因果は巡る

 店内は、白熱灯の放つ間近で強い光が充満し、速いテンポの音楽が流れて機械的な明る
さに溢れていた。時折子供の笑い声や、その独特のタッタタッと駆ける感じの足音も聞こ
えてくるが、どことなく空々しい。
 沢山の人が詰めかけて、買い物をしている。隣も、後ろも、向こうにも。混雑の一歩手
前まで人が入って、店は活気に満ちている……。
 そう思わせる為の、これは合成された音。
 久枝の目に映る店内は装飾こそ明るく人を引き付けようと努めているが、華やかさに人
数は比例せず、まばらだ。
 仕方あるまい、今日は月曜日でまだ十一時。
 ここからは見えないが、右に数メートルばかり歩くとレジがあって、眠そうな顔をした
店員の娘が二人、退屈を持て余している。
『早く昼休みにならないかなア』
 そんな感じが顔に表れている。まず安心。
 逃げきれた……?
 うれしい考えが頭をよぎる。が、楽観的な見方は命を賭けたこの逃避行には必要ない。
 他人の持たない力を持つが故に、狙われる。狙われ、追いつめられ、“処分”される。
 なぜ、とは何度も考えた。考えて考えて、考え尽くした。久枝の持つ力―人の心を読む
力―が、どうして憎まれねばならぬのか。その力で人を傷付けられる訳でもないし、傷つ
けた事もないのに……。
 がしかし、追われる兎に迷いはない。二十歳そこそこの久枝が、死線をさ迷うような逃
避行を強要されるのだ。さもなくば“処分”。
 逃げる事以外に抵抗らしい抵抗をしなかったのはその力がない為で、もしPKでも使え
たならば彼女も黙ってなかっただろう……。
 既に一人、目の前で透視能力者が殺されたのを久枝は見ている。有無を言わさず、公衆
の前で。驚く人々を前にして抹殺者が懐から出したのは、警察手帳だった。
 本物かどうかは薮の中だが、警官を引き連れている所から見て彼らは、公権力にも食い
込んでいるのだろう。彼らは邪魔物を始末するのに架空の犯罪歴を作る事すら可能なのだ。
 全国的な情報網、合法的な殺人、組織的な人海戦術。社会秩序を守るためという大義名
分で、一体何人の超能力者が“処分”されたのだろう。生者の多くは今もなお「過激派ゲ
リラ」として指名手配されているし、その一人に久枝が入るのは時間の問題である。“処
分”されずに逃げ続けていれればの話だが。
 バン! バン! あの時の銃声が耳に甦る。
 いやっ! やめてっ! 叫び出したい衝動を久枝は喉のあたりで押え込んだ。あの透視
能力者の男の意識が、ガラスの割れるが如く砕け散って消えていく……。
『いやだ、いやだ、死にたくない。いやだ』
 死の虚無。それは非常に理不尽で、恐ろしかった。どうして人と少し違うだけで。超能
力者はみな世間のその他大勢に隠れてひっそり暮らす、それのみしか望んでないのに……。
 思索は悔し涙をもたらすだけだった。彼らは全てを持っていて、久枝は何もない。まと
もに抵抗する術なきままの、逃走。よぎる思いは恐れ、怒り、憎しみ、悲しみ、淋しさ…。
 満足に美容院にも行けないので、久枝のウエーブの黒髪は背中に達し、本来ならば初々
しい若さが前面に出る筈なのに顔はやつれ気味で精彩に欠け、落ち着いた感じを与える。
 元々かなり美しいのだが、若さの力故か、それでも随分魅力的だ。
 この時代でも北海道唯一の二百万都市。連結型高層デパートの食器売場を出ると、隣の
電気製品売場に慎重に足を進める。TVのもたらす微弱な電磁波が人の思考波を撹乱する
存在なのだから……。
 超能力の源となる思考波は、電磁波に弱いらしい。打ち消してしまえば、いくら探知機
を使おうとも見つかる事はないだろう。
 連結型高層デパートは一つが商店街規模の大型店を十数個横につなげた物で、一つの町、
村に匹敵する。広さにしても人の数にしても、とても監視できる物ではない、筈なのだが
…。「……次のニュース。
 国際連邦の第十三代大統領選挙を来年に控えて政府提案の『スティーブ・ジョブズ候補
を日本国として全面支援する決議』に対して、与党憲政党の衆議院議員、河野一郎氏は、
『別に、対立候補のマービン・ハリスや朝日友一郎らを推す訳ではないが』
と前置きをした上で、
『一つの自治政府が特定の候補を支援すると言うのは頂けないし、表現の自由を損なう恐
れがある』と懸念を表明……」
 チャンネルを替えたい所だったが、余り怪しまれる行為はできないし、黙殺する。
 周囲を探ってみたいのだが、彼女の思考波を隠してくれる電磁気が同時に久枝の思考波
を遮断するので、探りようがない両刃の剣。
 ただ、自分を探る気配には幼い頃から敏感だった久枝は、どこからか自分を捕捉する視
線に気づくのに、そう長くはかからなかった。電磁気に妨害されてるので良く分からない
が、確かに、いる。
 見られている……?
 若々しい体が凍りついた。微かなふるえ。
 世に潜伏し隠れている超能力者の多くは、人々の視線に極度に敏感になる傾向を持つ。
超能力者の性質と言うよりはむしろ、それを持つ故の警戒心が常に人々の視線を気にして
止まないのだ。超能力を持つ人間の多くが感受性豊かな―過剰とも言える―人間達なのは、
“普通人”の中で生きる為の天の配剤か。
 そうでない者に待つ運命は、不用意に超能力の存在を知られた上での“処分”。それ故
に久枝の知る数少ない同胞達も、友が一人もいない、孤独な人間が多い。
『まさか、見つかったのでは……』
 そんな筈はない、そんな筈は。
 電化製品から離れて抹殺者の所在を確かめるか、久枝の所在を明かさない為にも動かず
にここで嵐の過ぎるのを待つべきか。どっちが慎重だろう、どっちが愚劣だろう。
『いつまでもここには居られない。だったら、動いて相手の所在を知った上で動く方がい
いわ……。見つけて見つかるのなら立場は互角、どこか電化製品の一角に逃げ込めば、時
間はいくらでも稼げる……』
 久枝はチャンネルのずれたTVのように不鮮明な画像から微かに窺える危険の芽を感じ
取って、行動に出た。それが賢かったのか、
それとも愚かだったのか。
 二人の男の危険な思考が心の探知機に飛び込んできた。いる、どこに?
