粉雪よ、大地の汚れを包み隠し
北風よ、心の澱みを吹きさらせ
雪降りしきる境内では、一人の少女が謡い、踊り、跳ね回っている。夕暮れにはまだ早
く、風が強くないので吹雪ではないが、それでも最も近い人里迄数キロも隔たった、誰も
寄りつかぬ厳寒の境内で、ただ一人。その光景は、決して常に見られるものではない。
周囲には人気もない。無論、人影も足跡も全くない。内陸の寒気は厳しく、身体中を防
寒着に覆い隠しても、顔を晒すだけで骨から凍りつく程で。好んで出歩く時期ではない…。
最早その由来を知る者さえ少なくなった村外れの無人の神社は、村自体も過疎の故に人
の手も行き届かず、人の匂いも消えて久しい。
その古い社、悠久の沈黙を保つその境内に。 人が寄りつきそうな処ではない。通り掛
る事さえ稀だろう。高速道路からも鉄道からも外れたこの周辺一帯は、観光には不便すぎ
る。冬の山村は正に冬眠、出歩く者が珍しいのだ。
それなのに、それなのに。
年の頃は十三、四歳と見える、艶やかな黒髪を伸したその少女は、誰かを意識して謡い
踊っているのではなさそうだ。誰に見せる訳と云うのでもなく、誰の為にと云うでもなく。
端正だが、美しいと云ってよい顔だちだが、その容貌には、世間を生きぬく人間には抜
き難く付き纏う泥臭さ・俗っぽさを抜き去った陶酔・純化された表情が、妙な印象を与え
る。
怜悧と云う表現が少女の可愛らしさを表すに適当な表現かどうかは難しい処だが、見よ
うによっては生意気に近い程に平静で超俗で、世の全てを俯瞰する様な不思議な魅惑があ
り。
黒く深い瞳、背の半ば迄届く艶やかな黒髪、身長は一メートル四十センチに至るかどう
か。その身体つきは華奢だが、飛鳥の如き身軽さを支えてしなり、折れもせずよろけもし
ない。
あれだけの動きを見せながら、その手首にも首筋にも汗の跡一つなく、熱気どころか涼
気が立ち籠める。肌には、しみもそばかすも、痣もない。それが彼女に一種の神性を付与
しているのか。見かけの年齢の故かも知れぬが、未成熟な細い素足の清楚さが逆に艶めか
しい。
大和撫子と云うべきなのか。正確にはそうではないが、今時の者が古風に思える要素の、
その美しさを凝縮した、正に巫女の様な少女。
模様のない白い和服に、赤い帯。その衣は巫女の正装に酷似していたが、足の裾が違う。
洋風なのか、動き易く微妙にアレンジされて。
そうでなければ、幾ら身が軽くても、無茶苦茶に近いあの舞い方は、できなかろう。
人間に出来る動きでないのだ。格闘や舞踊の専門家なら、驚愕するに違いない。明らか
に力学に背いた軽やかさ、あの速さではあり得ない浮き、夢の物としか思えぬ力の抜け方。
村からは数キロの距離を隔て、山と谷と林の向こうに互いを隠し、夏なら歩いて一時間
強だが、冬にそれを行うのに要する時間はその幾層倍か。通行不能に限りなく近い。
特定の管理人もなく神主もいない。夏は月一度か二度、村から交代で誰かが掃除に来る
程度の錆びれたこの神社で、どうして・どこの誰が、わざわざこの時期に訪れるのか。
これは、まず常識的な疑問符だろうが。
辺りは一面銀白色で、境内を囲んで密生する木々の枝も葉も白く染められ、空に漂う涯
の見えない濃密な暗白色の中、白黒映画の如く全てがくすんで。雪にかき消されそうな鳥
居の朱の褪せた色が、時の悠久さを感じさせ。
ここでは時が停止しているのか。
軽やかな動き、夢幻的な雰囲気、揺らぐ事のない静寂。足跡は降り積る雪に埋もれ、美
しい踊りの様は止まる術がなく、微かな物音は積雪に吸収され或いは散って何も残さない。
ここに今この少女がいて、謡い踊った証拠は何も残らない。証拠がない事実を事実でな
いというのなら、この少女の存在は嘘になる。
一体、全ての事実に証拠を求める事が可能だろうか。事実が全て証拠を残すのだろうか。
ここだけが、この空間だけが、この暫くの間外界から隔絶され。何にも影響を及ぼさず、
何からも影響を及ぼされず。単独で存在して。
誰もおらず、誰もいらず、誰も入り込めぬ。彼女の意志のみがある自己完結的な小宇宙
…。
だが、この日は違っていた。訪問者と云うべきか、侵入者と云うべきなのか。誰が立ち
寄ろうかと思える、僻地の近寄れぬこの社に。並の者は近寄れもせぬ、現時点のこの領域
に。
敢て近付いてきた者がいたのだ。
「まだ、残っているのね。こんな処で」
黒衣の女性は、雪降りしきる鳥居の下で、その様を眺めて佇んでいた。信じられぬと云
う感じではないが、その表情には驚きがある。
それも、まさかと云う感じの驚きではなく、やはりと云う感じの驚き。発見と云うより
は、再発見の驚きだ。大きなリアクションをする人物ではなさそうだが、驚きは隠せない。
一対の紺碧の瞳が少女を、そして彼女の謡い踊っていた境内を見つめて、瞬きもしない。
正確には、鳥居のすぐ外側、神社の入口と一般に思われる、石段の最上階で。
女性の年齢は二十歳代前半か。身長は百六十五センチを少し越える位で、目の前で謡い
踊る少女より頭一つ近く高いが、現代日本では標準的か。黒いスーツの上下の上に真冬に
は薄着と言える黒のガウンを羽織ったのみで、黒いストレートの髪をショートカットに切
り揃え。少年っぽい感じを見る者に与える、こちらも華奢な体格の女性だ。
顔つきも身体付きも日本人、それも背が高くなってスタイルの良くなった現代人の均整
の取れた身体付きに唯一つ、その双眸の色だけが南蛮渡来の紺碧で、奇妙な印象を持たせ。
今の様にそれを閉じている限り、特別美しい程でもない、端正なだけの若い女性だが。
ハーフ、かも知れない。少なくともその祖先に異国の血が混じっていると云われる容貌だ。
平均的な日本人より少し彫りが深く、黒いサングラスを今は外して、右手で弄ぶ彼女に、
「入っても、良いのよ」
少女は踊りを中止して、息が切れた様子でもなく平静に、そう語りかけた。鳥居の内側
の外縁部迄歩いてきて、少し低い位置にいる為ほぼ同じ高さにある女性の瞳に、正面から、
「同類とは云えないけど似た者同士でしょ」
見下すというのでないが、なぜか見下ろす感じがある。驕慢な訳ではないが、高みから
おいでと呼びかけている様な、そんな感じが。
その声は、どことなく幻惑に満ち。相手の出方を窺うと云うのではなく、心を持たぬ岩
にでも語りかける様な、無色透明さを持って。
何もかも分った上でなのか、何も知らない無邪気の極みでなのか。黒く瞬く瞳の招きに、
碧い瞳は僅かに首を左右に振って、
「似た者同士ではあるが私は似て非なる者」
彼女の声は明瞭だが、波の立たない沼の如き印象を与える。嘘を言っている訳でないが、
決して全てを語ってない、そんな感じがある。
神域に似つかわしくない者よ。女は自らを卑下する訳でもなく、冷然とそう云い切って、
「お断り、した方が良いわね。聖域・神域に、私の様な存在は、無益どころか有害無尽
よ」
どちらもが、自分が何者で相手が誰で、ここが一体どう云う場所なのかを承知している。
そういう会話だ。端から見る者は、何がどうなのかから説明がなければ理解できなかろう
が、分かっている者同士に解説は不要らしい。
「本来、邪悪な者が訪れるべき所ではない」
そこには微妙な親近感がある。それは旧友や血族に再会できたと云う正面きっての喜び
ではなく、かつての不倶戴天の宿敵・長く追い続けていた仇敵に、捜し求めてから数十年
経ってどうでも良い頃になって再会できた様な、懐かしさ。敵意や憎悪や怨恨さえも流し
去る時の流れの末に見えた、微妙な好意……。
ああ、お前も生きていたのか、と云う感覚。世代を共にした者に出会えた事を喜ぶ侘し
さ。既に我も君もが忘れ去られた者達である事を、自覚した上での再会に喜ぶ奇妙な哀愁
の思い。
一体この両者は、どの様な経緯を経て今日ここにあるのだろう。
碧い瞳に去来する想いは、そしてそれを受ける黒い瞳の側にある想いとは、何なのか。
微妙な沈黙が二人の間に蟠るが、先にそれを破ったのは碧い双眸を閉じた女の方で、
「唯、最近はこうして、私の同類を見かける事も非常に珍しいので、つい……。ね」
目を閉じる事で自身の血の気を落ち着かせ、同時に少女に敵意がない事を示している様
だ。苦笑気味なのが、その感慨の複雑さを物語る。
一方、少女の方はそれ程複雑な感慨を抱いてはいない模様で。珍しい訪問者が来た、位
の感覚か。若干の戸惑いはあるが、余り女性の拘る部分に拘泥する様子はなさそうだ。
少し、首を傾げて考え込む様子を見せるが、それも深刻に悩むと云う訳でもなく、
「私は、ここを出る事が殆どないから、良く分らないけれど。少なく、なっているの?
その、両方とも」
緊迫感に欠ける問いかけだった。それ程女性の知って関る事情には、精通していない様
に聞える。自分に直接関りのない事柄に、積極的に首を突っ込む性分ではないのか。
俗世の事には余り関りを持たない。それはこの神性を持つ少女には、むしろ似つかわし
いのか。そんな娘に、女性は逆にその俗世を悠々と泳ぎきって来た懐の深さを片鱗に見せ、
「そうね。殆ど見かけなくなったわ。血筋にその痕跡が窺える程度の者とか、先祖返り…。
貴女の様にまともな形で残っているなんて、会えるのは久しぶりよ」
昼は傲慢な新参者だけど確かな科学文明が、夜は神や魔の縛りを抜け出てた果てしない
人間の想念が溢れ。私達の出番は、なさそうね。
二人の会話は、年齢の差を感じさせない。
この二人には、見かけの年齢など実はどうでもよい、本質ではない、小さな差異に過ぎ
ないと云うのだろうか?
「味方はいないけど、敵もいない。
罵倒もないけれど、声援もない。
あるのは、凍て付き錆びれた心の荒野だけ。
何かこう、力が抜けるけど……」
悪くは、ないかもね。
碧い瞳をゆっくり開くと静かな声で彼女は、
「時の流れだけは、人にも、神にも、魔にも、どうしようもできないわ。神に魔に人が縋
り付き、その祈りを私達が受けていた時代は、終わってしまって、戻りこない。彼らも…
…人間も、それなりに時を過しているみたい。
ええ、そう。私もね」
貴女は、どう?
その問いかけに、少女は首を傾げて少し考え込む様子で、
「私は、ここを管理するだけの者だから」
それ以上でも、それ以下でもないから。
是とも非とも言わぬ。云ってどうにかなる物ではないと云う背景もあるが、それ以上に
この二人には、奇妙に冷めた共通の感触が心にあって、深入りしない程度の賢さがあって。
少女には、それは切実な問題ではないらしい。
少女はその場で、くるりと右に三百六十度回って見せる。その行い自体には余り意味は
なさそうだが、周囲に雪が舞う様は流麗で…。
「相当、強い力の方なのね。神域の外とは云え、社の周囲の森を広く覆う聖域の中に迄入
って来て、自然体でいられるなんて」
寒さも感じず、寂しさも不気味さも感じず。素肌を、手を足を顔を晒して踊る、娘のそ
の大理石の端正さが、心を人為的に削除した怜悧さが、何か奇跡的な美しさを放って見え
て。
小作りな足が、靴も靴下も履かぬ素足でも、凍えもせねば、寒がる様子もなく、雪を氷
を踏み締めて平然と、絨緞の上の様に滑らかで。
陽光の元ではない、闇夜に照す月でもない。朝と夜の間にたちこめる、薄暮の濃霧の様
に。境界も定かならざる、だが限定された異界の中で、この世の物ならざる雰囲気を兼ね
つつ、異形とも神聖とも異なる少女は静かに語るが、
「そうでもないわ。圧力は結構感じている」
女性の雰囲気はまさに夜だった。星一つ見えぬ漆黒の闇に溶け込み、潜み、待ち受ける。
サングラスを填め直すと、その細身にはありえない程満ちていた質感・力感が減殺され
て、猫を被っていれば普通の女性にも見えて来る。それが彼女の処世術なのか。
「余程堅固な神域・聖域なのね。余り、長居は出来そうにないみたい。」
ぴしっ。ガウンのどこかで火花の音がする。 何かの力が彼女を拒否している。雰囲気
は、見れば誰にでも理解できたろう。娘が好意的でも、ここの場の空気は違う様だ。
何物なのかは分らないが、二人以外にこの場には誰もいると思えないのだが。それでも
確かに重さの異なる空気が、気流の流れにも似た何かで、女を外に押し出そうとしている。
誰かがその場に居合わせれば、そんな大まかな構図が、素人目にも見えて来たに違いない。
彼女は、神や聖なる者に嫌われる存在なのか。
「調和して、安定して、静かで、美しい所ね。
でもこれ以上、ここにいると……」
大人しそうな、一見荒事を好みそうにない、知的で理性的に見える女性ではあるが、
「……壊したくなってくる!」
一瞬だけ、女の目線が鋭くなった。
サングラスの向う側で、瞬間ギラリと双眸が輝いて見える。殺気を越えた、獣の目だ。
それは実は、彼女が神域の間近にいる事が結構な負荷である事の証明なのか。破壊と憎
悪を欲すると云い伝えられる本来の彼女が、顔を覗かせたのか。
だが、そんな負荷を感じる彼女は一体どこの、何者なのか。そしてそんな神域を『管理
する』この少女は、一体……?
少女に緊張感はない。力量の差か、それともホームグラウンド故の優位なのか。優雅で、
雅とも言える柔らかな目線を送って来るのに、女性の瞳は先程の一瞬以外は大人しい深み
で。
この二人が、真剣な対立を望んでないとは、分る。熱い敵意や憎悪はなく、むしろそれ
らが冷め切って、持て余している様子は分るが。
血が騒ぐという言葉がある。安定した友好関係を続けられる間柄でも相性でもない様だ。
「闘いも悪くないし、本来私はそうすべき立場なのだけど、今更そんな事をしてもねぇ」
二人で聖戦の蒸し返しなんて馬鹿馬鹿しい。
今更二人で闘って、何になると云うの?
二人は睨み合いとも見つめ合いともつかぬ無言の対峙を数分間続ける。果てしない過去
を感じさせる二人の出会いは、双方にどの様な影響を与えて行くのだろうか。
「逢えて良かったわ、有り難う」
彼女は言うや唐突に身を翻す。微笑みも射抜く眼光も怒りの目線もない。彼女の最後の
目線は、冷静に目の前の物を見つめ認識し分析する、平時の瞳だった。その背に、
「行っちゃうの?」
「ええ」
特別引き止める為の問でもなく、それを期待する答でもない。確認程度の、意味合いか。
利害や情念の縺れる関係ではない。双方共に、通りすがりに偶々逢っただけだと。もし
深い関係になるならば、それは対立闘争以外にありえないと、分かり尽した上での離別だ。
淡々と石段を下り始める。その足が数歩目で止まって、ふと振り返る。石段の上でまだ
少女が見送る視線を反らさないのを見上げて、
「あ、そうそう。折角だものね……。
お名前、聞いておいて良いかしら」
答を貰わぬ内に、否相手が言葉を返す前に、女性はショートカットの黒髪を揺せて、
「私は、あや。色彩の彩って書くのよ。
……貴女の、お名前は?」
闇に潜む間は色がなく、光を当てられたら当たり方で様々な反射を為し彩りを映し出す。
元々の色はなく、あるとすれば無色透明か闇。
彼女の黒衣と黒髪、白い肌は、色彩の欠如はそれを象徴的に表していて。
彩への答に注視する者がいたなら、驚愕に耳を疑ったに相違ない。耳には何も聞えなか
ったのだ。少なくとも、音声による答を娘は返さなかった。それなのに娘の意志は確実に
届く。耳の奥、頭蓋の中。鼓膜をすり抜けて。
『(私は)沙紀……神域を管理する者……』
風の音? 否違う。だが、どうして?
