第一話 闇の使徒
空は暗雲が低くたちこめ、風は冷たく、雑草は大地に伸び放題に膝近く迄伸び、道なき
道を進む二人の旅人にとっての障害は、唯の半日行程ではなさそうに感じられ始めていた。
「結構かかりますね」
どうやら、間違えた道を教えられた様です。
銀髪の少年が、前を行く年長の女性に語りかけた。身長は、十四才にしてはやや低めだ。
細身なので目立たぬが、連れの女性より頭一つ低い。理知的な風貌、知性を感じさせる黒
い瞳が母方の日本人の血を、風にたなびく切り揃えられたストレートの銀髪が父方の英国
人の血を、それぞれ主張して美男子だ。横なぐりの風で顔にかかる銀の髪を掻き分けつつ、
「どうします? 前の村に戻りますか」
少年の問いかけに、前を歩む長身の女性は、
「戻る……、前の村に?」
あれだけ騒ぎを引き起して置いて、正気か。
女性は男言葉でそう答えつつ、振り返った。
風に煽られ、背中迄達する銀髪のロングヘアが、櫛で梳いたばかりの様に、真っ直ぐな
侭にかき乱されて、その美貌を包み込む。
単純に言うなら、彼女は美人だった。つけ加えるなら、何があるか分らない美人と言え
たろう。何があるかと言うより、何を起すのか分らないと言い換えた方が正しいだろうか。
神に仕える巫女に見られる高貴さと、酒場でも気軽に話しかけられる気易さを併せ持ち。
触れ得ぬ崇高さと男を惹き込む妖しさの不思議なアンバランスが、何とも云い難い幻想的
な美しさを作り上げている。
寂しさと享楽、清楚と妖美。それらを削る事なくその侭融合させた、と云えば分ろうか。
絶世の美女、と云う月並みな表現を当て嵌めるに至当なその女性は、ぶっきらぼうな口調
でも少年っぽい魅力を纏っていて小憎らしい。
陽光を隠し去った暗雲は、夕闇に近い草原を不気味に仕立て、まだ午後二時を回った頃
だと言うのに、日が落ちたかと錯覚させる程空は暗く荒れ狂う。雨が降らないのがせめて
もの幸いだったが、いつ雨が降ってもおかしくない天候で、女性に焦りは見られなかった。
「でも、嵐が来そうですよ」
不安そうな顔色で刻々変貌する空を眺める。
「分っている」
そんな事は、誰に言われなくても空を見上げれば一目瞭然だ。再び足を進めつつ彼女は、
「大体お前があそこで騒ぎを起さねば、今晩もあの村に泊る事ができたかも知れぬ物を」
形の良い唇を少し歪めてそう言うのに、
「そりゃあないですよ、師匠。あの村での騒動を、全部僕のせいにする積もりですか…」
相手の売ってきた喧嘩を僕より早く買って、場を乱したのは師匠の方です。僕と最初の
あいつと、二人の事で終らせる筈だったのに…。
彼らの服装は、この時代のこの大陸にしては異様な風体だと云えた。ファンタジー小説
の常識であろう西洋風の剣や鎧や、或いは動き易い継ぎはぎの服、土色のマント等が闊歩
する世界に、彼らの装備は非常に珍しかった。
女性の服装は白地に薄い青で植物の紋様が様々に記された和服に紺の帯だ。村を一歩出
れば賊の襲撃に怯えるご時世に、剣を持つでもなく悠然と歩くその姿は、無防備に過ぎる。
尤も、この細腕に鉄の剣を持ったとしても満足に振り回せたかどうかは、大いに疑問だが。
少年もまた、変ったいでたちだった。上下共に白一色の背広姿。手にも腰にも剣はない。
少年の腕も常の十四才よりやや細くて華奢で、女性とそれほど事情が違うとは思えなかっ
た。
「僕は奴等の一人が剣術を脅しに使って、人から金を巻き上げていたのを窘めただけです。
何もあの一門百名弱を全部敵に回す気は…」
幾ら払っても顔にかかる銀髪を、左手で抑えつつ少年は抗議する。だが女性はそれに答
えず、すっと視線だけを横に走らせ享楽的に、
「……どうやら、人間の嵐が先に来そう」
「の、様ですね」
そんな2人を、敵意むき出しに木刀を持った集団が取り囲んだのは数十秒後の事だった。
皮の鎧に身を固めた八人程の若い男の群れに包囲された時、女性と少年は襲撃者が期待
していたであろう狼狽や困惑の様子を見せず、やれやれと云った表情で彼らを見つめ返し
て、
「性懲りもなく、人数を集めれば何とかなると思っているのだから……」
思わず同時に同じ台詞を呟いてしまった事に二人は一瞬目を見合わせ、同時に気が滅入
ってしまう。自己嫌悪の極致が見て分る。
襲撃者の中では一番若そうな、二十歳前後の若者が、自分に気合いを入れる意味も込め
てか大声で、目の前の銀髪の美女に向かって、
「良くも先生を散々な目に遭わせてくれたな。
この、道場破りめ!」
「それは違う」
道場破りは私の本職ではない、道楽だ。
真摯な顔で詰め寄られても、女性の方には気負いも怯えも、まして真剣さの欠片もない。
彼女には危機感と云う心の要素が欠落しているのではないか、とは少年も何度も考えたが。
「あの程度の技能で大金を取って剣術指南等、詐欺に等しい。このか弱い女手一つにやら
れる剣術使いなど、どこの世界にいるものか」
「黙れ、妖術使い! どうせお前が妖かしの術をかけて、先生の剣の精妙さを封じたのに
決まっている。そうでなければ、先生がお前如きに後れを取る筈がない!」
『それがあるんだよね、この師匠の場合…』
少年の、心の中での呟きはさておき。
「いかにも、私の本業は魔道士妖術士霊能士。
良く分ったと言いたいが、余りに情けない。私が術をかけるその前に、汝の先生とやら
が負けてしまったのだから。それを遺恨に集団で襲うと云うのは、汝らの習っていた『剣
の道』に、相反する事なのではあるまいか…」
ま、剣士でない私には、関りのない事だが。
この女性、人を嘲弄するのが巧い。その上、そうやって引き起した揉め事を他人の頭上
に持っていくのは更に巧い。冷静に語る彼女に、襲撃者たちはますます熱く血を滾らせて、
「ええい、だまりおろう。聞くに耐えぬ!」
「その小僧も何か妖しげな術を使っていたな。
お前たち、魔族か何かの手先であろう!」
「この場で共々成敗してくれるわ!」
若い男達、二十台前半の精悍な肉体の持ち主達が、木刀を上段に構えて二人を威嚇する。
「私は、平和主義者なのだがな……」
相手の戦意の強さに、女性は溜息をつくが、
「気に食わぬ奴を速攻で叩き潰し、平和にしてしまう『戦闘的平和主義』って奴ですか」
「誰がそんな命名をしたのだ?」
「僕ですよ。師匠にぴったりでしょう?」
女性は目の前の状況より、その的確なネーミングに頭痛を感じてこめかみを抑える。
「逃げてみてはどうですか?」
少年の方が、彼らとの一戦には乗り気薄か。流石に女性の様に超然としていられず、身
構えて反撃の姿勢を示し威嚇するが怖れは薄い。
女性は気楽そうに少し考え込みながら、
「折角ここ迄追ってきてくれたのに、空振りに終らせるのも可哀相だ。ここで明確に挫折
を見せてやらねば、彼らも諦めがつくまい」
「と、云う事は……?」
少年の、答を知っていながらも別の答を出して欲しいと云う、ややげんなりした口調に、
「お前が相手するの、友一郎。ささ」
いざ美女の危機を救うのだ、行けよ勇者!
「またこの役柄ぁ……」
少年は一瞬、その美貌が歪む位無気力な顔をして、瞬時で仕方ないと向き直り、
「……ほんとに。僕は本当の平和主義者で、こんな荒事なんて嫌いなんだけど……もう!
お前達も少しは考えろよ。お前達の師範が三合持たずにやられた相手だ。その弟子が十
人や二十人揃った位で、倒せると思うのか」
たく! まとめて相手してやるから、掛ってきな。嫌な事は、さっさと済ませたいから。
友一郎の右手での『おいでおいで』の挑発に相手側が応じ、両者十人余りの活劇が始った。
二人の相手に八人の人数を、四人ずつ宛てて攻撃するという彼らの作戦は、この時点迄
は順調だった。問題は、相手が悪過ぎた事だ。
少年は正面の男の突きを右に躱し、右方向から振り下ろされる木刀に左手を添えて軌道
修正し、側背に回って延髄に手刀を叩き込む。軽やかに、影の残る微妙さで躱し動く。舞
の如く移り変る精妙な動きは、見た目より遥かに鋭敏で強靭な運動神経を必要としただろ
う。
その一点で少年は達人の域にあった。四人の木刀に素手で動じもせぬ事が尋常ではない。
予想以上に早い戦果が相手方の動揺を生む。気をとり直して木刀を構える彼らの頭越し
に、女性の声が少年に、これ又何とも気楽そうに、
「友一郎、蹴り(技)はなしだ。分ったな」 少年はそれこそ苦虫を千匹位噛み潰した顔
を見せた。得意技を封じられた様だ。
「ハンディキャップ・マッチですかぁ」
その侭当っていればかなりの鋭さの蹴りに、ブロックの間もなく側頭部を打たれたろう
その男は、この一声で少年が蹴りの途中で膝を曲げ空振りさせた事で、少しの間命拾いし
た。
「聞かなかった事にして当てれば良かった」
「足癖の悪さも直ってきた様だな」
出かかった蹴りを外せた彼を褒めていると、少年も分っている。それをそう言わないの
が、この師匠なのだ。前方から、木刀を上段に構え迫り来る若者に向って少年は、気負っ
た様子もなく構えなしにフラリと前進し、その木刀が一撃で彼の頭を砕ける距離に迄接近
する。
木刀が加速を得て少年の頭に打ち込まれる。その瞬間の動きより速く、少年の踏み込み
は相手の至近に至り、顔面に掌打が叩き込まれ。
少年は残る二人を左右に睨み軽く微笑んで、
「さて、次はどっちに行こうかな」
その笑みが、元々美男子の彼故に、一層不敵でかつ生意気で、人をあざけり見下す様だ。
「くそっ……!」
左右の敵は単独で勝てぬと連係を試みるが、巧く行かぬ。連携とは、結構高度な技なの
だ。
「こら、友一郎。戦いを楽しんでいるな!」
向うから女性の野次が飛ぶ。向うはと言うと、まだ一人も数は減ってない。
『いかにも師匠らしい……』
彼に倒させる為に残している。十秒掛らず倒せる相手の攻撃を、彼女は嘲弄する如く躱
し続け。攻める方に疲れの色濃厚なのは気のせいではない。力量に険隔があり過ぎ、いつ
迄経っても彼女がその気になるか、相手が戦意喪失し逃げ出さぬ限り、状況に変化はない。
木刀とは言え、剣の一尖をあそこ迄躱され空振りを続けると、疲弊が高じてくる。終い
には、敵側が振り回した木刀の遠心力について行けず、よろめくのを彼女が助け起したり。
その間も彼女の動きは精巧を極め、木刀の攻撃は唯の一度も掠める事なく、息も乱れて
いない。彼女はその力量の片鱗も見せてない。
それでいながら、これはないと少年は思うのだ。全く切迫感のないのんびりとした声で、
「友一郎、戦いを愉しんでないで、早く片づけ私を助けろ。世界一の美女が危ないのだぞ。
勇者なら、美姫を助けるのに効率的に戦え」
だが少年には、この程度の相手なら彼女自身で倒した方が遥かに早いと思えてならない。
「おうい、美女の危機だぞぉ」
「僕は勇者役なんて望んでないのに。まして師匠は救われる方じゃあなくて、むしろ…」
「何を云っている。美女は常に救われる為にあり、男は女を守る為にのみ戦っていれば良
いの。余計な文句を言わず、さっさとやる」
はいはい、それ以上彼は逆らう術を持たぬ。
「全く、美女を何と思っている。国の至宝ぞ。こんな所で傷物にでもなったらどうする
…」
それ以上は少年も聞いてない。中段に木刀を構える相手の懐に飛び込んで、木刀を構え
る腕を左フックで打ち据える。その身体が宙に浮くのは、その一撃に相当な威力がある事
を示す。浮いて身体の自由が利かなくなった相手に右ストレートを叩き込む。あと一人か。
さて。少年は一人になった相手の警戒気味な木刀の構えにも無防備で接近し、右フック
を出そうというフェイントをかけ、左に回る。バランスを崩しつつ、対応して向き直る相
手の視界は既に少年の小さめな掌が塞いでおり、掌打はその男の戦意も意識も奪い去って
いた。
「こっちは終り、と」
友一郎が振り返った時には、半ば疲れで動けなくなった四人の襲撃者の、怯えた様な、
戦意失った目つきが可哀想にさえ見えてくる。
「分った? 僕達を、というか師匠を襲うのは無謀の極みだって。もう終りにしない?」
数分後、残りの四人も片づけた少年の、
「これで終り、と。どうです?」
「まあ、及第点といった所かな」
八人の伸びた草むらの上で、少年と女性は息一つ乱れた様子もなく世間話の様な感じで、
「少し時間は掛かったが」
「どうします、この男達」
この侭捨て置いて大丈夫ですかね。力尽きて倒れ伏した連中を指さして少年が問うのに、
「命迄奪う事もあるまい。美女を襲う動きは襲撃者一般のセオリーだし、真剣ではなく木
刀だった事からも害意はあれど殺意は薄い」
少年は襲撃者のこのあとを心配したのだが、彼女は止めを刺すか否かとの問に答えてい
る。
「村に運ぶ義理もない。この後で盗賊に合うも無事帰り着くも彼らの運次第。捨て置け」
それは果して、温情なのか酷薄なのか。
しかしこう不条理な襲撃を促す程に美しいと言うのは、我ながら罪な物だ。己の口でし
ゃあしゃあ言う所が、彼女の彼女たる所以か。
「ああ、私が美し過ぎるが故に、か」
それが理由で連中が襲ってきた訳ではないんですが。あなたが美人なのは認めますけど。
少年はその台詞を、敢えて口にしなかった。女性はその表情に何かを読み取ったらしい
が、
「ささ行くぞ、友一郎。
美女は常に、強く優しく、背の高く男前で、格好いい勇者の出現を待ち望んでいるのだ。
次の町には、私を守ってくれそうな男はいるかな。いたら恋するも良し、奪うも良し」
その脳天気さが本人にだけ幸せをもたらす。
師匠の顔の見えない所で弟子はつきあっていられないとばかり口を波状に歪めて見せて、
「そうそう簡単にいやしませんよ。師匠より強い男自体、中々見つからないんですから」
いたとしたら、ゴリラの様な大男じゃないですか。よぼよぼの老・大魔道士とか。
「いても、私はそういうのには、恋しないぞ。
私はこの美貌に釣合う男前が趣味だからな。
云っておくが人外の物と同衾する気もない」
そう言うものが現れた時には、その始末はみなお前に任せるから、安心しろ。
「僕だって遠慮しますよ。
師匠が忌避する物に弟子が勝てる訳がないじゃないですか……もっとも、師匠が勝てな
い物があるなんて、思えないんですがね」
少年は半ば本気でそう思っている。本当に、謎の多いこの美女の人間離れした技・力・
動きは説明が付かぬ。その上彼女が本業と言う魔道士としての全貌も、未だ把握できぬの
だ。
少年自身相当な『力』の使い手である故に、身近に接して尚その力の規模が計り知る事
も伺い知る事もできぬこの女性の、真の力量は。
「このたおやかな美女に、酷い事を言う…」
見ろ、この暗い空を。急がねば、雨に祟られるぞ。黒雲はさっきよりも尚低く空を包み、
二人の旅人は次の村に向け歩む足を速め行く。後には、八人の若者が呷き声と共に残され
た。
少年の名は、朝日友一郎。
英国の資産家と、その正妻ではない日本人女性の間に生れた、言う所の私生児だ。正妻
である養母に憎まれ、財閥の実権を握る祖父に嫌われ、実の父親には疎まれ、あの夜迄の
彼は、生来病弱で内気な少年に過ぎなかった。
『妾の子』だった彼の存在は常に『過ち』で、『資産を掠め取る邪魔物』で、『生れてき
た事自体が間違い』だった。
心開く相手なき侭に、生れつき脆弱な身体にも縛られ、砂を噛む如き幼少時を送った友
一郎の人生が転機を迎えたのは、十二歳の時。
あの一夜が彼の全てを変えた。その夜の事は相手との信義則の故に、彼女にも全貌を話
せてない。まあ、彼女には話さなくても把握されている可能性もあるが。『力』の発現は
その夜からだ。魔術・霊力・妖術・超能力…。
何と称せば、良いのだろうか。そのどれでもなさそうで、実はそのどれでもありそうで。
『どれでも良いのだ。呼び名に余り拘るな』
少年の師匠は世間話でもする様な気楽さで、
『人は皆、己の視点で物事を勝手に区別する。
妖術はこう、霊力はこう。あれはこっちに含まれるとか、含まれぬとか。区分等、人の
都合だ。それらは皆、互いに重なり合う部分を持つ一つの現象の、一側面に過ぎぬのに』
その語調は軽やかに、
『魔道のみを真実と思うな。見える物を見て、感じる物を感じる事は構わぬが、呑み込ま
れると、時に真実を見失う。己の中に検証する慎重さを保ち続けよ。盲信は人を奴隷にす
る。
同時に、科学のみを真実とも思うな。検証に頼る科学は人が行き着けた所迄しか示せぬ。
その先を示す灯火に目を閉ざす事は、進歩の放棄だ。人の可能性は、科学を操ってその先
を切り開く所にある。道具に操られ縛られては真理は遠のく。科学を魔道に生かし、魔道
を科学に生かす。科学も魔道も、一つの真実の両側面と認識するのが、妥当な考え方…』
魔術師や妖術士・霊能者は、神憑り的な考えに陥り易い。使う力が超自然の力である故、
再現も繰り返しも至難な故に、世界の捉え方も神や精霊中心な考えに傾くのが普通なのだ。
少年は科学文明の本拠の出身だ。自身科学が未解明な超自然の力を扱いつつ、科学との
関係は気になった。そんな彼故に、ここ迄理論的な魔道士を師に持てた事は、幸運だった。
『全ては流転する世の真理の一部だ。呼称に拘る事はない。お前の力は今現在ここにある。
出発点を確認し、事実を受け容れ、考えよ』
『先入観や常識で心を縛るな。神託を受ける巫女等は、その為の能力ばかりを磨き、他を
全て捨て去るから、能力的にも人格的にもいびつな者になってしまい、老化劣化も早い』
処女を守って一生を神に捧げるとか、男女の恋愛も清純を汚すとか言う者もいるが、正
常な人生経験を積まぬ者を求め欲する神とは、一体どういう神なのだ。
『世間知らずな神々の勝手な託宣で、滅びた国は一つや二つではない。それでもこの地上
に数百数千の神がいて、人に供物を求め続け。たかられる人間も人間という事だろうが
…』
彼女は神に大きな権威を見てない。我こそ唯一創造神と名乗る者が村々に氾濫する事が、
彼女を懐疑的にさせる様だが、実は彼女が神に近い力を持つ故に、そんな軽口も言えるの
ではないか。市中の魔道士はそういう本音を持っていても、口には出せず言葉を濁すのだ。
友一郎の能力は今尚未開拓で、前にいた老師の元でもそうだったが、新種の力の発現や
応用形が続々と現れており、その魔道士としての能力は尚急速に成長を続けている。市中
の三流魔道士等今の彼には既に相手ではない。
それ故に、その彼から見て把握するどころか推量すら不可能な、未だ片鱗さえ伺い知れ
ぬ師の膨大な力量に、畏敬の念を抱かされる。
彼女は、一応涼子と名乗っている。仮名だと言う事は自身が語った話で、本名は不詳だ。
その気紛れで彼もこの世界に『落ちて来た』所で遭遇し、世話になった訳だが。
どんな局面でも危機感に欠けるその性分は、先程の襲撃者との対峙で見た通り。通常の
危険など愉しむ余裕と技量を持つこの不思議な美女、何を目的に流離いを続けてきたもの
か。
魔道の術も余り見てないが相当な物で、その上科学やトリックにも通じる。武芸一般に
もあの様な感じで、苦労しない。むしろ苦労は、あの独特の性格にまつわると思う。
東洋系の顔立ちだが、確たる事は分らない。この世界に於て東洋西洋を論じても無意味
か。年は二十歳代前半に見える。プロポーションは抜群だが、ちょっと胸が小さい様に思
えるのが難点だ(それを口にすると師匠は怒る)。
動きを制約し鈍くさせるこの衣を敢て着る趣向も珍しいが、どうやって手に入れた物か、
それは、彼女の出自に関係する事かも知れぬ。
「似ている……。私に」
己と同じ見事なストレートの銀髪だった事が、気絶していた彼を拾った理由だと言うが。
『こんな所で出逢う事になろうとは、全く』
初めて言葉を掛けられた時の、彼女の驚きの眼を彼は忘れられぬ。滅多に動揺を見せぬ
彼女が真に驚き、或いは怖れの目線を『落ちてきた』彼に向けたのだ。時空を突き抜けて
現れた事への驚きではない。彼女程の力の持ち主にはその異常事態も驚愕には値せぬ筈だ。
その驚きは何に対してなのか。以来彼女に付き従って来た少年だが、あの真顔は見てない。
常に飄々として享楽的で、時に辛辣で皮肉っぽいが、何もかもを呑み込む度量と全てを
見通す慧眼を併せ持つ彼女は、全てを分った上で事に乗り、或いは乗せられ、操られた風
を装って愉しんでいる。何もかも、計算したとは思えないが、計算された如く辻褄が合う。
意図して合せているのかも知れぬが、いつでも好きな時好きな場面で辻褄を合せてしま
う力量は尋常ではない。そしてその嘘みたいな賢さと力と技と美しさと性格の悪さの融合。
後世少年は常に冷笑気味で、皮肉っぽい性格だと人の評を受けるが、それは間違いなく
この女性との間で培った物だ。友一郎の深層にこの時点で既に、涼子が深く根付いている。
この世界でも辺境に当る草地を歩む二人だったが、彼らの歩みより雨足の方が早そうで、
雨に祟られるのは時間の問題になっていた。
「まずいな、本当に雨になる」
降雨が拙いのではない。それも旅人には困り物だが、それ以上に嵐に紛れて出る魑魅魍
魎が厄介なのだ。人の賊は寒さや雨を嫌い嵐の中での凶行は好まぬ。更に言えば、この様
な時に動く妖怪を忌避しているのかも知れぬ。
彼らは常に現れると限らぬし、常に害をなすとも限らぬのだが、時に人を攫ったり取り
憑いたり、食い殺しもする。常に出る訳ではないが、辺境の村外れはその確率も割と高い。
まあ、現れれば現れたでこの師匠と弟子なら、さっきの襲撃者同様に退ける事もできよう
が。
本当に危機を感じている訳ではない。彼らには、雨に濡れる事と賊や妖怪の襲撃を受け
る事は、ほぼ同列の『困った事』に過ぎない。ある意味『困って見せている』と言えるの
か。
顔に水滴が当り始める。本格的な降雨迄はまだ少し時があるが、次の村には間に合わぬ。
「雨宿りできそうな木陰でも捜すか」
雨を凌ぐ術は幾らでもあり、力が足りぬ事等ないのに、彼女は力の行使に吝嗇だ。消耗
を怖れる必要など少年にもないのに、彼女は『何もない場で、力のみで何かを為す愚行』
を嫌う。それは、彼女の基本的な性向なのか。
その意を受けて、周囲の低木を物色するが、
「この雲行きだと、その侭野宿というパターンに行きそうですよ」
枝葉が多少でもあれば、その構造に魔道の力を作用させ、面として雨風を凌ぐ機能を補
強できる。使う道具は魔道だが、穴だらけの廃屋の屋根を、布や枯れ木で塞ぐイメージだ。
だが周囲には彼らの背丈どころか、腰迄ある低木もない。雑草が伸び放題に伸びるだけだ。
「好ましくない流れだな」
言葉の壁を乗り越えるのに、長い時間は不要だった。表層心理を読んで言語を学ぶ事は、
共感の『力』に優れた友一郎に負担ではなく、興味深い挑戦で飛躍への足がかりでもあっ
た。
その上彼女は少年の言葉を複数知っていた。漢語・英語・日本語等の言葉は学習も不要
で、彼女から語りかけてきた程である。彼女は五十以上の言語を扱える様で、少年との会
話では彼の母国語の英語か日本語で話している。
「どこか小屋か館でもない物でしょうかね」
この辺境に貴族の別荘は期待せぬが、古の豪族や滅んだ王の呪い籠る館ならありそうだ。
好ましい訳ではないが雨宿りさせて貰うのに、不満は云えぬ。それに大抵の亡霊や呪いな
ら、師の手を借りずとも少年一人で対処はできる。
「ふむ、そういう物なら、あそこにある」
自称・世界一の美女が指さして見せたのは、草藪の右側に展開する鬱蒼とした針葉樹林
に、ぽっかりと浮び上がった白い宮殿の姿だった。遠近感の法則を無視し、さっき迄影も
見せなかったその建物は、少年の望みに答える様に唐突に現れ、木々の峰を越えて突出し
て見え。
「なんで、あんな近くに、突然……」
少年は驚きに目を丸くして、次に、
「師匠、蜃気楼で僕を誑かしていますか?」
良くある事なのだ。薄衣一枚で身を包むだけの己の姿を幻影に映して少年を惑わせたり、
彼の師匠の悪ふざけは中々酷い。つき合いは短いながらも被害経験の多い少年は既にこれ
もその悪ふざけの一つでないかと疑っている。
「どうやら、呼ばれているらしいな」
客としてか、餌としてか。
彼女もその疑いは抱いていたのか、訝しむ様に白いアラブ風の丸い宮殿の上部を眺める。
「罠の可能性が高いですよ」
少年の危惧は常識的な推論だろう。通常宮殿なり館なりがあるべき場所ではない。
友一郎が、黒い瞳を瞬かせて警戒するのに、
「一流の罠使いは、掛らねば更にややこしくなる罠を設定する。警戒した時は既に掛って
いる、或いは避け得ないのが真の罠だ。この場合、罠と言うべきでもないかも知れぬが」
涼子は遠望しただけで何を把握できたのか。
「力量ではない。これは縁(えにし)の問題。私自身に関る故に、気付けただけだ。だ
が」
視線を受けつつ、涼子は一呼吸瞼を閉じて、
「扉を開ける者、壁を穿つ者、先駆ける者よ。
揺り動かされるべき時もあるという事か」
彼女が思索に入る事は非常に珍しい。複雑そうな状況でも即断即決で、後から結果が付
いてきて分るという流れが主な涼子の行動に、僅かでも逡巡や思索や惑いがある事に友一
郎は首を傾げる。彼女が何を思い考えているのか、その呟きから読み取る事は出来なかっ
た。
良いだろう。この誘いは受けぬ訳に行かぬ。
瞳を開くと、短く涼子はそう語り、続けて、
「厄介事が起きれば、お前に任せる」
表情を一変させ、気楽に流す。運命の選択の如き真摯さが雲散霧消し、頭上に荷物を持
ち来まれた少年の困惑を愉しむ声音が軽快だ。
雨に濡れる位なら、少々の呪いを解く位彼らには埃を払う程の労働か。だがこの時の涼
子は語調の気楽さの裏で、招きに応じる姿勢を固めていた。後で彼女は運命が動き始める
音を感じたと語っている。友一郎との邂逅が、彼女の止めていた歯車を、再動させたのだ
と。
逃れられるが、逃れたくない招き。
避けられるが、避けたくない誘い。
「面倒な物だったら?」
彼の手に及ばぬ物だったらという危惧より、涼子が前のめりな事に微かな危惧を感じて
少年は尚も問う。彼女の力量に寄せる信頼は大だが、少年の手に余っても彼女の対処でき
る範疇を越える事はなかろうが、彼女は面白半分に様々な事柄に首を突っ込む傾向も常だ
が。
「心配がない訳ではない。だが、全てを回避しようと望めば、人は進むも引くも適わない。
心配の種は乗り切る事で回避できる事もある。私も、危険や戦いを望む訳ではない。危う
い時は逃げ出して、雨に降られ野宿するだけ」
逃げ出すという言葉に、少年は常の涼子のバランス感覚を確認できたと感じた。含む所
はある様子だが、彼女の思考は明晰で、その心は平静だ。惑わされたり、挑発に乗せられ
た様子はない。進むも引くも柔軟な彼の師だ。