 すぐ近く! 久枝は息を止めた。彼らは久枝の現在地をほぼ正確に知っていたのだ!
 慌てて逃げ道を捜して周囲に心を走らせてみるが、それは久枝に全ての方向が塞がれて
いる事実を教えるのみだった。どこにも逃げ道はない! 久枝は、彼らに自らを完全包囲
させる時間を与えただけだったのか!
 そして二人の男の意識は明確に接近してくる。久枝の存在は先刻承知だが、久枝の驚き
様を“読み取った”らしく、
『気づかれました……』『その様だな』
 ニヤリ、笑いが鮮明に見えた。“読ませる”ための残虐な笑い。逃げなくては!
『どうして、どうして見つかったの?』
 が、そんな事を考えている暇はない。今考えるべきは、逃げる事。
『エレベーターは全て一階と最上階に集めました。一階にも念の為二人配置しましたが』
『構わん、どうせ包囲網は閉じたのだ』
 彼らの会話(そう喋ろうとする意識なのだが)が“聞こえて”くる。
『さて……ハンティングを、始めるか』
 久枝はエレベーターへ走り出した。彼らは逃げ様のないその場所へか弱い獲物を追い込
もうとしているし、他はすべて塞がれている。絶望的な状況で、それでも生存本能につき
動かされてか、幾らかでも“死”から遠い地点へと、久枝は走る。
 久枝が慌てて電気製品売場を出るのとほぼ同時に、歩いていた男達も走り出した。
 追え、と指示する男たちの声にも緊迫感は欠けていた。PK能力者ではないと言う安心、
そして完全に包囲したという自信。
「追い立てるんだ、ゆっくりと囲め」
 鋭い声と荒々しい足音に、店員などは何かという表情で振り返る。豊かな黒髪が揺れて、
狂おしいほどの恐怖までをも美化してしまう。
 女の若さとは素晴らしい。全てを―怒りも、笑いも悲しみも、全てを美しく彩るのだ。
が、無機的な心にはそれも映らない。走りつつも思念を走らせる久枝の心に、後ろから機
械的に久枝を追いつめる者達の意識が映る。
 必然的に久枝は前へ走らざるをえない。エレベーターで行き止まりの、前へ向かう通路。
 久枝は走る。必死で走る。生きる為に走る。少しでも長く、数分でも、数秒でも。
『死ぬ……死ぬ……死ぬ……!』
 心をたたく警告の叫び。まさか白昼のデパートで射殺はなかろうが、と安心もできぬ。
 あるいは、連行されるかも知れぬ。あるいは、殺されないかも知れぬ。が、久枝にとっ
ては同じこと。
 二度と戻れはしないのだから……。
 とにかく逃げなくては。空回りして現実から逃げ出そうとする心を抑え込んで、久枝は
走る。戦おうとは考えなかった。殺してやりたいと思った事はあるものの、PKのような
反撃手段があればという仮定に限られていた。
 彼らはその道のプロなのだ!
 通路の行き止まりの六機のエレベーターは、入り口が全て閉ざされている。袋小路だ。
例えここを逃れられたとしても、全く展望のない彼らの人生の如く。久枝はドンと扉を叩
いて、後ろを振り返る。
 “死”が、来る。十数メートル先から二人の黒背広が、来る。彼らは何も語らなかった。
 ただ事務処理の如く、久枝に向って歩いてくる。何も考えず、憎しみも怒りもない金属
質の心が、一層冷ややかに感じられて久枝はすくみ上がった。
 久枝は戦いとは無縁の平凡な女の子。殺意あるプロの組織との戦い方なんて知らないし、
考えただけで恐ろしい。体だって特に鍛えてある訳ではなし、男二人を相手にしては……。
 久枝は開く事ないエレベーターの扉に背をつけて、あとはもう何もできぬ。泣き出すか、
慈悲を頼れる相手ではない。ゆっくりと歩み寄る男達から遠ざかろうと、無意識のうちに
足は後ろへ体を押しつけるが、扉はあとさず りもせず開きもせず、空しい努力。
「た、助けて……」
 それは目の前にいる抹殺者に向けた言葉ではなかった。では、誰に?
 誰でもいい。助けてくれるなら、誰でも。
『助けて、助けて、助けて……』
 死にたくなかった。まだ久枝には未来がある。若々しく燃える生命がある。
 男達は久枝の捕獲を既定の物事として扱い、急がなかった。数メートル手前で足を止め
て、ニッと満足げな笑い。残忍そうな笑い! 表 情に欠ける、マネキンの様な笑い。
 久枝には、彼が懐から取り出す拳銃の事も、彼の彼女に向ける最初で最後の一言も分か
っていた。
「健全な人類の遺伝子を守るため……」
 取り出した銃を久枝に向けて、
「そして我々普通人種の生存と繁栄を守る為、悪しき種子は絶たねばならぬ。その為には
僅かばかりの犠牲は許される……死ね!」
 男が銃の引き金に手を掛けた、正にその時。 ポーン、エレベーターの到着音。
 なっ、男たちの驚愕の一瞬が久枝を救った。 エレベーターの扉が開いたのだ!
 限界まで体重を後ろにかけていた久枝はその突如の空白にすっぽり飲み込まれた。男達
の驚きの口が閉じるより早く、扉は閉じる。 久枝と、久枝の救い主をのせて。
 ハア、ハア、助かった……?
 中に転げ込んだ久枝は、大きく深呼吸してからその救い主を見て二度びっくり。
「大丈夫?」
 十三、四才の女の子が一人、エレベーター
の中にいるだけ。この子が“救い主”?
「あ、あなた……!」
 口を開いたものの、息の乱れか驚きからか、言葉にならない。そんな久枝に“救い主”
はにっこり微笑みかけて、
「心配しないで、私は敵じゃないわ」
 漆黒のさらっとした髪が肩までかかっていて、輝いている。黒い、喪服の様に黒い服と
スカート。まだ子供らしさが多分に残したまま、それが大人びた暗い瞳に色どりを添えて、
言いようのない可愛らしさを作り上げている。
 いかにも危うげで“守りたく”思わせる、妖精の可愛らしさ。
 突然現れた救い主は、一体何を考えて久枝を救ってくれたのか。相手はプロの抹殺者だ。
 ようやく胸の動悸を静めた久枝は、自分が全く安全ではない事に気づいた。今正に彼女
は救い主共々電動式の棺桶で、地獄の一丁目目指してまっすぐ降下しているのだ。
「や、やめて。一階には、待ちぶせが……」
「ええ、多分いるでしょう」
 私なら、そうします。救い主は何かを探る様な目つきで、無表情を装っている。それは
やはり並々ならぬ覚悟と緊張感故だが、これ以上久枝を怯えさせぬよう故意に無反応を取
り繕っている事を悟って、彼女は口を閉じた。
『私より年下なのに、私の不安を知って静めようとしてくれてるの……』
 現れ方からして只者でないが何者なのか?