世の中の事全てに説明を求める者は多いが、それは無理だ。誰もが全てを悟って行動す
る訳ではなく、それ程に賢い訳でなかろうから。
今目の前で謡い踊る幻想的な娘の存在も又、彼女自身に説明を求める事も、皆が理解さ
せようとする事も、無理な存在なのかも知れぬ。
それは夢−何の脈絡もなく始り終る、人生の如き物−に似て。唐突にあり、理由は不要。
或いは、理由はあるのかも知れぬ。あるのかも知れぬが、それを人が理解出来るかでき
ないかは、又別の問題なのだ。
全てを知った上でか、全てを知る事が無意味だと諦めてか、知った振りを装ってか、彩
は沙紀と名乗った娘に視線を向けてから、百段を越える石段を一歩ずつ下り始める。
既に、来た時の足跡が降り積る雪にかき消され、脛迄が雪に埋まる程だが、彩は濡れる
事も寒さも寂しさも人気のなさも、全く気にする様子もなく、歩みを進めて。
右手に持っていた黒のサングラスを外すと、何も変わらない筈なのに、紺碧のその瞳の
どこかに獰猛さが感じられる。やはり何かの圧迫感・異彩を放つのだ。
「……ふううん……」
再び振り返ったのは彩の側に、少しだが沙紀との繋りを断ち切る事への、未練があった
為なのか。かなり石段を下り、相互に隔たりは生じていたが、沙紀が未だ視線を投げ掛け
ている事を識る彩は、間近な者へ語る声音で、
「神域を騒がす者が、訪れて来そうね。もう、(貴女もその存在を)分ってると思うけど」
「ええ」
沙紀の答は短かった。
その声音も又、距離を隔てた彩に届かせようという物でなかった。お互いに、その様な
気遣いが無用な相手と分っていた様でもある。
「私が関ると、事が厄介になりそうだから」
気遣いと断りと弁明と、お手並み拝見と云う若干の含み迄を持たせた感のある、彩の静
かな語りかけに、沙紀は老成した受け答えで、
「大丈夫。神域の管理は、私の役目だもの…。しょっちゅうよ、乱れた心が迷い込むの
は」
神域は安定しているから、焦り迷う心の駆け込み寺になり易いし、居心地も良いみたい。
力が強い処には、救いを求める弱者が流れこむ。人間だって、その例に漏れない。自覚
はしてなくても、彼らも結構鋭い生き物だわ。
扱い慣れているという感じの沙紀の返事に、
「気をつけてね。人間って、無力な愚か者の様でいて、侮れない処もあるから。思わぬ落
し穴が潜んでいる事もあるのよ、人間には」
『人の心に潜む闇こそ、最も恐るべき闇…』
振り向いてはいないのでその表情も視線も窺い知れぬが、彩が妙に実感を伴う声でそう
語るのが、沙紀には印象的だった様だ。距離を隔てても二人の会話に大声は必要ない様で、
聞えるか聞えないかの間隔でも、意志は通じ。
「私が心配する様な、事でもないわね…」
彩は歩み去る。最後の語りかけに答は不要だ。あれは沙紀の問題で、彩の問題ではない。
この神域が静寂を保とうと波乱に襲われようと、破壊され危機に瀕し崩壊させられても、
彩には何の痛痒もない。味方でも、ないのだ。
この神域の見事な静寂は少し気に入ったが、
「悪くはない、良い処ね。でも、静か過ぎる。
……殺伐とした私には、平穏に過ぎるわ!」
見た者がいれば見えたに違いない。サングラスに隠されている筈なのに、一瞬彩の瞳は、
グラスの闇の向うで獣の輝きを放ったのだ。
それを知らずにか、知ってて知らぬふりか。かなり長い間見送ってから、沙紀は社に戻
る。 その表情は、敵意も爽快感も寂しさも心細さもない、奇妙な程の平静さで。
雪は降り積もり、時は確実に刻まれて行く。
二人の男女がその山村を訪れたのは、人目を忍んでの事だった。彼らの姿格好は背景と
なる村に比すれば却って目立つが、村自体が眠り込んだに等しく、元々村人も僅少なので。
ここに来る事が、人目を忍ぶ行いなのだろう。
高価な黒い車体を、元々太くないのに雪で更に狭隘になった小道にねじ込む様に走らせ、
彼らは小さな村の中心部を、物も言わずに駆け抜ける。半ば雪に潰され掛った軒の低い木
造のあばら屋を、色褪せた看板を何年も放って立て掛けてある店々の通りを、突き抜けて。
役場も学校も警察署もが、石炭ストーブの黒煙を吐き出している。見る者には、タイム
スリップの錯覚さえ与えそうなこんな小村に、若者達は何の感慨をも、抱こう筈もないの
か。
電気は辛うじてあるが、信号もない。鉄路からも高速道路からも外れたこの村は、生活
の匂いも雪に埋れ、ゴーストタウン。午後三時で人影もない。春迄眠り続ける積りなのか。
『ったく、とんでもねえ道路だぜ』
則之は、口にこそ出さなかったが、顔色には遠慮の必要もなくその一言を大書きして、
『この村の除雪は、自動車ってぇ物を考えて やっているんだろうかな、全く……』
心の中で呟きながらハンドルを切る。実際、獣道を数本束ねた程の、蛇行して先行きの
見えない道は、対向車でもいたなら、たちどころに交通渋滞を引き起す。こんな細い田舎
道は、幅の広い高級車には最高に危なっかしい。
高速道路に乗れば百数十キロでつっ走らせる彼が、ここでは三十キロの超スロー運転だ。
これでは苛立つのも無理はないのかも知れぬ。何もかも、突っ切る様な走りが好みな彼に
は、一歩一歩後ろ髪を引かれる様な進み方は全然似合わないと思うし、好きにもなれない
のだ。
今日を楽しく生きれば良い、今日に悔いがなければ良い。明日の事は明日の気分、そう
して今日迄生きてきた。それが彼の生き様だ。風の様に生きる。風は止ったらおしまい
だ!
誰にも引き止められはしない。誰にも引き止めさせはしない。誰にも、誰にも。
「則之、大丈夫……?」女の声がする。
もっと他に至当な言葉がある筈なのに、それを捜し出せない感じで口調で、千恵子が後
部座席から、おずおずとそう問いかけるのに、
「ふん……。い、いや、大丈夫だ。大丈夫」
苛立ちを抑え切れずに八つ当たりしそうになるのを、ぎりぎりで押え込む様な声で彼が、
「もう少し行こう。小さな村じゃ人出も余りあると思えないが、人目につく所は避けたい。
俺達の永遠の眠りの場所だ。人に見つかってぎゃあぎゃあ騒ぎ立てられるのは、御免だ」
「うん……。則之に任せる」
千恵子は、則之の真後ろからシート越しに寄り掛る仕草を見せた。このスタイルをした
いが為に、彼女はわざわざ車の助手席には座らないのだ。そんな千恵子の頭を去来するの
は、残り少ない二人の未来か、それとも……。
一緒に行ける、則之と共に。
それだけが彼女の心に住み着いて。女とは、自分が好きな男に愛されている確信があれ
ば、どこへでも行き何でもする『生き物』なのか。
そんな愚かな生き物と、一生を一蓮托生?
『冗談じゃないぜ、愛だけで生きられるか』
則之はひどく冷めた声でそう傍白してから、
「もう少し走ったら、そこで降りよう。
そして、始めようぜ。二人の人生を」
すぐ終わっちまうけど、苦しみは一瞬だ。
「後は永遠が待っている。二人の、永遠が」
甘い囁きが、千恵子の心を揺さぶった。心を、甘酸っぱい思いで一杯に埋め尽す、甘い
囁きは、彼女の思考を全て停止させてしまう。
『始りは終りだけど、終りは始り』
この世で、彼と共にいられる間は僅かでも、その愛は永遠になれる。則之と共に、永遠
に。
千恵子の頭を占めるのは、彼と自分とを取り巻く永遠の白い霧・靄。晴れる事なく、こ
の白雪に包まれて、何者にも邪魔される事なく永遠を。死ぬ事で、二人は永遠になれる?
そう、誰にも渡さない。則之は、則之との甘い時間は、誰にも渡さない。則之と私だけ
の物。いいえ、私だけの物。私だけの則之…。
「うん……。則之に任せる」
それだけ。それだけを、彼女は何度、繰り返したか。雪の微かに舞う冬の森を、改修さ
れていない小川の蛇行するが如く、車は進む。空は灰色の絵の具を塗り込められて、視界
の果て迄も続き、風はその雲に遮られて沈黙し。
森の木々も白く染められ、身の丈の半分程の積雪は地面を隠し、木々の幹の僅かな褐色
の他には見る物もない。山林に遮られ左右は視界がなく、身動きする野の獣もない。
空は雲がぎっしり詰めかけた灰色で、風に散らされる様子もなく、その風も吹く気配さ
えなく。何もかも、何もかもが停止して。
そう、ここは時の流れに忘れ去られた処…。
彼らの思いも願いも永遠に、永遠にその儘閉じ込めてくれる、そんな錯覚さえ抱かせる。
彼らの予期した行いも、企みも、全てが未発の儘でいつ迄も動かない、そんな錯覚が……。
雪に包まれた森に両方を挟まれながら、尚も彼らは暫く車を進め行くが、
「? あれは……」
千恵子のその呟きは言葉にはならなかった。
それは一瞬の映像。千恵子から見て左側の、森に小道が枝分れして、そこだけが見通し
が良くなって。その珍しくまっすぐ進む細い道の向うに少し上った所に、小さな社が見え
て。
距離は、五百メートルもあっただろうか。
石段も白色に覆われて、鳥居がなければそこに神社があった事も気付かれはせぬだろうが。
千恵子の視界に何かが映ったのだ。それは…。
「どうした?」則之の問う声に、
「う、うん。人影が見えて……」
そう言う間にも車は過ぎ行くので、確かめる暇は付与されぬ。大事だとも思えなかった
ので、彼らは敢て引き返そうとしなかった…。
『人……。女の子……?』
ちらりと見ただけなのではっきりとは分らない。小さな人影が鳥居の真下から、彼らを
凝視している……。それは動く気配もなくて、静物画の如く固定された、一瞬の映像で。
『こんな所にも、人が住んでいるの……?』
見られている、と云う感じは思い過ごしかも知れなかった。この距離だ。たまたま鳥居
の下で、見通しの利く方向を向いていただけ。
そう考える方が自然だろう。だがこの濃密な白色の世界では一点の色彩が鮮明で、千恵
子はそれが遥か彼方でも通じる様な気がして。『あれは、女の子だった』
年の頃はそう、十代前半か半ばの、髪の毛が背中の半ば位に迄達すると思われる、やや
背の低い、女の子だと思う。そんなの、遠くから分るかといわれても、分るのだ。華奢な
身体つき、鳥居に寄りかかる仕草、長い髪…。
それに、白い和服に赤い帯。それが鮮烈で。
何か、情緒的で幻惑的な冬の景色。
『和服の女の子が雪に包まれた白銀の世界にただ一人、時の流れから取り残されて、全て
を見つめている。私達の行く先迄をも……』
それは感傷だったのか、それとも予言だったのか。千恵子は首を二度三度左右に振って、
「ううん、何でもない」
それから間もなくの所で彼らは車を止めた。
この位人里から離れれば十分か。あの神社でもまともに人が住むには不便過ぎる。まし
てや、そこを更に外れたこの森の縁迄来る者等この雪の日にあろう筈がないとの、前提で。
則之は車を止めるとドアを開けて千恵子を降ろし、雪深い森の中にいざなった。人気の
ない沈黙の森は獣の足音・鳥の羽音さえなく、彼らの侵入に対し抗議も歓迎も示しはしな
い。
赤い外套に身を包み、茶色いマフラーを首にかけ、外套の下で手首にはめた金の腕輪が
冷たく腕を締め付けて存在感を主張する。
全てが彼女の、宝物だ。千恵子はそれらを身に纏い、則之の愛を身体の隅々迄感じつつ、
二人だけの時を迎える。この高価な品々は皆、則之が彼女への想いを示す為に買ってくれ
た、甘い囁きと共に送られた。全てが、則之は彼女を愛していたと証明し、語りかけてく
れる。
抱き締め、掴み、眺め、包み、置くだけで。則之との愛のやり取りが瞼の裏に甦って来
る。
「則之ぃ、寒いわ……」
「大丈夫、少しだけだ」
そんなに長い間震える訳じゃないよ。
則之はそう言って、小刻みに震える千恵子を誘ない、雪に覆われた森の奥へ奥へと、そ
の歩みを進めていく。
『ここで引き返されても困るんだよ、俺は』
それを言葉に出す代りに彼は、
「誰の目にも触れない所が良い。千恵だって、俺達の魂の抜け殻が人目にさらされて、あ
あだこうだ言われるのは、趣味じゃないだろ」
「うん、そうね。則之に任せる」
又それか。それは顔色にも出さないで、
「誰も知らぬ森の中。人の通らぬ森の中だ」
見つかる事のない、誰の邪魔もない森の中。
『人目につかれて俺だけ生き残ったら、困るんだよ。それはたまんねえ。悪いな、千恵』
その呟きは、人間には決して聞えはせぬが。
「俺の足跡を踏む様に、ついてきな」
計画を立てた時点では、足跡の処分が気になっていた彼だが、この天候は、天運だった。
発見は恐らく春になろう。春迄には積雪が、足跡を消し去ってくれる。その上にこの悪
天候だ。正に彼の為に降る如き雪ではないか!
優しい則之を演じるのも、あともう少しだ。その思いが則之のさっさと帰りたい欲求を
押えつけ、彼らを更に森の奥へと誘う。
千恵子を切り離す。俺の人生に、奴を二度とは交差させぬ。気ままな遊びの恋の一つに、
俺の人生をこれ以上束縛されてたまるものか。千恵子などに、俺の人生を縛らせてなる物
か。
二人は奥へ進み行く。木々の枝を掻き分け、幹に手をかけ、足を取られぬ様気をつけつ
つ。音は全然、響かなかった。降ったばかりの柔らかい積雪が、多くを吸収してしまうら
しい。
これも彼には幸運以外の何者でもなかろう。
「この辺で良いか」
則之がそう呟いたのは、車の影も遥か木の枝にかき消されて見えなくなった、森の奥で、
「則之……。私、少し怖い」
「大丈夫だ、不安はないよ」
俺がいる、俺がずっと側にいる。永久に離れない。だから、安心して良いんだよ。
「何も考えるな、不安がるな。俺がいる」
俺に全てを任せていれば、それで良いんだ。お前は余計な事を何も考えてはいけないん
だ。
「俺はお前を愛してる、それだけで十分だ」
「うん……。則之に、任せる」
馬鹿なのか、彼女は?
否、馬鹿なのは女なのか?
それとも恋が、女を馬鹿にするのか?
なら俺は、今迄女を手当り次第馬鹿に変え来た事になる。馬鹿な女は大嫌いな、俺が?
自分の思考に、内心彼はうんざりしつつも、そうとは気付かれもしない笑顔で答えて、
「始めようぜ」「うん……」
彼はポケットから薬の粒を取り出した。
それは単なる眠り薬で、一粒や二粒で致死量に至る事もないが、厳冬期にこんな所で眠
りにつけば、どうなるのかは容易に知れよう。
彼らは、痛みのない死を望む。
則之のみならず千恵子も、痛い死や恐ろしい死を毛嫌う臆病者だ。彼自身も、臆病物で
あるが故に、その心情は容易に理解ができた。この眠り薬プラス凍死の自殺偽装を計画し
たのも、冬なればこそだ。痛くなく、怖くない、眠りにつく様な死、元来死にたい等とは
望む筈もない千恵子に納得させる巻き込める死を、考えに考え抜いた末での、結論だった。
毒では苦しい、飛び降りでは怖い。列車やトラックに飛び込む勇気もない。刃物は嫌い、
首吊りは直前で思い止まる。ガスを使っても、臭いがして来ると部屋の外に飛びだして難
を逃れてしまうだろう。自分でも、そうする。
殺さない限り、死ねる女ではないのだ。いつもすぐ逆上して『死ぬ死ぬ』と騒ぐ割には、
この女は、世界の破滅が来ても一人では絶対死にはしないと、彼には分る。似た者同士だ。
生きる事が大好きで、自分の好きにならない事は大嫌い。死んで抗議するよりも、生き
て粘って相手の我を折って、自らの我を通して満足したい人種なのだ。
この女は絶対自分では死なない、死ねない。
そして則之も又、千恵子の道連れに死ぬ積りなど、毛頭なくて。
「これで、いつまでも一緒なのね」
「そうだともさ」
「貴方と私が、永遠に一緒なのね」
「ああ、そうだ」
何度その質問が繰り返された事だろう。
明らかに千恵子は死を恐れている。怯えている。彼と一緒でいても尚、迷い悩んでいる。
ひょっとすると、千恵子は感付いているのかも知れない。則之が彼女にだけ薬を飲ませ、
自分だけは逃げ去ろうとしているこの企みに。
千恵子の純粋なだけで鈍すぎる頭を一色に染め上げているのは、甘美な思い出と盲目な
愛情だが、彼女の心のどこかが−女の勘は恐ろしい−何かを悟り、震えているのだろうか。
否それは、死を前にした怯えに過ぎぬのか。死のうとする者には、見知らぬ死後への恐
れが刻印され、我知らず震え出してしまうのか。
「この薬を飲むだけで良いんだ」
「本当に?」
「ああ、本当にだ。俺を信じろ」
千恵子は、心なしか無口になってきていた。
彼女は、則之の働き掛けを待っている。彼に語りかけて欲しい。そして彼の気を引ける
間は、自らが動きたくはない。
彼を振り回したい、彼に構って欲しい。だから彼が構ってくれる間には、自分が動く必
要はなく、彼が振り向いてくれなくなった途端に騒ぎだし、困惑でも怒りでも忠告でも良
い、彼の反応を欲して止まぬ。彼の心の中で、彼女が薄くなる事が認められない、別の何
かが彼の心に重きを占める事が、許せないのだ。
死を前にした沈鬱な気持ちもあるだろうが、そんな時になっても彼女の打算的な駆引は
終らなかった。それは女の、と云うよりは人の持つ、逃れえない宿業とでも言うべきなの
か。
「俺は、お前を愛しているんだ。俺を信じて、その薬を飲むんだ」
「どうしても、生きては結ばれないの?」
ああ、もう何度その質問を繰り返した!
