結婚じゃないか。
「彼女はそう思ってないのね?」
「ああ。あいつは、自分が諦めてない内はまだ終ってないと思っている。思うのは勝手だ
けど、俺はもう終ったんだ」
彼はそれをもう一度繰り返して云ってから、
「もう逢いたくない。振り返りたくないんだ。 彼女との関係は、失敗だった。いつ迄も
失敗に関るのは嫌だ。俺は、人間のその、面倒な絡みが嫌いなんだよ」
「自分が望んで人と絡みを作って置いて?」
「……」
貴昭は、苦みを顔にだして黙り込んだ。
都会生活は、孤独だった。大家族的な村で育った貴昭が、寂しさを埋めに人肌を求めた
のも、解らないではない。だが己が求めて得た恋を、親達の勧める結婚に乗るからと一人
で決めて、面倒になったから捨てると急旋回されては、それ迄の関係者の方が混乱しよう。
その後ろめたさは貴昭も分かっている様で、
「自分勝手だとは思うよ。解っている。でも、あの時は、俺はああ行動してしまったんだ
し、縁談はもう決まってしまったんだ。彼女だって本当は、俺にああいう事を云われて、
尚元の鞘に戻れる訳が訳がないだろう。今更彼女が俺の実家迄来たって、何も動く筈がな
い…。
無理を求めているんだよ、彼女は!」
自ら求めた付き合いを勝手に捨ててそれを認めろという貴昭と、どっちが無理なのかに
議論の余地はありそうだが、彼はその突っ込みを恐れるかの様に止める事なく言葉を流し、
「村内の誰かの家に行こう(逃げよう)として、親父に止められたんだ。世間体が悪い、
誰かの家に行く事は噂に火を付けるって。
『まるでお前が後ろ指指される様な事をして、彼女にまともに向き合えんのだと思われ
る』
話は巧く納めるから、家から出るなって」
でも、俺は家の外に出たいんだ! 今暫く、俺は家にいたくないんだよ。解るだろう?
正にそう思われる様な事態だったのだから。
「で、思いついたのがここって訳さ。ここには誰もいない。親父からの連絡を待ちながら
時を潰せるし、何より、彼女から一番遠い」
村自体から離れている。それが安心なのだ。
実家が彼女を、追い返してくれるのを待つ。彼が出ては、相手を興奮させる恐れもある
が、卑怯な応対とも云えよう。事の当事者が欠席とは、責任放棄だ。大人の対応とは呼べ
まい。
「俺はここで唯、時間の経過を待つだけ…」
「時間が経過すれば、何かが変るの?」
彼に、問いかける声があった様な気がする。するが、貴昭はそれを先程からの自問自答
の続きとしか思ってなくて、気にもしていない。
否、今迄のこの経過も本当に自問自答だったのか? 何やら、貴昭への誘導尋問っぽい
感じも、しないではないが。
「彼女が諦めて帰ってくれるよ。
きっと俺の両親が彼女を諦めさせる。札束を使うか、脅しを使うか、泣き落すかは解ら
ないけど。きっと何とか、やってくれる…」
誰かがやってくれ、どうにかなってくれる。
彼は一連の流れの中で、これを自分の心の中・夢と思い込んでしまっていて、殆ど無警
戒のまま、そう口にするが、
「貴方は、何もしないの?」
その言葉に頷きかけたその時点で彼も漸く、それが自分の内部ではない何かだと気付い
た。
その冷然たる口調にはどこか、貴昭の待ちの姿勢を、非難する語感があったのだ。そう、
云ってみるなら、彼の良心と言い訳の『期待通りの出来レース』に割り込んで来て、言い
訳を木端微塵に粉砕してしまいかねない嵐の、その嵐の前に吹く妖しい風が感じ取れて、
「なん、だ……? 誰なんだっ」
俄かに、ガバッと置き上った。周辺の視界が一気に戻ってくるのが解る。ここは社の脇
の小屋の中、彼が火と電気をつけた小屋の中。
彼の視線が向いたのは、声の聞えた方角は、立った一つの出入り口である渋い木戸の方
で、
「聞きたい事は、大体聞けたわ」
その声は明確に耳で聞き取れた。右側か?
丁度、部屋の木戸が閉まる処だった。彼の視界には、部屋の中を照す灯りより尚明るい
木戸の向うに歩み去り、木戸を閉める和服のロウティーンの娘の後ろ姿が、瞬間、映って、
「誰だ? お前!」
俺の、俺の心の中を全部、見られた?
硬直する貴昭に、思わず手を伸ばそうとしても身体が鉛になって重くて動かない貴昭に、
声の主は閉ざされた扉の外から、見えざる未知の領域を連想させる透き通った幼い女声で、
「貴方は正直な人。自分の心を、偽らない人。
でも、正直な事が人に幸せをもたらすとは限らない。必ずしも最善だとは、限らない」
最悪だとも、限らないけどね。
娘は、巫女の和服姿だった。長いストレートの黒髪に、細い手足、しゃんと立った首筋、
そしてやや低めな身長と未成熟な身体つき…。
これは、夢の続きなのか。
それとも始めから、全てが現実だったのか。彼は今目覚めたのか、それともまだ夢の中
なのか、或いは元々夢等見ていなかったのか?
解らない、解らないが、扉は、閉ざされた。
それとも、最初から開いてはいなかったのか。
それでも夢の様な声は彼の耳に絡み付いて、
「正直であれば全てが許される程、世の中は単純じゃない。善人が善意でいるだけで許さ
れる程、世の中は優しく出来てはいない…」
貴方の生き方が悪いとは、云わない。
善か悪かを決める権限は、私にはないから。
木戸が閉まっても、暫く娘の気配はそこにあり続けていた。声だけではない、確かな存
在感が木戸一枚向こうに、解るのだ。鈍感な彼にも解る程に、明瞭に。生きた人間の全て
の気配と異質な、泥臭さを超越した透徹さ…。
それは正に、世間を知らぬ童子童女の持つ『超俗な清楚さ・神聖さ』だった。
「貴方は、貴方の生き方を貫けば良い。そこに伴う、リスクとデメリットを背負いながら。
どんな生き方にも、それは必ず伴う物だから。人はその全てから逃れる事は出来ないけれ
ど、選択肢だけは誰もが持っているわ」
どの選択を、どう選ぶのかは、貴方次第よ。
彼は最後迄動けなかった。そして、醒めた。
どこから醒めたのかは、遂に不確かなままに。
常ならざる雰囲気は唐突に去り、貴昭の周辺には日常が戻ってくる。遠ざかると云う感
覚は、なかった。突如として、消滅したのだ。
いつの間にか、消したのか、消されたのか。テレビの電源だけが切られて。ストーブも
電気も、そのままだ。扉も閉ざされたので、彼女の存在を裏づける物は、何一つ残ってな
い。
意識は続いている。続いているのに、これが夢なのか現なのかを、断言出来ない。一体
どこからが夢で、いつからが現なのか。逆にいつ迄が夢で、どこから現なのか。解らない。
今この時さえも、夢の延長な気分が拭えぬ。誰かに現実を証明して貰わないと、生身の
誰かに向き合わないと、存在感が希薄で。これ迄の人生も現実だったのかどうか。実家迄
彼女が追い駆けて来たあの話も現実なのか?
貴昭が彼女と過した日々も幻に思えて来る。忘れ去りたい過去と云うより、植えつけら
れた記憶の様で。どの記憶が本物でどれが偽物なのか。思い込みと嘘と夢が頭の中で錯綜
し。
ここにいるのも、本当なのか。実家の一室で夢を見ているだけでないのか。否、本当は
都会のアパートの一室で故郷の夢に耽っているだけでないのか。どれが本当の真実なのか。
耳に残る涼やかな声。それは一体誰の声か。
いつ迄もいつ迄も、貴昭の頭の中を駆け巡って、鳴り響いていそうな感覚が抜けきれぬ。
全くの無音・無風と云うのも、却って幻聴を呼びそうで危ういと、改めて思う。
気配が消え去っても暫くは、彼は動く事も出来なかった。扉の外には人影もない。窓か
ら顔を覗かせても、誰もいない。あの小娘は、俺の罪悪感が作り出した幻覚なのか? だ
が、あの声はどこかで聞いた気がする。いつかは彼も憶えてないが、いつかも解らぬ程の
昔に。
手を握り、テレビのスイッチを入れて自分の感覚を、再確認してみる。テレビは相変わ
らず時間潰しの、正月番組の再放送だ。嗤いもない処に嗤い声を挿入して面白おかしそう
な雰囲気だけを作って、番組に仕立てている。
ブラウン管に映される虚飾の栄華、照されただけの光、アイドルやタレントと云う求め
られる役柄を演じる芸能人。電気の箱の中も、いつの誰が行なっても似た映像をくり返し
…。
これは今の映像なのか。いつの映像なのか。俺の記憶の中にしまわれていて、夢の中で
引き出しただけの物に、過ぎないのではないか。
現実感の欠如は埋まらない、一層深まり行くばかりだ。どれが本物なのか。どれも本物
なのか。それとも、どれも本物ではないのか。
困惑は終らない、終らない。その時だった。
ジリジリジリジリ。旧式な電話のベルの音。
彼が待ち焦れていた電話連絡だ。誰かとの・外界との接触。これこそ彼に、現実感を与
える物だ。貴昭の、全ての悪夢を振り払う救いの手になるべき、待ち焦がれていた物だ。
「はい、はいはい……うん、うん。えっ!」
だが、電話を受けた貴昭は、短い会話の間にもみるみる落ち着きを無くしていく。短い
応答の末、最後には受話器を叩きつける様に電話を切って、そわそわ動き始め。どうやら、
彼の目論見の通りに、全てが都合良く行ったと云う連絡では、なかったらしい。
『貴昭はいないよ。お前さんに会いたくない、会う必要はないからって、そういってね』
貴昭の父親は、村では裕福な部類に属する、大きな構えの旧家のその家の庭先で、彼女
の願いを最初からそう拒んできた。嘘ではない。
嘘で拒む事も考え得る状況だったが、父親の微妙なしぐさ・言い回し−親子とはどこか
しら似る−に、彼女は真実を感じ取れたのだ。
『上がっても良いが、家のどこを捜しても貴昭はいない。村のどこに寄ってもいない…』
貴昭と、つき合っていたそうだね。
貴昭の父は、年齢を重ねただけあって冷静に語るし、彼女の話を聞いてもくれるが、貴
昭本人ではない。
縁談を持ち込んだのは父親だが、それに服したのは、貴昭だ。それをひっくり返す術は、
彼自身との談判以外にない。別の縁談を持ち込んだ−それを進めていた−両親がどうして、
本人の反対もない縁談を取り下げ、彼女に味方するだろう。彼女には、貴昭が頼みの綱だ。
彼らには、貴昭を抜きにして行われる以上、この面談は『申し訳ないが(貴昭との仲は
諦めて)引き取ってくれ』と言う最後の文句を出す為の、その段階を踏むだけの応答だと
は、彼女にも解る。貴昭が同席しない限り、この問答は彼女には不毛で、殆ど無意味に等
しい。
それでも少しの迷いの末に、貴昭の実家に上がった彼女は、彼の両親とテーブルを挟ん
で向き合って。貴昭が押入の中にでも隠れている可能性は否定しきれなかったし、両親の
誠実な招きを拒む程彼女も血迷ってはいない。
村を外界と繋ぐ唯一の手段である一日二便のバスの一便目が村に着いて、狭く短いメイ
ンストリートを少し歩んで来ての事なので、この時点でも時間はまだ、十時前。貴昭が、
まだ社に着いていない頃だ。
『わしらは別に、あんたの事を、貴昭を惑わせた悪い女だと、思っている訳ではない…』
貴昭は、今でこそ、すっかり都会の空気に馴染んでしまって、村では逆に浮び上ってし
まう程だが、元々の育ちは田舎者でね。
馴染む迄は、孤独感に襲われたろう。手近な処に温もりを求めたのも、無理ないと思う。
こう言っては悪いが、あんたがその場に居てくれた事は、貴昭には非常に有難い事だった。
お陰であれは、精神的にも潰れずに、学生生活を送って来れて、この春にも卒業の見込
みとなった。感謝こそすれ、悪意は持たんよ。
『これは、その感謝の印として、あんたに受け取って欲しい』
父親が母親から取って彼女に手渡したのは、札束が入っていると思われる分厚い袋だっ
た。百万円で、きかなかろう。手切金という訳か。
『お金欲しさで、来たのではありません…』
彼女はそれをつき返したが、貴昭の父親はそれを受け取ろうとはせず、
『貴昭はあんたに、苦い思い出を残したままだ。銭で解決するという訳ではないが、心を
癒すのに、あって困る物ではなかろう』
金で失った全てを取り返せるとは、わしも思ってない。だが、出来る限りの誠意を示し
たい。自己満足だが、この位はさせて欲しい。
『私が求めたいのは、彼との話し合いです。もう一度だけで良いんです、もう一度だけで。
彼に、会わせて下さい。彼は』
彼は、どこにいるのですか。彼女の問いに、
『村のどの家を探してもおらんよ。あんたに会うのが怖いのか、家をも飛び出して行った。
余程、あんたを嫌う事情が、あるらしい…』
逆だと、彼女の頭に閃く物があった。違う。
貴昭の心はまだ決まり切ってない。或いは、彼の心は常に他人に流される質なので、下
手に逢って心を動かされるのを、恐がっている。
彼の心はまだ動く。動かされると本人自身が感じている。だから同席を拒んだ。顔を合
わせる事を嫌うのは、彼女を大嫌いだからではなく、彼女にまだ付け込む隙があるからだ。
貴昭の父は、息子がどの家にもいないと云い切った。その言葉には自信がある。嘘では
ない。だが、どこに行ったのか解らないとも、教えないとも、彼は言わなかった。彼女へ
の負い目が、誠実でありたい良心が、父親の言動を制約している。人の良さが、彼の弱み
だ。
知っている。父親は、貴昭の行き先を知っている。それを聞き出す事も無理ではない!
『あれは、あんたの事を、一言も儂らには話してくれなんだ。儂らもその積りで、この村
の流儀で、縁談を進めておったんだよ』
貴昭は、重大な局面では不要な程に慎重で、自分の意思を表さない。表さないというよ
り、確たる自分の意思を持たず、周囲の状況に合わせ流される事を望むと云って、良いだ
ろう。
貴昭は、両親のセットする進める縁談話を拒みもせず促しもせず、流されるままの一方、
彼女とのつき合いも又着かず離れずの『自然な関係』を続けて来て。
自然なと云えば聞えは良いが、惰性である。始りも衝動的な物であり、経過は誰が見て
も流れに身を任せただけの関係で、結末はこの状況を理由に別れると云いながら、現実に
は自分の主導権を全く捨て去る情けない男になり切る事で、彼女から切れるのを待つ姿勢
で。
意思がない。意思がないと云う事は、彼女の意思さえ強ければ、再び傾く見込もある?
『学業を終えれば就職して社会人だ。貴昭も一人前の男になる以上妻を持たねばならぬ』
そろそろ身を固めさせねばならん。それも、あれに相応しい家格と年齢と縁戚を見繕っ
て。
貴昭の両親は世代の故か、男も女も結婚して初めて一人前、相手の推挙や近隣への披露、
新居の設営迄が親の義務だと考えている様だ。
それも、一概には否定できないが、
『都会の方ではどうか知らぬが、田舎では今でも皆の視線が気になる。それでなくても刺
激の少ないこの村は、表向き温かな人間関係・家族的雰囲気と云うが、実際はえげつなさ
・醜さ・はしたなさばかり目立つ噂話で、時を潰す毎日でのぉ。あれももう、二十四だ』
『私は、二十六です』
思わず云ってしまう辺りが、若さなのか。
『貴昭の心は変わらんし、変えない方があれにも幸せだと、わしは思う。あんたとの仲が
嘘だったとか、騙されたとかは思っていない。
それなりに良い関係でも、あったのだろう。
だが、それでもわしや妻に一言もあんたの事を云わなかったのは、あれも長く続ける積
りがなかったから、結婚迄考えたつき合いではなかったのだと、云う事なのではないか』
『……』
一面で、それは事実かも知れない。貴昭は、このしがらみを押し返して結婚に突き進む
性分では、ないのだ。むしろこのしがらみに巻かれて、彼女を切り捨てる側に回りかねな
い。
その事態を避けるには、彼女が彼に付き添って離れず、彼女を切り捨てる事がより一層
面倒な結果を生む、無理なのだと、印象付けなければならない。そこ迄彼女は考えていた。
貴昭には、積極性が欠如している。積極性と云うより、義務とか責任感とか、否、意思
と云う物が欠如していると云っても良いのか。
プラスを作る発想も行動もがない代りに、マイナスを防ぐ発想も行動もない。
そして単なる消極性が、時には悪意以上に人を傷つけ、苦しめ、蹉跌せしめ、塗炭の思
いを味わわせると、彼は解っていない。不作為の起す悲劇は、自分のせいではないとして。
諦めがつかない、つけ様がない。彼は自分の意思で言葉ではっきり断った訳ではないと、
彼女は思っている。貴昭は、彼女から切れるのを待っている。散々挑発しながら、一撃目
だけは相手にさせて、責任を押しつける気だ。
『彼に、会わせて下さい』
彼女はもう一度そう強い口調で繰り返した。
『彼との話がつけば、私も諦めがつきます…。
でも、最後の最後にも会ってもくれないで、唯お金を渡されて、それで終りじゃ、私と
彼の過ごした年月とは、一体なんだったのか…。
彼に会わなければ、彼に会えなければ、私はいつ迄もこの恋に終止符を打てないの』
涙の操作は、彼女の得意技だ。
強く押せば父親が折れる、これは何の根拠もなかったが、息子を知る彼女の賭けだった。
強く押せば、押して流れを作り出した様に見せれば、それに逆らえない性質を彼女は、父
親にも見た様だ。恋する女の直感は、凄じい。
『お願いです、彼に会わせて。貴昭のいる所を教えて。話が終れば私は帰ります、もう二
度と彼に追い縋る事はしません。だから最後にもう一度だけ、彼に会わせて!』
勢いに流される貴昭の性分は、親譲りだったのか。貴昭の母は一言も言わず、必要時以
外は殆ど動かず、場に飾りとしてあるだけで。
彼女が村外れのその社に歩みを進めたのは、貴昭の行き先を聞き出して間もなくの事だ
った。もう貴昭の実家に用はない。彼女は、一本道を迷う事なく社の方角に向って進み行
く。
父親が貴昭に電話をかけたのは、この後か。思わず息子の居所を喋ってしまったが、そ
れは貴昭に、絶対に云わないでくれと重ね重ね言い含められた事であった為に(云ってし
まってからだが)父親も拙いと思ったのだろう。
貴昭の慌てぶりは、この『最もあって欲しくない』事態の為だった。彼女と二人−しか
も、余人を交える事なく。実家から逃げ出した時点で、この状況を招いた原因の一端は彼
にもあるのだが、彼はそれを忘れ去っていた。彼女は最悪の状況を好機にひっくり返し
た!