 とにかく小さな善意に答えねばならぬ。深呼吸を繰り返して久枝は落ち着きを取り戻す。
『しかし、どうするつもりかしら?』
「二階で止めます……彼等を誘うために」
 噴出する疑問を久枝は喉の下に押し込んだ。そんな事は生き残った後で聞けばいい。
 二階。エレベーターは止り、開いた。飛び出そうとする久枝の右手を少女は掴んで、
「降りないで、彼らはここに来ます」
『上から来る者達はエレベーターを使えないので十二階分、四百二十段の階段を降りてく
る事になる。下にいる待ち伏せ組が隣のエレベーターで上って……来た』
 幼い救い主は意外と論理的だ。不安と恐れを押し殺して、様子を探る。
 相手は心を“閉じて”何を考えているのか、読心能力者にも分からない様にする術を心
得ているらしい。ただ、最近久枝は何とかその存在だけは注意深く探れば掴める様になっ
て来たのだが。
 彼らがエレベーターを集めてしまった事はかえって幸いした。彼らは久枝たちがエレベ
ーターから逃走したものと思い込んでいる。
 すぐ隣を、二階へ上るエレベーターで。
 この娘の考えている事が今は分かる。相手とすれ違いになって、うまくこの袋小路を脱
出してしまおうと言うのだ。
 しかし、うまく行くだろうか?
 が、今は行動のみ、久枝は腹を据えた。失敗すればこの救い主共々“処分”されるのだ。
 来たっ!
 少女はすぐに“閉”のボタンを押して降りる。人生で最も息苦しい五秒間ののち、エレ
ベーターは一階に着いた。他に待ち伏せのあるなしを確認せずに、久枝の手を引っ張って
少女は走る。ビルの出口を走り抜ける時に、久枝の読心能力に微かに探知された思念が、
『やられた……』『下だ、逃げられるぞ!』
『畜生め』『逃がすな』『まだ近いぞ!』
 動揺した声が交わされるのが分かる。必ず成功する“ハンティング”が失敗しかかって
いるのだ。たった一人の獲物に、狩人たちが。
 追えっ! 男のせっぱ詰まった大声も、久枝と少女の逃走が成功しかかってる事を示す。
『女の足だ、逃げきれはせん。こっちには探知機がある事を忘れるな……。そうだ、女。
 決して逃げられはしないのだ』
 心を読まれていると感じた男は、後半を美しい盗聴者に向けて、笑って見せた。それは
正に、久枝を怯えさせる為の“恐怖の笑い”。
 尋常な心の持ち主ではない。
 すくみ上がって錯乱する久枝に、
「久枝さん! 落ち着いて!」
 正気をなくす久枝を揺さぶって―いつ初対面の彼女の名前を知ったのだろう―少女は、
「心を閉じて。いいって言うまで……」
 いったい、何をする積もりなの?
 久枝は一応読心能力の全開を止めて、閉じながら探査の目を小刻みに放つ方法に変えた。
相手の思考を傍受するのは、生きのびる上で重要な事なのだから……。
 現実に立ち返った久枝はデパートを出て来る男たちの探る意識に反射して、女の子を引
っ張るように走り出した。
『流石に市街地に伏せる程の数はない様ね』
 待ちぶせがあるならば既に射殺されている可能性すらある彼女への、大衆の目は淡白で
無関心だった。久枝は今、白昼の死角にいる。隣の人が消えようとも、気づかれるどころ
か居た事さえ知らないだろう。焦点を失い、受動的に動く、生けるロボット達。
 ビルとビルとの狭間に身を潜め、息を潜めて様子を伺う。さて、どうしよう?
『居るぞ……微かだが、反応がある。』
 彼らは、超能力者の見つけ方を知っている。どの様にしては分からないが、的確に把握
してくる。久枝も救い主も見つかるのは時間の問題だろう。地の果てまでも、追跡は果て
ぬ。
 見つかる……。走り出そうとする久枝の手を妖精の手が引っ張って押さえ、
「少し待って……」
 息切れしてるのではない。何かを考えてるらしいが、少々の小細工で何とかなる相手で
はないし、この娘、テレパスだ……?
『嵐が通り過ぎるのを待つ積もりかしら?』
 だとすれば甘い。いくら身を潜めてみても、時間稼ぎ以上にはなりはしない。
「今逃げてもすぐ追いつかれます。……追手の目を眩まします。少し待って」
 見つかる……。体が小刻みに震えている。
 相手の索敵は計器に頼っているらしいのだが、そのやり方は徹底していた。命が賭かっ
てるだけに久枝の気配の消し方もまた必死である。
 ヘッドホンの様な物をつけて、人の思考波を増幅して探知する彼らが、久枝らしき反応
を見つけて全神経を集中し始めた。その時、
 心を閉じて!
 少女は命令した。びくっ、と体が震える。
 すうっ、救い主は大きく息を吸い込んで、
『―――――!』
 言葉に出来ない思念の津波。強烈な思念は男たちの耳を直撃した。
 小さな声を聞くには、近づいて耳を澄ます。そのすぐそばで突如大声を立てたなら…
…?