それを確認できれば憂いはない。後は彼女の差配の中で、彼が成し得る事を為すだけだ。
友一郎は歩み始めた涼子に付き従って、針葉樹林に足を進め。2人を宮殿に煽るかの様に、
暗雲は冷たい強風と共に、間近に迫っていた。
鬱蒼と繁る森の中はこの天候の為一層暗く、草地ではもう少し荒れてから動き出す魑魅
魍魎も、既にざわめき出している。下草を踏みつけ、木々の枝葉や幹に身体をこすりつけ
進む音や何かの鳴き声、不確かな気配が周囲に現れては消え、近付いては遠ざかる。湿っ
た枯れ葉と苔に包まれた森の地表は滑り易かったが、彼らの歩みは足を取られる事なく進
む。
妖怪変化が全て即人の敵である訳ではない。彼らの餌が人でない場合や、人を忌避し寄
って来ぬ場合もある。気配や足音で2人の力量に気付く高等な者もいる。彼らの腹の空き
具合で動かぬ場合もあり、人の害になり得るからと全て討つ事は、無理な以上に力の浪費
だ。
害意を実行しにきた者にだけ、彼らは身を守る為の反撃を為す。それで充分と。そして
どっちにとって幸いなのか、彼らに襲撃を為す人外の者は今の所いない。気配は濃厚に周
囲に間近にいたが、巧妙に遭遇を避けていた。つまり害意はない、戦う気はないという事
だ。
針葉樹の森に人の痕跡はなく原始林の侭で、獣道はあるものの宮殿に向け開けた途はな
い。
森に踏み込んだ頃から、いよいよ雨が降り始め、二人とも頭上に落ち来る水滴に顔をし
かめつつ、歩みを早める。雨を凌ぎつつ動く術もないではないが、目的地が近いのと本降
りでない故に涼子はそれを使わなかった様だ。
意外と遠いかな。彼がそう呟いて間もなく、木々の向うに白い大理石が見える。深い森
の為に、ごく近く迄来なければ見えないのか。或いは彼らがごく近く迄来なければ姿を現
さぬ仕掛けが施されていたのか。
「ここの様ですよ」
髪を伝う雨粒を拭いつつ少年が言うのに、
「ふむ……。隠された物らしいな、封宮か」
存在感を極度に落し周囲に同化させている。光の吸収率を特殊にして視覚にも届かぬ様
に。
「それって……」
「ああ、何かを封印してある。それを下手に解放されたくないから、人に気付かれぬ場に、
人に気付かれぬ形で置いた、といった所か」
普通神や妖怪等を封印するのに壺から倉迄、様々なサイズの物に相手を封じる事はある
が、周囲に水晶や輝石で魔術的結界を形作るのは面倒で労力のかかる、念入りな作業にな
る。それを宮殿規模にするのは、それ相応の規模の『何か』を封じ込めた為だろう。
「権力者の墓が巨大なのは、人一倍権力や富に未練を残す彼らの執着心が、亡霊になって
迷い出る事を防ぐ、封印の側面も併せ持つ」
涼子はそう言って、封宮の敷地と周囲の森とを隔てる膜らしき物に手を触れた。巨大な
半球状にその膜は、建物と敷地を包んで上空迄伸びていて、中と外を隔てている。
「普段は見える事はない。しかし嵐の前後の、湿気を含む空気を通す日光の特殊な当り方
で、気付かれる事のない封宮が見えた。それだけではないが、今は取りあえずそう言う事
…」
虹の様な光の乱反射があると、幾ら巧妙な細工をしても完全な隠蔽は難しいと言う事か。
それは、余程魔道に優れた者でも見抜くのが難しい。大体、魔道の技とは千差万別、術
をかけた者でなければ解く事はおろかどんな術か分らぬ事も多い。こういう面倒な細工の
跡を読み取るのは、単なる熟練の域を超える。
「でも、それってかなりの細工ですよね。
邪神とか亡霊とか妖怪を封じる時、固く閉じこめはしても、維持管理の必要がある。封
じた事さえ気付かれぬこんな特殊な処理はしませんよ。どこに封印したか分らなくなる」
「そうだな、余程厄介な物だったのだろう」
それに、事情が特殊だった事も推察させる。
涼子は右の掌で膜に触れて様子を探りつつ、
「下手に入って封じられた物に関りを持つと、後が面倒そうだ。さて、どうしたものか」
その開いた間に周囲の安全を確かめようと、辺りを見回した少年の足下に触れる物があ
る。
「なん、だ。これは……」
爬虫類らしい得体の知れぬ動物の、白骨死体がある。大きさは牛ほどもあろうか。四本
足で立ち竦んだ様な格好で天を見上げ、絶叫する感じを受けるのは、気のせいか。
見た事のない白骨死体に、少年が目を丸くしていると、後ろから頭を覗かせた師匠が、
「何だ、妖怪の屍ではないか。珍しい」
「妖怪って、屍の残る物だったんですか?」
友一郎の問いかけに涼子は首を縦に振って、
「精霊とは違って、魑魅魍魎は実体を取れる。大抵は残らない物なのだがな。実体化して
いる時に殺されると、屍として残る事もある」
森の中は妖怪のテリトリーだ。簡単に殺される訳もない筈だが、同類どうしの争いかな。
涼子はそう言って、屈んで白骨を検分する。屍を恐れる気配も見せないのが、可愛くな
い。
争った様子も見せず、ただ肉が綺麗にはぎ取られ骨格のみが残る妖怪の屍を眺める内に、
雨は徐々に強さを増す。風は森の中にいるので影響は少なかったが、相当荒れている様だ。
「……」
不意に涼子が険のある目つきをした。不審そうな、何かを探る様な警戒気味な目つきは、
何か拙い事の可能性を示唆している様だが?
雨は既に本降りに近く、木々の間や枝葉を伝って、彼らの頭上にも降り注ぐ。その雨足
も荒れ狂う暴風と共に強くなろうとしていた。森の中では風の影響は直接ないが、嵐に踊
らされる妖怪達の悪ふざけにもターボがかかる。
「まずい! 友一郎、中に入れ」
師匠が少年を突き飛ばしたのと、彼のいた場所に黒い霧が立ち上るのは殆ど同時だった。
突き飛ばされた少年は封宮に入ってしまうが、その判断は正しかった。得体の知れぬ霧と
しか彼には掴めなかったが、彼女の経験と直感はその危険を見抜いたのだ。
殆ど無抵抗に膜をすり抜け、突き飛ばされて入り込んだ封宮の敷地で素早く起き上がっ
た少年の前に展開されていたのは、黒い霧に包囲され、封宮を背に立つ師匠の後姿だった。
「師匠、それは……」
彼を襲おうとし失敗したその黒い霧を見て、少年は問わずにはいられなかった。大地か
ら、次々と換気口を出る煙の様に黒い霧が現れて、もう熊程の大きさに成長し、和服姿の
彼の師匠をのみ込もうと三方から包み込み。
「霧状生命……、この世界の物ではないな」
特殊な強酸性の霧が生命を持った様な物で、岩場や洞窟にいるべき物だが、この世界に
は本来その様な生命は存在しない。別の平行世界から魔道士か妖術師が連れてきた物だろ
う。
「食べる事・増える事しか意識にない生命だ。生れ育った世界から切り離され、より多く
餌を取らねば存在が難しい故、貪欲なのだろう。剣や拳の攻撃が効かぬ、厄介な相手だが
…」
「さっきの妖怪は、生きた侭こいつに食い物にされたのか!」
霧状生命体が周囲から包み込んで食い物にすれば、骨は砕かれる事なく化石標本の如く
骨だけを残し食い殺される事になる。彼らは大地に身を隠せば良い。後には何も残らない。
「師匠……!」
「心配は無用」
お前が私の心配をする等、十年早い。
そう言って、涼子は不敵に微笑んで、
「それよりもどうだ。その膜は、霧状生命が入ってこれそうか?」
「いえ……。奴ら、入ってこれない様です」
封宮を半球状に取り巻く無色の膜はナイロンより薄いが、霧状生命の侵入は適わぬ様だ。
それ故に彼らはその外にいる唯一の獲物となった涼子に食欲の集中攻撃を掛ける事になる。
「師匠、早くこっちに入って下さい」
剣や拳で砕ける相手じゃない!
「見ていろ、友一郎。こういう相手に、まともに切りかかっても効果はない。だから…」
そういう間にも霧状生命は急速にその密度を増して三方から彼女を包囲して、じりじり
と距離を詰めにかかる。触れただけで溶ける強酸性の霧に、少年は対応の術を見いだせぬ。
すっと、涼子は左手を天に掲げた。そして、「間近の嵐から少し、強風を貸して貰お
う」
風……? そうか、その手があったか。
風で吹き払えば、どんなに濃密な物でも相手は霧、気体である。吹き払えば全て雲散霧
消だ。霧の生命は声にならない悲鳴を上げて、遠方へ吹き散らされていった。余り広範に
散らばると再結集できず、実質死滅してしまう。
「……(相手の)弱点を巧く突く」
簡単過ぎる決着に、少年も拍子抜けするが、その奥は深い。剣や槍では絶対倒せぬ相手
も、独特の弱点を突けば遙かに簡単に処理できる。
風を呼びつける時のみ力を使うが、その後はただ乗りの様な物だ。殆ど力の消費はない。
感心した声を上げる少年に彼女は微笑んで、
「お前が私を心配する等、二十年は早いな」
如何に巧く自然にある力を使い、自分の力の消費を抑えるか。これは魔道行使の基本か。
涼子はそう言って、ニッと笑って見せる。
「一体、精霊って、何なんですか?」
それは少年も、聞いてみたいと思っていた。
自然界に存在する何らかの力、とは分かる。しかし彼の生れ育った世界にもそれは存在
するのか。あの高度な科学文明の中心に於ても、この技は使えるのか。そこが気になった。
「自然の力を一部借りてくると言えば分るか。今の場合、風は周囲で荒れ狂う嵐から借り
てきた。その源は、この星を取り巻く空気の流れにある。それを力を用いて呼び出す。呼
んで自らの意志に従わせ使う。分らぬかな…」
この星や世界が一つの生き物だという説は、お前のいた世界でも、唱えられている様だ
が。
彼の師匠が科学の異端とされるガイア仮説を知っているとは、少年も思ってみなかった。
「生き物から細胞を一つ取り出したとしたら、その細胞は生きているか、死んでいる
か?」
え……? 少年は考え込んだ。
『細胞のみでは生きているとは云い難い。元々は生き物の一部だから生きていられる細胞。
でも切り離したら即死んだと云えるかどうか。活動を続ける限り、死んだとは言い切れ
ぬ』
「精霊もそれに似ている。元々は我らの様に自我を持った独自の命と言えぬ。だが一部分
を『力』を用いて呼び出し、切り離して使う。その時点が彼らにとって生れたという事か
な。
生れても、意思のない彼らに目的を与える。本来は無色無形だが、術者の心象を映して
姿を取る事もある。動物や、人や、神の似姿や。本質に大きな違いはない。意志を持たぬ
真っ白な、力の流れがあるだけ故に、術者の力量の範囲にある限り、呼びつけた者の意に
従う。
世界に漂う自然の力、風水、炎熱、凍冷、植物、それらの一部を引き出し、自分の意に
従わせる。お前の腕を切り離して神経組織を巧く操り、私が剣を振らせる行為に似るか」
微かに分る気がする。ふむふむと頷く彼に、
「お前の腕を一本切り離しても、巧く繋げれば元に戻る。離れていた事など嘘の様に、お
前の体の一部になっておまえの命令に従う」
私に移植すれば、私の命令に従い動く。その辺に投げ捨てれば、いずれ腐って土に戻る。
「それが物質ではなく、手に掴む事のできぬ、力の流れだと云う事だ。切り離された身体
が単体では多く長生きできぬ様に、誰かの意に従う為に大本から人為的に切り離された者
も、放置しては長生きできぬ。その寿命は物質的な生命と異なるが、大方エネルギー漸減
の法則に従い、小さな物から順に消滅していく」
「僕の世界でも、それは特殊な存在ではないのですね。普通にいる者であり、使い得る」
少年は何か得心し、希望を見いだした表情を見せる。その心の内を読んだのか、読む迄
もなく分るのか、知らぬのか。涼子は静かに、
「特殊な存在ではないが、常にあり続けられる物ではないな。自然は常に流転し、力は流
れ変転を続ける。その一部だけを切り離して形を取らせても、目的を与え指示に反応を見
せる事はあっても、本当の自我も安定もない。
魔道の力を投与し存続させる事は可能だが、彼らは『あり続ける』だけで力を吸い続け
る。穴の空いたバケツに水を注ぎ続けるに等しい。彼らは安定せず、流転して何かに作用
し変化し行く。人為で切り離しても、流転する本質は変え得ない。己の力の節約に自然の
力を拝借するのに、その為に力を投与するのは愚行な上に無意味に近い。彼らは春の雪と
同じく、力を使い果し、作用し消えて意味を為す物」
そういって涼子は封宮の中に視線を移して、
「友一郎、そこは出られぬだろう。封宮故に、内部を知った者を簡単に外に出す訳に行か
ないからな。仕方ない、私も入る事になるか」
選択は既に終っていた、今更この流れから外れられはせぬと言う事か。誰に言うともな
い涼子の呟きが、少年の耳に微かに届いた。
封宮内部は庭園の作りをしていた。白い大理石を多用した敷地は水が流れ、埃一つ落ち
た様子もなく作りたての感じだ。壮麗で重厚な作りは、中東の古代王朝の庭園を思わせる。
中央の建物が、アラブ世界のモスクに似た丸い作りで、地上三十メートル位迄聳えるが、
中は空洞で、地下に向って道が開かれている。外は幾何学模様に丸や方形やの巨石が置か
れて封印の効果を高める構造で、どうやらその主要部は地下にある物と見た方が良さそう
だ。
「触らない方が良いぞ」
師匠が云うより早く内側からバリヤーの膜に触れ、外に接触出来ないものかと手を伸ば
した友一郎を、電流が襲った。
普通なら感電死する程の電流だが、涼子は遠隔に力を及ぼし少年の身体の表面に水の膜
を作り、電撃を地上に逃がして被害を抑える。
「ふう、助かりました。でも……」
そう言う事は、先に言って下さい。
背広の各所から黒い煙が上がる。手は触れられぬ様だ。焦げた背広は念動力で分子を作
り変え修復出来るが、生命は失えば取り戻せない。少年は次に、小石を拾って投げつける
が、石は同じ威力で内側に弾き返され、通常の方法では外に出られぬ事を実証してくれた。
外からは人目に見えぬ特殊な細工が施された封宮だが、内からは外が見えても障害はな
いのか。上方を丸く包む封宮の膜は雨粒も弾く様で、彼らの頭に降り注ぐ筈の滴は来ない。
上に降る水滴は膜に沿って周囲に流れ落ち、数か所で小さな水流が地面に続いている。
膜のドームは風の影響も受けない様だ。嵐の暴風も、封宮の膜にはさざ波を立てる事もな
い。
中央の建物の他に、右と左に少し小さめの建物があるが、いずれも物置小屋に過ぎない。
半球状の膜と思えたのは地下が見えなかった為で、実は地下も含めるとほぼ球状に膜が覆
っていて、一切の外界との接触を絶っている。
噴水を興味深げに見ていた涼子に友一郎は、
「何か、分りましたか?」
僕達が簡単に入れてあの霧は入れなかった。そして僕達は入る事はできたが、出られな
い。こういった物には習熟してない少年は『困った時の師匠頼み』を決め込む他に方法は
ない。
「かなり巧い構造をしている。流石と言うべきか。第一級の魔道士・霊能師が技術の粋を
凝らして造って封じた何か。気にはなるな」
外から入り込む力が集中せぬ様、中枢で余剰な力を受け、噴水など内部機構の動力に変
換し巧く力を散らせている。それは封印対象の力も吸収する構造を兼ねる様だ。ここ迄気
を使って封じ、解かれる事を警戒する物か。
「噴水一つで、そういうのも分るんですか」
友一郎の問いに美女は小さく頷いて、
「一見幾何学的に整然としただけの配置だが、その真意は別の所にある。ここ迄精巧な配
置は、半端な魔道士にはとても出来ない相談だ。
見てみろ。この噴水の動力が、分るか」
え……? 友一郎は思わず噴水を見つめる。
封宮のアクセサリーとしか思っていなかった噴水に、隠された意味でもあるのだろうか。
「ここは外界から隔絶されている。ある程度の質量や運動エネルギーを持つ物でなければ、
封宮の膜は、全てを外に弾き返す。雨粒や霧状生命がここに入り込めなかったのは、自ら
の質量や密度・速度が足りなかったからだ」
巧妙なのは封印破りの攻撃に対する対処だ。普通の封印ならどんなに強大な攻撃も弾き
返す様に出来ているが、この場合ちょっと違う。
「一定以上の質量・密度と運動エネルギーが激突すると、膜はそれを弾き飛ばさず逆に内
に取り込むのだ。どんな強大な攻撃も弾く構造は、むしろ内側にある。故にどんな強大な
攻撃でも外から破壊される事は、なくなる」
外から弾や光線を打ち込んでも、内部に取り込み隔絶させ、外からの遠隔操作を無効化
し自然消滅させる。破壊を望む者は内側に入る他にないが、自分も中に入れば隔絶される。
自爆する様な攻撃は手控えざるを得ない訳だ。
「これ程巧妙な封印は、私も見た事がない」
彼の師匠がそう賛嘆するのだ、相当な物だ。
「封印は人為的に破られる他に、自然に解ける事もある。中に封じられた物(主に封印対
象の邪神や亡霊だが、その際に巻き添えを食った者も含む)が憎悪や復讐心・成長で力を
高めたり、天災地変で封が破ける事がある」
因みに、諦めれば力の量は減る。長い時の果てに封じられる己を諦めたり悟りを開き消
滅してくれる事が、封じた側の真の思惑だが。
「問題は外から入る物の扱いだ。エネルギーや物質を取り込めば、当然内部の力の総計は
上がる。どこかで解放せねば、やがて封印を破る。その分散にわざわざ噴水迄作ったのだ。
この動力は恐らく封印対象から吸収した力」
原子炉の冷却水に似る。これ一つで封印の耐久度が数百年は変る。それが七つか。相乗
作用で数万年は持つ。しかもこの様な構造は他にもある筈だ。この技量の持ち主が、この
目的に噴水しか使わないという事が考え難い。
「これが……。しかし、こんな精巧な細工迄して封じる物って、一体何なんでしょうね」
「それが問題か。一休みしてから、中に入ってみよう。もしかしたら、封印から出る為の
術や例外規定が、見つけられるかも知れぬ」
二人共既に濡れた筈の服は乾き、さっき迄雨中を歩んでいた面影は銀髪の美男子にも銀
のストレート・ロングヘアの美女にも見えぬ。
外はまだ嵐が雨風荒れ狂っている様子だが、封宮の彼らには別世界だ。雷鳴轟き、彼ら
の美貌を暗闇に一瞬の彩りを与えて照らし出す。
少年は懐から乾燥食の入った小さな袋を取り出して、その一部を女性に渡しつつ、
「ここの水は安全ですか?」
念動力を使い、器の形で水を空を浮かばせ持ってくる。師匠は近くの丸石に腰を下ろし、
「ただの水だ、不安はない」
そこから、コップ一杯分の水を念動力で取り出し、自分の前に持ってくる。やはり器が
ないと気分が変だと言って、水の表面を凍らせて氷の器に変え、力を解く。少年もそれに
見習い、不自然な光景はひとまずなくなった。
食事の時などに、美男美女の対処法として『小鳥の様に少ししか食べなかった』と言う
文句が常套句として使われる昨今だが、この二人に限っては、それは当てはまらない様だ。
二人は余り豪華な食事ではないが、結構な量をこなす。巫女や魔道士が余り食を取らぬ
と云うのは迷信に近い。健常者以上に力を行使する魔道士が、力の源を常識の範囲で多く
取り込むべきなのは、世間一般にも共通する。
元々食が細かった友一郎だが、彼女と旅をする様になって、食事量が増えた事に驚いて
いる。尤も涼子に云わせれば成長盛りの年頃に小食なのは異常で、今が正常なのだそうだ。
そして涼子もまた、思ったより良く食べる。
太りませんか、と一度彼も尋ねてみた事がある。彼女は不機嫌そうな顔も見せず平然と、
「美女は美女だから全て許されるのだ。
この絶妙のプロポーションが崩れない限り、私は幾ら食べても構わないと自然の法則に
認められているのだから遠慮する必要はない」
どうやら彼女は、かなり前からその体制で体重を維持し続けてるらしい。全世界の多数
派の羨望の眼差しを浴びるごく一部の少数派にのみ見られる『太らない体質』と云う奴か。
「雨宿りは出来ましたがとんだ雨宿りです」
友一郎がそう言うのに、女性は、
「大体お前がこんな物を見つけなければ今頃、ここに閉じ込められる事もなかった物を
…」
「あ、それは酷い。全部僕の所為にする積りですか。ここを見つけたのは僕じゃあないし、
来ようと云ったのも師匠じゃないですか…」
嵐は相当長引きそうで、暗い天は雲に閉ざされた侭夜の闇を迎えそうだ。雨も風も尚地
に叩き付けている。これで通り雨の様にさっと過ぎ去ったなら、彼らが何の為にここに来
たのか分らなくなるからこれで良いのだろう。
「友一郎、修業だ」
そう言って涼子が、さっきの襲撃者の持ち物だった木刀を投げ渡した時、流石に少年も
目を丸くした。彼の目にも、いつ彼女が奴らから木刀を掠め取ったのか、どう持ってここ
迄来たのか、見当もつかなかったのだ。目にも留まらぬ早業で相手を殴ると云うなら見当
もつく。しかし彼女は木刀を四本、側にいた彼に気付かれずにここ迄持ち歩いて来たのだ。
虚空から物を取り出す等の魔道の技は、封宮の中で外界と隔絶される以上無理だ。封印
は物理力のみならず、魔道の力も隔てる壁だ。
「師匠、一体あなた……」
「余り気にするな、髪が抜けるぞ」
そう言いつつ涼子は庭園の花壇の土に水を注ぐと、その上に手をかざして軽く念を込め、
「泥人形を作る。三つぐらいで良いだろう」
木刀もそれしか数はないからな。そう言う師匠に友一郎はいかにも面倒そうな感じで、
「師匠、そろそろ師匠自ら稽古をつけてくれても良い頃じゃないですか。泥人形じゃ何匹
かかっても僕の相手にはもうなりませんよ」
僕も結構強くなりましたからね。少年は彼女の剣を見てみたいので、生意気な口をきい
て見せるが、涼子はそれに乗る事はなく、「まだお前は、泥人形で十分だ」
美しい声が断定調でそう語る。
彼女の掌が大地すれすれから徐々に持ち上げられていくと、それに従い泥人形が頭から、
大地に突き刺さった杭が抜け出る様な感じで『引っこ抜かれて』地上に姿を現す。人間ら
しき五体を持つが、土色の顔はのっぺらぼう。作りたてで湿気を含む肌はすべすべしてお
り、動きも柔らかそうだ。中肉中背の泥人形がその様にして三体完成する。封宮内だが、
外界と接触できぬだけで魔道も霊力も妖術も中で使う分には有効な様だ。たちの悪い封印
には、中での『力』の発動を全て封じてしまう厄介なタイプもあるが、ここはそうでない
らしい。
「それに、私は剣を抜かないと誓いを立てたからな。戦いの中に身を置くなど、御免蒙る。
女は男に守られ、舞踏会や酒場で色男の心を奪う戦いに身を委ねる方が良い」
平静な語調の侭振り返ると、
「良いから早く強くなれ。どうして私がお前に剣術など教えねならぬ。お前が私を守るナ
イトになると期待する故、我慢してつき合っているのだ。大体私の本職は剣士ではない」
はいはい、少年は木刀を持って泥人形三体と向き合った。相手もみな木刀を持って、人
並みに身構えている。模擬戦だ。
泥人形は大地の精霊の端くれだ。その実相は操り人形だが涼子は彼らを巧く操り、独自
の判断で相手を攻撃し自分を守る様に見せかけている。死人使いが泥人形に変っただけで、
本当は余り賢くないロボットの様な者だが…。
「すぐ片づけますよ。これで僕が圧勝したら、師匠が相手してくれると、約束して下さ
い」
考えておこう。その一言を初めの合図とし、彼は木刀を右手に持って、特に構えもなく
打って出た。泥人形や死人の動きは全体に遅く、生身の人の素早い動きに追随する事は難
しい。彼らが人を良く襲い得るのは、人間が恐怖でまともな動きができないからだ。
少年の動きは、人間の目に留まらぬ程早い。並の達人の動きではない上に、その動き方
も変則・応用様々で先読みが困難だ。これが十匹でも二十匹でも彼の対応にそう違いはな
い。
彼の木刀は三秒かけずに三本の木刀を、その手首の泥共々宙に舞わせていた。木刀で引
き千切るその速さとパワーは相当な物である。
「まあまあ、と言った所かな。だが、もう一度やってみたら、果たしてどうかな?」
何度やっても同じですよ、と木刀をバトンの様に指で振り回して遊ぶ少年に目をくれず、
師匠は泥人形三体を呼び寄せ、無意味だが意味ありげに円陣を組み話をする仕草を見せる。
「決まりましたか?」
泥人形をうんうん頷かせ、再び少年に向き直り、その手首をつけ直した事を確認してか
ら少年は涼子に余裕ありげにそう尋ねる。
「小細工だが、策を授けた。これでも彼らに勝てたら、仕方ない。私が相手をしてやる」
その言葉、忘れないで下さいよ。
少年がそう言って再び前進しようとした時、泥人形は今迄の様に散開して包囲するので
はなく、彼に向って縦に並ぶ形をとった。
「な……?」
これでは一対一と変らない。元から動きの襲い泥人形は、頭数の多さを生かして包囲攻
撃が基本の戦い方なのに、これでは友一郎に一匹一匹相手してくれと云っている様な物だ。
わざわざ分断する手間が省ける。
「心の準備をした方が良いですよ。師匠」
そう言って少年は、先頭の泥人形目がけて突進する。その動きは唐突で早く、玄人でも
躱す事は難しい。案に違わず、泥人形の振り下ろそうとした木刀は、疾風の早さで踏み込
んだ少年の木刀に弾かれて手首ごと宙を舞う。
「まずいっぴ、き……?」
余裕ありげにそう言い終えようとした少年の顔に驚愕の色が走った。少年のみぞおちを、
一本の木刀が突いていたのだ。
「な……? こ、これは」
少年は漸く涼子の授けた小細工を理解した。
泥人形の一匹目の体を突き抜けて、一本の木刀が少年の急所に突き出されているのだ。
『一匹目は自らを盾にし犠性にして……』
少年の身体がよろけて倒れ掛る。肉体的な、それ以上に精神的な衝撃の故か。一匹目の
身体で彼の視界は塞がれる。一匹目を仕留めた少年の動きが止まる時を狙って、二匹目が
一匹目の身体ごと友一郎を木刀で突く。そして、
『三匹目は、二匹目の身体を踏み台にジャンプして上段から、剣を振り下ろしてとどめ』
それも飛ぶ瞬間迄は死角なので、その動きは見えぬ。それでも気付いた友一郎は十分賢
いのか、気力を振り絞って己の木刀でそれを受け、思いきり後ろに飛んで体勢を建て直す。
「まあ、最後は良く躱せたと言う感じかな」
涼子は愉しげな声で寸評を入れた。
「泥人形は、内部構造もないただの泥の塊だ。故にこんな芸当もできる。これに限った話
ではないが、必死の抵抗とは何を呼び込むか分らない。知恵と勇気と気力と、力量と運と
…。様々な要素が戦いには絡む、敵を侮らぬ事」
友一郎は身体より精神の痛手が大きい様で、
「まさか、泥人形に後れを取るとは……」
教訓にします。少年は師を引っぱり出せなかった事を残念に思いつつ、己を凌ぐ物を見
た事への満足の思いで目を閉じた。次から友一郎の戦いには、今迄の技の切れや流れに新
たな要素が加わる。それは彼を更に強くする。
そしていつか、彼は師匠を超えるだろうか。
「分ればよろしい」
彼の目標はそう言って、泥人形にかけた術を解き、彼らを泥の塊に戻した。泥は本来泥