貴昭は、今更逃げ出す事も出来なくなった。社から村の方角に行けば彼女に近づくだけ
だ。反対方向に行けば、隣村迄更に山を越えねばならぬ。だが、座して待てば彼女は必ず
来る。
袋の鼠とはこの事だ。そしてその鼠を捉えに、猫がはるばるやって来た。森の奥深くで
ひっそり静まり返る、古びた社迄。
「貴昭……いるの? いるんでしょう」
空は灰色の雲が空を果てしなく覆い尽して、舞い散る雪は大地に記される全ての足跡を
消し去って。それは、彼らの過去をも消し去る積雪なのか。貴昭の足音は既になくて久し
く、吹き抜ける風は彼らの間の如く冷たく乾いて。
石段を上って鳥居をくぐり、正面に見える社に向かう。緩やかにパーマをかけた長い黒
髪が、吹き始めてきた風に揺らぐ。
「貴昭、貴昭……隠れても無駄よ」
彼女は社の正面に着くが、声に応える者はいない。神域の静けさが社とその周辺を包み
込んで、風が木々の枝葉を揺らせる以外には、音もなく。古びた社の、古びてはいるがま
だ朽ち果ててない、清楚さを感じさせる社の佇いを前に、何か心鎮められる物を感じ取れ
て。
『時の流れから、切り離されているみたい』
彼女の思いも、貴昭の行動も、その周辺の諸々も、全ては時という大河の流れに沿って
生れ消えていく、一瞬の泡の様な物に見えて。
威厳とか、神々しさとか、救いとかを感じた訳ではない。何か良い事があると思えた訳
でもない。何が祀ってあるのかも知らないし、何を期待してきた訳でもない。何を叶える
神様がいる所かも、知らぬのだ。ここに貴昭がいると聞いてきたから、来ただけで。
それなのに、否、それだからこそ。
彼女は自然に社に祈りを捧げていた。旧くからあり続ける物に対する敬慕の思いは、人
に備わる基本的な感情の一つなのかも知れぬ。魂の悠久さと永劫さを信じたい者は、他に
もそう言う例証を欲するに相違ないのだ。その様な物が殆ど皆無に近いと解っていても、
否解っているからこそ、一層強く強く。
それは何かを願うというより、何かを畏れ護りや救いを求めるというより、社の古さへ
の、その歳月と歴史の積み重ねへの、敬愛で。
人間同士で言えば、御挨拶か。それも年配だが好感を持てる品の良い人の宅を、初訪問
した時に近い感覚。始めまして、と云う感じ。
彼女は暫くの間、貴昭を追い求める熱い心を忘れた様に社に祈りを捧げていた。或いは、
彼女自身も少しの息抜きを欲していたのかも知れぬ。幾ら愛していても、二十四時間彼の
事を思い浮べているばかりでは疲れてしまう。その上、現状の二人は良好な関係ではない
…。
張りつめた風船は、いつか破裂する。叩きつけたい思いはあるが、今のこの焦げる様な
熱さを彼にそのまま持って行きたくもあるが、胃酸に胃袋が溶かされる事がある様に、彼
女自身もその思いを抱き続けるのは苦痛なのだ。
少しだけ、俗世の思いを全て棚上げにして、心を清浄に戻し、荷をどけて涼やかで軽快
な心に戻って。例えそれがまやかしで思い込みで棚上げに過ぎず、決着の先伸ばしでも。
人に休息は不可欠だ。体に眠りが不可欠な様に、心にも、のし掛る重圧を忘れ去るひとと
きが。
心機一転に、誓願や祈念の儀式を踏むのは、本来の視野の広さや深さを取り戻させ、心
を落ち着かせ、自己を過去を降り返させる為で。
参拝して、暫く身体を場の清浄な空気に預けて、少しでも心に休みを与えて、自己を振
り返って。これ迄の事柄を反復し、考察して。
『貴女にとって彼はどういう人だったの?』
どこかに問い掛ける声がある様な気がした。
そうね。彼女は少し考え込んで、
「何人目かの恋人、ってだけだったのよ、最初は。そんなに長続きさせる気もなかったわ。
嫌いな訳ではなかったけれど、大好きとか惚れ込んだとかって感じでは、なかったもの。
前の恋人と別れ−実際は振られ−て、落ち込んでいて、偶々同じバイト先で顔を合わせ
る関係だったから、慰められて、自然に、ね。
彼も丁度、恋人もどきの人に騙された後だった様なの。心の傷を嘗め合う為に始めた生
温かい関係って云えるわね。今となっては」
彼女の思いも、それ迄の熱く滾る心理状態に比すれば、意外な程に冷めていて。
『彼を、強く求めている様に見えたけれど』
「ええ、まだ諦めていない。彼はまだ、私との関係に未練がある。それが分かるもの」
彼女はそう言い切るが、
『そんな生温かい関係に、満足している?』
世間一般に云う愛情とは、ちょっと違う気がするけれど。それに、生温かい程度の関係
を繋ごうとするのに、随分一生懸命なのね…。
「頼れるのは、彼しかいないのよ。
勢いと偶然で始って、惰性と流れで続いた関係だけれど、時間をかけて培った物だもの。
女は、所詮女よ。緊急事態には、男がいないと、どうにも出来ない、どうにもならない。
今こそあの人の助けが必要なの。あの人の優しさが、強さが、今こそ私に必要なのよ」
何か困った事情があるらしい。それは貴昭に起因する物でなさそうだが、彼女を困惑さ
せている。助けて欲しい。そう言う事か?
「私は、あの人の助けが欲しいの!」
惚れている訳ではない? 愛とは違う…?
困り事から、助けて欲しいのか。
「面倒な、事情がある様ね」
その問いかけには確認程の意味合いもない。彼女にその事を思い浮べさせ、思考の表面
に出させる為の問いかけだったが、
「彼に、一番に相談したかった。彼に、貴昭に解決して欲しかった。助けて、欲しかった。
突然連絡がつかなくなって、私の前から姿を消して−いえ私の行く先々から逃げ回って
−最後には、逃げ帰る様に実家迄帰って。私が困っているのに、苦しんでいるのに、その
時、正にその時に姿を消してしまう。酷い」
目論見は外れた様だ。彼女の思考は、面倒な事情よりそれに対する貴昭の対応に流れて。
「それも、親に勧められて決まったと云う結婚の話迄、飛び出して来て。こうなったら」
私も引き下がれない。何も云わずに消えるのが優しさだと、彼は思っているけど−彼っ
てそう言う人よ−刺されたナイフを抜かれず傷口を腐らせる様な事をされては、堪らない。
「貴昭に、本当の優しさを見せて貰いたいの。彼の本当の強さを見せて欲しいの! 私
は」
「本当の優しさと、本当の強さね……」
真の姿なんて、見ない方が幸せかも知れないのに。人間見せてない物って云うのは大抵、
見せられない程醜悪だから見せないのだもの。それを敢て引っ張り出すのは、どうかし
ら?
気の抜けた声だった。それは彼女の間近から、耳に直接届いた声だったが、いつから…。
『いつから、私の心の中での自問自答が、問答にすり変っていたの?』
「どうして人間って『隠された本当』に拘るのかしら? 隠す理由があって隠された物は、
暴き出しても碌な事がないのが殆どなのに」
彼女の正面だった。社の建物の、扉だった。
賽銭箱の向こうに、神体の祀ってある社の古い木造の扉のあるその軒先に、部外者なら
神主や巫女に咎めだてを受ける、閉ざされた扉に背をつけて、一人の娘が立っている。
「夢を、見ているの、私……?」
彼女が驚きの色を顔に浮べたのは、当然か。彼女も社が無人だと思っていた。巫女の卵
の様な十三、四歳の娘がいる可能性等、頭になかったのだ。いるとすれば貴昭だけ、この
冬の村外れの社には、詣でる者とてなかろうと。
青天の霹靂と云っても良い。この寒さでも防寒着一つ纏う事をせず、巫女の装束のみで
足は裸足−靴下さえ履いてはいない。年齢に相応した小さな足首が、彼女の目には羨まし
い程の滑らかさと初々しさに満ちたりていて。
人間は理想にはなれない。理想とは幻想で、そんな美しさは本当には存在しない筈なの
だ。
沙紀は、そのありえない理想・美しさの一つの極みを現実に見せるが故に、現実感を欠
いているのだ。そんな物は現実にはないと云う整った容貌・端麗な容姿に、虚偽の香りが。
彼女とて、不美人ではないのだが、肌の艶や容貌や体付き、雰囲気が俗世を引きずって
いる。それは、俗世に生きる代償として天引きされた、その残りの美しさと云う事なのか。
生きて躍動し動ける物は、美しさを永遠に保つ事は出来ない。逆に、もっと別種の美しさ
へ、更に進化する可能性を持つ、その代償に。
陸の孤島で、こんなに自然に娘が現れ話しかけて来るなんて。本当にこれは現実なのか。
だが、娘の方に困惑はない。それどころか、今迄の事情を全て知っている口ぶりで。巫
女の衣装と思しき白と朱の和服姿で、寒風吹きすさぶ厳寒の中でも震える様子もなく平然
と、
「夢でも現でも、同じよ」
呆然と見つめる彼女の視線を見据えて娘は、
「夢でも現でも、貴女は貴女でしょう。私は、私よ。夢でも現でも、怖い者は怖い。嫌な
者は嫌。貴女の行いが事の先行きを変える原因になり得る、その事に違いはないわ。ね
っ」
君子さん。
いきなり娘は彼女の本名を言い当てた。君子がその事に驚愕する間もなく娘は、数十セ
ンチ高い木の床から軽く一息で飛び下りて、彼女の間近に飛び降り−何と言う身軽さ−風
を胎んだ和服の裾と袖の脹みを抑えつつ、
「私は沙紀。瑞穂神社の神域と聖域の管理者。
始めまして。そして詣でてくれて有り難う」
最近は夏場でも、詣でる人が少なくなっていたから。神様なんて今時流行らないものね。
悠久の長さを感じさせる双眸なのに、語調は現代っぽくて世俗的で。神聖さを感じさせ
る整った顔立ちに、躍動的な動きが同居して。
だがその全体に、不変不朽の悲しみが宿り。
果して君子はそれを察知できていただろうか。
君子は言葉もなく立ち尽すのみだが、沙紀はそんな常人の反応には慣れっこなのか、我
を失った君子に不審を抱く様子も叱責もなく、
「暫くぶりよ、村人以外の訪問者は。その上、祈ってくれるなんて。村人でも、冬には寄
りつきもしないこの山奥に。さっきの彼なんて、立ち止まりもしないで行っちゃったわ」
それ以上、何も云う必要はなかった。
「彼は……彼は、来ていたのね!」
貴昭はここにいる、脇の小屋にいる。閃いた瞬間、彼女はそれ以外は何も頭になかった。
全ての疑問や思索や可能性は脇に追いやられ、彼女を駆り立てるのは盲目的な激情で。も
う、目の前にいる妖しげな娘の事等、眼中にない。
君子はつんのめる様に不自然な前傾姿勢で、十数メートルも離れてない小屋に駆け寄っ
て、
「貴昭、貴昭……貴昭!」
答はない。積極的な答がなくても、彼らの状況から考えれば当然なのかも知れぬ。そう
思ったのか、彼女は答を待たずに小屋の戸を開けに掛る。いかにもしぶそうな古い木製の
戸は、しかし意外な程に簡単に開いて。
「貴昭っ……! ……いないの……?」
答がなかっただけではない。戸口から一望出来る余り広くない室内には、人影もなくて。
だがこの暖かい空気は、確かについさっき迄ここに誰かが居た事を物語っている。スイ
ッチを切られぬ儘娯楽番組を映し出すテレビ、誰もいなくなっても室内を照し続ける白熱
灯、未だコップの中で湯気を上げて居るコーヒー。
ここに少し前迄誰かが居た事は間違いない。そして、それが沙紀だと云う可能性を、彼
女はなぜか確信を持って排除出来た。沙紀には、生温かく淀んだこの室内の空気は似合わ
ない。
似合うのはむしろ、煮えきらぬ言動で状況が自分をどこかに運んでくれる迄待ち続ける、
貴昭の様な人間だ。彼が居そうな所だから、彼が居た様な気分がある。彼がそんな匂いを
持って居るから室内が彼の色に染まっていく。
何とも強引で、理屈にもならない感覚だが、それは見事に真相を言い当てていた。
少し前迄、彼はここに居た。確かに、居た。
『貴昭のお父さんが、電話を入れたのね…』
そうでなければ、君子の接近を貴昭は知り得ない。予期せぬ訪問者に、驚愕する貴昭が
いる筈だ。父親の一報で、貴昭は急遽ここを引き払った。部屋の乱雑さがその傍証である。
置きストーブのスイッチも、切られてない。電話の受話器も、ほうり捨てられた儘であ
る。余程慌てふためいて部屋を出たのに相違ない。
受話器を戻し、ストーブのスイッチを切り、白熱灯を消してテレビの電源を切る。貴昭
のやり残しの始末は、どこかで貴昭に繋って居る錯覚を覚えられた。ストーブの場合、火
事を防ぐ意味でも、忘れてはならない事の筈だ。
『ここから万が一火が出て神社が火事にでもなったら、貴昭の責任になってしまうのに』
そうなっても、彼は言い訳するのだろうか。
仕方なかったんだ、あの時は急いで君子から逃げ出さなければ、父親がこの場所を彼女
に云ってしまったから。全て俺は悪くないと。ストーブを消し忘れた責任は、彼の物なの
に。
『世間には、悪意で為してなくても悪意で為した場合より更に酷い結果になる事もある』
彼が、彼女に為した仕打ちの様に。
彼女が、彼に為した行ないの様に。
「どうしても、逢ってはくれないの」
諦める気持ちはない。彼に会いたい思いには揺るぎもないが。先手先手と逃げ回る以上、
地元で彼を捉えるのは容易な事でなさそうだ。恥も外聞もなくとは、今の貴昭の事なのか
…。
『貴昭、貴昭……。一体、どこにいるの?』
どこかで脇に隠れ、君子の行き過ぎるのを待って村に戻ったのか。彼女の接近に怯える
余り隣村迄走り去ったのか。境内の中のどこかに身を隠して居るのか。それとも、彼女の
知らぬ地元の者だけが知る脇道でもあるのか。
貴昭が現状でどこに行けるのかも分らないでは、追いかけ様がない。この辺りの道も…。
! 君子は、バネ仕掛けとなって小屋を飛び出していた。そうだ、あの手が残っている。
君子は小屋に来る時と同じ前傾姿勢で、十数メートルの距離を駆け抜けて、社の正面に
戻って来る。君子の捜す頼りの綱は、
「沙紀、沙紀っ! どこにいるのっ、沙紀」
貴女、貴昭を見たんでしょう。知っているんでしょう。教えてっ、彼はどこに行ったの。
「彼は今、どこにいるの? 彼は今、どこ」
駆け寄る君子の前にあるのは、空虚な沈黙。
姿がない。いない。どこに行ったのか。否、最初からこの僻地の社に、あんな軽装の娘
がいる事自体、あり得ぬ幻想だったのでないか。心の高ぶっていた君子の見た幻想なので
は?
『足跡は、ある。でも、途中で断ち切れて』
始りは社の正面の扉の真ん前から唐突で、終りは君子の立っていた場所の至近で、突如。
その前も後も、積雪で埋もれたと云う訳ではない。どこかから来た訳でもなく、行った
訳でもなさそうだ。なくなるなんて!
『私は、確かに言葉を交わしたわ。
確かに、いたの。十三、四歳の女の子が』
でも、誰が証明出来るだろう。誰が沙紀の存在を確かめられるだろう。誰も、いない…。
「だって、足跡が!」
そういいかける君子に、
『足跡? 何のこと』
心のどこかに、響く声。
君子は思わず足下を見る。見て、驚愕する。
足跡が、降って来た新雪で消えて行く。
貴昭の足跡もそれで消し去られ、行き先が分らなくなった。連日雪が降り、風が大地を
洗う中、記された足跡が残り続ける訳がない。
全てが、忘却の彼方に消えて行く。君子の求める物が、彼女の視野から遠ざかって行く。
「貴昭、貴昭はどこなの。教えて、教えて」
焦りを帯びた叫びに、微笑みを含んだ声が、
「そんなに彼を、追いかけたいの?
そんなに迄して彼に逢いたいの?
そんなに迄して、彼が貴女に再び振り向いてくれると、本当に思っているの?」
それは、君子の心の奥底での、反問なのか。
「ええ、逢いたいわ。その為に、私はわざわざここ迄来たのだもの」
どうしても彼に逢いたいの。私は諦めない。
君子は己の思いを噛み締める様に確認するが、
「恋は盲目、確かにそうかもね。でも人生は、盲目の間も待ってはくれない。この間にも
−盲目で実りの少ない恋に溺れている間にも−、貴女はもっと大切な出会い、もっと素晴
らしい何かを、逃しているのかも知れないのに」
そういう視野の幅を持てぬ辺りが、盲目か。だが本当に盲目の恋に浸る事は幸せなの
か?
『彼は貴女が来ると知るや否や、この醜態を晒し逃げ出した。それでも、諦められない?
彼は貴女が思う様な、全く意志の欠如した、思考停止人間ではない。そう装う事で、巧
妙に世渡りしている。彼は、猫被り謀略人間よ。
自分が積極的に関らない事で、結果は同じでも全ての非難を弱め受け流し、生きて来た。
貴女もそれに気付いているのではなくて?』
君子の心に突き刺さる分析は、彼女自身が為した物なのか。それとも誰かの囁きなのか。
誰かとすれば、それは悪魔なのか天使なのか。
「逢いたいの、どうしても逢いたいの。とにかく私は、逢いたいのっ!」
君子は絶叫した。今の彼女には、それ以外の反駁の術がなかったのか。
「理屈じゃない。逢いたいの、話したいの!