 しかもその思考波の強さはずば抜けていた。久枝のかつて会ったあらゆる超能力者より
も、無論久枝自身よりも、遥かに大きな力……。
「うわあああああっ!」「ひいっ……!」
 探知機の破裂する音が久枝の心にも届く。二人の黒背広が耳を抑えて倒れ込んだ。耳を
いくら抑えても効果のあろう筈がなく、ゴロゴロ転げ回っては通り過ぎる人にぶつかって、
奇異の目で見られている。
「イ、イイイイイッ!」「ア、アアーッ!」
 探知機を持つのは彼らの中ではあの二人のみらしく、後の数人は人の視線を避けるよう
に、群衆の中に紛れて引き上げる……。
「大丈夫、ちょっと大声を出しただけだから。すぐ元に戻るわ。……急ぎましょう、逃げ
るなら、今」
 あっけにとられる久枝の手を引っ張って、
幼い救い主は微笑みかけた。何という暖かい笑みだろう! 天使とはこの人ではないか。
 彼らもしばらくは動けないだろう。動揺しているのが遠目にも分かった。
 助かった? 助かったのだ。ほんの一時の事ではあるものの、とにかく助かったのだ。
 立てる? 救い主は久枝の足のふらつきを気にしている様だ。久枝は、
「だ、大丈夫。ね、ほら……」
 立ち上がって、少女に元気な所を見せる。
「そう、良かった」
 幼い救い主は、首を傾げて喜んだ。暖かい笑み、優しい笑み、可愛らしい笑み。信じら
れない。弱気そうな、活発とは程遠い物静かな女の子が、こうも人の心を明るくできる物
なのか。無邪気で非打算的な、微笑み。
 久枝の周りをだけ、春風が駆け抜ける。
 漆黒の髪が弱い風にあおられて、ふわりとそよぐ。体にしびれが走った。世の至宝と言
われる名画を見つめた時と似た感覚。
 久枝は一瞬、見たと思った。この少女の持つ、心の底からの“輝き”が。優しく悲しい、
心の結晶が、その瞳の中にある。
 状況は全く安心できるものではない。奴らの人海戦術を持ってすれば、できない事など
ないに等しい。がしかし今は助かったのだ。
 今は、助かった、その事実だけで十分。
「ところで、あなたは……?」
 助かった今ならばこそと問う久枝に、幼い救い主はにっこり微笑んで、
「河野真理です、よろしく」
 河野真理……。

 北海道東部、人口三十万の地方都市の郊外、広漠とした雪原の中に彼らの“隠れ家”は、
ぽつんと建っていた。
 元々は廃業した酪農家の物とかで、牛舎やサイロらしき建物は残っているが、整備はさ
れず正に廃屋。地元の子供たちは俗に“お化け屋敷”と呼ぶこの木造建築物に、来訪者が。
 トントン、ドアを叩く音に室内の三人は、青くなって立ち上がった。神経質そうな文学
青年、気の弱そうな若い女。精悍な体つきの若い男が一人いるものの、いざという時に不
安の残る面々だ。心配そうな視線を合わせて、顔つきで会話をする。女がドアを開けると、
「ただいま」女の声。
「久枝さん!」
 女は歓喜の声と共に、久枝に抱きついた。「心細かったのよ!久枝さんに何かあったら、
どうしようって。もしも、もしも何かあったらどうしようって。私、生きてられないわ」
「美代子さんったら……」
 久枝よりは確実に年上の筈なのに、彼女は久枝を心の柱に据えているのだ。思いつめた
女の声を聞いていると、久枝は却って塞ぎ込めない。五つ、或いは六つ位年上なのにこの
女は一向に年齢を感じさせず、可憐なのだ。
 まだ早春の、北風冷たく吹き込む中を、女はいつまでも久枝に抱きついたまま離れない。
幾らか大人の久枝は我に返って女を引き離し、ほかの面々に向かって何かを言おうとした
時、
「人と……会う」
 青ざめた文学青年の、ぼそっとした声。その声が何を意味するのかは久枝も知っていた。
「その人は、帰るぞ……」
 そこにいるのか? 元ボクサーだった精悍な男が目を扉に向けた。透視ではない。その
すぐ後に現れるだろう客人の姿を見てたのだ。
 美代子が不安そうな顔つきで再び久枝の手を握るが、久枝は安心して頷く。ひょこっと
真理が顔を見せて、すっと戸口に立った。
 久枝が紹介して言うには、
「河野真理さん。私の命の恩人で(久々の)感応能力者なの。真理さん、私の仲間よ」
「河野真理です、始めまして」
 久枝よりも頭ひとつ背の低い真理に対する、彼らの反応は好意的だった。
「仲間ならば、我々は歓迎する」
 やや堅苦しい言い方だったが、青い顔の文学青年は真理を迎え入れた。
「僕の名は香田学。作家志望だ」
 遠予知能力者。彼は自分の能力をそう名乗った。おぼろに映る光景の多くが当たる。予
知夢とか、幻とかに多く関わりのあるタイプ。作品の中で言う事の多くが当ってしまうの
で、疑われ、狙われるようになったと言うが……。 机上のへ理屈に走りすぎて、頭でっ
かちな所があると久枝が教えてくれた。
「俺は木下実、よろしく」
 元ボクサーの木下実は二十二才。寡黙だが、無愛想ではない様だ。相手の繰り出すパン
チを直前に読んでよけてしまう、余りにも打たれにくい、その源は一瞬先の事を予知する
能力だった……。
『本当はとっても優しくて、おとなしいの』
「あ、あ、あの、わたし……」
 元OLの夏樹美代子は二十七才。恐ろしい目に遭うと、数メートルから十数メートル一
気に飛んでしまう、瞬間移動能力者。気が弱いのでその能力はかなり使われていた様だ。
 しかしこの人が会社のオフィス等で電話の応対をしている姿と言うのはどうしても真理
には想像できなかった。
「……よろしくお願いします」
 年下の真理に深々と頭を下げる。真理が何か言おうとした時に文学青年がせかしたので、
久枝は早速本題に入る事にした。
 大きな木製テーブルは五人の主人を迎えて、会談の場になった。暖炉の中の石油ストー
ブはあんまり暖かくなかったが、春三月の陽気は厳しい寒さをどこへ片づけたのか暖かい。
「どうだった?」
“極左ゲリラ”として指名手配されている文学青年が問う。久枝は首を振って、
「だめ、銀行の口座は全て封鎖されていたわ。暗証番号が違うってカードも役に立たな
い」
 彼らの財産の多くが信用第一の銀行にあり、そしてその殆どが差し押さえられている。
干し殺し作戦という奴だ。指名手配であれば、
働きに出る事もできぬ。残された道は強盗か、略奪か。彼らはそうして久枝達を見つけ出