でいるのが楽だ。それを無理に人形を取らせ動かすのは人に犬の真似をしろと云うに近い。
「ではそろそろ宮殿内の探索でも始めるか」
早く回復を済ませて先頭に立て。師匠の要求は中々に過大だ。それは少年が弟子だから
と云うのではなく、世の全ての人間に対する共通した対応らしい。それが許される理由も、
本人の言い分はたった二つに絞られるらしい。
『一つ、私が世界一の美女(?)だから』
『二つ、お前が男だからだ。男は常に美女の為にのみ生き美女に恋される為命をなげうち、
美女の気紛れな愛を得る為に体を張り、富を積み、国を投げて、女に仕える物なのだ。
お前も男の端くれだったら、私の為に前に出て身代りに弓矢の的になる位の事をしろ』
友一郎はその言葉を聞いてため息をついた。力が正義だとか、正義は神にありとか、そ
う言う連中は彼も何度か会っている。が、美女が世界の中心だと云う考えは、初めてだっ
た。
しかも彼女、美男は余り好まぬ様だ。美しいだけで女を守る役に立たぬ男に値はないと。
『男が美しくても、何になる。女故に美しさに意味がある。お前の様に私に似た色の髪で、
なまじ綺麗で男と云う程腹立たしい物はない。顔は後で潰せば何でもかなるから良いとし
て、まず中身を作り替えねばねばな。せめて私を守って戦える位には強くなれ』
あなたの都合で僕が生きている訳じゃない。
そう言いたいのも山々だったが、彼女の方がその積りでいるのだから、どうにもならぬ。
中央の建物に歩みだした少年の師が、漸く立ち上がった彼を振り返り、何かを言おうと
した時、その死角になった彼女の前方に大きな影が現れた。正面を見る彼の警告より早く、
影は涼子を捕まえに、太い腕を伸ばしてきた。
「師匠、まえ……!」
危ない。叫びも間に合わず、太いの腕が無防備なその細い身体を捕まえたかと思えた時。
美女は振り向く事もなく、物音一つ立てぬ接近を知り得る筈もないのに、前触れもなく
いきなり半歩後退して、その腕を逃れたのだ。
「どうした?」
彼女が訊ける事が既に、少年の予測の範疇を越える。それは単なる気配の察知ではない。
それに対応した動きがなければ意味を為さぬ。
「い、いえ、結構です……」
不意をつかれてこれだ。云うべき事はない。どんな化け物も彼女を追いつめる事は無理
だ。まして彼女の目前にいるのは唯の盗賊三人だ。少年が彼女の身を案ずるのは、三十年
は早い。
相手は腕を躱された事に意外そうだったが、目測を誤ったと思ったのかそれ程気にはせ
ず、外に現れてくる。建物から現れた三人の男は、それぞれ大きな体格で、太い刀をひっ
さげて。
『カモだ……』
相手は口にする迄もなく、その顔中で、獲物を見つけられた喜びを語っていた。
その身なりと顔つきを見た少年が盗賊と表現したのは至当だった。森に潜み獲物を待つ
内に封宮に入り込み、出られなくなったのか。
「ガキと女一人だ。滅多にない良い獲物だ」
「奴隷市場に持っていけば高く売れるのに」
金貨五十枚は下るまい。彼らは口々にそう呟き、二人の際立った美貌を妄想し楽しむが、
「ここじゃあ、役に立たねえな」
三人はそれぞれ目を見合わせ、
「ここを出られなきゃ意味はねえ。嬲り殺して楽しんで、食料にする位しかねえだろう」
「ちっ、極上の獲物なのに、惜しい……」
「文句云わねえ。親分に見つかる前に俺達で好きにできるだけ運が良かったじゃねえの」
見つかっていたらこんな上玉、俺達に回るのは最後だ。今なら、見つかる迄は好き放題。
分っているって。彼らには彼らの都合がある様で、少し話し込んでいる。逃げ途のない
状況では、女子供に警戒の必要も認めてない。
「ま、そう言う訳だ。抵抗しても無駄だから、おとなしく俺達の好き放題にされな」
話してくるだけ、彼らも穏便だった。大抵は何も言わず言わせずに、いきなり飛びかか
って好き放題やってしまうのが、盗賊の常なのだ。まあ、美女の怯える様を見たいという、
彼らの思いがあったのかも知れないが。
彼らの狙いはまず、そこから粗語を来した。 涼子は、全く怯え警戒も見せなかったの
だ。彼女にこそ正に彼らなど警戒に値する相手ではない事になるのだろうが、その余りに
も落ち着き払った余裕が、彼らを少し戸惑わせる。
「金貨五十枚! 何と言う安値。私を買う気なら、国一つ投げうつ位の覚悟を見せろ」
でなければ帰った帰った。私も余り馬鹿を相手にしたくはない、面倒だ。しっしっ。
やる気なのかよ、そう言った感じで彼らは目を見合わせた。やる気もなさそうな感じで、
「……おりゃ」
盗賊の一人が、気合いの入らない声で涼子を捕まえにかかる。大きな体にも拘らず結構
素早い動きを難なくかわし、少し驚いた顔の盗賊から視線を反らせて彼女は少年を見ると、
「まだ回復できぬのか……仕方がない」
これは涼子の所為である。全く恐れた様子もなく、困った様子も見せずに彼女は、やや
不審そうな盗賊達の視線にも構わず、
「男前で若くて強くて格好良い盗賊だったら、捕まって見ても良いと思うが、こんな中年
の、腹の出た不格好に捕まるのは、気が進まぬ」
確かに彼女の言うとおり、盗賊は三人とも腹の出てきた中年男で、まあ彼女の如き美女
が横に並んで見合うとは、思えなかったが。
本来お前の獲物だが、私が片付けて良いか。師匠はそう尋ねた。後ろを振り返って無防
備になる事等全く恐れてない。
お好きな様に。他に少年には云う事はない。その心情を読み取ったのか否か彼女は微笑
み、
「友一郎。珍しい物を見せよう」
涼子の黒い瞳が何か面白そうな輝きを帯びて見えた。また何か、やらかそうとしている。
『この人は道楽で喧嘩や切り合いを始める』
それが誰も適わぬ程に強い上に、逃げる時には風の様に素早くて要領が良い。その上面
倒になりそうな時はさっさと人に押し付けて、涼しげに見物人の方に入ってしまえるのだ
…。
数秒かからず、涼子は素手で三人の盗賊を打ち倒していた。それでも適当に手加減して、
相手を殺さない程度に痛めつけた様で、まだ気を失わず呷いている一人の側に屈み込んで、
男の腰から笛を取り出し手に持たせてやって、
「それ、仲間を呼んでみろ」
本隊が、中にいるのだろう。図星だったらしく驚愕の顔に更に驚きの表情を浮べる彼に、
「お前達も『ただの』女一人に打ち倒されたとなっては格好がつくまい。私が『特別な』
美女だと、皆にも知らせた方が良かろうて」
自信ありげな微笑みに、少年は頭を抱えた。回復を待って、また彼の上に持ってくる気
か。
「へ、へへ……」
男は頷いて笛を口にして、ピイイ! と吹いて仲間を呼んでからニヤリと笑みを漏らす。
「俺達を本隊じゃねえと読む辺りは流石だが、仲間が三十人いるとは、思ってなかっただ
ろ。ちょっと腕が立つからと思って、いい気になりやがって……。すぐに泣きを見るぜ」
へへ、へへへ。身動きも適わない彼はそう言って痛みに顔を歪めたまま、彼女が仲間に
痛ぶられる姿を想像してニヤついて見せるが、「お前の用は仲間を呼ぶだけ、お休み」
彼女が細い腕で男の頭を軽く頭を小突くと簡単に男は伸びてしまう。この細腕の一撃が、
三人の盗賊を気絶せしめた。力が籠ってないかに見えて、それは結構大きな力を持つ様だ。
急所を的確に突いている事もあるのだろうが。
「さて、友一郎……」
少年の出番か。彼女が立ち上がって建物の中を見やって、何か言おうとした時、友一郎
は観念した様子で一歩前に踏み出した。身体の回復も終えつつある。まあ、盗賊の二十人
や三十人位、元より彼にも相手ではないが…。
「面白い物を見せてやる。黙って見ていろ」
そういって彼女は右手に木刀を一本持って、建物の入口の向こうを見やる。
「師匠……?」
何を。弟子がそう言いかけるのに、
「偶には私の動きを参考にしてみると良い」
驚きだった。万事に思いつきとその時の気分で動いて見える師匠の事だ。ここを逃して
は次回いつ見られるか、分った物ではない。
「剣を二度と抜かぬという誓いは立てたが、木刀を持たぬとの誓いは立てた覚えはない」
その辺りに巧く抜け道を見いだすのが、やはり彼女、本職は魔道士である。
二人のやり取りが一段落する頃に丁度良く、盗賊の本隊が姿を見せた。さっきの笛は獲
物発見の合図だったらしく、総勢で刃物を手に手に、勇んで飛び出してくる。来るが。
「おっ……!」
汚い身なりの彼らは二人の獲物を見て喜びの声を上げるが、仲間三人が倒れている姿を
見ると驚きの声を漏らし、警戒の姿勢を示す。
「どうなってんだ?」
状況を整理する間も盗賊は続々と姿を見せ、総勢三十人の屈強の男が、ぞろりと涼子の
前に並び立つ。彼女の木刀に警戒してではなく、彼らの頭目に気を使っての事だ。頭立っ
た者にはそれなりの台詞と号令をかける場が用意されねばならぬらしい。彼女と少年の周
囲に別に誰かいるのではないか、という警戒心もあったのだろうが、それは難なく解除さ
れた。
屈強の男達の中で、頭目なのか、更に頭一つ突き出した髭面の大男が現れて、
「おうおう、なかなか良い女じゃねえか…」
白髭が彼に威厳を与え、怒鳴れば雷鳴の様な大声を出しそうな、四十歳代後半と思える
その彼だけは、まだ剣を抜いてない。それぞれに鋭い目つきで、さっきの木刀連中とは相
手が違う。苦もなく人を切り殺せる連中だ。
「ここに倒れているのは、お前の仲間か?」
涼子から道を尋ねる口調で話しかけた事に、相手は少し意外そうに目を瞬かせた。これ
だけの人数で威圧しているのだ。普通は怯えて声も出ぬし、勇気ある者でも盗賊の団体様
ご一行を目前にすれば、平常ではいられまいに。
「……の、様だね」
頭目は他人事の様な声で応じた。驚きを顔にも声にも出さぬ。こちらもただ者ではない。
「ここに来た時から、倒れていたのかね?」
そう尋ねるのに、彼女は気楽そうな口調で、「私が片づけた」
この世界一の美女(?)に金貨五十枚などという安値をつけたから、まあ軽い躾けかな。
駆け引き無用が彼女らしい。盗賊の長は瞬時目を点にして、それから大声で笑いだした。
「ハアッハッハッハッハッ……!」
これは良い。金貨五十枚か。大声で哄笑し、「お前さん一人でこの三人を片づけたのか
ね。うん、中々やるね。そっちのガキも役に立ちそうにないし、まあそんな事もあるだろ
うさ。
俺だったらお前さん程の腕前の剣士、金貨二百枚は出すね。その綺麗な顔つきにしろ体
付きの華奢さにしろ、信じられんが、世の中には結構そう言う事はある物だ」
私は、剣士ではないのだが。良く、彼女はそう間違われる。危機を危機とも感じないで、
魔道の力を使わず剣技や体術でその場を凌いでしまうのが、大きな原因なのだが。
「力は正義、力は富み、これが俺のやり方だ。強者は弱者に、何でもできる。だからお前
さんが俺の部下を倒しても、何にも悪くはない。強者は己の望み通りに出来るんだ。強け
れば、力さえあれば、何でも、何でも、何でもだ」
その上、女でそれだけ美しければ何も言う事はない。手放せないな。
「金貨二百枚……たった二百枚とは!」
私も見くびられたものだ。深い溜息と共に、
「お前たち、とことん見る目がないな。私が欲しかったら、中原の大国の金蔵でも破って
金貨百万枚でも持って来い。安く見おって。
そんな辺境をうろつく様な山賊風情に買い叩かれる程私は困ってない。帰った帰った」
彼女は左の手のひらで『しっしっ』をする。
「それがあんたの考えかね。だがな、商売ってのは、買い手があって初めて成り立つ物だ。
あんたにその気がなかったら、その気にさせてやるって言うのが、俺たちの流儀だ」
お前さんには同じ金でも、金貨よりこの鋼の方が合いそうだ。そう言って盗賊の頭目は
背負っていた太い刀を引き抜いて、
「その木刀で俺たちの相手ができると、本気で思っているのかい。痛い目に遭いたくなか
ったら、やめといた方が良いぜ」
「そうだそうだ、たっぷり良い目を見せてやるからよ。俺達はあっちの方も達人なんだ」
横から別のやじも入る。焦れてきたらしい。
「さっさとやっちまおうぜ、大将」
「たまんねえなあ、良い女だぜ」
「あっちのガキも嬲り殺してえ面してるぜ」
髭の大将は刀を構えて涼子を威嚇しながら、
「一人でこれだけの数を相手にはできねえぞ。痛い目に遭ってからでも、される事は同じ
なんだ、大人しく従えよ」
後ろにいる友一郎はそう言ったやり取りに『つき合ってやる』涼子に、肩を竦めて見せ
るのみ。恐れも緊張も怒りもない。今の彼でもこの程度、十分相手できる。彼女は平然と、
「私は若くて強くて男前で、そして背の高い男しか相手にしない主義だ。お前の様な出来
損ないは、間違ってもベッドに呼びはせぬ」
彼の師匠は相変らず、自分の好みでしか行動しない。それが良いのか悪いのか。
やれ、首領の声と同時に待ちかねていた手下達が涼子目がけ、船をひと呑みにする大波
になって襲いかかる。手下達の間では一番槍が褒賞を得られるという不文律があるらしい。
友一郎の戦い方に、それはとても似ていた。彼女の動きや技が似通ってくるのは当り前
か。少年は、彼女に技を習っているのだ。だがそれは未熟な少年の物より更に洗練されて
いた。
何の構えも見せぬ侭、押し寄せる盗賊達の正面に一歩足を踏み出して、涼子は右手に持
つ木刀を軽く上に振りかぶった。
あんな緩慢な動作では殺到する連中の一人を打ち倒す間もなく押し倒される。そう思え
た刹那、右手が木刀ごと消えた。消えた瞬間、正面に迫った一人が動きを止め、その後倒
れ。
木刀で肩を痛撃されたらしいが、その動きは彼らには見えなかった様だ。
『早い……!』
最初の男が倒れる前に、次の男が既に動きを止めていた。後右斜めにいたその男がどう
いう角度から彼女の木刀を食らったのかは、少年にしか分らなかったらしい。
二人、三人。彼女は軸足を動かさぬ侭、半径二メートル周囲に、迫り来る盗賊を次々と
『見えない攻撃』で打ち倒していく。それは、振りかぶるスローさに比べ余りに早い振り
下ろしが、彼らの予測を越えて幻惑させているのだが、そう理解できた者は何人いただろ
う。
無論盗賊達とて、つわものである。技量は並ではない。しかも人殺しに慣れた彼らには
度胸もあり、中々しぶとい筈だ。なのに、
『双方の技量に、余りに険隔があり過ぎる』
さっきの木刀連中よりも厄介な相手なのに、彼の師匠には泥人形と変らぬのか。彼女は
息切れした様子も見せず、瞬く双眸は愉しげで。
「やろう、峰打ちは止めだ」
「本気で切りかかれ。でないと勝てねえぞ」
飛びかかって組み敷く事を考えていた盗賊が七人の犠牲を出して、漸くその技量を認識
し始めた頃、今度は涼子が攻勢に打って出た。
『動きはそれ程早くない。しかし巧みだ』
早くしないのは、早くする必要がない故だ。この技量と力を持って尚、足が遅い筈がな
い。早く動かずとも充分間に合う動きをしているのだ。それもとんでもない読みの産物だ
ろう。
相手が剣を振りかぶって、振り下ろす前に木刀で突く。または相手が剣を振りきった後
の空間に入って叩く。突いてくる剣先を僅かにかわして前に突っ込み、急所に突き立てる。
さっき少年の見せた動きよりやや遅めだが、相手の虚をついた動き、意表を突く攻勢で
彼女はそれ以上の成果を上げていく。盗賊達が彼女の技量を真剣に認識し、危機感を感じ
始める迄に、更に六人が地に這う派目になった。
「このアマ……!」
漸く彼らも怒りの叫びを上げ始めた。その巧みな動きに警戒を隠さず周囲を囲む彼らに、
「もう少し、相手になる奴はいないのか」
物足りなさそうに涼子は言う。
「戦士は避け、商人や旅人を襲うしか能のない盗賊の剣では、この程度が関の山か」
周囲を囲んで威圧を試みる彼らに、涼子は尚警戒の様子も見せず、木刀も構えずに右手
にぶらりと下げた侭だ。不敵で涼しげなその面構えには気合いも意欲もなく、笑みがある。
その彼女の足首に、倒れていた筈の盗賊の一人の手が伸びて、掴みかかった。
「やった……!」
幾ら強くても相手は女だ、動きさえ封じれば力のない細腕、押し倒して後は好き放題だ。
が、その喜びは一瞬で驚きの叫びに変じる。涼子は、前触れもなく足下に忍び寄ったそ
の手を、前触れもなく躱して、踏みつけたのだ。
ゴキ! 骨の折れる音と共に男は気を失った。彼女に不意打ちという戦法は効かぬ様だ。
「後ろに回っても同時に来ても人質をとっても構わないぞ。卑怯な戦法というのは、私も
知り尽くしているからな」
ぬ……! 盗賊達は互いの顔を見合わせた。正面からも搦め手からも倒すに厄介な相手
だと踏んで、襲撃を考え直している様だ。だが、
「何をしている。女一人、さっさとやれっ」
首領の一喝が入ると、戦闘を続ける他に術がない。個人プレーでは勝てぬと感じた何人
かは連係し、前後左右から一斉攻撃を目論む。友一郎なら連係のリズムを崩して対処する
が、彼女は完成した一斉攻撃を撃退にかかるのだ。
前後左右から迫る六本の攻撃の刃を一瞬で全てはね飛ばし、その上彼らの急所に一撃ず
つ攻撃を食らわせる。その、人間業を越えた早さには、少年の目もついて行けなかった。
『風が、走った……!』
「私の剣を見せてやろうと思ったが、何も見てなかろう、まだ、何も見せてないからな」
涼子が物足りなさそうに言うのも、無理はないか。もう立っている盗賊の数は、白髭の
首領も含めて五人だけ。相手に、なってない。
この程度の連中を相手に、私の剣技を見せようとしたのが失敗だったか。
「金貨二百枚は安過ぎよう。大人しく諦めろ。
お前達は見逃してやる。女は怖いのだぞ」
彼らに後ろを見せ、涼子は少年に歩み寄る。
「く、くく、く……」
首領の悔しさに震える瞳が、突如ギラリと輝いた。その手が音もなく刀を持ち直す。
『後ろから来ても良いといったのは、お前だ。殺してやる、食らえ……!』
常人を越えた跳躍力で、白髭の身体は音もなく宙を舞い、彼女の背後から殺気を見せぬ
首領の刃が振り下ろされる。その一瞬の動作に少年の、警告の叫びも追いつかぬ。
決まった! と思えた瞬間……。
ブン……。風が走った。木刀だけではない、和服姿の全身が振り向いていた。とんでも
ない疾さだ。涼子は振り向きざまに薙ぎ払った木刀は振り下ろされる鉄の蛮刀を叩き折っ
た。
少年の叫びも首領の叫びも、共に声にならなかった。次の声は白髭の首領の、間髪置か
ず顔面に振り下ろされた木刀の衝撃から来る、
「むうん……」
と云う唸り声で。首領は二、三歩ふらふら後退し、よろめき後ろに倒れ込む。それで終り。
「ぼ、木刀で剣を……」
「た、叩き折った……」
ま、魔女だああ! 残りの4人は首領も仲間も捨て、封宮の建物に一目散に逃げ込んだ。
「盗賊なんて頭目を倒されればあんな物だ」
涼子は、木刀を和服の袖から『どこかに』しまいこんで、そういって少年に、
「余り見せられなかったな。相手に手応えがなさ過ぎた。こんな積りでなかったのだが」
盗賊の癖に情けない。彼女はそう言って、
「最近の盗賊はひ弱過ぎるのか。大体私は剣士ではないのだ(少しムキになってる)」
その内また気が向いたら、見せてやる。
彼女は不満な様子だったが、少年には十分参考になった。彼が涼子に直接剣の稽古をつ
けて貰うには、本当に四十年早いかも知れぬ。
「良く木刀で鉄の剣が折れますね」
念動力か何かの『力』を込めたんですか。
少年のその問いに彼女は微笑んで、
「盗賊相手に一々使っていては、力の浪費だ。木刀で剣を叩き折った事が、何か不思議
か」
普通、鉄の剣では木刀を折れますが、その逆はないんじゃないですか。問う前にそう顔
に出す少年に彼女はフフッと笑って、
「鉄の刀がどの方向に向けても強靭だというのは、迷信に近い。真横から衝撃を叩きつけ
れば、木刀でも折る事は不可能ではない」
鉄より木が弱いという先入観のある者には、魔術でも使ったのかと見えるか。
「その気になれば、素手で剣を叩き折る事位、出来ないでもないのだぞ」
素手でもね。見比べた涼子の手は、未完成でまだ細く滑らかな彼の手に比べても尚細く、
苦労を知らぬ美しい女の手で、そんな事は出来そうに見えぬ。見えぬのにやらせると不可
能がないのが、彼女の彼女たり得る所なのか。
少年は、倒れてのびている盗賊を指さして、
「こいつら、どうします?」
封宮の中にいる以上、放っておくとまた対戦する事になり兼ねない。今は打ち倒したが、
人数は相手の方が多いし、不意を突かれたら面倒になる怖れもある。なのに師匠の判断は、
「放っておけ」
であった。彼が危険を言おうとするのに、
「気にするな。どうせ彼らが何時何処で、どんな風に不意を突いても、私には触れる事と
てできはせぬ。お前が十人いても同じ事だ」
木刀集団と同じ扱い。後は彼らの運と技量に委ねると言う。そこに己の心配は全くない。
「ああ、何処かに私を守ってくれそうな、私が恋してしまいそうな良い男はいない物か」
『僕じゃだめですか』
一度そう言ってみた友一郎に、彼女の答は、
『一つ、私より背が高くないと格好がつかぬ。抱き合った時に私の方が背の高いと、空し
い。
二つ、私より強くないと、私が困った時に守ってもらえない。
三つ、私は若い色男が好みだが子供を相手にする気はない。私は大人の色男が好みなの
だ。作りが綺麗なら何でも良い訳ではない』
暫くは、彼女に言わせて置く他に術はない。
建物内部は何の部屋割りもない唯の空間で、様々な幾何学模様が描かれる他は、丸天井
から床迄家具も道具も何一つない。ただ中央に、地下に行く階段の入口らしき四角い穴が
ある。
「こんな地下深く迄、構造が途切れない…」
という少年以上に、涼子は無言の侭で驚きを顔に表していた。石造りの壁に記された文字
を見つめる彼女の目は、親しみすら感じさせ、
「この文様を知る者は、それ程多くない筈」
「では……」
「奥に行く値はある。封印の例外規定もあろう。私と同じ流儀なら、それもあり得る話」
師匠はそう言って、少年に先を急がせる。
「この辺りはまだ封印の外周部だ、トラップの心配はしなくても良い」
それに大抵のトラップでは私を捉えられぬ。この流儀なら尚の事。涼子はにやりと笑っ
て、
「何が封じられているのかも知りたい物だ」
この人の好奇心は揉め事の元だ。
地下回廊は灯はないが、青く発光する石が使われていて見通しも利く。分岐もないので
迷う心配もない。涼子の和服と友一郎の白背広は暗い場では淡く輝いて幻想的だ。
「毒食わば皿まで、とことんつき合います」
「その精神が肝心だ。美女の為なら火の中水の中、地獄の底から宇宙の果てまでつき合う。
そうでなくては世界一の美女を守れはせぬ」
師匠が自分の世界に浸りつつ歩む間、弟子はそれに干渉せずに歩みを進める。その彼が、
「……これは?」
気付いたのは足元に転がっている人の屍だ。
『トラップの犠牲、とすればここも危ない』
「では、ない様だ」
涼子が少年の反応を推察してそう言うのに、
「結構、古い死体です……肉も腐って、殆ど原形をとどめてない」
三年以上経過しているか。涼子が屈み込み、
「生前は商人か。旅の途中で紛れ込んだ様だ。出る事も叶わず糧も尽き、飢死したのだ
な」
水はあるから、相当長生きはしたろうが。
「我々も出られなければいつかこの様に?」
「何万年後になるかは分らぬが、いつかは」
彼女は魔道士霊能師妖術師、飢えれば餓えたで何とでも生き残れる方法を見つけ出せる。
「あ、こっちにもありました。これも古い」
相当歳月を経て白骨化した死骸も多くあり、封宮は数百年、数千年を経ているかも知れ
ぬ。
「一般に封宮の時の流れは、外界と異なる」
地上と地下でもそれが異なる可能性もある。
石造りの回廊は一辺五メートル程の正方形にくり貫いた形でずっと一本道に伸びている。
数百メートル歩いた所で廊下が行き止まりになると階段があって一層下に降りる、その
繰り返しを二人も既に、二度繰り返していた。
「宝探し感覚で、入ってきた者もいた様だな。共通するのは、見つけた時は複数だった事
か。独り身に、この封宮は見つけだせぬらしい」
涼子の呟きに、少年は改めて自分達が複数人な事を再認識した。一人では見つけだせぬ、
巡り会えぬ構造。彼らはやはり招かれた客だったと言う事か。少年は、怪異は逆に孤立無
援な者に寄りつく傾向が多いと感じていたが、
「共同し支え合う関係を持つ複数でなければ、封宮は微かな反応も見せぬ。集団からはぐ
れた者や独り者を取り込むのが、一般なのだが。封印の脅威は強大な力を持つ一人より、
力はなくても連携の取れた複数人と。卓見だな」
涼子の感性に触れる物がある。という事は、この封宮の作り主は涼子に似た人物となる
か。
通路沿いに幾つか部屋があったが、死体が散見される程度で、床には象形文字や図形が
並んでいたが、重要ではなさそうだ。部屋で息絶えた者より通路で絶命した者がやや多い。
「こっちのは結構新しい」
涼子が見つけ出した死体は、最初から数えておよそ二十体目だろうか。奇妙なのは体の
一部が切断され、肉がはぎ取られている事だ。体中がそうして肉をはぎ取られ骨が見える
状態になっていて、誰かに殺された様な感じだ。
「これって、さっきの山賊の犠牲者……」
「或いは仲間か。食料の持ち合わせのない彼らは、他の迷い人を殺し食料を取り上げ…」
『ここを出られなきゃ意味はねえ。嬲り殺して楽しんで、食料にする位しかねえだろう』
「まさか奴ら、人の身体迄、人肉迄を……」
「らしいな。さっきの折に彼らの食料袋を、くすねて来たのだが」
彼女が一体いつスリ取ったのか分らない茶色い袋を取り出して、それを開けて見せると、
「げっ、人間の指。それに手首も……」
「分子を組み替えれば生臭さは消えるが?」
「僕は、遠慮します!」
少年は涼子の持つその袋から顔をそむける。
「参ったな。毒味役がいなくては、私も食する訳にも行かなかろう……」
師匠あなた、僕を毒味役に……。
「早く行きましょう。早く外へ出たいです」
「そうだな。それが一番手っ取り早いか」
彼女は再び少年を先頭に立てて先へ進むが、「師匠、ちょっと聞いていいですか?」
何だ。短い応えに少年は、
「師匠が僕に預けて持たせたあの食料、普通の食料ですよね。間違っても……」
さあな。師匠はにやりと笑ってそう答えたのみだった。この時の意地悪そうな瞳の輝き。
更に進み、旅人の死体も少なくなった頃…。
「……?」
これは。少年は不思議な物を見たといった感じでその死体の前で立ち止まった。彼らの
発見した死体はもう四十体を越えている。
『これは、さっき逃げ出した盗賊の死体だ』
一体、二体、三体。剣を取らせてはつわもの揃いの盗賊が、叫び声を彼らに聞かせる暇
もなく三人共殺されている。どういう事だ?