このままじゃあ、私自身の心に整理がつかない、決着がつかない。彼に会わないと、私
はここから進めないの。それが『終り』に繋るのだとしても『終りの始り』だとしても」
進めないと、終れない。私は新しい始りに、いつ迄も辿り着けない。私は何にも進めな
い。
「可能性がある限り、私は捨てられないの!
彼との、貴昭との繋りを取り戻す芽があると、私のどこかが思っている限りは、私はど
こにどう逃げ出しても、何も始められないの。
諦め切れない、諦められないわ!」
非合理かも知れない。無理を求めているとは、半分君子自身も分かっている。
だが、人は感情から足を洗い得ない存在だ。彼女の行いは思いは、理性的とは言えない
が、感情のどこかに響く何かを持っていた。それこそが、切なく身を焦がす恋心なのか。
「お願い、姿を見せて。そして貴昭の居所を教えて。私には、もうどうにも出来ない…」
社の正面で泣き崩れる君子の耳に、沙紀の声が肉声として聞えて来たのはその時だった。
「仕方がないなぁ……」
その声は、余り気乗りしない様な男言葉で、
「別に、助けてあげないといけないって程の義理も恩もないんだけれど、成り行きだし」
貴女は社に祈りを捧げてくれたし、ストーブの火を消してもくれたから。
君子がそれをせねば、沙紀が消しただけだ。
恩義と言う程の物ではない。だが、好意には好意、誠意には誠意、真摯な求めにはそれ
に相応しい答を用意したいのが、人情だろう。 沙紀が、貴昭より同性でもある君子にや
や好意的でも無理あるまい。若干の好意と好奇心で、沙紀が動くかどうかは微妙な辺りだ
が。
慈善事業ではない。沙紀には沙紀の目的があり、意志がある。君子の願いを受けて動く
かどうかは、沙紀の心一つだ。君子はそれを信じ待つだけの無力な立場に置かれて。大体、
君子は沙紀の実態を何も知らないに等しい…。
「祈りなさい。そこで、正面の社に向って」
沙紀の答は簡潔だった。
「それが願いの成就に直結する訳ではないけれど、貴女がここを動かずにいれば、彼の方
からここに戻って来る様にしてあげるから」
沙紀の姿は遂に見えなかった。気配だけが周囲を吹き抜け、消えていって。君子は一人、
残された。頼れるのかどうかも定かならざる、否その存在自体疑わしい、常識ではあり得
ぬ筈の、沙紀の口先を信じる他にはない状況で。
君子は、いつ迄信じて待てるだろう。
『でも……憶えて置いてね、君子さん。
私は彼を導くけれど、彼の心がどこを向くか迄は、保証出来ない。彼との再会が貴女に
幸せなのかどうか、会えて良かったと貴女が思えるかどうか迄は、私の領分ではないの』
事実は、時に人を一番傷つける。
人が見ない方が良い事実も世にはある。
事実を見ない方が良い人も世にはいる。
真実と言う幻を人々が乞い願うのも、多くの者が事実の厳しさに耐え得ないから。現実
を受入れたくない人が、幾つかの事実を繋ぎ、都合の良い幻を描く。それを人々は真実だ
と云うけれど、本当の真実はそんなに甘い物ではない。望まれる程に素晴らしい物ではな
い。
『無理して厳しい事実に直面する必要はない。或いは、厳しい現実に直面出来る己ではな
い。
そう思ったなら、いつ帰っても良いから』
いつ、帰っても良いから。
そう言われて尚待ち続ける者だけが、何かを得られるのかも知れない。得られた事実が
本人の望んだ結末なのかどうかは、別として。
君子は立ち尽したまま、祈りを捧げ始めた。
「風が、出て来たのかも知れないな」
貴昭が部屋を出たのはその三十分前だった。冬季には、三時間近く掛る社への道を、彼
女がかなり進んだ頃に貴昭に電話が来た事実が、息子に良く似た父親の性格を、物語って
いる。
積極的に動けない、動かない。手遅れになる迄悩んで悩んで、悪意はないが、結果最悪
に近い状況をもたらす。彼の父は自らの失態を伝えるのに、二時間近い逡巡を必要とした。
だが、貴昭の決断と行動は電光の如く素早かった。人を苛立たせる程に鈍重でも、自ら
が追いつめられると大胆な即決を行えた様だ。
『村道は使わない。間道を伝って、村迄行く。そうすれば、君子に会わずに実家に戻れ
る』
君子は、俺が実家に戻る事も知らなかろう。
卑怯・酷い等の言葉が心の片隅にあったが、彼はそれを踏み潰した。君子と会わずに済
むならそれで良い。問題は、夏ならばともかく、山と谷を一つずつ越える間道を、吹雪に
近い状況で、強行突破出来るのかと云う辺りだが。
『ガキの頃、夏に何度も近道で通った事がある。俺は地元人だ。それに、昔と違って今の
俺は大人で体力もある。何とか出来る筈だ』
どの位進んでからだろう。段々風が強くなって、一層雪の降りが激しくなって。氷雪の
張り付いた森の木々が視界を遮り、曲がりくねった獣道は見えぬが故に先行きが果てしな
く感じられ、彼が疲れを覚え始めて来ていた。
「貴昭さん……」
後ろから、幼子の声が聞える。
否、聞えた気が、しただけか。それは貴昭の空耳なのか。いや、確かに聞えた様な気が。
『君子の、声ではない。誰だ?』
彼は振り返って見る。見るが、誰もいない。
いる筈がない。常識で考えてもそうだろう。
この真冬に、こんな森深くに誰がいる?
子供だって、もう少しましな遊び場を捜す。
「そうだよな……ああ、いる筈ないものな」
心のどこかに燻る不安を押えつける呟きを貴昭が漏らしたその時、その耳に再び、
「空耳じゃないよ」
又声がする。これも彼の頭の真後ろからで。
又彼の後ろから。彼は振り返っていたから、さっき迄の進行方向、それもごく近くから
だ。
彼は即座に振り返った。今度は確かに聞えたと、目玉が血走って叫んでいる。だがその
彼に見えたのは、雪降り積る森の静寂だけで。
風は出て来ている。木々の枝がどこかで軋む音も届いている。だが森の奥では、風はそ
の威を失うらしい。動物の姿もない冬の雪の日の森は、非生物的な静寂に支配されていて。
「(これは)幻聴って、奴なのか」
彼はその声に聞き覚えがある。つい最近聞いた事のある声だ。君子の声ではない。だが、
「あの声と同じだとしても、あの声自体…」
「幻の声だったのかも、知れないね」
恐る恐る呟く貴昭の耳元で、はっきり言う。
右の耳の至近で明確に聞えた声に、心臓を握り締められた思いで左に飛びのく貴昭だが、
そこには誰の姿もなくて、
「お前は一体、何者なんだ!」
いないかも知れない相手に向かって、彼は怒鳴っていた。心の均衡が、脅かされている。
誰もいない森、誰の援けもない森、沈黙の森。
誰かもう一人、誰かもう一人人間がいれば、正気を強く保っていられると彼も思うのだ
が、
「人との繋りを軽んじ、非情に断ち切って逃げ出してきたのだもの、誰もいなくて当然」
声は左からもする。否、それは本当に耳に聞えた声か。己の罪悪感の声ではないのか?
そう思う瞬間を待っていたかの様に、
「じゃあ、それに怯えている貴方は、悪い事酷い事をしたって云う事に、なるのかしら」
どの方向からも責め立てられる様な気がして、貴昭は一歩も、どこにも進めなくなった。
否、責め立てる声でない事は読者にも分ろう。そう思い込んでしまうのは、彼に罪の意識
があるからだ。衝撃は等しく来ても、傷口にはより一層響く。結果傷口を狙った様に見え
る。
その効果迄見込んで選んだ言葉ではあろうが。
「お、俺は何も、悪い事なんかしてないぞ」
「ならば、何も、怯える事なんてないのに」
どこから聞えて来るのだ、この声は。どこに行けば、この声から逃れられるのだ。
「逃げ切れはしない。貴方が向き合おうとしない限り永久に。貴方の心に潜む物だもの」
それこそが、貴昭の最も忌むべき事なのだ。
「貴方は誰かを恐れているのではない。自分の過去に降り回されているだけ。誰かが見せ
た幻ではなく、自身の心にあるの。だから」
いつ迄も、逃げ切れる筈がない。その幻を振りきるには、逃げるのでなく向き合わねば。
中途半端な善意と責任放棄では、後味の悪さはいつ迄も拭える筈がない。
後ろから平静な、だが冷たく突き放す声が、
「君子さんが、待っているわ。逢いなさい」
「わひ、わひ、わひいぃぃぃっ!」
嫌だ、嫌だ。嫌だあぁぁぁっ。
貴昭は一目散に走り出した。だが、その場に居たたまれなくて走り出した彼だが、彼は
一体、どっちに向かって走り出したのだ?
奥の見えない森を本能的に拒絶して、今迄通ってきた山道を選んだ彼だが、彼は正確に
前後を知覚していた訳ではない。
立ち止っていたのが何分だったかは定かでないが、降雪は彼の足跡さえ消し去っている。
だが、前後の違いは重大だった。彼は常にその場その場の応対で、先を考えなかったが、
この時になってその発想の清算を迫られる…。
彼は必死に走り行く。目に映る木々の枝はどれも同じに見え、それ故にいつ迄も逃げ切
れた感覚がなくて。逃げ切れた、振り切りつつあるとの実感がなくて。
振り向けば、歩み来た時の風景と同じだと気付き、正気を戻し、引き返したかも知れぬ。
だが、彼にその勇気はなかった。自分の罪悪感を呼ばう得体の知れぬ者に向き合う勇気、
自身の怯える心を正視して冷静さを戻す勇気。
それらを持てない時、人は無限に弱くなる。他人に向き合う前に、自分に向き合えぬま
ま。
「人はどこ迄も脆くなれる。どこ迄も強くなれる、その可能性の代償に」
貴昭が走り去ったその後ろに、沙紀は一人空に浮んだ実体を見せ、静かに山道の雪の上
に脚を降ろして、微笑み混じりにそう呟いて。
丁度その頃、二便目のバスから下りた一人の男性がいた。村の者でないのにこの僻地迄、
何の用があっての来訪かと訝る村人を尻目に、彼は村に数少ない商店の軒先で、何かを尋
ね。
着いたバスはそのまま、ここが始発となる復路の便に早変りする。出発は、十五分後だ。
村はこれで翌朝迄、外界から閉ざされる。
深い森は突き抜ける数秒前迄、縁にいる事さえ分らない。樹海の縁迄辿り着きながら力
尽きた人が発見される例が多い事でも分ろう。
化け物から逃れる様に、前も見ずつっ走っていた貴昭が、唐突に視界が開けた事を悟る
のと、物音と気配からそこに視線の向いていた君子が事態を呑み込むのは、殆ど同時だっ
た。貴昭は獣道を伝い社に戻っていたのだ!
二人の間に、暫く言葉はなかった。相手を、唯見つめ合うだけで、金縛りにあった様で
…。
「沙紀が、連れて来てくれたの。有り難う」
君子は溢れ出す涙を拭いつつ、貴昭に歩み寄る。思わず一歩退いて、後ろに意識の集中
する貴昭に、先制して君子の声が、
「逃げ出すの? 私に会って、しまったのに。
向き合って尚逃げ出すのに、失敗したのに」
逃げられなかったのに、それを繰り返すの。
彼女は知っていた。貴昭は、高圧的で高飛車な姿勢に弱い。全てを見通した口調、成り
行きを知り尽した態度、逃げ道をも塞ぐ機微。それらを使えば、彼は意外とあっさり屈す
る。今もこの通り、貴昭の動きはその一言で呪縛されたに近い状態で。諦めが異様に早い
のだ。
運命と云われればすぐ従ってしまう。故に、両親から決まった婚姻を示された時も彼は
…。
「そうよ。貴昭は、逃げたりしないものね」
問題は、これは彼の意志を押え込むだけで、彼の意志を欲する時に使えぬ手法と云う事
で。彼女が今欲しいのは彼の積極的な意志なのだ。
「逃げているのは、俺だけじゃない」
追いつめられた。だが、その意識が貴昭を、窮鼠に変えた。今度は、猫が立ち竦む番だ。
「お前だって、現実から逃げているだろう…。 終った恋、実りないと分った恋を、お前
だけ認めない。俺はもう駄目だと云ったのに」
彼も知っていた。君子が、貴昭に常に選択を全て任せる事で責任を被せ、義務も背負わ
せようと策動して居る事を。彼女が自分で決断した事は一度もない。常に貴昭の名を使い、
彼の決断を促し、彼に動かせ、成功の果実だけ貪って、失敗や後始末は全て彼にお任せで。
彼女は自分では、何もしたくない。彼女は都合の良い男を、手放したくないだけなのだ。
君子は彼の気の弱さに付け入っているだけだ。
俺をそんな犠牲に巻き込むのは止めてくれ。
「違う! それは貴方が」
「そうやって、すぐ人のせいにする」
「それは貴方のやり口よ」
「君だって同じ事をしたじゃないか」
二人の間に幾度かの怒号が飛び交った。現実認識が違う、違う、違う。悪かったのは常
に相手のせいで、自分は常に誠実で、現実に即していて、相手は逃げ続けているだけだと。
だが、話が入り組めば入り組む程に、それはどっちもどっちの、底なしの泥沼の様相を
呈して来て。相手の本性を暴き、相手に本性を暴かれて。『本当』に拘り『飾り』を全て
剥ぎ取った『自然』な人格が露にされた時程、人が醜く浅はかに見える時はない。
卑怯・臆病・邪悪・無責任・無分別・嫉妬。
それは誰にでもある、本来人間が持つべき自然な感情の一面だ。それを見せたくなくて、
見られたくなくて、懸命に努力する部分にこそ人の美しさもある。怯えながら震えながら、
必死に立ち向う決意にこそ人の強さも見える。
その上で、怯え震える本音を抉り出しての非難に、どれ程の意味があろうか。虚飾でさ
え、劣悪な真実よりましな事は多い。
沙紀は云った。『本当』にどれ程の値打ちがあるのかと。それは一つの卓見かも知れぬ。
それでも人は『本当』を欲するのだろうか?
そこ迄追い求めずとも『本当』は相手の言動に満ち満ちている。充満し、滞空している。
雰囲気に生活の端々に滲み出ている。捜さなくても、見れば分る。眼に決して見えぬ物を、
見つけ出そうとする辺りに、落とし穴がある。
誰にも分らない何かを、自分だけ分ろうとするのは無意味な挑戦だ。誰もが分っている
筈の、当り前の物事の再認識が、人を深く広く豊かに作り替える。
君子と貴昭の関係も又、素直に見れば?
「助けて欲しいの! 赤沢さんが、彼が…」
つけ回して来るの。迫って来るの。部屋の中に迄入った址があるの。四六時中つけ回さ
れている感じがあるの。怖いのよっ。
「一人でいられないの。夜は庭先に人の気配があるし、昼間に人といても遠くない範囲に
視線を感じるわ。どこにいても、誰といても、駄目よ。彼の視線の範囲から逃れられな
い」
彼女の抱えていた悩みとは、この事なのか。その事に話が及ぶと貴昭の声も強張って来
て、
「お、俺は知らない。俺は知らない」
警察にでも頼めば良いじゃないか。
貴昭の常に人任せな姿勢を象徴する口調に、
「警察は犯罪を犯す迄は動かないの!
そして犯罪は、為された後じゃ遅いの…」
それだけではない。君子は、貴昭に解決させたいのだ。危機を共に乗り越える事で一体
感を取り戻し、貴昭を『足の洗えぬ』関係に引きずり込もうとの意図が彼には読み取れた。
「冗談じゃない、どうして俺が」
危険を逆用して、付き纏うのは止めてくれ。
それは俺には、関係ない。口ごもる貴昭に、
「彼は貴方が友人だと紹介した人じゃない!
もう終ったなんて、云わせないわ」
詰め寄る君子に、貴昭も応戦して、
「お前だって、あいつとデートしてたろう」
「あれは貴方が誘った事じゃない。突然貴方が風邪だって休んで、チケットが勿体無いか
ら赤沢さんにって渡したのは、貴方でしょ」
「楽しんだって、俺は聞いていたが」
「貴方への当てつけよ。それ位分らないの」
分ってない筈はない。貴昭は自分が持て余した君子を赤沢に譲り渡そうとしていたのだ。
とんでもない奴に、恋人を委ねてくれた…?
『違う。最初から、最初からその気だった』
彼女の頭に沙紀の言葉が、閃光を走らせた。
【彼は、思考停止人間じゃない。むしろ…】
猫被り謀略人間。貴昭は困った末に赤沢に君子を売渡す事を決意したのではない。彼女
を売る為に赤沢と云う買手を捜し出したのだ。
『男は女を遠ざける為に女の禍となる別の男を宛てがった。女はその禍に男を巻き込む事
で禍を転嫁し、自分の幸せを掠め取ろうと』
美しい恋愛、本当の強さ、強い信頼。さあ、『本物を見せて貰うわね。求めに求めてい
た、本物を。相手のも、自分のも』
「赤沢からもそう聞いたんだ」
貴昭がそう答えるのに、
「それは、彼は嬉しかったでしょう。でも」
私は貴方と居たかったの。貴方だけと!