す。動かねば飢え死に、動けば必ず見つかる。どっちが慎重だろう、どっちが愚劣だろう。
「座して滅びを待つよりは……」
 久枝は迷わなかった。彼女達は今、生きる為の戦いをしているのだ。死んでしまった者
に正義があろうとなかろうと、何になろう。
「彼らに大義名分を与えるだけだ。合法的に、我らを犯罪者として始末できるのだ」
 奴等も大喜びだろうさ、青年は心中呟く。
「生き残ってから、考えればいいじゃない」
「私も、そう思う」
 美代子が同調したのに反発したのか青年は、「超能力者がこそ泥だと言われていいの
か!死に際して見境もなく物を奪ったと、言われるんだぞ。そりゃあ、超能力を使えば普
通人の中をうまく生きていく事は、できるだろう。だがそれでどうなる? これからの子
孫や同胞達に、どう生きろと言えるんだ!」
「じゃあ、どうしろって言うの? 貴方は明日からどう生きる積りなの? 全ては生き残
ってから。死んでしまった者には、善し悪しなんて意味がないのよ!」
「人間としての生、人間としての死」
 作家の卵は目を閉じて言った。
「君には分からないだろうがね」
「人間としての生って、何の事? あの非人間的な連中の攻撃をまともに受け、罠に掛っ
て、自己満足に浸りながら死んでいく事?」
 冗談じゃないわ! 久枝は怒鳴り返した。
「超能力を悪用すれば、際限がない。力と力のぶつかり合いが空しい事は、分るだろう」
「私達が求めた戦いではないわ! 例え勝てないと分かっていても、ここまで追いつめら
れた以上、座して死を待つより少しでも可能性に賭けるのが、本当の人間じゃないの!」
「君はそう言って自ら破滅の縁に身を投げると言うのか。そんな事して一体何になる?」
「……もう、やめて!」
 美代子の叫び。一同は沈黙する。
 重苦しい沈黙。二人ともうつむいてしまう。 しばらく時を置いて、香田学の呟きが、
「せめて、もう少し力があったならば……」
 ダン!テーブルを叩く音。
“強盗殺人犯”の元ボクサーの、悔しさを凝縮した一撃。彼らは人生を狂わされたのだ。
「なぜだ! なぜ、我々が追われねばならんのだ。我々が一体何をした!」
 文学青年は荒々しく語る。いつもの事だ。
 この青年はこの問題を話せばいつでもここに辿り着く。政治、社会、行政、万民、理想、
権利、人道、平等、抗議、そして不正義。
『いつか世間に訴えてやる。文明的な社会は決して彼らの存在を許さない筈だ。世論にお
おっぴらに訴える事さえできれば……』
 そうする為には超能力者の存在を、世間に知らせねばなるまいに。世間が超能力者の実
在を知ったその後に、一体どうするか。
 魔女狩り、宗教裁判、異端審問。自分達と異なった存在を、人々は常にどうしてきたか。
 ましてや自分の持たない夢の様な力への嫉妬と悪意が籠ったならば、どうなるだろう?
 そんな事はない。青年はそう言い切った。
「人には理性という物がある。話せば分かる。愚かに徹するには、賢すぎる生き物だ。超
能力は確かに特殊な能力だが、人間はどこまでいっても人間だ。必ず、理解してくれる
さ」
「あんたは、理想的に考えすぎる」
 ボクサーがぼそっと言う。青年は天を仰ぎ、
「我々と彼らのどこが違う? 手も足も同じだ。頭が二つある訳でもない。みんなと同じ
く生まれ出て、泣いて笑って、生きてきた…。
 何が違う! ただ超能力があるだけで、どこが違う。人と少し違うだけで、敵意も害意
も持たぬ我々がなぜ処分されねばならない!
 単に力があるとか、足が早いとか言う事と変らないのに。世間ではもっと大きな不平等
が公然とあると言うのに。あいつらには特権が全て許されるのに、俺達には生きる事さえ
許されないなんて、なぜだ! 差別だ、不合理だ、そんな理不尽な事が許される物か!」
「あ、あのう……」
 文学青年の気迫に圧倒されて喋る事ができなかった真理が漸く口をはさみ込んで、
「これで良かったら……」
 真理が財布の中から取り出したカードは、
銀行預金の引き出しカードだった。
「私名義の口座なら封鎖はしない筈です」
「悪いが、我々は乞食になる積りはない」
 青年は拒絶したが、その瞳の中には苦悩の色がありありと見てとれた。年下の女の子に
恵みを受ける事などプライドが許さないのだ。
 そこは敏感な久枝が真理に目くばせして、
「後で返して貰うのよ、あげるんじゃない」
 青年が更に何かを言おうとするのを、
「ありがとう、遠慮なく受け取っておくよ」
 常に貧乏なボクサーは金銭感覚が現実的だ。清貧を守って飢え死によりも、将来の出世
で返済と言う考えなのだ。小さな手から大きな手へと、生活資金が渡される。
「この金は、必ず返すよ」「ありがとう」
 美代子とボクサーの喜びが、真理の心を明るく灯す。妖精の様だ、ボクサーの呟き。
「ありがとう、真理さん」久枝が微笑む。
 読心能力ではなく鋭い真理は、彼らがいかに切迫した状況だったかを、読まなくても知
る事ができた。真理の眠ったままの貯金が人助けに使われるなら、これ以上の事はない。
「必ず返すという事なら」
 青年は敢えてもう一度拒絶してから、渋々といった表情でそれを受け取る事を認めた。
「よかった、受け取ってもらえて」
 本当に良かったという表情で真理は微笑む。その愛くるしさに思わず実が微笑み返す。
 どうしてだろう? こんなに明るく暖かい。心が自然と光り出す。野原の春風の中にい
る様な、何とも言えぬ安らぎ。これは、単なる 気のせいなのだろうか?
「それにしても、どうして私のいる事が彼らに分かったのかしら」
 電気製品売場にいた筈なのに。久枝の声に、
「それが、見つかった理由なのね」
 真理は漸く納得した様に頷いた。
 どういう事? 青年は久枝に先を越されて、問う事ができず、少し不満そうに耳を傾け
る。
「全ての超能力の源となる思考波は、放射能や電磁気に弱い事は、知っての通りです」
『テレビ局のライトやカメラがギラギラついている中で、スプーンを曲げるのは熟練した
PK能力者にも難しいのだと言うし……』
「それは弱いと言うよりもむしろ、打ち消し合うというべきなのですが。学術的には相殺
功果と言うらしいのです」
 彼らが電磁波探知機を持ってたとしたら?