「まだ暖かい、ついさっき迄生きていた…」
毒だな。涼子は死人となった彼らの顔つきを見、ついと首を持ち上げる。首筋に小さな
咬み傷が見えた。少年の指より小さな咬み傷。
「小さな毒蛇……魔道士の良く使う手口だ」
近くに、暗殺を生業とする魔道士がいる。
涼子は少年に警戒を促し静かに進み始めた。魔道の行使は可能だが、周囲の石材はそれ
らを弾く物らしい。遠隔に潜む気配が察知でき、遠隔に力を及ぼせる彼らだが、この中で
は壁がそれを妨げる様だ。先に立つ少年も姿を見せぬ相手の存在を警戒して自然、鋭敏に
なる。
だが、これは彼ら以外の魔道使いにも同じ条件で作用する。気配を抑え進む彼らを察知
する事は極度に難しくなっていたのだ。一本道を二度曲がると、残る盗賊一人を追いつめ
た誰かの老いた、不気味な笑いが響いてくる。
「キヘ、キヘ、ケヘケヘヘヘヘ……」
品の悪い笑いを響かせつつ、その男は黒マントに包まれたその老いた身体を屈み込ませ、
「若いの、そう恐れる事はない。死んでもすぐには魂は消えぬ。ただ苦しいだけで、唯自
由が利かぬだけで、唯儂の思いの侭になるだけで。すぐに消えては困ろうて、折角見つけ
た生贄を、そう易々と失ってなるものか…」
他の奴らもそうよ。肉体的に死んでおるが、魂は彷徨う様に処置してある。死んでも簡
単に苦しみは終わらせぬ。精々泣き叫ぶが良い。儂の、儂の魔道の苗床になって貰うのじ
ゃ…。
その声に、その老いて尚邪悪な生気を失わぬその強い眼光に、友一郎は見覚えがあった。
「まさか、あいつ、ザンビーノ」
少年の驚きの気配を感じて相手も振り返る。
「な、お、お前はアサヒ、ユウイチロウ…」
相手にも少年に見覚えがあったらしい。
「何だ、知り合いか……」
涼子が横からのんびりと声をかける間にも、両者は旧交を温めるどころではない警戒心
剥き出しの戦闘体制で互いに身構え、力を込め、
「よもやこの様な所で逢おうとはな、小僧」
「ここで会ったが百年目と云う奴か、正に」
少年は美しい容貌に苦笑いを浮べ、老魔道士は顔まで包まれる黒マントで表情は読めぬ。
「……余り歓迎できた関係でないらしいな」
空気を察知したらしい師匠の感想に少年は、
「僕がここに落ちる原因を作った奴です!」
「ふん! 死んだと思っておったが、生きておったか。思ったよりもしぶとい奴め……」
二人の緊迫した雰囲気にも動じず、平然とした姿勢を変えない涼子に少年は、
「こいつの悪あがきで、僕は次元の狭間に引きずり込まれ、この世界に落ちてきたんだ」
「何を云うか、貴様が亜空間に作った儂の城を二人がかりで打ち壊して、空間の歪みに儂
を落したのではないか!」
わしの数百年来の企みを、阻止しおって!
「どうやら、相当な因縁があるらしいが」
ここで戦う必要があるのか。その問いに、
「僕は、奴に屈辱を味わわせています。こっちが黙ってても向うが黙ってないでしょう」
「そういう事じゃ。この恨み、どうやって晴らしてくれようかと思っていたが、丁度良い。
あの片割れはいない様だが、それも好都合。お前だけでも2人分責め苛んでくれる
わ!」
少年は答えず、無言の侭で戦いに入った。
友一郎の方から打って出る、これは珍しい。常日頃相手の来るに任せ、撃退すると云う
余裕を見せ続けてきた少年が、自ら打って出た。
『受けに回っていればやられる様な相手か』
涼子は手を出す訳でもなく止める訳でもなく、成り行きを眺める姿勢だ。瀕死の盗賊を
彼女が助ける義理はない。何より面白そうだ。
先に攻勢をとった友一郎の右ストレートが、彼に応じて飛び上った老魔道士の黒マント
に『力』による衝撃波と共に面として叩き付けられ、老体は後ろに向かって吹き飛ばされ
る。彼は老人の防御ごと粉砕する気だった様だが、
『受け流されている……。打撃は少ない』
それを追って、更に足を踏み出す少年の首筋を目がけ、乾いた黒い手が何かを投げつけ
るが、少年の右手は稲妻の速さで払いのけた。
「馬鹿にするな。こんな子供だまし」
その右手には輪ゴム程の蛇が捕まれている。さっきの盗賊を殺した毒蛇がこれか。少年
はそれを壁に叩き付け、
「僕は以前の僕ではない。そう思っているなら、後悔するぞ」
「ふ、ふふ。その程度で、いい気になるな」
若造に遅れを取る程、儂は老いておらぬわ。
互いに言葉を叩き付け、精神的に優位に立とうとする。だが状況は、涼子の見立てでも
やはり、老魔道士の方が有利に映ったらしい。
『じっとしていてはやられるぞ、友一郎…』
その呟きを聞いた訳ではないが、少年は攻勢に出ねば、この老人に勝てぬと分っている
様で、全身に『力』を込めて更に攻勢に出る。
『前に戦った時は、兄弟子と二人がかりで尚劣勢で、一瞬の勝機しか見いだせなかった』
少年は間隔を置いては何をされるか分らぬと間合を詰めた戦いに出る。彼の力の大半を
結集した一撃は、老人の強大な防御とぶつかって干渉し合い、紫色の放電が薄暮を照らす。
「くっ……」「うおっ!」
二人は互いの力に弾き飛ばされ、後退し体勢を立て直す。作用の途中でも、相手が何を
更に仕掛けてくるか分らない。それは市中の魔道士が見ればとんでもない魔道大戦だった
ろう。少年の力量も十分飛び抜けているのだ。
「おのれ若造が。念動力の大きなあの兄弟子を欠いた貴様に、万に一つでも勝ち目のある
訳がない。貴様も目を抉って体中を切り刻み、肉体を滅ぼして五感の全てを奪い、その意
識を果てしなく苦しめる極刑に処してくれる」
「たわごとは、地獄に落ちて鬼にでも云え」
友一郎は接近戦を望み、老魔道士の懐深く飛び込んで、力の衝撃波を拳と共に乱打する。
老人は防御の力を自身の前面に膜状に造って、少年をその乱打する衝撃波ごと弾き飛ばし
た。
「くっ……! まだ弱いか」
空中で態勢を立て直して着地する少年の右肩から、白い背広を染める赤い糸が見えて…。
「終わったの。その傷口から毒を注入した。間もなく体が云う事を聞かなくなる筈じゃ」
老人が勝ち誇った哄笑を響かせるのに、少年も美男に相応しい皮肉っぽい笑いで応じて、
「そうかな……」
ピシッ。小さな音がして、その傷口から血が吹き出した。老人が、目を見張るのが分る。
『友一郎め、毒が体内に回る前に自分の血管から念動力で毒ごと血液を絞り出したか…』
完全ではないが、口で吸い出すよりも遥かに効率がいい。傷口は少し開くが、軽傷だ。
「ついでに自分の右肩も注意したらどうだ」
言われて老人が顔を青くした。まさか奴も彼と同じ事をしてくるとは。互いに仕掛ける
事に夢中で、防備に手が回らなかったらしい。
おのれ小僧が。彼はそういいつつ念動力で同じ様に毒を吸い出す。気付くのが遅れたが
年の功か、彼は毛細血管の一本一本から血液を毒と分離して取り出す事ができ、その上老
いた身体は血の巡りが悪い。ほとんど五分だ。
ちっ! 少年が舌打ちを見せるのも珍しい。
『こ奴、やりおる……』
老人は自分の方が尚力量が上だと知りつつ、少年の力の伸張に目を見張っている。前と
は違う急成長。劣勢とは言え一人でまともに戦えるのだ。それを現さぬのは流石に年の功
か。
「精霊を使えるなら、儂の勝ちは確実だが」
確かにその領域では、老獪な魔道士の方が習熟してない少年より有利な事は、明らかだ。
しかしここは封宮だ。外から呼び出す事は出来ぬ。内部の力の欠片など、高が知れた物だ。
この中では呼び出す手間と労力に見合わない。
「闇の使徒、このザンビーノの炎を食らえ」
老人は、その手から女の腕程の太さの炎のドリルを撃ち出して少年の顔面を狙うが、彼
はそれを、円運動に唐突な直線運動を絡めたフェイントで巧みに躱し、尚反撃の機を窺う。
顔面を狙うのは視覚を熱や光で塞いでその判断を狂わせようとの意図だが、それも不発か。
「ふん、どこ迄わしの炎をかわせるかな…」
老人は炎の渦を乱打する。友一郎は、
「闇の使徒だと、この嘘つき魔道士め」
少年が踊る様な動きの中から放つ見えない衝撃波の反撃をしかし、老魔道士は左手で弾
き飛ばす。苦し紛れの反撃は通用しない様だ。
『ほう、この二人、闇の使徒の事を……』
老魔道士の方が力も技も戦い運びも有利だが、少年もしぶとく敗北を先に伸ばし伸ばし、
勝機を窺う事を止めぬ。少年には若さがあり、少々の長期戦も苦にならぬので消耗戦にな
る。
『この侭やっても、力も技も持続力でも尚儂の方が上だろうが……』
老人はそこで、少年と共にきた不思議な女の事を考慮せぬ訳に行かない。あの超然とし
た風体、彼女も魔道士か。連れ立ってる以上、仲間と見て良かろう。今は黙って見ている
が、介入されない迄も小僧を始末するのに力を消耗した後につけこまれては、堪った物で
ない。
「一気に始末をつけてくれるわ。食らえ!」
大技を打ち出そうとした老人に少年は正面から突っ込む。相手が放つより一瞬早く懐に
飛び込んで、相手の攻撃前に己の念動力を渾身の衝撃波にして叩き付ける。
『念動力のカウンター攻撃か。だが惜しい』
涼子の呟き。少年の動作が少し早く、大きかった様だ。故に相手もその意図を察知して
少年の反撃を躱してしまい、双方不発の『幻のカウンター』になってしまった。
「ぐっ」「げお!」
二人は肌が擦れ合う程近付いたが、警戒心が昂じて双方弾き合って再び対峙する。双方
冷や汗をかきながら、息が荒い。
「しかし危なかった。あれを受ければさしものこの暗黒魔道士ザンビーノも、唯では…」
一瞬恐怖にひきつった顔を激怒に震わせて、
「貴様、一度ばかりか二度までもこのわしに恐怖を与えおって。許さん! 殺してやる」
老体の全身が怒りのオーラに包まれている。耐え難い憎しみ、抑え切れぬ怒り、飽く事
なき欲望と醜き嫉妬が、彼の邪悪を旨とする魔道の力を、更に増幅させていく。溜め込む
力がその侭防御に転用される為、少年も攻めに出られない。攻めではなく、どう回避し反
撃の隙を探るかという対応を、強いられている。消耗の故に、動きも鈍っていた。この対
峙もそう長くは続けられない。
逃がすか! 少年が出口に向って逃げの姿勢を見せたのを隙と見て、老人が力の一部を
衝撃波に変え、強大な一撃を叩き込む。だが、
「なに……、馬鹿な!」
逃げきれぬと思いきや、それは少年の誘いだった。彼は再度のカウンターを仕掛ける機
を待っていた、勝負を捨てていなかったのだ。
今度は正面から、自爆覚悟でぶつかる。
その急変に、その余りにも正面からの急進に、老魔道士も近過ぎてよける事ができない。
急遽、防御の力を全力で前面に結集する。この状況を主導しそこに全てを注ぎ込んだ友一
郎と、奇襲を受けたが尚強大な力を有し迎撃に余る程の力を注ぎ込むザンビーノの激突だ。
『貫いてくれっ!』『打ち砕いてくれる!』
ミサイル同士の激突に匹敵する衝突になる。互いに唯では済まぬ、下手をすると封宮の
力のバランスを壊しかねぬ程の物が、ぶつかる。
涼子が動いたのは、まさにその時だった。
強烈な力の激突寸前の乱流に、ふらりと吸い込まれる様に接近した彼女は、瞬時に右手
で友一郎の身体を衝撃波ごと横に突き飛ばしてずらせ、左掌打で老魔道士の渾身の衝撃波
を弾くと同時に、その身体を壁に叩き付けて。
互いの力は魔道を通さぬ筈の石材を大きく穿つが、それだけに終る。両者が正面衝突す
ればそれは掛け算で、どんな事態を招いたか。それを未然に防ぎ止めた。凄まじい力の放
散はあったが、激突を回避した事が正に神業だ。
ててっ。少年も相当の衝撃で起き上がれぬ。そして老人の方は、涼子に顔を捕まれた侭
壁に押しつけられて身動きも叶わぬ。
「な、何を……」
突然介入した彼女を非難せんとする老人に、彼女は壁に押し付けた老人の顔に圧を加え
て、
「二人して危なっかしい技を使いおって。
あんな爆発を地下で起して、私に何かあったらどうする。それにお前、さっき見境なく
炎を放って、私にも火を向けたろう」
不意をついて一緒に始末できるものならと考えたのは事実だが、見抜かれていたらしい。
「世界一の美女を焼こうとした罰だ」
うぎょっ。老人は奇妙な叫び声を上げた。
魔道の道に踏み込んで数百年の老魔道士が、情けない声を上げている。彼女はその右手
で相手の手首をつかんでいるに過ぎないのに…。
『生気を、吸い取りおった……』
精神的・物理的な力を吸い取られる。イメージは吸血鬼に襲われるのに近いか。極端に
なると死を招く事もある。練達の老魔道士に、触れただけでその力を吸い上げる等あり得
ぬ。魔道士にこそ、最も魔道は及び難い筈なのに。
力を失ってがくりと膝をつく老人に、
「この位で死ぬ様なやわな体でもあるまい」
格が違う。老人はそう感じ取った。さっきの一瞬のあの動きにせよ、二人の渾身の衝撃
波を軽々弾き飛ばしたあの力にせよ、化物だ。
「ひ、ひいいいい!」
恨むとか復讐とか、屈辱とかは後で考える。とにかく今は、この女の前から逃げ出した
い。
『なぜ世にこんな化物がいる。儂は数百年も力を蓄えてきた大魔道士だぞ。それなのに』
彼が逆の手で毒蛇を投げつけるのと、察知した涼子が彼の手を離すのはほぼ同時だった。
時間稼ぎになれと彼は何匹もの毒蛇を彼女に投げつけて、成否を見ずに一目散に逃げる。
成功しないと見切る辺りが年の功か。案の定、涼子はその半瞬に自分の周囲に炎を燃え立
たせて、毒蛇を全て残さず燃やし尽くしている。
「師匠。今の火は、魔道による炎ですか…」
彼女が力の発動を念じた様子もなかった事に少し不思議そうに弟子は起き上がって問う。
今のか。もう、その火は消えかかっている。
「今のは魔道ではない。可燃性の気体を出し、火打ち石で火をつけただけの炎だ」
そういって彼女は右手に持った小さな薬瓶と左手に持った火打ち石を見せる。
「魔道や妖術霊能で解決できるからと、それに頼りきるのは考え物だ。トリックや科学で
対応できる物は多い。魔道の力は少量でも精神力だ、浪費は避けるべき」
驚いた様子の少年に師匠は微笑んで、
「魔道とて万能ではない。科学が万能でない様に。時には、そのどちらでもない単なるト
リックが成功を収める事もある。勝てば良い、生き残れば良い。ネタが割れればインチキ
と言う者、卑怯と言う者はいるが、構わぬ」
ところで、奴の逃げた方向を見ていたか?