「……俺に、何を求めて居るんだ」
「貴方しか居ない。貴方しか頼れないの!」
助けて。その意志・力・知恵・勇気を見せて欲しい。私と、私の中の私達の子供の為に。
貴方が私との関係を面倒がって、精算する為にあの獣を呼び込んだ悪事は、忘れてあげる。
「な、何を云うんだ……途方もない、話を」
ぎょっとした答を返す貴昭に、君子は強く、
「分らないとでも思っているの、貴方の考えそうな事位、私に分らないとでも思って?」
今の今迄、沙紀の示唆がなければ気付きもしなかったろう赤沢の一件の裏幕を、如何に
も前々から見抜いていたかの如く勝ち誇って言う君子だが、貴昭の反撃は思わぬ処からで、
「女は、妊娠したと云えば必ず男が責任を取ると思っている。お前は、そうやって俺を追
いつめれば、何でも云う事を聞くでくの坊になると思っているだろうが、大間違いだっ」
今度は君子が青ざめる番だった。決定打を、これは彼女が貴昭を締め上げ、よりを戻さ
せる為の必殺技になる筈だった−を粉砕された。
「お前が、妊娠した事を一日でも俺に黙っていられる訳がない。その位は俺にも分る!」
だが、この反撃は少し早過ぎた。手順を間違えた。彼は嘘でも、赤沢との関与を先に否
定するべきだった。この反撃が、赤沢との関係の真偽をごまかす(=認める)物になって
いたからである。君子がその尻尾を掴み損ねる筈がなかった。貴昭が、君子の妊娠の嘘を
喝破せずには置かなかったのと、同じ条件で。
「貴方は、あの男を私に廻そうとした事を認めるのね。あの卑劣な行いを自供するのね」
「お前こそどうなんだ。俺の問いかけには答えてないぞ。妊娠したのか、してないのか」
双方の論駁は、互いの傷を綻びを突き合う醜悪な物に変じて行った。しかも、その人格
攻撃に近い暴露合戦は、どちらかが汚い攻撃を止めて受け手に回ったが最後、弁解の余地
もない故に、双方共相手の落度の更なる暴露に熱を上げなければならない有様に、陥って。
「私の事は脇に置いて。女なら誰でも使いたくなる言い訳じゃない! 本当に恋した男を
落すのについつい手を伸ばす手段の一つよ」
「女はいつもそう言って責任を逃れる。結局、面倒な物は全て男に背負わせたいんだ。面
倒な物を背負い込む都合良い男にしたいんだ」
「貴方こそ、卑劣と云う言葉が泣き出す程の醜さよ。自分で別れを云えないから、私の目
線を逸らす為、あんな獣の様な男を用意して。責任逃れはいつの世でも男の常套手段だ
わ」
「俺は、お前に一目会って話をしたいと言う赤沢の求めに答えただけだ。女に恋するのは
男の権利だ。渡したくない女なら、俺は繋ぎ止める。俺はそう迄する気にはならなかった。
熱冷めた恋を終らせるのも、万人の権利だ」
あんな狂気じみた奴だと思わなかったんだ。
貴昭は心の奥底で独白するが、それこそ彼の常のパターンではないか。悪意はないのに、
悪意以上に悲惨な結末を呼び込んでしまう…。
「私は、そんな貴方を見に来た訳じゃない」
私は、貴方に立ち上がって欲しいの。強く雄々しく、私を護って立ちはだかって欲しい。
「俺がどんな男かを知った上で、そう言うか。お前は俺がどんな男か本当に知ってるの
か」
ここに君子の悪癖が出ている。本当を求める余り、相手の本当を抉り出そうとして意に
沿わぬ本当を掘り出してしまう。するとそれは贋物だと否定して、自分の意に添う迄相手
を果てしなく追い続け、抉り出し続け。それが相手をどれ程苦しめ傷つけるか知りもせず。
ない物を出せと云う求め程厳しい要請はない。
ない物はないのだ。幾ら掘り出そうとしても、幾ら出せと迫っても、ない物はないのだ。
「俺に多くを求めないでくれ。俺は人に与えられる物なんて持ってない。欲しい位さ」
俺は人の絡み全てから逃れたいんだ。もう、愛憎の絡みに巻き取られるのは、御免だよ
…。
君子は、君子の人生を恋を、生きてくれよ。
「私は嫌なの。貴方が欲しいの。私は、誰か頼りに出来る人がいないと心細いの! 私は、
もう騙されるのは沢山。貴方の様な、人を騙す意欲にも欠けた人でないと、いられない」
私の全てを預けてしまえる人でないと、嫌。でも、私を喜ばせるだけ糠喜びさせておい
て、気付いた時には立ち去っている人はもっと嫌。
「やっぱり責任放棄じゃないか」
「貴方に今更、人の事を云えて」
責任を取ってよ。赤沢を何とかして。
「恋愛は自由だ。法律違反なら警察に行け」
「貴方が呼び込んだストーカーじゃない!」
「俺の実家迄追って来るお前はどうなんだ」
二人の応酬は、人間の泥沼をこれでもかこれでもかと云わんばかりに見せつけて、非常
に単純な結末を見る。貴昭は取り縋る君子を振り払って去り、君子は座り込んで泣き伏し。
「これが『本当』なんだと納得出来れば良いんだけどね。責任を嫌う末が最も嫌う結末に
繋る悪夢の連鎖と云う例を目の当りにして尚、本当を求める悪夢の連鎖に、拘るのかし
ら」
社の屋根の瓦の上に座った沙紀は独白した。
雪は一層激しく降り、時の流れはどんな心の傷も風化させる唯一の薬だと、言い聞かせ
る様に時計の針を進め行く。雪はその秒針か。
「人任せにしたい者同士の、結末って訳か」
自分が終らせるのが寝覚め悪く、今も君子を突き返すでなく、置き捨てて帰ってくれる
のを待つだけ、止めを刺せない貴昭と、赤沢の一件を警察に通報するのさえ嫌がり貴昭に
縋り、人生その物を貴昭におんぶしたい君子。二人共、事の対処とは最終的に、自ら决さ
ねばならないとの世の鉄則に、背を向けたまま。
「人任せな間は絶対に、誰も先へは進めない。道は勝手に開けても、進み出すのは自らの
足。何かに押し出されただけの進歩なんてないわ。最後に進む決意のない進歩は、全てが
虚飾」
先に進んだ積りでいても、何も変ってない。人が何よりも、それを良く証明しているの
に。
だが、沙紀にさえ予測もつかない事はある。開けぬ道を押し開き、先行きのない道に割
り込んで、自らの意志を押し通そうとする者の登場は、その意志に欠ける者と同じ位面倒
で。
置き去りにされて泣き伏す君子と、冷やかにかつ興味深げにそれを見つめて動かぬ沙紀。
その二人を包み込んで、雪嵐が近付いていた。
沙紀が語りかけても暫くは、彼女は泣き伏したまま、低い嗚咽を漏らすのみだった。答
えたくないのと、答えられぬのと。彼女の事情を知悉する沙紀に、貴昭との成り行きを全
て見つめていた沙紀に、向き合うのが怖くて。
醜態だった。見せられないやり取りだった。
全てを賭けて、これに失敗すれば文字通り彼との繋がりが切れると思ってへばりついたが、
とてもだが人に見せられる様な情景ではないと、自分でも思う。その上で何もかも失って。
この上更に君子の前に現れる? 何の為に。君子を嘲り笑う為? 君子を苦しめる為
か?
「諦めは、やっぱりつかなかったみたい…」
沙紀の口調は何やら、預言者を連想させる。冷静で穏やかなだが、その平静さ故に冷や
かで皮肉っぽく、嫌味にも聞えるのだ。これは、受け取る側の心理の問題なのかも知れな
いが。
君子には、沙紀がこの悪い結末を導いた様な錯覚さえ、感じられて。八つ当たりである。
理に叶ってないが、誰かのせいにしないと気が納まらない。荒んだ心は、腫れ物にも似る。
「君子さん、もうすぐ日が暮れるよ……」
「これ以上、何も、話しかけないでっ!」
『貴昭、貴昭、貴昭。私の貴昭じゃないわ』
あれは違う。私の求めていた、彼じゃない。赤沢から私を護ってくれる彼ではない。婚
約を決然と断って私を連れ去ってくれる彼では。
【そんな彼なんて、どこにもいないのに】
それは、君子の中の声だったのかも知れぬ。彼女自身、見たくない結果を見せられて悲
嘆の淵にいたが、逆に現実を見た事で、自分のどこかに冷めた何かの呟きを移植出来た様
で。
そんな、現実に流される自分も嫌いだった。自分の望み通りに展開してくれぬ現実もそ
う。貴昭も沙紀も、自分も何もかも大嫌い!
「ここにいると、凍えるよ。冬の夜は寒い」
身も心も冷えきったわ。君子はそう傍白し、
「貴女は冷たく笑うのでしょ! 私の徒労を、私の求めを私の情熱を見下して。何様な
の」
神様だとしても、よ。人の運命を高所から見下ろして、愚か者の営みの様に軽くみては、
面白半分興味本意に、忠告を装って介入して。
「許されると思っているのね。残酷な人」
そう云われても、沙紀はそれを否定しない。
「貴女がそれを、望んだのに」
沙紀の答は簡潔で、事実で、君子の逃げ道を塞ぐ物だった。沙紀の助力を望んだのは君
子だ。沙紀に、それを為す必然性はなかった。
慈善家でもない沙紀が余り関りのない君子の話に乗り、手を下すのは、興味本意か深い
同情のどちらかで、どっちでも結果が同じなら構わないと思っていたのは、君子なのに…。
「私は沙紀。瑞穂神社の神域と、その周辺の聖域を管理する者。それだけよ」
私は万能じゃない。何でも叶えられる訳でない。貴女の望む全てを与える事は出来ない。
「酷い。貴女は酷過ぎる。現実見せ過ぎよ」
この一言に君子の矛盾と、人間の逃れられない性が見えた。見せてと云われて見せた真
実が気に食わないから、それは偽物だ、或いはなぜ見せたのと、怒られても、処置なしだ。
人は時に、呆れる程に自分本位で、いきあたりばったりな、愚かしい生き物にもなれる。
「貴女が本当を望んだから。貴女が人の隠し布を取り払う事を強く強く望んだから。貴女
は成功したの。でも、成功の末にある物が必ず幸せだとは、限らないわ……」
「止めて、もう言わないでっ!」
何も聞きたくない、誰にも会いたくない。
「ここに留り続ける事は命に関るわ。危険」
「私の体なんか心配しなくて結構よ。本当は、結末の見えた私に興味を無くして、さっさ
と引き払って欲しいんでしょ。きっとそうよ」
沙紀は黙り込んだ。それも一理はあるのだ。
余り神域を騒がせる執着に居座っては欲しくない。それも又沙紀の本心だったのだから…。
激情のまま喚く君子に、沙紀は沈黙しているが、それは怒りの沈黙ではない。むしろ困
惑に近いのか。それが、整った顔立ちに妙にマッチして、冷やかなままに可憐で。
「寄って来ないで。もう何も話したくないの。特に沙紀、貴女には、全てを知る貴女に
は」
何の忠告もいらない。もう、どうなっても良い。だから、私をほっといて。君子が喉元
迄迫ったその叫びを解き放とうとしたその時、
「貴女を追ってここに来る人がいるみたい」
ガバッと君子が起き上がったのは、その瞬間だった。思い当る物があったのだ。ここ迄、
彼女に会う為に来る人を、思い当たったのだ。
真っ赤な両の瞳にはもう悲しみの涙はない。その瞳はこれから来る未知の恐怖に縛られ
て、見開かれて。貴昭ではない、彼は君子から逃げ出したのだ。なら、なら彼女を追う者
とは。
奴はここ迄追ってきたかと、顔が語っている。
君子はそれでも、涙に濡れた自らの顔を沙紀に見られるのが嫌で、背を向けたまま、
「貴昭さん……。助けては、くれないの」
『流されるばかりで人任せなのは、貴昭さんだけじゃないのね……結局、似た者同士か』
君子が見ない沙紀の顔にはそう書いてある。読者ならずとも、ここ迄の経緯を知る者に
は、沙紀の含みのある微笑にそれを読み取れよう。
「変った人、みたい。……それも、相当に」
「沙紀、何とかして。お願い、何とかして」
自分の決断がない。誰かに何とかして貰おうとするばかりで、自分でどうして行こうと
の展望を持たず、人の背に乗る事のみ考えて。
闘おうとも、逃げようともせず。肝心な決断を誰かに委ねる。貴昭の指摘はまんざら的
外れでなかった。だが、ここであの男を君子に会わせる事に、沙紀は少しの危惧を抱いた。
「ここは神域なの。無茶苦茶は困るわ。恋愛の縺れの喧嘩や怒鳴り合い位なら良いけど」
神域を、汚す様な行いは困るわ。
尋常な人間の波動・気配ではない。
今度は、沙紀の利害が若干君子の利害に絡まる形になった。一度関ったが故の、縺れか。
「仕方がないなぁ……」
再びその声は、前より気乗りしない感じで、
「別に、貴女を助けたい訳ではないの。ただ、状況がこうなってしまった以上、利害一
致」
少しは、感謝してよ。沙紀はそう言いつつ、君子に、さっき貴昭が使った間道を指し示
す。
『ここを行かなければ、冬の森は貴女の足では抜けられない。そして間道を行かなければ、
貴女はさっきの貴昭さんと同じ様に、村道を迫り来る彼に出会わないでは、いられない』
「助かるの? 私は、助かるのねっ……」
こういうタイプは、結婚詐欺にも掛り易い。
そう思ったかどうかは定かでないが、漸く向き直る君子−それでも顔は伏せていた−に、
「早く行った方が良いわ。彼はもう、すぐ近く迄迫って来ているみたい」
「有り難う沙紀。私、貴女の恩を忘れない」
さっき簡単に忘れ去った事実を、どう繕うのかは知らないが、そう言って君子は立ち上
がる。実際君子は危険が近いのだし、沙紀にも折角のお膳立が始動する前に御破算は困る。
泣き喚いていたにしてはやや現金な行動も、双方の利害に叶っていた。それでも、泣き
顔を見られたくないと云う、これは女の抜き難い性なのか、彼女は最後迄沙紀に向き合わ
ず、俯いたままで。視線を合わせない。
君子は沙紀の脇を抜け森の中に歩み去るが、
「沙紀、気をつけて。彼は、赤沢は危険よ」
大人の君子が怖がる相手を、幾ら不可思議な存在でも、見かけでは自分より年下の娘に
委ねられる神経に、沙紀はもう少し注意を及ぼすべきだったかも知れない。例え君子が無
力な女でも、沙紀と一緒に逃げるのではなく、沙紀に後を託す感覚は問題だ。そこに、悪
意があったと言うのなら、話は又別なのだが…。
最後迄伏せていた双眸が、そう語った時に一瞬、力を帯びて見開かれたのを、沙紀は気
付かなかった。普段なら気付いていたろうに。
時間が、なかった。相手は、君子が泣き伏している間に、本当にごく近く迄迫っていた
様で、沙紀は彼を迎える準備に追われていて。
その声には、僅かだが怒気が含まれて聞え。
あの男性の、どこがどう危険なのかを君子は一言も触れなかった。唯心の奥底で、沙紀
にも聞き取られぬ様に、密かに一言傍白して、
「彼がどう危険か、貴女自身で知れば良い」
夕暮れと軌を一にして、雪嵐もが迫り来る。
その男性・赤沢篤が沙紀の社に着いたのは、その二、三分後だ。烈風が、社にあった多
くの足跡の全てを吹き流した、その直後である。そこに作為を感じる事が出来る人はいな
い…。
「お捜し物ですか? ……赤沢さん」
始めまして。
無言のまま、首を左右に振って人影を捜す、背の低く、体格のがっしりした、老けた感
じの若者の前に、沙紀は突然現れた。
無人だと思わせておいて、突如姿を見せる。人を驚かせ心の平衡を乱す、沙紀の常套手
段だが、相手は特段驚いた様子も見せなかった。少なくとも、動作にも表情にも驚きはな
くて。
逆に沙紀の双眸が、戸惑いに少し曇る。
「君子が、いた筈だ。彼女は、どこだ?」
単刀直入とはこの事か。彼は、沙紀の奇想天外な出現や全てを知り尽した様な口調・そ
の整った美しさにも全く興味を示さない様で、
「さあ、どうだったかしら?」
未成年の娘の見せる、生意気な大人ぶった口調で沙紀は、話をはぐらかし、
「貴昭さんに聞いたって顔に書いてあるわ」
帰る途中の貴昭と、彼は道で出会った筈だ。そう暗示する沙紀の言い方にも、彼は平然
と、
「そんな事は、どうでも良い。俺の質問に、答えろ。君子は、どこに行った?」
単調に、そう繰り返すのみ。彼の動揺を招く予定だった沙紀は、得意な手を止められて、
怪訝そうな顔つきを見せた。手を伸ばせば届く程の距離なのに、これ程心を完璧に閉ざし
他者を締め出す人物もそう多くはない。
自分の意思を相手に伝え、分かって貰うと云う期待が、ない。物を前にした感覚でいる。
「捜してみたら? 足跡でも辿って」
そう言う沙紀の周囲に、一つとして足跡がない。沙紀自身の足跡もなく、彼女が空を飛
んで移動したとしか思えぬ状況を暗示するのにも、彼は表面だけにしろ努めて平静であり。
「君子を、どこに、行かせたんだ?」
「……」
そこで沙紀は初めて不審を抱いた。言葉尻だ。行かせたとは、沙紀が行かせたとは…?