 黒髪を揺らせて、可愛い瞳が思考を促す。
 奴らは、思考波のない状況をどう考えるか。
 全ての電気製品売り場の中で電磁波の反応の最も小さい所が、すなわち最大の相殺功果、
久枝のいる所と言う訳か……。
「我々は今まで電気的な物に逃げ込んでいた。だがそれは大きな間違いだったと言う事
か」
 久枝はもう二度と安心して電気屋に逃げ込む事はできないだろう。ただ、この少女がど
うやってそれを知りえたのかは、大いに疑問だったが。案の定、青年の訝しげな声は、
「君はESPについて何か知っているのか」
 相殺功果という言葉はどこから出てきたものか。久枝達も超能力者として、自らの能力
について一応調べている。海外の学者の論文についても文学青年はかなり通じている筈だ。
「だが、まともに超能力の現実に触れた物にお目にかかった事は、一度もない」
 君は何を知っている? 青年の驚愕の声。
 青年の心の中で今、かつてない程の怖れが芽生えつつある。彼は予知していたのだ。
「その人は、帰るぞ……」
 その一言以外何も言わなかった彼の予知能力には、何が見えていたのか。
 戸口に立つ真理の姿。……悲しげな瞳で、
もう一度考え直すよう促すのに彼は、強烈な言葉の爆弾を叩きつけ、真理は寂しそうに扉
の外に出て行く、いや、追い出すのだ……。
 一体何が原因で? それは分からなかった。
 彼の予知能力が自分の好きな時に都合よく使える力ではない事は、彼が一番知っている。
久枝の探りを感じながらも、それを無視して青年は目の前の少女に神経を集中した。この
答えか、この答え次第で彼は真理を拒絶する事になるのか。彼はそれを聞きたくはなかっ
たが、聞くべき事なら、聞かねばならぬ。
 なぜ彼らはこの少女を拒絶するのかを。
 彼の心にははっきりとある確信があった。
『この少女は来て間もなく帰る事になる。否、帰るだけじゃない。二度と来ないんだ』
 この娘がどのようにして専門家でも知りえぬ事を知るに至ったのか。その理由はひとつ。
 科学者とのつながり……。
 それは裏切りに等しい。なぜなら久枝達の最も恐れている事の一つが、科学者の実験用
モルモットとして一生を過ごす事なのだから。
 現に彼らの敵である抹殺者達は何らかの形で科学者とつながりがあるとしか考えられぬ。
そうでなくては思考波追跡機とか電磁波探知装置など、手に入るまい。彼らは公権力の中
にも入り込んでいるのだ。公権力……?
「君、河野真理さんといったね。て事は…」
 科学技術庁長官河野一郎、の娘だ。
「体制側のど真ん中じゃないかっ!」
青年は叫んだ。冗談じゃない、信用できるか。「私は確かに科学者を何人か知っています。
 彼らは信頼できる人達で、超能力の限界やその進化の過程、力の物理学的説明を、して
くれました。それはとても難解で私には良く分からないのですが、概観は掴めます」
「君の能力を使えばできなくはないだろう」
 青年の反応は冷たかった。
「私は彼等を信頼していますし、彼等も私を信頼してくれました」
 青年はじっと探る目つきで、答えない。
「あなたの予知に、一体何が映ったの?」
 久枝の問いに青年は答えない。久枝の目が見開かれるのを見て青年は腹を立てた。
「また君は! あれだけ言ったのに、また人の心を読んで。プライバシーだと、何度言っ
たら分かるんだ」
「だって、そんなひどい事!」
「僕の予知は好む好まざるに関らず、見えてしまうんだ。僕の望んだ結末でなかろうと」
 僕の責任じゃない、そう言いたげな青年に、
「でも、それを行うのは貴方なのよ。貴方に責任が全くないと言えば、うそになるわ」
 読心能力のない実と美代子は久枝と学の話について行けない。
「君はいつもそうして人の心を盗み見る。君は人の心の苦しみを考えた事があるのか!」
 盗み見るなんて、久枝は声を鋭くして、
「あなたの心にやましい所があるからこそ、心を読まれるのが嫌なんじゃないの」
「君が他人に心を読まれる場合の事を考えてみればいい! 日常生活の全てを隠しカメラ
で見つめられる感覚が、わかるか!」
 反論の視線を無視して青年は、
「君が体制側にいる人間である以上、我々は君を信用できない。君が何の目的で来たのか
は知らないが、余り歓迎できた客ではないと、分かっていたよ」
「真理さんが来たのではないわ。」
 黙する真理に久枝が割り込んで、
「私が来てほしいって、頼んだのよ。少ない仲間達、お互いに助け合って生き残っていこ
うって、知り合いになろうって誘ったのに」
 それは誰でも考える事だ、実は傍白した。
『俺でも必ずそうしただろうさ』
『少女はそう言われる事を待っていたのか』
 青年は真理を疑っている。真理が抹殺者の仲間ではないかと、体制側の人間は信用でき
ないと、うますぎる脱出行にだまされまいと。
 今の真理は、何を言っても信用してはもらえまい。現に河野一郎は科学技術庁の長官で、
真理の父親なのだから。
『最悪の方法かも知れない……』
 えっ、久枝は耳をそばだてた。
 真理の心の呟きが、聞こえる。
『私が久枝さんに会えたのは全くの偶然です。
 超能力者はいつも弾圧を受け、監視され、
事あるごとに敵対視されています。抹殺される事さえ少なくはない。そんな中で仲間の誰
かが危ないとしたら、どうしますか?』
 答えはなかった。ボクサーは黙って真理の訴えを聞き、美代子はうつむいている。
『私はたまたま感応能力が強かったのであの手段をとった訳ですが、誰でも何らかの方法
で助け出そうと思うでしょう。私は私にできる限りの事を為しました。それだけです』
「君の後ろには誰がいる? 誰の指示だ?」
 疑う文学青年の声は尋問者の声だ。
『私は私の信じた事を行いました。誰の指示もありませんし、何の企みもありません』
 何対かの目の中で、真理は決然と言い返す。
「それを証明する手段がないと思ってますね、香田さん。私の口先では信用できないと」
 心を読んだのか、不愉快な顔を見せる彼に、『真実を見てもらう方法はあります』
 真理は言い切った。あるのです、と。
『私の心の真実を見てもらえるならば……』
 そんな事ができるのだろうか?
「どうやって見ればいいんだ? 僕は読心能力者じゃない。久枝君なら話は別だろうが」
 彼はそう言ってから驚愕に目を見開いた。
「君、喋ってない……?」
「ええ、(私は喋ってません)」
 真理は小さく頷いた。バカな!
「まさか……」
 学はどうやっても自分に読心能力がない事位分かっている。学に読心能力がないのなら、
真理に伝心能力があると考える他に何を言えよう。ボクサーも少し早く気づいていた様で、
目を丸くしている。
 君は読心能力者だろう? 学の問いに真理は黙して頷く。久枝も驚愕の余り何もでない。
 読心能力は人の心を読む事はできるものの、他人に心を伝える事はできない。伝えあっ
ている様に見えるのは、二人の読心能力者が互いの心を読みあっているからだ。
 心を読ませる能力なんて、聞いた事もない。
『今まで、本人にしか分からないで眉つばだった超能力だが、この力は証明可能。信じぬ
人間にも心を伝えてしまえる力なのだから』
 そう言えばあの時、
『心を閉じて!』
 あの真理の叫びは、本当に声だったのだろうか? 真理の伝心能力だったのではないか。
 久枝が心で思ううちに、文学青年の心の中ではある言葉が騒ぎ出していた。
「まさか、そんな……。ス、ス……」
 スーパー・エスパー(超超能力者)!