少年が奥を指さすと、彼女は瞳を輝かせて、
「やはり……。追うぞ、友一郎」
奴は封宮の構造を知っている。先行した魔道士だ、既に中枢の位置も抑えているだろう。
奴を、泳がせたのか。しかし、
「危険です。奴は、嫉妬深く自分に少しでも屈辱や挫折・恐怖を与えた物を絶対許さない。
どんな卑怯な手を使っても復讐する男です」
絵に描いた様な悪人像だが、実際にそんな奴がいるのかという人物描写だが。
それは面倒だな。師匠の声には実感がない。彼女には奴などさっきの盗賊と変らないの
か。
少しは警戒した方が……。そういいかける少年に、彼女は不敵に微笑んで、
「お前が私の心配をするのは、五十年早い」
そうかも知れない。少年は、そう思うのでそれ以上は言わなかった。
『僕の全力の一撃を右手で弾き飛ばした。
しかも同時にあのザンビーノの渾身の一撃も弾き飛ばし、それで尚消耗した様子もない。
奴の力は正直僕より尚大きいが、それでも尚師匠の前では赤子扱い。本当に、化物か』
少年も、彼女の底知れなさに震えを感じた。どこ迄大きいか見当もつかぬ。大きな目盛
りを持ってくれば来る度、それでは図れぬ程大きいと知らされ。その戦い方も強い上に巧
い。
二人は盗賊の死を確認し、看取って後回廊を更に奥へ進む。命を救うには少し遅かった。
「ザンビーノを、どうする積りですか?」
少年の問いは半分の期待を込めた物だった。
師匠が始末してくれるなら、言う事はない。しかしそう巧く行かない事も、承知してい
る。
「私は奴に関りはない。向うが何かしてくるなら対応するが、そうでないなら後はお前と
の問題だ。好きにしろ」
そう来ると思った。自分の事は自分でしろ、師匠の事は弟子任せ、それが彼女の人生哲
学。
「今奴を追っているのは、封宮の中枢部を手っ取り早く探り出す為だ。倒す為ではない」
足を速めつつ、彼らは回廊を下の階に進む。一本道は依然変りなく、その上トラップが
何一つない。部屋はこの辺迄来ると死体もなくて空室で、積る埃から長い静謐を読み取れ
る。
「闇の使徒伝説を、お前が知っていたとは」
師匠が話しかけたのは地下十五階でだった。老魔道士は追跡に気づいたのか、逃げる速
度を速めた様だが所詮一本道、引き離されてもじきに追いつく。この辺りも制作者の意図
か。
「幾つもの世界に跨がって、語り伝えられる太古の伝説。大魔王ルシファーの再臨を促し、
その志を果たす為に現れるという、闇の使徒。
彼らの人数も、その形態も、詳しく分らぬ。天界神界の報道管制と魔界の厳重な秘密保
持で存在すら隠されるその伝説を、数百年も生きた老魔道士はともかく、お前が知ると
は」
「ある筋からの情報です。前の世界で老師が教えてくれる以前から、知ってました」
老師は、元の世界にいた時に力の使い方や、制御の仕方、鍛え方を指導してくれた仙人
で、チベット山中に居ます。
力の発現にどう扱って良いか困惑し、噂を頼りに登山し入門してから一年経った。ザン
ビーノが膨大な魔力を結集し、我々の世界の外に隣接させて亜空間を作り上げ、闇の使徒
伝説を自ら実行しようとしたのが事の発端だ。
「そんな無茶な事をしたのか、奴は」
確かに人は一つの宇宙と言われる力を内在させているが、全て使いこなせる訳ではない。
制御できぬ力を暴走させても無意味だ。その上ルシファーは他の魔王と異なり、力さえあ
れば呼び出せる訳ではない。
「師匠も御存じですか。彼の秘密を」
彼というその語調に、嫌悪がないのを涼子は的確に読み取っていた。友一郎が老師と呼
ぶ人物はそれを阻止する為に彼らを赴かせた、魔族と対置する立場にいる筈なのに。
「彼を単に力で呼び出しても、その力を一時的に地上に呼び出せるだけで、口から吹いた
風を招くに過ぎぬ。彼は依然深き眠りにあり、彼の真意はなお達せられず」
過去に何度かその類の失敗例があると聞く。
「己の力を増幅に増幅を繰り返し、自身に都合良い物理法則を持つ亜空間を一つ作り上げ、
その中で全てをなす。自分の力は外から我々の世界への結びつきを保つ為に極小しか残ら
なくても、自分の世界での彼の力は無限大」
その中で、彼はかつてどの術士も得られなかった膨大な力で大魔王を呼び出そうとした。
『今迄の失敗は力不足の故だ、今度は力は無限大だ、絶対に成功する。その為に儂は、数
百年を棒に振った。この世を支配する為に』
「……それで、お前とその兄弟子との2人で、奴を始末に行ったのか。その仙人の命令
で」
どうせこれも修業とでも言われたのだろう。頭立った物はそう言えば何でも人任せにす
る事ができるから、気が楽だな。自分の事は棚に上げて涼子が皮肉っぽくそう言うのに彼
は、
「老師も兄弟子も、悪を憎んでいましたから。邪な野望が人の世界を包む事を許せないと
の、純粋な気持ちです。でも、僕は違った……」
少年の心が微かな迷いで曇る。話すべきか。
「師匠になら、話してもいいと思うので話します。都合良い事にここは封宮だ。下手な天
使どもに心を見られる心配もないだろうし」
「……」
「僕は彼の心がない侭力だけ呼び出すのは反対だ。成功してもそれは彼の真意ではない」
闇の使徒の伝説は、こう伝えます。
『その時、彼の閉ざされた心は開かれ、凍てついた悲しみは溶け、封じられた意志は甦る。
力満ち、心迸り、万雷の歓声の中に闇の使徒立ちて、古に魔王と呼ばれ神に迫害さるる
者の頭、今天の雷を弾き返すその闇の使徒の前に、復活せん。神よ恐れよ、天よ震えよ。
大魔王を復活させし闇の使徒の前に、天よ震えよ、神よ恐れよ……』
「下されし行いは因果巡りてその者に還る」
少年は、大魔王の復活を望んでいる。その復活の仕方が正当ではないから、闇の使徒伝
説を実質打ち破る『偽の復活』だから、少年は老魔道士を嫌悪し、その挫折を望んだのだ。
結果、彼らの勝利でその計画は、崩された。詳細は省くが、亜空間は打ち砕かれ、不安
定な時空の谷間に老魔道士は落ちて消えて行き。
彼は、この封宮を発見したのではあるまい。落ちた所がここだったか、至近で誰かがこ
こを発見する場に居合わせたかの、どちらかだ。彼は単独行を好み、誰も信ぜず、誰も頼
らぬ。寄生し利用する事はあっても、山賊の様に共に戦う事さえしない。己の力の強大さ
を信じ、己以外の全てを侮り、結果遙かに弱小だったが連携した友一郎と兄弟子の挑戦に
敗北した。
彼にあるのは手駒や奴隷だ。共同し支え合う複数とは、一時の利害関係でも味方や仲間
だ。元々強大な故に他者に頼る必要のなかった老魔道士は、遂にその事を知り得なかった。
己の限界を知り、己の到達点を見据えた時、人は質的な発展の機会を迎える。それは正
にこの時だったのか。時空の歪みを弄び、結果その時空の歪みに呑み込まれた敗北と挫折
の。
そして最期に彼の悪あがきは、少年とその兄弟子、彼の計画を破った2人を、死なばも
ろともと時空の谷間に引きずり込もうとした。
「老師は救おうとしたが、位置の関係上お前だけ助からずこちらに落ちてしまった、か」
「老師が僕の真意を知っていたのかどうかは、分りません。ただ兄弟子は助かった様で
す」
友一郎は淡々と事実を述べた。
「僕は天界神界と魔界の争いに関係する重大な真実を幾つか知っています。極秘事項を僕
がなぜ知っているのかもお話しましょうか」
むしろ彼は、話して楽になりたかったのかも知れぬ。誰にも話せぬ秘密を一人抱えると
言う事は、それが重い物であればある程、心に負担となる物だ。特に心を読み読まれる事
が珍しくない魔道士の世界にいては、尚の事。
「いや、今は良い。……今はな」
だが、涼子は珍しくそこで少年の自由意思を遮った。どうやら、話している間にいよい
よ封宮の心臓部に到達した様だ。回廊の向うに階段ではなく大きな部屋への入口が見える。
ザンビーノも、そこで追いつめられる筈だ。どんな反撃があるか分らぬと少年は緊張気
味に歩みを進めるが、涼子はやはり緊張もない。
「どうも最近は男運が悪いな。友一郎は子供、たちの悪い木刀連中、醜男の盗賊、よぼよ
ぼの老魔道士、いい男にさっぱり会えぬ」
普段の行いは極上な筈なのだが……。
「まさかとは思うが、お前が近くにいる事で子持ちと思われてるのではなかろうな」
「まさか、姉弟に見えているでしょう」
友一郎も、そこ迄子供に見られたくはない。
その思いも込め美人の機嫌を取り持つ間に、
「ここか……」
トラップらしいトラップに一切出会えぬ侭、彼らは封宮の中枢に辿り着いた。これ迄と
同じ魔道の力を遮断する、蒼く発光する石材にぼうっと照された、天上が見えぬ程大きな
ホールである。大きさは小学校のグラウンド程もあろうか。何本かある太い石柱と祭壇や
段差の配置、四隅の壁が朧に見える。その中で、
「ん……? あれは」
ホールの片隅で、涼子の脅威に応じ老魔道士が切迫した表情で魔術の防壁を作っている。
守りを固めると言うより、敵意がない事を示しつつ時を稼いで場を落ち着かせ、話の契機
を作って和解したい姿勢か。或いはそう装って警戒を解かせ、不意打ちを狙っているのか。
まともな奇襲や罠で倒される人ではないが、対戦経験を持つ友一郎は老魔道士の融和姿
勢等信用しない。奴は勝つ為には手段を選ばぬ。三者の力量がそれぞれ大きく離れている
事は、既に三者の共通理解で話の基盤となっていた。
横たわった人影も幾つか散見される。肉体を失ったり引き剥がされて魂だけになった者
だが、尚絶命し切れていない者も若干名いる。身動きも出来ぬ侭、死ぬ程の苦痛を受けつ
つ、死ぬ事を許されぬ状態にある事を、少年は過去のザンビーノのやり口から把握できて
いた。
「やはり、封印破りか……」
少年が掴める状況を、涼子が把握してない筈はない。この場の幾つかの肉体は、殆ど全
て老魔道士の生贄だ。肉体の欠片が散らばり、血飛沫で濡れ清浄を汚された感のある蒼い
石の床を、涼子は何の怖れも備えもない様子で静かに歩み行き、友一郎は警戒気味に追従
し。
生贄達は皆傷ついている。というより痛めつけられている。身体の各所を切り刻まれ十
本の指はなく、その肉体は随所でナイフが突き刺さった侭で、毒物の故か青く膨れ上がり、
逃れ得ぬ様に身体を縛る鎖からは常に電流が流れ、一刻の休みなく苦痛を与える。拷問だ。
それは、死者と化した後も変らぬのだろう。見回すと他にも原型を崩した物が何体もあ
る。殺す事も生かす事も目的ではない。故にどちらでも構わないのだが、生死不明だが、
いると言える状態でない事だけは、気配で分った。
「苦しめる事を目的に特化したか。憎しみや怒り・恨みを充満させ、封印の許容限界を越
えて内から破ろうというのだろうが、さて」
残酷な事を。少年は、その横たわった生贄の死にそうで死ねぬ苦痛の表情を直視できぬ。
「人の心の負の感情で、人為に力の飽和状態を造り、内から封を破る。熟達した魔道士に
は出来うる術式だが、成功とは言い難いな」
老魔道士は進退極まったという表情で、
「よ、寄るな。近寄るんじゃない!
悪かった、頼む見逃してくれ。お願いだ」
少年も彼が恐怖にひきつる姿は初めて見た。達人故に涼子の力量の底知れなさを分るの
か。それには答を返さぬ侭、彼女は涼しい表情で、
「残骸を見るだけで、その恐怖と苦痛が窺い知れよう。周囲に飛び散った魂を見つめれば、
状況は更に凄惨だ。魔道の術で、死した魂も虐げ汚す。鎮める行いの正反対を為す訳だ」
骸になった者が周囲に幾人か転がっている。死因は様々だ。足首から引き潰され、指を
先端から切断され。切り剥がされた肉が、周囲に散っている。生きながら腐らされ、内部
から寄生虫に食い殺され、全身を焼き尽くされ。
にも関らず、と言うべきなのか。
「封印破りは、どの程度迄進んだのだ?」
老魔道士が答を返せぬのは、間近に迫る彼女への怖れの故ではない。成果が出るべき状
態で何の反応もない、理由の見えぬ失敗を彼自身説明できぬのだ。この封に挑むには力を
積み重ねるだけでは足りぬ。大魔王復活を望んだ時もそうだが、強大な力で無理を通して
来た彼故にこそ、力に盲目で気付けないのか。
「十二人目か。もう気付いても良い頃だが」
生きた人間は身体の中に心を収めた状態なので外に漏れるエネルギー量は低い。魔道士
が体外に放つ魔道の力は大きいが、それでも大きな全体の一部に過ぎぬ。だが、心に籠る
憎しみや恨みが、身体を離れて怨念となれば、力の量は一気に増える。身体に包まれぬ剥
き出しの心は消耗も激しいが、外に及ぼす力も膨大だ。それらを粗製濫造し、力を飽和さ
せれば、危険だが封印の許容限界を越えられる。
封印を完全に破れなくとも、力の歪みを集約させてどこか一点に穴を穿ち、脱出を果す。
或いは危険を伴うが、封印破りの膨大な反動を利用し、時空を越えて一気に元いた世界迄
戻ってしまう積りでいたのかも知れぬ。ここを出られなければ、どんな野望も意味はない。
魔道士は封じられた状態を嫌う。力が流れず、流す事の出来ぬ状況を嫌う。様々な術を
扱える故に、それらを使えぬ時間をこそ厭う。実際この中にいれば彼らも封印された状態
だ。
涼子の様に平然としていられるのは、事を理解してないバカか、真に強大で英知に優れ
打開策を持つ者かのどちらかだ。生半可な自信過剰で、この状況を乗り越えられはしない。
ザンビーノは元々善良と言い難い、己以外は全て生贄に使って心も痛まぬ特殊な例だが、
そうでなくても脱出の為にあらゆる手を試す。魔道士の使う術が魔道に偏るのは妥当な話
だ。
「制作者の想定を遙かに上回る強大な力を叩き付ければ、場の歪み位は作り出せる、か」
彼の目的は封印破りその物ではない。己が脱出する為の『隙間作り』に適した手法が封
印破りだっただけだ。故にもう少し力を増やせば、穴を穿つ位は出来ると考えたか。その
『もう少し』が問題だった訳だが。
老魔道士は非道な手段を使い定石を近道で進んだ訳だが、残念な事に封印制作者の意図
を汲めなかった様だ。抜け道は別にあるのにわざわざ堅固な壁を壊そうと苦戦するに近い。
後から脇に出てきた友一郎に視線を向けて、涼子は怖れも警戒も注意さえもない侭に、
「この封宮は単独行の者には反応を返さぬ」
鋭敏な感覚と強大な力と併有しても、ここ迄高度な作りで存在感を消し去れば、探索は
容易ではない。予め知っているならともかく、唯歩くのでは涼子も見逃していた。彼らが
ここを発見でき、入り込めたのは偶然ではない。彼女の当初の驚きと疑念は、偶々一人で
ない時にこの場に巡り来た事への驚きだった様だ。
入れたとしても、単独行の者にはやはり何の反応もない。共同し支え合う複数でなけれ
ば、進むも戻るも作用せぬ。罠の一つも反応しない。逆にその解除や回避の術も示されず、
脱出路も見つけ得ぬ。逆にそう熟練せずとも、2人以上で多少魔道の知識があれば、この
封宮は抜け出せた。抜け出せる様に出来ていた。
それを涼子はここに入った当初から感じ取れていた様だ。否、入る前からか。彼女がこ
の中で、誰かの魔道の力場にいて、ここ迄平静でいられたのは、その力量が膨大な以上に、
その技量が卓越な以上に、別の事情があった。唯の安心感ではなく、彼女に親しみを感じ
させる。少年は後付けでそれを知る事になるが。
案の定、涼子にザンビーノへの敵意はなく、相手の必死の防御或いは隙伺いの演技には
関心さえ抱かぬ様子で、周囲の構造に目を配り、
「しかしこの封宮の作りは珍しい。私ならこう造りたいというモデルを、忠実になぞって。
無意味なトラップをなくし、構造を簡素化し、不用な装飾を排除して最小限の規模に納
め」
規模が壮大になったのは、封じ込める物が大きかったせいだろう。これでも小さい位だ。
老魔道士には構わず奥に進み、正面の壁に刻まれた文字を眺める。少年は尚警戒するが、
無視された黒マントの老人は拍子抜けして呆然と立ち竦む。脇から覗く友一郎には、見覚
えがある表意文字もあったが意味は分らない。
「中に紛れ込んだ他者の落書きではない」
製作者の意図がこれで分る。この封印の性質も分る。何を封じたのかも、その抜け道も。
しなやかな指が壁に刻まれた文字を伝うと、
「貴女も人が悪い……否、貴女にはこれが当然なのでしたな。貴女はいつ迄も変らない」
語調に生じた変化に友一郎は目を見張った。それは衝撃を受けた様子ではない。涼子は
尚冷静さを保ちつつも、深甚に心揺り動かされ、実は今迄それを薄々以上に知りつつ抑え
てきて、今こそ表に出して良いと己に許した様で。
彼女にはここは謎でも何でもなかった。
彼女はここをこそ望み願い欲してきた。
透き通った水滴が一筋その美貌を流れ行く。それを拭いもせず、隠しもせず、瞼を一度
閉じてから開き直すと、涼子は友一郎を向いて、
「この封印が、私の好みに沿った作りなのも当然だ。これの作り主は、我が姉だ」
少年が目を丸くするのに、涼子は静かに、
「故人だ。父違いの姉だった……」
『父違いの……? この人も僕と同じに?』
「似た様な境遇。お前と同じ様に、私も格式の高い裕福な家に、庶子として生を受けた」
だから、彼は拾われたのか。そして更には、
「……師匠あなた、もしかして」
長く生きた分、彼より多く世の苦い物を噛み締めて来たのだろう。疎まれつつ捨て扶持
を与えられ、一見尊ばれつつ蔑みを受け、表向き尊貴な扱いだが軽視され。その思いを共
有する故に彼女は彼と関り合った。でなければ、彼女が惚れもせぬ男と旅を共にする等…。
時空を越えた不安定な身体は、存在が危うかった。救わねば、彼は今こうしていられぬ。
だが、涼子のその行いには動機が不可欠だった。彼女は万人に慈悲を垂れる存在ではない。
2人には何かの鍵があってしかるべきだった。
「お前ほど悲惨ではなかったぞ、私はな」
涼子は心を回想の淵から現実に引き戻し、
「同情される謂れはない。六十年は早い」
これは姉君が天帝に仕えていた頃、その命で始末した魔神のなれの果てか。一時は伝説
の勇者並に使い回されていたからな、姉君も。
過去を思い返す遠い目線は一瞬で終る。
刻まれた文字に掌を翳す作業は並行しつつ、
「姉君は無意味なトラップで不幸な迷い人の命を奪うより、侵入者を外に放り出す仕掛け
を考えたのだ。これを使えば、封印破りをする迄もなく外に出られる」
あんな事をせずに済むのなら、嬉しい物だ。
しかし見事な作りですね。それって、下手に魔道士が閉じ込められたら封印破りをかけ
るのを見抜き、逃げ道を用意したって事じゃあないですか。弟子の考察に師匠は微笑んで、
「そう言う事だ。危ういエネルギーを外に放出する事で、この封印は半永久的に保つ」
老魔道士はこれを読めなかったのではない。読む気がなかっただけだ。封印は封印破り
で打破できると、力の信奉者は力に走ったのだ。
そして実は涼子もその縁にいた。彼女も少し前迄一人旅だったのだ。少年と巡り会う迄。
それでは絶対この封宮は見つけだせなかった。何の力も持たぬ山賊や商人が迷い込む封宮
に、皮肉の極みか求め続けた彼女が入れなかった。
どれ程流離を続け、どれ程探索を重ねても、知り得なかった。反応は、捉えられなかっ
た。見事な迄に遮蔽されていた。簡素な条件故に見破れなくば永久に解けぬ問。分ってし
まえば何と言う事もない答。奥深く堅固な問答か。
「今回は、お前の存在が鍵になった」
涼子も、単独では誰の助けも要らぬ存在だ。魔道も剣技も体術も駆け引きも、全てに卓
越した彼女こそ味方も仲間も不要だった。誰かを助ける事で関りを持たねば、共同し支え
合う複数になれなかった。友一郎に逢えたから、彼を伴う決を下したから彼女は今ここに
いる。姉の足跡を求め彷徨う涼子の望みを叶えたのは何の意図も持たずに追従してきた彼
だった。
逃れられるが、逃れたくない招き。
避けられるが、避けたくない誘い。
彼女の呟きを、少年は思い起した。
あの時涼子は答を見せられ、気付かされた。何かを求めるには、自らを閉ざし続けられ
はせぬ事を。何者とも関り合わず、成果だけは望めぬ事を。誰からも隔絶された侭、誰か
との絆を確かめ得ぬ事を。
共同し支え合う複数とは、涼子や他の多数を守り思い続けてきた彼女の姉が選ぶ鍵とし
ては、当然だった。それに気付けなかった涼子の方が、妹失格だったという事かも知れぬ。
友一郎はその状況を切り開く役を担った訳か。
「尤も、その効果は別の影響も及ぼすが…」
進み行く船は波を起す。鳥の羽ばたきは風を起す。切り開いた状況は次の事を呼び招く。
優れた魔道士は先が見え、読めすぎるが故に、却って選択に迷わされる存在なのかも知れ
ぬ。
彼女がこの封宮に辿り着けた事で、必然的に次の歯車が動き出すなら、彼女にそれを止
める術は最初からなかったのか。ここに来ないとの選択以外には。友一郎が気付いた声で、
「でも、涼子師匠の姉上が、ここ迄して封じ込めた物って、一体何なんでしょうね?」
「ふむ、音読してみよう」
『大いなる災いの源をここに封ず。以後ここに入る事勿れ、ここを出ずる事勿れ。ここに
封じられし物に触れる勿れ、破る事勿れ…』
「疫病の神・邪神王パズズ。魑魅魍魎の主」
友一郎が言葉を失う。ルシファーやサタン、帝釈天やヤーヴェにも並ぶ程の強力な魔神
だ。幾つもの世界が、彼とその眷属の為に消滅した事を、彼も知っている。幾度も神の意
と武具や力を受けた勇者達を返り討ちにし、何度かは敗れ、何度かは復活し更に暴れたと
聞く。
妻の女邪神ラマシュトゥと共に疫病を司り、人を憎む如く幾つもの文明を覆し葬って来
た。何度目かの封印の最後は、涼子の姉が担ったのか。それも妹を知れば不可能ではない
かも知れぬが。下手に封印破り等しては、大変な事になっていた。冷や汗を流す少年に涼
子も、
「笑いはしないぞ。私も同じ思いだからな」
しかも涼子は、邪神から見れば仇にほぼ等しい。最悪の因縁での巡り合わせになろう。
「早く離れましょう、その仕掛けで」
友一郎がそう声を発した時だった。
【−−!】
そこに居合わせた全ての者の魂を、警告の叫びが突き抜けた。危険、かつてないの危険。
巨大な災いの源を、心が感じ取ったのか。
大地が震動している。中規模の地震に近い。揺れる筈ない封宮が、波の如く上下に揺れ
る。
『封印破り? 今頃になって、その効果が』
「お前達の存在が影響しておる。儂が飽和させた力が充満して、お前達の到来で活性化し
ておるわ。内部の構造が再動し始めておる」
老魔道士も2人の話の経過は聞いている。
術が漸く功を奏したのに、反対に拙い顔なのはその為だ。失敗は、彼も感じ取っている。
まさか。涼子はそれでも尚平静で、
「この程度で破れる程姉君の術は甘くない」
だが周囲には、急速に凶々しい気配が、床の間から湯気の立ち上る様に増殖しつつある。
虚空が熱気で揺らいで見える。この床石の、力を通さぬ性質を付与された青白い大理石
の更に下に封じ込められた何者かの息吹が届く。不気味な振動が響き、床の上の不安は高
まる。涼子も今は目を凝らし状況を読む他術がない。
ズン、ズン。下から突き上げる響き。
ズン、ズン。節を付ける様に、強く。
ズズズン、ズン、ズズズン、ズズズズ…!
「来る……!」
最後の大きな揺れが襲った時、床の一部に裂け目が走り、白い煙が噴き出し、一瞬彼ら
の視界を覆い尽くす。瞳を開いた時、彼らの前に立っていた者は、何人もの屈強の武者姿。
全身が、肌も鎧もダークブルーに染まった、身長二メートルはある精悍な武者の、二十
人近い群だ。その鎧は刺が突き立ち、兜に隠された顔は伺えぬが、鋭い眼光は彼ら一人一
人が、凄まじい力量の戦士であると見てとれる。
筋肉の盛り上がった太い腕、均整の取れた肉体、大剣を背に負う者、腰に差す者、槍を
手に持つ者など様々だが、いずれもとんでもない闘気を平生に感じさせる、化物どもだ。
地から沸いた屈強の戦士たちは皆、無言で彫像の如く2人の前に立ち並んで、威圧する。
『気圧される……』
眼光に竦み上がっている事を、悔しいながらも少年は認めざるを得なかった。動けない。
「パズズの巻き添えで共に封じられた魔神共だろう。封印対象ではなかったので、あの程
度の揺らぎで抜け出せたのだ」
まだ封印は解けてはいない。緩んだだけだ。
2人の到来が封印の機能を正しく再動させ、対象ではない者を振り落した。再動した故
に、老魔道士が用意した力も効果を顕した訳だが。鍵と力が、不幸な形で揃ってしまった。
相手の出方を窺う2人の前に、唐突に黒い塊が投げ渡された。足下に落ちてくるそれは、
『ザンビーノの死体?』
身体中から焦げた煙が上がっている。左腕を切断されたらしい。それも投げつけられる。
「フッフ、フッフ……」
彼らの冷笑が響く。感情を表に表さないが、なかなか挑発的だ。それには涼子は応じず
に、
「違う、まだ生きている」
ダメージを受けて弱っているが、老魔道士は漸く立ち上がった。足下がふらついている。
邪悪が満ちる程の彼の気配が、抜けた感じだ。
『僕が勝てるかどうかのザンビーノを一蹴…。
こいつら、とんでもない化物揃いだ』
「ふむう、で?」
涼子は彼らの出方を尚も窺う。ぶつかりたくないと言う様子だが、迂闊に動けないのだ。
精悍な体付きを見せる武人達を前に彼女は、
「良い男だが、女を好みそうな顔ではないな。
非常に残念だ。最近は本当に男運が悪い」
身構えもせず、武器も手にせずに彼らに対峙するのは、虚勢なのかそれとも余裕なのか。
「お前、かなりやるな」
一人がズンと前に踏み出し、重々しい声で、
「俺の目に狂いがなければ、お前には死んで貰った方が良さそうだ。この場を力で飽和さ
せるには、派手に戦って後死んで貰おうか」
わが主・邪神王の復活の為に、その生贄に。
少年は自然身構えていた。気がついたのは、額の冷や汗を拭った時だ。相手の強大な闘
志に、意識せぬ侭防戦体勢に入っていたらしい。
「友一郎、お前は見ていろ」
涼子は少年の肩を右手で抑えて一歩前に出、
「お前の相手には少し荷が重い」
戦うなと言われた時始めて、彼は己の震えに気が付いた。怯えか、武者震いか、両方か。
だが、心は尚安まる様子もなく、身体を覆う震えと悪寒は尚抜ける兆しさえ見せぬ。不安
は、今の己に対してではなく、むしろ近い未来の師匠の身に対してなのかも知れなかった。
「ふん、お前でも重過ぎるかも知れんぞ!」
そうかも知れぬ。挑発の声にそう答えて、
「箸より重い物は持った事ない育ちの故に」
木刀を出し、構えず右手にぶらりと下げる。
「ふん、そんな物で俺の相手に……」
余裕ありげに、見下した口調で言いかけた処に涼子は唐突に打って出た。何の構えもな
い姿勢から、彼女は突如接近する。
『は、早い!』
さっきの盗賊相手の時よりも、遥かに早い。
だが魔神は全く驚く様子なく、背から抜き放った人の太腿程ある太い剣を、木刀に向け
振り下ろす。鉄と木の衝突は当然の様に鉄の勝利で、木屑はバラバラになって宙を舞った。
涼子の身が砕かれず無傷で済んだのが、友一郎には奇跡に思えた。彼女もとんでもない
敏捷さで後退し、間合いを保つ。少年が介在を望んでも及び得ぬ。相手の追撃はなかった。
「ふうっ、強い強い」
尚も涼子は常の飄々とした語調を変えぬが、
「まだ貴様、本気でないな。馬鹿にしおって。本気を出さねば俺には勝てぬ、死あるの
み」
闘志を出すだけで再度圧される錯覚がある。
「ま、見事に折られたか」
手に残った木刀の片割れを放り投げ、そこで再び彼女は、前触れ無しに急接近をかける。
「なん、だと……!」
何も持たぬ涼子の接近は意外だったらしく、魔神は一瞬先手を取られた。至近距離で木
刀を取り出す彼女に、剣では間に合わぬ魔神は白羽取りでその一閃を防ぐが、彼の呻き声
が。
『二刀流、だ』
涼子は右手の木刀が防がれる事を予期して、それを陽動に左手のもう一本の木刀で勝負
を挑んだのだ。魔神の鋼鉄の如き肉体が、膝を折って倒れかかる。唯の木刀ではない。彼
女は気功法か何か併用し、衝撃力を高めた様だ。
おおっ。周囲の魔神共はざわめいた。自分達に対抗できる者がいる事に、驚いたらしい。
「油断したわ。貴様、一体何者だ?」
「魔道士妖術士霊能士にして世界一の美女」
彼女は依然常の超然とした姿勢を崩さない。
この魔神達は並の戦士ではない。それを苦とも思わず破って見せるのだから、化け物だ。
尤も、彼女自身は友一郎にこう語っている。
「私の剣技が幾ら優れて見えても、所詮女の剣。真ののつわものに当たっては勝ち目はな
い。せいぜい眩ましか時間稼ぎがいい所だ」
実感のこもる言い方は嘘に聞えなかったが、彼女は一体誰のレベルを指して真のつわも
のと言うのだろう。彼が心の中でそう呟いた時、
「教えてやろうか」
と彼女は少年の瞳を覗き込んだ。彼女の冷たいが妙に良い香りの息遣いが急に近づくと、
「ま、そのうち分るか」
時が来れば、いつでも逢えそうな感じで彼女は口を濁した。あと十年位かな、と呟いて。
しかしそんな人がこの世にいるのだろうか。実際、彼女は魔神相手にもまだ手の内を晒
け出してない。彼女が叶わぬ等という相手は…。
倒れ込む魔神の後ろから、別の魔神が現れ、
「効率的に勝って、ここを逃げ出す魂胆か。
だがそうは行かぬ。次は俺が相手だ」
「……読まれたか」
力が充満する全力のぶつかり合いは、極力抑えたかった涼子だが、相手はそれを望んで
いる。攻めても守っても状況はその様になる。
「友一郎、いつでも動ける心の準備をしろ」
彼女は振り向かぬ侭そう言って、虚空に何かの紋様を描き始めた。さっき老魔道士が作
った防壁だが、この敵にそれは通じなかった。
「この俺をナメおって」
ぬん! 魔神の気合いで彼女の防壁は吹き飛び、彼女の体も後ろの壁に叩き付けられる。
「師匠! 大丈夫……」
今度も少年は動けなかった。動きの発動が間に合わぬ。この位置で、彼の技量では気付
いても即応出来ぬ。盾にも緩衝剤にもなれぬ。
ゴホッ。涼子の口から血が吹き出す。相当な衝撃だった様だ。見るからに痛そうな顔で
立ち上がって彼女は血に染まる唇を拭き取り、
「この化物。美女相手に本気を出しおって」
この柔肌が傷物になったらどうする積りだ。
「それで無駄口を叩ける様なら、俺も本気を出して間違いでなかったよ」
彼は、自分の予測以上に彼女が無事な事に、無表情な中に驚嘆の色を見せつつそう言っ
て、
「お前はまだ余力を残し過ぎる程残している。
だが、余力を残して死にたくなくば、全力の本気で向ってこい。次は、どんな隙でも逃
さず叩き潰す。殺す。かかってこい。
或いは、俺達の一人は倒せるかも知れぬぞ。尤も、それで場に力が満ちて我が主が復活
するなら、それこそ我らの思う壺なのだがな」
ハッハハハハハ。周囲に哄笑が上がる。
魔神は武神でもあるのか。彼らは目的外で、彼女程の使い手との対戦自体も楽しんでい
る。
涼子は苦笑いを浮べていた。封印破りを考慮して力を出し渋る事が生死を分かつ。だが、
全力で挑めば更に厄介な物を呼び出しかねぬ。
「まだ本気は出せないな、まだ」
涼子の語調が変って来ている。
「見たければ引き出して見せろ。お前如きに、私の底力を見せる必要などない」
涼子が真の鋭さを纏い始めるのを、友一郎は初めて目にした。今迄の様な気楽な姿勢が、
潮の引くが如く消えていく。何も持たぬのに、何も構えぬのに、明確に中身の充実度が違
う。
「そうだ、来い。そしてもっと力を振るえ」
その力こそが、我らの望みよ。そう言う敵の身体も緊張に締まり、武者震えか小刻みに
震え始め、闘志が更に増していき。その時だ。
その魔神に、突如横から黒い衝撃波が襲う。
『ザンビーノ! 動けるのか?』
「きいさまああ、わしを馬鹿にしおって!」
彼は彼で自分の心に忠実らしい。憎しみを込めた声を吐き出す様に、その右手に力籠り。
うおっ! 涼子との対峙の不意をつかれた魔神は対処できず、防御に右腕を翳すものの、
巨体は弾き飛ばされる。起き上ろうとした時、その右腕は、真っ黒に染まって崩れ落ち
た!