『千恵子、お前はそこ迄命根性が汚いのか』
自分の事は棚に上げて、則之は千恵子の優柔不断さに頭に来た。薬を飲ませる迄もない、
首を絞めて殺してやろうかとさえ一瞬思うが、それは寸前で思い止まり、締めようとした
両手を千恵子の首ではなく、両方の肩に置いて、
「生きては、俺達は別れる他にないんだ」
彼は順々と説明を始める。もう、一体何度繰り返した事か。自分でもマニュアルがなけ
れば、整然と話す事も繰り返す事も出来なかろうその説明を、手足の指の数よりも多い程
の回数になる説明を、則之は順を追って行う。
資産家(これは本当だった)の彼の実家は、決して二人の結婚を承知しない。既に見合
い結婚の準備は進行しており、春迄に千恵子との仲の清算を迫られている。千恵子の様な
中産階層の出身では、彼の父母親戚が猛反対で、絶対に結婚の見込みはない。これを乗り
越える術はなく、二人を結ぶ方法は、最早死のみ。
この世では、二人は決して結ばれぬ。一緒に死ぬ事のみが、彼らに残された現世での唯
一の共同作業だと。ああ、面倒くさい。
上手に作られた、偽りの理由。
本当は見合い結婚の話など存在せず、彼は両親に千恵子の存在すら話してはいない。否、
今迄肉体関係を持った女達を、彼が実家に紹介した事も全くない。則之はその誰にも、真
剣に結婚の可能性を考えた事もなかったのだ。
或いは則之は、今迄のその女達の誰をも好きになった事が、なかったのか。千恵子も又、
そんな夢から夢へと乗り継ぐ彼の遍歴の中の一人であって、一人にしか過ぎない筈だった。
決して、云えない。云ってはならない。
千恵子に飽きたから他の女に乗り換えたのだとは、決して言わぬ。一度、発覚しそうに
なって大騒ぎになったが、何とかごまかした。その時の悪夢をぶり返すのは、御免だ。今
の彼は、千恵子に永久に文句を言い立てられない『安全圏』に逃げ出す為の最終段階にい
る。
ここでのごたごたや面倒は、許されぬのだ。
「分るだろう。俺を愛し、俺に愛されていられる為には、この薬を飲む他にはないんだ」
自分では、本当に死ぬ積りもない則之には、決断が早く出来て当たり前だ。本当に、死
のうか死ぬまいかと思い詰めている千恵子には、逡巡があって当然と、彼は逸る心と千恵
子に何度も何度も言い聞かせ、
「一緒に行けば怖くない。
一緒に居れば怖くない」
彼は呪文の様にそう繰り返した。千恵子はそれに答えてこれも呪文の様に、
「愛があればどこへでも行ける。
愛があればどこに居ても良い」
貴方の愛があれば。言外にそれを含めた千恵子のひたむきな瞳に、彼は無意識に逸らし
そうになる視線を無理に合わせ。則之はその一言一言に罪悪感を覚えながらも、今更全て
を訂正する気にもなれないのでそのまま続け、
「さあ、行こう。二人だけの新天地へ」
「則之……! でも、怖い。怖いのっ」
千恵子は則之にしがみ付いた。
生への未練を断ち切る為にか、則之の愛を今一度確かめる為にか。千恵子はひしと則之
を抱き締め、その感触を確かめつつ目を閉じ。
この感覚が至福なのか、千恵子は暫く瞳を閉じて、そのまま身動きする事もせず、
「怖くない。怖くないから早く行きましょ」
則之、愛してる。愛してる。愛してる。
「愛してるから、一緒にいて。最後の最後迄、お願いだから一緒にいて。怖い、怖い怖
い」
力の限り抱き締める。この力みが、愛の深さの反映だと彼女は思い込んでいるが、死の
恐怖への比例だと、則之には分かる。
ああ、則之。薬を頂戴。ええ、ありがとう。
「私はこれで貴方と結ばれるの。本当ね?」
「本当だとも、本当だとも」
一瞬別の言葉が出そうになるが、彼は全ての企みを今から暴露したい欲求を、喉の辺り
で押し殺して、千恵子に白い錠剤を手渡した。
これから死ぬ女に抱きつかれたと思うと彼はぞっとするのを抑え切れず、千恵子の身体
を無理やり引き離した。我慢の限界は、近い。
「お前を愛している。俺もすぐ薬を飲む。
さあ、これを飲んで。二人で天国に行こう」
「ああ、則之。飲ませて。私、少し怖い…」
彼にとっては、願ってもない申し出である。薬を飲ませる迄彼は死ぬ訳に行かぬのだか
ら、彼女に薬を飲ませるのを先にしなければ、彼も死ぬ羽目に陥ってしまう所だったのだ
から。
何とか名目を付けて彼女に先に薬を飲ませようと段取りを複数考え用意していた彼には、
天から降ってきた金の卵だ。
「ああ、仕方ないな、千恵子。分ったよ」
反対のポケットから清涼飲料水を取り出し、彼女に薬を一気に飲み下す様に言う。争っ
た形跡を残すと、死因究明の際に他人の介在が浮び上る。ここは彼女が進んで薬を飲み干
し、自ら死を選んだ事にせねばならぬ。薬を喉に彼女が流し込む迄を、一人でして貰わね
ば…。
「さ、俺もすぐ行く。この薬で……」
「うん……」
千恵子はいつもの調子で口を開き、
「則之を、信じる」
最後だけ、台詞が違っていた。それが、一人で先に冥土へ旅立つ千恵子の恐れや不安を、
示していたのだろうか。彼女は、一人では死ねない。本当は死にたくもない。彼が死ぬと
云うから、彼が死ななければ結ばれない・別れが待つだけだと云うから、仕方なく彼と共
に行くのだ。今でも尚彼女は死にたくない、彼と一緒に居たいだけなのだ。彼が死ぬから、
彼女も死ななければ、一緒に居られないから。
則之に、任せるのではなく、信じると。
彼と共に行くのでなければ、冥土は唯の恐怖の源でしかない。彼と、則之と行ってこそ
初めて新天地だと、千恵子も無理やり自分に信じ込ませるふりが出来るのだ。
「早く来て、すぐ来てね、今来てね、則之」
「分ったよ。お前が確実に行く事を見守って、
俺もすぐ行くから。……さ、薬を飲むんだ」
「飲ませて……」
「えっ?」
「キスして、飲ませて……唇が欲しい」
寒いの、怖いの、心細いの。それは千恵子の本心の核なのだろう。自分の手では、流石
に死を決する薬を飲む勇気は出せぬし出来ぬ。
「則之の口づけで、口移しで薬を飲みたい」
彼は、大声で拒絶したい気分を押え込んだ。
もうすぐ死ぬ女にキスなんて身の毛もよだつが、それで全てに決着はつく。二度と、彼
女の悪夢にも本体にも、悩まされる事はない。後は俺が眠らない様に、用心さえすれば良
い。
「分ったよ、叶えてやる。だが……」
これは、俺の見せる最後の優しさなんだよ。
彼は心の中で暗い囁きを洩らしていた。
『偽りでも策謀でも、これがお前の望む優しい俺の姿だ、演じてやる。だが、ここ迄だ』
二つの唇が重なって、則之の口から千恵子の口へ、カプセルが流し込まれる。薬の効果
が出始めるのは、もう少し先の話になるが…。
千恵子がカプセルを飲み下した音を、確認するや否や、則之の声音ががらりと変わった。
意識のある内にもう一度抱きつこうとする千恵子の手を、それ迄なかった程強硬に振り
払って、雪の中に突放すと、
「これで、終りだな」
眠り薬の錠剤が少しでも溶けだしていると厄介なので、口に残った清涼飲料水を唾ごと
ぺっと吐き出すと、彼は座り込んだ千恵子を見下ろす様に立ち上がった。
そこには冷然たる視線の彼がいる。千恵子の悪夢に何度か見たことのある、最も恐く酷
薄な時の彼がいる。蔑視の視線を隠しもせず、
「じゃあな、千恵子。幸せにな」
視線を合わせるどころか、最早彼女の方から体を背けてまともに対峙しようともしない。
終ったのだ。過去を彼は、振り返りはしない。
「の、則之……?」
どういう事、とまでは声が出ない。千恵子には既に、即効性の薬の効果が出始めている。
則之の想像より薬の回りが早いのは、薄いアルコール入りの飲料だったためなのか。
「俺は、死にたくはないんだよ」
「則之……?」
俺はお前の様に誰かをだけ愛して見つめて、生涯をその為だけに捧げ尽すなんて、嫌だ
ね。
俺は、そんな風に誰かに突っ込み突っ込まれ、縛り縛られるつき合いなんて、嫌なんだ。
「嫌なんだよ、お前とのつき合いが。お前との人生が、生活が、性格が全て!」
「則之……、のりゆ……」
彼はそこで、漸く平静さを取り戻せた様だ。
「お前は悪い女じゃなかったが、俺はお前だけを愛して生きられない。退屈過ぎるんだ」
俺は縛られるのは、大嫌いなんだよ。
「のりゆき……!」
千恵子は既に動く事も出来ぬ。裏切りに−自分の信じた者の裏切りに−、信じられぬと
見開かれた瞳が、全てを嘘だと云って欲しいと瞬いている。違う、ほんの冗談、冗談と…。
「嘘だと、嘘だと云って」
漸くそれだけ絞り出す。遠のく意識の中で、彼女の耳には更に残酷は響きを持つ声が届
く。
「嘘だよ。……みんな嘘なんだ」
彼の言葉は同じでも、その意味は、千恵子の期待した意味とはまるで異なって。
「お前に言ってきた全てが、みんな嘘だ」
見合い話が進んでいるって云う話も、両親が結婚に反対だって云う話も、お前を愛して
いると言うのも、俺がお前と一緒に死ぬって言うのも、みんな嘘だ。嘘なんだよ。
「嘘なんだ、嘘なんだってばよぉ!」
則之は遂に、栓を抜かれたビールになって弾け出した。彼にはもう、耐えられなかった。
千恵子はこのまま眠りについて、永久に口を利けぬのだ。彼が今、ここで彼女に何をど
う言った所で、告発されぬ。告発など出来ぬ。
今迄則之は、散々千恵子に合わせて嘘を続けてきた。彼女のペースに合わせて、彼女を
刺激しない様に不本意ながら従わされてきた。
それはある場合では我慢であり、偽りであり、世間体であり、外聞であり、噂話であり…
…。
それをずっと続ける事は、正常な神経の持ち主には過重な負荷だ。則之も善人と云えな
いが、極悪非道の感覚麻痺者ではない。良心の呵責も少しはある。その圧迫が、今ここま
で押さえ続けてきた圧迫が、彼女が死んで永久に消えてしまうと分かった瞬間に、彼の理
性も自制心も弾け飛んだのだ。
最後の最後位、彼女にも自分の本心をぶちまけたい。幸せな嘘に囲まれ、愛されてると
思いこんだまま、千恵子が人生を終るだと?
馬鹿な、馬鹿な。そんな都合の良い話が許されてなるか。あんな女が楽しくさよなら?
それで、この俺は苦労のし放題で、何も得る物もなく。お前は良い気持ちでさよならか。
許さんっ! 神が許しても、俺が許さん!
『お前の目算違いを思い知らせてやる馬鹿』
『お前なんか愛してる訳がないだろう阿呆』
怒鳴りつけてやりたい。彼の楽しい遊びの恋愛を次々と妨害し、たった一か月余りの恋
仲で許嫁めいた行動をして他の女に口出しし。
そのお陰で彼が面倒な女性問題を抱えていると知れ渡って、それまで何人も平行して付
き合えていた女達が、一斉に引き始めたのだ。
金回りが良く、そこそこのルックスとノリの良さがあって後腐れのない彼は、日々を楽
しく過したいだけの女達には手頃な遊び相手だったらしく、モテるかといわれれば、彼は
大モテの部類に属していた。則之はそれで満足で、一人の野暮ったい女との本当の愛など、
結婚など、望みもしなければ興味も持っていなかったのに。彼女が、千恵子が間違った思
い込みさえ抱かなければ、俺は今でも……!
俺の楽しい日々を奪いやがって。
ここには、彼が彼女に為した仕打ちという視点が、全く欠けているのだが。彼女が彼を
愛したのは、彼が見境無く少しでも目に止まった女に声をかけまくった結果である。
最初に抱き合う迄は、則之が徹底的に千恵子に尽くしまくり、騙し、或いはリードして。
それにのぼせあがった千恵子に対し、逆に彼は肉体関係を持てた瞬間に飽きたと云う経緯
を彼は、忘れ去っている。千恵子に不備がないとは言わぬが、彼女が全面擁護に足る程素
晴らしい女だと云う訳ではないが、筆者の目から見ても、則之の方に責任は重い筈だ。
事の発端は彼にあり、この苦況も自業自得と云えるのだが、人間とは身勝手な生き物で、
被害者意識はあれど加害者意識は常に希薄だ。
「お前が愛した相手が間違っていたと、ここ迄来て尚分らんのか、この馬鹿!」
彼が怒鳴るのと、千恵子が崩れ落ちるのは同時だったので、果して彼の最後の声を彼女
が認識したのかどうかは、分らない。唯……。
彼女の瞳は凍りついていた。怒りではない、恨みでも、悲しみでもない。信じられぬと
の驚愕と疑惑、そして尚彼を信じたい心の葛藤。それらが、千恵子の瞳に溢れて、顔の全
面積を使っても表し切れぬので、沸き立っている。
一番、一番心が乱れた状態で、死を迎える。覚悟も諦観もあろう筈がない。驚愕が、怒
りや悲しみに纏められる事もない奔流が、身体中に満ち満ちて。出口がない、伝え様がな
い。感情の鬱積が、更なる心の濁流を生み出して。しかしそれはもう外に出ない、表現で
きない。
『則之、則之……』
しかしその声はもう、届かない。
彼女を待つのは暗黒の沈黙だけ。底知れぬ心細さ、果てのない孤独さ、そして沈黙……。
「あばよ」則之は身を翻して歩み去る。
「所詮、お前は俺に合う女じゃなかったんだ。
嘘で固めた幸せなんて、俺は好まないんだ」
嘘をつきまくってきた則之の台詞とも思えないが、彼はその時々で自分の欲望に純粋に
生きてきただけで、嘘をついた自覚さえ薄く。
その瞬間を、自分の欲望に、正直に生きる。 お前も、次に生れ変る時には自分に合っ
た相手を選べよ。則之にはもう、自分の問題ではないと思うからこそ、そう言える余裕が
あるのだろうが、
「悪いな……悪いが、俺にはお前を愛せない。一生誰かを愛し続ける? 誰に出来るっ
て」
空は相変わらずの曇天だ。この儘夜になれば、千恵子は雪に隠されて春迄見つかるまい。
その頃には死体は腐食して白骨化して……。
争った形跡はない。俺の指紋も残ってない。死亡時間を特定できなければ、俺に少しの
時間的な空白があっても、疑いは掛らない筈だ。
それに、ここに彼が来るのは初めてだ。彼のこれ迄の経歴から、出て来ない。この村は
むしろ千恵子の出生地に近いのだ。彼女が一人で自殺するのなら分るが、彼との絡みでは、
彼女の生れた村を外したので安全圏だろう…。
この辺出身の彼女なら自分で近隣の山村に出向く事はあろうが、この辺の地理感も何も
ない彼に、容疑のかかる心配はない筈なのだ。
しかもこんな所にいるなんて、誰が思う?
発見だって容易にはされまい。見つかるのは再来年の春か、もっと先の話か。
冬になればこの通り雪に覆い隠されるのだ。一年間の半分は発見不能なら、見つかる確
率ももっと減る。山々に囲まれてはいるが、特別な霊峰でもないし観光地でもないので登
山者も観光客も僅少だ。ずっと、見つかるまい。
見つかっても、遺体の損耗が激しければ彼女の行方不明事件と別の扱いになる可能性だ
ってある。則之は彼女の失踪に、悲しみの涙を流すだけで良い。じきに皆忘れ去る。
雪に埋ってしまえ。土に返ってしまえ。
もうすぐ、誰の目にも分らなくなる。
「早く帰ろう」則之は短く呟き、歩み去る。
もう振り返りもせぬ。軽い罪悪感があるのは事実だが、彼は相手を殺したと思ってない。
彼女は死にたいと、事実ガスで自殺もしかけた。ジェスチュアの積りだったのだろうが、
未遂が失敗して危うく本当に死ぬ処だった…。
いかにも止めてくれとの電話が来なければ、則之は彼女を自殺に追いやったとして、後
の人生迄大きくねじ曲げられていたに相違ない。
彼の残りの半生に、危機一髪な自殺未遂だった訳だ。今度は、彼の思惑を通させて貰う。
死にたいなら死ねば良い。但し俺に迷惑の掛らない形で。死ねば悩む必要もないのだから。
千恵子もそうだし、則之もそうなのだ。
今日のこの一件だって、彼女の自殺に則之が『たまたま』手を貸しただけで、手を貸さ
ずとも彼女は別の形で思いつめた犯行をする。本当は死にたくないにも関らず、ジェスチ
ュアの過剰な彼女は、いつか本当に死ぬだろう。
それも間違いなく彼に、最も迷惑の掛る形で。
「過去に煩わされるのは、沢山だ」
彼はもう振り返ろうともせず、足早にその場を去って行く。後ろから千恵子の声が聞こ
えてきそうで、振り返ると千恵子の視線が未だ彼を捕らえていそうで、彼は振り返れない。
雪が降ってきた。もっと降ってくれ。
もっと降って、千恵子もその足跡も、車の轍も何もかも、消し去ってくれ。俺の中の思
い出も真っ白にしてくれ。
「俺は、殺人をした訳じゃない」
俺はただ自殺を手助けしたに過ぎないんだ。
今夜にはもうマンションにいて、日常に戻っている筈なんだ。今日ここで死んだのは俺
の元恋人だが、もう俺と関係ない一人の女だ。
『どうせ彼女は死を選んだ。選ぶ積りだった。俺と関係ない所で死んで貰わないと、俺が
迷惑する。俺に関係ない所で、関係ない形で』
「人生全ては、夢の様な物さ……」
彼女は常に思いこみの中でだけ生きていた。
「せめて、目覚めてから行けよ、千恵子…」
今夜は、誰の所に行こう?
雪が強くなってきた。風ではない、雪の粒が大きくなって、その降る密度が濃くなって。
早く車に帰らないと、俺も森で迷ってしまう。彼は千恵子との様々な思い出を全て、雪の
降りしきるこの森に置き捨てていく積りでいた。
自分自身まで、置き去りにする積りはない。
則之は、後ろめたさを無理やり引き剥す様に別の事を次々と思い呟きつつ足早に、下を
向いてひたすら歩みを進め出す。
雪は尚も降り続け、少し向うが見えぬ程の、帯に近い白色の靄が、周囲を包む。音もな
く、動く物とてなく、色彩も消された孤独な森が、誰かの為にか寂しさの故か、泣いて見
えた…。
「のりゆき!」
千恵子は必死で叫んだが、声にはならない。
「則之、則之、則之……! 則之いいぃっ」
その叫び声も喉の奥よりは上がって来ない。
『則之、則之、則之……!』
様々な思いを満載した声はしかし、彼女の喉を伝って外に出る事は永久にない。千恵子
は今、死の門をくぐろうとしていたのだ。肉体の死と共に、魂もが崩れ去ろうとしている。
彼女は本当は死を望んでなかった。生きたい、生きたい、生きて人生を楽しみたい。生
きて結ばれたい。大地の涯迄、逃げようとも。
更には、少しでも楽な生きて結ばれる恋愛を望むのは、千恵子の我がままだろうか…?
本当は、死にたくない。生きていたいのに。
一緒に、生きていたいのに!
『彼は、則之はどこ。見えない、聞こえない。
何も感じ取れない。触れない。則之、則之』
意識が遠くなる。既に、感覚が失せている。 視界は真っ暗だ。これが死の縁と言うの
だろうか。何も見えないし、何も感じ取れない。奥行きも高さも足場も、何もかも不明だ。
唯、息苦しい。熱くも寒くもなく、苦しい。
『聞こえない。則之の声も、足音も……』
則之、則之! なぜ貴方はここにいないの。それとも死してしまうと人は皆、全く別れ
別れになってしまうの。どれ程熱い絆で結ばれていても、どれ程固く強く抱き合っていて
も、所詮生きている間の絆等、死すれば断ち切られる物なのかしら。そんなに脆い物だっ
たの。
何も見えない。何も聞こえない。
何も触れない、私はどうなってしまったの。
そして、私はこれからどうなってしまうの。
『怖い、恐ろしい。私、死んでしまったの?
この暗黒、暗闇。目を開けたい、開けて光を感じたい。怖い、怖い。夜よ早く明けて!
私未だ、死んでない? 未だ死ぬ途中なの?それとももう死んでしまった。怖い、孤独』
孤独、不安、恐怖、寂しさ。ああ、則之!
『則之、助けて! 私を、私を助けて…!』
私は貴方を信じていたわ。だから死の決意だって出来た。それなのに、それなのに。
『私を愛すると則之は言ってくれた……』
いつ迄も一緒だと、云ってくれた。
「それは本当かしら?」
それは貴女の、勝手な想い込みではなくて。
人は常に事実を喋るとは、限らない。
唐突な少女の声に、発狂寸前だった千恵子の視線がさ迷う。声の主を見つけんと、狂お
しいばかりに瞳が回る、首が回る、腰が回る。だが、どこにも何もないし、誰も見えはせ
ぬ。
『どこなの、どこに誰がいるの?』
どこに誰がいて、私を助けてくれるの?
誰でも良い。誰でも私の今の状況を分って、助けてくれるなら。不安を静めてくれるな
ら。
『誰でも良いの。姿を現して! 見せて!』
声は反響しない。否、そもそも彼女は声等出していないのか。それすら自分は分らなく
なりかけている。自分で出す声なのに、耳で確かめてもあやふやで、信じられぬ。
もう苦しさも何もない。峠を越して、むしろ薄れつつある。頂点を極めた痛みや苦しさ
・寒さはその後は、減退しゆく物なのか。それは又、苦しみを関知する神経組織が死滅し
かかっている事の、証左でもあったのだろう。必死に首をひねって誰かを捜す千恵子の耳
に、
「今迄、則之って人の事しか思ってなかった癖に、以外と簡単に心を切り替られるのね」
人ってみんな、そんな物なのかしら?