赤沢は、帰り道で貴昭に会っている。君子の事だけでなく、沙紀の話も聞いているのか。
『なら、間道の事も知っているのかしら?』
すぐに覗き玩べる類の人物では、ない様だ。
沙紀の側が手探りに追い込まれた感がある。彼は単に心を徹底して閉ざし、守りを固め
ているだけなのだが、それ故に攻めあぐむのだ。キーワードか何かで相手の多彩な反応を
誘い出せれば、又違った対処も出来て来るのだが。例えば、君子の行く先とか、君子の現
状とか。
「さあ……。私が、知っているかもね」
これで少しは別の反応を引き出したい。心理戦に気持ちの重点が移ったその一瞬だった。
稲妻が沙紀の両頬を吹き抜ける。それが平手打ちの二往復だと、だったと分った時には、
身体は既に別種の衝撃を受けていて。対処より早く、その身は仰向けに押し倒されていて。
降り積る雪の原なので、倒れ込む衝撃は少なかったが、沙紀が受けた衝撃は小さくない。
いきなりなので、余りに唐突なので、防ぐ事も逃げる事も、抵抗する事も及ばなかった。
沙紀の側に、油断がなかったとは言わない。だが、これ程の行動に出る前には、怒った
り喚いたりという前段がある筈だ。それなしに、初対面の沙紀に、何の迷いもなく−迷い
があっては不意打ちは失敗だ−やってくれる。
赤沢は前触れもなく、沙紀に往復の平手打ちを遠慮のない力で叩き付け、動転した沙紀
が何か反応を見せるより早く、体重を乗せた体当たりを行い、その細身を押し倒したのだ。
『この人は他人の反応や意向を、まるで気にしてない。貴昭さんや、君子さんとは正反対。
自分だけ、自分だけの意志で全て押し通し』
見かけの年頃にしても尚、脆い程に華奢な身体に、馬乗りになって押えつける。自分の
意思が優先で、相手はそれに従わせるだけで。
「小生意気な、口を、利きやがって」
その両手が唸りを上げて、沙紀の頬に交互に連打を食らわす。平手打ちだが、大人の力
で遠慮なしだ。下手をすれば、顔の形が変る。
彼には、話を誘導するとか、沙紀の意志を窺いつつ問うとかの発想が、ない。叩き潰す。
云う事を聞かせれば、従わせれば十分だ。そうするには、力を思い知らせるのが一番早い。
ビシ、ビシ、ビシ、ビシ。
「ひっ、いっ、あっ、うっ」
考える暇を与えない。理性的な思考でなく、恐怖を刷り込むのだ。彼の力が常に絶対だ
と、欲求は力づくでも押し通すと、思い知らせる。
服従を教え込み、諦めを覚えさせるのだ。
野太い腕から繰り出される掌の連打が、沙紀の顔を赤く腫れさせる程に、繰り返される。
時間にすれば一分程だが、その間は沙紀には、息を止められたにも等しくて、無限に長い
…。
思考よりも反射で、沙紀はその両腕を翳し、連打を防ごうと試みた。対処の為の間を欲
する彼女だが、そう言う状態を今迄続けてきた赤沢が、相手の意志の自由にさせる筈がな
い。
自分のペースに嵌った者の行動は、掌の虫だ。
顔を庇う沙紀の手を、彼は振り払いも払い除けもせず、連打を止めて、その両腕を沙紀
の衣の胸元に伸ばす。人の先手を打つ事が得意な沙紀だが、後手に回ると冷静さがない為
か精彩を欠き。と云うより、状況は一方的で。
「身体に、訊いてやる。誰もいない処で俺に減らず口を叩いた事を、後悔するんだな…」
ぴしっと閉っている和服の胸元を、赤沢は力任せに押し開いて、その柔肌を露出させた。
事態に気付いた沙紀が、今度はその腕の動きを押し止めようと手を伸ばすのに、今度は防
御が空いた顔に向けて、右の拳をめり込ませ、
「俺に、逆らうんじゃねえ!」
意識の動きを先読みされている以上、力ではなく速さで、沙紀は赤沢に即応しきれない。
衝撃が脳髄を揺さ振り、ふっと気が遠くなる。
抵抗を排除した赤沢は、沙紀の胸元を改めて押し開いた。中に腕を捩じ込ませると、太
い腕に力をこめて、一気に沙紀の下着を引き千切る。女性の物と云うにはまだ未熟に過ぎ
る乳房が、寒風の中に晒された。
陵辱すれば、屈辱や無力感を与えれば相手は屈すると、彼は思っているらしい。
だが、彼はそれではまだ不満な様子で、
「ちっ、帯が邪魔で、これ以上脱がせない」
気が遠くなっていた沙紀が、気がついたと、身体の微かな動きで感じ取れる。赤沢は間
髪を入れずその身体を俯せにひっくり返した。
状況の再把握に暫く掛り、何とかしてその身に纏い付く赤沢を、引き剥したいと思う処
迄は戻れた沙紀だったが、何かをする前・考える前に己の天地がひっくり返って。それを
理解出来た時は既に、次の動きが始っていて。
常に相手に先攻して、自分の為すがままに状況を相手を誘導する。仕切る。これこそ、
自分の意思で動く者が持てる優位だ。
彼は、沙紀の手が伸びない背面に馬乗りし、その帯を強引に振り解いた。遠慮のない男
の腕力は、時に絶対になる。沙紀が漸く我を取り戻したのは、この時に至ってである。自
分に直接打撃がある間は、痛みと驚きと混乱で、反応はしても秩序だった行動ではなかっ
た。
「貴方、私にこんな事をして……」
沙紀がそう言いかけた時、赤沢はもう次の行動を起していた。電光石火が、勝利の鍵か。
沙紀は彼の注意を引くと共に行動を止め、彼の心に割り込み・波紋を投げ掛ける言葉を
使う事で、事を自分の土俵に持ち込みたいと、考えたのか。だが赤沢は、常に自分の行動
が中心で先約だ。それ以外には心を動かされぬ。
沙紀の言葉が終える前に、身体が浮く。否、上に引っ張られたのだ。それも、彼女の衣
装を掴んで吊りあげる、赤沢の意志で。そして一秒も経たぬ内に、沙紀は再び雪の園に沈
み。
重力に従ったのは、沙紀の身体だけだった。彼女の衣は赤沢の右手に残り、放り捨てら
れる。ほぼ同時に赤沢の左手は、手慣れた仕草で沙紀の下半身の下着を千切り取って。
沙紀は服を全て剥され、全裸にされたのだ。
「おっと、未だ逃がしは、しないぞ」
沙紀はこの時攻めに出るべきだったのかも知れない。同性なら、そうしていただろうか。
だが、沙紀は裸身を恥じる心を持っていた。ここ迄で十分まともに向き合いたくないと
思うだけの屈辱と衝撃を受けていたし、赤沢の様な男には絶対この姿を見られたくなかっ
た。沙紀は俯せのまま、赤沢に正面を見せないでその場を逃れようと這い出す。その行動
が彼には隙だらけで、掌に舞い込む冬の虫で。
「どんな事になるのか、教えて貰わないと」
赤沢は鉄のスパイクがついた長靴で、沙紀の背を思いきり踏んづけ、その動きを止める。
抵抗と云うより、彼とは正面からも向き合いたくない沙紀の、心の逃げ道も塞ぐ行いだ。
「ああっ! い、いっ……」
短く漏れる沙紀の悲鳴に、赤沢は漸く少し満足そうな、残忍な笑みを漏らした。今迄の
沙紀の悲鳴は、状況を分らないまま、混乱の中で出てしまった声に過ぎない。だが今のは、
進み行く状況を理解しつつある沙紀の、出してしまった悲鳴だ。赤沢の優位を示す悲鳴で
ある。整った容貌が、苦悶している。
「さあ教えて貰おうか。まず、身体からだ」
巫女の衣を剥ぎ取られ、一糸纏わぬ艶やかな肌を、吹きすさぶ雪嵐に晒されて、沙紀は
身動き一つままならぬ状況に追い込まれた。
赤沢はスパイクを離すと屈み込んで、その細い胴を太腿で挟み込み、後ろから沙紀の小
さな胸を生温かい両手で握り締める。屈み込んで、その素肌にぴったり身体をくっつけて、
「全然、ガキの身体だな。使い物にならなそうに貧弱で、残念だよ。だが、安心するなよ。
俺は、チャイルド・ポルノも、好きなんだ。見るのも、やるのも。それで泣き喚く姿
迄」
静かな声で、ゆっくり囁く。これは沙紀も良く使う手だが、沙紀自身にも、有効だった。
彼の場合、沙紀の心を震え上がらせた訳だが。
何とか胸を掴む彼の手を撥ね除けたい、或いは逃れたい沙紀だが、動揺の故か沙紀はそ
のどちらも行おうとして、結局どちらにも赤沢はびくとも動かず、為す術のない小娘の、
じたばた手足を振り回す姿だけが、眼に残る。神域の管理者も、こうなっては唯の娘なの
か。特別な技能も持たぬ、一人の男に翻弄されて。
女性を嬲るのも初めてでないらしい赤沢に迷いはなく、動きも手慣れている。背後から
手を伸ばして乳房を握り、巧妙に撫で廻す彼に沙紀は、抗う術も、考える暇もない有様で。
「未だ始ったばかりだぜ。楽しませてくれ」
「ひっ……い、いやっ。やめて……」
次第に考えが、と云うよりは意志が消えていく。無力感・諦めが頭をよぎる。頭の隅で、
このまま永久にこれが終らぬ様な気がして。
人間の力が、こんなに絶対で頑強な物だとは。
微かな声と共に涙が頬を伝う。いつから始っていつ迄続くのかは、全て彼の意志の元に。
彼女の身体は状態は全て彼の意志に左右され。赤沢と云う男はとんでもない怪物だった。
『人の心に潜む闇こそ、最も恐るべき闇…』
そう云えば、誰かが云っていた事があった。
『気をつけてね。人間って、無力な愚か者の様でいて、結構侮れない処もあるから。思わ
ぬ落し穴が潜んでいる事もあるの、人には』
沙紀とて全知全能ではない。隙もあれば弱みもある。だが人間がその油断に付け込んで、
こんな事をして来るとは、全く予想の外だったのだ。こんな、こんな神をも恐れぬ事を…。
沙紀の見通しは、甘かった。人間を嘗めて掛った報いかも知れぬ。貴昭や君子の様な弱
さが目立つ人間ばかりが、全てではない。
「止めてっ、お願い……」
最後には、懇願しかないのか。
それを無視して数分間も、沙紀の肌を蹂躙して、その苦痛と恥辱を楽しんで、その後で、
「ほら、止めてやる。……俺に感謝しろよ」
雪の中に上半身が投げ出された。だが彼は沙紀を解放してはいない。彼女は未だ俯せで、
細い腹部を赤沢の太腿に締めつけられて。この男が懇願を理由に行動を止める筈がない。
「な、何を……するの?」
「決まって、いるだろう」
後頭部を捕まれて、顔を雪の中に押しつけられる。手加減なしの力なので、息が苦しい。
幾ら抗っても、俯せではその手足がばたばた蠢くだけで、沙紀は己の無力を味わうだけだ。
「お前は大人しく、最初から最後迄、全て俺に従って、いれば良い。生意気の報いを、身
体に教えてやる。聞く事は全てそれからだ」
ここで今度は赤沢が隙を見せた。沙紀が既に抵抗の意志も力もないと確信した彼は、攻
め手を一時止めたのだ。これは次の段階に移る為に不可欠だが、その故彼は攻め手を止め、
一瞬沙紀の腹部を締める両太腿の力も抜く。彼は己のズボンを下着を脱ごうとしたのだ。
やる事は決まっている。だが、これ迄術がなかった沙紀も、その間を逃しはしなかった。
人ならぬ沙紀には、半瞬で十分だ。その点で、赤沢の油断と云うのは酷かも知れぬ。普通
なら逃げ出せない。沙紀だから、逃げ得たのだ。
「……?」
赤沢の目が瞬いた。何が、あったのか。彼の足に挟まれているべき小娘の姿がない。彼
は唯一人、雪の境内に立ち尽くしていて…。
感情の浮動を見せる事の極端に少ない彼も、不審に思った様だ。今迄を、彼は事実とし
て受入れ、微塵も疑わずに来た。あの少し奇妙な娘も、赤沢に掛っては今迄の処只の童女
でしかなかった。なら沙紀はどう逃げた?不可解な顔つきで周囲に目を凝らす赤沢に、
「御生憎様。私は、未だ逃げていないもの」
多少の怒りを含んだ、挑発的な声が後方で、
「ほんの少しの隙に付け込んで、良くやってくれた物ね。君子さんが怯えるのも分るわ」
こんな心の持ち主、こんな行動に出る人に、魅入られた日には、私だって滅入ってしま
う。
振り向いた処に、沙紀はいた。この一瞬で、彼が剥した筈の巫女の和服を身に纏い、帯
を背に廻し両手で止めている最中だが、視線は赤沢の無感動な目線をしっかり捕えていて、
「いつ迄そんな処で立っている積りなの?」
その言葉に、今度は赤沢が愕然とする。彼の下半身には、何もなかったのだ。ズボンも
パンツも靴下も長靴もなく、毛深い下半身を隠す物はない。こうされる迄、どうして気付
きもしなかったのか。確かに彼は途中迄その動きを為したが、それから少し記憶が中絶し。
中絶。一瞬では、なかったのか?
寒い。とてつもなく寒い。どうなってる?どうしてこの寒さを俺は今迄感じなかった?
「貴様、一体、俺に、何をした?」
「自分で為した、事ではなくて?」
五メートル位離れた処に立つ沙紀は、いつもの冷淡さを取り戻している。常よりきつそ
うに見えるのは、気のせいか。肌に汗の跡はなく、整った容貌には大理石の無感動が戻り。
先程の無力な娘の状態を窺わせる物はなく、その影響は、慎重に間合いを取って露骨に
見せる不快感と、未だ縛り終えぬ帯を縛りに後ろに回す両の手にのみ、見て取れる。
「たまには、自分を振り返りなさい」
そう沙紀が言い終える前に、彼は突進して。何度か見せた前触れなく、相手に構える間
も与えぬ俊敏さだが、沙紀を捉える事はできず、代りに視界に飛び込んだのは、自分のズ
ボン。
「うぶっ……! く、くそっ」
その顔に巻きついて、動きが止まる。
彼の言動は常に自己中心で唐突だが、人の虚をつく行動も数度見ればパターンが分る。
彼は誰も信用しない、自分だけしか頼りにしない。だから、何を為すにも自ら動く以外
に方法はないのだ。彼にさえ注目すれば良い。それが分ってしまえばどうと云う事はない。
動くタイミングさえ気をつければ良いのだ。
「それは貴方に返すね。私は要らないから」
視界が開けても沙紀の姿は既になく、声の方向を見上げれば、森の縁に立つ木の遥か上
方に張り巡らされた枝の一本に腰かけて。
細い両足をぶらぶら振って、嘲り笑う様に、
「君子さんは帰ったわ。貴方には用はない」
もう君子は、かなり間道を進んでいる筈だ。それに幾ら彼が進もうとしても、進ませな
い。
赤沢の暴力的な行いが、或いはその被害を被る君子の思い残しが、神域を汚す恐れはな
くなった。残るは、彼と沙紀との関係だけだ。
「貴様どうやって、この一瞬にそんな処に」
ズボンや靴下を抱えつつ(履くより優先し)赤沢は沙紀の木の下に、走り寄って来る。
「木を揺さぶって落そうと、考えている?」
この状況で、彼に出来る事は限られている。だが、その読みは事の主導権が完全に沙紀
の手に移ったと示していて。赤沢の足が止まる。
見上げる瞳に、僅かに戸惑いの色が見えた。何かを怒鳴りかけた彼に、何か飛んで来
る!
「どう、綺麗でしょう。私からの贈り物よ」
指先程の氷の結晶が風と共に飛散して来る。それが彼の頬を太腿を手の甲を、掠め去っ
て、痛い。痛い、痛い、痛い。
雪の欠片が氷の欠片が、彼を撃つ。
「おおぉぉ! き、貴様……」
赤沢は、神秘的な演出や思わせ振りな心理の罠には掛らない。そう言う物に鈍感なのだ。
魚を釣るのに、野菜を餌にしても無効な様に。
彼には彼に見合う演出が要る。現実の恐怖、物理的な脅威、実感出来る危険。それが彼
の心を左右し、縛る。ズボンを履く事も忘れて震え立ち尽くすこの醜態。力の信者には、
やはり力を示すしかないのだ。沙紀は粗暴だと云って、それを余り好まないが。
この寒さの中で、特に下半身は何も纏ってない赤沢には、只でも寒さが痛い程身にしみ
ているのに。痛覚は寒さで一層鋭敏になって。この震えは、寒さの故の、震えなのか。
進もうとする度に氷の結晶が、沙紀の方向から飛ぶ。常の雪嵐でない。明らかに意思を
持って、前進する赤沢の身体を削ぎ落そうと。赤沢は前進を諦め沙紀を睨みつけるが、
「もっとあげる。冬の山は氷なんて無尽蔵」
沙紀の瞳が妖しく輝いた。彼にはそう見えたのだ。今度は、沙紀が赤沢を嬲る番なのか。
生意気な娘にしか見えぬこの少女が、そうではないと彼は漸く、肌身に沁みて感じ始めて。
『寒い、寒いのに、身動き一つ、できない』
「貴方は一回私の頼みを聞き入れた。だから、一回は私も貴方の頼みを何か聞いても良
い」
どう。もっと欲しい、この氷の樟葉?