『魔道士の使う禁呪・腐食術、か』
生体の体組織を腐らす細菌達を、衝撃波に隠れて成長促進剤と共にその腕に仕込むのだ。
一般に禁呪と言われる技は、威力又は術者の負担や消耗が大き過ぎ、普通の魔道士妖術
師には使いこなせぬ故に、闇の技とされるが。
腕から徐々に胴体へと迫る黒い腐食に彼は、左手で自分の肩から腕を切り落して被害を
止めた。彼ら魔神のレベルでは、回復も可能とは言え、こっちもとんでもない対処を見せ
る。
ざわっと、魔神の間に動揺が走る。予想外の事態に、一瞬怯んだその時、更に侵入者が。
「うらああああああ!」
そこに飛び込んで来たのは、あの盗賊どもだった。少年と涼子を追って来たのだろうか。
「誰がいても構わねえ、ぶっ殺せえ」
おお! 彼らは勢いの侭に突っ込んできた。
中に何者かがいるのは分っていたが、数でそれ程見劣りしないので先手必勝と、弓矢や
槍や刀を持って、次々に魔神達に飛びかかり。
「ギャオッ!」「ガエプ!」「アゲシ!」
忽ち盗賊共の悲鳴が室内に満ちる。彼らの血が肉と共に飛び散った。彼らの大柄な体が
軽々と持ち上がり、お手玉の様に空を飛ぶ。
「弱過ぎて、時間稼ぎにしかならない……」
今の内に、逃げるぞ。涼子は勝負に拘らず、卑怯か否かも問いはしない。生き延びるに
は、強敵との戦いは避けられる限り、避けて通る。
「魔神共の向う側の壁の裏に、二色の力を同時に及ぼせば開く空間の歪みがある。力の大
きさは問題ではない。お前程の力があれば足りて余る。問題は同時でなければならぬ事だ。
隙を見て突き抜ける、はぐれるな」
『しかし、奴らの群れを突き抜けるなんて』
その彼らの戦は一方的な虐殺になっていた。盗賊の刀剣は、幾ら力を込めても歯が立た
ず、逆に刃が欠け矢が折れる。彼らは素手で魔神に触れただけで身体が焦げ臭い匂いと共
に燃え始め。力でも技でも全く相手にならぬのだ。
「はっははは、殺してやる」
「かかって来い、武神はむしろ戦いを好む」
「弱過ぎるが、敵を破る快感は変わらぬわ」
戦いに夢中な魔神に無視された老魔道士が、その隙を狙い、起死回生をかけて、この場
に必殺の技を放ったのは、2人が争乱を迂回してもうすぐ魔神達の後ろの壁に辿り着く時
だ。
「狭い室内では距離を取れぬが、自爆覚悟で放ってくれる。必殺、ブラック・ストーム」
空間を歪め穴を穿ち、ここよりエネルギー量の大きい異世界から、ここに力を流し込む。
異なる物理法則を持つ世界に流れ込む力は、不確定だが、恐ろしい程の熱と化す事もあ
る。時と場合によって恒星の輝きを導く事もあり、導く本人が蒸発する事さえあると云う
禁呪だ。
「やめんか。もう少しで、逃げ切れるのに」
涼子の叫びも届かない。殆ど死に絶えた盗賊達と、殆ど痛手もなく意気盛んな魔神達と、
逃げ切れかけていた師弟の上に、黒い焦熱の奔流は、むさぼり食う様に襲いかかった!
盗賊の死体に吹きつける黒い風は、その身体をボロボロに溶かし行く。強い力で守らな
ければ、暗黒の奔流は触れる者全てを解かし、燃やし、灰にし蒸発させ、後に何も残さな
い。それは、砂糖が湯に溶ける様を見るにも似る。
一瞬驚愕の顔を見せた魔神達が、自分達にも脅威となる暗黒の襲来に笑顔を見せたのは、
その巨大な奔流こそ、その巨大な熱量こそが、彼らの主の解放に必要な力を補う物だから
だ。彼らはそれを念動力で正面から迎撃する事で、ぶつけて更にエネルギーを大きくする
積りだ。
人には聞き取れぬ音域の絶叫の中、封印は弾ける。奴が、邪神王が甦る。定めはやはり、
動かせばこの様に進み、変え得ぬという事か。
ズズズン、ズズン、ズズズズ……。
床の底から、何かが蠢きながら上ってくる。地の底に、果てしなく長い間封じ込められ
ていた巨大な存在が、咆哮を上に轟かせている。
地が揺れる、空気が荒れる。高熱の気流の乱舞が、地上に生きる者の危機も構わずに今、
巨大な者を導き出さんとする。虚空が裂ける。
「うおううおううおう……!」
言葉にならぬ叫び声。それは一体いつの言葉なのか、どこの呪文なのか。
「おおう、おおおう、おおうおうおおう!」
轟音と巨大な爆発が周囲を全てかき消した。
視界は塞がれ、気配は膨大な力の奔流に巻き込まれて関知できず、己が今どうなってい
るのかさえ見当が付かぬ。生きているのか死んでいるのかさえ、今この瞬間定かではない。
もうもう舞い上がる煙、埃、土くれ。その塞ぐ中、どこの誰も何も見えぬ。巨石が飛び、
大地が抉れる。封じられていた途方もない存在の反動が、大陸を揺るがす激震を生む!
「一体、何がどうなったのだ……」
伏せていた少年が漸く視界を取り戻した時、封宮は既に跡形もなく、周囲の広大な森林
は核爆発でもあったかの様に抉られ、数十キロ四方が生き物の姿も止めぬ荒野になってい
た。
「生きているか、友一郎」
涼子は少年に背を向け爆心に正対していた。己の身を中心に魔道の技で彼を防護したの
か。
「師匠……。大丈夫ですか」
美女は額に滲んだ汗を左手で拭い苦笑いで、
「私の心配は七十年早いと云っただろう。
一応、大丈夫だ。が、問題はこれから…」
封印は破られたのだ。老魔道士の必殺技とそれを迎撃した魔神達の力の衝突で、封印の
許容限度は破られた。最早状況は崩れている。
「こんな荒野に、なってしまうだなんて」
延々と続いていた森も全てかき消えている。全て焼け爛れた不毛の大地になってしまっ
て。
「ふっふっふっ!」
数十メートル先にある小山から哄笑が響く。魔神達はその周りに集まっている。彼らは
皆無事か。片腕を失った魔神や涼子の木刀を受けた魔神も、いつの間にか再生と回復を終
えており。一人か二人数が減ったかも知れぬ…。
その他は悉く消失した。盗賊は肉片もない。ザンビーノもどこかへ消えた。爆心への近
さ故に蒸発したか、時空の狭間に吹き飛んだか。運が良ければ元の世界に戻れているだろ
うか。ここに残れた事が幸か不幸かは、微妙な所だ。
「ふっふっふうう〜」
巨大な息遣いが小山から聞える。標高三十メートル強の小山は、ゆっくり波打っていた。
「まさか、あれが……」
小山は、素人が分る程の瘴気を発していた。その名を口にする事は憚られた。呼んだ瞬
間、応じてこっちを振り向きそうな気がしたのだ。
「どうします? 逃げますか」
「そうしたいのは山々だが、一体どこへ?」
弟子の問いに、微風にそよぐ銀髪を押えつけながら師匠は背後周囲に広がる荒野を示し、
「この荒野をどう逃げれば逃げきれるのだ」
身を隠す場所もない。彼も返す言葉はない。
大体お前が、とは彼女も言わぬ。今度ばかりは彼女も少年に責を被せて遊んではおれぬ。
「我らが王。我らが王。我らが王!」
野太い魔神の歓呼が響く。遂に甦ったのだ。彼らの主、魑魅魍魎の王・疫病の王・邪神
王パズズが。ダークブルーの小山が動いた。
「我らが王。我らが王。最強の者我らが王」
ゆっくりとした息遣いが響く。そして突如、
「ううおおおおお!」
またもや大爆発。彼の身体に気合いがこもるだけで周囲には身を切る烈風が吹きつける。
『この馬鹿は、己の部下の事も考えぬのか』
「俺は甦った。俺は甦った。生き返った!
おのれあの憎き涼州女王め。復活したなら必ず奴を血祭りにすと、俺は固く誓ったのだ。
奴の為に、奴の為に我が大望は砕かれ、俺はこんな辺境世界に封じられた。絶対に許さん、
一族郎党・家臣国民皆殺しだ。皆殺しだ!」
間を置かずに己を封じた涼子の姉への激しい怒りと憎悪が噴き出す。涼子もその巨大な
力に、それ以上の執念に、言葉を失っている。神の嫉妬や憎悪は、千年万年尽きる事がな
い。
「精霊よ、妖怪よ、出でよ。お前達の主だ」
全ての精霊や魑魅魍魎の王・神の神の座を欲した彼は遙か昔、多くの異世界に攻め込ん
で殺戮を繰り返し、ある世界で涼州王霊姫の迎撃を受け、敗れたと言う。だが彼にその座
は常に手が届く範囲だ。この時は復活に伴う激震故に召喚される者が周囲にいなかったが。
「貴様……奴の、妹か? 良い所で見つけた。顔つきも良く似て、憎々しい程に美しい…
…。復活していきなり鉢合せとは何と運の良い」
涼子を視認した邪神王は喜びに顔を歪ませたが、涼子の表情はその正反対を語っている。
ふっふっふっ、食い殺してくれる。
「その美貌を引き裂き踏み潰し、俺の力場で未来永劫、苦悶と後悔の絶叫に落してやる」
ヒイッヒッヒッ。神々は好みの姿形を取れるのに、彼は心の歪みが肉体に影響したのか、
その異様さは少年が怯む程だ。膨らんだ小山の腹と、付け加えた様な四肢は水を詰めた袋
に近い質感で、巨大な顔は青黒いボサボサの長髪に隠されて窺えぬ。見た印象は肥満体だ。
だがその及ぼす波は、暴風を越えて激越で、
「貴様に恨みはないが、貴様の姉には恨みがある。姉の犯した罪は、妹が償え」
涼子は神の思考と手口に頭を抱えた。生贄、身代り、連帯責任。借金取り立てに通ずる
その促しに、彼女も気易くハイと承知は出来ぬ。
「罪は人のみ被る物ではない。汝は汝の罪を償っておらぬだろう。姉の行いは罪ではない。
そして私と汝は関係がない。襲いくるなら応戦するが、見逃してくれるなら逃げ出そう」
パズズは小山の様な巨体を揺らせて哄笑し、彼女の申し出を一蹴した。第一、神と人が
対等に交渉など気に食わぬ。神は神だから偉いのだ。他者の生殺与奪を何でも決め得るの
だ。
「ハアッハハッ、殺してやる、殺してやる」
パズズは哄笑して涼子と友一郎を見下ろす。
「その身体を引き裂き、腐らせ、悶え苦しませてやる。簡単には死なせぬ。逃がすものか、
決して逃がすものか。この復活に立会ったのは、貴様と俺のあるべき運命だからだ!」
少年と彼女の回りだけに強風が吹きつける。
『風の精霊を操っている……』
巨大な掌からその意志に操られ、強風が風圧となり身を切る程の風になって吹きつける。
不吉に雲が張りつめる曇天の元、淡い輝きに包まれた涼子の姿は、長い銀髪を風に乱さ
れながらも平然と立ち、邪神王を睨みつける。
『時に、ハッタリも必要なのだ』
後に師匠はそう語っているが、この時は…。
「風よ……!」
彼女は邪神王と同じ術を使ってその威力を相殺した。同じ質の力が、風が真正面からぶ
つかって、両者台風の目に入った状態になる。
『互角、か……』
両者の間で風がピタリと止まるのは、双方が伯仲している為だ。それを目論んで涼子が
力を抑え邪神王の力に合せている感じもある。
「ふううっ、ふううっ。お、おのれ……」
あの時と同じだ。神である自分の力に逆らって、互角の力で弾き返す、あの姉と同じだ。
「そう簡単に殺されてたまるか。人がいつ迄も神の掌で弄ばれる物と思うなよ」
「何を生意気な……。人の分際で」
「何が人の分際だ。神の癖に人間に役立とうともしない汝に、何を云う資格がある物か」
怒気を含んだ声が、邪神王に叩き返す様に、
「元々神は、人々の祈りに答える為に、人が必要に応じ作り出した物だ。それが何をどう
狂ったか、世界や人を作っただの、支配するだの崇めろだの、その為に命を捨てろだの」
「何いいいいい!」
何も知らぬ女の分際で、たわけた事を。
「未だにこの意識だ」
涼子はそう言って少年を振り返って、
「お前が神に疑問を持つのは当然だ。
……私も同じ思いなのだからな」
「黙っておれば良いたい放題云いおって。人の身の惨めさと未熟さを思い知らせてやる」
火の精霊よ、水の精霊よ、木の精霊よ、地の精霊よ。あの女に身の程を思い知らしめよ。
巨大な掌が何やら様々な紋様を虚空に描く。
「精霊召喚では負ける気はしないな」
炎を起し、水の柱を落し、得体の知れぬ棘つきの植物の蔓を招き、砂嵐を叩き付けるが、
涼子はそれに同じ術で応戦して、食い止める。
「おのれっ。互いの力が壁になっておるわ」
衝突する力が互いを隔て安全を保つ。涼子は勝つ為に打つ手も的確だが、負けぬ為に打
つ手はそれを越えてあざとい程だ。パズズは進まぬ状況に苛立ち、精霊を使う間接戦に見
切りをつけて、自ら暴威を揮う構えに入った。
「この手で、貴様を消し去ってくれる!」
掌から巨大な衝撃波が打ち出された時、彼女は友一郎を右手で突き飛ばしてから自分は
反動で左側に飛んで逃げた。つい先程まで二人のいた大地は広く抉り取られて、蒸発する。
「友一郎、隠れていろ。私の動きに付いてきても、皮一枚で命を落す」
皮一枚で躱すと表明した様な言辞か。だが、
「隠れろと言ったって……」
周囲は一面平らな荒野だ。ぼやく少年に、
「距離を置けば見えて躱せる技もある。気を抜かず上下前後あらゆる方向に注意を払え」
弟子の事は棚上げし、涼子は正面の敵に神経を集中する。相手がその気満々だ。逃げる
もある程度痛撃を与えねばすぐ追い付かれる。
「遅い。その動きでは、私は捕まえらぬぞ」
嘲弄に邪神王はくわっと怒りの色を出して、
「人間の、身の程を思い知らせてくれる!」
一つ一つが友一郎の全力に匹敵する衝撃波を乱打する。それを躱す涼子の動きは、和服
姿にしては信じられぬ程巧妙で、素早かった。
両腕で衝撃波を乱打する邪神王の側面に回り込み、その死角から見えない衝撃波を放つ。
その威力は、封宮内で少年と正面激突しかけた老魔道士ザンビーノの全力位はあったが…。
ズウン、異様な響きを上げて何かが横顔にヒットするが、ダメージを受けた様子がない。
「集束気砲を気合いで肌の上から弾くか…」
涼子も格の違いを見せる為やる事はあるが。
「きかんなあ、きかんなあ」
わざと当って見せて、配下達を振り向くと、
「この程度の腕では、俺に傷一つ負わせる事はできぬ様だ。お前たちで相手してやれ」
ははっ! 二十人余の魔神達が、揃って涼子に戦意を見せる。その溢れ出る闘志を前に、
「幾ら何でもこの数を相手にしては身体が持たんぞ。もてる女は辛い。ああ美しき故…」
追い詰められても、その性格は変らぬのか。太い剣や重そうな槍や鎖鎌、棍棒を持った
魔神達が迫り来る。涼子も流石に木刀連中や盗賊の様に気楽に退けられはせぬ。それでも
武器を持たぬ侭、何があるか見せぬ構えなしの姿勢で魔神達に対峙していた彼女が動くの
は、彼らが一斉に飛びかかってきたその時だった。
ブウン……。何かの振動の音と共に、彼女の右の拳が金色に輝く。魔人達が飛びかかっ
て来た時、涼子はやや早めに、拳を薙ぎ払う形で横に振るった。瞬間、拳どころかまだ剣
も槍も届く範囲ではないのに、重武装の精悍な肉体達が皆、吹き飛ばされて尻餅をついた。
彼らは動きこそ俊敏だが見かけ以上に重い。吹き飛ばされた彼らが驚愕に目を見張るの
も当然か。彼らは同じ体積の鉄より重たいのに。
「うおっ!」「ぬくっ!」「おわっ!」
『彼女が剣技ではなく、魔道で対処した…』
ぬううう。魔神達が、それでも可能な限り迅速に起き上って、再び飛びかかろうとする。
それは涼子の追撃がなかった故だが、なぜ相手の体勢が崩れた好機に追い打ちせぬのか…。
涼子は間近の虚空から現れる炎の渦から己を守るのに手一杯だった。涼子は魔神達の攻
撃が元々陽動で、邪神王がそれに連動した術を仕掛けてくる事を読んでいたらしい。
不用意に追撃すれば、先に炎に囚われ焼き焦がされた。魔神達の攻めを受けたり苦戦す
れば、魔神達共々炎の中だ。魔道防御を先に張っても魔神達の剣撃は実体で防御は至難だ。
剣撃で軋みでも生じれば炎は彼女の身に届く。
その上邪神王の攻撃が炎だとは終って分る話だ。直前迄、風か水か氷かも分らぬ時点で
の炎に備えた防御は裏を取られる怖れが高い。発動を見て瞬時で防御を展開する。力を溜
めたり呪文詠唱が必要なレベルの魔道士では神に対応出来ぬ訳だ。読みの達人では尚足り
ぬ。読み尽しつつ尚読みが不要でなければならぬ。
虚空に生れて全方向から包み込む神の炎を、涼子は球形に無色の力を纏って防ぎ、全方
向に押し返して引き千切った。更に炎の出口の虚空から炎の一部を邪神王の足元に逆流さ
せ、
「うごおおおお。きいさまああ!」
守りに回らせ、更なる攻め手を未然に防ぐ。魔道の戦いでも攻撃は最大の防御か。ここ
で攻勢にも出られたが涼子はそうはしなかった。小手先の応酬段階で深入りは危険との判
断か。まだ和解の芽はあると見て、泥沼化を避けたのか。その焦点は、邪神王よりその技
に巻き込まれかけた魔神達に向く。
身構えた彼らの鼻先、間近に彼女は歩み来ていた。攻防の要となる間合いの中に、こう
も簡単に踏み込むか。相手はただ者ならざる魔神達だ。涼子の技量はどのレベルにある?