その声は届くが相変わらずその姿は見えぬ。
暗黒は一点の光をも持たぬので、千恵子の視界には三百六十度どこを向いても、何の手
がかりにも目印にも出会えはしない。
「さっき迄愛してるの何だの言って、則之さんに助けを求めていた貴女が、すぐに私に?
未だ逢った事もない私に救いを求める気?」
『ああ、貴女誰なの。私今どうなってるの』
千恵子の頭は混乱するばかりだ。暗黒では、正気を保とうとするだけでも、夥しい努力
が必要だと言うのに、あの嘲弄する様な声は!
『とにかく、助けて。助けて、欲しいの。
私は助かりたい。未だ死んでないの?
私未だ、生きてるの? どうなってるの?
貴女には分るの? ねえ、教えて……』
そして、助けて! 私を、助けて!
千恵子は大声で『思った』。強く思ったという感じだろうか。心の中で、力む感覚だ…。
もう口は動かない筈だし、動かしてもいなかった。彼女は心で、勝手に思ったに過ぎぬ。
幾ら強力に念じても、心はその儘では相手に伝わりはしない。それは分っていたが、混乱
する心を言葉にまとめる事は、却って難しい。
千恵子は大声で叫び、来る声に耳を澄ますだけだが、耳や口を使ってというより、全身
で微弱な波を捜すに近く。大体今の彼女は?
彼女は雪の中に倒れ込んだ筈でなかったか。ではこの身体は、今ここで震え怯える千恵
子は何なのか? 雪もないこの状況、夜とも昼ともつかぬ今時刻、森でもないこの場所
は?
『助けて、助けて。誰でも良いから助けて』
千恵子は必死でそう訴えかけるが、
「助かるって、どう言う事?
命を保つ事? 彼と共にある事? 彼に愛される事? それとも、己が満足する事?」
それは、どこから流れこんできた声なのか。
「助かるなら、相手は誰でも良いのかしら」
あの声は少しの笑みを含んだ声音で、
「貴女は、彼を心配には思わないのね。
自分を心配して欲しいだけで、彼が自分を思い遣ってくれないかを考えるだけで、自分
から彼を思い遣る事はしないのね。
それが、貴女の云う、愛なの?」
解って欲しいだけ、解ってあげようとせず。癒しを欲しがる一方で、相手を癒そうとせ
ず。
欲しがる一方、何を与える事もせずに。
貴女は愛の亡者。限りなく愛を貰う一方の、それ故に支配され続ける、貴女は愛の奴隷。
愛に操られて人生を狂わせ、それで幸せ?
しかしその問は今の千恵子には届かぬ様で、
『ここはどこなの、貴女は誰、今はいつ』
早く状況を教えて、ここから助けあげて。
「ああ、則之に。則之に、逢いたい……!」
『置いていかないで、私を一人にしないでっ。
則之、則之、則之、則之、則之、則之!』
千恵子は面倒事が複数な時は、一つに絞る。たった一つ、最も大事な事だけを。それが
唯の思考の空回りになっても、疲れて眠る迄彼女はそれをやめはしなかった。
『則之、則之、則之、則之、則之、則之…』
強烈な想い、それは愛、不審、不安、恐れ。
様々な要素が渦巻いて、その渦が空回りで一層増幅されて。人間の思念の自己増殖に際
限はない。想いの存在が拍車をかけ、拍車をかけられた想いが更にその想いに拍車をかけ。
強烈な想いは、ボルテージがいよいよ高まり、自分が最初になぜこうなったか忘れてきた
頃。 叫ぶ事が目的で陶酔状態になりかけている、そんな忘我の千恵子の前に、
「ふう……。うるさいなあ」
男言葉で、その少女は突如虚空から現れた。
飛び降りたとか地から沸いたとか、そんな現れ方ではない。何もない所に突如無から創
造された、奇天烈な現れ方だ。
「余りうるさいと、散らすよ」
十歳近く年上の千恵子に生意気な口を利く。
利発そうな顔だち、深く黒い瞳。未成熟で、美しさと幼さとの混淆の、境界線を行き交
う可愛らしさ。物憂げな瞳、華奢だが俊敏そうな細い四肢。そして胴体部は紅い帯が食い
込むにも関らず、余裕のある細さで均整を保ち。
年の頃は十三、四歳か。黒髪だがその髪質は純和風とは言い得ず、その身に纏う衣装も
和服を基本としているが、そのデザインには現代的な斬新さが加えられていて、手足の裾
や太腿の部分が動き易く跳ね易く作られて…。
沙紀、である。
新雪の白に鮮血の赤を組み合わせた、巫女の正装に近い衣を身に纏うその少女の出現は、
千恵子には余りにも唐突過ぎて、彼女の口に出した言葉の意味も理解出来なくて、ただ目
を見開いて、突如の状況の変転を追うばかり。
どこかで見たような、とは瞬間的な千恵子の感想である。心当たりがある顔でないのに、
どこか引っかかる物があって。もしかして?
『さっき車で通り過ぎたあの神社の、鳥居に寄りかかってこっちを見つめていた、あの』
走り去る車窓から、森の切れ間に一瞬見ただけだが、千恵子の心には白色の世界の中で、
異様にその姿形は新鮮で、色彩は記憶に残り。
ああ、未成熟な故の可能性を保存した美だ。伸び行く青葉をパックに詰めても残せぬ美
だ。
しかしどうして、こんな所に。一体、何者。
「自分が捨てられたと、未だ分ってないね」
何気ないその一言は、痛烈だった。千恵子はその、聞きたくない・考えたくない必然の
結末を、突如目の前に示されて、言葉を失う。
「まさか……そんな、まさか……」
だがその危惧は、心の隅には確かにあった。
則之が、私を捨ててしまうのではないか?
自分を愛するとの一言は偽物なのでないか?
その類の感情・独占欲から来る疑惑のチロチロした炎は、彼女の心の奥底で、常に燻り
続けていた。いつでも、いつでも、いつでも。
それは、何かを持つ者は常に喪失に怯えねばならないと云う、一般的な現象の一つに過
ぎぬのだろうか?
ああいつだって、いつだって彼女は本当の愛に飢えていた。本当の愛と言うよりは、こ
の愛が本物なのだろうかとの不安に、常に急き立てられて、その証明が欲しくて欲しくて。
彼の物が欲しかった。彼の息遣いを感じ取れる物が欲しかった。彼の手から贈られる物
が欲しかった。常に彼を感じてたかったから。
そしてそれが、幾つあっても納得し終える事はなかった。何度目でも貰える瞬間の嬉し
さは格別だ。幾らでもねだり欲し求め続けて。麻薬中毒の人の気持ちが少しは分る。千恵
子は恋愛、否、愛情中毒だったのかも知れない。
(だからこそ、安易な贈り物の繰り返しで則之が簡単に彼女を籠絡出来た訳だろうが)
常に愛の保証がないと安心できない。今愛されている証がないと。それがないと自分の
手を離れ、則之は戻って来ない様な気がして。
自分だけを見て欲しい、自分だけを愛して欲しい、自分だけに声をかけて欲しいのに…。
自分以外の誰かを思う等許せない、自分以外を向く視線を許せない、自分以外にかけら
れる声を許せない。自分だけの則之であって欲しい。千恵子は、則之のただ一人の恋人で、
則之は、千恵子のただ一人の生涯の伴侶で…。
運命の絆の筈だった。則之は、この世で結ばれないなら死んだ方がましとの彼女の心に
深く感銘を受け、共に死ぬ事を決意したのに。
「信じない信じない、信じないわあぁぁ!」
そんな筈、そんな筈ないんだものっ。
則之は、則之は私を見捨てはしない。
則之は、私を裏切ったりはしないわ。
だって則之は、私と愛し合った仲だもの!
「彼は私を、愛してるって、さっきだって」
「本心から、そうだと思っていた? 貴女」
冷やかな声は、千恵子自身の疑念なのか?
「確かに、そうだけど。そうだけど!」
千恵子は尚も強情に、頭を振って耳を塞ぐ。だが、信じたい彼女の無理な思い込みに少
女の声は、止めを刺した。余りに明確な事実で。
「ここに、居ないんだもの。彼は逃げたのよ。
貴女の彼は死んでないわ。それどころか…」
「……!」
これは実際に誰かの声なのか、それとも千恵子の疑惑が自らで作り上げた、虚像の声な
のか。それは、千恵子の心の片隅に押し込められた、だが決して自身では逃れ得ぬ疑惑を
思い出させ、甦らせる。
恋しい、恋しいから、誰にも渡さない。
恋しい、恋しいから、わたしだけの物。
『私を、私を則之が愛していないだなんて』
『則之は、本当は他に好きな女がいるかも』
二種類の思いは、彼女の中に常にあり続けて消えたことがなかった。
その相克は、恋が燃えれば燃える程に一層激しく熱く高ぶって。信じたい、信じ得ない。
いけない事、思いたくない事。それだから、千恵子はそれを心の隅に押し込めて、忘れ
去ろうと努めてきた。あるいはその積りだった。
それでいながら、それでいながら!
千恵子は心の奥底で、常に疑う事を諦めぬ。積りと言うのは、結局積りにしか過ぎぬの
か。ああこの独占欲、嫉妬心。自らを貶めるのが分るのに、どうにもならない。渡したく
ない、則之を。誰にも、誰にも。自分だけの物に…。
それができないなら彼を道連れに死。死?
『そう言えば、私、則之と一緒に死のうと』
そして、今自分は、どこにいる?
どうして、何がどうなったのだ?
確か、自分は雪中の森で、則之と一緒に?
堂堂巡りの思考を何度も何度も繰り返して、千恵子は漸く自分を取り戻した。
『薬は、飲んだわ。彼の唇を伝って、眠り薬を飲んで、その後彼は、私を?』
「彼は、則之はそのあと……?」
「いないわ。貴女が見た通りよ」
少女の応えは、短く冷たい。
教えてあげましょうか。少女はこの年齢に特有の、生意気そうに大人ぶった訓諭調で、
「分かる様にしてあげる」
言葉が終るのと同時だった。周囲の闇が唐突に消失し、雪の降り積る森の一角があって。
視野が開けると同時に千恵子は全てを悟った。夕暮も遠くない時刻の森で、一人倒れる自
身の脱け殻を足下に、沙紀と向い合う自分が…。
「貴女は倒れ込んでから、一歩も動いてない。 貴女の五感が消失して、周囲の諸々を感
じ取れなくなっただけ。今貴女は、魂の状態」
彼が一緒なら、まだここで一緒の筈。仮に魂はなくっても、脱け殻はここになければね。
「貴女は自殺に成功し、肉体を失った。後は魂も消え去るだけ。不可逆って云うのかな」
それにももう、長い時間は掛らない。何をする必要もない、精神だけの生き物って普通、
黙っていても消えて行くの。春の残雪の様に。
「おめでとう。貴女の目的は、完遂されたわ。私には、余りおめでたくないんだけれど
…」
彼女の五感がないのも当然だ。肉体は滅んだのだ。ああ、幽霊や怨霊も、こういう感覚
なのか。自分の居所も時刻も季節も分からず、何も関知できぬまま、それ迄の記憶だけ持
った状態でさ迷い歩き。戻りの効かぬ一方通行。
死した者が転生するのか、消失するだけなのかは、沙紀にも分らない。魂はこの状態を
経て、現世から消えて行く。
その先は、沙紀にも不可知なのだ。その形態は様々だが、肉体を失った魂とは不安定で、
長く世に止まれぬらしい。潜水にも似て、人はこの状態にいつ迄も耐えられはしない様だ。
暗闇と沈黙と無味・無臭。自分の状況さえ確認できぬ。朝昼夕も分らない。精神は別個
にあっても、それに情報を伝えるのは肉体だ。
沙紀がそれを為し、他人にそれを為せるのは、沙紀が人間ではない事の証拠なのか。
身体を失った彼女だが、死に行く彼女だが、まだ心はある。浮遊して消え行く魂の僅か
な瞬き。生と死を繋ぐ、蟻地獄の斜面の様な物。ここから先が未知の領域。だが、その千
恵子の五感を取り戻させた沙紀は、一体何者か?
「余り思い残しが多いと、神域が乱れるのよ。貴女の様に強烈な思いを持つ人が紛れ込ん
でいるのを放置しておくと、良い事ないから」
腐乱死体が、病原菌の巣窟になる様に。
沙紀の表現は事実にしても苛烈だった。
結構紛れ込むのよね。生きていても、死んだ後でも、不安定な心は自分が不安定で移ろ
い易い故に安定を欲し、流される弱者故に強い力に寄り添いたがる。いつもの事だけれど、
「説得したり、追い払ったり、時には散らしたり。意識は肉体を持たなければ自然に消え
てなくなる。一回吹き散らせば、もう焦体を取り戻せないでしょうね。それも良いけど」
でも……。名も知れぬ少女は、千恵子の目の前で、ふふっと軽快な微笑みを顔に浮べて、
「貴女は一人。一人だからこそ、思い残しがあるのではなくて?」
少女の言葉には理解し難い所もあるが、自分が邪魔物らしいと分る。この少女が千恵子
を強制的に排除する、何かの手段も持つとも。だがそんな事は、今の彼女にはどうでも良
い。
そうだ則之だ。なぜここに則之がいない?
「思い出して。貴女は故意に忘れようとしている。覚えている。思い出したくないだけ」
則之は、彼女とここで再び逢える筈だった。最期の最期迄、千恵子はそれを信じて疑わ
なかった。否、疑いを言動に示さず心に沈めて、信頼を以て彼の愛の言葉と行いに答えた
のに。
「則之が、私を捨てた……!」
そんな馬鹿な、そんな馬鹿な、そんな事が。
あるわけないっ。千恵子は叫び出した。
「信じられない、信じない、信じたくない」
千恵子は思いっきり首を振った。胸を両手の爪で掻き毟りながら全身を、左右に思いっ
きり振って。そうよ、そんな筈ないわ。
「則之に限って、私の則之に限って!」
「現実を、見なさい。覚えてないの?」
少女の声は彼女に苦い記憶を取り戻させた。
彼は、歩み去る。何かを言い捨てて。
『嘘だよ。……みんな嘘なんだ』耳に甦る声。
嘘。何が嘘なの。何が、どの言葉が嘘なの。
「のりゆきいいぃぃ!」
分らない、分らない。彼の心が分らない。
これ迄も不安だったけど、これ迄も心掻き毟られる思いは多々あったけど。でも彼は、
全ての恐れを打ち消してくれた。だが、だが今その彼は彼女の手の届く、どこにもいない。
「則之が、いない。いなくて、私だけ死ぬ」
「サービスはここ迄」
沙紀の言葉と共に、周囲の風景が再び消失した。辺りは無明の暗黒に変り、沙紀の姿だ
けが白く淡い輝きを帯びて、浮ぶ状態に戻る。
漆黒の中で千恵子は今や、沙紀がいなければ自分が何一つする事もできない、消失し行
く魂のかけらだと云う現実を思い知らされた。
「想いが強く深ければ、その使い方で、ここ迄無明の闇という事も、ないんだけれどね」
この暗闇は、多分に貴女の心の中を表していると思うわ。心象風景って、言ったかしら。
悪寒が千恵子の全身を襲った。怖い、不安、未知、暗黒。千恵子の大嫌いな者達ばかり
だ。
「私だけ、私一人、独りぼっち……」
彼女の全ての激情が拭い去られて、無表情。
茫然自失の状態で、何を考える事も感じる事も出来ない状態で、千恵子は崩れ落ちた。
「そんなの、嘘よ。嘘よ……」
嘘であって欲しい、否嘘だといって欲しい。
千恵子の声が震えている。その全身が小刻みに震えている。彼女の心の大切な、何かが
崩れ去ろうとしている。抑えたいのに!
「嘘、ね。そう思いたければ、どうぞ」
少女の声には、優しさが含まれている様で容赦がない。それは千恵子の現実認識能力の
極限を、試す様にも感じられた。
その言葉が、彼女の最期の記憶を呼び戻す。
千恵子の脳裏にも最期の情景が甦る。則之は彼女の倒れ行く視界から遠ざかって行った。
「彼は逃げ出した。死にたくないから、貴女より命が大切だったから。彼には何かもっと
大切で好きな物があったから。貴女は、彼にとって唯一で、最愛で、何を犠牲にしても替
え難い物のどれにも値しなかった。だから」
捨てられた。
『捨てられた。捨てられた。捨てられた』
その声が、千恵子の頭の中で千回万回繰り返される。千恵子は、則之に捨てられたのだ。
彼女だけ死ねと、彼女に手の届かない別世界に行ってしまえと。それはどういう意味?
彼女は死んでも、自分は死ぬ事はしないと。
彼は、彼女と別の処にいたいのだ。
彼は、彼女と共にいたくないのだ。
捨てられた、捨てられた。
千恵子の中ではその叫びは何度でも反復し、増幅し。それでいながら心の中には尚それ
を否定したい気持ちも存在していて。二律背反。
見たい、見たくない。
信じたい、信じたくない。
訊きたい、でも訊きたくない。
彼の言葉は、嘘かも知れぬ。でも信じたい、嘘でも信じたい、嘘でも良いからそう云っ
てくれれば、千恵子は鵜呑に信じるのに。
(そういいながら、言われた嘘でも一々疑って確かめてしまう辺りが、千恵子なのだが)
愛している、愛されている、その筈なのに! 彼は彼女を謀略にかけて、殺したのだ。
「そんな、そんな、そんな事があぁぁ…!」
「ふううん」
感銘を受けた様でもなく、煩悶する千恵子を冷やかに見つめて、少女が口を開いたのは、
暫く後の事だった。千恵子が落ち着く迄は何を云っても無駄だと悟っていた模様で、その
賢さは、憎らしさにも合い通じる。
「愛って、そんなに強い物なの?
そんなに、信頼出来る物なの?」
貴女は愛や恋で幸せになれた? 今どう?時々、己の感情に操られている気がしない?
自分が、自分でない何物かに沼底へ引きずり込まれていく様な、自分をなくしていく感覚。
興味深そうに尋ねる声に、千恵子は特段何の反応も示さなかった。賢そうに見えても相
手は子供だ。千恵子の思いの深さ等余人に分る筈もない。否、他人には理解できぬのめり
込み・思い込みこそ『盲目の愛』ではないか。
愛情を軽んじられた気がして蟠りがあるが、今の彼女は目の前の生意気な小娘に生殺与
奪を握られている。正面から不満を言い返す勇気はなかった。千恵子の愛の深さを知るの
は、則之だけで良いとの思いもあった。初めて逢った少女にそれを、知って貰う意味は薄
い…。
だが、少女の次のこの一言は、千恵子の心に強烈な方向性を与えた。願ってやまぬ願望、
それは彼女自身が常に求めていた物の、変形。
結局、ここでも千恵子は自分でどうしたいとか言い出す事さえ出来なかった。彼女は常
に、誰かに何かを与え教えて貰わないと、生きてはいけない生き物なのか。
馬鹿は死んでも、治らない。
「確かめたいんだったら、方法はあるの…」
生き返る事は出来ない、それは無理だけど。
私も死者を甦らせる事はできない。でもね、
『確かめたい、訊いてみたい、尋ねたい?』
「そうした方が、貴女は心が休まるかしら」
それは、千恵子の心を文字通り『沸き立たせた』。千恵子は最早失うべき物を持たない立
場にいる。後は則之に詰め寄る以外にしたい事はない。それが出来るのだとすれば、今の
彼女は、悪魔に魂の二個や三個売渡す事とて厭わないだろう。必要とあらば、他人の魂ま
で駆り集めて、売り渡すかも知れなかった。 愛の狂気とは、人の最大の罪業かも知れぬ。
「でも、これは必ずしも貴女の思った通りの結果を保証する物ではないのよ。それは心に
留めて置いてね。何しろ相手のある話だから。
納得行かない真実や答を見せられ、却って荒れ狂う事にもなり兼ねない。私は、そんな
気もするのだけど、ね」
少女の声は興味本意に聞えて不愉快だったが、申し出自体は心を吊りあげる誘いだった。
千恵子の身体は思うより先に、興奮で泡立っている。魂に力が漲るのが分かった。
確かめる? 則之に、真偽を訊く?