赤沢は硬直した。この氷の破片の飛来が眼の前の娘によって起されているとは思えぬが、
そう見える。そんな事出来る筈ないのに。
赤沢の様な人間は現実の脅威に弱い。自分の命が危ういと分ると、信じられない状況を
飲み込むのも素早く、その決断は素早かった。
沙紀の一声は、彼に動く許しを与える物で、「貴方は神域に似つかわしくないわ。いつ
迄も性欲の道具を晒してないで、去りなさい」
「ああ、あひひいいぃぃぃ!」
ここであの姿で凍死されても、沙紀が困る。性愛は神域の穢れではないが、それを強制
する際の憎しみや恨みや暴力や、後々に残る深い傷は神域を乱し、醜悪な行いは神域を穢
す。
この辺りは、非常に微妙なラインなのだが。
そしてあんな骸を残されても、沙紀が嫌だ。
「私は他人(ひと)を頼りにはしない……」
走り去る男の背を睨む様に見つめる沙紀の、木の幹に寄り掛った左手が微かに震えてい
る。最後迄、彼の退場迄、先に逃げてしまいたいと云う己の内なる恐怖に、対峙し続け。
逃げても、彼の目の届かぬ処から氷の刃を向ければ、彼を帰らせる事は出来た。何もせ
ずともすぐに夕暮れ、彼は帰ったろう。だが。
それでは、沙紀は赤沢への恐怖を拭い得ぬ。長久な命を保つ神域の管理者故に、悔いを
残せば人間以上に長く悔い続けねばらない己の定めを知る沙紀故に、恐れから逃げる事が
己の負荷を増やすだけだと、分かっているのだ。残せば、それは悠久の人生に影を落して
来る。
それを撥ね除ける為にも、今ここで逃げてやり過ごす訳には行かなかった。それでは、
沙紀の心のどこかにこの恐怖は腰を下ろしたままになろう。赤沢が死に絶えたその後迄も、
沙紀の命がある限り悠久永劫に。
貴昭や君子の様に、どうにも出来ぬ悔恨を引きずり続けたくはない。その為には、己に
悔恨をもたらすその何物かに向き合う事が、絶対条件なのだ。それを沙紀は分っている。
「私の方が、見たくもない真相を見せられる。美しく納得出来るなら幻で十分と思う私
が」
この皮肉、この矛盾。貴昭や君子には生涯分らないに相違ない。貴昭や君子がなぜあん
な処で躓くか、沙紀が分らないのと同じ様に。
神は神の故に、人より苛酷な宿業も持つ…。
「降って頂戴。一気に、何もかも埋め尽し」
君子の宿に電話が入ったのは、夜七時前か。
観光地でもない村には、下宿と兼ね合わせた様な民宿が一軒あるだけで、他によそ者が
泊る処はない。出る者も入る者も僅少なこの時期の、村への訪問者の動静把握は、簡単だ。
(赤沢がここに不在な事は、彼が貴昭の実家にいる事を暗示している。貴昭と緊密な提携
関係にあるか、或いは貴昭が赤沢をこの件に招き入れた弱みを持つが故に、断れぬのか)
雪嵐は、沙紀の望みを受けてなのかどうか、夕刻一気に降ってしまい、その後小康状態
で。
いつ吹雪くかも分らぬが、晴れ上らないので猛烈な寒さにもなりはしない。出歩く事が
死(凍死)に直結する状況でないが、普通は冬の夜に人は出歩かぬ。
動き出す君子も君子だが、呼び出す発想に都会人の感性を気付くべきだった。貴昭の発
案ならば、こうはならない。日が暮れた後に、歩いて数時間も掛る社に来いだの。
「もう一度だけ、考え直したい。社に来てくれないか。君の心にも、耳を傾けてみたい」
貴昭は、自宅から電話をかけた訳ではない。幾ら実家でも、否、実家故に、自身疾しく
思う程の陰謀の一幕は聞かれたくなかった。夜陰は村人に見られたくない彼にも都合良い。
彼は、村に一つの公衆電話−路線バスの待合室にある−に抜け出し、そこから君子を導
いたのだ。自身が社に行く気はさらさらない。
『君子には、彼女を待ち焦れる相手がいる』
貴昭は何も知らないが公式見解だ。君子に何があろうとも、貴昭とは関係が切れたのだ。
赤沢と彼女が深い仲になった事は、明日中に村の皆に知れ渡ろう。同時に、貴昭に付き
纏う『都会に女を作って、捨ててきた冷酷男』の噂も自然に消失する。或いは、彼への同
情の噂に変る。少し情けない男には見られるが、悪役の汚名は着なくて済む。
「これで、何もかも巧く行く。計算通り…」
事実は違う。君子がここ迄来た事も計算外なら、赤沢迄がここに来る事も、更には彼が
君子を捉え損った末に、貴昭に抗議してきた事も、全くの計算外だったのだ。
赤沢は、人気のない田舎町ならどこでも引き込めばすぐ一対一になれ、君子との仲を決
定的に出来るチャンスだと思っていた様だ。
事実その状況に、なりかけたのだ。余計な邪魔が入ったので、捉え損ったが。そして彼
はまだ、諦めていない。と云うより、一層闘志を燃やして。今夜が勝負だと、思っている。
赤沢が君子との同宿を止めたのは、同宿すれば必ず彼女が過剰に反応し、周囲の介入を
招くと分かっていた為だ。宿の人や警察等の地元民の介在が、彼の欲望達成に邪魔なのだ。
彼はより自分に有利な状況を作る為に、地元の知人に接触を図った。君子に迫られて困
り果てている、貴昭である。彼の方が、君子より貴昭をよく理解していたのかも知れぬ。
赤沢は、貴昭が君子との仲が切れてないと抗議して彼を威し、自分の企みへの助力を強
要したのだ。助力を求めても、彼は積極的に動かない。彼を動かすには、脅すか騙すかし
てそう云う立場に置いてしまうのが、有効だ。
貴昭はそれを、自分に都合良く己の中で再構築しているが、全てが、彼の流れに乗った
だけの甘い目論見を外れて。今の電話も、彼は赤沢の指示通りに動いただけだ。
『君子は赤沢に身を任せ、諦めざるを得ない。
そうでなくても、俺の実情を真意を知れば、流石に思い込みも冷めるだろう。赤沢は、
俺との縁を絶ち切れた君子を手に入れ満足し』
面倒な連中は俺の視界から去ってくれる。
違う。結果はそうなったが、彼の主体性等どこにもない。貴昭は、冬にあの社迄行って
待つ赤沢の無謀さも、君子にその社迄来いと云う赤沢の企みの無茶さも、あえて指摘せず、
失敗しても良いと云う感覚で、受動的に事をこなしただけだ。そこに彼の意思が見えると
するなら、責任を被らない為に積極意思を徹底して捨て、一個の道具・物になりきる位か。
そして赤沢は、自分以外の誰にも人格を求めず、只道具として動けば良いという人物で。
赤沢は誰も信頼しないが、道具としてなら人も使う。彼は自分の『何をやり出すか分ら
ない』印象を使い、貴昭を共犯に引き込んだ。
「奴が君子を確実にモノにすれば、奴の抗議を受けなくて良い。奴の逆恨みがなくなる」
『それに、君子は来ないかも知れない。夜に、冬の夜に社迄なんて、普通は行かない、招
かない。それなら、それでも構わないさ』
だが、そこに貴昭の計算等微塵もない。偶然そうなっただけだ。自分で切り開く展望は、
何一つないまま。君子にも見えるお任せ主義。
それが今迄彼らに、どれ程の不幸を呼び込んだか。これからどれ程の不幸を呼込むのか。
人が人である限り、人の愚かしさは治らないのかも知れない。死んでも、生れ変っても。
「俺が悪いんじゃない。俺が悪いんじゃ…」
一体貴昭は、誰に弁明しているのか。ザクザク雪を掻き分けて、短い距離を家に向うが、
『そうして貴方は、逃げ続けるのね。積極的な悪意さえなければ、誰にどれ程酷い状況を
招いても、自分のせいでないと言い張って』
貴方はその人生で、何人の思いを見殺しにしてきたの。何人の誠意を裏切って来たの。
自分を守る為何人を切り捨て苦しめて来た?
人恋しさから求め、面倒になれば切り捨て。
「俺に悪意はなかったんだ。悪意がなければ何でも許される筈だ。悪意よりましだろう」
貴昭は、どこへともつかぬ呟きを漏らすが、
『世には、善意の故の悽惨な悲劇が数多ある。悪意から発する行いより、善意に根ざす行
いの方が、遥かに深い傷を歴史に残して来た』
真実を突き詰める者は、真実の為に、限りない犠牲を強いられる。被害を周りに及ぼす。
そして、自分勝手な満足の為に、幾多の悲しみや恨みや怒りが、巻き起こされてきた事
か。善意はと、人が人である限り切り捨てられない『諸刃の剣』でもある。
「貴方は荷担したわ。貴方は赤沢の共犯よ…。自分が可愛くて、自分が可哀想で、自分が
面倒から逃れるには人を幾ら苦しめても良い」
これは不作為の過失ではない。貴方の作為。
貴方は常に、誰かの意向に沿う形で己を放棄してばかり。自分の意向を示さずに、仕方
ない、やむを得ぬと、逃げるばかり、流されるばかり。自分はどこ?
自分さえ良ければと云う点は、赤沢と同じ。
「止めてくれ! 俺の心に、入って来るな」
これは貴方の呟き。外から入った何かではない。貴方はどこかで流されるだけの人生を、
嫌っている。嫌う故に、自分から逃げている。そうでなければ、赤沢の様に罪の意識はな
い。
「決着は、自分自身でつけなければならない。
罪悪感を生む良心ごと消すか、罪悪感を消す為に行動を為すか。心に良心とそれに伴う
悔いを残し続けるのも、一つの選択だけど」
貴方はその場にいて、どの道かを選ぶべき。己が招いた事態をその眼で見て考えなさい。
「貴方が招いた事態の、その結果を直視し」
世には敢て見なくても良い真相はあるけど、自分が招いた作為には責任を持つべきよ。
貴昭は冷静さを失っていた。心のどこかで罪悪感を拭いたかったのか。沙紀の誘導に引
っ掛ったのか。逃げるならどこでも良いのに、家に帰れば良いのに、足はなぜか社に向っ
て。
後ろから迫り来る何かに、追われ流される様に、強風に背を押され貴昭は進む。だが彼
はこの時、現実に向き合う決意をしたのではない。責任感や義務感に目覚めた訳でもない。
彼はただ、後ろから急き立てられただけで。
人は、そう簡単には変れない。
貴昭から電話を受けた君子が、懲りもせず社に着いたのは、夜の十時過ぎだ。既に日中
に一往復して、疲れきっていると云うのに…。
精神的にもそうだが、肉体的にももう一往復等、地元の人間でも敢てせぬ。それを為す。
そこに彼女の強い想いを見るのか。未練を見るのか。それを、執着と呼ぶものもいよう。
君子は、電話を受けると即座に動いた。
『貴昭からの電話を受けた以上、それが誘いの電話である以上、動かぬ訳に行かないわ』
罪悪感を払拭する為に、綺麗な決着を望んでいるだけかも知れぬ。彼女が来ない事を見
込んで、最終決裂の口実にする為かも知れぬ。すっぽかして彼女の心を冷え込ませる手か
も。貴昭によりを戻す気はないと考えた方が良い、客観的には。しかしそうと分かって尚。
『でも、それでも。私は、行きたいのっ!』
貴昭がそう決めたなら、貴昭がほんの少しでも彼女の意を汲む可能性があるなら。
愛というより、それは執着と云って良いのか。
それに、万が一の時には社には、沙紀がいる。
又助けて貰える。否、助けてと言うのが正しいか。人を当てにした安心は君子の特徴だ。
更に言えば、君子は赤沢に直接会ってない。恐怖を躱せた事が、恐怖への警戒を甘くし
ていた。貴昭が、わざわざ貴昭を望ましくない方向に導いた沙紀がいる社に、君子を招く
のを理不尽に思わなかったのも、その為か。
貴昭は、赤沢と沙紀が共倒れでもしてくれれば都合良い位に思っているのか。赤沢との
会話でも、貴昭は沙紀について何も話さなかった。尤も、沙紀が只の童女なら、この夜に
あの社の界隈にいる事は、あり得ないのだが。
『人に寄り掛って生きる、無責任な人生ね…。
自分の平穏を常に人任せにして、寄生して。例え人を信頼し身を委ねても、責任感だけ
は捨てて欲しくない。相手はきっとそう思う』
「全幅の信頼は愛の証よ。備えは、疑いよ」
もしかしたらそれは沙紀でなく、自身の中に芽生え始めた懐疑の念なのかも知れぬ。貴
昭へと云うより、愛情その物への懐疑の念。
『愛されたい、愛されたい。
今迄に、貴女は相手を愛してあげた?
いつも、愛されたがってばかりいる』
そんなに自分が可愛い。愛される資格ある?
その問いは、自分に向けても刃を放ち、
『全幅の信頼がどれ程重い物なのか、それに応える事がどれ程大変か、考えた事ある?
貴女は、人の愛を吸い尽す。
それでは愛は、減るばかり』
愛を減らしているのは、貴女自身なのに。
責任は分かち合う物、愛情は与え合う物。
信頼とは、互いの負担を、考慮し合う事。
それを為さず自分の安楽だけを望む貴女は、
「……都合よく逃げているだけじゃない?」
違うわ、違う。
君子の足が疲れにも関らず、走るに近い速さを見せたのは、この問いかけを降り切る為
なのか。身体を激しく動かしてさえいれば、当座の悩みは忘れられる。実は、貴昭と君子
の最初の関りもそんな感じで始まった。
今の様に、心に鬱積する様々と、身体から滴り落ちる汗の中で、求めていたのは愛に良
く似た痛み止めで。否、愛とは、阿片なのか。
愛を求めて、愛に縋り、愛に溺れ、嵌って。
愛は貰う物、護ってくれる物、貪り尽す物。
人に私の愛を与えたら、私自身を癒す分がなくなってしまう。どうしてみんなはもっと
私を愛してくれないの。どうしてもっと私を気遣ってくれないの。愛が足りない、全然!
世界中の愛を、私に頂戴。私だけにっ。
「貴昭、貴昭……。小屋の方にいるの?」
赤い鳥居を潜って、再び君子は境内に入る。最悪の状況も予測しないではなかった。し
ないではなかったが、当って欲しくはなかった。
「遂に、来たな。君子、お前を待っていた」
もう、心に囁く物等必要なかった。君子に、疑いや悩みはあり得ない。同時に夢も希望
も、なくなって。彼女も理解せざるを得なかった。
貴昭は赤沢に、君子を売渡した。言い訳は、利かない。脅されたの何のと、言い張って
も。あの男は赤沢の様な男に君子を売った。
なぜ、赤沢がここにいるの?貴昭はどこ?
赤沢への恐れより、貴昭への怒りが、彼女の心に燃え上った。現実の脅威より、ここに
いなくてこの状況演出に手を貸した、彼女を本来護るべき男への怒りが噴き出して。普通
の感覚なら、君子の瞳に見えた般若の形相にたじろぐ筈だ。その無限の怒り、永劫の憎悪、
深淵の恨みが、君子の気弱さを一瞬消去して。
だが、不幸にも赤沢はそう言う類の感受性に無頓着な男だった。彼は相手の心中を忖度
等しない。目に映る肉体だけが、彼の世界だ。
赤沢は、雪中に立ち尽くす君子に歩みより、
「漸く、二人きりに、なれたな。
この時を、俺は、ずっと待っていた。
君子、愛して、いる……」
その目に映るのは狂気、或いはこれも愛?
「よらないで!」
君子は一歩下がって叫び声で赤沢を牽制し、無駄と分っても逃げる機会を必死に捜す。
「私は、貴方に会いに来たのではないの…」
彼女が望んでいた男は誰か、赤沢も承知だ。
「あのクズか!」
赤沢は軽蔑した語調を露に、言い切った。
赤沢には、君子も貴昭も己を持たない『流される者』という一点で同質で、等しく軽蔑
の対象だったのかも知れない。彼を嫌う一点で共通している貴昭と君子がそれを知れば、
逆に意外な顔を示したのかも、知れないが。
人間は、自分を中心に考えるから、自分と違う物は、人種でも職業でも文化でも、理由
もなく見下したがる。多くの場合、どちらが相手を見下すに足る存在なのかは、微妙だが。
「お前を売渡した男に、そんなに会いたいか。
お前を愛してもいない男に、そんなに会いたいか。お前から逃げ回り、策動し酷い目に
遭わせる男に、そんなにお前は会いたいか」
痛い指摘だった。言葉の有効打を放って隙を作り、逃げ出す事に一縷の望みをかけてい
た君子だったが、逆に君子の方が衝撃に心がぐらつく程で。彼の云う事は、皆事実なのだ。
『信じてたのに。ずっとずっと信じたのに』
私の信頼を裏切って裏切って、遂に私の一生分の信頼を、食い尽し。そう、貴昭は君子
に愛を貪られながら、その信頼を貪って来た。
彼女には今何もない。切迫した状況だから、心を何とかして奮い立たせて受け答えるが、
その心の奥には今、何もない。心が、尽きた。
貴昭への愛の炎が、消え去った。
「代りに俺が愛してやる。俺の方がずっと愛が深い。これ程思い焦れているというのに」
ああ、人類最大の罪業は愛なのかも知れぬ。
君子は高速で首を真横に振って、
「あ、貴方はどうなのよ。
私は愛してもいないし、逃げ回っているわ。嫌悪しているわ。貴方なんて顔も見たくな
い。
それでも貴方は追い回す事を止めないの?私が貴方を絶対に愛さないと分かっていて」
「お前が、あの男を追い回すのと同じ理由だ」 必死の反撃は、逆に彼の論理の肯定に使
われてしまう。これでは彼女の赤沢に向けようとしていた非難迄が、封じられる。
「あの男は、婚約者がいる。誰か知らんが」
奴は、絶対お前に振り向かん。お前は一人、残される。だが、安心しろ。俺がいる。お
前は俺を向く。嫌がっても何でも、最後は俺だ。
「お前は俺を、力づくで排除出来ないから」
貴昭が振り返らぬ限り君子は一人だ。その君子に、一人で赤沢を退ける意志も力もない。
鈍い眼光の奥に狂気に近い程の意志を込め、
「俺は、欲しいと思った物は、今迄必ず、手に入れて来た。お前も−俺を見た瞬間、軽蔑
の眼差しを、投げつけて来たお前もそうだ」
今こそ俺達の、愛の日々が始まるんだ。
凶暴な瞳が力を増して近付くのに、君子は、
「沙紀! 沙紀っ、いるのは分ってるのよ」
ランプの精でも呼びつける様な、言い方だ。
『この神域とかを傷つけられたくなかったら、さっさと出てきて私を救って。早くこの獣
を、二度と這い出す事の出来ない檻に隔離して』
味をしめると言うのは、この事か。君子は二度嘆願を受入れられたので、自分が沙紀に
は特殊な立場にいると、思い込んで。それも、そうせねばならぬ理由は沙紀の方にあると。
半ば脅しつける様な、見下す様なその口調に、
「私は、貴女の便利屋じゃないのよ」
沙紀が現れたのは君子の真後ろだ。赤沢に正対しつつもやや距離を置き、かつ君子を護
る意志を明瞭には示さぬ配置にも、冷淡さを超えて不愉快に近い冷たい語調にも、沙紀の
微妙な立場と心理が窺える。
沙紀は今回、君子の為に現れたのではない。
「どうしてそんな処に。赤沢はあっちよ」
君子は赤沢に背後を見せるのが怖くて、後ずさりしながら沙紀の気配を捜し訴えるが、
「貴女は何か、誤解している様ね。
私は貴女を護る為ここにいる訳ではない。
自分の身ぐらい、自分で守りなさい。
己の言動に責任を取れる、大人なら」
冷やかに突放す言い方に君子はカッと来た。
子供に大人の資格を、云々されたくはない。
「貴女の神域で、酷い事になっても良いの」
君子は振り返り沙紀に大声を叩き付けた。これは多分に、貴昭への怒りの八つ当りに思
えるのだが。後ろを赤沢に見せる危険を忘れ、「私が今、奴に酷い事をされても良いの!