 学は絶叫した。本当にいたなんて!
 何それ? 美代子の問いに学は震える声で、
「エスパーを越える存在」
 そうなんだろう? 青年の問いに、
「そう言うのなら」
 真理は否定はしなかった。
『人を超える能力持つ者をエスパーと言う』
 彼は真理が自分の心をみんなに“中継して”いると悟って心を閉ざした。理論的に言え
ば、読心能力で彼の心を読み、伝心能力でみんなに伝えるだけなのだが……。
「不愉快だ、自分で言う」
 彼は真理を睨みつけた。その瞳には、真理の知らない暗い感情が横たわっている。
「巨人の世界の巨人。これまでは仮定の中での存在だったが、考えた事はあるだろう」
 その返事は待たないで、
「彼らは超能力者の持つ能力の多くを兼ね備えていて、しかもその能力は桁外れに強い」
 その存在は疑問視されていたが、モーゼクラスの超能力者を実在と見るならば、久枝達
とは遠く離れている。久枝の知るPK能力も、大きい者でドアを蹴破る程度の物だったの
だ。
 個人差では説明し切れない大きな力の差が、厳然としてある。
「今の伝心能力にしても、強くやれば相手を操る事ができる筈だ。相手に影響を与えるこ
の能力は、催眠能力と言えるかも知れない」
 青年は立ち上がった。真理を指さし、
「こいつはスーパー・エスパー。我らの敵」
「な……?」
 一体何を?突然の青年の弾劾に、久枝は訳が全く分からない。その勢いに、美代子はび
っくりして久枝に抱きついた。
「こいつはスーパーエスパー。我らの敵!」
 一つ一つは大した力でない超能力も、一人の意志の元有機的に結合するとどうなるか?
圧倒的な力への恐怖に刈られて、青年は叫ぶ。
「この娘は我々を操ることもできるんだぞ!
 伝心能力を強くすればさっきの話のように、他人を気絶させる事も人の体を操る事もで
きるんだぞ! 知らず知らずの内に他人の心の中に入り込んで、勝手な感情を植えつける
事もできるんだ! 今、我々の心の中にあるこの娘への好感も全て、作られた物なん
だ!」
 久枝の胸がショックに打ち抜かれた。言ってしまって青年の背を冷たい物が流れ落ちる。
 そうだ……そうだったのか……?
『道理で警戒心の強い面々が新しく来た真理を受け入れた訳だ。最も思慮深い僕でさえ、
思わず引きずり込まれるところだった』
『まさか……、そうなの?』
 美代子の心の動揺が、久枝の心に連動して騒ぎ出す。久枝は揺れる心を抑え込んで、尋
ねるように真理を見る。
 青年は弾劾を続けて、
「遂に分かった、君は我々とは異なる存在。
 君は我々とは全く異なった、異人類。我々超能力者の存在を危うくするミュータントだ。
遺伝子の悪意によって現れた化け物め、我々に好感情を植えつけて、行く行くは我々を奴
隷にする積りだろうが、そうはさせないぞ!
 みんな騙されるな! こいつは人の心に影響を及ぼして心迄も操れる、怪物なんだ!」
 馬鹿な! 久枝の叫びに、
「何が馬鹿なだ、まだ分からんのか。こいつは君を操ろうとしていたんだぞ。それを信じ
られぬ程深くまで心を操られているのか。
「真理さんがそんな事をする筈がないわ!」
 久枝は真理のほうを振り返って、
「だって真理さんは自分の危険も顧みず私の命を救ってくれたのよ。ただ人と違うだけで、
ただ人よりも多くの能力を一人で持っているだけで敵だなんて……」
「現実は、厳しい」
 元ボクサーの木下実は、表情を見せない。元々寡黙な上に、感情を見せない性格である。
何を考えているのかはとても抽象的でとりとめがなく、読んでも分からない事が多いのだ。
 ただその表情に僅かばかりの苦悩が窺えて、久枝は更に不安になった。
「第一何の目的で? わざわざ死の危険を冒して迄、私達の信頼を得て、どうするの?」
「そんな事知るもんか」
 青年の焦点はそんな所に置かれてはいない。「この人が我々の仲間ではないと、早く分
かって良かった。君にはここにいる資格はない、出ていって貰おうか」
「私が超超能力者である事が皆さんの敵になってしまうんですか?」
 真理は問う。どうして?
「私はただ、共に泣き、笑い、生きていける仲間がほしかった、それだけなのに。悩みを
語り合える、孤独を振り払ってくれる友達が欲しかった、それだけなのに」
 真理は青年の理想論に期待を抱いていた。
その彼から言われて真理は、理想の砕け散る音が聞こえたのだ。
『……どこが違う? 手も足も同じだ。頭が二つある訳でもない。みんなと同じく生れ出
て、泣いて、笑って、生きてきた……。
 何が違う! ただ超能力があるだけで、人と少し違うだけで敵意も害意もない我々が』
 真理の心が嵐に見舞われるのが、分かる。
訴えかける真理の手は小刻みに震えていた。
「君の仲間はここにはいないよ」
 文学青年香田学は、乾いた髪を掻き回して、
「また、捜せばいい」
『やっと、やっと見つけたのに』
 真理の悔しさの中に見えるのは、膨大な無力感。これまでの努力が漸く実るその瞬間に。
 世の中に超能力者は十万人に一人もいるかいないかだと言う。単純には比較できないが、
それを適用すれば超能力者の場合……。
 超超能力者は、はるかに少ない事だろう。
もしかしたら真理一人かも知れないのだ。
『やはり知らせるべきでなかったのかしら』
 逡巡の後、真理は静かに立ち上がった。
 悲しそうな瞳。その瞳に込められた悲しくも美しい意志が、何かの信号となって久枝の
心を直撃した。
 こんなに可愛らしいのに、こんなに魅力的なのに、裏切り者だとか敵だとか。そして久
枝の心をも操る怪物とまで言われて。
 彼女は何もそんな積もりはなかったのだろうに、彼女はただ……。
 いや、これは学の言う『操られている』心の見せる、幻想なのか? この真理への心は
作り物なのか、作られた物なのか。
 この私の心が、真理に対する好意が、みんな作られた物だったなんて!
