☆ 久遠長文と文楽屋武志の住み分けについて

「自作物語の部屋」へ戻る

トップへ戻る

 ここでは、久遠長文(くおん ながふみ)と文楽屋武志(ぶんがくや たけし)の住み分けについて詳述する予定です。
 現在、上記の筆名を二つ使い分けているわたくしですが、その比率は恐らく95:5位の割合で久遠長文の方が多い状態です。理由は恐らく簡潔で、文楽屋武志には『ハッピーエンド前提』という制約があるが、久遠長文の方は『何でもあり』(バッドエンド固定ではない)=無制約と言う状態なので、話の着想・展開・想像力の幅や奥行きに違いが出ているのでしょう。

 ハッピーエンド前提である以上、簡単に人は殺せないし(皆無とは流石に行けませんが)、ましてや主要登場人物の犠牲は叶う限り避けたい。その後のストーリイ展開に差し障るからとかではなく、寝覚め(読後感)を暗くする恐れのある領域には踏み込めない、踏み込まないということです。
 最終的にハッピーエンドという、そのハッピーエンドの条件ってどこまでなの?という根本的な問いはあるのですが(誰かの犠牲こそが物語の読後感をさわやかにする事もあり、誰も死なないからハッピーとは行かないでしょうから)、意図してそれらを避け、話を成立させようと言う、ルールを絞り込んだ世界です。

 久遠長文の方は、それに比べると異種格闘義戦とでも言いましょうか。制限なしです。残虐描写も性的描写も、狂気も正気もストーリイに寄与する範囲で全て許容する。ですからどこでそれが登場するかは分からないし、そのために話を書くことさえあるかも知れない。

 どちらでも、物語を展開させていく上で意識していることは、『物語作家は、天使と悪魔を同時に一つの頭で飼い慣らさねばならない』です。果してそれが出来ているかどうかは、読者みなさまと私自身で完成作品を読んで見て頂くことになります。

 物語の公開とは、私の精神を暴露する事でもある。さて、読者諸兄は作品の中に悪魔を見るか、天使を見るか、どちらにもなれない凡庸な人を見るか。

 最新更新17/9/17