あの男は、私に無茶苦茶をするわっ。絶対、普通の男じゃないんだもの。それでも良
い」
必殺の一撃を出した積りだった。否、それが無効なら、君子は沙紀の情に縋り泣きつく
事も考えていた。だが、その隠し玉迄沙紀の次の一言で同時に断ち切られてしまうとは。
「……良いわ」
沙紀の応えは簡潔で、爽快な程で、
「間違えないでね。私が神域を汚されて困ると云っても、何が何でも防がなければならな
い程に決定的な訳ではないの。
禊をなせば良いだけの話なのよ」
長い歴史の中では、これから貴女達が生み出せる程度の汚れは、一度や二度はあったの。
自分が特別に愛される存在だ、誰にでも守って貰うべき特別な人間だと云う、君子の思
い込みに、透き通る声音は鉄槌を振り降ろし、
「事前に阻止出来ればそれに越した事はないけど、そうしなければ全て終る訳ではない」
必然性っていうのかな。沙紀はそこで、
「貴女の人任せな姿勢には付き合い切れない。
私は何も貴女が、どう酷い目にあって嘆き悲しんで苦しんで、死んでも良いの。構わな
いの。貴女は貴女、私は私。私には、貴女を助けなければならない、義務も使命もない」
君子の瞳が、大きく見開かれて、硬直して。
それは最後の望みの綱の切れる音だった。
「そうして人に身を委ねる姿勢を続ける限り、貴女のその弱さに群がる物達に終りはな
い」
自ら闘いなさい、逃げなさい、考えなさい、避けなさい、予測しなさい、周りを見なさ
い。
「それをしているから、例え狂っていてもあの男は、常に貴女より優位にある。己を持た
ぬ限り、いつ迄経っても貴女は彼の掌の中」
「じゃあ、どうするね。小娘」
君子の右肩に赤沢の手が乗った。ビクッと震えるその肩を、逃げられぬ様に強く握って、
「黙って見ているかい。俺達の二人の夜を」
「さあ。どうしたら、良いかしら」
沙紀はそれ自体を拒絶はしない。
「沙紀!」
君子の叫びは、この二人には効果が希薄で。互いに弱みを隠す不敵な無表情で睨み合い。
「良くもう一度、俺の前に、出て来れたな」
あの辱めを受けた身で、人を助ける余裕があるとは、恥を知らぬというのはこの事か?
沙紀はこの挑発にも、言葉を返さなかった。
「俺を、良く知った上で尚、俺に向き合うか。
ガキなのに、ご苦労な。こんな可愛い盛りで、とんでもない苦痛を、負って。可哀想に
ぃ」
少し早過ぎたよ、俺も後でそう思ったんだ。暗示めいた語調は沙紀の心を逆撫でしつつ、
その激昂を誘えずとも、主導権を握る構えで、
「怖さで足が竦んでいるのが、良く分るぞ」
はったりと分っても、沙紀には痛い指摘だ。
赤沢はいつの間にか、二人の話に気を取られ立ち尽していた君子の至近に迫っていて、
彼女に腕を回して抱え込みつつ、視線は別で、
「妖怪だか何だか知らんが、愚かな娘だ…」
「貴方こそ良くここに来れたね。大胆不敵」
沙紀は漸く口を開いた。自分が相手の挑発には乗らないと見せつけた上で、口火を切る。
「ここは神域よ。君子さんをどうするかは勝手だけれど、ここで貴方の好きにさせない」
沙紀は間合いを気にしている様だ。厳しい視線を投げ掛けるが、当面は動く様子もない。
奇妙な程軽やかなその動きは赤沢も知るが。
君子は自己決定権のない悲哀を、嫌という程味わって。だがこれも、君子が選んだ道だ。
決定に、リスクとデメリットは付き物である。
「生意気な、口を利くガキだ。君子に、聞かせてやっても、良いんだぜ。今日の昼に、俺
とお前の間で、交わしたあのまぐわいを…」
沙紀の表情が固い。冷静さを失うまいと努めている事実が、痛手の規模を物語っている。
「貴方の無様さを、露にする事にもなるわ」
それでも良くて? と言外に匂わせる沙紀だが、彼はニヤと笑みを見せてそれを退ける。
『少し位は脚色して云っても、良いだろう』
全て沙紀の冷静さを剥ぎ取る戦術と、赤沢は割り切った様だ。彼は、対決を積極的に望
んでいる。羞恥心は男の方が鈍いから、暴露合戦は彼に有利だと云う考えなのか?
「俺とお前との、生温かい抱合を、思い返す度に、俺は思うぜ。お前には、小難しい説教
なんて不要だ。要るのは、男の肌だってな」
沙紀の睨みつける眼光が鋭さを増す。その厳しさが彼には一層痛快に感じる様で、
「聞かせてやるよ、君子。お前が、最後に頼りにしてた、その小娘が、どれ程頼りになる
物だったか。為す術もなく押し倒された、驚きの眼差しを。どれ程、俺を満足させたかを。
俺の前で、衣服を全て引っ剥がされて、流した涙を。傑作だったぞ。最近にない位の…」
えっ。お前が最後に頼ろうとしていた娘は、お前の期待した程の優れ物じゃあないんだ。
口先程には、役に立たないんだよ。
君子の身体を締めあげつつ、沙紀の心も締めあげる。君子の眼が驚きに丸くなるのさえ、
沙紀のダメージになると赤沢は知っていた。
彼は沙紀を挑発している。しかし、これを続ける間は君子は無事なのだから−話しなが
らでは何も出来ぬ−君子にはむしろ嬉しい展開で。捕まった彼女には、今や赤沢が絶対だ。
「聞きたいか、君子?」
「ええ……聞きたいわ」
悪いが、沙紀の心にはこの際泣いて貰おう。
君子の即座な応えに赤沢は満足そうで。君子は、赤沢を怒らせまいと必死に作り笑いを
見せる。当座の彼の歓心を買う為に。これから彼女の心を破壊する、本当の脅威・敵であ
る彼の歓心を買う為に。
自分を持たぬ者は意志表明さえ出来ぬのだ。
「お前も、聞きたいだろう、娘。自分が一体、どう喜んで汗を流し、どう喘ぎ声を上げ、
どう俺の意の儘に、この雪の園を転げ回ったか。
俺は総て見ていた。俺は全てを知っている。
俺の為す儘に、俺の思う儘に、俺の身体の為に、お前は俺に奉仕したんだったよな…」
その腰も、その足も、その首筋も、俺の心より遥かに積極的で、大胆で、俺は驚いたさ。
沙紀が思わず前に出る瞬間を、彼は待っていた。二人の間には、赤沢に絡み付かれた君
子がいる。激怒した沙紀が君子を避けて、どちらかに回り込んだ時が、彼の勝利の瞬間だ。
回避しつつ前進と云う動きは、大きい上に、目標地点が自分と決まっているので、予測
が簡単で対処もし易い。沙紀が動きだす一瞬前に自分が先んじて一気に抱きつき、力と体
格の有利を生かして、押し倒してやればいいと。
日中に沙紀が見せた超常的な力も、赤沢を怯えさせるには至らなかった。喉元過ぎれば
熱さ忘れるで、あの氷の結晶の飛来も、自然現象の一つが偶然彼に災いしただけだと、後
で考えてみれば思えて来る。
余りに都合良く考えすぎに見えるが、沙紀の様な存在を一度見ただけで受入れられる者
の方が、むしろ柔軟に過ぎるのかも知れない。
人はそう簡単に天変地異や怪力乱心を信じはしない。特にこの、現代文明社会においては。
沙紀に作為があったとするなら、結晶が飛来する場所に彼を誘い込んだ事位か。そうと
信じ込んだ者に、畏怖の念は起らない。見ても都合悪い事実をすぐ忘れ去る人物は、読者
の回りにも結構いるのではないか。
沙紀が左斜めに動いて、君子を抜きにした赤沢との角度を取ろうとする。赤沢の道具に
等しい今の君子は沙紀には邪魔なのだ。だがこれで、彼は待ち構えていたチャンスを得た。
「おらよっ!」
彼は君子の身体を沙紀に向けて突き飛ばす。
動いた瞬間に、足を止められる。抱きつく君子を沙紀は避けようとするが、君子は沙紀
に犠牲の代りを押しつけようと、逆に沙紀にしがみ付き。せめて犠牲になるのなら、自分
一人では嫌だ。近くの者も巻き込んでやると。禍などその辺の誰かに行ってしまえば良
い!
その二人に、赤沢の手から催涙スプレーが、
「ひやっははっ、食らえ。馬鹿女ども」
二人はその場に倒れ込んだ。
その威力は、呼吸器系に甚大な打撃を与え、
「いい気味だぜ。何が、神域の管理者だ…」
娘が生意気に、俺にタメ口、利きやがって。
赤沢はゲホゲホ咳き込む二人の内、君子に先に駆け寄って、麻酔薬を染み込ませたハン
カチを押しつける。この状態で彼女に為す術はなく、君子は三十秒掛らずに意識を失って。
逃がさなければ、彼女はいつでも料理出来る。
「問題はこっちだ。何か妙な、感じがあったからな。もう少し泣かせてから、痛ぶるか」
蠅や蚊にでも使う殺虫剤の様に、伏せって苦しむ娘に歩みより、手を伸ばせば届きそう
な処からスプレーをかける、かける、かける。
「十分痛めつけてから、楽しんでやるから」
神なんぞ怖くねぇ。赤沢は全身を使って沙紀の上にのし掛り、俯せに彼女を組み敷いて、
「わざわざ、昼間の続きをされに来るとは…。俺を、余程気に入ったと見える。ガキの癖
に、俺とそんなにやりたいか、やって欲しいか」
沙紀はまだ口を利ける状態ではない。咳き込むその苦しみが、肌を通じて伝わって来て、
彼を愉快にして。自分を見下す者・邪魔する者の苦痛は、何より痛快ではないか。
「夜は長い。じっくり、遊んでやる。まずは、その生意気な顔から俺の好みに直してや
る」
彼は沙紀の頭を掴むと、未だ苦しそうに咳を止めぬ彼女の顔を、雪の園に思いっきり叩
き付けた。ばたばたと、華奢な手足が抵抗するが、この体勢で彼の腕力があれば、何の支
障にもならない。右腕一本でそれを行いつつ、左腕で沙紀の衣を剥しに掛る。左半身が出
来ると、腕を替えて反対側の衣を剥がす。
帯は昼間の時と同じく固く結んであったが、その気になれば赤沢は力づくで何でも為せ
る。
「ヒャァハハハ、ざまあみろ、ざまあみろ」
俺に、俺に盾突く奴はみんなこうなるんだ。
風だけが吹き抜ける境内に、彼の哄笑が吸い込まれて行くが、それと、全く同じ瞬間に、
「で、衣を剥して、上に乗っかって、私を叩いて、泣かせ、苦しめ、無力さを思い知らせ、
恐怖心を植えつけ、力で押えつけ従わせ」
沙紀はなぜか、社の屋根の甍の上にいる。
「イヒイィィヒヒヒヒィ」
彼は満足そうな笑いを続けている。なぜ?
一体、何がどうなったのだ。沙紀がどうして甍の上にいる? ここにいるのが彼女なら、
赤沢に衣を剥され虐待されているのは、何者。
「やる事は同じ。人の介入を弾く強さはある。人に頼らず決断出来る果断さも。でも、考
えの範囲がこれだけなら、次の行動は読める」
沙紀が見下ろす赤沢がいるのは、誰もいない雪の園で。彼は、その雪に沙紀の姿を見て
いるに相違ない。膝を立て、右手を伸ばし雪に押しつけ、左手でせっせと雪を掻き出して。
「自分だけで生きているとこうなるって事」
『彼が何を望むのか、その為に何をどういうタイミングと順番で繰り出すのか、分るもの。
後は、期待した手順通り幻を見せるだけ…』
赤沢は女を襲う時、逃げられなくする為に、最終目的に繋げる為に、必ず服を剥しに掛
る。それが出来れば、彼の所業はほぼ成功だ。腕
力で相手の意志と誇りを蹂躙し、痛みで恐怖と服従を植えつけ、抵抗の弱まりを見計らい。
沙紀が一歩前に出た様に見えた、その瞬間、赤沢は幻の虜になった。その展開を待って
いた彼は、掛り易い状況で。沙紀は逆に、彼が自分の思い通りに全てが進むと、思い込む
瞬間を待っていたのだ。最も幻覚に嵌りやすい、必殺のその瞬間を。後は自分の思いのま
まになる沙紀の像を、勝手に赤沢自身が増殖させ。
君子に絡まれたの迄は、事実だった。沙紀は彼女を我に返らせて、幻覚に嵌って一人で
騒ぐ赤沢を刺激しない様、そっと離れたのだ。
君子は赤沢から二十メートル位離れた雪の原の中で、ぽかんと状況を見守っている。境
内のど真ん中か。一体何が彼に起ったのかは、彼の心中を知らない彼女には、理解できな
い。
同時に沙紀迄視界から消えて、激変についていけない彼女は只、置物の様に立ち尽くして。
沙紀は、幻想に踊る彼を見据えて動かない。見たくもないと云うのが普通の反応だろう
が、沙紀の反撃はそれでは終らぬ。終らせぬ様で。
「逃げるな、無駄だって」
赤沢は幻覚の中で、自分の身体を抜け出す沙紀を再び上からのし掛って押えつけ、それ
を何度か繰り返しつつ、徐々に境内から森に近付いた。彼を気付かせる事なく、誘導して。
「全てを支配した積りの人は、操り易いのね。動きを何もかも抑えていると思い込んでい
て、己が操られているなんて、夢にも思わない」
自分の意思のみ押し通し、誰も受けつけず支配だけを望む者には、お似合いの罠なのか。
赤沢が喜んで浸っている限り、その幻に終りは来ない。自分が幻を、作り出しているのだ。
自分では抜けられない罠とは、誰も信用しない彼には、永久に抜け出られない罠なのか。
だが、沙紀が赤沢に示す報いはこれに止まらない。この程度の穏便な報復では、神を汚
そうとした彼の行いに相応しないし、彼女の心も納まらないだろう。
「その行いに、相応しい報いを受けなさい」
「あぶぉっ……!」
赤沢には、避ける暇もなかった。
幻に誘われる儘に、森の縁に来ていた彼を襲ったのは、樹木の枝に葡萄の様にぶら下が
っていた氷の塊で。背中にズシリとのし掛る衝撃は背中から肋骨を砕き割り、肺を圧迫し。
沙紀はどこに行った。否俺はどうなった?
天国から地獄に、赤沢は叩き落された。寒さと激しい痛みと、悔しさと反発と無力感が、
突如として彼の中に乱入してきて、彼の快感を全て消失させて、混乱させて、駆け巡って。
彼の全てが一瞬で消失し、残るは自らの屍か。
「い、いでぇ。た、た、助け……」
人に助けを求める立場になるとは、赤沢は考えた事もなかった。それも乞い願う立場に。
人を頼りにせず、寄せつけもしなかった彼が、人の情に縋る他に、術がない状況に陥ると
は。
「一体、何がどうなってやがる……」
眼の前が暗くなる。息が苦しくなる。寒さが遠のいて行く。身体がやけに重い。感覚が
消えてなくなる。変な感じだ。そんな赤沢に、
『殺しはしない。だから、安心して良い…』
沙紀の囁きだけが、嫌にはっきりと聞えて、『貴方を死なせたら、ここに貴方の思いが
残ってしまうもの。貴方の様に厄介な魂は、最初から招かないのが最善。そう思わな
い?』
赤沢の目が一瞬生気を取り戻す。人の善意・施し・情等、信じた事もなかったこの男も、
自分がその状況に叩き落されると、変るのか。
痛みと苦しみのどん底でも、希望が見えた気がしたのだろう。その心の動きは、人なら
ぬ沙紀にこそ、よく見えていたに相違ないが、
知る故にこそ沙紀の生殺しは苛烈に行なわれ。
沙紀は赤沢を許した訳でも哀れんだ訳でもなかった。涼やかな声は、彼に死を告げない
代りに、それよりも冷酷な宣告を下してくる。
半身不随位に留めて置くから。これからは、
「人の意向を気にかけて生きなさい。貴方は、そうせねばならない身体になったのだか
ら」
一生、人の意向を伺って生きなさい。
それはある意味、死よりもきつい報復かも知れない。特に、赤沢の様な人間にとっては。
誰も信用してない、誰も信頼出来ない彼が、その誰か分らぬ手の介在なしには、生きて
も行けぬ身になる。彼の心に、これ迄の人生に、生き方に、死ねと云うに等しい。
「私は、神域が無事ならそれで良いの。命迄取るなんて言わないから。私は、優しいもの。
さっき、貴方の心を覗いたわ。助けて欲しいって叫んでいた。私、貴方に約束したね」
『何か一つ、貴方の願いを聞いて良いわ』
朦朧となる意識の中で、赤沢は至近に沙紀を見た。手を伸ばせば掴み掛れる距離にいる
が、今の彼は手を差し延べる事すら出来ない。
今迄易々と踏み躙って来た距離が、今では向こう岸の見えぬ大洋の様に、果てしなくて。
動けない、身動き一つできない。この屈辱、いつも彼が人に与え続け、この日の昼には
眼の前の沙紀に迄与えたその屈辱感を、まさか自らが味わうとは。そんな時が、来ようと
は。
さようなら、赤沢さん。
沙紀は彼の顔を覗き込んで、その視界いっぱいに整った大理石の美貌を、嫌味な程に見
せつけて、涼やかに、静かに、
「貴方の事は、忘れない。でも、貴方も生涯、私を忘れられないでしょうね」
沙紀の笑みは美しい。氷の様に透き通って、憎しみも恨みもなく、それ故に人間を超え
た絶対を感じさせ。命等、人の思い等吹き散らしそうな、これが神域の管理者の一面なの
か。
人間の持つ憎悪ではない。沙紀のこの行いを支えているのは、神への非礼を働いた人間
の末路、自業自得を見つめ続ける冷徹さで』。
その笑みの平静な美しさに、赤沢は生れて初めての種類の恐怖を感じていた。人知を越
えた何か、人の存在をどこかから見下ろして、指先一つで迷いなく消し去れる。それが
神?