「出来るの? そんな事、出来るの?」
千恵子が思わず詰め寄って問いただすのに、少女は否定も肯定もせずに相手の瞳を見つ
め返して、黒い瞳を−真っ黒でなく暗い茶色だ−瞬かせ、にっとその瞳だけで微笑んで、
「貴女自身で確かめる方が、良いかもね」
則之は、降り始めた雪に急かされ、吹き始めた風に煽られながら、車の所迄辿り着いた。
ここ迄の歩みの、何と長く思えた事よ!
そしてこれからの人生の何と灰色な事よ! 解放感はあった。確かにそれは大きく、今
までの閉塞した、人生をぶち破る一穴だった。
だが、それにもまして寝覚めの悪さが感じられる。人の命を、見殺しにした事への嫌悪。
「こんな筈では、なかった……」
こんなどんよりとした気持ちになる筈では、なかった。もっと晴れ晴れとして、前途洋
々たる物の筈ではなかったか、今日からの彼は。
もう千恵子はいないのだ。
もう彼の行く手を阻むものはいない。
彼は自分の思いも千恵子に叩きつけた筈だ。
何をためらい、恐れているのだろう。俺は。
何なのだろう、この重くのしかかる気持ち。
『罪悪感? それとも、千恵子への未練?』
そんな筈はない。あんなうっとうしい女…。
雪だけでなく、風も吹き始めて来た。吹雪になろうとしている。急いで、帰らなければ。
そうだ、そうだとも。今俺が最優先で為すべきことは、ここから自宅に、帰ることだ。
「帰るんだ。帰れば、俺の日常が始るんだ」
俺はこんな処にはいない。
俺はこんな処にはこなかった。
この村は、俺には何の意味もない所だ。
『俺の日常はここから数百キロも離れたコンクリートの街の中にある。千恵子が死のうが
眠ろうが、そんな事は俺の知った事ではない。
知る訳がない。俺はもう関係ない…』
こんな因縁めいた古臭い村等俺は知らない。
俺は何も知らん、何も関係がないんだって。
「ふう、漸く森を出たか」
知らぬ間に、かなり奥迄入ってしまったらしい。少し慎重になりすぎたか。でも、その
ぐらいでなければ、この大事は成功しない。
『この様子では、雪が消えても千恵子の遺体がそう簡単に、発見される事はないだろう』
「俺はもう無関係なんだ。千恵子なんて知らない。俺はこんな、山奥の村なんて知らない。
千恵子は勝手にこの山奥に、踏み込んで死を選んだんだ、自分一人で世をはかなんで」
俺には、もう何の関係もない話なんだっ!
何度もこう繰り返すのはやはり、則之にも多少なりと、後ろめたい思いのある為なのか。
降り積る雪に染められた高級車の扉を開けたその瞬間、唐突に則之は背後を振り返った。
その動作は殆ど反射的だった。背後に何かの気配があると感じた時、既に彼は動作に入っ
ていたのだ。一番あって欲しくない想定故か。
千恵子か! そう思うのも無理はない。
『眠れなかったのか? 吐き戻したのか?』
だが、振り向いた自分の目に見えた物とは、千恵子の怒りに震えた狂気の姿ではなくて
…。
「始めまして、則之さん」
目の前にいたのは一人の女の子だ。その場に千恵子がいたなら、さっき通りすがりの神
社で一瞬見かけた女の子だと、分ったろうに。
「巫女か……?」
『だがどうして、俺の名を知る』
怪訝そうな顔つきを見せる則之の前で、少女は更に、驚愕に値する言葉を続けた。
「不思議? 貴方の名前を知っていた位で」
則之の戸惑いと驚きを読み尽した問いかけに、彼は平常心を崩され行くのを感じ取った。
彼の心を見透かされてる、先読みされている。
『否そんな事はない。単なる偶然だ、偶然』
「き、君は……?」
「私? 私は……」
少女はほんの僅か、何かを考える顔つきを見せるが、すぐ彼の瞳に視線を戻して、
「千恵子さんじゃなくって、残念だった?
それとも、ほっとした?」
則之の質問は、はぐらかされた。
『今風の、姿じゃあないな。この寒さの中を、外套一枚纏うでもなく。普通じゃないの
か?
目で見る限りは、そうでもなさそうだが』
冷や汗が止められないのは、いきなり千恵子の名前が出てきた為だ。硬直して立ち尽し、
それでも辛うじて合理的な現実との接点を見つけようと、懸命に頭を回す則之に少女は、
「私としては、どっちでも良いんだけど…」
「君は千恵子の、知り合いか何かなのか?」
自分が何を問うているのか、自身承知してなかった。言葉がこんなに軽く無意味に飛び
出るとは。一番警戒せねばならぬこの時に!
ええ。則之のややうわずった声に、少女は滑らかな肌の首筋を素直に縦に振って頷いて、
「ついさっき、逢ったばかりなんだけれど」
ついさっきとは、則之が千恵子に眠り薬を飲ませた後の他には、いつがあろう!
千恵子は車を降りてから、森の奥のあそこで眠り薬を飲まされる迄、ずっと則之と共に
あったのだ。この娘が千恵子に逢ったとするなら、彼が千恵子を置き去りにして、去って
以降の話でしかない。できえないのだ。
「さっき。ついさっきって、どこでだい?」
彼の尋ね方が、少女に一体何を言わせんとしているのかは、鋭い物になら分っただろう。
そして少女は則之の、千恵子と彼しか知り得ぬ事実を喋らせて事の真偽を確かめようと
誘導尋問に、そうと知りつつこう答えたのだ。
「貴方のご期待通りよ。彼女は眠ってたわ」
「……!」
結果は逆に則之を動揺させる物ではないか。
「貴方が、口移しに流し込んだ錠剤で」
まだ生きているけど、もうじきかしら、ね。
彼には、その一言は閃光だった。
則之の身体を、表現にし難い緊張感が電撃となって駆け抜けていく。これが、殺意か…。
『殺すしかない、殺すしかない』
『駄目だ、駄目。殺人罪になる』
『見られたんだぞ、見られたんだぞ』
『あれは殺人じゃない。殺人じゃないんだ』
俺が殺した訳じゃないんだ。千恵子は、俺が殺した訳じゃない、罪は俺にはないんだ…。
『お前はまだ犯罪者でないのに、ここで娘一人殺して犯罪者になるのか、なれるのか?』
その思いが、手を伸ばせばへし折れそうな華奢な少女の喉頸へ無意識に伸びる自分の腕
を押えつけ。駄目だ、それは完全に犯罪だ!
『俺は自分の手を汚し、何かを犠牲にして迄、何かを得たり断ち切ったりは、しないん
だ』
そんな、そんな何かの為に自分の今の恵まれた生活のどれかを犠牲にするなんて、嫌だ。
「君は誰だね? どこの子なんだい、家は?
子供がこんな吹雪の中を歩いていちゃ駄目だろう。誰か連れ添う人はいるのかい?」
則之は、今迄のやり取りをまるっきり無視して問うた。今ここから、会話が始る感じで。
無視してどうなる訳でもない。相手は半分大人なのだ。忘れさせようとしても、無理だ。
だが則之は、とにかく問題を、先送りした。
冷静とも言えない彼の、これが思考力の限界だったのか。人とは、貧すれば鈍するのか。
「さっき迄、二人だったわ」
焦りの故か立て続けな則之の質問の、その最後の問いにだけ少女は答えた。それ以前の
質問を、彼女は故意に無視したのかも知れぬ。
「さっき迄……? 連れでも、いるのかい」
この軽装、近くに人家でもあるのだろうか。
何の防寒着も着ていない。裸足に、素手に、巫女の衣と思える和服を着ているのみ。
「千恵子さん。もう誰と一緒にいても一人とは数えられないものねっ。だから今は一人」
千恵子と二人だったって事か! つまりこの娘は吹雪迫りつつある森の中で彼と唯二人。
吹雪の迫る森の小道で、則之は全ての証拠をかき消せる、ラストチャンスを得たのか!
口封じしても、殺害しても、誰も見ていない。
『ここで消してしまえば』
『それは犯罪だ!』
『現場を見られてんだぞ』
『あれは自殺だ!』
『間違いなく通報される』
『俺の罪ではない』
あれは千恵子の望んだ行動で、自殺なんだ。
殺人とは罪の重みが違うんだ。
そこ迄の覚悟をして、人一人殺せるのか?
お前にそこ迄の凶暴さと冷酷さがあるか?
『だがそれでは俺の平和な日常が守れない』
だが、今ここでこの娘を放置すれば、必ず。
『必ず千恵子との繋りは世に晒け出される』
どうすれば良い。俺はどうすれば良い?
あのぉう。
少女は物怖じした様子ではなく、そろそろ飽きて来たと言わんばかりの生意気そうな口
調で、視線は興味本意の輝きを秘め、
「私、そろそろ用件に入りたいんですけど」
用件? 用件だって!
彼女の側で、則之に何か用事があると? 今更人殺しと言いに来たとでも。当の則之に。
則之は、非常に挑発的な笑みを漏らした。本人は無意識に自身を嘲っているのだが、見
ている者には沙紀を嘲っている様に見えよう。
尤も、沙紀はその意味を正確に理解している様で、黒い瞳で見つめ返すのみだが。
虚飾でさえない。彼にはもう虚飾を通すだけの思考力も残ってなかった様だ。
破綻なのだ。則之の計画は、破綻したのだ。誰にも見られずに全て終える計画は破綻し
た。これから少女を放すにせよ口封じするにせよ、完璧な成功には程遠い。例え誰に気付
かれなくても、分られなくても、自身の中で破綻だと実感してしまった時が、終局なのだ。
天知る、地知る、我が知る。
こんな小娘一人に! 則之は毒ついた。
こんな得体の知れぬ巫女の卵一人にっ!
彼の心の均衡が破綻した。最早則之の往くべき道は二つに一つだ。それしか、見えない。
犯罪者か? 或いは、重犯罪者か?
『ばれなければ犯罪じゃない、裁かれない』
「用件って、何の事だい……?」
彼は時間の流れが止ってくれる事を祈った。
全く無意味な願いであったが、今の則之はそれ以外に願える事等なかった。それが叶わ
ないのであれば、俺はこの娘を、どうする?
「貴方に、渡したい物があって」
これなんですが。少女が虚空から取り出した様に彼の前に見せたそれは、
『千恵子のマフラーじゃないか!』
この時点でなんて物をどこから取り出す!
震え出す身体を抑えながら、彼は手を伸す。それはマフラーに向けて伸した物か、少女
の華奢な首筋に向けて伸ばした物か。
「それは……」「落ちていたのよ」
拾ったのか。それを拾った場所とは……。
「それは、悪かったね。俺の、物なんだ」
どうもありがとう、返しておくれ。
伸びた彼の手を、少女は払いのけようとはしなかった。ただ、無言の儘に数歩後ずさり、
「則之さん。もう嘘はつかない方が良いよ」
嘘なんか、どうして?
動揺の色を隠せぬ則之の、そう問いかけようとする前に、彼の顔つきから何もかもを見
切った口調で、少女は和服の裾を風にはためかせながら、軽く揺らせつつ後退し、
「貴方、嘘ついているでしょう。
このマフラーは、女物。千恵子さんの物」
香水の匂いのマフラーが貴方の物だなんて、失笑物よ。千恵子さんでも騙しは利かない
わ。
則之の顔に貼り付けられた、騙しの笑顔が凍りついた。こいつは、千恵子より数段賢い。
否、これが普通の人の動きであり反応なのだ。
少女は微妙な動きで則之との間合いを一定に保っている。手を伸ばしても、擦るか擦ら
ないかの距離、届きそうで届かない所にいて。
それは、手を伸しても捕まらぬ、蝶の嘲る羽根のばたつきだ。影絵の嘲弄だ。捕まらぬ、
それでいながらすぐ側で、挑発を繰り返し…。
「嘘ついてたって、認める?」
「……」
則之は言葉が出ない。
認めたくない。認めては彼は罪人だ。
「君は一体、何を云っているんだ」
彼はとぼける。今更遅いと知りつつも。
「きっと夢でも見たんだね。さあ、もう日が暮れる。家の人が心配しているよ。車で送っ
てあげるから、一緒に帰ろう。さあ」
「千恵子さんと一緒にお行きなさい」
私は遠慮するわ。少女は冷やかにそう語り、
「千恵子さんの独占欲・執着って凄いものね。私なんか挟まったら、百年千年恨まれそ
う」
千恵子さんが、待ってるわ。
この時のこの少女の声よりも挑発的な女の声を、則之はかつて聞いた事がない。
挑み掛る様な、彼の激情を誘う様な云い方。
則之は、それに誘発されたか、引火したか、
「千恵子なんて人間は知らないっ!
知らないんだ。俺は自殺なんて関係ない」
お前は一体何を云いたいんだ。人をからかいやがって、懲しめてやる。こっちへ来い!
「私には、どっちでも良いんだけどね」
少女は大人の激情を前にしても平静だった。怯えでもして足を止めたなら取っ捕えよう
と、彼はその瞬間を呼び込んだのに。少女の側も中々に慎重でかつ大胆で、子供とは思え
ない。 二人は睨み合い、対峙を続け、
「貴方が千恵子さんに嘘をついたのかどうか、それは貴方のこれからの行動で分る事よ」
虚言の積りが後で真実に化ける事もあるし、その時は心底からの言葉でも、いつ迄その
魂の熱さが冷めずにいられる物やら。時に嘘は真になり、真は崩れ去る砂の城になる。故
に、
「貴方の言葉が本当だったのか嘘だったのかなんて、貴方の一生が終って初めて分る事」
非難ではない、嘲笑でもない。肯定する訳でも否定する訳でもなく。彼の行状を全て知
った口調でありながら、そうとも明言しない。
見守っている、彼の言動の経過を興味津々と見ているだけ。観客席にいて。
「神域を乱されるのは迷惑なの」
少女は全く違う話をし始めたのかと、則之は思った。それが彼と千恵子の問題に直結し
ていると分るのは、続きを聞いてからである。
「神域の静寂を、俗世の殺伐さや欲望や嫉妬・人間の好き勝手な思いで、かき乱されるの
はとっても迷惑。私達には何の関連もない事で、肉体を失った人間の思いがここにずっと
残されるのは、とってもとっても迷惑なの」
ここを、選ばなければ良かったのに。
ここで彼女を、捨てなければ良かったのに。
せめて嘘をつき通して、千恵子さんに思い残すきっかけを与えなければ、良かったのに。
「彼女の悲しみ・恐れ・悔しさ・愛情・信頼・疑惑・憎しみ・陶酔。全てを貴方は噴き出
させてから、放置して来た。死に行く彼女の心に思い残す事ばかりを植えつけて…」
彼女は死んでも満足を知らないまま、迷い続ける。貴方に、責任を取って貰わないとね。
「神域をかき乱した貴男に、事態を収拾して欲しいの。千恵子さんと貴男の、連帯責任」
「なな、何をいいだすんだ。馬鹿な事をっ」
今更、死んだ千恵子に何が出来ると云う?
「何も出来なくなるからこそ、彼女は今何かをする、したくて堪らないのね、きっと」
それは幼い子供の持つべき愛敬のかけらもなくて、どこかの知らぬ何者かを興味本意で
見つめているだけの、冷徹な顔つきで視線で。
「そして何も出来なくなるからこそ、彼女には今、何かをして貰わねばならないの」
「……!」
『抑えろ、自分を抑えろ、則之!』
死に行く者に、何が出来る。生き返る事も出来ない千恵子に。そうとも、彼女がどんな
に悔しがり彼を憎んだ所で、死人に口はない。
そうとも、そうだとも。あれは終ったのだ。
あるのは、この娘とのやり取りだけだ。
「終ってないわ」
少女は彼の心を見透かして、
「これから終るけど、それには貴方の参加が必要なの。貴方にいて貰う事が、ねっ」
この世の事も、まだ終ってない。貴方が薬を飲ませた。事態の発火点は貴方達二人なの。
事を起した儘ここを立ち去っては、私が困る。
「これは貴方の問題よ。お願いね」
貴方は千恵子さんに、もう一度逢うのよ…。
『駄目だ、殺そう。この娘も一緒に抹殺だ』
全て見られている、確実に知れ渡るだろう。
『知られてはならない。俺の真実を知るのはこの娘一人だけだ。この山林に、千恵子の遺
体とは別の山奥に放り捨てれば、気付く者とている筈もない。俺の平穏な日常を守る為だ、
一生の為なんだ。殺せ殺せ、殺すんだ…!』
名も知れぬ娘の一人や二人、俺の幸せの前にどれ程の値がある。やれ、やってしまえ…。
彼の手が、今度はマフラーでなく、少女の首筋へと伸びる。それを知ってか知らずでか、
娘は和服の袖を揺らせて、もう一歩後退して、
「千恵子さんが、待っているわ。貴方を、ね。彼女の心が鎮まれば神域も静寂を取り戻
す」
成仏って、言うのかな。今の人達は。
「私には、どっちでも良いんだけれど」
少女は大木を真後ろに追いつめられた様に見える。腕力はおろか、俊敏さでも大人の敵
でなく見える沙紀だが、全く焦る気配もなく、
「これは、貴方から彼女に返してあげてね」
千恵子のマフラーを投げ渡す。飛びかかろうとした則之の視界が全て一瞬それで塞がれ、
彼の鼻先には千恵子のいつもの香水が香って。
思わずのけぞって、体勢を崩す則之の耳に、
「嘘をつき続ける勇気、正直であり続ける勇気、嘘を認める勇気。正直であり続ける事を
諦める勇気。貴方が何を選ぶのかは分からないけれど、神域は綺麗にして貰うわね」
慌ててマフラーを巻き取る彼の耳に、
「私は沙紀、神域の管理者。瑞穂神社の周囲に広がる神域の、静寂と秩序とを見守る者」
声が急激に遠のいて行く。それは空に溶け込む様な、聴覚から別の何かに切り替る様な。
視界には、既に沙紀の姿はない。
「ど、どこへ消えた? どこに消えたんだ」
『怯える事はないわ。私は見ているだけ。
千恵子さんなのよ、貴方の相手は。彼女が貴方に会いに来るのは、貴方の愛を、確かめ
る為だもの。貴方はさっきの言葉が嘘なのか、それ迄の全てが嘘なのか、選べば良いだ
け』
千恵子の匂いが漂っている。忌わしい、彼には今やタブーとなりつつある千恵子の匂い。
則之の視界が再び開かれた時、そこには…。
どういう事だ? 彼は辺りを見回した。
右にも、左にも、前も後ろも木の陰も、紅と白に彩られた和服の少女なんて、最初から
存在しなかったかの様に。足跡もそこで消え。
だが、その声は尚も響く。どこで?