彼らの筆頭らしい、一際精悍な肉体を持つ一人の正面に、その長い銀髪が届く程間近で、
「お前達が、決めた主の為には痛みも死も怖れず、身が砕け散る迄戦える勇者である事は
分っている。主の陽動に使われ、その技に私もろとも貫かれても尚本望だと思う事迄も」
長身でも魔神程の背丈を持たぬ涼子の視線は見上げる形になるが、その輝きは黒く深く、
「だがあれはお前達の主に相応する物なのか。
奴は私程度の者を倒す為に、お前達の犠牲を必要と考えた。最初の敵を倒すのに味方を
減らす者がこの先、どの様に大望へ向うのだ。その程度の者にお前達の主が務められるの
か。お前達全員の宿願を、引き受けられるのか」
涼子は何を言いたい? そして魔神はなぜ、間近の彼女を前に攻撃も防御も忘れ立ち尽
す。
魔神達の不気味な迄の沈黙と無行動を前に、
「奴の力と技を私との戦いから計って知れ」
故に手出しをするな。そう言う事か。
これは一見一方的な彼女の利得に見えるが、彼らの行動原理を把握した提案だった。命
を捨てても尽す主君故にその選択基準は厳しい。
盲目に従う訳ではない。彼らは皆己の判断で動く。同じ基準を持つ故に群れて見えるが、
邪神王と涼子の今迄の経緯を、自分なりに消化している。真の戦士は馬鹿ではない。故に
彼らは涼子の話に乗った。見極めてやろうと。
意見調整は不要だった。彼らは常に一人一人なのだ。そして、今回も意見が偶々全員一
致したに過ぎぬ。喋る時だけは涼子が話しかけた先頭の背の高い者が筆頭なのか、代表し、
「ここは一対一で戦って貰おう。我らは介入しない。勝てば今迄通り貴方は我らの主だ」
「なにっ、イルルヤンカシュ、きさま…!」
パズズの驚きの叫びに、呼ばれた魔神は、
「部下の助けを得なくば女を倒せぬ様な弱い主を、我は欲せず。我は最も強き者の配下」
他の者も揃って立ち位置を変える。その動きが己の命を縮める怖れもあると承知なのか、
主の怒りにも怖れた様子もない。状況は一応一対一迄戻せた。だがこれで涼子は、魔神達
の目線の中で否応なくパズズと対峙せねば…。
「借金を返すのに借金を重ねる様な物だな」
言いつつ彼女は尚逃げを諦めてない。魔道の技で空間を歪め、脱出口を作り逃げる策は、
依然選択肢の中にある。だが、それも一人なら分るが友一郎を連れてとなると至難の業か。
「そんな巨大な身体で、対処出来るのか?」
神は威厳を見せる為に、身体を巨大にする。本気で戦う体勢に入れば、大き過ぎる身体
は小回りが利かず邪魔になり、自ずと小さくなる。人かそれより少し大きい位が良いらし
い。
「ふん、貴様如きに……」
言いかけたその顔に無色無形の衝撃波が命中した。涼子は腕を振った様子も見せぬ。想
念のみで力を為し、砲を撃つ。溜めも詠唱も動作もない。大きな動きは不要である以上に、
発動のタイミングを報せる為有害と言う事か。
集束気砲か。必殺の物ではない様だが、神のプライドを持つ彼には、喰らう予定のない
一撃を浴びせられる事は、十分挑発になった。彼女は交渉と併用して、挑発を繰り返して
大振りを招き、隙を見いだそうとしている様だ。
「密度の低いその身体では、相手にならぬ」
本気の空振りをさせねば逃げられぬ。すぐに気を取り直して追撃を受ける。逃げる時は
瞬間だ。相手の追撃圏内を一気に逃れるには、相手がすぐに動けぬ程の痛手を負わせねば
…。
「私を見逃してくれたなら、宝物をやるぞ」
涼子の嘘が見え見えな誘いにも邪神王は、
「貴様を拷問にかけて吐かせれば容易い事」
反応がまだ冷静だ。まだ我を失ってない。
身体を縮小し始めたパズズは尚敵意旺盛だ。
『私が、踏みつぶせぬ程度に面倒だと分れば、奴も無益な戦いより話し合いに転じる
か?』
この時点でも勇者でもない彼女は、彼を倒す事は視野に入れてない。涼子の姉が封じた
邪神王だが、それも姉の本意ではなく命じられての話で、その行いを引き継ぐ積りもない。
愛し敬っているが、涼子は姉とは別人だ。姉にはなれぬ。全ては継げぬ。心迄一致し得ぬ。
三メートル半位に縮小した邪神王は、質量の縮退で余った力が充実して溢れ出している。
身体から上る湯気は収容し切れぬ力の発散だ。
濡れた様な蒼い長髪が顔の前面を覆い隠す。中央に長く高い鼻がそびえ立つ容貌は、憎
しみや怒りにどす黒く彩られ、何よりその双眸に狂喜が渦巻いている。姿は筋肉質の大男
だ。
「貴様など、片手で片づけてくれるわ」
漸く本気にはなってくれた。問題は、
「こういう時に私を守る勇者が欲しいのだ」
涼子はそう呟いて、邪神王に正対する。
「簡単に破れてやる訳に行かぬ。どこかでこのか弱い女子を待ち望む、背の高く顔の良く、
強くて格好良い勇者がいるかも知れぬ故に」
「ふん、世の美女は神の生贄になる為に存在するのだ。喜べ、お前を我が復帰第一号の生
贄にしてくれる。むさぼり食ってくれるわ」
そこでも二人の意見は相容れない様だった。
溢れる程のエネルギーに膨らむパズズの右手が黒い衝撃波を放つ。発動より動作を遅く
見せるのは、防御のタイミングをずらす為だ。
『ブラック・ストーム!』
ザンビーノの禁呪を、簡単に使うか。だが、
「ブラック・ストーム!」
涼子も同じ技で応じ、黒い奔流が二人の中間地点で激突した。音にならぬ轟音、そして
真っ黒な奔流の激突。熱が周囲の気流を乱す。
天は嵐が過ぎ去っても更に暗く、邪神王の復活に不吉な彩りを添える。低くたれ込めた
暗雲は、強風に幾ら掻き乱されても吹き散らされる事がなく、その重層感は尋常ではない。
「ぬっ……!」「きさま……」
それも一撃では終らない。涼子とパズズは、互いに同じ技を連打して相手のそれを撃墜
し、また攻勢に出、闘争はいつ果てるとも知れぬ。
『神話時代の話に、よく組み合った侭数日・数年・数百年と決着のつかぬ戦いと云うのを
聞くが、誇張された話だと、思っていた…』
腕を振る事なく周囲の虚空から力を打ち出す涼子は、僅かに後退気味だ。神との正面激
突は達人にも対応が厳しいのか。パズズは様々に腕を振りつつ踊りつつじりじり前進する。
距離を詰め決着をつける機を伺っている様だ。
『正面から弾いている様に見えるけれど…』
よく見ると涼子は殆ど正面から受けてない。力を膜の形に張って踏み留まる予想図と違
う。正面からの相殺は殆どなく、側面や斜め方向から力を当てて相手の攻撃力の進路を逸
らし、相手の発射態勢を崩し、別の一撃の迎撃に伴う爆発を盾にする等、その対処は精妙
を極め。
足を踏みしめて動かぬ邪神王に対し、涼子はステップを止めぬ。方角を変え偶に反撃し、
攻めも守りも単純ではない。彼女には反撃も相手の照準を外させる為の防御の一環なのか。
涼子が更に強力な力を放ったのは、天空がいよいよ暗さを増し、再び嵐になると思われ
た頃だ。真上に掲げ振り下ろした右手の細い指が示す、その上空を輝く光の塊が走り行く。
多種多様な力の乱舞で、どれがどの角度からどう相殺し逸らし受け止められるかのパタ
ーンを、言ってみれば邪神王の癖を探り出し、それを潜り抜けるラインとタイミングを掴
む。
「鳳凰天舞!」
高エネルギーの光の塊は、その形状が伸びた菱形で、鳥にも見える。様々な力の相殺や
干渉が行われる虚空をすり抜け、掻き分けて、微かな曲線を描きつつ掠め飛ぶ。一瞬でも
彼女が『溜めて』放る力だ。その威力たるや…。
だがそれは、相手の誘い招いた状況だった。彼は涼子の姉との対戦経験を持つ。実戦経
験なら彼は、姉と妹のどちらより上だ。彼は皮を被り、己の戦いを見せ、読ませていたの
だ。
「ぬううおおおおん!」
邪神王は光の鳥を、念動力の光熱で右拳を包んだ『光る拳』で弾き返す。パズズはその
為のラインとタイミングを『作って見せて』、この一撃を呼び寄せた。涼子に反撃する為
に。
食らえ! 光熱の荒れ狂う虚空を、そのラインとタイミングを逆用し突き抜け、パズズ
が踏み込む。だが、涼子はそれを待っていた。
警戒した敵を罠に填める事は容易ではない。なら、涼子が罠に填ったと錯覚させる。邪
神王が上を行ったと思わせる。敵を罠に填めたと思った時が最大の落し穴だ。
どんな反撃があっても、接近戦に持ち込む。近接し防御が間に合わぬ状況を造らねば痛
撃にならぬ。打撃を加えねば、直接触れねば、『力』だけでは奴の肌の上で弾かれる。故
に、邪神王が突進してきた事は想定の中で最善に近い。涼子の隙を掴んだと思ったろうが、
彼を迎えるのは彼女の隙ではなくカウンターだ。
『しかも、それにもさっきの光の鳥を使う』
友一郎が手を伸ばしても、遙かに届かぬ巨大な光のフェニックス。それを二連続で撃つ。
決まった。誰の目にもそう見えた。邪神王の上半身は、強い光を間近で受けて蒸発する。
膨大な光の炸裂に、放った涼子の姿も消えた。離れて見ていた魔神達も光の強さに目を覆
う。この至近では、成功しても彼女も無事では…。
光が弱まって目を開いた彼らに見えたのは、爆風に表面を焦がされつつも、尚原形をと
どめ荒く息づいて立ちつくす邪神王の姿のみだ。
「し、師匠……?」
こっちだ。涼子の声は別方向から聞えた。
「奴め自爆覚悟で先に全身に衝撃波を纏った。効果は相打ちに近い。当ったとは言えぬ
な」
それでも、幾分かのダメージは負った筈だ。
「鳳凰天舞は、かつて我が国の王位継承者が必修を求められた神を撃つ技だ。私の頃には
その古風は廃れていたが、格式に煩い年寄りを黙らせる為に、姉君が私に教えてくれた」
その威力は半端ではない。尤も、威力に応じて使う側にも大きな力と資質が必須な故に、
誰もが履修できる訳ではなくて廃れた訳だが。
和服も長い銀髪も一部が焦げている。攻防が間近すぎて、守りきれなかったのか。こん
な涼子は少年も初めて見る。だが、事はまだ終ってない。奴はまだ生きている。涼子より
痛手は大きい筈だが五体満足で息づいている。
「貴様あぁあ、やってくれるじゃないか…」
「これだけやったら良いだろう。互いに痛い思いもした。そろそろ和解しないか?」
彼女の目的は全面戦争ではなく、パズズを倒す勇者の使命でもない。適当な所で相手に
戦いの無益さを悟らせ和解する事だ。己が受けたダメージも交渉材料に扱い相手を誘うが。
「どうやら、この俺を本当に怒らせてしまった様だ……。この、俺様を!」
おおおおおっ! 彼は更に気合いを高めた。
精神生命である神は、その愛や闘志や憎悪を高める事でも強化される。精神の力を物理
力に相転移させ、国を滅ぼしたり奇跡を招く力の源にも出来る。それは多くの人の、信仰
心と云う精神の力を得れば一層強化されるが。
「俺様とて鳳凰天舞位、幾らでも扱えるわ」
言いながらパズズは光の鳥を六つ呼び出す。
『冗談! 師匠の必殺技を乱打するなんて』
流石にそれは受け切れぬのか、涼子は受ける姿勢をフェイントに光の鳥を躱しにかかる。
あの光熱は範囲こそ左右に二メートル程だが、その熱は普通の炎と違う。常の炎なら水や
氷で相殺もできるが、この鳳凰にそれは利かぬ。
「所構わず打ちおって……」
涼子の姿が舞の如く一瞬の残像を残し次の地点へ移り変る。半瞬後れで大地に突き刺さ
る光の鳥は、土を抉り地上に穴を穿っていく。
「ハッハハハ、逃げきれはせぬ!」
『パズズの動きがどんどん早くなっていく』
今迄の闘争が、長期間実戦から遠ざかっていた彼にはウオーミングアップになった様だ。
『師匠の動きは、巧みで早い』
これも相手に応じどんどん早くなる。規則的で省エネな円運動に唐突で直線的な動きを
不規則に織り混ぜ、彼女の動きは先を読みにくい事この上ない。邪神王は不可視の衝撃波
とブラック・ストームと鳳凰天舞を混ぜて撃ち、涼子はそれを躱しつつ反撃の機会を探る。
だが、邪神王に光の鳥は有効なのか。少年には涼子にそれ以上の手がなく見えた。直に
当って効かねば状況は拙い。それを易々知られると思えぬが、いつ迄も隠し通せるとも…。
「驚異的な戦いになったな」
我らは彼女と戦わないで、正解だった様だ。
真後ろ間近で突然魔神がそう声をかけた時、少年は心臓が止まる思いをした。涼子は今
激戦の最中にある。今彼が、人質にならぬ迄も、危機に陥って涼子の注意を散らす事にな
れば。
「あんたはパズズの味方だろう!」
逃げたり先制する事が攻撃を誘いかねない。故に見える形で警戒を示しつつ、問う少年
に、
「フ、フフ……。今お前をどうかする積りはない、安心しろ。俺は強い者の味方だ」
決着前の実力の勝負に介入する積りはない。彼らの筆頭と思われる、邪神王にはイルル
ヤンカシュと呼ばれた、長身な武者姿の魔神は、
「実際、あの女には剣の勝負でも俺達は勝てたかどうか。魔道を使う戦いになれば全員で
も足止めが精々か。恐ろしい力の持ち主よ」
伝説の邪神王と、互角に張り合うのだから。
素直すぎる賛嘆の呟きに逆に少年は憤って、
「どうせパズズが勝ったらその命令で、僕達を生贄にするのだろう。今だけ良い事を…」
あの性格では少年を見逃してくれそうには思えなかったし、逃げきれると思えなかった。
「あの方が命じるなら、その命に従う迄だ」
魔神は抑揚のない声でそう言って、
「お前の師が勝つ見込みも、ないではない」
「師匠が勝った場合、あんた達は師匠の配下になるのか。パズズに対しそうだった様に」
少年の詰問調に魔神イルルヤンカシュは、
「いや、そうはならぬだろう。俺達は新しい主を求め、どこへともなく旅立つ事になる」
「それじゃあ不公平だ!」
少年は不満そうに彼を振り返った。ダークブルーの精悍な肉体は、少年より二回りも三
回りも大きく、彫像の如くそびえ立っていた。
「彼女の提案は、魑魅魍魎の王座決定戦ではない。パズズが我らの主に相応しいか否かを、
彼女との戦いを通して見極めろという内容だった。言葉を反芻して、意味を辿って見ろ」
確かにそうだった。涼子はパズズを倒すと言ってないし、奴に勝って妖怪の王になると
も言ってない。涼子は一対一の状況を造る上で、勝者が王となる決戦の提案を避けたのだ。
『勝利が困難だと、そう見通せたからか?』
「我らが王に求めるのは勝利だけだ。引き分けも相打ちも、消化不良の結末も望んでない。
万が一、負けぬ迄も満足な勝利に終れなければ、その時が我と王の縁の切れ目になろう」
あ……! そう言う事か。
涼子は尚逃げを捨ててない。困難な勝利より、和解か逃走の機を探っている。その場合
考慮すべきは、邪神王以外の魔神達の追撃だ。
相打ちは別として、涼子が引き分け或いは逃亡した場合、邪神王は魔神達に追撃を命じ
るだろう。その時、涼子とパズズとの戦いが王座決定戦であれば、戦場離脱は負けに映る。
彼らはその侭邪神王の配下として追撃に来る。
だが、邪神王の王器を見極めるとなった今、涼子の戦場離脱や引き分けはそれだけに終
る。勝って当り前の強者が勝ちきれなかった。命令を受ける前に魔神達は、彼に従わねば
ならぬ理由を欲するだろう。追撃も遅れる。だが、
「この世で女が最強という事はない。パズズが敗れる事は、奴と彼女以上の力を持つ絶対
者がどこかにいるという事を、同時に示す」
それは彼の思い込みでは、ないのだろうか。
確かに彼の師匠も常々そう言っているが…。
「それに彼女は王座なんて欲してない。我らが仕えると言っても、面倒だと嫌うだろう」
僅かな応酬で彼女の性格を見抜く。侮れぬ存在だ。そう言う彼を巧く邪神王から切り離
せた涼子も凄まじい。彼らの魂を知らねば不可能だ。舌先三寸でも知識でも及ばぬ領域だ。
「あんた達は一体、何を目的にしている?」
彼らの悪意の希薄さは少年にも意外だった。パズズと一心同体だと思っていたが違うの
か。
「我々は唯、強き主・真の主を求めるだけだ。誰にも負けぬ、誰にも屈せぬ真のつわもの
を。
パズズはそれに最も近いと思った。あの暴威、あの躍動、あの執念、絶大な力。しかし、
何度も女に敗れる様であれば、我々とて見る目がなかったと、考えるしかあるまい」
涼子程の傑物を前にしてもその思いを揺るがさぬのは、石頭を越えて信念と呼ぶべきか。
「真の主、真のつわもの。一体、何の為?」
思わず問う少年に魔神は隠す必要もないと、
「闇の使徒はどの神も凌ぐ力を持つと聞く」
我らの大望は闇の使徒の探索だ。神を脅かす闇の使徒は、魔族だけではなく魑魅魍魎の
望みでもある。古からの伝説は、嘘か誠か…。
『この魔神達も、闇の使徒伝説を?』
友一郎は冷や汗を流しながら、黙っていた。神々の集団独裁は、天界内部や魑魅魍魎の
間にも不満の波を広げつつあると聞いていたが。
「む! 状況が変った」
別の魔神のその声に、少年は慌てて前に向き直った。少年をそう促す為に声を出してく
れたと気付いたのは、少し後になってからだ。
鳳凰の群をよけ切れぬ涼子が一部を『光る拳』で弾き返す。拳に込めた力で弾く訳だが、
間違えば手の甲でも爆発する、かなり危ない。四つの鳳凰を弾き返せた彼女だが足が止ま
る。攻撃の目的は足止めだ。足下から刺の生えた蔓草が伸びて絡まって、細い身体を捕ら
える。
血飛沫が宙に舞う。植物精霊か。解くのに彼女も一秒は掛る。その一秒が致命的だった。
「食らえ。我が神の力」
正面攻撃と並行し邪神王は彼女の更に背後の土中から、蔓草で掴んだ剣を一本取り出す。
かつて彼を討ちに殺到した勇者達の持ち物で、神をも斬れる代物だ。威力に困る心配はな
い。
涼子の背から、その剣が突き刺さる。そして防御の緩んだ瞬間に、鳳凰天舞が命中した。
膨大な光の放散に少年が幾度目か目を覆う。
「師匠……、はっ?」
相当な規模の爆発だったが、彼女はまだ五体を残している。否、それ以上に丈夫な蔓草
は彼女の身体をがっちり掴んでいて、刺が食い込む胴体は血が滲み。口から、鮮血が噴く。
辛くも心臓は躱した様だが、光の鳥をまともに受け、勇者の剣迄が背から腹に刺さって。
涼子は血の気が失せている。気絶したのか?
「捕まえた、この時をどれ程待ち望んだか」
数千数万の時を経て、俺は再び生贄を得る。
彼は蔓草を自分に向って引き寄せる。もう抵抗できまいと、無抵抗な身を嬲るか止めを
刺すかする積りだったろうが、少し早かった。
太い腕で抱き締めようと手を伸ばすと、涼子の右腕が苦し紛れを装って彼の頭に触れた。
「かかったな」
彼女が凄絶な笑みを見せた時、邪神王は彼女の意図を察知したが、僅かに遅い。
「鳳凰、天舞!」
額にびったり腕をつけ、防御の暇も距離も持たせず、涼子は必殺の力を自爆気味に放つ。
『決まった。今度こそ!』
「グアオオオオウ!」
名状し難い、悲鳴が響く。大地が波打った。涼子の身体は爆風で数十メートル吹き飛ん
で、痛みに渋い顔を見せつつ尚まともに着地する。唯飛ばされたのではない。彼女は己の
意思で、熱風に乗ってその爆心をいち早く離れたのだ。
「師匠、大丈夫……」
そう叫びかける友一郎に、
「お前が私の心配など、八十年早い……。
世界一の美女の身体を犠牲にしたのだ、奴の命には高すぎて、釣り銭が足りぬ位だ」
彼女程の魔道士ならこの傷も命には及ばぬ。
しかし果してこれで奴は絶命しただろうか。
「フウウウウウ……」
その息吹が、爆風の止みつつある埃立ち上る中から聞えた時、涼子も魔神も唖然とした。
「よ、よ、よくもおおお!」
パズズとて無事ではなかった。なかったが、あれで動けるとは。不死身に限りなく近し
い。
「この神である俺を、俺を、俺を俺を俺を」
左脳が消失していた。左肩から、腕もない。破けた肌からは、緑や青の体液が吹き出し
て、大地に触れては音を立て湯気を上げる。強酸性の液体らしい。それでも。まだ動く、
まだ死なぬ。少年には、もう継ぐべき言葉がない。
「なあ、この辺りで手を引かぬか?」
涼子は再度呼びかけた。自分も痛手を負っている。これ以上戦っても得る物は何もない。
「賢い神なら、ここは手を引いた方が良い」
私が逃げ出すから追うな。勝者は汝で良い。
しかし彼女のその提案はまたしても断られ、
「貴様、これ以上戦える力が残ってないから、逃げ出そうと言うか。そうだろう。逃がさ
ん、逃がすものか。こうなれば、どんな事をしてもお前を食い殺さなければ、気が済ま
ぬ!」
この俺にこんな痛み、恐怖を与えおって!
「許さん! 絶対に許さん!」
神の執念とはかくも凄まじいものか。
全面戦争だ……。涼子は頭を抱えた。
回避できぬ定めは、やはり回避出来ぬのか。
体中に怒気を漲らせて、パズズは傷を治しに掛った。元々物質的存在ではない神の方が、
肉体を部品の様に取り替えられる故、人より回復は早い。人は簡単に脳を取り替えられぬ。
涼子の顔が更に渋くなる。背から腹に突き抜けた剣には、面倒な毒が塗ってあるらしい。
「何しろ、この俺様の血液だからな。触れるだけで身体に馴染み、生体を悶え苦しませる。
じきに身体が腐り始めるぞ。ヒャヒャヒャ」
「ややこしい毒を、使いおって」
彼女は『力』で傷口を凍らせて塞ぎ、その部分の血の巡りを止める。応急はこれで良い。
背中から柄迄刺さった剣は動きの邪魔なので、光る拳で突き出す刃を叩き折り、当座を凌
ぐ。
「おのれ、厄介な女め。どうしてくれよう」
パズズとて、吹き出る己の内蔵や体液を抑えねば、処置せねば危ういのに、それで尚彼
女を逃がさぬ体勢は、神の執念の凄まじさよ。
対する涼子は遂に全面戦争を覚悟した様だ。相手が交渉に応じぬ以上、叩きのめす他に
は方法はない。決断が遅いという見方もあるが、彼女はここ迄消耗戦を良く凌いで来た。
むしろ今迄が攻勢に出る為のお膳立てとも言える。
両者共疲れの色は隠せぬが、パズズの消耗は涼子を遙かに上回る。今なら有利に戦える。
回復力は彼が強い。今後はむしろ時間が敵だ。
攻勢に出るべき彼女が突如足を止めたのは、パズズの笑みを、残った顔の半分に見た為
だ。
「ちいっ!」
無色無形の力の筒が、涼子ではなく友一郎に迫ったのだ。予期せぬ突如の攻撃に、少年
も間近の魔神達もよける暇はない。咄嗟に防御の力を張るがそれで何とかなる物ではない。
『躱せない。やられる……?』
無色だが、周辺の空気が揺らぐ様は見えた。
そして、衝突。巨大な乱流の渦が間近で…。
「……んん?」『生きてる……』
目を開いた時少年はまだ生きていて、その瞳には彼を庇う姿勢の師匠の後ろ姿が見える。
「状況は悪くない。奴が、こんな手段を使わねばならぬ所迄、追いつめられているとは」
袖が白い煙を上げている。ブロック出来てもそれは相当な消耗だろう。身体に力や気合
いを入れればそれだけで傷は疼き、消耗する。
「愚かな奴よ。そんな小僧等見捨てておけば、或いは今なら、俺を倒せたかも知れぬ物
を」
守りに回れば勝ちはない。特に涼子の立場は打ち倒さねば己が滅ぶ程危うい均衡の上だ。
「俺は常に攻め続ける、俺は常に奪い続ける、俺は常に破壊し、犯し、引き潰す。俺に守
る物はない。俺は民も国も守らない。唯奪う、唯潰す、唯腐らせる。それが人と神の違い、
勝者と敗者の違いだ。ハアアハハハハハ」
形勢は確定された。涼子は絶大な不利を承知で己の立ち位置を固定させた。である以上
彼女は逃げはせぬ。邪神王は急いで攻める必要はない。その身体と力の回復を待てば良い。
無駄なお喋りと高笑いは、それを表している。
涼子は少年と、一緒にいた魔神達を庇う形でパズズの正面に立っていた。守るには前面
に展開する他に術はない。力の差からも一点に集中せねば守りきれぬ。唯一の例外を除き。
「勝てば人望など勝手に寄りつく。捨てても潰しても滅ぼしても人は躙り寄って這い蹲る。
故に唯勝てば良い。唯攻めれば良い。守る必要等ない。人など幾らでも沸く。なぜ守る、
己の不利迄招き寄せ。貴様の姉も同じだった。役にも立たぬ弱者の群を無意味に愛玩し
…」
幾ら揃っても屑は屑、ゴミはゴミ。困った時に己を助けてくれもせぬ。その力がないだ
けではなく、むしろ己が危うい時には見捨てて敵に回る事さえある有象無象を、なぜ守る。
「それでは最後の勝者になれぬ事を思い知れ。己以外の全てを捨てねば勝利は拾えぬの
だ」
涼子も動く様子はない。防御展開で動けぬ以上に、彼女も一呼吸置かねば次の動作も難
しい様だ。相手が力を戻しつつある状況は見ているが、今の一撃は予想外に重かったのか。
「そこ迄せねば女一人に勝てぬか、邪神王」
涼子の挑発にも彼は乗せられる様子もなく、
「そこ迄しても、勝利にだけは意味がある」
貴様はそこ迄して守る事に何の意味がある。
その思いは背後の魔神達も同じだった様で、ついでに守られた形のイルルヤンカシュも
が、
「貴女はなぜ、目前の勝負を捨て少年を…」
「そうだな。奴の言う事も分らぬではない」
涼子は苦虫を千匹位噛み潰した顔で微笑み、
「姉君だったら、こうする事に迷いはない」
苦笑は迷いがある己への自嘲なのか。涼子は瞳を閉じて深呼吸して、その双眸を開くと、
「守る物のない戦いにこそ意味はあるまい」
人の心は移り変る物、背き離れる物、熱し易く醒め易い物。そう言う物を頼りにはせず、
だが決して腐る事なく、その軽佻浮薄も愛で。今なら姉君のその心情の一端が分る気もす
る。
「否、分りたくて堪らないと言うべきかな」
今尚、掴めたとは言えぬ。この行いは半ば涼子自身の思惑に基づいた物だ。結果が同じ
に出ただけで、表面をなぞっただけで、内実迄が同じ訳ではない。姉君の心中は尚分らぬ。
「だが、彼は私の宿願を導いた。私一人では決して超えられなかった壁を、運命の歯車を
彼の存在が回してくれた。その為に、今汝とこうして対峙する羽目に陥った訳でもあるが。
彼は私の恩人であり、守るべき大切な者だ」
私はこの定めの巡りを、受け容れたく思う。この定めの巡りを招いた彼を、守りたく思
う。
視線は目前の邪神王を捉えてない。困苦や危険や痛みの待つ、再び巡り始めた因果の輪
廻を受け容れ、引き受ける覚悟の表情は今迄に見せた事のない透明な美しさと強さに満ち。
涼子は己の行く先を受け容れた。受け容れて尚戦い続ける意志を確かに持った。盲従で
も屈従でもない。避け得ぬ運命を正面から見据え乗り越える意志の強さは、尋常ではない。
邪神王はそこに、かつて敗れた彼女の姉の面影を見たのか。今迄にない苛立ちと焦りが、
友一郎にも見て取れた。そして涼子の中に今尚息づく、姉への思慕とその強さの継承も…。
友一郎はこの時涼子に惚れたのかも知れぬ。
「ならこれを受け止めて敗れ去るが良い!」
涼子の防御正面に集束気砲が連続して当る。剥き出しになった内臓や脳が修復途上故に
力不足の感は否めぬが、涼子はこれを躱せない。ブロックはしても衝撃は伝わる。彼女の
身体が衝撃波を受けるその度に、ガクンと震える。
「これこそ当然。神が人間に勝つは天の摂理。
ヒッヒイヒヒ。動けなかろう。それで良い。役にも立たぬ小僧に拘る所など、いかにも
人らしいではないか。そうやって、立っていろ。今こそ貴様に人間の身の程を教えてくれ
る」
集約した涼子の防御を目がけ、パズズが力を次々に放つ。連打と言うより乱打と言うか。
ブロックは涼子の足を止めた。背後の友一郎を守るには、ここで防ぐしか術がない。尚
相手の照準を逸らせ力を弾き、別の爆風を防御に転用する等技量は高いが、その場を動い
て躱せはしない。正面から力で受け止めると次の防御に響く。分単位で負荷が堪っていく。
右手一本しか残らず本来の馬力を出せぬが邪神王の怒りと憎悪は捌け口を求め荒れ狂う。
間近な勝利に攻勢は苛烈さを増した。回復も同時進行で進む。やはりその潜在力は膨大だ。
もうすぐ、今迄の強大さに更に輪をかけた力満ち溢れる完全なパズズが甦る。もうすぐだ。
「師匠、どけて下さい。持たない……」
だが涼子は、お前の心配は九十年早いと言って姿勢を変えぬ。その侭打撃を受け続ける。
細身の和服に数カ所血が滲むのを見て、彼は守られた領域の外に出る決意を固めた。自分
がいるから涼子が不利と負荷を負う。己がこの場を出れば彼女には死守する必要が消える。
「何をする!」
少年は肩を抑える魔神を振り返った。自分がいなければ師匠はまだ戦える。急がねば!