いいえ。
沙紀は最後に赤沢のその、誰にも聞き取られる筈のない心の中の呟きを否定して、
「神は確かに人間を見下ろし、介在し、関与するけれど、神も絶対ではない。貴方が君子
さんを見下ろし、介在し、関与できても、貴方自身が絶対ではなかった様に」
神も人も、世の理の制約の中にある。故に、
「未来を決めるのは、常に今の貴方の行い」
急かされて、間道を走破して来た貴昭が社の境内に現れたのは、赤沢が意識を失って沈
黙した、正にその時だった。
よりによってそんな場面に。貴昭はそこに沙紀の作為・悪意を感じるが、状況はそれど
ころでない。眼前で人が死に掛っているのだ。
「ああ、あ、赤沢……あああ」
酷い状況に鉢合わせた物だ。
貴昭はその場にへたりこむ。思考停止を装って、状況の変化を待つ。だが、それは頼り
になる誰かが通り掛ってくれなくば、意味を為さぬ見せかけで。これも一種の責任放棄だ。
それも、人が死ぬのを待つだけと云う究極の責任放棄だ。黙っていて非難される状況だ。
『怖い、怖い、怖い』
何が怖いって? 死が、苦しむ人間の姿が、ぴくぴく動きながら、絶命し掛っている者
の身体に纏わり付く死の気配が怖い。そして…。
「し、死に神……」
『赤沢の命を絶ち切ったのか』
そうされても当然な悪事をして来た男だが。
面倒の要素が一つ減ってくれた事自体は彼もどこかで気が楽になり、有難いとさえ思っ
ていた貴昭だが、実際に人を屠るというその瞬間を眼にしたくは、なかった。
赤沢により添っていた沙紀に、彼は思わず呟くが、それは沙紀にはしっかり届いていて、
「私がどう見えるのかは、貴方次第よ」
沙紀は赤沢の前に座った状態から首を上げ、貴昭の視線を正視して。彼は、目を逸らし
た。
『俺の命迄も、奪う積りじゃないだろうな』
そんな貴昭に、沙紀は冷然と視線を向けて。
「私が何をもたらすのかも、貴方次第ね…。
私は本来善でも悪でも、禍でも幸でもない」
この人は、この人なりの決断と行動の末に、この結末に自ら辿り着いた。貴方は、ど
う?
「俺はあんたに害意を抱いてない。危害を加えた事もない。だから、俺は殺さないよな」
た頼む。殺さないでくれ、俺は、俺はまだ。
「死にたくない? 誰の為? 何の為に?」
沙紀は彼の心に敢えて問うてみた。
「誰かを悲しませ、苦しませ、困らせて迄して自分の利得を貫き通す貴方の生命には、ど
れ程の値打ちがあるのかしら。誰も守らずに、誰も癒さずに、誰も支えないで、誰の支え
でもない貴方が生きる意味は、どこにあるの」
沙紀はその応えを彼には求めずに、
「私は貴方に恨みはない。あるとするなら」
沙紀の横に流れる視線を追いかけた貴昭の、その顔が恐怖に強張った。君子が立ってい
る。
「なぜ?」
その容貌に瞬間、般若を見た貴昭の驚きの言葉に、君子は静かだが不気味な笑みを返し、
「なぜ? 貴方が、そう言うの……?」
君子の笑みも強張っている。これは怒り?
「貴方が仕組んだ結果がこれよ。貴方が赤沢を殺したに等しい。貴方は、人を殺したの」
自分の責任逃れが、巡り巡って一人の命迄奪う結果になったわ。目を開いて見なさい!
「貴方は人殺しよ、貴方は私を陥れようとする余り、人を死なせてしまった、人殺しっ」
ぴくとも動かぬ赤沢だが、その生死の確認より介抱より、君子はそれをネタに煽動して
貴昭を精神的に追い詰める方に重点を置いていて。赤沢の、命を使っても心は痛まないと。
このまま赤沢が死んでしまえば、それに越した事がなく、出来るだけ助けたくもなくて。
君子の立場になれば、その気持ちも分らないでもないが、凄じい非情さだ。
「俺の本意じゃ、なかったんだ」
「言い訳は、聞きたくないわ!」
その部分に、君子の憎悪に満ちた力が一層強く籠り、その笑顔−笑みなのだ−が鮮烈で、
「貴方が、人に流されるままだというのなら、貴方が一番嫌いな流れを、作り出してあげ
る。一生、その流れに振り回されてのたうち回るが良いわ。私は貴方を、絶対に許さな
い」
私を捨てた代償を、思い知らせてやるわっ。
目が据わっている。貴昭を射竦める視線で、
「村に戻って、貴方が赤沢を殺したって噂を、ばら撒いてやるんだから!」
貴方の作為が、仇になる。貴方が赤沢と揉めていた事は、きっと村の誰かが知っている。
それが、私に絡む事だと想像するのも容易い。
そして傷害致死事件。これで貴方は警察に呼ばれるわ。醜悪な内幕を、隠し切れないで。
「貴方の婚約を私が破談に追い込んでやる」
もう自分の幸せを諦める。貴昭との全てを諦める。その代り、貴方にも相応の苦しみを、
痛手を、悲しみを、味わってもらう。それが、
「私の復讐。私の、復讐の始り!」
貴方も永遠に幸せにはなれないわ。私が許さない限り、私が認めない限り。
私に頼みなさい、止めてくれと。私に縋りなさい、俺が悪かったと。私に振り向きなさ
い、恐れと悔いに満ちた眼で、私の後ろ姿を。
「一生貴方の不幸になって、纏わり付いてやるんだから!」
「あの人達は、終生変らないかもね」
沙紀は甍の上で、二人のこれからを暗示するが如き成り行きを、眺めていた。
赤沢の『死』を煽って貴昭を窮地に立たせる事に喜びを見いだした君子と、赤沢の命な
ど重要でもないが、とにかく死んで大事になっては困る貴昭と。貴昭の愛を繋ぐ事を諦め
て開き直った君子と、地元で事件を起こし不祥事を暴露されたくない貴昭は、今や追う側
と追われる側が、完全に逆転した。
立ち去る君子と、追い縋る貴昭。
振り払う君子と、更に追う貴昭。
君子は、足早に境内を去る。吹っ切れて、愛の熱が冷めた君子には、この寒さは堪え難
かっ様だ。更に言えば、心が冷えきった以上、頭や身体を冷やす必要は、なくなった。
貴昭がすぐにはそれを追えぬのは、放置された赤沢に、助けを呼ばねばならないからだ。
君子には死んで貰った方が有難いが、彼には、
「赤沢さんを、死なせたらもっと大変だよ」
下りてきた耳元に囁く沙紀の示唆で貴昭は、赤沢がまだ死んでないと知らされると、大
慌てで凍え死なない様にと小屋から毛布類を運んで来て彼に被せ、村に電話して救援を呼
ぶ。
動かしては、却って拙いかも知れない。
「そうそう。やれば結構出来るじゃない」
「うるさい。これは全部、お前の尻拭いじゃないか。冗談じゃないぞ、少し手伝えっ」
振り返った時には、もう沙紀はいない。
好きな時に現れて、好きな時に消えられる。畜生、なんて自由自在な奴なんだ。羨まし
い。あれこそ無責任の権化ではないか。呟く彼に、
「間違えないで、これは貴方達が起した事の尻拭いよ。己の頭上の蝿は、自分で追って」
貴昭の頭に響く声が云う。それは紛れもなく正論で、彼は今自分の後始末に追われてい
るだけなのだ。だからこそ沙紀は介在しない。ここからは人間の領域だけで処理されるべ
き。
今ここで赤沢に死なれてしまっては、いよいよ貴昭には最悪だ。この際、村の衆にばれ
る事態になっても、止むを得ない。生命を助ける方が優先する。ああしかしこの皮肉よ!
今迄面倒から逃げ続けていた貴昭が、君子の置き残した面倒を、始末する羽目に陥って。
見る者には、喜劇的な変化に見えるだろうか。
だがそれにも関らず、沙紀の指摘は彼らの心理を異様な程的確に言い表していて。そう、
「状況と立場が変れば、同じ性格のままでもその行動への現れ方は、まるで違って来る物
なのね。……でもこれも、もう一つの彼らのあり方、なのかしら」
貴昭の性格は全く変ってない。唯、逃げても状況が一層酷くなると、余りにも自明な事
なので、追って事態を収拾する他ないだけで。
逃げられぬから、他の何かをせねばならぬだけ。責任感ある男に生れ変った訳ではない。
死んで生れ変っても、その本質は変るまい…。
君子もそうだ。君子は貴昭を愛する事から憎む事に心の向きを変えただけで、依存体質
は何も拭えていない。愛する故に憎む。古今東西に良くある、矛盾した変形の愛情表現だ。
貴昭への憎しみを心の支えにして、貴昭の苦しみを喜びにして、追い縋って宥める彼を
冷たく撥ね除けつつ、尚彼には追って来る他にない状況を招聘し用意して。
追って来なくなる事を、望んでいる訳ではない。振り払いながら、彼が追い縋る状況を
作り出し、振り払い続ける事で自分の存在意義を確かめて。貴昭の存在がなければ生きる
意志を持てぬ彼女の心の底の弱さは変らない。
「赤沢さんも、果して、変るかしら」
そこには既に憎しみはなく、哀れな身分に転落した・させた赤沢の成り行きを気に掛け
ると云う冷酷な迄の興味本意が窺えるだけで。
既に貴昭は、無力に陥った赤沢を見下している。厄介者扱いは至当だが、それ以上に自
分を使役した者への不愉快さが嫌悪感になって、ざまあみろと云う感覚迄が含まれていて。
ここで赤沢を見殺しにする程貴昭も大胆でないから、瀕死の生命を助けようとはするが、
その心に善意は薄い。流された感覚が色濃いとは、彼の半生を知らぬ者にも感じ取れよう。
そして赤沢は唯々己の無力さに、誰かの助けがないと何も出来なくされた己の先行きに
恐れ戦き、心が砕け散る程の恐怖を感じ続けたまま、生命の危険に晒されて、悪夢に呻き。
沙紀は赤沢を殺さないとは云ったが、それを額面通りに受取る者はいなかろう。それに
その積りがなくても動けないまま、真冬の夜に放置されては、朝迄に彼は自然に息絶える。
その恐怖、その痛み、その苦しさ。その中に放置され続ける苦しみは、下手をすると瞬
間的に与えられる死より、厳しいかも知れぬ。
氷点下を二桁以上下回る微風を背に受けて、長い黒髪をフワリと踊らせながら、沙紀は
鳥居の上に座り直して、君子が走り去った後も、透徹した瞳を黒く輝かせつつ状況を見守
って。
「じゃ、頑張ってね」
自分を呼ぶ声に耳を澄ませる顔つきを瞬時だけ見せて、貴昭の前から沙紀は姿を消した。
境内から姿を消滅させた沙紀が現れたのは、己を呼び付ける君子の声がした、村への道
の半ばで。君子は切迫した感じではなく、むしろ余裕のある冷笑と共に、自分の呼び掛け
に沙紀が答えてくれるのを、待っていた。来ると分かっていた、という顔立ちの君子を前
に、
「もう、私を呼び付ける用はない筈だけど」
興味深そうな瞳が印象的な、沙紀の突如の登場にも、もう君子は驚く様子を見せないで、
「ええ。貴女のお陰で助かったわ。有難う」
言葉は素直だが気持ちは全然篭もってない。本当の用件を続ける為の前置詞に近い扱い
だ。
二人の間合いは、二メートル程か。雪中に立つ君子に対し、沙紀は今更正体を隠す必要
もないのか中空に現れて、雪の原から僅かに浮いた姿勢で停止して。
「お礼を云う為に、私を呼び付けたの?」
訝しげな視線で沙紀は問う。沙紀の存在を前提に入れて意識し、既に切迫した状況には
いない君子は、心中を露にしなくなっている。
君子は、ゆっくり沙紀に歩み寄ってきて、
「ええ、その通りよ。……貴女には、今日一日で色々とお世話になったから。それに神様
には、敬意を表しないとね」
そして次の瞬間、
「これが私のお礼よっ!」
君子は沙紀に平手打ちを見舞ったのだ。女の力なので、吹っ飛ばされはしなかったが、
「……ふうん……」
沙紀は、避けられなかったというより、あえて受けたのかも知れない。予測の外の行動
ではなかった様で、不敵な笑みを浮べながら、君子の様子を、次の動向を窺っている。
「貴女も、人間の痛みを知ると良いわ。
これで、おあいこよ。貴女の助けには感謝しているけれど、感動の涙は流せないの」
この一撃で、沙紀への複雑な感情も清算と云う事なのか。その儀式の為に、君子は沙紀
を、二人っきりになれるこの場に呼び付けた。
沙紀は、君子の求めに応じて多くの真実を見せたが、その結果が君子の求める姿ではな
かった以上に、沙紀がそれに好奇心で関って何も咎を負わない事に、君子の腹立たしさが
拭えなかったのだ。それは、半ば自分の八つ当りで、求めた自分にも非があっただろうが。
だが残りの半分で、どうしてもあの童女が面白半分に人間の泥沼に顔を突っ込む行いに、
人間として承服しがたい。許し難い、不公平感があって、腹の虫が納まらない。
人に罰が下される様に、沙紀に罰が下される事がなければ、あの面白半分な行いは野放
しだ。神ならそれも許されるのかも知れぬが、君子には許しがたかった。当事者には、面
白半分な者への抗議の権利がある筈だ。自分が呼び招き頼み込んだという非を差し引いて
も。
「御免なさいね、お嬢さん」
挑み掛る様な目線で、言い放つ。
【神だからといって、やり放題は許さない】
その認識は、少し間違っている。間違っているが、沙紀は敢えてそれを否定はせずに、
「私は別に構わないわ。私は貴女に感謝の涙を流して貰う為に、貴女や貴昭さんや赤沢さ
んと関わりを持った訳では、ないのだもの」
その顔つきには、感情の浮動が殆ど窺えず、逆に老成した平静さが印象的で、整った大
理石の美貌には、うっすらと笑みさえ見られて。
その笑みは、見下す様でもあり哀れむ様でもあり、自嘲気味にも見える、複雑な笑みで。
果して君子の言動が、沙紀の心に響いているのか、いないのか、不快に思っているのか
納得させられたのかも、分らない。否、大事な局面で、そんなに簡単に喜怒哀楽を表情に
表すのは、愚か者なのだろう。君子達の様に。
沙紀は静かに、だが明らかに人と人にあらざる自分との違いを噛み締めた冷淡な語調で、
「私は、人の願いを叶える為にあの社にいる訳でない。私は、人の為にいる者ではない」
大体あの社の主は、私ではないのだもの…。
「私には、貴女の気持ちが分らない。貴女が、私の思いを理解できないのと同じ様に」
「……」
「貴女に、力を遊ばせ介入を避ける神への民からの怨嗟の強さなんて、分らないでしょう。
貴女に、民に引きずられて介入を強いられ、意思に沿わぬ結果を見せ・出さねばならな
い神の深淵なんて、想像も及ばないでしょう」
人に人の悩みがある様に、神にも神の悩みがある。その深みは、君子が知り得る程度の
物ではない。人に、逃れ得ない人の業があるのなら、神にも、逃れ得ない神の業があると。
「でも、私は人を羨ましいと思わない。人を分りたいとも思わない。所詮人は人、神は神。
求めて得られない物をいつ迄も思い描いて、それで心を潤ませて満足出来る程、私は愚
かではいられないから」
これが沙紀の示した真実だったのか。今迄の冷笑のどれよりも苛烈で酷薄な、相手を見
下すのではなく粉砕する様な、しかし真正面から受け答えする沙紀に、君子は圧倒されて
何も語れず、応えられず。深さが、違うのだ。
姿形は十三、四歳の娘でも、その倍以上は生きて見える君子を、指先で摘む様に扱って。
これが、神と人の差なのだろうか。それとも、これは神と人の差ではなく、個々の魂の
器量に懸隔があるということなのだろうか…。
貴女は、お行きなさい。人の業を負った人の道を。私は人にはなれないし、なりたいと
も思わない。私には、神の苦しみと神の幸せだけで十分過ぎるの。
「それ以上は、私にも負いきれないわ」
「それでも尚、あの人は貴昭さんを求め続けるのね。己が誰かを頼りにしてしまう、頼ら
なければ安心できない、そう云う性分を今更直せはしないと、見切りを付けて」
自分が頼れると同時に、自分を積極的に騙せそうにない貴昭さんは、君子さんにはちょ
うど良い相手だから、なのかしら。
あの二人、あの流れで回りに祝福されれば、悪くない組合せの夫婦になれるかも知れな
い。
恋は一人の思い込み、愛は相手の幸せを願い自分の幸せにする思い。でも結婚とは、
「愛も恋も醒め切った後でも残る、相手への信頼、家庭を維持できる惰性、不動の鈍さ」
思い込みでも嘘でも形式だけでもいい、二人の思い込みがあれば、維持される。だから、
愛がなくても恋が醒めても家庭は保たれ得る。
「形があれば良い。心は後から、ついてくる。
それも一面の真理ではあるわ。赤沢さんの言いたい事も、全くの嘘ではない……」
沙紀は自分の小さな両の掌で、巫女の衣の上から自分の胸に触れてみる。赤沢の行いは、
沙紀の心にも少しの傷と恐れを残した。老成して見えても、その姿は童女であり、心は姿
同様に女人である。全く傷も残っていないといえば、嘘になろう。
自分はそれに正面から対峙して退け、吹き払いはしたが、完全に拭い去れた訳ではない。
何もなかった状況に、戻れる訳ではない。
それが自分に将来にどの様な形でどれだけ尾を引いて来るのかは、神である彼女にも分
り様はないのだが。あの感触は、残っている。赤沢に云った通り、忘れはしない。忘れ得
ぬ。
「でも私は誰かに癒して欲しいと思わない」
誰かに生殺与奪を頼って、生きたくはない。誰かに縋って、望みを託し、その運命に便
乗したいとも、思わない。人は富の為に生きるのではない様に、愛の為に生きる物でもな
い。
沙紀に言わせれば、愛も人生のスパイスの一つに過ぎない。それに過剰に耽る事は、金
銭への執着や正義への固執と同じで、決して幸せに直結する訳ではない。それは幻想だと。
「愛に生きたい人もいると思うけど、それは各人の選択よ。自明の理ではない。尤も…」
私は、人でもないけれどね。
いつ果てるとも知れぬ暗雲の闇は人の心か。 軽やかな風が吹き抜け、時が刻まれてい
く。双方共に、沙紀を掠めつつ、沙紀を取り残し。悠久の時を超えて、沙紀は尚ここに居
続ける。