どこででもない、彼の耳の奥だ、頭の中だ。
「そんな馬鹿な。これは、もしや幻覚か…」
だが、雪降り積もり風吹き荒れる中で消えかかりつつも、少女の歩いた足跡は確実に残
っている。それだけでない、マフラーだって。
いたのだ、たった今迄、沙紀と名のった娘はこの雪の森にいたのだ。それなのに消えた。
消滅したのだ。創造の反対。移るのでも、燃え朽ち崩れ果てるのでもなく、消え去った。
『逃げられた? 一瞬で、この白一色の森をあの鮮やかな血の紅が彩る和服が見えぬ程』
だが、声はする。則之の耳に尚。それは幻聴だよと、人は言うかも知れぬが、彼の耳の
奥底から、内側から響く様な錯覚をも伴って、
『真実を、貴方の心に今ある真実を答えて』
答えた言葉で貴方の未来が、一つの真実に収斂される。定められる。
「貴方が言う言葉が、貴方の未来を定める」
不用意な言動には、ご注意ね……。
ふふふふふ。あれは神なのか、人なのか。
真実真理そこに居たのか、或いは幻想か。
幻想的な笑い声を天空のどこかから降らせつつ、その声は、どんどん小さく遠くなって。
ふふふふ、ふふふ……。
人の愚かしさ、迷い、様々な苦しみや煩悶を、どこか高所から見下ろす様な、含み笑い。
だがそれには、理解出来ない感情への一抹の好奇心も含められている様で、とても高貴な
透き通った声にも聞えて。
風がどんどん強くなって来た。急がねば。
急いでこの森を抜けて、脱出しなければ。
「くそっ、どうしてこんな……」
則之は思わず毒ついた。幾ら掘り返しても、道端に降り積もった雪にずっぽり埋まった
車のタイヤは、空回りするばかりで進展がない。
あれからどうも、調子がおかしくなった。
温かい車内に逃げ込み、向い風の中を走り出したが、曲がりくねる獣道を幾ら進んでも、
県道に出ぬ。一本道なので逸れる事も迷う事もなく、とっくに県道に出ている筈なのだが。
「一体、どうなってんだっ!」
彼は尚も車を走らせる。一本道で、引き返そうにも反転も面倒な狭さは、元から難渋し
ているのだが、こういう状況になれば彼を更に苛立たせ。それに仮に反転できたとしても、
再びあの場所を通るのかと思うと、則之には、前進の方がまだましに思えて来るのだ。
幾ら雪を掻き分けて進んでも、曲がりくねった道ばかり続いて、彼の苛々が最高潮に達
した頃、ある事実とそれに伴う疑惑が興奮する心を背中を、冷たい物となって駆け抜けた。
捨てた筈の千恵子のマフラーが道端に!
則之の顔は青ざめた。彼はぐるりと一回りして、同じ所に戻って来ただけだというのか。
『同じ所を、堂々巡りしてるのではないか』
違う! 違う、違う、違う!
『俺はあの村を通り過ぎてない。あそこから一周したなら、車は同じ所を回って戻る筈』
あの村を、そして幾つかの曲り角を曲がって三百六十度曲がってなければ、戻れない筈。
「どこも通ってない! どこも二度通ってないのに、どうやってここに戻って来れるんだ。
脇道なんて、一つもなかったんだぞ。くそ」
『馬鹿な、そんな馬鹿な! 車だぞ。
四輪駆動の自動車だぞ。人間の錯覚で歩みが堂々巡りするのとは、訳が違う。なのに』
彼は尚も車を走らせた。周囲の状況は日が暮れ始めたのか、いよいよ怪しくなって来る。
俺は、メビウスの輪に嵌り込んだのか。則之はふとそう思う。永遠に途切れる事のない、
果ての無い輪の巡りに、自分は踏み込んで抜け出る術を失ったのか。
千恵子との彼との、関係の様に……。
道は相変わらず曲がりくねって先も見えず、雪はどんどん空襲の如く降り注ぎ、それら
を風が煽り立て氷の刃にして立ち向わせる始末。
視界ゼロ、どこがどこかも不確かだ。彼の先行きも全く見当もつかない。この薄暮が途
切れるのは一体いつで、どこでなのか。
完全な夜になれば、雪がライトに当たって却って見通しが良くなるのだが、薄暮と云う
のはその中間で、最も面倒な時間帯だ。彼は苛立つ心を抑えつつも、それでも尚車を走ら
せる事を止めようとは、しなかった。
駄目だ、今ここで止っては駄目だ。
『捕まる、追いつかれる、呑み込まれる!』
追いかけて来てる。そう、彼は感じていた。 沙紀なのか、千恵子なのか。どちらでも、
話は同じだ。やつらは追って来る。この森を、この山道を、この雪嵐を丸ごと引き連れ
て!
車の外は奴等の世界だ。車内だけが文明だ。朝の光に当たる迄逃げきらねば、則之は雪
の白色に搦め捕られ、死の世界へ引き込まれる。
逃げろ、逃げろ、逃げろ。
この森から、この雪嵐から、逃げ去るのだ。
奴等は真っ白な死に装束を纏った森全てで、彼を包み込もうとしているのだ。色彩のな
い、白色の世界が車を放さない、追いかけて来る。
落ちつけ、落ちつけ、落ちつけ!
『車の中は文明世界、人間世界、科学の世』
この中は、彼の世界。科学の粋に囲まれたこの車で、現実の世界に戻るのだ。俺は現代
文明人だ。勝手な思い込みで自分を安心させる則之だが、その割にちっとも安心してない。
安心出来る状況ではないと彼も解っている。
グウウン、ギュルギュル……。
タイヤが埋ったと分った時、則之は心臓が止る程のショックを受けた。実際はただ単に、
彼の運転ミスが車を道の外れに踏み外させて、タイヤが雪に埋っただけに、過ぎないのだ
が、
『畜生、女どもめ。俺にそんなに恨みがあるって云うのか、俺が何をしたってんだ!』
則之は口外するのさえ恐れ、心の奥で傍白する。どこかで誰かが、耳をそばだてている。
沙紀か、千恵子か、この森かが、彼の心の中迄を見張ってその動向を掴んでる。そんな
錯覚が、彼を心の中迄窮屈にさせて。
彼は、本心さえ心の表層から隠し沈めねばならない錯覚に、追い詰められていた。彼は
必死で自分自身に弁解する。誰かが彼の心に耳を澄ませたなら、その誰かへの弁解となる。
『千恵子は、放っておいても死んだ女だ。
俺に愛されないのなら死んでやるって、いかにも俺が関っている事を暗示した様な自殺
未遂を、何度繰り返した事か。これはその、結果なんだ。俺は悪くないんだ』
『俺が迷惑にならない様に、死ぬなら死ねと、あそこを選んでやったんじゃないかっ…』
「くっそおおぉぉおぉぉ!」
則之は、狂い出しかける焦りを全身全霊の力を振るって押えつけ、車を降りてトランク
を開けにかかった。スコップを取り出して、タイヤの周りの雪を撥ね除ける。
『早く車を、動かすんだ!』
何を恐れる事がある。一旦死んだ女なんて、スパナでぶん殴ってやれば、もう一度殺し
てやれば、一度死んだ者に殺人罪は掛らない!
則之は、念入りに周囲を確認し、誰もいないと分ってもライトをつけたまま、戦々恐々
たる思いで地面に降り立った。宇宙飛行士の不慣れな歩きで後部に向かうと、何度も振り
返りつつ、道具箱を開ける。だが、その時…。
不意に嵐が吹き止んだ。風の音が消える。
雪が落ちて来ない。嵐が唐突に消え去った。
震えていた木の枝も、荒れ狂っていた吹雪迄が、彼の周囲の森から蒸発してなくなって。
寒い、凄じい寒さ。体の芯から冷え切っていくのが分る。何者からも身を守る術はない。
猛吹雪なら木陰に逃げれた、だがこの極寒からはどの様に逃げても逃げきれぬ。南極の
寒さ、と云うのだろうか。風がなく、特別に多く雪降らずとも、心臓迄凍りつかせる寒さ。
肉体よりも、心を凍りつかせる類の寒さだ。
顔に叩き付ける雪嵐も、下から横から回り込む寒風も消え、残るのはただ静寂と酷寒で。
嫌な予感がした。それがもう少し早ければ!
だが。もう少し早く感じても、彼には何か出来ただろうか。
音が消え、嵐が空虚に化け、瞬時に過酷な吹雪は沈黙に代わり。これは、死の沈黙?
彼は今、異なる世界に、入り込んだのか。
様々な人の思いの荒れ狂う現世から、それとは異なる基準と体系を持つ、異なる世界に。
カロラン……。彼の開けたそのトランクに、遥か上から落ちて来た光り輝く小さな物体
は、
「指輪? この、指輪はまさか……?」
『俺が千恵子に贈って死ぬ迄はめ続けてた』
機嫌取りに贈ったダイヤモンドの婚約指輪。
『死が二人を分かつとも、俺達の愛は、この輝きの続く限り、永遠に』
そう口説いて、ベッドで押し倒したあの日。あの日から、千恵子との縺れが始った。一
夜の恋の積り、一度寝れば用はなかった則之と、それが愛の始りと信じて身を任せ、永劫
の愛に燃えた彼女。彼にしてみれば、あれは手切れ金で、身体の代金でもあった。払う物
を払えば、さっぱり別れられる。そう思っていた。
今迄の女達が全てそうだったから。
愛だの何だのの自身の言葉を、彼が信じた事はない。彼には全ての言葉は道具で、その
時々の口約束で。違える事もある、程度の物。
『少し指太くなって外れなくなっちゃった』
千恵子はその指輪を見せ、そう言って来た。永遠に貴方との絆が外れぬ様に、これはこ
のままつけとくわ。そのまま千恵子はさっき迄、あの指輪を片時も、外した事はなかった
のだ。
その指輪が、どうしてここに!
則之の視線が、上を向こうとして硬直した。
見て良いだろうか、見るべきなのだろうか。
見なければならない、この指輪を落とした者を。見たいし、見てくれる様にと落として
来たのだから。上にいる、誰かいる。だが!
『のりゆき……』
どこで聞いているのかも不確かなその声は、
「千恵子……、千恵子、なのか?」
確認したくはなかった。確認等したくもなかったが、だが確認しない訳に行かなかった。
千恵子は、死んだ。死んだ筈なのだ!
生きていたならいたで、死んでいるならば死んだで、則之の未来に大きな影響を及ぼす。
確認せねば、ならぬのだ。逃げられない。
上を振り仰ぐ彼の目に、映った者とは…?
「お帰りなさい、則之さん」
上の声は、千恵子とは違う声だった。
沙紀である。
ほっと云う吐息と、とうとう来たかと云う失望感が彼を捕えて、則之は言葉を返せない。
その則之の、敵意と戸惑いと僅かな安心を含む奇妙な表情に、沙紀はその身に纏う和服
を僅かに揺らせて、無言のまま微笑みかける。
真っ暗な、星の光も月の輝きも、車のライトさえいつの間にか消え去って、雪の白だけ
の輝いて見える奇妙に幻想的な暗黒の森の中、沙紀の姿だけが紅と白の和服に彩られて鮮
やかに映り、自分の姿がゴミの様に思えて来る。
沙紀は尚無言で、木の枝から地上の則之を見下ろしている。何も口を開こうとはしない。
既に云うべき事はない、云っても無駄だと、云わんばかりに。その位置の為かも知れぬ
が、彼には沙紀が何もかも彼の全てを知り尽した上で軽蔑しているのだと、思えて来てし
まう。
可哀想にと云う同情・侮蔑。冷めた観察眼。どれもがどれも、彼女の瞳にある輝きと知
性の全てが全て、則之の人格の、何もかもを見下している様に感じ取れて、彼はかっと来
た。
「お前は一体、何者なんだ!」
彼は怒鳴りつけた。半分、自暴自棄である。
「お前は、千恵子の一体何なんだ。
どうして俺になんか取り憑く!」
その云い方は、沙紀には不本意だったろう。
沙紀は彼に恨みを持つ訳ではない。取り憑いた訳でもない。彼女は唯、強烈な心残りの
ある千恵子を置き去りにして神域をかき乱した彼らに、事態収拾をして欲しいと望むだけ。
そう語った、まさにそれだけなのだから。
本来この一件は、彼らの問題である。神域が愛憎の縺れのゴミ捨て場に扱われたのでは、
彼らは沙紀に報復を受けても文句は言えまい。
頭上数メートルのしなる木の枝に腰かけて、この吹雪の中にも悠然と、何の防寒着もな
しに−足等は裸足だ−彼に向かって笑みを見せ。
異様に艶めかしく、それでいて清楚で。その双方を同時に持ち合わせ、湖面の漣の様に
移ろう。瞳の冷やかさが、白と紅との和服の燃え立つ様な風にはためく姿とは対照的で…。
「俺は……、俺はお前になんか用はない!」
則之は恐怖を振り払う為に、体に気合いと熱気を通わせる為に、あえて怒声をあげるが、
「貴方に用がなくても、私にはあるのよね」
沙紀の表情は相変わらず感情を表に出さず、少年少女の賢しさと云うか生意気さと云う
か、
「でも、私の用事は、最優先ではないみたい。
貴方にどうしても会いたい人が来ているわ」
この言葉で、則之の虚勢も削ぎ落とされた。
彼は千恵子の影の前では身動きもままならず、沙紀の前では沙紀の許した範囲でのみ虚勢
を張れる、操り人形の様な存在で。
沙紀の言葉に導かれる様に彼が後を向くと、突然車のライトの輝きが則之にも知覚され
た。その場に今迄そんな輝きはなかった、否少なくとも彼には一時的に感じ取れなかった
のに、再びその存在を認められたと云わんばかりに。
夜とも昼ともつかぬ暮れ始めの淡い灰色の中、おぼろげに照されるその人影で、則之は
その時の到来を知り、その者の到着を知った。沙紀でなければ、後は一人しかいないの
だ!
「あわわわ……、ち、千恵子……」
則之のいる所迄追いついたのだ。
「則之……、則之、則之、則之!」
千恵子の叫びはただそれだけで。
千恵子の視線はただ彼をだけ見。
そして千恵子の心にはただ一人しかおらず。
「則之……則之、則之!」
狂気の極限なのか、真摯な愛情なのか。
死せる者の執着か、死をも越える愛の力か。
「ああ、千恵子……」
それ以上口からは、何も出ない。云う事が、思いつかない。考えも空回りして、後は金
魚の如く、口をぱくぱくさせる以外に術がない。
全身を、千恵子の無色無形の思いに搦め捕られたか、則之の身体は身動き一つ、瞬き一
つも出来ないで、ただじっと歩み寄って来る千恵子を凝視するのみで。蛇に睨まれた蛙だ。
その則之に、千恵子はもう一度、二度三度、
「のりゆき、のりゆき」
会いたかった。私を置いて、どこ行くの?
その視線は、則之を正面から見つめている。
千恵子の瞳は、澄み切っていた。則之が、彼を信じきって思考を停止した、愚か者の瞳
だと常に見下していたあの瞳が、今も彼を見つめている。見据えている。見竦めている。
彼が最も侮蔑していた、信じ切った千恵子の瞳が、則之を呑み込まんばかりで。だが、
憎まれるより安堵の思いがあったのも事実だ。
憎悪に猛り狂った千恵子には逢いたくない。例え彼が、それを招いた張本人であろうと
も、である。都合良い思いかも知れないが、この心情は誰にも理解できるのでは、なかろ
うか。
彼はそれに呑み込まれて行く錯覚にも、震え上がる事すら出来ずに、黙しているだけで。
千恵子は、語りかける。その強靭な意志を愛を込めた瞳で真っ向から、則之の心の底の
底迄をも見透かす程の、輝きの強さを持って、
「私は貴方を愛しているわ。そして私は貴方に愛されている。そうでしょう、則之は私を、
捨てた訳じゃないわよね、そうよね」
捨てたなんて、嘘でしょう。
「貴方が私を捨てる訳がないもの、ね?」
「……あ、あわ、あわ、あわあ」
俺は正気なのか、これは事実なのか。
俺は、幻覚を見ているのか。俺は本当は、誰かのベッドで、どこかの女のベッドで、悪
夢を見ているだけなのではないのか?
『これが悪夢であるなら、醒めてくれ!』
だが、則之のその望みは空しく散って、
「則之、私を置いて、どこに行っちゃうの?
そんな事しないよね。貴方は、私と一緒に新たな旅立ちに出るんだものね。この雪原で
の死は、生まれ変わりへの一歩。必ず二人で死後結ばれようって、誓ったわよね」
あんなの言葉の綾なんだよ。言葉の上の事であって、現実にそう出来る訳ないだろう…。
則之も、流石にそうとは云い出せぬ。
怒らせては、いけない。怒らせては。
「ち、千恵子……。どうしてこんな所に?」
尋ねても無駄な事だと知って尚彼は尋ねる。
「分らない、分らないわ」
千恵子は、それには首を左右に振るのみで、「ただ、貴方について行きたい、置いてけぼ
りは嫌。そう思ったら、私、身体が動いて」
そんな馬鹿な。そんな事があるか!
「お前は眠り薬を飲んだんだぞ、覚えてないのか? お前は、雪中の森で死んだんだ」
云ってしまって、彼はまずいと口を閉ざす。
よりによって、こんな所で。だがしかし!
『やつが生きてここにいる訳がないんだ!』
「私は、死んだのね。死んでしまうのね?」
「あ、あう、うう、あああ……」
彼は言葉を返せない。何と云って良いのか。
彼は未だ死んでないのに、彼は死んだ彼女が来れる筈がない処まで、一人で逃げてきて
いたというのに。
「寒い、寒いの。心が寒い……」
千恵子の瞳は輝いていたが、それは生者の輝きではなかった。迷い悩み苦しむ生きた瞳
ではない。確定された死者の瞳は、何もかも知り尽し悟った、透徹した輝きで、生ける者
を圧倒する。千恵子のこんな視線は初めてだ。
そんな千恵子の瞳等見た事もない。彼女の視点は常に、彼との距離を見極め・縮める為
だけに動き、狭く固定されて、愚かしかった。
その千恵子の視線は今、彼の心を打ち抜く様で。則之の言葉の虚実を見抜く事は、彼女
が生きている頃から半ばできていた。しかし、それで尚彼は平然と彼女を騙し、騙せて来
た。
それは彼女に騙されたい、騙してほしいという思いがあった為なのか。嘘でも良いから、
優しく語りかけ構って欲しい思いがあった為なのか。だが、今の彼女にそれは通じない…。
既に則之は千恵子を行動に駆り立てた。
今度は彼が、行動に駆り立てられる番。
千恵子は怒りもせず疑いもせず、悩みも苦しみもせず、ただ静かに、こういう。
「貴方も、来てくれるんでしょう?」
千恵子のその一言は、本当の衝撃となって則之の心に叩き付けて来た。そんな、そんな。
『俺はまだ死にたくない! 死にたくない』
寒い。寒いのよっ。千恵子は叫んだ。
「私を、置いていかないで。寒い、寒いわ。
身体が、心が、凍えてしまう程に冷えるの。
暖めて。私を、貴方の心と身体で暖めて」
「千恵子……ああ、千恵子……」
お前は、死んでしまったんだ。俺にどうにか出来る訳が、ないだろうが。お前は、自分
で死を選んだんだ。俺は、それを手助けしたに過ぎない。俺にはもう何も出来ないんだよ。
「良かった。貴方に出会えて」
千恵子は一歩前に踏み出す。それに応じて、則之は一歩後退した。距離を置きたい、離
れたい。それは生と死の間の距離だ。それを縮められてしまった時、ゼロになってしまう
時、彼は千恵子と云う死の死者に抱き竦められる。
彼が死の世界に捕われる瞬間なのだと!