自分は人生のどの場でも余分な存在だった。不要で有害で、居場所のない物だった。だ
が、ここで迄足を引っ張りたくはない。大切に想う人に迄、この人に迄負荷をかけたくは
ない。
「馬鹿が。今お前が彼女の領域から出て、この高エネルギーの中で、生きていられるか」
周囲は、パズズが打ち出し涼子が弾いた集束気砲の余波が充満し、鉄をも熔かす高温だ。
「それではお前が保たぬから彼女が頑なに動かぬのだろう。出た瞬間に蒸発して終りだ」
友一郎はそれでも良かった。むしろそうなりたかった。己を消したい思いは常に内在し
ていた。今程強く念じた事はないが。己の消失で事が好転するならと。その機会を彼は望
んでいたのかも知れぬ。生贄志願というのか。己が苦を受ける事で何かが取り戻される錯
覚。己を滅ぼしたい想い、己が傷つきたい願い…。
己が傷付いても消失しても、涼子が生き残れば良い。むしろそうせねば。その思いを口
に出しかけた彼にイルルヤンカシュの一言が、
「それでは、彼女が傷ついた意味がない」
言葉で心を殴られた。流動する状況にふらついていた視線が点になる。今現在一体誰が
何の為に戦っているのか。戦う者はなぜその犠牲を己に承諾するのか。犠牲を受けた者は
どの様にその心に応えるべきか。見開く瞳に、
「自分で考えろ。俺はおまけで守られているに過ぎぬ。おまけは無責任だ。お前は違う」
何とも無責任な言い草だ。そう思えるだけの冷静さを少年は取り戻せていた。視点を外
に戻し、切迫した状況を見つめ直す。涼子は己の鮮血で、白い和服を朱に染め直していた。
「ハハハハハ、おまえの姉もこのようにして殺してやりたかったわ!」
あのにっくき顔に、よく似ておる。あ奴の所為で俺は数千年もの雌伏を強いられてきた。
『あの時の、あの技、あの視線、あの顔つき。あの強さを俺は怖れた。神を震わせおっ
て』
動けなかった、防げなかった。あの熱と光。腹の据わったあの瞳と痛みを怖れぬ強い決
意。
『俺はあの時の屈辱と恐怖と、そして憎しみの誓いは忘れない。絶対に復讐してくれると。
何が何でもあの恨みは晴らさずおく物かと』
「だが今は、俺の復讐を受けるべきあの女はいない。奴は無能な天帝に従い続け、よりに
よってその天帝の放った刺客に、謀反人の朝敵逆賊として殺されおった。ざまあみろっ」
パズズは尚も鳳凰天舞を撃ち続ける。勝負の帰趨は見えてきたが、それでは彼の納得が
行かぬ様だ。彼の目的は勝利ではなく復讐だ。ブロックする涼子の腕の皮が破れ血を噴い
た。美女の生贄はもっと丁重に扱えと呟く声にも、
「だが悔しいのは、貴様の姉に止めを刺せなかった事だ。この俺が、あの美しい身体を悶
え苦しませてじっくりと貪り食いたかった…。
だが構わぬ。残った連中に償わせれば良い。食い殺してやる! この俺様に逆らった、
その愚かしさを思い知れ。貴様の目の前でその大切な役立たずの小僧も食らってやるわ」
無力な役立たずの為に勝負を捨てるなど愚かしさの極致よ。万年後悔させてくれるわ!
役立たずか。いつも、そう言われてきた。
『お前なんか生まれてきた事が間違いなの』
『父を惑わせて、過ちを犯させた悪女の子』
二人の姉は正妻の子故にか彼を憎み続けた。
『魔女の子供、災いの源。財産欲しさに…』
『お前には何も残さない、お前に生きる資格なんてないのよ』『過ちの子供、間違いの命。
いなくなってしまえば良い。死んで頂戴っ』
彼を守る人もなく、誰にも欲されぬ。彼は今迄そうだった。常に異分子で、老師の元に
いた時でさえ居場所が違う感は拭えなかった。
役立たず、役立たず、誰にも望まれず。
過ちの子、過ちの命、彼は邪悪の子と。
違う……。友一郎は拳を握り締めた。
『彼は私の恩人であり、守るべき大切な者』
そう言ってくれる人がいた。激痛と困苦を負っても彼を守る人がいた。彼に値打を見い
だす者がいた。今迄自身が肯定出来なかった朝日友一郎。だが、今は違う。己が認めずと
も彼を認め、傷を負って迄して守る者がいる。
そして何より、彼が守りたく想う人なのだ。何かをしてくれたからではない、本当は彼
は、何もされなくてもこの人の為に尽したかった。己の罪を消す為に、誰かに尽くすので
はない。この人の為に役に立ちたい、力になりたい!
『死力を尽くせば、僕にも何かが出来る筈』
少年の周囲に異様な『力』が結集し始めた。使える能力を全て右腕、右の掌に集中させ
る。
『生半可な力じゃ、奴に手傷も与えられぬ』
力尽きたか! パズズが満足げに攻撃を止めた時、涼子は気力で立っている状態だった。
底が見えぬ程膨大な魔道の力も息切れし、両腕を治す余力もない。それでも呟くその声は、
「女には少し手加減をしろ、このバカめ…」
「ヒャアッハッハッハ。いい気味だ。今度こそその身体を食らってやる。次に貴様の故郷
に行って一族郎党、家臣国民を皆殺しに食い荒らし、貴様の姉の墓を屍を暴いてやる…」
「そうは、させるか」
涼子でない、静かにそう応えたのは友一郎。
「僕の大切な人を、殺させはしない!」
なぁにいぃ。パズズは少年など眼中にない。
「貴様如き役立たずの小僧に、何ができる」
その声が途中で止まった。なん、だと……。
「わが召喚に応じよ、魔界住まう生きた炎」
な……。その言葉に涼子も振り向いた。
「我が力を食らい、我が身体を食らえ、魔の炎。暗黒世界から光り溢れる世界へ出でよ」
空間を歪めるのに不可欠な力が既に、高温高熱で満たされていたのも、少年に有利に働
いた。異空間から、命持つ炎を呼び出すのだ。
彼はこの一撃に、全ての勝負をかける気だ。
「焼き尽せ闇の炎。お前の餌を示してやる」
少年は渾身の力を放つ。無色無形の衝撃波はしかし大した物ではない。彼の全力と言っ
ても集束気砲に遙かに及ばぬ。邪神王には牽制にもならぬ。肌の上で弾ける物だ。それは
暗黒の炎を異空間から招く呼び水で餌なのだ。
故に邪神王も初動を誤った。格の違いを見せる為に敢て受けた。回避不要と見くびった。
彼の伸ばした右掌の五センチ程先の空間から、この世ならざる黒い炎が噴出し、衝撃波を
追う様に遡る様にパズズに突き進み、身を包む。
おごおおおおおお! パズズの絶叫。
『ダーク・ファイアー。命持つ異次元の炎の精は、空間を歪めて入口を作り術者が餌を示
せば、それを食らいに続々と沸き出してくる。ザンビーノが使った技に近いが、より扱い
に繊細さが求められる上に、術者自身とその力を餌に誘う以上、成功しても只では済ま
ぬ』
周囲は既に時空を歪め易い状況ではあった。だが技量も力量も不足した中での技の発動
は、成功か否かを問わず彼自身を浸食し喰い潰す。その危険を、その負荷を、重々認識し
つつ尚。
水では消せぬ闇の炎は、何かを燃やし燃え続ける事で増殖し生きる。消し去るのは容易
な事ではない。パズズの身体を黒い炎が包み行く。しかし彼も邪神王、簡単には喰われぬ。
「こんな炎などおおお!」
危うさを察知して、身体中に衝撃波を纏って炎を弾こうとする。その力を餌に黒い炎が
殺到する。これは両者の力比べだ。パズズの回復と炎の蚕食は伯仲し、その形勢は読めぬ。
「友一郎、よせ。身体が持たぬ……」
初めて脇役になった師の声にも耳を貸せぬ。二度できる技ではない。奴を葬れるのはこ
の時だけだ。体力と気力が激しく消耗している。もっともっと。炎を呼び続けねば奴に勝
てぬ。
ぬううう。固定した友一郎の掌に、炎の一部が逆流し始める。炎にすればパズズも少年
も餌に過ぎぬ。黒い炎が右腕を包み燃え出すが、少年はそれでも炎の召喚をやめなかった。
「燃えろ燃えろ焼き尽くせ。奴を焼き殺せ」
「おのれえい、こんな炎、こんな炎など…」
こんな炎などおおおおお!
邪神王は苦戦の末に、漸く炎を打ち破るめどが見えた様だ。まだ足りぬのか。少年が黒
い炎に包まれるその右腕に更に力を込めた時、
「もういい、限界だ」
炎に包まれる少年の腕を、自ら焼ける事を顧みず涼子の右手が握り締め、空間の歪みを
無理矢理閉じる。歪みを閉じれ炎はそれ以上噴き出さぬ。だがそれでは邪神王は倒せない。
「これ以上やってもお前が食われるだけだ」
腕を見せろ。彼女が彼の腕を引き寄せると、足がふらつく。体力も一気に底をついて、
立っていられない。その右腕は肘から真っ黒に焦げて炭化していた。これ以上やれば魔道
士でも何でも身体を食われて命を失う。それに彼にはもう、炎を導く力さえ残ってなかっ
た。
友一郎……? 抱きかかえる師匠に、少年が涙を見せた。視界と意識が朦朧とする中で、
「やはり、僕は、役立たずでしたか? 何をしても僕は、人の為に役立てないのですか」
自分はやはり、誰にも望まれぬのか。終生不要な存在なのか。最初から駄目な物・罪な
物は、いつ迄経っても幾ら努力しても、値ある物にはなれぬのか。覆せぬのか。でも!
「共同し支援し合う複数とは、互いに守り合う物です。守られるだけの物を指しはしない。
僕は貴女を守り支えたいんです。貴女を!」
挑戦する如き強い意志。この時2人は『共同し支援し合う複数』になった。涼子は瞬時
驚きの顔を見せ、微かに瞳を潤ませる。それは友一郎を見る以上に、遠い何かを見つめ…。
ふううううう。パズズが身体にまとわりつく闇の炎を凌駕し始めた。援軍を失った闇の
炎を、何と彼は己の身体に吸収し始めたのだ。
炎は尚抗っている。己を吸収する力迄養分に増殖を計る。だが邪神王はそれを上回った。
もう少し時は掛るが、形勢は見えた。後少しで炎を皆食い尽くせる。彼の新しい力になる。
彼は更に強化される。更に強大な魔神になる。
危なかった。人の捨て身は侮れぬ。しかし、
「貴様らに手は尽きた様だな」
彼はニヤリと笑った。逆転の芽は、出尽くした。だが、涼子もそれを受けてなぜか凄絶
な笑みを返した。それは何を思う笑みなのだ。
「友一郎、傷を治してやる」
言うなり少年の唇に口づけた。驚く彼に、
「もう少し嬉しそうな顔をしろ。絶世の美女がファースト・キスの相手なのだぞ」
身体の内側が暖かさに満ちる。暖気が血管を通し全身に生命を吹き込んでいく。回復・
治癒は口移しが最も有効で直接的だが、故に術者の負担も大きい。今の涼子に余裕はない
筈だ。黒く焦げた腕から鮮血が噴き出すのは、右腕が『生き返った』証拠だが、彼女一体
…。
「さて……そろそろ邪魔物を、片づけるか」
「言い残す事はそれだけか? なら、死ね」
邪神王が口にそう出した時、涼子が応じ振り返った時、逆に彼が震え出した。身体を捻
るこの瞬間は絶好の好機だったのに、なぜ?
この気配だった。この瞳だった。この覚悟だった。そして、この技だった。パズズに正
対して立つ涼子の左手二本指に、白熱の輝きが見える。身体に残る以上の力を念動力に変
え、一点に集める事で高温高熱と化し、放つ。
「まさか、それは……」
神にもフラッシュバックはあるのだろうか。後日友一郎は、邪神王が明らかに涼子では
なくその背後の幻影に怯えていたと語っている。
「姉君はこの場面できっとこうしただろう」
涼子は、先程迄姉の遺志が宿っていたこの場で、姉を模し姉の意を受ける事で、己以上
の何かを、姉の血も流れる己の奥から引きずり出そうとしている。邪神王をうち倒せた過
去の流れを再現し、結果の再現迄を求め。
姉の魂を識り、姉の行いを模し、姉の力を映し、姉の結果を再現して掴む。その末路は
幸に縁遠かった、非業の最期を遂げた姉を…。
全て受け止める。末路を同じく、辿ろうと。
「私になら出来る筈だ。逆に私にしかこれは為せぬ。果して汝はこれに逆らい得るか?」
額を汗が流れ落ちる。成否は常に流動的だ。
「やめろ、それは止めろ! 止めてくれ!」
遥か昔の苦い記憶が甦る。あの恐ろしい…。
瞬時身動きが取れなかった。金縛りにあった様に、回避も先制もできなかった。心が意
思が、瞬間だけだが萎縮して動き得ず。それは彼の内なる作用なのか、外なる作用なのか。
打ち出す瞬間少年は、涼子に良く似た淡い人影が本人に寄り添う様を視た。知性と意思
を兼備した、凛とした美しさを持つその影は彼にも目線を向け、微かに頭を下げた様な…。
『共同し支援し合う複数』の究極の形とは!
「光気砲……!」
閃光が走る。ブロックに右手を翳すパズズの右腕に光が当った時、皆の五感が消失した。
天地を揺るがす大爆発に、海も陸も震える。
ぐおおおお。邪神王の絶叫はどこから届く。
名状し難い苦しみが周りの者の五感迄貫く。
光の砲を放った彼女自身が立っていられぬ。
「今度こそ、致命傷……?」
目を覆う光熱が止んで、漸く状況が見通せた時、邪神王は腰から下が残るだけだった。
満ち満ちた神の力も、粉砕され消えた。微かな悲鳴の思念が、神の虫の息を皆に伝え来る。
「まだ、生きている?」「まあ、致命傷か」
か、回復と治癒を……。神故に肉体が本体でないパズズだが、この一撃は致命的だった。
上半身を、脳を作る力が足りぬ。下半身から強酸性の体液を雨として吹き散らす邪神王
に涼子はゆっくり歩み寄った。止めを刺す気か、話しかける気か。彼女にも余力はないが、
放置すれば彼は甦る。決着は付けねばならぬ。
「汝の望んだ最後だ、神よ。全面戦争終結」
【や、止めろ。俺を殺すのか、俺を再び封じるのか。止めろ、やめてくれ……へへ】
突如彼の声音が変り、涼子が地に崩れ落ちた。凍結させた傷から血が溢れ出る。一体…。
【馬鹿が。我が領域・魔法陣に入り込んで】
魔道の力を有効に扱う為に開発された様々な文様の魔法陣は、己の力を増し、他者の力
を抑制・消去できる。パズズは飛び散った血で巧くその文様を描いていた様だ。
【今の俺では何もできぬが、貴様の身体に回った毒は俺の血だ。この魔法陣にいる限り貴
様は只の女だ。毒が回って死ぬのを待てぃ】
ヒャアハハハハ! どうだ、もう意識が保てぬだろう。俺はじっくりと回復させて貰う。
そしてガキと貴様を食い殺し、再び王の座を。
「とことん美女をいたぶりおって」
涼子は凍気が切れ青く腐り始めた傷口から刺さっている剣を引き抜いた。顔色が蒼白だ。
『自分の血で魔法陣を書き換えようと…?』
【そんな手は通じぬ。俺は邪神王ぞ!」
その程度でこの俺が血で書いた文様を乱す事ができる物か。地獄に落ちろ、貴様だけ!
【俺は地上で貴様の屍を食って再生するわ】
叫んだ時、唐突に涼子が立ち上がった。
えっ? 流石のパズズも反応が出来ぬ。
魔法陣が破れている。文様に何か邪魔な物が書き加えられたのだ。しかし、同じインク
でなければ書き加えは有効ではない筈なのに。
【なぜ? 貴様が俺の血を持つ筈がない…】
愚か者が。涼子の表情は痛みの故か厳しい。下半身のみの邪神王の真ん前に立って対峙
し、
「私に突き刺した剣に塗った毒は、汝の血液だろう。私が傷口から血を噴いたのは、凍気
の力が消失した以上に、汝の毒液を流す為だ。共に流れ出た汝の血が、文様を書き換え
た」
邪神王は言葉を失った。力はともかく、技や狡猾さでは人、というより涼子の方が上か。
「この柔肌を傷つけた以上、覚悟はあろう」
せめて、歩み寄った時に対話を申し出れば、受けぬ事もなかったのに。涼子は本気で少
し残念そうに呟いた。ここ迄来て相手を欺き害する者は、信用できぬから講和の意味もな
い。
【お、俺は神、俺は神だぞ。神の執念深さは貴様も知る筈だ。特に死に際の詛いは最強だ。
俺を殺せば、俺は貴様を永劫詛ってやる!】
常の人の詛いでさえ、解除は至難を極める。まして神の詛いとなれば、未来永劫、生れ
変っても引きずり続けよう。それが神の最後の抑止力だ。神の生命を奪えば、相手も時間
差で共倒れになる。力量や技で勝っても、圧勝しても、最期の一撃は凌ぎ得ぬ。故に神は
不可侵でいられる。したい放題で責められ難い。
だが、それにも対応の術がない訳ではない。
「殺しはせぬ。お前に恨まれて詛われるのは沢山だからな。殺さずに封じ込めるだけだ」
彼女は彼に恨みを持たぬ。生命を奪う使命もない。戦いが定めだったのは、向うが放し
てくれなかった故だ。涼子は目先の脅威を除ければ良く、将来に害が及ばなければ最良で。
私を詛うのに力を使うより、新しい封印を破る力を温存しておく事だ。苦痛を覚悟せぬ
者の反撃は、限界を見極め得る故対応し易い。言いつつ涼子は虚空に空間の歪みを呼び出
す。
「や、やめてくれ……やめ、や……」
虚空に生じた暗黒の一点に邪神王が吸い込まれ、縮小され消えていく。声が徐々に低く、
遅く響く、最後にはかき消え。神を吸い寄せた暗黒を涼子は、黒板の文字を消す様に右手
で拭くと、思いっきり『あかんべえ』をして、
「二度と出るな、女を大切にせぬ愚か者め」
終ったんですか? 友一郎の確認に、師匠は振り返ると力の抜けた表情を見せて頷いた。
「終った……」
友一郎は身体と心の力が共に抜けて倒れ込んだ。もう起き上がれない。振り向いて魔神
達の意向を視線で諮問する涼子に、彼らは皆首を横に振って、その場を離れる姿勢を示す。
彼らに今更涼子を討つ意味はない。故にこの行いは、互いにとって確認程の意味もない。
唯、一部の魔神は邪神王に勝利した涼子の実績に、闇の使徒探索に繋る力量を感じた様で、
「強大なる術士よ。貴女と戦う積りはない」
「貴女に、我々の王になって頂けるなら…」
仇討ちを望む者も皆無だが、『邪神王に勝利した者を討つ』名声に心迷う者さえいない。
彼らは次の主探しに思いが先走っているのか。
「ああ、行け行け。私はお前達に用はない」
誰かの王として君臨するのは、もう沢山だ。責任も、格式も、使命も、権力も皆ご免蒙
る。私は一人二人の主で充分。……って誰の事?
「では、我らはこれにて」「また、いつか」
二十人余りいた魔神達は虚空から大鳥を呼び出してそれに乗り、次々と飛び去っていく。
待って。少年がイルルヤンカシュを呼び止めたのは、最後に彼が大鳥に乗り込んだ時だ。
「小僧、否少年よ。良い答を見せて貰った」
武骨な彼にそう褒められると、正直嬉しい。
彼の賞賛は単なる力や技ではなく、あの局面で『共同し支え合う複数』を実践した事だ。
配下を使い捨てた邪神王、一対一に勝機を探った涼子、群れて見えても一人一人の魔神達。
皆が見落した要素を拾い上げたのは友一郎だ。
涼子が友一郎を守るだけでは、友一郎が涼子に守られるだけでは、それは不成立だった。
彼の所作が、涼子に眠る姉の血を呼び起した。良くも悪くも彼は彼女の運命の歯車を回し
た。彼がいなければ、常の涼子では邪神王には…。
「闇の使徒を、捜しに行くの?」
ああ、彼はそう頷き、少年の頭に手を置く。
「いつかまた会う事もあろう。その時に俺がお前の敵か味方かは分らぬが、強くなれよ」
言い残し彼も大鳥に乗って飛び去っていく。
終ったな……。余裕ありげに魔神達を見送っていた涼子が、前触れもなく地に倒れ込む。
師匠! 駆け寄る少年に彼女は、
「死にはせぬ。死ぬ程の苦痛は今からだが」
遅い夕暮れが彼らを包む。緯度の高い地域の夏の夜は、薄明るくて短い。彼女は仰向け
に寝返りを打ってから、上半身を起して、
「どれ、治癒・回復してやる」
彼女がそう言った時、少年はさっきの事を思い返して真っ赤になった。また、あれを?
「馬鹿が、腕を出せというのに」
右腕はその侭ではまた腐る。細胞に念動力で刺激を与え、自己修復を活性化させるのだ。
少年は更に赤くなって、右腕を差し出した。
「私の口づけを貰おうなど、百年早いぞ」
あれは非常事態だ。そうでなければ、誰が惚れてもいない子供に口づけなどするか。
「百年も経ったら、遅過ぎはしませんか」
涼子に百年や二百年等、問題ではないが…。
「そうだな。十年位先を、楽しみにするか」
期待せずに待っているから、良い男になれ。
「云っておくが、私の趣味は……」
「強くて若く背が高く、格好良い男でしょ」
「そうそう。今のお前には程遠いな。だが」
『もう少し経てば、お前も、気付くだろう』
少年はまだ気付いてない。そして魔神達も。捜していた物が近過ぎた事を。未だ彼の中
で眠り続けている、伝説を現にする真の驚異を。
「お前のお陰で、漸く姉君の足跡を掴めた」
涼子が次に口にしたのは別の言葉だった。
「同時に運命の輪も巡り始めたが、それも私に向い合えとの姉君の差配か。姉君らしい」
涼子の言う運命とは、間近な邪神王の解放や対戦を限定した物ではない。むしろ友一郎
との遭遇で動き始めた運命の輪は、この後に向けて大きく長く、糸を引いて行く事になる。
【扉を開ける者、壁を穿つ者、先駆ける者よ。
揺り動かされるべき時もあるという事か】
この邂逅が、涼子の止めていた歯車を再動させた。再動を彼女に促した。涼子は姉の意
でなければそれを受け容れなかった。そう知る故に、姉の遺志は友一郎をこの世界へと…。
気配を隠す魔法陣を描け。涼子は納得した苦笑いを浮べて双眸を閉じ、指示を下しつつ、
「少し眠る。状態が落ち着いたら、腕の良い魔道士に治癒を頼むとするか。お前は見張り。
その為に、無理して治癒してやったのだ…」
はいはい。少年はだんだん生き返って来た神経組織が痛みを訴えるのに、顔をしかめる。
「ルカが良いか。奴は北の都アンセニウムを動く事が殆どないので、掴まえ易い。女にし
ては色気がないのが少し難だが。以前に少し借りがあって、まだ返していなかったな…」
魔法陣を描いた土の上に、その侭横になる。
「一眠りしてから出発する。襲うなよ」
「襲いませんって」
「私って、そんなに魅力ない?」
そう言われると何とも言葉に詰まる。
「だったらやはり襲うのだな?」
「襲いませんってば!」
「やっぱり私ってそんなに魅力ない?」
「だから師匠は美人ですって……」
「と云う事はやはりお前、私を襲う気だな。
哀れ、美し過ぎる故に我が危機は去らず…」
あのう。少年は一人で自分の好ましい想像の世界に入り込む師匠に、ついていけない。
「確かに彼女は美人ではありますよ」
胸が少し大きかったらもっと良いんだけど。
人知れずそう呟いた時、少年の頭に小石が、
「おい、何か云ったか?」
いえ、何も。少年の答に彼女は疑わしげに、
「本当か? 本当に本当に本当か」
「本当です。本当に本当に本当です……」
本当に心許せる似た者同士の旅は続く。
いつかは終りを迎えるだろう、我と君とのこの日々よ、今少し、続いてくれ。