「そんな事、そんな事、思いたくない!」
 久枝の絞り出すような苦しげな声。
『久枝さん……』
 久枝の苦しみ様は、美代子も見た事がない。
「私は、ここに居るべきではないのですね」
 真理は戸口にたって、振り返った。
「行かせるな。奴らにここを通報されるぞ」
 青年の声に、堪りかねた美代子が、
「いい加減にして! あなたに何が分るって言うの。何の権利があって人を怪物に仕立て
あげるの! あなた、それでも人間なの!」
『進化の頂点にある人。それを超える我々超能力者。その繁栄は進化の帰結で当然の事』
「がしかし、その我々を脅かす存在である超超能力者は、断じて許す訳には行かない!」
「真理さん……」
 久枝の声に真理は淋しげに微笑んで、
「また……会えますか?」
「二度と会うものか、このモンスターめ!」
 久枝の好意的な答えよりも早く、学の声がグラスと共に真理の足元に投げつけられて、
「出ていけ、異分子め!」
 彼らは決裂した。悲しさがもたらす透き通る様な美しさを残し、潤んだ瞳のままで振り
返って、真理は二度と戻らなかった。
 真理さん……!追いかけようとする久枝を、
「行かせてやるんだ」
 重々しく制止する実の声が、
「今の我々には、彼女を迎え入れられるだけの包容力はない」
 我々という言葉に人類という意味を込めていると知ったのは久枝の他に何人いただろう。
『人は建前だけでは生きて行けない。彼が抱く不安は普通人が我々に抱く恐怖と同じ物だ。
 奴等が我々を抹殺せんとするのは我々を必要以上に恐れて、作り出した幻影に怯えてい
るだけなのだが、理屈では恐怖は納まらない。
 我々もまた彼女に対する恐怖を拭い去る事は恐らくできないだろう。今君が無理にここ
に残って人類の実際より背伸びをしてみても、破綻を来すだけになる。かく言う俺自身、
君に対する恐怖と不安は消しえないのだから』
「でも……!」
 久枝の声が何か言う前に学が座り込んだ。 その表情には疲れが色濃く見える。苦悩?
 ああ、実も頷いて、
『俺も信じている。人間とは、愚かに徹するには賢すぎる生き物だ。いつか理解し合える
日は必ず来ると、話して分かってくれる日は必ず来ると。俺たちが彼女を理解できた日に
は、人々も我々を理解してくれるだろう…』
『その日がいつか来る事を……』
 それが学の心に入ってきた真理の最後の思念だった。久枝は涙を押さえるのが精一杯で、
何も言えなかった。ただ、
『真理さん……』
 真理さん……。

 小屋は燃えていた。人為的な炎が彼らの隠れ家を包んで、燃え盛っていた。
 抹殺者達は皆黒服に身を包み、隣家までは数キロもあろう雪原に死神の如く立っていた。
 彼らはほぼ任務を達成したと言っていいだろう。予知能力者二人、瞬間移動能力者一人
はすでに“処分”が終わり、残る一人も山に逃げているものの手傷を負った女一人。
 進化の帰結である普通人種の繁栄を脅かす超能力者の存在は絶対に許されてはならない。
その血は根絶されねばならぬのだ。
 久枝は背後に燃える炎と、そして迫りつつある抹殺者の気配に追われつつ、森を走る。
 木が多くて銃弾が逸れるのは幸いだったが、肩に受けた銃弾は彼女の血と体力を容赦な
く奪っていく。
 学も死んだ、実も死んだ、美代子も死んだ。そして次は、久枝の番だ。もう逃げきれな
い。
 しかし久枝は走る、それでも走る。生きる為に、少しでも長く、数分でも、数秒でも。
 誰の為に? 多くの、多くの同胞の為に。迫害された、迫害されている、そして迫害さ
れるだろう多くの同胞の為に。少しでも望みのある限りは、僅かでも勝ち目のある限りは、
死んでいった多くの同胞の為に、久枝は走る。
『あっちだ』『追いつめろ』
 意識が朦朧としてくる。足がふらついて、倒れ込む。もう、立てなかった。
 死ぬ……。久枝は漠と感じた。
 死ぬの……。こんな所で、こんな所で。
『死んではだめ……』
 誰かの声が聞こえた様な気がする。もう意識がはっきりしていないのか。いや……、
『久枝さん、死なないで!』
 心に飛び込むその“声”は……。
『真理、さん? まさか!』
 かなり遠くからだが、それは間違いなく…。
「だめ、来ないで。今来たら殺されるわ…」
『必ず助けます……少し待って』
 久枝は弱々しく首を振って、
『来ないで真理。私達は不合格だったのよ』
 そう、不合格。久枝は呟いて、
『人間には、超能力はまだ、早すぎたのよ。
 彼の言った事は私達の本音だった。私達は、異分子であるというだけで排除しようとす
る彼らの考え方を憎んでいたけれど、その私達自身……。ごめんなさいね、真理』
 久枝の頬を熱いものが伝っていく。
『進化……今でも猿は絶滅していないのに』
 久枝は自嘲的に笑って、何かを訴えようとする真理を押さえて、
『もう私は助からない……ただ、聞いて』
 久枝は意識が奈落の底に落ちかかろうとするのを必至で食い止めて、
『真理……お願い、生きて。生きて、伝えて。
 私達の様な人間も居たって言う事を、こんな悲しい事が、悔しい事が、なくなる様に。
 私は彼らが憎い、殺してやりたいと、何度も思った。今も変わらない。でも、そう、そ
の通りよ、真理。
 憎むって言う事は、憎まれた人にも憎む人にも、苦しい事よ。私は死ぬまでこの憎しみ
を消しえなかったけれど、でも。
 私は信じてるの、いつか全ての人の心から、憎しみと言う物が消え失せる時が来るって。
 だから真理、あなたには、生きていて貰いたい。一人にしてしまうけれど、誰かが誰か
に伝えなければ……。お願い、真理。
 そしてごめんなさい……』
 背後に幾つかの足音が迫ってきた。死神達の足音だ。久枝の命を奪う足音だ。
 意識が朦朧としてきて、真理の思念が何を叫んだのかも、届かなかった。
『(これからも生き続けなければならない)貴女には一番辛い思いをさせてしまうわね』
 ザワッ、草を掻き分ける足音が迫る。
 久枝にはもう何も聞こえない。ただそれを念じ続けるのみで、後はもう、何もない。
『真理、ごめんなさいね、ごめんなさいね』
 ごめんなさいね……。

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