逃げ出したい。千恵子が一歩進むなら二歩下がりたい、三歩退きたい、四歩離れたい…。
『来るな、来るな、来るな、来るな!』
俺は死ぬのは御免だ。頼む見逃してくれ!
「どうしたの、則之?」
千恵子は分り切った事を問う顔つきでそう尋ねた。否、そう思うのは則之の思い込みか。
不思議に透徹した、吹っ切れな千恵子の顔。それは、本当に死を越える事が出来た者の
顔、死を越え彼を愛し続けた事に自信を持てた顔なのか。なぜこうも悟った顔が出来るの
だ?
だが、則之には見える。彼の心の隅の隅迄をも知り尽して、尚そ知らぬ顔で、彼の口か
ら真相を口走らせんとする、千恵子の意図が。
それは今のこの千恵子が見せたというより、彼が勝手に紡ぎだした、則之の幻想の中で
の彼女だ。今迄の行動から導きだした、彼女だ。
「ち、ち、近づかないでくれ……」
「どうしたの、則之?」
則之は、声を震わせながら後さずる。しかし千恵子はその歩みより、更に大きく足を踏
み出して、その唇は瞳は切実に彼を欲し、
「私を抱き締めて。私を愛して」
「あ、あ、ああ……」
「ああ、貴方といつ迄も一緒、捨てないで」
だがその気配には、生死の境を異にする者同士の、厳然たる違いがひしひしと感じ取れ。
駄目だ、受け入れては駄目だ。千恵子は死んだ、俺は生きている。結ばれはしないんだ。
「死んだ女と一緒になど、なれる物かよ!」
「死んだ? 私は死んじゃったの!」
でも、貴方はまだ死んでない。どうして?
それに彼が、答えられる訳がない。
千恵子のボルテージは則之の声に比例して高まって、それは則之の動揺を更に高めゆく。
「貴方と一緒、いつ迄も一緒。死んでも一緒。 死んで結ばれましょうって、そうよね」
未来永劫、死んでも、生まれ変わっても、愛し合おうって云ったわよね。私を、私を!
愛して、愛して。寂しいの、怖いの、不安なの。貴方といたい、貴方が欲しい。
「貴方はまだ、生きているのね。
貴方はまだこっちに来てない。
貴方も未だ独りぼっちなのね」
私が抱き締めてあげる、愛し合いましょう。
「私は貴方を愛しているわ。
私は貴方を信じているわ。
私は貴方を待っていたの」
一人で、一人で。アパートでも、大学でも、あのスナックでの夜も。でも、貴方は私が
行かないと決して来てくれなくて、電話も殆どくれなくて、私はいつも待ちぼうけ。
私、ずっと待っていた。貴方と二人きりになれる日を、誰の邪魔もなく愛し合える日を。
不安なく、何の不安もなく愛し合える日を。
ずっと待っていた、ずっと待っていたのに。
「貴方はまだ来てくれないの。早く来て!」
もう少し、後もう少し踏みだせば良いだけなのに。もうそこ迄来ているのよ、愛の園は。
私はずっと待っていた。待って待って、待ちっぱなし。もう待ちきれない。則之、来
て!
「私だけ一人、独りぼっち。そんなの嫌!」
この大声は、千恵子自身の決意表明だ。彼への難詰ではない。怒りの表明でもない。あ
えて云うなら、焦れったさの愛情表現に近い。
だが、それでも彼はびくっと震えてしまう。
「死ぬのなんて、大嫌いよ。でも則之がそれしかないって、一緒だって言ったから、耐え
られると勇気を奮い起して踏み切った『死』。
寂しいの、寒いの、冷たいの」
誰か、誰かに身体を熱く抱きとめて欲しい。
誰か、誰かに心を優しく包みこんで欲しい。
一人じゃないって、云って欲しい。証明して欲しい、確かめさせて欲しい。一人は嫌!
「さあ、約束通り私を愛して、早く来て。
私を未来永劫、生れ変っても愛し続けて」
「ち、ち、千恵子……」
お前は死んでしまったんだ。お前はもう俺とは二度と、一緒に生きる事が出来ないんだ。
だが、拒絶の意味を持たせたその一言が、千恵子には生と死の壁を乗り越えるただ一つ
の方法を指し示す啓示となって、
「一緒に死ぬしかないのね。一緒に死ぬしか他に方法がないって、則之が言った通りね」
一緒に生きる事が出来ないなら、一緒に死ぬしか、一緒にいれる方法はないのだものね。
「い、いや。その……」
「私との結婚はできないから、生きて結ばれる事はないから、死んで一緒になるしかない
って、則之、そう言ったよね!」
何でそんな事迄、覚えていやがるんだ!
「俺はまだ、生きている。生きているんだ」
「私も、生きていたわ。貴方の為に死んだ」
貴方はちょっと遅れただけなのよね。貴方もすぐに私の後を追いかけて来る筈だったの
よね。それがちょっと遅れただけなんでしょ。
「それとも私を、愛してないって云うの?」
ああ、その一言こそが!
則之が口に出したくて溜らない一言であって、彼が口に出してはならない禁句でもあり。
則之の口は動きかけた。そう、云いかけた。
『お前なんて愛してない。愛していない!』
だが遂に、その一言に始る一連の本音は、出る事はなかった。喉まで出掛ったその声は、
彼の心の作用で再び喉の奥底に押し込められ。
『駄目だ。例えそれが本音でも、千恵子を愛してないだなんて云おう物なら、俺は彼女の
怨霊に取り憑かれる、そうに決まってる!』
死の淵に引きずり込まれる。取り殺される。
嘘でも、嘘でも良い。俺は千恵子を愛している振りを装って、騙し続けなければ。彼女
を騙す事自体はそう難しい事じゃない。俺が本音を完全に心の底に閉じ込めてしまうなら。
今迄だって、騙し続けてきたじゃあないか。
『事実は違う、実際はそうではない。だが』
彼女はそう言って貰う事を−言い換えれば、騙される事を−望んでいるのだ。愚にもつ
かぬと、則之は今迄そう言う千恵子を侮蔑して来た。本人の思いたい様に、事実を曲げて
受け止める彼女の心の内が、彼には理解不能で。
死んで尚貫ける思い。一体彼女は、則之の甘い騙しから、人生や性格をどう解ったのか。
自身さえ愛する気になれぬ彼には、分らぬ。
『愛してもいない女を愛している振りをするのは、本当に疲れるぜ』
則之は女好きだがそれは性欲の故であって、愛の故ではない。自分以外の何かを大事に
想う心が希薄で、本当に何かを愛した事がなく今後もなさそうに思う。よく分からないの
だが、自分が一番可愛いと思い続けている間は、きっと本当の愛ではない。何物にも替え
難い想いを抱いた経験が、絶無で。
冷やかさと言う点ではむしろ、沙紀に近い。
だが今その則之の命を繋ぐ細い糸が、正に彼が今迄見下し侮蔑してきていたその『低能
な思い込み』だとは。なんと皮肉な事なのか。
『俺が嘘をつく訳じゃない、彼女がそう思いたがっていて、それを後押ししてやるだけ』
「則之、本当の心を云って。私を、私の事を貴方は愛しているわよね? ね、則之……」
本当の心、本当の心だって?
則之は傍白した。本当の心って何だ。そして千恵子が求めている答って、何だ。その二
つが食い違っているのに、何を云えと云う?
『お前は聞きたいか、本当に、俺の本心が』
否、違う。絶対にそうではない。
彼女は真実なんて、知りたがってはいない。
千恵子は『則之が彼女を愛している』との言葉に、本音だと云う彼の証明が欲しいだけ
なのだ。彼女は嘘を聞きたがっている。自分に都合の良い事だけ聞きたくて、待っている。
それに本当の烙印がつけば、彼女はそれだけで喜び、涙するのだ。嘘でも、それが彼女
の求める真実だと。そう云う生き物相手に、誠実に受け答えするのは無意味だった。
嘘と真? だが、嘘で俺の身が助かるなら、俺は悪魔でも鬼にでも、大嘘つきにでもな
る。
『なってやろうじゃない。一つや二つの嘘!嘘で人生を切り開けるなら、俺は躇わない』
自殺の幇助迄した俺が、何をためらう物か。
則之がそうと心を固めた時、上方から清涼な冷やかな声が、その心を見透かした様に、
「私にはどっちでも、良いんだけどね……」
見下した視線が見なくても言葉の端々から感じ取れる。分るのだ。ガキの癖に生意気な。
あいつも始末せねばならぬ。千恵子の後で、千恵子を巧く騙して、その魔手を逃れた後
で。
俺は悪魔になってやる。鬼となって、真実を俺の力で定めてみせる! それが出来なけ
れば、俺には破滅しか残っていない。
「貴方が言う言葉が、貴方の未来を定める」
ふん! 何を言っていやがる。
則之は心の中で沙紀の存在を笑い飛ばした。真実等、勝者に・騙した方にだけ、ある物
だ。騙された者や敗者には、何の慰めにもならぬ。
『嘘をつくなと匂わせて。
甘い嬢ちゃんの考えは、幾ら言葉を飾ってもお見通しだ。ああいう奴らの云いたい事は、
大体お決まりのお説教で、教科書だ。
俺を悔い改めさせ、千恵子の思い残しをなくする。それでお前は良いんだろうが』
俺に全てを背負わせる積りだろうが。
俺もこれ以上千恵子に煩わされたくない!
もう一分一秒だって、千恵子の事なんか思い返したくないって云うのに。
嘘で結構、十分だ。千恵子になんて、こんな愚かな女になんて、真実はいらない。
『お前に押しつけてやる。俺は巧く逃げる』
冷酷に撤しなければ、修羅場は乗り切れない。甘い事を云っていると己が破滅する状況
に追い詰められて、とうとう彼も人間の心を一時棚上げする気になった様だ。
悪でも強くあれ、弱い者は善でも死ね。
「答えて。私を、愛している、いない?」
ああ、そんな単純な問いへの答えは、彼の心の中では決まり切っているのに。だが彼の
口をついて出る答えはその正反対に規定され、
「馬鹿な事言うな。そんな事ある訳がない」
俺は、お前を愛しているんだ。そうだとも。
『だから、取り憑かないでくれ、恨まないでくれ。後々迄崇りを為さないでくれ、なっ』
俺は、俺はお前を愛してやったんだ。愛した人間を死なせたいだなんて、普通は思わな
いだろう。そうだろう、頼む、な!
千恵子を騙す事自体はちょろい物だ。だが、
「ああ、やっぱり。則之、やっぱりそうね」
千恵子の瞳に、救い難い笑みが浮び、潤む。
この状況で尚、則之のこれ迄の行状を間近で見て来て尚、その上っ面の言葉だけを信頼
して安心に微笑み、喜びに弾けるその瞳とは。
則之には、理解が出来ぬ。どうしてそこ迄、自分の信じたい事だけを信じ込めるのだ?
「私も、則之の愛を信じてたわ。ずっと…」
『嘘つきやがれ! 友人や携帯を使って俺の動静を一分一秒探って、他に女がいないかど
うか、疑心暗鬼でいた癖によ』
それも愛するが故の独占欲・執着だと?
『冗談じゃねえ。俺がどこの女と寝ようとも、俺の勝手だ。手前に詮索される謂れはね
え』
「ああ、俺もだ。お前を愛する俺の心には、一点の曇りもない。お前を愛してる千恵子」
だから。則之はいとおしい者を見る目線で、
『だから、さっさと俺を元の世界に返せよ』
だが、則之の期待通りだったのは、そこ迄だった。則之の愛を確かめた千恵子が、彼の
幸せを願って死の世界に一人旅立つ。或いは説得し旅立たせる。その積りだった彼の耳に、
予測を越えた一言が届いたのは、正にその時、
「迎えに来たわ、行きましょう」
千恵子は希望を瞳に浮べて誘なう。そうだ、千恵子には、それは希望以外の何者でもな
い。則之には、全てを失うゲームオーバーなのに。
愛しているからこそ、彼女は約束を守り、又則之が約束を破る等とは微塵も疑わないで。
「さあ、行きましょう。一緒に、新世界へ」
私達の愛は死しても尚永遠なのよ、則之はそう云ったでしょう。さあ、結ばれましょう。
「誰の邪魔も入らない処で、永遠に二人で」
則之も、そうであると信じて止まぬ千恵子の手が伸びる。千恵子の一歩に対して三歩か
四歩位彼は下がっていた筈なのに、みるみる彼女は彼の前に迫って、その手が伸びて……。
や、や、止めろ。止めてくれ、違う違う!
「待て、待て、待ってくれ!」
彼は慌てて、叫び出した。
あれは嘘だったんだ。あれもこれも、みんな、俺の云った事は何もかも嘘だったんだ!
「……?」
千恵子の顔が一瞬凍りついた。そこに畳み掛ける様に、則之は禁断の呪文を唱え始めた。
「俺はそんな事、本気で云ったんじゃない」
『俺はお前なんか愛していない。お前と一緒に死のうとした訳ではないんだ。あれは嘘だ。
お前だけ死なせて、俺は一人で生き残って、そ知らぬ顔の、積りだったんだ……』
予想が外れ、動転し我を失った則之は最早、飾る事が出来なくなった。言葉迄しどろも
どろに陥って。もう方法はない。破れかぶれだ。助かる為なら、その反対に乗り換えれば
良い。嘘でも、嘘の嘘でも構う物か。いま少しを凌げば良い、いま少し千恵子の行動を抑
えれば。
隙を見て、逃げてやる、走り去ってやる。
何が何でも、取り殺されてなるものか!
「ああ、そうだとも。俺の言葉は、何もかも嘘だったんだ。俺は本当はな、本当はな…」
だが、その呪文は奇想天外な効果を見せる。
「あの言葉は嘘だったのね!」
千恵子の興奮気味な声に、それを肯定する為に更に大きく則之は叫んで、
「ああ、そうだとも、全部嘘だったんだ!」
「やっぱり、あの言葉は嘘だった。則之の後ろ姿と共に最期に聞えて来たあの言葉は、み
んな嘘だったのね。あれは、違うのねっ?」
あれって? あれって、一体何のことだ…。
不意に背筋が寒くなる。千恵子の本音と則之の本音が同じ方向を指すなんて事は、生と
死を乗り越えてもありえない筈なのだ。それを事実から知っている彼が、この応酬に訳も
なく気味悪くなったとして、無理はなかろう。
自分の行こうとする方向が、間違いではないのか。自分が何か、とんでもない過ちを犯
したのではないか。そんな気がして堪らない。
則之は、千恵子の怒り出すでもなく憎悪に狂うでもない、せがむ様な声に、抱きつかれ
そうな瞳に、戸惑いを感じて気味悪そうに更に退くが、千恵子はそれを逃がさずに、手の
届く程に近付いて来て、
「則之、最期に云ってたよね」
『俺は、死にたくないんだよ』
『俺はお前の様に誰かをだけ愛し見つめ、生涯をその為に捧げるなんて、嫌だ。俺は、誰
かに縛り縛られるつき合いが、嫌なんだ…』
千恵子が繰り返したその台詞とは。
『嫌なんだよ、お前とのつき合いが。お前との人生が、生活が、性格が全て!』
則之が少し前に口にした台詞とは。
『嘘だよ。……みんな嘘なんだっ』
『お前を愛していると言うのも、俺が一緒に死ぬって言うのも、みんな嘘だ。嘘なんだ
よ』『お前が愛した相手が間違っていたと、ここ迄来て尚分らんのか、この馬鹿!』
覚えていた、聞えていた。彼のあの声は…。
則之の心がこの瞬間、絶対零度で氷結した。
「みんな嘘だったのね、心にもない嘘だったのね。則之の本心じゃなかったのよね。ただ、
ちょっと魔がさして怖くなっただけなのね」
私がいるわ、今は私が先に立っている。
「恐がらないで、私がいるんだもの……」
則之、心にもない嘘なんか、ついちゃ駄目。
怒りでもなく、憎しみでもない。純粋に則之を信じて、信じ切った彼女の瞳の強制力が、
彼の心臓を鷲掴みにした。則之の身体も心も、則之の物でありながら、最早則之にはどう
する事も出来なくなって。
もう千恵子に恐れはなかった。失う物が何もない、死の壁を越えた者の澄み切った、澄
み切って俗気が抜けた涼やかさが、恐い程で。
失う物を多数持って、己自身も生き延びる事を望み、全ての面で守りに回っている則之
には想像もつかない心境に、彼女はいる。
「私は、貴方が愛してくれていると、誰よりも誰よりも、一番一番、信じているんだもの。
そんな程度の可愛い嘘なんて、見抜くのは易しいわ。さあ、もう怖い事は何もないね」
そこにいたのは、則之に付きまとってきた愚かな千恵子ではなかった。侮蔑すべき馬鹿
女ではなかった。彼女は本当に、堂々として、端正だった。落ち着きが、心境がここまで
同一人の印象を変えてしまう物なのか。
綺麗とさえ、云って良かったかも知れぬ…。
則之は硬直していた。全てが、世界の全てが砕け散っていく錯覚に捕われて。己の身体
も心も凍り付き砕け散っていく幻覚に捕われ。否、これは幻覚ではないのか。まさか現
実?
千恵子は、希望と喜びに満ち溢れた表情で、
「行きましょう。貴方の目指した新世紀に、私も一緒に連れてって。さあ、早く早く…」
千恵子の手は今にも則之の腕に触れそうだ。
『ち、違う、違うんだ……!』
違うんだってば。違う、嘘の意味が違う!
思考が空回りする。混乱する。硬直する。
どこかで、そんな彼女のいる処に行ってみたい気持ちさえ、芽生えてくる。それを拒も
うとして、心は更に千々に乱れて。麻薬の誘い、雪山の眠りの誘いにも似た、己を破壊す
ると分かっていて尚、逆らい難い悦楽への招きに、自分のどこかが、強く牽かれ始めてい
るのが、則之には更に恐ろしくて堪らない。
俺はそんな破滅的な衝動を持っていたのか。それは俺じゃない、俺の中にいても、それ
は俺じゃなくて俺に良く似た別人だ。出ていけ、消えろ、あらわれるな。
「やめてくれ、来ないでくれ……。
違う、違う、違う。違うんだ!」
後ろ向きの彼の歩みが、不意に何かにつまづいた。尻餅をつき、乗り上げてから則之は
漸く気が付いた。それは千恵子の骸で、ここは薬を飲ませた森。では目の前の千恵子は?
『戻って、戻って来て、しまっている?』
結局俺は、ここに戻る宿命だったのか。
どうあがいても、運命の天秤は、もう……。
目の前の幻影の千恵子は尚も暖かな笑みで、
「則之、もう何も心配はいらないのよ。
貴方の云った通り、私達はいつ迄もいつ迄も、何者の邪魔も入らない所で愛し合い幸せ
になるの。恥ずかしがらなくて良いわ。もう、誰も私達の行方なんて見えないんだもの
…」
私達はいつ迄も二人。いつ迄も、二人だけ。
「ああ、ああ、ああああ!」
則之は、絶叫した。魂を死神に魅入られて、逃げる術さえ失った哀れな生者の、死の絶
叫。
「喜んでくれるのね。喜んで大声あげたくなってしまうのね。のりゆき、私ののりゆき」
愛してる。本当に、愛してるんだから……。
「だから、永遠に放さない!」
そこに、騙され続けて尚変らない真実の愛を見るのか、因果巡った自業自得を見るのか。
『た助けて、嘘をついたのは間違いだった』
違う、違う、違うんだ。違うっ……!
「た、助けて……俺が、俺が悪かった」
その後悔は、少し遅かった様だ。
「何も謝ることなんて、ないのに」
「ひひいいいぃぃぃぃぃぃっぃ!」
「云ったでしょう、則之さん……」
その声が響いて来ても、今の則之にはその方向を見る余裕もない。最早氷結した彼の身
体も心も、沙紀の発する波動でなければ何も感知できない暗い領域にいて。
その声は幾分冷笑気味に、そして幾分かは同情気味に、不思議な程の涼やかさを持って、
「貴方の言葉が、真実になるって」
ああ、そうなのだ。彼は今迄様々な嘘でその場を凌ぎ騙して、かわし続けて、今その嘘
が墓穴を掘って。騙され続けた千恵子が今、騙され死んで則之の嘘を、事実にしてしまう。
何と言う皮肉!
「一緒に行けば怖くない。
一緒に居れば怖くない」
千恵子は呪文の様に繰り返した。
「愛があれば、どこへでも行ける。
愛があれば、どこにいても良い」
則之、愛してる。愛してる。愛してる。
目を細め、幸せ一杯の笑顔を満面に湛えて、
「愛してるから、一緒にいるわ。
最期の最期迄、貴方と一緒にいてあげる」
ああ、千恵子に則之は抱き竦められる。
「怖くないのよ、貴方も早くこっちへ来て」
逃げられない。彼はもう千恵子の腕の中で、逃れ出る事の出来ぬブラックホールの中枢
で、
「ああ千恵子。千恵子、千恵子おおおお!」
一体何をして欲しいのか、何をさせたいか。口に出そうとしている本人にも定かではな
い。
舞い降りる雪もなく、吹き抜ける風もなく、一面に展開して動きがあるのかどうかも分
らぬ曇天の中、停止した時間はもう動き出さぬ。
否、今動き出そうとしている時間に、彼らは永久に乗る事が出来ぬだけ。
「ちえこ、ちえこ、ちえこ。ちえこぉお…」
涙が途中で凍りつく。心迄もが、凍りつく。
死んだ女に抱き竦められ、これが死の抱擁という奴か。気が、遠くなる。気が、遠く…。
寒い、寒い。どこ迄も、寒い。
則之は千恵子を抱き締めた。寒くて寒くて、指の先から感覚がなくなっていくのが分か
る。
ただ千恵子が抱き留めてくれた事が分かる、分かるのももう少し前の話で、どんどん感
覚が鈍く重く、消えていって。
「のりゆき、のりゆき、いつ迄も放さない。
のりゆき、のりゆき、私だけ、私だけの」
冷たい風が吹き抜ける。命の灯を消し去る、この世の物ならぬ風が、二人の全存在を吹
き消して。千恵子は自らの盲目な愛に縛られて、則之は己のその場凌ぎの嘘に縛られて、
共に死の門を潜る。彼らのその後は誰も知らない。
沙紀にも、死の先にある物は不可知なのだ。
そして二人の意識が消えるのと同時に、雪は降り始め、風は吹き始め、時は動き出す。
「あの二人、果して、愛し合っていたと言えるのかな? そして……」
少し離れた処から、二人の最期を見つめていた沙紀が、静かに呟いた。二人の骸は雪の
原にほぼ重なり合う様に倒れている。二人が最期に感じ取れた、互いに抱き合う姿は幻覚
だが、それと余り違わない状態が現実にあり。
二人の倒れ伏し、今命の火の消えゆく人間達と、少し距離を置いてその様を見つめつつ、
それを促す様子も助けだす積りもなさそうな、二人の人外の者達と。雪は、少し前に止ん
だ。
「果してあの二人は、幸せと言えたかしら」
千恵子が愛したのは、則之ではない。
千恵子が愛したのは、則之の中に見た幻想で、実在しない、本物の則之とは似ても似つ
かぬ、別人なのに。それでも、それでも。
「でも、世の中の真実なんて、誰も知らない所にある様で、実は皆知っている処にある」
千恵子も則之も、求めて得られぬ物を追い続け、遂に己の側が現実から外れてしまった。
自分の欲求を変える事、自分の望みを見つめ直す事が出来れば、違う結末になっていた
かも知れないのに。自分の幸せの条件、を頑なに譲らない者は、極限の選択を迫られる…。
全てを得るか、全てを失うか、その両方か。
「二人は互いの全てを得て、全てを失った」
沙紀は、運命を操る全能の神とは、縁遠い。
それは沙紀自身も解っている。彼女に見える諸々の事柄・側面は、冷静にさえなれば、
誰にでも−勿論人にでも−見えて来る物だと。
「騙されても、信じ続ける事で嘘を真実にしてしまえた執念深い女の勝ち。最後の瞬間迄、
騙し続ける強靭さを持てなかった男の負け。
……それだけね」
脇に立っている彩の語調は、沙紀と違って不愉快そうで、露骨な程に見下す姿勢だった。
「馬鹿は馬鹿なりに、馬鹿を自覚しているわ。
今更賢くはなれないと諦めて、信念の強さに磨きをかけ、一点突破を図った千恵子の一
念を、その強さを、則之は見誤った」
策士策に溺れる、因果応報、自業自得。
「命を捨てられる覚悟の出来た強さの勝ち」
それで得られた相手があれなのが、ちょっと悲しいけれど。冷やかと言うより冷然とし
た姿勢で『分析』して見せる彩に、
「でも、千恵子さんは、幸せの中で逝けたわ。
則之さんは、少し不幸せかな。でも、恨みも混乱も残ってない。素直に逝ったみたい」
心まで、縮み上がっていた様だけれど。
もうすぐ彼らは発見されよう。放置された則之の車を不審に思う者が、警察に通報する。
翌日か、翌々日かは分からないが、放置してある車は村の生活物資を運ぶ数少ない幹線
を塞いでいるのだ。気付かれぬ筈はなかろう。
沙紀は二人の屍を隠そうとも、人目に晒し発見を急がせようとも、しなかった。屍は神
域を騒がせる災いとは関りない、唯の肉塊だ。
彼らの死因は凍死である。眠り薬を服用したとは云え致死量に程遠い千恵子もそうだし、
則之も雪原に眠り込んでの凍死である。
彼らは勝手にここに来て、人の都合で自殺或いはそれを装い又は事故死していったのだ。
沙紀も彩も、下手な手出しはしてないので、検死をしても、それ以上の結果は出てこな
い。
「貴女には、これで一件落着だものね」
沙紀が直接に手を下す事が殆どない展開に、彩は、少しじれったそうな感じでそう言う
が、
「愛に縛られた女と、嘘に縛られた男。でも、本当はお互いに相手に縛られていたんじゃ
なくて、自分で縛っていた。千恵子さんは自分で見た愛の幻影・愛への餓えに操られ、則
之さんは自分で作りだした嘘にその言動を制約されて、更なる嘘に自らを導き」
あの二人は望んであの状況を招いた。私は、
「彼らの終り方を、少し整えただけ」
沙紀は確かに、自分の目的の為に彼らを操ったが、彼らは望んで操られたのだ。望んで
なかったにせよ、転落する己を遂にどうする事も出来なかった。律する事が出来なかった。
二人とも、我に返るべき時は何度かあった。でも道を選び、その先行きを終着駅を決し
たのは彼ら自身だ。自覚してないにしてもその行動が招き寄せた結果なら、抗弁の術はな
い。
彼らは我に返りたく、なかったのかも知れぬ。それ迄の自分を否定し、又は見直す事は、
例え様もなく苦く、心を重くする行いだから。
或いは、置かれた状況で人間とは、どの様にでも動かされてしまう存在なのか。適応能
力の高さに必然的に伴う、デメリットなのか。
なら、彼らを特殊な例とは、云いきれない。
それ迄の人生の惰性から、全く切り離されて生きている人間なんて、いないだろうから…。
その意味で、彼らを見下せる者が、世には一体どれだけ、いるだろう。
「でも、以外と悪くは、ないかもね。千恵子さんは、死んでも彼を盲目に信じ、愛してた。
則之さんがその気になって、彼女の愛を受け入れれば、悪意ではないもの」
決して心地悪い物では、なかった筈よ。
そう言う沙紀に、彩はやや不満そうに、
「貴女の技は、雪みたいな物よ」
汚物でも、無理やり綺麗に仕立てて終える。
「雪自体が、塵や煤に氷の結晶がくっついて出来た、元々美とは程遠い物なのに、それが
沢山積れば様々な泥や枯れ葉や、汚い地面を覆い隠し。いかにも美しく、見せ掛ける」
冬景色の美しさは、いっときのごまかしよ。
その滑らかな唇から発される言葉は、寒風に晒した肌に突き刺さる氷の破片の辛辣さで、
「人生を美しく終えさせる心遣い−というより貴女の趣味ね−には、賛同出来ないわね」
似合わないわ、人間に、美しい終末なんて。
その紺碧の瞳は二つの屍を凝視して、
「泥や塵に塗れても、愛憎・怨恨絡まっても、私は生々しい感情が良いわ。これは純粋に
私の趣味だけれど、邪悪でも愚鈍でも、活力迸る方が私は好き!」
『静寂より躍動、安定よりは発展か混乱!』
彩と沙紀の違いが、鮮明に見えてくる。そんな彩の言葉に、沙紀は感心した様子もなく、
「動が人の一面である様に、静も人の一面よ、彩さん。汚濁だけが真実でもない。混沌だ
けが事実でもない。全く根拠のない幻なら、私の働き掛けも、通じない筈だから」
それに今、神域は、静寂を求めているわ。
永劫に近い、静寂をね。
沙紀の眼が、瞬間だけ憂いを帯びる。その憂いの輝きさえもが、儚くて、流麗で。
「そこに私の好みは介在出来ない。それに」
あの二人は嘘を本当にして終えたのだもの。
「彼らはああ言う終り方に納得した。だから、大人しく行けたのよ。幸せは、幻では無
い」
彼らが、例え騙されたにしてもそれに納得しているのなら。それで満足しているのなら。
それも又真実、彼と彼女にとっての真実よ。
「私はそう言う、予定調和が嫌いなの」
彩の声は、多少のいら立ちを帯びて聞えた。
それは、幻に搦め捕られる事で、手っ取り早く幸せを掴みたがる、人の怠惰への苛立ち
なのか。人間の泥沼を、泳ぎきる強い意志がない限り、決して本当の幸せに辿り着けない。
強くなければ、幸せは掴めない、守れない。それをなぜ、与えられる安っぽい幻影に縋
り付いて、代用して、満足していられるのかと。
そう云う物を気軽に提供する聖なる者達に、幾世代経ってもコロコロ騙され続け、挙げ
句の果てには騙された事を喜びに感じ、それを正当に思い、身を尽くす人間の愚かしさへ
の。
苛立ちと、怒りと、憎悪と、やるせなさと。
「まるであの二人の愛が、美しかったかの様な誤解を与える。千恵子と則之の、あの二人
の内実は、見ての通りよ。男も、女も。
愛の亡者と、嘘に溺れた男。
それを、終りだけ美しく装って、今迄の全てを免罪する様な……」
救いになるかの如き錯覚は、神の常套手段。
何も進歩してない。何も乗り越えていない。唯終っただけ。それに美しさを付与しただ
け。
繕っただけの美しい終焉なんて、要らない。
「それは人に有害な幻を与える阿片の様な物。
泥沼に落ち込んでも、私は真実に生きたい」
私に神の高みから人を見下す欺瞞はないわ。何かを与えた様で何も変ってない神の欺瞞
は。
彩の言葉は沙紀への批判というより、自分の生き方の再確認だったのかも知れぬ。だが、
欺瞞と云われても、沙紀は怒らなかった。
沙紀も、それが欺瞞であるという認識迄は、彩と一致していたからである。これを欺瞞
ではない、真実だと言い張る積りは、この少女にもなかった様だ。彼女はそれを認めた上
で、
「真実が、必ずしも美しくないからこそ、幻が必要な時もあるわ。真実の哀しさ・残酷さ
・恐ろしさ・醜さ・救われなさに、全ての人が耐えられる訳ではないの。
それに、全ての人が、真実を本当に必要としている訳でもない……」
美しい幻を欲する思いも本心、真実の心。
それを実現できない己から逃避して、幻想に浸りたい思いも真実。違うかしら?
「阿片でも、狂気でも、死でも敗北でも逃避でも、真実より温かに見える幻想を好む人が
いるの。どんな苛酷な真実でも見据えたいと望む人よりも、遥かに多く」
大体本当の真実・救いなんてどこにある?
誰も、誰も見付けだしてない。それが幻想とどう違うか、説明できない、証明できない。
「救いは偽物で十分よ。信じるに足るのなら。
終りの美しさで幻想に浸れるなら、それで良いじゃない。人や自分の奥底の泥沼をも正
視出来る強さは、誰もが持てる物ではない」
人が神を作り出したのも、真実に思える巧妙な偽物が欲しかったから。これこそが本物
だと信じてしまえる何かが、欲しかったから。
それが嘘でも幻でも良い。上手に最期まで自分を騙せるなら、人を騙せるなら。幻でも
嘘でも幸せを感じ取れるなら、それで良いと。
「愛や嘘に身を委ねる弱さも人の性の一つ」
沙紀は、漸く雪の降り止んで星の輝きの見える、冷え切って純化された夜空を見上げて、
「人はそう簡単に強くなれない。その強さを持つ人の存在と、人が全て強くなれるかどう
かは、別問題よ。私は人に幻想を抱かない」
人が真実を求めて止まぬというのも、幻想だわ。ならば、人を苦しませ泥沼に落す真実
希求の幻想より、人の心を安んずる安直な幻想の方が、まだまし。沙紀は言い切るが、
「貴女はそう云って、人をいつ迄も無知の檻に置き続けるのね。善意にせよ、悪意にせよ。
貴女達は人が永久に成長しない、人がいつ迄も、石の刃を持って蠢いていた頃から世の
終り迄、何の蓄積もないと思っているのね」
数十年で一生を終える人間は、その生の短さ故に成長も劇的に早く、その繁殖力の強さ
の故に、固体の能力の幅も著しく広い。
誰かの切り開いた道に追随する者がいて、他の者には思いもつかぬ道を示す者がいて、
百年に満たない間に、長足の進歩も遂げる。
作り上げた文明を自らで破壊する愚かさも、誰かの成果の上に安住する弱さもあるけれ
ど。
「人の持つ、危険な迄の可能性を見縊っては、大火傷するわよ。それ程の相手を、いつ迄
も無知な赤ん坊扱いし続ける。変らないのね」
サングラスの中で瞳を輝かせる彩に、
「変らないのは私達だけでないわ。貴女達も。
昔から、人に真実を伝えると、人の成長を望むと、幻想への依存を乗り越えろと囁きか
けては、失敗して失敗して、失敗を繰り返し。
貴女達の理想、それも一種の幻想なのに」
若干は成功した例もあったみたいだけれど、人の本質はちっとも変わってない。特別堕
落してもいないけれど、向上したとも思えない。
ある種の、本当に少数の人々が目覚めてくれたか、目覚めた錯覚を抱いたかしただけで、
大多数の人には真実なんて常に遠くて、どうでも良い話で。私に言わせれば、
「貴女達の、人を買い被って独り相撲を取った末の自滅と云うレールを、今も飽きずに進
み続ける貴女こそ、太古の昔から変らないと、変ってないと、思うのだけれど」
沙紀は寒風に身を晒して、凍えるどころかむしろそれを涼やかに受け入れて、リラック
スさえして見える。緊迫したやりとりに聞こえるが、沙紀の動きに緊張はなく、身構えも
なく、その言動は常に隙だらけにも見える…。
「ふふふっ……」
彩は苦笑を見せた。それでも、沙紀が彼女にまともに反駁してきた事、対等の位置迄引
きずり下ろせた事が、成功だったというのか。
沙紀が言葉を返す程気に止めてくれた事が、嬉しかったのかも知れぬ。やはり敵同士と
は、敵対的な言葉の応酬がないと落ち着かぬのか。
「変らない者同士は、一致しない考えについてはいつ迄も一致しない。世の終り迄もね」
更に言葉を返そうとして、思わずサングラスに右手が伸びた時点で、彩は何時の間にか
己が殺気立っている事に気付いて、我に返る。
「……本気に、なりかけているみたい」
未だ、熱くなる程の血の気が私にも残っていたとはね。彩はサングラスに伸びた手を放
すと、てぶらのままスーツのポケットに戻す。
「やめておきましょう。賭ける物・守り奪う物のない戦いは、余りに無意味だわ」
熱気をゆっくり発散させて抑え込む彩に、
「……そう云ってくれると、神域と神域の静寂を守る者には、嬉しいけれど」
サングラスを外す事が、彩にとっての本気の発動らしい。沙紀の様に人里離れた処では
なく、俗世で人とも関る彩には、サングラスの存在は自らの正体を力を抑え隠す物なのか。
彩は深呼吸をすると、少しトーンを落して、
「やっぱり、意見が合わないね。魔と神は」
ふふふ。沙紀は彩の諦観に自嘲気味に嗤い、
「私達は人の影だもの。それが自然なのよ」
人間が全て同じ物の見方で纏まる日等来はしない。全てを理解し合える日等来はしない。
彼らの対立とは人の抱え込んだ平行線なのだ。
不完全は人のと云うより世界を貫く本質だ。である以上、各々の往く道は異なって当然
か。
「お行きなさい、彩さん。貴女を求める者の処へ。私は私を求める者の為にここにいる」
沙紀の声は最後だけ陰りを帯びる。それは、自身を縛る欺瞞を欺瞞と知る故の、後ろめ
たさだったのか。既に求める者も少なく、守るべき柱もない神域を護り続ける、自身の欺
瞞。
沙紀にも彩にも、時の流れは悠久に過酷だ。